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天狗湯を探せ!(その二)

<西広(にしびろ)家>

 さて、寅吉の遺言で天狗直伝の薬草とその製法を子孫に伝え、薬湯の銭湯を始めることになった寅吉の息子(嘉津平)ですが、何故その銭湯が銚子に作られたのでしょうか?

その理由は、笹川で神職につきながら、この天狗秘伝の医術でいろいろな難病の回復があったとされ、その中に銚子の富豪の子供の眼病を治したという。
この富豪が「西広重源」という方だそうで、この人のお世話により銚子の風光明媚な場所にその薬湯銭湯「天狗湯」ができたとされています。

また、場所としては港町の東部本銚子町の中央、松林の別荘帯に位置して常陸の鹿島に面し、利根川河口をのぞむ風光絶佳の地」と書かれていました。

さて、これだけ情報があれば50年以上前にすでに廃業となっていてもすぐにわかるだろうとたかをくくっていたのです。
しかし、実際は場所が特定されるまで4~5回も足を運んでしまいました。

そして思わぬことにそれがとても面白く、探すことの楽しさを味わうことになりました。

その顛末を数回に分けて書いてみたいと思います。

まずは「西広重源」なる富豪ですが、合致する方はわかりませんでした。しかし「重源(ちょうげん?)」という名前は奈良の東大寺を再興した僧の名前と同じであり、法名のようなものかもしれません。となると「西広」という名前を頼りに調べてみました。
西広という名前は全国にあまりおらず、銚子を中心とした千葉県と広島県にほとんどの方が集中している事がわかりました。

また銚子の中を調べていると銚子市川口町にある「西廣(にしびろ)家住宅」が国の登録文化財に指定されていることが判明しました。
その文化財登録の名称は日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」となっています。

登録の説明には、
 『西廣家は江戸時代末期に紀州(和歌山県)から移住し、銚子の漁業を支えた代表的な漁家のひとつ。かつお節や缶詰などの加工品の生産に乗り出したことでも知られる。』 とあり、

また、『西廣家は銚子市を代表する船主で、江戸時代末期に紀州から移り住み、初代が質屋を営みながら質種として土地を取得し大地主となりました。そして、2代目治郎吉(じろきち)氏が漁業を始めました。
  船名は信仰していた長野県の御嶽山からとった「御嶽丸(おんたけまる)」で、屋号は漁業を始めた2代目の名前をとり、「治郎吉」になります。現在でも主屋の玄関上部にその表記が見られます。
1877年(明治10)に建てられた木造平屋桟瓦葺、寄棟造の本館と1937年(昭和12)に総檜、洋館が建てられました。豪壮な本館と、付書院に犬吠埼の風景をあしらうなど細部意匠をこらす増築部分が対照的です。
昭和初期に、痛みの早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場が稼働を開始しました。木造2階建て部分と洋小屋組木造トラス(一部鉄骨) の工場部分が連結する形になっています。 木造2階建ての部分の一階は土間で工場と連続し、2階部分は地方からやってきた従業員の居住スペース確保するために1935年(昭和10)に建てられました。 元の平家部分の南側には、獲れた魚の鮮度を保つため氷漬けにするためのコンクリート造りの水槽が置いてありました。』 と書かれています。

また、歴史的には、銚子の街は太平洋戦争で大きな被害を受け、飯沼観音も焼け、街中の主要な建物が焼失してしまいました。
しかし、この街のはずれにあった西広家の建物は幸いにも空襲で焼けずに残った貴重な建物だったようです。

要約すれば、銚子は驚くほど和歌山出身者が多く、西広氏も和歌山から江戸時代末期にやってきて、質屋で財をなし、多くの土地を手に入れた。そして2代目「治郎吉」が漁業をはじめ、船主となったが、痛みの早いイワシを新鮮なうちに加工してしまおうと缶詰工場を建てた。これが成功して大きくなった。ということでしょうか。

ではまずはこの西広家住宅を見ることから始めましょう。

場所は銚子第二漁港(川口漁港)の海寄りの道から少し入った旧道の五叉路の直ぐ北側です。
この五叉路というだけで、地元民には比較的によくわかるようです。

「こころ」という料理屋がある近くで、ここにはこれまで何回かお邪魔しています。
ではまず手はじめに西広家住宅と「こころ」のランチを目指してみることにしました。

西広(にしびろ)家住宅は、登録文化財に指定されていても現地には何も説明看板はなく、個人宅のため公開もされていません。
ただ、現地の工場や倉庫跡は出入りは出来ました。
古びた木造建築の建物が数棟ならんでいます。

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昭和13年に建てられた木造の缶詰工場(入口シャターは昭和30年にとりつけられたもの)で、この洋風2階建ての建物は地方からやってきた従業員の居住スペースです。工場はこの建物の裏手につながっていました。

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この工場と母屋の道路側はこのような赤レンガの塀で囲まれています。
これも登録文化財の一つで、大正末期から昭和の初め頃に造られたものだそうです。
大谷石と銚子石(砂岩)製の石積基礎上、上部に煉瓦をイギリス積されています。


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こちらは比較的新しい治郎吉倉庫です。現在も使っている?


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1段高くなっているところに登録文化財の倉庫(北倉・南倉)があります。
江戸末期の慶応年間(1865年~1868年)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物です。
その後は貯蔵庫として使われていました。

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現在では漁網の他、船舶を補修するための器具や、建具や高膳などが置かれる物置となっています。
中心部が2階建てになっており、中心をコの字型に囲む造りになっています。

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この倉の直ぐ横に大きな鳥居があります。
倉庫の敷地はこの手前で区切られています。

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さて、江戸末期の倉庫のすぐ横にあった大きな鳥居が気になり敷地を出て、廻っていってみました。

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この鳥居はどちらを向いているのでしょうか?
この北側に「西宮神社」という社があります。
そのいりぐちからこの鳥居まで参道の様につながっています。
この配置からすると、鳥居はこの西広家を祀るために置かれていると言えるでしょう。

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このすぐ横に「西宮神社」がありました。
そしてこの神社の裏手が森になっていて、遊歩道が造られています。
名称は「東部不動ヶ丘公園」でした。
地図を見ると南側の「和田山不動堂」の森につながっているようです。

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後に知ることになるのですが、ここは川口神社(白紙神社、歯櫛神社)から御嶽神社を経て、お不動様(和田山不動堂)の森をつなぐ場所でした。

銚子の安倍晴明伝説をたどると出てくる場所でした。 こちらはまた後ほど機会があれば載せます。

さて、西広住宅(治郎吉漁業倉庫)を後にして、本日のランチはいままでに数回お邪魔している「こころ」さんでランチと情報収集です。

「こころ」さんは知る人ぞ知る銚子の隠れ料理屋さんですが、つい先日テレビ東京の昼メシ旅で紹介され、この日は結構混んでいました。
次の仕事の都合もあり心配しましたが、何とか1人前だけ先に受けてくれました。
おまかせ定食1000円です。

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今回は混んでいたので女将さんも一人で料理作っていますので手が回りません。
でも、天狗湯の情報を探るべく早速聞いてみました。

「そう、この近くには確か3軒ほど銭湯があったのだけれど、みんな昔にやめてしまったの。
この東側に1軒、そこの五叉路の西側にたしか2軒あったはず。
西側の二股に分かれた道路の左手の大きな不動の入り口に1軒あり、もう1軒は右側に行った方だった。
不動に入口はたしか「滝の湯」という名前だったようだけれど、天狗湯はそのことかな?
もう一つの右側の湯はあまり記憶になくはっきりしないわね」
とのこと。

仕事に間に合わなくなるので、散策の続きは次回にして、美味しい料理を食べてこの港町を後にしました。
でもここのお刺身などはおいしいです。
建物は昔のスナックをそのまま使っているようですが、混んでいなければ、いろいろ要望も聞いてくれるし、魚も目の前でさばいてくれます。

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(2019年5月27日)

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/20 23:33

天狗湯を探せ!(その一)

 天狗湯を探せ! っていったい何? と思いますよね。

実は今回から数回に亘って千葉県銚子市で、「天狗湯」というもう大昔に無くなってしまった銭湯を探した探訪記を載せようと思います。
これは、私の記録的な内容ですので興味のある方はお付き合いください。

<プロローグ>

 江戸時代の終わり頃(文政3年:1820年)、江戸の街中に天狗に攫(さら)われて数年して戻ってきたという少年が現れた。
少年の名は「寅吉」といい、戻ってきたときは15歳であった。

当時、神道思想の研究をしていた国学者の「平田篤胤(あつたね)」はこれを知って、すぐにこの少年を家に招いた。
そして少年の話す天狗の世界の体験談を聞き取り、これを『仙境異聞』という書物にまとめたのだ。

寅吉少年の話によると、寅吉は江戸下谷池の端七軒町のたばこ売り越中屋與惣次郎の子であり、7歳の時に上野池の端の五条天神前で遊んでいると、そこで不思議な男が毎日のように丸薬を売っていた。この男は仕事が終わると小さな壺に道具と共に自分も入って、その壺ごと、どこかに飛んで行ってしまった。
あまりの不思議さに、この術を知りたくなった寅吉は、数日後また薬売りにやってきていたこの男に話しかけ、誘われるままにこの男と、この小さな壷に入ってしまった。
そしてたどり着いた場所が、茨城県の南台丈(現難台山)で、その後に近くの岩間山(現:愛宕山)に連れて行かれた。
そして、ここには13人(疋)の天狗が暮らしており、この男はその13天狗の首領で「杉山僧正」といった。

そして、この岩間山で天狗と共に約8年間過ごし、この間に、この杉山僧正から天狗界(神仙界)の話を聞き、天狗の修行もし、また天狗に背負われて世界各地の見物をしたという。そして、15歳に時に浅草観音堂前にもどされたという。

戻ってきた寅吉少年の話を聞き取ってそれをそのまままとめたかたちで書かれている仙境異聞(1822年刊行)だが、寅吉少年は、それからもちょくちょく岩間山にも戻っていたらしく、この本には篤胤が、この杉山僧正宛てに手紙を書き、それを寅吉少年に託したという手紙も含まれている。

平田篤胤は、この約20年後の1843年に他界しているが、この寅吉少年がその後どうなったかということを調べた人がいる。

心霊研究で知られる浅野和三郎氏だ。
浅野氏は明治7年に利根川下流の現茨城県河内町の医者の家に生まれ、東京帝国大学英文学科を卒業後海軍学校の英語教師をしていた。
しかし、大正4年に三男が原因不明の熱病になり、多くの医者にかかっても治らず、三峰山の女行者の言葉により快癒した事から熱心に心霊研究をするようになったといわれています。

この浅野和三郎氏がこの寅吉少年のその後を調べ、さらに門下の河目妻蔵氏によって追跡調査がなされ、大正14年10月の「心霊と人生」誌(10号)に「寅吉の晩年」と題して発表された。

それによると、寅吉は天狗の首領である杉山僧正からもらった名前「嘉津間」を名乗り(石井嘉津間)、平田篤胤の弟子のひとりの五十嵐という神職を兼ねた医者からの要請で、千葉県笹河村の諏訪神社(香取市笹川の諏訪大神)で神職をしながら、天狗直伝の法術で病気治しを行っていたのだそうです。

これが近隣はもとより遠方まで評判を呼んでいたといいます。

そして53歳の時に奉公していた女中しほとの間に男の子が生まれ、「嘉津平」と名付けました。

この後、寅吉は安政6年(1859年)12月に「僧正からの急なお召だ」と言いながら死去したそうです。
その際に、天狗秘伝の薬の処方箋とともに薬湯をはじめよとの遺言を残し、子孫は銚子で二神湯(通称:天狗湯)という銭湯を始めました。

そしてこの湯は皮膚病や火傷、冷え性に薬効があると評判になり昭和30年代頃まであったそうです。

では、この「天狗湯」がどのような場所で営業されていたのか、調べてみようというのがこの「天狗湯をさがせ!」のテーマです。
なんだか頼りない情報ですが、銚子には毎月3回ほど通っています。

午後一番からは仕事の打ち合わせで、この湯の探索は昼飯を含めた1回午前中1時間ほどの時間しかありません。
しかし、調べていくうちに銚子の歴史の足跡を追いかけているような不思議な気持ちになりました。
もう、天狗湯にあまりこだわるのではなく、そこに生活をしている方達との会話などの方がとても気持ちよく感じました。

ここからは、あまり知られていない銚子の歴史などにも触れた記録を残して行きたいと思います。
単なる紀行文としての面白さが表現できるようになるといいのですが。

次回から数回に分けて書いていきます。

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(岩間山の飯綱神社裏手の十三天狗を祀った祠と六角殿)

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岩間山の13天狗の民話については以下のサイトなどを参照ください。

茨城の民話Webアーカイブ:http://bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0801200005
笠間市(『いわまの伝え話』岩間町教育委員会):https://www.city.kasama.lg.jp/page/page000170.html
愛宕神社(岩間)-十三天狗の杜:http://www.rekishinosato.com/iwamaatago.htm
長楽寺の天狗: http://www.rekishinosato.com/essayW_16.htm

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/20 15:15

笠間きらら館にて

 笠間の芸術の森入口にある「きらら館」での外山亜基雄、高橋協子二人展を見てきました。

いつも忙しくしているのに高橋さん お会いできてうれしかったです。

写真をUPしておきますね。 今回は猫がテーマのようです。

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きらら館

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二人展はその一階の分かれた展示スペース。

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お二人の素敵な作品が並びます。
猫ばかりでなく、この狸、キツネの酔いどれぐい飲みも展示してありました。
からす天狗さんは新しいバージョンでしょうか。

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猫の小皿も可愛いですね。

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こちらは外山さんの作品

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きらら館は結構人も多く来ていました。

近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/16 00:15

池花池のひつじ草

石岡の北、 石塚街道を北上した小美玉市部屋に池花池という池がある。

ここには冬にはたくさんのハクチョウが飛来することで知られているが、今の時季には池一面に「ひつじ草」の可憐な花が咲く。

ひつじ=未 で時刻は午後2時ころを意味し、今日もこの時刻頃に丁度この近くを通った。
一面にびっしりと葉が水面を覆い、可憐な花が咲いていた。

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「ひつじ草」は「琵琶湖周航の歌」の原曲の題名であったようなので、琵琶湖にもきっとたくさん咲いていたのだろう。

小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/15 23:25

志筑(しづく)の下池

 かすみがうら市志筑地区は石岡のとなり。
恋瀬川を渡ったところにある。

その昔、志筑城のあったところには、最近まで志筑小学校があったが、数年前に下の街中に新しく校舎を建てて移っている。

そして昔の城跡近くにはやはり池があり、500羅漢で知られる長興寺がある。
多分そちらが上池で、この少し下にある池が「下池」なのだろう。

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春は池の周りに桜がきれいに咲くが、今は池一面に水草が覆っていて、緑でいっぱいだ。

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この水草の種類はわからないが、横を通るたびに気になっている。
小さな蓮のような葉ではあるが、白い蓮の花は咲いていない。

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池のそばの古木の下に「二十三夜尊」の石碑や小さな祠が置かれていた。

志筑・かすみがうら地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/15 23:05
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