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烟田城跡をたずねて(2/2) 西光院と千手観音堂

 昨日の続きです。
烟田城跡に建つ2年前に閉校となった新宮小学校の周りをうろうろして、また小学校の正門前に戻って来ました。

この学校の入口と並んで、天台宗の「西光院」という寺が建っています。

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なかなか立派なお寺の構えである。

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説明板によると、慈覚大師(円仁)の創建が伝えられているというので平安時代8世紀前半の創建とも伝えられているという。
まあ、しかし、この寺伝ははっきりしていないので、烟田氏の始祖、烟田朝秀が13世紀に建立したものだろう。

烟田氏が滅び、火災にもあってあまり寺の歴史を示す資料は残されて痛いらしい。

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真っ直ぐ入った正面に山門とその奥に比較的新しい本堂。
山門の右手に鐘楼。
山門を入って左手に「千手観音堂」があります。

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この観音堂はかなり立派な建物です。
昔は年2回の縁日でかなり賑わったとか。

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この観音堂の中央に立派な厨子がおかれています。この中に観音像が安置されているのでしょうか。
鉾田市指定文化財に「木造 千手観世音立像」と「木造 両脇侍立像」がありますので、この厨子の中に安置されているのでしょう。

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手前の左右に木造の仁王像などが置かれていました。
何時のものかはわかりません。

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俵に載っているのは大黒様でしょうか。

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この仁王像は一般には厳しい表情のはずですが、どこかユーモラスですね。
何処かのお寺の仁王門からこちらにもってきたのでしょうか。

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でも左右ともに口が閉じられているようですから阿吽の仁王像ではないのかもしれません。

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今は飽きですから、ひな祭りとは大分時期が離れていますが、色鮮やかなつるし雛が飾られていました。



常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/24 13:08

烟田城跡をたずねて(1/2)

 少し前にこのブログで「常陸国における源平合戦」という記事を連載してきた。
その時に戦国末期に佐竹氏により常陸国南部の平氏一族が謀殺されたことを、現地に残されているその記録などを探して書いた。
その時、まだ訪れた事がなかった場所があり、先日探していってきた。

場所は新鉾田駅の南東比較的市街に近い。県道18号線の烟田中央信号の東側にある少し高くなった台地一帯だ。
ここには2年前の2019年3月まで130年間続いた(新宮)小学校があった。

kamatajyouato.png

入口は南側の道路より急坂を登ってすぐ小学校の入口と西光院という寺の入り口広場に到着する。
天正19年(1591年)に佐竹氏の南方三十三館謀殺によりここの烟田氏は滅んだ。
常陸太田にやってきた烟田道幹兄弟と家臣1名の3人は、この佐竹氏側の不穏な動きを察して常陸太田城から逃げて常陸太田市常福寺町のとある家にかくまわれたが、追っ手の探索が厳しく、ここで自害したという。
そして菩提を弔って祠が建てられ、三本の杉の木が植えられた。この杉は枯れて今はないが、三本杉という地名が残った。

その後、徳川の時代になって、西南端に武蔵国の氷川神社がら神社を勧請した。

 水戸の吉田氏から分れた鹿島氏が、兄弟分が管理していた水戸城を江戸氏に奪われた後、この江戸氏の守りとしてこの鉾田北部に徳宿氏を配していたが、この徳宿氏から別れたのがこの烟田(かまた)氏である。
徳宿氏は1486年にこの江戸氏の攻撃を受け城は滅び、その後100年間はこの烟田氏が北からの守り城の役割を担ってきた。

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新宮小学校は130年間続いてという事であり、比較的規模の大きな学校と思われる。
廃校になり2年が経っているが、それ程荒れてはいなかった。
校舎や体育館、校庭などはまだ使えそうで、もったいなさが目に付く。

烟田城の遺構を探して、校舎脇の道を右側から裏のほうへ回ってみた。

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裏側に行くと、昔の城跡の一部である土塁が残されていた。
ここに説明看板が置かれていた。

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ここに小学校が出来た時に、昔の土塁などの遺構はかなり崩されてしまったらしい。
いまはこの小学校に一角のみに面影を残すのみだという。
地図にはこの裏側に「氷川神社」のマークがあるので、学校の校庭へ入ってみました。

正門は閉鎖されていますが、校舎と体育館の間の塀はなく、自由に出入りはできます。

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少し前まで子供達が歓声をあげていたのでしょうか。校舎は今でもまだ使えそうです。

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校庭には遊具もまだ残されています。

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校庭の奥の隅っこに鳥居らしきものが見えます。
どうやらあれが「氷川神社」のようです。

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この神社へは反対側から登ってくる石段がありました。
ただこの上り階段は使われている形跡はほとんどありません。

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神社の拝殿は比較的小さなものでした。
入口に別な鳥居が置かれています。

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江戸時代初期の寛文9年(1669年)に武蔵国の氷川神社から分霊されたものらしい。

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この神社の本殿裏にはやはり土塁が残されており、前の土塁の看板のあるところと続いているようだ。

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土塁と竹が混ざり合って鬱蒼としている。

烟田氏は1591年に滅び、その後佐竹氏の勢力が支配しておりましたが、江戸時代になり佐竹氏は秋田に移り、ここの家臣たちも徳川の家臣として生き残ったようです。
 現在、家臣たちが保管していたと思われる「烟田文書(かまたもんじょ)」が残されているといいます。

やはり一度現地を訪ねてみて、当時に人達の思いをくみ取ることも大切ですね。
次は隣にあった西光院と千手観音堂を紹介します。

(続く)

常陸国における源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/23 14:30

甲子夜話の面白き世界(第29話) 地震の話し

甲子夜話の世界第29話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 甲子夜話の作者である松浦静山公は、1760年の生まれで、本来は父が家督を継ぐはずであったがその父が早死にしてしまい、側室の子であったにもかかわらず藩主であった祖父の養嗣子となり、まだ16歳くらいの1775年に祖父から譲られて肥前国平戸藩の藩主となった。
財政的に苦しい時代を乗り越えて藩も立て直し、人材育成にも力を注いできた。
しかし、1806年に三男に家督を譲り隠居となった。まだ40半ば過ぎで、早いとも思われたが、これも徳川幕府の意向が働いたと考えられる。
さて、隠居の身になり、この後何をなすべきかを学問を通じての友人でもあった幕府大学頭の林述斎の勧めで、この甲子夜話を書き始めたのが1821年の11月(旧暦)。
それから亡くなる1841年までの約20年間に、ほぼ毎日書き続けたその量は実に膨大である。
現代の私達のように情報は新聞・雑誌、テレビ、インターネットなどから湯水の如く伝わってくるが、当時の時代背景を考えるとこれだけの記事が次々に書かれたということは奇跡に近い。
またそこには、静山公の多大稀な好奇心と、自身の長年にわたって得た知識が裏付けとなり、また上から下までの人間を人間としてみる視点の深さなどが読み取れる。今の私たちにとっても学ぶ事は多く、また物事の捕らえ方なども大いに参考にすべきだと思われます。
今回は、甲子夜話が執筆されていた1821年~1841年に起った地震の記録についての記述を少しまとめて見たいと思います。

<日本における大地震の記録;1821~1841年(Wikiより)>
1823年9月29日(文政6年8月25日) 陸中岩手山で地震 - M4.8 ~ 6.0、山崩れあり、死者 69人、不明4人。
1828年12月18日(文政11年11月12日) 越後三条地震 - M6.9、死者1,681人。
1830年8月19日(文政13年7月2日) 京都地震 - M6.5±0.2、死者280人。二条城など損壊。
1833年5月27日(天保4年4月9日) 美濃西部地震 - M6+1⁄4 死者11人。余震は8月まで、震源は根尾谷断層付近。
1833年12月7日(天保4年10月26日) 庄内沖地震 - M7+1⁄2±1⁄4、死者40~ 130人。東北・北陸の日本海沿岸に津波。
1835年7月20日(天保6年6月25日) 宮城県沖地震(仙台地震、天保大津波 ) - M7.0程度、死者多数。仙台城が損壊。
(北海道や小笠原の地震もあるがここでは除く)

甲子夜話に書かれているのは、1828年の越後三条地震と翌年の京都地震である。
その他の地震の記録もあるが、まだ全編網羅していないので、現在ブログに取り込まれたものだけをここに示す。

まず、越後三条地震であるが、記録によれば越後大地震として、下記のような記録が残されている(Wiki による)
(越後大地震)
・文政十一年十一月十二日の朝八時ごろ、越後の三条町・長岡・与板・和木野町など十里四方に大地震がおこった。
寺社や民家がばたばたと倒れ、人びとはあわてて戸外へ逃げたため同時に火事がおこった。
阿鼻叫喚、圧死した者、焼け死んだ者は、なんと三万人にも上った。
しかも余震は十四日まで、頻繁につづいた。(マグネチュード6.9程度と推測)

これを江戸にいた静山公が知ったのは、町のかわら版である。
ブログへの収録が未だなので、国立公文書館の記事を一部掲載します。
<甲子夜話続編>
 文政11年(1828)11月下旬、町でかわら版が売られていると聞いた松浦静山は、さっそくこれを買い求めた。
手にとって見ると、11月12日から14日にかけて越後地方を震撼させた「越後三条地震」のいわば号外速報。
静山はこれを『甲子夜話』続編に書き写させると共に、サケやタラを積んだ松前の商船が越後沖で行方不明になったという情報も書き添えている。69歳の好奇心旺盛な老公は、「地面震スレバ潮水モ亦また激怒スルカ」と、あらためて地震災害の恐ろしさを感じた様子です。
  (参考記事 ⇒ こちら )
こちらには絵も載せてある。
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≪潮汐、地震での地の変化≫
  佐渡の海は潮汐の進退と云うことなし。
止水のように、海潮の深さはいつも極(きま)ってあるという。
故に海岸の岩石に積年の鹹(しお)凝って、一帯を白色に成している。
 近年一湊地震でゆり崩れて、海波浅くなり、海面より尺余りもかの白色が出た。
これで地震の時に地が下ったのを験(兆し、兆候)すると云う。
 羽州の象潟(きさがた)は、本朝三景の一と云うが、先年地震(1804年)でゆり崩れ、入海の水みなひき、今は風景さらになしと云う。
 西洋の説に、地は実したものゆえ、横へ震することはなく、ただ上下へゆれると言うのは宜(むべ)なるもの。
巻之3 〔30〕 ← クリック 元記事

さて、もう一つ文政13年7月の京都大地震です。
概要は
文政十三年七月二日、朝から猛烈な暑さに市民は音をあげていたが、午後四時ごろ雲もないのに突然天空に雷のような音がした。
公家も町人もみな飛び出し、その夜は屋外で野宿した。
翌三日の朝までに余震およそ百二十四回、その後も一時間に七~十回の地震が続いた。
このため二条城の石垣はくずれ、地面に七、八寸の裂け目が生じ、北野天満宮では七十八本の石灯籠がすべて傾いたという。
死者二百八十人、禁裏をはじめ有名寺社がかなりの被害をうけた。(マグネチュード6.5前後と推測)
こちらはかなり細かく記録として残してます。

≪文政京地震の前に起こったこと≫
この頃永井飛州(飛騨国)を訪ねて、去年の京震(1830年、文政京地震)を高槻はどうだったかと問えば、帰国の途中は何事も無かったが、帰城した翌日に地震が起こったと。
その様は尋常の地震とは違った。
まず揺らんとする前に、東北の方から鳴動した。
その音は何か物に触る様な響きだったが、やがて地が震えた。
その揺れ様は、いつも様に横へは揺れず、何か環(めぐる)様に震えた。
強いときは立つことが出来ず、手をついている体となった。
また京の人の言うことを聞くと、大震の前夜には、空一面に光り物が出現したと。
それが昼の様だったので、人々は訝った。
如何なることだろうかと、云い合っていたら、果たして翌日にかの大震になったと云う。
これも飛州の話である。
続編 巻之67 〔9〕 ← クリック 元記事

≪京師に起こった地震の記録≫
  今ここに8月檉宇の書簡に、拙家京師の邸宅の留守居から書が来た。
かの地の地震のことを筆記したものである。
見ると、昨年の寅年(文政13年、1830、7月2日)にはじめて大震れしたので、今年(辛卯)正月迄の記録である。
詳しくまとめてある。以下移写した。

 7月2日昼7ツ(午後4時)時より大地震が起こった。凡そ数は以下の通り記録した。
1,7月2日、昼7ツから夜にかけ、明くる3日朝迄トロトロのほか大小とも25,6度
  3日、昼夜かけトロトロとも、20度ほど 
  4日、同断(本震と同じもの)20度ほど
  5日、同断20度ほど
  6日、同断20度ほど
  7日、朝方大きなもの3度、後は小12度ほど
  8日、13度ほど 
  9日、13度ほど 折節 ひくついた(細かにゆれた)
 10日、12,3度      11日、13度
 12日、13度        13日、13度
 14日、12度        15日、13度
 16日、11度        17日、12度
 18日、11度  そろそろと緒方の土蔵を直しかける、家のゆがみも直しかける
 19日、昼小3度、夜の入り大3度
 20日、朝大1度、夜9ツ(零時 )時大1度
 21日、昼夜にかけて5度
 22日、小6度         23日、穏やか 小6度
 24日、夜中大1度 小4度
 25日、中の規模が2度、小3度
 26日、中小とも昼夜 6度
 27日、同断 6度
 28日、昼4度、夜に入り大2度 夜8つ(午前2時)時に雷が鳴るような音とともに小5,6度
 29日、小7度
8月朔日、きわめて穏やか 小3度
  2日、小3度 この頃は地震にみなが慣れてきて、さほど驚かない
  3日、小3度       4日、小3度
  5日、中1度       6日、小中9度 大2度
  7日、中2度、小2度
  8日、大1度       9日、小2度
 10日、小3度 先ごろから追々に大工、左官、手間方、1日朝から出て来て、弐人前体制でやっている。誠に職方は大いに忙しくなっている。
 11日、小3度、大2度、トロトロ4度
 12日、大小 6度
 13日、同 6度      14日、大1度
 15日、小4度       16日、小4度
 17日、小4度
 18日、夜に入り、大2度
 19日、大1度       20日、朝6ツ(午前6時) 大1度
 21日、小2度 中1度
 22日、小3度
 23日、小3度、夜8ツ時(午前2時) 大1度
 24日、小中とも夜にかけ 9度 
 25日、小3度       26日、小3度
 27日、小4度       28日、小4度
 29日、小3度 この頃には土蔵直しが出来た。そろそろこのような家もあって、家のゆがみは妙に直している。
 晦日、小3度、夜7ツ(午前4時)時過ぎ 大1度  
9月朔日、小3度 夜4ツ(午後10時)前 大1度
  2日、中1度        3日、小3度
  4日、中2度、小1度 
  5日、中2度        6日、小1度
  7日、小2度  夜に大1度
  8日、小2度、 夜に中2度
  9日、小2度       10日、小3度
 11日、小3度  夜に中2度
 12日、小3度
 13日、小3度  夜に中2度
14日、小2度、 夜に大1度
15日、誠に穏やか 小1度
16日、小1度
17日、中1度、 夜に大1度
18日、小4度  夜に大2度
19日、中1度、 小3度
20日、小1度
21日、小3度、 夜に中1度
22日、小2度、       23日、小2度
24日、小1度        25日、夜に入り大2度
26日、朝大2度、 小4度 この頃には見られぬ大ゆり(おおゆれ)だった。
27日、           28日、朝小5度、夜中2度
29日、朝大1度、 小3度
7月2日から9月29日まで88日になる。地震数は、当月29日までに凡そ 517度。
10月朔日、朝夜 小5度
  2日、小5度 
  3日、小1度         4日、小2度
  5日、夜中供中1度  小2度
  6日、小2度         7日、休
  8日、小1度         9日、夜1度
 10日、小2度        11日、小2度
 12日、小3度        13日、小3度
 14日、小2度        15日、小2度
 16日、中2度        17日、中2度
 18日、小3度        19日、小3度
 20日、大1度、 小2度
 21日、小1度        22日、小2度
 23日、小1度        24日、小1度
 25日、中1度  小2度
 26日、中1度  小2度
 27日、小1度        28日、小2度
 29日、中1度  小1度
 晦日  中1度      
11月朔日、小1度
   2日、小1度        3日、小1度
   4日、大1度  小1度
   5日、小2度
   6日、夜5ツ(午後8時)時に近頃見られぬ大1度、誠に驚いた。小3度
   7日、小2度        8日、小2度
   9日、小3度       10日、小3度
  11日、中1度  小1度
  12日、中1度       13日、小2度
  14日、小2度       15日、休
  16日、大1度、 小2度
  17日、小2度       18日、小2度
  19日、小3度       20日、休
  21日、中1度  小2度
  22日、中1度  小3度
  23日、中1度 小3度
  24日、小2度         25日、中1度
  26日、中1度 小1度
  27日、小2度        28日、中1度  小2度
  29日、中1度 小3度
  晦日、 小2度
12月朔日 小1度
   2日、小2度      3日、小3度
   4日、小4度      5日、中1度
   6日、休        7日、休
   8日、同        9日、同
  10日、同       11日、小1度
  12日、休       13日、同
  14日、中1度     15日、休
  16日、同       17日、小2度
  18日、休       19日、同
  20日、同       21日、同
  22日、同       23日、中1度、節分
  24日、中1度、小1度
  25日、休       26日、小1度
  27日、中1度     28日、大1度、小2度
  29日、大1度     晦日、 小2度  
※文政13年は、江戸神田佐久間町火事や文政京都地震(京師地震)が相次いで起こった為、12月10日(グレゴリオ暦1831年1月23日)に改元。天保元年は12月10日から晦日まで。
天保2年(1831、辛卯)正月元日、小1度
 2日、休        3日、小3度
 4日、大1度、 小2度
 5日、小2度      6日、小3度
 7日、小2度      8日、小3度
 9日、小2度     10日、小2度
11日、小3度     12日、休
13日、休       14日、休
15日、休       16日、休
17日 卯正月17日までに凡そ635度揺れた。
それより誠に小3日、4日目に少々ずつ揺れているが、最近は格別静かになった。                   
檉宇がまた云う。
この地震の記録は正月に止めるけれども、この発行日は。
7月28日とする。
さてその頃に至っても、3,4日に1度は地震が起こっている。未曾有の地変となるに違いないだろう。
君の意図は如何せん。
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≪会津大沼郡金山を襲った地震(直下型)≫
 会津候の御領地、奥州大沼郡大石組という処、高四千石ばかり、属村十八九ある。
住民は男女合わせて三千六七百もあろうか。山谷間の村である。
このところ辛巳(文政四年:1821年)十一月十九日に、つよい地震があり、百三十軒ほど震壊(ゆりこわ)れ、大破小破三百軒余り、人若干死亡、牛馬も損傷した。
それよりうち続き、昼夜いく度ともなく震れて、その震れようは左右前後には震わず、地上に突き上げ、また地下に突き下げる様にして、山谷鳴動し、山々裂け崩れた。
その辺りの沼沢の沼(火山でできたカルデラ湖)という大沼が抜けないように〈この沼一周一里余りとのこと〉人々不安、ことに雪中なので諸人の難苦は一方ならず。
候の役人が出張りて、力を尽すと言えども為ん方なく、領主より神社に命じて祈祷させた。
就中、土津社(はにつしゃ)には別に重祭があった。
翌月十二日頃より地震も止み、鳴動も静かになった。諸人は安堵した。
(ところが)当正月四日又また地震があった。
去冬よりも強く、鳴動もまた盛んで、大石組の村々は人の住居を得難きに到り、悉く民を他の処に移した。
時は大雪、処は山谷、老若男女四千に近い人を扱い、並びに牛馬等の始末まで困難というばかりである。
諸人は雪の上に薦(こも)筵(むしろ)或いは畳を敷いて日を渉る。
この末どうなるのだろうかと衆庶安堵することが出来ない。
候より御勘定所へ届けたという。
巻之4 〔3〕 ← クリック 元記事


甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/22 16:28

甲子夜話の面白き世界(第28話)蚊の話

甲子夜話の世界第28話

(今までの「甲子夜話の面白き世界」の第1話からは ⇒ こちら から読めます)

 江戸時代も武家の暮らしも庶民の暮らしも、夏は蚊に悩まされていたようです。
甲子夜話にも蚊にまつわる話がいくつか収録されています。
静山公の領土(平戸)も、江戸の隠居後の屋敷も特に蚊が多かったようです。

《1》 蚊と蚊帳
 わしの領内に小値賀(おじか)というところがあるが、大きな島ではあるが3000石もない。
ここは蚊 が多く出てくる。しかも小さい。
だから普通の蚊帳を吊っても蚊が入るので、これを防ぐなら別に目の小さな布地を織って蚊帳にすることになる。
蚊は普通は塩気を嫌うものだが、海島ではこれは論外だ。
ここでは、初めて蚊帳を吊るのは毎年四月八日に決まっている。
それより前に吊ると、特に蚊が多く出る年は、困難をものともせず、じっと忍んで家の中に潜んでいるだろうから。
一笑すべき。
巻之10 〔6〕 ← クリック 元記事

《2》 鼓を打つ手にとまる蚊
 観世新九郎( 能楽の観世流小鼓方の名跡)が言うには、蚊は小虫だが実に利口だという。
夏の夜に鼓を打つとき、しらべ(楽器)を握る手に止まらず、打つ手にとまって血を吸う。
握り手にとまると打つ手でうたれるかも知れないからだろう。
新九郎はこの職業を長年経験してきているが、これはずっと変わらないという。
巻之10 〔31〕 ← クリック 元記事
https://kassiyawa20.blog.fc2.com//blog-entry-674.html

《3》 蚊に悩む
巻之30 〔4〕  蚊に悩む
 わしの江東(江戸の江東:下屋敷?)の隠居屋敷は蚊が特別に多い。
夏は晨夜(しんや:朝から夜まで)には蚊の為に書をよんだり物を書くことが出来ない。
かつて『唐国史補』に云う。 
「江東(中国長江の下流域、特に南岸)に蚊母鳥(かのははどり:ヨタカ)がいる。またこれをを吐蚊鳥(とぶんちょう)ともいう。
夏は即ち夜鳴いて、捕まえた蚊を葦叢(あしむら)の間に吐きだす。
湖州(中国浙江省)が尤も甚だしい。
南中にまた蚊子樹(ヒョンノキ)がある。この樹は枇杷に類する。
熟したら即ち自ら裂けて、蚊は勢いよく出て、空殻となるという」。
これ等の処はさぞ難儀だろう。
世界には色々の風土があるものである。
巻之30 〔4〕 ← クリック 元記事

《4》 蚊相撲
 間(あい)の狂言には、蚊相撲と云う演目があり、蚊が化けた者が大名に召しかかえる話があり、相撲好きの大名の相手になって相撲をとる。
そして、その者が「某は江州守守山に住まる蚊の精にてござる」と名のる。
わしは先年の旅行にこの守山の駅に宿したが、その家の障子襖などに蚊がおびただしくとりついていた。
その形はことに大きく蝶ほどであった。
足もまた長いのだ。
然ればこの狂言(蚊相撲)を作り出す頃も、古より守山は蚊の名所にとなって来たので、そのことを取り用いたというところだろう。
巻之29 〔9〕 ← クリック 元記事

《5》 蚊トンボ
 蕉亭の文通に小虫を包み添えて、これは駿府の人から贈られましたので、ご覧下さいと云ってきた。
写し図(下図)にした。
katonbo.png

文には、これは、俗に「蚊トンボ」という虫であるという。
この虫は慶安(1648〜1652)のころより見られるようになり、その訳は、由比正雪の亡霊などと云っている。
水辺に生息しており、黄昏時に百千万が群れて飛んでいる。
かといって何も害はなく、女児ら取る者がいるが毒もない。
曇り空の夕景にとくに多くいる。暑い時は絶えた様も見られない。
この蚊トンボは巻之29に記した様な江州守山の蚊(上の蚊相撲記事)より少ない。
また慶安の頃より現れたと云うが、同巻に記す本庄の地に4、5年前より鷺立ち(鷺が立っている様な姿の)蚊 もあるがただの蚊であろう。
ただ正雪の亡霊とこじつけるのはどうかと思うが。
巻之63 〔1〕 ← クリック 元記事



甲子夜話の面白き世界 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/21 11:27

セイタカアワダチソウとススキ

急に寒くなり、コロナ患者もも急激に減少。
そして、野原には外来種として一時脅威ともされたセイタカアワダチソウの黄色い花が我が物顔で咲き誇っている。

いや、最近はどうやらこの脅威もどこへやら、日本古来のススキもその穂が風にそよぎ、陽を浴びてキラキラとした輝きを取り戻しつつあるようだ。

PA190562s.jpg
(道端ではセイタカアワダチソウとススキが共存し、それぞれが存在感を主張している)


今週初めに仕事で銚子まで出かけた時に、車の窓からススキが優勢なのか、この外来種が優勢なのかを見ながら走った。

道路沿いの縁石沿いや、中央分離帯などでは意外とススキが優勢。
一方少し湿った場所などではセイタカアワダチソウが優勢のように感じた。

最初にこのセイタカアワダチソウが関東周辺に広がってきた時は、この花を見るにつけ、花粉症も春以外に秋もまたこいつのせいで・・・・などととも思ってしまったが、これは誤解であったらしい。
セイタカアワダチソウの花粉は重くて遠くに飛ばないのだそうだ。また増えるのも地下茎でも増えるらしい。

関東から北へこの花が増えていったが、途中で急激に勢いがなくなったように感じた。
まるで、今のコロナウィルスのようだ。
この理由は何なのか? 少し調べてみました。
そして、とても興味深いことがわかりました。

セイタカアワダチソウは、
1)種子以外に地下茎も周りに広がって増える。
2)花粉は虫が運んで拡散するが、風での拡散は形状や重さでそれほど拡散はしない。
 (秋の花粉症はブタクサが悪影響しているが、この花はあまり影響はない)
3)地下約50cmほどまで根を伸ばし、モグラなどの生活域からそのフンなどの養分を取り込み、高く成長する
 このため、モグラなどの生活圏に侵入した根により、モグラなどはその土地からいなくなった。
 モグラなどがいなくなると、根で吸収される養分が少なくなり、増殖のスピードも落ちた。
4)最も注目すべきことは「アレロパシー効果」と呼ばれる現象である。
 これは、根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出すという現象だそうだ。
 これは周囲の植物も駆逐するが、自分自身の種子の発芽も抑えてしまうらしい。
 耕作放棄地などでの実験でも、3~4年ほどで一面に広がったセイタカアワダチソウもススキが優勢になり始めたそうだ。
特に、乾燥した場所ではススキのほうが優勢になったという。

さて、では現在のコロナウィルスの激減の仕組みはどんなことなのだろうか。
意外とウィルス自身が何か自分を抑制しているのだろうか。
確かに感染した人が死んでしまえばウィルスも死滅するので、そこはしばらく様子見というところなのかもしれない。
ただこれだけ広がってしまえば、いなくなったなどという事は考えにくいのでウィルスの方も共存を目指しているのかもしれない。
まだまだ感染対策も手放しとは言えないのだろう。




近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/10/20 06:34
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