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弟橘姫の神社-橘郷造神社

 行方(なめかた)市がヤマトタケルに関する場所が多く残されていることを紹介してきましたが、やはりここも紹介しておかないと片手落ちですね。

橘郷造神社(橘郷郷神社)です。ここは東京湾で自ら入水して波を静めヤマトタケル(日本武尊)を助けた妻「弟橘姫(おとたちばなひめ)」をまつった神社です。

弟橘姫のさしていた笄(こうがい)が、霞ヶ浦に流され、この羽生地区に打ち上げられました。流れついた笄を守るかのように鳥が群がっていたり、その笄は羽を生やして飛んだともいわれています。そのため、この地区の名前を「羽生」といい、この地区が「立花」とついたとも言われています。

この話ができるのには何か理由があるはずですね。この地区は「橘郷」といわれ、万葉集や吾妻鏡にでてきます。
また、鹿島神宮の領地(羽生、与沢、倉数など)となったと伝えられている場所でもあります。
鎌倉時代などの背景とともに調べてみたい地区でもあります。

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拝殿と裏の本殿

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今は付近の道路もあまり車の通りも多くはありません。知らなければ通り過ぎてしまいそうな場所です。

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神社参道の入り口に立つ「弟橘姫」の像

あまり紹介されていないようですので、少し前に撮った写真ですが紹介させていただきました。


橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/28 18:40

潮宮神社(いたみやじんじゃ)

昔、大洗から大洋村汲上浜から常陸府中(石岡)へ塩を運んだ中継地として栄えた小美玉市の倉数地区。
ここに通りから少し離れ、今は地元の方以外にほとんど人が訪れないと思われる「潮宮(いたみや)神社」があります。

創建は鹿島神宮の潮宮が10世紀末に移されたと伝えられ、中臣氏の領有地となっていた時代もあったようで、行方市の橘郷(羽生地区)とともに、鎌倉時代には鹿島神宮の知行地になったとも記録されているようです。

この今は忘れられた「塩街道」の事実をどれくらいの人が知っているのだろうか。

私もこのことを白井啓治さんの「潮の道余話」を読んで知った。

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通りから細い道を入った少し奥まったところにこの神社はあるが、行ってみるととても驚かされる。

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長い年数に多くの人がこの参道を歩いたのだろう。参道が一段低く沈み込んでおり、両脇の木が根をむき出しにして何本も傾いている。

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拝殿はきれいに再建されており、奥に本殿がある。
御神木は杉の木のようで、しめ縄がまかれている。

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傾いた樹木もほとんど幹にコケが生えており、その年月に思いがはせる。

昔、親鸞が鉾田の「無量寿寺」などへ通った道でもあったのだと思う。


橘郷 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/07/30 18:44

万葉歌碑(橘郷)

 先日紹介した「橘郷造神社」から羽生方面に少し行った「東陽会館」という集会所のような建物がある。
ここに万葉歌碑が建っている。
ここが「伝占部館跡」と言われる場所だそうです。
占部広方はこの地から「防人」として九州に渡るとき、難波にてこの歌を提出したのです。

占部広方(うらべひろかた) 万葉歌碑 (所在地:羽生東)

 万葉集巻二十に

 「橘の下吹く風の香しき筑波の山を恋ひずあらめかも」 



◎現地案内看板より抜粋
「この一首、助丁(すけのよぼろ)占部広方とあり「二月十四日(天平勝宝七年(753)に、常陸国の部領防人使・・・・が進る(たてまつる)歌の数十七主とある。即ち、この時難波についた防人たちが、大伴家持お要請で、各国の部領地使に提出した歌で、その中、常陸国からは、この広方の歌と、若舎人部広足(わかとねりべのひろたり)の歌二首を入れて、十首が載っている。常陸国風土記には、また行方郡(こほり)と香島郡とに、橘の木が生い茂っているとあり、また行方郡からは筑波山がよく望まれると書いてある。この地は古く橘の郷(さと)といい、広方は、ここから防人(さきもり)に召され、筑波山を恋い、嬥歌(かがい)のことなどを偲んで歌ったのであろう。助丁とは国造丁(くにのみやっこのよぼろ)に次ぐ階級であった。」


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橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/07/31 15:52

このように歴史は消えていく?

 以前行方市や小美玉市にヤマトタケル神話に関するゆかりの神社などを紹介しました。
その中で茨城空港からの道路拡張工事に遭遇して驚きました。

このように便利さを追求して歴史は破壊されていくのかも知れないと恐くなりました。
少しだけ現実を紹介しましょう。

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この神社は前にヤマトタケルの神話で東京湾に身を投じて波を静めたという妻 弟橘姫を祀った「橘郷造神社」の入口です。ここから拝殿まで両側には木が生い茂って長い参道が続きます。
しかし、もとからすぐ隣に少し狭い道路が走っていました(行方市羽生と小美玉市与沢を結ぶ道路)。

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問題はこの横の道路を神社側に広げるために参道の木がバッサリと切られていました。

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もう建設中の道路がそこまで来ています。

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神社の参道や拝殿・本殿などはそのまま確保されるようですが、この参道の景観が全く変わってしまいました。

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木が切られてしまうとこの神社の持つ意義などが何処かに忘れ去られそうです。
弟橘姫の話もそうですが、この神社の橘郷という万葉集や源頼朝とも関係する由緒ある名前までも何処かに忘れられそうです。

道路を拡張する時に神社の反対側は少し崖になっていて、大分土を盛らないと拡張できません。このため神社側を削ったのでしょうか。

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さて、この道路沿いには占部広方の万葉歌碑があり、もう一つ親鸞伝説の「喜八阿弥陀」にまつわる経塚があります。
今建設を進めている道を延長するとこの経塚の史跡をつぶす恐れがありそうです。もうすぐそこまで工事が進んでいます。
もっとも石岡の貝地にある経塚の碑も経塚は道路に引っかかってなくなり、後から道路わきに石碑を建てたものです。このようになってしまうのかもしれません。
親鸞が小石に1文字づつお経を書いて埋めたところと言われているところです。

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この通りはそれ程交通量が多いわけではありませんが、行方と茨城空港を結ぶ道路として拡張しているのでしょう。
私にはこのような建設計画は身を滅ぼす結果になるように思えてなりません。
歴史もしっかり検証して、ここに残る祭り「羽生祇園祭」などもしっかり受け継いでいってほしいと思っています。



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橘郷 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/12/06 18:54

八木蒔八幡神社と円勝寺

 国道355線が旧鹿島鉄道と平行して通っているが、今まで私はこの鉄道に乗ったことがない。
石岡に来た時はすでに廃止がほぼ決まっていて、まだ存続運動をしているのを見ていただけである。

そのため、八木蒔などという地名や駅も知らなかった。

八木蒔(やきまき)の名前を初めて見たのは355号国道を鉾田・潮来・香取方面に走っていて玉造の街に行く手前にあるこの神社と寺を見物した時だった。

これも、もう3年以上前になる。

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今、八木蒔周辺をまとめるにあたって、やはりこの寺と神社を入れておかねばならないと思う。
八木蒔の集落は主に355線の霞ヶ浦よりにあり、この神社が少し高台になっている森の中にあった。
その神社の入口に後から国道が通るようになった。

神社は鬱蒼とした木立の中にある。

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上野説明では「八木蒔」「倉数」「羽生」「沖洲」地区の総鎮守と定めたのは鎌倉時代の頼朝の時代という。
今の行政区分では「倉数」は小美玉市、その他の三地区は行方市になる。

今回八木蒔の周辺を紹介しているがここを「橘郷(たちばなごう)」としてまとめているが、この橘郷は万葉集や吾妻鏡に「橘郷」としてその場所がでていることを意識したためである。

鎌倉時代には頼朝の直轄の領地となり、鹿島神宮へ寄進したとなったようである。

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この神社(八幡神社)の入口参道はまっすく長く続いており、昔は流鏑馬などの行事も行われていたともいう。

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八幡神社本殿。大永2年(1522年)造営。市指定有形文化財。

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神社のすぐ隣に天台宗の円勝寺がある。かなり古くからあった(大同年間)ともいわれるが、隣の八幡神社と一体となった時期もあったように感じる。


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今日は朝から銚子に出かけ、夜7時半過ぎに戻ってきました。
やはり少し疲れました。
記事も中途半端ですが、これくらいで終わりにします。

前にもこの神社や寺を書こうとした事がありましたが書けずにいたのにまた満足に書けません。
しょうがないですね。

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橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/23 21:48

手接神社(小美玉市)

 昨日、千葉県香取市にある切手神社を紹介しました。

ここでは昔の民族の争い(物部族と出雲族)に係る言い伝えによる事が神社の名前に隠されていました。
祭礼手法に従わない者たちの手を切ったと言われるものでした。

今日は逆に手を接いだと言う言い伝えから神社の名前になった茨城県小美玉市与沢にある「手接神社(てつぎじんじゃ)」を紹介します。

話は手を接いだのは河童です。
この話は昔「手奪橋(てうばいはし)」ということで紹介しました。(記事はこちら

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場所は茨城空港の近くです。
このすぐ近くに親鸞が鹿島神宮に行く途中で通っていたと言われた遺跡(喜八阿弥陀、経塚など)が残されています。

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拝殿。

比較的最近に出来たと思われる会館(公民館?)のような建物が立ち、たくさんの境内社が置かれていました。
最近整備をし始めたようです。

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裏の本殿。比較的新しいのかもしれません。
元々は新撰組の芹沢鴨の先祖である芹沢家(城があった)に伝わる神社であったものだと想像されます。

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神社に奉納されるものも手形や手袋など手に関するものばかりです。

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おみくじなどと同じように「きりすね」というもめんの糸をよった物が置かれていますが、これは痛い手に巻いておくとこの糸が切れる頃には治ると言われるもので、手の痛い人が頂いて帰るのだと言います。

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でもこの神社は河童の神社という側面が大きいようです。
大きな河童の彫り物が置かれています。

芹沢のお殿様が乗っている馬の尾を引っ張って川に引きずり込もうとしていた河童手を刀で切り落としてしまい、手を失った河童が夜中に泣いて手を返してほしいと頼みに来た。

手を返すと喜んだ河童は不思議な薬で手を元に接いでしまったと言います。
この薬をもらった芹沢家は家宝として大切にして多くの人を救ったのだという。そして河童を神社に祀った。

この芹沢家の元をたどるとつくば市北条の多気山にあった常陸大掾氏(多気大掾)から別れたもので、こちらの大掾氏は鎌倉の初めにつぶされてしまいますが、水戸の吉田氏が常陸大掾氏を継ぎ、石岡にも城が築かれました。(府中城)


この芹沢家から芹沢鴨が出るのですが、芹沢家は代々医者の家系として続いていたようです。
石岡市内にこの子孫の方が医院を開業しています。

河童にもらったともいわれるこの家伝の秘薬(膏薬)「筋渡し」は今も使われているとの話もあります。

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茨城県には不思議な神社が結構ありますね。

ここは手の病を治してくれる神社ですが、もう少し石岡に近い場所には耳の病気に効く「耳守神社」(記事はこちら)もあります。

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興味がおありになりましたら一度参拝してみてはいかがですか?



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橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/03/30 15:59

橘郷造神社

 先日銚子に向かう時に、霞ケ浦の東側の道(国道355)をいつものように南に走っておりました。
そして行方市に入ってしばらくすると「羽生」(はにゅう)の郵便局のところを通りました。

なぜかこの時に久しぶりに「橘郷造神社」に行ってみたくなりました。

ここには羽生の地名の由来となっている話が伝わっています。

ヤマトタケルが東京湾を渡るときに、海が荒れていて渡れませんでした。
そこで妻である「弟橘姫」が入水して波を鎮めるのですが、この時に髪に指していた笄(こうがい)が流されてこの地に流れ着きました。
そこに「鳥が集まってきて笄を加えてこの場所に運んだ」、または笄が「羽を生やして自らここに飛んできた」という伝説があるのです。

ただ私の興味はこの神社の名前です。「橘郷」(たちばなごう)という呼び名がこのあたりに昔から伝わっていることです。

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ただこの神社の横を新しい道ができ、神社の参道がかなりの部分削られてしまいました。
前に工事中の時に訪れて「こうして歴史から消えていく」というブログ記事を書いた覚えがあります。

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まあかろうじて参道部分は残りましたが、参道の杉の木がかなり切り倒されてしまいました。
現在苗木を植えていたので、何十年かすればある程度は復活してもこの神社の持つ神秘性などはほとんど消えてしまいました。

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「橘郷」としてブログをまとめていますのでよろしかったら昔の記事を読んでください。
 ⇒ こちら

橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/02/24 21:11

弟橘姫の像が盗難?

 先日茨城空港のほうから霞ヶ浦に向かって羽生(行方市)の郵便局への道を久しぶりに車で走りました。
湖岸沿いの国道355号線に出て銚子の方に向かうためです。

この道は茨城空港が出来る前から何度か通っています。
空港が出来、道路が拡張されきれいに成りましたが、車の量はやはり少ないです。

以前に「こうして歴史は消えていく」と題して、この通り沿いにある「橘郷造神社(たちばなごうぞうじんじゃ)」を取り上げたことがあります。(記事は → こちら
空港との連絡道路建設で神社の参道脇の木々がかなり切られてしまって、参道と道路との距離が近くなってしまったのです。

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この道路建設をしていて記事にしたのが2011年12月で、最近では最後に訪れたのが2017年2月です。

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参道と道路との距離は近いですが、それでも少しは参道の木も茂り、何とか守られているといった感じです。
この神社は東京湾で入水した弟橘姫(おとたちばなひめ)の笄(こうがい)が霞ヶ浦の湖畔に流れ着き、それを鳥と共に空を飛んでこの神社に運ばれたという伝説があります。

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1年半ほど訪れていなかったのですが、その間に入口に設置されていたヤマトタケル伝説の「弟橘姫の像」が今年の春に盗まれてしまっていました。
話は人づてに聞いていましたが、ひどいことをする人がいるものですね。
これも隣にアクセスしやすい道路が出来てしまったせいかもしれません。

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この像は鹿児島県生れの彫刻家「宮路久子」(行方市在住)さんが20年以上前に作って設置していたものです。

弟橘姫像

前に撮った写真ですが、それほど大きくはないのですが、宮路さんは、行方市などに残るヤマトタケル伝説に地に多くの像を制作して設置されています。

先日、宮路さんのお知り合いを通じて私の本「行方地方(上)常陸国風土記と行方の里」を読んでいただきたいと思い、宮路様に差し上げました。

そうしたら、宮路さまより丁寧なお手紙を頂戴しました。
その中で、これらの像はもう20~30年前に制作したもので、今はこれらの像制作には係わっておられないとのことでした。
頂いたお手紙で製法について書かれた所がありましたのでご紹介させていただきたいと思います。

「諸々の理由から、これらの銅は溶接で制作しています。初めての試みで、まず銅網で原形をつくり、銅線を低い熱で溶かしながら網を被せ、最終的には高熱で網もろとも溶かすというものでした。」

これってすごいことだと思ったのです。
銅の溶融温度は鉛、亜鉛、アルミなどの倍以上で、銀やよりも高くて金とほぼ同じの1083℃もあるのです。
合金などよりかなり高く、非常に扱いにくい金属だと思います。
確かにガスバーナーの温度はこれより高いので溶かせますが。

苦労されて作られたのだとの思いがしました。

これを盗むなどということは本当に許せませんね。

作った人の苦労を無にしないで欲しいものです。

宮路さまには、私のブログで、他の場所に設置されていた像のイメージが「常陸国風土記の記載されている内容を理解するとイメージとはあわない」などと好き勝手なことを書いていましたことを心よりお詫びいたします。


橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/10/10 10:26

羽生館跡(行方市)

 今日少し調べ物をしていて気になった所があり、午前中に出かけてきた。

気になった所というのは、行方市沖洲の奥に「石神遺跡」という場所だが、ここに縄文時代のストーンサークルに似た環状列石遺跡があり、市の指定史跡に認定されているという。

市のHPにある住所を訪ねてみたが、この辺りは沖洲芸術村の延長で宅地開発がされた場所らしく、住宅が少しあるが、売地と書かれた場所などは草や木々が茂り、足を踏み入れることも出来ないようになっていた。
市のHPの住所が違っていないならば、この辺りだという場所は見当はついたが、足を踏み入れることが出来そうになかった。

市のHPの写真は下のようなものなので、秋田の環状列石群程のものでもないが、方位磁石でも持っていって方降を調べてみたいと思ったのだが、見つけることも出来なかった。

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石神遺跡

しょうがないのでぐるっと回って、元の国道355号へ戻ろうと車を細い道を走らせていたら、分かれ道の所の山側に「羽生館跡」の看板が立っていた。

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説明は下記の看板を読んでいただければと思う。
いろいろ気になることが書かれているが、確かにこのあたりは万葉の頃や、鎌倉時代は「橘郷」と呼ばれていたところで、鹿島神宮領であった。

また、羽生氏は鹿島神宮の禰宜の中臣氏の一族だという。
色々これから調べてみなければならないだろう。

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それにしてもこの辺りは何もない。ここから左に山を巻くように進んだら「萬福寺」の所へ出た。
萬福寺は平重盛の遺骨を平貞能をこの寺に葬ったという小松寺と同じ伝承がある。

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この沖洲、八木蒔、羽生という地は少し特殊な地域と言ってもいいだろう。
もう少し調べてみたい。

羽生館

橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/06/21 21:01

萬福寺(行方市)

 このブログも地域に眠る歴史などと、もうかなりの数の寺などを紹介してきたので、同じところも何度か登場したりする。
今回の萬福寺も以前に紹介している。
ただ、今回はこの裏山側から回ってのアクセスだから少し感じ方も違う。
昨日紹介した「羽生館跡」の場所はこの萬福寺のある山とは地続きなので、何か関係しているのだろうと思う。

羽生館跡の看板から山を巻くように民家との間の細い道を車で通り抜けて、この寺の山門に出た。

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藁ぶき屋根の山門は、仁王門で仁王像が置かれていた。
扁額は「雷電山」という山号が書かれていた。

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山門をくぐると、上まで70~80段くらいの石の急な階段がある。
この石段もかなり急で、凸凹していて登りにくい。
年寄りには少し怖い感じだ。
コロナ禍での体力の衰えで、少し足元が気になる。

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登り切った正面に立派な「阿弥陀堂」がある。
この中に県指定文化財の阿弥陀三尊像が安置されている。

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この阿弥陀堂は江戸時代の書物で、1186年に建立されたされているようだがイマイチはっきりしない。

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源平合戦の時に清盛の長男・平重盛はすでに亡くなっており、部下の平貞能が重盛の遺骨とこの阿弥陀如来三尊を持ってここに安置したとされる。

これは城里町の小松寺に伝わる話と同じ。
小松寺には墓もある。

さて、この2つの寺の関係は?

この寺もご住職が最近「橘郷」についてHPに書かれている。
もう少しじっくり調べてみないとなかなか理解できない。

橘郷は鹿島神宮の領地であり、周りの地域と少し歴史的な見方が違っていそうだ。
羽生・八木蒔・沖洲など江戸時代も水戸藩と麻生藩に挟まれながらの独立していたのだろう。
麻生藩にいた江戸の「新庄氏」の直轄領でもあったようだが・・・・


橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/06/22 05:48

橘郷造神社へ

 行方市羽生にある「橘郷造神社」の脇を、先日通りかかったので立ち寄りました。
この神社もこのブログを始めた頃から何度も立ち寄っています。
そしていくつもの変化を記録してきました。

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国道355号線沿いにある「羽生郵便局」から茨城空港へ向かう道路沿いに、この神社は建っています。

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木々の続く参道の先に神社の鳥居と奥に拝殿が見えます。
隣りの道路が拡張され、寂しくはなりましたが、参道の木は何とか無事に葉を伸ばしていました。

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ただこの道路側の入り口にあった宮地さんの作られた「弟橘姫の像」は盗難にあってから、その姿を見ることはありません。

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羽生に伝わる東京湾でヤマトタケルを助けるために入水した弟橘姫伝説、その笄(こうがい)がここに流れ着いたという伝説。
羽生の地名、立花(橘)の地名、いろいろな話が残る「橘郷」
橘の木を植えて、実がなり、万葉歌碑などをどこかにまとめて、昔の物語を聞かせていただける場所などがあっても良いのではないか? などとつい考えてしまいます。


『 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする 』
 (古今和歌集、詠み人知らず)

以前の記事

・弟橘姫の神社-橘郷造神社(2011/07/28)⇒ こちら
・このように歴史は消えていく?(2011/12/06) ⇒ こちら
・橘郷造神社(2017/02/24 ) ⇒ こちら
・弟橘姫の像が盗難?(2018/10/10) ⇒ こちら

・茨城の難読地名(その22)-羽生(2018/07/13) ⇒ こちら

橘郷 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/06/23 06:35
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