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コロナもこの青空のかなたへ消え去らないのか・・・・

 夏になったらコロナも弱って、下火となると考えていたが、全く持って気温も、湿度も関係ないように感じる。
うがい薬がどうのこうのというが、風邪を引いたときにしょうがなくやる事はあってもあまりしょっちゅう使うには害がありそうで使えない。

まあ、大坂の知事の発言もかなり軽率だ。
たしかにウイルスが増殖するのは舌の上などとの報道があり、この増殖を減らす方法のひつかもしれないが、もう少しましな方法がありそうである。

昨日は、ふるさと"風”の会の会報印刷日であった。
コロナ陽性者が市内で前日に確認され、少しは用心もしなくてはと、先日までに全ての印刷は一人で終わらせておいた。
当日は折りと帳合いのみで、時間的には1時間半くらいで終わった。

私は昼からその会報を配りに、旧八郷町から土浦市の小町の里、つくば市の北条へ車を走らせた。

途中筑波山の手前の宝篋山(ほうきょうさん)の脇を走った。

三村山

山の上に「宝篋印塔」があるので、宝篋山といわれ、最近は手軽な登山としての人気が高まっている。

山の麓は稲の穂も大分たわわとなり、収穫時期も近そうだ。

この山は、昔は「三村山」と呼ばれ、鎌倉時代に忍性がこの麓に大きな極楽寺を建てたとされている。
七堂伽藍の立派な寺だったようだが、今はまり残されているものがなく、山の入口を少し上った所に大きな五輪塔があるくらいだろうか。

備中(岡山)の戦国武将「三村氏」のルーツは此処の三村ではないかといわれている。
しかし、そのことも含め、極楽寺の名前も登山ルートに残されているだけで、今では心地よい風があたりを吹きまわっているに過ぎない。

あまりそんな事を追求することも無いのかもしれないが・・・・

北条ではいつものように観光施設「田村家」に会報を数部届けてきた。
北条もコロナで大分客足は少ないようだ。

田村家の女将さんが居られたので、少し立ち話。

一通りコロナの状況などの確認をして、ひとつ聞いてみました。
「今頃の夏に、こちらでは太郎さんの万灯祭などがあったと思いますが、今年はどうでしたか?」
「ああ、多気太郎さんの万灯祭は、昨日だったのですが、中止で、わたしはお参りに行ってきました」

「石岡と北条を結びつける多気大掾(だいじょう)さんのお墓があるのですから、石岡や北条の方はもっと知って仲良くなれたらいいのですが・・・」と私。

ここ北条に風の機関紙を毎月置いていただき、もう何年も経つのですが、あまり浸透しませんね。
でも少しでも関心を持ってくれる方が居れば、それで良しと、気長に構えていきましょう。

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多気太郎(平義幹)の墓とされる五輪塔
小田氏(八田氏)の換言で源頼朝により潰された多気大掾の最後の城主。

その後、同じ氏族の水戸に移っていた吉田氏に大掾職が渡った。

時々このような歴史話しも書いているが、余り関心が無いのかちっとも広がらない。

どうも自国第一主義、地元第一主義、好き嫌いで他の国を判断する危うさを感じてしまう。

中国は危ないので、きらい、大嫌いだという事を最近聞いた。
違うでしょ! 現政権が厭なだけでしょ。
中国人の全てが嫌いなわけではないでしょ!

中国4000年の歴史は嘘っぱちだ。
日本が皇紀2600年などと言い出したから対抗して大げさに言っているだけだ。
などとネットで騒ぎまわっている人がいる。

日本の皇紀などを本当に信じて疑わない人は、どんな勉強をしているのだろうか。
すべて、自分にとって都合の良い事だけを聞き、それ以外は耳をふさいだり大声で聞こえないようにしているだけなのじゃないか。

こんな状態で、敵地先制攻撃論など危なくて仕方がない。
こんな上滑りの議論をする自民党の議員の質は随分落ちたものだ。

コロナ騒ぎでも、国会が開けれず、影でこんな議論をするのか・・・
あきれてしまう。





近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/08/09 12:16

マイナスイオンで気持もリフレッシュ(岩井の滝不動)

 先週梅雨明けまなじか昼前に、千葉県旭市岩井の滝不動こと龍福寺に行って来ました。
いつものように銚子での仕事の前に立ち寄ったので、あまり時間もありませんでしたが、寺を囲うように切り立った崖から幾筋もの滝が流れ、境内はマイナスイオンが一杯でした。

龍福寺01

私が銚子周辺でいくつも寺回りをしていますが、この旭市の龍福寺(岩井の滝不動)と匝瑳市の飯高寺(はんこうじ)(飯高壇林(いいだかだんりん)跡)、芝山町の芝山仁王尊(観音教寺)などがお奨めです。

龍福寺02

この寺の入り口手前の駐車場に車を止め、此処から寺の境内に進みますが、こちらの昔の石段は使われていないので苔生してなんともいえない趣があります。

龍福寺03

右手の道は寺の仁王門に続きますが、道の脇をきれいな水が音を立てて勢いよく流れています。
車から降り立っただけでマイナスイオンを浴びているのを感じます。

龍福寺04

境内のモミジの木々とどっしりとした本堂とがよくマッチしています。
境内は誰一人居ません。
何か独り占めしている感はとてもいいですね。

龍福寺05

本堂手前に置かれた狛犬もどこか愛嬌もある。
その奥に見えるのは、大きな寺の改築で降ろされた、昔の本堂の鬼瓦。とても立派なものです。

龍福寺06

本堂の横から滝の音が聞こえ、そこをきれいな水が流れています。
奥の崖の一番上から一本の滝が流れ落ちています。
また脇のほうにも幾筋かの滝があります。

龍福寺07

滝に打たれているのはとぐろを巻いた大蛇。

龍福寺08

滝の脇には不動明王。

龍福寺09

奥の院への道。
緑豊かなお寺で、訪れる人も少ないようですがこのコロナ渦での何かもやもやしている人にとっては、静かできっと癒される場所だと思います。


旭市 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/08/03 11:38

雪の降らない里の「雪降里」

 先日まで1ヵ月半くらい毎日、「千葉の難読地名」をとり上げてきました。
今回この最後に書いた「雪降里」という地名の場所に行ってきました。

地名の読みは 雪降里=ぶどうじ です。

どうしてこんな場所にこの地名が付いたのか、書かれたものが全く見つかりませんでしたので一度現地を見てみたいと思ったわけです。
私のブログも「地域に眠る埋もれた歴史」のようなことを長年してきましたが、その殆んどは実際に足を運んで現地を見て感じたことなどを書いてきました。

この「雪降里(ぶどうじ)」は茨城県側からは利根川に架かる有料の「かもめ大橋」(銚子大橋の一つ上流側)を渡ってまっすぐ旭市へ直進する山道の途中にあります。

私はもう一つ手前の水門のある常陸川大橋・利根川大橋を渡って、このかもめ大橋のところを右折していきました。
まあ、時間も殆んど変りませんし、わざわざ有料の橋を渡ることはしませんね。

常陸利根川の水門は半分ほど開いており、また利根川側も半分以上の水門が全開となっていました。
全体に雨の後なので水位が高くなっていました。

ここから旭市側に抜ける千葉県県道73号線(銚子海上線)は、下総台地の山を切り開いたような道で、銚子市、東庄町、旭市が入り組んだような地域を通ります。
台地の上は少し入れば野菜などの畑が広がります。

もう終点に近い旭市岩井821番地くらいの所に コミュニティバスの「雪降里」バス停があります。

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バス停の表示文字の読みは振られていません。
これでははじめて見たら読めませんね。

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バス停の後ろは下総台地の畑が広がっています。
道路の反対側には住宅が連なっています。

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この道をコミュニティバスが走ります。
バスの本数は登り(旭中央病院行き)が朝2本、下りが夕方3本です。未就学児と75歳以上は100円です。
但し、土日は各1本のみとなります。
この地域の買い物や病院へ行くため足を確保しているようです。

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地名の由来について、わかるようなものは何もありません。
奥の農家の方へ行って見ました。
暫く進むと道が狭くなり、行き止まりでした。

近くのおじさんが出てきていたので声をかけて見ました。

「この地名が変っているので、何かご存知ありませんか?」

「歴史はあまり興味もなくわかんないな。」とすげない返事。
でも続けて

「昔最初にこの里に来た人が東北の人だそうです。

福島辺りから来たといっている。

今で17代くらいになるようだからもう400年くらい前になるかもしんめい」

と興味がないとの言葉とは裏腹に良くしゃべってくれました。

どうも最初にやってこの地を開拓した人が、雪深い福島(会津地方?)あたりからやって来て、雪の降らないこの地に「雪降里」と名付けた??

どうもそのような事ではないか。

「ぶどうじ」という名前は、恐らくこのあたりを昔は、「みちなきみち=無道路」と呼ばれていた場所だったのかもしれません。

近くに「石の雪車(ゆきぐるま)遺跡」があると聞いていたので、その方に聞いてみましたが、ご存知ありませんでした。

「雪車=ゆきぐるま=ソリ」で、木材や石などを運搬するために造られた昔の石製のソリが見つかったあたりなのかもしれません。

そのソリを見て、雪車から雪降里という字を当てたとしたら・・・・・
昔の人の気持が伝わってくるようでした。

これは勝手な想像で、どこにも根拠はありません。







千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/08/01 11:11

遅くなり、山百合の里へ

 月に3回~4回ほど仕事で銚子に行っていますが、このコロナ騒ぎで少し回数も減りました。
今月は2回で、30日に出かけましたが、途中行方(なめがた)の西蓮寺裏の「井上山ゆりの里」の様子が知りたくて立ち寄っていく事にしました。

もう西蓮寺からは下りていけないはずなので、仁王門へ行かずにそのまま山を下って田んぼの方へ回りました。
雨上がりで少しぬかるんでいましたが、山に沿った道を車で先へ進めて、少し開けた山百合の里入口へ停めました。

もう山百合は遅いことは承知していましたが、前の週末で山への入口は完全に閉鎖されていました。

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盗掘防止の為に電気鉄線を張り巡らしていて、山の中には入ることが出来ません。
仕方なく外側から眺めて終わりです。

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また次回以降に楽しみましょう。
維持管理は大変でしょうが、是非次回以降も続けていただけることを願います。

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ここの良さは、この目の前に広がる田に渡る風が心地よいことにあります。
他の公演には無い自然が良いのです。

シオカラトンボが私が動くと一緒に前を飛び、しばらく追いかけっこをしていました。

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今年の米の出来はどうなのでしょうか。
もうすぐ梅雨明けで暑さが本番となりそうです。
体調に気をつけたいですね。



里山の風情 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/31 11:40

小松二十三夜尊(土浦)

 今週始めに、土浦の小松で人に会うことになった。
125号線沿いの三夜下に近い場所だった。

ここも昔は良く車で通っていたが、最近は数年ご無沙汰となっていた。
近くに工房を構えている人(芸術家)としばらく歓談した後、帰る前にこの二十三夜尊を訪ねてみる事にした。

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霞ヶ浦沿いを走る国道125号線沿いに上に登る階段がある。
通称100段階段というらしい。

入口には左右に大きな石柱が立てられ、右には「奉 二十三尊」、左には「納 勢至岡遊」と彫られている。


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紫陽花の季節にはもう遅いのだが、遅咲きのアジサイが彩りを添え、雨でぬれた石段を登るのも苦にならない。


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石段を登った上は広く台地となっていて、正面に勢至菩薩を祀る勢至堂の拝殿と本堂がその奥に続いていた。

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石段を登って後ろを振り向くと霞ヶ浦(土浦入り)とその向こうに土浦やかすみがうら市(旧出島)の町などが手に取るようにわかる。

なかなか素晴らしい景色だ。この台地が勢至ヶ岡と呼ばれているのだろう。
ここから霞ヶ浦の方から登る月の出を眺めたのだろう。

横には芭蕉の句碑「春も漸けしきとゝのふ月と梅」がある。
そして、隣の石像には、頭と下の前垂れにピンクの被いがかけられていた。
お顔が隠れてしまっていたので、少したくり上げて拝顔してきました。
右手に宝剣、左手に宝珠を持っているようなので、虚空蔵菩薩でしょうか。

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そして、霞ヶ浦を望む方向にもう一つ句碑があった。
土浦には八景と呼ばれる景色の良い場所があるが、これが一つではなく幾つかあるという。
その中の江戸末期の国文学者の色川三中が選んだ八景に、この勢至岡(せいしがおか)=「勢至岡秋月」が選ばれている。

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(みほとけに恋ひつゝのぼる女坂 往きこそ通ふ勢至ヶ岡へ?  歌子)

脇には、ベンチも置かれていた。
湖側とは反対の岡にはたくさんの石碑、石仏、二十三尊塔などが置かれていた。

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二十三夜の月待講は江戸時代から明治時代頃まで盛んに行われていたようだ。

旧暦の毎月23日の夜が二十三夜で、月齢では22になる。
これは十五夜の満月から順に欠けて来てほぼ半分の下限の月の頃となる。
時刻はまあ真夜中で月により変るが真夜中の10時頃から翌朝の2時頃の間になる。
旧暦8月の23夜の月の出は真夜中の日付が変わる少し前で、山のほうなどでは山からのぼれば当然日付が変ってしまう。

二十三夜尊の石塔などが各地に残されているが、ここでも夜の7時頃から村の女集が集まって真夜中の月の出を待ったのだろうか。

勢至菩薩(月読命)が信仰されるのは多くは女性講であろう。
庚申塔などの信仰は男性陣が多いように思う。

一般に二十三夜は遅すぎるので、女性は十九夜で、男性が二十三夜ではないかと思っていたが、どうやら此処では23日に昼間から講が行われていたようだ。
明治からも結構続いていたようなので途中から夜ではなく昼間から講中の集まりとなったものかもしれない。
話しによると朝から三々五々集まり、参拝ののち茶菓で談笑し、昼食用のお赤飯を持ち帰り散会するのだという。
私の理解している二十三夜講とは少し趣が違っている。

ただここから霞ヶ浦に上る月はおそらく左側の少し鋭くなった先端が最初に現われるのだろう。
真夜中に登る凛とした月の出(下弦の月)を一度見てみたいものだ。

お堂は向かって正面に勢至堂(拝殿+本殿(奥))、左に土浦市文化財となっている仏像が安置された薬師堂がある。
こちらはガラス越しに仏像を眺め拝む事が出来る。

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・薬師如来と日光・月光菩薩(向かって右)
・阿弥陀如来(向かって左)

ともに、鎌倉時代の作で、寄木造(日光、月光は一木造)

手前には十二神将像?が置かれている。

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月読尊(勢至菩薩)やこの薬師如来像などは23日の講のときに開帳されているらしい。(昼頃に終わり?)



少し歴史が気になったので、この勢至岡を調べてみた。
三年前の常陽リビング(2017.5.2)によると、

「(土浦八景は、)土浦藩でも1752年(宝暦2)、藩主・土屋篤直が小松村の高台に「垂松亭」という庵を建て、「霞浦帰帆」「高津晴嵐」「田村夜雨」などを選定したことが、近年見つかった『垂松亭八景詩巻』で明らかになった。
『詩巻』によれば、垂松亭は「ふきはれて月そすミ行岡の辺の雲ハあとなき松のあらしに」とあるように暴風で壊れ、江戸後期の土浦で書画や天文学など多彩な分野に才能を発揮した沼尻墨僊が著した『小松峯記』にも「のち幾ばくもなくして暴風破壊するところとなる」と記されている。

時は流れ1853年(嘉永6)。ペリー来航に国中が揺れる中、小松村では45歳で逝った藩主の思いを残そうと「小松秋月」の舞台となった高台に勢至堂を建設。堂内に飾られた「霞浦八景扁額」は村人からの依頼で墨僊が手掛けたもので、「誰もが見られる場所に風流な藩主が選んだ八景を残そうと奔走した村人がいたということ。
この扁額の歴史的意味はそこにあります」と土浦市立博物館学芸員の堀部猛さん・・・・」
と書かれていた。

古くはこの高台を「勢至ケ岡」と呼んだ。江戸時代には土浦藩の垂松亭という庵が現在の三夜様の隣にあって、四季の風情を楽しむ宴やお茶会が催されていたという。
そのため、石段入り口左側にあった「勢至岡遊」は、この場所が文人墨客の来遊が絶えなかった公園ということで「勢至岡遊園」の名がついたのだという。

やっとなんとか歴史が見えてきました。




筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/28 12:43
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