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千葉の難読地名(44) 飯給

≪飯給  いたぶ≫ 市原市

千葉難読地名44


≪飯給  いたぶ≫ 市原市

養老川上流域にある。
文禄3年(1594)の上総国村高帳に村名が見える。
江戸時代に2村に分離したが、明治10年に再び合併した。

小湊鉄道の「飯給駅」は一日の利用客が数名の小さな無人駅です。
2012年に駅前に世界一大きなトイレというキャッチフレーズのトイレが設置され観光の目玉にもなっています。


地名由来は、大友皇子(弘文天皇)にまつわる次の伝説から来ているという。
「672年、天智天皇の第一皇子であった大友皇子は即位して弘文天皇となったとされるが、叔父の(後の)天武天皇が起した「壬申の乱」に敗れて即位半年で自害したといわれていますが、この房総のあたりでは、弘文天皇は部下を連れて落ち延びてきたと言い伝えられています。
そして、東海道を下り11人の公家を引きつれて川をさかのぼって来る途中、川岸では6人が溺れて亡くなり5人となった。
この残された皇子一行は、疲れ果てていた。それを村人たちは追っ手が良く見える八崎代に案内し、しばし休んでいただき、ご飯を差し上げた。これに一行は大変喜び、この飯を召し上がったという。
このためこの場所を飯置(いいち)といい、飯を給うたので飯給というようになったという。

この地には、また次のような話が伝えられている。(17世紀前半に書かれた『久留里記』などによる)
「皇子には3人の子どもがあり、この3人を村人に預けて、皇子は千葉県市原市万田野地区を越えて落ちのびて行った。
村人は、残された3人の子供達の顔にススを塗り変装させたが、追っ手に捕らえられ、現在の白山神社のあたりで打ち首になってしまったという。翌日から、その辺りには白い3羽の鳩が舞うようになった。
村人達がこの場所にお宮を建ててその子供達を祀ったところ、この白い鳩の姿は見られなくなったという。
その言い伝えから、この地に鎮座している白山神社の事を別名「白鳩の宮」ともいうようになった。
(但し、現在の白山神社の祭神は弘文天皇です)

その他、房総半島の各地にこの大友皇子や、その后などにまつわる伝説がたくさん残されています。
史実はどうなっているのか不思議です。

地名由来もこの大友皇子伝説は後から地名に当てはめられたものと思われますが、それ以外の由来は良くわかっていません。


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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/04 21:00

千葉の難読地名(43) 飯山満町 波左間

≪飯山満町 はさまちょう≫ 船橋市
≪波左間 はさま≫ 館山市


千葉難読地名43


≪飯山満町 はさまちょう≫ 船橋市

海老川の上流に位置する。
戦国期に「志々はざま村」とあり、慶長19年(1614)の街道覚帳に「飯山満村」とあり、その後元禄期(1688~1704)の前に上飯山満村と下飯山満村に分村した。
昭和30年から飯山満町となったが、宅地が進んで、団地なども設立された。
地名は狭い谷間の「狭間」から呼ばれたものという。
「山奥でも米がとれる良い土地=飯が山に満る」などという意味を込めてこの漢字をあてたのだろう。
住宅化される前は谷津田が広がっていた。
また、深田で、子供などが一度はまるとなかなか抜け出せないなどと言われていたという。

地名の読みは「ハサマ」だが、地元では「ハザマ」とも言っている。

≪波左間 はさま≫ 館山市

江戸期の初めから見える村名であるが、昔は「波佐間」「羽佐間」とも書いたという。
西岬北岸に位置し、館山湾に面する。
地名は、平地が少なく、海にせまる山すそのため、「狭間」からきているという。
また、名郷浦(なごうら)と呼ばれる風邪の静かな砂浜(浦)があるが、これは「凪浦(なぎさうら)」から来たのではないか。((角川 日本地名大辞典))


全国の「ハザマ」「ハサマ」地名を調べてみた。

<硲>
茨城県つくば市大白硲   おおじらはざま
茨城県つくば市小白硲   こじらはざま
新潟県長岡市寺泊硲田   てらどまりはざまだ

<迫、迫間>
岡山県玉野市迫間 はざま
熊本県玉名市両迫間 りょうはざま
熊本県菊池市西迫間 にしはざま
岩手県花巻市大迫町 おおはさままち
岩手県花巻市東和町舘迫  たてはさま
宮城県登米市豊里町迫  はさま
宮城県登米市迫町 はさまちょう
宮城県栗原市一迫 いちはさま
栃木県足利市迫間町 はさまちょう
栃木県小山市迫間田 はさまだ
岐阜県関市新迫間 しんはさま
岐阜県関市迫間 はさま
岐阜県関市迫間台 はさまだい
愛知県豊田市迫町 はさまちょう
愛知県蒲郡市西迫町 にしはさまちょう
三重県志摩市磯部町迫間  はさま
三重県度会郡南伊勢町迫間浦  はさまうら
滋賀県蒲生郡日野町迫  はさま
兵庫県朝来市山東町迫間  はさま
奈良県宇陀市大宇陀迫間  おおうだはさま

<狭間>
東京都八王子市狭間町 はざままち
愛知県名古屋市昭和区狭間町 はざまちょう
愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間  おけはざま
愛知県名古屋市緑区桶狭間    おけはざま
愛知県長久手市東狭間 ひがしはざま
京都府京都市北区上賀茂狭間町 かみがもはざまちょう
京都府京都市左京区修学院狭間町  しゅうがくいんはざまちょう
京都府京都市伏見区醍醐狭間 だいごはざま
栃木県塩谷郡高根沢町狭間田 はさまた
兵庫県三田市狭間が丘 はさまがおか
大分県国東市武蔵町狭間 はさま

<挾間>
福岡県豊前市挾間 はさま
大分県由布市挾間町 はさままち

<巡><廻>
愛知県瀬戸市巡間町 はざまちょう
愛知県春日井市廻間町 はざまちょう
愛知県豊明市沓掛町(小廻間) (こはざま)
愛知県知多郡武豊町廻間 はざま
茨城県稲敷郡阿見町廻戸 はさまど
愛知県清須市廻間    はさま

<その他>
香川県仲多度郡まんのう町羽間 はざま
高知県香美市土佐山田町間 はざま
静岡県藤枝市岡部町羽佐間 はさま
滋賀県米原市間田 はさまた
福岡県柳川市間 はさま
長崎県五島市三井楽町波砂間 はさま


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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/04 07:34

千葉の難読地名(42)下望陀、上望陀、請西

≪下望陀  しももうだ≫ 木更津市
≪上望陀  かみもうだ≫ 木更津市
≪請西  じょうざい≫ 木更津市


千葉難読地名42

≪望陀  もうだ≫ 木更津市

望駝郡は古代から上総国におかれた郡名で、平安時代の辞書「和名抄」には望駝郡とあり、訓は「末宇太」と<書かれているが、万葉集には「宇麻具多」とあり、古事記などは「馬来田国造」と書かれている。

そのため、「馬来田(ウマクタ、マクタ)」 ⇒ マウタ ⇒ モウダ へ転化したものと思われている。

小櫃川(おびつがわ)の北側にあるが、川に沿った地域が「下望陀」でその北側が「上望陀」となっている。
上望陀地区の鎮守は「日少宮(ひのわかみや)神社」が鎮座しています。
なぜここにこの神社が創建されたのかはよくわかりません。

日少宮(ひのわかみや)神社は日本の神話で伊弉諾(イザナギ)尊が、国生みの大役をはたして、余生を送ったという「幽宮(かくりのみや)」のことで、淡路一之宮の伊弉諾神社を指しているといわれています。


古い郡名が現在の地名になっているが、ここで注目すべきことは
「望陀布(もうだのぬの)」の存在です。
律令制の時代にこの望陀で産出した麻布は「租・庸・調」の調布の最高級麻布と認定され、大嘗祭などでも奉納品・贈答品として採用されていました。
一般に言われている「上総細布(かずささいふ)」よりも目の細かい精密な布であったと考えられています。

何故この地が大和朝廷とのつながりが深かったといえば、当時横須賀の走水から舟でこの地は直接つながっており、馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ)が、東国の都からの入口となっていたからにほかなりません。


≪請西  じょうざい≫ 木更津市

矢那川中流の左岸に位置する。
地名は、「城在」、または「城砦」が転じたものという。
戦国期の天正6年(1578)銘の阿弥陀如来像の台座に開眼供養者名として「請西長谷寺住僧」の墨書がある。

請西の名前の基となった城(請西城)については、現在城の遺稿が残されていますが、築城者や築城年代など詳細は殆んど分っていません。

江戸時代は譜代大名の請西藩(林家 1万石)の真武根(まぶね)陣屋がありました。
この林家は戊辰戦争で義をつらぬき、新政府軍に抵抗して脱藩し、自らこの陣屋を焼き払い出陣したと伝わっています。
現在この陣屋の土塁等が確認できます。

地名の基となった中世の請西城は、真武根陣屋がある丘陵に連なる北西部台地に築かれていたという。
ただ、何処までがその遺稿か詳しく知ることができない。


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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/03 21:16

千葉の難読漢字(41) 野狐台町

≪野狐台町  やっこだいまち≫ 佐倉市

千葉難読地名41

≪野狐台町  やっこだいまち≫ 佐倉市

地名の由来は「ヤッコ(奴)」によるものか。江戸前期は鏑木・大蛇両村の入会地で、寛文頃両村から分かれて佐倉城外の足軽屋敷となった。(角川 日本地名大辞典)

野狐を「ノギツネ」と読まず、「ヤコ」と読むのは、人をだますキツネの妖怪の事のようだが、この地名の由来は江戸時代の足軽や「奴(やっこ)さん」身分の人たちが多く住んでいたことのようです。

Wikipediaで「奴」を調べてみると

「奴(やっこ)とは、江戸時代の武家の下僕のこと。」
「武家に働く者の中でも低い身分にあたり、「中間(ちゅうげん)」や「折助(おりすけ)」と呼ばれていた武家奉公人を、蔑むときの呼び名である。「家つ子」(やつこ)が語源であるとされる。」
と書かれています。

また、「奴は農民や一般町民の次男三男が雇われてなることが多かった。武士が出かける時の荷物持ちなど、雑務をこなしていた。参勤交代の時には大勢の奴が必要となるため、このときだけ臨時で雇われるということもあった。 」ともあります。

奴の姿は、一般に大きな四角形を染めた半纏を着ていることが多く、この四角の形から豆腐を四角に切ったものが「冷奴」と呼ばれるようになったとか・・・。

また、
・奴凧(やっこだこ)・・・奴の両袖を張った姿を模したもの
・「○○奴」(遊女や芸者)・・・遊廓や花柳界の女性がこの身分の男性の言行をまねることがあったため
だそうです。

まあ、最近はあまり「奴さん」の歌も聞かなくなった。
昔は江利チエミや美空ひばりが歌っていたが・・・


さて、キツネに騙される方の「野狐(ヤコ)」だが、九州などでは野狐(ヤコ)にだまされたり、とり憑かれる話しなどがたくさんある。
まあこんな話も時間があれば調べてみるのも面白そうだが、この地名とはあまり関係ないようだ。

ただ、ヤッコを漢字で「奴」と書くのは奴隷の連想に通じるので憚られたようで、「野狐」とあらわしたのだろう。



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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/03 05:28

千葉県の難読地名(40) 主基西

≪主基西 すきにし≫ 鴨川市

千葉難読地名40

≪主基西 すきにし≫ 鴨川市

昭和50年から鴨川市の大字名となったが、元は鴨川市西の一部であった。
また「主基村(すきむら)」が大正4年から昭和30年まで存在した。
この村はそれまで「由基村(ゆきむら)」といっていた。
由基村は明治22年に北小町、南小町、成川、上小原、下小原の5ヶ村が合併して成立。

このようにこの地名は明治以降につけられた名前です。

地名の由来は
 江戸から明治になり、天皇制を中心とした体制が定められ、明治天皇即位に伴う、宮中行事(天皇家の行事)である「大嘗祭(だいじょうさい)の神田の選定が行われました。
明治4年に最初の大嘗祭(新嘗祭)で使う新穀を「卜定(骨を焼いた時のヒビでの占い)」により、2か所の神田をが選ばれました。
その2か所は甲斐国巨摩郡と安房国長狭郡北小町村字仲ノ坪の6反歩(約60アール)が選ばれたのです。
この安房国の神田がこの地なのです。

この2か所の神田はそれぞれ、 悠紀(由基)斎田(ゆきさいでん)と主基斎田(すきさいでん)と呼ばれます。
これは毎年の新嘗祭ごとに全国から選ばれますが、明治天皇即位に大嘗祭(天皇が変わった時の新嘗祭)に選ばれたのを名誉として村名になったのです。

ただ、その時の
 ・悠紀(由基)斎田=甲斐国巨摩郡
 ・主基斎田=安房国長狭郡北小町村
ですから、主基村(すきむら)なのですが、当初の村名は由基村(ゆきむら)となりました。
そして後の大正4年に名称を「主基村(すきむら)」に直したということのようです。

まあ、2か所の斎田のうちメインが「由基」で、次が「主基」のようです。

Wikipedia を調べてみると、「 村では斎田の周囲には青竹を立てて、しめ縄を張り、垣をめぐらせて厳重に囲いました。また、隣地には八神殿、稲実殿などを設け、番屋で花房藩の役人が警備しました。大嘗祭に先立ち神祇省(じんぎしょう)から抜穂使(ぬきほのつかい)ら8人が多くの従者を伴って訪れ、抜穂式(ぬきほしき)が厳かに行われました。」と書かれています。
 
明治の大嘗祭は明治4年11月に東京で行われましたが、
この悠紀国として選ばれた甲斐国の斎田場所は、当時の巨摩郡上石田村(現:甲府市)に選定され、その控地が当時の巨摩郡中楯村(現:中央市)と決定されました。 現在、その斎田の跡地は甲府市上石田三丁目の「南西第一児童公園」となっています。

こちらの主基国として選ばれた安房国長狭郡北小町村の斎田場所は、現在、千葉県鴨川市北小町字仲ノ坪の「主基斎田址公園」として整備されています。



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千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/07/02 14:25
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