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池花池の白鳥

 毎年白鳥が飛来する小美玉市にある「池花池」

昨日、北のほうに行く用事があり、途中立ち寄りました。
あまりの暖かい陽気に、白鳥はもう北へ飛び立ってしまったかとも心配しましたが、まだたくさんいました。

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ここは小美玉市部屋という地域。 部屋と書いて「へむろ」と読む。
近くには「江戸」だとか「五万掘」などという地名がある。

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小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/21 11:19

ナミナミ雲?

 昨日は4月の陽気だったでしょうか。
暖かくて、朝は霧が非常に濃かったですね。

朝9時半頃には霧も大分晴れて、空を見上げたら青空と魚のうろこのような雲が分かれていて、思わず信号待ちで車の中から1枚写真を撮りました。

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どこか見晴らしのよいところで撮ればいいのでしょうが・・・・。

秋にはいわし雲などをよく見かけますが、この雲はなんと言うのでしょうね。
ネットのニュースではナミナミ雲などというネーミングもあったようです。
千葉から関東南部に広く出現したようです。




近況 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/21 10:56

怪談話「こんな晩」「六部殺し」など(その二)

ではもう少し違った観点の話しも探ってみましょう。

怪談話「こんな晩」「六部殺し」などの<その一>は ⇒ こちら

(5) 小泉八雲「持田の百姓」 (出雲の昔話)

 昔、出雲の持田浦という村に貧乏な百姓がいた。
子供が次々と生まれたが、育てられる余裕がないので、夜に、こっそりと川に流して殺した。
こうして6人の子供を殺した。やがて、百姓は少し暮らしが楽になった。
そこで、7人目に生まれた男の子は育てることにした。
子供はすくすく育ち、百姓はこの子をとても可愛いと思った。
ある夏の夜、百姓は5ヶ月になる息子を腕に抱いて庭へ散歩に出た。
大きな月が出て、美しい夜だった。
百姓は「ああ、今夜めずらしい、ええ夜だ」と言った。
するとその子が、父親の顔を見上げて、急に大人の口調で言った。
「御父つぁん、わしを仕舞いに捨てさした夜も、ちょうど今夜の様な月夜だたね」そう言って、また元のような赤ん坊に戻った。
…百姓は出家して僧になった。

********
この話は六部ではなく、貧しくてわが子を処分してしまった話です。
小泉八雲(ラフカディオハーン)が出雲地方の昔話として書いています。恐らく日本で結婚した妻から聞いた話なのでしょう。

次は落語から一つ紹介します。

(6) 落語「もう半分」 (三遊亭圓朝作の怪談噺 5代目古今亭志ん生などの演目)

千住小塚っ原に、夫婦二人きりの小さな酒屋があった。
こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。

その夜も、このところやって来る棒手振り(ぼてふり)の八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていく。

この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。
薄気味悪いが、お得意のことだから、夫婦とも何かと接客してやっている。

爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、五十両入りの包みが置き忘れてある。

「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。

「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。
ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。
爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。
あたしにまかせておおきよ」

女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、自分に働きがないだけに、文句が言えない。

そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んでくる。

女房が気強く「金の包みなんてそんなものはなかったよ」と言っても、爺さんはあきらめない。

「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。
あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」
と泣いて頼んでも、女房は聞く耳持たず追い返してしまった。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、すでに遅く、
千住大橋からドボーン。
身を投げてしまった。

その時、篠つくような大雨がザザーッ。

「しまった、悪いことをしたッ」と思っても、後の祭り。

いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。

顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。

それがギョロっとにらんだから、女房は「ギャーッ」と叫んで、それっきりになってしまった。

泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、
奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つかない。

何人目かに、ようようわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯(あんどん)の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」と言う。

さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、
丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、行灯から油皿をペロペロ。

思わず「こんちくしょうめッ」と飛び出すと、
赤ん坊がこっちを見て

「もう半分」

****************
こんな話です。金は娘が身を売ってこさえた金という。

まあいずれにしても西洋では死んだ人の霊が乗り移るとされる話はたくさんありますが、仏教ではどうも生れ変わり思想が強いようです。
少し話のルーツを探るために、もう少し古い話を調べてみましょう。
奈良時代の説話から一つ

(7) 日本霊異記(中) 中田祝夫 
   第30 行基大徳、子を携ふる女人の過去の怨みを視て、淵に投げしめ、異(めづら)しき表(しるし)を示しし縁

 (現代語訳より)
 行基(大徳)は、難波の江を掘り広げて船津(船着場)を造り、仏法を説いて人々を教え導いていた。そこには、道俗貴賎(僧、俗人、高貴人、貧しいもの)を問わず、みな集まって来て法を聞いた。
 そのころ、河内国若江郡の川派(かわまた)の里に、一人の女人がいた。子をつれて法会に出席し、法を聞いていた。子供は泣きわめいて母親は法を聞くことができないでいた。またその子は10歳を過ぎていたがまだ歩くことが出来ず、絶え間なく泣いて、乳を飲み、ものを食べていた。
すると、行基(大徳)は「やあ、女人よ。そなたの子を連れ出して淵に捨てよ」とおっしゃった。
これを聞いた回りの人々は「慈悲深い聖人様が、どんな訳があってこんな無慈悲なことをおっしゃるのだろうか」とぶつぶつ不満をささやきあった。そしてその女人もわが子かわいさで、子を捨てに行くことができず、説法を聞いていた。
 あくる日もまた子供をつれて来て説法を聞いていた。子供はまた泣きわめいて、説法を聞くことが出来なかった。
するとふたたび、行基は女を責めて、「その子を淵に投げ捨てて来なさい」といった。
その母親は、聖人の言葉を不思議に思いながらも、子供を淵に投げ捨てに行った。
淵に投げ込まれた子供は、流れの上に浮き上がり、足をばたつかせて、目を大きく見開いて悔しがり、
「残念だ。もう三年間、お前から取り立て、食ってやろうと思っていたのに」と叫んだ。
そして、法会に戻ると、行基聖人は「子は投げ捨てたか」と聞いた。そこで、女人は詳しくいきさつを話した。
行基聖人は
「そなたは前世で、あの者に、なにか物を借りて返さなかったために、この世で貸主が子供の姿となり、その負債を取り立てて食っていたのです。」と教えられた。
 ああ恥ずかしいことよ。人から借りたものを返さないで、死ぬことなど出来ない。後の世で必ずその報いを受けるだろう。
そのような訳だから、「出曜経」に、「他人から銭一文の塩を借りたままにしたので、その後世では、牛に生れ変わり、塩を背負って使われて、貸主に支払った」と書かれているのは、まさにこのようなことをいうのである。

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ここでは仏教説話ですから行基菩薩の話となっていますが、この中に「出曜経(しゅつようぎょう)」の話が出てきます。
この出曜経はインドの経典を4世紀末頃に中国語に翻訳されて伝わったようで、かなり古いものといえます。
そんな中に因果応報(いんがおうほう)の話としていくつも語られてきたようです。

こちらの話は、一般には金を奪われたり、借金を踏み倒されたりした者が、その相手の子供に転生して、奪われたり、踏み倒されたりした金額だけ蕩尽したところで早死にするという話です。少し霊として乗り移ることと似ていますね。
「討債鬼故事」として中国の古典などにもいくつか話があるそうです。

(参照:福田素子 討債鬼故事の成立と展開―我が子が債鬼であることの発見―) ⇒ こちらに文献(Pdf)あり

まあざっと調べただけですが、いろいろな話につながりますね。

昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/17 14:22

怪談話「こんな晩」「六部殺し」など(その一)

 先日の「百合の精」で、夏目漱石の夢十夜、第一夜を取り上げました。
もう一つ気になる話として、第三夜のすこし怖い話があります。
この話に関係しそうな昔話などを少し集めてみました。

まずは、夏目漱石の小説からです。

(1) 夏目漱石 夢十夜の第三夜

 六つになる子供を負ってる。慥(たしか)に自分の子である。
ただ不思議な事には何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
自分が御前の眼は何時潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。
 左右は青田である。路(みち)は細い。鷺(さぎ)の影が時々闇(やみ)に差す。
「田圃(たんぼ)へ掛(かか)ったね」と脊中(せなか)でいった。
「どうして解(わか)る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺(さぎ)が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺が果(はた)して二声(ふたこえ)ほど鳴いた。
 自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを脊負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。
どこか打遣(うっち)ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あすこならばと考え出す途端に、脊中で、「ふふん」という声がした。
「何を笑うんだ」 子供は返事をしなかった。
ただ 「御父(おとっ)さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると 「今に重くなるよ」といった。

 自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。
田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
しばらくすると二股(ふたまた)になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧がいった。
なるほど八寸角(すんかく)の石が腰ほどの高さに立っている。
表(おもて)には左り日ケ窪(ひがくぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。
闇だのに赤い字が明かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。
 「左が好(い)いだろう」と小僧が命令した。
左を見ると最先(さっき)の森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけていた。
自分はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。

 「遠慮しないでもいい」と小僧がまたいった。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
腹の中では、よく盲目(めくら)のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道(ひとすじみち)を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目は不自由で不可(いけな)いね」といった。
「だから負(おぶ)ってやるから可(い)いじゃないか」
「負ぶってもらって済まないが、どうも人に馬鹿にされて不可い。親にまで馬鹿にされるから不可い」
「何だか厭(いや)になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だったな」と脊中で独言(ひとりごと)のようにいっている。

 「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。
すると何(なん)だか知ってるような気がし出した。
けれども判然(はっきり)とは分らない。
ただこんな晩であったように思える。
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。
自分は益々(ますます)足を早めた。

 雨は最先(さっき)から降っている。
路はだんだん暗くなる。殆(ほと)んど夢中である。
ただ脊中に小さい小僧が食付(くっつ)いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉(ことごと)く照(てら)して、寸分の事実も洩(も)らさない鏡のように光っている。
しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分は堪(たま)らなくなった。

 「此処(ここ)だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」

 雨の中で小僧の声は判然聞えた。
自分は覚えず留(とま)った。何時(いつ)しか森の中へ這入っていた。
一間(けん)ばかり先にある黒いものは慥(たしか)に小僧のいう通り杉の木と見えた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化(ぶんか)五年辰年(たつどし)だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」

自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。
おれは人殺(ひとごろし)であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。

*********
ここでは、背中に背負っている子供が急に「丁度こんな晩だったな」といって、昔の人を殺した思いが蘇ってくるというものです。
当然これは物語であり、漱石も100年前というので、前世に背負った出来事のように書いています。
また、この100年というのも第一夜と同じであり、何か意味を持っているのかもしれません。
中国では100年というのを無限大という意味を持たせているようです。契約でも100年後の契約は意味が無いので99年というのが最大の区切りとの解釈があるようです。

この話を読むと、知っておられる方は「こんな晩」とか「六部殺し」という昔話を思い出すと思います。
この後に、地方に残された「こんな晩」という昔話を2点紹介します。

(2) 日本の民話「こんな晩」 青森県 フジパン
 
 むかし、一人の六部(ろくぶ)が旅をしておった。
 六部というのは、全国六十六ヶ所の有名なお寺を廻っておまいりをする人のことだ。
六部たちは、夜になると親切な家で一晩泊めてもらっては旅を続けていた。
その六部がある村に着いたとき、日も暮れてきたので、村はずれの一軒の家に泊めてもらうことになった。
夕食を食べ終えた六部は、「大分歩いてつかれましたから、今夜はこれで休ませていただきます」
と言うと、奥の寝部屋(ねべや)へ入った。

 ところが、夜遅くなっても、六部の部屋のあかりがついている。
何をしているのだろうと、家の主人が戸のすき間からこっそりのぞくと、部屋の中では六部が金を数えていた。
 『ほほう、たんまり持っているな、あれだけあれば一生楽に暮らせる。ようし、あの六部を殺して金を奪(と)ってやろう』
そう思った主人は、大きな声で、「六部さん、起きてるかい。いい月だから外へ出てみなされ」
と言って、うまく六部を外へ連れ出した。
六部が、「月はどこにも見えないが」と、振り向いたところ、主人はいきなり隠していたナタを振り上げ、六部を殺してしもうた。

 主人は、六部から奪った金で商(あきな)いをして、またたく間に金持ちになった。
やがて、この家に子供も生まれた。
長い間子供が出来なかっただけに、主人は喜んで喜んで、たいへんな可愛いがりようだった。
ところが、その子は泣き声もたてないし、二つになっても、三つになっても一言もしゃべらなかった。
子供が五つになったある晩のこと、寝床(ねどこ)の中でむずかった。
主人は、きっと小便だろうと思って、子供を抱いて外へ出た。
月の出ていない晩だった。
「早く小便をせいや」と、主人がいうと、今まで一言もしゃべらなかった子供が、突然、
「こんな晩だなあ」と言った。
主人はびっくりして、とっさに、 「何が」 と聞くと、
「六部を殺した晩よ」と、子供が言った。

 いつの間にか、子供の顔は殺した六部の顔になって、主人をにらみつけていた。

 主人はおそろしさのあまり、気を失い、そのまま死んでしまったという。

(3) こんな晩 新潟県十日町市
 
むこんしょ(むかい:、地名)にゃ、
ここらあたりにはいないような旦那さまがいた。 
その旦那さまというのは、 昔からの旦那さまではなかった。
つい10年ほど前までは、貧乏で貧乏で、食べる米もままならないし、借金はあるし、
そういう旦那さまが 急にムキムキ、ムキムキと、 身上(しんしょう)がよくなったんだと。 
何がもとで、そんなに身上があがったのかな? そしたら、深い訳があったと。

ある秋の寒い日、その日は朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
夕暮れになって、 六部が泊まるところがなくて困っていた。
( 六部:行脚僧。書写した法華経を66カ所の寺院に納経しながら巡礼の旅をした僧侶)

「ここん衆[しゅ]、一つ泊めてくんなかい?」と言って、来たんだと。 
その家では、「おら、貧乏で貧乏でおまえが泊まったとて、もてなしは何も出来ねスケ、だめだ」
と断わった。
「かまわねえ。何でもいいスケ、
この雨サ当たらなければ何でもいいスケ、泊めてくんなかい」
と六部は頼み込んだ。
そんなのでもよかったら、と、六部は泊まることになった。 
そこのトトは、真夜中に小便に起きて、ふと脇をみた。
六部の寝ている座敷の方から、チャリーン、チャリーンと銭(ぜに)の音が・・・ 
六部の寝ている部屋にコソン、コソンと近寄って、 障子の破れ目から、こ~う覗いてみた。
・・・そうしたら、銭勘定していたんだと。 
六部っていうのは、 笈[おい]という箱のようなのをしょっている。
その中の竹の筒に金を入れて置くんだと。

それを見たトトは、 金が欲しくて欲しくてたまらなくなった。
・・・おらは、貧乏で金など拝んだこともない。いつも借金で首が回らない。
ああ、すぐ目の前に金がうなっている!
・・・これだけの金があれば、一生、楽に暮らせる!
心の闇が一瞬にトトを覆った。
悪いこころがトトにささやいて、金を盗むようにけしかけた。

外は秋雨が降る丑満時。 六部を殺したトトは、屋敷の隅に六部を埋めた。
冷たい雨が容赦なくトトに降り掛かっても、 金の妄執に取り付かれたトトは 人間のこころに戻らなかった。
誰も見ていないんだもの、構うもんか!

六部が持っていた金を盗んで元手にして、 金貸しを始めた。
人に金を貸しては利息で儲け、また人に貸し・・・ 田畑や山を売りたい人がいると、どんどん買った。
そうこうするうちに、ムキムキ、ムキムキと身上があがったんだと。
金もあり、地所もあり 何もいうことがなかった。
ただ一つ張合いのないことは、子どもの無いことだった。
そこらの人が子どもと手をつないだり、遊んでいたりするのをみると「子どもが欲しいなあ~」と、どうしようもない。
毎日、欲しいなあと思い暮らしていると、 何と、子どもが出来たんだ。
子どもは、それも男の子だった。

ようやく出来た子どもをめじょがって(可愛がって)、それはそれは大事に育てた。
ところが、その子は3つになっても4つになっても、モノを言わない。
立つことも出来ない。 腰がフラフラして立てない子どもだった。
旦那さまはそれでもその子をめじょがって育てたんだと。

その日は、やっぱり朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
晩がたになったら、もう滝のように降り出した。
暗い闇夜で、 鼻を撫でられても分からないくらいの闇夜だった。
・・・こういう晩は、早く子どもを寝かそう。
寝る前に小便をさせようと、 息子(アニ)を抱いて外に出た。 
雨はバシャバシャ、バシャバシャ降る、真っ暗な夜。
トトが、思わず
「馬鹿げに雨は降るし、暗えなあ」 とつぶやいた。
その時だった。
今まで一言もモノを言わなかった息子(アニ)が、 口を開いた。 
「あの晩にそっくりだのし」
真っ暗の中で息子(アニ)の面(つら)だけが青くひかり、トトを見てニタニタニタと笑ったと。 
さあ、トトは驚いたの何の。
・・・この野郎は、おれが殺した六部が生まれ変わったんだな。
・・・仇打ちに来たんだな。このままじゃ置かねえ。

めじょがっていた息子を殺して、畑に埋めたと。
それだすけ、いくらかたき打ちで産まれて来たのでも親にはかなわない。
親に返り打ちになったってがんだ。
その旦那さまの屋敷は、 今でも雨の降る暗い晩には、青い炎(ひ)が、トコトコ、トコトコと燃えていると。

いちげざっくり

***************
以上の他にいろいろなパターンで各地に同じような話がたくさん存在します。
そのほとんどが六部の殺される話で、その奪った金で長者になり、そのうちに長者の家が没落する。
そんな長者伝説はこの六部殺しとはまた別に、八幡太郎や平将門伝説などと組み合わせてのパターンなどいろいろな話しがあります。

さて、一般的な六部殺しの話をWikipediaから紹介しましょう。

(4) 六部殺し (Wikipedia)

 六部とは、六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のこと。六部ではなく修験者や托鉢僧や座頭や遍路、あるいは行商人や単なる旅人とされている場合もある。ストーリーには様々なバリエーションが存在するが、広く知られている内容は概ね以下のとおりである。

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 ある村の貧しい百姓家に六部がやって来て一夜の宿を請う。
その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。
その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、どうしてもその金が欲しくてたまらなくなる。
そして、とうとう六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。

その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める・田畑を担保に取って高利貸しをする等、何らかの方法で急速に裕福になる。
夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。
そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。
きれいな月夜、もしくは月の出ない晩、あるいは雨降りの夜など、ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。
すると突然、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。

ここまでで終わる場合もあれば、驚いた男が頓死する、繁栄していた家が再び没落する、といった後日談が加わる場合もある。

**********
 さて、各地のお寺や神社を廻ってみると、江戸時代ころに建てられた「六部回国記念碑」を見かけることがある。
六部(六十六部)の発祥は、奈良時代頃までさかのぼるとともいわれ、かなり古いと見られますが、どうも実態は不明で、鎌倉時代末期頃に各地で修行僧によって行われだして、江戸時代にはかなり一般人もこれを行うものが出てきたようです。
鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼したといわれており、この姿は諸国を巡礼した空也上人や一遍上人などの念仏踊りにも近いものを感じます。
そして、一般の篤志家が全国66箇所を廻ることができると、その記念碑が地元に建てられたのでしょう。

ではもう少し違った観点の話しも探ってみましょう。

長くなりましたのでこの続きは <その二>で ⇒ こちら

昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/16 17:52

下玉里から筑波山

 石岡から銚子に行く時は大概、国道355号線を使っている。
しかし、昨日は高浜の方を廻って行った。
またそこから、湖に沿って高崎、玉里地区を廻ってみた。

周りはハス田が広がっているのだが、この時期は収穫していなかった。
正月向けが終わったから、少し休んで、もう少し暖かくなったら始まるのだろう。

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先端の下玉里・大井戸地区方面間で行ってみた。
通りの空き地に車を止めて、湖岸道路へ出た。
ここも車は走れるが、歩行者や自転車の邪魔になるので普段は走らない。

天気はよくなかったが筑波山がきれいだ。

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上の写真は、その前の写真と々アングルだが、前の写真は少しズームされている。
こちらはズームなし。 写真にしてみると筑波山は小さいが、実際はもっと大きく見える。

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土手を下りた原っぱからはこんな感じだ。

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そこにこんな大きな看板が掲げられていた。
この「霞ヶ浦二橋」というのは、霞ヶ浦に2本の橋を架けるという計画だそうだ。

1本目がここから対岸の石岡市井関、石川地区とつながる橋で、もう一本は土浦入側をつなぐものだという。

もうかなり前から計画はあり、霞ヶ浦大橋ができる前から運動は続いている。

この下玉里~石川間は昭和34年に「かすみがうら市宍倉」と「小美玉市川中子」を結ぶ6.9km程の区間が県道に認定されているが、この霞ヶ浦に橋がないので、この間(約1km)は通行不可部分となっている。
通行不可というより湖の上に仮想道路を作っているだけである。おかしな道路だ。

まあ今となっては地域の生活道路というだけで、橋が出来てもどれだけの効果が望めるかがわからない。
車の往来もほとんどない。

江戸時代は両サイドが水戸藩の領地であった。
そのため、御留川(おとめがわ)制度が導入され、この領域の漁業権が水戸藩で占有された。

また、対岸の石岡市井関、八木、石川にかけては大正末期から昭和初期にかけて干拓された場所で、地図で見ても湖岸は人工的な直線になっています。

この高浜入を全て埋め立てる干拓も昭和30年代半ばから40年代にかけて熱心な運動があったようです。
しかし、この高浜入干拓事業は中止されました。
今思えば干拓されなくて本当によかったと思います。

この県道194号線もこんな干拓計画と時を同じにして、認可になったものです。

また対岸の先端部の八木地区は昔、小さな島でした。
水戸藩の政治犯を収容する場所でしたが、いまは陸続きとなっています。


小美玉・行方地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/16 11:45
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