鹿島神宮(1)-一の鳥居
4年目のスタートの最初のシリーズは鹿島神宮としました。
まあ、常陸国一の宮でもあり、伊勢神宮・香取神宮と並んで昔からの特別な名前で呼ばれる「神宮」です。
今では明治神宮など数は多くなりましたが、神宮は3社しかなかった時代が長く続いていたのです。
また「鹿島発ち」などと昔の防人たちが出立の時にここを御参りして旅だった記念すべき場所です。
でも、その後の太平洋戦争などでも戦地に赴く時に同じような言葉が使われていますので複雑な思いもします。
まあ、ここは私が紹介するまでもないでしょうから、私としてはそれらの別なサイトとは違った見方が出来ないものかと思いながら眺めていきたいと思います。
何か感じるものがあればこれからすこしずつ綴っていきましょう。
まず最初は神宮の入口鳥居とは離れた霞ヶ浦(北浦)に作られた「一の鳥居」を紹介します。
常陸国風土記などを見ると昔国府(石岡)に来たお役人は高浜から船でこの鹿島神宮に詣でます。
そのため、船の到着場所の近くに鳥居が建てられました。
これが何時頃建てられたのかがはっきりしません。厳島神社と同じように水の中に建っていた時期もありまた陸に建てられた時期もあるようです。
しかし私が知っている頃にはこの鳥居は陸上に建て変えられていました。
そして来年行われる鹿島神宮弐年遷宮(12年毎)に合わせてまた水上に建てられる計画が進められていところに、この度の東日本大震災が起こりました。
神宮の入口にある石の二の鳥居は倒壊して粉々になってしまいました。
そして、こちらの湖(昔は海)からの入口にあった一の鳥居は老朽化が進み危険だと言うので取り外されてしまったようです。
でも今回訪れると立派な赤い鳥居が水の中にしっかりと立っていました。

(クリックすると拡大します)
どうです。立派な鳥居ですね。湖上の鳥居は30年ぶりの復活だと言います。
これは今年の6月1日に完成して、式典「鏑矢(かぶらや)を放つ「蟇目(ひきめ)の儀」など」が行われたそうです。
水底からの高さは約18.1m、幅は22mで、広島県宮島の厳島神社(高さ16m)の鳥居をしのぐ国内最大級となる鳥居だそうです。(鉄製?)
来年9月にある12年ごとの式年大祭「御船(おふな)祭」に合わせて今年の完成となりました。

(クリックすると拡大します)
この鳥居の設置されている場所は潮来から国道51号線で北浦に架かる神宮橋(旧道側)を渡ったすぐ右側にあります。
橋の上からこの朱色の鳥居が目に飛び込んできます。
上の写真の奥は神宮橋です。この橋はもう一つ奥にバイパスがあり新神宮橋が同じような形で架かっています。

少し前まであった一の鳥居はこの道路の入口部分に建っていたようです。
この鳥居から神宮入口までは約2kmくらい離れています。
確か香取神宮にも水側に鳥居がありました。やはり香取と鹿島はこの昔の流れ海(霞ヶ浦)の水上交通に両サイドをしっかりと守っているようです。

(クリックすると拡大します)
一の鳥居を少し北上した所に「大船津稲荷神社」がありました。
この地区は大船津といいますので、昔から船の出入りが多かったのでしょう。
お稲荷さんが何時頃建てられたのかが良くわかりませんでしたが、鹿島神宮とは別に、庶民の信仰として広まっていたものでしょう。
← よろしければクリックお願いします。
まあ、常陸国一の宮でもあり、伊勢神宮・香取神宮と並んで昔からの特別な名前で呼ばれる「神宮」です。
今では明治神宮など数は多くなりましたが、神宮は3社しかなかった時代が長く続いていたのです。
また「鹿島発ち」などと昔の防人たちが出立の時にここを御参りして旅だった記念すべき場所です。
でも、その後の太平洋戦争などでも戦地に赴く時に同じような言葉が使われていますので複雑な思いもします。
まあ、ここは私が紹介するまでもないでしょうから、私としてはそれらの別なサイトとは違った見方が出来ないものかと思いながら眺めていきたいと思います。
何か感じるものがあればこれからすこしずつ綴っていきましょう。
まず最初は神宮の入口鳥居とは離れた霞ヶ浦(北浦)に作られた「一の鳥居」を紹介します。
常陸国風土記などを見ると昔国府(石岡)に来たお役人は高浜から船でこの鹿島神宮に詣でます。
そのため、船の到着場所の近くに鳥居が建てられました。
これが何時頃建てられたのかがはっきりしません。厳島神社と同じように水の中に建っていた時期もありまた陸に建てられた時期もあるようです。
しかし私が知っている頃にはこの鳥居は陸上に建て変えられていました。
そして来年行われる鹿島神宮弐年遷宮(12年毎)に合わせてまた水上に建てられる計画が進められていところに、この度の東日本大震災が起こりました。
神宮の入口にある石の二の鳥居は倒壊して粉々になってしまいました。
そして、こちらの湖(昔は海)からの入口にあった一の鳥居は老朽化が進み危険だと言うので取り外されてしまったようです。
でも今回訪れると立派な赤い鳥居が水の中にしっかりと立っていました。

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どうです。立派な鳥居ですね。湖上の鳥居は30年ぶりの復活だと言います。
これは今年の6月1日に完成して、式典「鏑矢(かぶらや)を放つ「蟇目(ひきめ)の儀」など」が行われたそうです。
水底からの高さは約18.1m、幅は22mで、広島県宮島の厳島神社(高さ16m)の鳥居をしのぐ国内最大級となる鳥居だそうです。(鉄製?)
来年9月にある12年ごとの式年大祭「御船(おふな)祭」に合わせて今年の完成となりました。

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この鳥居の設置されている場所は潮来から国道51号線で北浦に架かる神宮橋(旧道側)を渡ったすぐ右側にあります。
橋の上からこの朱色の鳥居が目に飛び込んできます。
上の写真の奥は神宮橋です。この橋はもう一つ奥にバイパスがあり新神宮橋が同じような形で架かっています。

少し前まであった一の鳥居はこの道路の入口部分に建っていたようです。
この鳥居から神宮入口までは約2kmくらい離れています。
確か香取神宮にも水側に鳥居がありました。やはり香取と鹿島はこの昔の流れ海(霞ヶ浦)の水上交通に両サイドをしっかりと守っているようです。

(クリックすると拡大します)
一の鳥居を少し北上した所に「大船津稲荷神社」がありました。
この地区は大船津といいますので、昔から船の出入りが多かったのでしょう。
お稲荷さんが何時頃建てられたのかが良くわかりませんでしたが、鹿島神宮とは別に、庶民の信仰として広まっていたものでしょう。


鹿島神宮(2)-御船祭
鹿島神宮の御船祭は12年に一度行われる水上祭だという。
これが来年(平成26年)9月1日~3日に行われる。来年は午(うま)年だそうです。
鹿島・香取は馬に縁があるようです。
鹿島神宮の「武甕槌(たけみかずち)」と、香取神宮の「経津主(ふつぬし)」のそれぞれの武神が水上で再会するという祭だ。
鹿島神宮から出御した神輿を2日目の朝9時頃に一の鳥居のある大船津で船に乗せ、全部で50隻以上の船が、平安絵巻さながらに行列を組んで進んでいくのだそうだ。
(詳細と写真は:こちら)
水郷地帯の加藤洲で経津主と合い、再び鹿島神宮に戻る。
さて、香取神宮の方の弐年大祭は神幸祭といい、来年(平成26年)4月15・16日に行われる。
同時に行うのかと思いましたが、それだと主催がどちらかわからなくなってしまい、上下関係がついてしまうことを恐れたのでしょうか。
でも対になった神社の例大祭が春と秋にわかれているのはよくある話ですので気にはなりません。
この2つの神社(神宮)の位置関係をもう一度チェックしてみましょう。
この神社が作られた頃を想像して水面を4m程上昇させた地図で考えてみます。

(クリックするともう少し大きな地図になります)
さて、出雲大社は60年に1度の遷宮、伊勢神宮は20年に1度の遷宮で神社の本殿を取り替えたり、修理したりしてきました。
ここ鹿島神宮と香取神宮も元々は20年に1度の遷宮、本殿の修理などを行っていたそうです。
しかし、これも戦国時代になり続けることができずに一時中止され、その後復活されたときに12年に1度となったようです。
この鹿嶋神宮と香取神宮は日本の国譲りでは重要な役目を担っています。
両方ともこの東国を平定した大和朝廷の武人を祀っています。そのため、現在でも剣道などの武術をする人たちのよりどころとされ、子供たちの参拝も絶えません。
ではこれら2人の武神はどんな人物だったのでしょうか。そしてどんなことがあったのでしょうか?
そんなことを考えても仕方がないと思う人も多いでしょうが、気になると知りたくなりますよね。
上の地図を眺めながら勝手な想像をしてみましょう。
この現在の霞ヶ浦は昔は大きな内海で流れ海とか香取の海とか呼ばれていました。
そこには静かな海が広がり人びとは貝や魚を採り、山の木の実や獣もとって1万年以上にも亘って仲良く暮らしていた人々がいました。
これらの人びとは肌には入れ墨をし、洞窟のような穴の中で生活するものが多かったようです。狩りも得意で男性たちも勇猛だったのでしょう。
そこに南からの黒潮と北からの親潮に乗って二つの流れがぶつかるこの場所に、船を操るのがうまい人びとがやってきました。そしてそれまでにいた人々と住み分けしながら暮らしていたのかもしれません。
そして後からやってきた人びとも、魚の豊富なこの地で漁をし、稲作の技術や麻や絹などの作り方も知っていたとも考えられます。そして少しずつ集団も出来てきました。
そして、現在の霞ヶ浦の南側(利根川の南)には「兎上国(うみのうえこく)」という小国ができました。
一方九州から東進してきた民族は今の奈良県に定住の地を確保し、日本の統一に乗り出します。
東国制定にやってきた武人はやはり九州の多氏族「建借間(タケカシマ)命」です。
常陸国風土記ではまず賊を退治しようとやってきた場所は「安婆(アバ)島」でここから東の対岸で立ち上る煙が敵か味方かを占っています。
上の地図にはこの「安婆嶋」と思われる場所を載せています。ここにはこの海の安全をつかさどる神を祀った大杉神社があります。(前の記事:大杉神社)
そして、この安婆嶋の先端から見える対岸は「潮来」の地です。
ここから建借間の軍団は船で潮来に渡ります。
しかし、言うことを聞かせようと武力で現地人を捕まえようとしますが、現地人はすみかである洞穴などに逃げ込んで出てきません。
そこで策を考え、浜辺で楽しそうな祭りを行って、現住民を浜辺に誘い出し、そこで皆殺しにしてしまうのです。
そしてしばらくは北浦の西岸の大生の地(前に書いた記事参照:大生神社(1)、大生神社(2))で体制を整え、西の行方方面に進出しますが、そこにはまだたくさんの敵がいたのでそこを後から攻めることにして、海岸近くを制圧してそのまま北浦を北上し、水戸から那珂川をさかのぼってここを勢力下に治めたのでしょう。(勝手な推測)
その功績を認められ、都からは仲国を治める「仲国造」として任命されます。
そしてそのシンボルとして建立されたのが多氏の祭神「武甕槌」を祀る鹿島神宮であると・・・・。
その後制圧していった場所には信仰の対象として鹿島神社が建てられていきます。
香取神宮の祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)「常陸国風土記では普都の大神」だが、こちらも兎上国にやってきて千葉から常陸国の信太郡まで進行してきます。
そして常陸国風土記では信太の地で役目を終わり、着ていた鎧や兜を脱いで天に登っていきます。
こちらの民族はどうやら出雲系の痕跡をもつ物部氏の氏族と思われ、初期は大きな力をもっていたが、途中から陰に隠れてしまい、表舞台から姿を消してしまいます。
そして、日本の歴史の中では鹿島の武甕槌(たけみかづち)に従うような神と姿が変ってしまったようです。
この地域には鹿島神社と並んで香取神社もたくさんあります。
でも香取神社が本当はもっとあったんではないかと思っています。
いずれにしてもこの霞ヶ浦の入口の両側を抑えてしまったので、蝦夷の人びとは常陸の国では石岡・笠間から石塚街道を北上し、御前山からどんどん北上して逃げていくしかなかったのではないかと思います。
また海寄りに逃げていった人々も山を分け入って北上し、日立市十王あたりから海岸沿いを福島の方に北上していった人たちもいたのでしょう。
今回は勝手な想いを載せていますので、史実とは異なる部分も多いと思います。
あまりまともに考えずに、こんなことを考えていると言うだけですので適当に読み飛ばしてください。
でも、現地を訪れて感じることを私なりに解釈していくとこんなストーリーになってきたのです。
しかし、この鹿島神宮はこれだけの解釈では理解できない点が多々あります。
蝦夷人の神は神社などは持たなかったのでしょうが、山や森、鳥や生き物などはカムイ(神)という考え方は当時からあったのでしょう。
その中でこの鹿島神宮のある森は特殊な大神がいたと信じられていた場所だったのかもしれません。
力で制圧していったのも確かにあるのでしょうが、蝦夷人たちの信仰の中心になる神としてもその存在を感じるのは私だけではないでしょう。
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これが来年(平成26年)9月1日~3日に行われる。来年は午(うま)年だそうです。
鹿島・香取は馬に縁があるようです。
鹿島神宮の「武甕槌(たけみかずち)」と、香取神宮の「経津主(ふつぬし)」のそれぞれの武神が水上で再会するという祭だ。
鹿島神宮から出御した神輿を2日目の朝9時頃に一の鳥居のある大船津で船に乗せ、全部で50隻以上の船が、平安絵巻さながらに行列を組んで進んでいくのだそうだ。
(詳細と写真は:こちら)
水郷地帯の加藤洲で経津主と合い、再び鹿島神宮に戻る。
さて、香取神宮の方の弐年大祭は神幸祭といい、来年(平成26年)4月15・16日に行われる。
同時に行うのかと思いましたが、それだと主催がどちらかわからなくなってしまい、上下関係がついてしまうことを恐れたのでしょうか。
でも対になった神社の例大祭が春と秋にわかれているのはよくある話ですので気にはなりません。
この2つの神社(神宮)の位置関係をもう一度チェックしてみましょう。
この神社が作られた頃を想像して水面を4m程上昇させた地図で考えてみます。

(クリックするともう少し大きな地図になります)
さて、出雲大社は60年に1度の遷宮、伊勢神宮は20年に1度の遷宮で神社の本殿を取り替えたり、修理したりしてきました。
ここ鹿島神宮と香取神宮も元々は20年に1度の遷宮、本殿の修理などを行っていたそうです。
しかし、これも戦国時代になり続けることができずに一時中止され、その後復活されたときに12年に1度となったようです。
この鹿嶋神宮と香取神宮は日本の国譲りでは重要な役目を担っています。
両方ともこの東国を平定した大和朝廷の武人を祀っています。そのため、現在でも剣道などの武術をする人たちのよりどころとされ、子供たちの参拝も絶えません。
ではこれら2人の武神はどんな人物だったのでしょうか。そしてどんなことがあったのでしょうか?
そんなことを考えても仕方がないと思う人も多いでしょうが、気になると知りたくなりますよね。
上の地図を眺めながら勝手な想像をしてみましょう。
この現在の霞ヶ浦は昔は大きな内海で流れ海とか香取の海とか呼ばれていました。
そこには静かな海が広がり人びとは貝や魚を採り、山の木の実や獣もとって1万年以上にも亘って仲良く暮らしていた人々がいました。
これらの人びとは肌には入れ墨をし、洞窟のような穴の中で生活するものが多かったようです。狩りも得意で男性たちも勇猛だったのでしょう。
そこに南からの黒潮と北からの親潮に乗って二つの流れがぶつかるこの場所に、船を操るのがうまい人びとがやってきました。そしてそれまでにいた人々と住み分けしながら暮らしていたのかもしれません。
そして後からやってきた人びとも、魚の豊富なこの地で漁をし、稲作の技術や麻や絹などの作り方も知っていたとも考えられます。そして少しずつ集団も出来てきました。
そして、現在の霞ヶ浦の南側(利根川の南)には「兎上国(うみのうえこく)」という小国ができました。
一方九州から東進してきた民族は今の奈良県に定住の地を確保し、日本の統一に乗り出します。
東国制定にやってきた武人はやはり九州の多氏族「建借間(タケカシマ)命」です。
常陸国風土記ではまず賊を退治しようとやってきた場所は「安婆(アバ)島」でここから東の対岸で立ち上る煙が敵か味方かを占っています。
上の地図にはこの「安婆嶋」と思われる場所を載せています。ここにはこの海の安全をつかさどる神を祀った大杉神社があります。(前の記事:大杉神社)
そして、この安婆嶋の先端から見える対岸は「潮来」の地です。
ここから建借間の軍団は船で潮来に渡ります。
しかし、言うことを聞かせようと武力で現地人を捕まえようとしますが、現地人はすみかである洞穴などに逃げ込んで出てきません。
そこで策を考え、浜辺で楽しそうな祭りを行って、現住民を浜辺に誘い出し、そこで皆殺しにしてしまうのです。
そしてしばらくは北浦の西岸の大生の地(前に書いた記事参照:大生神社(1)、大生神社(2))で体制を整え、西の行方方面に進出しますが、そこにはまだたくさんの敵がいたのでそこを後から攻めることにして、海岸近くを制圧してそのまま北浦を北上し、水戸から那珂川をさかのぼってここを勢力下に治めたのでしょう。(勝手な推測)
その功績を認められ、都からは仲国を治める「仲国造」として任命されます。
そしてそのシンボルとして建立されたのが多氏の祭神「武甕槌」を祀る鹿島神宮であると・・・・。
その後制圧していった場所には信仰の対象として鹿島神社が建てられていきます。
香取神宮の祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)「常陸国風土記では普都の大神」だが、こちらも兎上国にやってきて千葉から常陸国の信太郡まで進行してきます。
そして常陸国風土記では信太の地で役目を終わり、着ていた鎧や兜を脱いで天に登っていきます。
こちらの民族はどうやら出雲系の痕跡をもつ物部氏の氏族と思われ、初期は大きな力をもっていたが、途中から陰に隠れてしまい、表舞台から姿を消してしまいます。
そして、日本の歴史の中では鹿島の武甕槌(たけみかづち)に従うような神と姿が変ってしまったようです。
この地域には鹿島神社と並んで香取神社もたくさんあります。
でも香取神社が本当はもっとあったんではないかと思っています。
いずれにしてもこの霞ヶ浦の入口の両側を抑えてしまったので、蝦夷の人びとは常陸の国では石岡・笠間から石塚街道を北上し、御前山からどんどん北上して逃げていくしかなかったのではないかと思います。
また海寄りに逃げていった人々も山を分け入って北上し、日立市十王あたりから海岸沿いを福島の方に北上していった人たちもいたのでしょう。
今回は勝手な想いを載せていますので、史実とは異なる部分も多いと思います。
あまりまともに考えずに、こんなことを考えていると言うだけですので適当に読み飛ばしてください。
でも、現地を訪れて感じることを私なりに解釈していくとこんなストーリーになってきたのです。
しかし、この鹿島神宮はこれだけの解釈では理解できない点が多々あります。
蝦夷人の神は神社などは持たなかったのでしょうが、山や森、鳥や生き物などはカムイ(神)という考え方は当時からあったのでしょう。
その中でこの鹿島神宮のある森は特殊な大神がいたと信じられていた場所だったのかもしれません。
力で制圧していったのも確かにあるのでしょうが、蝦夷人たちの信仰の中心になる神としてもその存在を感じるのは私だけではないでしょう。


鹿島神宮(3)-二の鳥居(大鳥居)
鹿島神宮にお参りしましょう。
まずは両側にいろいろなお店が並ぶ入口の石畳の参道をそのまま車で正面まで進みます。
この入口の右側に有料ですが駐車場(普通車200円)があります。手前で無料のところもありましたが暑い日で時間もないのであわてていました。
ここを御参りするにはもう少しのんびり来ないといけませんね。

こちらが入口です。本来はここに石の大鳥居があったのですが、先の大震災で倒れてしまいました。

こちらは震災前の大鳥居です。

ここに来年の弐年遷宮の前(6月)までに大鳥居が再建されます。
材料はこの神宮境内の杉の木を使うようです。
ここから鹿島の森が始まります。

少し進むと朱色の楼門があります。
この楼門は水戸初代藩主の徳川頼房(家康の十一男)が寄進したものだそうです。
寛永11年(1634)の造営で棟梁は越後の大工で坂上吉正だそうです。建設当時は檜皮葺きであったそうですが、今は銅版葺きになっています。

左右に随神像(右大臣、左大臣)がおかれています。
楼門は国の重要文化財です。上に東郷平八郎の扁額がかかっているそうですが、良く見ませんでした。




(クリックすると少し大きな写真となります9
門の入り口の横には献酒の樽がずらっと並んでいました。
この酒は「神の池」という潮来の酒造会社のものでした。
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まずは両側にいろいろなお店が並ぶ入口の石畳の参道をそのまま車で正面まで進みます。
この入口の右側に有料ですが駐車場(普通車200円)があります。手前で無料のところもありましたが暑い日で時間もないのであわてていました。
ここを御参りするにはもう少しのんびり来ないといけませんね。

こちらが入口です。本来はここに石の大鳥居があったのですが、先の大震災で倒れてしまいました。

こちらは震災前の大鳥居です。

ここに来年の弐年遷宮の前(6月)までに大鳥居が再建されます。
材料はこの神宮境内の杉の木を使うようです。
ここから鹿島の森が始まります。

少し進むと朱色の楼門があります。
この楼門は水戸初代藩主の徳川頼房(家康の十一男)が寄進したものだそうです。
寛永11年(1634)の造営で棟梁は越後の大工で坂上吉正だそうです。建設当時は檜皮葺きであったそうですが、今は銅版葺きになっています。

左右に随神像(右大臣、左大臣)がおかれています。
楼門は国の重要文化財です。上に東郷平八郎の扁額がかかっているそうですが、良く見ませんでした。




(クリックすると少し大きな写真となります9
門の入り口の横には献酒の樽がずらっと並んでいました。
この酒は「神の池」という潮来の酒造会社のものでした。


鹿島神宮(4)-拝殿の向き
今日もまた鹿島神宮の紹介の続きです。
神宮は基本的には霞ヶ浦(内海)側からお参りするように鳥居や門が出来ています。
このため参道は東よりわずかに北(東北東)と地軸の傾き(23.4度)に相当する方向を向いています。

地軸の傾きの方向は5月頃に太陽が昇る方向です。
そのためこの道の行く先から太陽が昇ることを意識したのでしょうか。
この方向はその延長線上に皇居や明治神宮、富士山、伊勢神宮、高千穂などが平面地図上では一直線上に並びます。
(平面地図とあえて表記します。実際は地球は球体ですので、単純ではありません。)

鳥居をくぐり江戸時代に寄進された重文の随神門(楼門)をくぐると、鹿島の森の広い参道が真直ぐに伸びています。

その森の中の参道の手前左側に社務所と神札(しんさつ)授与所があり、右手奥に拝殿とその裏に本殿があります。

こちらは社務所です。比較的こじんまりした作りです。

上の写真は神札(しんさつ)授与所です。巫女さんがお札などを売っています。
多くの剣道や柔道をされている人たちがここを訪れます。

反対側の右手に絵馬などをかける場所とおみくじを売っている場所があります。

さらにその先に鹿島神宮の本殿とその拝殿があります。
よくこの本殿の向き(奥宮も同じ方向)が話題になります。
この神社の出来た時期や役割から蝦夷に備えをするために東北地方(北から少し西向き)を向いて立っていると言われます。
確かに神社をいろいろと見てきましたが、門をくぐってほぼ正面に拝殿が置かれているのが普通です。
それが、入って右に向いてお参りすることになります。
普通は、神社に合祀された境内社などがこのような向きに配置されることは多くありますが、主体の本殿は神様のお通りになる参道に対して真直ぐ置かれているのが普通です。

現在本殿は来年の遷宮に合わせて修理中でしたので詳しく見ることができませんでした。
近づくこともできません。
この本殿と奥宮が水戸から東北地方を向いているのにはもう少し違った意味もあるのかもしれません。
その一つはこの神社が建てられた時はおそらく後に紹介する「御手洗(おみたらし)」の湧き水の方向から入っていて、正面に奥宮があるという流れが昔はあったのだと思います。
そうすれば奥宮の向いている方向が納得いきます。
本殿もこの向いている方向に合わせたのかもしれません。

この建物は仮殿です。拝殿の通りの反対側にあります。
現在本殿は工事中ですので、本殿の神様はこちらに安置されているのでしょう。
しかし、奥宮もありますので、こちらにも神様はおられます。(分霊)

息栖神社、沼尾神社、坂戸神社などの名前が書かれているのが少し気になります。

この仮殿は社務所、神札授与所、宝物館の並びにあります。
宝物館には今回入りませんでしたが、国宝の直刀がおかれています。
先日常陸風土記の1300年記念の行事としてかすみがうら市郷土資料館に行きましたが、このレプリカがおかれていました。
とても長い刀で1.5m以上の長さがあったように思います。
細い刀ですがやはりかなり重たいものです。

宝物館とこの仮殿の間の奥に現在立派な建物を建設中でした。
「祈祷殿ならびに社務所新築工事」となっていました。かなり広い大きなものです。
この工事場所のの奥に「武徳館」という建物があります。
ここで多くの武道関係者、子供達が稽古に汗を流します。

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神宮は基本的には霞ヶ浦(内海)側からお参りするように鳥居や門が出来ています。
このため参道は東よりわずかに北(東北東)と地軸の傾き(23.4度)に相当する方向を向いています。

地軸の傾きの方向は5月頃に太陽が昇る方向です。
そのためこの道の行く先から太陽が昇ることを意識したのでしょうか。
この方向はその延長線上に皇居や明治神宮、富士山、伊勢神宮、高千穂などが平面地図上では一直線上に並びます。
(平面地図とあえて表記します。実際は地球は球体ですので、単純ではありません。)

鳥居をくぐり江戸時代に寄進された重文の随神門(楼門)をくぐると、鹿島の森の広い参道が真直ぐに伸びています。

その森の中の参道の手前左側に社務所と神札(しんさつ)授与所があり、右手奥に拝殿とその裏に本殿があります。

こちらは社務所です。比較的こじんまりした作りです。

上の写真は神札(しんさつ)授与所です。巫女さんがお札などを売っています。
多くの剣道や柔道をされている人たちがここを訪れます。

反対側の右手に絵馬などをかける場所とおみくじを売っている場所があります。

さらにその先に鹿島神宮の本殿とその拝殿があります。
よくこの本殿の向き(奥宮も同じ方向)が話題になります。
この神社の出来た時期や役割から蝦夷に備えをするために東北地方(北から少し西向き)を向いて立っていると言われます。
確かに神社をいろいろと見てきましたが、門をくぐってほぼ正面に拝殿が置かれているのが普通です。
それが、入って右に向いてお参りすることになります。
普通は、神社に合祀された境内社などがこのような向きに配置されることは多くありますが、主体の本殿は神様のお通りになる参道に対して真直ぐ置かれているのが普通です。

現在本殿は来年の遷宮に合わせて修理中でしたので詳しく見ることができませんでした。
近づくこともできません。
この本殿と奥宮が水戸から東北地方を向いているのにはもう少し違った意味もあるのかもしれません。
その一つはこの神社が建てられた時はおそらく後に紹介する「御手洗(おみたらし)」の湧き水の方向から入っていて、正面に奥宮があるという流れが昔はあったのだと思います。
そうすれば奥宮の向いている方向が納得いきます。
本殿もこの向いている方向に合わせたのかもしれません。

この建物は仮殿です。拝殿の通りの反対側にあります。
現在本殿は工事中ですので、本殿の神様はこちらに安置されているのでしょう。
しかし、奥宮もありますので、こちらにも神様はおられます。(分霊)

息栖神社、沼尾神社、坂戸神社などの名前が書かれているのが少し気になります。

この仮殿は社務所、神札授与所、宝物館の並びにあります。
宝物館には今回入りませんでしたが、国宝の直刀がおかれています。
先日常陸風土記の1300年記念の行事としてかすみがうら市郷土資料館に行きましたが、このレプリカがおかれていました。
とても長い刀で1.5m以上の長さがあったように思います。
細い刀ですがやはりかなり重たいものです。

宝物館とこの仮殿の間の奥に現在立派な建物を建設中でした。
「祈祷殿ならびに社務所新築工事」となっていました。かなり広い大きなものです。
この工事場所のの奥に「武徳館」という建物があります。
ここで多くの武道関係者、子供達が稽古に汗を流します。



鹿島神宮(5)-要石
常陸国は昔から地震が多い土地とされている。
しかし、大きな被害が起きていないとされてきた。
そのため、この鹿島神宮の祭神(武神)タケミカヅチが日本列島で地震が起こる元凶とされるオオナマズを要石で押さえつけているからだといううわさが広がった。
ナマズが騒ぐと地震になると言うのはそんなに古い話とは思われない。多分江戸時代になってからいつの間にか広まっていったものだと思う。
奥宮から右手に曲がって要石の方向に進むと、鹿島の神が大ナマズ頭を剣で押さえつけている石板がおかれています。
このまま真直ぐ行くと要石へ、右に曲がると東雄桜の方に行きます。

「揺ぐともよもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」
これは江戸時代の末期安政の大地震(1855年)で江戸は大騒ぎになります。
ペリーが黒船で浦賀にやって来て、日米和親条約が結ばれた後にすぐ「東海地震」「南海地震」と続きました。
そこに江戸中がひっくり返るほどの安政地震です。
もっとも安政というのも災害が続いたので年号を変更したものです。
地震が起こったのが10月=神無月であったため、神様が留守にしたために地震が起こったという話がもちきりとなりました。
地震お守りの札が江戸の町で飛ぶように売れたようです。
その時のお守りの一部を下記に参考に載せます。


参考までに、私のホームページに「鹿島神宮の要石の謎」というテーマでむかし記事を書いています。(こちら)
また香取神宮の要石はこちらでブログに載せました。

ここが鹿島神宮の要石の場所です。小中学生の子供たちがやって来ていましたが、「なんだ?」というような顔をしていました。

それはそうですよ。単にこれくらいの石が顔を覗かしているだけです。
水戸黄門さんが7日かけて掘らせたが、そこが大きな石であきらめたとか。
どこまで本当化はわかりませんが、鹿島と香取の要石が底でつながっているなどと言うことも言われています。
でも確認は一度もされていないようです。


「大地震(おおなゐ)にびくともせぬや松の花 一茶」
大地震と書いて、昔は「おおなゐ」と読んだようだ。

芭蕉句碑 「枯枝に鴉(あ)のとまりけり穐(あき)の暮」
何故この句がこの要石のそばに置かれているのかは不明でした。
でも枯枝にカラスがとまっている秋の夕暮れの風景がこの場所に合うということなのでしょうね。
← よろしければクリックお願いします。
しかし、大きな被害が起きていないとされてきた。
そのため、この鹿島神宮の祭神(武神)タケミカヅチが日本列島で地震が起こる元凶とされるオオナマズを要石で押さえつけているからだといううわさが広がった。
ナマズが騒ぐと地震になると言うのはそんなに古い話とは思われない。多分江戸時代になってからいつの間にか広まっていったものだと思う。
奥宮から右手に曲がって要石の方向に進むと、鹿島の神が大ナマズ頭を剣で押さえつけている石板がおかれています。
このまま真直ぐ行くと要石へ、右に曲がると東雄桜の方に行きます。

「揺ぐともよもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」
これは江戸時代の末期安政の大地震(1855年)で江戸は大騒ぎになります。
ペリーが黒船で浦賀にやって来て、日米和親条約が結ばれた後にすぐ「東海地震」「南海地震」と続きました。
そこに江戸中がひっくり返るほどの安政地震です。
もっとも安政というのも災害が続いたので年号を変更したものです。
地震が起こったのが10月=神無月であったため、神様が留守にしたために地震が起こったという話がもちきりとなりました。
地震お守りの札が江戸の町で飛ぶように売れたようです。
その時のお守りの一部を下記に参考に載せます。


参考までに、私のホームページに「鹿島神宮の要石の謎」というテーマでむかし記事を書いています。(こちら)
また香取神宮の要石はこちらでブログに載せました。

ここが鹿島神宮の要石の場所です。小中学生の子供たちがやって来ていましたが、「なんだ?」というような顔をしていました。

それはそうですよ。単にこれくらいの石が顔を覗かしているだけです。
水戸黄門さんが7日かけて掘らせたが、そこが大きな石であきらめたとか。
どこまで本当化はわかりませんが、鹿島と香取の要石が底でつながっているなどと言うことも言われています。
でも確認は一度もされていないようです。


「大地震(おおなゐ)にびくともせぬや松の花 一茶」
大地震と書いて、昔は「おおなゐ」と読んだようだ。

芭蕉句碑 「枯枝に鴉(あ)のとまりけり穐(あき)の暮」
何故この句がこの要石のそばに置かれているのかは不明でした。
でも枯枝にカラスがとまっている秋の夕暮れの風景がこの場所に合うということなのでしょうね。


鹿島神宮(6)-鹿苑と東雄桜
鹿島神宮の本殿前を過ぎて奥宮に向かう参道の中間の左手に「鹿苑」右側に「東雄桜」への入口石碑がある。
鹿島神宮は鹿と書くように鹿を神格化し大切にしている。

この鹿島の森の参道を200m程進んだところに鹿苑がある。

この鹿苑には30頭近くの鹿が飼育されているという。最初は数頭が見えていたが、帰りに寄った時は10頭以上が出てきていた。

ここの鹿は奈良のように外に出てきてはいないが、人懐こそうにヘンスに近づくと寄って来た。

ここに書かれているように奈良公園の鹿はここから運ばれたと思われる。
この鹿島神宮の神官でもあった中臣氏(中臣の名前は神と人の間を取りもつ?)は阿波の忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった重要な豪族であった。
藤原氏の祖である中臣鎌足本人がが鹿島地方の出身であったかどうかははっきりしないが、中臣家にとってはこの鹿島神宮はとても重要な神社であった。
そのため、この神宮の摂社の一つである「坂戸神社」は中冨氏の祖と言割れている「天児屋命(あめのこやねのみこと)」を祀っている。
この辺りの事はもう少し調べたり実際に訪れてみないとイメージもわかないのでまた後で書けたらと思う。
中臣鎌足(藤原鎌足)の子「藤原不比等」が藤原家の象徴として奈良の春日大社を建てたが、鹿島神宮の祭神である武甕槌(タケミカヅチ)が白鹿に乗って春日山に舞い降りたとされる(768年)。
鹿島は昔は香島と書いていたが、常陸風土記の中では香島の大神として表記されている以外はこのころにはすでに「鹿島」と書かれているものも多くこれが中国での白鹿信仰ともつながっているのだろう。
また、「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。
この鹿の移動は陸路で送られたようです。鹿島神宮の上の写真の説明板によれば、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っていると書かれています。
この鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると書かれています。
また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。
春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。
しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。

君が代に出てくる「さざれ石」です。

石岡の周りでも何度か書いていますが親鸞聖人は稲田の草庵からよく鹿島神宮に来たと言われています。
その頃には中国の経典や、いろいろな書物などはここに来ればある程度読む事が出来たのでしょう。
このあたりでも「経塚」(参考:こちら)があったようです。
小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一字づつ書いて埋めたのでしょう。

鹿苑から奥宮へ向かう途中に「熱田社」(境内社)が祀られていました。

参道の奥宮に向かって左手に鹿苑がありますが、反対の右手の森に分け入っていく細い道の入口に「東雄桜」の石碑がおかれています。
しかし、これに気がつく人はほとんどいないと思います。
字はかすれほとんど読めません。

奥宮から要石のある方向に進むと森の中の広い道が横切っています。
その案内板に右方向に「東雄桜(あずまおさくら)200m」の案内があります。
東雄は石岡の人は少し知っていても、一般にはあまり知る人が少ないでしょう。
佐久良東雄については前に書いた記事( 生家、墓)を参照下さい。

東雄は土浦の豪商色川三中とともにここの鹿島神宮に詣でて桜の木を1000本寄進している。
でもどこにも桜の木が見当たらない。
また復元するために植えているらしいのだが・・・

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鹿島神宮は鹿と書くように鹿を神格化し大切にしている。

この鹿島の森の参道を200m程進んだところに鹿苑がある。

この鹿苑には30頭近くの鹿が飼育されているという。最初は数頭が見えていたが、帰りに寄った時は10頭以上が出てきていた。

ここの鹿は奈良のように外に出てきてはいないが、人懐こそうにヘンスに近づくと寄って来た。

ここに書かれているように奈良公園の鹿はここから運ばれたと思われる。
この鹿島神宮の神官でもあった中臣氏(中臣の名前は神と人の間を取りもつ?)は阿波の忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった重要な豪族であった。
藤原氏の祖である中臣鎌足本人がが鹿島地方の出身であったかどうかははっきりしないが、中臣家にとってはこの鹿島神宮はとても重要な神社であった。
そのため、この神宮の摂社の一つである「坂戸神社」は中冨氏の祖と言割れている「天児屋命(あめのこやねのみこと)」を祀っている。
この辺りの事はもう少し調べたり実際に訪れてみないとイメージもわかないのでまた後で書けたらと思う。
中臣鎌足(藤原鎌足)の子「藤原不比等」が藤原家の象徴として奈良の春日大社を建てたが、鹿島神宮の祭神である武甕槌(タケミカヅチ)が白鹿に乗って春日山に舞い降りたとされる(768年)。
鹿島は昔は香島と書いていたが、常陸風土記の中では香島の大神として表記されている以外はこのころにはすでに「鹿島」と書かれているものも多くこれが中国での白鹿信仰ともつながっているのだろう。
また、「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。
この鹿の移動は陸路で送られたようです。鹿島神宮の上の写真の説明板によれば、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っていると書かれています。
この鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると書かれています。
また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。
春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。
しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。

君が代に出てくる「さざれ石」です。

石岡の周りでも何度か書いていますが親鸞聖人は稲田の草庵からよく鹿島神宮に来たと言われています。
その頃には中国の経典や、いろいろな書物などはここに来ればある程度読む事が出来たのでしょう。
このあたりでも「経塚」(参考:こちら)があったようです。
小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一字づつ書いて埋めたのでしょう。

鹿苑から奥宮へ向かう途中に「熱田社」(境内社)が祀られていました。

参道の奥宮に向かって左手に鹿苑がありますが、反対の右手の森に分け入っていく細い道の入口に「東雄桜」の石碑がおかれています。
しかし、これに気がつく人はほとんどいないと思います。
字はかすれほとんど読めません。

奥宮から要石のある方向に進むと森の中の広い道が横切っています。
その案内板に右方向に「東雄桜(あずまおさくら)200m」の案内があります。
東雄は石岡の人は少し知っていても、一般にはあまり知る人が少ないでしょう。
佐久良東雄については前に書いた記事( 生家、墓)を参照下さい。

東雄は土浦の豪商色川三中とともにここの鹿島神宮に詣でて桜の木を1000本寄進している。
でもどこにも桜の木が見当たらない。
また復元するために植えているらしいのだが・・・



鹿島神宮(7)-奥宮
今日も朝から出かけており、今帰ってきました。
今日はもう秋の気配がして気持ちの良い気候でした。
風も弱く霞ヶ浦の湖面は小さなさざ波が立つ程度で、太陽の光がキラキラと反射して輝いていました。
空にはうろこ雲です。林の中ではツクツク法師が盛んに鳴きはじめました。

今日も、鹿島神宮の紹介の続きです。9月1日・2日は鹿島神宮の祭礼がおこなわれるようです。
十二年祭は来年ですが、今年もお祭りは賑わうようです。
本殿から鹿苑横を通って広い参道が突き当たった右側に奥宮がおかれています。
この突きあたりを左に下れば「御手洗(おみたらし)池」へ、右に行くと要石の行きます。

上の写真で右側に樹木の先に奥宮が隠れ見えます。

奥宮は、徳川家康が慶長10年(1605)に本殿の建物として奉納し、元和5年(1619)に二代将軍秀忠が新しい本殿を奉納したために、家康の社殿を現在の場所に移して「奥宮」として祀ったものだそうです。

しかし、今の本殿のある場所より、よりパワーを感じることができる場所にあるように思います。
鹿島神宮が出来たのはこの場所にきれいな湧水が豊富にあったからだと考えるのが普通だと思います。
それが御手洗池であり、昔はこちらで禊をして身を清めてお参りしたとすると、お宮の場所としてはこの場所が適しているようです。

思ったよりこじんまりした社殿です。
しかし400年の歳月が建つと思えばまた思いも違ってきます。
造りは「安土桃山様式」の建造物だそうです。(国の重要文化財)


ちょうど裏手のご神木の杉の木は奥宮の塀に食い込むように伸びておりました。
この神木はきっとパワースポットなのでしょうね。

昔の参道である御手洗池の方から登って来た時に目にする奥宮のたたずまい。
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今日はもう秋の気配がして気持ちの良い気候でした。
風も弱く霞ヶ浦の湖面は小さなさざ波が立つ程度で、太陽の光がキラキラと反射して輝いていました。
空にはうろこ雲です。林の中ではツクツク法師が盛んに鳴きはじめました。

今日も、鹿島神宮の紹介の続きです。9月1日・2日は鹿島神宮の祭礼がおこなわれるようです。
十二年祭は来年ですが、今年もお祭りは賑わうようです。
本殿から鹿苑横を通って広い参道が突き当たった右側に奥宮がおかれています。
この突きあたりを左に下れば「御手洗(おみたらし)池」へ、右に行くと要石の行きます。

上の写真で右側に樹木の先に奥宮が隠れ見えます。

奥宮は、徳川家康が慶長10年(1605)に本殿の建物として奉納し、元和5年(1619)に二代将軍秀忠が新しい本殿を奉納したために、家康の社殿を現在の場所に移して「奥宮」として祀ったものだそうです。

しかし、今の本殿のある場所より、よりパワーを感じることができる場所にあるように思います。
鹿島神宮が出来たのはこの場所にきれいな湧水が豊富にあったからだと考えるのが普通だと思います。
それが御手洗池であり、昔はこちらで禊をして身を清めてお参りしたとすると、お宮の場所としてはこの場所が適しているようです。

思ったよりこじんまりした社殿です。
しかし400年の歳月が建つと思えばまた思いも違ってきます。
造りは「安土桃山様式」の建造物だそうです。(国の重要文化財)


ちょうど裏手のご神木の杉の木は奥宮の塀に食い込むように伸びておりました。
この神木はきっとパワースポットなのでしょうね。

昔の参道である御手洗池の方から登って来た時に目にする奥宮のたたずまい。


鹿島神宮(8)-御手洗池
奥宮のところを左に行くと急な下り坂となります。

そして下ったところに御手洗(みたらし)池があります。
この池の言い伝えとしては、子供でも大人でも中に入ると乳の高さなのだそうです。

まあ、でも毎年大寒(1月20日頃)に褌姿(女性は白装束)でこの池には行って身を清める大寒禊(たいかんみそぎ)の儀式が行われています。

ここの湧き水は今でもかなりの水量の水が流れています。
この水をすくって飲むこともできます。

この鹿島神宮がこの場所にできたというのは、この清らかで豊富な湧き水があったということが大きな意味が持っていたと思われます。

最初の頃は神宮の参拝はこちらから入って来て、この水で手や体を清めてから参拝したようです。
この日は、池に落ちた枯れ葉やごみを取り除くために網で取り除いていました。

さて、この池の昔の参道側にも鳥居があったようです。
こちらも地震で倒れてしまったのでしょうか。
元の鳥居があった基盤の上に土を盛ってあります。
両側にありますので多分鳥居でしょう。
一つで砂が盛ってあるならまた別な意味があると思います。

池の脇には茶屋があります。みたらし団子もあります。

この池の脇にある境内社ですが、祭られているのは大国主命です。(大国社)
大国主も鹿島では本殿の近くには祭られずに、このようなところにあるのですね。なるほどね。

本当はこれくらいで鹿島神宮の紹介も終わる予定でしたが、書いているうちに気になることがいくつか出てきました。
もう少し気になることを調べて、足を運んでみてまた書いておきたいと思います。
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そして下ったところに御手洗(みたらし)池があります。
この池の言い伝えとしては、子供でも大人でも中に入ると乳の高さなのだそうです。

まあ、でも毎年大寒(1月20日頃)に褌姿(女性は白装束)でこの池には行って身を清める大寒禊(たいかんみそぎ)の儀式が行われています。

ここの湧き水は今でもかなりの水量の水が流れています。
この水をすくって飲むこともできます。

この鹿島神宮がこの場所にできたというのは、この清らかで豊富な湧き水があったということが大きな意味が持っていたと思われます。

最初の頃は神宮の参拝はこちらから入って来て、この水で手や体を清めてから参拝したようです。
この日は、池に落ちた枯れ葉やごみを取り除くために網で取り除いていました。

さて、この池の昔の参道側にも鳥居があったようです。
こちらも地震で倒れてしまったのでしょうか。
元の鳥居があった基盤の上に土を盛ってあります。
両側にありますので多分鳥居でしょう。
一つで砂が盛ってあるならまた別な意味があると思います。

池の脇には茶屋があります。みたらし団子もあります。

この池の脇にある境内社ですが、祭られているのは大国主命です。(大国社)
大国主も鹿島では本殿の近くには祭られずに、このようなところにあるのですね。なるほどね。

本当はこれくらいで鹿島神宮の紹介も終わる予定でしたが、書いているうちに気になることがいくつか出てきました。
もう少し気になることを調べて、足を運んでみてまた書いておきたいと思います。


鹿島神宮(9)-三笠神社と高房神社
鹿島神宮に詣でてみて何か特別な思いがするのはなぜなのでしょう。
日本の建国にあたって特別に功労のあった武人「タケミカヅチ」を祀っているのはどのような意味があるのでしょうか。
また、藤原氏が台頭した時にこの鹿島神宮を第一位の氏神として春日山に迎えたのにはどのような思い入れがあったのでしょう。
徳川の世になっても家康は社殿を寄進してこの鹿島の森に特別な霊地として取り扱っているのです。
鹿島の地はどのように成り立ってきたのでしょうか?
その鍵はこの神社の摂社といわれる神社を紐解けば少し見えてきそうです。
さて、鹿島神宮の摂社は神宮のホームページによれば、「沼尾神社、坂戸神社、跡宮、息栖神社、奥宮、高房神社、三笠神社」の七社あると言います。
この中で、この鹿島神宮境内にあるのは奥宮(おくのみや)と高房(たかふさ)神社、三笠(みかさ)神社の三社です。その他に沼尾(ぬまお)神社と坂戸(さかと)神社の遙拝所があります。
奥宮はこの鹿島神宮の祭神である武甕槌大神の荒魂を祀っており、先日紹介しました(こちら)。
今日は本殿のすぐ近くにある「三笠神社」と仮殿の前にある「高房神社」を紹介しておきたいと思います。

こちらが三笠神社です。
現在本殿が修理中でこの三笠神社の前も入ることができません。
写真の右手(西側)に本殿があり、本殿を向いて建っています。
この神社の建物も比較的新しいようです。昔の写真を見るともっと大分小さなものだったようです。

もう一つの高房神社というのは、楼門をはいって真直ぐ参道の左側に楼門(随神門)の方(西)を向いて建っています。
この左手が仮殿です。仮殿は本殿の方を向いて(向かい合わせで)建っています。

上の写真は右が高房神社で左が仮殿です。
もともと20年に一度本殿は建てなおしたり修理してきました。その間本殿の神魂は仮殿に御移りになられるのですが、この仮殿の位置は何度も変更になったようです。
昔は楼門をはいって正面にこの仮殿がおかれたこともあったと書かれていました。
さて、ではこの二つの神社と鹿島神宮のかかわりはどんなことになっているのでしょうか。
それにはこれらの神社に祭られている祭神をみてみるとなんとなくわかってきそうです。
まず、三笠神社ですが祀られているのは「三笠神(みかさのかみ)」となっており、神宮のホームページの説明では、昔から良くわからない摂社で、江戸時代までは「甲神社」と呼ばれていたとあります。
また、「古い記録には「甲宮三笠大明神とも申し奉る。または山の神とも申す。地守の神なり」とあり、三笠山の名前は、奈良の春日へ御分霊奉遷のとき一緒に遷って奈良の「御蓋山」(みかさやま)となったと伝えられています。」 と書かれています。
この鹿島神宮創建の時に、この鹿島の森は三笠山と称されており、そこに鎮座していた神社のようです。
いわゆる鎮守の森の神なのでしょう。
遣唐使として中国の唐に派遣された阿倍仲麻呂は遠く異国の地でふるさとの方を眺めながら詠んだと言われる
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
の歌は当時の情勢ならば当然都である奈良の春日、三笠山でしょう。でもその故郷はこの鹿島の地にあるのです。
もう一つの高房神社は常陸国二の宮である「静(しず)神社」と深くかかわっています。
祭神は「建葉槌神(たけはづちのかみ)」です。
日本建国時にこの鹿島・香取の地を制圧して大和朝廷はさらに北を目指しました。
しかし、北の方には星を祀る信仰を持った一族が住んでいました。
「天香香背男(あめのかがせお)」です。
恐らくこの香香背男はこの霞ヶ浦周辺にも住んでおり、タケミカヅチや黒坂命などにより北に追い詰められていったのでしょう。
タケミカヅチの武力でも制圧できない大きな力を持っていました。このため、この天香香背男を倒すために「建葉槌(たけはづち)」が使わされました。
そして、当時は日立市の手前の「大甕(おおみか)」近辺に香香背男という蝦夷の大きな勢力が存在していたのでしょう。
建葉槌はこの大甕で星を信仰していた部族「香香背男」を制圧したのです。
そして「大甕神社」にこの建葉槌神(たけはづちのかみ)が祀られました。
この建葉槌神はまた「倭文神(しずりのかみ)」とも呼ばれ、織物の神様としても知られます。
この倭文神として祀られているのが常陸国二の宮である「静神社」なのです。
また倭文(しずり)の神社の系列を見ていくと阿波忌部の祖神「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」とどうもつながってくるのは何で何でしょうか。
常陸国の那珂川の入口にある「大洗磯前神社」にも祀られ、またスクナヒコナを祀る神社が酒列磯前神社、阿波山上神社などの神社が並ぶのも何か関係があるのかもしれません。
まあ今回は気がついた所だけをかいつまんで記しておきます。そのうちに関係が見えてくるでしょう。
静神社の紹介:その一、その二
また、東国三社といわれる残りの神社の紹介はこちらで一度書いています。
息栖神社:その一、その二、その三
香取神宮:その一、その二、その三、その四、その五
← よろしければクリックお願いします。
日本の建国にあたって特別に功労のあった武人「タケミカヅチ」を祀っているのはどのような意味があるのでしょうか。
また、藤原氏が台頭した時にこの鹿島神宮を第一位の氏神として春日山に迎えたのにはどのような思い入れがあったのでしょう。
徳川の世になっても家康は社殿を寄進してこの鹿島の森に特別な霊地として取り扱っているのです。
鹿島の地はどのように成り立ってきたのでしょうか?
その鍵はこの神社の摂社といわれる神社を紐解けば少し見えてきそうです。
さて、鹿島神宮の摂社は神宮のホームページによれば、「沼尾神社、坂戸神社、跡宮、息栖神社、奥宮、高房神社、三笠神社」の七社あると言います。
この中で、この鹿島神宮境内にあるのは奥宮(おくのみや)と高房(たかふさ)神社、三笠(みかさ)神社の三社です。その他に沼尾(ぬまお)神社と坂戸(さかと)神社の遙拝所があります。
奥宮はこの鹿島神宮の祭神である武甕槌大神の荒魂を祀っており、先日紹介しました(こちら)。
今日は本殿のすぐ近くにある「三笠神社」と仮殿の前にある「高房神社」を紹介しておきたいと思います。

こちらが三笠神社です。
現在本殿が修理中でこの三笠神社の前も入ることができません。
写真の右手(西側)に本殿があり、本殿を向いて建っています。
この神社の建物も比較的新しいようです。昔の写真を見るともっと大分小さなものだったようです。

もう一つの高房神社というのは、楼門をはいって真直ぐ参道の左側に楼門(随神門)の方(西)を向いて建っています。
この左手が仮殿です。仮殿は本殿の方を向いて(向かい合わせで)建っています。

上の写真は右が高房神社で左が仮殿です。
もともと20年に一度本殿は建てなおしたり修理してきました。その間本殿の神魂は仮殿に御移りになられるのですが、この仮殿の位置は何度も変更になったようです。
昔は楼門をはいって正面にこの仮殿がおかれたこともあったと書かれていました。
さて、ではこの二つの神社と鹿島神宮のかかわりはどんなことになっているのでしょうか。
それにはこれらの神社に祭られている祭神をみてみるとなんとなくわかってきそうです。
まず、三笠神社ですが祀られているのは「三笠神(みかさのかみ)」となっており、神宮のホームページの説明では、昔から良くわからない摂社で、江戸時代までは「甲神社」と呼ばれていたとあります。
また、「古い記録には「甲宮三笠大明神とも申し奉る。または山の神とも申す。地守の神なり」とあり、三笠山の名前は、奈良の春日へ御分霊奉遷のとき一緒に遷って奈良の「御蓋山」(みかさやま)となったと伝えられています。」 と書かれています。
この鹿島神宮創建の時に、この鹿島の森は三笠山と称されており、そこに鎮座していた神社のようです。
いわゆる鎮守の森の神なのでしょう。
遣唐使として中国の唐に派遣された阿倍仲麻呂は遠く異国の地でふるさとの方を眺めながら詠んだと言われる
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
の歌は当時の情勢ならば当然都である奈良の春日、三笠山でしょう。でもその故郷はこの鹿島の地にあるのです。
もう一つの高房神社は常陸国二の宮である「静(しず)神社」と深くかかわっています。
祭神は「建葉槌神(たけはづちのかみ)」です。
日本建国時にこの鹿島・香取の地を制圧して大和朝廷はさらに北を目指しました。
しかし、北の方には星を祀る信仰を持った一族が住んでいました。
「天香香背男(あめのかがせお)」です。
恐らくこの香香背男はこの霞ヶ浦周辺にも住んでおり、タケミカヅチや黒坂命などにより北に追い詰められていったのでしょう。
タケミカヅチの武力でも制圧できない大きな力を持っていました。このため、この天香香背男を倒すために「建葉槌(たけはづち)」が使わされました。
そして、当時は日立市の手前の「大甕(おおみか)」近辺に香香背男という蝦夷の大きな勢力が存在していたのでしょう。
建葉槌はこの大甕で星を信仰していた部族「香香背男」を制圧したのです。
そして「大甕神社」にこの建葉槌神(たけはづちのかみ)が祀られました。
この建葉槌神はまた「倭文神(しずりのかみ)」とも呼ばれ、織物の神様としても知られます。
この倭文神として祀られているのが常陸国二の宮である「静神社」なのです。
また倭文(しずり)の神社の系列を見ていくと阿波忌部の祖神「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」とどうもつながってくるのは何で何でしょうか。
常陸国の那珂川の入口にある「大洗磯前神社」にも祀られ、またスクナヒコナを祀る神社が酒列磯前神社、阿波山上神社などの神社が並ぶのも何か関係があるのかもしれません。
まあ今回は気がついた所だけをかいつまんで記しておきます。そのうちに関係が見えてくるでしょう。
静神社の紹介:その一、その二
また、東国三社といわれる残りの神社の紹介はこちらで一度書いています。
息栖神社:その一、その二、その三
香取神宮:その一、その二、その三、その四、その五


鹿島神宮(10)-跡宮
鹿島神宮の摂社で、昨日は境内にある三笠神社と高房神社を紹介しました。
今日は神宮の森の南側の一の鳥居の近くにある「跡宮(あとのみや)を紹介します。
YAHOOの地図などではこの神社は載っていません。
神宮の南側の鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行くと鹿島の高台の先端部分の右側に鎮座しています。

鹿島小学校横の道はこんな道路です。跡宮の場所からふり返ってところです。
跡宮は上の写真の左側です。

これが跡宮への入口です。
この鳥居の先の右側です。
左側は住宅が立ち並んでいます。

この跡宮の先はすぐに急な下り坂となって一の鳥居などがある霞ヶ浦の北浦にでます。

入口にひっそりと「跡宮」の石柱が立っています。
ここで一礼して先に進んでみましょう。

少し進んだところの右側に神社の鳥居と参道の先に神社の拝殿が見えます。

説明は上記の通りです。クリックするとすこし大きくなります。
ここでは祭神は神宮の奥宮と同じく武甕槌大神の荒魂を祀ると書かれていますが、神宮のホームページでは「武甕槌大神」を祀るとされています。
上の説明看板は大分新しいもののようです。今年または昨年に立て替えられたもののようです。
従って、説明もあまりネットでは書かれていませんので興味がおありの方は拡大して読んでみて下さい。
昔この場所には物忌(ものいみ)の童女(選ばれた神事をつかさどる少女たち)が住んでいたようです。
神聖な穢れのない少女を選び神に仕えさせ、神宮内でも神聖な場所へは男子が入れない所などもあり、この物忌の少女がいろいろな役目や神事を行っていたようです。
これは鹿島神宮の元宮ともいわれている「大生神社」の神事などで少女が選ばれたり、石岡でも染谷佐志能神社の十二座神楽などで少女が選ばれるのと似ています。

この跡宮の説明では鹿島の大神が最初にここに降臨された場所で、その後の奈良の春日山に大神が出発する時もこの場所から発ったとされているようです。

神社の社殿は拝殿・本殿の区別がない一体のものです。

この神社の脇の空き地に木の柵で囲われた場所がありました。

ここは何をする場所なのでしょうか。四角い石が並べられており、ここに祭時の祭に何かを建てるのでしょうか。
鹿島の大神が降臨し、また春日へ出発した時に出立した場所というこの名のかもしれません。

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今日は神宮の森の南側の一の鳥居の近くにある「跡宮(あとのみや)を紹介します。
YAHOOの地図などではこの神社は載っていません。
神宮の南側の鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行くと鹿島の高台の先端部分の右側に鎮座しています。

鹿島小学校横の道はこんな道路です。跡宮の場所からふり返ってところです。
跡宮は上の写真の左側です。

これが跡宮への入口です。
この鳥居の先の右側です。
左側は住宅が立ち並んでいます。

この跡宮の先はすぐに急な下り坂となって一の鳥居などがある霞ヶ浦の北浦にでます。

入口にひっそりと「跡宮」の石柱が立っています。
ここで一礼して先に進んでみましょう。

少し進んだところの右側に神社の鳥居と参道の先に神社の拝殿が見えます。

説明は上記の通りです。クリックするとすこし大きくなります。
ここでは祭神は神宮の奥宮と同じく武甕槌大神の荒魂を祀ると書かれていますが、神宮のホームページでは「武甕槌大神」を祀るとされています。
上の説明看板は大分新しいもののようです。今年または昨年に立て替えられたもののようです。
従って、説明もあまりネットでは書かれていませんので興味がおありの方は拡大して読んでみて下さい。
昔この場所には物忌(ものいみ)の童女(選ばれた神事をつかさどる少女たち)が住んでいたようです。
神聖な穢れのない少女を選び神に仕えさせ、神宮内でも神聖な場所へは男子が入れない所などもあり、この物忌の少女がいろいろな役目や神事を行っていたようです。
これは鹿島神宮の元宮ともいわれている「大生神社」の神事などで少女が選ばれたり、石岡でも染谷佐志能神社の十二座神楽などで少女が選ばれるのと似ています。

この跡宮の説明では鹿島の大神が最初にここに降臨された場所で、その後の奈良の春日山に大神が出発する時もこの場所から発ったとされているようです。

神社の社殿は拝殿・本殿の区別がない一体のものです。

この神社の脇の空き地に木の柵で囲われた場所がありました。

ここは何をする場所なのでしょうか。四角い石が並べられており、ここに祭時の祭に何かを建てるのでしょうか。
鹿島の大神が降臨し、また春日へ出発した時に出立した場所というこの名のかもしれません。



鹿島神宮(11)-香島大神
明日・明後日(9/1・2)は鹿島神宮はお祭りのようですね。
先日訪れた時にはあちこちに紙が貼られていました。
1300年前にまとめられた常陸国風土記の「香島郡」については次のように書かれています。
「難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上国造の領内である軽野より南の一里と、那賀国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸社と、沼尾社の三つをあはせて、香島の大神と称する」
これが香島郡の起こりだと言うのです。兎上(海上)国の一部(一里)と那珂(仲)国の一部(五里)を合併して中臣氏などの治める地(神郡)としたようです。
中臣氏は藤原氏の祖です。
この鹿島郡が神郡(かみのこおり/しんぐん)として成立したのは大化5年(649年)とされています。
神郡は普通の郡とは違い、神社が治めている神の地域のことで、延喜式(927年成立)に書かれた神宮という称号を持った3つの神社(伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮)の領域が最初(649年)に神の郡として定められたようです。
その後、各地に神郡が出来てきたが、大社と呼ばれる主な場所は次の7つです。諏訪大社を入れれば8つか?
伊勢神宮:伊勢国度会郡・多気郡・飯野郡・(員弁・朝明・三重・安濃・飯高)
鹿島神宮:常陸国鹿島郡
香取神社:下総国香取郡
安房神社:安房国安房郡
日前神社・国懸神社:紀伊国名草郡
熊野神社・杵築(きづき)大社(出雲大社):出雲国意宇郡
宗像大社:筑前国宗像郡
伊勢神社の神郡は649年の成立後、渡相郡・竹郡に分割(後に度会郡・多気郡と改称)され、664年に多気郡から飯野郡を分割。その後徐々に追加され、員弁(940年)・三重(962年)・安濃(974年)・朝明(1020年)・飯高(1185年)が追加され「神八郡」となった。
このように、律令制時代から税の重圧に悩むところは、神の領地に入りたいところは続出したようです。
江戸時代になってからもこれらの神域に御朱印を与え、保護されてきました。
伊勢神宮(42000石)、春日大社(22000石)、日光東照宮(10000石)、石清水八幡宮(6757石)、出雲大社(5000石)、駿河東照宮(3000石)、加茂御祖神社(2700石)、住吉神社(2116石)、鹿島神宮(2000石)、大宰府天満宮(2000石)、宇都宮二荒神社(1700石)、新宮惣社(1320石)、津島神社(1293石)、金峰蔵王神社(1013石)、香取神宮、戸隠神社、諏訪神社、南社宮、熊野三社、宇佐八幡宮(それぞれ1000石)など。
神郡の歴史などはまた掘り下げるとして、今回は鹿島神宮の成立時にこの地に鎮座する天つ大神の社、坂戸社、沼尾社の三つをあはせて、香島の大神としたとあります。
このため、今の鹿島神宮の場所にあるのは「天つ大神の社」であったということになり、これが先日書いた「三笠神社」なのでしょうか?
では神の郡としてまとめて論じられている鹿島神宮の2つの摂社「坂戸社」「沼尾社」を見ていきたいと思います。
この2社は現在も存続していて「坂戸神社」と「沼尾神社」として祀られています。
この3つの神社の位置関係を下に示します。

この3つの神社はほぼ一直線に並んでおり、鹿島神宮の本殿の向きとほぼ一致しています。
それぞれの神社はそれほど立派なものとはいえませんが、古代からの深いつながりが保たれ、神秘的な雰囲気の場所です。先日訪ねてみましたのでこの後から紹介します。
この祭神については、少し気になります。
鹿島神宮:武甕槌(タケミカヅチ)神
沼尾神社:経津主(フツヌシ)神
坂戸神社:天児屋命(あめのこやねのみこと)
ご存じの通り沼尾神社の祭神である経津主は香取神宮の祭神です。
そして、鹿島神宮の本宮と言われるものが、今の奥宮のところに建てられていたそうです。
徳川家康が鹿島神宮の本殿を寄進し、その後その本殿を奥宮に移したのですが、前からあった本宮はこの沼尾神社の社殿となったと言われています。
それだけ、鹿島神宮とは関係が深い神社です。
ではもう一つの坂戸神社の天児屋命とはどんな神様なのでしょうか?
天岩戸に隠れてしまった天照大神が岩戸を少し開けた時に鏡をさしだした神様だそうです。
児屋(こやね)とは託宣の神の居所だそうです。
それよりもこの神が中臣氏の祖といわれ、春日大社にも祀られて「春日権現」とも呼ばれているのだそうです。
鹿島神宮が中臣=藤原氏の東国における拠点であるのは間違いのないところだと思います。
藤原鎌足(中臣鎌足=中臣鎌子)の父と言われる「中臣御食子(なかとみのみけこ)」はこの鹿島神宮の神官をしていたということの信ぴょう性はかなり高いようです。
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先日訪れた時にはあちこちに紙が貼られていました。
1300年前にまとめられた常陸国風土記の「香島郡」については次のように書かれています。
「難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上国造の領内である軽野より南の一里と、那賀国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸社と、沼尾社の三つをあはせて、香島の大神と称する」
これが香島郡の起こりだと言うのです。兎上(海上)国の一部(一里)と那珂(仲)国の一部(五里)を合併して中臣氏などの治める地(神郡)としたようです。
中臣氏は藤原氏の祖です。
この鹿島郡が神郡(かみのこおり/しんぐん)として成立したのは大化5年(649年)とされています。
神郡は普通の郡とは違い、神社が治めている神の地域のことで、延喜式(927年成立)に書かれた神宮という称号を持った3つの神社(伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮)の領域が最初(649年)に神の郡として定められたようです。
その後、各地に神郡が出来てきたが、大社と呼ばれる主な場所は次の7つです。諏訪大社を入れれば8つか?
伊勢神宮:伊勢国度会郡・多気郡・飯野郡・(員弁・朝明・三重・安濃・飯高)
鹿島神宮:常陸国鹿島郡
香取神社:下総国香取郡
安房神社:安房国安房郡
日前神社・国懸神社:紀伊国名草郡
熊野神社・杵築(きづき)大社(出雲大社):出雲国意宇郡
宗像大社:筑前国宗像郡
伊勢神社の神郡は649年の成立後、渡相郡・竹郡に分割(後に度会郡・多気郡と改称)され、664年に多気郡から飯野郡を分割。その後徐々に追加され、員弁(940年)・三重(962年)・安濃(974年)・朝明(1020年)・飯高(1185年)が追加され「神八郡」となった。
このように、律令制時代から税の重圧に悩むところは、神の領地に入りたいところは続出したようです。
江戸時代になってからもこれらの神域に御朱印を与え、保護されてきました。
伊勢神宮(42000石)、春日大社(22000石)、日光東照宮(10000石)、石清水八幡宮(6757石)、出雲大社(5000石)、駿河東照宮(3000石)、加茂御祖神社(2700石)、住吉神社(2116石)、鹿島神宮(2000石)、大宰府天満宮(2000石)、宇都宮二荒神社(1700石)、新宮惣社(1320石)、津島神社(1293石)、金峰蔵王神社(1013石)、香取神宮、戸隠神社、諏訪神社、南社宮、熊野三社、宇佐八幡宮(それぞれ1000石)など。
神郡の歴史などはまた掘り下げるとして、今回は鹿島神宮の成立時にこの地に鎮座する天つ大神の社、坂戸社、沼尾社の三つをあはせて、香島の大神としたとあります。
このため、今の鹿島神宮の場所にあるのは「天つ大神の社」であったということになり、これが先日書いた「三笠神社」なのでしょうか?
では神の郡としてまとめて論じられている鹿島神宮の2つの摂社「坂戸社」「沼尾社」を見ていきたいと思います。
この2社は現在も存続していて「坂戸神社」と「沼尾神社」として祀られています。
この3つの神社の位置関係を下に示します。

この3つの神社はほぼ一直線に並んでおり、鹿島神宮の本殿の向きとほぼ一致しています。
それぞれの神社はそれほど立派なものとはいえませんが、古代からの深いつながりが保たれ、神秘的な雰囲気の場所です。先日訪ねてみましたのでこの後から紹介します。
この祭神については、少し気になります。
鹿島神宮:武甕槌(タケミカヅチ)神
沼尾神社:経津主(フツヌシ)神
坂戸神社:天児屋命(あめのこやねのみこと)
ご存じの通り沼尾神社の祭神である経津主は香取神宮の祭神です。
そして、鹿島神宮の本宮と言われるものが、今の奥宮のところに建てられていたそうです。
徳川家康が鹿島神宮の本殿を寄進し、その後その本殿を奥宮に移したのですが、前からあった本宮はこの沼尾神社の社殿となったと言われています。
それだけ、鹿島神宮とは関係が深い神社です。
ではもう一つの坂戸神社の天児屋命とはどんな神様なのでしょうか?
天岩戸に隠れてしまった天照大神が岩戸を少し開けた時に鏡をさしだした神様だそうです。
児屋(こやね)とは託宣の神の居所だそうです。
それよりもこの神が中臣氏の祖といわれ、春日大社にも祀られて「春日権現」とも呼ばれているのだそうです。
鹿島神宮が中臣=藤原氏の東国における拠点であるのは間違いのないところだと思います。
藤原鎌足(中臣鎌足=中臣鎌子)の父と言われる「中臣御食子(なかとみのみけこ)」はこの鹿島神宮の神官をしていたということの信ぴょう性はかなり高いようです。


鹿島神宮(12)-沼尾神社
香島の大神は摂社である「沼尾神社」と「坂戸神社」を抜きには考えられないようです。
私が鹿島神宮を紹介するのも3~4回くらいで終わる予定でしたが、さすがに常陸国一の宮です。
1300年前に書かれた常陸国風土記の信太郡のところに、
「榎の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる」
と書かれています。
それは、当時の都からの使者たちは常陸国の入り口で身を清めて、鹿島神宮の方に向かって遙拝したのです。
ですからこの神社が常陸国の中では特別な神社と長い間思われ、慕われで来たのです。
武人の神ではありますが、日本建国の立役者でもあったのです。
私はこの地に平和に暮らしていたであろう縄文人たちを追い出したり、征伐したり、捕えたりした行為そのものは胡麻化そうが好きではありません。
この鹿島神宮の祭神「タケミカヅチ」がどのような人物だったのかが良くわかりません。
常陸国風土記に出てくるのはこれより少し時代が後と思われる「タケカシマ=建借間命」です。
建借間命は常陸国北部の蝦夷達を征服した人物です。そして那珂(仲)国造になっています。
この辺はまたの機会にして、沼尾神社から紹介していきましょう。
この沼尾神社は香取神宮の祭神である「経津主(ふつぬし)神」です。
鹿島郡は北の仲(那珂)郡から5里と南の兎上(海上)郡から1里を割いて作られたと書かれています。
物部の神である経津主は藤原氏が台頭してきていつの間にか表舞台から姿を消していきました。
しかし、中臣氏の氏神は坂戸神社に祭られている「天児屋命(あめのこやねのみこと)」ですから、この沼尾神社が坂戸神社よりも北側にあるのはどういうことなのでしょうか?

この沼尾神社は鹿島神宮から臨海鹿島大洗線の線路にほぼ沿って約3.5kmくらい北にあります。途中に鹿島サッカースタジアムが見えます。
鹿島さくら園という幼稚園の脇をはいって突きあたりです。

このあたりは鬱蒼とした樹は上の方で絡まるように伸びており、神社のパワーを大いに高めています。
夜にでも一人で訪れたら何か妖怪でも上から降ってきそうです。

この沼尾の樹叢は物凄くパワーを貯めています。
木々の中の道を進むと木の鳥居と神社が見えてきます。


社殿の上もこのの樹叢から枝がくねくねとのびて天を覆い隠すようにしていました。

この本殿は元は鹿島神宮の奥宮にあった本宮の建物を移したとなっていましたが、この前の建物は昭和10年代に破壊されたようです。
今の本殿・社殿はその後に再建された新しいものだそうです。

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私が鹿島神宮を紹介するのも3~4回くらいで終わる予定でしたが、さすがに常陸国一の宮です。
1300年前に書かれた常陸国風土記の信太郡のところに、
「榎の浦の津は、東海道常陸路の入り口で、駅家が置かれてゐる。伝駅使(はゆまづかひ)らは、この地に着くと、まづ口と手を洗ひ、東に向き直って香島の大神を遥拝し、そののちに国に入ることができる」
と書かれています。
それは、当時の都からの使者たちは常陸国の入り口で身を清めて、鹿島神宮の方に向かって遙拝したのです。
ですからこの神社が常陸国の中では特別な神社と長い間思われ、慕われで来たのです。
武人の神ではありますが、日本建国の立役者でもあったのです。
私はこの地に平和に暮らしていたであろう縄文人たちを追い出したり、征伐したり、捕えたりした行為そのものは胡麻化そうが好きではありません。
この鹿島神宮の祭神「タケミカヅチ」がどのような人物だったのかが良くわかりません。
常陸国風土記に出てくるのはこれより少し時代が後と思われる「タケカシマ=建借間命」です。
建借間命は常陸国北部の蝦夷達を征服した人物です。そして那珂(仲)国造になっています。
この辺はまたの機会にして、沼尾神社から紹介していきましょう。
この沼尾神社は香取神宮の祭神である「経津主(ふつぬし)神」です。
鹿島郡は北の仲(那珂)郡から5里と南の兎上(海上)郡から1里を割いて作られたと書かれています。
物部の神である経津主は藤原氏が台頭してきていつの間にか表舞台から姿を消していきました。
しかし、中臣氏の氏神は坂戸神社に祭られている「天児屋命(あめのこやねのみこと)」ですから、この沼尾神社が坂戸神社よりも北側にあるのはどういうことなのでしょうか?

この沼尾神社は鹿島神宮から臨海鹿島大洗線の線路にほぼ沿って約3.5kmくらい北にあります。途中に鹿島サッカースタジアムが見えます。
鹿島さくら園という幼稚園の脇をはいって突きあたりです。

このあたりは鬱蒼とした樹は上の方で絡まるように伸びており、神社のパワーを大いに高めています。
夜にでも一人で訪れたら何か妖怪でも上から降ってきそうです。

この沼尾の樹叢は物凄くパワーを貯めています。
木々の中の道を進むと木の鳥居と神社が見えてきます。


社殿の上もこのの樹叢から枝がくねくねとのびて天を覆い隠すようにしていました。

この本殿は元は鹿島神宮の奥宮にあった本宮の建物を移したとなっていましたが、この前の建物は昭和10年代に破壊されたようです。
今の本殿・社殿はその後に再建された新しいものだそうです。



鹿島神宮(13)-坂戸神社
今日はもう一つの摂社「坂戸神社」を紹介します。
中臣氏の氏神である「天児屋根命」を祀る。
藤原氏が奈良に春日大社を建てた時になぜこの天児屋根命を第一にお祭りせずにタケミカヅチなのか。
そんなことを考えてやってきたのですが、何もわかりません。
鹿島神宮から沼尾神社に行くちょうど中間くらいに鎮座しています。鹿島サッカースタジアムの西側です。

昔からあると思われる道を地図をたよりに進とそれ程迷うことなく到着しました。
この手前に案内標識があり、左に曲がったところが入口です。
上の写真の太い2本の木の先が神社への入口です。

鬱蒼とした茂みの入口に灯籠と鳥居があります。

鳥居から先はそれ程奥まってはおらず、神社の社殿が見えます。
また沼尾神社に比べると少し明るいです。

手前が拝殿で、奥に本殿があります。

本殿の屋根も簡素ですが重厚感があります。
入口は少し暗いのですが、中に入ると比較的明るくカラッとしています。





この神社の隣手前の広場に建屋があり、入口に二十三夜の石碑が立っていました。
その建屋の中に壊れた仏像や、このような竜の額がおかれていました。
これらはこの坂戸神社に関係するものなのでしょうか。
中臣氏の氏神である「天児屋根命」を祀る。
藤原氏が奈良に春日大社を建てた時になぜこの天児屋根命を第一にお祭りせずにタケミカヅチなのか。
そんなことを考えてやってきたのですが、何もわかりません。
鹿島神宮から沼尾神社に行くちょうど中間くらいに鎮座しています。鹿島サッカースタジアムの西側です。

昔からあると思われる道を地図をたよりに進とそれ程迷うことなく到着しました。
この手前に案内標識があり、左に曲がったところが入口です。
上の写真の太い2本の木の先が神社への入口です。

鬱蒼とした茂みの入口に灯籠と鳥居があります。

鳥居から先はそれ程奥まってはおらず、神社の社殿が見えます。
また沼尾神社に比べると少し明るいです。

手前が拝殿で、奥に本殿があります。

本殿の屋根も簡素ですが重厚感があります。
入口は少し暗いのですが、中に入ると比較的明るくカラッとしています。





この神社の隣手前の広場に建屋があり、入口に二十三夜の石碑が立っていました。
その建屋の中に壊れた仏像や、このような竜の額がおかれていました。
これらはこの坂戸神社に関係するものなのでしょうか。
鹿島神宮(14)-神宮橋
台風が過ぎ去った後、昨日は夕焼けがきれいに染まりました。
今日もまた雲があかねに染まり、反対側にはもうすぐ満月を迎える月が出ておりました。
中秋の名月は木曜日(9/19)でしょうか。
その頃には月の出も少し遅くなりますのでもっと鮮やかな月となるでしょう。
天気が安定しているので今年は楽しめそうです。
鹿島の記事を少しまた載せます。記事・写真は少し前に訪れた時のものです。
香取や石岡の方から鹿島神宮に入るには国道51号線を潮来を通って入ることになる。
この神宮手前の霞ヶ浦の北浦に橋がかかっていて「神宮橋」という。
通りはバイパス(新道)があり、こちらは「新神宮橋」という。
下の各写真はクリックするとそれぞれもう少し大きな写真になります。

神宮橋とその先「鹿島の地」です。右奥に見えるのが一の鳥居です。

こちらが旧道にかかる「神宮橋」で橋桁が特徴的です。
新しい橋も同じ構造で、2本並ぶと何か特別なものが感じられます。
実はその先にも同じような鉄道の橋があり3本並びます。

これが一の鳥居です。
今年内陸から水の中に再建されました。

「水泳(みづくぐ)る茨城の国」(常陸国風土記:茨城郡)

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今日もまた雲があかねに染まり、反対側にはもうすぐ満月を迎える月が出ておりました。
中秋の名月は木曜日(9/19)でしょうか。
その頃には月の出も少し遅くなりますのでもっと鮮やかな月となるでしょう。
天気が安定しているので今年は楽しめそうです。
鹿島の記事を少しまた載せます。記事・写真は少し前に訪れた時のものです。
香取や石岡の方から鹿島神宮に入るには国道51号線を潮来を通って入ることになる。
この神宮手前の霞ヶ浦の北浦に橋がかかっていて「神宮橋」という。
通りはバイパス(新道)があり、こちらは「新神宮橋」という。
下の各写真はクリックするとそれぞれもう少し大きな写真になります。

神宮橋とその先「鹿島の地」です。右奥に見えるのが一の鳥居です。

こちらが旧道にかかる「神宮橋」で橋桁が特徴的です。
新しい橋も同じ構造で、2本並ぶと何か特別なものが感じられます。
実はその先にも同じような鉄道の橋があり3本並びます。

これが一の鳥居です。
今年内陸から水の中に再建されました。

「水泳(みづくぐ)る茨城の国」(常陸国風土記:茨城郡)



鹿島神宮(15)-境内附郡家跡
今日は東京に車で行って、荷物を積んでとんぼ帰りしてきました。
行先は用賀で行くのに高速も都内は混んでいて3時間以上かかりましたが、帰りは比較的すいていて2時間弱でした。
途中小貝川は台風の雨の影響か水かさも多く、まだ濁った濁流でした。
隅田川はやはりまだ水量も多くスカイツリーを眺めながら今までと少し違った様子を眺めながら在原業平の訪れたであろう1100年程前の渡りがあった頃を少し想像しました。
さて、今日の記事は鹿島神宮シリーズの最後になります。
「鹿島神宮境内附郡家跡」(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)と国の史跡に登録されている場所が神宮の南にある。
周りは住宅街だが、一帯は空き地となった場所に案内板が置かれていた。

この場所に昔の鹿島郡の郡衙(役所のような機能を持つ建物群のあった場所)があったという。
常陸国風土記では「香島郡」と書かれている。
説明によれば「昭和54年度~昭和63年度にかけて実施された発掘調査によって、郡庁並びに正倉院が検出され、鹿島郡家跡と断定された遺跡であり、日本歴史上、重要な遺跡である」となっている。

鹿島神宮の摂社である「沼尾神社」「坂戸神社」と神宮を結ぶ直線上にこの郡家跡が並んでいる。
国の史跡はこの4か所を含む領域をまとめて指定されたもので、「沼尾神社境内・坂戸神社境内・鹿島神宮境内・鹿島郡家跡」全部をまとめた史跡指定になっている。


上の説明では、この場所に奈良時代から平安時代にかけて鹿島郡の郡家があったと書かれている。
しかし、調べて見ると、常陸国風土記の記述では
「社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。翁のいふには、神代に天より流れ来た水がたまって沼となった。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、たちどころに癒えるといふ。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。」
となっており、沼尾神社付近に郡家が最初にあったことが記述されている。
上の地図では国の史跡となった4か所はほぼ一直線に並び、鹿島神宮の拝殿の向きと一致している。
東北の蝦夷を守ると説明では良くされるが、これの解釈はいくらでもできそうだ。
しかし、沼尾神社付近には大きな沼があり、この辺りにいた部族がどのような人びとだったのか興味を引く。
坂戸神社は中臣氏(藤原氏)の氏神を祭る神社である。
鎌足神社などもあるがこちらは神宮の西側にある。(記事はこちら)

この郡家のあった場所は夏草が生い茂り、バッタなどが飛び交うのどかな空き地が広がっていた。

この郡家跡の遺跡は「神野向遺跡」(かのむかいいせき)と呼ばれている。

鹿嶋市の下水マンホール。市の花「はまなす」、市の木「松」、市の鳥「きじ」が描かれています。
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行先は用賀で行くのに高速も都内は混んでいて3時間以上かかりましたが、帰りは比較的すいていて2時間弱でした。
途中小貝川は台風の雨の影響か水かさも多く、まだ濁った濁流でした。
隅田川はやはりまだ水量も多くスカイツリーを眺めながら今までと少し違った様子を眺めながら在原業平の訪れたであろう1100年程前の渡りがあった頃を少し想像しました。
さて、今日の記事は鹿島神宮シリーズの最後になります。
「鹿島神宮境内附郡家跡」(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)と国の史跡に登録されている場所が神宮の南にある。
周りは住宅街だが、一帯は空き地となった場所に案内板が置かれていた。

この場所に昔の鹿島郡の郡衙(役所のような機能を持つ建物群のあった場所)があったという。
常陸国風土記では「香島郡」と書かれている。
説明によれば「昭和54年度~昭和63年度にかけて実施された発掘調査によって、郡庁並びに正倉院が検出され、鹿島郡家跡と断定された遺跡であり、日本歴史上、重要な遺跡である」となっている。

鹿島神宮の摂社である「沼尾神社」「坂戸神社」と神宮を結ぶ直線上にこの郡家跡が並んでいる。
国の史跡はこの4か所を含む領域をまとめて指定されたもので、「沼尾神社境内・坂戸神社境内・鹿島神宮境内・鹿島郡家跡」全部をまとめた史跡指定になっている。


上の説明では、この場所に奈良時代から平安時代にかけて鹿島郡の郡家があったと書かれている。
しかし、調べて見ると、常陸国風土記の記述では
「社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。翁のいふには、神代に天より流れ来た水がたまって沼となった。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、たちどころに癒えるといふ。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。」
となっており、沼尾神社付近に郡家が最初にあったことが記述されている。
上の地図では国の史跡となった4か所はほぼ一直線に並び、鹿島神宮の拝殿の向きと一致している。
東北の蝦夷を守ると説明では良くされるが、これの解釈はいくらでもできそうだ。
しかし、沼尾神社付近には大きな沼があり、この辺りにいた部族がどのような人びとだったのか興味を引く。
坂戸神社は中臣氏(藤原氏)の氏神を祭る神社である。
鎌足神社などもあるがこちらは神宮の西側にある。(記事はこちら)

この郡家のあった場所は夏草が生い茂り、バッタなどが飛び交うのどかな空き地が広がっていた。

この郡家跡の遺跡は「神野向遺跡」(かのむかいいせき)と呼ばれている。

鹿嶋市の下水マンホール。市の花「はまなす」、市の木「松」、市の鳥「きじ」が描かれています。


東一の鳥居
鹿島神宮の一の鳥居は大船津の神宮橋横にある鳥居で、建てなおして、いまは水中に立っている赤い鳥居だ。(記事は⇒こちら)
しかしもう一つ東一の鳥居とよばれる鳥居が鹿島灘に面した明石の浜に置かれている。
私も昔、一時レイラインなどというものを考えたことがあり、こんな記事も書いた。
(常陸からみた日本の夜明け 記事は⇒ こちら)
でも最近はこれもあまり興味は失せてしまいあまりこれ以上追いかける気もしない。
ただその時に行かずじまいだったこの東一の鳥居を見ておこうと立ち寄った。

国道51号線の明石の信号から東に入って行って鹿島灘に面したところに立っていました。
でも昔写真で見たときはここから海がすぐ見えていたのに、防潮堤が高くなっていて海が見えなくなっていました。
これでは神様も上がってこれないかもしれませんね。

道路の手前には「鹿嶋大神宮」と彫られた石碑が立っています。
鳥居からこの石碑方向をたどるとどこを向いているのでしょう。
明石の信号のそばに東国三社とは違う「息栖神社」という神社があり、この神社の方向です。
またそのまま進むと鹿島スタジアムを通過して鹿島神宮の摂社である「坂戸神社」の方向を向いているようです。
(大雑把です)
夏至の頃にこの鳥居から日が昇るときっとこの石碑の方向に日がさすのではないかと思われます。
(地軸の傾きの23.4度ほど東より北によります)

ただ、香取神宮と鹿島神宮は45度の角度でつながっていますが、この延長上をたどるとこの東一の鳥居に来るようです。
でも何かとってつけたような感じがしないではありません。

昔の写真ではこのあたりでも向こうの海がみえたのですが、防波堤が高くなると何とも物足りない。

古びた記念碑のような石碑があるのですが謂れが書かれているのではなく、どうやら献金者の名前は彫られているようです。
金○○円だとか、東京市などという文字がかろうじて読めます。

この鳥居の下の黒っぽい堤防が昔の堤防です。白い部分の1~2m位が高くなったようです。

海が見える場所まで移動しました。
鳥居は上の写真のテトラブロックの切れているあたりです。

海岸の南の方にはたくさんの風車が見えます。
波崎から銚子の台地の風車でしょうか。
しかしもう一つ東一の鳥居とよばれる鳥居が鹿島灘に面した明石の浜に置かれている。
私も昔、一時レイラインなどというものを考えたことがあり、こんな記事も書いた。
(常陸からみた日本の夜明け 記事は⇒ こちら)
でも最近はこれもあまり興味は失せてしまいあまりこれ以上追いかける気もしない。
ただその時に行かずじまいだったこの東一の鳥居を見ておこうと立ち寄った。

国道51号線の明石の信号から東に入って行って鹿島灘に面したところに立っていました。
でも昔写真で見たときはここから海がすぐ見えていたのに、防潮堤が高くなっていて海が見えなくなっていました。
これでは神様も上がってこれないかもしれませんね。

道路の手前には「鹿嶋大神宮」と彫られた石碑が立っています。
鳥居からこの石碑方向をたどるとどこを向いているのでしょう。
明石の信号のそばに東国三社とは違う「息栖神社」という神社があり、この神社の方向です。
またそのまま進むと鹿島スタジアムを通過して鹿島神宮の摂社である「坂戸神社」の方向を向いているようです。
(大雑把です)
夏至の頃にこの鳥居から日が昇るときっとこの石碑の方向に日がさすのではないかと思われます。
(地軸の傾きの23.4度ほど東より北によります)

ただ、香取神宮と鹿島神宮は45度の角度でつながっていますが、この延長上をたどるとこの東一の鳥居に来るようです。
でも何かとってつけたような感じがしないではありません。

昔の写真ではこのあたりでも向こうの海がみえたのですが、防波堤が高くなると何とも物足りない。

古びた記念碑のような石碑があるのですが謂れが書かれているのではなく、どうやら献金者の名前は彫られているようです。
金○○円だとか、東京市などという文字がかろうじて読めます。

この鳥居の下の黒っぽい堤防が昔の堤防です。白い部分の1~2m位が高くなったようです。

海が見える場所まで移動しました。
鳥居は上の写真のテトラブロックの切れているあたりです。

海岸の南の方にはたくさんの風車が見えます。
波崎から銚子の台地の風車でしょうか。
護国院(鹿島)-1
鹿島神宮の参道入り口の手前を少し南に入ったと越えろに「護国院」という由緒ある寺があった。
前に神宮に行ったときは神宮にばかり目が行ってこの寺は気が付かなかった。

寺の西側に入口に大きな看板がある。
「北関東36不動尊霊場 第29番札所 降魔山護国院」とある。

南側の入り口が正式な入口方向だが「、降魔山 勅願所」と書かれている。
その横に日本語、英語、中国語、韓国語で説明が書かれている。
「護国院は真言宗智山派の寺で、正式には降摩山護国院経音寺(こうまさんごこくいんきょうおんじ)と称し、不動明王を本尊とします。元明天王の和銅2年(709)の開基と伝えられる古刹です。当初は鹿島神宮境内に建立され、神宮不断の護摩所との勅号を受け、国家安穏の護摩祈願祈祷を奉修することから別名「護摩堂」とも言われ、延宝5年(1677)に神宮寺と共に神宮境内から現在地に移されました。
ご本尊の不動明王様は成田山新勝寺の不動明王様と一木にて彫刻されたとされ、1300年以上経った現在も「国家安穏、市損繁栄」をお護りされています。境内には市指定文化財の板碑があり、南北朝・室町時代の古文書などの護摩院文書が有名です。」

この庚申塔の説明があります。
「この庚申塔はもと鹿島高等学校北側の鹿島神宮寺址にあり当地現存の庚申塔中最古のもの・・・・・」
昭和51年の都市開発に従ってここに移したとのことです。

山門。なかなか立派なお堂である。
そばを通ると真っ黒なカラスが不気味に大きな鳴き声を上げた。


不動堂(本堂)。明治3年の火災で本堂が消失してしまい、この不動堂は佐竹村(現在の常陸太田市)の小松寺より譲り受けたという。
佐竹村の小松寺ということだがよくわからない。
佐竹村は佐竹寺があるところだろうし、小松寺といえば重盛の墓のある城里町の寺が有名だが・・・・




この寺にはもう一つ大きな大師堂がある。
こちらは明日にまた紹介します。
前に神宮に行ったときは神宮にばかり目が行ってこの寺は気が付かなかった。

寺の西側に入口に大きな看板がある。
「北関東36不動尊霊場 第29番札所 降魔山護国院」とある。

南側の入り口が正式な入口方向だが「、降魔山 勅願所」と書かれている。
その横に日本語、英語、中国語、韓国語で説明が書かれている。
「護国院は真言宗智山派の寺で、正式には降摩山護国院経音寺(こうまさんごこくいんきょうおんじ)と称し、不動明王を本尊とします。元明天王の和銅2年(709)の開基と伝えられる古刹です。当初は鹿島神宮境内に建立され、神宮不断の護摩所との勅号を受け、国家安穏の護摩祈願祈祷を奉修することから別名「護摩堂」とも言われ、延宝5年(1677)に神宮寺と共に神宮境内から現在地に移されました。
ご本尊の不動明王様は成田山新勝寺の不動明王様と一木にて彫刻されたとされ、1300年以上経った現在も「国家安穏、市損繁栄」をお護りされています。境内には市指定文化財の板碑があり、南北朝・室町時代の古文書などの護摩院文書が有名です。」

この庚申塔の説明があります。
「この庚申塔はもと鹿島高等学校北側の鹿島神宮寺址にあり当地現存の庚申塔中最古のもの・・・・・」
昭和51年の都市開発に従ってここに移したとのことです。

山門。なかなか立派なお堂である。
そばを通ると真っ黒なカラスが不気味に大きな鳴き声を上げた。


不動堂(本堂)。明治3年の火災で本堂が消失してしまい、この不動堂は佐竹村(現在の常陸太田市)の小松寺より譲り受けたという。
佐竹村の小松寺ということだがよくわからない。
佐竹村は佐竹寺があるところだろうし、小松寺といえば重盛の墓のある城里町の寺が有名だが・・・・




この寺にはもう一つ大きな大師堂がある。
こちらは明日にまた紹介します。
護国院(鹿島)-2
鹿島神宮の護摩祈願祈祷所として建てられたという護国院を紹介しています。
鹿島高校北の信号を鹿島神宮の方に少し行った一つ目通りを右側(南側)に入ったところにあります。
本堂は火災で焼けたため、常陸太田市の旧佐竹村の小松寺から移築したものだそうです。
そしてここにもう一つ立派なお堂が建っています。
大師堂(弘法大師)です。


入り口わきの両側に木造の古い像が置かれていました。




内部天井には家紋のマーク?

江戸時代の終わりころからこの弘法大師信仰は盛んになったようで、弘法大師の像の入った厨子を担いで、家々を回った講が行われてきたそうです。

四国八十八か所のそれぞれの像を砂踏みと共に祈祷して回ったのでしょう。

真言宗のあちこちの寺にこうして八十八か所の像が置かれています。
信仰の深さが思われます。


鹿島高校北の信号を鹿島神宮の方に少し行った一つ目通りを右側(南側)に入ったところにあります。
本堂は火災で焼けたため、常陸太田市の旧佐竹村の小松寺から移築したものだそうです。
そしてここにもう一つ立派なお堂が建っています。
大師堂(弘法大師)です。


入り口わきの両側に木造の古い像が置かれていました。




内部天井には家紋のマーク?

江戸時代の終わりころからこの弘法大師信仰は盛んになったようで、弘法大師の像の入った厨子を担いで、家々を回った講が行われてきたそうです。

四国八十八か所のそれぞれの像を砂踏みと共に祈祷して回ったのでしょう。

真言宗のあちこちの寺にこうして八十八か所の像が置かれています。
信仰の深さが思われます。


潮社(いたのやしろ)
鹿島神宮の境外末社にむかしの潮来(いたこ)の名前の元となった「潮宮(いたみや)」が祀られていると、このブログの読者の方から教えていただいて行ってきました。
記事にするのが少し遅くなってしまいましたが、行ったのはもう2週間以上前です。
場所は鹿島神宮の森の東側で「下津入口」信号を下津海岸方面に少し進んだ左側です。
すぐ先に臨界大洗鹿島線の踏切の手前です。
踏切を渡って海岸方面に行くと「高天原」という地名の場所があります。

鹿島神宮の森はかなり広くてこの神社があるあたりまで続いていたと思いますが、現在は道路などで削られて、この神社の周りも住宅街になっています。

通りに面したところに鳥居が立っていますが、そこから森の中に参道があります。
森といってもこの神社の敷地のみが残されているといった感じで、すぐ森の木々の間から向こう側の家や通りを走る車などが見えます。

鹿島神宮の末社に数えられていますが、境内の外にあるので境外末社というようです。
比較的敷地もありますが、手元の地図には神社マークも書かれていません。



神社の説明も日本語以外に英語、中国語、韓国語が併記されていました。
読みづらいと思いますので日本語のところを抜粋して書いておきます。
「潮社(いたのやしろ)は潮宮(いたみや)とも呼ばれ、鹿島神宮の末社で、高倉下命(タカクラジノミコト)を祀っています。神話の中で、神武天皇が日向を発ち東へ進み大和へ向かったとき、長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、熊野山中で危機に陥りました。このとき高倉下が神武天皇のもとに師霊剣(フツノミタマノツルギ)を持参したとされ、その霊力により軍勢は毒気から目覚め、活力を得て戦に勝利、日本の建国に大いに貢献したとされます。荒ぶる神を退ける力を持つ、この剣は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が葦原中国(あしはらなかつくに)を平定したときの剣です。
ところで、鹿嶋の隣まち潮来の地名ですが、古くは伊多久(いたく)とか板久(いたく)と称し、その後に板来と称していたのですが、1698年に水戸藩主徳川光圀の命で潮来に改称しました。それは光圀が鹿島に潮宮があって常陸の方言で潮を「いた」と読むことに関心を示したことによるものです。
この潮社がこの地にいつから祀られているのかはよくわかりません。
小美玉市倉数にある潮宮(いたみや)神社は鹿島地方にあった潮宮が992年に移されたと伝わっています。
どちらも祭神は高倉下です。
記事にするのが少し遅くなってしまいましたが、行ったのはもう2週間以上前です。
場所は鹿島神宮の森の東側で「下津入口」信号を下津海岸方面に少し進んだ左側です。
すぐ先に臨界大洗鹿島線の踏切の手前です。
踏切を渡って海岸方面に行くと「高天原」という地名の場所があります。

鹿島神宮の森はかなり広くてこの神社があるあたりまで続いていたと思いますが、現在は道路などで削られて、この神社の周りも住宅街になっています。

通りに面したところに鳥居が立っていますが、そこから森の中に参道があります。
森といってもこの神社の敷地のみが残されているといった感じで、すぐ森の木々の間から向こう側の家や通りを走る車などが見えます。

鹿島神宮の末社に数えられていますが、境内の外にあるので境外末社というようです。
比較的敷地もありますが、手元の地図には神社マークも書かれていません。



神社の説明も日本語以外に英語、中国語、韓国語が併記されていました。
読みづらいと思いますので日本語のところを抜粋して書いておきます。
「潮社(いたのやしろ)は潮宮(いたみや)とも呼ばれ、鹿島神宮の末社で、高倉下命(タカクラジノミコト)を祀っています。神話の中で、神武天皇が日向を発ち東へ進み大和へ向かったとき、長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、熊野山中で危機に陥りました。このとき高倉下が神武天皇のもとに師霊剣(フツノミタマノツルギ)を持参したとされ、その霊力により軍勢は毒気から目覚め、活力を得て戦に勝利、日本の建国に大いに貢献したとされます。荒ぶる神を退ける力を持つ、この剣は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が葦原中国(あしはらなかつくに)を平定したときの剣です。
ところで、鹿嶋の隣まち潮来の地名ですが、古くは伊多久(いたく)とか板久(いたく)と称し、その後に板来と称していたのですが、1698年に水戸藩主徳川光圀の命で潮来に改称しました。それは光圀が鹿島に潮宮があって常陸の方言で潮を「いた」と読むことに関心を示したことによるものです。
この潮社がこの地にいつから祀られているのかはよくわかりません。
小美玉市倉数にある潮宮(いたみや)神社は鹿島地方にあった潮宮が992年に移されたと伝わっています。
どちらも祭神は高倉下です。
息栖神社から蚕霊神社へ(その二)
息栖神社に参拝して、拝殿に向かって右側にある「息栖神社にゆかりの句碑」にも目を向けてきました。
ここにある藤原時朝の句をもう一度確認してきたのです。
「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる」
この藤原時朝は初代笠間氏の「笠間時朝」のことです。
時朝はかなりの文化人で、京都の三十三間堂の千体ある千手観音立像の寄進者(1001体のうちの2体)として唯一名前が判明している人物です。

時朝は鹿島神宮に詣でるときに僧侶を連れてこの近くを通りました。
そしてともに多くの句を詠みました。
この息栖神社もその昔、霞ケ浦や利根川河口一帯は大きな内海で、中洲のような小島が点在していたようです。
息栖神社の説明では
「この中州に鎮座された祠を、大同二年(807年)、平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。」
と書かれています。
この元あった場所はどのあたりかはあまりはっきりとは書かれていませんが、それが現在の蚕霊神社辺りではないかと考えています。
前にも常陸国の三大養蚕神社のひとつと言われるこの蚕霊神社へは訪問していますが、改めてここでまた紹介します。
今日はこれから出かけてしまいますので続きはまた明日にでも書きます。
ここにある藤原時朝の句をもう一度確認してきたのです。
「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる」
この藤原時朝は初代笠間氏の「笠間時朝」のことです。
時朝はかなりの文化人で、京都の三十三間堂の千体ある千手観音立像の寄進者(1001体のうちの2体)として唯一名前が判明している人物です。

時朝は鹿島神宮に詣でるときに僧侶を連れてこの近くを通りました。
そしてともに多くの句を詠みました。
この息栖神社もその昔、霞ケ浦や利根川河口一帯は大きな内海で、中洲のような小島が点在していたようです。
息栖神社の説明では
「この中州に鎮座された祠を、大同二年(807年)、平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。」
と書かれています。
この元あった場所はどのあたりかはあまりはっきりとは書かれていませんが、それが現在の蚕霊神社辺りではないかと考えています。
前にも常陸国の三大養蚕神社のひとつと言われるこの蚕霊神社へは訪問していますが、改めてここでまた紹介します。
今日はこれから出かけてしまいますので続きはまた明日にでも書きます。
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