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側鷹神社(行方市)

 7月初旬に「ふるさと風の会」で、勉強中の「常陸国風土記」の現地見学の第1回目を実施した。
風土記に書かれた内容が最も多く残されている「行方郡」の遺称地を全部回ろうと考えたが、朝9時から夕方の5時頃までにまわれた範囲は予定の半分くらいしか回れなかった。

そこで、回ることが出来なかった小高、麻生、大生、相賀、古高、藝都の里などを来月にまた回ろうと考えています。
実際に食事の時間や、往復の移動時間を考えると、あまり欲張ってもしょうがないですね。

私は何度か訪れている場所が多いので、理解もできますが、初めての方にそれなりに知ってほしい点などをまとめて資料旁などもしています。

なんだかんだと時間を取られます。また風の会の会報(秋号)もその前に原稿をまとめて印刷もしてしまわないとなりません。

さて、8月に訪れた小高地方散策で、今回は「側鷹神社」を紹介します。

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この「そばたか(側高、側鷹、・・・・」と名の付く神社は千葉県にはかなりあり、千葉氏関連の城では昔からかなりあったようです。

総本山として考えられるのは、香取市大倉にある「側高神社」です。(昔書いた記事⇒こちら1こちら2
丁度香取神宮の東北(鬼門)に位置する場所にあります。

常陸国風土記には「・・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。・・・・」とかかれた社がこの側鷹神社だといわれているのです。

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すぐ隣を通る道路も以前に来た時より広く拡張されて、神社も明るくなりました。
そのせいかもしれませんが、昔からの「古社」のイメージは薄らいでしまったようです。
上の写真の右側に道路があり、その先の方に建物が見えますが、これが先日紹介した「小高小学校(廃校)」です。

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以前そばたか神社を調べて、茨城県にもこの側鷹神社と、浮島の広畑貝塚のすぐ上の「脇鷹神社」、河内町金江津の利根川の茨城県側の岸に「側高神社」の3つを載せていたのですが、その後旧小川町立延地区(小美玉市)にもあることが後から判明しました。
それにしてもよくわからない神社です。

続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/24 14:14

小高城跡(行方市)

 常陸国風土記を読んでいると、この行方(なめかた)地方に興味が行く。
何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。

現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。

また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合いのカイシャクモマチマチだ。
さらに、当時の陸奥国であった現在の福島県にも「行方郡」があり、そこに「小高郷」が存在した。
これは偶然の一致ではなく、まだ、常陸国と陸奥国の境界がはっきりしておらず、北部の蝦夷征伐における前線基地が、常陸国からこの陸奥国の南側の福島県相馬市あたりに前線基地ができて、この常陸国の行方地方から人が移り住んだものではないかともいわれる。
相馬氏が千葉、茨城からこの地方に移り住んだのも、ここに仲間がいたからであろう。
もう少し詳しく機会があれば調べてみよう。

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現在の行方市行方や小高地方は江戸時代は町としての繁栄はあまりなく、玉造、麻生に挟まれて今は見るべきものが少なくなってしまったのだろう。

この地に平安時代末期に水戸の吉田氏一族の吉田(平)忠幹(ただもと)(吉田清幹の次男)=行方二郎が、この行方郷に入り、城を築いたのが最初だという。

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そして、その子吉田景幹(行方郡地頭)は、源平合戦で源義経軍に加わり、屋島で戦死。

そのため、この景幹の4人の息子が領地を分割して小高(行方地方)、島崎(潮来地方)、麻生、玉造の各地を治めることになった。
鹿島神宮の行事などの取りまとめもこの4人が交代して行う仲の良さ。
でも時代が経つにつて、お互いに戦をするようになり、麻生氏は島崎氏により滅亡。

残された3氏も1591年に佐竹氏により滅ぼされてしまった。
この行方の地には、佐竹氏一族の大山氏が入り、佐竹氏の秋田転封により、この城も廃城となってしまった。

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現在城跡は畑や雑草などでおおわれて、遺構もよくわからないが、脇道から中に車も入れる。
良く調べれば中世の城の遺構がかなり残されているように思い。
まあ、中世の城マニュアではないので、詳しくはわからない。

この看板の場所は、現在の「常光院」の裏山の反対側にある。この場所と、常光院に挟まれた地域がこの城跡である。



続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/21 10:37

獅子頭・・・大きいものはいいことだ・・・・?

 「石岡のおまつり」が無事終了し、やっと静かになった。
今年は年番町になり、動くに動けず、千葉にいる息子夫婦と孫娘が中日にやってきたが、車で家にたどり着くのに狭い道に苦労したようだ。
祭りは3日間とも正式には午後からなので、着いた日(2日目)は町中の祭りを見学して、夜に八郷温泉「ゆりの郷」へ行った。
祭り見物も時間が遅くなり、ゆりの郷に着いたのは夜の7時20分頃。
7時から少し料金が安くなるが、この日はたくさんのお客で混雑。

食事処「紫峰」も名前を書いて1時間ほど待たないと入れないとか・・・
待つ人が増えて、この受付も午後7時半で閉めるとかで、どうにかセーフ。

それならば名前を書いて、先に温泉に入ることにして、40~50分ほどのんびり湯につかって・・・・・
なんだか久しぶりに湯船にのんびり浸かった気分。
家だとこの暑さでほとんどシャワーで済ませていたから。

食事処ではどうにか8時半頃にやっと席に案内された。

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チキンカツ定食。カツが2枚入っている。新米でご飯も進む。それにしてもおなかがいっぱいになった。
結構ボリュームがあるね。

翌日は祭りの最終日。
祭りで混雑する前に孫を連れて風土記の丘の奥にある獅子頭の公園へ。
ここには比較的小さな子供用のアスレチック器具が置いてある。

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朝の9時前はまだ暑さもそれほどではなく、遊びに来ている子供らもほとんどまだいない。
この獅子頭も日本一の大きさだとか・・・・
どうも大きいことはいいことだと思い込んでいるのかもしれない。

最近の祭りにでる獅子頭も昔のような獅子舞をするには大きくて重すぎて全く踊りなどできない。
確かに重い物を若者が交代で担げば思い出や連帯は広まるのかもしれないが、祭りに獅子頭を出すなら少し芸術性を追求してほしいものだ。

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この獅子頭(展望台)も扉が閉まっていて入れないかと思ったが、開いていて上ることが出来た。
孫も獅子に食べられたかな?
元気に育ってほしいものです。




風土記の丘近辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/20 10:21

棒ささら

 今年の「石岡のおまつり」が昨日までの3日間(9/16~9/18)行われた。
ここ数年はコロナにより自粛されたり、雨天に悩まされたりしてきたが、今年は久しぶりに雨も降らず、晴天に恵まれ祭りはにぎわった。
また年番が「若松町」で、私の住む地区であり、連日多くの人出が出ていた。
しかも、町の主な道路は午後1時から夜9時まで交通止めとなり、我が家から出ようにも車だと細い道を迂回しながら回っていくしかない。
まあそれでも盛況に終わったのは喜ばしいことだと思う。
子供の頃からこの地で育てば、この祭りはDNAとしてその体にしみこみ、伝統がどうだこうだなどは嘘も何も関係なくそういうものだと思い込んでしまう。
私は16,7年前にこの地に越してきたので、まあ冷めた目で眺めるだけだが、もう少し伝統行事ならその歴史を理解した方がよいなどとついしゃべってしまうが、まあそんなことはよそ者のたわごとでしかないので、最近はあまり祭りの話題もしないようにしている。

さて、いま仕事場兼風の会の事務所として、国府公民館近くの事務所を借りているが、祭り初日に「富田のささら」が朝方各家を回ってささら舞を奉納して歩いている。
まつりの最初と最後には神社神輿の先頭を急いで車に乗って駆け抜けるために、あまり目にする機会が少ないのだが、町の人でもこのささらと呼ばれる三匹獅子のことを間違って解釈している方が多いのが気になっている。

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祭り初日の午前中に国府町の各御家庭を回ってささら舞を奉納している様子。

このささらは三匹の獅子(獅子人形は胸前に小さな太鼓を持っている)は、中にこの獅子を操るための棒が入っていて、後ろの白装束の人がささら獅子を持ち上げながらこの棒を操り、獅子にいろいろ回転や太鼓たたきなどのしぐさをさせて踊る。

こうして人が見えていればすぐにわかるが、車に乗って踊る場合はこの人の姿が見えず、獅子が踊ているように見える。
これは茨城県南部独特ではないかと思っている。

茨城県北部や東北などでは、この獅子を人が被って人が踊るので、基本的に構造が違う。
秋田のささら獅子舞はこの北部のささらが佐竹氏によって秋田にもたらされたものと言われている。
したがって、江戸時代より前からこのようなささら踊りはされてきたものと考えられている。

それにしても、全国にはいろいろな種類のささら舞があるようだ。
「ささら」とは、基本的には竹を細く裂いてこれを束ねて茶筅のような形状にして食器の洗浄などに使う道具であったようだ。
それが、くぼみをたくさんつけた棒(ささら子)でこの竹の箒のようなものをこすると、ササラササラなどと音がするので楽器となったとか。
また、竹の棒をたくさん縄で一列に結わいて並べてこれをしならせたりこすり合わせたりして音を出す楽器などもできたという。
このため、このような楽器を「ささら」と呼び、これを踊るときに使ったので「ささら」と呼ばれるというと一般には書かれている。

しかし本当にそうなのだろうか?
つい勘ぐってしまう。
もう少しよく全国の「ささら」をいろいろな角度から調べてみたいものだ。
神社などのささら獅子の役割は「先頭を行って、神輿の通る道を掃き清める」という役割があると感じている。
「笹で神社などの道を掃き清める」=「笹まつり」などからいろいろな要素が組み合わさって、五穀豊穣などの考えも組み合わさってこのような三匹獅子の舞が出来てきたのだろうと考えている。

さて、時間が出来たら全国の神事・祭りで行われている「ささら」に似た行事を地域などで分類してみたいものだなどと考えている。


石岡のおまつり | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/19 13:50

小高観音

 行方市の小高地方を少し散策しています。
まあ、今日(午後)から地元石岡ではお祭りが3日間はじまります。
今年は私がいる若松町が年番で、近所は賑わいを見せております。
でも祭りネタは別な方に任せて、私は誰も訪れないようなところをひたすら探しながら記事を書いていきましょう。

小高小学校も2012年に廃校となり、麻生小学校へ吸収合併となりました。
その跡地を昨日眺めてきました。
側鷹神社のすぐ隣にまだ、昔の姿で残っていました。

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廃校から10年たちました。 校舎にさびなども目立ちます。また草も生えています。
何かでももったいないような・・・。

小高小学校01

さて、上の写真は2013年2月に撮影したもの。
廃校から1年たったものです。まあそんなに変わった感じもしませんが・・・・・

さて、この小学校の裏手に曲がる道角に手作りの「小高観音」という矢印案内板が置かれています。
これに従っていくと「かんのんさま→」などと分かれ道などに置かれており、これに従って、少し進んだところで住宅地で行き止まりのような場所に行きます。
さて、観音様はどこにあるのか??
見渡すとその先の木の陰に石造りの観音菩薩像があるのがわかりました。

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説明によるとこの近くには天台宗の「明應寺」という寺があり、いつか無住の寺となっていて、この寺の保存されていた(木造)観音像が朽ちて修理不能と判断されたために、地元民で旅行積立などの費用や寄付などで、20世紀最後の年にこの石造りの観音像を建立したのだそうです。
この明應寺は、天台宗であり、近くの西蓮寺の末寺だったそうです。

でもこの近くには江戸時代の記述では天台宗の「神宮寺」があったとありますので、廃仏稀釈運動などもあり、神宮寺ではなく、名前を「明應寺」と変えたのかもしれません。

明應(めいおう)といえば年号で西暦1500年前後に数年間ありますので、この明應期に建立されたものかもわかりません。

ただ、明応というと1498年(明応7年)の東海大地震がありました。
マグニチュウードが8.2~8.6くらいあったといわれている東南海地震です。
鎌倉の大仏の建屋が流され、大仏も動いたりした地震です。
今から500年以上前の地震ですが、その後の江戸時代にも巨大な南海トラフの地震がありましたが、津波規模などではこちらの方が数倍も大きかったようです。

今後想定されtる南海トラフの地震時の対策として、現在の想定は江戸時代の地震を参考にしており、見直しが必要だともいわれています。西伊豆の戸田(へた)近くで36mくらいの津波があったのではないかと指摘されています。
心配ですね。

この観音様の裏手には子安講などの石像がありました。
江戸から明治時代の物のようです。一つには明治廿三年四月の年月が彫られていました。

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続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/16 11:16
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