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辺田(へた)という地名

 千葉県銚子市の下総台地への上り口に気になる寺があった。
この横は何度も通っていたが、車の通りも結構多いので今迄立ち寄らずにいた。

入口門柱には、「子安延命辺田地蔵尊」と「新義真言宗智山派 閼伽場山観行院」の2つの看板が掲げられていた。

入った所に仁王門があり、その先の正面に辺田地蔵尊のお堂が建っている。

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右側の門柱には「子安延命辺田地蔵尊」と書かれた看板。 辺田=へた と読む

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左側の門柱には「新義真言宗智山派 閼伽場山観行院」と書かれている。
山名の閼伽場は「あかば」で「価値がある」とか「功徳のある」といった意味のサンスクリット語の発音を漢字に当てはめたものだという。
このお寺はこの奥の境内にかなりの敷地で、本堂や庭園、墓地などを持つ結構大きなお寺だった。

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入口の仁王門には仁王像が置かれていましたが、手前に貼られたガラス?幕が曇っていて中がよく見えませんでした。
そこを入って左側に小さなお堂があり、その脇に子安観音の石像が数点置かれています。

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そしてそのお堂の内部を覗くと、青面金剛と三猿などの古い庚申塔が数点置かれていました。
この銚子には前に書いていますが、庚申塔がかなりの数点在しています。
(前に書いた記事 ⇒ 庚申塔(20回)

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今回は、「辺田」=「へた」という地名を少し追いかけてみたくなったので、わかったことだけを少し報告しておきます。


辺田2

柳田國男は著書「地名の研究」の中で、殿部田(とのへた)地名について、
「辺田は境の義、殿部田は外辺のことであろう」と書いています。

一方、上手(じょうず)・下手(へた)という「下手(へた)」については、日本国語大辞典などに、
  へた【下‐手】 [名・形動]《「はた(端)」あるいは「へた(端)」の変化で、奥深くない意からか》
と書かれています。

このことから「へた」という地名は「境」「端」など、境界や端っこの場所、そのあたり(辺)などと言ったような意味が土地の地名に残されたものだと思われます。

「ヘタ」「ヘダ」という呼び名でまず思い浮かべるのが、静岡県の西伊豆にある「戸田」=ヘダ(静岡県沼津市戸田) 地名ですので、少し地図で検証してみたいと思います。

まず、銚子の辺田(へた)地蔵尊がある場所です。

銚子の町は比較的新しく、こちらの駅に近い町並みは利根川からの土石が溜まってできた河川敷低地です。
しかし、この地蔵尊がある場所は下総台地からこの街中に下りて行ったすぐ付け根の少し高い位置にあります。
銚子大橋の方からは旭市のほうに国道を進むと、下総台地への上り坂に差し掛かったあたりです。
右手の高台には銚子高校があります。

やはりいかにも「端」につけられた名前という気がします。

では西伊豆の戸田(へだ)についても見てみましょう。

戸田2

地図は丁度地図では伊豆長岡の西側の駿河湾に飛び出し、湾が入りこんでいる場所に戸田があります。
沼津からヘリーなどで西伊豆をまわると、必ず立ち寄る港です。

この戸田港には戸田大川という川が流れ込んでいて、やはりこの河川敷デルタ地帯が戸田の町になっています。
このデルタ地帯の山側の付け根の部分に「ヘダ」という名前の基になったと思われる古い神社(式内社)「部田神社(へだじんじゃ)」があります。

やはり「ヘタ」「ヘダ」などという言葉に「部田」という漢字をあて、そのご港が開かれて、川の戸口であるため、町には「戸田」の漢字を与えたと考えるのが素直な解釈だと思われます。

<日本各地のヘタ、ヘダ地名> (郵便番号簿より)
秋田県大館市部垂町        へだれまち
茨城県ひたちなか市部田野    へたの
茨城県坂東市辺田        へた
千葉県千葉市緑区辺田町    へたちょう
千葉県夷隅郡大多喜町部田    へた
静岡県沼津市戸田        へだ
三重県松阪市駅部田町    へたちょう
兵庫県美方郡新温泉町戸田    へだ
山口県周南市戸田        へた
山口県大島郡周防大島町戸田 へた
佐賀県唐津市相知町長部田    ながへた
佐賀県杵島郡白石町辺田    へた
熊本県熊本市北区植木町辺田野 へたの
熊本県玉名市天水町部田見    へたみ
熊本県菊池市七城町辺田    へた
熊本県上益城郡御船町辺田見 へたみ
鹿児島県肝属郡南大隅町根占辺田 ねじめへた
鹿児島県大島郡宇検村平田  へだ

やはり、辺田、部田、戸田が多いが、鹿児島県奄美大島宇検村(うけんそん)の「平田」を「へだ」と読むのも同じようなところからきているのかもしれない。

さて、前にもどって、銚子の辺田(へだ)であるが、千葉氏の東氏一族に「辺田氏」という氏族がいたという。
これは、海上郡辺田村に住して「辺田氏」となったという。
この辺田村を調べると、明治22年の町村合併で、海上郡にある「小川戸村, 辺田村, 三崎村, 荒野村」が合併して「豊浦村」になり、昭和8年に銚子市に組み込まれている。このため、辺田地名も豊浦地名もほとんど残っていないという。



千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/25 10:42

常陸国における源平合戦(11) 佐竹氏(源氏)(室町~戦国時代)

源平合戦(11)


常陸国における源平合戦の11回目です。

前回は鎌倉時代の終わり頃(1333年?)までの佐竹氏の動向を書いてきました。
今回はそれ以降に戦国時代末に佐竹氏が常陸国を統一するまでの大雑把な動きを見て行きます。

北条氏滅亡後の争乱のなかで、小田氏は後醍醐天皇より「治」の一字を与えられ、建武の新政権へ参加することによって、勢力を回復しょうとし、常陸国の南朝方武士団の中心が小田氏であった。 一方、佐竹氏は、一貫して北朝方の中心にあった。
その結果、常陸守護の地位も佐竹氏が獲得した。1336年には、佐竹氏は南朝方の拠点となっていた久慈郡瓜連城(瓜連町)を攻めた。
約一年に及ぶ戦いの結果、佐竹氏は南朝方を破り、常陸国北部の支配を固めることになった。
この戦いの後、争乱の中心は常陸国の南部・西部に移った。

常陸佐竹氏関係図2

さて、上の図が、常陸国の佐竹氏の系図(室町~戦国時代末)となります。

9代 佐竹義篤(よしあつ)(1311~1362)

天皇が北と南に分かれてしまった南北朝の争乱期は、ここ常陸国でも大きな動きがありました。
しかし、常陸国内では南朝、北朝といっても、時によってここを支配していた領主たちは、どちらに味方するか右往左往している感がぬぐえません。佐竹氏は足利尊氏に味方し、常陸国の北朝勢力の中心として活動しました。

1336年に楠木正家によって瓜連(うりざね)城が築かれ、南北朝時代に南朝方(大掾高幹も含む)の拠点となり、北朝方の佐竹氏などと対峙しました。このときはまだ父の佐竹貞義の時代ですが、1336年に貞義は、瓜連城を攻めます。
しかし、敗北し子の義冬が討ち死にします。そして昔を思い出したのかまた平城の太田城を捨てて、金砂城へ籠もりました。

この金砂城を南朝側の那珂通辰が攻撃しますが、逆に佐竹軍の反撃にあい、瓜連城に退く途中に退路を断たれ那珂氏一族は討たれ、子の佐竹義篤が武生(たきゅう)城から迂回して瓜連城を急襲し瓜連城は落城しました。義篤は父とは別に(現在の竜神吊橋の近くの山城)武生城に籠っていて機会をうかがっていたのです。那珂勢の金砂城攻撃の知らせを受け、義篤は武生城を出て那珂勢を避けて山田川沿いに南下し瓜連城を背後から攻撃したのです。

佐竹義篤は晩年には禅宗に帰依し、常陸国那珂郡古内郷に清音庵(後の清音寺)を建立しています。

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(城里町の古内茶の産地である古内地区にある古刹・清音禅寺に残る五輪塔:佐竹貞義、復庵禅師、佐竹義敦の墳墓とわれている)
ブログ記事 ⇒ こちら

10代 佐竹義宣(義香)(さたけ よしのぶ)(1346~1389)

 初名は義香(よしか)といった。母は南朝方の小田知貞の娘で、その小田氏が小山若犬丸を匿った罪で鎌倉公方足利氏満の追討を受けた。佐竹氏は北朝側でしたが、小田氏と縁戚関係にあったため警戒されたようだ。
南北朝時代の南朝の勢力が失われようとしていた1387年に小田孝朝(たかまさ)の子・五郎藤綱が小山隆政若犬丸に加担して難台山城に籠った。この山城を攻めるのに8ヶ月かかった。
ここで佐竹家臣の江戸通高が討死しました。江戸通高は常陸守護の佐竹義篤の娘を妻としており、ここで戦死しますが、この戦いの褒賞として子の通景は鎌倉公方氏満から河和田・鯉淵・赤尾関などが与えられ、江戸郷から河和田へ本拠を移し、その後の江戸氏発展の拠点となりました。

国府石岡の有明の松の昔話 ⇒ こちら

11代 佐竹義盛(よしもり)(1365~1407)

 難台山の攻防で、北朝側が勝利し、その後の1389年に父・義宣が死去し家督を継いだ。
そして佐竹氏が鎌倉公方からり関東八屋形に任命された。江戸氏の娘を妻としたが、子供(男子)に恵まれず、1399年、鎌倉に多福寺(現在の大宝寺)を建立して、若くして入道となった。また、弟の義有は病弱であったため、佐竹氏の跡目を関東管領上杉憲定の次男・義憲(義人)を婿養子として迎えた。

12代  佐竹義人(よしひと)(1400~1468) 婿養子

 1407年に義盛が亡くなってしまい、跡目がいないため、関東管領上杉憲定の次男義憲(よしのり)が佐竹義盛の娘源姫の婿養子として佐竹氏の跡を継いだ。また名前は、1416年に義人(よしひと)と改名している。
ただ、これは佐竹氏の内部のお家争いに発展した。佐竹氏流の山入家の佐竹与義らが反対し、上杉禅秀の乱(前関東管領である上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱)では与義らが上杉禅秀方について同じ一族の稲木義信、長倉氏を征伐した。この乱では与義らは降伏したが、山入氏は室町幕府から常陸守護を拝命するなどして、佐竹氏の分裂が続き、義人への抵抗は続いた。
1437年に足利持氏と関東管領上杉憲実(義人の従兄)の対立が深刻化し、義人はこの両方の間に立って複雑な立場となった。しかし義人は一貫して足利持氏を支持したが、上杉氏の後ろ盾を失う事になり、義人は佐竹氏の家督を嫡男義俊に譲り、自からは足利持氏支持を続けた。また佐竹の実権も握っていた。
応仁2年(1468年)に義人が死去。享年68。

13代  佐竹義俊(よしとし) (1420~1477)

 1437年に父義人から家督を譲られたが、実権は父の義人まだが握っていた。また、父は弟の実定を可愛がり、1452年に弟の実定と組んだ江戸通房と山入祐義によって佐竹義俊は太田城から追放され、外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼って大山城(城里町旧桂村)に入った。それから約30年、実質的な佐竹氏の城である太田城はこの弟の佐竹(上杉)実定が城主であった。
1065年に弟実定が死ぬと、義俊は1467年に甥の義定を太田城から追放し、義俊は嫡男義治と共に太田城に返り咲いた。

14代  佐竹義治(よしはる) (1443~1490)

 1467年に義治は那珂郡斧沼の要害(那珂西城)にいたが、11月に太田城に父と共に帰還を果たした。
そして、1477年に父・義俊が没したため家督を継いだ。
しかし、佐竹氏一族の内紛は続き、古河公方と通じた佐竹入家当主佐竹義知により佐竹北家の居城である北久米城(常陸太田市)が襲われ、城主久米義武が戦死するなど苦戦したが、岩城氏などの援助を受け、義知を討った。
山入家はこれで弱体化したが、今度は岩城氏により、佐竹氏の拠点(車城や竜子山城など)が次々と奪われた。ここで義治は岩城氏に車城など三城を割譲し、子の義舜の妻に岩城常隆の妹を迎えることで和議を結んだ。
1489年には山入家を継いでいた佐竹義藤の要請により伊達氏、蘆名氏(会津)、白河結城氏が佐竹氏領に侵攻した。
義治は家老の小野崎通綱(小野崎氏)の働きによりこれを退けた。

15代  佐竹義舜(よしきよ) (1470~1517)

 義舜は、この100年近く続いた佐竹氏の内乱に終止符をうち、失地の一部を回復させ、江戸氏や小野崎氏の内紛に介入して、戦国時代の支配体制を確立したため、佐竹氏の中興の祖と呼ばれる。

(1) 1490年に父・義治の後を受けて義舜が当主となったが、この直後に本家に反抗的であった佐竹山入家の佐竹義藤・佐竹氏義父子や長倉氏、天神林氏、宇留野氏らが手を組んで、太田城が襲われた。このときはまたこの城では持ちこたえられないと判断した義舜は太田城を捨て、母の実家の大山氏を頼り、孫根城に逃げ込んだ。
山入家の佐竹義藤が1492年に病死し、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり和議が話し合われた。しかし山入家を継いだ氏義はあくまでも義舜との抗争の継続に固執し、1500年に大山城の義舜を攻撃した。そして義舜はまた、佐竹氏の山城である金砂山城に逃げ込むこととなった。
(2) 1502年に、この金砂城を氏義は攻め、義舜は自害寸前まで追い詰められたが、何とか逃れることが出来、その後大門城(常陸太田市の山城)に移り、岩城氏などの援助を受けて、1504年には常陸太田城を奪回することに成功した。
そして、山入家の氏義・義盛父子は捕らえられ殺害され、反逆した佐竹山入家一族はその後滅ぼされた。
(3) 所領の一部を援助を受けた岩城氏らに割譲したが、その後は現在の久慈郡大子町辺りまで版図の拡大した。
(4) 1513年には、小田氏庶流である茂木氏を佐竹家臣団に組み込み下野国への進出に成功した。
さらに後に佐竹氏に組する事になる宇都宮家中に属している武茂氏(馬頭など)や松野氏(下野国那須郡松野郷)にも影響を与えた。
(5) 1514年 足利政氏の命で下野の戦国大名宇都宮成綱を攻めるが、宇都宮成綱の軍勢と結城政朝の軍勢に敗れ兵を引き上げた。その後ふたたび1516年に岩城由隆とともに大軍を率いて下野を攻めるが敗北。

16代  佐竹義篤(よしあつ)(1507~1545)

 1517年、父・義舜の死去に伴い、幼年(11歳くらい)であったが佐竹氏の家督を継ぎ、叔父の北義信が後見人となった。
しかし、若き義篤は佐竹家中を統率することはできず、弟の佐竹義元とは不和が生じ、ついには義元は享禄2年(1529年)に反乱を起こし常陸大宮の久慈川沿いにある、小貫俊通の居城・部垂(へたれ)城を攻撃、陥落させた(この城跡には現在常陸大宮小学校が建っています)。また、岩城成隆・江戸忠通が佐竹氏の領域に侵略すると、天分4年(1535年)にこれに呼応する形で、佐竹一族の高久義貞(城里町高久の城主)も反旗を翻した。
これに対し義篤は伊達稙宗の斡旋で江戸忠通らと和睦し、高久義貞を降伏させて反乱は終結した。
1538年、佐竹一族の宇留野長昌が反乱、1539年、那須政資・那須高資親子の抗争に介入、1540年、乱を起こした部垂城を急襲して宇留野義元を自害させた(部垂の乱)。
また、常陸以北の白河結城氏や那須氏と戦って勢力を拡大し、常陸国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一し戦国大名としての地位を確立した。

17代  佐竹義昭(よしあき)(1531~1565)

 1545年、父の死により家督を相続した。常陸国北部の戦国大名としてその地位を守り、広げていった。
・1551年、小田政治と共同して江戸忠通を破った。
・1557年、宇都宮氏に内紛では、5000人の援軍を出し宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘・次女の南呂院(なんりょいん)を嫁がせた。
・1558年、北の岩城重隆(妻の父、陸奥大館城主)の侵攻を食い止め和睦を結んだ。
・1560年、結城晴朝を攻めて勝利、白河晴綱の寺山城(福島県棚倉町)を攻めて勝利。
・1562年、上杉謙信と同盟を結んで小山城(下野国)を攻めた。
 32歳で隠居し家督を長男佐竹義重に譲る。本人は継室に大掾貞国の妹を迎え、その大掾氏の本拠地である常陸・府中城(石岡)に移った。病弱なためか、その3年後に35歳の若さで死去。

18代  佐竹義重(よししげ) (1547~1612)

戦国時代の常陸国を統一した武将で「鬼将軍」とも呼ばれ、佐竹氏の全盛期を築き上げた。
領内の金山開発にも積極的で、豊富な資金力を背景に関東一の鉄砲隊をもっていたとも言われる。

・1562年、父・義昭が隠居したため、まだ16歳くらいであったが家督を継いだ。
・1564年、越後の上杉謙信と共に小田城の戦いで常陸小田城主・小田氏治を敗走させた。
・1566年、小田氏治を攻めて小田領の大半を奪取し。下野国那須郡(馬頭)の武茂氏を攻めて部下にした。
・1567年、白河義親に大勝。
・1569年、手這坂の戦いにて片野城の太田三楽斎を使って、小田氏治に大勝して小田城を奪取。小田氏は土浦城に移る。
・1571年、相模国の北条氏政が勢力を強め、会津の蘆名盛氏や下総国結城の結城晴朝らと同盟を結んで、佐竹氏派の多賀谷政経を攻めた。このときは援軍を送って北条方を撃退した。(多賀谷氏は結城氏に組していたが、結城合戦で落ち延びて佐竹氏を頼っていた。)
・1572年、婚姻関係などを軸に各豪族と結び、白河結城氏や岩城氏などを傘下に収めた。
・1573年、北条方に寝返った小田氏治と再び戦って、その所領の大半を併合した。
・1575年、白河城を奪取。
・1580年、会津の蘆名盛氏が亡くなって跡目がいないため、二階堂氏からの人質となって会津にいた二階堂盛義の子盛隆が蘆名氏を継いだ。しかし、伊達氏などから攻められて苦戦していた。1584年に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も3歳で夭逝した。
・1587年、この蘆名氏の跡目がいなくなり、そこに目をつけた佐竹義重は会津に次男の佐竹義広を送り込み、盛隆の養女の婿入りで蘆名の跡を継がせた。佐竹氏と蘆名氏は同盟関係となり、伊達氏よりも南側(会津・仙道・海道)の諸大名の多くが事実上佐竹氏の傘下に入り、伊達氏との対立がさらに深まった。
・1588年、会津の蘆名はそれまで何度か伊達政宗との争いを繰り返してきたが、奥州の諸大名と連合して再び伊達政宗と戦うが、この戦(郡山合戦)は和睦で終った。
・1589年、蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達氏に大敗を喫し、白河結城氏、石川氏などの陸奥南部の諸大名は伊達氏側に寝返り、奥州での佐竹氏の勢力はなくなった。
その後佐竹氏の家督を長男の義宣に譲ったが、まだ実権は握ったままだった。
・1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、義重は義宣とともに小田原に参陣し、石田三成の忍城攻めに加わった。
・その結果秀吉の後ろ盾を受け、義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められた。

・1590年、常陸中部に勢力を振るっていた江戸重通を水戸城から追い出した
・1590年12月、府中の大掾氏を滅した。
・1591年2月には鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺した
(これが常陸国の源平合戦の最後)・・・詳細は後述。

・その後、義宣に実権を譲渡し、太田城にて過ごした。

19代  佐竹義宣(よしのぶ)(1570~1633)

 佐竹義重の長男として生まれ、母は伊達晴宗の娘であり、伊達政宗は母方の従兄になる。
・1589年11月28日、秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けたが、当時、伊達政宗と対峙していたためにすぐに命令に従うことが出来なかった。しかし、秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて、1590年5月、宇都宮国綱らを含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。 1590年5月27日に秀吉に謁見した。そして、義宣は、石田三成指揮の下で忍城(おしじょう:現埼玉県行田市)を攻め、忍城水攻めの際の堤防構築を行っている。

・小田原の役後、義宣は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計約35万石余を知行として認めるという御朱印状を与えられた。
・義宣は、朱印状による所領安堵されたことから、常陸国全域を支配することを企画し、
 1590年12月20日に水戸城から江戸重通を追い出し、その勢いで1590年12月22日には小川の園部氏などを味方につけ、府中(現石岡市)の大掾清幹を攻めて大掾氏を滅亡させた。
ただ、これらの戦は義宣はまだ京からの帰郷の途中で、父の義重が指揮をとっている。

・1591年2月9日、京から帰った義宣は、鹿島郡及び行方郡に散在していた「南方三十三館」の主たちをを領地割りの話し合いなどと偽って常陸太田の城に呼び集めて、全て抹殺し、常陸国の全域を掌握した。
・1591年3月21日、義宣は水戸城に移った。しかし、直後の6月、豊臣政権は義宣に奥州出兵2万5,000人という重い軍役を命じており、これは10月まで約4ヶ月間続いたとされる。

・1595年6月19日、太閤検地によって義宣は、54万石を認められた。
・1600年5月3日、徳川家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集し、義宣もこれに応じた。
・1600年7月24日、小山に到着した家康は、義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた。
この時期の佐竹氏は、家中で意見が分かれており、東軍につくとも西軍につくともいえないものであったようだ。
・関が原の戦いでは父の義重は徳川方(東軍)につくように強力に主張したが、義宣は、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送っただけで、積極的に徳川家康に味方はしなかった。
・関ヶ原の戦いが東軍の勝利すると、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。家康からの処分もおおむね終ったころになり、佐竹義宣はようやく1602年4月に上洛して家康に謝罪した。
1602年3月、義宣は徳川家康に謁見した。その後の同年5月8日、義宣は家康から国替えの命令を受けた。しかし転封先は明らかにされず、5月17日になって転封先が出羽国秋田郡に決定した(54万石から20万石への減)。
・1602年9月17日、義宣は秋田の土崎湊城に入城し、翌年から久保田城の築城はじめ、こちらに移った。江戸崎、龍ヶ崎などを領していた弟の(蘆名)義広は、角館城に入った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戦国時代の動きは早く複雑ですので、また後日、戦国時代の城の位置関係などと共に検証してみたいと思います。
読むだけで大変なのですが、まずは佐竹氏の流れを理解する所までを羅列しました。
後から振り返るときに理解が深まると思いますので、ご容赦の程お願いします。
(自分の備忘録でもあります)


常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/20 14:07

常陸国における源平合戦(10) 佐竹氏(源氏)平安~鎌倉時代

源平合戦(10)


常陸国における源平合戦の10回目です。

今回は新羅三郎義光が常陸国にやって来て、桓武平氏がこの地の豪族となって南部を中心に勢力を拡大していた中で、水戸近郊に進出していた平氏一族の吉田氏(平氏)の娘を息子(義業)の嫁にして、血縁関係を深め、ここからこの佐竹氏が興ります。

では今回は、戦国時代に常陸国を制したこの佐竹氏の動向を見ていきましょう。

常陸佐竹氏関係図1

さて、上の図が、常陸国の佐竹氏の系図(平安~鎌倉時代)となります。
この後戦国時代末までは次回取り上げます。

つい最近まで最初の頃がよくわからなかったのですが、少しずつ判明してきているようです。

新羅三郎・源義光(よしみつ)(1045~1127)

1) 新羅三郎義光は兄・義家が奥州清原氏との戦闘(後三年の役)に苦戦しているのを聞き、兄を救援するために都での自らの官職を捨てて40歳を過ぎていましたが、1087年に後三年の役に参加し、その年末近くで戦いに勝利します。
都に戻った兄義家は、この戦いが私戦であったとして、褒賞も得られず、その戦いの間に朝廷に納める税も滞納していたとして追徴を受けます。しかし、戦いに参加した東国の武士団への褒賞もあり、これを自らの私財をもって行ったともいわれています。
これにより八幡太郎義家の評判は東国では大変高まり、源氏との信頼関係も築かれました。後の鎌倉幕府建立に役立ったものと思われます。義家がこれらを整理し、次の官職につけたのは1098年に白河法皇により許されるまで10年続きました。

2) 次兄は義綱ですが、朝廷からの信任も厚く出世も早かったようです。義綱は前九年の役には参加していますが、後三年の役は朝廷の命令がなく、これには参加せず出世街道を進みます。ただ四つ木の問題があり、義光の嫡男である義業(よしなり)は、この次兄の義綱の養子となったようです。

3) 三郎義光は後三年の役後に現在の法務省・裁判所のような刑部(ぎょうぶ)省の丞(じょう)に任じられたようですが、この時期もはっきりしません。その後常陸介になり現地(常陸国)にやってきますが、この正確な年代もわかっていません。
常陸介といえば、更級日記に父親の菅原孝標(すがわらのたかすえ)が常陸介となって赴任していた話が書かれていますが、この任期は 1032年から1036年ですから、任期は一般に4年程度だったものと思われます。
常陸介以外にも甲斐介などの歴任しているようですが、この任期もよくわかりません。ただ甲斐国は義光の父の頼義も歴任しており、甲斐国には領土も所有していたようです。

4) 常陸介として常陸国にやってきた義光の記録としては、1106年に源義家の四男で上野(こうずけ)国の領地を相続していた源義国(よしくに) が常陸国に勢力拡大を図り、兵を進行させる事件が起きます。
これに対抗したのが多気氏の平繁(重)幹(しげもと)( 大掾?)と源義光およびその息子の義業(よしなり)です。
この戦闘は多気氏、義光軍の勝利となり、常陸国への進出に失敗した源義国は上野国、下野国などの地域に領地を拡大していきました。そして、その後の足利氏や新田氏の祖となりました。
しかし、この戦闘は朝廷の命令には従わない戦闘でしたので、朝廷からは各国の国司に義光などを追討する命令も出されたようです。したがって、この時点でもし義光が常陸介となっていた場合は、ここでは切られているはずですので、 ~1107?頃までではないかと推察します。また1107年ころに藤原実宗(さねむね)が常陸介となっています。

5) 八幡太郎義家の死後、河内源氏の棟梁を継いだ義忠(三男)が1109年に暗殺されてしまいます。首謀者の汚名をこうむった義綱一家は子供たちは次々と自害して果て、義綱も佐渡に流され、その後1132年に追討を受けて自害して果ててしまい、家は断絶してしまいました。真の首謀者はこの新羅三郎・義光で、実行犯は義光の息子の義成の妻の兄弟である鹿島五郎・成幹といわれています。
この後、義光や息子の義業は常陸国へ本格的に住むようになったものと思われます。
嫡男は養子に出していましたので、義光の後を継ぐものとして、義光は三男・義清と常陸国那珂郡武田郷(現:勝田近く)に住しました。そのため、義清は武田冠者と呼ばれるようになります。その後、常陸国の東南部から鹿島神宮にかけての地の所領争いや、妻の兄の吉田氏との領地争いなどで敗れ、この地で1127年に没します。息子の義清(武田冠者)は常陸国を追われ、甲斐国へ移り住み、甲斐の武田氏となります。戦国時代には武田信玄が出ています。

源義業(よしなり)(1067~1133) 

 義光の長男の義業(よしなり)は、嗣子のいなかった義綱の養子に入り、常陸平氏の一族で馬場城主吉田清幹の娘を妻とした。1106年の源義国(よしくに)が常陸国に勢力拡大を図り、この地で戦争になると、多気氏の平繁(重)幹(しげもと)( 大掾?)と父・源義光とともにこの戦に参加し、勝利を収め、常陸国の地への義国の進出を阻みます。
しかしながら、河内においては義綱の失脚(1109年)により、妻の実家(馬場・吉田氏)を頼って常陸に住みつくことになります。
その後、父義光とともに常陸国の北部に地盤を固めていきます。
実質的に常陸太田に地盤を固めることが出来たのは息子の昌義の代になってからです。

初代 佐竹昌義(まさよし)(生年不詳~1147?)

 昌義は最初の妻を在京平氏の平快幹の娘を迎え、その間に5男子を設けました。また、奥州藤原氏の清衡の娘を後妻にもらっています。これにより、昌義は吉田・藤原両家の力を背景に勢力を拡大していきました。
1133年に現在の常陸太田市天神林にあった馬坂城を藤原秀郷流の天神林正恒から奪い馬坂城の城主となります。
その後、昌義は久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に住みつき、佐竹氏と称するようになった。

この佐竹という名前については次のような逸話があります。
「馬坂城の近くの観音寺(現:佐竹寺)で昌義は、1140年に武運長久を祈願しました。このとき、境内に長さ二十尋(約36m)もある竹の木に、節が1つしかないものを見つけました。「これは出世する前兆だ」と喜び、姓を「佐竹」に改めたという」

昌義は後妻として藤原清衡の娘を娶った事で奥州藤原氏の勢力を味方につけ、常陸国北部の奥七郡支配を行っていきます。しかし昌義の生存年がわかっていませんので、詳しくは不明な点がおおいようです。

2代 佐竹隆義(たかよし)(1118~1183)

藤原秀郷の流れをくみ、代々常陸国守護代を務めていた有力者だった小野崎通長を服属させ小野崎氏の居城だった太田城に入り常陸国奥七郡支配を確立しなした。

1) 常陸太田の現在大田小学校のある所に、藤原秀郷藤原秀郷の流れをくみ、代々常陸国守護代を務めていた有力者だった藤原通延が築城したとされる常陸太田城がありました。佐竹隆義は常陸北部の統一を図るために周りの豪族たちを味方にしていきます。
そして、この太田城の城主・藤原通盛を従属させ、藤原通盛を小野台地に移らせ小野崎氏と名乗らせました。
この太田城に佐竹隆義は住むこととなり、ここが佐竹氏の中心の城となりました。
太田城に佐竹氏が入城の日、城の上空を鶴が舞いながら飛んだので別名「舞鶴城」と名づけたとも伝えられています。
そしてその後常陸奥7郡を領し、勢力を広げました。都では1167年以降、清盛を中心とする平家が政権を握ります。
佐竹隆義も1160年の平治の乱以後、平氏に従っており、常陸介などの要職についていました。

2) 源頼朝が伊豆で挙兵して、敗れて、千葉の房総に逃れますが、頼朝はこの地の有力者たちの援助を受けて、治承4年(1180年)10月、富士川の戦いに勝利しました。そして、そのまま都の平家を追討しようとしますが、これに上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが異議を唱えます。 前の敵を追う前に、まず後ろの憂いを除いておくべきだとして、常陸国北部に勢力を張ってきたこの佐竹氏排除を主張します。そして、この意見を取り入れた頼朝はまず常陸国府(石岡)に向かいます。
10月27日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発し、11月4日に頼朝は常陸国府に入ります。そこで軍議が開かれ、上総広常が、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政と弟(三男)秀義へ使いをだし、国府に来ている頼朝に忠誠の挨拶に来るように連絡します。当時城主の隆義は源氏の一族ではありますが、都を支配していた清盛一派の平家に寄り添っておりました。常陸国のほうは、太田城を兄弟2人が守っていました。この誘いに弟は行くのに反対しますが、兄の義政は縁者でもある上総広常の誘いでもあり、先ずは一度あっても良いかと国府にむかったのです。
国府(石岡)の北側の園部川に架かる大矢橋で、隆義一行を上総広常がむかえにでて、橋の両側に話をします。大した大きな川でもなく、橋の両側から声もすぐに届く距離です。そして広常と隆義が1対1で橋の半ばで話し合うこととし、両者は馬に乗って橋の半ばで落ち合います。そして合うと同時に広常は隆義を一刀のもとに切り殺してしまいました。
これで動揺した佐竹隆義の一行は頼朝方に寝返ったり逃亡する者がおり、大慌てでした。一方弟の佐竹秀義は、太田城を棄てて北部の山城である金砂城に立て籠もりました。
その後、頼朝軍はこの金砂城へ総攻撃が仕掛けられましたが、金砂城は山城で難攻不落の城郭でありすぐに落とすことが出来ません。
そこで、頼朝は秀義の叔父の佐竹義季を味方につけ、この義季に金砂城を攻撃させました。この城のつくりに詳しい義季によりついに城は陥落し、佐竹秀義はさらに北部の花園城へと逃亡したのです。
その後、領地であった太田城などは放棄し、金砂城、花園城、武生城などの要害堅固な山城に立て籠もりを続け、氏族の存続を図ることが出来ました。京都を目指す頼朝には時間も無く、それ以上佐竹氏と争う時間はなかったのでしょう。結局は、秀義の家臣である岩瀬与一太郎の懇願によってそれ以上の追討は回避され、佐竹氏は滅亡を免れたのです。
しかし佐竹氏の所領は没収され、八田氏に与えられました。隆義は1183年に66歳で死去し、長男は大矢橋で殺され、次男の義清は正妻の子ではないため、三男の秀義が後を継いだのです。

<大矢橋事件>
治承4年(1180)11月4日、源頼朝は佐竹氏追討のため常陸国府に到着した。佐竹氏は太田(現常陸太田市)を本拠に奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していた。佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城(現金砂郷村)にたてこもった。秀義の兄義政は縁筋にあたる上総介広常の勧めで帰順し、頼朝との会見のため国府(現石岡)に向かったが、園部川にかかる大矢橋で謀殺された。大矢橋の西に義政の首塚、行里川に胴塚と伝えられるものが残っている。
この首塚は残されているが、近くの大矢橋は隣に広いバイパス道路が出来て今は昔の面影はない。またすぐ近くに常磐高速のスマートインターが出来、茨城空港とのアクセス道路も完成したためにかなり様変わりしている。また胴塚については、土地の開発で姿を消してしまった。
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(大矢橋に残る佐竹義政の首塚、右手奥に古い橋が残っていたが、現在はこれは取り外され、写真左側にアタラシイバイパス道路ができている)

3代 佐竹秀義(ひでよし)(1151~1226)

 源平合戦で源氏が勝利すると、頼朝が奥州藤原氏に逃げ込んだ弟の源義経を攻めた。
佐竹氏は1189年の奥州合戦においては頼朝から罪を許されて家臣として頼朝軍に加わりました。
この時に佐竹軍が無地の白旗(源氏の旗)を持参し、佐竹氏の旗が無いことを知り、扇に丸を描いて渡し、旗にこの扇を付けるよう命じたといわれ、これが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」となったと伝わっています。
この戦いで武功をあげ、その後、鎌倉御家人の一人に列せられました。

4代 佐竹義重(よししげ)(1186~1252)

 父や弟とともに承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)の後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権(北条義時)に対して討伐の兵を挙げて敗れた承久の乱(じょうきゅうのらん)で活躍しており、鎌倉幕府に忠実な鎌倉御家人としての佐竹氏の地位の保全に務めています。
また、次男の義直(義尚)は額田氏、三男の義澄は真崎氏、四男の義高(義隆)は岡田氏、六男の義綱は岡部氏となり、常陸での南北朝時代等で佐竹氏の躍進の基礎を築いています。

5代 佐竹長義(ながよし)(1207~1272)

 忠実な鎌倉武士として活躍しています。小田氏(八田氏)に替わって常陸守護となっていた宍戸家周の娘を妻とし鎌倉武士として活躍します。
記録としては、祖父佐竹秀義の妻で、祖母にあたる陽雲寺殿の冥福を祈るために陽雲寺を建立し、また1269年には荒廃していた観音堂を再興し、佐竹寺(妙福山明王院佐竹寺)と名称を改めています。

6代 佐竹義胤(よしたね)(1227~1278)

 鎌倉武士であり、讃岐守・常陸介などを歴任しています。
次男(?)の三郎義継は地元の豪族である岩崎氏の女を妻として、陸奥国岩城郡小川郷(現在のいわき市)に住みつき、常陸国北部からその勢力範囲を広げています。

7代 佐竹行義(いくよし)(1263~ 1305)

鎌倉武士として活躍し、讃岐守・常陸介などを歴任しています。
常陸国北部に領地を拡大しています。

(注:二男義綱は1317年に長倉城(那珂川大橋の少し上流側の山城、対岸に御前山がある)を築城し、長倉氏と称した。後に1408年には佐竹宗家の跡目を巡り、長倉義景は長倉城に籠ったが、足利持氏の派遣した大軍に囲まれ開城した。また1595年には長倉義興のとき柿岡城(現石岡市)へ転封となり、長倉氏はこの地を去った。また、御前山や桂村などに多くの氏族が広がっている。)

8代 佐竹貞義(さだよし)(1287~1352)

 1331年(鎌倉時代末期)に鎌倉時代創設以来八田氏、小田氏一族(宍戸氏など)にほぼ独占されてきていた常陸国守護職に補任された。足利尊氏の鎌倉幕府の討幕運動が始まると、最初は幕府軍についていたが、途中で討幕軍に寝返った。
その後、足利軍として武功を上げ、その功績により常陸守護を認められ、その後常陸守護職は佐竹氏の世襲となった。

ここまで、源義光から鎌倉時代までの佐竹氏の足取りを見てきましたが、大きな流れとしては

(1)佐竹氏は源氏と平氏の両方と血縁関係にあり、また奥州藤原氏などとも血縁関係を築いて領地を広げて生きました。
(2)京都で伊勢平氏が政権を握ると、平家と手を組み、源氏が台頭してきた時には時代に乗り遅れてしまいます。
(3)鎌倉時代になると鎌倉の源氏の家臣となり、後半には常陸の守護職を担うようになります。
(4)鎌倉時代には常陸北部の領地が守られ、さらにいわき市方面や、常陸国北部に多くの子孫が勢力を伸ばしていきました。

(次回へ続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/19 13:00

常陸国における源平合戦(9) 河内源氏と常陸源氏

源平合戦(9)

常陸国における源平合戦の9回目です。
前回と前々回は平氏として常陸国南部に進出した桓武平氏の直系とされる「大掾(だいじょう)氏」とよばれる氏族を鎌倉時代初めまでの多気大掾氏とその後戦国時代末期までの吉田大掾氏について書いて来ました。

では源氏は?

常陸国の源氏といえば、戦国時代を制し、常陸国を統一した佐竹氏がいます。

常陸国は、ここまで書いてきたようにまず桓武平氏が地元豪族などと手を結すび、常陸国南部を中心に領地を拡大させました。
その後に、河内源氏が入り込むのですが、そのきっかけは奥州の蝦夷征伐として知られる「前九年の役」「後三年の役」における源氏の活躍です。

この成果が東国武士団にも大きな影響を及ぼしたと思われます。
後三年の役では八幡太郎義家に味方した東国の武士がかなりいたのでしょう。
ただ、歴史は勝者により作られるという話しもあり、鎌倉幕府が成立したことで、実際の史実以上に誇張され、美化された話とおもわれる伝説やたくさん作られ、残されていったように思われます。

最近になってわかってきた史実を基に、これらの美化された話なども検証しながらこの常陸国の源氏の流れに関係する事項を見ていきましょう。

常陸と河内源氏関係図2

上の関係図は現在のWikipediaなどに記載された内容を図式化したものです。

まず、河内源氏は前に書きましたが、2代目源頼義(よりよし)がかなりの強者で、桓武平氏国香流の都で活躍していた平直方の娘と結婚し、(八幡太郎)義家、(賀茂次郎)義綱、(新羅三郎)義光という3人の息子たちが生まれます。
そして、3人は都でそれぞれに出世もしていきます。

1) 頼義は1051年に50歳目前で陸奥守に任じられ、その武勇を見込まれて奥州の安部氏の平定を任せるために鎮守府将軍にも任じられ、常陸国経由で奥州に出かけることになります。(前九年の役)
奥州へのルートははっきりしませんが、頼義はつくば市北条の多気氏(大掾氏)の娘と一夜を共にし、女の子(後に美人と評判となった)が生まれています。また、石岡市三村近郊の村で宿営した時にちょうど正月で小さな村の人から大変ご馳走してもらい、後にこのことに感謝して「黄金のはたし」が贈られ、この地の名前が「正月平」となったと伝わっています。
また、陸奥守として着任した先は仙台の多賀城です。
このため、この時のルートは古東海道で、常陸国国府(石岡)を経由し、水戸の郊外台渡里経由で郡山から古東山道に出たものと推察します。

2) 前九年の役には、長男義家、次男義綱も参戦しており、最後には清原氏の軍勢1万人ほども援助を受け、12年もかかった戦争に勝利しました。都に凱旋したのちに、頼義は正四位下伊予守に、嫡男・義家は従五位下出羽守に、次男・義綱は右衛門尉に任じられた。これで、長男、次男は出世の道に進みますが、三男義光は出世から遅れることになります。

3) 頼義は伊予守の任期を終えて1065年に出家し、1075年に没しています。

4) 八幡太郎義家は、1063年に従五位下出羽守に、1070年に下野守などに叙任されており、1083年に陸奥守になると、前九年の役で勢力を持った奥州の清原氏の内紛に介入し、後三年の役が始まります。
しかし、この戦いは朝廷の命令によるものではなく、私戦とみなされており、朝廷からの援軍がなく、義家は苦しい立場になります。賀茂二郎義綱は官職を無視するわけにもいかず、援護には出ません。そこで登場するのが新羅三郎義光です。
官職では上の兄たちに後れを取った義光ですが、朝廷に兄の援護に出かけることを願い出ます。しかしこれは認められず、1087年義光は官職を辞して兄(義家)の救援に出かけました。年齢も40代前半です。

5) 義光の救援も得て、後三年の役に勝利した義家ですが、この戦いが私戦であったとして、褒賞は無く、陸奥守も解任されてしまいます。
戦いに参戦した新羅三郎義光は刑部丞に任ぜられ、常陸介となり常陸国にやってくることになります。
都では、戦いに参戦しなかった賀茂二郎義綱が出世し、義家、義綱の2人の中は悪くなっていきます。

6) 1091年には河内国の領地をめぐって義家と義綱が兵を構える事件も発生しています。
1093年に義綱は陸奥守となり、翌年には従四位上で義家と並び、1095年には美濃守となり、兄より格上となりました。
河内源氏の棟梁である義家としては恐らくこれは面白くなかったことだろうと思われます。2人の兄弟の争いが後の義綱滅亡のきっかけとなっていくようです。

7) 河内源氏の棟梁である義家は武勇の誉れは高くあったのですが、跡目を継ぐ予定だった嫡男(二男?)義親(よしちか)が対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き(1101年)帰還命令が出ますが、義親はこれに従わず官吏を殺害したため、隠岐国へ配流となりますが、これにも従わず出雲国へ渡って再び官吏を殺したため、平正盛の追討を受けて誅殺されてしまいます。

8) 河内源氏の跡目をこのような形で、失うこととなり、義家は次期棟梁を三男義忠(よしただ)とし、その後嫡男の遺児(四男)為義に任すことも考えていたようです。義家は1106年に亡くなり、河内源氏の棟梁は三男の義忠となりました。

9) そして、1109年に事件は起きます。この河内源氏の跡目を継いだ源義忠が何者かに襲撃を受けて殺されてしまったのです。
そして、襲った刀が賀茂二郎義綱の三男・義明のものであったため、その犯人として(賀茂二郎)義綱とその三男・義明に疑いが向けられました。疑われたことに憤慨した義綱たちは山に籠って抵抗し、義綱の6人の息子たちは全員抗議の為自害して果てたのです。また息子たちを失った義綱も佐渡に流され、1132年佐渡で自害し、この義綱の家系は途絶えてしまいました。

10) しかし、この源義忠暗殺事件には黒幕がおり、それが新羅三郎義光であったといわれています。
義光は、後三年の役のあと、常陸介となり、常陸国にやって来ます。そして、多気大掾氏(桓武平氏)から分かれて、水戸南部の吉田に居を構えていた平清幹(きよもと)=吉田氏 の娘を嫡男・源義業(よしひら)の妻に迎え勢力を拡大します。

11) 義業とこの平清幹の娘との間にできた子供が、佐竹氏と甲斐武田氏になっていきます。(次回)
この河内源氏棟梁の義忠暗殺事件首謀者は源氏棟梁の跡目を狙っていたこの(新羅三郎)義光が仕組んだことだといわれています。
実行犯は妻の兄(または弟)である「鹿島三郎こと平成幹(たいらのなりもと)」で、義光にそそのかされて、源義忠の郎党になり、こっそりと賀茂二郎義綱の息子の源義明の刀を使って、義忠を背後から切りつけたのです。義忠も即死ではなく2日後に亡くなりました。

12) この義忠襲撃事件で平成幹も負傷し、義光は自分の弟(正妻ではない子)で僧侶になっていた快誉がいる園城寺に身を隠し、養生するように書状を持たせ寺に向かわせました。しかし、その書状には成幹を殺すように指示されており、成幹は快誉によって口封じのために生き埋めにされて殺害されたといいます。そして義光は兄の賀茂二郎親子に罪をなすりつけ、さっさと常陸国に帰ってしまいました。
(一部不明なところもまだありますが、現在の解釈ではこの義光が黒幕とされています)

13) 義光は豪族吉田氏(平氏)の所有していた常陸国那賀郡武田郷に住し、ここを次男「義清」に譲り、義清は武田冠者と呼ばれました。1127年に義光は亡くなりましたが、父(義頼)時代から甲斐介なども歴任し、甲斐国に義光の所領もあったようです。

14) 義光の死後、1130年に(武田冠者)義清の嫡男である清光が隣りの吉田郷の平盛幹(吉田氏嫡男)と境界をめぐって争いが有り、1130年に義清と嫡男清光親子は常陸国を追われて甲斐国北巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市/甲斐市)へ配流されました。この後、甲斐国に土着して甲斐武田氏が起こります。(資料により少しずれがあるが、義光が何処で亡くなったのかはっきりしない。甲斐国の方に義光から武田氏に伝わったとする日の丸の旗や楯なし鎧などの品が残されており、甲斐に行っていたのかもしれない。)
新羅三郎義光の墓は元服した新羅明神にちなみ滋賀県大津市に残されています。

さて、以下にいくつかの伝承話しなどを載せておきます。

(1) 甲斐武田家伝来の家宝 楯無しと日の丸御旗  ⇒ 記事

(2) 新羅三郎の伝来の笛にまつわるお話 ⇒ 記事

(3) かすみがうら市子安神社・・・源頼義父子征奥軍が、三村正月平(現石岡市三村)に宿営、たまたま正月七日の大祭礼に際会。あまりの賑やかさに里人に尋ねたところ、当神社の由来を聞き、感銘した父子は早速流れに架橋し(子安橋)神主に依頼し、朝敵降伏、国家安泰の祈祷をさせた。また、康平6年征奥の退任を終え、凱旋の折、当社に奉賽。社殿修営、祭祀料の寄進をしたと伝えられている。

(4) かすみがうら市胎安神社・・・1054(天喜2)年には、鎭守府将軍陸奥守源頼義、義家(八幡太郎)父子が奥州征討の時に隣村の詩下雫村(下志筑)に在陣中に胎安神社の霊験著しいことを聞き、都にある内室の安産祈願をし、嫡男を無事出産したため、康平6年(1064年)に大任遂行の帰路報賽し、嫡男の誕生日である9月9日を祭日と定め、源氏の紋章である「笹竜胆」(ささりんどう)の使用を許されたと伝えられている。

(5) 正月平・・・石岡の三村地区の上の高台に「正月平」という土地があり、ここに伝わる話です。
源義家親子が前九年の役で、奥州に向かう途中でこの地で正月を迎えました。数軒しかなかったこの地の住民は総出で、乏しい貯えの中から赤飯を炊いて正月のおもてなしをしたのです。そして源義家(八幡太郎)と父の頼義は、それに大いに感激し、「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表しているのです。そして源義家親子は、この地に「黄金のはたし」を残したといわれています。この黄金のはたしは江戸時代まで地元(正月平)にあったが、歩崎観音に奉納され、これも33年に1度しか見ることができなくなったのです。歩崎観音には戦時中ころまで、竜女が安産の願掛けをして無事に生まれたことから黄金で出来た機織機が残されていました。現在は東京などへの展示で持ち出して戦争などで行方不明となりました。

(6) 八幡太郎と長者
 蝦夷征伐(後三年の役)にやってきた八幡太郎義家の活躍した話は各地に伝説となってつたわっています。石岡付近でも、鞍掛けの松といわれた松があった話し、かすみがうら市では四万騎が集まって訓練した野原「四万騎ヶ原」があり、石岡や小美玉市では「五万堀」とか六万の兵が食事をしたという「生板池」「六万」などという地名も残されています。
水戸付近まで行くと軍勢は十万騎に増えていたとも伝わっています。
しかしこれらはほとんどが源氏の時代になり創作されたものも多いようです。

さて、そんな中で逆に八幡太郎をあまりよく思わなかった人々もいたようです。
その中の話を少し紹介します。

 (6-1) 一盛(守)長者(水戸)
昔、台渡里の長者山(現在の水戸市渡里町)に、一盛(一守)長者という豪族が住んでおりました。

八幡太郎の通称で知られる源義家が、後3年の役(1083~1087年)の時、十万余の大軍を率いて奥州に向かう途中に、その長者屋敷に立ち寄りました。
長者は、そんな大軍群ですからとても無理だと思えたのですが、義家を大切に向かえ、すぐさま山の様な御馳走と酒を用意して手厚くもてなしたのです。それも酒宴は三日三晩も続いたのです。
そして、義家が奥州を平定して、帰りに、再び一盛長者の屋敷に立ち寄りました。
すると前にも増して豪華なもてなしを受けたのです。
義家は次第に、喜ぶどころかあまりの豪勢振りに恐ろしくなってきました。
『この様な恐ろしい程の大金持ちをこのままにしておいては後々災いの元となる。
謀反などを起こされたら大変だ。今のうちに滅ぼしてしまおう。』
と考え、長者の屋敷に火を放ち、一族を全滅させてしまったのです。
この時、長者は秘密の抜け穴に逃れ、身を潜めておりましたが、抜け穴も義家の家来に見つかり、長者は出口まで追い詰められてしまいました。
出口のすぐ下は那珂川です。もう逃れられないとさとった長者は、家宝にしていた黄金の鶏を抱いたまま川に身を投げてしまったということです。

伝説の一盛長者の屋敷(後の時代には長者山城)跡は現在も確認できます。幾重にも重なる郭と堀。北西を田野川、北東を那珂川。城として好条件でした。

 (6-2) 唐ヶ崎長者(行方)
これは行方市の西蓮寺に伝わる話です。
昔、神様のお告げで酒となる湧水を売った親孝行息子がおりました。その後に鹿島へ向かう大道沿いに唐木造り白檀の門構え,三百間四方を土手で回すほどの長者となり、唐ヶ崎長者と呼ばれておりました。
しかし、長者夫婦には病弱な一人娘がおりました。このため、長者夫婦は西蓮寺薬師如来に祈願して、その功徳によってこの娘は無事に成長しました。
数十年過ぎて、この娘も老婆になっておりましたが、そこにちょうど源義家の軍勢が奥州征伐の途中に立ち寄りました。
義家たちは長者に食事を用意してくれぬかとお願いしましたが、長者は、お武家様に食べされるようなごちそうはございませんと一度断ったのです。しかし、それでもよいから何か用意してほしいと懇願され、長者が用意した料理がとても豪勢で、これは大変な長者だ、後々生かしておけば大変な災いになるに違いないと、義家はこの長者一族を皆殺しにしてしまったのです。
しかし、この老婆だけは生き残り、一族の冥福を祈って供養し、念仏三昧の余生を送りました。今でも九月の西蓮寺の常行三昧会には西蓮寺婆さんとして、その徳を称えているといいます。
この伝承は長者没落譚ですが、結論としては西蓮寺への信仰を進める伝承に落ち着いています。
薬師如来の加護によって成長した娘は源義家の虐殺にも生き延び、死ぬまで念仏三昧だったと言います。「西蓮寺婆さん」自身が念仏三昧の生涯を送り、かつ信仰対象にもなっているわけで、理想的な信者の手本として伝承されてきた存在でしょう。
現在、寺に祀られているこのおばあさんの像は、「おびんずるおばあさん」としてなでられたりさすられたりしています。

これらの伝承は長者没落の話ですが、どこかその没落の原因が英雄により意図的に没落させられたというようにすり替えられていったのかもしれません。

 (6-3) 勝倉長者伝説(ひたちなか市)
 勝倉大平長者が谷津というところに、大変裕福な長者が住んでいた。
ある日、八幡太郎こと源義家が、奥州征伐へ向かう途中にこの長者の屋敷に立ち寄り昼飯を乞うた。
長者は快く引き受け、即座に300人分を用意した。
しかし義家は何を思ったか、長者をこのまま生かしておいては後々に災いになる、と思った。
義家は奥州から帰る途中。世話になった長者の屋敷を一夜のうちにすべてを焼き払い滅ぼしました。

 (6-4) 大里長者伝説(常陸太田市)
 常陸太田市の大里というところに、大変豊かな長者がいた。

ある日、八幡太郎こと源義家が、奥州征伐へ向かう途中にこの長者の屋敷に立ち寄り宿泊しました。
長者のあまりの富豪ぶりを目の当たりにした義家は、長者をこのまま生かしておいては後々に災いになると思い、急に長者を襲い滅ぼしてしまいました。

 (6-5) あずま長者(持丸長者)(岩間町安居(あご))
源氏の大将八幡太郎義家が、五万の大軍 を率いて奥州の蝦夷を征伐して都へ帰る途中、上安居のあずま長者屋敷 へ立寄りました。
長者は、 「はい、このたびは、蝦夷征伐おめでとうございます。さぞお疲れでございましょう。どうぞ、ごゆっくりお休みください。」と言って、一行をもてなす支度に大騒ぎとなりました。
長者は、もてなしに御無礼があってはならないと、細心の注意を払い、ありったけのご馳走を作り、珍しい品々を集めて酒、肴を振舞ったので義家も驚くほどの豪華なお膳が並びました。
義家一行は、ごちそうに機嫌よくしておりました、出発まぎわになって、雨が降り出してなかなか止みそうもありませんでした。すると、長者は、すぐに五万人分の雨具を用意して差し出しました。義家は、その場は礼をいって出立しましたがこのような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない。今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう。」と五万人窪から急きょ引き返して、長者の家に火を放ちました。
豪勢を誇っていた長者屋敷は、穀倉と共に跡形もなく焼け落ちて、一族も皆滅んでしまいました。

さて、どうでしょうたくさんの伝承も何処までが史実かについてはまったくわかりません。
実際に八幡太郎義家の所業も強力にまかせ、無謀な振る舞いも多かったようです。
どのように考えるかは、一つ一つ丁寧に史実を積み重ねて検証してみなければなりません。
しかし、これらの民間伝承には当時の人々の思いなども重なっている部分もあり、単なる作り話といってよいとは思われません。
ここに載せたのは一つの参考に見てください。







常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/15 10:07

コーヒータイム

 今日は気温はそれほどでもないようだけれどじめじめして鬱陶しい。

午前中に、今月の「ふるさと風」の機関紙(会報)を会員で製本して、それぞれが規定の部数を公民館などへ。

最近は人数も少ないので、今回のA4で20ページ(A3用紙×5枚裏表)、550部。

そのまま昼も食べずに市内4箇所(公民館2箇所、観光施設2箇所)そして八郷地区からトンネルを抜けて小町の里へ。
今日は結構混んでいた。

車も駐車場がいっぱい。小町裏山からはたくさんのハイキング客がいっぱい下りて来た。

高校生くらいの団体もいた。 皆元気いっぱい。
コロナは余り気にしている風は無い。

小町の館は蕎麦の予約客だろうが20人くらいは待っている感じだった。
感染予防はされているが、いつもより時間が昼飯時に近かったせいもあるが、人手がかなり多くなっている気がした。
私は会報を10部ほど棚に置いて、足早にそこを立ち去った。

そのまま宝篋山(三村山)の麓を走って、北条へ。
相変わらず宝篋山の人気は衰えない。

かなり人も多い。

みんな少し自粛疲れなのだろう。
歩いている足取りは軽い。

ここにきて高齢者のワクチン接種はかなり早まってきた感じはする。

また、事務所にもどり、コーヒーに、会合で食べようとして買っていたチョコレートクッキーをつまんで・・・・

まあ少しのんびり構えていこう。

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今、こんこんギャラリーではオカリナの野口ご夫妻が演奏会をしている。

私は参加しなかったが、家内が予約していて、出かけて行った。

白井先生が亡くなられてから野口さんのオカリナ演奏も聞ける機会が減ってしまった。


今月末に白井先生の命日がやって来る。
早いもので2年になる。

風の会200号まであと19ヶ月。
もう少し頑張てみるかな?

FBで潮来の島崎城の記事を読んでいて、佐竹氏に呼び出されて殺されたとされる城の城主ととその息子。
今書いている「常陸国の源平合戦」の最後のテーマになりそうだ。

この2人が殺された場所が伝わっている。
水郡線の上小川駅近くの川沿い。
何故常陸太田より北なのだろうか? いろいろ訳があって、その後も一言では語れなさそう。
少しのんびり調べて、現地も訪れてみたい。


近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/12 16:42
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