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久し振りに昔の友達ちに会いに東京へ

 毎年12月は学生時代の友人たちと東京で飲み会をやっている。
もうかれこれ15年以上続いている。 

そのため東京や銀座などの夜のイルミネーションを毎年のように見て来ている。
人ごみはどんどん苦手になってきて、若い人が多くて元気があるのは良いのだがあまり長くいると息苦しい気もする。

石岡からは高速バスが出ているので便利だ。
休日はバスに揺られてウトウトしていれば東京駅に着く。
去年まで土曜日も平日と同じで朝倉と上野経由だったが、今年は直接高速のままで東京駅(日本橋口)に1時間くらいでついてしまう。

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東京駅の中に入り八重洲側に通路を歩いていたが、トイレに立ち寄るために地下に下りた。
お店がたくさんあり何度もこの地化も来ているが、そこには人の波が一杯だ。
トイレも女性用は長蛇の列。
地下の屋根はあまり高くないが、そこには無数のイルミネーションが覆っていた。

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会合場所は日本橋であったので、八重洲の北口からそちらに向かうが、まだ時間が早かったので、丸善書店と高島屋へ行ってみた。

今年も店のウィンドウにはいろいろな飾り付けがされていた。
それに外にボタンがありタッチすると動く仕掛けもされていて、小さな子供たちが喜んでいた。

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デパートの1階は化粧品売り場などと代替は決まっているが、正面入ったところにきらきら輝いた回転木馬が回っていた。

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馬に乗れるのは小学生以下で、小さい子供は親が脇についていなければいけないようだが、これも親子連れが並んでいた。
なにか今年は子供連れが増えている気がする。

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夕方暗くなってきて「日本橋さくら通り」に一斉にイルミネーションが点った。
時間は5時半だ。

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近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/10 06:45

石岡地方のよもやま話(その12)-柿岡サーカス

 柿岡曲馬団というサーカス団が昔あった。
名前の通り馬などをつかって曲芸をしたりするサーカス団で人気を博していた。

そのサーカスの団長であった柿岡春二郎の墓が石岡市柿岡の善慶寺(曹洞宗 禅寺)にある。

昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
木下サーカスやキグレサーカスや、モスクワのボリショイサーカスなどが年配者には懐かしく思われるだろうと思う。

 その中でこの柿岡曲馬団は明治時代後期から昭和初期まで人気の大きなサーカス団でした。

柿岡と名前がついていますが、本名は荒川春二郎です。
この柿岡の地にお墓があるので、この地の人かと思うと、これは少し違うようです。

春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来ました。 当時多くの会津人が青森に逃れてきたといいます。
一家は貧しく、春二郎は、若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。

そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になりました。

 大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。

出し物は、「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などです。
当時の写真絵葉書などに「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」などのものがあります。

大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップが柿岡曲馬の名前となっています。

 柿岡春二郎は大正三年に分家して、現石岡市の柿岡に戸籍を移します。
柿岡曲馬団という名前は前から使っていましたので、同じ地名のこの地に縁を感じていたのかもしれません。

しかし主に住んでいたのは宇都宮だったといいます。
ただ、吉生(よしう)から養女をもらい、一座はほぼ活動は終わっていた戦後になってこの柿岡に移ってきました。

昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石です。

この善慶寺は柿岡城跡に建つ柿岡小学校のすぐ隣にあります。
このお寺は、1590年に佐竹氏族の長倉氏(長倉義興)が、常陸大宮市の長倉城から柿岡城に移ってきたときに、やはり長倉にあった善慶寺がこちらに移ってきたといわれています。
現在長倉(御前山と那珂川を挟んで反対側)のその寺のあった場所には「蒼泉寺」というお寺が建っています。

しかし、この長倉義興(よしおき)は些細なことで佐竹義宣に逆らい、慶長4年(1599)常陸太田の正宗寺に幽閉され、1600年4月に死んだが、その死因は毒殺された可能性があるとされます。

これにより柿岡の長倉氏は滅んでしまいましたが、同じ年に、佐竹義宣も家康により出羽石(秋田)へ転封になってしまいました。

このように柿岡も佐竹氏系の長倉氏が治めていた期間は短い(10年)のですが、現在の柿岡のお祭「八坂神社の祇園祭」はこの長倉義興が始めたものだといわれています。

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(サーカス集団「柿岡曲馬団」の柿岡春二郎の墓:亀の背に乗っている)

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(善慶寺)



石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/09 05:07

石岡地方のよもやま話(その11)-太田三楽斎、秀吉を怒らせる。

 太田三楽斎(資正:すけまさ)は戦国末期に石岡の片野・根小屋地区にある「片野城」の城主であった。
いまでもこの地にて行われている「排禍ばやし」という祭りは、この三楽斎が禍を取り払うために始めたという。

しかし、この戦国武将のことは、石岡や八郷地区の地元の人々の間であまり話題にならない。

戦国武将としては大きな城は取れなかったし、攻め取った埼玉県の岩付城も息子に裏切られて城から追い出されてしまった武将である。

しかし、これも義に篤く、越後の上杉氏、直江兼続などとの信を貫き、北条氏と対抗したことによる。

行き場を失った山楽斎を北条氏と対抗していた佐竹氏が拾い上げて、常陸で勢力争いをしていた小田氏と対抗するための要所となった片野城へ入れた。

そして見事に手這坂で小田軍を打ち負かす大活躍をした。
この戦いで小田氏は小田城をも攻略され、佐竹氏に奪われてしまった。

やはり、北条氏との覇権争いで、味方となる兵を大勢集めて大軍で小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に呼ばれて、三楽斎は秀吉に会いに行った。

秀吉に接見した時の話は、元禄年間に書かれた軍記物「奥羽永慶軍記」に詳しく書かれている。

秀吉はこの常州片野の住太田三楽斎について、東国に隠れなき武勇の老武者であり、天下広しと言えどもいまだに城が採れていないのは不思議だと言った。

そして、今の小田原城攻めのことを聞かれて、三楽斎は天下人の秀吉に対し、臆することなく自分の考えを次のように言った。

「この小田原城は一方を荒海に面し、三方は山に囲まれており攻めるには困難な名城である。またこの城を築いた北条氏康も地の利を得ており、氏康・氏政親子二代の間に関八州の内の5か国を味方につけている。この城に立て籠もって、中の軍勢が5~6万にいてもこれから先10年は困らないくらいの兵糧を貯めているだろう。
今のような多勢での力攻めでは、この城を攻略することは到底かなわない。 ここは計略をもって、攻め取るのがよろしい。」
と今の城攻めに注文を付けたのです。

すると、秀吉は途端に機嫌が悪くなり、「三楽斎はこの数年北条と戦い、負け続けた。その時から臆病神に取り付かれてしまったようだ」といい、三楽斎はその場を去り、隣りの陣にいた石田三成、増田長盛にむかって次のように言った。

「今殿下に小田原攻めについて尋ねられたので、愚案を申し上げたところだ。 この三楽は確かにここ数年北条と相戦ってきたが、その武功は他の者たちと比べて決して劣ることなどない。この小田原城を計略なくしてして攻め落とすことができたならこの入道(三楽斎)の命を懸けても良い。 今私の評判がこのように損ねているようだが、これも卑怯なことは何一つしていない。天運が尽き、敵に領土を奪われて、今かかる不詳の身となってしまったのは面目ないことだ」

この小田原城攻めは、その後三楽斎の言うとおり計略で落ちた。 

軍記にはこのようなことが記されていますが、この三楽斎がこの時に片野の小さな城にいたのです。
これだけの知将と言われていますが、自身でいったように義に篤く、上杉家との恩を最後まで裏切ることはなかったといわれています。

大掾(だいじょう)氏の本拠城である府中城が佐竹氏によって攻め落とされたとき(1590年)、この三楽斎はこの片野城にいました。
しかし、その前に、この大掾氏との間でも血縁関係もありあまり目立つ戦いは仕掛けていません。

府中城が落ちた後、佐竹氏はこの城を三楽斎に預けようとしたといいます。
しかし、三楽斎はもう老骨の出る幕ではないとしてこれを固辞したのです。
結果、府中城は佐竹義重の弟の佐竹義尚(よしひさ)に預けられました。
三楽斎はこの翌年静かにこの片野で亡くなりました。

太田三楽斎(資正)は太田道灌の曾孫といわれています。
また日本で初めて軍用犬と呼ばれる「三楽犬」を使った事でも知られます。

いまでも片野地区の山の中に片野城の跡とこの三楽斎の墓と言われる五輪塔が眠ったようにあります。

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石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/07 09:01

石岡地方のよもやま話(その10)-八郷盆地

八郷地区はこのあたりでは珍しい山に囲まれた盆地のような地形をしています。

昔は山根地区と言っていました。

最近つくば山系のジオパーク登録によってこの地域の地図が国土地理院から発売されました。
鳥瞰図的な地図で、この地域の特徴がよくあらわされています。

まるで火山の火口のカルデラ湖のようなです。

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いったいこの地形はどのようにしてできたのでしょうか。

ジオパークの説明では
八溝山地の南端部をなす筑波山地は深成岩体が地の変動によって隆起し、深成岩の上の地層もそのまま一緒に隆起し、その隆起の後に、この地形が河川によって浸食されたものだそうです。

八郷盆地は大きく分けて3段の高さに分かれています。
標高50~70mの上層部、27~45mの中層部、12~28mの低層部です。この下層部は恋瀬川の沖積低地です。
大昔は竜神山や富士山などの岩石は筑波山系の岩石と同じかなり古い岩石で、このあたりに海が入り込んでいた時代にはこの竜神山や富士山は島だったと考えられています。

そして、柿岡地区には昔大きな湖(柿岡湖)があったといわれています。
そして恋瀬川の柿岡湖の出口には滝があり、その滝が崩れて現在の平野になったとも言われています。

ただこれも何時頃のことかはっきりしませんが、このようなことを考えて、この地形図をながめてみるのも良いでしょう。

八郷盆地の山の麓は良く朝霧が発生します。
幻想的な風景が今も見られるのはこのような特異な地形が関係しているのでしょう。

八郷盆地では、放射冷却により発生した冷気が滞留し,霧が発生し、その霧が筑波山に添って流れていきます。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/04 20:43

歴史っていったい何か?

歴史っていったい何か?

企業の定年が間際に迫ってきた頃から、地元の埋もれた歴史に関する記事などをブログのテーマにしているが、いまだにこの「歴史」ということがわからない。
私は元々理系人間で中学生の頃から学校での歴史授業は好きではなかった。
暗記すべき年代や人物名などがたくさんあり、これを覚えなければテストでは良い点数が採れない。受験勉強のためにやむなく勉強したに過ぎない。特に途中からは世界史の専攻になったので、日本史はいまだにチンプンカンプンだ。
今思えばこの歴史授業がどこかおかしいのだという気がしてならない。
こんな名前や年代などは調べればわかることであり覚えなくてもよいのではないかと思う。
「歴史(れきし)」は「暦史(れきし)」であり、大昔は「暦(こよみ)」の記録に過ぎない。
中国の「史記」が歴史書のはじめといわれるように「史」そのものに現在でいう「歴史」の意味があったという。
しかし、歴史学なるものが出来て、また「歴史認識」などというわけのわからない言葉に置き換えられ、益々混迷してしまっている。
自分の都合の良いように歴史の事柄を変えたり、追加したり、無視したりする時の権力者や歴史家と称する人が大昔から現在まで数多く存在し、教科書などもどこまで信用してよいのかまったく見当も付かない。
また、国家レベルでも、どこの国も自国の都合の良いようにしたがる。
地方で言えば、市史や行政の説明看板、パンフレット、ちらし、ホームページなどに書かれていれば全て事実と思いがちになる。異なった事実が明らかになっても、行政や有名な教育者の話などが先にあれば正しいと思い込む。特に読み手の都合の良いことだけを信じようとする。書かれている事柄の自分なりの検証をすることをしない。
最近この地方の「よもやま話」などを書き始めたが、どうにも筆が進まない。
まあでもこの地に来て12年ほどになる新参者ではあるが、この間に知り得たことを少しでも残しておけば後の世に何か役に立つのではないかと思う。当然私の書いているものもどこかで事実を捻じ曲げられた事柄にすぎないものもあるかもしれないが・・・・。

つらつら思うこと | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/04 13:26
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