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潮来あやめ祭りも中止の今

 昨日銚子に仕事へ行く途中、潮来を通って、ふと「今年のあやめ祭りはどうなったのだろうか?」と頭をよぎり、前川アヤメ園に立ち寄ってみた。

やはり今年は中止になったようだったが、アヤメは例年通り植えられ、手入れもされてきれいに咲いていた。
ただ、訪れる人も殆んどなく、少し淋しげであった。

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午前中の比較的未だ早い時間ではあったが、来ていたのは小さなお子さん連れの母子2組だけ。

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この前川アヤメ園のここから前川十二橋巡りなどの観光船(ざっぱ)が例年ならひっきりなしに出ているが、今年は一舟も出ていない。

恐らく休みの日に出る花嫁舟などの興行も中止だろう。

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まだつぼみの花も多く、見ごろはこれからといったところ。

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祭りは中止とはなっていても、いつものように花を植え、手入れもいつもと同じようにされていた。

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観光客がいないのはやはり寂しいが、お近くの方はそっと見に行ってください。
まったく込み合うなどもしていないのでゆっくり楽しめそうです。

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潮来地区 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2020/05/29 14:40

日本語と縄文語(27) 少し振り返って息抜き

 この「日本語よ縄文語」シリーズは新型コロナウイルスでの外出自粛が始まり、少しはそれに乗っかって動き回るのは辞めたいとはじめたもの。
緊急事態宣言も解除され、学校も始まった。
まだ正規の時間や日にちとはなっていないようで、昼前には学校帰りの小中学校生が街中を帰宅する姿が見られるようになった。
やはり賑やかになった気がするし、学校給食はナシのようでまだまだ不安は残るが、気分は少しだけだけれど明るくなる。

そろそろこのシリーズもネタ切れと、こちらが始めなければならない用事も出てきたので、どこかで終らせなければならない。
読んでいただいて少し面白いと感じていただけたのなら、鈴木健さん以外にも縄文語の本はいろいろ出ているので捜してみてください。

私は、このシリーズを書き始める前は、この「縄文語」というものには半分懐疑的な気持がありました。

しかし、調べながら書いていくうちに徐々に理解が進むと、大変面白い世界だとの認識に変わってきました。

まったくの素人の私が、あまり理解もせずに本に書かれている内容を自分なりに調べ、興味深そうな内容のみを自分の視点として捉えて書くようにしたつもりです。
でも人のご本を勝手に引用させていただいたのには訳もあります。

ふるさと風の会の創設者で脚本家でもあった白井啓治さんが、東京からこの石岡にやって来て、こちらの書店で鈴木健さんの「常陸国風土記と古代地名」の本を偶然見つけました。

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地元の方で、こんな本を書く方がおられるのだととても興味をもたれたようです。
そして、あるときに連絡を取られて、風の会にも時々原稿を投稿いただけるようになった。
2010年5月よりほぼ毎月のように原稿を頂き、2012年1月からはり「茨城の縄文語地名」というタイトルで10回に亘って原稿を頂いた。
あの「新治筑波を過ぎて…」の記事で議論を巻き起こしたのは2010年8月であった。

しかし、私がこの風の会に入ったのは、2012年11月号からなので、この原稿を頂いていた時はあまり知らずにいた。
また直接お会いする機会はなかった。

それから1年半ほど鈴木氏は風の会とはブランクがあったが、、今からおよそ6年程前の、風の会100号記念展覧会(2014年9月)にて、私は始めて鈴木健さんとお会いしました。

100号記念特集号では【『水戸藩史料』成立の経緯】というタイトルの記事を頂いた。当時私も未熟でなかなか読みきる力もなかったのだが、偉い方だと緊張していたが、比較的ざっくばらんな気さくな方だった。

それからまた暫くはご無沙汰だったのだが、約2年後の2016年10月より「落穂拾い」とのタイトルで、6回にわたり投稿された。
最後が2017年4月。

そして本会の白井先生が昨年突然の他界。
鈴木健さんも最近は原稿を書くことはなくなり、自宅より施設の方に移られたと聞いた。

また本や風の会の会報を読むのもままならないと・・・・。

今思うに、現行のタイトルも「落穂ひろい」であり、ご自身のお調べになって残しておきたい事を本会に投稿してくださったのだと思う。


私は以前頂いた「日本語になった縄文語」の本読み、こうして紹介させていただくのも鈴木先生の「落穂拾い」のタイトルに後ろを押されたような気持ちがしているからです。

私の知識ではとても紹介は無理なのですが、今までいろいろな記事を書いてきて、歴史や文学、言語学などに縁のない人達へ少しでもこのような解釈がある事を伝えられればと願っているのです。

この縄文語の解釈も、日本語の真実に近ずくヒントになるように思います。

私は、文学、歴史学、言語学などどれをとっても直接勉強されてきた方には遠く及びません。

しかし、科学や物理学、工学、数学などの方が好きであった私の目には現状の歴史学(古代)は権力者が捻じ曲げた噓の上にのっており、いまにも土台が崩れそうな岩の上にすわっているようでとても落ち着きません。

まあ、そんな見方をしている私はきっと天邪鬼なのかもしれませんね。

現状の住んでいる町も、私はよそ者ですから、ふるさとというにはあまりにも冷たく感じます。
まあ、自分からわだかまりを捨てて、この都市の同じ地元の学校出の仲間同士で楽しくやっている中に、飛び込めばきっと変ってくるとは思いますが・・・・

わたしが「石岡地方のふるさと昔話」という本を出した時に、常陽新聞でとり上げていただきました。
そのときに、「わたしにはふるさとがない。そのため、ふるさとを求め続けているのです」と申し上げたことを今も思い出します。

緊急事態宣言も解除され、街の子供たちがまた学校に行き始めました。
まだ給食は無いのでお昼前には下向する子供たちの笑顔が見れ、うれしく思います。

今日は朝からまた銚子へ出かけます。
しばらくは三密をさけ、あまりあちこちへはいけませんが、そのうちまた地方の歴史散策へ出かけたいと思っています。


日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/28 06:35

日本語と縄文語(26) 温泉

 温泉は北海道も各地にあり、アイヌでもこれに相当する言葉があっても良いと思うが、実は日本語がアイヌ語になった言葉の代表的な語と言われる。

【yu】 湯 これが日本語からアイヌ人たちも使い始めた言葉と言われている。
アイヌ語辞典で【yu】の付く言葉を探してみた。

【yu】・・・・・ 湯(ゆ)、温泉、冷泉
【yu-etok-o 】・・・・・ 温泉の水源
(また、yuk は鹿で、yup、yupo は兄である)

一方
風呂の水・・・【sesek wakka】
風呂に入る・・・【osus】
風呂の浴槽・・・tonpuri (トンプリ)  これは和語のドンブリがアイヌ語になったものと思われる

最初の【sesek】が古語の恐らくアイヌ語で温泉を示す言葉であったようだ。(wakka は水)
ただ、現在この【sesek】はアイヌ語では温泉としては使われていないようで、
【sesek】:熱い、温かい、沸く、暑い、生ぬるいであり、【sesekka】で温める、熱くする、湯を沸かすなどを指す言葉になる。

このちょっと変わった語【sesek】が本土の地名(小字など)として残されている場所がある。

茨城県大子町久野瀬の小字名「シッササキ」、中郷に「尻ササキ」、山田に「鎖蹟打(サセキウチ)」、長野県長野市(松代温泉郷)に「瀬関(セセキ)」などはその「温泉」を示す縄文語であったと思われるという。

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また、北海道には温泉もたくさん在り、「登別」はアイヌ語だといわれています。

国語辞書などには「ヌプル‐ペッ」(色の濃い川)と載っています。

【nupuri-pet 濁り川】 とあるが、 【nu 温泉+pur ゴボッと出る+i 所】となります。
また、【nupur】は色が濃いという以外に、「霊験ある・巫力ある」という意味もあります。
これも医療に霊験があり、「濃い」も効き目があるという意味合いがあります。

日本語としては【nupuru】となり、「にぶる」「鈍る」「濁る」「訛る」などに変化したと見られています。

また、日本語の「くすり 薬」ですが、アイヌ語でも「kusuri クスリ」といいます。
江戸時代は北海道は蝦夷地ですが、「釧路」は「クスリ」と呼ばれていたようです。
このクスリも日本語からアイヌに伝わった言葉なのかもしれませんが、その逆もありそうです。

また、「クスリ」という日本語は、出雲大社にある古文書に、「奇(く)すしき力を発揮することから、くすりというようになった」 と伝えられているといい、この「奇すしき」とは、古い言葉で  「並みより優れている、突き出た、不思議な、神秘的な」  という意味で、それがクスリ(薬)となったとの説が紹介されていますが、「釧路:Kusur」が「クスリ」と呼ばれていた意味として、「クシュル:越える道」「クッチャロ:のど元」などが元の意味といわれています。

やはり「クスリ」も縄文語と言えそうですね。
漢字の「薬」は中国の漢字をあてたものですから、クスリという言葉は古代の縄文語なのでしょう。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/27 07:46

日本語と縄文語(25) つくば

「筑波 つくは」の名前の謂れは、古いものとしては常陸国風土記に書かれています。

それによれば、
「古老のいへらく、筑波(つくは)の県(あがた)は、古、紀の国(きのくに)と謂ひき。美万貴の天皇(崇神天皇)のみ世、采女臣の友属、筑箪命(つくはのみこと)を紀の国の国造に遣はしき。時に筑箪命いひしく、「身が名をば国に着けて、後の世に流伝へしめむと欲ふ」といひて、即ち、本の号を改めて、更に筑波(つくは)と称ふといへり」
となっています。

まあ、奈良時代初期も伝承などで残されている程度で、これも正確とはいえないでしょう。

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そこでさまざまな説がいろいろな学者などにより提唱されてきました。
しかしどれも推察の息を出ず、またその根拠らしきものもあまり見られません。

鈴木健さんは筑波’つくは)の語源についてはこの「日本語になった縄文語」の本の中ではほとんど書かれておらず、「常陸国風土記と古代地名」(新読書社 2003年発行)に詳しく解説しています。

これも一つの説であるとしかいえませんが、面白い観点かと思いますので紹介します。
常陸国風土記の内容から次の3つの問題を提起しています。
① 「古、紀の国と謂ひき」とあったが「紀の国」とは何か?
② 「筑箪」をツクハと読ませているが、果たしてそれでよいのか。
③ 人名(筑箪命)を地名(筑波)の起源としているが、それをどう考えるべきか。

①については
「紀の国」は和歌山県の古名「紀国(キノクニ)」は「木国」とも書かれたことから、筑波山も良材を産したので「木の国」と言い「紀の国」になったという説があるが、鈴木氏の説は、霞ヶ浦高浜入りに住む漁業者は「漁にいく」ことを「かーさいぐ(川へ行く)」という。このように川といえばどこの川(高浜入り、北浦なども表現は同じ)へ行くかすぐに分った。川が固有名詞のように使われていた。また筑波山の麓に住む古人にとって、「山」といえば「筑波山」に決まっていた。
そのため、自分たちの地域を「山の国」ということはあっても「木の国」とは言わないであろうと。
アイヌ語では、生活圏の一部としての山を 「kim きム」という。
これは「おじいさんは山へ芝刈りに・・・」などという時に使う山を表わす。
この「kim」は語尾が閉音節語尾で、「キ」と聞き取りがちの発音である。
この「kim」が「紀」となったのではないか。

② については
「筑箪」をツクハと読みが振られているが、「箪」は箪笥(タンス)のタンであり、訓も「ハコ」しか辞書にはない。
昔は読みをその音を表わす漢字が使われるのあって、「ハ」という音に「箪(ハコ)」という字を選ぶ根拠がまったくわからない。
これは後の人がこの「筑箪」をツクハと読ませたのであって、捏造といえるものだ。
では素直に読めば「ツクハコ」になるが、この意味は何か?
アイヌ語で
【tuk 出る、生える】+【pa 頭】+【kot 凹み】=「突き出ている頂上と凹み」=筑波山の形状そのもの
となる。

③ については
古老の伝承によるものであるので、その昔に「ツクパ」という山と、「ツクパコ」という人名の2つがあったと推測し、人名を中心とした当時の価値観から人名から「ツクハ」の地名となったものとしたのではないか。
という。


ところで、私は、この ①「紀の国」の説明 は少し違うような気もしています。

まず、「紀の国」の「キ」という言葉ですが、古朝鮮語から日本に伝わった言葉だと解釈しています。
古朝鮮では「キ」=「城」を意味していました。

そしてヤマト朝廷が日本国の南方(九州あたり)から、段々と北上していきます。
この時に現地人(蝦夷)との境に陣地を築きます。そこに城柵(じょうさく)をおきます。
そしてその周辺に暮らす人々は「柵戸(きのへ)」などと呼ばれていました。

そしてこの蝦夷との境辺りは「日高見国(ひだかみのくに)」などと呼ばれていました。
各地に「日高」という地名がたくさん在りますが、時代時代で北上して行った大和朝廷軍の最前基地地域(ヤマト側・蝦夷側の両方)を恐らくそのように呼んだものと思っています。

そのため、「紀の国」も和歌山県に進出した頃の大和軍の最前地であり、紀の国と呼ばれ、また日高川の名前が残る「道成寺」あたりが最前基地だったのでしょう。
そして徐々に東国地方に進出して、東海道、東山道などでこの「城・キ」が築かれ、日高の地名も残ったのではないかと思います。

また常陸国風土記には黒坂命が美浦村から霞ヶ浦を渡って東征し、蝦夷を制圧していきますが、当時この美浦村あたりが「日高見国」と呼ばれていたことが書かれています。

まあこれからしても「茨城」はイバラギではなくイバラキですね。

また昨日の「毛野国」は蝦夷の国、筑波は「紀の国」ですから、大和朝廷の蝦夷と接する最前国だった時の呼び名だと思っています。

筑波山の語源としてWikipedia に書かれていることを下記に書いておきます。

① 「つく」は「尽く」で「崖」を意味し、「ば」は「端」を意味する。俗に「握飯筑波」とも呼ばれたと記している
② 縄文時代の筑波山周辺には波が打ち寄せていたと考えられ、「波が寄せる場」すなわち「着く波」(つくば)となった。
③ 縄文時代の筑波山周辺は海であり、筑波山は波を防ぐ堤防の役割を果たしたため「築坡」(つきば)と呼ばれ、のちに筑波となった。
④ 新たに開発して築いた土地として、「つくば」は「築地」ないし「佃地」を意味する。
⑤ 「つく」は「斎く」(いつく、神を崇め祀る)あるいは「突く」(つく、突き出す)であり、「ば」は「山」を意味する。
⑥ 「平野の尽き果てるところに、秀麗な姿を見せる山を、人々が親しみを込めて「尽端(つくは)」とよんだ。
⑦ 「平野の中に独立してある峰」の意の「独坡」にちなむ。
⑧ アイヌ語のtuk-pa(とがった頭)またはtukupa(刻み目)にちなむ。
⑨ 歌垣の習慣にちなみ、マオリ語のtuku-pa(交際を許される)に由来する

また、角川の地名辞典には風土記の中に
「山の形がにぎりめしに似ており、めしが手につくので握飯筑波といったという伝承がある」と書かれています。

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まあいずれにしてもいろいろな説が語られていますが、決定打といえるものはなさそうです。
鈴木健氏は、どれも反論できそうなものばかりで、「筑箪命」の読みが「ツクハ」とは読みえず、「ツクハコ」と読んで見た事からの推論で、他の解説者にはない視点です。

私も前に「茨城の難読地名」(こちら) という本を書いたのですが、この筑波は難読でもないし、説も多くて纏め切れないので除いた経緯があります。



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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/26 10:48

日本語と縄文語(24) 毛野(けの、けぬ)国とは?

 今の群馬県と栃木県を合わせた地域は、昔「毛野(けの、けぬ)国(くに)」と呼ばれていました。

そこを流れる川を、毛野河(けぬかわ)といわれ、これが今の鬼怒川(きぬがわ)です。

この「毛(ケ)」については、一般には
1) 一毛作、二毛作などに使われるように穀物を表わしている
2) 毛むくじゃらで野蛮の「蝦夷人」が住んでいる
3) 豊城入彦命などの「紀の国(和歌山県)」出身者が移住し、「きの」が転訛した
などの説があります。

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(上毛三山・赤城山)

いつ頃から「毛野」と呼ばれるようになったのでしょうか?

それについては資料が残されておらずあまりはっきりしたことがわかりませんが、4~5世紀頃にはすでに呼ばれていたようです。
それが、5世紀末~6世紀始め頃に、渡良瀬川を境として「上毛野国(かみつけのくに)」、「下毛野国(しもつけのくに)」の2つに分れ(都に近いほうが上)ました。
さらに奈良時代には、令制国と定められ、713年には全国各地の地名を好字二字とするようにお達しがあり、この二国はそれぞれ「上野国(こうずけのくに)」「下野国(しもつけの国)」となり、「毛」の字を嫌って読みのみに「け」が残りました。

これは総(ふさ)国が「上総(かずさ)」と「下総(しもふさ、しもおさ」に分かれたことと同じでしょう。
ただ、総(フサ)はそのむかし「捄」(フサ)の字で表わしていました。
阿波の忌部氏が黒潮に乗り舟で房総半島(安房 アワ)先端部に上陸し、麻の栽培を広めた事で、総(フサ)の字が使われ始めたようです。

この「捄」という漢字は、調べると読みとしては「キュウ、ク」などとあり、意味も「土をかき集めて丸く盛る」となっています。
いろいろなWebサイトで「果実などが丸く房状になる様を表わした」とありますが、よく確認できませんでした。
フサと読んだかどうかも分りません。

まあ、それはさておき、「毛国」の由来ですが、上に3案を載せましたが、
むかし、朝廷に服従していない地域に住む現地人(縄文系人種、アイヌ人)を「毛人」と呼んでいた様でもありますので、2番目の案<毛むくじゃらで野蛮の「蝦夷人」が住んでいる>が有力だと思います。

では何故この読み方が生れたのかを縄文語の鈴木健氏の本で確認してみます。

さて、昨日「蝦夷(カイ)」をエゾ、エミシと読んだ事を考察しましたが、鈴木健さんは

≪「アイヌ」縄文系在住民やアイヌ自身の呼称であり、「エミシ」「エゾ」はアイという連母音の発音がなかったヤマト側の音韻変化に基づく呼び名であると考える≫
と書いています。

また、【kai カイ(蝦夷)】のaiは発音することになじみがなかったので、 ai ⇒ e と変化して ⇒ 【ke ケ】となり、アイヌの国は『ケヌの国』(毛野国)となったと推論しています。

すなわち
・ アイヌ(蝦夷)人のすむ地=「毛野(ケノ、ケヌ)」
・ アイヌ(蝦夷)人=「毛人(ケヒト)」

もちろん毛むくじゃらな民族という表現もあったかもしれません。

古事記の中で、
武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察し、帰国後、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した[とされています。そのときの内容は
「東(あづま)の田舎の中に、日高見の国があります。
その国の人は、男女とも髪を椎(つち)のような形に結って、からだに入れ墨を入れて、ひととなりは勇ましく、たくましく見えます。
これをみな蝦夷(えみし)と言います。また土地が肥沃で広いです。 攻撃して取るのがよろしい。」と言った。
となっています。

髪の毛を「椎(つち)」のように束ねるとは、木槌の形のように束ねるという事で、毛むくじゃらかどうかは良くわかりません。
でも「毛むくじゃら」と映ったかもしれません。

これと【kai カイ(蝦夷)】⇒ 【ke ケ 毛】に変化したというのも面白い考え方であろうと思われます。

茨城県桜川市に「門毛(かどけ)」という場所があります。
栃木県との県境より少し手前になりますが、名前の由来はこの毛国(けぬこく)への入口に当たるため、この名前がついたとも言われています。

いまでも両毛線、上毛高原など昔の「毛」の字も今も使われて残されています。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/25 05:43
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