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阿玉台貝塚梅林へ

 先週の2月最後の日に千葉県香取市(小見川)の国指定史跡「阿玉台貝塚」にある梅林に立ち寄りました。
ただまだ少し早かったのか?梅はもう少しと云った感じでした。

また以前より梅の木も少し少ないように感じましたが・・・・
これらの維持管理も大変だと思います。

小見川から樹林寺を通って、阿玉台貝塚へ。
何度か通り馴れた道です。

道路は少し狭くなって坂を上って少し高台に行きます。
貝塚がどうしてこんなに高台になどと昔は思ったのですが・・・・
小見川も町の方は昔は香取の海の一部で、奥まで内海(現霞ケ浦)が広がっていました。

この貝塚は国指定史跡ですが、そこに梅の木を1000本ほど植え、梅林としました。
現在は600本ほどあると言います。

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車はこの貝塚前の道を少し進んだ(写真のカーブを曲がった)左手に4台ほど駐車できる駐車場があります。
でもどこにも案内はありません。(貝塚は写真の右側です)

依然梅まつり時には、この手前のいる口付近に有料駐車場などもあった様に思います。

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梅林とはいっても墓地などもあります。

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斜面にある梅の木などはまだあまり咲いておりません。

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平良文(よしぶみ)は平国香の異母兄弟。
千葉氏の祖とも云われています。


小見川に平良文をみる | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/03 15:05

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(6)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は6回目です。

<6> 石岡(府中)~竹原~片倉~小幡

(現代語訳)
 石岡は醤油の名所なり 萬屋は石岡中の第一等の旅店なり さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故、藤代にくらぶれば数段上と覚えたり 足を伸ばしたりかがめたりしながら枕の底へいたづら書なとす。
余がこの二日の旅において感ぜしことは気候の遅きことと地理が相違していることの二つである。

 気候が寒いのは、梅の花がまだ散らないことを見ても知ることが出来る。
地理に付いては、余は兼てより下総常陸あたりは平地であって山はないと聞いていたため平野が一望され、肥沃な土地が千里続いていると云った様子を思い浮かべていたが、思いのほか、それ程でなく平野は極めて稀であり、却って低い山や小さな丘陵が多く稲田などは丘陵の間を川のように縫って連なっているところが少なからず見られた。

このほかに、大木もなく、といって開墾もしていない平原といいたい様な所が時々ある(余が広い原を観察するのは、ベースボールから生じた思いである)。これを我が郷里松山あたりと比較すると大差があるというべきだろう。

我の郷里は真に沃野千里(そんなに広くはないが)とでもいうべき丘陵もあるが、常州の辺りのように散在せず、稻田も麦田も時候によって変化するものであり、水田には稲より外の植物を作らないというようなことはなく、又一坪といえども開墾していない土地はない。
これが、余が常州あたりを漫遊して一種奇異なる感情を起した所以である

(四月)五日の朝、褥(しとね)の中で眼を開けると、窓があかるくなっていて日影がうららかにうつっていた。
昨日とはうって変わった日和であるので旅心地は非常にうれしく、障子をあけると、連なった屋根の上に真っ白いものをよく見ると霜であった。

宿を出ようとすると、宿の家婦が言うには、「水戸へおいでになるのでしたら、どこか御定宿はございますか」と、余は「なし」と答えると、それならば「何がしといふ宿へ行きなさいませ。きっとおろそかには取扱ないはずです」と言う。そして案内状まで添えてくれたので、それを受け取りここを出て行くと、筑波山は昨日の(雨の)けしきとは引きかえに、たいそうさやかに見られた。

昨日から絶えず筑波を左にながめながら行くので、山も共に行くような心地がして離れそうにない。

    二日路は筑波にそふて日ぞ長き

(筑波の山が)時々雲にかくれたり、また雲のあいだより男体女体のジャンギリ頭と島田髷(まげ)が見える所などは、なかなかおつである。

    白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體 

このあたりより街道はますます東北の方へと向ひければかの俳諧の元祖を後に見て竹原片倉はどうして過きたか知らず早くも小幡に着きにける 

(注釈)
1)石岡宿(府中宿)

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 石岡の町はかつて常陸国(常州)の国府があった場所であり、国分寺跡や国分尼寺跡がある。
ただ江戸時代は水戸藩の支藩で松平播磨守2万石(他所と合算しているので実質は1万石)の領地であった。
鉄道は明治28年に水戸(友部)-土浦間が開通している。東京田端まで開通したのは翌明治29年12月であった。
子規が旅をした明治22年春はまだ霞ケ浦を利用した船旅が主流であった。

江戸末期から明治、大正、昭和初期まで酒・醤油の醸造業が盛んで、子規も町の印象を「石岡は醤油の名所なり」と書いている。当時この酒醸造所や醤油醸造所が多くあり、町の至るところに大きな煙突が聳えていた。また明治14年ごろから昭和初期まで製紙産業も盛んとなり商人たちも多く往来していた。
明治34年に書かれた石岡繁昌記(平野松太郎著)には当時の街内の店などの広告が載って居り、子規が泊まった萬屋も載っている。
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明治34年 石岡繁昌記(平野松太郎著)
旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」

同じ石岡繁昌記に明治34年当時の鉄道の時刻表が載せられていたので、参考までに載せておきます。
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明治34年当時の石岡駅の時刻表

この子規が泊まった萬屋は現在の石岡駅西口(旧市街)御幸通り(八間通り)の突き当りの「カギヤ楽器」の所(正確には左側の駐車場辺りまで含めたあたり?)にあり、カギヤさんも楽器屋の前には鍵屋玩具店(おもちゃ屋)をしており、柳生四郎氏が昭和24年に書かれた解説本にも近くの橋本旅館(現ホテル橋本楼)さんで聞いて、街中にあるおもちゃ屋さんの場所だと聞いたと書かれています。この鍵屋玩具店さんが2つに分かれて、元の場所に「カギヤ楽器店」と、少し東京よりに「ミノキオトーイ」(玩具店)に分かれたものです。
萬屋旅館からは経営者も変わっており、いつまで旅館が存在したかはよくわかりません。
しかし、明治34年には2か所(本店、停車場前支店)出していた宿も明治44年の石岡誌(松倉鶴雄著)には載って居りませんので、この間に旅館はやめられたのでしょうか。

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(正面左側が子規の宿泊した萬屋があった場所です)

「もてなしも厚き故藤代にくらぶれば数段上と覚えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・」と書かれていますので、この枕でも残されて居れば今ではお宝になっているに違いありません。

しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、町の姿もだいぶ変わりました。
子規は石岡の宿を出発して気分よく、2つの句を残しました。
その一つ

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き

の句碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります。

土浦などの句碑よりも遅かったのですが、これで水戸までつながってきました。
この碑の除幕式が平成26年10月10日に行われた時にその場に行きましたので、その時の様子を載せます。

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石岡市内にある金刀比羅神社で正岡子規の句碑の除幕式があった。
金刀比羅さんは霞ヶ浦の水運が盛んであった頃は笠間の稲荷と並ぶほどの参拝者があったという。水戸街道もこの神社の前を通っていたし、陸前浜街道とも呼ばれていた。

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本句碑は「石岡の歴史を愛する会」により建立されました。

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揮毫書家:川又南岳(水戸)

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写真の正面奥にうっすらと筑波山が見えます。天気が良ければくっきりと見えるでしょう。

2)石岡の一里塚
昔(江戸時代)の水戸街道は石岡の中町通り(旧355号)から泉町の通りを通って現在の常磐線を越えて、杉並から行里川へ向かっていた。
この杉並の名前はここにかつて日光杉並木のような並木通りがあったことに由来する。
このような街道は一般に松並木が多いが、杉並木は珍しいことだといいます。
理由はここ石岡(府中藩)は水戸藩(松平家)の支藩であり許可されてとの事。

この杉並木の入り口に石岡の一里塚があります。
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これが平成14年の台風で1本が折れ、もう1本も危険だということで根元から伐採された。その後一里塚には2世目の榎とその横に桜の木が植えられました。

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桜の木の成長は早く毎年春にきれいな花を咲かせてくれます。

3) 石岡の杉並木
 また昭和30年までは石岡の一里塚から先2kmにわたって、立派な日光杉並木のような杉並木ありました。遠くからでもよく見えたそうです。こちらも鬱蒼として暗くなり危険だということで伐採されました。

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今は杉並木はありませんが、「杉並」という名前は残されています。
写真の先の方に行くと「茶屋場住宅前」という信号がある。
ここは水戸藩の殿様などが来たときに接待した「茶屋場」があった場所である。
「石岡100物語」(茨石商事刊行)によると、住宅地の開発された昭和30年以前には、高さ1mくらいの土手で三方を囲われた200坪ぐらいの茶屋場跡が山林の中に残されていたそうです。また江戸時代には、この茶屋場にみごとな松の木(延齢の松)があったという。

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この看板は常磐線の上を跨ぐ旧水戸街道の橋のガードにとりつけられています。
また一里塚と杉並木の昭和30年頃の写真が写真集「いしおか昭和の肖像」(1994年発行宇)に残されています。

4) 行里川(なめりがわ)
杉並の先に行里川(なめりがわ)の信号がありますが、旧水戸街道はここを直進し、関鉄グリーンバス(株)の先を県道は少し右にカーブしていますが、旧水戸街道はそのまま左の道をまっすぐ進みます。ここが行里川(なめりがわ)地区であり、昔の面影のある長屋門のある建物が残されています。
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行里川(なめりがわ)の街道沿いに残る立派な長屋門。
そしてこの先旧水戸街道は、園部川沿いに大きく右に廻って6号国道へ出て、そこを突っ切って6号国道の東側を通る道になります。


5)竹原宿
竹原宿は本陣・脇本陣の無い比較的小さな宿場でした。また旧水戸街道は、現在の6号国道と重なっており、昔の宿場や街道の面影を探すことは難しく、静かな街並みが旧竹原宿をイメージするだけとなっています。
旧水戸街道は石岡の一里塚から杉並から行里川(なめりがわ)を経由してからしばらくして旧道を通りながら東に向かい現在の6号国道と交差するあたりが竹原宿で、ここから次の片倉宿の手前までは現在の6号国道と一致します。

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この竹原の交差点手前の少し高くなった台地の上に竹原神社があります。
この神社には「アワアワ祇園」という祭りが継承されています。
説明では:
正保二年(1645)に園部川上流の旧大谷村を中心に伝染病が流行し、その原因が「大谷村の牛頭天王が人を食うからだ」、との噂が広まった為、大谷村の人々は怒って牛頭天王の御神体である金幣を園部川に流してしまいました。そのご神体が流れ着いた竹原村では、神の怒りを恐れ、水中から金幣を引き上げた後に、洗い清め、焚火で温めて、乾かしてから祠を建ててお祀りしました。
そのご神体が「アワアワ」と寒さでふるえていたとの言い伝えから「アワアワ祇園」と名づけられました。と書かれています。
アワアワ祇園祭は7月の第3土・日に行われています。
また石岡の木之地町のみろく人形も今では残っているものが少なく、ここ竹原に残されていたみろく人形をもとに復元されています。

6)片倉宿
 6号国道は、この片倉宿から小幡宿を少し避けるように迂回するルートがとられましたので、片倉宿には昔の宿場の名残が少し残されています。

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旧水戸街道は現在の国道6号の水戸に向かって左側を走っています。
この小美玉市役所の側に片倉宿がありました。
今は住所表記では「堅倉」となっていますが、昔は片倉でした。
本陣はなく、脇本陣が1軒と宿屋が10軒ほどあったといいます。

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街道の曲がり角に「角屋」という旅館がありました。この旅館「角屋」も江戸の中期ころには創業していたようですが、詳しくはわかりません。
この宿はその後「旅館かと屋」と名前を変えて残っています。
上の写真の建物ですが、改装で立て直されたようですが、設計に問題があり内部は完成できずに住むことができないそうで、現在の「旅館かと屋」は100mくらい離れた国道沿いに移転して営業をしていました。「堅倉」の信号のすぐ横です。

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旅館「かと家」

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曲がった先にあった「平本米穀店」
6号国道の「堅倉」交差点近くに「貴布禰神社」があります。


この先水戸、更に大洗までもう少し調べておかなければならないことが多すぎます。
この先の記事は調査が終わってからに先延ばしです。
水戸近辺は常陽藝文 2007年3月号の「正岡子規の「水戸紀行を歩く」が詳しいです。
これを頼りに時間の或る時に散策してみたいと思います。
(続きは またその時までお待ちください)







水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/03 14:15

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(5)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は5回目です。


<5> 土浦~中貫~稲吉~石岡(約15km) 

(現代語訳)
土浦の町は街道の一筋道ではなく、あっちへ曲がり、こっちへ曲がりなどして、家の数もかなりありそうに見える。
丁度正午となり昼食を取りたい家を探しながら歩いたが、丁度良いと思われる店がなく、そのまま歩いて四五丁(4~500m)も行き過ぎてしまった。

この先もおぼつかなそうであったので、ある宿屋らしき処へ入り、昼の食事を食べさせてくれるかどうか聞くが、すぐには準備できないという。しょうがないので、そこを出て先に進むと町はずれに出てしまった。
仕方がなく近くの小さな汚げな旅籠に入って昼飯を食わせてくれるか聞くと、とても簡単に引き受けてくれた。
足が汚れているので腰かけて食うと言うと、床に上がれという。ではと足の汚れをすすいで畳の上にすわった。
しかし、なお寒くて心よくない。

飯を待つ間に例の(部屋の内部まわりの)観察を始めると、内部は客間も一間(ま)か二間(ま)くらいしかなく、しかもむさくるしく、家族は三人いて、夫婦に娘一人と見える。
家婦の愛嬌は良くて客を丁寧にもてなす処から、娘の皃(かお)も垢抜けして一通りでない処を思へば、この家は「曖昧屋」ということが分った。

飯はうまくない上に、かの雄弁な妻君が人をあしらひながらのお給事役であるので、何だか不気味で飯も腹にたまらず早速そこを飛び出さうとしたところ、疲れた足を一度休めたためか疲れが出て一寸には引っ込まず、不体裁ながら針の山を踏むような足つきでそろりそろりとやっと門をにじり出た。

ああ天は人を苦しめないものだ。丁度その向かい側に車屋があった。
そこへ行って車(人力車)を頼むと、車夫は傲然(ごうぜん)として中々動かず、また途方もない程の高直(かうぢき)なことを言い散らすゆえ、それではここまでと、生きるとも死ぬとも、そこは運しだいであり、足の先がすりきれるまで、こぶらが木に化石するまで歩かずにはおかんと動かない足を引っ立て、また歩き出した。

 余等が失望したことは、この話の他にもう一つあった。
それは、地図を見て調べていたので、この土浦は霞ケ浦に臨んでいることを知っており、土浦へ行けばきっと霞ヶ浦は一目の中にあって、飯を食うのもその見晴らしの良い家を選んで食べようなどと空想して来てみれば霞が浦はどこにも見えず、ハテ困ったと思っているうちに土浦を出てしまい、そこから一町ばかり行くと左側に絶壁になった処があり、石の階段があった。
もしかしたら、ここを登れば霞ヶ浦が見えるかもしれないと石の階段を数十段上れば、そこは数百坪もある広い平地であり、所々茶屋とでもいうような家があり、そこに「總宜園」という額が掛かっていた。

思うに土浦の公園であろう。
この断崖に立って南の方を見ると、果して広い湖が見えた。
向う岸などは雨のため見えなかったが、すぐに霞ヶ浦だと分かった。

    霞みながら春雨ふるや湖の上

こゝを下りてまた芋を求め北に向って進むと、筑波へ行く道は左へ曲れと石の(標識が)立ちたるを見過して、筑波へは行かずにくたびれてはいたが中貫、稲吉を経て感心にも石岡までたどり着き、萬屋に宿を定む。


(注釈)

● 土浦は江戸時代は土浦藩(土屋氏)9万5千石の城下町であり、亀城公園を中心に街道もくねくね曲がっている。街並みもどこからどこまでが土浦宿の街並みかはよくわからない。
ただ土浦市では旧水戸街道の案内には力を入れていて、説明版なども整備されています。

「土浦宿には、大町・田宿町・中城町からなる中城分の町と、本町・中町・田町・横町からなる東﨑分の町があり、それぞれに名主が置かれていました。大名などが宿泊する本陣は、本町の大塚家(現土浦商工会議所)と、大田家(1742年まで)・山口家(まちかど蔵大徳の道奥1744年以降)が務め、この二つの本陣を中心に旅館、問屋、商人宿、船宿、茶屋、商家などが軒を連ねていました。」(フィールド博物館・土浦)

またまちかど蔵・大徳の前には
「中城通りぞいに天明五(1785)年創業された呉服の老舗。蔵は天保十三(1842)年建築の元蔵をはじめ、江戸時代末期に建築された見世蔵や袖蔵、向蔵などの四棟があります。」との看板があります。

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水戸紀行に書かれている最初に入ったがすぐに用意が出来ないと不愛想にいわれた宿はまだ街中のようだが、街並みがいったん途切れて少し行くと「真鍋宿」がある。ここは正規の宿場ではないが土浦の中心から1kmほどしか離れておらず、恐らく子規が食事をし、曖昧屋と知ったという宿はこの真鍋の宿場ではないかと思われます。

「曖昧屋(あいまいや)」は表向きは料理屋・茶屋などをしていますが、こっそりと売春などをしていた店のことです。現在上の地図の上側真壁町の辺りですが、6号国道を北側から東京方面へ来ると、左手に土浦一校の建屋があり、その先を左に降る脇道があります。この脇道周りに昔の街並みを感じられる建物が残されています。

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この坂を下りた左手に「善応寺」というお寺がありますが、ここに幕末の土浦藩の英才大久保要と石岡生まれの「佐久良東雄(さくらあずまお)」の墓が並んで置かれています。このあたりにも人力車の車屋があったのでしょうか。まあ子規たちも学生であり、あまり格好は良くなかったので金もあまり持っていないとみられたのでしょうね。
土浦もここ頃は鉄道も通っていませんが霞ケ浦を経由した船の便は結構頻繁に出ており、東京へも簡単に出れたようです。徒歩でやってくる弥次喜多道中などをする人はめったにいなかったのでしょう。

● さて、子規たちが高台に登って広い公園から霞ケ浦を眺めたとありますが、昔、土浦一高近くに「真鍋公園(総宜園)」という高台の公園がありました。ここで「見えた見えた。」ととても喜んで歌を残しました。

 霞みながら 春雨ふるや 湖の上

少し雨が降るあいにくの天気でした。
子規がながめた霞ケ浦と土浦の街はこんな感じだったのでしょう。
絵葉書が残されていました。

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[よろずや商会絵葉書ギャラリー]より(明治40年頃の真鍋公園)

実は、この真鍋公園は6号国道ができる時に削られてなくなってしまいました。
この場所が良くわからなかったのですが、公園の半分の場所が残っていました。
「愛宕神社」がある場所です。6号国道(現125号)側から神社へ登る階段がついています。

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しかし、この階段は途中で崩れて登れません。
柳生四郎氏が水戸紀行の道筋を昭和24年頃自ら訪ねて歩き、解説本を出版しています。この昭和24年頃にはまだ公園はあったようです。
しかし、「この公園地も、六号国道ができるときけずり取られて、現在は石段も崩れたままで、容易には上れないままに、町の一角に忘れ去られたようになっている」と書かれています。
 
さて、この公園は愛宕神社の隣にあったそうで、今の神社は国道側からはいけませんが、隣にある「真延寺」(無宗派)側から裏を回って行くことができます。

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(真延寺の入口階段: 国道側から)

神社には祠と子規の碑の木の看板が置かれていました。

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(愛宕神社)

しかし、ここからは木々が邪魔して霞ケ浦を見渡すことができません。

隣りの真延寺の境内から霞ケ浦を見渡せることから、平成21年に、ここに子規の碑を建立しました。
真延寺は七福神を祀る無宗派の寺です。

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● さて、この土浦から石岡(府中)までの道のりは14kmほどですが、街道の記述はあまり書かれていません。しかし、旧水戸街道の松並木や宿場跡らしき雰囲気は今も所々に見て取れます。もし子規の歩いた道を辿ってみたい方がいましたら参考にして下さい。

1) 板谷の松並木
江戸日本橋から水戸までの旧水戸街道に唯一残っている松並木が土浦市の板谷にあります。
土浦・真鍋宿からその先の中貫宿までの中間くらいになります。
旧日立電線の工場(今はなし)入口付近から松並木は始まります。

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この松並木の途中に「板谷の一里塚」あります。
通りの両側に塚が残されています。

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この一里(約4km)毎に置かれた一里塚ですが、この先は「千代田.石岡インター」出口にあり、その次が「石岡の一里塚」です。

2) 千代田の一里塚
 旧水戸街道の一里塚は石岡市並木の一里塚の一つ手前が千代田の一里塚であり、この一里塚は6号国道と常磐高速道路の「千代田石岡インター」の交差する場所に残されています。
ただ車だと近くに駐車スペースがありませんので、どこか近くで止めて見に行くなどする必要があります。

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高速道路下り出口から6号国道に出て、この高速道路の下をくぐったところにあります。
道路をくぐってすぐ左に登ります。
塚には石段を上ります。その上に山道のような道路が細く続きます。

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上まで上って初めてこの石碑が見えます。

3) 中貫宿
 昔の街道をいくつか調べたり探してみたりしていますが、江戸時代のメイン街道は紹介される方も多く、ある程度知られていますので、敢えて取り上げるのは避けてきました。
しかし、近くは少し紹介しておきたいとも思い、出かけてきました。
まずは常陸府中宿の2つ江戸寄りの「中貫(なかぬき)宿」です。
宿場の大名などが宿泊した宿(普通の旅籠ではなく、特別の家があてられた)を「本陣」といいますが、現在旧水戸街道で本陣が残っているところは「取手」「中貫」「稲吉」の3か所しかない。

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現在の6号国道の中貫交差点から、一つ山側に平行に走る裏街道が旧水戸街道です。
古い町並みが少し残っていますが、手前の土浦・真鍋宿からの距離も近く、宿泊はしなかったようです。

この中貫本陣の本橋さんが今もここで暮らしています。
天狗党に焼かれてしまい、その後の再建だといいます。

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依然私が伺った時は、東日本大震災の地震のすぐ後であったため、屋根瓦が一部壊れていました。


中貫宿の入口、出口あたりにそれぞれ下記のような標識が置かれている。

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この場所は土浦市のはずれであり、かすみがうら市の入口に近い。  
この標識には「フィールド博物館・土浦」となっています。

土浦市の商工観光課の事業の中にありました。
「物語性のある観光モデルコースや散策コースの設定など,来訪者が楽しんで歩ける歴史散策ルートづくりを行います。」
現在QRコードなども追加して、情報がすぐに得られるようにする計画のようです。
 
4) 稲吉宿(旧水戸街道)
石岡の一つ手前の「稲吉宿」。6号国道に並行に昔の道が走っている。
この道を石岡側に来ると「かすみがうら市役所」がある。
思いたって出かけに朝写真を撮ったが、生憎の小雨。少し暗くなってしまった。

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旧水戸街道で本陣が残っているのは数少なくなってしまった。

この稲吉宿には水戸街道で唯一現存する皆川屋という旅籠(木村家住宅)が残されており、天狗党の残した柱の刀傷などが見られるといいます。

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水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/02 13:41

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(4)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
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今回は4回目です。


<4> 藤代~牛久~荒川沖~中村~土浦 約23km

(現代語訳)
四日(4月4日)朝起き出でゝ見れば小雨がしよぼしよぼと振っていて少し落胆したれども、春雨のことであり、何程の事でもないだろうと二人は各々が携えて来た蝙蝠傘を広げた(ただ、余が持ってきた傘は明庵よりの借用物である)

野道をたどること一里、たいそう大なる沼あり牛久という 地図を見るとこの沼の形は二股(ふたまた)大根の形をしていて、余等はその大根の茎と接する部分を横ぎるものであった。
沼には枯れ葦(あし)、枯れ菰(こも)のたぐひが多く、水はそれほど深いとも見えない。
一艘の小舟が雨の中を釣糸を垂れているのは哀れにも寒げであり、水鳥はあちらこちらに一むれ二むれづつ固まって動きもしない。
両股(ふたまた)の股(また)にあたる所に近いため、雨にかすみながらも低い岡があって、そのふもとに菜の花が咲き出でたるなどが見えた。 そこから一里程にて牛久駅に達す。

牛久を通りぬけて後は、路のほとりに一二寸の木瓜(ぼけ)の木が葉もついていないのに、花だけが咲いているのはいぢらしい
路は一筋の松繩手(松並木)にかりゝぬ
雨は次第に勢を増してきて、寒さに堪へられず少し震えながら、多駄公に何か物語りを話してくれないかと思うのだが、話すことは大方昨日の旅路の話に尽きてしまった。
仕方がなく、震える声で声を張り上げて放歌吟声を始めた。

月落烏啼きてを序幕(はじめ)にして寒玉音の知っている詩はすべて吟じ尽くしてしまい、それから謠ひ(うたい:謡曲)を自己流の節にて歌ひしが、諳誦(あんしょう)せし処も少しであるのでこ、れも忽ち種切れとなった。

そこでズットなり下って大阪天満宮の話となり、ここだけは多駄八も加勢してくれてどうにか千秋楽となつた。

サア困つた、(他に)何か種はないか、あるある、花山文に指南を受けた小笠原島の都々一がある。それをやつたが、これも終わってしまい、それからも都々一ときまつたが 都々一は文句を三ツ四ツしか知らないので、半分はウヽウヽと小声で何か自分にも分らぬことをうなっていた。

片手で傘を持ち、もう一つの手は懐に入れている。
風が後から追っかける樣に吹く。
雨がさも憎らしそうに横から人を打つ。
手がかじかんで、小便するのもやつとの思いであった。
足はだるくなった。
歌は拂底(ふってい:すっかりなくなる)になった。

………からだはふるへる。
………粟粒が言ひ合した樣に百程が一所に頰の辺に出た。
………松を吹く風の音ゾー。
………傘に落ちる松の露ポテポテポテ。
………その寒さ。
………その哀れさ。
………痩我慢(やせがまん)の彌次喜多(やじきた)も最早降參だ。

折ふし松のあはひ(松と松の木の間)に一軒の小屋を見付けたり 
店さきにはむさくるしき臺(台)が置かれていて、ふかし芋をうづ高く盛っている。
多駄八にめくばせして、つかつかと店に入り

 野暮「オイ 芋を一錢だけくれんか」 
 「ハイ、わるいお天氣で困ります」

といふものは年の頃十七八を五十許りこえたと思はれる老婆なり、
老婆の手づから与えられた芋を、多駄八にわけている内に、茶など汲みて出だせり つくつく家の内を見るに間口四間奥行二間もあるべし 

右の半分は板間にて店となし、左の半分は土間にて竈(かまど)をすえ、薪を積みなどし、火も燃えていた
かの老嫗(おうな)の外には猫一匹いるとも見えないので、いでここにて一休みしようと内に入って、多駄八と共に火にあたり、木の切りはしに腰をかけ、袂(たもと)より芋を取り出して食ひけるは
滹沱河(こだか)の雑炊にも、十年の宰相にも劣らないと思われた。

老嫗を相手に話している内に一人前五厘の芋は喰ひつくしてしまった
烟草(たばこ)を巻きながら前を見れば釜の中にて何かが煮えており、気がかりなれば

 野「ばあさん これはなんだ」
 婆「それは赤飯(せきはん)でございます」と答ふ
 野「そうか、それじやア何か祝ひでもあって炊くのか、」と何心なく問ひしに老婆はせせら笑ひしながら
 嫗「イエ それは売るのでございます」とさも気の毒そうににいへり

これは吾等の身なりが宜しくないので、それを一杯くわせろなどとねだるのではないかと邪推している樣子であった
少し癪(しゃく)にさわったが礼を述べてその家を去った。
火にて温まっている間は寒さを忘れていたが表へ出れば再び藤房(万里小路藤房?)を気取って松の下蔭(したかげ)に袖を濡らざるを得ず、今はいよいよ御運の末であると力なげに落ちて行くである。
昨日までも今日までも、玉の台の奥深く、蝶よ花よとかしづかれ風にもあてぬ御からだ、薙刀(なぎなた)草履(ぞうり)に身をやつしているのはいても、行くあてもなく、

すべる道草ふみしめて、雨も嵐もあら川や うきとなげきの中村を、
さまよひ給ふ御有樣あはれといふもおろか也 
かゝる苦にあい給ふとも いつかは花もさくら川土浦まちへと着き給う
(宿場は牛久-荒川沖-中村-(さくら川)土浦とあり、これを詠み込んだ)


(注釈)

<牛久沼>
水戸街道は陸路は牛久沼の東側を進んで、若柴宿などを通っているが、牛久沼を船で渡ることの方がこの頃は一般的だったようだ。

401.png 402.png  
(牛久)               龍ヶ崎市観光物産協会ホームページ

旧水戸街道は藤代宿より牛久沼を東に迂回して若柴宿を通る道となっていますが、子規も牛久沼を舟で渡ったと書かれています。
上の右側の図の赤い点線のように船を使った方が近道で楽であったようです。
ただ紀行文には船で渡る場所は、牛久沼の二又に分かれるところに近くてその陸がよく見えると書かれていますので、上記の地図の船のルートよりもう少し西側を通ったのかも知れません。
また牛久沼そのものも現在よりはもう少し東側に広がっていたのでしょう。
悪天候の時は陸路を通ったようですが、これも水が氾濫した時などにいくつかのルートがあったようです。
取手から大きく西に回って現在のつくばみらい市にある板橋不動尊を通って土浦へ行く道もありました。

● また牛久沼を船で渡っていたことでこんなお話もあります。

403.jpg
<うな丼発祥の地:牛久沼」>(常陽藝文 2011年6月号)

江戸日本橋の芝居の金方であった大久保今助が、生まれ故郷の常陸太田へ向かう途中、水戸街道の牛久沼の渡し場にある茶店で好物の鰻の蒲焼と丼めしを頼んだ。
ところが、注文の品が出てきたとき「舟がでるよー」の声。
あわてた今助は、丼めしの上に蒲焼ののった皿をそのまま逆さにかぶせて舟に持ち込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べることにした。

すると、蒲焼がめしの熱に蒸されてよりやわらかくなり、めしにはタレがほどよくしみこんで、それまでに味わったことがないうまさの食べ物になっていた。
 数日後、今助は江戸に戻る途中、再び茶店に寄り、今度は初めから蒲焼ののった丼めしを作ってもらった。
その後、茶店でこれを売りだしたところ大当たりして、牛久沼の名物となった。
また江戸では、今助が芝居見物につきものの重詰め弁当の代わりに、熱いめしの上に鰻の蒲焼をのせた重箱を取り寄せるようになり、これがうな重の始まりになった。(ここまで引用)

404.png
(藤代~土浦)

● 牛久を通り抜けてからしばらく行くと昔の街道の松並木が続いていたようで、この場所は蝙蝠傘を片手に持ち、いろいろな歌や詩、都々逸など声を出しながら進んだが種が尽きてしまったと書かれています。
これは牛久宿から荒川沖宿までの7kmほどの区間になります。
但し、この間は今の6号国道とほぼ同じところを通っており、国道の拡張や街並みの変化ですっかり昔のイメージは湧きません。

ただ、昔の街道は一般には松が植えられた場氏が多く、このイメージを得るには、土浦-稲吉間にある「板谷の松並木」あたりが参考になると思います。そちらの方は別途後で載せます。

● この松並木の間にあった小さな店で芋を一銭で一つ買って、二人で分けて食べていますが、店の婆さんとのやり取りも面白く、また赤飯を炊いて売っていた様子なども当時のお店の様子が目に浮かびます。

●  この火に暖まりながら芋を喰っているときの表現に「滹沱河(こだか)の雑炊にも、十年の宰相にも劣らない」とありますが、私の知識不足でよくわかりません。
しかし、滹沱河(こだか)は中国の川の名前で、思い浮かぶのは禅宗の臨済宗の名前由来。
臨済禅師が、滹沱河(こだか)の川のほとり(古渡:古い渡し場)に院(寺)を結び、臨済院と名付けたものです。「済=渡し場」であり、渡し場に臨んでいるから「臨済」となったそうです。
昔は禅宗の寺などでは残った汁に飯などを入れて雑炊も良く作っていたようです。
十年の宰相(そうしょう)は、国のトップで10年? 秀吉でしょうか?  秀吉も三十三間堂前の鰻の入った「うぞうすい」がお気に入りだったようです。 もし清盛なら出生にまつわる「山芋」の話があります。
21歳の子規も若くしていろいろ書物を読んでいたのでしょうね。
ただ同期の親友夏目漱石の文には子規も脱帽だったというような話もありますが。

● 店屋を出た後にまた寒くなり、「藤房」の話が出てきます。
私もよくわかりませんが、南北朝時代に建武政権の立役者として知られる藤原藤房(万里小路 藤房)のことではないかと思われます。中納言、正二位まで出世しましたが、37歳(?)で1332年5月に常陸国に流されています。
その後本職に復帰しますが、39歳で出家しています。(太平記)

● ここら先土浦までは歌のリズムでかろやかに「荒川沖宿」「中村宿」と特に書くこともなく通り過ぎています。
荒川沖宿は6号国道から荒川沖駅の方(東)に分かれた道沿いに面影が残されています。
ただ本陣もなく牛久・土浦の補完的な宿場として機能していたようです。

<荒川沖宿>
 「荒川沖」は国道6号線から一つ線路寄りに平行に走る道が旧道のようです。
わらぶき屋根の家が残っています。
写真は2013年11月に訪れた時のものです。

405.jpg
(鶴町(たばこ屋さん)の建物?)

406.jpg
佐野屋(旅籠)だった家のようです。

407.jpg

詳細はわかりませんが数件の家の造りが昔をしのばせてくれるものがあります。


また中村宿も荒川沖宿から1里ほどしか離れておらず、それほど大きな宿場ではなく本陣と宿屋が少しあった程度のようです。
場所は、現在の土浦市外・花室川の少し手前、現6号国道の西側、大川橋手前ですが現在それらしき痕跡はあまり残されていません。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/03/01 13:46

正岡子規の「水戸紀行」を巡る(3)

この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。
数回に分けてブログにUPしようと思います。
     1回目から読むには ⇒ こちらから

今回は3回目です。



<3> 我孫子~取手~藤代(約14km) 

(現代語訳)
(我孫子宿では)両側の宿屋の下女が人を呼びとめ、騒々しく嚙みつきそうであったが、これを無視して靜かに、又急いで走り去ると、宿場の街並みから四五町(約500~600m)行けば、もうここまでの単調な景色に引きかえて、一面の麦畑のある場所にでた。その麦畑に菜の花が咲き混じっていて、無数の(麦の)白帆がまっすぐに隊列をなして音もなくその上を往来している。
近くに川があるとは察せられるが、川面は全く見えず、実に絶景である。

ここで一句をひねろうと考えてみたが、中々に目は景色にうばわれて、一句も読むことが出来ない。
白帆と麦緑と菜黄と三つ(三色)を取り合せて七言の一句となそうと苦吟してみるがうまくは出来ない。

それならば発句にしてみようと無理に十七字の中に、この菜花と麦と白帆とを云い込めて見たけれど、それも気に入らず、それではと三十一文字にしてみようとするが、これも不出来なものばかりだ。

しばらくいろいろと辛苦していると、余の胸中に浮んだ一大問題は、日本字・漢字・英字の比較である。
今この景色を表すのに漢字を使えば、これだけの字にて足り、日本字ならば何字、英字ならば何字を要するかなどということを初めとし、漢字には日本や欧州にはない特性の妙があり、麦緑菜黄というように他国の語にて言うことが出来ない能がある処であるということ、そのほかに、種々の漢字の利益を発明したり、この議論を詳細に書こうとすると少なくとも八九枚を費してしまうだろう。あまり横道へはいりこんでしまうと、中々水戸までたどり着けそうにないので略して(ここで句を詠むのを)止めることにした。

このように考へながら歩いている内に路地伝いに麦畑の間に入ってしまった。気も晴れて、胸にあった雲も晴れてしまった。

ああ心地よいなと云いながらたたずめば、たちまちチーチーといふ声がいかにものどかにあちこちから聞こえてくる。その鳥を見ようと仰き見るが姿が見えない。
これは不思議であると多駄八に問うと、「雲雀(ひばり)」だという。
あゝそれよ

川辺にやってきた。始めて知ったのだ。
これこそ阪東太郎というあだ名を取りたる利根川とは。
標柱を見れば茨城県と千葉県の境であった。

川を渡れば取手であり、ここまでで一番繁華なる町である。
処々に西洋風の家をも見受けられた。
ただ、このあたりから少しづゝ足の疲れを感じるようになった。
多駄八の足元を見ると、よろよろとして確かではなくとかく遅れがちであった。

周りの野原のなかに1本の梅の木があり、花は眞盛りで、まだ散り始めておらず、こゝらあたりは春も遲いのだろうと、煙草を出して吸ひながらたたずんでいると、少し過ぎて鶯(うぐいす)の鳴き声を聞きければ山陽の獨有渠伊聲不訛といふ句の思ひ出されて

    鶯の聲になまりはなかりけり

このあたりの場所は言葉がすこしなまって鼻にかゝるが、鶯にもし鼻があればなまるのかもしれない。

かくて草の屋が二三軒立ちならぶ処に至る 道のほとりに三尺程の溝あり 槇(まき)、木槿(むくげ)などの垣根があり その垣根の中に一本の椿(つばき)がたいそうにぎやかに咲いていたが、その半ば散って、溝の中は眞赤であった。 あれ見よや、美しいことであると言おうとして、後を振り返ると多駄八は一町程離れて、後からよぼよぼと歩いてくる

道行く商人を相手に、次の駅(宿)のことなど聞き合せ、藤代の入り口にて(商人とは)別れ、まだ日は高いので(次の宿の)牛久までは行こうと思っていたが、我も八里(12km)の道にくたびれたので藤代の中程にある銚子屋(宿屋)へ一宿した。

この駅(藤代)には旅店が二軒あるのみといへば、その淋しさも思ひ見ることが出来よう。(宿で)湯にはいり、足をのばしたのは心持良かったのだが、夜に入って伸ばした足が寒くて、自らちゞまってしまった。またむさくるしい(食事の)膳の中身は昼飯(ひどかった)に比べれば美味いと云えたが、食事が終りすぐ床をしかせて、これで寒さを忘れたのだけれど、枕の堅いのには閉口であった。床の中で多駄八とおもしろき事などを話しあった。

(注釈)
我孫子宿~取手宿~藤代宿(泊) 約14km
<我孫子~取手~藤代>

301.png

● 我孫子宿では両側に並んだ宿の下女たちの呼び込みがうるさいようにかかれています。
でも町の様子や手賀沼のことは書かれていません。

302.jpg
(Wikipediaの我孫子宿地図)

説明では本陣・脇本陣が置かれた大きな宿場町で、東西1km弱の範囲に広がっていたとあります。
この上の地図の左側東京方面に1km程のところから布施弁天への分かれ道があり、水戸街道も我孫子・取手・牛久などを通らずに牛久沼などが氾濫した時などはこちらの布施弁天→板橋不動尊→土浦のルートもありました。
また上記地図の右(東)側の分かれ道「成田街道」もその昔はこちら側を通って布施から北上するルートもありました。

地図上の門松(角松)本店は江戸時代から旅籠として存在し、現在も割烹旅館角松本店を営業されています。
ただ、この旅館は明治17年に明治天皇も利用したといい、昔は「松島屋」という旅館であったようです。
明治43年頃は柔道の嘉納治五郎もよく訪れていたそうで、その後門松本店に営業が移ったようです。
明治の初めころも結構にぎやかだったようですね。

● 我孫子を過ぎて麦畑を通り、白帆と麦緑と菜黄を合わせた句を詠もうとするが詠めず、あきらめ、その後、鶯の鳴き声に訛りがないことを一句残しています。
このあたりの訛りは鼻で濁り音が出ると思うのでしょうか。
鶯はどこでも同じようにきれいな声で鳴くのでしょうね。

「山陽の獨有渠伊聲不訛」とありますが、頼山陽の漢詩の一部なのでしょうか? よくわかりません。
「渠伊」は中国語で」方言のことのようです。

<取手宿>
303.jpg

現在の取手駅の東側あたりに宿場があった。
範囲は東西に1キロ弱の範くらいの規模で広がっており、子規も利根川を渡った(渡し船?)あと川に平行に宿場町を進みます。
対岸の東京側にも、青山宿という小規模な宿場町があった。

取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、江戸時代に入り暫くしてからであり、他宿場町より、多少遅れていた。
しかし取手宿は利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったため、二百軒程の家並みが並ぶかなり大きな集落を形成していた。本陣として使われていた染野家住宅(1795年築)が保存されており週末には公開されている。

また取手の渡しとして渡し船があったが、昔の利根川は、取手市の南(現在の古利根沼(ふるとねぬま))を蛇行して流れており、水害が絶えなかったことから利根川改修工事(明治40年から大正9年まで)が行われ、現在の形に姿を変えました。
この時それまで地続きであった小堀(おおほり)地区が利根川により分断され孤立したため、渡船場(とせんば)の設置を決め、大正3年に渡し船が就航しました。
これが今も船の姿や動力船などに姿は変わりましたが「小堀(おおほり)の渡し」として観光船を兼ね就航しています。

304.jpg
小堀(おおほり)の渡し:Wikipediより

取手宿について、子規はこのあたりで一番の大きな町だとあり、西洋風の家なども見えると書かれています。
やはり当時はまだ鉄道が通っていなかったが、船運は盛んで、東京などに運ぶ荷物もこの利根川が使われていましたから、町はにぎわっていたのでしょう。


<藤代宿>
305.png

● まだ日が高いから牛久まで行こうと思ったが八里も歩いてきて二人ともくたびれて、藤代に泊まった。
宿が2軒しかない少しさびしい町だったという。
その宿の名前は「銚子屋」といった。もう一つは「永田屋」といったらしい。
この銚子屋さんは江戸時代には宿場の脇本陣だったそうですが、明治になり旅館をされていました。

現在はその跡地に別な経営者として建て直されて「河原崎書店」(取手市藤代502-5)となっています。
現在この河原崎書店さん宅に残された古くからある庭に子規の没後百年記念句碑(平成元年12月建立)が置かれています。

『旅籠屋の門を出づれば春の雨』

306.jpg
(河原崎書店さんのホームページより)

この句はこのとき詠まれたものではなく、明治29年の作品です。
でも情景はぴったりですね。
また藤代の本陣は現在の役場の場所にあったそうです。



水戸紀行を巡る | コメント(0) | トラックバック(0) | 2024/02/29 21:04
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