井上神社(行方市)
先日銚子へ行く途中で少し別なところへ行ってみたいと玉造市内で355号線の方へ曲がった。
適当に見当をつけていたのだが、どうも目標をだいぶそれてしまったようだ。
今、ナビも使わずに地図を頭に入れてみもせずに感のみで走ると良くこんなことがある。
しかし、ナビに頼ると、どうも途中の地形などが頭に入らないし、次に行く時もナビに頼る事になり、周りが記憶に残らない。
そんな言い訳はどうでもよいが、諦めて湖畔よりの国道へ戻ろうとしていたら古めかしい神社に遭遇した。
「井上神社」と書いてある。
ここは昔に確か訪れた事がある。
ヤマトタケル伝説の残る「玉清井」の上のほうにある神社だから「井上神社」であると、頭に入れていた神社だ。
前に訪れてはいるが、少し気を引き締めてお参りして行く事にした。
入口に大きな石柱に「井上神社」とかかれており、鳥居がある。
拝殿までの途中に2組の新旧の狛犬が置かれている。

あらためて、教育委員会の掲げている説明板を読んでみた。

「あららら・・・・」
こんな事が書かれていたのだ。
昔も同じ文面を読んだはずなのだが。
今は「何故??」とつい思ってしまった。
祭神が初期から途中で変わっているではないか。
初期は「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=山幸彦」 と「鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)=山幸彦と豊玉姫の子供」 である。
千葉県側には結構このような神は多く祭られているが、茨城県側には少ないように思う。
これも九州海人族が影響しているのだろう。
しかし、五穀豊穣を願ってか、「誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇」と「魂命(うかのみたまのみこと)=穀物の神(女)」を合祀したという。
なかなか意味深でもある。

適当に見当をつけていたのだが、どうも目標をだいぶそれてしまったようだ。
今、ナビも使わずに地図を頭に入れてみもせずに感のみで走ると良くこんなことがある。
しかし、ナビに頼ると、どうも途中の地形などが頭に入らないし、次に行く時もナビに頼る事になり、周りが記憶に残らない。
そんな言い訳はどうでもよいが、諦めて湖畔よりの国道へ戻ろうとしていたら古めかしい神社に遭遇した。
「井上神社」と書いてある。
ここは昔に確か訪れた事がある。
ヤマトタケル伝説の残る「玉清井」の上のほうにある神社だから「井上神社」であると、頭に入れていた神社だ。
前に訪れてはいるが、少し気を引き締めてお参りして行く事にした。
入口に大きな石柱に「井上神社」とかかれており、鳥居がある。
拝殿までの途中に2組の新旧の狛犬が置かれている。

あらためて、教育委員会の掲げている説明板を読んでみた。

「あららら・・・・」
こんな事が書かれていたのだ。
昔も同じ文面を読んだはずなのだが。
今は「何故??」とつい思ってしまった。
祭神が初期から途中で変わっているではないか。
初期は「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=山幸彦」 と「鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)=山幸彦と豊玉姫の子供」 である。
千葉県側には結構このような神は多く祭られているが、茨城県側には少ないように思う。
これも九州海人族が影響しているのだろう。
しかし、五穀豊穣を願ってか、「誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇」と「魂命(うかのみたまのみこと)=穀物の神(女)」を合祀したという。
なかなか意味深でもある。

ほのぼのとした絵に癒されて
この週末は少し忙しかった。
しかも急激に暑くなり、どうも睡眠不足です。
土曜日は八郷(青柳地区)の古民家で開かれたトークイベントの講師をたのまれて、2時間の予定が時間オーバー。
あっという間に時間が過ぎてしまいました。
テーマは地元「石岡の歴史を訪ねて」とのことでしたが、大昔のはなしと、近世の産業や街並みに話を絞ってお話しさせていただきました。
古民家はクーラーが無くても結構涼しいのですが、多くの人に集まっていただいたこともあり、結構暑かったかもしれません。
いろいろな方にお集りいただきましたので、これを機会にもしこられた方がおられましたら、このブログに感想やご意見いただけたらうれしく思います。
日曜日は、知り合いの方が絵の展示会をお寺の本堂を借りて開催されていましたので、出かけました。
展示会は本日(6/27)の夕方5時までです。
場所は小美玉市の旧玉里地区にある浄土宗、(雷電山)照光寺さんです。
とても素敵な絵が展示されていて、作者の小池恵子(やすこ)さんが、長い間、多くの子供達と接してこられた優しい目線が感じられる作品ばかりでした。



しかも急激に暑くなり、どうも睡眠不足です。
土曜日は八郷(青柳地区)の古民家で開かれたトークイベントの講師をたのまれて、2時間の予定が時間オーバー。
あっという間に時間が過ぎてしまいました。
テーマは地元「石岡の歴史を訪ねて」とのことでしたが、大昔のはなしと、近世の産業や街並みに話を絞ってお話しさせていただきました。
古民家はクーラーが無くても結構涼しいのですが、多くの人に集まっていただいたこともあり、結構暑かったかもしれません。
いろいろな方にお集りいただきましたので、これを機会にもしこられた方がおられましたら、このブログに感想やご意見いただけたらうれしく思います。
日曜日は、知り合いの方が絵の展示会をお寺の本堂を借りて開催されていましたので、出かけました。
展示会は本日(6/27)の夕方5時までです。
場所は小美玉市の旧玉里地区にある浄土宗、(雷電山)照光寺さんです。
とても素敵な絵が展示されていて、作者の小池恵子(やすこ)さんが、長い間、多くの子供達と接してこられた優しい目線が感じられる作品ばかりでした。



潮来のつるし雛
潮来の前川あやめ園のある「大門河岸」から古刹「長勝寺」までは、真っ直ぐ道はつながっており、歩いてもわずかな距離である。
アヤメ末期間中にここを通ると沿道の家々の玄関先にかわいいつるし雛が飾られ、どこかホッコリとして気持ちが和んでくる。
これはもう何年か前から続いている。
沿道のお家の皆さんは庭の花などの手入れも怠らず、皆さん頑張っておられるな~と感心して眺めている。

シャッターは閉まっていてもこうしてつるし雛はあたりを明るくしている。
この写真の奥突き当りが前川で、あやめ祭り会場でにぎやかなのだが、こちら側は思ったより静かだ。

こんな道が続く。
この左手のお魚屋さんでは毎年大きなカメが水盥に入れられていたが、ここ1~2年は見かけなくなった。

一般の語家庭も玄関にこうして飾られている。


道の辻にあるお店は菖蒲と共につるし雛もあり、結構にあっていて素敵だ。

アヤメ末期間中にここを通ると沿道の家々の玄関先にかわいいつるし雛が飾られ、どこかホッコリとして気持ちが和んでくる。
これはもう何年か前から続いている。
沿道のお家の皆さんは庭の花などの手入れも怠らず、皆さん頑張っておられるな~と感心して眺めている。

シャッターは閉まっていてもこうしてつるし雛はあたりを明るくしている。
この写真の奥突き当りが前川で、あやめ祭り会場でにぎやかなのだが、こちら側は思ったより静かだ。

こんな道が続く。
この左手のお魚屋さんでは毎年大きなカメが水盥に入れられていたが、ここ1~2年は見かけなくなった。

一般の語家庭も玄関にこうして飾られている。


道の辻にあるお店は菖蒲と共につるし雛もあり、結構にあっていて素敵だ。

橘郷造神社へ
行方市羽生にある「橘郷造神社」の脇を、先日通りかかったので立ち寄りました。
この神社もこのブログを始めた頃から何度も立ち寄っています。
そしていくつもの変化を記録してきました。

国道355号線沿いにある「羽生郵便局」から茨城空港へ向かう道路沿いに、この神社は建っています。

木々の続く参道の先に神社の鳥居と奥に拝殿が見えます。
隣りの道路が拡張され、寂しくはなりましたが、参道の木は何とか無事に葉を伸ばしていました。

ただこの道路側の入り口にあった宮地さんの作られた「弟橘姫の像」は盗難にあってから、その姿を見ることはありません。

羽生に伝わる東京湾でヤマトタケルを助けるために入水した弟橘姫伝説、その笄(こうがい)がここに流れ着いたという伝説。
羽生の地名、立花(橘)の地名、いろいろな話が残る「橘郷」
橘の木を植えて、実がなり、万葉歌碑などをどこかにまとめて、昔の物語を聞かせていただける場所などがあっても良いのではないか? などとつい考えてしまいます。
『 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする 』
(古今和歌集、詠み人知らず)
以前の記事
・弟橘姫の神社-橘郷造神社(2011/07/28)⇒ こちら
・このように歴史は消えていく?(2011/12/06) ⇒ こちら
・橘郷造神社(2017/02/24 ) ⇒ こちら
・弟橘姫の像が盗難?(2018/10/10) ⇒ こちら
・茨城の難読地名(その22)-羽生(2018/07/13) ⇒ こちら
この神社もこのブログを始めた頃から何度も立ち寄っています。
そしていくつもの変化を記録してきました。

国道355号線沿いにある「羽生郵便局」から茨城空港へ向かう道路沿いに、この神社は建っています。

木々の続く参道の先に神社の鳥居と奥に拝殿が見えます。
隣りの道路が拡張され、寂しくはなりましたが、参道の木は何とか無事に葉を伸ばしていました。

ただこの道路側の入り口にあった宮地さんの作られた「弟橘姫の像」は盗難にあってから、その姿を見ることはありません。

羽生に伝わる東京湾でヤマトタケルを助けるために入水した弟橘姫伝説、その笄(こうがい)がここに流れ着いたという伝説。
羽生の地名、立花(橘)の地名、いろいろな話が残る「橘郷」
橘の木を植えて、実がなり、万葉歌碑などをどこかにまとめて、昔の物語を聞かせていただける場所などがあっても良いのではないか? などとつい考えてしまいます。
『 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする 』
(古今和歌集、詠み人知らず)
以前の記事
・弟橘姫の神社-橘郷造神社(2011/07/28)⇒ こちら
・このように歴史は消えていく?(2011/12/06) ⇒ こちら
・橘郷造神社(2017/02/24 ) ⇒ こちら
・弟橘姫の像が盗難?(2018/10/10) ⇒ こちら
・茨城の難読地名(その22)-羽生(2018/07/13) ⇒ こちら
萬福寺(行方市)
このブログも地域に眠る歴史などと、もうかなりの数の寺などを紹介してきたので、同じところも何度か登場したりする。
今回の萬福寺も以前に紹介している。
ただ、今回はこの裏山側から回ってのアクセスだから少し感じ方も違う。
昨日紹介した「羽生館跡」の場所はこの萬福寺のある山とは地続きなので、何か関係しているのだろうと思う。
羽生館跡の看板から山を巻くように民家との間の細い道を車で通り抜けて、この寺の山門に出た。

藁ぶき屋根の山門は、仁王門で仁王像が置かれていた。
扁額は「雷電山」という山号が書かれていた。

山門をくぐると、上まで70~80段くらいの石の急な階段がある。
この石段もかなり急で、凸凹していて登りにくい。
年寄りには少し怖い感じだ。
コロナ禍での体力の衰えで、少し足元が気になる。

登り切った正面に立派な「阿弥陀堂」がある。
この中に県指定文化財の阿弥陀三尊像が安置されている。

この阿弥陀堂は江戸時代の書物で、1186年に建立されたされているようだがイマイチはっきりしない。

源平合戦の時に清盛の長男・平重盛はすでに亡くなっており、部下の平貞能が重盛の遺骨とこの阿弥陀如来三尊を持ってここに安置したとされる。
これは城里町の小松寺に伝わる話と同じ。
小松寺には墓もある。
さて、この2つの寺の関係は?
この寺もご住職が最近「橘郷」についてHPに書かれている。
もう少しじっくり調べてみないとなかなか理解できない。
橘郷は鹿島神宮の領地であり、周りの地域と少し歴史的な見方が違っていそうだ。
羽生・八木蒔・沖洲など江戸時代も水戸藩と麻生藩に挟まれながらの独立していたのだろう。
麻生藩にいた江戸の「新庄氏」の直轄領でもあったようだが・・・・
今回の萬福寺も以前に紹介している。
ただ、今回はこの裏山側から回ってのアクセスだから少し感じ方も違う。
昨日紹介した「羽生館跡」の場所はこの萬福寺のある山とは地続きなので、何か関係しているのだろうと思う。
羽生館跡の看板から山を巻くように民家との間の細い道を車で通り抜けて、この寺の山門に出た。

藁ぶき屋根の山門は、仁王門で仁王像が置かれていた。
扁額は「雷電山」という山号が書かれていた。

山門をくぐると、上まで70~80段くらいの石の急な階段がある。
この石段もかなり急で、凸凹していて登りにくい。
年寄りには少し怖い感じだ。
コロナ禍での体力の衰えで、少し足元が気になる。

登り切った正面に立派な「阿弥陀堂」がある。
この中に県指定文化財の阿弥陀三尊像が安置されている。

この阿弥陀堂は江戸時代の書物で、1186年に建立されたされているようだがイマイチはっきりしない。

源平合戦の時に清盛の長男・平重盛はすでに亡くなっており、部下の平貞能が重盛の遺骨とこの阿弥陀如来三尊を持ってここに安置したとされる。
これは城里町の小松寺に伝わる話と同じ。
小松寺には墓もある。
さて、この2つの寺の関係は?
この寺もご住職が最近「橘郷」についてHPに書かれている。
もう少しじっくり調べてみないとなかなか理解できない。
橘郷は鹿島神宮の領地であり、周りの地域と少し歴史的な見方が違っていそうだ。
羽生・八木蒔・沖洲など江戸時代も水戸藩と麻生藩に挟まれながらの独立していたのだろう。
麻生藩にいた江戸の「新庄氏」の直轄領でもあったようだが・・・・