fc2ブログ

小高の神宮寺

 茨城県行方市の行方・小高地区あたりはどうも周りの行政区のはざまにあって今の行政組織ではどうも忘れ去られている感が強いと感じる。

佐竹氏の南方三十三館の皆殺し(仕置き)で、この地に居を構えていた行方四頭の長男「小高氏」は消滅してしまった。
その後ここに佐竹派の重鎮「大山氏」が移り住み、常陸太田から佐竹氏が建てた寺「常光院」を移し、歴代の佐竹氏の墓も移した。

しかし、佐竹氏はすぐに出羽(秋田)へ配置替えとなり、ここの佐竹派の武士たちも多くが秋田に移った。
ただ、常光院には佐竹氏の墓もあり、家臣十八人が残った。
先日常光院も訪れたが、この十八人の家臣の名前がすべて石碑に書かれていた。

隣の玉造の町は水戸藩となり、それなりに発展し、反対側の麻生藩は、外様の新庄氏の領地となり、家老がいて町としてもまとまってそれなりに栄えた。

丁度その中間のこの行方・小高地方は、今は麻生町と統合され、行方市の一地方となっているが、江戸時代に何か特別なものがあったのかというと、何も書かれたものがないように思われる。

常陸国風土記には大昔にこの近くの浜に鯨が這いつくばって死んでいたことがあり、鯨岡という名がついたとあるが、この名前は今はない。今当時から残されているものとしては香取の神子の社と言われた社と推察される「側鷹神社」くらいだ。

P9281204s.jpg

中心部の丘の上に立つ「小高のカヤ」という県の天然記念物のカヤの木へまた行ってみた。
樹齢は650年くらいだというので、時代は南北朝時代頃だろうか?

ここに置かれた看板から推察すると、その頃にこの場所に「神宮寺」が建てられたようだという。
行方市のHPにもこれと同じ説明がかかれているので、この神宮寺が何時頃建てられて、いつごろまであったのか?、また神宮寺とあるから、元になった神社はどこなのか?を問い合わせた。

P7251192s2.jpg

市の教育委員会の方から丁寧な回答が寄せられたが、私の知りたいと思っていたことはほとんど回答はなかった。
やはり意外に忘れ去られてしまっているのだろうか?
江戸時代前半の文書にこの神宮寺(天台宗)の記述が残っていて、この頃にはあったらしい。

P9281203s.jpg

カヤの木には朝の陽ざしが降り注ぎ、曼殊沙華の赤い花もその周りに咲いていた。

P9281205s.jpg

カヤの木の近くには「小高地区館」とい建物がある。
この場所に昔最初の小高小学校が建てられたという。
目地の最初の頃に日本各地で寺などで寺子屋式に小学校が始まったが、ここもそうかと思ったのだが、調べてもそんなに古い記録は出てこない。
昭和になってからできたものだろう。
戦後の人口が急激に増えた昭和30年代に新しい校舎を側鷹神社わきに建設している。
ただ今はここも閉鎖され、麻生小学校に統合された。

地元密着の歴史も何か書き残しておかないとこのようにわからなくなってしまう。


続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/10/01 13:10

風土記遺称地めぐり-行方地方(第2弾)

 常陸国風土記の遺称地を巡ってみようと、ふるさと風の会で7月半ばに行方地方を巡りました。
しかし、予定していたところの60%くらいしか回れませんでした。
そのため残された地区を第2回目として10月に回る計画を立てました。

道が不安な箇所もあり、昨日、確認のため、一度一回りしてみました。

1,国神神社(行方市行方)

P9281181s.jpg

行方郵便局の信号の少し先の道を斜めに戻るように曲がった方が広くて間違わない。
また国神神社から畑の中を元の通りに戻る道は車が通るには厳しい。

2,常光院(小高)(佐竹氏菩提寺)

P9281183s.jpg

このお寺は1591年の佐竹氏南方33館仕置きにより、ここ小高氏から佐竹氏に変わった時に、佐竹氏の寺をここへ移したものです。
このため、佐竹氏が秋田へ転封となった時も、この寺の法灯を消してはならないと、家臣18名が残り、今も佐竹公の寺として法灯が受け継がれています。
鹿島、行方地方で唯一の佐竹公が建立した寺となっています。

昔、この寺も見て回ったのですがすっかりきれいになり、本堂なども見違えるばかりになっていました。

3,皇徳寺(小高氏菩提寺)

P9281206s.jpg

南方33館仕置きにより滅ぼされた小高氏(平氏)の菩提寺です。
前に記載した常光院のある場所にありましたが、佐竹氏に城を奪われてからは場所を点々と変え、西暦1700年から国道に近い今の場所に移っています。

4,大麻(おおあさ)神社(麻生)

ここに行く前に、麻生城跡に立ち寄った。
狭い道を上るので、前に数度来ているが、少し確認しておきたかった。
そして、山から下りて、国道に出ないで国道に平行に進んで、麻生の町の通りにでた。

麻生高校の先にこの神社がある。

P9281207s.jpg

そして国道に戻らずに県道50号線へ。

5,熱田神社(潮来市築地)

 この神社は常陸国風土記には出てこないが、ヤマトタケル伝説が残されている場所だ。
江戸時代に徳川光圀(黄門)が、この伝承を聞いて、草薙剣が奉納されている熱田神宮の名前をこの神社に与えたという。

6,大生神社

 元鹿島ともいわれる大生神社へ行くが、途中この辺りは道路工事も多い。熱田神社からは道なりにまっすぐ行けば着くので迷わない。
ただ、大生古墳群をもう一度場所の確認をした。
車は入れそうにないので、手前の道路わきに止めるしかなさそうだ。

7,らぽっぽなめがたファーマーズヴィレッジ

 昼食をここでとろうかと計画した。
初めて訪れたが、元小学校の有効利用に計画された、行方市のサツマイモをメインに計画されたテナントであった。
平日だけれどまあまあ人も来ていた。2Fのイタリアンレストランは営業していたが、1FのCAFEは営業中にもかかわらずお客さんはなし。
秋になったのでこれからはもう少しにぎわうとは思うが、きっと当初の期待よりはまだ計画半ばなのだろう。
千葉県の元栗源町にある道の駅紅小町のような焼き芋祭りなどを参考に計画してみるのもよいように思う。
紅小町のようなサツマイモ名称のブランド化や、この祭りのように思い切り焼き芋をみんなで焼いて、無料で楽しむのもよし。
またもっと子供が喜べる、少し遊園地的要素を入れるのもいいかな。

8,雷神社(行方市岡):相鹿の里

前のヴィレッジからここまでまっすぐに道が伸びている。
元に戻ることを考えていたが、比較的近かった。
ここは、行方郡の風土記遺称地として、あまり紹介されているのを読んだことがない。
ヤマトタケル命がこの場所に滞在し、大生の地からここへ飯を運ばせた。
その時に霞ケ浦の沿岸に小舟をつなげて並べて、この船の上を歩いて渡って運んだといわれている。
「丘前の宮」と言われる場所と推察されている。

P9281230s.jpg

ここへの入り口がわかりにくく、狭いので確認したかった。
消防小屋の横の道は狭いが、車も十分通れる。上に神社がある。

P9281231s.jpg

写真の一番左の社が雷神社だ。
またここから道なりに左に2~3分ほど進むと「相鹿城跡」の看板の場所へ行く。
つい最近下草を刈ったようで、歩いていくには問題なさそうだ。

9,鉾神社(行方市小牧)

 ここは小牧という地名だが、これは鹿島神宮の馬の管理をしていた牧があったことに由来するという。
鉾田にある鉾神社の元社である。神社の鳥居のところまではいれるかどうかを確認してきた。

P9281239s.jpg

ここにある小学校が廃校になり以前訪れた時は少し手前に車を置いて歩いて山を登るようにして入った。
今回元小学校の入り口から入ってみると、以前道路工事で通れなかった道も今は通れるようになって、神社の入り口まで車で入ることが出来た。

この先に藝都の里や小幡の観音寺も訪問予定だが、こちらは道もわかるので引き返した。

西蓮寺さんの近くを通ったら、「仏立」の旗が道路際に何本も立っていた。
今「常行三昧会」の修行中であったことを思い出した。
ただ、時間も限られていたので素通りしてきてしまった。






常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/29 11:54

真壁城跡

 今週初めに真壁に行った。
人に会うためであったが、時間的に少し早かったので、久しぶりに国指定史跡である「真壁城跡」に立ち寄った。

石岡からは上曽峠を越えて中世の真壁氏の氏寺である五所駒瀧神社側に下り、真壁の町に入った。
現在この上曽峠はトンネルの工事中で、先日石岡側と真壁側がつながり開通式が行われた。
まだ道路の整備や、トンネル内の整備などに時間はかかるため道路の開通はまだ先で2025年度になるという。
車にとってはだいぶ楽になり開通は待たれるが、トンネル内に自転車等の通行帯はないみたいで、3.5kmほどの長さのトンネル部分の通行はあまり楽ではなさそうだ。

若い人なら逆に峠越えは車が少なくなるので帰って良いという人も中に入るようだが、これからのトンネルには自転車走行のレーンなどもぜひ検討して計画してほしいものだ。

さて、中世にこの山懐に囲まれた真壁の中心地に近い平野に真壁城があった。
この城を築いたのは、(つくば市)北条の多気山に居を構えていた常陸平氏の直系である「多気氏(多気大掾氏)」から分かれた常陸平氏(桓武平氏)の平直幹(なおもと)の四男である平長幹(ながもと)がここ真壁に城を築き「真壁氏」を名乗った。

P9251184s.jpg

(桜川市)真壁町の古城信号の少し北側の「真壁体育館」横にこの真壁城の看板が建てられている。

P92511856s2.jpg

この城跡は膨大で、長年にわたる発掘調査により、平成6年に国の史跡に登録された。

P9251189s.jpg

P9251192s.jpg

筑波山から加波山に連なる山脈のふもと一帯に城が広がっていたようで、今でもまだ開発されずに広い敷地が残されている。
上の写真のように今もブルーシートがかけられた場所を発掘調査が続いているようだ。
この奥のもう少し右側は、道路工事が行われていたが、これが上曽トンネルへの取り付け道路工事だという。

P9251196s.jpg
昔からある旧真壁城址の石柱(昭和10年建立)

P9251181s.jpg

とても広い場所である。まだまだこれから始まりなのかもしれない。

多気大掾と、後からやってきた八田氏(小田氏)とはあまり仲は良くなかったらしい。
佐竹氏と小田氏も犬猿の仲のようで小田城を佐竹氏が奪った時には、この真壁氏も石岡側の手這坂で小田氏と争っている。
そのころから佐竹氏の仲間となったのだろうか?

徳川家康により、佐竹氏が出羽(秋田)に国替えを命じられた時に、この真壁氏も秋田角館へ移動して、ここは廃城となったようだ。





筑西・桜川地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/28 16:00

側鷹神社(行方市)

 7月初旬に「ふるさと風の会」で、勉強中の「常陸国風土記」の現地見学の第1回目を実施した。
風土記に書かれた内容が最も多く残されている「行方郡」の遺称地を全部回ろうと考えたが、朝9時から夕方の5時頃までにまわれた範囲は予定の半分くらいしか回れなかった。

そこで、回ることが出来なかった小高、麻生、大生、相賀、古高、藝都の里などを来月にまた回ろうと考えています。
実際に食事の時間や、往復の移動時間を考えると、あまり欲張ってもしょうがないですね。

私は何度か訪れている場所が多いので、理解もできますが、初めての方にそれなりに知ってほしい点などをまとめて資料旁などもしています。

なんだかんだと時間を取られます。また風の会の会報(秋号)もその前に原稿をまとめて印刷もしてしまわないとなりません。

さて、8月に訪れた小高地方散策で、今回は「側鷹神社」を紹介します。

P7251203s.jpg

この「そばたか(側高、側鷹、・・・・」と名の付く神社は千葉県にはかなりあり、千葉氏関連の城では昔からかなりあったようです。

総本山として考えられるのは、香取市大倉にある「側高神社」です。(昔書いた記事⇒こちら1こちら2
丁度香取神宮の東北(鬼門)に位置する場所にあります。

常陸国風土記には「・・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。・・・・」とかかれた社がこの側鷹神社だといわれているのです。

P7251204s.jpg

P7251207s.jpg

すぐ隣を通る道路も以前に来た時より広く拡張されて、神社も明るくなりました。
そのせいかもしれませんが、昔からの「古社」のイメージは薄らいでしまったようです。
上の写真の右側に道路があり、その先の方に建物が見えますが、これが先日紹介した「小高小学校(廃校)」です。

P7251206s.jpg

以前そばたか神社を調べて、茨城県にもこの側鷹神社と、浮島の広畑貝塚のすぐ上の「脇鷹神社」、河内町金江津の利根川の茨城県側の岸に「側高神社」の3つを載せていたのですが、その後旧小川町立延地区(小美玉市)にもあることが後から判明しました。
それにしてもよくわからない神社です。

続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/24 14:14

小高城跡(行方市)

 常陸国風土記を読んでいると、この行方(なめかた)地方に興味が行く。
何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。

現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。

また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合いのカイシャクモマチマチだ。
さらに、当時の陸奥国であった現在の福島県にも「行方郡」があり、そこに「小高郷」が存在した。
これは偶然の一致ではなく、まだ、常陸国と陸奥国の境界がはっきりしておらず、北部の蝦夷征伐における前線基地が、常陸国からこの陸奥国の南側の福島県相馬市あたりに前線基地ができて、この常陸国の行方地方から人が移り住んだものではないかともいわれる。
相馬氏が千葉、茨城からこの地方に移り住んだのも、ここに仲間がいたからであろう。
もう少し詳しく機会があれば調べてみよう。

P7251199s.jpg

現在の行方市行方や小高地方は江戸時代は町としての繁栄はあまりなく、玉造、麻生に挟まれて今は見るべきものが少なくなってしまったのだろう。

この地に平安時代末期に水戸の吉田氏一族の吉田(平)忠幹(ただもと)(吉田清幹の次男)=行方二郎が、この行方郷に入り、城を築いたのが最初だという。

P7251198s.jpg

そして、その子吉田景幹(行方郡地頭)は、源平合戦で源義経軍に加わり、屋島で戦死。

そのため、この景幹の4人の息子が領地を分割して小高(行方地方)、島崎(潮来地方)、麻生、玉造の各地を治めることになった。
鹿島神宮の行事などの取りまとめもこの4人が交代して行う仲の良さ。
でも時代が経つにつて、お互いに戦をするようになり、麻生氏は島崎氏により滅亡。

残された3氏も1591年に佐竹氏により滅ぼされてしまった。
この行方の地には、佐竹氏一族の大山氏が入り、佐竹氏の秋田転封により、この城も廃城となってしまった。

P7251200s.jpg

現在城跡は畑や雑草などでおおわれて、遺構もよくわからないが、脇道から中に車も入れる。
良く調べれば中世の城の遺構がかなり残されているように思い。
まあ、中世の城マニュアではないので、詳しくはわからない。

この看板の場所は、現在の「常光院」の裏山の反対側にある。この場所と、常光院に挟まれた地域がこの城跡である。



続小高散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/09/21 10:37
 | HOME | Next »