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北斎や巴水の愛した牛堀

 銚子に行くときにいつも通るが、潮来の少し手前に「牛堀」という地区がある。
いまは潮来市となっているが、川瀬巴水(かわせはすい)はこの地での版画を多く製作している。

もともと霞ケ浦は好きだったようで、作品は多いのだがここ牛堀の版画が多い。

葛飾北斎が富嶽三十六景の中にこの場所から富士山を描いている。「常州牛堀」というが、今ではほとんど富士山は見えないが昔は見えたのだろう。

霞ケ浦の水運や東国三社詣りなどが行われていたときはこの牛堀は風待ち港となり時間つぶしの場所であったようだ。

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(北斎公園)
常陸利根川: この先は潮来、息栖を経由して利根川に合流し銚子に向かう。

常陸利根川沿いに「北斎公園」という細長い公園がある。これも川に敷地を増やして作られたような公園だ。
この川沿いに風待ちの船が停まっていたのだろうか。

江戸末期に吉田松陰は水戸から鹿島に行き、そこから潮来、牛堀まできて船に乗り、息栖を通って銚子の手前の松岸へ行った。
そこから銚子に出てこの国の防衛の手薄さを嘆いた。

牛堀の夕景
(川瀬巴水の牛堀の夕景)

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国道51号線の橋(北利根橋):右が鹿島から水戸へ、左は佐原(香取)から成田・千葉へ 橋の向こう側は霞ケ浦。

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対岸の水門 ここから利根川へ横利根川が流れ、運河の役目をしている。
船はここから水門を通って利根川に行ける。 利根川手前には有名な煉瓦造りの横利根閘門がある。


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葛飾北斎の描いた富嶽三十六景の版画をデザインしたマンホール

常州牛堀
(葛飾北斎の常州牛堀)

船の船頭は船で寝泊まりして、早朝に、川の水で米をといでいた。
こんなところから富士山が鮮やかに見ることができたのだろうか。


潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/21 06:32

冨田のささら

 今年は石岡のおまつりの人出が最高だったとか・・・
でも最終日に少しぐるっと1周しただけで帰ってきた。

冨田町の会所に立ち寄ると新しい「ささら」が飾ってあった。

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3匹の獅子だが、頭の髪の毛は軍鶏の羽根で覆われ、老獅子・女獅子(娘獅子)・若獅子の三匹獅子の違いは頭の角の形が違います。 女(娘)獅子には角がありません。

このささらは祭りでは開始の先頭に立って現れるとすぐに消え去ってしまいます。
それも「七度半の迎えをうけて出る」というもので、祭スタートの行列の先頭を山車に乗って動きます。
しかしすぐにいなくなってしまいます。そのことを知っていないと見過ごしてしまうかもしれません。

また、山車や神輿のようび街中に繰り出して踊ることはまずありませんので見たことがない人も多いようです。

この姿は前に記事にしたときの物を参照ください。 ⇒ こちら

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この太鼓も手も作られたものですので人の手ではありません。
まるで、人がかぶって手を差し入れて太鼓をたたきそうですよね。

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実は操作する人が黒子(実は白い衣装)のように後ろに立ち、獅子人形の真ん中にある太い竹の心棒を操作して踊ります。

上下に動かしたり、棒をくるっと1回転したり、かなりトリッキーな動きをします。

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なかなか不思議な、不気味な顔立ちですよね。

これは会所に今年から飾られた新調されたささら獅子ですが、祭りに使われているのは今年もまだ昔の物のようです。

このささらについては別な時に撮ったもの ⇒ こちら も参考にしてください。

「ささら」の言葉は、竹を割いて何枚も縄でつないだ神楽などで使う楽器の音などが語源のようです。
またこれは食器や鍋を洗う時に使ったという話しもあり、五穀豊穣を願うシンボルのような意味合いがあったようです。

関東から東北方面に「ささら舞」が伝わっていますが、この棒を回して踊る形式の「棒ささら」は茨城県の南部だけかもしれません。
茨城県北部は鹿踊りなどと同じく、獅子人形を頭からかぶって人が踊ります。

秋田などに佐竹氏と共に伝わったと思われるささらも同じように人が中に入って踊ります。

石岡のまつりや、柿岡の祭りなどで登場するささらはこの棒ささらです。
三村地区などでもおなじようなささらがありましたが、この冨田町のささらの方が古いかもしれません。(もしかしたら室町時代末期まで遡るのか・・・・はっきりしません)

江戸時代の後半の6月頃に行われていた中町にあった天王社(のちの八坂神社となり総社宮に合祀)の祇園祭に富田町(旧馬之地町)の出し物として登場していました。この天王社のお祭りに各町内がいろいろな出し物を出していたのです。

総社宮の祭りとしては明治35年にこの祭りが復活し、いろいろな要素を加味して総社宮の祭りとして創設されました。その時にささらは祭りの山車の先頭を行くものとして登場しました。

石岡のおまつり | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/20 05:54

常陸国風土記と地名(10)-多珂

風土記地名10

多珂(たか)国の由来: 建御狭日命(多珂の国造:出雲族)が国を巡り山が険しく高いので「多珂(たか)国」と名づけた。

(郡の境界は南を久慈郡の助川(現日立市助川)、北を陸奥国石城郡苦麻之村(現福島県大熊町)までとした。
しかし、この範囲は広すぎるために7世紀前半の孝徳天皇の御世に、多珂(たか)と石城(いわき)の二つの郡に分割され、石城郡は陸奥国になった。)

飽田の村:
 倭建の天皇(ヤマトタケル)が東国を巡ったときにこの野で宿をとった。
野には鹿が群れ、海には八尺の鰒(あわび)がいて、鯉もいる。天皇は野に出て、妻の橘皇后は海に出て、野と海で獲物の幸を競うことになった。野の狩りは何も獲れなかったが、海では大漁だったため、天皇は「野のものは得ずとも、海のものは飽きるほどだ」といったのでこの地を後に「飽田村」と名づけられた。
・・・現日立市相田町あたり

仏浜:
 海辺の岩壁に観世音菩薩の像を作ったため、ここを「仏浜」という。
・・・現日立市田尻町度志前の「佛ヶ浜」 この佛ヶ浜の名前は風土記の内容とここに度志観音があるために、後で名付けられたもので、小木津浜の磨崖仏などの地もこの候補に挙がっている。

藻嶋(めじま):
 倭建の天皇(ヤマトタケル)が船で島の磯廻をした時に、「種々の海藻が多いところだ」といったので「藻嶋」の名が付いた。
・・・現日立市十王町伊師付近

ここには「藻嶋の駅」があり、東南の浜に常陸国では最も美しい玉のような碁石がある。
 ・藻嶋の駅 ・・・現日立市十王町伊師の愛宕神社あたり
 ・碁石の取れる浜 ・・・現日立市小貝浜(川尻海岸)

 (常陸国風土記と地名シリーズは今回で終わりです)


常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/19 05:26

常陸国風土記と地名(9)-久慈

 久慈(くじ)郡の名前の由来は「郡家の南近くに小さな丘があり、そのかたちが鯨に似ていたことから倭武の天皇(ヤマトタケル)が久慈と名付けた」と書かれています。

風土記地名09

1)谷合山:切り立ったこの山の絶壁は、一枚岩のようで、そこに大きな穴があいており、そこにサルが群がって生活している。
 ・・・現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山ということで奥久慈の大子町南にある男体山あたりか。 また竜神吊り橋のある武生山(たきゅうさん)あたりも気になる

2)河内の里: ここは昔「古々(ここ)の村」といったが、これは猿の鳴声(ここ)からきたという。
 ・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった

3)静織の里:ここで初めて倭文を織る機が使われたことから名付けられた。
 ・・・現在の静神社付近

4)玉川:この小川は青色の瑪瑙(メノウ)がとれ、良い火打石になるために玉川と名付けられた。
 ・・・現在も玉川という。水郡線の常陸大宮から玉川村駅にかけてのあたり。

5)山田の里: 新しい田が多いことから名がついた。里の清き河(現山田川)は、北の山から流れ出て久慈河にそそいでいる。大きな鮎(あゆ)がとれる。清き泉がここにそそいでいて、夏にはあちこちの村里から暑さをのがれて、手をとりあって集まってきてここで筑波山のような歌垣が行われていた。
 ・・・現常陸太田市和田町、松平町あたり、旧山田村

6)大伴の村:この村の河の崖には鳥が群らがり黄色の土をついばんで食べる。
 ・・・現常陸太田市

7)太田の郷: この郷には長幡部の社がある。ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
 ・・・現常陸太田長幡部神社

8)薩都(さつ)の里:昔、土蜘蛛いう名の国栖がいて、兎上の命の軍に滅ぼされたときに「幸なるかも」と言ったことから、佐都と名付けた。
 ・・・現在の薩都神社(さとじんじゃ:常陸太田市里野宮町)あたりが中心で、この薩都(さつ、さと)の名前は「里川」「常陸太田市里美」「里野宮」などの地名として残っている。

・薩都河(さとがわ):源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。 ・・・現在の里川

9)賀毗禮(かびれ)の高峯:この里の東に大きな山があり賀毗禮の高峯という。
昔、立速男の命が天より降り来てこの地に留まった。この場所に向かって人が大小便でもしようものなら、たちまちこの神の祟りにふれて病にかかった。このためこの里には病人が増え続けてしまい、困って朝廷に報告して、片岡の大連を遣はしてもらった。そしてこの地に神を祭り、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでいるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ」と申し上げたところ、神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
 ・・・現在日立市の御岩神社奥宮のある御岩山がこの賀毗禮の高峯だと考えられている。

10)密筑(みつき)の里: この村に大井という泉(現水木町の泉)があり、その水は、夏冷たく冬温かい。・・・現日立市水木町付近

11)高市(たけち):、高市から東北へ二里のところに密筑(みつき)の里がある 
  高市(たけち)・・・現大甕駅の西南側の日立市石名坂町から南高野町付近
  密筑(みつき)の里・・・ 現日立市水木町に「泉が森」という県指定史跡の池がある

12)助川(すけがわ):ここは、むかし倭建の天皇(ヤマトタケル)がここで皇后様(弟橘姫)と行き逢うことができたので遇鹿(あひか)といっていた。このあたりで鮭が採れた。俗に鮭の祖を「すけ」というので「助川」というようになった。ここには助川の駅がある。
・・・現在の日立市助川付近

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/18 07:01

石岡のおまつりは祇園祭りか?

 今年も9月15日から今日17日まで石岡のおまつりが行われている。

最近この祭りの紹介が少し変わってきた。
祭の始まりは江戸時代後期で総社宮の祭りとして奉納相撲が始まりで、次第に今の形の祭りが加わったと・・・・。

でもこの祭りは何なのかを考えてみたい。

街中で繰り広げられる巨大な山車にはそれぞれ大きな人形が飾られ、山車の舞台でお囃子に合わせてキツネ(新馬)やおかめ・ひょっとこなどの踊りが主体である。

これは江戸三大祭りと言われる神田祭、山王祭(日枝神社)、深川八幡の深川祭、それに浅草の三社祭などと同一の祇園祭と言ってよいのではないだろうか。

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中町通りにはたくさんの屋台と人波が。

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山車の上にはそれぞれ東京の人形師などから購入した大きな武者人形などが置かれています。
高い電線などをくぐるときはハンドルを回して人形を下に降ろします。

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幌獅子の先頭には大きな獅子頭があり、獅子舞をおどりながら進行します。
この獅子頭は大きなものは皆30kgほどもあり、若い人でも5m位踊ると交代です。
重いほど何か価値があるものと勘違いし、踊りを忘れたカナリアのようです。

仏像も平安時代後期に定朝が生み出した寄木造りで中繰りして重量を軽くする技法が生まれました。
これが鎌倉時代に運慶・快慶などのより花開いたのです。

寄木の獅子頭をどこかで始めませんか? そして昔の正月風景の獅子舞を復活させてほしいものです。

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太鼓と鉦のリズムはあまり印象に残らないですね・あまり単調すぎるのでしょう。
芸術性がなければ生き残れないかもしれません。

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駅前の御幸通りにも山車が集結してきました。
これだけの山車の数がある祭りは珍しいと言えます。
佐原の祭りは夏と秋に分かれていますし、今ではこうして勢揃いできる場所もありません。

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江戸の祭りは幕府の命令で簡素化が行われ、また明治の都電などの整備により山車の運行ができなくなり、ほとんどが山車祭から神輿を担ぐ祭りに変わっていきました。

その江戸の山車造りや人形師たちは江戸からこれらの物が無くなったために、周辺の徳川幕府に近い年にこれらの山車や人形を払い下げたり、新たに製作していたものを地方から買い付けに来てこれが地方の祭りに取り入れられました。

佐原、川越、石岡がそのよい例でしょう。

祇園祭りは八坂神社や山王社(牛頭天王)で行われてきたお祭りです。
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神です。
日本の神はスサノウノミコトと同一視されています。

石岡にも中町に牛頭天王社があり祭礼がおこなわれてきました。
明治の廃仏毀釈で八坂神社になり、その後総社宮に合祀されました。

ですから総社宮の祭礼とは本来別物です。
猿田彦などの神楽の要素や供奉行列などを要素を加えて総社宮の祭りとして明治の後半に始まったものですので、世界遺産に登録する運動をするならば、これらの文化的な意味合いもしっかりと検証していきたいものです。

まあ祇園祭は多くの都市で庶民の村祭りとして発達してきたものです。

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この子供たちも年に1回きれいな祭り衣装に化粧をして参加するのが楽しみなのでしょう。
これが祭り継続のDNAとなっていくのでしょうね。


石岡のおまつり | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/09/17 17:31
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