童子女の松原
1300年前に書かれた常陸国風土記の「香島郡(かしまのこおり)」にこの地方の言い伝えとして次の話が出てくる。
ここでは口訳・常陸国風土記から文章をお借りします。
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○ 童子女の松原
軽野の南に童子女の松原がある。
むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。
ともにみめ麗しく、村を越えて聞こえてくる評判に、いつしか二人はひそかな思ひを抱くやうになった。
年月が立ち、歌垣の集ひで二人は偶然出会ふ。そのときいらつこが歌ふに、
いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも
(安是の小松に清らかな木綿を懸け垂らして、それを手草に舞ひながら、私に向かって振ってゐるのが見える。安是の小島の……。)
いらつめの答への歌に、
潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
(潮が島から寄せる浜辺に立ってゐようと言ってゐたのに、あなたは、八十島に隠れてゐる小島を見つけて、走り寄ってくる。)
ともに相語らんと、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ、押さへてゐた思ひを口にすると、これまで思ひ悩んだことも消え、ほほゑみの鮮かな感動がよみがへる。
玉の露の宿る梢に、爽やかな秋風が吹き抜け、そのかなたに望月が輝いてゐる。
そこに聞こえる松風の歌。
鳴く鶴の浮州に帰るやうに、渡る雁の山に帰るやうに。
静かな山の岩陰に清水は湧き出で、静かな夜に霧はたちこめる。
近くの山の紅葉はすでに色づき始め、遠い海にはただ青き波の激しく磯によせる音が聞こえるだけだ。
今宵の楽しみにまさるものはない。
ただ語らひの甘きにおぼれ、夜の更け行くのも忘れる。
突然、鶏が鳴き、犬が吠え、気がつくと朝焼けの中から日が差し込めてゐた。
二人は、なすすべを知らず、人に見られることを恥ぢて、松の木となり果てたといふ。
いらつこの松を奈美松といひ、いらつめの松を古津松といふ。
その昔からのこの名は、今も同じである。
-----------------------------------------
少し長いのですがそのまま載せました。

昨日書いたとおりこの童子女の松原公園は手前に大きな生涯学習センターがある裏手の松林でした。
学習センターがお休みで気がつかなかったこともありますが、公園の入口はこのセンターを横切っていくのですから矢印の案内板くらい欲しいと思います。

表の通りからはこの看板の文字は読めないのですが近づいてみれば「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」と書かれています。
「童子女」は一般には「うない」と読むのですがここでは「おとめ」とフリガナがふられています。
このように振り仮名をつけられるとこの常陸国風土記に書かれた内容も単なる美男美女の恋愛物語で終わってしまいそうです。
「うない」というのは少年少女の事と言われますが、髪の毛をうなじのあたりで束ねて下に垂らした髪型の事を言うと書かれたものもありましたのでここに造られている男女の像の姿とは少し違うのかもしれません。(神に仕える者です)

公園内は整備されていて、松林の中に常陸国風土記の各郡の説明プレートが1枚づつ置かれており、読みながら常陸国の昔を思うことが出来るように作られています。
でも訪れた方はどんな思いで散策されるのでしょうか・・・。

風土記の話に書かれているように「歌垣」(嬥歌 かがい)の集まりで出会った二人が松の木陰で一夜を過ごし、朝になってしまったので恥ずかしくなり松の木になってしまったというので、この当時の予想される衣装を着た男女像が作られています。
歌垣は筑波山が有名ですが、このような水辺などでもあちこちで行われていたようです。
興味のある方はご自身で調べて見て下さい。


「童子女(おとめ)の鐘」
説明板には
「この童子女の鐘は、いつまでも一緒にいたいという想いを抱き、松の姿に身をゆだねた男女の決して変わることのない深い絆にちなんだ、永遠の愛を願う鐘です。時代の流れを表現したアーチから、現代に語り継がれている2人の出会いの場面をみつめながら、あなたも永遠の愛を願いこの鐘を響かせて下さい」
とありました。
どんな音がするかやはり興味がありますね。
軽く叩いてみました。
ゴオ~ン・・・・ とても大きな音が鳴り響きました。
恥ずかしくなって松の木にでもなりたい気分です(笑)

さて、この公園は一度見ておけばそれでよしと言うことで、何故この童子女(うない)松原の話が常陸国風土記に書かれているのでしょうか。どのような意味を持っているのでしょうか。
この風土記には筑波郡のところにも筑波山の歌垣について書かれていますし、風土記を書いたと言われる高橋虫麻呂の万葉集に載せられている歌にも春と秋の歌垣の様子が歌われています。
これによればこの日ばかりは人妻であっても交際自由?? てな感じです。
さて、この男は「那賀の寒田」であり女は「海上の安是」で、共に神に仕える男女となっています。
これって少し興味深いですね。場所はどのあたりなのでしょうか。
こんなことに興味を持つと、この男女の松原の話も、少し違った話に見えてくるのです。
時間が無くなりましたので続きは明日に調べながら書いてみたいと思います。
この話の後に「手子后神社(てごさきじんじゃ)」を訪れました。
こちらにはこの童子女の二人を祀っています。この二人は神社に祭られる神様になっているのです。
ここを訪れようと思ったのは、先日石岡をバイパスする6号国道が通ることになっている舟塚山古墳の近くにこの波崎にある「手子后神社」と同じ名前の神社を発見したためです。
少しずつ紐解いてみたいと思います。
これから3-4回にわたって訪れた時の写真などで紹介したいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
ここでは口訳・常陸国風土記から文章をお借りします。
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○ 童子女の松原
軽野の南に童子女の松原がある。
むかし、那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女がゐた。
ともにみめ麗しく、村を越えて聞こえてくる評判に、いつしか二人はひそかな思ひを抱くやうになった。
年月が立ち、歌垣の集ひで二人は偶然出会ふ。そのときいらつこが歌ふに、
いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも
(安是の小松に清らかな木綿を懸け垂らして、それを手草に舞ひながら、私に向かって振ってゐるのが見える。安是の小島の……。)
いらつめの答への歌に、
潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り
(潮が島から寄せる浜辺に立ってゐようと言ってゐたのに、あなたは、八十島に隠れてゐる小島を見つけて、走り寄ってくる。)
ともに相語らんと、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ、押さへてゐた思ひを口にすると、これまで思ひ悩んだことも消え、ほほゑみの鮮かな感動がよみがへる。
玉の露の宿る梢に、爽やかな秋風が吹き抜け、そのかなたに望月が輝いてゐる。
そこに聞こえる松風の歌。
鳴く鶴の浮州に帰るやうに、渡る雁の山に帰るやうに。
静かな山の岩陰に清水は湧き出で、静かな夜に霧はたちこめる。
近くの山の紅葉はすでに色づき始め、遠い海にはただ青き波の激しく磯によせる音が聞こえるだけだ。
今宵の楽しみにまさるものはない。
ただ語らひの甘きにおぼれ、夜の更け行くのも忘れる。
突然、鶏が鳴き、犬が吠え、気がつくと朝焼けの中から日が差し込めてゐた。
二人は、なすすべを知らず、人に見られることを恥ぢて、松の木となり果てたといふ。
いらつこの松を奈美松といひ、いらつめの松を古津松といふ。
その昔からのこの名は、今も同じである。
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少し長いのですがそのまま載せました。

昨日書いたとおりこの童子女の松原公園は手前に大きな生涯学習センターがある裏手の松林でした。
学習センターがお休みで気がつかなかったこともありますが、公園の入口はこのセンターを横切っていくのですから矢印の案内板くらい欲しいと思います。

表の通りからはこの看板の文字は読めないのですが近づいてみれば「常陸国風土記 童子女(おとめ)の松原公園」と書かれています。
「童子女」は一般には「うない」と読むのですがここでは「おとめ」とフリガナがふられています。
このように振り仮名をつけられるとこの常陸国風土記に書かれた内容も単なる美男美女の恋愛物語で終わってしまいそうです。
「うない」というのは少年少女の事と言われますが、髪の毛をうなじのあたりで束ねて下に垂らした髪型の事を言うと書かれたものもありましたのでここに造られている男女の像の姿とは少し違うのかもしれません。(神に仕える者です)

公園内は整備されていて、松林の中に常陸国風土記の各郡の説明プレートが1枚づつ置かれており、読みながら常陸国の昔を思うことが出来るように作られています。
でも訪れた方はどんな思いで散策されるのでしょうか・・・。

風土記の話に書かれているように「歌垣」(嬥歌 かがい)の集まりで出会った二人が松の木陰で一夜を過ごし、朝になってしまったので恥ずかしくなり松の木になってしまったというので、この当時の予想される衣装を着た男女像が作られています。
歌垣は筑波山が有名ですが、このような水辺などでもあちこちで行われていたようです。
興味のある方はご自身で調べて見て下さい。


「童子女(おとめ)の鐘」
説明板には
「この童子女の鐘は、いつまでも一緒にいたいという想いを抱き、松の姿に身をゆだねた男女の決して変わることのない深い絆にちなんだ、永遠の愛を願う鐘です。時代の流れを表現したアーチから、現代に語り継がれている2人の出会いの場面をみつめながら、あなたも永遠の愛を願いこの鐘を響かせて下さい」
とありました。
どんな音がするかやはり興味がありますね。
軽く叩いてみました。
ゴオ~ン・・・・ とても大きな音が鳴り響きました。
恥ずかしくなって松の木にでもなりたい気分です(笑)

さて、この公園は一度見ておけばそれでよしと言うことで、何故この童子女(うない)松原の話が常陸国風土記に書かれているのでしょうか。どのような意味を持っているのでしょうか。
この風土記には筑波郡のところにも筑波山の歌垣について書かれていますし、風土記を書いたと言われる高橋虫麻呂の万葉集に載せられている歌にも春と秋の歌垣の様子が歌われています。
これによればこの日ばかりは人妻であっても交際自由?? てな感じです。
さて、この男は「那賀の寒田」であり女は「海上の安是」で、共に神に仕える男女となっています。
これって少し興味深いですね。場所はどのあたりなのでしょうか。
こんなことに興味を持つと、この男女の松原の話も、少し違った話に見えてくるのです。
時間が無くなりましたので続きは明日に調べながら書いてみたいと思います。
この話の後に「手子后神社(てごさきじんじゃ)」を訪れました。
こちらにはこの童子女の二人を祀っています。この二人は神社に祭られる神様になっているのです。
ここを訪れようと思ったのは、先日石岡をバイパスする6号国道が通ることになっている舟塚山古墳の近くにこの波崎にある「手子后神社」と同じ名前の神社を発見したためです。
少しずつ紐解いてみたいと思います。
これから3-4回にわたって訪れた時の写真などで紹介したいと思います。


童子女の松原(2)
一昨日の記事の続きです。
神栖市波崎先端の鹿島灘側に面した海水浴場近くの松林に「童子女(おとめ)松原」公園があった。
常陸国風土記の香島郡のところに載せられた1300年前に伝承として伝えられたおはなし「童子女(うない)松原」の場所として推測した場所と思われる。
この歌垣(東国では嬥歌(かがい))の話として知られているが、何かもう少し深い話が眠っていそうな気がする。
その伏線は同じ常陸国風土記の香島郡の冒頭に書かれています。
「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記より)
この香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたのだ。
常陸国風土記が書かれたのはそれより60年以上後である。

今では香島郡の北が何処まで課ははっきりしないが Flood Mapsで海面を5mくらい高くしてみると北にあったと言う阿多可奈湖(あたかなこ)が現在の涸沼から那珂川河口辺りに広がっているのでここが北の境であろう。
南はこの波崎の所までであるはずだから 5:1の大きさの面積で比較すれば上の地図のようになるであろう。
童子女(うない)の松原は一番南の方になる。
常陸国風土記の古老の話としてこの説話が書かれているのはこの香島(鹿島)の神の地が出来た頃よりも前の話かもしれない。
それともこの二つの国造の国からここを分離するために作られた話なのかもしれない。
そうでなければ別々の国の神に仕える男女二人がこの地で隠れて一緒になり、男は奈美松(なみまつ)、女は古津松(こつまつ)になって、そしていつのまにか奈美松霊・古津松霊という名の神様となって手子后(てごさき)神社に祀られているなどということにはならないはずであるのだから。
仲国造は神八井耳命(かむやいみみのみこと)=神武天皇の子 の後裔の建借間命(けかしまのみこと)が那珂川流域(水戸など)などに派遣されて切り開き場所であり、古代皇族の多氏の系統。
下海上(下兎上)国造は海洋や湖などの舟の操作が巧みな民族で出雲族だという。
すなわち多氏と出雲族がここで共に手を取り合って鹿島の神の地を作り上げたと言うことなのか?
ただ鹿島はどちらかというとやはり多氏の系統色がとても強いので、息栖神社がその象徴なのかもしれない。
息栖神社の現在の祭神は岐神(ふなどのかみ)・天神船神・住吉三神である。
息栖神社で芭蕉が読んだ句「この里は 気吹戸主の 風寒し」などということの意味もなんとなく気になってくる。
気吹戸主とはイザナギが黄泉の国から戻った時、けがれたものを清め流したその流れから生まれたのが気吹戸主とされる。
このため何でも汚れを清めてくれるのだそうだ。
さて、現在のこの童子女の松原公園の場所に松林も整備され、像がおかれているが本来は銚子大橋の波崎側の入口近くにある手子后神社の場所がこの二人が会ったという場所なのでしょう。
また、神栖市のホームページを見ていたら市の名前の由来が載っていました。
現在の神栖市役所のすぐ近くに大きな池がありその場所は昔から現在に至るまで神の池と呼ばれていました。
今の池は干拓も進み昔よりはだいぶ小さくなっているようです。
また息栖神社のある息栖町から栖の字をとって「神栖(かみす)」となったそうです。
この神の池も調べて見ると現在の百里基地(小美玉市、旧小川町)が建設される前にこの神の池と大野原地区に自衛隊の軍用施設が建設される話が持ち上がり、大反対にあいました。
結局これが小川町の百里ヶ原に建設されることになり今の百里基地と茨城空港となっていったのです。
ここにも大きな反対運動があったと聞いています。
それぞれの土地には知らなければいけないことがたくさん眠っていますね。
大間の原発のことなど知らされなければいけない事柄も隠しているように感じてしまいます。
まだまだ新しい原発をいくら建設途中だからと言って建設をするなどということは福島の避難民などの心を踏みにじっています。
プルサーマルですから、MOX燃料を使いたいと言うただそれだけの気持ちが先にあるとしたらとんでもないことだと思います。
明日は手子后神社を紹介します。
神栖市波崎先端の鹿島灘側に面した海水浴場近くの松林に「童子女(おとめ)松原」公園があった。
常陸国風土記の香島郡のところに載せられた1300年前に伝承として伝えられたおはなし「童子女(うない)松原」の場所として推測した場所と思われる。
この歌垣(東国では嬥歌(かがい))の話として知られているが、何かもう少し深い話が眠っていそうな気がする。
その伏線は同じ常陸国風土記の香島郡の冒頭に書かれています。
「昔、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世の、大化五年に、大乙上 中臣の?子、大乙下 中臣部兎子らが、惣領 高向大夫に申し出て、下総の海上の国造の領内である軽野より南の一里(面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田より北の五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置いた。そこに鎮座する天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあはせて、香島の天の大神と称へた。ここから郡の名が付いた。」(口訳・常陸国風土記より)
この香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたのだ。
常陸国風土記が書かれたのはそれより60年以上後である。

今では香島郡の北が何処まで課ははっきりしないが Flood Mapsで海面を5mくらい高くしてみると北にあったと言う阿多可奈湖(あたかなこ)が現在の涸沼から那珂川河口辺りに広がっているのでここが北の境であろう。
南はこの波崎の所までであるはずだから 5:1の大きさの面積で比較すれば上の地図のようになるであろう。
童子女(うない)の松原は一番南の方になる。
常陸国風土記の古老の話としてこの説話が書かれているのはこの香島(鹿島)の神の地が出来た頃よりも前の話かもしれない。
それともこの二つの国造の国からここを分離するために作られた話なのかもしれない。
そうでなければ別々の国の神に仕える男女二人がこの地で隠れて一緒になり、男は奈美松(なみまつ)、女は古津松(こつまつ)になって、そしていつのまにか奈美松霊・古津松霊という名の神様となって手子后(てごさき)神社に祀られているなどということにはならないはずであるのだから。
仲国造は神八井耳命(かむやいみみのみこと)=神武天皇の子 の後裔の建借間命(けかしまのみこと)が那珂川流域(水戸など)などに派遣されて切り開き場所であり、古代皇族の多氏の系統。
下海上(下兎上)国造は海洋や湖などの舟の操作が巧みな民族で出雲族だという。
すなわち多氏と出雲族がここで共に手を取り合って鹿島の神の地を作り上げたと言うことなのか?
ただ鹿島はどちらかというとやはり多氏の系統色がとても強いので、息栖神社がその象徴なのかもしれない。
息栖神社の現在の祭神は岐神(ふなどのかみ)・天神船神・住吉三神である。
息栖神社で芭蕉が読んだ句「この里は 気吹戸主の 風寒し」などということの意味もなんとなく気になってくる。
気吹戸主とはイザナギが黄泉の国から戻った時、けがれたものを清め流したその流れから生まれたのが気吹戸主とされる。
このため何でも汚れを清めてくれるのだそうだ。
さて、現在のこの童子女の松原公園の場所に松林も整備され、像がおかれているが本来は銚子大橋の波崎側の入口近くにある手子后神社の場所がこの二人が会ったという場所なのでしょう。
また、神栖市のホームページを見ていたら市の名前の由来が載っていました。
現在の神栖市役所のすぐ近くに大きな池がありその場所は昔から現在に至るまで神の池と呼ばれていました。
今の池は干拓も進み昔よりはだいぶ小さくなっているようです。
また息栖神社のある息栖町から栖の字をとって「神栖(かみす)」となったそうです。
この神の池も調べて見ると現在の百里基地(小美玉市、旧小川町)が建設される前にこの神の池と大野原地区に自衛隊の軍用施設が建設される話が持ち上がり、大反対にあいました。
結局これが小川町の百里ヶ原に建設されることになり今の百里基地と茨城空港となっていったのです。
ここにも大きな反対運動があったと聞いています。
それぞれの土地には知らなければいけないことがたくさん眠っていますね。
大間の原発のことなど知らされなければいけない事柄も隠しているように感じてしまいます。
まだまだ新しい原発をいくら建設途中だからと言って建設をするなどということは福島の避難民などの心を踏みにじっています。
プルサーマルですから、MOX燃料を使いたいと言うただそれだけの気持ちが先にあるとしたらとんでもないことだと思います。
明日は手子后神社を紹介します。
手子后神社(神栖市)(1)
手子后神社(てごさきじんじゃ)は茨城県神栖市の銚子大橋の入口のすぐ近くにあります。

入口参道から奥に続いて拝殿が見えます。

入口に神社の説明があります。
「祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。
神護景雲年間(西暦七六七年)の創建と伝えられ、古くから息栖大洗両社と共に鹿島神宮の三摂社と称されている。
当社は漁師の信仰が厚く、鎮守祭には出漁しない習慣がある。この時期は大時化になることが多く、当社を信仰する漁師はこの習慣により難を免れた。以前は初出の漁船、また遠隔地へ行かれる漁船は必ず利根川の明神下まで船を進め、その無事を祈って船出した。」
そして「童子女(うない)の松原」の説明があります。こちらでは「うない」とフリガナがふられています。
その最後に「手子比売命と海上の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)とは同一神なりとの説もある」と書かれています。
少し内容をまとめてみると、この神社は「手子比売命」を祀った神社であり、この手子比売命は鹿島神宮の祭神である武甕槌(たけみかづち)大神の娘であるとされ、一説には常陸風土記に書かれた童子女の松原で古津松という松になったという安是の嬢子(女性の方)であるともいわれると書かれている。またこの神は同一であるかもしれないのだ。
どのように理解すればいいのだろうか。

場所が漁師町に近く江戸時代も波崎・銚子からは江戸へたくさん魚が運ばれていたのだから、この古社がいつのまにか漁業の女神を祀っているように思われていったものではないだろうか。
神栖市観光協会のホームページにはここの祭りについて
「毎年大潮祭は旧暦の6月15日に近い土・日曜日に執り行われます。
航海の安全や豊漁を祈る、海の男たちの祭りです。 初日夜の『宵宮』2日目の祭礼当日ともに神輿や鳴物が街中を練り歩きます。この日は波崎の漁船は出漁を止め大漁旗を飾り、乗組員は神社に参拝します。」
と書かれています。なかなか大きなお祭りのようだ。

狛犬もいい風情をしている。


神社拝殿。創建の年代が書かれている。
この年代にはすでに常陸風土記は編纂されていたのだから、あとからこの神社を建てる何かの力が働いたのか?
もっとも神社の創建年代などはあまりあてになるものは少ないが・・・。

こちらが本殿。

明日に続きます。
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入口参道から奥に続いて拝殿が見えます。

入口に神社の説明があります。
「祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。
神護景雲年間(西暦七六七年)の創建と伝えられ、古くから息栖大洗両社と共に鹿島神宮の三摂社と称されている。
当社は漁師の信仰が厚く、鎮守祭には出漁しない習慣がある。この時期は大時化になることが多く、当社を信仰する漁師はこの習慣により難を免れた。以前は初出の漁船、また遠隔地へ行かれる漁船は必ず利根川の明神下まで船を進め、その無事を祈って船出した。」
そして「童子女(うない)の松原」の説明があります。こちらでは「うない」とフリガナがふられています。
その最後に「手子比売命と海上の安是(あぜ)の嬢子(いらつめ)とは同一神なりとの説もある」と書かれています。
少し内容をまとめてみると、この神社は「手子比売命」を祀った神社であり、この手子比売命は鹿島神宮の祭神である武甕槌(たけみかづち)大神の娘であるとされ、一説には常陸風土記に書かれた童子女の松原で古津松という松になったという安是の嬢子(女性の方)であるともいわれると書かれている。またこの神は同一であるかもしれないのだ。
どのように理解すればいいのだろうか。

場所が漁師町に近く江戸時代も波崎・銚子からは江戸へたくさん魚が運ばれていたのだから、この古社がいつのまにか漁業の女神を祀っているように思われていったものではないだろうか。
神栖市観光協会のホームページにはここの祭りについて
「毎年大潮祭は旧暦の6月15日に近い土・日曜日に執り行われます。
航海の安全や豊漁を祈る、海の男たちの祭りです。 初日夜の『宵宮』2日目の祭礼当日ともに神輿や鳴物が街中を練り歩きます。この日は波崎の漁船は出漁を止め大漁旗を飾り、乗組員は神社に参拝します。」
と書かれています。なかなか大きなお祭りのようだ。

狛犬もいい風情をしている。


神社拝殿。創建の年代が書かれている。
この年代にはすでに常陸風土記は編纂されていたのだから、あとからこの神社を建てる何かの力が働いたのか?
もっとも神社の創建年代などはあまりあてになるものは少ないが・・・。

こちらが本殿。

明日に続きます。


手子后神社(神栖市)(2)
茨城県神栖市の銚子大橋に近い場所にある手子后(てごさき)神社の紹介の続きです。
この神社と息栖神社、大洗磯前(いそさき)神社が古くは鹿島神宮の三摂社と言われていたとの記述もありが、現在の鹿島神宮の摂社には息栖神社をのぞいて入っていない。
大洗磯前神社の祭神は大己貴命(=大国主)と少彦名(すくなひこな)である。少彦名命 はこの大洗磯前神社と対をなす酒列磯前(さかつらいそさき)神社に祀られている神の分身である。
昔の地形を考えると大洗の方は鹿島郡で酒列の方は仲(那賀)の国造の土地であるようだ。

この手子后神社にはたくさんの境内社があるようだ。
入口の鳥居のすぐ近くに「厳島神社」がある。

それほど大きくはないが、当然安芸国(広島県)一宮である厳島神社から分霊されたものであろう。

その少し先の反対側には小山の上に社があり「浅間神社」が置かれている。江戸時代頃の富士山信仰の表れなのか。

その隣はキツネ像が置かれているので稲荷神社?、その隣が「天神さん」(菅原道真?)、「琴平宮」(海上安全?)となっています。

その隣に「大師堂」と書かれた門柱のある場所があります。
これは弘法大師を御まつりしているようですのでお寺です。
ここに寺があったのでしょうか。明治になってからの廃仏毀釈で寺が壊されたのでしょうか。

ここには古くからの信仰があった跡を見ることが出来ます。庚申塔などの三猿も良く残っています。
記録としても残しておきたいものばかりです。

ここも弘法大師の関連ですので四国八十八ヶ寺のそれぞれの仏像が置かれています。
これを拝むことで四国の霊場をお参りしたと同じ功徳が得られると信じられたのでしょう。

大きなものは弘法大師像でしょうか。

こちらは不動明王??
茨城県内の手子后神社は他に4カ所あると言うので今度少しずつ紐解いていきたい。
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この神社と息栖神社、大洗磯前(いそさき)神社が古くは鹿島神宮の三摂社と言われていたとの記述もありが、現在の鹿島神宮の摂社には息栖神社をのぞいて入っていない。
大洗磯前神社の祭神は大己貴命(=大国主)と少彦名(すくなひこな)である。少彦名命 はこの大洗磯前神社と対をなす酒列磯前(さかつらいそさき)神社に祀られている神の分身である。
昔の地形を考えると大洗の方は鹿島郡で酒列の方は仲(那賀)の国造の土地であるようだ。

この手子后神社にはたくさんの境内社があるようだ。
入口の鳥居のすぐ近くに「厳島神社」がある。

それほど大きくはないが、当然安芸国(広島県)一宮である厳島神社から分霊されたものであろう。

その少し先の反対側には小山の上に社があり「浅間神社」が置かれている。江戸時代頃の富士山信仰の表れなのか。

その隣はキツネ像が置かれているので稲荷神社?、その隣が「天神さん」(菅原道真?)、「琴平宮」(海上安全?)となっています。

その隣に「大師堂」と書かれた門柱のある場所があります。
これは弘法大師を御まつりしているようですのでお寺です。
ここに寺があったのでしょうか。明治になってからの廃仏毀釈で寺が壊されたのでしょうか。

ここには古くからの信仰があった跡を見ることが出来ます。庚申塔などの三猿も良く残っています。
記録としても残しておきたいものばかりです。

ここも弘法大師の関連ですので四国八十八ヶ寺のそれぞれの仏像が置かれています。
これを拝むことで四国の霊場をお参りしたと同じ功徳が得られると信じられたのでしょう。

大きなものは弘法大師像でしょうか。

こちらは不動明王??
茨城県内の手子后神社は他に4カ所あると言うので今度少しずつ紐解いていきたい。


手子后神社(石岡)と中津川(1)
神栖市の手子后神社は常陸風土記に書かれている童子女(うない)の松原の話に出てくる松になった女性(古津松)を祀っていると言われ、これが鹿島大神(タメミカズチ)の娘ともいわれているとされています。
この話を調べて見ると私の住む石岡市にも手子后神社があることがわかりました。
この神社は国の史跡にも登録されている東日本で2番目の大きさを持つ舟塚山古墳のある台地(中津川)と同じ所に建っていました。
現在6号国道のバイパス工事が行われているすぐ近くです。

神社は3つ並んで建っていますが、YAHOOの地図などでは真ん中のの手子后神社は名前が表示されていません。
場所は中津川の高台側の先端部分です。

右側のこの神社は「素鷲(そが)神社」

この神社の横には古い石像や平たい石板がゴロゴロしています。
この辺りも舟塚山古墳群の一角なのでしょう。古墳の石棺などの一部もありそうです。

この三猿が彫られた庚申塔などもなかなか珍しいですね。クリックすると写真は拡大します。


地図には神社の名前が見えませんが真ん中の神社が「手子后神社」です。「てごさきじんじゃ」ではなく「てごめじんじゃ」というようです。
この神社の祭神は童子女の松原に出てくる男女の霊(奈美松(なみまつ)例と古津松(こつまつ)霊)です。

この辺りに松林はありませんが、舟塚山古墳も昔は古墳の上は松林だったと聞いたことがあります。
今では古墳の上は木は全て伐採してきれいな芝生になっています。

一番左側は小さな社にとたんの屋根覆いをかぶせています。
梨ノ木稲荷神社です。

入口にはキツネ像が置かれています。お稲荷さんです。梨ノ木という名前も少し変わっていますね。
昔の梨は結構堅い実がついたようですのでどのような意味合いがあるのでしょうか。




神社のある場所は石岡市中津川字上ノ宮というようです。宮とはどういう意味でしょうか。
今日はまた銚子に行ったりして遅く帰ってきました。
調べる時間もないのでそのうちに何かわかったら書きたすかもわかりません。
← よろしければクリックお願いします。
この話を調べて見ると私の住む石岡市にも手子后神社があることがわかりました。
この神社は国の史跡にも登録されている東日本で2番目の大きさを持つ舟塚山古墳のある台地(中津川)と同じ所に建っていました。
現在6号国道のバイパス工事が行われているすぐ近くです。

神社は3つ並んで建っていますが、YAHOOの地図などでは真ん中のの手子后神社は名前が表示されていません。
場所は中津川の高台側の先端部分です。

右側のこの神社は「素鷲(そが)神社」

この神社の横には古い石像や平たい石板がゴロゴロしています。
この辺りも舟塚山古墳群の一角なのでしょう。古墳の石棺などの一部もありそうです。

この三猿が彫られた庚申塔などもなかなか珍しいですね。クリックすると写真は拡大します。


地図には神社の名前が見えませんが真ん中の神社が「手子后神社」です。「てごさきじんじゃ」ではなく「てごめじんじゃ」というようです。
この神社の祭神は童子女の松原に出てくる男女の霊(奈美松(なみまつ)例と古津松(こつまつ)霊)です。

この辺りに松林はありませんが、舟塚山古墳も昔は古墳の上は松林だったと聞いたことがあります。
今では古墳の上は木は全て伐採してきれいな芝生になっています。

一番左側は小さな社にとたんの屋根覆いをかぶせています。
梨ノ木稲荷神社です。

入口にはキツネ像が置かれています。お稲荷さんです。梨ノ木という名前も少し変わっていますね。
昔の梨は結構堅い実がついたようですのでどのような意味合いがあるのでしょうか。




神社のある場所は石岡市中津川字上ノ宮というようです。宮とはどういう意味でしょうか。
今日はまた銚子に行ったりして遅く帰ってきました。
調べる時間もないのでそのうちに何かわかったら書きたすかもわかりません。


手子后神社(石岡)と中津川(2)
石岡市の中津川は高浜と石岡市内のちょうど中間部分に当たる。
古代の地形を考えると流れ海(現霞ヶ浦)を通って常陸国府(現石岡)に来ようとした時に舟でこのあたりに上陸したのかもしれない。
しかし、舟塚山古墳、愛宕山古墳などは結構高台にあり、この流れ海にの水面まで崖が続いているような地形である。
いままでこの崖下の道は車で何度も通ったが、この中津川の上の台地を散策した事が無かった。

思っていたよりも住宅が広がっている落ち着いた場所で、大きな家が多い。

庭に植えられたボケの花が美しいのでおもわず写真におさめさせてもらった。
もっとも野に咲く木瓜はもっと小さく地を這うように咲く。
子供の頃に過ごした武蔵野の林などではたくさん咲いていた。

白モクレンの花も品があって美しい。
でも少しすると花はだらしない姿となって地に落ちる。

高台から少し下った道沿いに中津川公民館がある。

この公民館に瓦屋根を持つ小屋風の建物が3つならんでいた。
一番左が「子安神社」真ん中は「???観音堂」、一番右は「花蔵院」と書かれていた。
これらは、この辺りにあったものをここに集約したのだろう。

今この近くを6号国道のバイパスが通ろうとしている。
通りにぶつかる家はほとんど壊されている。何処に移ったのだろうか?

うっそうとした谷部分に道路建設の開発が進む。
この地区は確かに古墳地帯で何処まで調査が終わっているのだろうか。
上の通り沿いには古代官道の跡が見つかり道路に架かる部分は発掘調査が実施された。
ただこれらの家の土台の下などは何も調査された跡はない。
神栖市の手子后(てごさき)神社とこちらの神社との関連はわからないが、茨城県に残された手子后神社はどうも古墳時代の民俗的な何かのつながりがありそうに思う。
この舟塚山古墳はだれの墓なのか? 茨城国造?
今後、時間を見てあと3か所を廻って見なければならないだろう。
← よろしければクリックお願いします。
古代の地形を考えると流れ海(現霞ヶ浦)を通って常陸国府(現石岡)に来ようとした時に舟でこのあたりに上陸したのかもしれない。
しかし、舟塚山古墳、愛宕山古墳などは結構高台にあり、この流れ海にの水面まで崖が続いているような地形である。
いままでこの崖下の道は車で何度も通ったが、この中津川の上の台地を散策した事が無かった。

思っていたよりも住宅が広がっている落ち着いた場所で、大きな家が多い。

庭に植えられたボケの花が美しいのでおもわず写真におさめさせてもらった。
もっとも野に咲く木瓜はもっと小さく地を這うように咲く。
子供の頃に過ごした武蔵野の林などではたくさん咲いていた。

白モクレンの花も品があって美しい。
でも少しすると花はだらしない姿となって地に落ちる。

高台から少し下った道沿いに中津川公民館がある。

この公民館に瓦屋根を持つ小屋風の建物が3つならんでいた。
一番左が「子安神社」真ん中は「???観音堂」、一番右は「花蔵院」と書かれていた。
これらは、この辺りにあったものをここに集約したのだろう。

今この近くを6号国道のバイパスが通ろうとしている。
通りにぶつかる家はほとんど壊されている。何処に移ったのだろうか?

うっそうとした谷部分に道路建設の開発が進む。
この地区は確かに古墳地帯で何処まで調査が終わっているのだろうか。
上の通り沿いには古代官道の跡が見つかり道路に架かる部分は発掘調査が実施された。
ただこれらの家の土台の下などは何も調査された跡はない。
神栖市の手子后(てごさき)神社とこちらの神社との関連はわからないが、茨城県に残された手子后神社はどうも古墳時代の民俗的な何かのつながりがありそうに思う。
この舟塚山古墳はだれの墓なのか? 茨城国造?
今後、時間を見てあと3か所を廻って見なければならないだろう。


手子后神社-(水戸市元石川町)
神栖市の童子女(なうい)松原との関連がある手子后(てごさき)神社の紹介から、その他の茨城県にある手子后神社を探し、つながりを見たいと思っていました。
そして石岡市中津川の手子后(てごめ)神社を前回紹介しました。
さて残りの神社を探して行ってきましたのでこれから数回に分けてどんな所か紹介して行きたいと思います。
(今までの手子后神社については左のカテゴリーの一番下の「手子后神社」をクリックしてください。順番に読むことが出来ます。)
茨城県の手子后神社はわかっているだけですが次の5つです。とりあえず場所と祭神だけを記します。
1)手子后(てごさき)神社:神栖市波崎 祭神は手子比売命(てごひめのみこと)
2)手子后(てごめ)神社:石岡市中津川 祭神は奈美松霊と古津松霊(童子女松原に出てくる男女の霊)
3)手子后(てごさき)神社:水戸市元石川町 祭神は稚日孁尊(わかひるめのみこと)
4)手子后(てごさき)神社:水戸市田島町(内原) 祭神は手名椎命(宿魂石)
5)手子后(てごさき)神社:城里町(旧桂村)上圷 祭神の埴安姫命(はにやすひめのみこと)
では今回は3番目の水戸市元石川町の神社を紹介します。
6号国道の50号線との酒門交差点を東(大洗方面)に行くと水戸南ICにでる。
ここまでは片側2車線の広い道だが、そこを過ぎて少し行くと片側1車線の道になり車の量も極端に少なくなる。
この辺りは大洗から戻る時に数回通ったことがあるがその時は特に何も感じることもなかった。

そして更に少し行ったところはもう商店街もなく住宅も少なくなり畑が広がる場所になる。
そんな中の左側の森が茂った辺りが手子后神社がある場所だが道は狭いので手前で車を止めて歩いていくことにした。

家が点在し、両側が畑の中の道を進む。

畑の向こうの機が茂っているところに神社の入口が見える。

この場所まで車で入ることもできたようで、この神社正面を少し行ったところに駐車場もあった。
この手子后(てごさき)神社は思ったより大きな神社であった。

祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)だという。
ここの神社は神栖市波崎(旧鹿島郡東下村羽崎)の手子后神社から分霊されたものといわれている。
でも祭神の稚日女尊は神戸の生田神社の祭神である。
日本書紀では高天原で機織りをしていた稚日女尊のところにスサノオが馬の皮を剥いだものを投げ入れたので、驚いて機から転げ落ち傷ついて死んでしまった。
古事記では女性のある部分を傷つけたとあるが・・・・。
若く瑞々しい日の女神ということなのだが、生田神社では天照大神の幼名を稚日女としているそうだ(wikipediaより)

拝殿も立派な造りである。

この狛犬も特徴のある興味深い姿です。吽型

阿型。

拝殿前から入口鳥居の方を振り返って見たところ。
木々が茂っていることがわかります。

拝殿の手前右側に立派な蔵?が置かれていました。宝物館だそうです。

この宝物館の中にはこの神社の残されていた古文書(350年ほど前からの文書で801点もある)が保管されているようです。
かなり貴重なもののようで、火災などで焼けずに残っているのも珍しいのでしょう。

この本殿もかなり古いもののように見えます。調べて見ても良く分かりません。
この神社も神仏分離で円照寺という神宮寺があったそうです。元禄時代に阿弥陀寺と改称していたが、火災で焼失してしまい再建されずに六反田町の六蔵寺(六地蔵寺)に吸収されたと言うことです。
この神社の森の周りは窪地となっていて昔は水が入り込んでいたような地形です。
また神社の裏手には湧き水の出ていた場所もあるようで、後三年の役の八幡太郎一行がここに戦勝祈願してこの水で喉を潤したという話も残っているようです。
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そして石岡市中津川の手子后(てごめ)神社を前回紹介しました。
さて残りの神社を探して行ってきましたのでこれから数回に分けてどんな所か紹介して行きたいと思います。
(今までの手子后神社については左のカテゴリーの一番下の「手子后神社」をクリックしてください。順番に読むことが出来ます。)
茨城県の手子后神社はわかっているだけですが次の5つです。とりあえず場所と祭神だけを記します。
1)手子后(てごさき)神社:神栖市波崎 祭神は手子比売命(てごひめのみこと)
2)手子后(てごめ)神社:石岡市中津川 祭神は奈美松霊と古津松霊(童子女松原に出てくる男女の霊)
3)手子后(てごさき)神社:水戸市元石川町 祭神は稚日孁尊(わかひるめのみこと)
4)手子后(てごさき)神社:水戸市田島町(内原) 祭神は手名椎命(宿魂石)
5)手子后(てごさき)神社:城里町(旧桂村)上圷 祭神の埴安姫命(はにやすひめのみこと)
では今回は3番目の水戸市元石川町の神社を紹介します。
6号国道の50号線との酒門交差点を東(大洗方面)に行くと水戸南ICにでる。
ここまでは片側2車線の広い道だが、そこを過ぎて少し行くと片側1車線の道になり車の量も極端に少なくなる。
この辺りは大洗から戻る時に数回通ったことがあるがその時は特に何も感じることもなかった。

そして更に少し行ったところはもう商店街もなく住宅も少なくなり畑が広がる場所になる。
そんな中の左側の森が茂った辺りが手子后神社がある場所だが道は狭いので手前で車を止めて歩いていくことにした。

家が点在し、両側が畑の中の道を進む。

畑の向こうの機が茂っているところに神社の入口が見える。

この場所まで車で入ることもできたようで、この神社正面を少し行ったところに駐車場もあった。
この手子后(てごさき)神社は思ったより大きな神社であった。

祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)だという。
ここの神社は神栖市波崎(旧鹿島郡東下村羽崎)の手子后神社から分霊されたものといわれている。
でも祭神の稚日女尊は神戸の生田神社の祭神である。
日本書紀では高天原で機織りをしていた稚日女尊のところにスサノオが馬の皮を剥いだものを投げ入れたので、驚いて機から転げ落ち傷ついて死んでしまった。
古事記では女性のある部分を傷つけたとあるが・・・・。
若く瑞々しい日の女神ということなのだが、生田神社では天照大神の幼名を稚日女としているそうだ(wikipediaより)

拝殿も立派な造りである。

この狛犬も特徴のある興味深い姿です。吽型

阿型。

拝殿前から入口鳥居の方を振り返って見たところ。
木々が茂っていることがわかります。

拝殿の手前右側に立派な蔵?が置かれていました。宝物館だそうです。

この宝物館の中にはこの神社の残されていた古文書(350年ほど前からの文書で801点もある)が保管されているようです。
かなり貴重なもののようで、火災などで焼けずに残っているのも珍しいのでしょう。

この本殿もかなり古いもののように見えます。調べて見ても良く分かりません。
この神社も神仏分離で円照寺という神宮寺があったそうです。元禄時代に阿弥陀寺と改称していたが、火災で焼失してしまい再建されずに六反田町の六蔵寺(六地蔵寺)に吸収されたと言うことです。
この神社の森の周りは窪地となっていて昔は水が入り込んでいたような地形です。
また神社の裏手には湧き水の出ていた場所もあるようで、後三年の役の八幡太郎一行がここに戦勝祈願してこの水で喉を潤したという話も残っているようです。


手子后神社-水戸市田島町
桜もほぼ散って、また寒さもぶり返して、体調も思わしくないのでこの土日は何処にも出かけず家の中に籠っていました。
ノンビリしたおかげで大分気分も戻ってきました。
童子女(うない)の松原からこの手子后(てごさき)神社を調べるうちに、この神社が何を祀っている神社なのかがわからなくなってきました。
もう少し全部を見て行ってから時間があれば考えて見たいと思います。
ただ5つの神社が私が何度も通い、今まで気になっていた土地に集中しているのです。
もしかしたら思い違いなのかもしれませんが・・・。
では今日は4番目の水戸市内原駅からあまり遠くない田島町にある手子后(てごさき)神社です。
この田島町はすぐ近くに大足(おおだら)とか牛伏(うしぶし)、木葉下(あぼっけ)などの気になる地名が集中する地域です。
また常陸国風土記で晡時臥山(くれふしやま)といわれる山とされる「朝房山」に近い場所です。
50号国道の内原のイオンモールの所の信号を北に入っていきます。
少し進むとすぐ左側に有賀神社(紹介記事はこちら)があり、その先を西に少し入ったところに先日紹介した「かたくりの里」(こちら)があります。
また、東側には舟塚古墳(こちら)があります。
その道を茨城県の難読地名にかならず出てくる木葉下(あぼっけ)方面に少し行くと左手に「くれふし古墳公園」(こちら)があり、たくさんの古墳群があります。
その古墳公園に曲がる道を反対方向の東側に曲がってそのまま平地の道を進んで少し登り坂になった辺りの右側にこの手子后神社がありました。
周りは畑や住宅が点在するまったくの平地で、何故このような場所にこの古いと思われる神社があるのか。少し不思議な感じがします。

まわりは畑の中の森という感じです。

入口に大正4年11月に建立された「奉祝御即位記念碑」と彫られた大きな石板が置かれています。

この神社については良く分からないが、祭神は手名椎命(てなづちのみこと)
この神はヤマタノオロシ退治でてくる足名椎命(あしなづちのみこと)とこの手名椎命夫婦の娘がクシナダヒメだ。

この場所も周りは古墳群であり、神社の近くにみな古墳があるのも興味深い場所です。

また、この神社は宿魂石を祀っているともいわるという。宿魂石については大甕神社(こちら1、こちら2)でかなり書いたのでこちらでは省略しよう。
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ノンビリしたおかげで大分気分も戻ってきました。
童子女(うない)の松原からこの手子后(てごさき)神社を調べるうちに、この神社が何を祀っている神社なのかがわからなくなってきました。
もう少し全部を見て行ってから時間があれば考えて見たいと思います。
ただ5つの神社が私が何度も通い、今まで気になっていた土地に集中しているのです。
もしかしたら思い違いなのかもしれませんが・・・。
では今日は4番目の水戸市内原駅からあまり遠くない田島町にある手子后(てごさき)神社です。
この田島町はすぐ近くに大足(おおだら)とか牛伏(うしぶし)、木葉下(あぼっけ)などの気になる地名が集中する地域です。
また常陸国風土記で晡時臥山(くれふしやま)といわれる山とされる「朝房山」に近い場所です。
50号国道の内原のイオンモールの所の信号を北に入っていきます。
少し進むとすぐ左側に有賀神社(紹介記事はこちら)があり、その先を西に少し入ったところに先日紹介した「かたくりの里」(こちら)があります。
また、東側には舟塚古墳(こちら)があります。
その道を茨城県の難読地名にかならず出てくる木葉下(あぼっけ)方面に少し行くと左手に「くれふし古墳公園」(こちら)があり、たくさんの古墳群があります。
その古墳公園に曲がる道を反対方向の東側に曲がってそのまま平地の道を進んで少し登り坂になった辺りの右側にこの手子后神社がありました。
周りは畑や住宅が点在するまったくの平地で、何故このような場所にこの古いと思われる神社があるのか。少し不思議な感じがします。

まわりは畑の中の森という感じです。

入口に大正4年11月に建立された「奉祝御即位記念碑」と彫られた大きな石板が置かれています。

この神社については良く分からないが、祭神は手名椎命(てなづちのみこと)
この神はヤマタノオロシ退治でてくる足名椎命(あしなづちのみこと)とこの手名椎命夫婦の娘がクシナダヒメだ。

この場所も周りは古墳群であり、神社の近くにみな古墳があるのも興味深い場所です。

また、この神社は宿魂石を祀っているともいわるという。宿魂石については大甕神社(こちら1、こちら2)でかなり書いたのでこちらでは省略しよう。


手子后神社-城里町上圷
今日は茨城県に5か所ある手子后(てごさき)神社の5番目として城里町上圷の神社を紹介します。
ここは旧桂村の粟地区に近いところで前から何度も訪れている場所です。
今年1月には春慶塗りの粟野春慶を紹介した(こちら)場所の近くです。
石岡からは石塚街道を終点の石塚(城里町)に行くとここは中世の石塚城があった場所で、街道はこの高台から一気に落ちるような感じで下の平地に下ります。
この下りた場所が「圷(あくつ)」です。
圷は字のごとく山の下の方の地名であり塙(はなわ)の対義語といわれるが、どうもこれは少し違う気がする。
茨城には「圷(あくつ)」という地名と「小塙(こばな)」という地名がたくさんある。
小塙は少し山のように盛り上がった場所が多く、圷は低地だが湿地帯(または川べり)が多いようだ。
必ずしも2つの語は対になっていない。
アクツはおそらくアイヌ語由来ではないかと思う。
関東から北にアクツ、アクト、アクタなどと読む地名が点在している。
私はアテルイのことを悪路王というのとどこかでつながっているように感じている。
この場所の近くに悪路王の首を奉納したと言われる鹿島神社(記事はこちら)があるのです。

この上圷の手子后(てごさき)神社は、この街道から少し那珂川寄りの場所にある。
曲がり角には地図(MAPFAN)には下圷館跡と書かれた場所がある。
鳥居の脇には「村社手子后神社」と書かれている。

鳥居から木々に覆われた長い参道が伸びている。

正面に拝殿と社務所らしき建物がある。

こちらは左手にあった建物。社務所なのか? それとも神楽殿のような役割をしたものなのか?

正面が拝殿。右側は祭りの収納庫?

神社の額の横に干支の午をかざっています。
この神社がどのような神様を祭るかが良く分からないのではないかと思われます。

本殿。出雲系でしょうか。
この神社は創建は大同二年(807)だとされます。これは多くの神社が同じ年代です。
坂上田村麻呂の蝦夷征伐で戦勝祈願をしたとの言い伝えが残されているそうです。
この手子后神社は昔は「手子木崎神社」と言っていたそうです。
祭神は埴安姫命(はにやすひめのみこと)だといいます。
この神社を調べていたら面白い事が書かれていました。
埴安姫命が土をつかさどる神であるので土を焼く瓦はこの地区では使わなかったそうです。(セメント瓦を使う)
またこの地区には松の木を植えないと言う言い伝えがあるのだとか。
理由は埴安姫命が松の葉で眼を突き怪我したために松の木を切ったと言われたのだとか・・・。
でもこれは神栖市の手子后神社が松(古津松)になった安是の嬢子の話がどこかでこんな話に置き換わってしまったものかもしれません。

旧桂村のマンホールのフタ。村の鳥(うぐいす)、村の木(かつら)、村の花(かんな)が描かれています。
市町村合併で今は城里町ですからそのうちに変わってしまうのでしょうか。
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ここは旧桂村の粟地区に近いところで前から何度も訪れている場所です。
今年1月には春慶塗りの粟野春慶を紹介した(こちら)場所の近くです。
石岡からは石塚街道を終点の石塚(城里町)に行くとここは中世の石塚城があった場所で、街道はこの高台から一気に落ちるような感じで下の平地に下ります。
この下りた場所が「圷(あくつ)」です。
圷は字のごとく山の下の方の地名であり塙(はなわ)の対義語といわれるが、どうもこれは少し違う気がする。
茨城には「圷(あくつ)」という地名と「小塙(こばな)」という地名がたくさんある。
小塙は少し山のように盛り上がった場所が多く、圷は低地だが湿地帯(または川べり)が多いようだ。
必ずしも2つの語は対になっていない。
アクツはおそらくアイヌ語由来ではないかと思う。
関東から北にアクツ、アクト、アクタなどと読む地名が点在している。
私はアテルイのことを悪路王というのとどこかでつながっているように感じている。
この場所の近くに悪路王の首を奉納したと言われる鹿島神社(記事はこちら)があるのです。

この上圷の手子后(てごさき)神社は、この街道から少し那珂川寄りの場所にある。
曲がり角には地図(MAPFAN)には下圷館跡と書かれた場所がある。
鳥居の脇には「村社手子后神社」と書かれている。

鳥居から木々に覆われた長い参道が伸びている。

正面に拝殿と社務所らしき建物がある。

こちらは左手にあった建物。社務所なのか? それとも神楽殿のような役割をしたものなのか?

正面が拝殿。右側は祭りの収納庫?

神社の額の横に干支の午をかざっています。
この神社がどのような神様を祭るかが良く分からないのではないかと思われます。

本殿。出雲系でしょうか。
この神社は創建は大同二年(807)だとされます。これは多くの神社が同じ年代です。
坂上田村麻呂の蝦夷征伐で戦勝祈願をしたとの言い伝えが残されているそうです。
この手子后神社は昔は「手子木崎神社」と言っていたそうです。
祭神は埴安姫命(はにやすひめのみこと)だといいます。
この神社を調べていたら面白い事が書かれていました。
埴安姫命が土をつかさどる神であるので土を焼く瓦はこの地区では使わなかったそうです。(セメント瓦を使う)
またこの地区には松の木を植えないと言う言い伝えがあるのだとか。
理由は埴安姫命が松の葉で眼を突き怪我したために松の木を切ったと言われたのだとか・・・。
でもこれは神栖市の手子后神社が松(古津松)になった安是の嬢子の話がどこかでこんな話に置き換わってしまったものかもしれません。

旧桂村のマンホールのフタ。村の鳥(うぐいす)、村の木(かつら)、村の花(かんな)が描かれています。
市町村合併で今は城里町ですからそのうちに変わってしまうのでしょうか。


手子后神社と古墳(1)
さて、手子后(てごさき)神社を5つ見てきましたが、やはり何を祭った神社なのかははっきりしません。
でもすべては「后」の字に現われているように誰かの「お后」を祀ったもの、又は後にそのように思われて理解されてきたものなのかもしれません。
香島(鹿島)郡の成立にからむと思われる童子女の松原にある手子后神社からその他の4か所の手子后神社を見て回り不思議な共通点が見えてきました。
それはすべてまわりに古墳群がある場所に建てられています。
関連するかどうかはわかりませんが少しづつ紹介します。
まずは石岡市中津川台地の手子后(てごめ)神社です。

(FloodMapsで水面を+5mとした地図)
石岡は昔は常陸府中(常府)と呼ばれ常陸国が成立した頃から国府の地であり、国衙跡も石岡小学校の敷地で発掘されています。
そのため常陸国風土記が編纂された1300年前頃は国分寺、国分尼寺などと共に行政の中心が国府跡(石岡小学校)にあったようです。
しかし常陸国が出来る前に茨城国があり、この地に茨城国造がとりまとめていました。
常陸国が成立したのは大化の改新(645年)の直後と言われていてこの頃は常陸国に11郡が置かれ、この地は茨城郡となります。
この茨城郡の中心は石岡外城(とじょう)跡といわれる岡田神社の場所と茨城廃寺跡が集中する貝地、田島の舌状台地にあったものと思われます。
その台地を高浜方面に1.5km程行ったところに茨城県最大で東関東で2番目の大きさの前方後円墳「舟塚山古墳」があり、その近くに大小合わせて25個程の古墳群が点在しています。
この古墳の築造年代は5世紀後半と考えられていますので大化の改新よりも150年以上前になります。
また国分寺よりも古い寺といわれる茨城廃寺(茨木寺)の建造は7世紀後半ですから舟塚山古墳から200年近くも後になります。
この舟塚山古墳は茨城国造である「筑紫刀禰(つくしとね)」の墓ではないかといわれている。
この筑紫刀禰は天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫と言われ、天津彦根は出雲国風土記では出雲の屋代(現島根県安来市)にヤシロを建てたとされる神であるから出雲系の部族であろう。
日本全国に神社が建てられ広まったのはいつごろなのか?
坂上田村麻呂の東征でアテルイが都に連れて来られ処刑されたのは西暦802年で、この年から大同年間(806~810年)に創建された神社は数知れない程ある。
それまでどのような信仰のスタイルであったのかなどがあまりよく分からないが、やはり小さな社などを建てていたのかもしれない。
この手子后神社もその頃にこの古墳に眠る豪族の后の墳墓として古墳近くに置かれたものなのかもしれない。
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でもすべては「后」の字に現われているように誰かの「お后」を祀ったもの、又は後にそのように思われて理解されてきたものなのかもしれません。
香島(鹿島)郡の成立にからむと思われる童子女の松原にある手子后神社からその他の4か所の手子后神社を見て回り不思議な共通点が見えてきました。
それはすべてまわりに古墳群がある場所に建てられています。
関連するかどうかはわかりませんが少しづつ紹介します。
まずは石岡市中津川台地の手子后(てごめ)神社です。

(FloodMapsで水面を+5mとした地図)
石岡は昔は常陸府中(常府)と呼ばれ常陸国が成立した頃から国府の地であり、国衙跡も石岡小学校の敷地で発掘されています。
そのため常陸国風土記が編纂された1300年前頃は国分寺、国分尼寺などと共に行政の中心が国府跡(石岡小学校)にあったようです。
しかし常陸国が出来る前に茨城国があり、この地に茨城国造がとりまとめていました。
常陸国が成立したのは大化の改新(645年)の直後と言われていてこの頃は常陸国に11郡が置かれ、この地は茨城郡となります。
この茨城郡の中心は石岡外城(とじょう)跡といわれる岡田神社の場所と茨城廃寺跡が集中する貝地、田島の舌状台地にあったものと思われます。
その台地を高浜方面に1.5km程行ったところに茨城県最大で東関東で2番目の大きさの前方後円墳「舟塚山古墳」があり、その近くに大小合わせて25個程の古墳群が点在しています。
この古墳の築造年代は5世紀後半と考えられていますので大化の改新よりも150年以上前になります。
また国分寺よりも古い寺といわれる茨城廃寺(茨木寺)の建造は7世紀後半ですから舟塚山古墳から200年近くも後になります。
この舟塚山古墳は茨城国造である「筑紫刀禰(つくしとね)」の墓ではないかといわれている。
この筑紫刀禰は天津彦根命(あまつひこねのみこと)の孫と言われ、天津彦根は出雲国風土記では出雲の屋代(現島根県安来市)にヤシロを建てたとされる神であるから出雲系の部族であろう。
日本全国に神社が建てられ広まったのはいつごろなのか?
坂上田村麻呂の東征でアテルイが都に連れて来られ処刑されたのは西暦802年で、この年から大同年間(806~810年)に創建された神社は数知れない程ある。
それまでどのような信仰のスタイルであったのかなどがあまりよく分からないが、やはり小さな社などを建てていたのかもしれない。
この手子后神社もその頃にこの古墳に眠る豪族の后の墳墓として古墳近くに置かれたものなのかもしれない。


手子后神社と古墳(2)
石岡市中津川の手子后(てごめ)神社は東日本で2番目に大きな舟塚山古墳の近くであった。
そのため、次に向かった水戸市元石川町の手子后(てごさき)神社の周辺を調べて見た。
すると近くに国の史跡に登録されている「吉田古墳」があった。またこちらは元吉田町である。
吉田古墳はそれほど大きくはないが武具を主体とした壁画がある学術的に貴重な古墳で6世紀後半のものと考えられている。
これは舟塚山古墳より100年ほど後の時代のものとなる。
周囲はもう市街地であるので、この辺りにもたくさんの古墳群があったのかもしれないが宅地化されてしまったものか・・・。
さて、このエリアには有名な吉田神社という古い神社がある。常陸国三宮である。
創建はわかっていないが神社のHPによれば5世紀後半に創建されてのではないかということのようだ。
これは舟塚山古墳の築造期とほぼ同じ頃になる。
この吉田地域には5世紀にすでに豪族がいたのであろう。
さて、何かここは石岡の旧国府と深いつながりがあるような・・・。
石岡で戦国末期まで長い間続いてきた平氏の統領である大掾氏は確か水戸の「吉田氏」である。また馬場氏ともいう。
これは関東平氏の統領である常陸大掾(だいじょう)氏の歴史を紐解かねばならない。
これは話が長くなりそうなので適当に割愛しましょう。
桓武天皇の曽孫である高望王が平氏の名前をもらって民間に下って上総介となって関東にやってきたのが889年。
その長男国香が常陸大掾の源護と手を組んで石田に居を構える。(この系列から平清盛などの伊勢の平氏も起こる)
甥の将門と戦った国香は敗れて死んでしまう。その後その長男貞盛が将門を打ち破り鎮守府将軍・陸奥守などにも任じられ常陸国の大掾職を世襲で行うことになる。
貞盛の養子維幹が大掾氏を世襲しつくば市北条の多気山に城を築いて多気大掾となる。(990年頃)
後三年の役の後、維幹の三代後の多気大掾である致幹(むねもと)の時代にその弟清幹が水戸に進出して吉田氏を名乗る。
この清幹の娘と新羅三郎義光の長男義業との間に生まれた子供昌義が佐竹氏の始まりである。
こう考えると源氏も平家もないのである。
この吉田氏が後に馬場(現水戸一校グランド)に進出し水戸城を築き常陸国の大掾を継いで行くのである。
考えて見ればこの吉田氏(馬場氏)が石岡に城を最初に築いた場所は今の岡田神社のある辺り(貝地、田島地区)であるが、これは鎌倉時代になってすぐのことでである。

(FloodMaps で海面の高さを+5mとしています)
涸沼と那珂川の河口が一緒になり大きな汽水湖が現われます。
常陸風土記に書かれた「阿多可奈湖」です。
元石川町の手子后神社の周りも湿地帯のようになっており、神社の裏手に飲料となる湧き水があったのでこの場所にいた民族の居住地もあったのでしょう。
水戸市の元吉田町と元石川町という名前が気になりますね。
これは水戸市に「吉田町」と「石川町」が別にあるので、吉田氏、石川氏が昔いた場所をそれぞれ元吉田町と元石川町と名前をつけたのではないかと思います。
将門の討伐に「吉田氏」「石川氏」などという名前も出てくるようですので、先に書いた多気大掾の兄弟が進出するよりも前にすでにこの地には同じ名前の豪族が住んでいたように思います。
もう少しじっくり年代を整理してこれらの関係を見ていかなければ理解できそうにありません。
那珂(仲)国造の支配の土地であったはずで、1500年ほど前に建借間命(たけかしまのみこと)がこの地を制し那珂川を上って行ったのです。
この手子后神社はもしかしたら建借間命のお后または娘(神栖の手子后神社は鹿島神宮の大神の娘という説もあるので)を祀ったと言うことも考えられれそうな気がします。
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そのため、次に向かった水戸市元石川町の手子后(てごさき)神社の周辺を調べて見た。
すると近くに国の史跡に登録されている「吉田古墳」があった。またこちらは元吉田町である。
吉田古墳はそれほど大きくはないが武具を主体とした壁画がある学術的に貴重な古墳で6世紀後半のものと考えられている。
これは舟塚山古墳より100年ほど後の時代のものとなる。
周囲はもう市街地であるので、この辺りにもたくさんの古墳群があったのかもしれないが宅地化されてしまったものか・・・。
さて、このエリアには有名な吉田神社という古い神社がある。常陸国三宮である。
創建はわかっていないが神社のHPによれば5世紀後半に創建されてのではないかということのようだ。
これは舟塚山古墳の築造期とほぼ同じ頃になる。
この吉田地域には5世紀にすでに豪族がいたのであろう。
さて、何かここは石岡の旧国府と深いつながりがあるような・・・。
石岡で戦国末期まで長い間続いてきた平氏の統領である大掾氏は確か水戸の「吉田氏」である。また馬場氏ともいう。
これは関東平氏の統領である常陸大掾(だいじょう)氏の歴史を紐解かねばならない。
これは話が長くなりそうなので適当に割愛しましょう。
桓武天皇の曽孫である高望王が平氏の名前をもらって民間に下って上総介となって関東にやってきたのが889年。
その長男国香が常陸大掾の源護と手を組んで石田に居を構える。(この系列から平清盛などの伊勢の平氏も起こる)
甥の将門と戦った国香は敗れて死んでしまう。その後その長男貞盛が将門を打ち破り鎮守府将軍・陸奥守などにも任じられ常陸国の大掾職を世襲で行うことになる。
貞盛の養子維幹が大掾氏を世襲しつくば市北条の多気山に城を築いて多気大掾となる。(990年頃)
後三年の役の後、維幹の三代後の多気大掾である致幹(むねもと)の時代にその弟清幹が水戸に進出して吉田氏を名乗る。
この清幹の娘と新羅三郎義光の長男義業との間に生まれた子供昌義が佐竹氏の始まりである。
こう考えると源氏も平家もないのである。
この吉田氏が後に馬場(現水戸一校グランド)に進出し水戸城を築き常陸国の大掾を継いで行くのである。
考えて見ればこの吉田氏(馬場氏)が石岡に城を最初に築いた場所は今の岡田神社のある辺り(貝地、田島地区)であるが、これは鎌倉時代になってすぐのことでである。

(FloodMaps で海面の高さを+5mとしています)
涸沼と那珂川の河口が一緒になり大きな汽水湖が現われます。
常陸風土記に書かれた「阿多可奈湖」です。
元石川町の手子后神社の周りも湿地帯のようになっており、神社の裏手に飲料となる湧き水があったのでこの場所にいた民族の居住地もあったのでしょう。
水戸市の元吉田町と元石川町という名前が気になりますね。
これは水戸市に「吉田町」と「石川町」が別にあるので、吉田氏、石川氏が昔いた場所をそれぞれ元吉田町と元石川町と名前をつけたのではないかと思います。
将門の討伐に「吉田氏」「石川氏」などという名前も出てくるようですので、先に書いた多気大掾の兄弟が進出するよりも前にすでにこの地には同じ名前の豪族が住んでいたように思います。
もう少しじっくり年代を整理してこれらの関係を見ていかなければ理解できそうにありません。
那珂(仲)国造の支配の土地であったはずで、1500年ほど前に建借間命(たけかしまのみこと)がこの地を制し那珂川を上って行ったのです。
この手子后神社はもしかしたら建借間命のお后または娘(神栖の手子后神社は鹿島神宮の大神の娘という説もあるので)を祀ったと言うことも考えられれそうな気がします。


手子后神社と古墳(3)
手子后神社と古墳の関係のを調べながら書いています。3か所目は水戸市田島町(内原駅の近く)の手子后(てごさき)神社です。
ここはまさに常陸国風土記にでてくるクレフシ山(朝房山がその山とみなされている)の麓にあります。
そして水戸市の古墳公園がありたくさんの古墳が集中しています。
こちらの古墳公園は前に書いたとおり(こちら)16基の古墳が集中しています。
古墳の築造年ははっきりせず、4世紀頃から6世紀末頃まで200年間くらいにまたがっているようです。
また正式な呼び名は牛伏古墳群と呼ばれているそうです。

もう一つ近くに舟塚古墳(こちら)もあります。
こちらは6世紀のものと考えられています。
さて、ではこの辺りはどんな人たちが住んでいたのでしょうか?
大足(おおだら)、木葉下(あぼっけ)、牛伏(うしぶし)などの興味深い地名は何を指しているのでしょうか?
前も書きましたが、朝鮮南部の人たちが移り住んでいた場所ではないかとの思いを強くする場所です。
製鉄技術を持ち、焼き物の技術をもった人たちがいたのではないかと・・・・。
世界大百科事典の【三輪山伝説】よりの抜粋記事を他のサイト(こちら)から転載します。
…この子が三輪氏の祖の意富多多泥古(おおたたねこ)(大田田根子)であり,三輪山の神大物主神を斎(いつ)き祭ったという。
この説話は《日本書紀》では箸墓(はしはか)伝説(倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命)として記され,男の正体は三輪山の蛇とされるが,夜な夜な通う男の正体や生まれた子の父が問題となる伝承は,《常陸国風土記》の晡時臥(くれふし)山伝説や《山城国風土記》逸文に記す賀茂伝説など広く分布するものである。
多くの氏族は祖神との関係を系譜的に物語る伝承を多少なりとももっていたはずで,それには父なる神が処女のもとに寄り来て聖なる子が誕生するという型が一般的であった。…
また常陸国風土記の伝説は、那珂郡のところに
○くれふし山の蛇
茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。
ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。
そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。
こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。
わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。
ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。
見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」(口訳・常陸国風土記より)
しかし、この物語は私のいる石岡の片岡地区にもそっくりな話として伝わっています。
このくれふし山は龍神山(昔は村上山)です。
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ここはまさに常陸国風土記にでてくるクレフシ山(朝房山がその山とみなされている)の麓にあります。
そして水戸市の古墳公園がありたくさんの古墳が集中しています。
こちらの古墳公園は前に書いたとおり(こちら)16基の古墳が集中しています。
古墳の築造年ははっきりせず、4世紀頃から6世紀末頃まで200年間くらいにまたがっているようです。
また正式な呼び名は牛伏古墳群と呼ばれているそうです。

もう一つ近くに舟塚古墳(こちら)もあります。
こちらは6世紀のものと考えられています。
さて、ではこの辺りはどんな人たちが住んでいたのでしょうか?
大足(おおだら)、木葉下(あぼっけ)、牛伏(うしぶし)などの興味深い地名は何を指しているのでしょうか?
前も書きましたが、朝鮮南部の人たちが移り住んでいた場所ではないかとの思いを強くする場所です。
製鉄技術を持ち、焼き物の技術をもった人たちがいたのではないかと・・・・。
世界大百科事典の【三輪山伝説】よりの抜粋記事を他のサイト(こちら)から転載します。
…この子が三輪氏の祖の意富多多泥古(おおたたねこ)(大田田根子)であり,三輪山の神大物主神を斎(いつ)き祭ったという。
この説話は《日本書紀》では箸墓(はしはか)伝説(倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命)として記され,男の正体は三輪山の蛇とされるが,夜な夜な通う男の正体や生まれた子の父が問題となる伝承は,《常陸国風土記》の晡時臥(くれふし)山伝説や《山城国風土記》逸文に記す賀茂伝説など広く分布するものである。
多くの氏族は祖神との関係を系譜的に物語る伝承を多少なりとももっていたはずで,それには父なる神が処女のもとに寄り来て聖なる子が誕生するという型が一般的であった。…
また常陸国風土記の伝説は、那珂郡のところに
○くれふし山の蛇
茨城の里は、北に高い丘があり、くれふしの山といふ。
この里に、昔、ヌカヒコ・ヌカヒメといふ兄妹がゐた。ある夜、ヌカヒメが寝床にゐると、名も知らぬ男がゐて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。
ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになってゐた。
そこで、もっと大きな平瓮に移しかへたが、次の夜には更に大きくなってゐた。
こんなことを何度も繰り返してゐるうちに、家にあるどの器も合はなくなってしまった。
ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見てゐると神の子なのだといふことがよくわかります。
わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいふと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭ひながら「おっしゃるとほりですので、お言葉にしたがひます。けれど一人で旅をするのはかなはぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。
ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかゐません。
見ればわかるでせう。あいにく誰も一緒には行けません。」といふと、蛇の子はうらめしさうに口をつぐんだ。
別れのときになって、蛇の子は怒りを押さへきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。
蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」(口訳・常陸国風土記より)
しかし、この物語は私のいる石岡の片岡地区にもそっくりな話として伝わっています。
このくれふし山は龍神山(昔は村上山)です。


十二所神社(水戸市牛伏)
昨日紹介した水戸市田島町の手子后神社を地図で調べていたら「くれふし古墳公園」に隣接して「十二所神社」がありました。
十二所神社というのも各地にあり、あまり良く分からない古い神社が多いようだ。
有名なところでは
・十二所神社(姫路)・・・少彦名を祀る。医学の神様として病気平癒などに功徳ありとされる。
・十二所(じゅうにそ)神社・・・熊野十二所権現とされていたが明治の神仏分離によって「十二所神社」と改称した。
・十二所神社(茨城県大子町)・・・地域の守護神の祭神十七神をお祀り。最近は階段にひな人形を飾ることが有名。
・十二所神社(武蔵村山市)・・・天神七代、地神五代を祀る。
・十二所神社(埼玉県川口市)・・・熊野三山の十二柱の神を祀る。
など多くが1300年ほど前から続く神社とされており、山の神を祀っているものと思われる。
熊野権現というと多くの地で山の神としての信仰が厚く、至るところにある。
この十二所神社も同じなのか??

この水戸市牛伏にある十二所神社は牛伏古墳群の中にあり、くれふし古墳公園の古墳とは同じ地続きであるが、神社があるので間にフェンスを設けているだけのように見える。
入口は少し狭いので一旦近くまで行ったが、そのまま車で近くまではいるのは断念し、上の広い場所に停めてから歩いていった。

この神社の創建が何時なのかは調べたがわからない。
神社の裏が古墳であり、古墳の上に社を最初は建てたのではないかと思う。

熊野三山の神を祀ると言うには周りはそれ程そびえた山もない。
古墳などでは一般的によくあるのは愛宕神社で、これは火防の神であるので、この神社はそれよりももっと前(奈良・平安時代)からここに存在していたのではないかと思う。


小山の上に祠が置かれていたがこれはまさに古墳そのものだ。
十二所神社古墳というらしい。
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十二所神社というのも各地にあり、あまり良く分からない古い神社が多いようだ。
有名なところでは
・十二所神社(姫路)・・・少彦名を祀る。医学の神様として病気平癒などに功徳ありとされる。
・十二所(じゅうにそ)神社・・・熊野十二所権現とされていたが明治の神仏分離によって「十二所神社」と改称した。
・十二所神社(茨城県大子町)・・・地域の守護神の祭神十七神をお祀り。最近は階段にひな人形を飾ることが有名。
・十二所神社(武蔵村山市)・・・天神七代、地神五代を祀る。
・十二所神社(埼玉県川口市)・・・熊野三山の十二柱の神を祀る。
など多くが1300年ほど前から続く神社とされており、山の神を祀っているものと思われる。
熊野権現というと多くの地で山の神としての信仰が厚く、至るところにある。
この十二所神社も同じなのか??

この水戸市牛伏にある十二所神社は牛伏古墳群の中にあり、くれふし古墳公園の古墳とは同じ地続きであるが、神社があるので間にフェンスを設けているだけのように見える。
入口は少し狭いので一旦近くまで行ったが、そのまま車で近くまではいるのは断念し、上の広い場所に停めてから歩いていった。

この神社の創建が何時なのかは調べたがわからない。
神社の裏が古墳であり、古墳の上に社を最初は建てたのではないかと思う。

熊野三山の神を祀ると言うには周りはそれ程そびえた山もない。
古墳などでは一般的によくあるのは愛宕神社で、これは火防の神であるので、この神社はそれよりももっと前(奈良・平安時代)からここに存在していたのではないかと思う。


小山の上に祠が置かれていたがこれはまさに古墳そのものだ。
十二所神社古墳というらしい。


手子后神社と古墳(4)
石岡から北へ真直ぐ進むと前回紹介したくれふし古墳公園の近くを通り木葉下(あぼっけ)を通って城里町の石塚に至ります。(石塚街道)
城里町石塚は高台で、ここから道路は那珂川の河川敷に降りるように圷(あくつ)へ一気に下ります。
圷地区の手子后(てごさき)神社は那珂川に寄った場所で昔は那珂川がもっと広かったのかもしれません。
特に気になるのは「粟」とか「阿波山」という地名で、ここに古墳時代に多くの人々が住んでいたようです。
阿波山上神社はご神木に少彦名が舞い降りたところと伝えられ、常陸風土記では那珂川は「粟川」と書かれていることを考えると、この粟地方に大洗磯前神社と酒列磯前神社に少彦名が祀られ、ここから那珂川をさかのぼってやってきた人びとがまずこの粟地方に拠点を構えて生活していたものと考えられます。
水戸のクレフシ山(朝房山)からもこの地に真直ぐと来ることが出来ますので両方から人が集まっていたのかもしれません。
近くの古墳ですが、地図に書いたように大きく3つの古墳群(毘沙門塚古墳郡、滝ノ上古墳群、高久崎古墳群)がありますが、これらは今ではほとんど平らになってしまいその面影がわからなくなっています。

石岡にやって来た時からこの道を何度も北に向かって車で通っています。
そしてこの道が坂上田村麻呂や八幡太郎義家などが東北に向かう時に通ったと言う伝承も残されており(もっともこれはその他多くの地に残っていますが・・・)蝦夷の人びとが東北に追いやられる時にもこの辺を通って北へ向かったのではないかとも考えることも出来そうです。
この道を北へ行くと桂大橋で那珂川を渡り、この辺りにも那珂という地名があり、那珂川の名前の発祥なのかもしれません。
そして常陸大宮市美和・高部地区に出ます。
さて、地図の圷地区の西に高久という地名がありますが、ここにアテルイの首(ミイラ)を奉納したと伝えられる鹿島神社(こちら)があるのも興味をそそります。
いずれにしてもやはりこの手子后(てごさき)神社は古墳時代の何かと関係しているように感じます。
神栖市にある手子后神社の近くの古墳と言うと、息栖神社が今の地に移される前にあったという日川地区周辺に少しあるようですが見にいったことはありません。
今度時間が取れたら寄り道して見たいと思います。
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城里町石塚は高台で、ここから道路は那珂川の河川敷に降りるように圷(あくつ)へ一気に下ります。
圷地区の手子后(てごさき)神社は那珂川に寄った場所で昔は那珂川がもっと広かったのかもしれません。
特に気になるのは「粟」とか「阿波山」という地名で、ここに古墳時代に多くの人々が住んでいたようです。
阿波山上神社はご神木に少彦名が舞い降りたところと伝えられ、常陸風土記では那珂川は「粟川」と書かれていることを考えると、この粟地方に大洗磯前神社と酒列磯前神社に少彦名が祀られ、ここから那珂川をさかのぼってやってきた人びとがまずこの粟地方に拠点を構えて生活していたものと考えられます。
水戸のクレフシ山(朝房山)からもこの地に真直ぐと来ることが出来ますので両方から人が集まっていたのかもしれません。
近くの古墳ですが、地図に書いたように大きく3つの古墳群(毘沙門塚古墳郡、滝ノ上古墳群、高久崎古墳群)がありますが、これらは今ではほとんど平らになってしまいその面影がわからなくなっています。

石岡にやって来た時からこの道を何度も北に向かって車で通っています。
そしてこの道が坂上田村麻呂や八幡太郎義家などが東北に向かう時に通ったと言う伝承も残されており(もっともこれはその他多くの地に残っていますが・・・)蝦夷の人びとが東北に追いやられる時にもこの辺を通って北へ向かったのではないかとも考えることも出来そうです。
この道を北へ行くと桂大橋で那珂川を渡り、この辺りにも那珂という地名があり、那珂川の名前の発祥なのかもしれません。
そして常陸大宮市美和・高部地区に出ます。
さて、地図の圷地区の西に高久という地名がありますが、ここにアテルイの首(ミイラ)を奉納したと伝えられる鹿島神社(こちら)があるのも興味をそそります。
いずれにしてもやはりこの手子后(てごさき)神社は古墳時代の何かと関係しているように感じます。
神栖市にある手子后神社の近くの古墳と言うと、息栖神社が今の地に移される前にあったという日川地区周辺に少しあるようですが見にいったことはありません。
今度時間が取れたら寄り道して見たいと思います。


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