潮来アヤメ祭り
コロナ禍も一応終った?
まあ何処も制限なしでお祭りも行なえるようだ。
潮来といえばやはり「アヤメ祭り」でしょうか。
昨日、天気は雨天かもしれないとの予報もありましたが、こちらは銚子へ行く途中の立ち寄りでした。
まだ、午前10時過ぎ頃で、人でも余りまだそれ程多くは出ていませんでした。
今年のアヤメはもうかなり咲いており、やはり早いようです。
前川アヤメ園周辺で簡単に写真を数枚撮りましたのでUPしておきます。








まあ何処も制限なしでお祭りも行なえるようだ。
潮来といえばやはり「アヤメ祭り」でしょうか。
昨日、天気は雨天かもしれないとの予報もありましたが、こちらは銚子へ行く途中の立ち寄りでした。
まだ、午前10時過ぎ頃で、人でも余りまだそれ程多くは出ていませんでした。
今年のアヤメはもうかなり咲いており、やはり早いようです。
前川アヤメ園周辺で簡単に写真を数枚撮りましたのでUPしておきます。








常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その5)
6、藻島(めしま)の駅家(うまや):郡衙の南方三十里のところに、藻島の駅家がある。その東南方の浜辺には碁石がある。
藻島の名の由来:倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、様々な種類の海藻(め)が生い茂っていた。そのために藻島と名付けた。

藻島の駅家の遺称地:十王町伊師が有力候補地といわれる。伊師に「目島」という小字名が残っており、古代官道跡の調査をきっかけに発見された長者山遺跡が古代官道跡に沿って営まれた8 世紀から10 世紀までの官衙に関連した施設跡と考えられています。藻島の駅家は『日本後紀』の弘仁3年(812)に廃止されたことが記載されており、駅家としては、比較的短い期間(約90年間)でした。

十王台古墳群がある丘陵の北西端にある。上の写真の奥に見えるのは愛宕神社。目の前を左右に駅路が走り、その向こうに建物群が並んでいたのです。
この神社の北側に、明瞭に古代東海道の切通し遺構が残されているそうです。
この長者山遺跡の発見は、約280mにわたって続く古代官道の遺構を調査のためトレンチを入れ、両側溝を持つ側溝芯々間距離6.73mの道路跡が見つかったのです。
そして、長者山遺跡を調査したところ建物跡が発見されたものです。

「村社 愛宕神社」
この8世紀後半~9世紀前半の時期は、「蝦夷征討」が次第に本格化した時期といわれ、宝亀5年(774)の海道蝦夷による桃生城襲撃からは「38年戦争」が始まりました。
征討終了による”終戦”は弘仁2年(811)です。
藻島駅の廃止の時期と合致します。
蝦夷征討の名の下、律令国家が東北地方で拡大政策を進めており、最前線の陸奥国へ兵士や兵糧などを海上輸送するために、水陸一体化した交通網が整備されたと考えられています。
発掘調査で見つかったこの長者山遺跡では、8世紀半ばから9世紀半ばの12棟の掘立柱建物がコの字型に配置され、9世紀半ば以降の施設には倉庫と見られる8棟の礎石建物があり、多珂郡正倉別院と考えられています。
郡家とは別に、税として徴収された米を保存するための施設です。
郡衙機能も一部担っていたのかもしれません。
7、碁石の浜(ごいしのはま)・・・伊師浜海岸(白砂の砂浜)から鵜の岬周辺の海岸と考えられています。

囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた。その囲碁に用いられる美しい石がこの浜でとれるのです。現在、伊師浜の国民宿舎鵜の岬の東の入江で白や黒の丸くひらたい石をひろうことができるといいます。
現在囲碁の白い石はハマグリの貝殻が使われています。黒石はこのような海岸の自然石です。
伊師浜という名前については江戸時代初期から使われ始めたようで、その前は石浜と呼ばれていたようです。

● 蚕養(こがい)神社(日立市豊浦)
日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」にも金色姫伝説が残されています。
金色姫が漂着した場所である「豊浦」という地名も三社の中では一番広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前がついています。


高速の日立北インターを下り、6号国道に出て北上すると、直ぐに日立市の日高、川尻と続き直ぐ右手に「蚕養神社」、左手に「館山神社」の看板が見えます。
右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
ただ左右の神社の氏子は共通であるようだ。
東側(海側)の神社が「蚕養神社」という。
神社の入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。
このあたりの浜を小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。
社務所の脇に立てられた看板には「日本最初 蚕養神社」となっていた。
この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?


神社へはこの脇の階段を上って行く。
階段を登ったところに、「金色姫伝説」の説明板が置かれていました。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは同一です。
この神社を調べてみると、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたといいます。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。
この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
鹿島・香取と並んで東国三社といわれた「息栖神社」は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。
そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があります。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
ただつくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていて、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めているようです。
そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。
全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されています。
祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だといいます。
神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できます。
● 小貝浜 (蚕飼浜)


石段を上ると、向こう側に太平洋が見え、左手が蚕養神社に行き、そのままさらに登っていくと そこが小貝浜緑地です。散策路を少し登ったところに「茨城百景小貝浜」の碑が立っています。
松や雑草などで海の景観を木々の間から垣間見て進みます。
この緑地の眺めは素晴らしく道も整備されていますが、道を外れて海の方に行くと危険だと思います。
比較的地盤がもろい気がします。
危ないところはロープを張ってありますし、進入禁止の立札もあります。
松の枝ぶりと波の打ち寄せる様は絵になる風情があります。
この下の海辺には洞窟もあり、下の浜にも降りられるようです。
島のようになっているのは侵食して島になってしまったのかもしれません。
島の上に松が植わっています。夫婦松と呼ばれているものでしょうか
途中の断崖の上に立つ「波切不動尊」があります。
潮風により風化の速度が速いと思われますが、何回も新しくして続いてきたようです。


● 鵜の岬
茨城県日立市の北部に鵜の岬はあります。海鵜(ウミウ)が日本列島の冬に北から南へ、春には南から北へ渡るためにこの地の断崖の岬に立ち寄るためにこの名前がつきました。

ここには、日本一予約が取れないほど人気の国民宿舎があります。国民宿舎はまるで立派なリゾートホテルのようです。客室は皆東の海の方を向いています。客室から日の出が見えるのが人気の一つです。鵜の岬は太平洋に突き出した岬でもあり、岩場に寄せる波も豪快なものがあります。鵜の岬は国民宿舎が有名なのですが、日本で唯一の公認された海鵜(ウミウ)の捕獲場があります。日本全国の鵜飼の鵜はほとんどがこの鵜の岬で捕まえられたものです。

鵜は渡り鳥ですから、この場所に多くの海鵜が来る4月~6月と10月~12月の年2回が鵜の捕獲が許されている期間です。
この捕獲時期以外の時期に捕獲場所の一般見学が許されています。
捕獲場は この海に突き出した岩場の先端に作られています。
海鵜がこの岩場に止まっています。これはオトリではありません。
今は捕獲時期ではありませんので、捕まることはありません。
波が打ち寄せ、砕け散るこのような岩場に鵜は休憩のためにとまるのです。
渡りの時期は、群れをなしてV字飛行でやってくるそうです。
多い時は100羽くらいが群れになってくるそうです。
捕獲する鵜の数は、全国各地からの注文を受けた数だけを捕獲します。
全国の鵜飼をしている場所は12箇所あり、有名なところは長良川ですね。
その他、岐阜県小瀬鵜飼、山梨県笛吹川石和鵜飼、京都府嵐山鵜飼、広島県三次の鵜飼、山口県岩国の錦帯橋の鵜飼、福島県筑後川鵜飼、大分県日田の鵜飼、愛知県大洲うかい、愛知県木曽川うかい、京都府宇治川鵜飼、和歌山県有田川鵜飼です。

海鵜の捕獲場所へはこのトンネルを通って行きます。
この係りの人が捕獲の名人です。7~8年くらいやっているそうです。
海鵜は昭和22年に一般保護鳥に指定され、捕獲制限があります。
断崖の先の捕獲場所には約80m程の細長いトンネルを通って行きます。
意外に広いトンネルで、かがまなくても二人で並んでも充分歩けます。

トンネルの先に捕獲場所があります。捕獲はおとりの鵜を5羽ほど、小屋の外に配置し、仲間と思ってやってきた鳥を捕獲します。捕獲の方法は、小屋のわらの下から先端がU字型の「かぎ棒」をそっと出して、岩場にとまった鵜の足を引っ掛け、小屋の中に引き込んで捕まえます。
昔は粘着力のある「とりもち」などが使われたそうですが、羽根にくっついたりして羽を傷める恐れがあるために使われなくなったそうです。
小屋の中央に顔を外に出せる四角い穴があります。
ここからも確認できるのでしょう。
鵜は年間で40羽程度を捕獲しています。
8、黒前の山(くろさきのやま)
「風土記」(逸文 仁和寺本『万葉集註釈』巻第二)の志太郡の名前の由来とされている話しに出てくる「黒前山」は、旧十王町にある竪破山(たつわれさん)のことで、初め「角枯山」と称していたが、のち黒坂命の伝説に因んで「黒前山」となり、その後「竪破山」と呼ばれるようになったそうです。

「竪破山」の名は、山頂に真っ二つに割れた巨石があるところから名づけられたものと思われます。
逸文 仁和寺本:信太郡名の条
「黒坂命、陸奥の蝦夷を征討ちたまふ事ありき。凱旋りて、多歌郡の角枯の山に及るに、黒坂命病に遇ひて身故りたまふ。
爰に、角枯を改めめて、黒前山と号く。」
とあります。
(この郡 終り)
常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その4)
21、多珂(たか)郡
郡衙・・・大高台遺跡(高萩市下手綱:県立高萩清松高等学校の敷地。以前の書物には松岡町とあるが松岡町名称はは消滅)
1、多珂の国造:古老の話では、成務(せいむ)天皇(景行天皇の後:4世紀半ば)の世に、建御狭日(たけみさひの)命が多珂の国造に任命された。この人が最初にこの国を巡り、山の峰が険しく高いところだというので「多珂国」と名づけた。建御狭日命は出雲臣と同族(やから)である。今、多珂・石城(風土記を書いた時点では石城郡が多珂郡から分かれて独立)といっているところで、諺に「薦枕(こもまくら:こもは「まこも草」のこと)、多珂の国」という。
2、郡の境界を定めた:久慈郡との境を助河とし、道前(みちのくち:道の口)と呼び、ここを道前の里(日立市北部小木津附近)とし、陸奥国の石城郡苦麻(くま)村(現福島県大熊町)を道後(みちのしり)とした。
3、多珂郡と石城郡の2つに分ける:孝徳天皇の時代(645-654年)に領地が広大で遠く離れており行き来が不便であるという理由で2つの郡に分けた。石城郡は今では陸奥国である。
4、道前の里に飽田(あきた)の村あり。
昔、ヤマトタケルの天皇が東国を巡ったとき、この野で宿をとった。ある人が申上げた話では「このあたりの野には無数の鹿が群れ、その角は枯れ葦の原のようであり、鹿の吐く息は朝霧の立つようです。また海には鰒(あわび)がいて、大きさは八尺もあり、その他の珍味もたくさんあります」。そこで天皇は野に出て、橘皇后は海に出て、野と海で獲物の幸を競うことになった。天皇の野での狩りには何も獲れなかったが、皇后の海では大漁だった。天皇は「野のものは得ずとも、海のものは飽きるほどだ」といわれたので、後の人々はここを飽田村と名付けている。
5、仏の浜:国宰(国守)が川原宿禰黒麿(かわはらのすくねくろまろ)の時(7世紀後半?)、大海(太平洋)の岸壁に観世音菩薩の像を彫った。これは今も残っている。このためこの地を仏の浜と言う。
6、藻嶋(めしま)の駅家(うまや):郡家の南へ三十里のところに、藻嶋(めしま)の駅家がある。東南の浜辺には碁石がある。常陸の国の美しい碁石は、この浜からのみ産出される。ヤマトタケルの天皇が舟で島の磯を見たとき、「さまざまな海藻がいっぱい生い茂っていたので、藻嶋の名付けられた。

<多珂郡の成立と歴史>
上記の風土記に書かれている多珂郡の記述はあまり多くありません。
このため少し補足しながら歴史的な流れを見て行きましょう。
1、4世紀半ば:国造が派遣され、山が高いので「高国」と名付けられ、国の入口と出口を「道前(みちのくち)」と「道後(みちのしり)」と呼んだ。
成務(せいむ)天皇の頃(4世紀半ば)頃に出雲族の一族の国造(建御狭日命:たけみさひのみこと)命が派遣された(この出雲臣の一族である建御狭日命の子孫が「石城氏=岩城氏(陸奥国)」となったといわれている)。
その国の西、北側は高い山がそびえていたので「高国」と呼び、今の多珂になった。
その当時はそれぞれの地方を国と呼び国造(くにのみやつこ)が選ばれたが、一般にはその地方の豪族か、そこの開拓を行なった(進攻した)大和朝廷の武人などが選任されている。
ここでは出雲族の人物が選ばれている。
大化の改新(645年)前はまだ律令制が制定されておらずこの多珂郡も「多珂国」と呼ばれていて、国造が任命されたという事になる。
またこの初期の多珂国は現・日立市の中心部近くを流れる助河(現在の宮田川)から北側の地域であり、この地域に入る部分を「道前(みちのくち)」と呼び、現在の福島県双葉郡大熊町あたりまで道が続いており、この苦麻(くま)村(大熊町)を「道後(みちのしり)」と名前をつけたという。
この風土記の書かれた720年頃にも助河の北側に「道前の里」がある。
助河は地名として日立市助川町として残る。
10世紀前半に書かれた倭名抄の常陸国多珂郡には「梁津」「伴部」「高野」「多珂」「藻島」「新居」「賀美」「道口」の8つの郷名が書かれており、この「道口」が「道前の里」に当たります。
2、653年に多珂国と石城国に分割された。
孝徳天皇の653年に多珂国造(建御狭日命の後裔)と岩城郷(郷は当時「評」と表記)の造部がこの国の領域が広すぎるので分割を願い出て「多珂郡」「石城郡」に分割された。
ただ、その後この石城郡は陸奥国の範囲となった。
注:記録では718年に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・日理、常陸国の菊多の6郡を合わせて石城国を置く」とある。
ただこの石城国は10年足らずで全体が陸奥国となった。
(参考)
倭名抄の陸奥国にある郡名一覧:
白河郡、磐瀬郡、会津郡、耶麻郡、安積郡、安達郡、那田郡、柴田郡、名取郡、菊田郡、磐城郡、標葉郡、行方郡、宇多郡、伊具郡、日理郡、宮城郡、星河郡、賀美郡、色麻郡、玉造郡、志太郡、長岡郡、栗原郡、磐井郡、江刺郡、瞻澤郡、新田郡、小田郡、遠田郡、登米郡、桃生郡、気仙郡、牡鹿郡、耶麻郡
郷名一覧(718年に石城国として成立した郡名のみ)
石城郡(磐城郡):蒲津、丸部、神城、荒川、和、磐城、飯野、小高、片依、白田、玉造、楢葉
(現:浜通り南部で、いわき市(平町)附近)
標葉(しねは)郡:宇良、磐瀬、標葉、余戸(現:浜通り中央部、大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村)
行方郡(なめかた):吉名、大江、多珂、子鶴、眞欨、眞野(現:鹿島町・小高町・飯舘村・原町市地域)
宇太(うた)郡:長伴、高階、仲村、飯豊(現:相馬市附近)
日理(わたり)郡:曰理(わたり)、坂本、望多(もうた)、菱沼(現:亘理町、山元町付近)
菊多(きくた)郡:現在の福島県いわき市の最南部地域(現:泉町など小名浜より南西部)

① 多珂郡郡衙 (大高台遺跡)
② 道前の里、飽田の村
③ 道後の里(石城郡苦麻の村)
④ 仏の浜
⑤ 仏像(度志観音)
⑥ 藻島の駅家(長者屋敷跡)
⑦ 碁石の浜
1、多珂郡郡衙 (大高台遺跡)


多珂郡の郡衙推定地は高萩市下手綱にある台地で「大高台遺跡」と呼ばれる場所だとされています。
この遺跡は、東西約300m、南約1,000mに及び、遺跡の南部は、現在、県立高萩清松高等学校の敷地となっています。
2、道前(みちのくち)の里に飽田(あきた)の村がある。

多珂郡の郡家は高萩市手綱付近とすると、そこから60里西北にあるという。
(しかし、この表記は間違いで西南に30里(約16km)とする解釈が多い)道前の里は現在小木津附近とされ、飽田(あきた)村は日立市相田町附近(小木津駅の東側海岸沿い)であり風土記ではここで倭武の天皇(ヤマトタケル)と橘の皇后(弟橘姫)の山・海の幸の獲物とり競争の話が語られています。
山:鹿が群れている。しかし倭武の天皇は一匹も獲物を取れなかった。
海:鰒魚(アワビ)など豊富で、橘の皇后は百味にあまる獲物を獲た。
二人は海の獲物を飽きるほど食べたので「飽田の村」の名になった。
4、5、仏の浜:田尻町の田尻小学校南側の崖面に仏像が彫られていて「度志(どし)観音跡」と称しており、昭和30(1955)年、「佛ヶ浜」として県指定史跡になりました。
全国の風土記の記述に「仏像」が出てくるのはこの常陸国風土記のこの場所のみです。
この地に観世音菩薩が彫られた7 世紀末、陸奥国の蝦夷が不穏な動きをみせていたので、ここに観世音菩薩を彫って仏像による鎮定の助力を願ったものと考えられています。
この「度志観音」は凝灰岩の石壁に彫られた観音像(磨崖仏)で、かつては常陸(水戸)三十三観音霊場の第15番札所・真言宗「清滝山 源勝院 観泉寺」の本尊であったそうです。
弘仁年中(810~824年)に空海が建立したとの伝承もあり、曹洞宗「天童山 大雄院」(茨城県日立市宮田町)の開祖・南極寿星禅師が文明2年(1470)年に100日間の参籠修行をした場所としても知られています。
その後この「観泉寺」は廃寺となりましたが、大正時代に「大雄院」が境外仏堂として観音堂を再興しましたが、今は仏堂もなく、磨崖仏もかなり崩れており、現在では殆どわからない状態となっています。




しかし、この場所が風土記の記述にある「仏の浜」ではないという説が最近は強いようです。
風土記には仏の浜は飽田村と藻島駅家の間にあり、かつ「大海のほとり」にあるということになり、小木津町の東連津川河口に磨崖仏(ほとんど崩れたり消えていたりして余りよく残っていない)があり、この磨崖仏のある近くの海岸が仏の浜であるというのです。
今は正確にはわかりません。
東連津川の河口にある岩壁に観世音菩薩と見られる磨崖仏があります。

(次回へ続く)
常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その3)
12、賀毗禮の高峰:

13、御岩神社
常磐道高速の日立中央ICより県道36号線で西の常陸太田を流れている里川の上流の方に進むと、山を下る途中に「御岩神社」の看板があります。

入口には「常陸最古の霊山」と彫られています。
少し入ったところに駐車場があり手前に20台くらい、奥に7~8台くらい止められます。
こんな山奥と思っていたのですが、休日の事もあり駐車場が8割程車が止まっていて、少しの間にもまた車がやってきました。
それも多くが若者で女性の方もたくさん来ています。
神社の入口には「茨城四十五景 御岩山」と彫られた大きな石碑が立てられています。
茨城100景は知っているが45景は聞いたことが無かった。
調べて見ると昭和10年に茨城新聞社が創立45周年を記念して行った事業で、県民投票によって45カ所を選んだとのこと。
多くの若者がこの神社を訪れている理由は、ここが日本で一番のパワースポットだと言われていて雑誌などでも取り上げられているからのようです。


また宇宙飛行士の向井さんが宇宙から地球を見ていた時に、日本のある所から光が立ち上って見えたのだとか。
その場所を位置から推定するとこの神社のあたりだと言うのです。
何か本当の事かどうかは知りませんが、若者もこのような事なら行ってみたいと思うのでしょう。
一の鳥居を過ぎて、静かな杉木立の中の参道を進むと奥に山門があります。

山門と思ってやってきたが、仁王門で2階形式の楼門であった。
ということはここは神社だが、寺でもあったようだ。
明治維新の神仏分離により、大日堂、観音堂、念仏堂、大仁王門などが取払われたのだそうだ。
しかし、この大仁王門を平成3年に120年振りにこの場所に再建したという
何処かに移築していたのをまた戻したということなのだろうか。
なかなか姿の良い楼門である。
仁王門を入るとたくさんの石塔などが並んでいます。
ほとんどが無縁仏などを祀っているようです。
この神社を含め裏山全体を「かびれ」と称していたもので、神がこの峰に登ってすんだという。
一体どういうことなのか?
ふもとの村には昔からの縄文人などが住んでいた場所で、それを従えた大和民族の武人が祭られたのか?
それとも昔からここに住んでいた人びとの信仰の場所であったのか・・・。
江戸時代も水戸藩の祈願所として信仰を集めたそうで、この裏山に奥の院のような「かびれ神宮」があるそうで、ここが水戸光圀の大日本史筆初之儀処だと書かれています。

一周が30分程だと言います。
この神社から山に入ってかびれの奥の院や山に登ることができますが、山道となります。
神社社務所で杖を貸してくれるようですが、靴は山の靴を履いていく必要がありそうです。
かびれ神社までは15~20分。さらに山の上までは15~20分位だそうです。



「百観音堂跡」
(五間半 五間 二層建)
「常念仏堂跡」
(六間半 六間 小羽葺)
これらは神仏習合の時のものなのだろう。江戸時代にはたくさんの建物があったようです。明治になり寺の関係は全て壊したようです。何と言うことでしょう。
入口から拝殿までのわずかな範囲ですが、静寂な雰囲気のお社でした。
しかしここは神社ではあるのですが姿形は寺のものを感じます。
そこに独特の何か感じるものがあるのかもしれません。
江戸時代の全域の絵図がありました。

斎神社:祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)はじめ五柱
この斎神社の周りにはたくさんの石像が置かれ、無縁仏や石碑がとり囲んでいます。

この斎神社がどのような神社であるかは良く分かりませんが、祭神の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は神話ではこの世の中に初めて現われた神様です。
まだこの世の中が天地の区別もなく、形もなかった時に天と地が別れ、天の高天原にはじめて現れたのがこの神様です。
江戸時代の地図では大日堂旧跡と書かれています。
そのため、この神社(寺)の社殿(大日堂)がこちらにあって、それを少し上の今の拝殿に新築して移したのでしょう。
室町時代の制作といわれる木造大日如来座像(県指定文化財)・木造阿弥陀如来座像(市指定文化財)があると書かれているが、こちらの横にある宝物館に置かれているようです 。


この斎神社から左に道をとると鳥居をくぐり赤い神橋があります。
橋を渡ったところに手水舎があり、その上に神社拝殿があります。
江戸時代は御岩山大権現大日堂であったが、今は御岩神社拝殿です。
祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)はじめ26柱。
14、密筑(みつき)の里、大井の泉

現在日立市水木町に「泉が森」と呼ばれる湧き水のある森と神社(泉神社)がある場所があり、県指定史跡に登録されています。
また、茨城百景にも登録されています。
15、助川の駅家(うまや):
助川は日立市助川として地名に残りますが、川の現在の名前は久慈郡と多珂郡の境を流れる宮田川と考えられています。駅家のあった場所は日立製作所の海岸工場あたりではないかといわれています。
この風土記には「鮭の祖を「すけ」という」と書かれていますが、鮭のことをスケというと話しは各地に幾つかあります。
参考まで信濃川の民話を紹介します。
信濃川に伝わる民話「鮭の大介」:
その昔、信濃川近くにある大長者がいた。ある年の霜月(11月)15日。
いつも川で漁をするはずの漁師たちが揃って仕事を休んでいることを不思議に思ったが、その日は鮭の大介・小介がのぼってくる日と気づいた。
日が経つにつれ、長者はたかが魚ごときになぜ漁を休まむのかと腹が立ってきた。
そこで翌年のその日が近づいた頃、漁師たちに漁を行って大介・小介を捕えるよう告げた。
漁師たちはみな川の王の祟りを恐れたが、長者が権力にものをいわせて脅すので、渋々承知した。
そして霜月15日。
長者は大介・小介が捕まるところを見てやろうと上機嫌で川に出た。
漁師たちが網を放ったが、なぜか大介・小介どころか、小魚すら網にかかることはない。
長者は漁師たちにハッパをかけるが、魚は1匹も捕まらない。
やがて漁師たちは、長者より川の王の祟りを恐れて皆、引き上げてしまった。
川辺には長者1人が残され、既に時は真夜中になってしまった。
気がつくと、目の前に銀髪を輝かせた1人の老婆がいて、長者に言った。
「今日はご苦労であった」
それを見た長者は次第に気が遠くなっていった。
何かを言い返そうとしたが、既に言葉にならない。
老婆が川へと歩いていくと、川辺に激しい水音がした。
そして声が響いた。
「鮭の大介・小介、今のぼる」
大介・小介を先頭にして、月光の照らす中を鮭の群れが川をさかのぼって行った。
長者はすでに息絶えていた。
また、北海道の知床や羅臼で採れるキングサーモンは「すけ」とか「ますのすけ」と呼ばれ、脂がのって幻のキングサーモンなどと珍味とされています。
(次回に続きます)
常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その2)
前回からの続きです。 場所の地図をもう一度出しておきます。


1、久慈郡郡衙
郡衙の場所は確定されていないが、有力な場所として、常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡辺りではないかとされています。この遺跡からは古代の郡寺と考えられる久(慈)寺の跡が見つかっています。平成7年に発掘調査がされ、平成9年3月に報告書が発行されています。
長者遺跡全景(真ん中の溝部がトレンチ跡) 出土した瓦
2、久慈理丘(中野丘陵)
久慈郡の名前の由来となったというクジラに似た丘:
風土記の逸文に「常陸国久慈理岳云ヲカ(岳)アリ。其ヲカ(岳)のスガタ、鯢鯨ニタルユエニカク云ヘリト云々。俗語鯨ヲ謂テ久慈理ト為スト云ヘリ」とあるという(角川 地名大辞典)
現在は金砂郷町(現常陸太田市)中野の丘陵地をさすという。
中野は金砂地区の最南端です。

中野丘陵:長さは南北約700m、東西最大約500m、標高は約50m
3、河内(かわち)の里
昔猿の鳴き声で「ここ=古々」の村といわれ、それが河内になったという。
ただ茨城北部には河内と書いて、「ガチ」「ゴウド」「カワチ」と様々な読みをする地があります。
ここでは「ここ=河内カワチ」であり、旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。
4、谷合山
大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に藤原鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典には久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないと書かれている。
ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。
5、石鏡
この鏡のような石は現在常陸大宮市照山1578(生井沢(なまいさわ)村)に「鏡石」別名「月鏡石」と呼ばれる岩がある。

地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、鏡肌のような面を持つ岩を言うという。
ただ、この岩が風土記記載の岩かどうか確定はされていない。
6、石門(山田の里)
山田川の岸にあるという石の門(石門:いわと)
場所は、:常陸太田市岩手町あたり?(親沢池親水公園が近くにあります)
7、静織の里・・・静神社: 常陸国二の宮
佐竹寺の前の道を瓜連(うりづら)方面に行けばすぐである。
地図を調べて見るとこの場所は、那珂川沿いにあり粟や阿波山などの地域とは川を挟んだ反対側にある。
やはりかなり昔から人が住んでいたものと考えられる。
静神社のホームページを見ると、
「かつて、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑(いんしん:活気があってにぎやか)をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。」と書かれている。
一般に水戸城下から福島県の棚倉を結ぶ「棚倉街道」は今の国道118号線(常陸大宮を通る)と、もう一つ国道349号線(常陸太田を通る)の2つのルートがある。
この静地区は国道118号線に近い。この道は水郡線に沿った道で、袋田の滝へ向かう道でもある。
倭文は「しず」「しどり」「しずり」などと読み、古代の織物のことで、静織=倭文 からこの神社の名前になったと考えられる。
祭神は初めて機織をしたという「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀る。
ただこれも最初は「手力雄命」を祀っていたという。

社殿入口の「神門」(唐門)
静神社の創建は明らかではなく、鹿島神宮に次ぐ常陸国二の宮として有名で、特に水戸藩の祈願所と定められ繁栄した。
例祭は4月2日で、国宝の銅印(奈良時代末期の作)が保管されている。
その銅印は「静神宮印」となっており、神宮としての格式があったのかもしれない。
織姫像 本殿
この里が昔から「静織(しおり)の里」と呼ばれ、初めて織物が織られたと伝えられていることから、唐門の手前左側にこの「織姫像」が置かれている。
東京織物卸商業組合が寄進したものという。
常陸国には古い養蚕の神社も多く、全国の養蚕神社の基になっている。
この静神社は江戸時代に水戸藩の祈願所となり、徳川光圀が、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、神社とし、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営したという。
しかし、これらの社殿は、天保十二年(1841年)火によって焼失し、多くの神宝、古文書等も失ってしまった。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭によって再建されたものだという。
杉の御神木は、天保の火災で枯れてしまったが、その前までは”千度杉”と呼ばれ、願い事をして、木の周囲を千回回る習慣があったそうです。
8、「玉川」:今もこの名の川が静地区の北を流れ、久慈川に注いでいる。
この玉川からは、昔はメノウが採れたという。
現在も久慈川に注ぐ玉川のや久慈川ではメノウ(瑪瑙)がとれ、江戸時代も久慈川流域の玉髄(メオウ)は「水戸火打ち」として江戸の火打石として最高級として珍重されました。
今でも玉川の近辺で時々見つかるらしく、昔はかなりたくさん採れたようです。
火をおこすのは火打石を鉄などの受け台にこすりつけて火花を飛ばすのですが、火打石を二つをこすりつけるだけでは火花は出ないそうです。
それにしてもこの近辺には金鉱や錫高野なる地名もあるので錫も採れたのだろうと思う。
9、大伴の村:現常陸太田市と思われるが詳細地は不明となっているが、新編常陸によれば、金砂郷村(現常陸太田市)赤土町(西金砂地区)とされ、古代大伴村と云ったが淳和天皇(786~840年)の諱(いみな)が大伴であったので土の色から赤土村に改名したという説を載せている。
10、長幡部の社: 常陸太田周辺には西山荘、佐竹寺、静神社など有名なところも多くありますが、この太田の地には「長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」という機織りの神社(古社)があります。
ここの織物は、静神社に祀られている織物(静織=倭文)とはまた別の織物があって、これは「とても丈夫なので剣でも切れないほどだ」というのです。
また、その織物の伝来について、初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったと書かれています。
まずこの神社へ行ってみると、ここは常陸太田市街地の東側を流れる「里川」のすぐ近くであり、川を越えてすぐのところにありました。
手前の幼稚園の裏手に公民館があり、そこに車を止めて、住宅地の間を抜けて神社の入口に到着した。
すると、左右にものすごい切りとおしがあり、その間の石段を登って行きます。

鎌倉にも切り通しはあるが、この入口もかなり壁が削られている。
切り通しを登りきると開けた原に出て、右手に鳥居と神社が見えてくる。

なかなか古めかしい感じの神社です。
さて、長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してきます。部(べ)は長幡を織る人達という意味と思われます。
長幡は後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれていました。
静神社は倭文(しず)織で、この長幡(ながはた)は紬の原型だというのですが、問題は、この長幡を伝えた先祖について、「綺日女(かむはたひめ)の命が、最初に筑紫の日向に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後に長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。」と伝えられています。
日向(ひゅうが)は宮崎でしょうからここは置いておくにしても、この美濃国の「引津根の丘」とはどこでしょうか?
調べてもあまりはっきりとしたことがわかりません。
しかし、美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社があることがわかりました。
行ったことは無いのですが、この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれているそうです。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っていて、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたと思われます。
この引常明神の由来を調べると「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」と書かれていました。
この引常神社はこの南宮大社に合祀されたもので、どうも近くの何処になるのかはっきりした資料はありません。
しかし南宮大社の東側に「綾戸」「表佐(おさ)」などの地名があり、この辺りと考えられます。
昔はこの近くまで海がきていて、この辺りが少し丘になっていたので、引津根の丘と呼ばれたのでしょう。
この織物を伝えたのはどんな氏族だったのでしょうか?
興味はありますが、はっきりしません。
渡来人といわれる「秦氏」の氏族なのかもしれません。
長幡部神社の本殿 神社の入口に展示室
この展示室の中に機織りの機械などが置かれていました。
お祭りなどで披露するのでしょうか。
ほこりをかぶっていますので、あまり使われてはいないようです。
岐阜や愛知は機織りが盛んで、今でも多くの地名が残っています。
トヨタ自動車のある愛知県豊田市は元々の地名は「挙母(ころも)」と言う地名でした。
それが、豊田自動織機製作所ができ、その中に1933年自動車部が誕生したのですが、これが自動車の売り上げが伸び1959年に「豊田市」に名前が変わってしまいました。
この挙母(ころも)は衣のことで「許呂母」とも書いていたようです。
もともと生糸の町であったのですが、世界のトヨタに名前まで変わってしまいました。
1000年以上前からの歴史が忘れ去られていくようですね。
この長幡部神社についても常陸太田市のホームページなどをみても扱いがほとんどなく、歴史が泣いているように思ってしまいました。
この神社のすぐ近くに幼稚園があり、その裏手に公民館があります。
その公民館の隣に「機初(はたそめ)小学校跡地」の碑が置かれていました。
現在の機初小学校はこの神社から1kmくらい北に移ったようです。
この地域全体が「はたそめ」と呼ばれています。
11、薩都の里:薩都神社、松沢の地遺称地
常陸太田から北方面を散策していて、久慈郡の古い神社「薩都神社」にたどり着きました。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。
近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。

県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。
でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」とあり、延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。
久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。
説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。
常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。
ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。
また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。
勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。
神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。
昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。
里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。
その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。
神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。
その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。
鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」とあり、これを纏めると
・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。
・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。
・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。
・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。
(次回に続く)


1、久慈郡郡衙
郡衙の場所は確定されていないが、有力な場所として、常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡辺りではないかとされています。この遺跡からは古代の郡寺と考えられる久(慈)寺の跡が見つかっています。平成7年に発掘調査がされ、平成9年3月に報告書が発行されています。


長者遺跡全景(真ん中の溝部がトレンチ跡) 出土した瓦
2、久慈理丘(中野丘陵)
久慈郡の名前の由来となったというクジラに似た丘:
風土記の逸文に「常陸国久慈理岳云ヲカ(岳)アリ。其ヲカ(岳)のスガタ、鯢鯨ニタルユエニカク云ヘリト云々。俗語鯨ヲ謂テ久慈理ト為スト云ヘリ」とあるという(角川 地名大辞典)
現在は金砂郷町(現常陸太田市)中野の丘陵地をさすという。
中野は金砂地区の最南端です。

中野丘陵:長さは南北約700m、東西最大約500m、標高は約50m
3、河内(かわち)の里
昔猿の鳴き声で「ここ=古々」の村といわれ、それが河内になったという。
ただ茨城北部には河内と書いて、「ガチ」「ゴウド」「カワチ」と様々な読みをする地があります。
ここでは「ここ=河内カワチ」であり、旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。
4、谷合山
大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に藤原鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典には久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないと書かれている。
ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。
5、石鏡
この鏡のような石は現在常陸大宮市照山1578(生井沢(なまいさわ)村)に「鏡石」別名「月鏡石」と呼ばれる岩がある。

地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、鏡肌のような面を持つ岩を言うという。
ただ、この岩が風土記記載の岩かどうか確定はされていない。
6、石門(山田の里)
山田川の岸にあるという石の門(石門:いわと)
場所は、:常陸太田市岩手町あたり?(親沢池親水公園が近くにあります)
7、静織の里・・・静神社: 常陸国二の宮
佐竹寺の前の道を瓜連(うりづら)方面に行けばすぐである。
地図を調べて見るとこの場所は、那珂川沿いにあり粟や阿波山などの地域とは川を挟んだ反対側にある。
やはりかなり昔から人が住んでいたものと考えられる。
静神社のホームページを見ると、
「かつて、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑(いんしん:活気があってにぎやか)をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。」と書かれている。
一般に水戸城下から福島県の棚倉を結ぶ「棚倉街道」は今の国道118号線(常陸大宮を通る)と、もう一つ国道349号線(常陸太田を通る)の2つのルートがある。
この静地区は国道118号線に近い。この道は水郡線に沿った道で、袋田の滝へ向かう道でもある。
倭文は「しず」「しどり」「しずり」などと読み、古代の織物のことで、静織=倭文 からこの神社の名前になったと考えられる。
祭神は初めて機織をしたという「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀る。
ただこれも最初は「手力雄命」を祀っていたという。


社殿入口の「神門」(唐門)
静神社の創建は明らかではなく、鹿島神宮に次ぐ常陸国二の宮として有名で、特に水戸藩の祈願所と定められ繁栄した。
例祭は4月2日で、国宝の銅印(奈良時代末期の作)が保管されている。
その銅印は「静神宮印」となっており、神宮としての格式があったのかもしれない。


織姫像 本殿
この里が昔から「静織(しおり)の里」と呼ばれ、初めて織物が織られたと伝えられていることから、唐門の手前左側にこの「織姫像」が置かれている。
東京織物卸商業組合が寄進したものという。
常陸国には古い養蚕の神社も多く、全国の養蚕神社の基になっている。
この静神社は江戸時代に水戸藩の祈願所となり、徳川光圀が、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、神社とし、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営したという。
しかし、これらの社殿は、天保十二年(1841年)火によって焼失し、多くの神宝、古文書等も失ってしまった。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭によって再建されたものだという。
杉の御神木は、天保の火災で枯れてしまったが、その前までは”千度杉”と呼ばれ、願い事をして、木の周囲を千回回る習慣があったそうです。
8、「玉川」:今もこの名の川が静地区の北を流れ、久慈川に注いでいる。
この玉川からは、昔はメノウが採れたという。
現在も久慈川に注ぐ玉川のや久慈川ではメノウ(瑪瑙)がとれ、江戸時代も久慈川流域の玉髄(メオウ)は「水戸火打ち」として江戸の火打石として最高級として珍重されました。
今でも玉川の近辺で時々見つかるらしく、昔はかなりたくさん採れたようです。
火をおこすのは火打石を鉄などの受け台にこすりつけて火花を飛ばすのですが、火打石を二つをこすりつけるだけでは火花は出ないそうです。
それにしてもこの近辺には金鉱や錫高野なる地名もあるので錫も採れたのだろうと思う。
9、大伴の村:現常陸太田市と思われるが詳細地は不明となっているが、新編常陸によれば、金砂郷村(現常陸太田市)赤土町(西金砂地区)とされ、古代大伴村と云ったが淳和天皇(786~840年)の諱(いみな)が大伴であったので土の色から赤土村に改名したという説を載せている。
10、長幡部の社: 常陸太田周辺には西山荘、佐竹寺、静神社など有名なところも多くありますが、この太田の地には「長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」という機織りの神社(古社)があります。
ここの織物は、静神社に祀られている織物(静織=倭文)とはまた別の織物があって、これは「とても丈夫なので剣でも切れないほどだ」というのです。
また、その織物の伝来について、初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったと書かれています。
まずこの神社へ行ってみると、ここは常陸太田市街地の東側を流れる「里川」のすぐ近くであり、川を越えてすぐのところにありました。
手前の幼稚園の裏手に公民館があり、そこに車を止めて、住宅地の間を抜けて神社の入口に到着した。
すると、左右にものすごい切りとおしがあり、その間の石段を登って行きます。

鎌倉にも切り通しはあるが、この入口もかなり壁が削られている。
切り通しを登りきると開けた原に出て、右手に鳥居と神社が見えてくる。

なかなか古めかしい感じの神社です。
さて、長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してきます。部(べ)は長幡を織る人達という意味と思われます。
長幡は後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれていました。
静神社は倭文(しず)織で、この長幡(ながはた)は紬の原型だというのですが、問題は、この長幡を伝えた先祖について、「綺日女(かむはたひめ)の命が、最初に筑紫の日向に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後に長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。」と伝えられています。
日向(ひゅうが)は宮崎でしょうからここは置いておくにしても、この美濃国の「引津根の丘」とはどこでしょうか?
調べてもあまりはっきりとしたことがわかりません。
しかし、美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社があることがわかりました。
行ったことは無いのですが、この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれているそうです。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っていて、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたと思われます。
この引常明神の由来を調べると「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」と書かれていました。
この引常神社はこの南宮大社に合祀されたもので、どうも近くの何処になるのかはっきりした資料はありません。
しかし南宮大社の東側に「綾戸」「表佐(おさ)」などの地名があり、この辺りと考えられます。
昔はこの近くまで海がきていて、この辺りが少し丘になっていたので、引津根の丘と呼ばれたのでしょう。
この織物を伝えたのはどんな氏族だったのでしょうか?
興味はありますが、はっきりしません。
渡来人といわれる「秦氏」の氏族なのかもしれません。


長幡部神社の本殿 神社の入口に展示室
この展示室の中に機織りの機械などが置かれていました。
お祭りなどで披露するのでしょうか。
ほこりをかぶっていますので、あまり使われてはいないようです。
岐阜や愛知は機織りが盛んで、今でも多くの地名が残っています。
トヨタ自動車のある愛知県豊田市は元々の地名は「挙母(ころも)」と言う地名でした。
それが、豊田自動織機製作所ができ、その中に1933年自動車部が誕生したのですが、これが自動車の売り上げが伸び1959年に「豊田市」に名前が変わってしまいました。
この挙母(ころも)は衣のことで「許呂母」とも書いていたようです。
もともと生糸の町であったのですが、世界のトヨタに名前まで変わってしまいました。
1000年以上前からの歴史が忘れ去られていくようですね。
この長幡部神社についても常陸太田市のホームページなどをみても扱いがほとんどなく、歴史が泣いているように思ってしまいました。
この神社のすぐ近くに幼稚園があり、その裏手に公民館があります。
その公民館の隣に「機初(はたそめ)小学校跡地」の碑が置かれていました。
現在の機初小学校はこの神社から1kmくらい北に移ったようです。
この地域全体が「はたそめ」と呼ばれています。
11、薩都の里:薩都神社、松沢の地遺称地
常陸太田から北方面を散策していて、久慈郡の古い神社「薩都神社」にたどり着きました。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。
近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。
この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。


県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。
でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」とあり、延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。
久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。
説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。
常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。
ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。
また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。
勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。
神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。
昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。
里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。
その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。
神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。
その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。
鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」とあり、これを纏めると
・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。
・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。
・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。
・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。
(次回に続く)