大掾氏備忘録(1)

 取手山館の説明(記事はこちら)をしようといろいろな資料を見ていましたが、まったく複雑で私にも頭が追い付きません。

この常陸府中(石岡)の大掾(だいじょう)氏などというのもあまり戦国武将としては魅力がないし、この地に来るまでまったく名前も聞いたことはなかった氏族でした。

いくら平氏の名門といってもその後の伊勢平氏が平家となって君臨したのとどのようにつながっているのかなどは全くよく分かりませんでした。

それが石岡に住むようになり名前だけは知るようになったのですが、関ヶ原の戦い前に滅んでしまい実態も霞んで見えなくなってしまっているようです。

また石岡の多くの人も名前は知っていても実態はよく分かっていないように思います。

 普通に生活していただけでは、この関ヶ原の戦前の戦国末期に滅びた平氏の名門と言われた大掾氏の姿が良く浮かび上がってきません。

石岡の歴史などとHPにも紹介しているのですから、もう少し理解を深めなければ先に進めなくなりました。

そこで少しだけ整理したもの書いてみたいと思います。

まず細かな事はさておいて、大きな流れだけでも整理しておきたいと思います。

A、関東平氏(坂東平氏)の起こり

1)平安時代に桓武天皇の孫である高望王が平(たいら)の姓をもらい(889年)民間に下って、上総介(かずさのすけ)として上総(千葉)やってきます(898年)

2)その時、国香・良兼・良将という3人の子供を連れてきます。そして高望王は任期が終了し、902年に大宰府に西海道の国司として転任となりました。
しかし、3人の子供達はこの常陸・上総・下総の地に残り、土地の豪族と手を結んでこの地に土着します。

3)長男国香は筑波の豪族であり、前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえ常陸国にその基盤を築いていきます。
この国香の子孫が代々常陸国の大掾職を継いで大掾氏を名乗るようになります。

平清盛を代表とする平家と言われるのはこの国香の子孫で伊勢平氏といいます。

さて、この大掾(だいじょう)という職位はあまり聞きなれない言葉ですが、その当時の国司の職位は守(かみ)、介(すけ)、ときてその下が掾(じょう)といいました。大国(延喜式の記載では13ヶ国)と言われた国にのみ大掾と少掾が置かれていました。掾の下に目(もく)が置かれていましたが、これも大国は大目、少目が置かれました。
また、常陸国は、都の大和朝廷(皇族)の収入が困窮し始めたため、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、皇族が直接統治して税を徴収する親王任国に指定され、親王が国守となり現地には来なくなりました。

「介」も次第に名誉職となり現地は大掾(だいじょう)が取り仕切るようになって行ったのです。

4)次男の良兼は父高望王の上総介の後を継ぎ上総、下総国に勢力を張って行きます。真壁などでもこの良兼は勢力を持っていたようです。

5)三男良将(よしまさ)(良持ともいう)はやはり源護の娘婿となり下総の勢力を拡大していきますが、子供の平将門がおこした乱で敗れたため、良将の正当な子孫はいなくなりました。

B、上総・常陸国における源氏の流れ

1)陸奥国の安倍氏との争いが活発となり、1053年に鎮守府将軍に任じられた源頼家が息子(八幡太郎)義家を伴い欧州の清原氏と協力して安倍氏を滅ぼします。(前九年の役)

2)その後の後三年の役では陸奥国の覇者をねらう清原氏を倒すために源義家(八幡太郎)が陸奥守となりやってきます。
そこに義家の弟、(新羅三郎)源義光が戦闘に加わり(1087年)戦いに勝利します。

3)後三年の役が終わり、都に帰った源義光(新羅三郎)は常陸介に任じられて常陸国に再びやってきます。そして勢力を拡大していた平国香の子孫(大掾氏)から妻を迎えこの地での地位を築いていきます。
しかし、鹿島神宮領域の争いで追放となり次男の源義清(武田冠者と呼ばれる:常陸国勝田付近の武田郷に住んでいた)と共に甲斐国に移り住みます。これが甲斐武田氏の始まりでしょう。(一部推論)

4)実は八幡太郎義家、新羅三郎義光兄弟の間に賀茂次郎源義綱がおりますが、ここに跡目を継ぐ子供がいませんでした。そこで新羅三郎義光の長男、源義業(よしなり)が養子に入ります。
そして常陸国太田の有力豪族の娘を妻に迎えます。
この賀茂次郎義綱の家系があまりうまくいかず、源義業は妻の里である太田の地にやって来て再起をはかります。そして、これが戦国時代に常陸国を制した佐竹氏の祖となって行きます。

まあこの頃は平氏も源氏婚姻関係では入り乱れていますので、系図をたどるとどこかで血縁関係が成立しています。
まあ長々と前段階を書いてみたのですが、少し自分自身の頭の整理に書いてみたものです。


大掾氏関係 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/05 18:53

大掾氏備忘録(2)

C、千葉氏の祖「平良文」について

 昨日書き忘れてしまったのでここで追加します。
高望王とその三人の子供(国香・良兼・良将)が上総にやってきて常陸・下総などで勢力を拡大していったと書きましたが、もう一人高望王には重要な子供がおります。
それが平良文です。一般的には五男といわれています。良文は高望王の側室の子といわれ、高望王が上総・坂東にやって来た時はまだ幼かったこともあり一緒にはやってきませんでした。

しかし、この良文が後に坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の祖となり、特に民俗的にも謎とされている千葉氏の祖とみなされています。

高望王の正室の三人の子供は将門の乱で戦をすることになりますが、良文は戦には加わっていないようです。

坂東(関東)には武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に移り住み、村岡五郎(五男なので)と呼ばれるようになります。
その後相模国村岡(藤沢市)、下総国村岡(下妻市)や千葉県の東庄町や小見川町(香取市)にも住んでいたと言われるように多くの領地を得ています。

陸奥守であった良文は、鎮守府将軍に任じられ(939年)、胆沢城にも留まり陸奥国の平定にも力を注ぎます。

翌年940年に坂東に戻りその後の秩父、上総、三浦、鎌倉などに勢力を拡大していったようです。

千葉氏、三浦氏などもその後の歴史ではかなり重要な役割を担っています。

D、常陸国大掾氏の簡単な流れ

1)平国香は源護(みなもとのまもる)と血縁関係を結んで常陸国に進出し常陸国の大掾(だいじょう)職に任じられます。そして石田(旧明野町)に居を構えます。
当時お役人の官庁は国府(現石岡)にありましたから、当時は国香も筑波山を越えて石岡の地に来ていたのでしょう。
国香が石岡に住んでいたとは考えられません。

2)将門がおこした反乱に対抗し、国香はあえなく戦死してしまいます。何処で亡くなったのかも諸説あるようですが、藤代川(現 龍ケ崎市)で935年2月に死んだと考えられています。ですから墓も石田に置かれていますので石岡の平福寺にあるというのも可能性は少ないでしょう。

3)父国香の死を京で聞いた長男の平貞盛は、下野押領使の藤原秀郷(ひでさと)(俵藤太)を味方にひきいれ、940年に平将門を承平・天慶の乱で倒すことに成功します。その後、貞盛は鎮守府将軍・陸奥守を歴任、常陸に多くの所領を得て常陸大掾となります。

4)貞盛の甥であり、養子として大掾氏を継承した平維幹(これもと)は筑波郡水守(みもり)に住み、後に(990年頃)筑波郡北条の多気山に多気城を築き移り住みます。これが多気大掾氏です。常陸大掾氏の始まりです。

5)それから為幹(ためもと)、繁幹(しげもと)、致幹(むねもと)、直幹、義幹と多気大掾氏が続きます。
この間、かなり裕福な氏族として羽振りを利かせていたようで、中央の都からやってきた常陸介なども太刀打ちできないほどだったとも言われています。

6)しかし、鎌倉幕府が成立し、曽我兄弟の仇討ち事件などで疑心暗鬼になっていた源頼朝に、大掾職が欲しい常陸国守護の八田氏(小田氏)(鎌倉幕府の御家人でもあった)が1193年に「謀反の噂あり」と讒言をします。
これにより鎌倉に呼び出された義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏は滅びてしまいます。
(ただし、系列の氏族はたくさん残ります。芹沢氏などもその一つです。

7)その後常陸国では八田氏の勢力が大きくなることを嫌っており、大掾職は水戸の吉田氏(平資幹)(水戸の馬場に居を構えていたので馬場氏ともいう)に任されることになります。
この吉田氏は前の多気大掾氏と同じ家系の系統ですから、常陸大掾氏という名前は継続されていきます。
この時から大掾氏と小田氏(八田氏)は仲が悪くなっていきます。

8)(吉田)大掾氏は水戸に城(馬場城=水戸城)を築き(1198年)、常陸国府(石岡)に通うという二重生活となります。
1214年鎌倉幕府から府中(現石岡)の地頭職を与えられ、茨城郡の郡衙があった石岡市田島に城を築きます。(後に府中城が出来てからは、石岡城とか外城(とじょう)と呼ばれます。

9)吉田大掾資幹から7代後の平詮国の時に鎌倉滅亡後足利尊氏について功を挙げ、廻りの脅威から身を守るため現在の石岡小学校の昔国府があった台地に「府中城」を築きます。(1346~51頃)
これは街を含んだ自然の要害を利用した中世の城であり、当時のものとしてはかなりすぐれた城でした。
山鹿素行が赤穂に謫居(ちっきょ)していた時に書かれた兵法書の謫居童問に、陸奥の多賀城、筑前の怡土城と並んで日本の三名城と書かせたほどのものであったといいます。

10)それから60数年後の1416年に起きた上杉禅秀の乱で上杉方につき敗北を期し水戸城(馬場城)周辺の所領を没収されてしまいます。しかし、大掾氏は水戸に居座り続けて渡そうとはしませんでした。

しかし、間抜けなもので、府中(石岡)で行われた青屋祭に出かけて留守にしていた時に江戸氏に襲われて水戸城を奪われてしまいました。

これ以来、大掾氏は根拠を府中(石岡)におくこととなり、江戸氏とは犬猿の仲となってしまいます。

その頃常陸国では「江戸氏」「大掾氏」「小田氏」の三強がしのぎを削るようになります。
大掾氏も江戸氏と対立するときは小田氏と手を組んだり、小田氏と対立するときは江戸氏と手を組んだり各地で紛争が絶えなくなります。

そしてあちこちに城や館、砦、要害などを築きます。そんな状況を理解してやっと、この取手館の様子が見えてきます。

前説明が大変長くなり失礼しました。

城館
(地図はクリックすると拡大します)

さて上の地図はあちこちの情報サイトなどから情報を調べて地図に書き込んだものです。

時代は天正時代(1573年から1592年)及びその少し前の時代を想像しています。

まず石岡に府中城(大掾氏)が平氏の棟梁として居を構えています。
そして小川城(地図の右側の方)に享禄元年(1528)に小田氏の家臣、園部兼泰が城主となります。(園部氏)

1551年に江戸氏や小田氏との係争を繰り返してきた大掾慶幹が死去し(1551年)、江戸氏、小田氏、園部氏(小田派)に対する備えをする必要から、府中城は長男大掾貞国が継ぎ、江戸氏が南下して築いた砦「堅倉砦」(地図の上方)に対峙するために園部川の近い所に「竹原城」を築いて(1555年)、四男の義国を守らせ、小田氏に対抗するための城として三村城(図の左下の方)を築きます。
そしてそこには7男?常春が城主となります。

しかし、この城は1573年(天正元年)2月に、小川の園部氏攻撃に城兵が出かけているすきを小田氏の軍勢につかれて城は炎上し、常春は自害してしまいます(常春は25歳)。(三村城秘話→こちら

その後、江戸氏は小川の園部氏とも手を結び、また佐竹氏もこれに加わって府中の大掾氏をせめ、小田氏は佐竹氏に攻められて、1574年(三村城炎上の翌年)に小田氏の拠点土浦城が佐竹氏の攻撃で陥落してしまいます。
この辺りの攻防はかすみがうら市の出島散歩でも時代の流れを感じました。
(宍戸城跡(こちら)、戸崎城跡(こちら)など)

それから府中大掾氏が滅ぼされる1591年まで17年。ここでの攻防が続いたのでしょう。
その戦闘や人びとの暮らしはどんなだったのでしょう。東に園部、北に江戸氏・佐竹氏、南に小田氏やその後やってきた佐竹派の家臣に囲まれてしまったのです。

西の八郷地区は佐竹派の客将太田三楽が片野城におりましたが、これも大掾氏とも姻戚関係を結んだりしていてあまり主だった闘いの記録はありません。

そんな中、府中の大掾氏の城主大掾(平貞国)は1577年に戦死してしまいました。
後を継いだのはまだ5歳の大掾清幹(きよとも)でした。

周りは敵だらけ、そしてその侵入を防ぐために各地に造られた要塞(砦)。

一つ一つ見ていくとこの頃の戦の流れが見て取れるようです。
でも多くがその時代の事をほとんど残しておらず、記録も断片的に切れ切れです。

これからあちこち関連した所を見る機会があれば、過去の歴史などを背景に見ていきたいと思います。

さあどうなるでしょう。何処までわかるのでしょうか?

前回と今回の記事は私的な備忘録として書いています。

大掾氏関係 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/06 19:12

大掾氏備忘録3

 大掾(だいじょう)氏備忘録というタイトルで記事を書いたのは2年前です。(記事はこちら
芹澤鴨の過去を調べ始めたらこちらの備忘録に追加しておきたい記事が出てきましたのでここに追加しておきます。

さて、前の備忘録の記事
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D、常陸国大掾氏の簡単な流れ
6)しかし、鎌倉幕府が成立し、曽我兄弟の仇討ち事件などで疑心暗鬼になっていた源頼朝に、大掾職が欲しい常陸国守護の八田氏(小田氏)(鎌倉幕府の御家人でもあった)が1193年に「謀反の噂あり」と讒言をします。
これにより鎌倉に呼び出された義幹は大掾職を解かれ失脚し、多気氏は滅びてしまいます。
(ただし、系列の氏族はたくさん残ります。芹沢氏などもその一つです。
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この多気大掾氏のその後に関係しています。

北条の多気山に拠点を置いてこの筑波山西側一帯を支配していた常陸大掾氏(多気大掾)は、1193年八田知家の換言により頼朝から大掾職とその所領を没収されてしまいました。

この多気大掾の最後は(多気)平義幹(よしもと)は北条では多気太郎とよばれています。
この多気大掾がそこまでは平国香をはじめとする桓武平氏系の宗家として継承されてきました。
そして義幹の兄弟は下妻氏、東條氏、真壁氏などとなっていきます。

(下記の記事は武家家伝_芹沢氏(こちら)に寄っています。
この頃の話は正確でないものが多くいろいろな説もありますので一つの説と考えています)

多気太郎こと平義幹は頼朝により失脚させられますが、殺されはしなかったようです。
身柄は駿河国の岡部泰綱に預けられました。
この時、義幹の次男茂幹(しげもと)は幼く、父と一緒にやはり岡部氏のところに預けられました。
しかしその後母親の実家「狩野氏」に引き取られて育てられました。

一方、多気氏からとりあげられた常陸国の大掾職は、同じ常陸平氏一族の吉田氏(馬場氏)に引き継がれました。
これが水戸にいた馬場(吉田)資幹ですが、鎌倉幕府にこの茂幹の謹慎解除を願い出て、これを許され、茂幹は常陸国坂戸(現鉾田市当間?)に居を構えます。

その後吉田大掾氏との姻戚関係により関係を深めますが鎌倉幕府が滅び 足利方と北条方との争いで大掾氏とも別れ、またあちこちを転々としたようです。

系図を載せます。

義幹 - 茂幹 - 兼幹 - 種幹 - 幹文(村岡) - 良幹 - 高幹 - 望幹 - 良忠(芹澤)讃岐守
- 光尊 - 幹兼(土佐守) - 俊幹(讃岐守) - 範幹(土佐守) - 秀幹(土佐守) - 定幹(土佐守)

幹文が住んだ村岡(相模国高座郡村岡郷)は平良文(国香の弟(五男))が住んだところで平良文が村岡五郎と呼ばれていたところだと思います。
しかしこの村岡郷の芹沢に住んだことから芹沢幹文を名乗り始めたようです。

さてこの行方市芹沢城を築いたのは「良忠」で讃岐守でした。
芹沢良忠は府中(石岡)の大掾詮国が死去した後、府中の大掾氏から要請を受けて支援をするために常陸国にやってきた(至徳二年(1385))と言われます。
そして今の行方市の芹沢城を築城し府中大掾を守る役目を担ったようです。
しかし相模国にもこの芹沢氏の子供(光尊)は残り、後に禅秀の乱ではお互いに敵同士になってしまいました。
禅秀方についた良忠も助かったようです。

この先は戦国時代で入り乱れ一つづつ見て行けば理解できるようですが難しいですね。

この辺りはもう少し整理してから自分の言葉で書きたいと思います。
今回は調べた範囲の備忘録として残します。

明日はまた別なことを書きたいと思います。

今日Facebookを開設して見ました。
少しずつこちらもやっていこうと思いますが、何だか何時になっても追われているようでせわしいですね。







大掾氏関係 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/19 22:11
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