fc2ブログ

事故は無くなるのか

以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。
2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。
10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました
  (NHKの記事 ⇒ こちら


事故は無くなるのか

さて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。
そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。

レールは常に列車の遠心力などや重力の力ではばが広がってしまうそうだ。
そこでこのレールの間隔を定期的に測って、基準値を超えたら保安作業員がこの修正をしなければならない事になっていた。
これがルールだった。

この基準値を超えた個所は当然修正しなけらばならないはずであるが、優先順位をつけて作業をしているうちに「失念してしまった」のだそうだ。

この失念と言う言葉にメディアはこぞって反応し、体質がうんぬん…と紹介し、コメンテータがいろいろとしゃべっている。
北海道と言う過酷で利益が生み出せない鉄道事業を民営化したことの弊害が出たとも。

それにしても、テレビなどでは、またかと思う反応にいささがうんざりさせられることが多い。

「失念などとはたるんでいる。人の安全を何だと思っているのかと…。教育ができていない。ベテランがいなくなって今まで守れてきた安全を維持する技や心が伝承されず、狂ってきた。」などだ。

これってどこか柔道の体罰問題とも似ている気がする。
過去の日本人は優秀だったし、規律もしっかりしていたと…。
たしかに、これは一理あるし正しいようにも思える。
でも精神論で事故が減るなんて本当に思っているのかと…。

「日本の技術は優秀で、それを守る匠がいて数値などでは測れない技量がある」といわれる。
これは確かに存在するし、この長年の技や勘のようなものが親方から弟子に伝えられて伝統が守られてきたことを否定するつもりはない。

しかし人間は弱いものである。ミスは起こるものである。
そんな匠と呼ばれる人が何処にでもいるわけではない。
世の中が豊かに平準化してくれば、どんどんそのような匠と呼ばれる人は減ってきて、人為的な不祥事や事故が増えてくる。
そんな時代にどうしたら今後同じようなミスが無くなるのか。

当然精神論やTOPの首を替えただけで無くなるものではない。
この辺りは欧米の考え方も学ぶべきだと思う。

日本人は勤勉で何でもまじめにやるが、精神論やマニュアル化したり、指差し呼称したりするだけでは事故は無くならない。

原発の事故でも実は同じような不安をおぼえる。
安全神話により、事故は起こらないとして、自分たちの都合で最悪を考えないようにしてきた。

これが今度の事故で崩れたら、今度は厳格な基準を造ってそれに合致したものは安全だと…。
これではまた事故は起こりうる。
起きた時のリスク対応が希薄になる。
政府の原発事故調査委員会に失敗学の権威をあてた。
そして報告書が作成され、去年の7月にその最終報告書がまとめられた。

全部は読んでいないが、確かに立派な報告書なのだろうが、どこか物足りなさを感じてしまった。
最後に委員長の所感が載っている。そこに書かれていた項目だけを以下に列挙してみた。

(1)あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる。
(2)見たくないものは見えない。見たいものが見える。
(3)可能な限りの想定と十分な準備をする。
(4)形を作っただけでは機能しない。仕組みは作れるが、目的は共有されない。
(5)全ては変わるのであり、変化に柔軟に対応する。
(6)危険の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る。
(7)自分の目で見て自分の頭で考え、判断・行動することが重要であることを認識し、そのような能力を涵養することが重要である。

これは確かに「失敗学」のいう「失敗から学び」、「改善して良くしていこう」と言う考え方に沿ったものだろう。
本当にこれでいいのか。原発事故などは二度とあってはならない。絶対に!

安全解析の手法は実は「FTA ,FMEA など」が欧米では中心となっている。
これはこれが故障したらどうなるかをシュミレーションして、限りなく事故を減らし、事故が起こった時の影響を最小限にすることを目指した手法である。

事故が起こる確率を限りなく0に減らすという考えは日本の風土にはどうもなかなか受け入れられないのかもしれない。
失敗が起こったらどうしようもなく、事故事例もほとんどないのだから、使われている機器一つごとの信頼性や、仕組みが安全に対してどれだけのリスクがあるかを徹底的に検証すべきなのだ。

そしてそれを絶えず検証してチェックしていくことが必要だ。
そして不安の残るところは二重三重の安全装置(計器や機器の二重化・三重化)をするべきなのだ。
しかし、このような事はあまり書かれていない。
冷却が生命線なら、電源装置を高台にもっていくだけではなく、別の系統も考慮すべきで、水冷と空冷装置などの別々な要素を組み合わせなければならない。
計器だって誤作動があるし故障もある。
でも同時に起こる確率は少ないから同じものを3個つけて2つが同時に作動すればその事象が正しいと判断する。
これで確率的にはかなり正確になる。

鉄道の脱線事故は、どちらかと言うとこの話とは違って、マニュアルはあるのに守られなかったのだから、これを人間の失念などに起因しないような仕組みに変更すればいいことだ。

失念しても必ず責任者の所にアラームが出るようにすればいいことで、何故これが人間の考え方がたるんでいたからというようになるのだろうか?

自動的に記録することができないならば、測定と記録は人間が行うのだろう。そのためのチェック機能を何らかの方法で行い、記録したら処理が完了して処置終了となる。
これには当然検査も別な人間が行うことが必要になる。
一年間も放置しても問題が現われないなどと言うことがない仕組み作りが大切だ。

これは精神論ではない。
問題を放置しても平気だった体質が問題なのは確かだが、それよりも問題が問題として認識されない仕組みを直さなければまた起こる。
失念していたのは誰なのか? 担当者であろうか?
この失念などと言う言葉も場当たり的に使っているにすぎないだろう。
日本は中国や韓国の事を笑っているようだが、まだまだ笑う資格もないお寒い国かもしれない。
もう何十年か前に品質の国際基準としてISO9001がヨーロッパから始まった頃、日本ではこの考え方が定着していなかった。

私も海外からこの規格を持っているかと問われて、最初のうちは「品質は日本のお家芸で、アメリカやヨーロッパは品質が落ちるからこんな考え方を導入して世界に広めようとしている」と本気で思っていた。

しかし、日本の製品が優秀で品質管理もしっかりしていると胡坐をかいているとこの合理的な考え
方にそのうちに抜かれてしまうかもしれないと感じる様になった。
まだ日本のJISに規定が制定される前のことだ。
PDCA(Plan-Do-Check-Act)サイクルをまわして改善を継続していくというのは理にかなったやり方で、これからの日本には必要なのである。
この合理性と日本の匠の技・勤勉性が組み合わされればこれからも日本は技術立国でやっていけるだろう。


備忘録 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/05/22 11:15

ダブルスタンダード

これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。
以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。
今から10年ほど前にもかかわらず、世界も日本も、あまり変わっていないように思われます。
アメリカのバイデン大統領も結局は自分の選挙重視の発言ですね。

ダブルスタンダード

今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。
体力が無くなって来ているせいもあろうがこんなに暑いと夏を乗り切れるか不安になる。

病院の健康診断で毎年異常値を指摘され薬も処方されているが、薬嫌いな私としては運動不足を解消すればある程度数値も良くなると期待して、7月の初めより毎朝近くのウォーキングを始めた。

今は朝5時頃から1時間くらい速足で歩きまわっているが、この時間でもたくさんの人が歩いたり犬の散歩をさせていたりする。
この早朝散歩で公園や街中の路地を歩いたりすると今まで見えなかった自然や町の姿が見えてきたりして楽しい気分にさせられることも多い。

何時も通る森でウグイスがきれいな声で縄張りを主張しているが、これも真夏が近づき日毎に、鳴き声が短くなっていくような変化を感じたり、池の蓮の花が池の周囲を廻っている三十分程の時間につぼみから開花していく様子が見えたりする。
こんな自然の変化を敏感に感じることが出来るのはまさに「早起きは三文の得」ということだろう。

また朝顔の花が早朝から咲いているが、この咲く時間には朝顔の持つ不思議な体内時計が関係しているのだと言う。
前の日の日没から丁度十時間後に花を開くという規則正しい体内時計を持っているのだそうだ。こうして鳥や花を愛でていると新たな知識が広がることに少し満足感を味わうことが出来て一石二鳥でもある。

また、街中を歩く時は普段歩いたことのない路地に入りこむ。
そうするとそこでは昭和初期から半ば頃の忘れられたような面影をよく発見する。

もうとっくの昔に閉店となり看板だけが残され、その看板に「鳩レース」の文字を見つけた。
そして「鳩レース」とはどんなものだろうと想像をたくましくし、ネットで検索すると日本では現在2カ所にしかない国際委託鳩舎が八郷地区(片野)にあることを発見する。
まあこんなことで新しい発見があれば、そこには別な興味のそそられるネタが必ず隠れている。
このように一つの事柄を見つけてその裏に隠れているもう一つの顔を探すのも楽しいものだ。

これも地域掘り起こしをめざして始めたブログ「まほらに吹く風に乗って」がこの夏で4年を迎えるが、毎日欠かさず続けて来た成果と言えるかもしれない。

さて、前置きが長くなったが、今回の話のテーマ「ダブルスタンダード」について少し書いてみたい。
ダブルスタンダードとは、二重の異なる基準(スタンダード)を持ち、人種・民族・国・身分などの違いにより使い分けることを言うが、スタンダードが一つでもその判定基準(criteriaクライテリア)が曖昧ではっきりせず、それを使う人により都合のよいように使い分けることなども含まれるだろう。

日本の基準は、どうも判定基準を明確にして、誰が解釈しても変わらないようにすることを吉としない風潮があるようだ。
これは日本人が気がつかないでいる場合も多く、日本人の美徳だと変に思い込んでいる節がある。
日本語と言う素晴らしい言葉の持つ負の面だと私は思っているが、文学で曖昧な表現が好まれるのは良いが、法律文書や海外とのやり取りなどでは障害になることがある。

また、私は仕事でパソコンプログラムなども組むが、今までの判定基準を計算や検索プログラムに組み込む場合にこの曖昧さに戸惑うことが良くある。
日本人は「大体これくらい」だとか、「こう言う場合はこうしなさい」などと一見よさそうな表現が全くプログラムにならないのだ。
「数値としてこの場合はこうせよ。そうでなければこちらの判断に従え」と明確に指定しなければパソコンは判断ができない。
「そんなこと言ってもこの数値から判定が変るなどと明確に決められないよ」などと言う声も良く聞くが、暫定的にでも決めて判定し、不具合がでた時に自動的に修正をしていくというPDCAサイクルの考え方が欧米には多いのである。

日本の官僚の作る法律文書でも後から解釈を変えてしまえば最初に説明した内容とは違っても良いと本気で考え、それが優秀な官僚だと思い込んでいる人もいる。これは政治家も同じだ。

例えば消費税の生活必需品にかかる消費税に軽減税率を導入する議論がある。
消費税を8%と10%の2段階の値上げとした時に、この軽減税率の必要性やその手続きの複雑さなど検討する時間が足りないので8%にする段階では間に合わないと判断し、「消費税の軽減税率制度については、『社会保障と税の一体改革』の原点に立って必要な財源を確保しつつ、関係事業者を含む国民の理解を得た上で、税率10%時に導入する」と平成26年度与党税制改正大綱に書きこまれた。この税率10%時というのが曖昧な表現で、10%にする時と同時に軽減税率を導入するのか、10%からその先の値上げもあるので10%の消費税を適用している期間のどこかで導入するのかで意見が分かれているのだ。

こんなことってあるだろうか。日本語を曖昧にして裏でほくそ笑んでいる政治家や官僚の姿が浮かぶ。

これが日本的政治である。まったくもって情けない。このような文章を作成した事を恥じるべきだと思う。

こんなことに労力を使うくらいならさっさと議員定数の削減をする約束を守ってほしい。
どうも日本人は単一民族(これはあくまでも大和民族を言っているのであって歴史的に見れば単一民族ではない)国家であり、考え方の思考が統一されているので曖昧でもやっていけるのだろう。
もし異なる民族が混在する国であったなら、このような曖昧表現は逆に命取りになるであろう。

最近中国で賞味期限切れの肉を他の製品と混ぜてマクドナルドやファミリーマートなどの製品に使われていることが判明した。
最初のうちはまた中国でこんな品質チェックがでたらめな事が起きたと思っていたが、その後中国での報道のトーンが変ってきた。

すなわちこの中国の生産工場はアメリカ資本の工場で、アメリカ品質でなければいけないのに、この親会社はアメリカ品質と中国品質を差別して十分な品質体制がなされていなかったといいだしたのだ。
アメリカは中国ではアメリカ国内と異なるスタンダードを適用しており、ダブルスタンダードだと騒ぎ始めた。
中国のこの報道も一方的に受け取ることは出来ないが、アメリカのダブルスタンダードは今に始まったことではない。

イスラエルなどに対してはガザ地区への空爆や地上戦で多くの民間人が犠牲となっていることを受けて国連の人権理事会がイスラエル非難決議を採択したが、これにアメリカのみが反対(日本など17ヶ国は棄権)した。
今まで何度もアメリカはイスラエルが非人道的な戦争をしても最後はイスラエル擁護にまわる。
口で言うことと国として判断することは違うと言うまさにダブルスタンダードである。

私はイスラエルが悪いと言っているわけではない。
「ハマスが悪い」「イスラエルが悪い」などといってお互いが争い、多くの民間人に犠牲が出ている現実をみれば争いを止めることに全力を注いでもらいたいと思っているのだ。

ウクライナでの親EU派と親露派の争いについても日本の多くの報道は本質から外れているようで気がかりだ。
これもEUとアメリカなどが本音と建前を使い分けているダブルスタンダードを持っていることによるものかもしれない。

私も仕事でウクライナは二度訪れているが、旧ソ連から1991年に独立したが、もともとヨーロッパに近い民族と、ロシア人およびそれに近い民族の2つの勢力が対立したままだ。
大統領がどちらの勢力がなるかで国の方針が振り子のように行ったり来たりする。

親EU派が大統領になって、ソ連時代に使われていたロシア語を学校教育の段階から完全に排除した。
それまでの親露派の大統領時代にはウクライナ語とロシア語が両方許容されていたのである。
言葉というのはそう簡単に変えることは出来ず、現実は今でもロシア語は多くの場所で使われている。
ウクライナ国内のロシア人の割合は20%以下だが、家庭で使われているロシア語とウクライナ語の割合はほとんど同じくらい(共に約40%で、両方を使う家庭は約20%)となっているのだ。特に東部地区の年配者はロシア語がほとんどである。

今はマレーシアの民間旅客機が墜落した責任をめぐって情報合戦がし烈を極めている。
しかし本質である戦闘地帯の上空を飛んだマレーシア機の責任も免れない。
これも前に起こったマレーシア機の事故が影響しており、燃費節約で最短距離を飛ぶことになったマレーシア航空会社も巻き込まれる危険があった空域を飛んだと言う事態も当然追及されねばならない。

ロシアについてはプーチンが悪いのだと一方的に決めつけロシアへの制裁を主張するアメリカだが、EUは天然ガスの供給を受けているので制裁も口で言うのと実際の行動が違っている。わが日本はどうかというと、どうも私の周りの人に聞くとプーチンは人気がなく、感情的に親露派やそれを後ろから支えるロシアへの風当たりは強い。
私は、これは一方的すぎると思う。ロシアの欲しいのはクリミアだけでいいはずで、親露派をテロといって攻め立てるウクライナの親EU派の正規軍がこのウクライナを自分たちに都合のよい人種のみしか認めない考えが続けば悲劇は拡大するだけである。

映画「ひまわり」でソフィアローレンが一面のひまわり畑でその下に眠る戦士たちの墓を探し回るシーンをいまでも思い浮かべることがあるが、私が訪れたウクライナには、あの映画のシーンと同じ一面のひまわり畑が広がっていた。

映画の撮影がウクライナかどうかはわからないがヘンリーマンシーニの悲しい曲があのシーンとともによみがえるのである。
産業が乏しいウクライナで旧ソ連時代に作られた各種産業の工場は親露派のいる東部に集中している。
そして格安で供給されているロシアからの天然ガスで国の利益を上げている。ヨーロッパに供給される天然ガスもほとんどがウクライナを経由しているので、これを途中で抜き取って売ろうとまでしている。
ロシアとしては面白いはずがない
。この親露派住民をクリミア自治国に移し、今の西部・東部を親EU派に統一することが目的かもしれないが、このまま親EU派で国がまとまったとしても、すぐに財政が行き詰ってしまうのではないかと心配である。

日本政府は集団的自衛権容認を閣議決定したが、このダブルスタンダードを持つアメリカを真の同盟国として信頼できる相手なのかどうかは大いに疑問がある。
知らず知らずに他国との戦争に巻き込まれていくことが危惧される。

その時にこれが自国のためだったのかと後から後悔しても戻ることは出来ない。
国民が覚悟を決めたのならこれは民主主義でやむを得ないが、知らされていたことと中身が違うダブルスタンダードであったと後から後悔することだけはしたくはない。

積極的平和主義、原発の安全性審査では「世界一厳しい安全基準」などという言葉で美辞麗句のようなことを並べたて、誰も責任をとらない体質では、何時まで経ってもこの国は三流国家と言わざるを得ない。
もちろん首相が「私に責任があります」などと言ったとしてもそれは責任あると言うことではない。
原発では再稼働を前提にせず、どんなことがあっても被害はここまでに抑えられるといった具体的なハード・ソフトの両面で国民に説明することが責任ある人の態度であることは言うまでもない。

ノルウェー、フランスなどの最新の原発設備基準などと日本の置かれた地形なども考慮に入れた比較検討が全くなされていない状態で再稼働などとんでもないことである。

この核のゴミ処理の費用などを電力料金に加算したら、いつまでも原発にしがみつく電力会社も無くなってくるはずだ。
原発族と呼ばれる人たちもダブルスタンダードをやめ、日本のこれからのエネルギー政策を真剣に論じてほしいものだ。


備忘録 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/05/22 10:45

長勝寺は今

 潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。
何か余り元気もなさそうですが・・・・

この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。

檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。

でも本堂は開いておりませんでした。


P5200013s.jpg

本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。
いつもより遅いのかしら・・・・。


P5200014s.jpg

新緑はまぶしいくらい。
この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版はありません。
右側の看板はこの句碑とは全く関係のない物です。
これではこの石碑も泣いているでしょう。
私も何度この前を通ったか・・・・でもこれが芭蕉たちが鹿島紀行時に詠んだ句碑だとは気が付かなかったのですから。

P5200015s.jpg

この勢至堂の説明もありません。

P5200016s.jpg

だが、落ち着いた良いお寺です。
今は緑がきれいです。
参道脇の紫陽花はもう少しですね。



潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/05/21 12:28

潮来の藤

 ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。
私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。
途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。

ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。

潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。
アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。

江戸後期に書かれた松浦静山公の「甲子夜話」に潮来の藤棚の話が出てきます。
それによると、潮来の藤架(ふじだな)の藤は8尺(約2.4m)も垂れ下がっているとあります。
(参照記事 ⇒ こちら

昔から藤も潮来の名物だったようです。
もっとも長唄「藤むすめ」などが「潮来節」で披露されて広まったと言われていますので、藤花も潮来には似合うのでしょう。

P4300003s_2024050210161300d.jpg

P4300008s_20240502101605fbf.jpg

P4300010s_20240502101607bbb.jpg

P4300012s_2024050210160869b.jpg

P4300013s.jpg

P4300017s_202405021016102b6.jpg

P4300019s_2024050210161122e.jpg

あやめ祭りまでもう少しですね。


潮来地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/05/02 10:18

一茶の常陸の国・鹿島行脚(5) 最終

文化14年(1817年)五月
廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文
廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文
未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云
熊兎孔雀鵞其外品々有
廿八 晴 桂丸に入
廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友
観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云
太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿
    千人塚 いかい根に有 外川昔此所三千軒家ありしと云 今礎所々有
    清水通り不動に詣下に清水瀧有 新生町長崎石切邊田八景畫観音堂にあり

晴 廿四
雨 五

六月
一 晴南風 邊田浄国寺登望西臺(台)桂丸李峰同 ・・・・桂丸、李峰は一茶の俳友
二 晴 小南に入 雨乞 ・・・東庄町小南
三 晴 萬歳に入 南風小雷雨 ・・・旭市萬歳 椿の海干拓干潟の東部
四 晴南風
五 晴 飯田に入 送り寺子七人 ・・・千葉県成田市飯田町?
六 晴大南風 田川に入 夜小雨 ・・・田川(茨城県稲敷郡河内村大字田川)
七 晴 布川 夜小雨 ・・・布川(茨城県北相馬郡利根町布川)、古田月船
   ・・・布川の 応順寺 に月船句碑がある。天保8年(1837年)1月20日、月船没。
     俳人 一茶 を支援し、一茶の月船亭泊りは前後四十数回、二百八十余日に及んだ。
     この時は4泊している
八 晴
九 晴
十 晴
十一 晴 馬橋に入 ・・・大川斗囿?


小林一茶は馬橋(松戸)を文化十四年五月廿日に出発して、
 馬橋⇒布川⇒龍が崎⇒女化⇒土浦⇒高浜(石岡)⇒小川(小美玉)⇒化蘇沼稲荷⇒帆津倉(北浦)
 ⇒札村普門寺⇒高倉⇒鹿島⇒大舟津⇒潮来⇒銚子(飯沼観音、千人塚、和田山不動、浄国寺)
 ⇒小南(東庄町)⇒萬歳(旭市)⇒飯田(成田)⇒田川(旧河内村)⇒布川(利根町)⇒馬橋(松戸)
馬橋に戻ったのは 六月十一日 です。

馬橋も布川も一茶にとっては強力な支援者がいて、何度も訪れています。
そのため、この時の旅(俳諧)もこの馬橋・布川が起点となりました。

今回の旅も、俳諧の門人たちの所を泊まり歩いており、はっきり宿屋と分かるのは潮来(板久)の俵屋だけです。
今回(最後)は、この潮来から銚子へ、そして銚子散策、又帰りのルートを探っていきます。

銚子地図2


まず、潮来(板久)から早朝(5~6時頃)船に乗り、銚子についたのは午後の2~3時頃です。
途中船もどこかの湊(津)に立ち寄っていると思いますが、現在の潮来から霞ケ浦の常陸利根川を下ったのか、または牛堀の方に少し上って横利根川から利根川に出たのかはわかりません。

潮来(板久)の記憶から後に詠んだ句が8番日記にあります。

「三味線で 鴫(しぎ)を立たせる 潮来かな」 
itako001.jpg
(潮来市内の西円寺に石碑がある)

これは小林一茶の句を夏目漱石が書を書いて、そこに小川芋銭がしゃれた絵を描いた「三愚集」にあるものだ。
(三愚集記事は ⇒ こちら

潮来から早朝に船に乗り、銚子に午後2時~3時頃に到着しています。
ただ当時の銚子の入口は今の銚子港付近ではなく、松岸あたりだったのかもしれません。後に訪れた吉田松陰は松岸に降りています。
ここには昔公設の遊郭がありました。(前に調べた記事 ⇒ こちら1こちら2

そして、この松岸にある「海上八幡宮」には芭蕉の句碑とともに、小林一茶の句碑もある。(記事⇒こちら
一茶の句碑に採用されている句は

「「遊女めが見てケツカルぞ暑い舟」である。
これは7番日記にある句であり、この時の潮来から銚子へ行った時の様子を詠んだ句だと思われる。

遊女たちが舟でやってきた旅人などに顔見せなどしている様子をコミカルに詠んでいるものと思われる。
旧暦の五月末であるので、今なら7月頃になるのだろうか?
午後2時過ぎともなれば暑苦しい時間帯なのだろう。面白い句である。

また、銚子の街の様子が当時がどのようであったのかが不明だが、銚子は高崎藩の飛び地(領地)であり、坂東三十三観音の二十七番目札所である「飯沼観音(円福寺)」を中心とした街並みでした。

前に書いた記事:銚子のかんのん様(2014/1)
          円福寺(飯沼観音)(2014/10)

銚子の観音

銚子は漁業でよく知られていますが、この漁業が始まったのは、現在の銚子漁港ではなく、紀州の漁師たちが、外川(とかわ)に港を造ったのが最初です。今から350年以上前の江戸時代1658年のことです。

外川漁港近くの大杉神社に発祥の地の石碑が建てられています。(記事⇒こちら

外川港石碑

この銚子では何か所か見物して廻ったようです。

・千人塚 (江戸時代初期の大きな海難事故の慰霊) (2014/10に書いた記事 ⇒ こちら

・清水通り不動・・・恐らく「和田山不動尊」であろうと思う。この入口には昔滝があった。
  和田山不動尊、波切不動 ⇒ こちら(2023/8)

銚子地図1

銚子港は最初に外川地区が開発され、外川1000軒などと江戸時代には言われていたようです。
また、この一茶の7番日記にも「いかい根」という地名表現が出ていますが、今ではあまり使われなくなったようです。
外川に対して、利根川の河口付近の岩礁のある浜辺などの周辺地域をそのように呼んでいたようです。
漢字では「飯貝根」と書いています。
方言とも云われますが、全国に同じ名前の呼び名の地域があり、どこかで古語として共通するものがあるのかもわかりません。

一茶の7番日記には いかい根:1000軒、外川:3000家 などとの表現が見られます。
恐らくこの時代以降に現在の銚子港(利根川河口から少し上流側)が開けてきたのでしょう。

徳川家康の利根川の東遷事業で、江戸湾に注いでいた川を銚子川に流れるように変更したことにより、銚子の街は現在の利根川になり、周りに土砂が堆積して今の低地の港地帯が出来たと考えられます。

また地名ではこの一茶の訪れた「邊田浄国寺」(浄土真宗)の邊田(辺田)は「へた」と読み、今も地名で残されていますが、恐らく房総台地の突端部で今の駅の方の低地から少し台地に上ったあたりです。

一茶は6月一日に俳諧仲間の「桂丸、李峰」とともに、この寺の奥にあった「登望西臺(台)」に集まり句会を開いたようです。
ここには日観亭という庵があり、俳句の仲間が集まっていた場所のようです。
 邊田浄国寺を訪れた時の記事は ⇒ こちらを参照ください。

浄国寺一茶碑
(浄国寺の 望西台にある一茶碑)

一茶は銚子ではこの庵に何度か足を運んでいたのかもしれません。
一緒に行ったとされる「桂丸、李峰」は共に俳優仲間でもありましたが、廻船問屋をしていたようです。
「桂丸」は大里庄治郎といい、行方出身の東北諸藩廻米問屋「行方屋(なめがたや)」をやっていた人物だそうです。
また、この二人は一茶と同じ「夏目成美一門」であったようです。

6月2日は東庄町へ行き、そして昔椿の海があった開拓平野にある「萬歳(まんざい」に6/3行き、成田経由で布川、馬橋に戻っています。
この椿の海の干拓も「鉄牛禅師」の努力で完成したのは1671年ですから、一茶が訪れた頃は周りは一面の田んぼ(八万石と言われた)だったと思います。(椿の海干拓は ⇒ こちら 記事参照)
またこの萬歳村は天保水滸伝で最後まで抵抗して山に籠って自害した「勢力富五郎」の出身地です。

その後江戸に戻り、歌舞伎(桐座)を見たりして、6月27日に江戸を立って、中山道、北国街道を通って、柏原の家に戻っていきました。

このように調べても分る場所もありますが、よくわからない場所もあります。
ただ、意外に私が訪れたことがある場所が多く出て来て驚きました。

地元の人以外になかなかわからない地名などもありますが、何かの参考になれば幸いです。

(終わり)



鹿島紀行 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/04/27 13:38
 | HOME | Next »