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鹿島鉄道車両

 先日紹介した行方で、鹿島鉄道の車両が見られるとの情報いただきました。そこで少し調べてみました。

 鹿島鉄道は全てジーゼル車両で、この廃止が決まった時、残された車両について、Wikipediaによると、

「廃線後に保存されている車両は全部で6輌ある。「鉾田駅保存会」が購入したキハ601とKR505がのちに鉾田市に寄付されてほっとパーク鉾田で動態保存されている。「鹿島鉄道保存会」が購入したキハ714・キハ431・KR501が小美玉市の「鹿島鉄道記念館」で静態保存されている(期日指定公開であり、ふだんは非公開)。また、キハ432は小美玉市の小川南病院「はるるの郷」の利用者用施設として保存されている」

と書かれていましたので、小川南病院の車両を見に行ってきました。
病院のリハビリ用の施設として使っているようですので、一般の人は中には入れません。

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きれいに車両は化粧直しがされていますが、懐かしいと思う人は多いでしょう。
  

旧鹿島鉄道沿線 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/22 06:42

小川高校下駅(旧鹿島鉄道線)

 鹿島鉄道が廃止されて4年が経ちました。結構前だったのだな~と思いますね。
私が石岡に来た時は盛んに存続運動をやっていました。
当時はあまり分からず眺めるだけでしたが、やはり惜しいことをしたと思います。

先日行方市に行った時に並行に走っていた国道355線を通ると、あちこちにまだ名残が見られました。

 小美玉市にある県立小川高校の下車駅であった「小川高校下駅(おがわこうこうしたえき)」がまだ形をとどめていました。

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駅の外壁には存続運動の中心であった小川高校に生徒さん達のイラストなどがまだ鮮やかに残っていました。
「未来へはしれ!鹿島鉄道」
今はどこかむなしさが・・・。

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駅のホームと隣にあった自転車置き場は荒れてはいますが残っています。
駅の名前が描かれたプレートは外されていてありません。

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軌道のレールは除かれておりますが、その他はむかしのままです。そこに草が生い茂っています。
この駅は手前が常陸小川駅で700mしか離れていません。昭和61年開校の県立小川高校と小川南病院の最寄り駅として昭和63年に開設された無人の駅でした。

そして、この小川高校も新規の学生募集は行なわず、2年後に廃止が決まっています。
  

旧鹿島鉄道沿線 | コメント(7) | トラックバック(0) | 2011/07/25 06:59

鹿島鉄道の車輪

 鹿島鉄道が廃止となったのは2007年4月1日ですから、もう5年半以上経ちます。
私が石岡に越してきたのはその前の年です。

越してきた時にはすでに廃線が決まっていましたが、存続運動がまだ続いていました。

この気動車鉄道はこの霞ヶ浦北側の市民の足でもありましたが、今思えばこの地に育っていた文化の継続を断ち切ってしまったようにも思います。

鹿島神宮への参拝を目指す路線として大正時代に計画された鉄道でしたが、百里基地の燃料輸送による収益が主な収入源となり、いつしか人々の足や、文化のつながりといった本来の役割を失ってしまった結果が今に至ったようです。

廃止されたあとに、ジーゼルの車両や関連のグッヅはいくつか売り出され、車両は小川病院(こちらに記事)や鉾田市ホットパークなどに保存されています。

 国道355線の小川街道沿いの玉里駅の近くにあるバイクショップにこの車軸が展示してありました。

ここの住所は「栗又四ケ」といいます。一体何と読むと思いますか?

「くりまたしか」です。
この街道を昔は車で走っていて、この名前を見たときには正直驚きました。

でもこれも名前にはその歴史があるようです。
大昔(江戸時代か明治のはじめか知らない)に四つの村が一緒になって栗又四箇村(または四ケ村)ができた。

そして、鹿島鉄道にも「四箇村(しかむら)駅」(四ケ村とも書いた)ができていた。

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(サムネルです。クリックで拡大画像を表示します。)

国道355線沿いのバイク店の駐車場にこんな形で展示されていました。

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奥がこのお店です。綺麗なお店です。

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車軸と車輪は、このように花壇に木を植えて、その下に鞍馬を組んで置かれています。
大雨では濡れてしまいますが、多少の雨なら防ぐことができそうです。

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この場所のすぐ先に「玉里駅」という案内があります。
そこをはいるとバス停の「玉里駅」があります。

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鹿島鉄道が廃止され、その軌道の後を、専用のバスレーンとしています。
これは、茨城空港ができたため、石岡から空港までのバスの路線を、混雑した道路から回避するために設けられたものです。

1時間に3本ほどのバスが昼間も走っていますが、撮影時の少し前にバスが通過したのが見えたので、次は20分先でしたので、バスは一緒に撮っていません。

なんにも走っていないこのレーンも少しもったいないですね。

また少し前に見たバスも、乗客はあまり乗っておらず、このバス停には停車せずに行ってしまいました。

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バスが遠くまで見えないので、バスレーンを歩いてこの先の先ほどのバイク店の駐車場の裏にまわって見ました。
この街道の方は結構交通量が多いんです。

ところで「玉里」という名前は昔は「田余」と書いたといいます。
読み方も「タマリ」であったり「タアマリ」であったりしたようです。
これもブログで教えてもらって気がつくようになりました。

私は玉造と同じで、昔からの名前だと思っていました。
昔の勾玉などが出たところかと思いましたが、水が豊富な場所だったのですね。
ヤマトタケルの伝説も伝わっています。

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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(4) | トラックバック(1) | 2012/10/20 15:03

桃浦(1)-旧桃浦駅

 鹿島鉄道が2007年4月1日で廃止されて6年半が過ぎた。
その軌道の跡地は石岡から茨城空港に通うバス専用路線として6~7km位が使われているが、全線は26.9kmですので1/4も使われずに置かれたままになっている。

ここ桃浦は常陸小川、小川高校下の次に来る駅であり、八木蒔、浜、玉造と続く。

何故かこの場所は年齢層によりかなり印象は違うのではないだろうか。

「石岡昭和の肖像」に昔の石岡駅に貼られたポスターが目に焼き付いている。

桃浦の海水浴場が開かれる案内が書かれていた。

そう、ここで夏は海水浴が出来たのだそうだ。霞ヶ浦は何時頃まで泳げたのでしょうか?

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桃浦駅。ログハウス風の駅舎がそのまま残されています。上の写真は線路側から撮ったもの。

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駅舎入口正面です。昔の写真を見るとこの真ん中部分(入口の左側)に自動販売機(ジュースなど)が置かれていたようです。

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駅の待合室。昔のまま残されています。

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1段高くなっているホームは草は生えていますがそのままの形で残っています。
そしてホームの左右に線路があったようです。
単線でしたがここで上下線のすれ違いが出来たようです。

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さて、廃線当時は無人駅だったようですが(有人駅は常陸小川と玉造?)、この駅にも駅員がいた時代が長くあったようです。

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駅舎の向かって左側の部屋は駅員の部屋だったようです。

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この駅員室には運行当時の色々な紙が貼られたままになっています。
各関係の連絡先、運転の注意事項などがびっしり貼ったままになっています。

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この駅舎の入口は比較的広くロータリー式になっていたようで、駐車場も整備されていました。
また、ここに石碑が建立されていて、これはこの駅が出来た時に建てられたようです。

手前の県道から駅までの短い区間ですが道路が開通した事を記念して建てたもののようです。
「桃浦駅新道開通記念碑」と書かれています。

1926年に常陸小川から浜まで鉄道が延長されたことを記念したものかもしれない。



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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/27 19:52

桃浦(2)-茨城百景

 桃浦の海水浴場があったあたりは非常に風光明媚な場所であったようで「茨城百景」で桃浦(桃浦遊園地,箱根の見晴)が指定されている。

(今回写真はすべてクリックすると更に大きな写真になります)
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桃浦の霞ヶ浦湖岸から筑波山を眺める。
昔は海水浴が出来たという場所であるから砂地の浜も広がっていたのだろう。
これも霞ヶ浦が湖ではなく海であった時のことか?

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今の湖岸はこのような堤防で浜はない。
このすぐ東が「浜」という地名であることからしてもきっと砂浜に松の林などが点在していたのかもしれない。

すぐ西側(石岡側)には「ほほえみの丘」という場所があり、砂浜を復元して昔の景観を取り戻そうとしている。

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湖岸の脇の草地に「茨城百景」の石碑が置かれている。
この隣に「玉造海洋センター」が造られていて、ちょうど子供たちがたくさん来て運動をしていた。

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こちらがその海洋センター(財団法人)。石岡にも風土記の丘公園の近くにある。

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旧桃浦駅の近くの民家だ。
このような旧家と比較的新しい近代住宅も混ざっている場所である。

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朝まだ比較的早かった時間であるが、ススキに朝日があたって輝いて見えた。

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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/28 20:31

桃浦(3)-天神山

 昔霞ヶ浦に海水浴場があった頃にこの鹿島鉄道の桃浦では夏は海水浴客で賑わったそうだ。
また鹿島鉄道が通る前は霞ヶ浦の水運が盛んで、この場所も船着き場があり東京(江戸)などとも船で行くことが出来た。
穀物などを運んでいたという。

その桃浦も鉄道が廃止されてかなりたつが、この場所に来ると時間が止まっているような感覚になる。

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桃浦駅とその入口などは手つかずに残されたままになっている。
昔の鹿島鉄道を知っておられる方もきっとこの場所に来てみたら良い。

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この駅前の広場には今も駐車場の看板が。
鹿島鉄道株式会社は鉄道が廃線になっても会社としては存続しているそうだ。

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線路はこのように踏切部分は残っているところが多い。鉄橋などもそのままの所もある。
探せばいろいろと残っているんだろう。

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国道355線。
石岡方面から来ると少し高いところから霞ヶ浦の方に下りてくるようになる。
そして左にカーブしてこの桃浦だ。写真の一つ先の信号の所を右に曲がると旧桃浦駅だ。

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桃浦も海水浴などで賑わったのだからどこかに神社でもあるのではないかと少し山側の道に入ってみることにした。
ミカンの木が道の上をふさいでいてトンネルになっていた。
何かこんな道は懐かしい。

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すぐ裏の山の上に何かありそうなので少し先に登り道があった。
「天神山散歩みち」と書かれていたが、道は草に覆われていた。
ここは登らずその先に進むと山を廻って反対側に出た。

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「天神の杜」との立て札があった。

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どうやら広い広場にでた。そしてその先に霞ヶ浦と桃浦の街が広がっていた。

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天神山と名前がついているので頂上に小さな社が置かれていた。
天神さんというのは一般には、菅原道真を祀る天満宮の事を呼ぶそうだが、この堂の前には狐の像も置かれていた。お稲荷さんか。
まあ全国に、集落の近くの小山に「天神山」と名前がつくところはたくさんある。

でもここに登るのには枯れ葉を踏みしめて足が滑りそうになって登ったのです。
あまり人は来ないようです。昔はどうだったのでしょうか。

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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/11/29 20:35

八木蒔周辺(1)ー八木蒔駅跡

 先日、2007年に廃線となった鹿島鉄道の「桃浦」周辺をお届けしました(こちら)、その先を少し見てみたくなりました。
桃浦の先は八木蒔、浜、玉造と続きます。

まずは八木蒔(やきまき)駅です。
国道355線を車で走っていると八木蒔は少し道路は登って行き、大きな神社、寺(八幡神社・円勝寺)のすぐ脇を通るので、こちらには何度か立寄っている。(記事:霧に包まれて

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駅の場所がわからずウロウロしているとありました。
355号線の円勝寺、八幡神社の所から霞ヶ浦の方に入って行った辺りです。

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この駅はもともと無人駅で駅も周りは開けておらず切りとおしのような場所にホームを設置した簡素なものだったようです。
1つのホームと小さな待合室がポツンと残されていました。

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壁には運賃表が残されており、ここだけが時間が停まったような空間です。

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鉄道の線路が取り除かれたところには草木が生い茂げっています。
廃線や廃墟にはそれなりのノスタルジアの思いがありますが、やはり寂れていく悲しさの方が強いです。

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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/27 19:46

八木蒔周辺(2)-道路元標

 この行方市玉造の少し手前の「八木蒔」集落は355線より霞ヶ浦沿いに広がっていて、旧道もこちらにあった。
その旧道沿いに「立花村道路元標」が置かれた場所があった。

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字は薄くなっており読みにくいのですが、道路元標ですから、この場所に村の中心となる何かがあったことになります。

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ここは「八木蒔地区学習センター」となっています。

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そしてその庭に「忠魂碑」と大きな石造りの塔が立っています。
地方をウロウロしていると同じようなものに各地で出会います。
まったく同じような形のものは銚子の方にもありました。

この形を見ると昔小学校に置かれたという奉安殿(天皇の写真と教育勅語などを入れていた)に似ています。

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でも脇には先の戦争での戦没者のお名前がたくさん彫られていました。


この立花村の歴史を調べてみました。(Wikipediaより記事内容を転載します)

村名は「立花郷」に由来するとあります。昔の立花郷=橘郷からきているようです。

1889年(明治22年):羽生村・八木蒔村・沖須村・浜村が合併して立花村が誕生
1955年(昭和30年):玉造町・手賀村・玉川村・現原村、立花村が合併し玉造町が誕生し立花村は消滅

この八木蒔地区学習センターにはどうやら昔のこの立花村役場があったようです。

さて、ここでこの話は終わりません。この立花村が何故橘村とならなかったのか?
実はもう一つ近くに「橘村」があったのです。

こちらも立花村と同じ明治22年4月1日に誕生しました。

橘村は今の行方市ではなくもう少し西寄りの小美玉市です。
与沢村・山野村・幡谷村・川戸村・外之内村・倉数村が合併して誕生しました。
これもこの辺りが平安時代に歌にも詠まれた橘郷(立花郷)だったのです。

こちらの橘村も昭和29年に小川町となり消滅しました。

そのためこの辺りの記事を今までのものを含め、今後橘郷としてまとめておくことにします。

何もないところですが、源頼朝や鹿島神宮などと深くかかわりを持った地域としてもう少し掘り下げて見たいと思います。



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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/28 18:14

八木蒔周辺(3)

(本日出かけております。予約投稿です)

 鹿島鉄道が通っていた時にこの「八木蒔」(やきまき)という地名にとても惹かれるものがあった。
何故このような地名が出来たのだろうか。

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行方市八木蒔(やきまき)地区は霞ヶ浦沿岸に広がる街が今では中心のようだ。
旧道から霞ヶ浦と筑波山がきれいに見えた。

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旧道のT字路隅に「鎮守 八幡神社」という石標が置かれていた。
この道を少し入ったところに鹿島鉄道の八木蒔駅があった。

八幡神社は355号国道沿いにある神社で鎌倉幕府とのつながりなどもうかがわれ、昔はこの辺りの総鎮守となっていたようだ。

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そのまま旧道を進むと浜駅との間で鹿島鉄道と交差します。
今では道路上の線路を残し全て撤去されています。

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この辺りは鹿島鉄道も切り通しなどの中から抜けて眺望が広がる辺りだったのでしょう。
右手に霞ヶ浦をながめながら真直ぐ浜駅の方向に進むところです。
今ではこの通り鉄道のあった場所がぽっかりと空いています。

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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/12/29 19:15

八木蒔周辺(4)-地名

 昨年末まで書いてきた行方市の八木蒔地区。この読み方は「やぎまき」ではなく「やきまき」と読む。
少し気になって同じ地名を検索してみた。

   ・大分県中津市耶馬溪町大字山移八木蒔(やきまき)

 があった。耶馬渓と深耶馬渓の中間にある集落である。

地名の由来を知るのに全国の郵便番号簿から地名検索用のプログラムをEXCELで作成して検索した。

まず「八木」とつく地名は全国に100件程あったが、この中で「やき」と読むのは次の8か所のみ。
(もちろん新住所のみなので、旧住所にあるものは検索できない)

・茨城県行方市八木蒔
・千葉県船橋市八木が谷(ヤキガヤ)
・新潟県東蒲原郡阿賀町八木山(ヤキヤマ)
・富山県富山市八木山(ヤキヤマ)
・三重県多気郡明和町八木戸(ヤキド)
・岡山県備前市八木山(ヤキヤマ)
・福岡県飯塚市八木山(ヤキヤマ)
・長崎県西海市西彼町八木原郷(ヤキハラゴウ)

その他は次の1つを除いてすべて「ヤギ」だ。

・熊本県上益城郡山都町八木(ハチボク)

続いて「やきまき」という言葉でネット検索してみると
・岩手県花巻市八木巻集落:古い時代の文献には、八鬼巻、八亀巻、焼巻、焼蒔、八寸巻というさまざまな表現で登場。
   永禄7年(1564年)に始まったとされる「八木巻神楽」が有名

八鬼巻、八亀巻、焼巻、焼蒔、八寸巻 その他でいろいろと検索するが思うようにヒットしない。
・宮城県石巻市広渕焼巻
・岩手県下閉伊郡岩泉町釜津田小焼巻(こやきまき)

変わったところでは
・愛知県豊田市松平志賀町八升蒔(はっしょうまき)

というのもあった。

こう言うことを考えて頭の片隅に置いておくと次にどこかでハッとして気がつく事があるのではないかと思っている。

まあ行方(なめかた)などというわからない名前もあるのでのんびり考えよう。
行方についての謂れは一応常陸国風土記に載っていることは承知しているが、これは正確ではないと思っている。

今回の検索で「八木山」がヒットしたが、昨年末に仙台に出かけていたが、仙台にも八木山があったがこちらは「ヤギヤマ」だと伺った。

そのため全国にある「八木山」と漢字で書く地域を調べたが上のリストに記載した新潟・富山・岡山・福岡の「ヤキヤマ」とこの仙台の「ヤギヤマ」しか出てこなかった。

仙台の八木山は元々は越路山と呼ばれていた所だそうで、仙台城に隣接していて樹木の伐採が制限され(御留山?)荒廃していた場所であったそうだ。それを江戸時代創業の仙台味噌などを営んでいた八木家4代目八木久兵衞氏が明治になりこの地区を私財を投じて買い取り開発を進め、さらに昭和になり5代目が開発を拡げて動物園などを整備したことから越路山は八木山(ヤギヤマ)と呼ばれるようになったそうだ。

こんなことからもその場所の歴史が見えます。


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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/08 18:57

旧鹿島鉄道浜駅跡

 昨年末に廃線となった鹿島鉄道の八木蒔駅の現在の姿をお伝えしたので、今回はもう一つ先の「浜駅」がどうなっているかを見てきました。

この鉄道の当初の目的は鹿島神宮参拝客を見込んだものだったようで、当初は「鹿島参宮鉄道」と言っていました。
そして、第1段階としてこの浜駅から船で鹿島神宮まで行く計画もされたといいます。

そのためまず常陸小川駅まで開通した鉄道を2年後(大正15年)にこの浜駅まで延ばし、桟橋も一部造られたそうです。
しかし計画は変わり鉾田方面に向きを変え、この先の玉造までは更に2年かかった。

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浜駅があったのは現在の浜の街よりも大分手前でバス停「浜」のところを霞ヶ浦側に少し入ったところであった。

「浜駅・・・記念碑」と良く読めないが駅が開通した時(大正15年8月)のものではないかと思う記念碑が残されていた。


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駅前のロータリーの面影がわかる。
線路は上の写真のトラックが停まっているあたりの右手に駅があり、左側に線路は真直ぐ伸びていたようだ。
左手沖には新しく太陽光パネルが設置されていた。

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これはそのソーラーパネル。

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駅があった場所は再開発が進んでいた。

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この場所は筑波山もきれいに見える見晴らしの良い場所だ。

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しばらく前までは草が生い茂って荒れた様子だったと言うが、今は整備されて盛んに工事がされていたので何かが出来るのだろうか。

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このように駅のプラットホームがまだ残されていたので駅であったことを確認した。

どうも鹿島鉄道の各駅はその当時の街の中心地を通す考えはなかったようだ。
ほとんどの駅が町から少し離れた場所に建てられたように思う。

そして駅が出来たことで周辺が大いに発展した形跡もあまり見られない。
駅が無くなると元の草むらに戻ってしまうような感じなところが多い。

しかし、鉄道は人や物を運ぶ手段を提供してくれるものだけではない。
そこには人の輪もできるし、文化も生まれる。

それが無くなるといくらバスが走っていてもお互いをつなぐパイプが断ち切られてしまった寂しさがこみ上げてくる。



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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/01/22 19:43

玉造駅跡(鹿島鉄道)

昨年も何回かに亘って、もう7年も前に廃線となった鹿島鉄道(石岡~鉾田)の跡を見てきた。
左側のカテゴリに今までの記事をまとめた。

そして今回はこれに途中での最大の駅「玉造駅」跡を見に行った。

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玉造駅があった場所は大きな空き地となったままですぐに分かった。

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駅のトイレとして造ったものだと思うが、これは比較的新しいく現在も使われていた。

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駅から正面の商店街を眺めた。
現在も営業しているお店が多いが、駅が無くなりさみしい通りになってしまったようだ。

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駅の入口にあったコイのモニュメントが残されていた。
霞ヶ浦の鯉がこの町でも名産だったようだ。
これも鯉ヘルペスでほとんどがダメになり、今では復活したが半分程に減ってしまったようである。

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浜駅の方向は線路のあった部分は盛り土されていたようでそのまま空間として残っていた。
この方向に霞ヶ浦がある。

浜駅までは霞ヶ浦に沿って線路はあったが、そこから玉造は内陸側に90度曲がっていたようだ。
逆の鉾田方面は草に覆われて見通すことは出来なかった。

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今はこの場所には「玉造駅」というバス停があり、自転車置き場が置かれていた。

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玉造の街の方に進んで駅の方を振り返った。この正面突きあたりが駅のあった場所だ。

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その突きあたりの駅の所を道は右に曲がっていて、そのまま進むと線路をまたいで新撰組所縁の地として売り込んでいる「芹沢」の方に行く。

この道路上の線路はそのまま残っていた。
そして、取り外されたコンクリート製の枕木がうず高く積まれていた。

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玉造駅方面をながめたところ。

さて、行方市玉造は今有る試みをしている。農地法を緩めた特区の設置だ。

霞ヶ浦大橋を渡り、道の駅周辺からの通り沿いの再開発が進み大型店がどんどん進出してきている。
この駅前はさみしくなっているが、大型の商業開発もこのように鉄道も無くなれば必要だと思う。

昭和27年に制定された「農地法」が硬直化された行政に今では弊害あって益なしと言えるのではないか。

農地法の目的と書かれた所を抜粋してみます。

「この法律は、国内の農業生産の基盤である農地が現在及び将来における国民のための限られた資源であり、かつ、地域における貴重な資源であることにかんがみ、耕作者自らによる農地の所有が果たしてきている重要な役割も踏まえつつ、農地を農地以外のものにすることを規制するとともに、農地を効率的に利用する耕作者による地域との調和に配慮した農地についての権利の取得を促進し、及び農地の利用関係を調整し、並びに農地の農業上の利用を確保するための措置を講ずることにより、耕作者の地位の安定と国内の農業生産の増大を図り、もつて国民に対する食料の安定供給の確保に資することを目的とする。 」

本文を読んでみてもまったく古くて、いろいろな事をやりたくてもこれを制限する以外に何もないように思う。

(これは良く調べていないので内容が違っているかもしれません。内容は各自お調べください。)



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旧鹿島鉄道沿線 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2014/02/05 19:45

こんなところに踏切

旧玉里村(現小美玉市)の湖岸沿いを車で走っていると、とある工場のような建物の入口に電車の踏切が置かれていました。
まわりはのどかなハス畑などが広がります。

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これは廃止された鹿島鉄道の踏切に使われたものでしょうか?

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この場所から鉄道が走っていた場所までは少し離れています。
鉄道が廃線になってから8年過ぎました。

廃線の時に車両も含め多くの機材が売り出されたようです。
このような踏切遮断機も中にはあったのでしょう。

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場所は「赤坂」というバス停近くです。
バスも1日3回。それも平日だけです。

旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/07/02 21:24

こんな記念切符手に入れたけれど・・・。

 鹿島鉄道が廃線(2007年4月1日)になって早や10年が過ぎた。
私が切り絵作家「滝平二郎」さんの本や切り絵集を集めていることを知って、知り合いが面白いものをもって来てくれた。

今から25年前の平成2年に発売された鹿島鉄道の記念乗車券である。

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「滝平二郎切絵と鹿島参宮鉄道唱歌」と書かれている記念乗車券である。
見開きA4版を二つ折りにしたA5版くらいの厚紙でできている。

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見開きを開くと左右に2枚の滝平二郎さんの切り絵がデザインされていて、その下に「鹿島参宮鉄道唱歌の7番8番の歌詞と左側には切符が2枚ついている。
また見開きを開いた時にいわゆる「鉄道唱歌」のメロディオルゴールが流れる仕掛けになっている。

表紙もシリーズⅣとなっているので石岡から始まってⅠ~Ⅲまでは別にありそうだ。
鹿島参宮鉄道の歌詞も1から6までが別にあるのだろう。

この鹿島参宮鉄道の唱歌はよく知られた「汽笛一声(いっせい)新橋を はや我(わが)汽車は離れたり・・・・・・・」の鉄道唱歌のメロディに地元の風景などを織り込んだ歌詞に変えたもののようだ。

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鹿島鉄道は建設当初は鹿島神宮を目指して高浜から建設され、名前も初期は鹿島参宮鉄道とされていた。
それが途中まで開設された後に玉造から鉾田に方向を変えた。

いろいろ理由はあろうが、鉄道が廃止されバス路線だけとなるとどうも文化的なつながりが途切れてしまう様に思う。
滝平二郎さんは石岡の隣の玉里村(現小美玉市)の生まれで、高校は石岡一高の前身の農学校の出身である。

こうして地元の懐かしい風景などを切り絵に残しているので地元でも大切にしたい一人である。

新しい石岡駅には大きなステンドグラスの絵が飾られ、石岡一高創立110年にちなんで、滝平二郎さんの記念館設立の動きもあるようだが具体化するには市民の絶大なバックアップが必要に思う。

旧鹿島鉄道沿線 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/08/27 12:26
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