息栖神社(1)-東国三社
銚子に何度か用事があり車で行っていますが、途中の息栖大橋の近くを通るたびに一度行ってみたいと思っていました。
行ったのはもう連休前の4月末です。
鹿島神宮・香取神宮といういわば別格の神社があるわけですが、これにこの息栖神社を加えて東国三社と呼ばれています。
3つの神社を結ぶと直角三角形となるために、レイラインの心霊スポットとしても注目されている場所なのですが、これも息栖神社の位置を移動して故意に作られたものではないかとも思われます。
Flood MapによってGoogle地図に今より水位が3m高い時の地図にこの東国三社の位置関係を載せてみました。

地図に日川を載せているのは、この息栖神社が大同2年(806)にこの日川地区よりこの現在の地に移されたとされているからです。
以前「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」という行方市にあるこじんまりした神社を紹介しました(こちら)
この時に「於岐部説神社」という名前は、この息栖神社のことを一般には指すという話を書きました。
また於岐部説=おきつせ=沖洲であることも書きました。
利根川と常陸川が合流する少し手前の水門の少し上流に常陸川に架かる橋を息栖大橋といいます。
この橋を(千葉県川から)渡って次の信号を左(西)に曲がって少しいったところに息栖神社の森があります。

通りから少し入ったところに入口鳥居があります。
この神社はとても静寂な空気が漂っています。身が引き締まるようです。
この神社の場所が今では行くのが不便で訪れる人も少ないようですが、一度訪れてみたら良いと思います。
昔は霞ヶ浦水運が発達していた時は霞ヶ浦から利根川に物資を運ぶ要のような位置にもあり、信仰もかなりあったようです。

神社の境内も綺麗に掃き清められており、ひっそりとした雰囲気はさすがに東国三社の一つです。

歴史的には何度か建て直されているので建物としてはそれ程古いとは思われません。

4月末ですのでボタン桜と赤い神社の拝殿や鳥居が緑の中で美しさを引き立ててくれます。

上の説明看板は神栖町教育委員会が門の入口に掲げたものです。
日川から移されたことが書かれています。
また昭和35年の火事で社殿を新築したことが記されています。

こちらは神社側が拝殿近くに掲げた説明看板です。
少し教育委員会のものとはニュアンスが違いますね。
それぞれじっくり読むととても面白そうですので、そのまま写真で掲載しました。

本殿です。やはりかなり新しそうです。

境内に置かれていた昔の「礎石」です。
一緒に書かれていた説明文を載せておきます。
「息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806、奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ立替えがありました。此の五個の石はそのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄その務めを果たしました。」
少し面白い書き方ですね。学術的には調べれば年代は分かりそうですが、ともかく礎石のお役目ごくろうさまでしたというところでしょうか。
またあすに続きます。
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行ったのはもう連休前の4月末です。
鹿島神宮・香取神宮といういわば別格の神社があるわけですが、これにこの息栖神社を加えて東国三社と呼ばれています。
3つの神社を結ぶと直角三角形となるために、レイラインの心霊スポットとしても注目されている場所なのですが、これも息栖神社の位置を移動して故意に作られたものではないかとも思われます。
Flood MapによってGoogle地図に今より水位が3m高い時の地図にこの東国三社の位置関係を載せてみました。

地図に日川を載せているのは、この息栖神社が大同2年(806)にこの日川地区よりこの現在の地に移されたとされているからです。
以前「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」という行方市にあるこじんまりした神社を紹介しました(こちら)
この時に「於岐部説神社」という名前は、この息栖神社のことを一般には指すという話を書きました。
また於岐部説=おきつせ=沖洲であることも書きました。
利根川と常陸川が合流する少し手前の水門の少し上流に常陸川に架かる橋を息栖大橋といいます。
この橋を(千葉県川から)渡って次の信号を左(西)に曲がって少しいったところに息栖神社の森があります。

通りから少し入ったところに入口鳥居があります。
この神社はとても静寂な空気が漂っています。身が引き締まるようです。
この神社の場所が今では行くのが不便で訪れる人も少ないようですが、一度訪れてみたら良いと思います。
昔は霞ヶ浦水運が発達していた時は霞ヶ浦から利根川に物資を運ぶ要のような位置にもあり、信仰もかなりあったようです。

神社の境内も綺麗に掃き清められており、ひっそりとした雰囲気はさすがに東国三社の一つです。

歴史的には何度か建て直されているので建物としてはそれ程古いとは思われません。

4月末ですのでボタン桜と赤い神社の拝殿や鳥居が緑の中で美しさを引き立ててくれます。

上の説明看板は神栖町教育委員会が門の入口に掲げたものです。
日川から移されたことが書かれています。
また昭和35年の火事で社殿を新築したことが記されています。

こちらは神社側が拝殿近くに掲げた説明看板です。
少し教育委員会のものとはニュアンスが違いますね。
それぞれじっくり読むととても面白そうですので、そのまま写真で掲載しました。

本殿です。やはりかなり新しそうです。

境内に置かれていた昔の「礎石」です。
一緒に書かれていた説明文を載せておきます。
「息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806、奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ立替えがありました。此の五個の石はそのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄その務めを果たしました。」
少し面白い書き方ですね。学術的には調べれば年代は分かりそうですが、ともかく礎石のお役目ごくろうさまでしたというところでしょうか。
またあすに続きます。


息栖神社(2)-句碑
昨日の息栖神社の続きです。
息栖神社の境内にはいくつかの句碑が立てられています。


まずは境内を進んですぐ左側に赤い柵で囲われた場所があります。
向かって左側には「力石」とあり、右側には芭蕉の句碑があります。

この力石は春秋の祭り夏の昼休み夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の50貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。(現地説明看板)
鹿島神宮、香取神宮には「要石(かなめいし)」があり、鹿島神宮の要石は地震を起こすなまずを押さえつける石と伝えられているが、これは力比べの石だそうだ。

こちらが隣にある芭蕉の句碑です。内容は下の説明文のとおり。

気吹戸主(いぶきとぬし)の説明面白いですね。いろいろと知らないことが多いことを今更自覚してしまいます。
芭蕉もいろいろな知識が豊富なんですね。
このようなことを知って、この神社を訪れたらまた違って見えたり感じたりするのかも知れません。

こちらには鎌倉時代の「新和歌集」の歌が載っていますが、何といっても藤原時朝=笠間時朝(笠間城の初代城主)の歌が載っています。
笠間を訪れた時に出てきた時朝の歌がこんな場所で見つけられたのはとても嬉しいです。

こちらはそれよりも前の歌ですね。説明は下の通り。

これは明らかに息栖=沖洲ということを書いていると解釈してみました。
沖にある洲の場所に建てられた神社なのです。
神社の祭神は岐神(くなどのかみ)=於岐都説神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神の五神を祀っています。
すべて船や交通の安全をつかさどり、先達をする神のようです。
天鳥船は空を飛びますので航空関係の関係者等もお参りにこられるのでしょう。

御神木のスギの木です。説明には夫婦杉とあり、樹齢約千年と書かれています。
(千年の杉には見えません)

息栖神社は静寂で美しい神社です。
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息栖神社の境内にはいくつかの句碑が立てられています。


まずは境内を進んですぐ左側に赤い柵で囲われた場所があります。
向かって左側には「力石」とあり、右側には芭蕉の句碑があります。

この力石は春秋の祭り夏の昼休み夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の50貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。(現地説明看板)
鹿島神宮、香取神宮には「要石(かなめいし)」があり、鹿島神宮の要石は地震を起こすなまずを押さえつける石と伝えられているが、これは力比べの石だそうだ。

こちらが隣にある芭蕉の句碑です。内容は下の説明文のとおり。

気吹戸主(いぶきとぬし)の説明面白いですね。いろいろと知らないことが多いことを今更自覚してしまいます。
芭蕉もいろいろな知識が豊富なんですね。
このようなことを知って、この神社を訪れたらまた違って見えたり感じたりするのかも知れません。

こちらには鎌倉時代の「新和歌集」の歌が載っていますが、何といっても藤原時朝=笠間時朝(笠間城の初代城主)の歌が載っています。
笠間を訪れた時に出てきた時朝の歌がこんな場所で見つけられたのはとても嬉しいです。

こちらはそれよりも前の歌ですね。説明は下の通り。

これは明らかに息栖=沖洲ということを書いていると解釈してみました。
沖にある洲の場所に建てられた神社なのです。
神社の祭神は岐神(くなどのかみ)=於岐都説神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神の五神を祀っています。
すべて船や交通の安全をつかさどり、先達をする神のようです。
天鳥船は空を飛びますので航空関係の関係者等もお参りにこられるのでしょう。

御神木のスギの木です。説明には夫婦杉とあり、樹齢約千年と書かれています。
(千年の杉には見えません)

息栖神社は静寂で美しい神社です。


息栖神社(3)-忍潮井
東国三社の一つといわれる息栖(いきす)神社の三回目です。
通りから矢印があり神社の鳥居が見えてすぐに神社は分かり一応の参拝と見学を終えて、別な場所に行く用事があったため、急いで引き返そうと車で前に来た道を戻りかけて、まだ見ていないものがあったことに気がついて急いでまた元の曲がり角まで戻りました。
この神社が日川地区からこの地に移されたことを証明するような話が残されていたことを思い出したのです。
それが日本三霊水といわれる「忍潮井(おしおい)」です。
息栖神社への曲がり角から反対側の常陸川の川岸に近い場所に鳥居がもうひとつあるのです。

昔は香取海(かとりのうみ)や流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦一体が大きな内海で、この辺は海水が満ちていました。
その海の水の中から綺麗な真水が吹き出していたのがこの忍潮井(おしおい)です。
看板:
「息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。
忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。
伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。
地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。」

しかし、説明にあるようにこの井戸はこの息栖神社と共に、もっと東側にある日川地区にありました。
大同二年(807)にこの地に神社を遷宮した時に、この不思議な井戸は離ればなれになることを悲しんで泣いたそうです。
日川地区にその泣き声が残され、「ボウボウ河」という地名もあるといいます。
そして、いつの間にか井戸(甕)がこの今の場所に移動した(歩いた)というのです。
まあほかに説明の使用はないのでこんな話になるのでしょうが、面白いですね。


男甕(おがめ)、女甕(めがめ)の二つの井戸同じように左右に並んでいますが、どちらが男か女かはわかりませんでした。

ちょうど川から引き込んだ入江のような静かな場所にあります。

こちらは神社の境内に作られた碑文です。作られたのは平成19年ですので大分最近ですね。

神社の拝殿。緑と神社の朱色がきれいにマッチしている。

調べればたくさんの事柄が出てきそうです。
一度訪れて見られたらと思いますが、バスなどで行かれるのも少し大変かもしれません。
息栖神社はこれで終わりです。
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通りから矢印があり神社の鳥居が見えてすぐに神社は分かり一応の参拝と見学を終えて、別な場所に行く用事があったため、急いで引き返そうと車で前に来た道を戻りかけて、まだ見ていないものがあったことに気がついて急いでまた元の曲がり角まで戻りました。
この神社が日川地区からこの地に移されたことを証明するような話が残されていたことを思い出したのです。
それが日本三霊水といわれる「忍潮井(おしおい)」です。
息栖神社への曲がり角から反対側の常陸川の川岸に近い場所に鳥居がもうひとつあるのです。

昔は香取海(かとりのうみ)や流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦一体が大きな内海で、この辺は海水が満ちていました。
その海の水の中から綺麗な真水が吹き出していたのがこの忍潮井(おしおい)です。
看板:
「息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。
忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。
伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。
地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。」

しかし、説明にあるようにこの井戸はこの息栖神社と共に、もっと東側にある日川地区にありました。
大同二年(807)にこの地に神社を遷宮した時に、この不思議な井戸は離ればなれになることを悲しんで泣いたそうです。
日川地区にその泣き声が残され、「ボウボウ河」という地名もあるといいます。
そして、いつの間にか井戸(甕)がこの今の場所に移動した(歩いた)というのです。
まあほかに説明の使用はないのでこんな話になるのでしょうが、面白いですね。


男甕(おがめ)、女甕(めがめ)の二つの井戸同じように左右に並んでいますが、どちらが男か女かはわかりませんでした。

ちょうど川から引き込んだ入江のような静かな場所にあります。

こちらは神社の境内に作られた碑文です。作られたのは平成19年ですので大分最近ですね。

神社の拝殿。緑と神社の朱色がきれいにマッチしている。

調べればたくさんの事柄が出てきそうです。
一度訪れて見られたらと思いますが、バスなどで行かれるのも少し大変かもしれません。
息栖神社はこれで終わりです。


波崎港(茨城県東南端)
今日は桜の花が一気に満開になりました。
都内ではもう散りだしたようです。
今週は週末しか時間がとれないので散らないでほしいですね。
さて、銚子に行く時に何度か茨城県の神栖市から銚子大橋を通っていくことがあります。
この利根川河口に架かる大橋を渡ると銚子の街ですが、手前は波崎(はさき)という街です。
茨城県の東南端で、利根川の河口の南が銚子で北が波崎となります。
茨城県に住んでいながらあまりこの港を訪れたことはありません。
大昔に霞ヶ浦や印旛沼などが一体となった大きな内海であった頃でもこの河口の広さはあまり変わりません。
この辺りは松林が続いていたようです。
少し時間があったので橋の手前から下へ降りて見ました。

右手奥に見える橋が銚子大橋です。2年程前に修理されてきれいになりました。
この利根川の対岸が銚子(千葉県)の街です。
この辺りが地軸の傾きを考えると日本(本州)の一番東端になるのでしょうか。
山の上をのぞけば一番日の出が早い地域です。

そのまま先端の方へ少し進みました。

川の中間に波消しのためでしょうかコンクリの堤防が作られていますが、そこにたくさんのカモメがびっしり並んで休んでいます。

そしてその向こう側の対岸に銚子の港が見えますが、飯沼観音(銚子観音)の五重の塔が良く見えます。
ごちゃごちゃとたくさんの船も見ることが出来ます。
向こう側からこちらを眺めたことは何度もありますが、今回初めて反対側から見ました。
五重の塔もこうして街に溶け込んでいるのがわかります。
もっともこれも平成21年に完成したものです。(前の記事 こちらを参照下さい)


さらにその先に進むと突きあたりのようになってしまいますが、ここに「はさきかもめ公園」というきれいな公園がありました。

公園の中央にコンクリ製のおおきな「はさき丸」と書かれた船が置かれています。
子供が中に入って登ったりできるようです。
芝生の野外ステージもありました。

そして松林が周りを取り囲んでいるのですが、その一角に「竹下夢二句碑」が置かれていました。

ここに書かれているようにこの港は鰯(イワシ)漁が盛んであったようです。
イワシが好きな夢二が波崎のイワシを思い浮かべて遠くベルリンで描いた絵に添えたもののようです。
銚子側には夢二の有名な宵待草の「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな」の碑があります。

さて、先端のこの「かもめ公園」を廻りこんで更に進むと「波崎新港」に出ます。
こちらはもう鹿島灘の外洋に面していますが、港は囲われており比較的大きな船が停泊していました。

この先の「波崎海岸」と「童子女の松原」へはまた別な日に立寄りましたので続きを明日にでも載せます。
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都内ではもう散りだしたようです。
今週は週末しか時間がとれないので散らないでほしいですね。
さて、銚子に行く時に何度か茨城県の神栖市から銚子大橋を通っていくことがあります。
この利根川河口に架かる大橋を渡ると銚子の街ですが、手前は波崎(はさき)という街です。
茨城県の東南端で、利根川の河口の南が銚子で北が波崎となります。
茨城県に住んでいながらあまりこの港を訪れたことはありません。
大昔に霞ヶ浦や印旛沼などが一体となった大きな内海であった頃でもこの河口の広さはあまり変わりません。
この辺りは松林が続いていたようです。
少し時間があったので橋の手前から下へ降りて見ました。

右手奥に見える橋が銚子大橋です。2年程前に修理されてきれいになりました。
この利根川の対岸が銚子(千葉県)の街です。
この辺りが地軸の傾きを考えると日本(本州)の一番東端になるのでしょうか。
山の上をのぞけば一番日の出が早い地域です。

そのまま先端の方へ少し進みました。

川の中間に波消しのためでしょうかコンクリの堤防が作られていますが、そこにたくさんのカモメがびっしり並んで休んでいます。

そしてその向こう側の対岸に銚子の港が見えますが、飯沼観音(銚子観音)の五重の塔が良く見えます。
ごちゃごちゃとたくさんの船も見ることが出来ます。
向こう側からこちらを眺めたことは何度もありますが、今回初めて反対側から見ました。
五重の塔もこうして街に溶け込んでいるのがわかります。
もっともこれも平成21年に完成したものです。(前の記事 こちらを参照下さい)


さらにその先に進むと突きあたりのようになってしまいますが、ここに「はさきかもめ公園」というきれいな公園がありました。

公園の中央にコンクリ製のおおきな「はさき丸」と書かれた船が置かれています。
子供が中に入って登ったりできるようです。
芝生の野外ステージもありました。

そして松林が周りを取り囲んでいるのですが、その一角に「竹下夢二句碑」が置かれていました。

ここに書かれているようにこの港は鰯(イワシ)漁が盛んであったようです。
イワシが好きな夢二が波崎のイワシを思い浮かべて遠くベルリンで描いた絵に添えたもののようです。
銚子側には夢二の有名な宵待草の「まてど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は 月も出ぬさうな」の碑があります。

さて、先端のこの「かもめ公園」を廻りこんで更に進むと「波崎新港」に出ます。
こちらはもう鹿島灘の外洋に面していますが、港は囲われており比較的大きな船が停泊していました。

この先の「波崎海岸」と「童子女の松原」へはまた別な日に立寄りましたので続きを明日にでも載せます。


波崎海岸
銚子大橋側から波崎海岸(海水浴場)の方に行ってみました。
天気は良かったのですが風が強く海岸の駐車場に車を止めてもひっきりなしに砂粒が吹きつけてきました。

海岸に1本の風力発電機が立っています。
このまま砂浜を海岸にいけるのですが、あきらめてその先に行ってみました。

通りの両側には松林が続きます。「童子女の松原」を探していたのですが良く分かりません。ウロウロ・・・。

少し北に行ったところにやはり海岸公園の入口がありました。
右手に見えるのが先ほどの海水浴場にあった風力発電の風車です。
その先の方には銚子沖の風車も見えるようです。

海はこの通り人はおりません。

北の方を見るとやはり風力発電用風車がたくさん並んでいます。
そしてその先に見えるのは鹿島臨海工業地帯の煙突です。

こちらの公園の入り口付近に歌碑が一つ置かれていました。

佐藤佐太郎さんは宮城県の生まれですが子供の頃に茨城県の平潟(現北茨城市)にて過ごしています。
アララギ派の歌人ですが斎藤茂吉研究、長塚節研究が有名なようです。

また戻って、最初の海岸付近に運動公園があります。
この辺りをウロウロしてしまいました。
目的地はこの先の松林の中でした。
手前に大きな「生涯学習センター」の建物があり、駐車場が中にあり、その入口もお休みで進入禁止でした。
もう少し案内を良くしてほしいものです。
明日はその童子女の松原を載せます。
天気は良かったのですが風が強く海岸の駐車場に車を止めてもひっきりなしに砂粒が吹きつけてきました。

海岸に1本の風力発電機が立っています。
このまま砂浜を海岸にいけるのですが、あきらめてその先に行ってみました。

通りの両側には松林が続きます。「童子女の松原」を探していたのですが良く分かりません。ウロウロ・・・。

少し北に行ったところにやはり海岸公園の入口がありました。
右手に見えるのが先ほどの海水浴場にあった風力発電の風車です。
その先の方には銚子沖の風車も見えるようです。

海はこの通り人はおりません。

北の方を見るとやはり風力発電用風車がたくさん並んでいます。
そしてその先に見えるのは鹿島臨海工業地帯の煙突です。

こちらの公園の入り口付近に歌碑が一つ置かれていました。

佐藤佐太郎さんは宮城県の生まれですが子供の頃に茨城県の平潟(現北茨城市)にて過ごしています。
アララギ派の歌人ですが斎藤茂吉研究、長塚節研究が有名なようです。

また戻って、最初の海岸付近に運動公園があります。
この辺りをウロウロしてしまいました。
目的地はこの先の松林の中でした。
手前に大きな「生涯学習センター」の建物があり、駐車場が中にあり、その入口もお休みで進入禁止でした。
もう少し案内を良くしてほしいものです。
明日はその童子女の松原を載せます。
神之池(神栖)
神栖市の名前の由来が息栖神社と神之池からとられて付けられたものだというので、それではということで市役所裏に広がる神之池に行ってみました。

神栖市役所の先の武道館の立派な建物横の駐車場に車を止めてすぐ目の前に池が広がっていました。
国道側からはこの池は見えないのですがかなり大きな池です。

地図で見ると長方形に近い台形になっていて人工の池のような感じです。
池の向こう側に鹿島コンビナートの煙突が見えます。

私も何度か鹿島の向上などに行きましたが、東京などからバスで来ると「鹿島セントラルホテル」がターミナルになっているのですが、今までここは鹿嶋市だと思っていました。神栖の中心部だったのですね。
神栖の方ごめんなさい。

現在この池の少し手前の方に大きな公園を造成していました。この春にオープンするようです。

武道館の立派な建物です。

上の説明にあるように昔の「神之池」は今の7倍くらい大きかったのだそうです。
それも1400年ほど前に淡水になっていたようですので大変貴重な水源だったのではないでしょうか。
今が北側は鹿島コンビナートや鹿島港の建設のために埋め立てられてしまったようです。

今の地図に大雑把にその大きさを書きこんでみました。
今年は花粉症がほとんど発症しないと思っていました。
もうこの時期になればあまり心配いらないと油断したのがいけなかったようです。
昨日の夕方に風土記の丘を歩いてしだれ桜を楽しんだのは良かったのですが今日は急に花粉症の症状が出てきました。
少し薬も飲まなければいけないかもしれませんね。
まあ火星も見れたし、早く寝ることにしよう。
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神栖市役所の先の武道館の立派な建物横の駐車場に車を止めてすぐ目の前に池が広がっていました。
国道側からはこの池は見えないのですがかなり大きな池です。

地図で見ると長方形に近い台形になっていて人工の池のような感じです。
池の向こう側に鹿島コンビナートの煙突が見えます。

私も何度か鹿島の向上などに行きましたが、東京などからバスで来ると「鹿島セントラルホテル」がターミナルになっているのですが、今までここは鹿嶋市だと思っていました。神栖の中心部だったのですね。
神栖の方ごめんなさい。

現在この池の少し手前の方に大きな公園を造成していました。この春にオープンするようです。

武道館の立派な建物です。

上の説明にあるように昔の「神之池」は今の7倍くらい大きかったのだそうです。
それも1400年ほど前に淡水になっていたようですので大変貴重な水源だったのではないでしょうか。
今が北側は鹿島コンビナートや鹿島港の建設のために埋め立てられてしまったようです。

今の地図に大雑把にその大きさを書きこんでみました。
今年は花粉症がほとんど発症しないと思っていました。
もうこの時期になればあまり心配いらないと油断したのがいけなかったようです。
昨日の夕方に風土記の丘を歩いてしだれ桜を楽しんだのは良かったのですが今日は急に花粉症の症状が出てきました。
少し薬も飲まなければいけないかもしれませんね。
まあ火星も見れたし、早く寝ることにしよう。


息栖神社遷座
神栖市の神之池に行った時に息栖神社が近いので久しぶりに立寄って見ることにしました。
東国三社といわれ、伊勢にお参りしてこの鹿島神宮・香取神宮・息栖神社を巡ると言うのも水運が発達していた江戸時代には盛んに行われていたようです。
でもこの息栖神社も行くには車でないと不便な場所で、バスで鹿島セントラルまで来ても歩いて2.5km程あるようです。
こちらは車ですからあまり気にはなりませんが、訪れる人も少ないのではないかと思います。

鳥居の脇には「東国三社息栖神社」という石碑が立っています。

またそのすぐ右側に新しい石碑が置かれていました。
前に来た時には気がつかなかったのか?
気がつかないはずはないので新しく建てたものだと思われます。
「息栖神社神績之碑」と彫られています。
この息栖神社が今から1200年以上前の西暦806年にもう少し東の日川からこの場所に移されてことを記念して1200年記念として建てたもののようです。(平成20年建立?)

前にも書いていますのでこの辺の事は詳しくは書きませんが、上の説明を読めば大体わかります。

そして右側に当時の地形が石に刻まれていました。
息栖神社の前は香取の海が広がっています。
たくさんの島のような地形です。
いまは常陸利根川と利根川が別々にあって真ん中に中州があります。
息栖=沖洲 というのもうなずけます。

神門は弘化4年(1847年)の造営。

元々の社殿は1722年に造られたものがあったが、昭和35年に火災で焼失してしまい今では立派な?コンクリート製です。



これは前にも載せた東国三社の位置関係です。
当時の地形を予測するために水面を5m程高くしています。
直角三角形は作られたものであることがわかります。
← よろしければクリックお願いします。
東国三社といわれ、伊勢にお参りしてこの鹿島神宮・香取神宮・息栖神社を巡ると言うのも水運が発達していた江戸時代には盛んに行われていたようです。
でもこの息栖神社も行くには車でないと不便な場所で、バスで鹿島セントラルまで来ても歩いて2.5km程あるようです。
こちらは車ですからあまり気にはなりませんが、訪れる人も少ないのではないかと思います。

鳥居の脇には「東国三社息栖神社」という石碑が立っています。

またそのすぐ右側に新しい石碑が置かれていました。
前に来た時には気がつかなかったのか?
気がつかないはずはないので新しく建てたものだと思われます。
「息栖神社神績之碑」と彫られています。
この息栖神社が今から1200年以上前の西暦806年にもう少し東の日川からこの場所に移されてことを記念して1200年記念として建てたもののようです。(平成20年建立?)

前にも書いていますのでこの辺の事は詳しくは書きませんが、上の説明を読めば大体わかります。

そして右側に当時の地形が石に刻まれていました。
息栖神社の前は香取の海が広がっています。
たくさんの島のような地形です。
いまは常陸利根川と利根川が別々にあって真ん中に中州があります。
息栖=沖洲 というのもうなずけます。

神門は弘化4年(1847年)の造営。

元々の社殿は1722年に造られたものがあったが、昭和35年に火災で焼失してしまい今では立派な?コンクリート製です。



これは前にも載せた東国三社の位置関係です。
当時の地形を予測するために水面を5m程高くしています。
直角三角形は作られたものであることがわかります。


波崎海岸
今日は朝早く花火が上がりました。
やはり運動会が行われたようです。
休日でないと困る人がたくさんいますので弁当作りも大変だったでしょう。
午前中は何とか雨も降らず近づく台風に気をもみながらの運動会だったようです。
我が家では運動会に出るような子供もいませんでしたので問題もなく、これから夜中にやってくるという台風も大分勢力も衰えてくるので助かりそうです。
皆さまの所も被害にあわれなければ良いと願っております。
明日は銚子に行きますが台風はその前に通り過ぎそうですので少しホットしています。
先日行った時に立寄った波崎海岸の風景を載せます。
10月3日の撮影です。

鹿島工業地帯の方を見ると風力発電の風車が並んでいます。

近づいてみて見ると少し変わった風車の羽根です。

反対側の銚子側を眺めました。
鹿島灘の先端が大きくカーブしています。
これも波消し用なのかもしれません。

丘の上には雲が・・・。 手が届くかも・・・。
坂の上の雲を目指してもう少し頑張って行きましょう。
やはり運動会が行われたようです。
休日でないと困る人がたくさんいますので弁当作りも大変だったでしょう。
午前中は何とか雨も降らず近づく台風に気をもみながらの運動会だったようです。
我が家では運動会に出るような子供もいませんでしたので問題もなく、これから夜中にやってくるという台風も大分勢力も衰えてくるので助かりそうです。
皆さまの所も被害にあわれなければ良いと願っております。
明日は銚子に行きますが台風はその前に通り過ぎそうですので少しホットしています。
先日行った時に立寄った波崎海岸の風景を載せます。
10月3日の撮影です。

鹿島工業地帯の方を見ると風力発電の風車が並んでいます。

近づいてみて見ると少し変わった風車の羽根です。

反対側の銚子側を眺めました。
鹿島灘の先端が大きくカーブしています。
これも波消し用なのかもしれません。

丘の上には雲が・・・。 手が届くかも・・・。
坂の上の雲を目指してもう少し頑張って行きましょう。
波崎港
今日梅雨入りだそうですね。
これからしばらくうっとうしい日が続くのかもしれない。
どうも天気もぐずつきそうだが気持ちの方もどうも梅雨入りだ。
疲れたら休めと野の花のいう ♪♪ (白井啓治さんの一行文)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです。
そうそうこんな時は野の花でも愛でてのんびりしよう。
(「名は愛しきもの」はこちらをクリックすれば聞けます → こちら)
今日は石岡市の「協働のまちづくり委員会」などという委員に選ばれて初めての会合が市役所であった。
市の担当者以外に色々な人の意見を集めるということで色々な立場の人が12名と役場の担当者が5人くらい集まった。
何をやるのかがよくわからないが、まあノンビリでも着実な歩みをするしかない。
もっと若い人が活躍できる方策を考えなければ・・・・。
ただ面白そうなお仲間ができたということで良しとしよう。
先日、銚子に出かけた時に銚子港の反対側の神栖市の波崎港に行った。
茨城側から千葉県銚子港を眺めた。

奥の方に見えるのは銚子大橋。

食事したりするにはやはり向こう側しかないのか?
探したが食べるところもあまりないようだ。


でもこうして海を眺めていると懐かしさがよみがえってくる。
港近くで育ったわけではないが、横浜の本牧岬の近くで3歳くらいから小学校1年まで育ったせいかもしれない。
こちらの港とは大分違うが海はやはり懐かしくなる。
これからしばらくうっとうしい日が続くのかもしれない。
どうも天気もぐずつきそうだが気持ちの方もどうも梅雨入りだ。
疲れたら休めと野の花のいう ♪♪ (白井啓治さんの一行文)
名もない花はありません
あなたが知らないだけなのです。
そうそうこんな時は野の花でも愛でてのんびりしよう。
(「名は愛しきもの」はこちらをクリックすれば聞けます → こちら)
今日は石岡市の「協働のまちづくり委員会」などという委員に選ばれて初めての会合が市役所であった。
市の担当者以外に色々な人の意見を集めるということで色々な立場の人が12名と役場の担当者が5人くらい集まった。
何をやるのかがよくわからないが、まあノンビリでも着実な歩みをするしかない。
もっと若い人が活躍できる方策を考えなければ・・・・。
ただ面白そうなお仲間ができたということで良しとしよう。
先日、銚子に出かけた時に銚子港の反対側の神栖市の波崎港に行った。
茨城側から千葉県銚子港を眺めた。

奥の方に見えるのは銚子大橋。

食事したりするにはやはり向こう側しかないのか?
探したが食べるところもあまりないようだ。


でもこうして海を眺めていると懐かしさがよみがえってくる。
港近くで育ったわけではないが、横浜の本牧岬の近くで3歳くらいから小学校1年まで育ったせいかもしれない。
こちらの港とは大分違うが海はやはり懐かしくなる。
神善寺(1)-庚申
昨日は激しい雨が降り、今朝は濃い霧が家の周りを覆っていました。
また昼間は天気がよく大分暑くなりましたが、天気はまた明日から下り坂のようです。
もう1カ月くらい前に訪れた神栖市の「神善寺(じんぜんじ)」を紹介します。
場所は神栖の先端に近い波崎の内陸部です。
先端の方は以前に童女の松原や手后崎神社などを紹介しましたがこれよりはだいぶ内陸に入った通り沿いです。
古い寺ということで行って見ることにしたのですがこれがとても面白い寺でした。
鹿島灘と利根川に挟まれたこの地域も鹿島灘沿いと利根川沿いの道しか用事でもなければ車も走ることは無い。

今から1000年近く前の1056年に高野山から貞祐上人がやってきて開山したと伝えられる。
平安時代にこの地に何を求めてやってきたのか。

市の案内では、高野山から貞祐上人は高野山から十六善神の宝物をもって、神栖市波崎舎利にて開山したとある。
十六善神とは四天王と十二神将と合わせた十六名の般若経を守る夜叉神のことだそうだ。
また「神栖市波崎舎利」というのは元々この場所がそう呼ばれていたのだろうか?
舎利は仏の遺骨をさす言葉だと思うが・・・・(舎利殿、仏舎利)。
特にこれについての説明は無い。
ここは今は真言宗智山派の寺だ。益田山神善寺という。

入口山門の紋は上に桐?、下は波? これが何を意味するのかわからない。

山門入口の左下に1つの石碑があった。
「月山・湯殿山・羽黒山」の出羽三山。これは江戸時代だろう。

そして境内に進むと右側にたくさんの庚申塔(青面金剛)がずらりと並んでいます。

なかなか見ごたえがあります。細かく年代は見ませんでした。

種類もいろいろあって楽しいです。
こんなにそろっている所はそれ程多くないのではないでしょうか。

明日はこの寺の続きをもう少し書きます。
でも明日はまた銚子に出かけるので帰りが遅くなりそうです。
また昼間は天気がよく大分暑くなりましたが、天気はまた明日から下り坂のようです。
もう1カ月くらい前に訪れた神栖市の「神善寺(じんぜんじ)」を紹介します。
場所は神栖の先端に近い波崎の内陸部です。
先端の方は以前に童女の松原や手后崎神社などを紹介しましたがこれよりはだいぶ内陸に入った通り沿いです。
古い寺ということで行って見ることにしたのですがこれがとても面白い寺でした。
鹿島灘と利根川に挟まれたこの地域も鹿島灘沿いと利根川沿いの道しか用事でもなければ車も走ることは無い。

今から1000年近く前の1056年に高野山から貞祐上人がやってきて開山したと伝えられる。
平安時代にこの地に何を求めてやってきたのか。

市の案内では、高野山から貞祐上人は高野山から十六善神の宝物をもって、神栖市波崎舎利にて開山したとある。
十六善神とは四天王と十二神将と合わせた十六名の般若経を守る夜叉神のことだそうだ。
また「神栖市波崎舎利」というのは元々この場所がそう呼ばれていたのだろうか?
舎利は仏の遺骨をさす言葉だと思うが・・・・(舎利殿、仏舎利)。
特にこれについての説明は無い。
ここは今は真言宗智山派の寺だ。益田山神善寺という。

入口山門の紋は上に桐?、下は波? これが何を意味するのかわからない。

山門入口の左下に1つの石碑があった。
「月山・湯殿山・羽黒山」の出羽三山。これは江戸時代だろう。

そして境内に進むと右側にたくさんの庚申塔(青面金剛)がずらりと並んでいます。

なかなか見ごたえがあります。細かく年代は見ませんでした。

種類もいろいろあって楽しいです。
こんなにそろっている所はそれ程多くないのではないでしょうか。

明日はこの寺の続きをもう少し書きます。
でも明日はまた銚子に出かけるので帰りが遅くなりそうです。
神善寺(2)-大タブ
神栖市波崎の神善寺の続きです。
この寺には樹齢千年以上ともいわれる大きなタブの木(イヌグス)があります。
新日本名木100選に選ばれている木です。

この根本の大きなコブが周囲を圧倒しています。
そして木のまわりにはこの木を拝むようにたくさんの弘法大師像や観音石像が並んでいます。

まるでこの寺を守っているのはこの木であるといわんばかりです。

実際に江戸時代にこの地域で起きた大火災でもこの木に護られて難を逃れたと言い伝えられています。

寺の創建は室町後期1056年ですので、創建時にはすでにこの場所にあったのかもしれません。
また木に向かって置かれている石仏は地元の人が寄進して自然に集まったものを戦前この木の周りに集められたもののようです。
第2次大戦でも焼夷弾が近くに落ちたがこの木を避けて落ちたと伝えられています。

この神善寺は舎利寺とも呼ばれ、この地域も舎利というのだそうです。
またこの近くの鹿島灘に面した地域は「舎利浜」となっています。
舎利は一般には仏など偉い人の遺骨のこと? 何故舎利などという地名となったのか?
神栖(かみす)は神池があったし、息栖神社があるので何となくわかるが・・・・。

これらの子安観音像はやはり近隣の子安講の人々によって奉納されたものか。
中には十九夜講と彫られたものがあったように思う。
十九夜講は子安講のこと? 女性の集まりだろう。



釈迦堂。
県指定の涅槃像はこの中にあるのか?



この寺の本尊は大日如来。
県指定文化財は下記の2体と大タブの木
・木造大日如来坐像(室町時代)・・・神善寺の本尊
・木造釈迦涅槃像(鎌倉時代)
なかなか奥の深そうな寺である。
この寺には樹齢千年以上ともいわれる大きなタブの木(イヌグス)があります。
新日本名木100選に選ばれている木です。

この根本の大きなコブが周囲を圧倒しています。
そして木のまわりにはこの木を拝むようにたくさんの弘法大師像や観音石像が並んでいます。

まるでこの寺を守っているのはこの木であるといわんばかりです。

実際に江戸時代にこの地域で起きた大火災でもこの木に護られて難を逃れたと言い伝えられています。

寺の創建は室町後期1056年ですので、創建時にはすでにこの場所にあったのかもしれません。
また木に向かって置かれている石仏は地元の人が寄進して自然に集まったものを戦前この木の周りに集められたもののようです。
第2次大戦でも焼夷弾が近くに落ちたがこの木を避けて落ちたと伝えられています。

この神善寺は舎利寺とも呼ばれ、この地域も舎利というのだそうです。
またこの近くの鹿島灘に面した地域は「舎利浜」となっています。
舎利は一般には仏など偉い人の遺骨のこと? 何故舎利などという地名となったのか?
神栖(かみす)は神池があったし、息栖神社があるので何となくわかるが・・・・。

これらの子安観音像はやはり近隣の子安講の人々によって奉納されたものか。
中には十九夜講と彫られたものがあったように思う。
十九夜講は子安講のこと? 女性の集まりだろう。



釈迦堂。
県指定の涅槃像はこの中にあるのか?



この寺の本尊は大日如来。
県指定文化財は下記の2体と大タブの木
・木造大日如来坐像(室町時代)・・・神善寺の本尊
・木造釈迦涅槃像(鎌倉時代)
なかなか奥の深そうな寺である。
神善寺(3)-益田神社、日之本八幡神社
神栖市波崎舎利にある室町時代に創建された「神善寺」を見たあと、地図にはすぐ北に2つの神社が並んでいたので立ち寄ることにしました。
まずは神善寺の隣の神社です。
YAHOOやGOOGLE地図には「益出神社」と書かれています。
しかし茨城県神社庁には「益田神社」という名前の神社があり、この神社をさすようです。
神善寺の正式名称は「益田山神善寺」ですので、この神社はもともとは神善寺と一体だったのではないかと思います。
神仏分離で別れたものでしょう。

このような入口鳥居にも名称額は掲げられていません。

ここにはこのような古い石灯篭が置かれていましたが、ここには狛犬がおりません。
昨日書いた神善寺に狛犬がいました。
確かに寺にも狛犬がいても不思議はありませんが、神社の方が一般的に思います。

こちらが神社本殿。
立派な屋根です。またまわりを柵で囲っています。

入口に龍の彫り物。

祭神や神社のいわれなどの資料はわかりませんが、かなり古く舎利地区の氏神として古くから慕われていたようです。
祭神は大己貴命で、宝暦2年(1752)の神社棟札に推古天皇の時代に建立されたと記されているとのことですがあまりはっきりしません。
また、神栖市の有形文化財にこの神社の獅子舞が毎年2月に奉納されているとの記事がありました。
結構こじんまりとした祭りのようですが江戸時代から230年以上続くもののようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関東農政局HP記事:(こちら)
茨城県神栖市の舎利地区には、町指定無形民俗文化財として受け継がれている獅子舞があります。
この獅子舞の始まりは、約200年前の天明3年(1783年)にさかのぼります。
その年は、浅間山が噴火し、その火山灰が波崎にまで降り注ぎ、ひどい凶作になりました。
農民は「神様の怒り」だと思い、その怒りを鎮めるため、千葉県から観世流獅子舞を導入し、益田神社に奉納しました。
これが、大鳥祭獅子舞の始まりだといいます。
獅子舞は、たて髪のない、め獅子で、他には見ることのできない優雅な舞いが特徴です。
現在では、2月2日と9月1日の年2回、五穀豊穣、大漁を祈願して、その舞が益田神社に奉納されています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてその少し北側にもう一つ神社があります。「日之本八幡神社」とあります。



境内は深い樹叢で、みなタブの木のようです。神善寺の大タブはこの大親分的な存在です。

こちらが神社本殿。


本殿の入口に置かれた大きな雨水桝のマークは「梅鉢」です。
これは菅原道真の家紋としてよく使われていますのでこの八幡様も学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。



この神栖市波崎の舎利地区は昔の地形はどのような場所だったのか?
1300年前の常陸風土記では童女(うない)の松原の記述が参考になります。
香島郡(かしまのこおり)のところで
「軽野の南に童子女の松原がある。むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。」
「「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記)
とある。
軽野より南の一里は昔は「海上郡」であったという。
そしてこの一里の中心辺りにこの舎利地区がある。
こうして見て歩くときに昔の事柄を時々並べて見ていると何故か初めての地でもどこか懐かしくもなる。
このタブの木?の樹叢なども鹿島神宮の摂社である「沼尾神社」などを思い浮かべる。(記事はこちら)
まずは神善寺の隣の神社です。
YAHOOやGOOGLE地図には「益出神社」と書かれています。
しかし茨城県神社庁には「益田神社」という名前の神社があり、この神社をさすようです。
神善寺の正式名称は「益田山神善寺」ですので、この神社はもともとは神善寺と一体だったのではないかと思います。
神仏分離で別れたものでしょう。

このような入口鳥居にも名称額は掲げられていません。

ここにはこのような古い石灯篭が置かれていましたが、ここには狛犬がおりません。
昨日書いた神善寺に狛犬がいました。
確かに寺にも狛犬がいても不思議はありませんが、神社の方が一般的に思います。

こちらが神社本殿。
立派な屋根です。またまわりを柵で囲っています。

入口に龍の彫り物。

祭神や神社のいわれなどの資料はわかりませんが、かなり古く舎利地区の氏神として古くから慕われていたようです。
祭神は大己貴命で、宝暦2年(1752)の神社棟札に推古天皇の時代に建立されたと記されているとのことですがあまりはっきりしません。
また、神栖市の有形文化財にこの神社の獅子舞が毎年2月に奉納されているとの記事がありました。
結構こじんまりとした祭りのようですが江戸時代から230年以上続くもののようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
関東農政局HP記事:(こちら)
茨城県神栖市の舎利地区には、町指定無形民俗文化財として受け継がれている獅子舞があります。
この獅子舞の始まりは、約200年前の天明3年(1783年)にさかのぼります。
その年は、浅間山が噴火し、その火山灰が波崎にまで降り注ぎ、ひどい凶作になりました。
農民は「神様の怒り」だと思い、その怒りを鎮めるため、千葉県から観世流獅子舞を導入し、益田神社に奉納しました。
これが、大鳥祭獅子舞の始まりだといいます。
獅子舞は、たて髪のない、め獅子で、他には見ることのできない優雅な舞いが特徴です。
現在では、2月2日と9月1日の年2回、五穀豊穣、大漁を祈願して、その舞が益田神社に奉納されています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そしてその少し北側にもう一つ神社があります。「日之本八幡神社」とあります。



境内は深い樹叢で、みなタブの木のようです。神善寺の大タブはこの大親分的な存在です。

こちらが神社本殿。


本殿の入口に置かれた大きな雨水桝のマークは「梅鉢」です。
これは菅原道真の家紋としてよく使われていますのでこの八幡様も学問の神様である菅原道真公を祀っているようです。



この神栖市波崎の舎利地区は昔の地形はどのような場所だったのか?
1300年前の常陸風土記では童女(うない)の松原の記述が参考になります。
香島郡(かしまのこおり)のところで
「軽野の南に童子女の松原がある。むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。」
「「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記)
とある。
軽野より南の一里は昔は「海上郡」であったという。
そしてこの一里の中心辺りにこの舎利地区がある。
こうして見て歩くときに昔の事柄を時々並べて見ていると何故か初めての地でもどこか懐かしくもなる。
このタブの木?の樹叢なども鹿島神宮の摂社である「沼尾神社」などを思い浮かべる。(記事はこちら)
広憧院(神栖)
神栖市波崎の古刹「神善寺」の少し南に「広憧院(こうどういん)」という寺院がある。
別名「阿弥陀様」とも呼ばれているようだ。

真言宗豊山派 八幡山広憧院 (子安講本部) と看板にあります。

まわりは住宅地であり、寺の隣りに保育園(みだ保育園)が併設されています。
保育園のバスも境内に置かれており、元気な子供の声が聞こえます。

ここを知ったのは神栖市のHPで市の文化財に室町時代の文化財が神善寺とともに多く登録されているからです。
木造 毘沙門天立像:平安時代後期の製作されたとされ、木造の一木造りで、全長は79cm。
木造 阿弥陀如来座像:平安時代後半作と推定され、檜材の寄木造りで漆箔を施してある。
木造 兜跋毘沙門天像:平安時代末期作と推定される。

境内に「阿弥陀堂」という六角堂があります。

この阿弥陀堂の中に「阿弥陀如来座像」が置かれているようです。

このイヌマキの木は県指定の文化財に登録されています。
イヌマキの木は海に近い場所では良く目にします。
銚子の方に行くと家の垣根や暴風林としても良く植えられています。

樹齢350年くらい

本堂。建てなおしたものか? 修理中なのか?

別名「阿弥陀様」とも呼ばれているようだ。

真言宗豊山派 八幡山広憧院 (子安講本部) と看板にあります。

まわりは住宅地であり、寺の隣りに保育園(みだ保育園)が併設されています。
保育園のバスも境内に置かれており、元気な子供の声が聞こえます。

ここを知ったのは神栖市のHPで市の文化財に室町時代の文化財が神善寺とともに多く登録されているからです。
木造 毘沙門天立像:平安時代後期の製作されたとされ、木造の一木造りで、全長は79cm。
木造 阿弥陀如来座像:平安時代後半作と推定され、檜材の寄木造りで漆箔を施してある。
木造 兜跋毘沙門天像:平安時代末期作と推定される。

境内に「阿弥陀堂」という六角堂があります。

この阿弥陀堂の中に「阿弥陀如来座像」が置かれているようです。

このイヌマキの木は県指定の文化財に登録されています。
イヌマキの木は海に近い場所では良く目にします。
銚子の方に行くと家の垣根や暴風林としても良く植えられています。

樹齢350年くらい

本堂。建てなおしたものか? 修理中なのか?

南北朝時代の忘れもの「船頭の宮」(神栖市波崎)
このブログも開始してから5年4カ月が過ぎた。1950日というもの休みなく記事を書いてきた。
そして今これからどうしようかと思案している。
記事の内容も地元や出かけた先で足を延ばしたりしてその地域に眠るものを見つけて掘り起こしてきた。
掘り起こしといえばまだ聞こえは良いが、わからないものがあると興味が湧き、色々調べて記事にしてきた。
記事も単に書き写しただけの物もあるが、読んでみたくらいでは自分の知識不足で理解できないと、更にわからないことを調べて見たくなる。
人と視点が違っているとすればこのわからないことをそのままにしたくないという性格がなせるのかもしれない。
何故多くの人が、歴史などの書物に書いてあることを信じるのだろうかと疑問が湧くことも多い。
現地に行って感じたことはとても大切で、そこにはそこにいてその地に暮らしたり、史跡や風土、習慣(祭りなど)など守り継いできた人々がいてそんな人の思いが伝わってくるからだ。
まあ大そうに書いたが現地に行ってその場所を紹介するだけなのだが、思ったことなどをできるだけ残していきたいと常に思っている。
5年を過ぎた頃から記事をまとめたいと思い、この眠る歴史の掘り起こしなどから少し外れた記事が多くなった。
そして先月途中からフェースブックなどというものを始めた。
まだなんだかよくわからないが、ブログ記事とはまた違った世界で良いのやら悪いのやらトンと見当がつかない。
そのうちに何となくわかるのかもしれないが、ブログ2つにFBなどをやっていては仕事に影響してしまいそうで困っている。
どれも中途半端になるのだけは避けたいものだ。

今日は銚子に向かう時に神栖市を通り、銚子大橋を渡っていくことが最近多くなった。
以前は香取を通ったり、利根川と常陸川の間の中州を通ったりしていた。
この神栖もだいたい征服したと思っていたのだが、神栖の中心地を過ぎて、しばらく行くと現在の街道より利根川側に平行に走る旧道があった。
そこに少し変わったお宮が置かれていた。

大きな家の庭の一部を分けたようなお宮で、奥に2つのお宮が置かれていた。


二つ並んだ奥の小さい方のお宮の脇にこのお宮の由来が書かれていた。
「船頭の宮」と書かれており、お宮の屋根には源氏の家紋笹竜胆のマークが二つ描かれていた。

(現地説明文)
船頭の宮の由来:
「天皇家が二つに分かれ、世の中が乱れていた南北朝時代、上野国(群馬県)の住人・篠塚伊賀守重広は、南朝方の重臣・新田義貞の四天王として各地で奮戦した。
興國三年(1342)、伊賀守は伊予国(愛知県)世田城にて北朝方の軍勢を迎え撃ったが、奮闘及ばず城は落ちた。しかし武勇に聞こえた伊賀守は、鉄棒を振り回して敵中突破を敢行、今治浦から敵船を奪って、見事に隠岐島(現愛媛県越智郡上島町魚島)へと脱出した。
さて、しばらく隠岐島にて暮らしていた伊勢守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。そして、この本郷に上陸したのである。その時、乗ってきた船の碇(いかり)を記念にこの地に残した。それが宝蔵院の碇石(いかりいし)である。
伊賀守は、本郷に滞在した後、南朝再興を願って旅だった。残された船頭は、そのままこの地に住み、そしてこの地にて生涯を終えた。
遠い故郷を思いながらも帰れなかった船頭、その無念さに心痛んだ本郷の人々は、その御霊の安らかなることを願って祠を建てた。これが船頭の宮の由来である。
篠塚家由来碑 」
この南北朝時代の話となるとかなる古く、世の中も混乱して理解に苦しむが、南朝方の新田義貞の四天王というのが篠塚伊賀守ということになるが、破れて四国から上野国(群馬)に戻る時に船を操縦してくれた船頭が四国には帰れずこの地で亡くなったという。
しかし、このとなりの大きな屋敷の主は篠塚さんというようなので、どちらの子孫の方なのだろうか?
前に、利根川の向こう側の信太郡の大杉神社の近くにある神宮寺というところに昔あった城跡(神宮寺城)がたしか南朝方の「北畠 親房」が南朝方を立て直そうと伊勢から舟で喜多を目指してやってきたが船が難破してこの城にたどり着いたことを知った。
北畠はその後小田城に逃げ込んで「神皇正統記」を書いたことでよく知られている。
その後も大宝城や関城などを転々と・・・・・。
色々と今までの流れもつながってくる。
南北朝も難しいが、何となく流れが見えてきたようにも思う。
そして今これからどうしようかと思案している。
記事の内容も地元や出かけた先で足を延ばしたりしてその地域に眠るものを見つけて掘り起こしてきた。
掘り起こしといえばまだ聞こえは良いが、わからないものがあると興味が湧き、色々調べて記事にしてきた。
記事も単に書き写しただけの物もあるが、読んでみたくらいでは自分の知識不足で理解できないと、更にわからないことを調べて見たくなる。
人と視点が違っているとすればこのわからないことをそのままにしたくないという性格がなせるのかもしれない。
何故多くの人が、歴史などの書物に書いてあることを信じるのだろうかと疑問が湧くことも多い。
現地に行って感じたことはとても大切で、そこにはそこにいてその地に暮らしたり、史跡や風土、習慣(祭りなど)など守り継いできた人々がいてそんな人の思いが伝わってくるからだ。
まあ大そうに書いたが現地に行ってその場所を紹介するだけなのだが、思ったことなどをできるだけ残していきたいと常に思っている。
5年を過ぎた頃から記事をまとめたいと思い、この眠る歴史の掘り起こしなどから少し外れた記事が多くなった。
そして先月途中からフェースブックなどというものを始めた。
まだなんだかよくわからないが、ブログ記事とはまた違った世界で良いのやら悪いのやらトンと見当がつかない。
そのうちに何となくわかるのかもしれないが、ブログ2つにFBなどをやっていては仕事に影響してしまいそうで困っている。
どれも中途半端になるのだけは避けたいものだ。

今日は銚子に向かう時に神栖市を通り、銚子大橋を渡っていくことが最近多くなった。
以前は香取を通ったり、利根川と常陸川の間の中州を通ったりしていた。
この神栖もだいたい征服したと思っていたのだが、神栖の中心地を過ぎて、しばらく行くと現在の街道より利根川側に平行に走る旧道があった。
そこに少し変わったお宮が置かれていた。

大きな家の庭の一部を分けたようなお宮で、奥に2つのお宮が置かれていた。


二つ並んだ奥の小さい方のお宮の脇にこのお宮の由来が書かれていた。
「船頭の宮」と書かれており、お宮の屋根には源氏の家紋笹竜胆のマークが二つ描かれていた。

(現地説明文)
船頭の宮の由来:
「天皇家が二つに分かれ、世の中が乱れていた南北朝時代、上野国(群馬県)の住人・篠塚伊賀守重広は、南朝方の重臣・新田義貞の四天王として各地で奮戦した。
興國三年(1342)、伊賀守は伊予国(愛知県)世田城にて北朝方の軍勢を迎え撃ったが、奮闘及ばず城は落ちた。しかし武勇に聞こえた伊賀守は、鉄棒を振り回して敵中突破を敢行、今治浦から敵船を奪って、見事に隠岐島(現愛媛県越智郡上島町魚島)へと脱出した。
さて、しばらく隠岐島にて暮らしていた伊勢守であるが、望郷の念禁じがたく、島の農民を船頭にして、郷里目指して帆を揚げた。そして、この本郷に上陸したのである。その時、乗ってきた船の碇(いかり)を記念にこの地に残した。それが宝蔵院の碇石(いかりいし)である。
伊賀守は、本郷に滞在した後、南朝再興を願って旅だった。残された船頭は、そのままこの地に住み、そしてこの地にて生涯を終えた。
遠い故郷を思いながらも帰れなかった船頭、その無念さに心痛んだ本郷の人々は、その御霊の安らかなることを願って祠を建てた。これが船頭の宮の由来である。
篠塚家由来碑 」
この南北朝時代の話となるとかなる古く、世の中も混乱して理解に苦しむが、南朝方の新田義貞の四天王というのが篠塚伊賀守ということになるが、破れて四国から上野国(群馬)に戻る時に船を操縦してくれた船頭が四国には帰れずこの地で亡くなったという。
しかし、このとなりの大きな屋敷の主は篠塚さんというようなので、どちらの子孫の方なのだろうか?
前に、利根川の向こう側の信太郡の大杉神社の近くにある神宮寺というところに昔あった城跡(神宮寺城)がたしか南朝方の「北畠 親房」が南朝方を立て直そうと伊勢から舟で喜多を目指してやってきたが船が難破してこの城にたどり着いたことを知った。
北畠はその後小田城に逃げ込んで「神皇正統記」を書いたことでよく知られている。
その後も大宝城や関城などを転々と・・・・・。
色々と今までの流れもつながってくる。
南北朝も難しいが、何となく流れが見えてきたようにも思う。
宝蔵院(神栖市波崎)
昨日書いた「船頭の宮」のすぐ近くに立派な寺があった。
真言宗智山派 嶋崎山宝蔵院。 とあり藁葺の山門脇には立派な仁王像が置かれていた。

昨日の記事でもこの寺の名前が出てきていたので、もしかしたらこの寺に船の碇(いかり)が残されているのかもしれない。
少し見て回ったところでは見当たらなかった。

この辺りでは大きなお寺であるが、歴史的なことは書かれた物がなく、説明に窮してしまう。

南朝方の新田義貞の四天王といわれた群馬の篠塚伊賀守重広が四国で敗れて逃れた島から故郷を目指して船に乗ってこの地にやってきたというが、当時はもう北畠 親房も小田城から関城に移り、そこも追われて都へ戻った後であった。
船を操った船頭はどんな人物だったのか?
農民とも言われるが、当時熊野水軍の助けを借りて戻ってきたようである。

ただこの辺りの寺としてはかなり古そうだ。
船がこの地にたどりついた当時は今より水辺はもっと今の陸地側まで迫っていたようできっと葦が生えているような土地だったように思う。



まあ寺のことがあまり分からないので、写真のみを載せておくにとどめよう。
真言宗智山派 嶋崎山宝蔵院。 とあり藁葺の山門脇には立派な仁王像が置かれていた。

昨日の記事でもこの寺の名前が出てきていたので、もしかしたらこの寺に船の碇(いかり)が残されているのかもしれない。
少し見て回ったところでは見当たらなかった。

この辺りでは大きなお寺であるが、歴史的なことは書かれた物がなく、説明に窮してしまう。

南朝方の新田義貞の四天王といわれた群馬の篠塚伊賀守重広が四国で敗れて逃れた島から故郷を目指して船に乗ってこの地にやってきたというが、当時はもう北畠 親房も小田城から関城に移り、そこも追われて都へ戻った後であった。
船を操った船頭はどんな人物だったのか?
農民とも言われるが、当時熊野水軍の助けを借りて戻ってきたようである。

ただこの辺りの寺としてはかなり古そうだ。
船がこの地にたどりついた当時は今より水辺はもっと今の陸地側まで迫っていたようできっと葦が生えているような土地だったように思う。



まあ寺のことがあまり分からないので、写真のみを載せておくにとどめよう。
今の神之池は野鳥の楽園だった
鹿島コンビナートの入口である茨城県神栖市にある神之池は人工的な池ではなく大昔からあった貴重な大池だった。
鹿島コンビナートというのでコンビナートの工場群は鹿嶋市にあると昔は思っていたが、実はそのほとんどが神栖市にあるのだ。
このため神栖の街は発展し、道路や公園も整備されてきている。
その神栖市の中心に神之池と呼ばれる大きな池があるが、昔からある池で、今ではかなり小さくなり、まわりを整備して人工的な形になっている。

先日近くを通った時に、この公園に立ち寄った。
前に来た時池の中央付近だったが、今回はもう少し東の方の公園に行った。
上の写真の奥には石油コンビナートの煙突などが見える。

池の周囲にはジョギングコースが整備され、その手前は芝生の公園が細長く続いている。

水辺に近寄るとたくさんの水鳥たちが優雅に群がっていた。

もう少し近付いたら、水鳥は一斉に飛び立ちました。

飛ぶ姿もきれいですね。

この池は鴨たちの楽園でした。
大昔からこんな水鳥がいたのでしょうか。
戦時中はこの辺りも海軍航空隊神之池基地が作られました。
特攻隊に志願の若者が百里原とともども訓練を受けていた場所でもあるのです。
鹿島コンビナートというのでコンビナートの工場群は鹿嶋市にあると昔は思っていたが、実はそのほとんどが神栖市にあるのだ。
このため神栖の街は発展し、道路や公園も整備されてきている。
その神栖市の中心に神之池と呼ばれる大きな池があるが、昔からある池で、今ではかなり小さくなり、まわりを整備して人工的な形になっている。

先日近くを通った時に、この公園に立ち寄った。
前に来た時池の中央付近だったが、今回はもう少し東の方の公園に行った。
上の写真の奥には石油コンビナートの煙突などが見える。

池の周囲にはジョギングコースが整備され、その手前は芝生の公園が細長く続いている。

水辺に近寄るとたくさんの水鳥たちが優雅に群がっていた。

もう少し近付いたら、水鳥は一斉に飛び立ちました。

飛ぶ姿もきれいですね。

この池は鴨たちの楽園でした。
大昔からこんな水鳥がいたのでしょうか。
戦時中はこの辺りも海軍航空隊神之池基地が作られました。
特攻隊に志願の若者が百里原とともども訓練を受けていた場所でもあるのです。
息栖神社に立ち寄って
銚子に出かけるときに神栖市にある東国三社「息栖神社」近くを通っているのですが、今日久しぶりに立ち寄りたくなり寄り道してきました。

三月に例大祭があるようです。

前に来た時より、この神社も温かみを感じるようになりました。
神社の拝殿などがコンクリート製になり何処か冷たい感じがしていたのです。
でも梅の花もきれいに咲きだしました。

神門もきれいな朱色です。

拝殿も前に来た時よりも何処か威厳があるようです。(気のせい?)

神社の説明は前に何度もしていますのでここでは止めておきます。
今日は朝方まで暖かかったのですが、でかけるころにはどんどん気温が下がって冬に逆戻りでした。
夕方帰る頃は銚子も雨の中に雪が混ざり寒くなっていました。
過去の関連記事
・息栖神社(1)-東国三社 :2012/05/13
・息栖神社(2)-句碑 :2012/05/14
・息栖神社(3)-忍潮井 :2012/05/15
・息栖神社遷座
・蚕霊神社(神栖市) :2013/02/05
・潮来から息栖(1)~(7) :2015/05/26~2015/06/02

三月に例大祭があるようです。

前に来た時より、この神社も温かみを感じるようになりました。
神社の拝殿などがコンクリート製になり何処か冷たい感じがしていたのです。
でも梅の花もきれいに咲きだしました。

神門もきれいな朱色です。

拝殿も前に来た時よりも何処か威厳があるようです。(気のせい?)

神社の説明は前に何度もしていますのでここでは止めておきます。
今日は朝方まで暖かかったのですが、でかけるころにはどんどん気温が下がって冬に逆戻りでした。
夕方帰る頃は銚子も雨の中に雪が混ざり寒くなっていました。
過去の関連記事
・息栖神社(1)-東国三社 :2012/05/13
・息栖神社(2)-句碑 :2012/05/14
・息栖神社(3)-忍潮井 :2012/05/15
・息栖神社遷座
・蚕霊神社(神栖市) :2013/02/05
・潮来から息栖(1)~(7) :2015/05/26~2015/06/02
権現塚古墳(神栖)
神栖市の息栖神社を過ぎてそのまま旧道を東に進むと、昔この息栖神社があったという日川地区に行きます。
この日川一番というバス停の近くにこじんまりとした古墳「権現塚古墳」があります。

形状は前方後円墳で長さは20mとあまり大きくはありません。
もともとこのあたりには古墳群もあったようですが、開発によりかなり無くなってしまったようです。

上記の説明によると前方に比べて後円側が高いものは古墳時代の前期の物だと書かれています。
するとこの古墳は4~5世紀頃に造られた物なのでしょうか。
先日、香取市の三之分目大塚山古墳を紹介しましたが、その時の説明では大塚山の方は長さが123mで5世紀中頃の築造と考えられると書かれていました。
この大塚山古墳も後円部の方がだいぶ高くなっていました。
大きさこそ違いますが、時代的には同じ様な時期であり、香取海を挟んでその両側にある古墳としてはとても興味深い古墳です。

古墳の後円部には祠(権現様)が祀られています。

この権現様の入口鳥居は昔の香取海(現在常陸利根川)の方に置かれています。
この鳥居から川まではそれほど離れていません。

川の方からこの古墳(権現神社?)をみると、上の写真のようになります。
左手のこんもりしたところに古墳があります。
石岡の舟塚山古墳などのような大きさは全くありませんが、時代的にはこちらの方に先に豪族がいて、だんだんと西、北に進んで行ったように思われます。
100年くらいこちらの権現塚の方が古いような気もします。
この日川一番というバス停の近くにこじんまりとした古墳「権現塚古墳」があります。

形状は前方後円墳で長さは20mとあまり大きくはありません。
もともとこのあたりには古墳群もあったようですが、開発によりかなり無くなってしまったようです。

上記の説明によると前方に比べて後円側が高いものは古墳時代の前期の物だと書かれています。
するとこの古墳は4~5世紀頃に造られた物なのでしょうか。
先日、香取市の三之分目大塚山古墳を紹介しましたが、その時の説明では大塚山の方は長さが123mで5世紀中頃の築造と考えられると書かれていました。
この大塚山古墳も後円部の方がだいぶ高くなっていました。
大きさこそ違いますが、時代的には同じ様な時期であり、香取海を挟んでその両側にある古墳としてはとても興味深い古墳です。

古墳の後円部には祠(権現様)が祀られています。

この権現様の入口鳥居は昔の香取海(現在常陸利根川)の方に置かれています。
この鳥居から川まではそれほど離れていません。

川の方からこの古墳(権現神社?)をみると、上の写真のようになります。
左手のこんもりしたところに古墳があります。
石岡の舟塚山古墳などのような大きさは全くありませんが、時代的にはこちらの方に先に豪族がいて、だんだんと西、北に進んで行ったように思われます。
100年くらいこちらの権現塚の方が古いような気もします。
廣福寺(神栖)
息栖神社から日川一番の権現塚古墳に向かう途中の石上地区にに、もう一つ古墳(ふたご塚古墳)があると言うので探したのだが、見つからなかった。
あまりはっきりした場所がわからずに探してもなかなか見つからないものなのだろう。
全長が35mのやはり前方後円墳だそうだが・・・。
探していたら近くの芝崎地区の人見医院から少し奥には行ったところに古びたお寺を発見した。

真言宗智山派の寺だそうだ。
本尊は大日如来だ。

この辺りには中世の城「芝崎城」というのがあったらしいが、どうも詳細は不明だ。

調べても歴史的にはよくわからない。
本堂も大きく敷地も広いのだが・・・。


脇から裏山の方に回って見ると古墳を思わせる小山に竹林の小路。
なかなか良い雰囲気だが、見知らぬ人間が一人で歩き回っていると不審者と思われそうだ。
まあ程々にして引き揚げよう。

あまりはっきりした場所がわからずに探してもなかなか見つからないものなのだろう。
全長が35mのやはり前方後円墳だそうだが・・・。
探していたら近くの芝崎地区の人見医院から少し奥には行ったところに古びたお寺を発見した。

真言宗智山派の寺だそうだ。
本尊は大日如来だ。

この辺りには中世の城「芝崎城」というのがあったらしいが、どうも詳細は不明だ。

調べても歴史的にはよくわからない。
本堂も大きく敷地も広いのだが・・・。


脇から裏山の方に回って見ると古墳を思わせる小山に竹林の小路。
なかなか良い雰囲気だが、見知らぬ人間が一人で歩き回っていると不審者と思われそうだ。
まあ程々にして引き揚げよう。

最後の特攻「桜花」展示
銚子に向かう時に神栖地区を通った。
ここに最近大きなきれいな公園が整備された。
「神栖中央公園」というようだが、途中少し休憩に立ち寄らせてもらった。
広々した公園だが、トイレもきれいで気持ちがよかった。

公園の一角にガラス張りの建屋があった。
中を除いてみると、昨年秋に完成した映画「サクラ花」の撮影に使われた飛行機が展示されていた。
この飛行機は終戦近くなり物資が乏しくなって造られた、特攻隊の最後の姿と言われる「桜花(おうか)」であるという。

この特攻飛行機は車輪もなく自力で飛ぶこともできない。
人間一人が乗って親飛行にの下にぶら下げられ、相手の船の上に来ると切り離されて敵にそのまま突っ込んで玉砕する。
飛行機重量とほぼ同じくらいの爆弾を抱えて帰ることのできない突撃をしたという。
飛行機の前の方に桜の花びらのマークが描かれていた。

映画で再現された飛行機が撮影を終わって、この桜花が飛び立った神之池海軍航空基地のあった神栖市に寄贈され、ここに展示されたという。
映画で使われた服も同時に展示されている。

桜花11型
離着陸用の車輪やエンジンを装備せず、母機となる一式陸上攻撃機(一式陸攻)に吊られて出撃し、敵艦船近くで切り離されロケットエンジンを着火し敵艦船に体当たりする特殊攻撃機。機体前部に約1.2tonの爆弾を搭載。
全長約6m、全幅約5m 総重量約2.1ton。(機体本体は約440kg)

そしてその機体の横に小さな母機とこの桜花の一体となった模型がありました。

母機の下に小さな爆弾のように取りつけられているのが「桜花」です。
本当に爆弾と同じですね。
爆弾よりも正確に敵艦船に衝突できるようにロケットエンジンでわずかな梶をとって玉砕していったようです。

これを思うと何を馬鹿な事をしたのだという思いになりますが、戦争とはそんな人と人が殺しあうのが当然という状況が、人間の心を麻痺させてしまうのですね。
今でもイスラムの世界などで自爆行為が止みません。
平和な日本の今の公園に展示されているのにはそれなりの意味があるのでしょう。
こんなことが再び起こらないように、いつまでも平和を願います。
この公園も映画撮影では現在の平和な状況を映すのに使われたそうです。

この公園は鹿島石油コンビナートからも近い場所です。
広い敷地を芝生できれいな公園にして整備されました。

この公園の特色は東日本大震災で得た教訓をもとに防災の目的を持った総合公園です。
ベンチには簡易トイレになる設備が備え付けられており、公園地下には飲料水と出来る水を蓄え、これを噴水としても利用しています。
また公園中央部には土を持って小山を作り、標高15m以上となり場所も確保しました。
これからの公園のあり方(防災)の参考になると思います。
そんな事と同時にこの飛行機も是非見学してみてはいかがですか?
石岡からここに来るまでに行方市も通りますが、途中にこの映画撮影に使われたという立て看板があったのを思い出しました。
玉造の大宮神社です。
ここではエキストラ100人程が参加して夏祭りのシーンが撮られたといいます。
ここに最近大きなきれいな公園が整備された。
「神栖中央公園」というようだが、途中少し休憩に立ち寄らせてもらった。
広々した公園だが、トイレもきれいで気持ちがよかった。

公園の一角にガラス張りの建屋があった。
中を除いてみると、昨年秋に完成した映画「サクラ花」の撮影に使われた飛行機が展示されていた。
この飛行機は終戦近くなり物資が乏しくなって造られた、特攻隊の最後の姿と言われる「桜花(おうか)」であるという。

この特攻飛行機は車輪もなく自力で飛ぶこともできない。
人間一人が乗って親飛行にの下にぶら下げられ、相手の船の上に来ると切り離されて敵にそのまま突っ込んで玉砕する。
飛行機重量とほぼ同じくらいの爆弾を抱えて帰ることのできない突撃をしたという。
飛行機の前の方に桜の花びらのマークが描かれていた。

映画で再現された飛行機が撮影を終わって、この桜花が飛び立った神之池海軍航空基地のあった神栖市に寄贈され、ここに展示されたという。
映画で使われた服も同時に展示されている。

桜花11型
離着陸用の車輪やエンジンを装備せず、母機となる一式陸上攻撃機(一式陸攻)に吊られて出撃し、敵艦船近くで切り離されロケットエンジンを着火し敵艦船に体当たりする特殊攻撃機。機体前部に約1.2tonの爆弾を搭載。
全長約6m、全幅約5m 総重量約2.1ton。(機体本体は約440kg)

そしてその機体の横に小さな母機とこの桜花の一体となった模型がありました。

母機の下に小さな爆弾のように取りつけられているのが「桜花」です。
本当に爆弾と同じですね。
爆弾よりも正確に敵艦船に衝突できるようにロケットエンジンでわずかな梶をとって玉砕していったようです。

これを思うと何を馬鹿な事をしたのだという思いになりますが、戦争とはそんな人と人が殺しあうのが当然という状況が、人間の心を麻痺させてしまうのですね。
今でもイスラムの世界などで自爆行為が止みません。
平和な日本の今の公園に展示されているのにはそれなりの意味があるのでしょう。
こんなことが再び起こらないように、いつまでも平和を願います。
この公園も映画撮影では現在の平和な状況を映すのに使われたそうです。

この公園は鹿島石油コンビナートからも近い場所です。
広い敷地を芝生できれいな公園にして整備されました。

この公園の特色は東日本大震災で得た教訓をもとに防災の目的を持った総合公園です。
ベンチには簡易トイレになる設備が備え付けられており、公園地下には飲料水と出来る水を蓄え、これを噴水としても利用しています。
また公園中央部には土を持って小山を作り、標高15m以上となり場所も確保しました。
これからの公園のあり方(防災)の参考になると思います。
そんな事と同時にこの飛行機も是非見学してみてはいかがですか?
石岡からここに来るまでに行方市も通りますが、途中にこの映画撮影に使われたという立て看板があったのを思い出しました。
玉造の大宮神社です。
ここではエキストラ100人程が参加して夏祭りのシーンが撮られたといいます。