佐原の大祭(秋祭り)(1)
関東三大祭りと言われる千葉県香取市の佐原の大祭の秋祭りが本日より3日間行われています。
今日は銚子に午前中に行く用事があり、午後から立ち寄り見物しました。
佐原の大祭は7月に行われる夏祭り(小野川の東地区と八坂神社の祭典)と、10月に行われる西側地区と諏訪神社の祭典)の2回に分けて行われています。
3日間の祭りでも、本日は初日で平日のため山車の競演もなく少し寂しい感じでしたが、小野川沿いに多くの江戸時代を感じさせる家屋が多く残っていて、川と柳に祭りがしっくりと絡み合ってその風情を感じさせてくれました。
一部撮った写真を数回に分けて紹介します。

やはり佐原は江戸時代に開けた水運と伊能忠敬で有名ですが、近くに香取神宮があり、多くの参拝客も訪れ、賑わったようです。
今は利根川に注ぐこの小野川沿いに立ち並ぶ家並みの風情が訪れる人の心を引きつけているようです。
家並みの紹介は明日にでもまた紹介します。
今日は祭りの山車が中心です。

初日のため、山車は乱引きのみだそうです。
乱引きは各山車が勝手にバラバラに引き回すようです。
あすの土曜日は14台の山車が揃い、総踊りと山車巡行が行われます。
踊りは佐原囃子ですが、盆踊り調のもので、笛太鼓が音頭を取ります。
石岡囃子のような狐やおかめひょっとこ踊りは見られませんでした。

各山車は見事な彫刻が施されていました。
普段は数台が山車会館に展示されているようです。

やはりこれをみると石岡のお祭りの幌獅子は独特です。
山車には大人しか乗っていません。

山車の車の中は結構狭そうです。真ん中は上の大人形をしまう場所です。
これは石岡の山車も同じです。
しかし、この山車には、おかめ・ひょっとこ・狐などが踊る舞台がありません。
山車の車輪前に太い丸太を持って山車の方向などをコントロールしています。

石岡の山車は台車の上に乗っかている舞台が回転できる構造になっていますが、こちらは回りません。
動かすにはこの丸太を差し込んで、浮かせながら若者たちが力で回します。
また丸棒を差し込んで回すものもあります。

この山車をのの字を書くようにクネクネと動かすのを「のの字廻し」というそうで、山車巡行などの時の見ものになっているようです。

(サムネルです)
女性は頭に丸い縄を結ったような輪を載せています。
男は縄の輪でハチマキをし、女はこのように頭に載せるのでしょうね。
これも伝統なのでしょうか。
今日は学校も休みではなく、子供たちも小さな子供だけでした。
明日は賑やかになるのでしょう。




(サムネルです)
明日、明後日は見物客も多くなるのでしょう。
祭りというには人があふれるというほどではありませんでした。
また、何か石岡のお祭りと比較してみていたのですが、屋台の店がほとんど出ていません。
かわりに昔ながらのお店が色々な土産物や食べ物を売っていました。

小学生は下校の時間です。
毎日この町並みを見て生活しているんですね。
大きくなったら外に出ても、思い出としてここに戻ってきたくなるのでしょうか。
← よろしければクリックお願いします。
今日は銚子に午前中に行く用事があり、午後から立ち寄り見物しました。
佐原の大祭は7月に行われる夏祭り(小野川の東地区と八坂神社の祭典)と、10月に行われる西側地区と諏訪神社の祭典)の2回に分けて行われています。
3日間の祭りでも、本日は初日で平日のため山車の競演もなく少し寂しい感じでしたが、小野川沿いに多くの江戸時代を感じさせる家屋が多く残っていて、川と柳に祭りがしっくりと絡み合ってその風情を感じさせてくれました。
一部撮った写真を数回に分けて紹介します。

やはり佐原は江戸時代に開けた水運と伊能忠敬で有名ですが、近くに香取神宮があり、多くの参拝客も訪れ、賑わったようです。
今は利根川に注ぐこの小野川沿いに立ち並ぶ家並みの風情が訪れる人の心を引きつけているようです。
家並みの紹介は明日にでもまた紹介します。
今日は祭りの山車が中心です。

初日のため、山車は乱引きのみだそうです。
乱引きは各山車が勝手にバラバラに引き回すようです。
あすの土曜日は14台の山車が揃い、総踊りと山車巡行が行われます。
踊りは佐原囃子ですが、盆踊り調のもので、笛太鼓が音頭を取ります。
石岡囃子のような狐やおかめひょっとこ踊りは見られませんでした。

各山車は見事な彫刻が施されていました。
普段は数台が山車会館に展示されているようです。

やはりこれをみると石岡のお祭りの幌獅子は独特です。
山車には大人しか乗っていません。

山車の車の中は結構狭そうです。真ん中は上の大人形をしまう場所です。
これは石岡の山車も同じです。
しかし、この山車には、おかめ・ひょっとこ・狐などが踊る舞台がありません。
山車の車輪前に太い丸太を持って山車の方向などをコントロールしています。

石岡の山車は台車の上に乗っかている舞台が回転できる構造になっていますが、こちらは回りません。
動かすにはこの丸太を差し込んで、浮かせながら若者たちが力で回します。
また丸棒を差し込んで回すものもあります。

この山車をのの字を書くようにクネクネと動かすのを「のの字廻し」というそうで、山車巡行などの時の見ものになっているようです。

(サムネルです)
女性は頭に丸い縄を結ったような輪を載せています。
男は縄の輪でハチマキをし、女はこのように頭に載せるのでしょうね。
これも伝統なのでしょうか。
今日は学校も休みではなく、子供たちも小さな子供だけでした。
明日は賑やかになるのでしょう。




(サムネルです)
明日、明後日は見物客も多くなるのでしょう。
祭りというには人があふれるというほどではありませんでした。
また、何か石岡のお祭りと比較してみていたのですが、屋台の店がほとんど出ていません。
かわりに昔ながらのお店が色々な土産物や食べ物を売っていました。

小学生は下校の時間です。
毎日この町並みを見て生活しているんですね。
大きくなったら外に出ても、思い出としてここに戻ってきたくなるのでしょうか。


佐原の大祭(秋祭り)(2)
関東三大祭りといわれる千葉県香取市の佐原の大祭(秋祭り)は10月12・13・14日の3日間行われます。
今日は中日のお祭りでお昼頃に14台の国指定重要文化財に指定されている山車が忠敬橋の通りに集結していろいろな行事が行われていると思います。
秋祭りに使われる山車は14台ですが、江戸時代の造ったものが今も使われているのではありません。
これだけ激しく使いますし、火災や落雷などもあり多くは明治中頃の製作です。
ただし、上に掲げる額等は江戸のものをそのまま使っているところが多いようです。
祭りは300年の伝統と言われ、佐原囃子は400年くらいの伝統があるとも言われますが、囃子を聞いてみるとやはり時代で変化してきたものだと感じます。
どこの祭りも明治の中頃に昔からの祭りを、その時の商人たちの意気込みを込めて復活したものばかりです。
私はこれらの伝統に意義を見出すのではなく、復活させた人たちの意気込みとその情熱に熱いものを感じます。
この地も石岡と同様に醤油などの醸造で栄えた町だと思います。
祭りの規模では石岡の方が地元の祭り好きは多いように思います。
ここ石岡からは車で1時間以上かかりますので毎日行くこともできませんので、昨日の写真の続きです。
この地は、平成の大合併以前は佐原市と言ってきたので私の頭も佐原市とのイメージでいたが、小見川町などと合併して香取市になってしまった。
やはり香取神宮も有名ではあるが、水郷の街「佐原(さわら)」の名前が市町村名から消えるのは寂しい。
この小野川沿いの小江戸といわれる街並みは、川越などとはまた違った風情が残り、貴重なものと思う。

小野川沿いの街並みは国道356(利根水郷ライン)から伊能忠敬記念館のあるあたり(樋橋)までの両側に続いている。
この小野川に観光のために小舟を浮かべて、水郷のイメージを味わうことができる。

「材木村亀さん」 小野川の両側にヤナギの木が植えられ、茶色の木の柵を巡らして、川沿いに古いお店や蔵が点在しています。
江戸時代からののもばかりではないようですが、それぞれその趣を残した凝った造りでです。

この街中は川の両側の河岸を石(コンクリ?)でブロックし木の柵を巡らしています。これが約1kmにわたって続きますが、現在は利根川の河川敷の方まで延長するための護岸工事が盛んに行われていました。
来年には河川敷の公園から舟でこの水郷めぐり(潮来とは別)もできるようになるのでしょう。


「上州屋さん」


「木の下旅館さん」


(サムネルです)


「並木仲之介商店」(和紙、薫香)


明日にもう少し続きます。
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今日は中日のお祭りでお昼頃に14台の国指定重要文化財に指定されている山車が忠敬橋の通りに集結していろいろな行事が行われていると思います。
秋祭りに使われる山車は14台ですが、江戸時代の造ったものが今も使われているのではありません。
これだけ激しく使いますし、火災や落雷などもあり多くは明治中頃の製作です。
ただし、上に掲げる額等は江戸のものをそのまま使っているところが多いようです。
祭りは300年の伝統と言われ、佐原囃子は400年くらいの伝統があるとも言われますが、囃子を聞いてみるとやはり時代で変化してきたものだと感じます。
どこの祭りも明治の中頃に昔からの祭りを、その時の商人たちの意気込みを込めて復活したものばかりです。
私はこれらの伝統に意義を見出すのではなく、復活させた人たちの意気込みとその情熱に熱いものを感じます。
この地も石岡と同様に醤油などの醸造で栄えた町だと思います。
祭りの規模では石岡の方が地元の祭り好きは多いように思います。
ここ石岡からは車で1時間以上かかりますので毎日行くこともできませんので、昨日の写真の続きです。
この地は、平成の大合併以前は佐原市と言ってきたので私の頭も佐原市とのイメージでいたが、小見川町などと合併して香取市になってしまった。
やはり香取神宮も有名ではあるが、水郷の街「佐原(さわら)」の名前が市町村名から消えるのは寂しい。
この小野川沿いの小江戸といわれる街並みは、川越などとはまた違った風情が残り、貴重なものと思う。

小野川沿いの街並みは国道356(利根水郷ライン)から伊能忠敬記念館のあるあたり(樋橋)までの両側に続いている。
この小野川に観光のために小舟を浮かべて、水郷のイメージを味わうことができる。

「材木村亀さん」 小野川の両側にヤナギの木が植えられ、茶色の木の柵を巡らして、川沿いに古いお店や蔵が点在しています。
江戸時代からののもばかりではないようですが、それぞれその趣を残した凝った造りでです。

この街中は川の両側の河岸を石(コンクリ?)でブロックし木の柵を巡らしています。これが約1kmにわたって続きますが、現在は利根川の河川敷の方まで延長するための護岸工事が盛んに行われていました。
来年には河川敷の公園から舟でこの水郷めぐり(潮来とは別)もできるようになるのでしょう。


「上州屋さん」


「木の下旅館さん」


(サムネルです)


「並木仲之介商店」(和紙、薫香)


明日にもう少し続きます。


佐原の大祭(秋祭り)(3)
千葉県の水郷佐原の街並みとお祭りの続きです。
小野川や昔の中心通り沿いの商店などの街並みは、確かに小江戸と言われるように江戸時代を思わせるものがあります。
江戸時代に利根川が銚子の方に流れをかえられて、霞ヶ浦水運が発達し、水戸からも石岡・土浦からも江戸への荷はすべて、ここ潮来や佐原などの場所を経て利根川、江戸川へ経由して運ばれていました。
そのため、酒、醤油などの産業や船荷の業者、木材などを扱う人々が行き交い、このためのたくさんの商人たちが行き来したのでしょう。
そして、祭りもこの人たちが盛り上げてきたように思います。
佐原の大祭は7月に小野川の東側にある昔からの本宿を中心として伝統の山車10台が街中で引き回しが行われます。また10月の秋祭りには西側地区の新宿を中心に14台の山車が引き回されます。
パンフレットによると「三百年伝統の山車祭り」「四百年続く佐原囃子」などの言葉が紙面を賑わせています。これはどこまで検証されているのでしょうか?
夏祭りは古くからの宿場である本宿にある「八坂神社」の祭典です。
元々は諏訪山天王台にあった牛頭天王社を江戸時代初期にこの本宿に移し、明治の廃仏毀釈の時に「八坂神社」に改名しています。
しかし、今のような祇園祭がいつの頃から始められたのかははっきりしません。
八坂神社の祭典としては、元禄15年(1702)までには6月10日(旧暦)に浜下りの神事及び6月12日に祇園の神事が行われていたと言われています。
そのため、現在のような山車がたくさん揃うようになったのはいつ頃なのか?
あまりはっきりしません。
江戸でも祭りに山車が使われていたが、明治になって廃止にとなったものもあります。
江戸の人形師などが活躍していたようですので、その流れを汲んでいるようです。
一方秋祭りの新宿の方は伊能家が酒業などの商売で財を成し、この新宿の発展を支えてきたと言われており、諏訪神社は伊能家の氏神を奉納する神社のようです(祭神は建御名方神)。
こちらの社殿は嘉永6年(1853)の造営だそうです。
秋祭りに使われる14台の山車を見てみると、江戸時代に製作されたとするものが2台、明治時代が8台、昭和が4台です。
神社に伝わっているお祭りというのはどこもあり、この祭りが大きくなったり、小さくなってしまったりはある程度時代背景もあり致し方ないのでしょう。
この祭りを見ると明らかにいわゆる祇園祭です。
私のいる石岡では江戸時代には中町にあったと言われる「牛頭天王社」で現在のスタイルに似たような祭りが行われていたとも言われています。
しかし、石岡では、天王社は仏教的な要素が大きく、明治の廃仏毀釈?でなくなってしまい、明治35年に今の祭りを新しい命を吹き込んで創設(復活)させたものだと理解しています。
この当時の人たちの祭り復活にかけた情熱をもっと大切にしていかなければならないと思います。
祭りが30年以上にわたって途絶えたことは残念ですが、それに新たな命を吹きかけて、盛大な祭りにしてきたのです。
佐原の大祭とは全く違った魅力があります。規模は石岡の方が大きいと思います。
小江戸とか小京都などとという言葉は魔法の呪文と同じですね。
この水郷佐原の街を、じっくりと見てみると、私には江戸後期から、明治にかけての産業の発展が見えてきました。
潮来などがアヤメの咲く小舟での遊覧などが観光客で賑わっていますが、江戸から明治時代に小唄や日本舞踊などの唄が潮来節として広まったことを思い浮かべて、この地をまたいつか調べても見たいと思います。

佐原の街並みといってもそのエリアはとても狭いです。
街としての大きさもさほどではありませんが、小野川の趣がこの街の魅力の重要な要素ですね。

忠敬橋の西側角にある「中村商店さん」ここでは各種土産物’キーホルダー、祭りかんざし、祭り人形などたくさん置いてありました。

忠敬橋(伊能忠敬の名前からついた)から眺めた中村商店さんです。 この通りは普段は車が通行できますが、祭り期間は通行止めです。

忠敬橋から東側の眺め、この秋祭りは西側の祭りなので、東側は少しひっそりしています。
この通りの先に見える丸いドーム屋根を持つ建物は「三菱銀行」の建物です。
石岡にも似たような建物が明治から昭和初期までありました。
またこの道をまっすぐ進むと香取神宮に行きます。

前の写真の手前右側の忠敬橋そばに「植田屋荒物店」があります。
お店のホームページによると宝暦9年(1759)に創業したとあります。

忠敬橋の少し南に伊能忠敬旧宅(国の史跡)と記念館があります。
伊能忠敬の生まれは九十九里町の方ですが、この佐原で千葉氏から出た伊能氏が江戸時代にはこの地で米の売買や酒業を営んでいましたが、男子が生まれなかったので親戚であった17歳の忠敬が婿養子に入ったのです。
そして、現在の新宿などの街を開き、稼業も成功して財を蓄えたのでしょう。
49歳で家督を譲って隠退し江戸に出て好きな学問であった天文学を学んだといいます。
そして55歳で蝦夷から東北の地図作りを任され、その後幕府の援助も得て日本全国の測量を行っています。
その正確さは驚くべきものがあります。

この橋は「樋橋(とよはし)」と書かれていました。この橋を渡ると伊能忠敬記念館です。
現地の説明には
「江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東側から西側に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成四年に架け替えられたものです。」
と書かれていました。

ジャージャー橋から忠敬橋を見ています。
祭りではない時に来た時には、この橋の下に観光用の小舟が来ていました。
この祭り期間は、もう少し下流側に船着場が設けられていて、ここまでは入れません。

橋の西側に立派な「伊能忠敬記念館」があります。
今年7月頃に一度中を見ていますので、今回は入りませんでした。
ここには伊能忠敬が作った地図とその測量に使った道具がかなり詳しく集められて展示されています。
そして、この資料や道具をまとめてセット(2345点)で国に申請して2年前に国宝の指定を受けました。
この地にこられたらぜひ見てください。一見の価値はあります。
地図の作成は江戸幕府の依頼で行なっていますが、忠敬は江戸におりました。この佐原は家督を譲っていましたが、かなりの私財をこの初期の測量には費やしたように思います。
また、佐原の伊能家にどの程度の資料が残されていたのかはわかりませんが、現在その当時の膨大な資料や器具を集め、このような記念館にしたのには感心します。

記念館が分からみた樋橋=ジャージャー橋です。

こちらが伊能忠敬記念館です。裏手に駐車場(無料)があります。
通りからの入り口が狭いですが、駐車場は広いです。
祭り期間中は多分、ここに入る通りが通行止めですので駐車はできないと思います。
この裏手にきれいな蔵のような雰囲気の良いトイレがあります。


記念館入口にある喫茶店ですが、記念館前の入口以外に横にもこのような入口があります。

忠敬橋のメイン通りに戻ります。
この通りが祭りでもメイン会場となるようです。

忠敬橋のバス停

バス停の前に「わくわく休憩広場」があります。
ここで、いろいろなイベントが行われるようです。



本来の私のブログの趣旨から言えば、もう少し街の歴史などを掘り起こしてみたいのですが、ここを掘り出すと千葉氏、里見氏などを調べていかなければなりません。
それも少し茨城中心のブログからはずれてきますので、また時間がある時にしたいと思います。
明日ももう少し、また祭りと街中の様子の紹介が続きます。
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小野川や昔の中心通り沿いの商店などの街並みは、確かに小江戸と言われるように江戸時代を思わせるものがあります。
江戸時代に利根川が銚子の方に流れをかえられて、霞ヶ浦水運が発達し、水戸からも石岡・土浦からも江戸への荷はすべて、ここ潮来や佐原などの場所を経て利根川、江戸川へ経由して運ばれていました。
そのため、酒、醤油などの産業や船荷の業者、木材などを扱う人々が行き交い、このためのたくさんの商人たちが行き来したのでしょう。
そして、祭りもこの人たちが盛り上げてきたように思います。
佐原の大祭は7月に小野川の東側にある昔からの本宿を中心として伝統の山車10台が街中で引き回しが行われます。また10月の秋祭りには西側地区の新宿を中心に14台の山車が引き回されます。
パンフレットによると「三百年伝統の山車祭り」「四百年続く佐原囃子」などの言葉が紙面を賑わせています。これはどこまで検証されているのでしょうか?
夏祭りは古くからの宿場である本宿にある「八坂神社」の祭典です。
元々は諏訪山天王台にあった牛頭天王社を江戸時代初期にこの本宿に移し、明治の廃仏毀釈の時に「八坂神社」に改名しています。
しかし、今のような祇園祭がいつの頃から始められたのかははっきりしません。
八坂神社の祭典としては、元禄15年(1702)までには6月10日(旧暦)に浜下りの神事及び6月12日に祇園の神事が行われていたと言われています。
そのため、現在のような山車がたくさん揃うようになったのはいつ頃なのか?
あまりはっきりしません。
江戸でも祭りに山車が使われていたが、明治になって廃止にとなったものもあります。
江戸の人形師などが活躍していたようですので、その流れを汲んでいるようです。
一方秋祭りの新宿の方は伊能家が酒業などの商売で財を成し、この新宿の発展を支えてきたと言われており、諏訪神社は伊能家の氏神を奉納する神社のようです(祭神は建御名方神)。
こちらの社殿は嘉永6年(1853)の造営だそうです。
秋祭りに使われる14台の山車を見てみると、江戸時代に製作されたとするものが2台、明治時代が8台、昭和が4台です。
神社に伝わっているお祭りというのはどこもあり、この祭りが大きくなったり、小さくなってしまったりはある程度時代背景もあり致し方ないのでしょう。
この祭りを見ると明らかにいわゆる祇園祭です。
私のいる石岡では江戸時代には中町にあったと言われる「牛頭天王社」で現在のスタイルに似たような祭りが行われていたとも言われています。
しかし、石岡では、天王社は仏教的な要素が大きく、明治の廃仏毀釈?でなくなってしまい、明治35年に今の祭りを新しい命を吹き込んで創設(復活)させたものだと理解しています。
この当時の人たちの祭り復活にかけた情熱をもっと大切にしていかなければならないと思います。
祭りが30年以上にわたって途絶えたことは残念ですが、それに新たな命を吹きかけて、盛大な祭りにしてきたのです。
佐原の大祭とは全く違った魅力があります。規模は石岡の方が大きいと思います。
小江戸とか小京都などとという言葉は魔法の呪文と同じですね。
この水郷佐原の街を、じっくりと見てみると、私には江戸後期から、明治にかけての産業の発展が見えてきました。
潮来などがアヤメの咲く小舟での遊覧などが観光客で賑わっていますが、江戸から明治時代に小唄や日本舞踊などの唄が潮来節として広まったことを思い浮かべて、この地をまたいつか調べても見たいと思います。

佐原の街並みといってもそのエリアはとても狭いです。
街としての大きさもさほどではありませんが、小野川の趣がこの街の魅力の重要な要素ですね。

忠敬橋の西側角にある「中村商店さん」ここでは各種土産物’キーホルダー、祭りかんざし、祭り人形などたくさん置いてありました。

忠敬橋(伊能忠敬の名前からついた)から眺めた中村商店さんです。 この通りは普段は車が通行できますが、祭り期間は通行止めです。

忠敬橋から東側の眺め、この秋祭りは西側の祭りなので、東側は少しひっそりしています。
この通りの先に見える丸いドーム屋根を持つ建物は「三菱銀行」の建物です。
石岡にも似たような建物が明治から昭和初期までありました。
またこの道をまっすぐ進むと香取神宮に行きます。

前の写真の手前右側の忠敬橋そばに「植田屋荒物店」があります。
お店のホームページによると宝暦9年(1759)に創業したとあります。

忠敬橋の少し南に伊能忠敬旧宅(国の史跡)と記念館があります。
伊能忠敬の生まれは九十九里町の方ですが、この佐原で千葉氏から出た伊能氏が江戸時代にはこの地で米の売買や酒業を営んでいましたが、男子が生まれなかったので親戚であった17歳の忠敬が婿養子に入ったのです。
そして、現在の新宿などの街を開き、稼業も成功して財を蓄えたのでしょう。
49歳で家督を譲って隠退し江戸に出て好きな学問であった天文学を学んだといいます。
そして55歳で蝦夷から東北の地図作りを任され、その後幕府の援助も得て日本全国の測量を行っています。
その正確さは驚くべきものがあります。

この橋は「樋橋(とよはし)」と書かれていました。この橋を渡ると伊能忠敬記念館です。
現地の説明には
「江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東側から西側に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成四年に架け替えられたものです。」
と書かれていました。

ジャージャー橋から忠敬橋を見ています。
祭りではない時に来た時には、この橋の下に観光用の小舟が来ていました。
この祭り期間は、もう少し下流側に船着場が設けられていて、ここまでは入れません。

橋の西側に立派な「伊能忠敬記念館」があります。
今年7月頃に一度中を見ていますので、今回は入りませんでした。
ここには伊能忠敬が作った地図とその測量に使った道具がかなり詳しく集められて展示されています。
そして、この資料や道具をまとめてセット(2345点)で国に申請して2年前に国宝の指定を受けました。
この地にこられたらぜひ見てください。一見の価値はあります。
地図の作成は江戸幕府の依頼で行なっていますが、忠敬は江戸におりました。この佐原は家督を譲っていましたが、かなりの私財をこの初期の測量には費やしたように思います。
また、佐原の伊能家にどの程度の資料が残されていたのかはわかりませんが、現在その当時の膨大な資料や器具を集め、このような記念館にしたのには感心します。

記念館が分からみた樋橋=ジャージャー橋です。

こちらが伊能忠敬記念館です。裏手に駐車場(無料)があります。
通りからの入り口が狭いですが、駐車場は広いです。
祭り期間中は多分、ここに入る通りが通行止めですので駐車はできないと思います。
この裏手にきれいな蔵のような雰囲気の良いトイレがあります。


記念館入口にある喫茶店ですが、記念館前の入口以外に横にもこのような入口があります。

忠敬橋のメイン通りに戻ります。
この通りが祭りでもメイン会場となるようです。

忠敬橋のバス停

バス停の前に「わくわく休憩広場」があります。
ここで、いろいろなイベントが行われるようです。



本来の私のブログの趣旨から言えば、もう少し街の歴史などを掘り起こしてみたいのですが、ここを掘り出すと千葉氏、里見氏などを調べていかなければなりません。
それも少し茨城中心のブログからはずれてきますので、また時間がある時にしたいと思います。
明日ももう少し、また祭りと街中の様子の紹介が続きます。


佐原の大祭(秋祭り)(4)
(水郷)佐原の大祭は壮大な山車が有名で、川越の祭りと石岡の祭りと合わせて関東三大祭りなどと言われています。
私がこの佐原の秋祭りに行ったのは初めてですし、平日初日の昼間でしたので、祭りもまだ本調子ではありませんでした。
しかし、有名な祭りなので平日といえども人がごった返しているだろうと思ってきたのですが、拍子抜けでした。
祭りがないときもこの小江戸と言われる風情を求めて観光客はそれなりに来ています。
それがお祭りならばすごいことになっているかと思いきや思ったほどではありませんでした。
しかし、おかげで、町並みをゆっくり見物できました。

佐原の街中の道路はどこも狭く、電線も地中化されていないので、山車を引き回すにも大変だと思います。
当然通りに屋台が並ぶようなら狭くて危ないでしょう。
街並みの景観を楽しむには屋台などはない方が良いということでしょうか?
テキヤと呼ばれる人たちの姿はありません。

メイン通りに山車が並ぶと、山車の上では笛や鉦に太鼓で佐原囃子(ばやし)が演じられます。
綱を引っ張っていた人々はこの調子に合わせて踊りが披露されます。
割合に単純な昔の盆踊り風の振り付けと歌のように思いました。
この囃子は結構伝統が古いようです。


もともと潮来などの水郷地帯は「潮来節」といった三味線と小唄が盛んで、その流れもあるように思います。
都々逸なども、その元になったのはこの潮来節だと言われています。
そして、これが形を変えて祭りや田植え歌などとして形を変えながら発展していったものでしょう。
そんなルーツを考えたり、徳島の阿波踊りを思い浮かべたりしながら見ておりましたら、ほのぼのとした思いがこみ上げてきました。

(サムネルです)
まだ山車も中央に集まっていませんので、踊りもまだ練習しているようにも見えました。

写真は金曜日のものです。土日には山車が集合し踊りも本番になったでしょう。
また夜には山車に明かりが灯り賑やかになったことでしょう。
狭い通りも人がいっぱいになるようです。
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私がこの佐原の秋祭りに行ったのは初めてですし、平日初日の昼間でしたので、祭りもまだ本調子ではありませんでした。
しかし、有名な祭りなので平日といえども人がごった返しているだろうと思ってきたのですが、拍子抜けでした。
祭りがないときもこの小江戸と言われる風情を求めて観光客はそれなりに来ています。
それがお祭りならばすごいことになっているかと思いきや思ったほどではありませんでした。
しかし、おかげで、町並みをゆっくり見物できました。

佐原の街中の道路はどこも狭く、電線も地中化されていないので、山車を引き回すにも大変だと思います。
当然通りに屋台が並ぶようなら狭くて危ないでしょう。
街並みの景観を楽しむには屋台などはない方が良いということでしょうか?
テキヤと呼ばれる人たちの姿はありません。

メイン通りに山車が並ぶと、山車の上では笛や鉦に太鼓で佐原囃子(ばやし)が演じられます。
綱を引っ張っていた人々はこの調子に合わせて踊りが披露されます。
割合に単純な昔の盆踊り風の振り付けと歌のように思いました。
この囃子は結構伝統が古いようです。


もともと潮来などの水郷地帯は「潮来節」といった三味線と小唄が盛んで、その流れもあるように思います。
都々逸なども、その元になったのはこの潮来節だと言われています。
そして、これが形を変えて祭りや田植え歌などとして形を変えながら発展していったものでしょう。
そんなルーツを考えたり、徳島の阿波踊りを思い浮かべたりしながら見ておりましたら、ほのぼのとした思いがこみ上げてきました。

(サムネルです)
まだ山車も中央に集まっていませんので、踊りもまだ練習しているようにも見えました。

写真は金曜日のものです。土日には山車が集合し踊りも本番になったでしょう。
また夜には山車に明かりが灯り賑やかになったことでしょう。
狭い通りも人がいっぱいになるようです。


佐原の大祭(秋祭り)(5)
千葉県香取市佐原で行われた大祭の初日のみ見学した時の写真を載せています。
最後にここを流れる小野川にスポットを当てて紹介しておきたいと思います。
小野川という名前が何からついたのかはわかりません。全国各地に多くの同じ名前の川があるようです。
しかし、ここからさほど遠くない茨城県の稲敷市の江戸崎を紹介した時に町を流れる川の名前も同じ小野川でした。
偶然の一致でしょうか?
この佐原を流れる川は比較的小さな川です。ちょっと見には運河のような川です。

祭り期間は、利根川の河川敷緑地が臨時の駐車場になっています。
初日の金曜日の午後でも車も少なかったです。
このテントの場所で祭りのパンフレットをいただいて街を目指します。

小野川がここで利根川に流れ込みますが、そこに大きな水門が作られています。
小野川は写真の水門の右側です。左側は利根川の入江のような湾状になっています。

この水門のところより佐原の中心部までシャトル船が運行されています。
往復1000円だそうです。
でも川沿いに歩いても1kmほどしかないので、ゆっくり散策しながら行くことにしました。

昼ころは手持ち無沙汰でしたが、段々とピストン輸送になってきていました。
船にはすべてエンジンが付いており、水郷情緒を演出する女船頭さんとエンジンを操作する男の人の2人で操作していました。
祭りの時は仕方ないかもしれませんが、できれば手漕ぎの舟の方が情緒があり良いと思うのですが、やはり大変なのでしょうね。

結構早いので5~6分で着いてしまうでしょうね。
この最初の国道から水門までの川沿いは工事中でした。
後から工事の内容を見て知ったのですが、護岸工事とともに、街中の川沿いと同じように茶色い木柵を両側に設置しているようでした。
ここまで川沿いの風情を残し、柳も植えるのかもしれません。
東京や行徳あたりでも江戸川やそれから伸びる運河などを昔の名残を復活させようと整備が進んでいるとも聞きます。

いま工事中のところも、来年になるときっとこのような風景が見られるのかもしれません。

シャトル船は、川沿いの街並みや、山車などを眺めながら進みます。
川からの眺めも素敵に思いますが、往復とも船では、町並みをじっくり観察できませんね。
川沿いの商家などに吊るされた提灯。脇道から見える家屋の奥行など、目に焼き付きます。

川に架かる橋や、街灯もなかなか凝った作りで、雰囲気を盛り上げています。

川には観光用でしょうか、白鳥の船や、小舟なども浮かんでいますが、祭り期間中は多分すべて中止なのでしょう。

川の上をJR成田線の線路(鉄橋)が横切っています。
佐原の駅がすぐ近くですが、この鉄道でこの町に来る人はあまりいないように思います。
東京からなら高速バスで1時間半くらいですので、ほとんどの人はバスになってしまったように思います。
鉄道なら成田まで特急できて、銚子行きの電車で5つ目です。
のんびりローカル線を楽しむなら、我孫子から成田線などという手もあります。
これは本当にローカルな良さがあります。駅名などを見てみたらとても面白いですよ。
この近くの香取神宮は鹿島神宮と並ぶ古社ですが、下総(しもふさ、しもおさ)国の一宮です。
国府は市川ですから、結構離れていますね。
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最後にここを流れる小野川にスポットを当てて紹介しておきたいと思います。
小野川という名前が何からついたのかはわかりません。全国各地に多くの同じ名前の川があるようです。
しかし、ここからさほど遠くない茨城県の稲敷市の江戸崎を紹介した時に町を流れる川の名前も同じ小野川でした。
偶然の一致でしょうか?
この佐原を流れる川は比較的小さな川です。ちょっと見には運河のような川です。

祭り期間は、利根川の河川敷緑地が臨時の駐車場になっています。
初日の金曜日の午後でも車も少なかったです。
このテントの場所で祭りのパンフレットをいただいて街を目指します。

小野川がここで利根川に流れ込みますが、そこに大きな水門が作られています。
小野川は写真の水門の右側です。左側は利根川の入江のような湾状になっています。

この水門のところより佐原の中心部までシャトル船が運行されています。
往復1000円だそうです。
でも川沿いに歩いても1kmほどしかないので、ゆっくり散策しながら行くことにしました。

昼ころは手持ち無沙汰でしたが、段々とピストン輸送になってきていました。
船にはすべてエンジンが付いており、水郷情緒を演出する女船頭さんとエンジンを操作する男の人の2人で操作していました。
祭りの時は仕方ないかもしれませんが、できれば手漕ぎの舟の方が情緒があり良いと思うのですが、やはり大変なのでしょうね。

結構早いので5~6分で着いてしまうでしょうね。
この最初の国道から水門までの川沿いは工事中でした。
後から工事の内容を見て知ったのですが、護岸工事とともに、街中の川沿いと同じように茶色い木柵を両側に設置しているようでした。
ここまで川沿いの風情を残し、柳も植えるのかもしれません。
東京や行徳あたりでも江戸川やそれから伸びる運河などを昔の名残を復活させようと整備が進んでいるとも聞きます。

いま工事中のところも、来年になるときっとこのような風景が見られるのかもしれません。

シャトル船は、川沿いの街並みや、山車などを眺めながら進みます。
川からの眺めも素敵に思いますが、往復とも船では、町並みをじっくり観察できませんね。
川沿いの商家などに吊るされた提灯。脇道から見える家屋の奥行など、目に焼き付きます。

川に架かる橋や、街灯もなかなか凝った作りで、雰囲気を盛り上げています。

川には観光用でしょうか、白鳥の船や、小舟なども浮かんでいますが、祭り期間中は多分すべて中止なのでしょう。

川の上をJR成田線の線路(鉄橋)が横切っています。
佐原の駅がすぐ近くですが、この鉄道でこの町に来る人はあまりいないように思います。
東京からなら高速バスで1時間半くらいですので、ほとんどの人はバスになってしまったように思います。
鉄道なら成田まで特急できて、銚子行きの電車で5つ目です。
のんびりローカル線を楽しむなら、我孫子から成田線などという手もあります。
これは本当にローカルな良さがあります。駅名などを見てみたらとても面白いですよ。
この近くの香取神宮は鹿島神宮と並ぶ古社ですが、下総(しもふさ、しもおさ)国の一宮です。
国府は市川ですから、結構離れていますね。


佐原諏訪神社(香取市)(1)
関東三大山車祭りと言われる佐原(香取市)の大祭は7月と10月に町内を2分して行われる。
その10月の秋祭りはこの諏訪神社の祭り(小野川の西側:新宿地区の祭り)とされている。
(7月の祭りは本宿の八坂神社の祇園祭)
この諏訪神社を初めて訪れて見たが、かなり大きな神社で江戸時代の水運で発達した水郷佐原の街を偲ばせてくれる。

(クリックすると大きな写真が見られます)
佐原駅から北に向かってくねくねとした道をたどっていくと諏訪神社入口につく。
この町も中心地は車で行くと道が分からなくなる。
神社入口から平坦な参道が長く伸びていて、両側に灯籠と杉並木が続く。
上の写真は参道の途中からふり返ったところ。
入口には大きな鳥居があり、右手には伊能忠敬の像があったそうだがそちらは見ていない。
入口付近が狭く、車を神社裏手の駐車場に止めたので見学は逆に上の方から見ていく形となってしまった。

(クリックすると大きな写真が見られます)
神社は高台にありこの2つにわかれた計100段程の階段を登る。上の写真は1つ目の階段入口。

(クリックすると大きな写真が見られます)
こちらは2つ目の階段だが、こちらは少し古そうだ。
こちらにある灯籠が400年以上前と言われる古いものなのか?
左側にある石碑は「万國衣冠して冕旒を拝す」と書かれているそうです。
(大正三年建、 大正天皇御即位記念、高さ4.6m)

途中赤レンガで固めたステップがあった。神社としてはあまり見かけない気がする。

(クリックすると大きな写真が見られます)
階段を登ったところに神社本殿があります。
嘉永6年(1835)の造営。但しその前にあった本殿は元禄14年(1701)の造営と言われる。
なぜこの下総の佐原に諏訪神社があるのか少し不思議な気がして調べて見た。
Wikipediaには
「天慶の乱で伊予国の藤原純友を討った功績により下総大須賀荘(現成田市伊能)領主に任ぜられた大神惟季は、領内の守護として信濃国諏訪大社を勧請した。その後、天正年間に領内の農民を率い佐原新宿を開発するに際して守神として勧請したものである」
と書かれていた。
この辺りはもう少し調べて見るとかなり面白そうだが茨城から外れているのであまり深くは探らないことにしよう。
天慶の乱は関東の平将門の乱と関西の藤原純友の乱の両方をさすそうだが、藤原純友の方はよく知らない。
また大神惟季(おおがのこれすえ)は平安時代中期の雅楽家(笛の達人)だそうだ。
確か新羅三郎義光も少し後の生まれだが笛の名人だったはず。
それにしても諏訪大社は出雲神だろうね。
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その10月の秋祭りはこの諏訪神社の祭り(小野川の西側:新宿地区の祭り)とされている。
(7月の祭りは本宿の八坂神社の祇園祭)
この諏訪神社を初めて訪れて見たが、かなり大きな神社で江戸時代の水運で発達した水郷佐原の街を偲ばせてくれる。

(クリックすると大きな写真が見られます)
佐原駅から北に向かってくねくねとした道をたどっていくと諏訪神社入口につく。
この町も中心地は車で行くと道が分からなくなる。
神社入口から平坦な参道が長く伸びていて、両側に灯籠と杉並木が続く。
上の写真は参道の途中からふり返ったところ。
入口には大きな鳥居があり、右手には伊能忠敬の像があったそうだがそちらは見ていない。
入口付近が狭く、車を神社裏手の駐車場に止めたので見学は逆に上の方から見ていく形となってしまった。

(クリックすると大きな写真が見られます)
神社は高台にありこの2つにわかれた計100段程の階段を登る。上の写真は1つ目の階段入口。

(クリックすると大きな写真が見られます)
こちらは2つ目の階段だが、こちらは少し古そうだ。
こちらにある灯籠が400年以上前と言われる古いものなのか?
左側にある石碑は「万國衣冠して冕旒を拝す」と書かれているそうです。
(大正三年建、 大正天皇御即位記念、高さ4.6m)

途中赤レンガで固めたステップがあった。神社としてはあまり見かけない気がする。

(クリックすると大きな写真が見られます)
階段を登ったところに神社本殿があります。
嘉永6年(1835)の造営。但しその前にあった本殿は元禄14年(1701)の造営と言われる。
なぜこの下総の佐原に諏訪神社があるのか少し不思議な気がして調べて見た。
Wikipediaには
「天慶の乱で伊予国の藤原純友を討った功績により下総大須賀荘(現成田市伊能)領主に任ぜられた大神惟季は、領内の守護として信濃国諏訪大社を勧請した。その後、天正年間に領内の農民を率い佐原新宿を開発するに際して守神として勧請したものである」
と書かれていた。
この辺りはもう少し調べて見るとかなり面白そうだが茨城から外れているのであまり深くは探らないことにしよう。
天慶の乱は関東の平将門の乱と関西の藤原純友の乱の両方をさすそうだが、藤原純友の方はよく知らない。
また大神惟季(おおがのこれすえ)は平安時代中期の雅楽家(笛の達人)だそうだ。
確か新羅三郎義光も少し後の生まれだが笛の名人だったはず。
それにしても諏訪大社は出雲神だろうね。


佐原諏訪神社(2)
佐原の諏訪神社の社殿に登る石段の途中に左右に二つ神社がある。
左側にはお稲荷さん。
右側には平行に石段がついた立派な神社で境内社というより別な神社のような造りだ。

入口鳥居の額には「金毘羅神社」と書かれている。
讃岐で有名な金毘羅さんだ。


石段の途中に船のいかりが奉納されていた。
銚子近辺まで含め漁業関係者の参拝が多いようだ。
やはり海の守り神として信仰されてきた証である。
石岡の街中にも「金刀比羅神社」がある。
これも昔は笠間の稲荷と並んでにぎわった神社であったそうだが、霞ヶ浦の水運が無くなってからはそれらの船主さんたちがいなくなりすっかり昔の面影が無くなってしまったという。
「笠間の稲荷か、府中(石岡)の金毘羅さん」と親しまれたというのも昔の話。
今笠間では菊祭りが行われている。
菊祭りでは日本最古の伝統を持つという。やはり石岡はどこかさびしい。
この狛犬なども黒潮文化圏の流れをくむものかもしれない。
そうするとこの諏訪神社とどのようにして一緒になったのだろうか?


変った額が奉納されていましたのでアップしてみました。
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左側にはお稲荷さん。
右側には平行に石段がついた立派な神社で境内社というより別な神社のような造りだ。

入口鳥居の額には「金毘羅神社」と書かれている。
讃岐で有名な金毘羅さんだ。


石段の途中に船のいかりが奉納されていた。
銚子近辺まで含め漁業関係者の参拝が多いようだ。
やはり海の守り神として信仰されてきた証である。
石岡の街中にも「金刀比羅神社」がある。
これも昔は笠間の稲荷と並んでにぎわった神社であったそうだが、霞ヶ浦の水運が無くなってからはそれらの船主さんたちがいなくなりすっかり昔の面影が無くなってしまったという。
「笠間の稲荷か、府中(石岡)の金毘羅さん」と親しまれたというのも昔の話。
今笠間では菊祭りが行われている。
菊祭りでは日本最古の伝統を持つという。やはり石岡はどこかさびしい。
この狛犬なども黒潮文化圏の流れをくむものかもしれない。
そうするとこの諏訪神社とどのようにして一緒になったのだろうか?


変った額が奉納されていましたのでアップしてみました。


佐原諏訪神社(3)
千葉県香取市佐原の諏訪神社の3回目です。
神社の拝殿はこのような形をしています。このような屋根を何と言うのでしょうか。
どこかで見たような気もします。
この社殿は嘉永6年(1835)の造営という。裏に本殿もあるが同じような造りだ。

こちらが本殿。

拝殿の中。


こちらは神輿。金ピカだ。

神社は高台にあるので、神社の横道を進むと佐原の街の方が一望できる。

神社入口の階段を上から見下ろしたところ。
左手に昨日説明した「金毘羅神社」の屋根が見える。
右手には稲荷神社がある。

これがその稲荷神社。「土盛(すなもり)稲荷大明神」と書かれている。


諏訪神社の入口階段の登り口すぐ脇に水が流れ出している場所がある。
これがこの神社をこの場所に建てた所以だろう。
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神社の拝殿はこのような形をしています。このような屋根を何と言うのでしょうか。
どこかで見たような気もします。
この社殿は嘉永6年(1835)の造営という。裏に本殿もあるが同じような造りだ。

こちらが本殿。

拝殿の中。


こちらは神輿。金ピカだ。

神社は高台にあるので、神社の横道を進むと佐原の街の方が一望できる。

神社入口の階段を上から見下ろしたところ。
左手に昨日説明した「金毘羅神社」の屋根が見える。
右手には稲荷神社がある。

これがその稲荷神社。「土盛(すなもり)稲荷大明神」と書かれている。


諏訪神社の入口階段の登り口すぐ脇に水が流れ出している場所がある。
これがこの神社をこの場所に建てた所以だろう。


佐原三菱館(香取市)
佐原はいまは香取市となったがやはり水郷佐原(さわら)といった方が似合う街だ。
香取神宮のおひざ元の街であるが伊能忠敬に代表される江戸時代にも水運で大変にぎわった町である。
ここは街を東西に2分して年に2回お祭りがあり、「関東三大山車祭り」と呼んでいる。

今回近くに行った時に、この旧川崎銀行(後に三菱銀行)として建てられた建物を是非じっくり見て見たいと思ったのである。
前に行った時にはちらっと見ただけで、建物を良く見てこなかったのだ。

このような頭部にドーム状の屋根を持つ赤レンガ造りのしゃれた建物だ。

現地に書かれている説明によると
明治13年(1880)に川崎銀行佐原支店が設立された。
その後大正3年(1913)に今の清水建設の前進の清水満之助商店がこの建物を設計建築した。
川崎銀行は三菱銀行となったが、1989年に新館を建設するためこの旧館は佐原市に寄贈された。

佐原にこの建物を残したのは本当に良かった。
小江戸とも呼ばれる佐原の街はこのような洋風の建物は少ない。
江戸時代から明治にかけての建物がまだ多く残っている。
その中でこの建物は異色を放っている。

石岡の街にもこの建物とそっくりな「川崎第百銀行石岡支店」という建物があった。(こちらの記事参照)
しかしこの建物は残っていない。
現在残っていればどんなであったのかと思う。
佐原のこの建物は使われていないようだが、この建物を増設した形でここに「佐原町並み交流館」という施設がある。

ここにはボランティアの方が4人ほどいて、街並みのジオラマが再現されていた。


この三菱館もあった。
ボランティアスタッフの方はみなさん熱心で石岡からもボンネットバスが来たことがあると話されていた。
中を一通り見て地図をいただいたのを眺めて急に聞いてみたくなって年配の男の方に尋ねた。
「町の真ん中に流れている川は小野川と書かれていますが、この名前の由来は何かありますか?」
「さあ・・・」といって若いスタッフの方にネットで検索させた。
まあネットでわかるくらいなら質問はしないよと思ったが、
「この近くか、上流の方に小野という地名はありますか?」
「ああ、それなら少し先にあります。」
「そこは何か昔からの謂れでもありそうなところですか?」
「いや・・・ 何もないところですよ。」
「小町伝説もないんですか」
「・・・(笑) 聞いたことないですね。」
「そうですか。茨城県も江戸崎の霞ヶ浦に注ぐ川に小野川というのがあって共通点がないか知りたかったのです。
この江戸崎辺りに「榎浦の津」と言われていた場所があったはずで港で船がつくところだったようです。」
「そう津は確かに船着き場ですね。私の住んでいる場所も津宮(つのみや)と言って、香取神宮の鳥居があって香取の海と言われていた頃にここに船着き場があった場所だそうです」と年配のスタッフさんが教えてくれました。
こんな会話もまた楽しいですね。やはりこの辺りでは霞ヶ浦は香取の海と呼んでいますね。
江戸崎の方では「流れ海」というのが普通のようです。
この小野川と名前がついた川は全国にたくさんあります。
小野というと小町を思い出しますが、小野妹子に代表されるように古い氏族の名前(滋賀県大津市)のでもあります。
また近いうちにお邪魔して街の散策をやりたいと思います。
佐原はとてもよい街です。
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香取神宮のおひざ元の街であるが伊能忠敬に代表される江戸時代にも水運で大変にぎわった町である。
ここは街を東西に2分して年に2回お祭りがあり、「関東三大山車祭り」と呼んでいる。

今回近くに行った時に、この旧川崎銀行(後に三菱銀行)として建てられた建物を是非じっくり見て見たいと思ったのである。
前に行った時にはちらっと見ただけで、建物を良く見てこなかったのだ。

このような頭部にドーム状の屋根を持つ赤レンガ造りのしゃれた建物だ。

現地に書かれている説明によると
明治13年(1880)に川崎銀行佐原支店が設立された。
その後大正3年(1913)に今の清水建設の前進の清水満之助商店がこの建物を設計建築した。
川崎銀行は三菱銀行となったが、1989年に新館を建設するためこの旧館は佐原市に寄贈された。

佐原にこの建物を残したのは本当に良かった。
小江戸とも呼ばれる佐原の街はこのような洋風の建物は少ない。
江戸時代から明治にかけての建物がまだ多く残っている。
その中でこの建物は異色を放っている。

石岡の街にもこの建物とそっくりな「川崎第百銀行石岡支店」という建物があった。(こちらの記事参照)
しかしこの建物は残っていない。
現在残っていればどんなであったのかと思う。
佐原のこの建物は使われていないようだが、この建物を増設した形でここに「佐原町並み交流館」という施設がある。

ここにはボランティアの方が4人ほどいて、街並みのジオラマが再現されていた。


この三菱館もあった。
ボランティアスタッフの方はみなさん熱心で石岡からもボンネットバスが来たことがあると話されていた。
中を一通り見て地図をいただいたのを眺めて急に聞いてみたくなって年配の男の方に尋ねた。
「町の真ん中に流れている川は小野川と書かれていますが、この名前の由来は何かありますか?」
「さあ・・・」といって若いスタッフの方にネットで検索させた。
まあネットでわかるくらいなら質問はしないよと思ったが、
「この近くか、上流の方に小野という地名はありますか?」
「ああ、それなら少し先にあります。」
「そこは何か昔からの謂れでもありそうなところですか?」
「いや・・・ 何もないところですよ。」
「小町伝説もないんですか」
「・・・(笑) 聞いたことないですね。」
「そうですか。茨城県も江戸崎の霞ヶ浦に注ぐ川に小野川というのがあって共通点がないか知りたかったのです。
この江戸崎辺りに「榎浦の津」と言われていた場所があったはずで港で船がつくところだったようです。」
「そう津は確かに船着き場ですね。私の住んでいる場所も津宮(つのみや)と言って、香取神宮の鳥居があって香取の海と言われていた頃にここに船着き場があった場所だそうです」と年配のスタッフさんが教えてくれました。
こんな会話もまた楽しいですね。やはりこの辺りでは霞ヶ浦は香取の海と呼んでいますね。
江戸崎の方では「流れ海」というのが普通のようです。
この小野川と名前がついた川は全国にたくさんあります。
小野というと小町を思い出しますが、小野妹子に代表されるように古い氏族の名前(滋賀県大津市)のでもあります。
また近いうちにお邪魔して街の散策をやりたいと思います。
佐原はとてもよい街です。


伊能忠敬像
佐原の町も通りが狭く毎回車で行っても道がわからなくなる。
「忠敬橋」が中心になるのだが一方通行などをぐるぐると回されて目的地に着く。
街中観光の設備はかなり整っており無料駐車場やトイレの設備は比較的良いように思う。
今日も銚子に行く途中で寄り道をしたのだがまた諏訪神社の前を通った。

諏訪神社は伊能家が代々守ってきたそうで、その入口の公園に伊能忠敬の像が置かれている。
もちろん忠敬の旧家の所には記念館があり測量機器などすべてが国の指定文化財に指定され飾られている。

こちらが諏訪神社の入口。
新宿の秋の大祭はこの神社のお祭りだ。

中心の通りに向かう時に気になった建物を撮ったものを載せます。


また後で佐原の街は紹介したいと思います。
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「忠敬橋」が中心になるのだが一方通行などをぐるぐると回されて目的地に着く。
街中観光の設備はかなり整っており無料駐車場やトイレの設備は比較的良いように思う。
今日も銚子に行く途中で寄り道をしたのだがまた諏訪神社の前を通った。

諏訪神社は伊能家が代々守ってきたそうで、その入口の公園に伊能忠敬の像が置かれている。
もちろん忠敬の旧家の所には記念館があり測量機器などすべてが国の指定文化財に指定され飾られている。

こちらが諏訪神社の入口。
新宿の秋の大祭はこの神社のお祭りだ。

中心の通りに向かう時に気になった建物を撮ったものを載せます。


また後で佐原の街は紹介したいと思います。


八坂神社(佐原)
千葉県佐原(現香取市)のお祭りは有名ですが、町を2分して2回に分けて行われます。
10月に行われる秋祭りは小野川の西側「新宿」地区の祭りで前に紹介した「諏訪神社」(その1、その2、その3)の祭りだと言います。
この神社も大きくて見所が多く3回にも分けて紹介しました。
では7月に行われる本宿の祭りは「八坂神社」だというので見に行ってきました。(12月初め)

12月3日に撮影したのでまだ銀杏がきれいでした。

佐原の祭りは祇園祭で山車がたくさん出ます。
祇園祭ですからこの「八坂神社」の祭りが発展したものだと思います。
しかし、この街中にある八坂神社は思ったよりも重みが感じられません。

狛犬と拝殿。

本殿

この狛犬は風格があります。



境内社



この神社の境内に隣接して祭りの山車を展示している「山車会館」がある。
見応えがあったので明日また紹介します。
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10月に行われる秋祭りは小野川の西側「新宿」地区の祭りで前に紹介した「諏訪神社」(その1、その2、その3)の祭りだと言います。
この神社も大きくて見所が多く3回にも分けて紹介しました。
では7月に行われる本宿の祭りは「八坂神社」だというので見に行ってきました。(12月初め)

12月3日に撮影したのでまだ銀杏がきれいでした。

佐原の祭りは祇園祭で山車がたくさん出ます。
祇園祭ですからこの「八坂神社」の祭りが発展したものだと思います。
しかし、この街中にある八坂神社は思ったよりも重みが感じられません。

狛犬と拝殿。

本殿

この狛犬は風格があります。



境内社



この神社の境内に隣接して祭りの山車を展示している「山車会館」がある。
見応えがあったので明日また紹介します。


佐原山車会館
年2回行われる佐原の大祭は地元では「関東三大山車まつり」と呼ばれている。
石岡が関東三大祭りだと言いだしたら、そんなことは聞いたことがないなどという私にとってはくだらない議論をしていたが、言いだしっぺの強みでだいぶこの言葉も浸透してきた。
そこで、三大祭りがどこかとか、三大山車(だし)祭りは何処なのかなどとつまらぬ事を詮索しているサイトも良く見かけるが、本質を見極めていないととんでもない誤解を生む。
佐原、川越、石岡の各お祭りは共通部分も多く、基本は祇園祭だ。
八坂神社や牛頭神社のおまつりで、どこもそんなに昔の事ではない。
江戸時代に祇園祭が江戸の街で盛んになり、それが全国各地に飛び火していった。(そう思っている)
江戸から明治になった頃に一旦どこも規模は縮小して行ったのだろう。
それが江戸が東京になって神田などでは、多くの人形師も集まり、腕を競って、大きな時代武者人形や絢爛豪華な彫刻を施した山車が製作されていった。
しかし、鉄道が敷かれ、市電が街中を走りだすとこの山車を引きまわすことが出来なくなり、これが神輿に代わって行った。
一方地方では逆にこれらの山車や人形を買い取り祭りも次第に規模が大きくなっていった。
そして明治終わり頃から昭和の初期の頃には製糸産業などの地方の景気も良く、競って大きな豪華な山車を作るようになっていった。
そんな思いを抱えて佐原の「山車(だし)会館」を見てみた。

本宿の祭りの神社である「八坂神社」に隣接(境内?)して、このコンクリート造りの山車会館がある。

中の見学は有料だ。伊能忠敬記念館とセットにすると多少安くなるらしい。
でもあちらは前にじっくり見たので今回はこの山車をじっくり見てみよう。

山車会館は大きな2台(本宿、新宿 各1台)の山車が空調の効いた部屋の中に置かれていた。
そして、両側の壁は大きな鏡が置かれていて、2台ではなく何台もあるように奥行きを持たせていた。

写真撮影はビデオ室内は禁止だが、その他はOKだそうだ。
ビデオは来客があるとスイッチを入れる。佐原の観光PR用のビデオを大形のテレビ画面2つに映し出すもので、時間は15分位で、わかりやすく魅力を伝えていた。

西関戸の山車は秋10月の大祭に使われる新宿地区の山車です。
立派なもので、この山車の彫刻は江戸時代の嘉永年間(1848-54年)の制作で、山車に車や台は昭和10年に作られたものです。
また上の人形は「ニニギの尊(瓊瓊杵尊)」で、江戸の人形町(鼠屋)で昭和15年に購入したものだそうです。



この車輪の横に渡した太い棒は山車を回転させたりする時に使うものです。
こうして毎年のように新しいものに取り換えているのでしょう。
石岡の山車は台(舞台)が回転するようにつくられていますが、こちらではこの棒を使って台ごと持ち上げながら回します。
のの字まわしなどと呼ばれて祭りの見所の一つになっています。
もう一つは7月に行われる大祭に使われる本宿地区にある「寺宿町」の山車です。

山車および彫刻は嘉永 3年(1850)の制作と言われとかなり古いものです。
人形は「金時山姥」で明治12年の制作で、やはり日本橋の鼠屋の人形師の手によるものです。

神輿

上の写真は昔全ての山車が一同に勢ぞろいした時のもので、御大典の時(昭和天皇の即位?)のものだそうです。


この会館の裏手に大きな扉があります。
祭りの時にはここに飾ってある山車もここから出して参加するのだそうです。
そしてこの町の御年輩の方に昔のお話を伺いましたが、その中で興味深いお話がありました。
昔、山車の飾りの彫り師には越後から冬場に何人も来ていたそうです。
そして数日仕事をするとその日までの賃金をもらうと遊郭で使い果たして、また仕事をしていたと言います。
その越後が私の生まれ故郷の「小千谷」だともいっていました。
雪深い越後には冬になると関東や江戸に多くの職人がやってきました。
石岡でも醤油や酒の職人は皆このような人たちだったとの話も聞いたことがありますので、石岡の祭りの山車の彫りものにも江戸ゆずりの彫り師に混じって越後の職人もいたのでしょうか。
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石岡が関東三大祭りだと言いだしたら、そんなことは聞いたことがないなどという私にとってはくだらない議論をしていたが、言いだしっぺの強みでだいぶこの言葉も浸透してきた。
そこで、三大祭りがどこかとか、三大山車(だし)祭りは何処なのかなどとつまらぬ事を詮索しているサイトも良く見かけるが、本質を見極めていないととんでもない誤解を生む。
佐原、川越、石岡の各お祭りは共通部分も多く、基本は祇園祭だ。
八坂神社や牛頭神社のおまつりで、どこもそんなに昔の事ではない。
江戸時代に祇園祭が江戸の街で盛んになり、それが全国各地に飛び火していった。(そう思っている)
江戸から明治になった頃に一旦どこも規模は縮小して行ったのだろう。
それが江戸が東京になって神田などでは、多くの人形師も集まり、腕を競って、大きな時代武者人形や絢爛豪華な彫刻を施した山車が製作されていった。
しかし、鉄道が敷かれ、市電が街中を走りだすとこの山車を引きまわすことが出来なくなり、これが神輿に代わって行った。
一方地方では逆にこれらの山車や人形を買い取り祭りも次第に規模が大きくなっていった。
そして明治終わり頃から昭和の初期の頃には製糸産業などの地方の景気も良く、競って大きな豪華な山車を作るようになっていった。
そんな思いを抱えて佐原の「山車(だし)会館」を見てみた。

本宿の祭りの神社である「八坂神社」に隣接(境内?)して、このコンクリート造りの山車会館がある。

中の見学は有料だ。伊能忠敬記念館とセットにすると多少安くなるらしい。
でもあちらは前にじっくり見たので今回はこの山車をじっくり見てみよう。

山車会館は大きな2台(本宿、新宿 各1台)の山車が空調の効いた部屋の中に置かれていた。
そして、両側の壁は大きな鏡が置かれていて、2台ではなく何台もあるように奥行きを持たせていた。

写真撮影はビデオ室内は禁止だが、その他はOKだそうだ。
ビデオは来客があるとスイッチを入れる。佐原の観光PR用のビデオを大形のテレビ画面2つに映し出すもので、時間は15分位で、わかりやすく魅力を伝えていた。

西関戸の山車は秋10月の大祭に使われる新宿地区の山車です。
立派なもので、この山車の彫刻は江戸時代の嘉永年間(1848-54年)の制作で、山車に車や台は昭和10年に作られたものです。
また上の人形は「ニニギの尊(瓊瓊杵尊)」で、江戸の人形町(鼠屋)で昭和15年に購入したものだそうです。



この車輪の横に渡した太い棒は山車を回転させたりする時に使うものです。
こうして毎年のように新しいものに取り換えているのでしょう。
石岡の山車は台(舞台)が回転するようにつくられていますが、こちらではこの棒を使って台ごと持ち上げながら回します。
のの字まわしなどと呼ばれて祭りの見所の一つになっています。
もう一つは7月に行われる大祭に使われる本宿地区にある「寺宿町」の山車です。

山車および彫刻は嘉永 3年(1850)の制作と言われとかなり古いものです。
人形は「金時山姥」で明治12年の制作で、やはり日本橋の鼠屋の人形師の手によるものです。

神輿

上の写真は昔全ての山車が一同に勢ぞろいした時のもので、御大典の時(昭和天皇の即位?)のものだそうです。


この会館の裏手に大きな扉があります。
祭りの時にはここに飾ってある山車もここから出して参加するのだそうです。
そしてこの町の御年輩の方に昔のお話を伺いましたが、その中で興味深いお話がありました。
昔、山車の飾りの彫り師には越後から冬場に何人も来ていたそうです。
そして数日仕事をするとその日までの賃金をもらうと遊郭で使い果たして、また仕事をしていたと言います。
その越後が私の生まれ故郷の「小千谷」だともいっていました。
雪深い越後には冬になると関東や江戸に多くの職人がやってきました。
石岡でも醤油や酒の職人は皆このような人たちだったとの話も聞いたことがありますので、石岡の祭りの山車の彫りものにも江戸ゆずりの彫り師に混じって越後の職人もいたのでしょうか。


水郷佐原の街並み(1)
銚子に行く途中で小江戸といわれる佐原(香取市)の街によって寄って見ました。
伊能忠敬の街として良く知られていますが、ここは江戸時代から明治時代の建物がたくさん残っており、そのほとんどが現役で使われているところがすごいところです。
春と夏の祭りは有名でこの時にはたくさんの人が訪れます。
では今の時期はどうなのだろうと思っていましたが、もうお雛様は過ぎたはずなのですが、まだ「ひな巡り」をやっていました。
2月8日~3月23日までとなっていました。(今年で9回目)
おかみさん会という組織で活動しているそうです。
佐原の古くからの家々(現在40軒?)が参加している「佐原まちぐるみ博物館」と銘打っていろいろ貴重なものも展示しているようです。
今回はじっくり見て回る時間はなかったのでまたの機会には訪れたいと思います。

(写真をクリックすると拡大します)
こちらは旧三菱銀行の所に隣接して造られている「佐原街並み交流館」に飾られていたお雛様です。
上の写真は「下野の「ひとがた」」となっています。
下野国(栃木県)の思川などで伝統的に行われている行事「ながしびな」だそうです。
伝統的な「下野しぼり紙」でつくられたものです。

(写真をクリックすると拡大します)
なかなか可愛いですね。何故栃木県小山のものがここに飾られているのかは分かりません。

(写真をクリックすると拡大します)

(写真をクリックすると拡大します)
これらの雛人形のほかに佐原の切り絵作家「野口正博」さんの作品が展示されておりましたが、こちらは撮影禁止だそうです。

(写真をクリックすると拡大します)

(写真をクリックすると拡大します)
こちらは近くの喫茶店(Rice Forest)ですが、お店はなかなか趣のある古い建物です。
お汁粉(400円)

(写真をクリックすると拡大します)
お菓子屋「ほていや」さんです。
店の裏に古びた大きな蔵があります。 場所は伊能忠敬記念館西側入口信号脇です。

(写真をクリックすると拡大します)
上野写真はめがね屋さんです。
今度の土日(3月15日(土)・16日(日))には小野川で「さわら雛舟」(佐原春祭り)を運航するそうです。
詳しくはこちらを見て下さい。
← よろしければクリックお願いします。
伊能忠敬の街として良く知られていますが、ここは江戸時代から明治時代の建物がたくさん残っており、そのほとんどが現役で使われているところがすごいところです。
春と夏の祭りは有名でこの時にはたくさんの人が訪れます。
では今の時期はどうなのだろうと思っていましたが、もうお雛様は過ぎたはずなのですが、まだ「ひな巡り」をやっていました。
2月8日~3月23日までとなっていました。(今年で9回目)
おかみさん会という組織で活動しているそうです。
佐原の古くからの家々(現在40軒?)が参加している「佐原まちぐるみ博物館」と銘打っていろいろ貴重なものも展示しているようです。
今回はじっくり見て回る時間はなかったのでまたの機会には訪れたいと思います。

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こちらは旧三菱銀行の所に隣接して造られている「佐原街並み交流館」に飾られていたお雛様です。
上の写真は「下野の「ひとがた」」となっています。
下野国(栃木県)の思川などで伝統的に行われている行事「ながしびな」だそうです。
伝統的な「下野しぼり紙」でつくられたものです。

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なかなか可愛いですね。何故栃木県小山のものがここに飾られているのかは分かりません。

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これらの雛人形のほかに佐原の切り絵作家「野口正博」さんの作品が展示されておりましたが、こちらは撮影禁止だそうです。

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こちらは近くの喫茶店(Rice Forest)ですが、お店はなかなか趣のある古い建物です。
お汁粉(400円)

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お菓子屋「ほていや」さんです。
店の裏に古びた大きな蔵があります。 場所は伊能忠敬記念館西側入口信号脇です。

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上野写真はめがね屋さんです。
今度の土日(3月15日(土)・16日(日))には小野川で「さわら雛舟」(佐原春祭り)を運航するそうです。
詳しくはこちらを見て下さい。


水郷佐原の街並み(2)
佐原の街にはため息の出そうな江戸・明治・大正時代などの建物が現役で残っている。
これらを1/12の模型で再現した「ドールハウス」が作られ、展示されている。
かなり手の込んだつくりで、粘土などを使って一つ一つ手作りされている。
まあこのドールハウスも全く趣味の世界のようだが、こうして並べて見ると実に楽しい。

これは旧三菱銀行の建物で、今でもこの姿の現物が見られるが、こうしてそのままの姿で作るとまた楽しそうだ。
石岡にも同じような建物が柿岡街道(八幡通り)の入口付近にあった。

石岡は今は昭和初期の看板建築が残されているのでこれらの模型を作るもいいだろうし、昭和10年頃の建物を復活するのも楽しそうに思う。

でも趣味としてでも熱心に造る人がいなくては始まらない。

この建物の中もかなり凝って作っているが意外と現代風だ。これは好みの違いだからしょうがないか。





今回はこのジオラマ(ドールハウス)を見に来たのだ。
1時間もいられないので、街の建物自体についてはいくつか目についたところを明日にでも紹介します。
佐原も伊能忠敬記念館の駐車場が有料となっていて、街中にも500円程度の駐車場が多い。
そんな中でメイン通りに佐原の街を観光する人のための無料駐車場がある。
10台位しか置けないがここ何回か行っているので大変重宝させてもらっている。
平日に行かれる方は停められそうです。 場所は忠敬橋から三菱館方面(東)に100mくらい行った左側です。
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これらを1/12の模型で再現した「ドールハウス」が作られ、展示されている。
かなり手の込んだつくりで、粘土などを使って一つ一つ手作りされている。
まあこのドールハウスも全く趣味の世界のようだが、こうして並べて見ると実に楽しい。

これは旧三菱銀行の建物で、今でもこの姿の現物が見られるが、こうしてそのままの姿で作るとまた楽しそうだ。
石岡にも同じような建物が柿岡街道(八幡通り)の入口付近にあった。

石岡は今は昭和初期の看板建築が残されているのでこれらの模型を作るもいいだろうし、昭和10年頃の建物を復活するのも楽しそうに思う。

でも趣味としてでも熱心に造る人がいなくては始まらない。

この建物の中もかなり凝って作っているが意外と現代風だ。これは好みの違いだからしょうがないか。





今回はこのジオラマ(ドールハウス)を見に来たのだ。
1時間もいられないので、街の建物自体についてはいくつか目についたところを明日にでも紹介します。
佐原も伊能忠敬記念館の駐車場が有料となっていて、街中にも500円程度の駐車場が多い。
そんな中でメイン通りに佐原の街を観光する人のための無料駐車場がある。
10台位しか置けないがここ何回か行っているので大変重宝させてもらっている。
平日に行かれる方は停められそうです。 場所は忠敬橋から三菱館方面(東)に100mくらい行った左側です。


水郷佐原の街並み(3)
佐原の街並みを紹介します。
中心はやはり小野川に架かる忠敬橋一帯でしょう。

(写真はクリックすると拡大します)
忠敬橋から西側の眺め。この先の右側が伊能忠敬記念館です。
この佐原はこの伊能忠敬が使っていたと言う測量器具や作成した地図などを集めてこの資料館に保管し公開しています。
これなの資料をまとめて国宝に申請して登録されました。

(写真はクリックすると拡大します)
この先の橋がジャージャー橋で川の両側をつなぐ水路がここを通っています。
そしてこの水路からときどき水が川にジャージャーと注いでいます。
この橋の右側が忠敬記念館で、この川の袂から観光船が出ます。
この土日は平安衣装をきたお雛様やお内裏様にふんした人びとが乗った特別な雛船が出たことでしょう。

(写真はクリックすると拡大します)
上の写真の左側が
蜷川家具店さんの古い建物と素顔屋さん(手作り和雑貨や石鹸など)。

そして佐原の街には珍しい看板住宅となった蜷川家具店さんが下の写真(昭和8年築)。

「茶房さかした」手づくり耳かきを実演販売しています。
もちろん「だんご、まんじゅう、ティラミスなどの甘いものを売るお店です。

(写真はクリックすると拡大します)
右側が中寅商店さんで、その隣は不明? やはり蔵の店舗形式が目を引いた。

中村屋乾物店。明治25年の築。
佐原の街は明治25年に大火がおこった。この直後にこのような重厚な耐火蔵が多く建築された。
この店の裏に明治18年築の文庫蔵が残されている。
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中心はやはり小野川に架かる忠敬橋一帯でしょう。

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忠敬橋から西側の眺め。この先の右側が伊能忠敬記念館です。
この佐原はこの伊能忠敬が使っていたと言う測量器具や作成した地図などを集めてこの資料館に保管し公開しています。
これなの資料をまとめて国宝に申請して登録されました。

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この先の橋がジャージャー橋で川の両側をつなぐ水路がここを通っています。
そしてこの水路からときどき水が川にジャージャーと注いでいます。
この橋の右側が忠敬記念館で、この川の袂から観光船が出ます。
この土日は平安衣装をきたお雛様やお内裏様にふんした人びとが乗った特別な雛船が出たことでしょう。

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上の写真の左側が
蜷川家具店さんの古い建物と素顔屋さん(手作り和雑貨や石鹸など)。

そして佐原の街には珍しい看板住宅となった蜷川家具店さんが下の写真(昭和8年築)。

「茶房さかした」手づくり耳かきを実演販売しています。
もちろん「だんご、まんじゅう、ティラミスなどの甘いものを売るお店です。

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右側が中寅商店さんで、その隣は不明? やはり蔵の店舗形式が目を引いた。

中村屋乾物店。明治25年の築。
佐原の街は明治25年に大火がおこった。この直後にこのような重厚な耐火蔵が多く建築された。
この店の裏に明治18年築の文庫蔵が残されている。


水郷佐原の街並み(4)
佐原さわら(千葉県香取市)の街並みの紹介続きです。

植田屋荒物店。宝暦九年(1760年)創業で現在は竹細工などの販売をしている。
忠敬橋のすぐ隣にあります。
店の裏の川沿いにある蔵も無料で見学できるようです。2Fも上がれるようですので今度寄って見たいと思います。

忠敬橋の反対側(新宿)には「中村屋商店」さんがあります。角地であり少し変わった格好をしており目を引きます。
安政2年(1855年)築? 裏の土蔵は明治25年(1892)?


「正文堂書店」さん。明治13年(1880)建築。

右から「正文堂書店」「茶房さかした」「生そば小堀屋本店」「福新呉服店」
なかなかこのような眺めの建物は少ない。佐原が「江戸勝り」ともいわれるゆえんであろうか。

紀の国屋商店さん。和歌山から江戸に出て始めた陶器屋さんが、明治15年に佐原に出て来たと言います。

その左隣が「虎屋菓子店」さんです。
明暦3年(1657)創業だそうです。建物は何時立てられたのかは?
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植田屋荒物店。宝暦九年(1760年)創業で現在は竹細工などの販売をしている。
忠敬橋のすぐ隣にあります。
店の裏の川沿いにある蔵も無料で見学できるようです。2Fも上がれるようですので今度寄って見たいと思います。

忠敬橋の反対側(新宿)には「中村屋商店」さんがあります。角地であり少し変わった格好をしており目を引きます。
安政2年(1855年)築? 裏の土蔵は明治25年(1892)?


「正文堂書店」さん。明治13年(1880)建築。

右から「正文堂書店」「茶房さかした」「生そば小堀屋本店」「福新呉服店」
なかなかこのような眺めの建物は少ない。佐原が「江戸勝り」ともいわれるゆえんであろうか。

紀の国屋商店さん。和歌山から江戸に出て始めた陶器屋さんが、明治15年に佐原に出て来たと言います。

その左隣が「虎屋菓子店」さんです。
明暦3年(1657)創業だそうです。建物は何時立てられたのかは?


水郷佐原の街並み(5)
小江戸(江戸勝り)佐原(香取市)の街並みの続きです。

(写真をクリックすると拡大します)
「ほていや」(お菓子屋さん)

(写真をクリックすると拡大します)
こちらは「ほていや」さんの裏にある蔵です。(見学無料)

(写真をクリックすると拡大します)
酒の蔵元「馬場本店」

(写真をクリックすると拡大します)
天和年間(1681-1683年)に大和国(奈良県)葛下郡馬場村から出てきた(糀屋)善兵衛が佐原で糀屋(こうじや)を始めていたが、天保13(1842)年に5代目が酒造りを始めたもの。現在は15代目だそうです。

明治15年に勝海舟が逗留した事を記念して大吟醸に「海舟散人」と命名。

(写真をクリックすると拡大します)
酒蔵見学もできるようです。(事前申し込みが必要と思います)

(写真をクリックすると拡大します)

(写真をクリックすると拡大します)
本ブログもTOTALアクセス数が30万回になりました。
記念すべきアクセスカウントを自分でゲットしました(笑)

今日は春一番が吹きましたね。
でも花粉も飛んでいるようで外には出れません。
この時期は必要以外はあまり出歩かないようにしているので、写真を撮りには出かけられません。
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「ほていや」(お菓子屋さん)

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こちらは「ほていや」さんの裏にある蔵です。(見学無料)

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酒の蔵元「馬場本店」

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天和年間(1681-1683年)に大和国(奈良県)葛下郡馬場村から出てきた(糀屋)善兵衛が佐原で糀屋(こうじや)を始めていたが、天保13(1842)年に5代目が酒造りを始めたもの。現在は15代目だそうです。

明治15年に勝海舟が逗留した事を記念して大吟醸に「海舟散人」と命名。

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酒蔵見学もできるようです。(事前申し込みが必要と思います)

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今日は春一番が吹きましたね。
でも花粉も飛んでいるようで外には出れません。
この時期は必要以外はあまり出歩かないようにしているので、写真を撮りには出かけられません。


水郷佐原の街並み(6)

このようにあちこちに街並みの地図などの看板が置かれている。

「清宮」 内容は2つ下の写真にかかれている。
しかし庭園などはこの門の所からの見学だけで中には入れなかった。



清宮の向かい側にある「北川商店」。
蔵は明治時代に米蔵として使われてきたものを昭和初期に餡(あん)を作るための小豆を入れる倉庫として使用。

むき出しの太い梁など、なかなか趣のある造りだ。

この通り(伊能忠敬記念館駐車場側)の突き当たり信号が先に紹介した酒の蔵元です。
今回は1時間ほどの短い時間しかなかったのでまたの機会に訪れたいと思います。


大龍禅寺(佐原)(1)
先日数回に分けて佐原の街並みを紹介しました。
この時に街並み見物の時間を短くしてこの寺にやってきました。
佐原の街は香取神宮の門前町のような位置にありますが、市内には佐原の大祭を行う市内を2分した「八坂神社」(こちら)と諏訪神社(こちら1、こちら2、こちら3)があります。
その他に見ておかねばならないと思った一つがこの「大龍禅寺」(与倉)と「観福寺」(山倉)です。
観福寺にはその前に訪れていますので後で紹介します。
まずは「大龍禅寺」(宝雲山 大龍寺)です。
あまり予備知識もなく訪れたのですが、なかなか見ごたえのあるお寺(古刹)でした。

佐原の街からは国道51号線を成田の方に3kmほど南下したところから東に脇道を少し入ったところにあります。
このお寺は国道側が高台になっているのでその山を少し下った麓に静かに佇んでいました。

東国花の寺100ヶ寺の一つで、ここの花は7月下旬頃の夏の花「のうぜんかずら」だそうです。
今の時期にも「梅」「椿」などがとてもきれいな寺でした。

訪れたのはもう2週間くらい前なのですが白梅・紅梅がきれいに咲いていました。

しだれ紅梅もきれいです。寺はきれいに掃き清められています。
でも訪れている人はおりませんでした。

椿の花も大木があちこちにあります。
寺の由緒は
「 寺伝によれば、大同年間(806~810)に眩円律師という僧が草庵を結んだのが始まりという。その後、約560年間は盛衰を繰り返したというが、詳細は不明である。南北朝時代・応安元年(1368)を迎えて、矢作城主6代国分胤詮(国分三河守入道寿観)が境内地を寄進、伽藍を建立し、栄西禅師の法孫で鎌倉寿福寺の大航慈船禅師を開山として迎え、禅寺となった」
と「東国花の寺百ヶ寺」のホームページ(こちら)に書かれています。

でも来てみなければ感じられない物がたくさんこの寺にはありました。
一つは境内に残されたたくさんの「板碑」です。
寺の山門をくぐったすぐ左側に屋根をかけてまとめられています。

これらの板碑はそれぞれに長い歴史がありそうですが、あまりよく分かりません。
戦国時代末期にこの寺を再興したという「(下総)国分氏」は千葉氏一族(千葉常胤の五男)で香取地方を治め、源頼朝にしたがって奥州合戦に参戦し武功をあげて奥州の領地を得て奥州国分氏(宮城県亘理郡など)ともなった。
しかし、その後この下総国分氏は秀吉・家康らに領地を没収され、常陸国鹿島氏の養子になり水戸徳川氏などに仕えたと言う。

この板碑の古いものはこの国分氏時代のもので、約500~650年ほど前である。



寺の脇には小さな板碑がたくさん並べられています。特に説明はないので詳細はわかりませんでした。
この地を領してこの寺の再興をした国分氏は、千葉常胤の五男胤通が下総の国分寺(市川)領域を支配していたために国分氏と言われるようになったのが始めだと言う。
矢作城がどの辺にあったのか、またここから国分氏が逃げてしまった後1590年に「矢作藩(やはぎはん)」が一時立藩(鳥居氏)され、1600年から9年間三浦氏が1万石で藩が復活している。こういう事柄もいろいろと考えさせられる。
この香取もこの下総国府(市川)から40~50km離れているが、水運では比較的近かったのかもしれない。
下総一宮の香取神宮と国府のあった市川との関係も考えさせられる寺である。
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この時に街並み見物の時間を短くしてこの寺にやってきました。
佐原の街は香取神宮の門前町のような位置にありますが、市内には佐原の大祭を行う市内を2分した「八坂神社」(こちら)と諏訪神社(こちら1、こちら2、こちら3)があります。
その他に見ておかねばならないと思った一つがこの「大龍禅寺」(与倉)と「観福寺」(山倉)です。
観福寺にはその前に訪れていますので後で紹介します。
まずは「大龍禅寺」(宝雲山 大龍寺)です。
あまり予備知識もなく訪れたのですが、なかなか見ごたえのあるお寺(古刹)でした。

佐原の街からは国道51号線を成田の方に3kmほど南下したところから東に脇道を少し入ったところにあります。
このお寺は国道側が高台になっているのでその山を少し下った麓に静かに佇んでいました。

東国花の寺100ヶ寺の一つで、ここの花は7月下旬頃の夏の花「のうぜんかずら」だそうです。
今の時期にも「梅」「椿」などがとてもきれいな寺でした。

訪れたのはもう2週間くらい前なのですが白梅・紅梅がきれいに咲いていました。

しだれ紅梅もきれいです。寺はきれいに掃き清められています。
でも訪れている人はおりませんでした。

椿の花も大木があちこちにあります。
寺の由緒は
「 寺伝によれば、大同年間(806~810)に眩円律師という僧が草庵を結んだのが始まりという。その後、約560年間は盛衰を繰り返したというが、詳細は不明である。南北朝時代・応安元年(1368)を迎えて、矢作城主6代国分胤詮(国分三河守入道寿観)が境内地を寄進、伽藍を建立し、栄西禅師の法孫で鎌倉寿福寺の大航慈船禅師を開山として迎え、禅寺となった」
と「東国花の寺百ヶ寺」のホームページ(こちら)に書かれています。

でも来てみなければ感じられない物がたくさんこの寺にはありました。
一つは境内に残されたたくさんの「板碑」です。
寺の山門をくぐったすぐ左側に屋根をかけてまとめられています。

これらの板碑はそれぞれに長い歴史がありそうですが、あまりよく分かりません。
戦国時代末期にこの寺を再興したという「(下総)国分氏」は千葉氏一族(千葉常胤の五男)で香取地方を治め、源頼朝にしたがって奥州合戦に参戦し武功をあげて奥州の領地を得て奥州国分氏(宮城県亘理郡など)ともなった。
しかし、その後この下総国分氏は秀吉・家康らに領地を没収され、常陸国鹿島氏の養子になり水戸徳川氏などに仕えたと言う。

この板碑の古いものはこの国分氏時代のもので、約500~650年ほど前である。



寺の脇には小さな板碑がたくさん並べられています。特に説明はないので詳細はわかりませんでした。
この地を領してこの寺の再興をした国分氏は、千葉常胤の五男胤通が下総の国分寺(市川)領域を支配していたために国分氏と言われるようになったのが始めだと言う。
矢作城がどの辺にあったのか、またここから国分氏が逃げてしまった後1590年に「矢作藩(やはぎはん)」が一時立藩(鳥居氏)され、1600年から9年間三浦氏が1万石で藩が復活している。こういう事柄もいろいろと考えさせられる。
この香取もこの下総国府(市川)から40~50km離れているが、水運では比較的近かったのかもしれない。
下総一宮の香取神宮と国府のあった市川との関係も考えさせられる寺である。


大龍禅寺(佐原)(2)
東国花の寺百ヶ寺の一つ千葉県香取市(佐原)の大龍禅寺について昨日紹介しました。
でももう少しこの寺の紹介をします。

千葉県では15カ所、茨城県では11か所で近くでは雨引観音や月山寺などが入っている。
皆比較的大きな寺だ。数も100と言うが103寺が入っている。
こんな寺を訪ねていくのもそのうちやって見たい気もする。まだ10か所くらいしか行っていないように思う。

この寺の裏山には竹林が広がっている。道が上に続いていたので登って行った。

するとすぐ右側の山の中に特色のある住職たちの墓と思われる墓石が並んでいるのが見えた。

かなりたくさんの墓が並んでいたが、これらは歴代住職のものだろうが数にして30~40個くらいある。
時代にして600~800年位続いているのではないかと思われた。

そしてその裏山の木々の下にたくさんの石像が刻まれた石があちらこちらに・・・。

それぞれ、四国八十八ヶ寺などの名前が彫られている。
長い信仰が続いてきたのを感じる。


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でももう少しこの寺の紹介をします。

千葉県では15カ所、茨城県では11か所で近くでは雨引観音や月山寺などが入っている。
皆比較的大きな寺だ。数も100と言うが103寺が入っている。
こんな寺を訪ねていくのもそのうちやって見たい気もする。まだ10か所くらいしか行っていないように思う。

この寺の裏山には竹林が広がっている。道が上に続いていたので登って行った。

するとすぐ右側の山の中に特色のある住職たちの墓と思われる墓石が並んでいるのが見えた。

かなりたくさんの墓が並んでいたが、これらは歴代住職のものだろうが数にして30~40個くらいある。
時代にして600~800年位続いているのではないかと思われた。

そしてその裏山の木々の下にたくさんの石像が刻まれた石があちらこちらに・・・。

それぞれ、四国八十八ヶ寺などの名前が彫られている。
長い信仰が続いてきたのを感じる。



