みちの駅 多古

 千葉県も銚子から旭市まで進出して見て歩いていたらどうしても匝瑳市や多古町へ足をのばしたくなりました。
茨城県の古代の歴史などを紐解いていたのですが、こちらに来るとまた見えてくる景色が大分違ってきます。

これから少しずつ調べてわかることから紹介して見たいと思います。
でも少し距離が遠くなり何度も行くこともできそうにありません。

昨日は午後から銚子で仕事があり、午前中早めに家を出て香取市から匝瑳市の方に車を走らせました。

そしてまた例によって気になった寺などを見物して多古町に出ました。

この多古町は古代に興味のある方には面白いところです。
ただ調べることも多くてなかなか理解が出来ません。

どこかで昼食もゆっくりしようと思っていたのですが、まったく時間が無くなってしまいました。
どこかコンビニにでも立ち寄ろうと思っていたら「道の駅多古」がありました。

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この多古町は北が成田空港に近いのでこの道の駅の食べ物なども成田空港にも出しているようです。

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多古町は多古米がブランド化されて知られていますが、歴史的にもとても古くから栄えたところです。

古墳なども多く、5000年から1300年前くらいの丸木舟がたくさん出土していて、日本で見つかっているほとんどがこの地域に集中しているようです。

また総国の中心ともなり、この栗山川より東が下総(しもうさ)国、西が上総(かずさ)国です。
昔の匝瑳(そうさ)郡は物部小事(もののべおごと)が坂東を平定したので褒美に朝廷からこの地をもらったものです。(6世紀前半?)
多古町も恐らく昔はこの匝瑳郡でしょう。

そして物部氏は香取郡から常陸國信太郡あたりまで進出しているようです。

常陸国を中心に見ていたので蝦夷征伐にいった坂上田村麻呂がこの栗山川をさかのぼって香取海(現利根川、霞ヶ浦)を渡ったということはあまり考えてきませんでした。

そうするとこの九十九里には舟でやってきたのでしょうか。またどこを通ってきたのでしょうか。
その前に時期には蝦夷の地には日本海周りで秋田から侵入したルートなどもあったようです。

ただ、この近くに田村麻呂が通ったとする足あとが残されているのです。またこれらも調べて見たいと思います。

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この道の駅のすぐ裏に「栗山川」が流れています。遊覧船の乗り場がありました。

多古町というのも変わった名前です。
この名前の由来については調べて見るといろいろな説があります。

1)湖が多いところという意味「多湖」、
2)古くから栄えた村が多くあったという「多古」、
3)田んぼが多い(稲作が早くから始まった)という「田子」、
4)朝鮮から渡ってきた文明の進んだ部族がすみついた場所という「多胡」
5)アイヌ語でタップコップ(多武古武)=小さく盛り上がった丸い形の意味。

私としては5)のアイヌ語説が一番ですね。海の蛸頭が丸い、昔の凧も丸かったようだし、愛宕山も丸い山に付いている名前だと考えられるし、耳にタコが出来るっていうのも皮膚が丸く盛り上がった状態からペンダコなどと同じ言葉の由来と考えると納得できる。皆さんはどのように考えますか?

これって漢字でその言葉の由来の考えると古い地名はまず失敗します。

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道の駅は大きな建物が2つあり、一つはレストランや休憩施設。
もうひとつが、特産品やお弁当などを売っている売店です。

多古米もありましたがおにぎりや弁当などの種類も多くて面白かったです。
今回は時間が無かったので簡単な昼飯をかいました。

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「山菜いなりおこわ」(365円)、「厚焼きたまご焼き」(250円)合わせて615円でした。
美味しかったですよ。
卵焼きは他にもいろいろな巻き寿司などもあってあまりおいしそうなのでシンプルな安いものを一つ買ったのです。
(味付けもシンプルでした。)



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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/05 21:00

栗山川ふれあいの里

 「道の駅 多古」から栗山川をさかのぼってみるとどんな景色が見えてくるのでしょうか?

千葉県内のみを流れる川で流域面積が2番目に大きな川といいますがそれ程の河川ではありません。
ただ昔の地形を予想するとこの川は玉の浦(九十九里浜)つながる内海のようなかなり広い面積を占めていたようです。

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これはFloodMapsで海面高さを+5mした地図です。
栗山川は九十九里浜にいまは屋形あたりで注いでいますが、少し前までは海岸線に沿って内側に流れがあり、大分先の方で海に注いでいたようです。

ここが注目されるのはこの川で上総と下総が分かれると言うこと、また縄文時代の遺跡も多いのですがその後の稲作文化などが早くから開けたらしい事、平家の祖である高望王が上総介としてやって来た時にこの川の河口に近い横芝光町屋形近くに政務所を置き、またその次男の良兼(国香の弟)が上総介として住んでいたらしい事などがあげられます。

しかし、この川の名前が「栗山川」なのですが、栗(くり)は「句麗」から来た名前ではないかともいわれ、早くから朝鮮からの渡来人が多く住み稲作を始め、丸木舟の漁が盛んであった跡がみられることなどに興味がわきます。

北海道夕張郡栗山町のホームページを見ると「栗山」の名前の由来はヤムニ・ウシ(栗の木・多いところ)から来ていると載っています。
こちらの栗山川も言葉の由来が似ていることも考えられます。

川沿いに食糧となる栗の木が多い場所だったのかもしれません。
そんなことをあれこれ想像するのも楽しみの一つです。
答えはきっと一つに絞ることは出来ないでしょう。でも考えて見ることが楽しいではありませんか。

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川をさかのぼると旧「栗源(くりもと)町」に「栗山川ふれあいの里」という公園があります。
栗山川の源という意味でついた名前かもしれませんが、川はここで二股に分かれます。
この公園の中を流れるのは少し細い支流の方です。

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栗源町は人口5000人くらいの比較的小さな町でした。
明治22年の町村制施行から村から町に変わっただけで月日も分裂もしてこなかった数少ない町です。

平成の大合併で佐原市、小見川町、山田町と合併して香取市になりました。

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この公園の入口から入って広場の入口に大きなモニュメントの塔が立っています。
この塔にこの町の思いが刻み込まれていたのです。

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なかなかきれいな塔だと思い近づいてみました。

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すると、何か一つ一つのセグメントに何か書かれています。いくつあるのでしょうか。
一つ一つの小さなブロックに絵や文字が書かれています。
恐らく町民が子供たちと一緒になって陶板一つ一つに思いを書き、焼いてこのモニュメントのピースとして飾ったのでしょう。
「きっとこの町を忘れない」との思いが込められているように思いました。

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ここ栗源(くりもと)町の特産は「ベニコマチ」という赤紫色のサツマイモだそうです。
サツマイモの胴体に栗の頭をしたゆるきゃら「クリちゃん」は20年ほど前から始めているそうで、全国ゆるきゃらブームの大ベテランだそうです。

この旧栗源町の少し東側に地図には「大塚古墳」と史跡名勝のマークもついています。

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地図を頼りに行ってみましたが、何も書かれたものが置かれていません。
でもこの場所でよさそうです。 円墳です。
この古墳の上に小さな祠が置かれています。
調べて見るとまだ発掘調査はされていないようです。

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麓の「大畑公会堂」と書かれた建物がありました。この建物の裏側です。
あとから建物を建てたので古墳への登り口が隠れてしまっているようです。

縄文時代から古墳時代に平安時代などの遺物が何気なく眠っていそうなエリアでした。




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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/07 20:12

松崎神社(坂東稲荷宮)

 千葉県多古町に松崎神社という古社がある。
栗山川の上流で由緒のありそうな神社を探していたらこの神社を見つけた。

昔は成田山と肩を並べるくらい信仰があったともいわれていると言う話もありどんな所かを見にいった。

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県道16号線から南玉造の信号を東に127号線を進むと常盤から東松崎に入り案内板にしたがって右折すると神社が現われた。

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神社前の通り。

思っていたより少し小さかったが裏手は古墳で如何にも古そうだ。

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入口近くにある杉のご神木。

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拝殿横にみごとなイチョウの樹があり、「逆さ広孫樹」との説明看板があります。空海が広孫樹(イチョウ)の樹を逆さにしてさしたものだと伝えられるもの。
椎の木がイチョウの木の途中から大木となって一緒に成長しています。

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「坂東稲荷宮」の扁額がかかっています。
社伝によると宝亀3年(772年)の創建といわれ、祭神は倉稲魂命、邇邇芸命(ニギニギノミコト)、大宮比売命であり五穀豊穣および歌舞音曲の神様とされる。

この神社を有名にしている?のは坂上田村麻呂が蝦夷征伐に行く時にこの神社に参拝して、鏡一面・征矢を献じ木鼓一箇を奉納をしたとされることだ。(坂上田村麻呂は797年に征夷大将軍に任じられています)
鏡と征矢はその後兵火によって失われたが、木鼓は現在社宝として保存されている。

坂上田村麻呂が参拝したとかいわれる神社は数限りなく存在し、そのほとんどが権威づけのために後から付けられた話とも考えられるのだが、その中でも一部が焼失したとはいえ木製の太鼓が残されているのは大変貴重だと思う。

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平忠常の乱(1028年-1030年)で社殿が焼失し、建久2年(1191年)に再興された。
時のこの地の権力者であった北条氏や里見氏などの武将の尊敬が篤く、徳川家康も朱印地30石を寄進した。

現在の本殿は万治元年(1658年)、中殿および拝殿は宝暦6年(1756年)の改築。

明治2年(1869年)「松崎神社」と改号し、明治6年(1873年)郷社に列した。(Wikipediaより)

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神社の裏手の山は「北条塚古墳」と呼ばれる長さ70mの比較的大きな前方後円墳です。
古墳時代後期(6~7世紀)の築造とされ、古墳の周囲からは形象埴輪の靱(ゆき。矢を入れて背負う器)と思われる破片が出土しています。

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木鼓は長さ約3尺(90センチ)、径約1尺5寸(45センチ)で、鼓皮は木皮(桜)を用い、使用のくぎは樹脂である。既に腐朽して原形をとどめるのみであるが、一見して奇古、珍重すべきものである

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木鼓の保管庫

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匝瑳・多古周辺 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/11 20:29

道標と常盤村道路元標

 記事を書こうと記事の数をみたら丁度1600件でした。始めてから1400日ほど経ちました。
ああ天気も悪いし、疲れもたまっているし、明日はまた銚子に出かける用事もあるし、月曜夜は東京神田で学生の時の友達との飲み会。

また7月には別な仲間との飲み会(東京駅)の誘いもある。
ブログを書くにも、酒を飲むとほとんど書けなくなるので家では飲まない。

でもやはり根は好きなのでたまにはいい事にしよう。そして時々書くのをお休みすればいい。

ここ2週間くらいブログのアクセス件数が2倍くらいになった。500件を超える日もでてきた。
これは東日本大震災以来のことだ。何かあるのだろうか?

もう少しまだ続けて行きますので、お付き合いお願いします。アクセスが増えるとやはりうれしいですね。


さて、今日は昨日の松崎神社近くで見つけたものです。
県道16号線から127号を松崎神社へ進むと、神社の1kmくらい手前の十字路に旧村の道路元標と道しるべの追分が置かれていた。

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右に曲がると松崎神社(約1km)に行く。

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常盤村道路元標

常盤村:1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、川島村・松崎村・坂村・方田村・南玉造村が合併し、香取郡常磐村が発足。1954年(昭和29年)3月31日 - 中村・久賀村とともに多古町に合併

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大正14年3月建立 道標 (地理に明るくないので読めそうな所だけ書いておきます。)

南 栗源 板倉
西 栗源 久賀
北 山倉 八都 小見川 道
東  古城
南 栗源 板倉

途中にあった「星宮大神」神社の写真を載せておきます。
星宮なのに入口に「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」が祀られていた。

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天照皇大神は女性神だそうで、伊勢神宮に祀られている神だそうです。
伊勢神宮でも天照大神とほとんど混同されているようです。

それにしても星の宮がこの神を祀るというのは・・・・・・ まあ良く分からない。



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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/12 19:51

飯高壇林跡(1)

 この飯高寺(はんこうじ)(飯高壇林(いいだかだんりん)跡)は千葉県のブログ読者の方から勧めていただいたところです。

ここを訪れたのは6月の初めですからもう1カ月近く経ってしまいました。
少し他の記事が入ってしまい、まとめる時間がとれなくてついつい遅くなってしまいました。

麓の入口には「日本最古の大学」との大きな看板が出ています。

私がここを訪れ、そしてその近くの寺も廻って見てまず感じるのは日蓮宗のお寺が非常に多い事です。
当然千葉氏にまつわる妙見(みょうけん)神社・寺などもたくさんあり、茨城とは明らかに違います。

この飯高壇林も日蓮宗の修行者の学問所でした。
そしてそれが現在の「立正大学」に発展しました。

立正大学の設立は1924年(大正13年)ですが、その基になったのがこの飯高壇林で1580年(天正8年)だったのです。

この寺の広い敷地は緑が非常に多く、静かで落ち着いた雰囲気に満ちていました。
素晴らしいところです。お近くに行かれましたら立寄られたらいいと思います。
私に勧めて下さった読書の方にも感謝します。

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飯高寺は山道を少し登ったところにありますが、麓に大きな駐車場がありそこから歩いて登りました。
案内板にしたがって登り、寺の敷地に沿って回り込むと飯高寺の大きな山門が緑の木々の間に現われました。

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総門です。延宝8年(1680)に建立され、現在の門は天明2年(1782)に建て変えられたものです。

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飯高壇林の説明は上の看板を読んでください。
ただ歴史的にはこの壇林が作られて発展するのにも色々な歴史もあったようです。
「おまんの方」などの庇護もあり関東八大壇林として発展してきたようです。
もう少し周りを見ながら歴史的なものは考えて見たいと思います。

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少し進むと右手に「空堀跡」という立て札がありました。

この寺は1573年に匝瑳市飯塚の光福寺に学問所を要行院日統が開き、土地の有力者平山刑部が自分の城の近く「妙福寺」に学問所を移し、翌年にこの城の敷地内に(現在の地)に学問所を移したとあります。

この妙福寺は大きな下の駐車場近くにありましたのでまた後で紹介します。

やはりここには山城があったので当時の堀が残されているのでしょう。

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「廟所」という立て札がありますが、木々の茂静かな林で、特にお墓などは目につきませんでしたが、奥に入っていけばあるのかもしれません。

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一切経蔵(いっさいきょうぞう)。お経などをしまっておく蔵。

寛文12年(1672)に建てられ、天明2年(1782年)建て変えられた。古びたまま残っている。

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立正大学発祥の碑

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この後すばらしい講堂に目を奪われました。記事は明日に続きます。



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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/02 21:20

飯高壇林跡(2)

 日本最古の大学と書かれている千葉県匝瑳市にある飯高壇林跡。
今日は昨日の続きです。

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題目堂。学問の昇級(新談義)試験に合格するように祈願したとされる場所。
18世紀頃の建築


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鼓楼。学徒の招集をかける時に打ち鳴らした。
享保5年(1720年)建立。

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講堂。国の重要文化財。
火災にあい、慶安4年(1651年)再建。

この方丈式の大講堂は実に立派です。これほど大きく存在感のある建物はめったにない。

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講堂の入口にはスリッパも置かれていますので廊下には上る事が出来ます。
丁度見学者が2人来られていましたが、ここに座ると実に心地の良良い風が吹く気抜けます。
目の前の緑の木樹や鐘楼・鼓楼などを眺めながらゆっくりとした時を過ごしてみたい。
そんな思いでしたが時間も限られていましたのでしばし休憩してここを後にしました。

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鐘楼。国指定重要文化財。
慶安4年(1651)頃建立?、寛文年間(1661年~1672)再建
鐘は寛永16年(1639)寄進されたもので江戸神田の鋳物師山田和泉掾吉貞の銘がある。

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この飯高壇林には最盛期で600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出したと言われています。

この講堂に数百人も集まっていたのでしょうか。

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とても気持ちの良い時を過ごすことが出来ました。また今度機会があれば期待と思います。

続いて下の妙福寺などを見に行きましたので飯高壇林の関連としてまとめます。

明日へ続く。

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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/04 19:10

飯高壇林跡(3)-妙福寺

 立派な飯高壇林をみて、その歴史を調べて行くと少し気になるものがあった。

天正元年(1573)要行院日統(ようぎょういんにっとう)が光福寺(匝瑳市飯塚)に学室を開いた。
天正8年(1580)平山常時が寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
天正8年(1580)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生(きょうぞういんにっしょう)を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
天正8年(1580)法輪寺・日尊は妙福寺の壇林を法輪寺に移す。
天正19年(1591)法輪寺を飯高寺と改称する。(家康から朱印30石を与えられる)
慶長元年(1596)飯高寺・日尊が飯高檀林を開檀する。
(Wikipedia等による)

どうも良く分からない。もう少し見て行こう。

教蔵院日生は元々は京都の天台宗の僧侶であったが東国から日蓮宗がもたらされ、日蓮宗に改宗した?
そして、京都洛北の松ヶ崎地区に日蓮宗派のため松ヶ崎檀林本涌寺を日生が1574年に設立した。
この松ヶ崎地区には歓喜寺という寺があったが、鎌倉時代末に日像が京都布教をおこないこの地区に広がった。
そしてその歓喜寺住職であった実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺とした。
(現在は妙泉寺と本涌寺が一体となって「涌泉寺」となっている)

飯高壇林の前身としても学問所は1573年に要行院日統が始めた。
教蔵院日生が洛北の松ヶ崎壇林を始めたのは1574年。ほぼ同一時期。

京はやはり学問の中心地であり、そこから教蔵院日生を千葉に迎えて光福寺の学問所を妙福寺に移し、飯高壇林が始まった。

そして同じ年に現在の平山氏の広大な場所に移された。まだよく分からないがまた少しずつ紐解けばよいだろう。

わずかな期間だがこの寺に学問所が置かれたのだろう。
最初にあったという光福寺というのはここより2~3km程東の飯塚地区です。

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飯高寺(はんこうじ)は山の中腹にあるが、この(妙見山)妙福寺は麓の低い場所にあるが、裏手はスタジイなどの木々で覆われている場所です。

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妙福寺は延慶3年(1310)に進藤太縦空が守護神として妙見尊を祀り建立したものです。

いまは日蓮宗です。

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この寺もかなりの古刹で水戸光圀が訪れ、梅の木をお手植えになったが、その梅の木が枯れ水戸偕楽園から梅の木が贈られた。
境内に文和5年銘(1356年)の板碑が残っている。

正面のお堂が「妙見堂」です。

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お堂の扁額は何と書いてあるのか?「北辰?」北極星? でしょうか。妙見堂とは書かれていない。

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寺の手前は田が広がり、写真の右側の森はこの妙福寺の山門があるところで、その先の山の方に飯高寺(飯高壇林跡)があります。

この妙福寺の裏手の山(写真の反対側)の上に飯高神社があります。明日はそちらを紹介します。

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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/05 18:41

飯高壇林跡(4)-飯高神社(1/2)

 飯高(いいだか)壇林跡、飯高寺(はんこうじ)とその麓に佇む妙福寺とみてきました。
そして千葉県に広がる妙見(みょうけん)信仰がここにも強く表れていました。

その妙福寺の裏手の山の上に「飯高神社」があるというので行ってみました。

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長い苔むした階段を登ります。

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かなり登ります。

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山の上に神社の拝殿が見えました。建物は倒壊防止の支え棒が置かれています。

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妙見の文字が・・・ この神社は下の妙福寺と密接な関係がありそうです。
神仏分離で建てられたものかもしれません。

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手水石に妙見宮寶前と彫られています。

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この拝殿は江戸時代後期の建物らしいと書かれています。
それよりは、この奥にある本殿が変っています。
こちらの本殿は見に行く価値が十分あります。

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この神社全域で、NHKテレビ小説「ゲゲゲの女房」のロケ地になったそうです。

本殿については明日書きます。
ブログを2カ所に分けてしまったら結構大変です。

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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/06 21:19

飯高壇林跡(5)-飯高神社(2/2)

 飯高神社の拝殿から本殿の方に回って見ました。そこには驚く光景が・・・。

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拝殿裏の本殿には一般には外からは入れなくなっているのですが、こちらは脇から立派な彫刻を施した唐門がありました。

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反対側にも門があります。片側しか開けていませんでしたが両側から本殿に参拝できます。

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そして変わった狛犬が。

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本殿にはたくさんの彫り物が描かれ、前面のかべもとても特徴のある模様が描かれています。

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この本殿が造られたのは江戸中期の18世紀半ば。

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本殿の周りもまた周りに囲まれた玉垣も多くの彫刻が施されています。
日本一多くの仙人に会える神社だと言うのです。

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この彫刻類は一見の価値があります。

こんなところにこんな素晴らしい彫刻があったのかと目を見張ってしまいました。

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これらの彫刻の内容はわからなかったのですが、中国の親孝行である「二十四考」が描かれているようです。

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でも二十四考(にじゅうしこう)を調べて見ると手本にすべき24人の孝行の話は今から見るとおかしなものがたくさんあります。


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「二十四孝」の仙人を彫刻してあるのは千葉では成田山新勝寺とここ飯高神社のみだそうです。

前に悪路王の面があると書いた城里町の鹿島神社の彫刻を思い出しました。

やはり二十四考が徳として伝えられた頃にこのような彫刻を施す神社が出来たのでしょう。
少し調べて見たい気もします。

(少しばかばかしい一部の話をのせます)

・呉猛(ごもう)(8歳):家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなった。

・王祥(おうしょう):実母が冬の極寒の際に魚が食べたいと言うので河に行った。しかし、河は氷に覆われていた。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。

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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/07 20:44

日本寺(中村壇林跡)-1/2

 千葉県匝瑳市の国の史跡に指定されている飯高寺(飯高壇林跡)を見物した後に、近くにもう一つ大きな壇林(僧侶が修業・学習する場所)があると知り、飯高壇林の見学後に立寄りました。

もう1カ月以上前になりますが、記事がまとまりませんので記憶が薄れてしまいますのでとりあえずUPしておきます。

場所は多古町ですが飯高壇林跡から西に3kmほど行ったところです。
ここはここには飯高壇林と同じ日蓮宗の「中村壇林」があったと言います。日蓮宗の三大壇林(飯高(飯高寺)・中村(日本寺)・小西(正法寺))に一つ。

こんなすぐ近くに日蓮宗の大きな壇林が2つあったことになります。

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入口の山門。江戸初期のもので町の有形文化財。

門の中央上に掲げられた「東東山」と書かれた大きな扁額は下の説明にあるように「本阿弥光悦」の筆だそうだ。
江戸初期の寛永の三筆と言われた書の大家である。
日本三額の一つにであると説明にはよく書かれているが、残りの2つがどこかは書かれたものが無い?

門の右に派「本山 日本寺」とある。本山は日蓮宗の由緒寺院だとのこと。

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この日本寺は元中村壇林と言われた。

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山門をくぐると遠く正面に本殿が見える。
この参道の左手奥には紫陽花の花壇があり日本各地の紫陽花が植えられている。
この花壇は比較的新しいようだ。これから数年すれば紫陽花の名所になるかもしれない。

でも8000株で、種類が50種類もあると言う。

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歴史的なものは明日にでも少し調べて書きたしたいと思いますが、1599年に設けられた中村壇林は明治8年まで続き、最盛期には36の学坊があり、数百人の学僧が勉学・修行に励んでいたそうです。

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 鐘楼。「四恩の鐘」と命名されていました。

明日に続きます。





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匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/15 20:34
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