平田篤胤が江戸で見ていた常陸の天狗世界

 江戸時代後期の本居宣長の後を継ぐ国学者として知られる「平田篤胤」は、神や異界の世界に独自の思想を大成し、復古神道を集大成した。

この平田篤胤が異界の世界に大変興味を抱いていた文政3年(1820年)、江戸の浅草観音堂の前に少年寅吉があらわれます。

寅吉は幼い7歳のころに山人(天狗)に連れ去られ,7年間を山人(天狗)のもとで生活・修行していたというので、江戸の町はこの話でもちきりになりました。

この話を聞きつけた篤胤先生はこの異界からの帰還者の少年の話を聞くために自分の家に住まわせたりして、その天狗の世界の話を聞き取りました。
そして寅吉少年が師匠「杉山僧正」(13天狗の首領)の元に帰る際には手紙を書いて寅吉に預けているのです。

そしてこの時の話をまとめたのが「仙境異聞」(全5巻)という本です。

その中の一部を現代語に訳して下記に示します。

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平田篤胤先生が江戸の町で「天狗にさらわれて帰ってきたと評判になった寅吉少年」に訪ねた。

「岩間山というのは常陸国の何郡に在る山か」

寅吉少年が答えて、

「筑波山より北方へ四里ばかりいったところで、山の上に愛宕宮があります。
足尾山、加波山、吾国山などが連なっていて、笠間の近所です。
また竜神山という山もあって、この山は私の師匠が雨を降らせるために祈る場所です。

岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗がいると言います。

岩間山の天狗は、最初は十二天狗だったが、4~50年ほど前に筑波山の麓にある狢打村の長楽寺といふ真言僧がいて、空に向かって、常に仏道を思いはからっていた。

そしてある日釈迦如来があらわれて、これに導かれて岩間山にやってきた。

しかしこの釈迦如来は岩間山の天狗が化けたものであった。

それからこの長楽寺も愛宕山の天狗に加えて十三天狗となったものです。

私の天狗の師匠は杉山僧正といいます。」

十三天狗
(石岡の八郷地区はこの天狗が修業していたという筑波山から愛宕山などの山並みに囲まれています)


愛宕山(昔は岩間山)には12天狗がいて、最後に狢内の長楽寺という真言僧が加わって13天狗になったと。
仙境異聞から読み解くと、この長楽寺が加わったのは1750~60年頃ということになります。

津島の祇園祭は600年ほどの歴史があるということのようですのでその頃にも盛大に行われていたのでしょう。

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(石岡市龍明(狢内)の古刹長楽寺)

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岩間山(愛宕山)飯綱神社の十三天狗の6角形の本殿

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本殿を囲う十三天狗の祠


天狗の話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/07/25 23:16

天狗が連れて行ってくれた祇園祭り

 7月になると京都をはじめ各地で「祇園祭」が行われる。

この祇園祭は京都の八坂神社を中心として全国各地の「八坂神社」や「素鵞神社」などで行われる祭りで、庶民の中心的な祭りと言ってよいだろう。

しかし愛宕山の天狗の話を調べていくと、当時に祭りで最大の祭りはどうも「津島の祇園祭」だと書かれていて、これが素晴らしいので一生に一度はみてみたいという願いをかなえるために年老いた母親や子供たちを天狗が目隠しさせ、背中にのせて空を飛んでこの祭りを見に連れていく。

いったいどんな祭りなのだろうか。

石岡の貉内にある寺につたわる愛宕山の十三番目の天狗になった長楽寺の話では、

「ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩に年老いた母は息子に聞しかけた。

「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、まあ一つだけ願いが叶うとすれば明日行なわれるという日本一の祇園と評判の津島の祇園を一度見物したいものだ。しかし、津島というところはとても遠いというし、この足ではとても行くことはできないね。まあ諦めるほかはないね」
と言って笑った。

するとこの若者はしばらく考えていたが、

「お母さん、津島に行くことはできますよ。そう遠くはないので、今から出かければ夜の明ける頃までには着くことができるので行って来ましょう」

と言って、若者は白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。

老母は息子が自分を慰めようと、何処か近くに連れていくのだと考えて、息子の背にしがみついているうちに眠ってしまった。

「さあ着いた」と若者がいうので、目をさました老母は眼の前の光景に目を見張った。

今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと。

老母にはまったく夢心地であった。」

と出てくる。

この津島の祇園は全国の天王社の総本山といわれる尾張津島にある天王社の祭りだ。
これをWikipediaでしらべてみると、歌川広重が江戸時代末期に全国の名所を浮世絵で表した「六十余州名所図会」の中の1枚「津嶋 天王祭り」である。

Tsushima Tennō-matsuri

今でもこの天王祭は行われていて、天王川に津島五車のまきわら船を浮かべ、提灯に灯がともされると、宵祭の始まる。

地元のプロモーションビデオがあるので紹介します。
今年も昨夜(7/22夜)に行われた。
またユネスコ登録を祝って花火も9000発も打ち上げられたという。



さてこの祭りがおこなわれる「津島神社」は、元々は津島牛頭天王社」といい、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神である牛頭天王を祀る寺であり神社ではなかった。

Wikipediaによれば明治の神仏分離の際、建物・祭事などにおけるあらゆる仏教的な要素は廃され、祭神を建速須佐之男命とし、社名から牛頭天王の名を外して津島神社としたという。

これと共に全国にあった天王社は建速須佐之男命(スサノオ)を祭神とした八坂神社や素鵞神社などに名前を変更している。

祇園神、牛頭天王、スサノオ・・・などの朝鮮半島から対馬経由で日本に入ってきた経緯や、日本の神道、祇園祭などの関係はどのようになっているのかもう少し調べて理解をする必要がありそうだ。
天王社は神仏習合で全く問題なく祀られていたようだが・・・・

そうしなければきっと仙道寅吉に向き合った平田篤胤の仙境異聞なども理解できそうにない。
これはまたの機会に譲ろう。

また水戸祇園寺の末寺であると小川天聖寺や茨城町の慈雲寺 などのあの独特の不思議空間がどうもよく理解できていない。
ここにはやはり天狗と対馬の祇園祭が出てくる。
水戸光圀の時代にはどのような意味合いがあったのか。


行事と祭り | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/07/23 14:53

古都石岡への誘い  <石岡ロマン紀行>

古都石岡への誘い      <石岡ロマン紀行>
 
 石岡市は茨城県のほぼ中央に位置し、人口は約7万5千人ほどの街です。

ここにはかつて旧常陸国の国府がおかれていた。

 西暦646年大化の改新で国府の置かれた現茨城県石岡市は常陸国の中心として栄えてきました。
 大和朝廷はここを日出る東の最も重要な国であり、また東北(陸奥)地方につながる拠点の国とみなしていました。
 また旧石器時代からの遺跡や古墳も数多く残っており、奈良・飛鳥と同じ古き良き香りが漂っている街です。
 奈良に都が置かれたのは710年ですから、その60年ほど前(今から1300年以上前に)東の都として位置づけられてきました。
 一度のんびりとした日を利用して是非訪れてみてみませんか?きっと、しっとりとした想いがこみ上げてくることでしょう。

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 「潮の寄せる丘」石岡は茨城県からただ1箇所「歴史の里」指定をうけています。古代の常陸国中心の都市として栄えてきました。
 しかし、平氏の将「平将門」に国衙を焼かれ、平氏同士の争いの後に桓武平氏の名門「大掾(だいじょう)氏」がここを居城として
 戦国時代末期まで約300年間栄えてきました。しかし、清和源氏の直系「佐竹氏」に馬場城(水戸城)を追われ、最後は名古城
 といわれた石岡(府中)の城、街を焼かれ平氏(大掾氏)は滅んだのです。
 いまだにこの街には、その悲しみが残されているようです。 

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筑波山に太陽が沈む頃、ほのかに灯るあかりに浮かぶ昭和ロマン漂う街並みをゆったりとした気分で眺めてみて下さい。
街はきっとなんともいえない「懐かしさ」で貴方を包み込んでくれるに違いありません。
 昭和初期へタイムスリップしたようなロマンあふれる街の路地を入るとそこはもう八百万の神々が待つ1300年の歴史をもつ神社仏閣の世界が待っています。貴方も”古代からのお誘い”を受けてみませんか?

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さあ、”自分探しの旅”の始まりです。

スライド ⇒ こちらをクリック

http://www.rekishinosato.com/slide6.htm


石岡市内 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/07/22 07:29

(常陸)小川の旧町並みと天妃尊

 百里基地、茨城空港のおひざ元 小美玉市の旧小川町の旧道には、今も昔ながらの面影が残されています。
今は横を県道が走り、私もこちらの通りはほとんど通ることはありません。

江戸時代には水戸藩の医学郷校があり、霞ケ浦につながる水運の重要基地として多くの物資や人の流れがあったはずです。
鹿島鉄道が引かれる時も、水運業者の反対もあり常陸小川駅も隣の玉里村に作られました。
その鉄道も今はありません。

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どこか懐かしくなるような建物が残されています。

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たしかに昔はどんな街にも中心地にはこのような建物が続いていたように思います。
でも今残されているものは少なくなりました。

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その町並みの途中に「天聖寺」という今は本堂がなく墓地だけの寺があります。

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階段を上るとそこには禅寺にある「不許葷酒入山門」という結界石が置かれています。
石段の両側にはびっしりと古い石板(墓碑?)や地蔵尊などが置かれています。

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階段を上った先は寺も大きな墓地(墓石を見ると多くが神道式?)が広がりますが、その手前に石蔵があり海洋の女神「天妃尊像」の写真と説明文が置かれています。

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この天聖寺はかなり大きな寺でした。
江戸時代に水戸藩の領地となっていたこの小川の町を水戸藩は非常に重要な拠点として大切にしてきました。


特に水戸黄門(義公 光圀)は水戸祇園寺に自ら祇園寺の三世として招いた名僧嵐山(大日本史編纂にも携わった)の余生を送るための場所としてこの寺を与え、施設や庭を整備しました。

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この天妃尊は中国の民間信仰の女神で、水戸光圀(義公)が中国より招き、祇園寺の開祖となった僧「心超禅師」が中国より持参した像を模して三体造り、その一つを祇園寺三世嵐山がこちらに持ってきたものと言われています。

残りの2体は、北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)に祀られているようです。
弟橘姫はご存じのヤマトタケルの妃ですから日本の神様ですが、天妃という中国の妃も寺に祀られたが、明治の初期におそらく禁止され、神社として弟橘姫を祀るようになったものと思われます。

この寺も天狗党の乱ですべて焼失し、今は廃寺となってしまいました。(墓地は管理されているようです)
芭蕉の医師で友人だった潮来の本間家もこの小川医学郷校が進んだ医療をしていたためにこちらに移ってきており、この墓所に墓があります。

またこの寺の本尊は信州善光寺の本尊を模して800年以上前に作られた全国に48体しかないものうちの一つということですが、いまのこされているかどうかはよくわかりません。
恐らく天狗党がこの寺に集まっていたために、火をつけられすべて燃えてしまったのかもしれません。





小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/07/18 22:58

刑部岬(ぎょうぶみさき)

 銚子の飯岡海岸が見下ろせる刑部岬(ぎょうぶみさき)にやってきました。

天気も良く暑い日差しが照りつけていましたが、やはり岬の先端は風が通り抜けて気持ちが良かったです。

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飯岡港が見下ろせます。
東日本大震災ではここも多くの被害を受けました。

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この岬の下は屏風ケ浦から続く崖が続いています。

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岬には灯台と展望台があります。

昼のランチに近くにある海辺里(つべり)に行ってみようと思っていましたが先客が多そうなのでパスしてしまいました。
何時も時間がありませんのでのんびりランチとはいきません。


銚子 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/07/13 10:22
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