fc2ブログ

ふるさと”風” 年度別縮尺版完成

 ふるさと風の会の機関紙(会報)が1月で200号になり、先日茨城新聞にも掲載いただきました。

一応の区切りでもあり、今までの会報の年度別にまとめ縮尺版(カラー)を作成しており、昨年度に今回の200号を加えて
No.16を作成しました。
昨年1月~今年1月までの13ヶ月分270ページ分を一冊にし、B5サイズに縮尺したものです。
会報として配布している物は白黒ですが、こちらは写真や絵はカラーです。

P1271066s.jpg

基本的には風の会の会員用に作成していますので数はあまり多くは作りません。
もしご希望の方があればご連絡ください。(メッセンジャー、(秘)コメント、メール等にて)

頒価:800円 (+ 送料200円)
製作は手造りですので、少しお時間を頂く場合も有ります。



ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/27 11:06

歴史~今 伝えたいこと

 昨日、市内の「まちかど情報センター」にて、前石岡市長の今泉氏の講演会が行なわれました。
この講演会は12月に行なう予定でしたが、氏の体調不良により延期され、今回の講演会となりました。

私の所属する「ふるさと風の会」の会報200号達成の記事が、この日の茨城新聞に掲載され、この記念日と全く同じ日になりまし。
今回の「ふるさと"風”」会報200号には、今泉氏の今回の講演会内容と同じものが掲載されています。
12月にご自宅にお邪魔して、会の記念号への投稿をお願いしており、その後、この講演会の原稿を頂き、私どもの会報への掲載許可をいただいたものです。

そのため、内容はすでにこちらではすでに事前に読ませていただいていました。

P1241066s.jpg

タイトルは『歴史 ~今 伝えたいこと』です。

講演のポイントは
1)石岡には歴史遺産がたくさん眠っている。
2)また、石岡には地理歴史を帰した地誌の数は県内トップクラスである。
3)それらの遺産のどれを残し、どう伝承していくのか? 無策・傍観はそれらの自然消滅を待つばかりだ。
4)郷土史研究の父である手塚正太郎をはじめ、郷土石岡を愛する人々の人力で何とか守られてきた。
5)これからの石岡に郷土のことを知り、郷土を愛する人を育てていかなければ成らない。
6)小学校、中学校で「ふるさと学習」という時間を作った。
7)子供達がそこで学び、次の時代の手塚正太郎さんのような人がたくさん誕生して欲しいと思っている。

このようなことかと、少し自分なりの主観を交えてポイントをあげました。

P1241068s.jpg

文彦氏の父の義文さんが残された昭和初期の貴重な写真を使って、輝いていたころや、戦争に突入して行った頃の疎開児童の社椎や英霊の帰還を迎えて写真などを紹介されました。
また、氏の蔵書で、今では殆んど手に入らない絶版の本なども紹介いただきました。

P1241072s.jpg

P1241074s.jpg


P1241075s.jpg

P1241077s.jpg

利根川図志(赤松宗旦) もきれいに揃っていました。

P1241080s.jpg

ここは銚子の海鹿島の図。明治のはじめ頃迄アシカがいたところです。

P1241081s.jpg

アシカの図

P1241071s.jpg

P1241076s.jpg

今回のお話を聞いて、やはり今のままではこの町から貴重な財産でもある歴史遺産が消えてしまう。何とかしなければならない。
そのために何ができるか?

子供達への教育や伝達も確かに大事だが、この町は永く住んでこられた人々だけでなく、日本全体にとってもいろいろな文化遺産を伝え、守っていく方法を皆(今までの住民、新規参加の住民、ここを離れているが今も愛着を持っているひとたち、観光で訪れ瑠人々、ここの自然が好きで移住したいと思う人々などなど・・・)で話し合い、様々な方法で輪を組んだ取り組みが必要だと感じました。

私などが出来る事はごく僅かですが、よそ方移り住んで、この町が面白く感じているのですから、これからも様々な情報を発信して町の魅力をお伝えしたいと思っています。

今泉様 ご講演ありがとうございました。



地域振興 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/25 14:32

ふるさと”風”200号が発行されました。

 ふるさと”風”の機関紙200号が先日発行となり、今朝の茨城新聞に紹介されました。

P1241061a.jpg

16年8ヶ月休み無く毎月会報を発行し、自ら編集・印刷・製本・し、図書館や公民館等に無料で配布し続け200号を迎えました。
全て会員の会費から運営し、無料で配布しています。

今年からは年四回の季刊となりますが、自らまとめた冊子、本などもこれまで通り、作成していきます。

応援宜しくお願いします。

ことば座・風の会 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/24 12:01

常世の国(7) 徐福はどこへ

常世の国(7)

今回の常世の国は遠く離れた中国の紀元前3世紀の話を紹介しましょう。

中国では紀元前90年ころ(前漢時代)に、司馬遷により膨大な歴史書である「史記」が書かれています。
古代中国では日本の「常世の国」といわれる不老不死の理想郷と同じように、東方の渤海(ぼっかい:遼東半島と山東半島の間にある内海状の海域)の先にある神仙が住む島で、蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神山があると信じられて来ました。
この中で「蓬莱山」がもっとも有名になって日本にも伝わってきています。

前回書いた「浦嶋子」伝説も、浦嶋子は舟で竜宮城ではなく「蓬莱山」にいったとなっていますから、奈良朝初め頃は常世の国=蓬莱山とも考えられていたのかもしれませんね。

日本最初の物語といわれる「竹取物語」(平安時代前期成立)でもかぐや姫に求婚してきた5人の貴公子にそれぞれ難題を出しますが、その5人の中の一人「車持皇子(くらもちのみこ)」にだされたのが、「東方の海上にあるという蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)をもってくるように」と言うものでした。
車持皇子は3年かけて蓬莱の玉の枝というものを探し出して、姫のところへ持ってきます。
しかし、そこに1000日もかけて玉の枝を製作したのにまだ報酬を貰っていないという職人が名乗り出て、これが偽物だとばれてしまいます。まあ、この竹取物語での理想郷は「月」なのかもわかりませんが、中国の理想郷は蓬莱山であるということは日本に伝わっていた事は明らかですね。

さて、中国の紀元前に書かれた歴史書「史記」の中で、徐福(じょふく)という人物が登場します。
秦の始皇帝の時代です。

当時、占いや役、気功術などをあやつる修験者のことは「方士(ほうし)」と呼ばれていましたが、この徐福はこの方士の一人でした。方士という呼び方は紀元前3世紀ころから紀元5世紀ころまでで、道教が浸透してからは一般には「道士」と呼ばれるようになりました。

史記には次のように書かれています。(Wiki.より)
『又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。』

(現代語訳)
『、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかった』(Wiki.より)

このように、始皇帝に不老不死の妙薬を見つけてきますと言って、3000人もの男女に民に多くの技術者を連れて、船出したが、この神山には到達せず、広い原の地に至り、そこの王様になって、とうとう秦国には戻らなかったというのです。

さて、この話の時代ですが、資料に寄れば紀元前210年です。
しかし、この前の紀元前219年に一度徐福は徐福(徐氏:じょふつ)は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけて、援助を得たが、7年後に「蓬莱に行けば仙薬が手に入ることがわかったが、大鮫に邪魔され辿り着けなかった」と始皇帝に報告した。
そして、今度は「多くの男女の若者と技術者たちを連れてもう一度仙薬を手に入れてきます」と言葉巧みに申し出たようです。

そして、紀元前210年に上記ような大人数の船団を組んで出航したようです。

当時の始皇帝の絶対権力は甚大で、徐福などは命令には逆らえなかったようです。
この徐福という人物についてもさまざまな意見があるようです。

・本当はイスラエル(ユダヤ民族)の栄光ある消えた古代民族の一つの子孫
・始皇帝が滅ぼした斉の国の皇太子であった。(斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身)
・想像された人物で実際にはいなかった。⇒ どうもこれは今では否定されており、実際に存在したとされている。

さて、3000人もの人数が船にのって出航するというのは、当時どの程度の舟があったかは良くわかりません。
倭国が中国へ正式に使者を派遣したのは、西暦600年の第1回遣隋使派遣です。

それより710年も前に、舟の建造技術がどの程度であったのか? 私は良くわかっていません。
3000人もの人々が、途中波にさらわれ、あちこちの島々にバラバラに到着したかもわかりません。
徐福は台湾、韓国、日本などにたどり着いてそこの王になったという考えがあり、中国では日本に渡ったとする伝承がかなり強くあり、この考えが日本にも伝わって、日本の各地に徐福伝説が残っているのかもしれません。

(日本における徐福の伝承)
1、熊野(現在の三重県熊野市):波田須駅付近には徐福ノ宮があり、ここは徐福が持参したすり鉢がご神体という。
2、和歌山県新宮市:徐福の墓とされるものがあり、徐福公園が造られている。
3、福岡県八女市山内(童男山古墳)
4、その他、佐賀県佐賀市、京都府伊根町、長野県佐久市(蓼科山)・・・・・鹿児島~青森 の各地に多くの伝承が残されています。

年代からか、日本の天皇家の祖であるという説もあるようです。

また、もう一つ日本で注目を集めているのは日本における渡来人集団である「秦(はた)氏」の存在です。
聖徳太子の頃の秦河勝を筆頭とする秦氏は、自ら秦の始皇帝の末裔であると称しており、秦国から百済(または新羅)を経由して日本列島(倭国)へ渡って来たと見られています。

秦河勝(はたの かわかつ)は、世阿弥の『風姿花伝』によれば、河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされています。
仏教における宿神、摩多羅神などとの関係も気になる所です。
また、644年に富士川である虫を「常世の神」として祀る信仰が流行し、河勝はこれを滅ぼしていることも、この「常世の国」とのブログテーマですので、一言書き加えておきます。

いろいろな情報が山盛りですが、ここは整理も必要ですので、一旦この話題は終了とします。





常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/20 13:04

常世の国(6) 竜宮城(浦嶋子伝説)

 年初めから数回にわたり常世の国に関する記事を書き、一旦終了としたのですが、後からの考察に便利になる事柄が見つかりましたので数回分記事を追加しておきたいと思います。

まずは「浦島太郎」の昔話(常世の国=竜宮城と考えられる)の元になってあろう「浦嶋子(うらしまこ)伝説」について紹介しておきます。

常世の国(6)

昔話の浦島太郎については、もう皆さんは良くご存知だと思います。
(あらすじ)
浦島太郎は、浜で子供達が亀をいじめているところに遭遇し、その亀を買いとって海に放してやりました。
すると数日後に亀があらわれ、お礼に太郎を背中に乗せて海中にある竜宮城へに連れて行きます。
竜宮城では乙姫様が太郎をたくさんのご馳走や舞で歓待し、何日経ったかも忘れて過ごしました。
地上が恋しくもなった太郎は帰る意思を伝えると、乙姫様は「決して蓋を開けてはいけない」という玉手箱を渡されます。
太郎はまたもとの亀に乗って元の浜に戻ってくると、もうその地上では700年もの年月が経過していたのです。
太郎は乙姫様のが忠告を忘れて玉手箱を開けてしまいます。
すると中から白い煙がでてきて、太郎は白髪でしわだらけの老人の姿になってしまいました。

(いつ頃作られたのか)
この浦島太郎の話は明治半ばに、童話作家「巖谷 小波(いわや さざなみ)」がまとめた『日本お伽噺』に掲載された子供向けの昔話を明治政府が学校の国定教科書に取り上げて、一般に広まったといわれています。

しかし、この話には「浦嶋子(うらしまこ)伝説」といわれる話が存在します。
この話が書かれているのは『日本書紀』『万葉集』『丹後国風土記逸文』にそれぞれあり、内容も多少違いはありますが、ほぼ同じようです。

まずは日本書紀(720年成立)の雄略紀にかかれているものを記します。(ブログ浦島説話研究所:『日本書紀』の「浦島説話」より)

二十二年、秋七月、            雄略22年(478年)秋7月
丹波國餘社郡筒川人瑞江浦嶋子、   丹波國餘社郡筒川に水江浦嶋子という人物がいた。
乗レ舟而釣、遂得(二)大龜(一)。     舟に乗って釣りをしていると、遂に大龜を得た。
便化(二)爲女(一)。             龜は女性に化した。
於レ是浦嶋子感以爲レ婦、         浦嶋子は女性の放つ妖艶な魅力に感じて、女性を妻とした。
相逐入レ海、到(二)蓬莱山(一)、      海に入った二人は、蓬莱山に至った。
歴(二)覩仙衆(一)。             そこで、不老不死の仙人をつぶさに目にしたのである。
語在(二)別巻(一)。             詳細は別巻に在る。

このように詳細は別巻によるとなっていて、これは現在見つかっていない。
一方これを詳細に表わしているのは豊後風土記の逸文だ。
詳細は省くが、概要は、
・與謝郡日置里の筒川村の住人で、日下部首等の先祖にあたる、筒川嶼子という一人の人夫がいた。
・筒川嶼子は、美男子で、風流も類が無いほど優れた人物で、いわゆる水江浦嶼子と呼ばれた者である。
・嶼子は海に出て釣りをしていたが、三日三晩一尾の魚も釣り上げることができなかったが、「五色龜」を得た。
・嶼子が眠っている間に、忽ち、龜は美しく妖艶な「婦人」に変身した。
・嶼子はその婦人に「人家は遥か遠く、広い海原が広がるこの場所に、どうやって来ることができたのか。」と聞いた。
・その女娘は微笑み、「素敵な男性が一人大海原にいるのを目にし、風雲に乗りやってきたの。」と答えた。
・嶼子は「風雲とはどこから来たのか。」と聞くと、
・女娘は「仙人が住む天上界から来たのです。お願いですから私と親しくしてくださいね。」と答えた。
・嶼子「望むところです。」と答えた。
・女娘は「貴方が船を漕いで下さい。蓬山に行きましょう。」といった。
・女娘は嶼子を眠らせ、海中の大きな嶋に着いた。そこは宝玉が一面に敷き詰められたように美しいところだ。
・門外の殿は暗く見えたが、内の高殿は光り輝いており、見たことも聞いたこともない世界だった。
・二人が手を取り合って進んで行くと、一軒の見事な家の門にたどり着いた。
・女娘は「少しの間、ここにいてください」といって、門の中に入っていった。
・すると七人の童子が来て、この人が龜比賣の夫だね、と語り合った。また八人の童子もやって来て同じことを言ったので、女娘の名前が龜比賣であることがわかった。
・戻ってきた女娘に童子(竪子)等のことについて聞くと、七人の童子は昴(スバル)星。八人の童子は畢(アメフリ)星。です。
・女娘は嶼子を案内して中に入ると、そこには女娘の両親が出迎えてくれ、挨拶をして坐に座った。
・両親は人の世と仙界との違いについて説明し、人と神とがたまたま出会えた喜びを語った。
・珍しい数々の料理が並び、兄弟姉妹たちも酒の杯を重ね合い、仙界の人たちの歌は透き通るように響き、連なる舞も神々しかった。黄昏時になり、宴に参加していた多くの仙人等は三々五々席をたった。
・その後、二人は肩を寄せ合い夫婦となった。
・嶼子が仙界に留まってから既に三年の月日が流れたとき、突然、望郷の念にかられ、嘆く日々が日増しに募ってきた。
・その様子を見た女娘は「最近様子が変で、顔色もすぐれず一体どうしたとのでしょうか。理由を教えてください。」と
・嶼子は素直に、親元を遠く離れ、今は神仙の世界にいるが、できれば故郷の戻って親に会いたいことを告げた。
・女娘は涙を拭い、語り合っては嘆き悲しんだが、遂に嶼子と女娘はそでを合わせ、別れのときをむかえた。
・女娘や父母、親族等が悲しみをこらえ見送った。その時、女娘は玉匣を嶼子に手渡した。
・そして、「どうか私のことを忘れないで。また再会しようと思うのなら、この匣を決して開けないでください。」といった。
・二人は別々の船に乗った。
・嶼子はまた眠につき、瞬く間に故郷・筒川に着いた。
・しかし、そこの様子は一変していて、嶼子は里の人に自分の家族が今どこにいるのかを聞いた。
・村人は、「あなたは一体どこの方ですか。村の古老から、昔、水江浦嶼子という人物がおり、一人で海に出たが再び帰ってこなかったと聞いた。もう三百年余りも前のことですよ」と。
・呆然とした嶼子はあたりを歩き回るが、父母とも会うことができず、一月が経過した。
・嶼子は玉匣を撫で、神女に思いを馳せていたが、契った約束を忘れ、玉匣を開けてしまった。
・たちまち、蘭のような芳しき本質を有した玉匣の中身は、風雲につれられて天空に飛翔してしまった。
・神女との約束を破った嶼子は、二度と会うことができなくなってしまったことを悟り、後ろを振り返り、佇み、悲嘆の涙にくれながら、歩き回るだけだった。

さあ、どうでしょう。浦嶋子のこの昔のお話がどのように現在の昔話へ変化して行ったのかは興味がわきますね。
でもこの頃の常世の国が中国の理想郷である「蓬莱山」であり、竜宮城とは言っていませんね。
また、亀がきれいな婦人に変ってしまい夫婦になるのも大きく変っている点です。

今回はもう少し検証するのは止めて、調べた事を記しておくに留めます。

ブログ浦島説話研究所さま:勝手に内容を少し省きながら使わせていただきましたことお許しください。


常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/18 14:06
 | HOME | Next »