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普賢院(岩間)-羽梨山神社別当

 昨日紹介した笠間市(旧岩間町)上郷の羽梨山神社 のすぐ奥にお寺があった。

「難台山普賢院龍光寺」(真言宗豊山派)となっている。

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寺の入口は門から向かって右側にはきれいな花桃畑があり、左側は寺院の墓地が広がっている。
奥には難台山からの山並みが続いている。

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この寺院の入口から昨日紹介した羽梨山神社方面を見るとすぐ近くにある。
この左側に花桃の畑がある。

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大きなどっしりとした寺の本堂だが、こちらは平成28年に新しく新築完成したものだ。

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左手のお堂がそれまでの旧本堂(1702年建立)だった。
こちらは今は観音堂と呼ばれており、中に安置されていた1582年制作の寺の本尊十一面観音像と共に、笠間市指定文化財となっている。

市の説明では、
【建立】客殿は宝永元年(1704)建造で本堂はそれより相当古い
【規模】間口2間半、奥行2間半
「創建は不詳ながら「貞享元年普賢院指出覚」には寛喜3年(1231)とあり、熊野権現社の別当寺であった。本尊十一面観音は室町末期の作である。この堂は、木造宝形造りで周囲に回廊を有している。堂内の格天井は、繊細な花鳥図が描かれている。」
と書かれている。

観音像については(市のHPは ⇒ こちら)(写真あり)
【製作】天正10年(1582)寄進
【像形】像高:190.5cm
本像は、大和の長谷観音形式の寄木造りで、金箔の美しい光背を有している。行基菩薩作と伝承されてきたが、平成4年の解体修復の際、胎内墨書が発見され、それによれば、天正10年大檀那源廣信によって寄進され、仏師は笠間郡本戸(もとど)郷住人宗須である。
とある。

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(江戸末期 元禄期の六地蔵)

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(二十三夜尊と??観世音)

さて、この寺は説明にあるようにかなり古い。
そしてこの近くの熊野権現社の別当寺だったようだ。
そして現在羽梨山神社を山の中腹から移動させた時に、この熊野権現社と合祀して羽梨山神社とし、明治の神仏分離(廃仏毀釈?)で、神社とは管理が分かれたようだ。



笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/06 14:13

羽梨山神社(笠間市上郷)

 新型コロナウイルスはどうにか持ちこたえている状態のようです。
色々な不安はありますが冷静に対処したいと思います。

こうなれば少し長期戦での対応が必要かもしれないですね。
終息まで1年以上かかりそうですから・・・・・
まずは自分が感染せず、感染したとしてもその先に感染させずにはどういう行動をとるべきかを考えていきたいと思います。

このブログ記事もこのような神社紹介や歴史掘り起しなどの記事も何時書けなくなるかもしれません。
もし感染爆発が起こり、出かけられなくなれば気持ちの上でも通常記事は書けなくなりそうです。

さて、先日三村の地名の中で「羽成子(はなし)」について書いたのですが、平安時代に書かれた延喜式の式内社の茨城郡の中の「羽梨山神社」と考えられている古社が笠間市(旧岩間町)の上郷地区に鎮座しているので10日ほど前に見学・参拝に訪れた。

旧355号線を石岡側から岩間駅を過ぎてしばらく行くと「上郷」信号がある。
ここから西にしばらく走るとゴルフ場の手前の道がカーブしているあたりに神社はあった。

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入口にはおおきな「延喜式式内社」の看板が掲げられていた。
どっしりとした趣のある鳥居、拝殿、本殿が一直線に並び、その裏手に大きな杉のご神木があった。

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この説明の石碑に書かれている内容はどこまで信用してよいかわからない。
ただ良く読めないので書きだしてみます。
・・・・・・・・・・・
御祭神 木花咲耶姫命
 木花咲耶姫命は容姿端麗に桜花の咲き匂うがごとき美女と讃えられ全山花に覆われ花白山とも称される羽梨山に相応しい御祭神として勧請されたものである

由緒 羽梨山神社は延喜式宝典(905)の式内社 常陸国二八社の中の一社であり 郷社に列せられた格式高い神社である
又、上古 、磐筒男・磐筒女の二神が磐麻に在って日本武尊の東征軍を援け給い 尊より羽梨山の尊称を戴き岩間朝日丘に鎮祭されたとも伝えられている
延歴22年(803) 坂上田村麻呂陸奥征討の大任遂行の報賽として神殿二宇を建立寄進する
中世(1200年代) 宍戸家政 当社を崇敬して社殿を造営し 宍戸33郷の鎮守と定める
天文11年(1542)兵火に罹り神殿悉く焼失し朝日丘より八町程下なる現在地に遷る
寛文8年(1668) 本殿及び拝殿造営(棟札)
元禄16年(1703) 明神石鳥居建立(現鳥居)
延享4年(1747) 本社(現社殿)新築竣工
明治6年(1873) 郷社に列せられる
鎮守の神様は地域の守護神であり 御神木の霊力と相俟って縁結び・家内安全・除災招福・五穀豊穣その他氏子崇敬者の願いを聞こし召して下さる
・・・・・・・・
このような内容が彫られています。
ただ中世までは伝承と言ったところでしょう。

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もう一つの石碑には更級日記のことが書かれています。
こちらも書きだしてみましょう。

「羽梨山神社旧蹟地碑建立記念」
羽梨山神社は平安時代の初期に建立され 常陸の国式内二十八社の一に列する格式高い神社である
創建時は難台山麓にあり 国司巡拝を記した更級日記に記されている由緒ある神社である
中世宍戸家政公は当社を篤く崇敬して宍戸三三郷の鎮守と定め繁栄したが 天文十一年兵火に罹り神殿悉く焼失して八丁程下なる現在地に遷宮する
爾来五百年当時の社地はゴルフ場となり 痕跡の失われることを憂い 氏子総代相諮り旧跡地に碑を建立する
平成22年11月吉日

そうするとこの碑は少し先にある現在のゴルフ場の敷地に建てられたものか?
どうもスッキリしませんが調べながらまとめてみましょう。

1) 創建時(664年というが不明)はこの場所ではなく、もう少し(八丁:約880m)難台山(旧南台丈)の中腹(朝日丘)にあった。

2) 祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)というから子安神社などの神だ。現地では絶世の美女だとか・・・・
   貞操を疑われて、自ら火をつけた燃え盛る小屋の中で子供を産んだとされる神話の神ですね。  
 
3) 難台山の名前は往古は羽梨山と言ったようで、「羽梨」の由来は、桜の花が白くて「花白山」が「花志山」、「羽梨山」へと変化したのではないかとか、筑波山系の山が葉が茂って緑なのに対し、この山は葉がなく、「葉無し山」といわれ、それが羽梨山となったとなどともいわれていると。
また、社伝によれば、ヤマトタケルが東征のときにここに布陣した時に、、「磐筒男」と「磐筒女」という老翁・老媼が現れて山果(梨)を捧げた。これにより兵の飢渇が癒されたので、帰りの凱旋時に「朝日丘」(現難台山)の神に羽々矢と梨の実を捧げたので、「羽梨山」と呼ばれるようになったともいわれているらしい。

4) 1542年に朝日丘から社殿を麓(現在地)に遷した。
   ただ、この地にはその前に熊野大権現が祀られており、この遷宮で合祀となった。
   別当寺「普賢院」の管理であったようだが、明治の神仏分離令で管理は別れた。

境内石碑には更級日記のことが書かれていますので少し補足しておく必要がありそうです。
更級日記は平安時代に書かれた菅原孝標(たかすえ)の次女・菅原孝標女の書いた日記ですが、この神社については書かれていません。
菅原孝標は上総介(1017年~)となった時にはこの娘もつれて東国に来ていますが、その後京都に戻り、1032年に常陸介として赴任したときは家族は連れてきていません。そのため、日記では常陸国の父からの手紙が紹介されているのです。

あづまより人来たり。

「神拝といふわざして国のうちありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、木(こ)むらのある、をかしき所かな、見せでとまづ思ひ出でて、『ここはいづことかいふ』と問へば、『子しのびの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかなりしかば、馬よりおりて、そこに二時なむながめられし、
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
となむおぼえられし」
とあるを見る心地、いへばさらなり。返事(かえりごと)に、
子しのびを 聞くにつけても とどめ置きし ちちぶの山の つらきあづま路
(訳)
あづまより父の便りを持った人が来た。
「神拝という儀式をして、国のうちをまわっていたところ、水が趣深く流れている野がはるばるとある所に、木が群がっている所がある、趣深い所だなあ、見せてやれないのが残念だと、まずお前のことを思い出して、『ここは何というところですか』と聞くと、『子しのびの森と申します』と答えたのが、身につまされてたいそう悲しかったので、馬からおりて、そこに二時(四時間)ぼんやりしていた。
とどめおきて わがごとものや 思ひけむ 見るにかなしき 子しのびの森
お前もわが子をどこかに置いてきて、私のように悲しい気持ちなのか。見るも悲しい子しのびの森よ。
と思った」

むかしの国司は常陸国の国府(現石岡市)から国内の神社(鹿島神社や静神社などの主だった神社を遥拝して廻るのが習慣で、その途中でこここにある「子しのびの森」が、この言葉からこの付近の「押辺=おしのべ」ではないかと言われている。
そのため、当時のこの神社(羽梨山神社)に来たのではないかというのである。

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しかし、この11世紀頃にこの神社(もう少し山の中腹にあった)が何と呼ばれていたかはあまりはっきりしない。
色々な文献に「羽梨之神」が出てくるが、少し考えてみたい。

1)「日本三代実録」(901年成立)に、「羽梨神」が貞観12年(870年)に従五位下から従五位上、仁和元年(885年)に従五位上から正五位下と階級が上がっている。
2)『神祇志料(じんぎしりょう)』(1873年成立)によると、『大同類聚方』』」(だいどうるいじゅうほう)に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」とある。
 この茨城郡拜師里は現在の石岡市上林・下林から染谷・村上の竜神山付近と考えられている。
3)『新国誌』園部状に、小田城(つくば市小田)の小田政治が羽梨之宮に集まって、軍を整え霞ケ浦を船で渡って小川(現小美玉市)に向かうとある。とする説。そこから、胎安神社か子安神社が羽梨山神社かもしれないと記されている。

やはりこれらの資料から延喜式の羽梨山神社は
1)石岡市(みむら)羽成子にある鹿島神社
2)かすみがうら市東野寺、西野寺にある子安神社・胎安神社
3)石岡市染谷、村上にある佐志能神社(2カ所)
がまず思い浮かぶ。

ただこの笠間市上郷の羽梨山神社も木花咲耶姫命を祀っていることを考えると、かすみがうら市の子安・胎安神がむかしは羽梨山神社としてあり、これが分かれてこちらの神社に名前として残ったのかもしれない。

子しのびの森もこちらの子安・胎安神社近くを流れる天の川付近の森ということも考えられる。
ただ一般には同じ茨城郡の式内社である「夷針(いはり)神社」の論社の中に子安神社、胎安神社、をいれており、佐志能神社は新治郡の式内社にある。

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(難台山を反対側の石岡市八郷地区より眺める:この時季山は白く笑っているように見える)


笠間方面 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/05 16:13

春はさみしく去っていくようだ。

 昨日土曜日は「ふるさと風の会」の4月号の印刷日でした。
今回は新型コロナウイルスも自分が罹らない、感染させないを意識して集まりました。

時間を短くするために、前の日に先に印刷は少人数で終わらせ、当日は折り1・帳合だけにして、1時間版くらいで終わりました。
いろいろ手洗いやマスク、消毒などに気を付けていますが、どこで感染のリスクがあるかわかりません。
周りを見渡してもどうも2週間後にニューヨークやヨーロッパのようになるのか全く見当が付きません。

今年の7月頃から始まる各地のお祭りもおそらく中止になるのではないかと危惧しています。
石岡のおまつりは9月ですが、準備なども考えると実施できるかどうかは不明です。
もし5月になっても終焉が見えなければ実施できないのではないかと思います。

基本は祇園祭りですから祭りの発祥は厄除け・五穀豊穣でしょう。
その1番目に厄除けが多くの祭りの起源だと思っています。

会報を印刷し終わって、午後から会報を以て各施設などに置きに行きました。

前月は前の日に公民館・図書館などの施設の休館が決まり4月初めからいろいろ対策しながら再開しているのですが・・・・
観光客などもだいぶ外出自粛ですので、発行部数も少し減らした方が良いのかもしれなかったのですが、今まで通りとしました。

家に持って帰って手に取ってくれる人が増えるとよいと思います。

街中は桜も散り始めですが、まだ綺麗な状態なのですが、のんびり楽しむというは気持ちには向きません。

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里山は「山笑う」というか、春の新芽とこの淡い色のグラディエーションが何とも言えない景色なのですが、これを素直に喜べない。

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瓦会の「まんまや」さんに会報をお届けに・・・ ドアを開けると お客さんの数はあまりいません。
お昼時は何時も結構混んでいるのですが・・・ 先週の日曜日くらいから特に外からのお客さんが激減だとか・・・
いつもの美味しいおそばをいただくことにしました。(700円)

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土浦市の小町の里へよると、結構車が停まっており、ハイキング姿の親子ずれなどもたくさんいて、あまりいつもと変わりません。

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でもこの施設も、土浦市では土日休館としていました。

そのままつくば市の北条へ。

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桜は盛りを過ぎ始め、チラチラ花吹雪・・・・・
でもこちらも観光施設は4月末まで休館となったようです。

いつもお邪魔している北条の町の「田村家」も休館でしたが、お店の方はおられたので、会報は少し中に置いておいてもらうことにしました。
でもここがOPENになるのは連休中かそれ以降でしょうか。


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りんりんロードも桜はきれいでした。 天気も良かったので外出自粛と言ってもこのあたりを訪れる人は市内ばかりではないので、十分に趣旨は伝わっていないように思います。
わたしもこうして休館になったりしているのを確認せずに来てしまいました。

しばらくはさみしい春になりますが、あまり外出はせずに過ごしたいと思います。

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ことば座・風の会 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/04/05 11:41

三村の地名(三)羽成子と羽梨の話し

 訳のわからないタイトル名「羽成子」と「羽梨」の話しだが、いずれも「はなし」と読む。
以前から気になっている三村地区にある「羽成子」について何か書いておきたいと思い立った。
でも考えるだけで纏まらないので少しわかっていることだけを記載しておきたい。

石岡市高浜の高浜神社側から愛郷橋を渡ってそのまままっすぐ三村側に突き当たった辺りが「羽成子(はなし)」という地名である。
何故このような地名になったのか良くわかっていない。

羽成子

分っている事といえば、三村城(現三村小学校地)跡の近くの「須賀神社」とこの羽成子の少し高台にある「鹿島神社」の2つがこの地区の郷社で、須賀神社が上の宮、鹿島神社が下の宮と呼ばれたという。

またこの下の宮ではかなり古い縄文時代ころの遺跡も見つかっている。(下の宮遺跡)
また三村城が小田氏によって落城したときに大鷲と大鰻の決闘の話が麓の常春寺に伝わっているが、この鷲と鰻を埋葬したという鷲塚、鰻塚という名前の小山(塚)があったとされるのがこの羽成子の少し高台だという。
もっともこれは古墳で、中から2体を一つの石棺に埋葬していた埋葬方法がわかっている。
ただ、この二つの塚は堤防改修のために削掘されて今はない。

さて、羽成子の話に戻るが、天文年間(1532~1555年)に小川城主・園部宮内大輔が書いたとされる『新国誌』「園部状」という文書に、小田城主・小田政治が「羽梨之宮」に軍勢を集め、渡海して小川に着く・・・というような記載があるとされる。

そのため、この羽梨之宮はこの羽成子にある鹿島神社ではないかと考えられている。
また平安時代に書かれた延喜式の神社名簿には茨城郡に「羽梨山神社」が記されており、現在笠間市(旧岩間町)上郷にある「羽梨山神社」がこの延喜式の式内社として多くの書物に紹介されているが、本来の式内社「羽梨山神社」は、こちらにある神社ということも十分に考えられる。

この三村に大掾氏が小田氏側の守りを固めるための城を築いたのは、天正年間(1573~)の初期とみられ、この城に、府中(石岡)の城主大掾慶幹(のりとも)の次男常春を置いた。大掾氏は名前にほとんど「幹(とも)」の字を使っているので、常春は法号だと思われる。

一方小川には、現在小川小学校のある台地には、古くは鹿島神宮の社領で「小河郷」と呼ばれていたという。そこに鎌倉時代に藤原秀郷の後裔で下総国葛飾郡下河辺荘に住していた下河辺政平が「小河城」を築城し、小河氏を名乗ったのが始まりとされる。
その後、この小川(小河)氏が代々城を守ってきたが、室町時代に京都の室町幕府と関東の諸豪族とが争った結城合戦(1440-41年)で、結城方についた小河常陸介が討たれ、この小川(小河)城は小田方城として存続したようだ。享禄元年(1528)に、小田氏は、府中の大掾氏に備えるために園部兼泰を小川城に遣わし、その後小川城は「園部城」と呼ばれるようになります。

そして小田氏と敵対関係にあった府中の大掾氏とも敵対していきました。
しかし、園部兼泰の子の兼彦の代となり、大掾氏の圧力に屈して自分の娘を大掾慶幹の妻に差し出します。
これに小田正治は怒り、この小川の園部氏を攻撃しました。
そして、園部兼彦は城を追われ、小田正治の弟の左衛門尉が小川の城主となったが、城を追われた園部兼彦は、天文15年(1546)に江戸氏の援護を受け、園部城を奪回したのです。

「羽梨之宮」の記述がある小田氏の出陣の時期はこの天文年間の事であり、この小田氏による園部氏攻撃の時ではなかと思われます。

しかし、元亀2年(1571)に再度小田氏に攻められて園部城はまた小田氏の支配下になったとされています。
三村に常春の城が築かれたのは1573年頃ですので、この小田氏や園部氏、江戸氏などとの争奪戦がこの地で繰り返されていたのです。
佐竹氏は園部氏を見方につけて府中の大掾氏を攻略し1591年に大掾氏は滅亡します。

前に書いた羽成子の「鹿島神社(下の宮)の記事 ⇒ こちら


高浜・三村地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/02 12:28

今年も長勝寺(潮来)の桜は咲いていました。

 コロナは衰えそうもありませんが、仕事で3月末日に銚子を訪れることになりました。
まあ、車で行くだけですので感染の危険はほとんどないのですが、あまり人との接触は気を付けますね。

今年の桜はあまりにも早く咲いてしまい、また寒さが戻って少しさびしいのですが、それでも少し外に出ると目に飛び込んできます。
まあ桜見物などは1人でするより大勢の方が楽しいのでしょうが、それは来年にしておきましょう。

毎年、桜の時期に潮来にある「長勝寺」を訪れていますので、少し桜を愛でていこうと立ち寄ることにしました。

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平日で天気もあまりよくなく、この世の中の雰囲気ですから、訪れている人もまばらで、老夫婦が2~3組ほど来ておりました。

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今年もきれいに咲いてくれてありがとう。
また来年。

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その他風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/04/02 06:40
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