fc2ブログ

みちの駅 多古

 千葉県も銚子から旭市まで進出して見て歩いていたらどうしても匝瑳市や多古町へ足をのばしたくなりました。
茨城県の古代の歴史などを紐解いていたのですが、こちらに来るとまた見えてくる景色が大分違ってきます。

これから少しずつ調べてわかることから紹介して見たいと思います。
でも少し距離が遠くなり何度も行くこともできそうにありません。

昨日は午後から銚子で仕事があり、午前中早めに家を出て香取市から匝瑳市の方に車を走らせました。

そしてまた例によって気になった寺などを見物して多古町に出ました。

この多古町は古代に興味のある方には面白いところです。
ただ調べることも多くてなかなか理解が出来ません。

どこかで昼食もゆっくりしようと思っていたのですが、まったく時間が無くなってしまいました。
どこかコンビニにでも立ち寄ろうと思っていたら「道の駅多古」がありました。

IMG_1979s.jpg

この多古町は北が成田空港に近いのでこの道の駅の食べ物なども成田空港にも出しているようです。

IMG_1980s_201406050626139b3.jpg

多古町は多古米がブランド化されて知られていますが、歴史的にもとても古くから栄えたところです。

古墳なども多く、5000年から1300年前くらいの丸木舟がたくさん出土していて、日本で見つかっているほとんどがこの地域に集中しているようです。

また総国の中心ともなり、この栗山川より東が下総(しもうさ)国、西が上総(かずさ)国です。
昔の匝瑳(そうさ)郡は物部小事(もののべおごと)が坂東を平定したので褒美に朝廷からこの地をもらったものです。(6世紀前半?)
多古町も恐らく昔はこの匝瑳郡でしょう。

そして物部氏は香取郡から常陸國信太郡あたりまで進出しているようです。

常陸国を中心に見ていたので蝦夷征伐にいった坂上田村麻呂がこの栗山川をさかのぼって香取海(現利根川、霞ヶ浦)を渡ったということはあまり考えてきませんでした。

そうするとこの九十九里には舟でやってきたのでしょうか。またどこを通ってきたのでしょうか。
その前に時期には蝦夷の地には日本海周りで秋田から侵入したルートなどもあったようです。

ただ、この近くに田村麻呂が通ったとする足あとが残されているのです。またこれらも調べて見たいと思います。

IMG_1982s.jpg

この道の駅のすぐ裏に「栗山川」が流れています。遊覧船の乗り場がありました。

多古町というのも変わった名前です。
この名前の由来については調べて見るといろいろな説があります。

1)湖が多いところという意味「多湖」、
2)古くから栄えた村が多くあったという「多古」、
3)田んぼが多い(稲作が早くから始まった)という「田子」、
4)朝鮮から渡ってきた文明の進んだ部族がすみついた場所という「多胡」
5)アイヌ語でタップコップ(多武古武)=小さく盛り上がった丸い形の意味。

私としては5)のアイヌ語説が一番ですね。海の蛸頭が丸い、昔の凧も丸かったようだし、愛宕山も丸い山に付いている名前だと考えられるし、耳にタコが出来るっていうのも皮膚が丸く盛り上がった状態からペンダコなどと同じ言葉の由来と考えると納得できる。皆さんはどのように考えますか?

これって漢字でその言葉の由来の考えると古い地名はまず失敗します。

IMG_1983s.jpg

IMG_1984s_20140605062611e0b.jpg

道の駅は大きな建物が2つあり、一つはレストランや休憩施設。
もうひとつが、特産品やお弁当などを売っている売店です。

多古米もありましたがおにぎりや弁当などの種類も多くて面白かったです。
今回は時間が無かったので簡単な昼飯をかいました。

IMG_1986s.jpg

「山菜いなりおこわ」(365円)、「厚焼きたまご焼き」(250円)合わせて615円でした。
美味しかったですよ。
卵焼きは他にもいろいろな巻き寿司などもあってあまりおいしそうなのでシンプルな安いものを一つ買ったのです。
(味付けもシンプルでした。)



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/05 21:00

栗山川ふれあいの里

 「道の駅 多古」から栗山川をさかのぼってみるとどんな景色が見えてくるのでしょうか?

千葉県内のみを流れる川で流域面積が2番目に大きな川といいますがそれ程の河川ではありません。
ただ昔の地形を予想するとこの川は玉の浦(九十九里浜)つながる内海のようなかなり広い面積を占めていたようです。

kuriyama2.jpg

これはFloodMapsで海面高さを+5mした地図です。
栗山川は九十九里浜にいまは屋形あたりで注いでいますが、少し前までは海岸線に沿って内側に流れがあり、大分先の方で海に注いでいたようです。

ここが注目されるのはこの川で上総と下総が分かれると言うこと、また縄文時代の遺跡も多いのですがその後の稲作文化などが早くから開けたらしい事、平家の祖である高望王が上総介としてやって来た時にこの川の河口に近い横芝光町屋形近くに政務所を置き、またその次男の良兼(国香の弟)が上総介として住んでいたらしい事などがあげられます。

しかし、この川の名前が「栗山川」なのですが、栗(くり)は「句麗」から来た名前ではないかともいわれ、早くから朝鮮からの渡来人が多く住み稲作を始め、丸木舟の漁が盛んであった跡がみられることなどに興味がわきます。

北海道夕張郡栗山町のホームページを見ると「栗山」の名前の由来はヤムニ・ウシ(栗の木・多いところ)から来ていると載っています。
こちらの栗山川も言葉の由来が似ていることも考えられます。

川沿いに食糧となる栗の木が多い場所だったのかもしれません。
そんなことをあれこれ想像するのも楽しみの一つです。
答えはきっと一つに絞ることは出来ないでしょう。でも考えて見ることが楽しいではありませんか。

IMG_1803s.jpg

川をさかのぼると旧「栗源(くりもと)町」に「栗山川ふれあいの里」という公園があります。
栗山川の源という意味でついた名前かもしれませんが、川はここで二股に分かれます。
この公園の中を流れるのは少し細い支流の方です。

IMG_1802s.jpg

栗源町は人口5000人くらいの比較的小さな町でした。
明治22年の町村制施行から村から町に変わっただけで月日も分裂もしてこなかった数少ない町です。

平成の大合併で佐原市、小見川町、山田町と合併して香取市になりました。

IMG_1806s.jpg

この公園の入口から入って広場の入口に大きなモニュメントの塔が立っています。
この塔にこの町の思いが刻み込まれていたのです。

IMG_1807s.jpg

なかなかきれいな塔だと思い近づいてみました。

IMG_1809s.jpg

すると、何か一つ一つのセグメントに何か書かれています。いくつあるのでしょうか。
一つ一つの小さなブロックに絵や文字が書かれています。
恐らく町民が子供たちと一緒になって陶板一つ一つに思いを書き、焼いてこのモニュメントのピースとして飾ったのでしょう。
「きっとこの町を忘れない」との思いが込められているように思いました。

IMG_1808s.jpg

ここ栗源(くりもと)町の特産は「ベニコマチ」という赤紫色のサツマイモだそうです。
サツマイモの胴体に栗の頭をしたゆるきゃら「クリちゃん」は20年ほど前から始めているそうで、全国ゆるきゃらブームの大ベテランだそうです。

この旧栗源町の少し東側に地図には「大塚古墳」と史跡名勝のマークもついています。

IMG_1797s.jpg

地図を頼りに行ってみましたが、何も書かれたものが置かれていません。
でもこの場所でよさそうです。 円墳です。
この古墳の上に小さな祠が置かれています。
調べて見るとまだ発掘調査はされていないようです。

IMG_1800s.jpg

麓の「大畑公会堂」と書かれた建物がありました。この建物の裏側です。
あとから建物を建てたので古墳への登り口が隠れてしまっているようです。

縄文時代から古墳時代に平安時代などの遺物が何気なく眠っていそうなエリアでした。




にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/07 20:12

松崎神社(坂東稲荷宮)

 千葉県多古町に松崎神社という古社がある。
栗山川の上流で由緒のありそうな神社を探していたらこの神社を見つけた。

昔は成田山と肩を並べるくらい信仰があったともいわれていると言う話もありどんな所かを見にいった。

IMG_1810s.jpg

県道16号線から南玉造の信号を東に127号線を進むと常盤から東松崎に入り案内板にしたがって右折すると神社が現われた。

IMG_1811s.jpg

神社前の通り。

思っていたより少し小さかったが裏手は古墳で如何にも古そうだ。

IMG_1812s.jpg

IMG_1813s.jpg

入口近くにある杉のご神木。

IMG_1815s.jpg

拝殿横にみごとなイチョウの樹があり、「逆さ広孫樹」との説明看板があります。空海が広孫樹(イチョウ)の樹を逆さにしてさしたものだと伝えられるもの。
椎の木がイチョウの木の途中から大木となって一緒に成長しています。

IMG_1816s.jpg

IMG_1818s.jpg

「坂東稲荷宮」の扁額がかかっています。
社伝によると宝亀3年(772年)の創建といわれ、祭神は倉稲魂命、邇邇芸命(ニギニギノミコト)、大宮比売命であり五穀豊穣および歌舞音曲の神様とされる。

この神社を有名にしている?のは坂上田村麻呂が蝦夷征伐に行く時にこの神社に参拝して、鏡一面・征矢を献じ木鼓一箇を奉納をしたとされることだ。(坂上田村麻呂は797年に征夷大将軍に任じられています)
鏡と征矢はその後兵火によって失われたが、木鼓は現在社宝として保存されている。

坂上田村麻呂が参拝したとかいわれる神社は数限りなく存在し、そのほとんどが権威づけのために後から付けられた話とも考えられるのだが、その中でも一部が焼失したとはいえ木製の太鼓が残されているのは大変貴重だと思う。

IMG_1819s.jpg

平忠常の乱(1028年-1030年)で社殿が焼失し、建久2年(1191年)に再興された。
時のこの地の権力者であった北条氏や里見氏などの武将の尊敬が篤く、徳川家康も朱印地30石を寄進した。

現在の本殿は万治元年(1658年)、中殿および拝殿は宝暦6年(1756年)の改築。

明治2年(1869年)「松崎神社」と改号し、明治6年(1873年)郷社に列した。(Wikipediaより)

IMG_1822s.jpg

IMG_1820s.jpg

神社の裏手の山は「北条塚古墳」と呼ばれる長さ70mの比較的大きな前方後円墳です。
古墳時代後期(6~7世紀)の築造とされ、古墳の周囲からは形象埴輪の靱(ゆき。矢を入れて背負う器)と思われる破片が出土しています。

IMG_1821s.jpg




IMG_1814s.jpg



IMG_1827s.jpg

IMG_1829s.jpg

木鼓は長さ約3尺(90センチ)、径約1尺5寸(45センチ)で、鼓皮は木皮(桜)を用い、使用のくぎは樹脂である。既に腐朽して原形をとどめるのみであるが、一見して奇古、珍重すべきものである

IMG_1830s.jpg

木鼓の保管庫

IMG_1831s.jpg



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/06/11 20:29

道標と常盤村道路元標

 記事を書こうと記事の数をみたら丁度1600件でした。始めてから1400日ほど経ちました。
ああ天気も悪いし、疲れもたまっているし、明日はまた銚子に出かける用事もあるし、月曜夜は東京神田で学生の時の友達との飲み会。

また7月には別な仲間との飲み会(東京駅)の誘いもある。
ブログを書くにも、酒を飲むとほとんど書けなくなるので家では飲まない。

でもやはり根は好きなのでたまにはいい事にしよう。そして時々書くのをお休みすればいい。

ここ2週間くらいブログのアクセス件数が2倍くらいになった。500件を超える日もでてきた。
これは東日本大震災以来のことだ。何かあるのだろうか?

もう少しまだ続けて行きますので、お付き合いお願いします。アクセスが増えるとやはりうれしいですね。


さて、今日は昨日の松崎神社近くで見つけたものです。
県道16号線から127号を松崎神社へ進むと、神社の1kmくらい手前の十字路に旧村の道路元標と道しるべの追分が置かれていた。

IMG_1834s.jpg

右に曲がると松崎神社(約1km)に行く。

IMG_1835s.jpg

常盤村道路元標

常盤村:1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、川島村・松崎村・坂村・方田村・南玉造村が合併し、香取郡常磐村が発足。1954年(昭和29年)3月31日 - 中村・久賀村とともに多古町に合併

IMG_1836s.jpg


IMG_1836s2.jpg IMG_1837s2.jpg

IMG_1838s2.jpg IMG_1839s.jpg

大正14年3月建立 道標 (地理に明るくないので読めそうな所だけ書いておきます。)

南 栗源 板倉
西 栗源 久賀
北 山倉 八都 小見川 道
東  古城
南 栗源 板倉

途中にあった「星宮大神」神社の写真を載せておきます。
星宮なのに入口に「天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」が祀られていた。

IMG_1841s.jpg

天照皇大神は女性神だそうで、伊勢神宮に祀られている神だそうです。
伊勢神宮でも天照大神とほとんど混同されているようです。

それにしても星の宮がこの神を祀るというのは・・・・・・ まあ良く分からない。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/06/12 19:51

飯高壇林跡(1)

 この飯高寺(はんこうじ)(飯高壇林(いいだかだんりん)跡)は千葉県のブログ読者の方から勧めていただいたところです。

ここを訪れたのは6月の初めですからもう1カ月近く経ってしまいました。
少し他の記事が入ってしまい、まとめる時間がとれなくてついつい遅くなってしまいました。

麓の入口には「日本最古の大学」との大きな看板が出ています。

私がここを訪れ、そしてその近くの寺も廻って見てまず感じるのは日蓮宗のお寺が非常に多い事です。
当然千葉氏にまつわる妙見(みょうけん)神社・寺などもたくさんあり、茨城とは明らかに違います。

この飯高壇林も日蓮宗の修行者の学問所でした。
そしてそれが現在の「立正大学」に発展しました。

立正大学の設立は1924年(大正13年)ですが、その基になったのがこの飯高壇林で1580年(天正8年)だったのです。

この寺の広い敷地は緑が非常に多く、静かで落ち着いた雰囲気に満ちていました。
素晴らしいところです。お近くに行かれましたら立寄られたらいいと思います。
私に勧めて下さった読書の方にも感謝します。

IMG_1881s.jpg

飯高寺は山道を少し登ったところにありますが、麓に大きな駐車場がありそこから歩いて登りました。
案内板にしたがって登り、寺の敷地に沿って回り込むと飯高寺の大きな山門が緑の木々の間に現われました。

IMG_1882s.jpg

総門です。延宝8年(1680)に建立され、現在の門は天明2年(1782)に建て変えられたものです。

IMG_1883s.jpg

飯高壇林の説明は上の看板を読んでください。
ただ歴史的にはこの壇林が作られて発展するのにも色々な歴史もあったようです。
「おまんの方」などの庇護もあり関東八大壇林として発展してきたようです。
もう少し周りを見ながら歴史的なものは考えて見たいと思います。

IMG_1887s.jpg

少し進むと右手に「空堀跡」という立て札がありました。

この寺は1573年に匝瑳市飯塚の光福寺に学問所を要行院日統が開き、土地の有力者平山刑部が自分の城の近く「妙福寺」に学問所を移し、翌年にこの城の敷地内に(現在の地)に学問所を移したとあります。

この妙福寺は大きな下の駐車場近くにありましたのでまた後で紹介します。

やはりここには山城があったので当時の堀が残されているのでしょう。

IMG_1888s.jpg

「廟所」という立て札がありますが、木々の茂静かな林で、特にお墓などは目につきませんでしたが、奥に入っていけばあるのかもしれません。

IMG_1890s.jpg

IMG_1891s.jpg

一切経蔵(いっさいきょうぞう)。お経などをしまっておく蔵。

寛文12年(1672)に建てられ、天明2年(1782年)建て変えられた。古びたまま残っている。

IMG_1894s.jpg

立正大学発祥の碑

IMG_1895s.jpg

この後すばらしい講堂に目を奪われました。記事は明日に続きます。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/02 21:20

飯高壇林跡(2)

 日本最古の大学と書かれている千葉県匝瑳市にある飯高壇林跡。
今日は昨日の続きです。

IMG_1897s.jpg

題目堂。学問の昇級(新談義)試験に合格するように祈願したとされる場所。
18世紀頃の建築


IMG_1899s.jpg

IMG_1901s.jpg

鼓楼。学徒の招集をかける時に打ち鳴らした。
享保5年(1720年)建立。

IMG_1902s.jpg

講堂。国の重要文化財。
火災にあい、慶安4年(1651年)再建。

この方丈式の大講堂は実に立派です。これほど大きく存在感のある建物はめったにない。

IMG_1906s.jpg

講堂の入口にはスリッパも置かれていますので廊下には上る事が出来ます。
丁度見学者が2人来られていましたが、ここに座ると実に心地の良良い風が吹く気抜けます。
目の前の緑の木樹や鐘楼・鼓楼などを眺めながらゆっくりとした時を過ごしてみたい。
そんな思いでしたが時間も限られていましたのでしばし休憩してここを後にしました。

IMG_1907s.jpg

鐘楼。国指定重要文化財。
慶安4年(1651)頃建立?、寛文年間(1661年~1672)再建
鐘は寛永16年(1639)寄進されたもので江戸神田の鋳物師山田和泉掾吉貞の銘がある。

IMG_1912s.jpg

IMG_1913s.jpg

この飯高壇林には最盛期で600~800人の学僧が集まり、多くの名僧を輩出したと言われています。

この講堂に数百人も集まっていたのでしょうか。

IMG_1918s.jpg

IMG_1919s.jpg

IMG_1921s.jpg

IMG_1924s.jpg

とても気持ちの良い時を過ごすことが出来ました。また今度機会があれば期待と思います。

続いて下の妙福寺などを見に行きましたので飯高壇林の関連としてまとめます。

明日へ続く。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/04 19:10

飯高壇林跡(3)-妙福寺

 立派な飯高壇林をみて、その歴史を調べて行くと少し気になるものがあった。

天正元年(1573)要行院日統(ようぎょういんにっとう)が光福寺(匝瑳市飯塚)に学室を開いた。
天正8年(1580)平山常時が寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
天正8年(1580)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生(きょうぞういんにっしょう)を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
天正8年(1580)法輪寺・日尊は妙福寺の壇林を法輪寺に移す。
天正19年(1591)法輪寺を飯高寺と改称する。(家康から朱印30石を与えられる)
慶長元年(1596)飯高寺・日尊が飯高檀林を開檀する。
(Wikipedia等による)

どうも良く分からない。もう少し見て行こう。

教蔵院日生は元々は京都の天台宗の僧侶であったが東国から日蓮宗がもたらされ、日蓮宗に改宗した?
そして、京都洛北の松ヶ崎地区に日蓮宗派のため松ヶ崎檀林本涌寺を日生が1574年に設立した。
この松ヶ崎地区には歓喜寺という寺があったが、鎌倉時代末に日像が京都布教をおこないこの地区に広がった。
そしてその歓喜寺住職であった実眼が日像に帰依して日蓮宗に改宗し、寺名を妙泉寺とした。
(現在は妙泉寺と本涌寺が一体となって「涌泉寺」となっている)

飯高壇林の前身としても学問所は1573年に要行院日統が始めた。
教蔵院日生が洛北の松ヶ崎壇林を始めたのは1574年。ほぼ同一時期。

京はやはり学問の中心地であり、そこから教蔵院日生を千葉に迎えて光福寺の学問所を妙福寺に移し、飯高壇林が始まった。

そして同じ年に現在の平山氏の広大な場所に移された。まだよく分からないがまた少しずつ紐解けばよいだろう。

わずかな期間だがこの寺に学問所が置かれたのだろう。
最初にあったという光福寺というのはここより2~3km程東の飯塚地区です。

IMG_1843s.jpg

飯高寺(はんこうじ)は山の中腹にあるが、この(妙見山)妙福寺は麓の低い場所にあるが、裏手はスタジイなどの木々で覆われている場所です。

IMG_1845s.jpg

妙福寺は延慶3年(1310)に進藤太縦空が守護神として妙見尊を祀り建立したものです。

いまは日蓮宗です。

IMG_1846s.jpg

この寺もかなりの古刹で水戸光圀が訪れ、梅の木をお手植えになったが、その梅の木が枯れ水戸偕楽園から梅の木が贈られた。
境内に文和5年銘(1356年)の板碑が残っている。

正面のお堂が「妙見堂」です。

IMG_1849s.jpg

お堂の扁額は何と書いてあるのか?「北辰?」北極星? でしょうか。妙見堂とは書かれていない。

IMG_1848s.jpg

IMG_1850s.jpg

IMG_1853s.jpg

IMG_1854s.jpg

IMG_1855s.jpg

寺の手前は田が広がり、写真の右側の森はこの妙福寺の山門があるところで、その先の山の方に飯高寺(飯高壇林跡)があります。

この妙福寺の裏手の山(写真の反対側)の上に飯高神社があります。明日はそちらを紹介します。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/05 18:41

飯高壇林跡(4)-飯高神社(1/2)

 飯高(いいだか)壇林跡、飯高寺(はんこうじ)とその麓に佇む妙福寺とみてきました。
そして千葉県に広がる妙見(みょうけん)信仰がここにも強く表れていました。

その妙福寺の裏手の山の上に「飯高神社」があるというので行ってみました。

IMG_1856s.jpg

長い苔むした階段を登ります。

IMG_1857s.jpg

かなり登ります。

IMG_1858s.jpg

山の上に神社の拝殿が見えました。建物は倒壊防止の支え棒が置かれています。

IMG_1878s.jpg

妙見の文字が・・・ この神社は下の妙福寺と密接な関係がありそうです。
神仏分離で建てられたものかもしれません。

IMG_1879s.jpg

IMG_1877s.jpg


手水石に妙見宮寶前と彫られています。

IMG_1861s.jpg

この拝殿は江戸時代後期の建物らしいと書かれています。
それよりは、この奥にある本殿が変っています。
こちらの本殿は見に行く価値が十分あります。

IMG_1862s.jpg

この神社全域で、NHKテレビ小説「ゲゲゲの女房」のロケ地になったそうです。

本殿については明日書きます。
ブログを2カ所に分けてしまったら結構大変です。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/06 21:19

飯高壇林跡(5)-飯高神社(2/2)

 飯高神社の拝殿から本殿の方に回って見ました。そこには驚く光景が・・・。

IMG_1864s.jpg

拝殿裏の本殿には一般には外からは入れなくなっているのですが、こちらは脇から立派な彫刻を施した唐門がありました。

IMG_1865s.jpg

反対側にも門があります。片側しか開けていませんでしたが両側から本殿に参拝できます。

IMG_1866s.jpg

そして変わった狛犬が。

IMG_1867s.jpg

本殿にはたくさんの彫り物が描かれ、前面のかべもとても特徴のある模様が描かれています。

IMG_1868s.jpg

この本殿が造られたのは江戸中期の18世紀半ば。

IMG_1869s.jpg

本殿の周りもまた周りに囲まれた玉垣も多くの彫刻が施されています。
日本一多くの仙人に会える神社だと言うのです。

IMG_1870s.jpg

この彫刻類は一見の価値があります。

こんなところにこんな素晴らしい彫刻があったのかと目を見張ってしまいました。

IMG_1872s.jpg

これらの彫刻の内容はわからなかったのですが、中国の親孝行である「二十四考」が描かれているようです。

IMG_1874s.jpg

でも二十四考(にじゅうしこう)を調べて見ると手本にすべき24人の孝行の話は今から見るとおかしなものがたくさんあります。


IMG_1876s.jpg

「二十四孝」の仙人を彫刻してあるのは千葉では成田山新勝寺とここ飯高神社のみだそうです。

前に悪路王の面があると書いた城里町の鹿島神社の彫刻を思い出しました。

やはり二十四考が徳として伝えられた頃にこのような彫刻を施す神社が出来たのでしょう。
少し調べて見たい気もします。

(少しばかばかしい一部の話をのせます)

・呉猛(ごもう)(8歳):家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなった。

・王祥(おうしょう):実母が冬の極寒の際に魚が食べたいと言うので河に行った。しかし、河は氷に覆われていた。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/07 20:44

日本寺(中村壇林跡)-1/2

 千葉県匝瑳市の国の史跡に指定されている飯高寺(飯高壇林跡)を見物した後に、近くにもう一つ大きな壇林(僧侶が修業・学習する場所)があると知り、飯高壇林の見学後に立寄りました。

もう1カ月以上前になりますが、記事がまとまりませんので記憶が薄れてしまいますのでとりあえずUPしておきます。

場所は多古町ですが飯高壇林跡から西に3kmほど行ったところです。
ここはここには飯高壇林と同じ日蓮宗の「中村壇林」があったと言います。日蓮宗の三大壇林(飯高(飯高寺)・中村(日本寺)・小西(正法寺))に一つ。

こんなすぐ近くに日蓮宗の大きな壇林が2つあったことになります。

IMG_1928s.jpg

入口の山門。江戸初期のもので町の有形文化財。

門の中央上に掲げられた「東東山」と書かれた大きな扁額は下の説明にあるように「本阿弥光悦」の筆だそうだ。
江戸初期の寛永の三筆と言われた書の大家である。
日本三額の一つにであると説明にはよく書かれているが、残りの2つがどこかは書かれたものが無い?

門の右に派「本山 日本寺」とある。本山は日蓮宗の由緒寺院だとのこと。

IMG_1929s.jpg


IMG_1930s.jpg

この日本寺は元中村壇林と言われた。

IMG_1931s.jpg

山門をくぐると遠く正面に本殿が見える。
この参道の左手奥には紫陽花の花壇があり日本各地の紫陽花が植えられている。
この花壇は比較的新しいようだ。これから数年すれば紫陽花の名所になるかもしれない。

でも8000株で、種類が50種類もあると言う。

IMG_1933s.jpg

歴史的なものは明日にでも少し調べて書きたしたいと思いますが、1599年に設けられた中村壇林は明治8年まで続き、最盛期には36の学坊があり、数百人の学僧が勉学・修行に励んでいたそうです。

IMG_1935s.jpg

IMG_1937s.jpg

IMG_1938s.jpg

IMG_1939s.jpg
 鐘楼。「四恩の鐘」と命名されていました。

明日に続きます。





にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/15 20:34

日本寺(中村壇林跡)2/2

 飯高壇林と中村壇林 ほんの3kmくらいしか離れていない所に同じ日蓮宗の大きな壇林(学問所)が2つある。
やはり特異に感じてしまう。
こんなことが気になると記事はまとまらない。
のんびりやればいいのだがある程度は自分で納得しないと書けない。
しかしブログも毎日の更新を続けていると時間のかかる調べ物は後回しになってしまう。
それでも書きだしたので止められない。困ったな・・・

Wikipediaから少し歴史を整理して見たい。

<飯高壇林(飯高寺)>
・1573年(天正1年)要行院日統が光福寺(匝瑳市飯塚)に飯塚檀林を開檀する。
・1580年(天正8年)平山常時は寺域を寄進し、法輪寺を建立する。
・1580年(天正8年)京都妙泉寺(現涌泉寺)・教蔵院日生を迎え、光福寺の壇林を妙福寺に移す。
・1580年(天正8年)法輪寺・日尊は飯塚檀林を法輪寺に移す。
・1591年(天正19年)法輪寺は名称を飯高寺と改称する。
・1596年(慶長1年)飯高寺・日尊は飯高檀林を開檀する。
<中村壇林(日本寺)>
・1319年(元応元年)法華経寺(千葉県市川市)・日祐は千葉胤貞より、土地の寄進を受け、高祐山東福寺を建立する。
・1591年(天正19年)高祐山東福寺は名称を正東山日本寺と改称する。
・1599年(慶長4年)妙福寺・日円は中村檀林を開檀する。
・1630年(寛永7年)身池対論に中村檀林から日充が臨む。

日蓮は1222年安房国に生まれ、1282年武蔵国で没している。
京都の他の宗派(天台宗など)の中にも教えが広まり、1574年教蔵院日生が京都洛北に松ヶ崎壇林が開かれた。
この日生が東国に招かれて、すでにできていた飯塚壇林を妙福寺に移し(1580年)飯高壇林の基礎が固まった。

一方の中村壇林はこの妙福寺の中から日円がわかれて日本寺の中に中村壇林を開檀した。
これが1599年ということなので、世の中は天下分け目の関ヶ原の戦いの前の年になる。

常陸の大掾氏が滅びたのは1590年なのでこの頃までは群雄割拠でそれぞれの場所で混乱があったはずである。

どういう理由で2つに(飯高・中村)分かれたのかはよくわからないが、飯高壇林は家康から1591年に朱印地30石を与えられ大きく発展したようだ。

IMG_1949s.jpg

さてこちらの日本寺(中村壇林)もたくさんの学坊を持ち、多くの学僧がいたという。多い時には1000人近くにもなったと言う。

IMG_1950s.jpg

今でもここは多くの子供たちなどが合宿などで訪れているようだ。
見学に行ったときにも本堂に多くの子供たちがいた。

IMG_1951s.jpg

「この二匹の獏は壇林時代十八間四面の講堂玄関の柱に掛かっていた貴重な遺物であり・・・・」

IMG_1952s.jpg

IMG_1941s_20140716113407f89.jpg

さて、この日本寺の境内に「妙見宮と2つの稲荷神社」がある。
上の写真は妙見宮の右手の「岡田稲荷」

IMG_1942s_20140716113406339.jpg

IMG_1943s_201407161134060b4.jpg

こちらが「妙見七面宮」です。千葉氏の守護神を祀っています。

IMG_1944s_20140716113405fc3.jpg

こちらが左側の「豊田稲荷」です。

2つの稲荷神社はその由緒は良く分からないが、夫婦稲荷として商売繁盛・夫婦円満などとして信仰されてきたようです。

IMG_1940s.jpg

最後に境内のアジサイを載せておきます。
最近はこの寺も紫陽花寺として知られてきたのかもしれません。

IMG_1960s.jpg

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/16 19:38

妙光寺(多古町)

 このブログで千葉県匝瑳市と多古町の飯高壇林(飯高寺)、中村壇林(日本寺)という2つの大きな日蓮宗の壇林(僧侶の学問所)を紹介しました。

そして、ここを訪れた時に多古町の役場の近くを通ったのですが、この町の中心部に「妙光寺」というやはり日蓮宗の大きな寺があったので見学してきました。
記事にするのが大分遅くなりましたが忘れないうちにUPしておきたいと思います。

IMG_1965s.jpg

町の中心部に近い場所の山の上に寺があります。
入口山門には「日蓮宗千葉県東部宗務所」「妙印山」「妙光寺」とあります。

IMG_1966s_2014072014015902c.jpg

そして左手に大きな石板と手が8本の観音像(不空羂索観音?)が置かれて「馬頭観世音菩薩威光・・・」と書かれた塔婆?が置かれていました。

IMG_1967s.jpg

寺の本堂への登り階段入口に「妙見大菩薩」と彫られた大きな石柱が置かれています。

IMG_1963s.jpg

千葉県指定の有形文化財「木造伝妙見菩薩倚像(台座に腰かけて足を下に垂らした像)」

この説明の最後に「木造はかなり古くから妙見菩薩として信仰されていたようであるが、その形相や手勢は、むしろ京都府代将軍八神社等に遺る大将軍神に近いのが注目される」と書かれています。

こうした事は頭の片隅に残しておきましょう。いつか何かのヒントになりそうです。
いまは調べることはやめます。

IMG_1968s_2014072014015883a.jpg

寺は鎌倉時代の弘安中期(1278~87)に日蓮上人の高弟日朝が創建したと伝えられ、妙光寺はここの多古居射のほか島・唐竹にもあり、これらを下総三妙寺と称します。と市の説明にはありました。

この寺は多古城主の千葉一族牛尾(うしのお)氏の信仰が厚かったそうです。

この堂は、寛永4年(1627)に江戸谷中の報恩寺の堂を移してもので、現在の堂は享保14年(1729)の建立と記されているそうです。

IMG_1973s.jpg


IMG_1975s.jpg

IMG_1978s.jpg

寺はこのような高台にあり、下に多古町の街中が見渡せます。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/07/20 18:40

龍尾寺

 印旛沼の周辺に伝わる龍伝説の一つが、少し東に離れた千葉県匝瑳市大寺にある。龍尾寺(りゅうびじ)である。

前に近くまで来ていたが、ここは来なかったので、またここを目指して行って来た。

P9080065s.jpg

龍の伝説は有名で、Wikipediaよりそのまま転載させて戴く。

「その昔、印旛地方で日照りが続き村人は大変苦しんでいた。そこで聖武天皇の命により龍閣寺の釈命上人が印旛沼に船を漕ぎ出し沼の真ん中に出て、命がけで龍神様に雨乞いの祈祷をした。印旛沼には小さな龍が住んでいて、願いを聞いた沼の小龍は龍王に殺されるのを覚悟で天に昇り、暮れゆく空の中に姿を消した。真黒な雲が舞い上り大粒の雨が落ちてきて、だんだんが激しくなり7日7晩降り続き、ひび割れしていた田も枯れ草同様の畑の作物も生き返ったという。

そして、7日目、ものすごい雷光と天も地もふっ飛ぶような雷鳴がとどろき渡り、三つに裂けた龍の姿が村人たち目に入った。心優しい小龍は龍王の言い付けに逆らって村人のために雨を降らせたので、斬られて三つになって落ちたのである。

村人たちは三つに裂かれた龍の体を捜しに出かけた。二本の角のついた頭は栄町安食に、腹は本埜に、尾はどういうわけか、はるか東南の匝瑳市大寺に落ちていたのが見つかった。変わり果てた龍を見つけた村人たちは、龍の冥福を祈りそれぞれの地で供養することにしたそうである。角のついた頭は石の唐櫃に納めて龍閣寺の堂前に埋め、腹は本埜の地蔵堂に納め、尾は大寺の寺に納め、龍角寺、龍腹寺、龍尾寺がそれぞれ寺の名前になったと伝えられている。」

P9080044s.jpg

そう、この匝瑳市大寺にある龍尾寺が龍のしっぽが落ちたと言われる寺である。

P9080048s.jpg

天竺山尊蓮院龍尾寺。 真言宗智山派。
創建は天平4年(732年)戸も伝えられているが不明。 本尊は釈迦如来。

弘法大師(空海)が大同2年(807年)に立寄ったとされている。
境内に弘法大師の手堀りしたと伝えられる井戸があります。

P9080053s.jpg

龍角寺と龍腹寺は印旛沼の近くだが、この龍尾寺だけが大分離れている。
昔は大きな内海となって印旛沼もその海に含まれていた。

P9080051s.jpg

これと同じような話が大阪の四条畷市にあり、「龍光寺」「龍間寺」「龍尾寺」となっている。

P9080050s.jpg

観音堂か? 石灯籠はだいぶ古いものとされている。
また灯籠には、「雨乞七日間」と彫られていて、この龍伝説を伝えているものだとされています。


P9080052s.jpg

板碑。これも古そうだ。

P9080061s.jpg

なかなか落ち着いた寺である。

P9080057s.jpg

この三龍寺の伝説は昔の人の流れ、仏教の伝播などと無縁ではないと思う。

もう少し心に留め置いて、松虫寺伝説などと共に、後で考えて見たい。

P9080056s.jpg


匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/17 19:01

浄妙寺(多古町)

 千葉県多古町は多古米の産地として有名になっているが、ここが縄文時代の遺跡としてとても気になっているものがある。
約5000年前頃の縄文後期の丸木舟がこの周辺でたくさん発掘されている。

先日また多古町に立寄った(遠回りだが少し見たいところがあった)。
その時に多古町で最も古いといわれている浄妙寺に行ってみた。
細い脇道をくねくねと入り、坂を下ったところに寺はあった。

浄妙寺01
法性山浄妙寺 日蓮宗の寺で、本尊は釈迦如来。

浄妙寺02

この寺の創建が古く、天平年間(757-765年)に唐から日本に来て唐招提寺を建てた鑑真(がんじん)が開創だという。
そのため、当初は律宗で「東耀寺」と言ったという。

その頃の物はしかし何もないし、感じることもなかった。

寺の入口にある山門(仁王門)と金剛力士像は宝暦12年(1762年)の建立。
門の上に掲げられている扁額「法性山」は寺の22世の1743年に書かれたものと言う。

浄妙寺03

浄妙寺04

浄妙寺05
律宗から真言宗となり鎌倉時代の終わり南北朝時代のの1346年に日祐によって日蓮宗に改宗された。

寺の本堂に行くとそこの縁側で2人の御婦人が話していた。

庭の花の手入れをしていた人と寺の奥さんだろうか。
私が近づくと寺の奥に入ってミカンを手にとってどうぞと差し出された。

御遠慮してきたが他に訪れている人はいなかったので歓迎されたのかもしれない。

徳川家康からは朱印12石の寄進があったという。

浄妙寺06

この場所は先日紹介した日本寺の近くであるが市街地からは更に奥まったところにあった。
ひっそりとはしていたが近所からは慕われているお寺なのではないだろうか。
下総板碑などや宝篋印塔なども目についた。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/13 18:36

飯高寺(壇林跡)へ

 先日千葉県多古町を訪れた時に、また飯高寺(はんこうじ)を訪れました。
前に飯高壇林(いいたかだんりん)跡として紹介していますので内容は省きます。

ここのあの広い方丈と紅葉がマッチしたらばきれいだろうと思っていました。

飯高壇林01

しかしまだ早かったようです。訪れたのは11月10日ですから今は少しきれいになっているかもしれません。

飯高壇林02

関連記事:飯高壇林跡(1)飯高壇林跡(2)

ここ1週間体調を壊し少しぜんそく気味で四苦八苦しておりました。

仕事もそうですがブログの更新もままなりませんでした。

コメント頂いた方にもお返事も中途半端になり申し訳ありませんでした。

まあ何とか今までにストックした物などでブログも途絶えずに来れましたが、そろそろネタも切れてきました。
この三連休も家の中でゴロゴロして過ごします。

また訳のわからない解散に言いたいこともたくさんありますが、ここで憂さ晴らししてもしょうがありません。

茨城県は県議会選挙と重なりましたので投票も1回で済みます。
でも私のいる地区は結構街中に近いところですが、いつも投票が6時で締め切られます。
今年がどうかはわかりませんが規定では8時までとなっているのに何故でしょう。
選挙管理委員会の判断で短くできると決まっていますが、これはもっと過疎地などを想定したもののはずです。
おかしいですよね。色々な職業の方がいることを考えないのでしょうか。

まあ最近は期日前投票が便利になり時間も遅くまで開いているようになりました。
私は九州に親戚の結婚式に出かけますのでこの期日前投票を利用したいと思っています。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/22 18:07

六所神社(多古町)

 先日紹介した多古町の渋谷家から浄妙寺に行く時に道の曲がり角に比較的大きな神社がありました。
地図には載っていなかったのですが「六所神社」となっています。

六所神社という名前の神社はたくさんあり、今までにも何カ所かを見てきました。

しかし六所の意味にはどうも2種類があるようです。

一般には総社と同じようにその国や郷などの6カ所の主要な神社を集めて1か所にして祀り、その神社をお参りすれば全てをお参りした事になるというようなものです。

むかしの国府には総社と呼ばれる神社が建てられました。
石岡には常陸国総社宮があります。

しかしそれより小さな「郷」単位でも同じような神社が各地に建てられたようです。
そしてそれが六所神社と呼ばれるようです。

もう一つは「六柱の神」を祀っているという今のところです。
同じようですが少しニュアンスが違っているように思います。

六所神社01

ここの六所神社はどうなのでしょうか。大きな鳥居から長い参道があります。

六所神社02

なかなか立派ですね。

六所神社03

さて、現地に建てられた由来記ですが、なかなか読みにくいですね。
まああまりよく分からないけど適当に解釈すると、
「承和(じょうわ)年間(834~848年)に鎮守府将軍物部匝瑳連熊猪(もののそうさのくまい)が創建したという。
この神社のある中村郷は匝瑳の中央にあり、昔の郡衙のあったところでこの場所に郷中の六大神を祀った」

何かとても由緒ありそうだが・・・・
それにしてはネットで調べても良く分からない。

この中村郷辺りも何か面白そうなとこなのだが。

六所神社04

拝殿

六所神社05

本殿。何時頃建てられたものかわからない。

六所神社06

ここも紹介するかどうか迷ったがそのうちに何かわかることもあろうと思う。

六所神社としては筑波山の麓にあった「六所神社跡」(記事はこちら)が特に印象深かった。


匝瑳・多古周辺 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/11/26 20:34

みちの駅多古(2)

 千葉県多古町は「多古米」が有名で、家の近くのスーパーでもおにぎりやお弁当に多古米を使用している。

ここに「みちの駅」があるが、1年前の6月に1度訪れているのだが、先日また行ってきた。

多古町に残されている55000年前のものといわれる木舟を見ておきたいとまたこの町を訪れた。
こちらはまた明日にでも紹介したい。

P6250040s.jpg

銚子に行く途中での寄り道なのだが、やはり時間が足りなくなってしまった。
こちらから行くとかなり遠い。

P6250039s.jpg


P6250037s.jpg

あじさい館という名前がついており、紫陽花祭りをやっていた。

P6250035s.jpg

この町の中を流れる「栗山川」流域はとても歴史の古い場所だ。
縄文人がたくさん住んでいたと考えられるし、弥生人もこの川を遡って内陸に進んで行ったと考えられるように感じる。

P6250034s.jpg

この栗山川の名前の由来は「栗」の木が茂るという考え方も確かにあるだろう。
縄文人が栗を食べたと考えればそれもありうるのだが、どうしても「句麗」との関係を捨てきることができない。

栗山川は九十九里に注いでいるが、そこは横芝光町で「屋形」という地名である。
横芝光町というのは2006年の平成の大合併で山武郡横芝町と匝瑳郡光町が合併してできたが、このように山武郡と匝瑳郡の二つの郡が一緒になるのは珍しい。

また匝瑳郡は下総国であり、山武郡(さんぶぐん)は山辺郡(やまべぐん)と武射郡(むしゃぐん)が明治30年に合併してできたが、元々は上総国にあった。

そのため上総国と下総国が一緒になったという非常に珍しい場所だと思う。
その境界がこの栗山川なのではないか。
屋形という地名も「館」という意味だと思うが、これも平氏の祖である高望王が宇多天皇から「平氏」姓をもらって(889年)上総介としてやってきたのがこの「屋形」であり、高望王が任期を終えて帰京した時に子供の「平良兼」がこのあたりをおさめていった。

そのため全てこの辺りから関東の領地が開拓されていったことになる。
上総介というのでもっと上総国国府である「市原」辺りかと思っていたが全く離れている。

これと縄文人のかかわりなどがイメージとしてまだ湧いてこない。
もう少し調べて見たら何か分かるのかもしれないが、1年前も同じようなことを思っていたのでまったく進歩していない。


匝瑳・多古周辺 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/07/03 20:29

5500年前の古代丸木舟

 千葉県多古町の栗山川周辺は古代丸木舟がもっともたくさん発掘されている場所です。

日本でこの古代(先史時代)の丸木舟は200例ほどあるそうだが、そのうちの半数が千葉県で発見され、中でもこの栗山川周辺から発見された物が一番多いのだとのこと。

その古代丸木舟を多古町のコミュニティプラザに展示してあるというので少し遠いが足を延ばしていってきた。

P6250012s.jpg


多古町コミュニティプラザは新しい建物でとても素晴らしいきれいな建物だ。
まわりのものに比べて立派なものを作りすぎたのではないかとの気がしないこともない。

入り口をはいると正面に図書のスペースがあり、左手に大きな事務スペースがある。
入っているのは生涯学習社会教育係? たくさん人がいました。

2階以上には研修室などたくさんの部屋があり、隣りに立派な文化ホールがある。

1階の生涯学習課?前のホールにガラスには行った陳列棚にこの丸木舟が置かれていました。



P6250017s.jpg

しかしホールの灯りは暗く、ガラスも光ってしまい中が良く見えません。
丸木舟の長さは7.45m このように室内に展示してあるとかなり大きいと感じる。


P6250033s.jpg

ガラスにカメラのレンズを押し当てて写真を撮って見ました。
少しイメージがわきますか?

P6250032s.jpg

約5500年前(紀元前3500年頃)の丸木舟の木がこんなです。

P6250031s.jpg

古代ハスで有名な大賀博士が復活させたハスの種は、千葉市郊外の検見川で発見された古代舟に残されたハスの実から発芽させたものですが、これも今から約2000年前のものです。
この古代の舟はそれよりも倍以上前になります。
縄文時代前期の終わりから中期始めです。

P6250014s.jpg

展示ホールの壁には発見された当時の写真などが飾られていました。
とても興味深いです。
この丸木舟を見ている人は他にはだれもいないようです。見学者も少ないのでしょうね。

P6250021s.jpg

この栗山川のすぐ近くで発見されました。

P6250022s.jpg

発見されたのは平成6年です。
ほとんど原形のまま発見されました。
地表から1.2m下の地中から見つかったそうです。

P6250024s.jpg

運び出す時に壊れるので発砲ウレタンだ全体を包み鉄パイプの枠をに載せて運んだそうです。
そして、このプラザの庭にあるプールに入れてしばらく保存していたと書かれていました。

P6250023s.jpg

でも5500年も前の木ですから結構ボロボロだったようです。

P6250025s.jpg

それを平成11年から14年にかけて京都の吉田生物研究所に持ち込んで復元作業を行いました。

P6250026s.jpg

まず高級アルコール法で水分を除去し、バラバラに分かれてしまった木片を組み立てて舟の再現をしたそうです。

P6250028s.jpg

吉田生物研究所での復元作業の写真。

P6250029s.jpg

10mを超える古代舟も数例見つかっているようですが、このような古代のものを見て昔の状況を考えて見るのも良いのではないかと思います。
いまから5~6000年くらい前には縄文海進で海面は今より数メートル高かったといわれています。
少なくても2~3mくらい高かったように思います。

そのため、この舟も海の下に沈んでいて、そこに土砂が上から覆っていったと思われます。
ロマンが広がりますね。

この辺りでこのような丸木舟を扱い何千年、何万年ものあいだ生活していた民族はどんな人々だったのでしょうか。

匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/07/04 20:27

芝山仁王尊(観音教寺)(1)-仁王門

 千葉県の銚子へ行く途中に国道51号線で成田に向かう途中から県道113号線から多古町を経由して隣りの芝山町に向かった。
ここは成田空港のすぐ東南側の町で空港建設反対などでも盛んにとりあげられた。

そして成田空港から芝山千代田駅までという全長2.2kmという日本一短い鉄道が建設された。
反対派の土地を迂回するためにカーブの多い鉄道だという。

そんな芝山町については私は今まで何も知らない場所であった。
匝瑳市や多古町はある程度ニュースでも目にしたりするので知っていたが横芝光町とこの芝山町はほとんど縁がなかった。

しかし成田空港脇から横芝光町の九十九里浜まで「芝山はにわライン」という名称の付いた街道がはしっている。
それはこの芝山町の殿塚、姫塚古墳からたくさんの埴輪が出土したことから名付けられたそうだ。

その町には芝山仁王尊と呼ばれる古刹がある。

P7070087s.jpg

正式名称は「天應山 観音教寺 福聚院(関東天台旧制伴頭拝領寺院)」という。天台宗の寺だ。

今までネットでは上の写真の仁王門がよく取りあげられているが、この寺はこればかりではなくかなりの大きさの寺で写真で見ていた時とは違って訪れて感じた印象はあなりの圧倒感があった。

P7070083s.jpg

総ケヤキ作りの大きな仁王門は三間四面形式で200坪も敷地面積がある日本でも最大級の大きさだそうです。
現在の建物は明治15年に建てられたもの。

P7070084s.jpg

一般の仁王門は左右に阿吽の大きな仁王像が置かれているのですが。ここは左右それぞれ畳敷きで須弥壇が置かれその上に仁王尊天(黒仁王)が祀られています。
この部屋も中は撮影禁止というので写真はありません。

この仁王尊天像はインドの仏師毘首羯摩の作といわれている。
この寺はインド仏教の影響がかなり強く残っている。

P7070086s.jpg

江戸時代には江戸の商家ではこの芝山のお札を火事泥棒除けとして多くの家で信心されていたそうです。

P7070085s.jpg

寺の歴史を調べると寺のHPには
「日本年代記によれば、人皇第四十九代光仁天皇の宝亀十一年(780)正月、平城京が雷火に襲われ、皇室擁護の寺院が多く焼失したので、諸国に命じて新たに仏寺を建立せしめたとあります。丁度その時、征東大使として蝦夷平定の任にあった中納言藤原継縄朝臣がこの布令の下に当地に寺院を建立し、御本尊として奉持して来た十一面観世音大菩薩を奉安したのが、当寺の始まりであると伝えられております。」
と書かれています。

P7070089s.jpg

常陸国府に常陸守として来ていた藤原宇合(うまかい)が都に戻って征夷大将軍(持節大将軍)となったのは724年。

藤原継縄が征夷大将軍(征東大使)となったのが780年。

征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐で阿弖流爲(アテルイ)などを破ったのが802年。

多くの神社がこの田村麻呂の制圧凱旋に合わせて建立された。

これより古い寺はかなり数が少ない。奈良を模倣して幾つも寺は建てられたがその多くは廃寺として形を残していない。

P7070082s.jpg

境内などはまた明日続きを書きます。

匝瑳・多古周辺 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/07/12 21:37

芝山仁王尊(観音教寺)(2)-三重塔

 千葉県の成田空港のすぐ東隣の町「芝山町」にある芝山仁王尊として親しまれている観音教寺は見どころいっぱいでした。
少しずつ写真を交えて紹介します。

まあ毎日暑くて記事取材も行かないので引き延ばし作戦?といわれてもしょうがないのですが・・・・

それにしても知らないところに立派な寺があるものですね。

今日は千葉県指定の有形文化財である立派な三重塔の紹介です。

P7070049s.jpg

この三重塔もかなり立派なものです。
建てられたのは文政9年(1838)とか天保7年(1836)との記録があるそうですので江戸末期です。

P7070060s.jpg

成田山新勝寺の三重塔が1712年の建立といわれているので100年ほど後になります。
また成田山の色鮮やかな三重塔と比べると色はありませんが、凝った彫刻が目を引きます。

P7070050s.jpg

特にこの龍の彫刻(尾棰木:おだるぎ)は特に驚きます。

P7070051s.jpg

この彫刻もかなり凝っています。

P7070052s.jpg

P7070053s.jpg

P7070054s.jpg

P7070055s.jpg

茨城県にも三重塔のような塔のある古い寺があります。
でも山の中腹などに建てられているものが多いのです。
前に書いた記事参照(こちら

歴史的には江戸時代末期ですからそれ程の価値は無いのかもしれませんが、この辺りでは塔のある寺は新しいものを除けば成田山とこの芝山の2か所が江戸時代の建築です。

多宝塔としては石堂寺(安房郡丸山町)や那古寺(館山)などがふるいようですので一度調べて見たいと思います。


匝瑳・多古周辺 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/07/14 21:49
 | HOME | Next »