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常福寺(行方市沖洲)

 国道355号線は石岡から潮来(牛堀)附近まで、霞ヶ浦の北岸に近いところを走っているが、所々で町中を少しはなれて山側を削った道を通る。
そのため、街中を通る旧道もたまには通らないと地形や町の歴史的なものがわかりづらい。

今回は行方市に入ってすぐのところに沖洲地区という所があるが、こちらの湖側の道路を走ってみた。
それほどの距離でもなく、また桃浦近くで国道と合流する。

この沖洲地区に無住だが比較的大きなお寺跡がある。

常福寺というが、ここに市の文化財が2つある。

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沖洲地区集落センターの看板を左に入ると、正面にボタン桜とお堂などが見える。

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この山門が文化財指定されている。昔は藁葺き屋根の山門であったと思われるが、今は銅版葺きに改修したという。
作られたのは鎌倉時代頃らしいが、室町時代の特徴を持っているという。

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この説明によると、門は2つあったという。
また京都の三宝院の末寺だという。

三宝院をWikiから転載すると
「三宝院(さんぼういん)は、京都市伏見区醍醐にある寺院。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院である。また、真言宗系の修験道当山派を統括する本山であった(現在は修験道当山派なる宗教法人はない)。三宝院門跡は、醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長の猊座にある。」
と書かれている。

また、「永久3年(1115年)、左大臣・源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院(かんじょういん)として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。康治2年(1143年)に鳥羽上皇の御願寺となっている。勝覚が村上源氏の出身であったことから、初期には代々源氏の寺院とみなされていた」ともある。

この沖洲の地区などはやはり鎌倉時代に少し特殊な地域「たちばな郷」であったのだろう。
鹿島神宮などとの関係も考えておかねばならないのではないかと思う。

かなり立派な七堂伽藍の寺であったという。

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この宝篋印塔はいつ頃のものだろうか?
何も書かれていないので、時代的には鎌倉よりは後の時代かもしれない。

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江戸の天明期に山崩れがあり、堂宇が崩壊したとか、また火災で焼けてしまったとか書かれている。
現在の堂宇2棟は後から再建したものらしい。

手前右側が「観音堂」で奥に「毘沙門堂」となっている。毘沙門堂の内部には木造の毘沙門像が安置されている。
観音堂内部は外からはわからない。

また左手に見えているのはこの地区の公民館のような建物で「沖洲農村集落センター」

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ただ、なかなか雰囲気のよいお堂(毘沙門堂)である。

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ここのもう一つの市指定文化財が小さな2つの神像(像高:約32cmほど)です。
この集落センターの中で保管されていたそうですが、今は茨城県立歴史館の寄贈されています。

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このような神像が残されているところはあまり見かけません。
神仏習合の名残りなのでしょうか。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/23 19:04

春の足音は急ぎ足

 昨日は仕事でまた千葉のはずれ銚子に行って来ました。
朝家を車で出て、霞ヶ浦の北岸を東へ湖に沿って走ります。

もう、田には水が張られたところ、耕運機で土を攪拌しているところと、いつもよりはかなり早いペースです。
稲の苗が温室でビニールハウス内で、思ったより早く大きくなってしまい、早く植えなければとあせり出したようです。

いつもの年なら5月の連休くらいから家族の手も借りて田植えとなるのが、今年は1週間以上早いかもしれません。
あちらこちらからカエルの合唱も賑やかです。

車の道路沿いにはチガヤの白い穂が行きは朝日に輝き、帰りは夕日に照らされて輝いていました。
これもいつもより早いですね。

チガヤの白い穂も食べタコとも昔はあったのだとか・・・・。

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小美玉市から行方市に入りすぐ左側に三昧塚古墳がありますが、その場所の少し先の霞ヶ浦湖岸道路にポプラ並木のような木がこんもりとある一角があります。

<ほほえみの丘>と名付けられた場所で、霞ヶ浦の昔海水浴が出来た頃の昔の姿を取り戻したいと、ここに砂浜を造成しています。
ここと、麻生の天王崎近く、対岸の浮島和田公園近くに同じように砂を敷き詰め、流されないように防砂堤防を設置して大分前からいろいろやっています。
少しずつでも昔のきれいな湖に戻って欲しいものです。

千葉県の銚子の漁業も、昔は外洋に向かった所(外川:とかわ など)に港なども出来たのが始まりだそうですが、江戸初期に利根川が銚子に流れ込むようになり、土砂が堆積して利根川河口に銚子港が出来ました。

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昼前に銚子港に立ち寄ると、利根川と陸との間に作られた船溜まりはたくさんの船舶が停泊していました。
大型船はもう少し外洋側の川口港などに停泊しています。

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ここから対岸は茨城県神栖市波崎です。
数基の風車も見えます。

銚子側は後ろ側の高台の下総台地の上に数十基、またここからは見えませんが外洋側に洋上風車もあります。

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波崎との間は昔はここに船着場があり、舟で行き来をしていましたが、銚子大橋ができ、これも現在は2代目の橋です。
昔この先代の大橋が有料の時期もあったのです。
通行料が多くて、予定より早く無料になりました。

いろいろ地方も見て散策してみないとわからないことは多いですね。

その他風景 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/22 16:21

お遊びアニメ

今日の天気もあまりパッとしない。
部屋に閉じこもっていても気分はブルー

そんな時は少し遊びに・・・ 気分転換。

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パソコン | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/17 13:47

歴史上の気になる人物(4)- 藤原秀郷

 このブログで昨年「歴史上の気になる人物」として、役小角、秦河勝、泰澄と3人を取り上げたが、少しずつ人物を調べながら追加していきたいと思っている。

今回は少し前から気になっていた「藤原秀郷(ひでさと)」を紹介したいと思います。
さて、この藤原秀郷の名を知っておられる方はどれくらいいるのでしょうか?

大ムカデ退治の俵藤太(たわらのとうた)のことだといえば少し子供の頃に日本昔話的な歴史本には必ず登場していたので思い出される人もおられるかもしれません。

また、平将門を退治した人物で、関東の源氏、平氏と肩を並べる関東武士団の藤原流の祖であり、奥州藤原氏の祖でもあるといえばもう少し理解は広がるかもしれません。

私がここでとり上げてみようと思ったのは、この大ムカデ退治の伝説が何処から生まれたのか、その背景を知りたいと思ったからです。

その参考には、栃木県立博物館が2018年秋に実施した企画展「藤原秀郷-源平と並ぶ名門武士団の成立」(第122回企画展)で作成された冊子の内容を使わせていただきたいと思います。

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まず、関東などの東国に、源氏、平氏などが武士の基盤を作って行きましたが、話せば長くなってしまいますので、以前書いたエッセイ記事を興味があれば読んでください。

1) 関東における平氏について-平氏のおこり ⇒ こちら
2) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-甲斐武田氏 ⇒ こちら
3) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-秋田佐竹氏 ⇒ こちら

ただ、これらの記事も今から15年近くも前の記事ですから、内容も違っているかもしれません。
読むにしても一つの参考程度です。

さて、今回とり上げた藤原秀郷は、今から1000年以上も前に起きた平将門の乱を鎮めた立役者として、名を馳せ、その後関東北部へ勢力を拡大していきました。

その中心は栃木県などが主流ですが、私の住む茨城県でも少し北へ行くとこの藤原秀郷子孫が活躍しています。
那珂氏や、その後に出た常陸江戸氏などがそうです。

常陸国風土記に「粟川」として登場してくる那珂川は常陸国の重要な大きな川ですが、この那珂川の名前の由来についてもおそらく、この那珂氏が住んだ地名「那珂」があり、それが川の名前になって行ったと考えることも出来るでしょう。
勿論、地名の「那珂」が先にあり、その名前にはおそらく別な意味が含まれていると思われますが。

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今回はこの関東北部の武士団(藤原氏)の祖としての藤原秀郷はまた別の機会にするとして、藤原秀郷にまつわる物語「俵藤太物語」を検証していきたいと思います。

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御伽草子に記載されています(詳細は⇒こちら にあります)が、内容も長くなりますので、博物館の冊子などに少し手を加えてここに記載させていただきます。

上【大ムカデ退治の話】

 朱雀天皇の時、従五位上村雄朝臣(むらおあそん)の嫡男で田原(たわら)の里に住み、田原藤太秀郷と呼ばれる勇士がいた。
 そのころ、近江国(現:滋賀県)の勢田の橋(瀬田の唐橋)に大蛇が横たわって人々の通行を妨げることがあった。
しかし、そこを通りかかった秀郷は、臆することなく大蛇を踏みつけて平然と渡って行った。
その夜、美しい娘が秀郷を訪ねてきた。この娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものだったのです。
娘は、秀郷が勇猛な人物と見込んで、次のような頼みごとを秀郷にしました。
「私は、この近くの三上山(みかみやま)にいる龍神一族ですが、ここに大ムカデが住みついて、大変苦しめられています。こうして姿を変えて勇気のある者を探していました。貴方様の勇猛さを見込んで、是非、この大ムカデを退治して欲しいのです」と懇願したのです。
秀郷はこの願いを引き受け、先祖より伝来の太刀と弓に三本の矢を持って三上山に向かいました。
するとそこには、山を七巻半する大ムカデが現れたのです。(この七巻半は鉢(八)巻きに届かないとの意味がある)
秀郷は得意の矢を、1本、2本と射たがすべて大ムカデには通じず、はね返されてしまいました。
とうとう最後の一本の矢になった時、ムカデは唾(つば)に弱いことを思い出し、矢の先(鏃)に自分の唾をつけ、南無八幡神大菩薩と唱えて、願いを込めて矢を射ると、矢は大ムカデに見事命中して、ようやく射止めることができたのです。
翌朝再び娘が現れ、大ムカデ退治の礼として、巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を秀郷に贈りました。
俵は米を取り出しても尽きることがない不思議なもので、このことから秀郷は「俵藤太(田原藤太)、たわらのとうた」と呼ばれるようになりました。
また、湖水の主の龍王は「御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」といって、黄金づくりの鎧と太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼして将軍に任ずるように」といい、さらに、「日本国の宝になし給え」と釣鐘を与えたのです。
秀郷は、この鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は三井寺(滋賀県大津市)に寄進したのです。

下【平将門の乱の平定】

 やがて、下総国の平将門が新皇を称して反乱を起こした。
藤太(秀郷)は、最初、将門に同心して、日本国を半分得ようと将門に近づきましたが、将門の軽率な言動に落胆して、すぐに京に行き天皇より将門追討の宣旨を受けたのです。
その後、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して再び東国に向かいました。
藤太は京から将門追討で出発した平貞盛の軍と合流して将門と戦いましたが、あまりにも将門が超人的であったため、戦に敗れ、正面から戦っても勝てないと悟ったのです。

そこで宇都宮大明神(二荒山神社)に祈願し霊剣を賜り、将門にへつらって館に移り住み、そこにいた将門の妾の女性と契りを結び、そこで、将門の弱点を聞きだしたのです。
それは、将門の姿は七体に見えているが、その本体には影があること、また「こめかみ」が将門の急所であることでした。
そして、得意の弓矢でこの急所を射る事が出来、ついに将門を討ち果たすことができたのです。
そして、将門の首を持って京に戻った藤太(秀郷)は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜り国司となり、京より東国へ下ったのです。

そして、蒲生氏、小山氏、宇都宮氏、足利氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐野氏、小野寺氏、蒲生氏、那須氏、奥州藤原氏 ・・・などへ発展した。

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さて、この物語はこの藤原秀郷の武勇伝を誇張しながら、作られた話であるとは思われますが、その背景にはどのようなことが意図されていたのでしょうか?

まず、この博物館の冊子には、この伝説と関係すると思われる「日光山縁起絵巻」が紹介されています。

すこし、紹介します。

「日光山縁起絵巻(上下二巻)は、古代より山岳信仰の霊地として栄えた日光山の縁起物語を描く。日光山の縁起であると同時に、宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の縁起も説いている。・・・・・・・・・・

日光戦場ヶ原の地名の由来になった、大ムカデと大蛇の戦いと猿丸による大ムカデ退治の神戦譚には、龍神に依頼され大ムカデを退治した俵藤太伝説と共通するものがある。すなわち、人間が神の依頼を受けて神戦に参加し、一方の神を助けて勝利をもたらすと、神は助力を感謝して特別の恩恵を施すという構図である。
俵藤太が龍神の庇護によって将門を倒したというのも、この構図に当てはまると考えられる。

ただ、この日光山縁起絵巻が何時成立したのかは古い版が逸失していて明らかではなく、南北朝時代にはすでに存在していたのではないかと見られるとしている。
俵藤太伝説はこの日光山縁起から派生して成立したのではないかと考えると、秀郷は新皇となった平将門(=大ムカデ)から天皇(=龍神)を助けた英雄として捉えることが出来る。

舞台が近江であり、秀郷はここに行った形跡が無いが、近江が都の境界であり、この都の番人として秀郷を考えたこと、また都でこの秀郷流藤原氏が活躍していたことなどが関係しているのではないかという。

まあ、今回はこの程度にして、関東の三大武士団といわれる藤原秀郷流の位置づけなどを今後考えるためのヒントとして残しておきたいと思います。


歴史上の気になる人物 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/16 13:43

東城寺の経塚展

 現在土浦市博物館で ≪東城寺と「山の荘」≫ という企画展が開かれている。

昨日友達が久しぶりに訪ねてきて、この展覧会(第42回特別展)の立派なカタログを頂いた。

この旧新治村(現土浦市)にある東城寺という寺を訪れたのは東日本大震災の10日ほど前のことだ。
あれから10年がたち、ここの経塚から発掘された経筒などが、国の博物館から地元の博物館に里帰りしたために、急遽この企画が行われたものと思われる。

展示会の内容も、この地味な経塚は「古代からのタイムカプセル」として紹介され、少しは感心をもたれる人も出てくるだろうと期待している。

ただ、この東城寺の経塚は12世紀のはじめ、1122年、1124年の平致幹(これもと)の銘がある銅製経筒で、東日本で見つかっているものとしてはかなり古い。

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土浦図書館の学芸員の方が総出でこのカタログを作成したことがうかがえる立派な冊子となっていた。

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ただ、何か物足りない。
鎌倉より後の世界や古代についてはそれなりの考察が出来ているように思うのだが・・・・

北条の多気山に居を構えていた多気大掾(だいじょう)氏:常陸平氏 に冠する記述がかなり曖昧で、そっけない。
この経塚の施主がこの平氏であるにもかかわらず・・・・

一体どういうことなのか??

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改めてWikiなどでこの多気氏などと、水戸の吉田氏  後の常陸大掾氏などを検索してみて驚いた。
本家である石岡の歴史がどうも昔のままでタイムスリップしてしまい開かずの扉に封印されてしまったようだ。

石岡は早く歴史博物館などを作り、そこに外部の歴史研究者なども配置して、常陸大掾氏のカタログなどを作るべきである。

いまは都合の良い人のみで小さな壷の中で議論しているだけでは、真のこの町の発展はなさそうだ。

今は周りから違った角度で外堀が埋められていくような気がしてならない。

北条の多気太郎(平義幹)が小田氏の換言で鎌倉に呼ばれてお家断絶となったのは1193年。
(この子孫は後に石岡の大掾氏を補佐するためにやってきた。芹沢氏です)

頼朝から大掾の職を受継ぐことを命じられたのは、水戸の吉田氏で、この吉田氏は水戸城を造営しその馬場に住んだので馬場氏とも言われます。多気氏の平致幹(平義幹の2代前)の弟だ。

東城寺の経塚はこの平致幹が命じて作らせたものだ。

全員が常陸国の地方長官である大掾職についていたわけではないようだが、多くは大掾職を継承して行ったために「大掾氏」と呼ばれる。
都から見れば常陸介などが偉そうに見えるが、その地方で金を持っており、絶大な力を持っていたのがこの大掾職なのだ。

以前の参考記事
 ・筑波四面薬師(4) 東城寺 ⇒ こちら
 ・経塚(3) ⇒  こちら


筑波・土浦・牛久地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/15 14:07
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