茨城の難読地名(その38)-三箇、栗又四ケ、入四間など

茨城にも数値が地名に使われているものもかなりある。その中から比較的読みにくい地名を集めてみた。

難読地名38

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

三箇 【さんが】 小美玉市
栗又四ケ 【くりまたしか】 小美玉市
入四間 【いりしけん】 日立市


○ 小美玉市三箇 【さんが】
 ・・・「さんこ」でなく「さんが」と読む。これは全国に同じ地名が多数あるがほとんどどれも「さんが」である。
これは3ケ所の村が一緒になって「三箇村」となり、この読みが「さんがむら」というのが発音しやすかったからで、村がとれても「さんが」が残ったものと解釈される。
<全国の三箇地名>
茨城県小美玉市三箇(さんが)
栃木県那須烏山市三箇(さんが)
埼玉県久喜市菖蒲町三箇(さんが)
千葉県袖ケ浦市三箇(さんが)
新潟県中魚沼郡津南町三箇(さんが)
富山県射水市下村三箇(さんが)
富山県射水市本江三箇(さんが)
愛知県豊田市三箇町(さんがちょう)
大阪府高槻市三箇牧(さんがまき)
大阪府大東市三箇(さんが)
福岡県朝倉郡筑前町三箇山(さんがやま)
熊本県上益城郡甲佐町南三箇(さんが)

○ 稲敷市四箇 【しか】
 ・・・旧河内郡に江戸時代に4か所の村が合併したと思われる「四箇村」が存在した。明治22年の合併で村は「阿波村」になった時に「四箇(しか)」の地名として残った。

○小美玉市栗又四ケ 【くりまたしか】
 ・・・四カ所の村が合併し栗又四箇村(栗又は地元の地名、武将名)が作られ、玉里村に合併したときに大字名が「栗又四ケ」になったと考えられる。
しかし鹿島鉄道(現在廃線)の駅名は「四箇村駅」であった。

○ 下妻市五箇 【ごか】(旧千代川村)
 ・・・江戸時代に岡部郡に「五箇村」が存在した。江戸時代に5つに村が合併して付いた村名と思われるが、「後閑(空閑:こが)」の転訛とする説があるという。(角川日本地名大辞典)。明治22年の再編成合併で大形村に組入れられた。
柳田國男の地名の研究資料「地名考説」では、堀之内の地名について述べているところに、鹿島文書に「後閑堀ノ内」とみえ、後閑は空閑(こが)=開墾者が押さえていた土地で、堀之内は名主の垣内(かいと)と同じものであるといえる。とあります。

○ 筑西市二木成 【にぎなり】
 ・・・鎌倉時代に「仁木奈利郷」という郷名があった。これは太閤検地の際に真壁郷に組み込まれた。(角川日本地名大辞典)

○ 鉾田市二重作 【ふたえさく】
 ・・・南北朝時代から室町時代に「二重佐古村」が存在した。江戸期からの村名は「二重作村」となっている。(角川日本地名大辞典)

○ 常陸太田市三才町 【さんざいちょう】
 ・・・地名の由来については康平5年【1062年)源頼義の二子加茂義綱が下向の時年が凶悪であるとして当地に3年(3歳)留まったことにちなむと伝える(新編常陸)(角川日本地名大辞典)
江戸期から「三才村」との地名が見られるが、昔は「三歳村」との記述もある。

<三才、三歳 などに類似の地名>
茨城県常陸太田市三才町(さんざいちょう)
長野県長野市三才(さんさい) 、西三才(にしさんさい)
長野県松本市三才山(みさやま)
岐阜県岐阜市三歳町(みとせちょう)
愛知県名古屋市西区五才美町 アイチケンナゴヤシニシクゴサイビチョウ
愛知県小牧市藤島町五才田 アイチケンコマキシフジシマチョウゴサイデン
山形県西村山郡大江町十八才甲、乙 (じゅうはっさい こう、おつ)

○ ひたちなか市三反田 【みたんだ】
 ・・・貝塚や遺跡も多く早くから人々が住んでいた。古くは三多田村と称し、元禄年間頃に三反田村と改称した(水府志料)。またこの地は瓜・茄子などを多く産する所で三反田のどんたつ瓜と称され、大変大きなものが採れたといわれている。(角川日本地名大辞典)

○ 鹿嶋市根三田 【ねさんだ】
 ・・・地名は「さだ」の根方にいちすることに由来。「風土記」にみえる「寒田」から「根佐田」となr根三田に転じたとも言われる。(角川日本地名大辞典)

○ 稲敷郡河内町十三間戸 【じゅうさんまど】
 ・・・利根川中流の中州まわりにこの地名があり、茨城県河内町と千葉県香取郡神崎町に十三間戸という」地名がある。
平凡社「茨城県の地名」によると、1602年に小倉縫殿之助が開墾し、それ以降に移住者があって一村となったとある。
十三間というのは柱と柱の間の間隔という長さでいえばの 1.818m×13=23.6m になるので長い建物が存在したとも考えられる。 奈良に忍性が建てた北山十八間戸(けんと)という建物がある。これは当時らい病患者の収容施設としてつくられたもので、部屋を1間ずつ区切って18戸の部屋をつなげたものだった。
この地にも13間で仕切られた施設があったことも考えられるが、記録にはない。
また、間戸(まど) = 窓 で「窓」の語源が「間戸」という考え方もある。

<間戸と付く地名>
茨城県稲敷郡河内町十三間戸(じゅうさんまど)
千葉県香取郡神崎町十三間戸(じゅうさんまど)
福井県福井市間戸町(まとちょう)
熊本県上天草市姫戸町二間戸(ふたまど)


○ 日立市入四間町 【いりしけんちょう】
 ・・・「入四間」は、御岩神社があり、日立鉱山の煙害による被害を受けた地域として知られている。
地名も古くは「入四軒」と書いており、最初にこの地に入植した家が4軒だったからと地元では伝わっている。
その入植した時期については、江戸時代よりも古く、南北朝時代に北朝に敗れた南朝派の武将が、この地に逃げ込み、それが定着したとも言われる。

○ ひたちなか市四十発句 【しじゅうほつく】
 ・・・那珂湊町字四十発句とある。旧湊村には変わった地名が散見される。水音から付いたと思われる「沢メキ、道メキ、廻り目」などのほかに、船窪、貉谷津、ナメシ、和尚塚、十三奉行などその由来が気になる地名ばかりが並ぶ。
しかしこの四十発句の地名由来はわからない。

○ 行方市四鹿 【しろく】
 ・・・鎌倉期から南北朝時代には「四六村」と見える。江戸期からは「四鹿村」となった。(角川日本地名大辞典)

○ 北茨城市大津町五浦 【いづら】
 ・・・名称は入江が5つあったことに由来。(角川日本地名大辞典) 明治39年に岡倉天心が日本美術院をこの地に移した(六角堂)

○ 猿島郡五霞町 【ごかまち】
 ・・・赤堀川(現利根川)・逆川・権藤川にはさまれた川中島で、沼や湿地帯が多い場所であったが、耕作整理され水田が多くなった。明治22年に11ヶ村が合併し五霞村となった。

○ 北茨城市関本町八反 【はったん】
 ・・・地名は古代の条里制に由来するという。(角川日本地名大辞典) 大化の改新で施工された条里制で、これに基づいて耕地を整理し、そこに集落が形成されたところに条理集落となったと思われる地名が日本各地に存在するが、主に奈良や西日本が多い。北茨城の八反もいつの時代かは不明だが、同じように耕作地を整理しつけられた地名だと思われる。

○ 行方市八木蒔 【やきまき】
 ・・・時期は不明だが北の「羽生村」から分村と伝えられ(新編常陸国誌)、また南北朝時代に「やきまきのむら」という村名が見られる。この地方は橘郷(立花郷)といわれ鎌倉初期には鹿島神宮大禰宜の中臣氏が所領する地であった。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/22 06:02

茨城の難読地名(その37)-於下、次木(行方)

 行方市の少し読みにくい地名2か所です。

難読地名37

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

於下 【おした】 行方市
次木 【なみき】 行方市

<於下>【おした】
 この地名は読みにくいと思いますが、「於」は「於いて」であり「お」と読みますので「おした」も読めそうです。
でも「於」も「於いて(おいて」としてしか使われませんので、地名などに使われると読みに窮してしまいます。
場所は玉造と麻生の中間の霞ケ浦湖岸の地区です。

小高に近く、中世の行方四頭の一人「小高氏」の居城があった山の下です。
名前の由来は特に書かれているものがなく不明ですが、角川日本地名大辞典によると、中世以来水上交通の要所とされたという。また縄文時代の「於下貝塚」があると書かれています。

名前の由来を探るために全国の住所から「於」と名が付く地名を探してみました。

茨城県行方市於下(おした)
千葉県山武郡横芝光町於幾(おき)
富山県富山市於保多町(おおたまち)
山梨県甲州市塩山上、下於曽(かみ、しもおぞ)
静岡県浜松市浜北区於呂(おろ)
愛知県一宮市大和町於保(おほ)
京都府綾部市於与岐町(およぎちょう)
大阪府岸和田市神於町(こうのちょう)
山口県美祢市於福町上、下(おふくちょうかみ、しも)
高知県四万十市中村於東町(なかむらおひがしちょう)
宮崎県西都市都於郡町(とのこおりまち)
鹿児島県曽於市(そおし)
鹿児島県曽於郡(そうぐん)
鹿児島県大島郡瀬戸内町於斉(おさい)

ほとんどの地名が「お」と読みます。この中で最も特徴がある大きな地名が、鹿児島県の曽於郡、曽於市(そおし)です。
この名前の由来はこの地が大和朝廷に最後まで抵抗した熊襲(くまそ)が住んでいた場所で、この曽於(そお)の名前はこの熊襲によるのではないかと言われていることです。

実はこの行方の地は大和朝廷が東国に進出したときに抵抗勢力も多くいて、進出が最も遅れた地域です。
そのため、8世紀初めに書かれた常陸国風土記には行方の地名として「手鹿(てが)」「男高=小高(おだか)」などがすべて、この地にいた「佐伯(さえき)」(「国栖:くず」などと同様にヤマト朝廷に対してさえぎる人々という、もともとこの地に住んでいた現地人)の名前から地名になったと書かれています。

小高(男高)が佐伯の名前ですので「於下」も同様に「男下」で佐伯の名前かもしれません。

また鹿児島の「曽於(そお)」と同じ意味合いで「於」が使われたとすると「於下」の「於」そのものに佐伯や国栖のことを指す語の意味が含まれているのかもしれません。 「於」=「男」=「小」

<次木>【なみき】

 場所は玉造から鹿行大橋に向かう国道354号線沿いの両宿、武田の里の少し西側(旧道)です。
この街道は昔の街道筋にあたり、街道並木が続いていたといいます。
そのため、「並木」が続いているので「次木」で「なみき」と読ませたのではないかと考えられます。
次木村は江戸期から見られる地名ですが何時から使われているのかは不明です。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/21 09:11

茨城の難読地名(その36)-安居

難読地名36

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

安居 【あご】 笠間市(旧岩間町)

 この安居(あご)は、延喜式に載っている古代官道の駅家(うまや)の「安侯(あご)」が置かれていた場所だと考えられています。
10世紀初期に書かれた延喜式には神社名などのほかに古東海道の駅家(うまや)や東山道の駅家(うまや)の駅名が載せられています。また古東海道の終点である常陸国国府(現石岡)からさらに北上し、東山道と連絡すると思われる駅名が記されています。
(古東海道)常陸国府 ⇒ 安侯 ⇒ 河内(水戸市) ⇒ 田後 ⇒ 山田 ⇒ 雄薩 ⇒ 高野 (福島県矢祭町高野)⇒ 長有⇒ 松田(東山道)
この駅家は16km間隔にあり、馬を常駐していました。
現在石岡の鹿の子から常磐高速に沿った旧官道の跡が見つかっており、この安侯駅家は 安居(あご)地区の常磐高速沿いの地点がその跡だと考えられています。

延喜式の記載の前にはこの「安侯」駅家は、日本後記に812年に安侯、河内、石橋、助川、藻嶋、棚嶋の6駅が廃止されたことも記されているため、一度廃止されたものが延喜式【927年)では復活している(安侯馬二疋の記述有)事になります。

平安時代には「安侯郷(あごごう)」という地名が「和名抄」に記載されていますので、「安居(あご)」の地名はこの「安侯(あご)」から来ていると考えられますが、何時どのように変わったものかはわかっていません。

全国の「安居」という地名を調べてみました。

≪安居≫地名一覧

<アゴ>の読み
茨城県笠間市安居(あご)
静岡県静岡市駿河区安居(あご)
静岡県富士宮市安居山(あごやま)
和歌山県西牟婁郡白浜町安居(あご)

<アンゴ>の読み
京都府八幡市内里安居芝(あんごしば)
京都府八幡市八幡安居塚(あんごづか)

<その他>の読み
岩手県遠野市附馬牛町安居台(あおだい)
富山県南砺市安居(やすい)
愛媛県松山市安居島(あいじま)
高知県吾川郡仁淀川町土居(安居土居) (やすいどい)
福岡県久留米市山川安居野(あいの)

この中で読みが「あご」と「あんご」に注目してみます。
まず、京都府八幡市の安居(あんご)ですが、これはおそらく「安居=あんご」は僧侶たちが一定期間、庵に籠って修行することを安居(あんご)といった言葉が地名になったと思われます。

梅雨時など雨季に草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するために外を歩いてむやみな殺生をしないように、庵に籠って修行したことに始まるといわれています。

こちらは一般的には「あんご」と読ませていますので、この「あご」」とは少し違っているように思えます。

アゴ=網子 で網を操る漁師の集団が住んだところ という解釈があるようですが、この茨城県の安居は現在の地形ではイメージはわきませんが、昔は涸沼川が近くをながれ、蛇行しているような場所で川での漁が盛んなところから名前が付いた可能性もあります。

同じ「安居」を「あご」と読む和歌山の「安居」も日置川の川が大きく蛇行している開けた場所ですので、これは「網子」か?
一方静岡市の安居は久能山の麓の海岸寄りですので「僧侶の安居(あんご)」「海岸での漁師の網子」の両方が考えられます。
富士宮市の「安居山」は身延線沿線の比較的山の多い地域です。 こちらは僧侶がこのあたりの山に籠ったのでしょうか。

笠間の安居にも「千日堂」などもあり、信仰も盛んな場所だったと思われますので、いろいろな解釈もできそうです。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/21 05:10

茨城の難読地名(その35)-大甕

難読地名35

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

大甕 【おおみか】 日立市

「大甕」は鉄道駅名や神社名などに使われ、住所表記は「大みか」である。
「甕」は「みか」とも読むが、一般にはこれだけなら「かめ」である。

甕(かめ)は、土器、陶器の一種で、貯蔵、運搬、発酵、化学反応に用いられる容器と辞書にはある。
また、この字は、弥生時代中期に北九州、山口県地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、甕棺(かめかん)として知られるとも書かれている。すなわち大きな甕(かめ)は大人の埋葬用の棺甕ということになる。

また、神にささげる酒や食べ物などを入れた甕(かめ)も大甕と呼ばれたようだ。

ではここの日立市の「大みか」はどんなところなのだろうか。
この地名が付いたのはここに「大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)」があるからに他ならない。

常陸国一宮の鹿島神宮に行くと、入口の随神門(ずいしんもん)を入ると、拝殿は右側にあるが、正面に小さな祠「高房社」がこちらを向いて建っている。
この高房社は鹿島神宮の摂社の一つで、現地の説明には「武甕槌(タケミカヅチ)大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男(アメノカカセオ)を抑えるのに大きく貢献した建葉槌(タケハヅチ)神が御祭神です。 古くから、まず当社を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。 」と書かれています。

これがどういう意味かというと、鹿島神宮の武神「武甕槌(タケミカヅチ)」は、ヤマト朝廷の勢力を北へ拡大していたのですが、この日立地方に住む「天香香背男(アメノカカセオ)」という星を信仰する蝦夷(エミシ)が強く、抵抗も大きかったのでなかなか征圧できなかったのです。
そのため、建葉槌(タケハヅチ)に命じて、この天香香背男(アメノカカセオ)を退治させたのです。
この大甕神社にはこの建葉槌(タケハヅチ)命と退治された天香香背男(アメノカカセオ)の両方を祭っています。
天香香背男は宿魂石という大岩に閉じ込められています。(岩山の上に祠が祭られています)

またこの建葉槌命は常陸国二宮である静神社にも祭られています。

現在国道6号線は久慈川を過ぎるとこの大甕の山にぶつかります。道路は山を削り、この山にあった大甕神社を東西2つにに分けてしまいました。

 この歴史的な言い伝えを信じるとして、この「大甕(おおみか)」という地名の由来を見てみましょう。

日立市の説明によれば、この「大甕」は、神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられます。となっています。

はたしてそうでしょうか。

現在の郵便番号住所で「大甕」という地名は下記があります。

 福島県南相馬市原町区大甕(おおみか)


日立市の説明は志田諄一氏の「大甕という地名について」(『日立史苑』第4号)に記された内容が基になっているようです。

では、その説明を以下に記します。

<「甕」の使用例>
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあります。
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとあります。
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られます。
<大甕と神社>
「常陸国風土記」や「播磨国風土記」には、山の峰に住む神と里に住む人との境界(山口・山本)に社(やしろ)が建てられた話がみられます。
大甕の地も、風の神山・真弓山へとつづく多賀山地の南端のふもとにあたります。まさに山口にあたるこの地に大甕神社があります。
なお、現在の南相馬市原町区に大甕があります。この大甕に延喜式内社に比定される日祭神社があります。この神社の由来は、日本武尊東征の際、平定を祈願してこの地に天照大御神を勧請したといい、大甕という地名は、祈願の際に祭壇にささげられた酒をもった器にちなんだといわれています。
<大甕の由来>
以上のことから、大甕は、神と人の住む境界として「大甕」が埋められていたか、あるいは「大甕」をおいて祭祀が行われた地であったと考えられます。

<従来の説>
(1)甕星神説(大甕倭文神宮社記)「常陸風土記に曰く、大甕は甕星神の居所の土地なり。故に大甕と称す」
→ 現伝本の「常陸国風土記」には、大甕や甕星神の記載がなく、根拠がない。
(2)天津甕星説(大甕倭文神宮社記)「当社縁起に曰く、建葉槌命は天神の勅をこうむり、天津甕星を誅して倭文郷に鎮座す」。ゆえに大甕倭文神宮といった。
→ 倭文郷は、現在の茨城県那珂市静の地をさす。天津甕星は「日本書紀」にみえる神であるが、大甕とはなんら関係がない。(3)甕星香々背男(みかぼしかがせお)説(宮田実『大甕より久慈浜あたり』)「大甕の地は先住民族として古典に載ることころの甕星香々背男と称する強賊の占拠していたところであったために伝えて此処を大甕と称すると云われている」
→ 甕星香々背男と大甕を結びつけるものはなにもない。

と従来説や神社に伝わる話を否定しています。しかし、常陸国風土記が書かれたのは8世紀初めであり、この地の蝦夷人と戦ったのは4~5世紀のころと考えられます。
ヤマト朝廷が蝦夷人たちのことを土蜘蛛などと呼び、自らの歴史からは消し去っていますので日本の歴史はこの大和朝廷が仙台の多賀城やこの常陸国を征圧した後に確立したものしか書かれたものはありません。
その前の伝説を数百年あとの時代の勝者が好きに書いた内容だけが正しいと言えるのでしょうか。
地名には明らかにそれ以前の蝦夷人、縄文人たちの言葉が伝えられたものがたくさんあるのです。
皆さんはどうお考えでしょうか?

私はこの神社に伝わる伝説的な話にある程度の信ぴょう性を感じてしまいます。



茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/20 17:07

茨城の難読地名(その34)-行方、行里川

難読地名34

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

行方 【なめがた】【なめかた】 行方市
行里川 【なめりかわ】 石岡市

今回の行方市(なめがたし)は、茨城の方は大概の方が読める地名だが、その他の地域の方はほとんどが読めない。
その名前の由来については、多くの方が常陸国風土記に書かれている由来を信じて疑わない。

まあ8世紀初頭にまとめられた風土記であるので、そこに書かれているのだからまあ信じてもよいように思うのだが、これも不思議なものだ。少し検証してみたい。

常陸国風土記の行方(なめかた)郡の条の内容を口語訳で概略を記しておきましょう。

まず、行方郡の成り立ちについては、白雉四年(653)に、茨城の国造である 壬生連麿(みぶのむらじまろ)と、那珂の国造である 壬生直夫子(みぶのあたひをのこら)が申し出て、茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里(合計15里、約700戸)を提供して行方郡としたと書かれています。
そして倭武の天皇(ヤマトタケル)が現原(あらはら)の丘に上って四方を眺めて「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられてゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」とおっしゃったと書かれています。

常陸国風土記に行方の名前の由来が「なめくわし」だと述べているのです。
でもこれは続いて書かれている、「小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。」といわれるように、今の「梶無川(かじなしがわ)」の名前の由来を述べていることと同列なのです。

きっともっと昔から「かじなしがわ」だったはずですし、「行方」も昔からこの地に「なめかた」と呼ばれる地名が存在したのだと思われます。
縄文語を研究されている鈴木健さんの「常陸国風土記と古代地名」の中にこの「行方」について書かれた記事があります。
それによると鈴木さんはこの風土記に書かれている「行方」の由来説明はどう考えても「無理なこじつけ」だとされています。
そして古代アイヌ語(縄文語)で「泉のほとり」「泉の上」の意であると書かれています。
行方市の湖岸近くにヤマトタケル伝説の地として「玉清井(たまきよい)」と呼ばれるわき水の池(泉)があります。この池の上に「井上」と名づけられた地域があり、「井上神社」という古社があります。
この井上もまさに縄文語で言う「行方」と同じ意味になるといいます。

行方=冷泉の上=井上 というわけです。

もう2ヶ所茨城県には「行」=「なめ」と読ませる地名が存在します。
石岡市の旧水戸街道の杉並木の端「行里川」【なめりかわ】と、下妻市の「行田村」【なめだむら】です。

<行里川>(なめりかわ)
角川および平凡社の地名辞典にはこの地名の解説はないが、「石岡の地名」(石岡市教育委員会編)(平成8年10月出版)によれば、江戸後期にはみられる地名だが、諸説として、この地の北境に園部川が流れるが、この川は昔は滑川と言ったとあり、この部落も滑川と呼ばれた、滑川の起こりは新誌(新常陸国誌)に平常土人の之の川を徒歩するに河底深く滑らかにして転倒の恐れあり、故に滑川を以て名とするなるべしと、江戸重通が大掾清幹にやぶれたのも之の川の橋破壊され渡り難くされた事が大きな原因であったと言われているだけ滑る川であったようである。・・・・ などと書かれている。
まあこれもどこか自己満足的な書き方に見えなくもない。

<行田>(なめだ)
角川日本地名大辞典では下妻市の「行田村(なめだむら)は江戸期から明治11年まで使われていた地名で、古くは滑田と書き、語源は、毛野川(現在の鬼怒川)流域の肥沃で滑らかな田の意という(下妻近傍地名考) と書かれています。
日立市には「滑川」がありますので、「行(なめ)」=「滑(なめ)」という解釈もあるのでしょうか。

行方以外は昔は「滑」の字を使っていたらしいが、「行」に変えたのは、この行方の読みが影響しているようだ。どこか品が良いと感じて漢字を変えたというのが当たっているのではないかと思われる。


<行を「なめ」と読む地名>
山形県鶴岡市行沢(なめざわ)
山形県尾花沢市行沢(なめさわ)
福島県南相馬市小高区行津(なめづ)
茨城県石岡市行里川(なめりかわ)
茨城県行方市(なめがたし)
群馬県富岡市妙義町行沢(なめざわ)
千葉県勝浦市浜行川(なめがわ)  行川アイランド
千葉県いすみ市行川(なめがわ)
神奈川県茅ヶ崎市行谷 (なめがや)
高知県高知市行川(なめがわ)

などが検出されました。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/20 08:19
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