相鹿の里(丘前の宮)
常陸国風土記の行方郡の最後に、
「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘比売(おほたちばなひめ)命、倭(やまと)より降り来まして、此の地に参り遇(あ)ひたまひき。故、安布賀(あふか)の邑と謂ふ。」
と書かれている。
まあ田の里の南に「相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里」があるといい、その地名の由来を書いている。
古老の話しで、しかも倭武の天皇(ヤマトタケル)の話となれば、まともに信じることは出来ないが、平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に書かれた行方郡の郷名に「逢鹿」「大生」があるので、この名前で残っていることになる。
大生(おおう)郷は元鹿島といわれる大生神社や大生古墳群があるので、大体の場所は判る。
では「逢鹿郷」はどのあたりなのか。
ここはこの前の紹介に書いた「田の里(小牧など)」と大生の間の地域だ。南は「大賀」あたりで、北は「岡」あたりのようだ。
伝承ではヤマトタケルが「相鹿の丘前(おかざき)の宮」にいた時に、食事を大生で作っていたというので「大生(おおう)」となり、后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会した場所なので「相鹿(あふか)」という地名になったという訳のようだ。
この「丘前(おかざき)の宮」と言われる場所は、行方市の「岡」がその遺称地だという。地図には「雷神社」があり、その麓あたりだという。昔訪ねたことが有るので、その時の記事から少し抜き出してみよう。
「丘前の宮」は北浦大橋近くの旧麻生町岡にある。茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

「相賀山 寿福寺」と門柱がある。このあたりに丘前の宮があったと思われている。
この寿福寺という寺は現在この場所にはない。ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。


上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。

一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。

真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれている。
丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれている。

説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。
何ともやはりよくわからない。

常陸国風土記に書かれている内容も現代語で呼んでもどうも地理関係がよくわからない。
そこで、例によってFlood Mapsで海面の高さを+4mして当時の地形を見ながら解釈してみた。

ここに書いたように「岡」という地域が「丘」であり、雷神社の手前東側にヤマトタケルの居たという「丘前の宮」があり、大生神社あたりから水辺に降りた辺りに「大賀」という地区があるので、このあたりに煮炊きする炊事場の建物があったように思う。
ここと、丘前の宮へ通じる浜辺に小舟を繋いでこれを橋として行き来したということでいいのだろう。
やはり現地にいったり、地図を広げて当時の地形を考えてみたりしないと、本を読んだだけではよくわからないものだ。
さて、この丘(岡)は、相鹿山と呼ばれているようで、この台地の西側に中世の城「相賀城」があった。
雷神社から台地上を西に進むと、開けた畑が広がり、一つの立て看板があった。


「相賀城跡(あいがじょうあと)」と書かれていた。
このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。
「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」
と書かれています。
逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。
手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じような系列かもしれない。
やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。
この相賀城跡から下の「根小屋」地区にそのまま降りられる。
そのふもと近くの住宅街に、面白い看板が置かれていた。

「ナウマンゾウの化石」の発掘場所だという。

こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。
またこの「相賀城」の麓である根小屋地区に気になる寺と神社がありました。
「相賀山 龍翔寺」といい敷地の隣に保育所が併設されています。

相賀城の菩提寺だったようで、1501年に開山されたと記されています。
江戸時代はかなり大きな寺だったようです。
麻生町の領域のようですので、江戸時代は水戸藩ではなく麻生藩に属していたと思います。
白浜などと霞ケ浦の北浦に近い場所ですので、水運は発達していたのでしょう。
今は北浦大橋がかかっていますが、ここの交通量はあまり多くないのではないかと思います。

又この寺の直ぐ近くには「八幡神社」という古そうな大きな神社もありました。
「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘比売(おほたちばなひめ)命、倭(やまと)より降り来まして、此の地に参り遇(あ)ひたまひき。故、安布賀(あふか)の邑と謂ふ。」
と書かれている。
まあ田の里の南に「相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里」があるといい、その地名の由来を書いている。
古老の話しで、しかも倭武の天皇(ヤマトタケル)の話となれば、まともに信じることは出来ないが、平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に書かれた行方郡の郷名に「逢鹿」「大生」があるので、この名前で残っていることになる。
大生(おおう)郷は元鹿島といわれる大生神社や大生古墳群があるので、大体の場所は判る。
では「逢鹿郷」はどのあたりなのか。
ここはこの前の紹介に書いた「田の里(小牧など)」と大生の間の地域だ。南は「大賀」あたりで、北は「岡」あたりのようだ。
伝承ではヤマトタケルが「相鹿の丘前(おかざき)の宮」にいた時に、食事を大生で作っていたというので「大生(おおう)」となり、后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会した場所なので「相鹿(あふか)」という地名になったという訳のようだ。
この「丘前(おかざき)の宮」と言われる場所は、行方市の「岡」がその遺称地だという。地図には「雷神社」があり、その麓あたりだという。昔訪ねたことが有るので、その時の記事から少し抜き出してみよう。
「丘前の宮」は北浦大橋近くの旧麻生町岡にある。茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

「相賀山 寿福寺」と門柱がある。このあたりに丘前の宮があったと思われている。
この寿福寺という寺は現在この場所にはない。ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。


上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。

一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。

真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれている。
丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれている。

説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。
何ともやはりよくわからない。

常陸国風土記に書かれている内容も現代語で呼んでもどうも地理関係がよくわからない。
そこで、例によってFlood Mapsで海面の高さを+4mして当時の地形を見ながら解釈してみた。

ここに書いたように「岡」という地域が「丘」であり、雷神社の手前東側にヤマトタケルの居たという「丘前の宮」があり、大生神社あたりから水辺に降りた辺りに「大賀」という地区があるので、このあたりに煮炊きする炊事場の建物があったように思う。
ここと、丘前の宮へ通じる浜辺に小舟を繋いでこれを橋として行き来したということでいいのだろう。
やはり現地にいったり、地図を広げて当時の地形を考えてみたりしないと、本を読んだだけではよくわからないものだ。
さて、この丘(岡)は、相鹿山と呼ばれているようで、この台地の西側に中世の城「相賀城」があった。
雷神社から台地上を西に進むと、開けた畑が広がり、一つの立て看板があった。


「相賀城跡(あいがじょうあと)」と書かれていた。
このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。
「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」
と書かれています。
逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。
手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じような系列かもしれない。
やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。
この相賀城跡から下の「根小屋」地区にそのまま降りられる。
そのふもと近くの住宅街に、面白い看板が置かれていた。

「ナウマンゾウの化石」の発掘場所だという。

こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。
またこの「相賀城」の麓である根小屋地区に気になる寺と神社がありました。
「相賀山 龍翔寺」といい敷地の隣に保育所が併設されています。

相賀城の菩提寺だったようで、1501年に開山されたと記されています。
江戸時代はかなり大きな寺だったようです。
麻生町の領域のようですので、江戸時代は水戸藩ではなく麻生藩に属していたと思います。
白浜などと霞ケ浦の北浦に近い場所ですので、水運は発達していたのでしょう。
今は北浦大橋がかかっていますが、ここの交通量はあまり多くないのではないかと思います。

又この寺の直ぐ近くには「八幡神社」という古そうな大きな神社もありました。
小牧の普門寺
昨日書いた行方郡の田の里にある鹿島神宮と関係の深かったという(小牧)鉾神社を紹介しましたが、この神社のある台地に南側に普門寺(天台宗)というお寺が、この神社の別当であるというので、そちらも確認して来ました。
山の麓に立っていますが、台地の上からは竹林で道は確認できませんでした。この寺の上には中世に砦があったようです。
寺へは下の道から回っていきました。

寺の入口に「天台宗」の文字が。奥に寺の本堂が見えます。
住職は恐らく近くに住んでいて、常駐はしていないようです。

入口左側に「普門寺」の文字。

その裏に潮来で国会議員をされていた橋本富三郎さんの銘が記入されていました。


寺の開祖の説明板が2種類。上が古い物で、下は新しく製作されたもの。
これによると大同元年(806年)に創建された「薬師堂」、「三光寺」が最初のようだ。
九州日向国(宮崎)の上人が建立したという。
普門寺と合併したのは大正末期のようだ。

立て看板の近くにこのような池がある。この池から仏像を神鉾で救い上げて、それを祀ったと言う。

こちらが薬師堂(鉾薬師)。
上りの石段は苔むしていて雨の日などは足元は危ない。
ゆっくりと足を踏みしめて上へ。

「鉾薬師如来」の扁額が掲げられているが、内部を隙間から覗くが内部が暗く、何が置かれているのかがよく見えない。
カメラで撮影し、少し修正してみておおよその様子は判明した。

須弥壇中央に薬師如来とその左右に月光・日光像? まわりに十二神将像? そしてその手前に祝詞用の座布団と台?
こんなところだろうか。
比較的雑然とおかれているようだ。
この寺には市の文化財の仏像がたくさんある。

こちらの阿弥陀如来像は合併前の普門寺にあったものか?
鎌倉時代から室町時代後半という。 多分、寺の本堂に安置されているのだろう。

こちらの平安時代作の薬師如来像が、薬師堂の本尊。806年という年号とあっているかは不明。
薬師如来像が約1m弱、日光月光像は50cm弱。

十二神将像も40cmくらいの像だ。

鉾薬師堂の裏手はこのような竹林なっている。
なかなか趣きのある寺である。
このような場所にひっそりと佇んでいるのはなにか勿体ない思いがしてしまった。
常陸国風土記を細かく読まなければおそらく訪れることもなかったと思う。
山の麓に立っていますが、台地の上からは竹林で道は確認できませんでした。この寺の上には中世に砦があったようです。
寺へは下の道から回っていきました。

寺の入口に「天台宗」の文字が。奥に寺の本堂が見えます。
住職は恐らく近くに住んでいて、常駐はしていないようです。

入口左側に「普門寺」の文字。

その裏に潮来で国会議員をされていた橋本富三郎さんの銘が記入されていました。


寺の開祖の説明板が2種類。上が古い物で、下は新しく製作されたもの。
これによると大同元年(806年)に創建された「薬師堂」、「三光寺」が最初のようだ。
九州日向国(宮崎)の上人が建立したという。
普門寺と合併したのは大正末期のようだ。

立て看板の近くにこのような池がある。この池から仏像を神鉾で救い上げて、それを祀ったと言う。

こちらが薬師堂(鉾薬師)。
上りの石段は苔むしていて雨の日などは足元は危ない。
ゆっくりと足を踏みしめて上へ。

「鉾薬師如来」の扁額が掲げられているが、内部を隙間から覗くが内部が暗く、何が置かれているのかがよく見えない。
カメラで撮影し、少し修正してみておおよその様子は判明した。

須弥壇中央に薬師如来とその左右に月光・日光像? まわりに十二神将像? そしてその手前に祝詞用の座布団と台?
こんなところだろうか。
比較的雑然とおかれているようだ。
この寺には市の文化財の仏像がたくさんある。

こちらの阿弥陀如来像は合併前の普門寺にあったものか?
鎌倉時代から室町時代後半という。 多分、寺の本堂に安置されているのだろう。

こちらの平安時代作の薬師如来像が、薬師堂の本尊。806年という年号とあっているかは不明。
薬師如来像が約1m弱、日光月光像は50cm弱。

十二神将像も40cmくらいの像だ。

鉾薬師堂の裏手はこのような竹林なっている。
なかなか趣きのある寺である。
このような場所にひっそりと佇んでいるのはなにか勿体ない思いがしてしまった。
常陸国風土記を細かく読まなければおそらく訪れることもなかったと思う。
田の里と鹿島神宮の神馬
先日書いた行方郡の芸都(きつ)の里の後に、
「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の神子の社在り。土塉(つちや)せ、櫟(いちい)・柞(ははそ)・楡(にれ)・竹、一二生(お)ひたり。」
と書かれています。
「三度韓国(からくに)に遣されしか・・・」と書かれていますが、どうやら新羅・高麗・百済の三韓征伐のことを指しているようだが、この征伐として3回派遣されたというような話は無いという。そのため三韓征伐に派遣されたと解釈されるという。
そして功労により田を貰った。と云うのは税としての特権を与えられたということなのか?

どうもこの辺りは訪れる機会が少なき、あまりイメージがわいて来ません。
ただ、大生より北で芸都の里よりも南の地はどんなところなのでしょうか?
霞ヶ浦の北浦沿いで、鹿行大橋の南側で、新しくできた北浦大橋の少し北側の地域です。
確かにこの近くに用事が無ければ訪れることもほとんどありません。
田の里に比定される地域は、平安時代の倭名抄で「道田郷」といわれる地域だとされています。
この道田郷については、角川の地名辞典によれば、「新編常陸」には江戸期の地名といて、新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿の7村を当てているといいます。しかし、この「田の里」の東側に香島の神子の社があり、そこはすぐ海の近くだとなっていますので、このマークした鉾神社(高台台地に在り、中世には小牧氏?の城があった?)の下は蓮田が広がりますが、風土記の頃は水がこの下あたりまで来ていたのでしょう。
天掛や新宮などの北浦沿いは当時はまだ水の中だったかもしれません。

それでは、当時から続いている神社と云うことで、「鉾神社」に行って見ました。
ただ、この鉾神社も車で近くまで行くのもよく道がわかりません。
近くの同じ高台には「大和第一小学校」があったようですが、2013年春に閉校となりました。

車も南側からまわって、小学校の北側のグランドの方にいけるようでした。
ただ、今回は心配のため、神社の山の西側の県道沿いの近くに停めて、歩いて上っていきました。

県道からの上り口。このあたりに停めて、後ろ側の山に歩いて登る事に。

山の上りはそれほどきつきものでも在りませんが、車はたぶん無理そうです。

上って直ぐに廃校となった小学校のグランドの脇に出ました。
学校の建屋は全く在りませんでした。すっかりへいちとなっていて、中にも入れないようになっていました。

この学校跡地の脇の道を北にそのまま進むと、遠くに神社の鳥居が見えました。
車も通れそうです。ただ、小学校入口からはこちらへは工事中で通れないようです。
そのため、もう少し先に回り込んで狭い道ですが、近くまで来られそうです。

少し長い参道を進んで、赤い鳥居の脇に昭和19年建立の「村社鉾神社」の石柱が置かれ、下記説明案内版が置かれていました。

ここでは「小牧(こまき)」地名に対して「こうまき」と読みをふっています。
この地域が鹿島神宮の馬の飼育地(牧)だったために「小牧=神牧」の意味だと書かれています。
祭礼も鹿島神宮から昔は禰宜等が年に何度もやって来て行っていたようです。


拝殿

本殿

江戸時代から近くの村々の信仰がかなりあったようです。
小さな社に納められたものが2つ。



粟嶋大明神?
寛政年の銘が入っていました。

こちらの江戸時代の富士講のようです。
「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の神子の社在り。土塉(つちや)せ、櫟(いちい)・柞(ははそ)・楡(にれ)・竹、一二生(お)ひたり。」
と書かれています。
「三度韓国(からくに)に遣されしか・・・」と書かれていますが、どうやら新羅・高麗・百済の三韓征伐のことを指しているようだが、この征伐として3回派遣されたというような話は無いという。そのため三韓征伐に派遣されたと解釈されるという。
そして功労により田を貰った。と云うのは税としての特権を与えられたということなのか?

どうもこの辺りは訪れる機会が少なき、あまりイメージがわいて来ません。
ただ、大生より北で芸都の里よりも南の地はどんなところなのでしょうか?
霞ヶ浦の北浦沿いで、鹿行大橋の南側で、新しくできた北浦大橋の少し北側の地域です。
確かにこの近くに用事が無ければ訪れることもほとんどありません。
田の里に比定される地域は、平安時代の倭名抄で「道田郷」といわれる地域だとされています。
この道田郷については、角川の地名辞典によれば、「新編常陸」には江戸期の地名といて、新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿の7村を当てているといいます。しかし、この「田の里」の東側に香島の神子の社があり、そこはすぐ海の近くだとなっていますので、このマークした鉾神社(高台台地に在り、中世には小牧氏?の城があった?)の下は蓮田が広がりますが、風土記の頃は水がこの下あたりまで来ていたのでしょう。
天掛や新宮などの北浦沿いは当時はまだ水の中だったかもしれません。

それでは、当時から続いている神社と云うことで、「鉾神社」に行って見ました。
ただ、この鉾神社も車で近くまで行くのもよく道がわかりません。
近くの同じ高台には「大和第一小学校」があったようですが、2013年春に閉校となりました。

車も南側からまわって、小学校の北側のグランドの方にいけるようでした。
ただ、今回は心配のため、神社の山の西側の県道沿いの近くに停めて、歩いて上っていきました。

県道からの上り口。このあたりに停めて、後ろ側の山に歩いて登る事に。

山の上りはそれほどきつきものでも在りませんが、車はたぶん無理そうです。

上って直ぐに廃校となった小学校のグランドの脇に出ました。
学校の建屋は全く在りませんでした。すっかりへいちとなっていて、中にも入れないようになっていました。

この学校跡地の脇の道を北にそのまま進むと、遠くに神社の鳥居が見えました。
車も通れそうです。ただ、小学校入口からはこちらへは工事中で通れないようです。
そのため、もう少し先に回り込んで狭い道ですが、近くまで来られそうです。

少し長い参道を進んで、赤い鳥居の脇に昭和19年建立の「村社鉾神社」の石柱が置かれ、下記説明案内版が置かれていました。

ここでは「小牧(こまき)」地名に対して「こうまき」と読みをふっています。
この地域が鹿島神宮の馬の飼育地(牧)だったために「小牧=神牧」の意味だと書かれています。
祭礼も鹿島神宮から昔は禰宜等が年に何度もやって来て行っていたようです。


拝殿

本殿

江戸時代から近くの村々の信仰がかなりあったようです。
小さな社に納められたものが2つ。



粟嶋大明神?
寛政年の銘が入っていました。

こちらの江戸時代の富士講のようです。
芸都(きつ)の里=うるわしの小野
常陸国風土記の行方郡に「芸都(きつ)の里」という場所が書かれています。
前に書いた当麻(たぎま)の里のすぐ後、
「此れより以南に芸都(きつ)の里あり。古、国栖、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)と謂ふ二人有りき。其の寸津毘古、天皇の幸に当り、命に違ひ、化(おもむけ)に背きて、甚く粛敬无(な)かりき。爰(ここ)に御剣を抽(ぬ)きて、登時(すなはち)斬り滅(ころ)したまひき。是に、寸津毘売、懼悚(おそ)り心愁へ、白幡を表挙げて、道に迎へ、拝み奉りき。天皇矜(あわれ)みて恩旨(みめぐみ)を降し、其の房(いえ)を放免したまひき。更、乗輿(みこし)を廻らして、小抜野(をぬきの)の頓宮に幸ししに、寸津毘売、姉妹を引率(ひきゐ)て信に心力を竭(つく)し、風雨を避けず、朝夕に供(つか)へ奉りき。天皇、其の懇ろ慇懃(ねんごろ)なるを欵(よろこ)びて、恵慈(うるほ)しみたまひき。所以に、此の野を宇流波斯(うるは)の小野と謂ふ。」
と書かれている。
(現代語の意味)「この芸都(きつ)の里には昔、現地人の種族の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)という男女2人を長とした種族がいた。ヤマトタケルの天皇が来たときに、男の寸津毘古は天皇の言う事に従わなかったので一刀のもとに切り殺された。これを見て女の寸津毘売は白旗を掲げて地べたにひれ伏して許しを願い天皇を奉った。天皇はあわれんでこれを許し放免した。すると寸津毘売は喜んで一族皆引き連れて(姉妹:男女問わず一族のこと)雨の日も風の日も、また朝から晩まで天皇に奉仕した。ヤマトタケルの天皇はこれを喜び御恵みを与えられた。このことからこの地を【うるわしの小野】というようになった。」
ここでは元からいた現地人を「佐伯」ではなく山城国と同じように「国栖(くず)」と表現しています。同じように思っていますが、年代や種族によって使い分けているのかもしれません。
さて、この「芸都(きつ)の里」の場所ですが、平安時代に書かれた倭名抄では行方郡の中に17箇所の郷名(提賀・小高・藝都・大生・當鹿・逢鹿・井上・高家・麻生・八代・香澄・荒原・道田・行方・曾禰・坂来(板来)・餘戸)が書かれていますが、ここの「藝都(きつ)」の場所だと思われます。
藝都郷 ⇒ 旧北浦町 小貫・長野江・三和・成田・次木(なみき)のあたりで、江戸時代の村名では小貫・次木・成田・帆津倉・金上・穴瀬・高田・長野江を揚げています。
また、小抜野(をぬきの)はその同じ郷に中の「小貫」地区と見られています。ここを「うるわしの小野」といわれているように書いてありますが、現在現地に行っても特に感じられるものはありません。
新編常陸の記述では「成田村の西の野に小沼あり、水湧出す、これを化蘇沼(けそぬま)と云う」と書かれているとあります。(角川地名大辞典)
この化蘇沼近くに「化蘇沼稲荷神社」が1478年に建立され、この地の住所は内宿町ですが、本来隣の成田町ともいわれ、この旧藝都郷の一角に入るとされ、この神社境内にこの寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)の像が置かれています。
以下、もう8年前にこの神社を訪れたときの記事を抜粋して少し紹介します。

神社参道の入り口に木の鳥居があります。
その横に「茨城百景化蘇沼稲荷」の石碑がある。
鳥居から桜の並木が続く。
桜の木もかなりの年数が経っている古木だ。

しばらく進むと赤い神社の建物が見えてくる。

祭神は倉稲魂命で、五穀豊穣の神様だ。
創建は1478年で、大掾(だいじょう)氏は水戸城を江戸氏に奪われ石岡(常陸府中)に居を構えていたはずである。
その大掾氏がこの地を治めていたというのは木崎城や香取神社でも出てきたが、甲斐の武田氏一族もこの地方にやってきたのは15世紀の初頭のようなのでこのあたりの関係はどうなっているのだろう。

稲荷神社なので狛犬ならぬ狐の像が置かれています。
稲荷神社ということで本殿、拝殿ともに柱などは全て赤ですが、たくさんの鳥居が並ぶようなものはありません。
でも敷地も建物もかなり厳かな雰囲気があります。

この神社の建物が行方市の有形文化財に登録されています。
また手前にある古木はモミの木で幹回り約4m、樹高約16m、樹齢は約360年といわれており、市の天然記念物に指定されているそうです。
この神社の裏手に立派な土俵がありました。
この稲荷神社は別名「関取稲荷」といわれるようで、昔から相撲が盛んだったようです。
特に天保年間(1830~1844年)にこの町出身の秀ノ山雷五郎(四代目秀ノ山親方)が生まれ、ここで奉納相撲をしたことで豊作を祈願する行事と合わさって盛んになったといいます。
今でも毎年夏に子供たちの相撲大会や巫女舞などが行なわれているといいます。


この神社境内に「・この道やゆく人なしに秋のくれ」
という芭蕉の句碑が境内にあるという。写真は取り忘れたのでない。
この 「藝都郷」は江戸時代には俳人などもいて、結構賑わったらしい。
今では其の面影を感じることも殆んど無いが・・・・。
実は小林一茶が文化14年(1817)にここを訪れている。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこからここまで4里を馬で送ってもらったという。
そしてこの近くの北浦湖畔で1泊し、対岸の札村にわたり、その後鹿島神宮を訪れ、潮来から舟で銚子へ向かっている。
一体何がここにあったのだろうかと前から気にしていたが、いろいろ調べていくと少し理由が見えてきた。
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「市報 行方」(行方市教育委員会生涯学習課)
洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)は、水戸藩の支藩守山藩領の行方郡帆津倉(ほつくら)村に宝暦12年(1762年)に生まれました。
その頃の関東各所、特に銚子から野田にかけての利根川沿岸では、利根川の水運を生かして醸造業が栄えており、利根川に続く常陸の北浦沿岸も同様でした。
生家河野家はその醸造業繁栄圏に位置しており、村の名主を務めながら醤油醸造業も営んでいました。
大店の主である涼谷は、芭蕉や親交のあった一茶のような職業俳人ではなく、俳諧を趣味として楽しんだいわゆる遊 俳であり、その仲間も句会や業俳との交流を楽しむ趣味人でありました。
その中でも特に涼谷は、洞海舎社中をまとめながら、句会の開催、句集の編集と発行、江戸の業俳との交流会や接待を精力的に行う遊俳の一典型とも言えます。
文化から天保期にかけての北浦湖岸の俳諧圏は、少なくとも四十村二百人の俳人を数えるほどに大きな俳諧圏を築いており、中でも洞海舎同人を中心とした帆津倉俳壇の活躍は地方稀(まれ)なる盛況と書き残されています。
名月も昨日になりぬ峰の松
洞海舎河野涼谷は、多くの業俳と親交を持ちました。
小林一茶の旅日記「七番日記」には、文化十四年五月二十五日の条に「小川よリ四里、馬にて送らる、化蘇根(沼)いなり社有、李尺氏神と云。帆津倉(ほつくら)に泊。」とあり、化蘇沼稲荷神社に詣でたり、北浦の涼谷宅に宿泊したリしたことが分かリます。
涼谷は、他にも江戸や備前の業俳を招いては句会を催しました。
それは言うまでもなく利根川の水運と河岸(かし)の持つ経済力と業俳の持つ指導力と情報力がうまくかみ合ったからなのですが、遊俳の人々の進取の気風と江戸の文化への憧憬(どうけい)が大きな要因ではなかったかと思われます。
化蘇沼稲荷神社境内には芭蕉の歌碑が二基あリ、いずれも洞海舎連中の建立によるものですが、涼谷と芭蕉の句が一つの石に彫られた歌碑は、芭蕉百六十五回忌、涼谷二十三回忌の安政五年に社中によって建立されたことがわかリます。
裏には建立に当たった俳人の名が連ねられておリ、洞海舎の隆盛と共に句碑や奉納額が掲げられていた当時の化蘇沼稲荷神社が偲ばれます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
という記事を見つけました。
俳人であり、また醤油業に進出して財を成した「洞海舎河野涼谷」という人物がここにいたからなのだとわかりました。
前に書いた当麻(たぎま)の里のすぐ後、
「此れより以南に芸都(きつ)の里あり。古、国栖、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)と謂ふ二人有りき。其の寸津毘古、天皇の幸に当り、命に違ひ、化(おもむけ)に背きて、甚く粛敬无(な)かりき。爰(ここ)に御剣を抽(ぬ)きて、登時(すなはち)斬り滅(ころ)したまひき。是に、寸津毘売、懼悚(おそ)り心愁へ、白幡を表挙げて、道に迎へ、拝み奉りき。天皇矜(あわれ)みて恩旨(みめぐみ)を降し、其の房(いえ)を放免したまひき。更、乗輿(みこし)を廻らして、小抜野(をぬきの)の頓宮に幸ししに、寸津毘売、姉妹を引率(ひきゐ)て信に心力を竭(つく)し、風雨を避けず、朝夕に供(つか)へ奉りき。天皇、其の懇ろ慇懃(ねんごろ)なるを欵(よろこ)びて、恵慈(うるほ)しみたまひき。所以に、此の野を宇流波斯(うるは)の小野と謂ふ。」
と書かれている。
(現代語の意味)「この芸都(きつ)の里には昔、現地人の種族の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)という男女2人を長とした種族がいた。ヤマトタケルの天皇が来たときに、男の寸津毘古は天皇の言う事に従わなかったので一刀のもとに切り殺された。これを見て女の寸津毘売は白旗を掲げて地べたにひれ伏して許しを願い天皇を奉った。天皇はあわれんでこれを許し放免した。すると寸津毘売は喜んで一族皆引き連れて(姉妹:男女問わず一族のこと)雨の日も風の日も、また朝から晩まで天皇に奉仕した。ヤマトタケルの天皇はこれを喜び御恵みを与えられた。このことからこの地を【うるわしの小野】というようになった。」
ここでは元からいた現地人を「佐伯」ではなく山城国と同じように「国栖(くず)」と表現しています。同じように思っていますが、年代や種族によって使い分けているのかもしれません。
さて、この「芸都(きつ)の里」の場所ですが、平安時代に書かれた倭名抄では行方郡の中に17箇所の郷名(提賀・小高・藝都・大生・當鹿・逢鹿・井上・高家・麻生・八代・香澄・荒原・道田・行方・曾禰・坂来(板来)・餘戸)が書かれていますが、ここの「藝都(きつ)」の場所だと思われます。
藝都郷 ⇒ 旧北浦町 小貫・長野江・三和・成田・次木(なみき)のあたりで、江戸時代の村名では小貫・次木・成田・帆津倉・金上・穴瀬・高田・長野江を揚げています。
また、小抜野(をぬきの)はその同じ郷に中の「小貫」地区と見られています。ここを「うるわしの小野」といわれているように書いてありますが、現在現地に行っても特に感じられるものはありません。
新編常陸の記述では「成田村の西の野に小沼あり、水湧出す、これを化蘇沼(けそぬま)と云う」と書かれているとあります。(角川地名大辞典)
この化蘇沼近くに「化蘇沼稲荷神社」が1478年に建立され、この地の住所は内宿町ですが、本来隣の成田町ともいわれ、この旧藝都郷の一角に入るとされ、この神社境内にこの寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)の像が置かれています。
以下、もう8年前にこの神社を訪れたときの記事を抜粋して少し紹介します。

神社参道の入り口に木の鳥居があります。
その横に「茨城百景化蘇沼稲荷」の石碑がある。
鳥居から桜の並木が続く。
桜の木もかなりの年数が経っている古木だ。

しばらく進むと赤い神社の建物が見えてくる。

祭神は倉稲魂命で、五穀豊穣の神様だ。
創建は1478年で、大掾(だいじょう)氏は水戸城を江戸氏に奪われ石岡(常陸府中)に居を構えていたはずである。
その大掾氏がこの地を治めていたというのは木崎城や香取神社でも出てきたが、甲斐の武田氏一族もこの地方にやってきたのは15世紀の初頭のようなのでこのあたりの関係はどうなっているのだろう。

稲荷神社なので狛犬ならぬ狐の像が置かれています。
稲荷神社ということで本殿、拝殿ともに柱などは全て赤ですが、たくさんの鳥居が並ぶようなものはありません。
でも敷地も建物もかなり厳かな雰囲気があります。

この神社の建物が行方市の有形文化財に登録されています。
また手前にある古木はモミの木で幹回り約4m、樹高約16m、樹齢は約360年といわれており、市の天然記念物に指定されているそうです。
この神社の裏手に立派な土俵がありました。
この稲荷神社は別名「関取稲荷」といわれるようで、昔から相撲が盛んだったようです。
特に天保年間(1830~1844年)にこの町出身の秀ノ山雷五郎(四代目秀ノ山親方)が生まれ、ここで奉納相撲をしたことで豊作を祈願する行事と合わさって盛んになったといいます。
今でも毎年夏に子供たちの相撲大会や巫女舞などが行なわれているといいます。


この神社境内に「・この道やゆく人なしに秋のくれ」
という芭蕉の句碑が境内にあるという。写真は取り忘れたのでない。
この 「藝都郷」は江戸時代には俳人などもいて、結構賑わったらしい。
今では其の面影を感じることも殆んど無いが・・・・。
実は小林一茶が文化14年(1817)にここを訪れている。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこからここまで4里を馬で送ってもらったという。
そしてこの近くの北浦湖畔で1泊し、対岸の札村にわたり、その後鹿島神宮を訪れ、潮来から舟で銚子へ向かっている。
一体何がここにあったのだろうかと前から気にしていたが、いろいろ調べていくと少し理由が見えてきた。
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「市報 行方」(行方市教育委員会生涯学習課)
洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)は、水戸藩の支藩守山藩領の行方郡帆津倉(ほつくら)村に宝暦12年(1762年)に生まれました。
その頃の関東各所、特に銚子から野田にかけての利根川沿岸では、利根川の水運を生かして醸造業が栄えており、利根川に続く常陸の北浦沿岸も同様でした。
生家河野家はその醸造業繁栄圏に位置しており、村の名主を務めながら醤油醸造業も営んでいました。
大店の主である涼谷は、芭蕉や親交のあった一茶のような職業俳人ではなく、俳諧を趣味として楽しんだいわゆる遊 俳であり、その仲間も句会や業俳との交流を楽しむ趣味人でありました。
その中でも特に涼谷は、洞海舎社中をまとめながら、句会の開催、句集の編集と発行、江戸の業俳との交流会や接待を精力的に行う遊俳の一典型とも言えます。
文化から天保期にかけての北浦湖岸の俳諧圏は、少なくとも四十村二百人の俳人を数えるほどに大きな俳諧圏を築いており、中でも洞海舎同人を中心とした帆津倉俳壇の活躍は地方稀(まれ)なる盛況と書き残されています。
名月も昨日になりぬ峰の松
洞海舎河野涼谷は、多くの業俳と親交を持ちました。
小林一茶の旅日記「七番日記」には、文化十四年五月二十五日の条に「小川よリ四里、馬にて送らる、化蘇根(沼)いなり社有、李尺氏神と云。帆津倉(ほつくら)に泊。」とあり、化蘇沼稲荷神社に詣でたり、北浦の涼谷宅に宿泊したリしたことが分かリます。
涼谷は、他にも江戸や備前の業俳を招いては句会を催しました。
それは言うまでもなく利根川の水運と河岸(かし)の持つ経済力と業俳の持つ指導力と情報力がうまくかみ合ったからなのですが、遊俳の人々の進取の気風と江戸の文化への憧憬(どうけい)が大きな要因ではなかったかと思われます。
化蘇沼稲荷神社境内には芭蕉の歌碑が二基あリ、いずれも洞海舎連中の建立によるものですが、涼谷と芭蕉の句が一つの石に彫られた歌碑は、芭蕉百六十五回忌、涼谷二十三回忌の安政五年に社中によって建立されたことがわかリます。
裏には建立に当たった俳人の名が連ねられておリ、洞海舎の隆盛と共に句碑や奉納額が掲げられていた当時の化蘇沼稲荷神社が偲ばれます。
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という記事を見つけました。
俳人であり、また醤油業に進出して財を成した「洞海舎河野涼谷」という人物がここにいたからなのだとわかりました。
角折の浜
この角折の浜についても今まで何回か書いてきたが、いろいろ調べていくと知らない話しも出てきて面白い。
1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。
さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、
「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づく。或ひと曰へらく、倭武の天皇、此の浜に停宿りまして、御膳を薦め奉りし時、都(かつ)て水無かりき。即ち、鹿の角を執りて地を掘りしに、其の角折れ為りき。この所以に名づくといひき。(以下略く)」
と書かれています。
この後半の倭武の天皇(ヤマトタケル)の話はとくに、当時の謂れでわからないことは凡てヤマトタケル伝承にしてしまっているところが感じられますので、この前半の角のある大蛇(をろち)の話が面白いですね。
角のある蛇の話は「行方郡」の中に「夜刀の神」として出ています。
この大和朝廷の東北方面の蝦夷征伐では、原住民たちは山の佐伯、野の佐伯、土蜘蛛などと表現されていますが、の夜刀神(やとのかみ)なども谷津に住む原住民たちを表現しているものと考えられますが、これを「角のある蛇」と表現したものでしょう。
鬼に角があり、蝦夷征伐も「鬼退治」などと言う表現もあるように思いますので、蛇は神でもあり、そこに角を生やして退治すべき対象と区別するために表現したものでしょうか。
風土記の文章ではこの角のある大蛇が「東の海に通る(いた)らむと欲ひて」と書かれています。
このあたりの内海などの周りには海の恵みで生活する縄文人といわゆる九州あたりからやってきた海神族が住んでいたと思われます。するとこの角のある蛇は森や谷で生活していた原住民のことだったのでしょうか。
外洋に出ようと、山から下り、谷から這い出して、浜砂の地にやってきたが、力尽きて?角が折れてしまったのか、または海神族になったのか? いろいろ解釈できそうです。
現在、鹿島灘の鹿嶋と鉾田の中間くらいに鹿嶋臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という長い名前の駅があります。
この名前はいろいろなことを教えてくれます。
長者ヶ浜:御伽草子の文正草(双)紙の話しの元となった塩焼きで財を成し、貴族に上り詰めた文太こと「文正長者」のいたところ
はまなす:ここが日本のハマナスの南限地とされていること。
ですが、この角折伝説でいう「角折」という名前が残っている場所でもあります。
ただ、この文太は鹿島大宮司家に仕えていたが、大宮司より暇をもらって「つのおか」村に住み、製塩で巨財をなしたという話として伝わっています。したがって、奈良朝頃は「角折=つのをれ」で、中世には「つのおか」となり、また「つのおれ」に戻ったという様な経緯が見て取れます。
草紙の文の中では、文太は「つのをかヾ磯」にやって来て塩で財を成し、「文正つねおか」と名乗る長者となったとあります。
従って、江戸時代後期の則孝公の考察があり、そこに
「此村の名も今は、「つのをれ」と、云なり。皇學者中山信名、平四郎、氏が考には、昔は大方、假名文字を用ひしゆゑ、「を可」と書しを「をり」と、語り出て、又、真名に「折」と書き、それより「折」と称し、終に、今のごとく、「角折」になりしならん。「り」と「れ」と通音なれば、然か、称来りしならんと。此説當れりとおもはる。」と書かれています。
すなわち「文太長者の時代に「つのおか村」だった村名が「つのおれ村」に変化していった原因について国学者の考察が引用紹介されているのです。)
(鹿嶋デジタル博物館 七、角折村(つのれむら)の昔話 より)
でももっと前のこの風土記の時代に「角折」と書かれていたことは考慮されていません。
一方角川の「日本地名醍辞典 8茨城県」には
『主人公の文正(文太)は鹿島大宮司に仕えていたが、ある時大宮司よりいとまを申し渡され、やむなく「いづちともなく行く程に、つのをかヾ磯、塩焼く浦に着きにけり」とある。角折は太平洋に面し、鹿島半島の太平洋側は古くから塩の産地だったと思われる。角折も「塩焼く浦」であり、文正はそこで塩売りとして大成功し「つのをかが磯の塩屋ども、みなみな従ひける」ほどになって、名を改めて「文正つねおか」と名乗ったという。この名乗りにあわせて、角折という地名を物語上「つねおか」と変えたのであろう。』
と書かれており、上記の角折(つのれ)村の昔話の解説をひていしています。
私もこの角川の地名辞典の内容を支持したいと思います。
江戸時代から明治22年まで「角折村」がありましたが、明治22年に近隣の村が合併して「大同村大字角折」となりました。
その後昭和30年に中野村と合併し「大野村(大同の大と中野の野)」となり、平成7年に鹿島町に編入され、同時に鹿嶋市となりました。
では以前訪れたこのあたりにある「大野潮騒はまなす公園」に立ち寄ったときの記事を参考に復UPします。
非常に大きな公園で整備もされているのですが、水戸と鹿島を結ぶ国道51号線沿いから公園へのアクセスはあまりよくありません。

西側の駐車場近くには大きなタワーが建っており展望台と2F部分にプラネタリウムができています。
ハマナスは自生するものとして太平洋側はこの鹿島灘近くに南限地とされている場所があります。
ここより少し北の鉾田市と鹿嶋市の境付近です。(日本海側の南限は鳥取です)

こうしてプラネタリウムなども見られるのですが、平日となるとほとんどお客さんはいません。
お掃除の人と散歩をしているの数人だけです。
公園内部は遊具などもあり子供連れでも一日楽しめそうです。

公園の中に入ってみます。
山の地形を利用したように高低差があり川や池などが周りにあり中央に広場がある構成です。

森の中を下っていくと弁天池と名のついた池に赤い橋。
この公園には昔、大きな寺があったようです。
公園内には、日本一長いともいうジャンボローラー滑り台(長さは154m)があります。
公園内の美術館の建物裏に回ってみたら、そこに文正長者の屋敷跡の石碑がおかれていました。

文太長者屋敷跡
夕日かがやく
この岡に
黄金せんばい
にせんばい
屋敷の由来
「鹿島大明神 宮司の下僕であった文太が下僕をやめて角岡ヶ磯 角折の浜に来て塩炊き の家に雇われ 薪取りや、塩水汲みの仕事をするようになりました。
陰日向無く誰よりも良く働く文太の姿を見ていた主人から褒美に釜を上げるから自分で塩を作ってみないか と言われ釜をもらって塩を炊きはじめました。
作るからには 他の塩に負けない良い塩を作ろうと くふうをこらして作りました。 文太の作った塩は、真白で味も良く、その上病気もなおったと 大変な評判になりました。 そのため 作っても作っても間に合いません。 雇い人達にも屋さしく暖かい言葉をかけていたわったり励ましたりしました。 働いている人達も一生懸命働きましたので ますます良い塩ができたのです。
こうして何年も立たないうちに 大金持ちになり長者と呼ばれる身になりました。
名を文正角岡と改め 何の不自由も無かったのですが 何年たっても子供に恵まれませんでした。
そこで夫婦は鹿島大明神に子供が授かりますようにとお参りをしました。 そのかいがあって、翌年美しい女の子が生まれ、蓮華と名をつけました。その翌年 また女の子が生まれました 蓮御前と名をつけ可愛がった育てました。
姉妹ともに美しく成人し その噂が塩の評判とともに京の都まで届きました。 姉の蓮華は関白殿下の二位の中将の妻になり京に上りました。
妹の蓮御前は帝の后に迎えられ、都に上りました。
その後 文正夫婦にも京に上るようにとの使いが来ましたので角折をはなれました。
後に文正は 大納言にまで出世したということです。
この美術館、民俗資料館は文太長者の屋敷の跡に建てたのです。
平成二年三月 大野村教育委員会 大野村長 生井澤健二」 (現地石碑より)
一方、この角折にこのはまなす公園の東側の国道51号線に面した一角に「霜水寺(すいそうじ)」という真言宗の寺がある。

どうやらこの寺が昔、この公園となった場所にあったようで、かなり大きな寺であったようだ。
しかし今ではこの公園の一部を占めるだけで寺は無住であり、角折公民館と敷地が一体となっている。
寺はこのお堂の前に古びた石碑がおかれているが、よく読むことができない。
少し新しい石碑もあるが、こちらは「大野東部土地改良区完成記念碑」であった。

鹿嶋市の文化財に「霜水寺西堂跡」というものが登録されており、公園の西の方にこの場所があって礎石が確認されているそうだが、これが黄金輝く文太屋敷のお堂なのではないかとも言われているようだ。

広い公園の広場の一角にこの寺のものだと思われる墓地がひっそりと残っていた。
記録によると、寛政11年(1799)に、クジラ漁船七隻が遭難し57人が犠牲になったという。このときの墓がこちらにあるという。
この寺は文太の屋敷跡と言われていて、はまなす公園の敷地内にあったという。現在は霜水寺西堂跡が市指定史跡として公園内に残っています。
また、鹿島灘での製塩については前に書いた下記の記事を参照ください。
鹿島七釜 ⇒ こちら
1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。
さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、
「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づく。或ひと曰へらく、倭武の天皇、此の浜に停宿りまして、御膳を薦め奉りし時、都(かつ)て水無かりき。即ち、鹿の角を執りて地を掘りしに、其の角折れ為りき。この所以に名づくといひき。(以下略く)」
と書かれています。
この後半の倭武の天皇(ヤマトタケル)の話はとくに、当時の謂れでわからないことは凡てヤマトタケル伝承にしてしまっているところが感じられますので、この前半の角のある大蛇(をろち)の話が面白いですね。
角のある蛇の話は「行方郡」の中に「夜刀の神」として出ています。
この大和朝廷の東北方面の蝦夷征伐では、原住民たちは山の佐伯、野の佐伯、土蜘蛛などと表現されていますが、の夜刀神(やとのかみ)なども谷津に住む原住民たちを表現しているものと考えられますが、これを「角のある蛇」と表現したものでしょう。
鬼に角があり、蝦夷征伐も「鬼退治」などと言う表現もあるように思いますので、蛇は神でもあり、そこに角を生やして退治すべき対象と区別するために表現したものでしょうか。
風土記の文章ではこの角のある大蛇が「東の海に通る(いた)らむと欲ひて」と書かれています。
このあたりの内海などの周りには海の恵みで生活する縄文人といわゆる九州あたりからやってきた海神族が住んでいたと思われます。するとこの角のある蛇は森や谷で生活していた原住民のことだったのでしょうか。
外洋に出ようと、山から下り、谷から這い出して、浜砂の地にやってきたが、力尽きて?角が折れてしまったのか、または海神族になったのか? いろいろ解釈できそうです。
現在、鹿島灘の鹿嶋と鉾田の中間くらいに鹿嶋臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という長い名前の駅があります。
この名前はいろいろなことを教えてくれます。
長者ヶ浜:御伽草子の文正草(双)紙の話しの元となった塩焼きで財を成し、貴族に上り詰めた文太こと「文正長者」のいたところ
はまなす:ここが日本のハマナスの南限地とされていること。
ですが、この角折伝説でいう「角折」という名前が残っている場所でもあります。
ただ、この文太は鹿島大宮司家に仕えていたが、大宮司より暇をもらって「つのおか」村に住み、製塩で巨財をなしたという話として伝わっています。したがって、奈良朝頃は「角折=つのをれ」で、中世には「つのおか」となり、また「つのおれ」に戻ったという様な経緯が見て取れます。
草紙の文の中では、文太は「つのをかヾ磯」にやって来て塩で財を成し、「文正つねおか」と名乗る長者となったとあります。
従って、江戸時代後期の則孝公の考察があり、そこに
「此村の名も今は、「つのをれ」と、云なり。皇學者中山信名、平四郎、氏が考には、昔は大方、假名文字を用ひしゆゑ、「を可」と書しを「をり」と、語り出て、又、真名に「折」と書き、それより「折」と称し、終に、今のごとく、「角折」になりしならん。「り」と「れ」と通音なれば、然か、称来りしならんと。此説當れりとおもはる。」と書かれています。
すなわち「文太長者の時代に「つのおか村」だった村名が「つのおれ村」に変化していった原因について国学者の考察が引用紹介されているのです。)
(鹿嶋デジタル博物館 七、角折村(つのれむら)の昔話 より)
でももっと前のこの風土記の時代に「角折」と書かれていたことは考慮されていません。
一方角川の「日本地名醍辞典 8茨城県」には
『主人公の文正(文太)は鹿島大宮司に仕えていたが、ある時大宮司よりいとまを申し渡され、やむなく「いづちともなく行く程に、つのをかヾ磯、塩焼く浦に着きにけり」とある。角折は太平洋に面し、鹿島半島の太平洋側は古くから塩の産地だったと思われる。角折も「塩焼く浦」であり、文正はそこで塩売りとして大成功し「つのをかが磯の塩屋ども、みなみな従ひける」ほどになって、名を改めて「文正つねおか」と名乗ったという。この名乗りにあわせて、角折という地名を物語上「つねおか」と変えたのであろう。』
と書かれており、上記の角折(つのれ)村の昔話の解説をひていしています。
私もこの角川の地名辞典の内容を支持したいと思います。
江戸時代から明治22年まで「角折村」がありましたが、明治22年に近隣の村が合併して「大同村大字角折」となりました。
その後昭和30年に中野村と合併し「大野村(大同の大と中野の野)」となり、平成7年に鹿島町に編入され、同時に鹿嶋市となりました。
では以前訪れたこのあたりにある「大野潮騒はまなす公園」に立ち寄ったときの記事を参考に復UPします。
非常に大きな公園で整備もされているのですが、水戸と鹿島を結ぶ国道51号線沿いから公園へのアクセスはあまりよくありません。

西側の駐車場近くには大きなタワーが建っており展望台と2F部分にプラネタリウムができています。
ハマナスは自生するものとして太平洋側はこの鹿島灘近くに南限地とされている場所があります。
ここより少し北の鉾田市と鹿嶋市の境付近です。(日本海側の南限は鳥取です)

こうしてプラネタリウムなども見られるのですが、平日となるとほとんどお客さんはいません。
お掃除の人と散歩をしているの数人だけです。
公園内部は遊具などもあり子供連れでも一日楽しめそうです。

公園の中に入ってみます。
山の地形を利用したように高低差があり川や池などが周りにあり中央に広場がある構成です。

森の中を下っていくと弁天池と名のついた池に赤い橋。
この公園には昔、大きな寺があったようです。
公園内には、日本一長いともいうジャンボローラー滑り台(長さは154m)があります。
公園内の美術館の建物裏に回ってみたら、そこに文正長者の屋敷跡の石碑がおかれていました。

文太長者屋敷跡
夕日かがやく
この岡に
黄金せんばい
にせんばい
屋敷の由来
「鹿島大明神 宮司の下僕であった文太が下僕をやめて角岡ヶ磯 角折の浜に来て塩炊き の家に雇われ 薪取りや、塩水汲みの仕事をするようになりました。
陰日向無く誰よりも良く働く文太の姿を見ていた主人から褒美に釜を上げるから自分で塩を作ってみないか と言われ釜をもらって塩を炊きはじめました。
作るからには 他の塩に負けない良い塩を作ろうと くふうをこらして作りました。 文太の作った塩は、真白で味も良く、その上病気もなおったと 大変な評判になりました。 そのため 作っても作っても間に合いません。 雇い人達にも屋さしく暖かい言葉をかけていたわったり励ましたりしました。 働いている人達も一生懸命働きましたので ますます良い塩ができたのです。
こうして何年も立たないうちに 大金持ちになり長者と呼ばれる身になりました。
名を文正角岡と改め 何の不自由も無かったのですが 何年たっても子供に恵まれませんでした。
そこで夫婦は鹿島大明神に子供が授かりますようにとお参りをしました。 そのかいがあって、翌年美しい女の子が生まれ、蓮華と名をつけました。その翌年 また女の子が生まれました 蓮御前と名をつけ可愛がった育てました。
姉妹ともに美しく成人し その噂が塩の評判とともに京の都まで届きました。 姉の蓮華は関白殿下の二位の中将の妻になり京に上りました。
妹の蓮御前は帝の后に迎えられ、都に上りました。
その後 文正夫婦にも京に上るようにとの使いが来ましたので角折をはなれました。
後に文正は 大納言にまで出世したということです。
この美術館、民俗資料館は文太長者の屋敷の跡に建てたのです。
平成二年三月 大野村教育委員会 大野村長 生井澤健二」 (現地石碑より)
一方、この角折にこのはまなす公園の東側の国道51号線に面した一角に「霜水寺(すいそうじ)」という真言宗の寺がある。

どうやらこの寺が昔、この公園となった場所にあったようで、かなり大きな寺であったようだ。
しかし今ではこの公園の一部を占めるだけで寺は無住であり、角折公民館と敷地が一体となっている。
寺はこのお堂の前に古びた石碑がおかれているが、よく読むことができない。
少し新しい石碑もあるが、こちらは「大野東部土地改良区完成記念碑」であった。

鹿嶋市の文化財に「霜水寺西堂跡」というものが登録されており、公園の西の方にこの場所があって礎石が確認されているそうだが、これが黄金輝く文太屋敷のお堂なのではないかとも言われているようだ。

広い公園の広場の一角にこの寺のものだと思われる墓地がひっそりと残っていた。
記録によると、寛政11年(1799)に、クジラ漁船七隻が遭難し57人が犠牲になったという。このときの墓がこちらにあるという。
この寺は文太の屋敷跡と言われていて、はまなす公園の敷地内にあったという。現在は霜水寺西堂跡が市指定史跡として公園内に残っています。
また、鹿島灘での製塩については前に書いた下記の記事を参照ください。
鹿島七釜 ⇒ こちら