息栖神社(1)-東国三社
銚子に何度か用事があり車で行っていますが、途中の息栖大橋の近くを通るたびに一度行ってみたいと思っていました。
行ったのはもう連休前の4月末です。
鹿島神宮・香取神宮といういわば別格の神社があるわけですが、これにこの息栖神社を加えて東国三社と呼ばれています。
3つの神社を結ぶと直角三角形となるために、レイラインの心霊スポットとしても注目されている場所なのですが、これも息栖神社の位置を移動して故意に作られたものではないかとも思われます。
Flood MapによってGoogle地図に今より水位が3m高い時の地図にこの東国三社の位置関係を載せてみました。

地図に日川を載せているのは、この息栖神社が大同2年(806)にこの日川地区よりこの現在の地に移されたとされているからです。
以前「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」という行方市にあるこじんまりした神社を紹介しました(こちら)
この時に「於岐部説神社」という名前は、この息栖神社のことを一般には指すという話を書きました。
また於岐部説=おきつせ=沖洲であることも書きました。
利根川と常陸川が合流する少し手前の水門の少し上流に常陸川に架かる橋を息栖大橋といいます。
この橋を(千葉県川から)渡って次の信号を左(西)に曲がって少しいったところに息栖神社の森があります。

通りから少し入ったところに入口鳥居があります。
この神社はとても静寂な空気が漂っています。身が引き締まるようです。
この神社の場所が今では行くのが不便で訪れる人も少ないようですが、一度訪れてみたら良いと思います。
昔は霞ヶ浦水運が発達していた時は霞ヶ浦から利根川に物資を運ぶ要のような位置にもあり、信仰もかなりあったようです。

神社の境内も綺麗に掃き清められており、ひっそりとした雰囲気はさすがに東国三社の一つです。

歴史的には何度か建て直されているので建物としてはそれ程古いとは思われません。

4月末ですのでボタン桜と赤い神社の拝殿や鳥居が緑の中で美しさを引き立ててくれます。

上の説明看板は神栖町教育委員会が門の入口に掲げたものです。
日川から移されたことが書かれています。
また昭和35年の火事で社殿を新築したことが記されています。

こちらは神社側が拝殿近くに掲げた説明看板です。
少し教育委員会のものとはニュアンスが違いますね。
それぞれじっくり読むととても面白そうですので、そのまま写真で掲載しました。

本殿です。やはりかなり新しそうです。

境内に置かれていた昔の「礎石」です。
一緒に書かれていた説明文を載せておきます。
「息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806、奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ立替えがありました。此の五個の石はそのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄その務めを果たしました。」
少し面白い書き方ですね。学術的には調べれば年代は分かりそうですが、ともかく礎石のお役目ごくろうさまでしたというところでしょうか。
またあすに続きます。
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行ったのはもう連休前の4月末です。
鹿島神宮・香取神宮といういわば別格の神社があるわけですが、これにこの息栖神社を加えて東国三社と呼ばれています。
3つの神社を結ぶと直角三角形となるために、レイラインの心霊スポットとしても注目されている場所なのですが、これも息栖神社の位置を移動して故意に作られたものではないかとも思われます。
Flood MapによってGoogle地図に今より水位が3m高い時の地図にこの東国三社の位置関係を載せてみました。

地図に日川を載せているのは、この息栖神社が大同2年(806)にこの日川地区よりこの現在の地に移されたとされているからです。
以前「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」という行方市にあるこじんまりした神社を紹介しました(こちら)
この時に「於岐部説神社」という名前は、この息栖神社のことを一般には指すという話を書きました。
また於岐部説=おきつせ=沖洲であることも書きました。
利根川と常陸川が合流する少し手前の水門の少し上流に常陸川に架かる橋を息栖大橋といいます。
この橋を(千葉県川から)渡って次の信号を左(西)に曲がって少しいったところに息栖神社の森があります。

通りから少し入ったところに入口鳥居があります。
この神社はとても静寂な空気が漂っています。身が引き締まるようです。
この神社の場所が今では行くのが不便で訪れる人も少ないようですが、一度訪れてみたら良いと思います。
昔は霞ヶ浦水運が発達していた時は霞ヶ浦から利根川に物資を運ぶ要のような位置にもあり、信仰もかなりあったようです。

神社の境内も綺麗に掃き清められており、ひっそりとした雰囲気はさすがに東国三社の一つです。

歴史的には何度か建て直されているので建物としてはそれ程古いとは思われません。

4月末ですのでボタン桜と赤い神社の拝殿や鳥居が緑の中で美しさを引き立ててくれます。

上の説明看板は神栖町教育委員会が門の入口に掲げたものです。
日川から移されたことが書かれています。
また昭和35年の火事で社殿を新築したことが記されています。

こちらは神社側が拝殿近くに掲げた説明看板です。
少し教育委員会のものとはニュアンスが違いますね。
それぞれじっくり読むととても面白そうですので、そのまま写真で掲載しました。

本殿です。やはりかなり新しそうです。

境内に置かれていた昔の「礎石」です。
一緒に書かれていた説明文を載せておきます。
「息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806、奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ立替えがありました。此の五個の石はそのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄その務めを果たしました。」
少し面白い書き方ですね。学術的には調べれば年代は分かりそうですが、ともかく礎石のお役目ごくろうさまでしたというところでしょうか。
またあすに続きます。


息栖神社(2)-句碑
昨日の息栖神社の続きです。
息栖神社の境内にはいくつかの句碑が立てられています。


まずは境内を進んですぐ左側に赤い柵で囲われた場所があります。
向かって左側には「力石」とあり、右側には芭蕉の句碑があります。

この力石は春秋の祭り夏の昼休み夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の50貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。(現地説明看板)
鹿島神宮、香取神宮には「要石(かなめいし)」があり、鹿島神宮の要石は地震を起こすなまずを押さえつける石と伝えられているが、これは力比べの石だそうだ。

こちらが隣にある芭蕉の句碑です。内容は下の説明文のとおり。

気吹戸主(いぶきとぬし)の説明面白いですね。いろいろと知らないことが多いことを今更自覚してしまいます。
芭蕉もいろいろな知識が豊富なんですね。
このようなことを知って、この神社を訪れたらまた違って見えたり感じたりするのかも知れません。

こちらには鎌倉時代の「新和歌集」の歌が載っていますが、何といっても藤原時朝=笠間時朝(笠間城の初代城主)の歌が載っています。
笠間を訪れた時に出てきた時朝の歌がこんな場所で見つけられたのはとても嬉しいです。

こちらはそれよりも前の歌ですね。説明は下の通り。

これは明らかに息栖=沖洲ということを書いていると解釈してみました。
沖にある洲の場所に建てられた神社なのです。
神社の祭神は岐神(くなどのかみ)=於岐都説神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神の五神を祀っています。
すべて船や交通の安全をつかさどり、先達をする神のようです。
天鳥船は空を飛びますので航空関係の関係者等もお参りにこられるのでしょう。

御神木のスギの木です。説明には夫婦杉とあり、樹齢約千年と書かれています。
(千年の杉には見えません)

息栖神社は静寂で美しい神社です。
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息栖神社の境内にはいくつかの句碑が立てられています。


まずは境内を進んですぐ左側に赤い柵で囲われた場所があります。
向かって左側には「力石」とあり、右側には芭蕉の句碑があります。

この力石は春秋の祭り夏の昼休み夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の50貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。(現地説明看板)
鹿島神宮、香取神宮には「要石(かなめいし)」があり、鹿島神宮の要石は地震を起こすなまずを押さえつける石と伝えられているが、これは力比べの石だそうだ。

こちらが隣にある芭蕉の句碑です。内容は下の説明文のとおり。

気吹戸主(いぶきとぬし)の説明面白いですね。いろいろと知らないことが多いことを今更自覚してしまいます。
芭蕉もいろいろな知識が豊富なんですね。
このようなことを知って、この神社を訪れたらまた違って見えたり感じたりするのかも知れません。

こちらには鎌倉時代の「新和歌集」の歌が載っていますが、何といっても藤原時朝=笠間時朝(笠間城の初代城主)の歌が載っています。
笠間を訪れた時に出てきた時朝の歌がこんな場所で見つけられたのはとても嬉しいです。

こちらはそれよりも前の歌ですね。説明は下の通り。

これは明らかに息栖=沖洲ということを書いていると解釈してみました。
沖にある洲の場所に建てられた神社なのです。
神社の祭神は岐神(くなどのかみ)=於岐都説神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神の五神を祀っています。
すべて船や交通の安全をつかさどり、先達をする神のようです。
天鳥船は空を飛びますので航空関係の関係者等もお参りにこられるのでしょう。

御神木のスギの木です。説明には夫婦杉とあり、樹齢約千年と書かれています。
(千年の杉には見えません)

息栖神社は静寂で美しい神社です。


息栖神社(3)-忍潮井
東国三社の一つといわれる息栖(いきす)神社の三回目です。
通りから矢印があり神社の鳥居が見えてすぐに神社は分かり一応の参拝と見学を終えて、別な場所に行く用事があったため、急いで引き返そうと車で前に来た道を戻りかけて、まだ見ていないものがあったことに気がついて急いでまた元の曲がり角まで戻りました。
この神社が日川地区からこの地に移されたことを証明するような話が残されていたことを思い出したのです。
それが日本三霊水といわれる「忍潮井(おしおい)」です。
息栖神社への曲がり角から反対側の常陸川の川岸に近い場所に鳥居がもうひとつあるのです。

昔は香取海(かとりのうみ)や流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦一体が大きな内海で、この辺は海水が満ちていました。
その海の水の中から綺麗な真水が吹き出していたのがこの忍潮井(おしおい)です。
看板:
「息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。
忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。
伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。
地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。」

しかし、説明にあるようにこの井戸はこの息栖神社と共に、もっと東側にある日川地区にありました。
大同二年(807)にこの地に神社を遷宮した時に、この不思議な井戸は離ればなれになることを悲しんで泣いたそうです。
日川地区にその泣き声が残され、「ボウボウ河」という地名もあるといいます。
そして、いつの間にか井戸(甕)がこの今の場所に移動した(歩いた)というのです。
まあほかに説明の使用はないのでこんな話になるのでしょうが、面白いですね。


男甕(おがめ)、女甕(めがめ)の二つの井戸同じように左右に並んでいますが、どちらが男か女かはわかりませんでした。

ちょうど川から引き込んだ入江のような静かな場所にあります。

こちらは神社の境内に作られた碑文です。作られたのは平成19年ですので大分最近ですね。

神社の拝殿。緑と神社の朱色がきれいにマッチしている。

調べればたくさんの事柄が出てきそうです。
一度訪れて見られたらと思いますが、バスなどで行かれるのも少し大変かもしれません。
息栖神社はこれで終わりです。
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通りから矢印があり神社の鳥居が見えてすぐに神社は分かり一応の参拝と見学を終えて、別な場所に行く用事があったため、急いで引き返そうと車で前に来た道を戻りかけて、まだ見ていないものがあったことに気がついて急いでまた元の曲がり角まで戻りました。
この神社が日川地区からこの地に移されたことを証明するような話が残されていたことを思い出したのです。
それが日本三霊水といわれる「忍潮井(おしおい)」です。
息栖神社への曲がり角から反対側の常陸川の川岸に近い場所に鳥居がもうひとつあるのです。

昔は香取海(かとりのうみ)や流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦一体が大きな内海で、この辺は海水が満ちていました。
その海の水の中から綺麗な真水が吹き出していたのがこの忍潮井(おしおい)です。
看板:
「息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。
忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。
伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。
地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。」

しかし、説明にあるようにこの井戸はこの息栖神社と共に、もっと東側にある日川地区にありました。
大同二年(807)にこの地に神社を遷宮した時に、この不思議な井戸は離ればなれになることを悲しんで泣いたそうです。
日川地区にその泣き声が残され、「ボウボウ河」という地名もあるといいます。
そして、いつの間にか井戸(甕)がこの今の場所に移動した(歩いた)というのです。
まあほかに説明の使用はないのでこんな話になるのでしょうが、面白いですね。


男甕(おがめ)、女甕(めがめ)の二つの井戸同じように左右に並んでいますが、どちらが男か女かはわかりませんでした。

ちょうど川から引き込んだ入江のような静かな場所にあります。

こちらは神社の境内に作られた碑文です。作られたのは平成19年ですので大分最近ですね。

神社の拝殿。緑と神社の朱色がきれいにマッチしている。

調べればたくさんの事柄が出てきそうです。
一度訪れて見られたらと思いますが、バスなどで行かれるのも少し大変かもしれません。
息栖神社はこれで終わりです。


波崎港(茨城県東南端)
今日は桜の花が一気に満開になりました。
都内ではもう散りだしたようです。
今週は週末しか時間がとれないので散らないでほしいですね。
さて、銚子に行く時に何度か茨城県の神栖市から銚子大橋を通っていくことがあります。
この利根川河口に架かる大橋を渡ると銚子の街ですが、手前は波崎(はさき)という街です。
茨城県の東南端で、利根川の河口の南が銚子で北が波崎となります。
茨城県に住んでいながらあまりこの港を訪れたことはありません。
大昔に霞ヶ浦や印旛沼などが一体となった大きな内海であった頃でもこの河口の広さはあまり変わりません。
この辺りは松林が続いていたようです。
少し時間があったので橋の手前から下へ降りて見ました。

右手奥に見える橋が銚子大橋です。2年程前に修理されてきれいになりました。
この利根川の対岸が銚子(千葉県)の街です。
この辺りが地軸の傾きを考えると日本(本州)の一番東端になるのでしょうか。
山の上をのぞけば一番日の出が早い地域です。

そのまま先端の方へ少し進みました。

川の中間に波消しのためでしょうかコンクリの堤防が作られていますが、そこにたくさんのカモメがびっしり並んで休んでいます。

そしてその向こう側の対岸に銚子の港が見えますが、飯沼観音(銚子観音)の五重の塔が良く見えます。
ごちゃごちゃとたくさんの船も見ることが出来ます。
向こう側からこちらを眺めたことは何度もありますが、今回初めて反対側から見ました。
五重の塔もこうして街に溶け込んでいるのがわかります。
もっともこれも平成21年に完成したものです。(前の記事 こちらを参照下さい)


さらにその先に進むと突きあたりのようになってしまいますが、ここに「はさきかもめ公園」というきれいな公園がありました。

公園の中央にコンクリ製のおおきな「はさき丸」と書かれた船が置かれています。
子供が中に入って登ったりできるようです。
芝生の野外ステージもありました。

そして松林が周りを取り囲んでいるのですが、その一角に「竹下夢二句碑」が置かれていました。

ここに書かれているようにこの港は鰯(イワシ)漁が盛んであったようです。
イワシが好きな夢二が波崎のイワシを思い浮かべて遠くベルリンで描いた絵に添えたもののようです。
銚子側には夢二の有名な宵待草の「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな」の碑があります。

さて、先端のこの「かもめ公園」を廻りこんで更に進むと「波崎新港」に出ます。
こちらはもう鹿島灘の外洋に面していますが、港は囲われており比較的大きな船が停泊していました。

この先の「波崎海岸」と「童子女の松原」へはまた別な日に立寄りましたので続きを明日にでも載せます。
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都内ではもう散りだしたようです。
今週は週末しか時間がとれないので散らないでほしいですね。
さて、銚子に行く時に何度か茨城県の神栖市から銚子大橋を通っていくことがあります。
この利根川河口に架かる大橋を渡ると銚子の街ですが、手前は波崎(はさき)という街です。
茨城県の東南端で、利根川の河口の南が銚子で北が波崎となります。
茨城県に住んでいながらあまりこの港を訪れたことはありません。
大昔に霞ヶ浦や印旛沼などが一体となった大きな内海であった頃でもこの河口の広さはあまり変わりません。
この辺りは松林が続いていたようです。
少し時間があったので橋の手前から下へ降りて見ました。

右手奥に見える橋が銚子大橋です。2年程前に修理されてきれいになりました。
この利根川の対岸が銚子(千葉県)の街です。
この辺りが地軸の傾きを考えると日本(本州)の一番東端になるのでしょうか。
山の上をのぞけば一番日の出が早い地域です。

そのまま先端の方へ少し進みました。

川の中間に波消しのためでしょうかコンクリの堤防が作られていますが、そこにたくさんのカモメがびっしり並んで休んでいます。

そしてその向こう側の対岸に銚子の港が見えますが、飯沼観音(銚子観音)の五重の塔が良く見えます。
ごちゃごちゃとたくさんの船も見ることが出来ます。
向こう側からこちらを眺めたことは何度もありますが、今回初めて反対側から見ました。
五重の塔もこうして街に溶け込んでいるのがわかります。
もっともこれも平成21年に完成したものです。(前の記事 こちらを参照下さい)


さらにその先に進むと突きあたりのようになってしまいますが、ここに「はさきかもめ公園」というきれいな公園がありました。

公園の中央にコンクリ製のおおきな「はさき丸」と書かれた船が置かれています。
子供が中に入って登ったりできるようです。
芝生の野外ステージもありました。

そして松林が周りを取り囲んでいるのですが、その一角に「竹下夢二句碑」が置かれていました。

ここに書かれているようにこの港は鰯(イワシ)漁が盛んであったようです。
イワシが好きな夢二が波崎のイワシを思い浮かべて遠くベルリンで描いた絵に添えたもののようです。
銚子側には夢二の有名な宵待草の「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな」の碑があります。

さて、先端のこの「かもめ公園」を廻りこんで更に進むと「波崎新港」に出ます。
こちらはもう鹿島灘の外洋に面していますが、港は囲われており比較的大きな船が停泊していました。

この先の「波崎海岸」と「童子女の松原」へはまた別な日に立寄りましたので続きを明日にでも載せます。


波崎海岸
銚子大橋側から波崎海岸(海水浴場)の方に行ってみました。
天気は良かったのですが風が強く海岸の駐車場に車を止めてもひっきりなしに砂粒が吹きつけてきました。

海岸に1本の風力発電機が立っています。
このまま砂浜を海岸にいけるのですが、あきらめてその先に行ってみました。

通りの両側には松林が続きます。「童子女の松原」を探していたのですが良く分かりません。ウロウロ・・・。

少し北に行ったところにやはり海岸公園の入口がありました。
右手に見えるのが先ほどの海水浴場にあった風力発電の風車です。
その先の方には銚子沖の風車も見えるようです。

海はこの通り人はおりません。

北の方を見るとやはり風力発電用風車がたくさん並んでいます。
そしてその先に見えるのは鹿島臨海工業地帯の煙突です。

こちらの公園の入り口付近に歌碑が一つ置かれていました。

佐藤佐太郎さんは宮城県の生まれですが子供の頃に茨城県の平潟(現北茨城市)にて過ごしています。
アララギ派の歌人ですが斎藤茂吉研究、長塚節研究が有名なようです。

また戻って、最初の海岸付近に運動公園があります。
この辺りをウロウロしてしまいました。
目的地はこの先の松林の中でした。
手前に大きな「生涯学習センター」の建物があり、駐車場が中にあり、その入口もお休みで進入禁止でした。
もう少し案内を良くしてほしいものです。
明日はその童子女の松原を載せます。
天気は良かったのですが風が強く海岸の駐車場に車を止めてもひっきりなしに砂粒が吹きつけてきました。

海岸に1本の風力発電機が立っています。
このまま砂浜を海岸にいけるのですが、あきらめてその先に行ってみました。

通りの両側には松林が続きます。「童子女の松原」を探していたのですが良く分かりません。ウロウロ・・・。

少し北に行ったところにやはり海岸公園の入口がありました。
右手に見えるのが先ほどの海水浴場にあった風力発電の風車です。
その先の方には銚子沖の風車も見えるようです。

海はこの通り人はおりません。

北の方を見るとやはり風力発電用風車がたくさん並んでいます。
そしてその先に見えるのは鹿島臨海工業地帯の煙突です。

こちらの公園の入り口付近に歌碑が一つ置かれていました。

佐藤佐太郎さんは宮城県の生まれですが子供の頃に茨城県の平潟(現北茨城市)にて過ごしています。
アララギ派の歌人ですが斎藤茂吉研究、長塚節研究が有名なようです。

また戻って、最初の海岸付近に運動公園があります。
この辺りをウロウロしてしまいました。
目的地はこの先の松林の中でした。
手前に大きな「生涯学習センター」の建物があり、駐車場が中にあり、その入口もお休みで進入禁止でした。
もう少し案内を良くしてほしいものです。
明日はその童子女の松原を載せます。
神之池(神栖)
神栖市の名前の由来が息栖神社と神之池からとられて付けられたものだというので、それではということで市役所裏に広がる神之池に行ってみました。

神栖市役所の先の武道館の立派な建物横の駐車場に車を止めてすぐ目の前に池が広がっていました。
国道側からはこの池は見えないのですがかなり大きな池です。

地図で見ると長方形に近い台形になっていて人工の池のような感じです。
池の向こう側に鹿島コンビナートの煙突が見えます。

私も何度か鹿島の向上などに行きましたが、東京などからバスで来ると「鹿島セントラルホテル」がターミナルになっているのですが、今までここは鹿嶋市だと思っていました。神栖の中心部だったのですね。
神栖の方ごめんなさい。

現在この池の少し手前の方に大きな公園を造成していました。この春にオープンするようです。

武道館の立派な建物です。

上の説明にあるように昔の「神之池」は今の7倍くらい大きかったのだそうです。
それも1400年ほど前に淡水になっていたようですので大変貴重な水源だったのではないでしょうか。
今が北側は鹿島コンビナートや鹿島港の建設のために埋め立てられてしまったようです。

今の地図に大雑把にその大きさを書きこんでみました。
今年は花粉症がほとんど発症しないと思っていました。
もうこの時期になればあまり心配いらないと油断したのがいけなかったようです。
昨日の夕方に風土記の丘を歩いてしだれ桜を楽しんだのは良かったのですが今日は急に花粉症の症状が出てきました。
少し薬も飲まなければいけないかもしれませんね。
まあ火星も見れたし、早く寝ることにしよう。
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神栖市役所の先の武道館の立派な建物横の駐車場に車を止めてすぐ目の前に池が広がっていました。
国道側からはこの池は見えないのですがかなり大きな池です。

地図で見ると長方形に近い台形になっていて人工の池のような感じです。
池の向こう側に鹿島コンビナートの煙突が見えます。

私も何度か鹿島の向上などに行きましたが、東京などからバスで来ると「鹿島セントラルホテル」がターミナルになっているのですが、今までここは鹿嶋市だと思っていました。神栖の中心部だったのですね。
神栖の方ごめんなさい。

現在この池の少し手前の方に大きな公園を造成していました。この春にオープンするようです。

武道館の立派な建物です。

上の説明にあるように昔の「神之池」は今の7倍くらい大きかったのだそうです。
それも1400年ほど前に淡水になっていたようですので大変貴重な水源だったのではないでしょうか。
今が北側は鹿島コンビナートや鹿島港の建設のために埋め立てられてしまったようです。

今の地図に大雑把にその大きさを書きこんでみました。
今年は花粉症がほとんど発症しないと思っていました。
もうこの時期になればあまり心配いらないと油断したのがいけなかったようです。
昨日の夕方に風土記の丘を歩いてしだれ桜を楽しんだのは良かったのですが今日は急に花粉症の症状が出てきました。
少し薬も飲まなければいけないかもしれませんね。
まあ火星も見れたし、早く寝ることにしよう。


息栖神社遷座
神栖市の神之池に行った時に息栖神社が近いので久しぶりに立寄って見ることにしました。
東国三社といわれ、伊勢にお参りしてこの鹿島神宮・香取神宮・息栖神社を巡ると言うのも水運が発達していた江戸時代には盛んに行われていたようです。
でもこの息栖神社も行くには車でないと不便な場所で、バスで鹿島セントラルまで来ても歩いて2.5km程あるようです。
こちらは車ですからあまり気にはなりませんが、訪れる人も少ないのではないかと思います。

鳥居の脇には「東国三社息栖神社」という石碑が立っています。

またそのすぐ右側に新しい石碑が置かれていました。
前に来た時には気がつかなかったのか?
気がつかないはずはないので新しく建てたものだと思われます。
「息栖神社神績之碑」と彫られています。
この息栖神社が今から1200年以上前の西暦806年にもう少し東の日川からこの場所に移されてことを記念して1200年記念として建てたもののようです。(平成20年建立?)

前にも書いていますのでこの辺の事は詳しくは書きませんが、上の説明を読めば大体わかります。

そして右側に当時の地形が石に刻まれていました。
息栖神社の前は香取の海が広がっています。
たくさんの島のような地形です。
いまは常陸利根川と利根川が別々にあって真ん中に中州があります。
息栖=沖洲 というのもうなずけます。

神門は弘化4年(1847年)の造営。

元々の社殿は1722年に造られたものがあったが、昭和35年に火災で焼失してしまい今では立派な?コンクリート製です。



これは前にも載せた東国三社の位置関係です。
当時の地形を予測するために水面を5m程高くしています。
直角三角形は作られたものであることがわかります。
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東国三社といわれ、伊勢にお参りしてこの鹿島神宮・香取神宮・息栖神社を巡ると言うのも水運が発達していた江戸時代には盛んに行われていたようです。
でもこの息栖神社も行くには車でないと不便な場所で、バスで鹿島セントラルまで来ても歩いて2.5km程あるようです。
こちらは車ですからあまり気にはなりませんが、訪れる人も少ないのではないかと思います。

鳥居の脇には「東国三社息栖神社」という石碑が立っています。

またそのすぐ右側に新しい石碑が置かれていました。
前に来た時には気がつかなかったのか?
気がつかないはずはないので新しく建てたものだと思われます。
「息栖神社神績之碑」と彫られています。
この息栖神社が今から1200年以上前の西暦806年にもう少し東の日川からこの場所に移されてことを記念して1200年記念として建てたもののようです。(平成20年建立?)

前にも書いていますのでこの辺の事は詳しくは書きませんが、上の説明を読めば大体わかります。

そして右側に当時の地形が石に刻まれていました。
息栖神社の前は香取の海が広がっています。
たくさんの島のような地形です。
いまは常陸利根川と利根川が別々にあって真ん中に中州があります。
息栖=沖洲 というのもうなずけます。

神門は弘化4年(1847年)の造営。

元々の社殿は1722年に造られたものがあったが、昭和35年に火災で焼失してしまい今では立派な?コンクリート製です。



これは前にも載せた東国三社の位置関係です。
当時の地形を予測するために水面を5m程高くしています。
直角三角形は作られたものであることがわかります。


波崎海岸
今日は朝早く花火が上がりました。
やはり運動会が行われたようです。
休日でないと困る人がたくさんいますので弁当作りも大変だったでしょう。
午前中は何とか雨も降らず近づく台風に気をもみながらの運動会だったようです。
我が家では運動会に出るような子供もいませんでしたので問題もなく、これから夜中にやってくるという台風も大分勢力も衰えてくるので助かりそうです。
皆さまの所も被害にあわれなければ良いと願っております。
明日は銚子に行きますが台風はその前に通り過ぎそうですので少しホットしています。
先日行った時に立寄った波崎海岸の風景を載せます。
10月3日の撮影です。

鹿島工業地帯の方を見ると風力発電の風車が並んでいます。

近づいてみて見ると少し変わった風車の羽根です。

反対側の銚子側を眺めました。
鹿島灘の先端が大きくカーブしています。
これも波消し用なのかもしれません。

丘の上には雲が・・・。 手が届くかも・・・。
坂の上の雲を目指してもう少し頑張って行きましょう。
やはり運動会が行われたようです。
休日でないと困る人がたくさんいますので弁当作りも大変だったでしょう。
午前中は何とか雨も降らず近づく台風に気をもみながらの運動会だったようです。
我が家では運動会に出るような子供もいませんでしたので問題もなく、これから夜中にやってくるという台風も大分勢力も衰えてくるので助かりそうです。
皆さまの所も被害にあわれなければ良いと願っております。
明日は銚子に行きますが台風はその前に通り過ぎそうですので少しホットしています。
先日行った時に立寄った波崎海岸の風景を載せます。
10月3日の撮影です。

鹿島工業地帯の方を見ると風力発電の風車が並んでいます。

近づいてみて見ると少し変わった風車の羽根です。

反対側の銚子側を眺めました。
鹿島灘の先端が大きくカーブしています。
これも波消し用なのかもしれません。

丘の上には雲が・・・。 手が届くかも・・・。
坂の上の雲を目指してもう少し頑張って行きましょう。
波崎港
今日梅雨入りだそうですね。
これからしばらくうっとうしい日が続くのかもしれない。
どうも天気もぐずつきそうだが気持ちの方もどうも梅雨入りだ。
疲れたら休めと野の花のいう ♪♪ (白井啓治さんの一行文)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです。
そうそうこんな時は野の花でも愛でてのんびりしよう。
(「名は愛しきもの」はこちらをクリックすれば聞けます → こちら)
今日は石岡市の「協働のまちづくり委員会」などという委員に選ばれて初めての会合が市役所であった。
市の担当者以外に色々な人の意見を集めるということで色々な立場の人が12名と役場の担当者が5人くらい集まった。
何をやるのかがよくわからないが、まあノンビリでも着実な歩みをするしかない。
もっと若い人が活躍できる方策を考えなければ・・・・。
ただ面白そうなお仲間ができたということで良しとしよう。
先日、銚子に出かけた時に銚子港の反対側の神栖市の波崎港に行った。
茨城側から千葉県銚子港を眺めた。

奥の方に見えるのは銚子大橋。

食事したりするにはやはり向こう側しかないのか?
探したが食べるところもあまりないようだ。


でもこうして海を眺めていると懐かしさがよみがえってくる。
港近くで育ったわけではないが、横浜の本牧岬の近くで3歳くらいから小学校1年まで育ったせいかもしれない。
こちらの港とは大分違うが海はやはり懐かしくなる。
これからしばらくうっとうしい日が続くのかもしれない。
どうも天気もぐずつきそうだが気持ちの方もどうも梅雨入りだ。
疲れたら休めと野の花のいう ♪♪ (白井啓治さんの一行文)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです。
そうそうこんな時は野の花でも愛でてのんびりしよう。
(「名は愛しきもの」はこちらをクリックすれば聞けます → こちら)
今日は石岡市の「協働のまちづくり委員会」などという委員に選ばれて初めての会合が市役所であった。
市の担当者以外に色々な人の意見を集めるということで色々な立場の人が12名と役場の担当者が5人くらい集まった。
何をやるのかがよくわからないが、まあノンビリでも着実な歩みをするしかない。
もっと若い人が活躍できる方策を考えなければ・・・・。
ただ面白そうなお仲間ができたということで良しとしよう。
先日、銚子に出かけた時に銚子港の反対側の神栖市の波崎港に行った。
茨城側から千葉県銚子港を眺めた。

奥の方に見えるのは銚子大橋。

食事したりするにはやはり向こう側しかないのか?
探したが食べるところもあまりないようだ。


でもこうして海を眺めていると懐かしさがよみがえってくる。
港近くで育ったわけではないが、横浜の本牧岬の近くで3歳くらいから小学校1年まで育ったせいかもしれない。
こちらの港とは大分違うが海はやはり懐かしくなる。
神善寺(1)-庚申
昨日は激しい雨が降り、今朝は濃い霧が家の周りを覆っていました。
また昼間は天気がよく大分暑くなりましたが、天気はまた明日から下り坂のようです。
もう1カ月くらい前に訪れた神栖市の「神善寺(じんぜんじ)」を紹介します。
場所は神栖の先端に近い波崎の内陸部です。
先端の方は以前に童女の松原や手后崎神社などを紹介しましたがこれよりはだいぶ内陸に入った通り沿いです。
古い寺ということで行って見ることにしたのですがこれがとても面白い寺でした。
鹿島灘と利根川に挟まれたこの地域も鹿島灘沿いと利根川沿いの道しか用事でもなければ車も走ることは無い。

今から1000年近く前の1056年に高野山から貞祐上人がやってきて開山したと伝えられる。
平安時代にこの地に何を求めてやってきたのか。

市の案内では、高野山から貞祐上人は高野山から十六善神の宝物をもって、神栖市波崎舎利にて開山したとある。
十六善神とは四天王と十二神将と合わせた十六名の般若経を守る夜叉神のことだそうだ。
また「神栖市波崎舎利」というのは元々この場所がそう呼ばれていたのだろうか?
舎利は仏の遺骨をさす言葉だと思うが・・・・(舎利殿、仏舎利)。
特にこれについての説明は無い。
ここは今は真言宗智山派の寺だ。益田山神善寺という。

入口山門の紋は上に桐?、下は波? これが何を意味するのかわからない。

山門入口の左下に1つの石碑があった。
「月山・湯殿山・羽黒山」の出羽三山。これは江戸時代だろう。

そして境内に進むと右側にたくさんの庚申塔(青面金剛)がずらりと並んでいます。

なかなか見ごたえがあります。細かく年代は見ませんでした。

種類もいろいろあって楽しいです。
こんなにそろっている所はそれ程多くないのではないでしょうか。

明日はこの寺の続きをもう少し書きます。
でも明日はまた銚子に出かけるので帰りが遅くなりそうです。
また昼間は天気がよく大分暑くなりましたが、天気はまた明日から下り坂のようです。
もう1カ月くらい前に訪れた神栖市の「神善寺(じんぜんじ)」を紹介します。
場所は神栖の先端に近い波崎の内陸部です。
先端の方は以前に童女の松原や手后崎神社などを紹介しましたがこれよりはだいぶ内陸に入った通り沿いです。
古い寺ということで行って見ることにしたのですがこれがとても面白い寺でした。
鹿島灘と利根川に挟まれたこの地域も鹿島灘沿いと利根川沿いの道しか用事でもなければ車も走ることは無い。

今から1000年近く前の1056年に高野山から貞祐上人がやってきて開山したと伝えられる。
平安時代にこの地に何を求めてやってきたのか。

市の案内では、高野山から貞祐上人は高野山から十六善神の宝物をもって、神栖市波崎舎利にて開山したとある。
十六善神とは四天王と十二神将と合わせた十六名の般若経を守る夜叉神のことだそうだ。
また「神栖市波崎舎利」というのは元々この場所がそう呼ばれていたのだろうか?
舎利は仏の遺骨をさす言葉だと思うが・・・・(舎利殿、仏舎利)。
特にこれについての説明は無い。
ここは今は真言宗智山派の寺だ。益田山神善寺という。

入口山門の紋は上に桐?、下は波? これが何を意味するのかわからない。

山門入口の左下に1つの石碑があった。
「月山・湯殿山・羽黒山」の出羽三山。これは江戸時代だろう。

そして境内に進むと右側にたくさんの庚申塔(青面金剛)がずらりと並んでいます。

なかなか見ごたえがあります。細かく年代は見ませんでした。

種類もいろいろあって楽しいです。
こんなにそろっている所はそれ程多くないのではないでしょうか。

明日はこの寺の続きをもう少し書きます。
でも明日はまた銚子に出かけるので帰りが遅くなりそうです。