諏訪大神(千葉県東庄町)

 香取神社を5回に分けて紹介してきましたが、周辺で少し気になるところを紹介していきたいと思います。
まずは、香取神宮から銚子の方に利根川を下ると小見川(現香取市)を過ぎて、少し銚子寄りに「笹川」駅があります。
ここは香取郡東庄町です。
国道356線(利根水郷ライン)の「東庄交番前」の信号の手前に大きな神社があります。

IMG_3617s.jpg

かなり明るく広い境内です。諏訪神社と呼ばずに「諏訪大神(だいじん)」と呼ばれているようです。
正面が拝殿です。

IMG_3620s.jpg

神社に書かれている「由緒沿革」を下記に抜粋します。

 当社は御創祀は大同二年、坂上田村麻呂将軍が東夷征伐の砌、武運長久、海上安全を祈願し、勧請されたと伝えられ、以後承平二年、下総国守大江維時(これとき)の社殿造営、元暦元年、源頼朝の社領寄進、文治元年、千葉氏の社領寄進、建久二年、東重胤(とうしげたね)の社殿造営、社領寄進がありました。享保二年、神階正一位に叙せられ、明治四十二年郷社に列せられました。

IMG_3624s.jpg

坂上田村麻呂の大同二年の創建はどこまで事実かはわかりません。
この時期にたくさんの神社ができています。
でもその後の発展に多くの歴史が眠っていそうです。

IMG_3626s.jpg

この神社の祭神は諏訪大社の祭神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」と事代主命(恵比寿さま)、大国主命(大黒さま)です。
この地を開発してきた大和朝廷の皇室にゆかりの神社です。

IMG_3627s.jpg

本殿の造りも香取神宮、諏訪大社、出雲大社などと同じ流れを汲んでいるようです。

IMG_3621s.jpg

神社境内にある「神楽殿」と「相撲土俵」

春(4月)には伝統の神楽(笹川神楽、十六座)が奉納される。

秋(7月)には地域の力自慢やちびっこによる相撲大会が行われ、伝統の山車の引き回しも行われる。

IMG_3622s.jpg

「神楽殿」です。春の例祭で県指定無形文化財の笹川の神楽が披露されます。

文明7年(1475)、東常縁により、総社信州諏訪神社の神楽と混合した形で、笹川の神楽が誕生。猿田彦大神(天狗)、乙女の舞(おかめ)など16面によって構成されており、諏訪大神の春の例祭(第一土曜日)に、地元の住民によって境内の神楽殿で奉納される。(東庄町商工会HPより)

IMG_3634s.jpg

「天保十三年七月廿七日(諏訪明神祭禮の日)」の石碑

笹川(岩瀬)繁蔵は相撲の元祖野見宿禰の碑を建立すると共に農民救済を名目として大花会を催した
上州武蔵の大前田英五郎、上州上野の国定忠治、奥州仙台の鈴木忠吉、奥州信夫の常吉、駿州清水の次郎長など天下に知られた親分衆が出席し空前の盛会であった。(天保水滸伝遺跡保存会)

IMG_3636s.jpg

境内に立派な相撲土俵が作られています。

IMG_3635s.jpg

ここで出羽海部屋の夏合宿が今でも行われているようです。

相撲にとってはここでの歴史を振り返ってみるととても大切な場所のようです。
「天保水滸伝」講談や浪曲では有名で名前は聞いたことがあっても、私を含め今では知る人も少ないでしょう。

IMG_3638s.jpg

境内の一角にここ東庄町観光協会の建物があります。
「天保水滸伝遺品館」となっています。

ところで「天保(てんぽう)水滸伝」ってどんな話でしたっけ?
中国の水滸伝はまあまあ知っていますが・・・・

東庄町のHPより

「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。

となっていますが、天保15年(1844)にあった笹川一家と飯岡一家の大乱闘「大利根河原の決闘」などが伝えられて国定忠治の話などとともに講談や浪曲で伝えられてきたもののようです。

まあこのような任侠話しは娯楽の少ない時代にそれなりに世の中に受け入れられてきたのでしょう。
利根の決闘では勝利した笹川繁蔵でしたが、その後賭場帰りに、飯岡側の闇討ちにあい殺害されてしまいました。
知らなくてもいい話かもしれません。

笹川繁蔵の碑はこの神社の裏にある「延命寺」にあります。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/11/05 18:44

桜井浜鳥居

 千葉県の佐原市と小見川町が合併して香取市となり、その中心に香取神宮がある。
その香取神宮から利根川沿いを東に進むと東庄町(とうのしょうまち)となる。

この東庄町は「利根の川風袂に入れて・・・」と歌われた天保水滸伝の話が伝わる町で、昔の任侠物や浪曲に出てくる場所であり、相撲の盛んな街でもある。

その東庄町から少し行ったところが銚子市桜井町となる。

この桜井の西のはずれの利根川岸に木製の鳥居が立っている。

IMG_0094s.jpg

桜井浜鳥居というそうだ。

IMG_0093s.jpg

この鳥居には2年に一度4月に行われる東大社(東庄町)の神幸祭(東大社式年銚子大神幸祭)でこの浜まで運ばれた神輿を50人ほどの男衆がかついで川に入り神輿を川に漬けて皆で水を神輿にかける。(お浜降り)

IMG_0096s.jpg

この桜井町はいまは銚子市になっているが、どちらかというと東庄町との関係が深いように思う。

銚子ではこの東大社も含め三つの神社の間で20年に1度の銚子大神幸祭が行われており、900年以上続く祭りとされていて、20年に1度は銚子の外川まで巡行するそうだ。

IMG_0098s.jpg

IMG_0099s.jpg

この鳥居の場所は桜井町公園という広い公園があるその端にある。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/24 21:09

東大社

 昨日利根川岸辺にある桜井の鳥居を紹介しましたが、あまりうまく紹介出来ていなくて反省です。
やはり調べて自分の頭で理解するのはかなり大変です。

時間がなくとりあえず書いた記事をUPして、読んだらおかしなところがありすぐに修正し、気になっていたところを調べ直していたら私の解釈が間違っていたことがありまた修正しました。

 家内からも「少し手抜きになったね」などと言われるのでしばらく休みながら書こうかとも思ったのですが、止められないんです。
書いている方が苦労しても読んでもらえなければ意味もないのですが、長い目で見れば記録に残しておくと言う別次元の問題もあるのでその時に読まれなくても良いとも思っています。

昨日の桜井の鳥居を見てから数週間後にこの祭りの中心となっている東庄町(とうのしょうまち)の東大社(とうたいしゃ)に行ってみました。

IMG_0257s.jpg

成田線の下総橘(しもふさたちばな)駅より西に約2kmほど入って行った所にあります。
駅前には町の案内看板があります。

左上に天保水滸伝と諏訪大神、 そして右上に雲井岬つつじ公園と東大社が載っています。
諏訪大神については1年以上前に紹介しています。(こちら

IMG_0271s.jpg

駅から結構近いと思ったのですがどんどん奥に入って行く感じです。

この東大社は鬱蒼とした森に囲まれ、入口は駅とは反対の西南の方向にあります。

IMG_0263s.jpg

とても歴史も古く簡単に紹介することもできないものがありますが、鹿島神宮との関係も深く鹿島神宮から鹿を奈良に運ぶ時もこの辺りを通っていたようです。

この神社拝殿は文政十年(1927)造営し、昭和31年に屋根を銅板葺に改修したもの。

IMG_0261s.jpg

この地は、鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼(たねより)が荘園(東庄)に住んで、この東大社神官より東氏(とうし)という名前を譲り受けて戦国時代まで支配してきた。

IMG_0260s.jpg

本殿は文政9年(1826)の造営。屋根は拝殿と共に昭和31年に銅版に葺き変えた。

IMG_0266s.jpg

銚子の式年神幸祭に使われている神輿。

水に浸かったりするのでそのたびに修理しているという。

IMG_0265s.jpg

この式年神幸祭は講4年(1102)にかつての東荘33郷がまとまって始められたと伝えられている。

IMG_0269s.jpg

IMG_0270s.jpg
東大社略記(クリックで拡大します)

なかなか一筋縄ではいきません。読んでみたい方は写真をクリックして拡大して読んでください。

ヤマトタケルの父「景行天皇」が息子が平定した地を後に巡行し、この神社の裏(白幡)に船でやってきて、七日間逗留した。
その時に東国・東海の鎮護としてこの神社を建てたのが始まりだとか・・・。
いまから1800年以上前?だという。(これは少しおかしいかな?)

ただ歴代の天皇や源頼朝、徳川家康などからも寄進を受けている大社である。

また明治6年に郷社、大正8年に県社となっている。

なかなか奥の深い神社である。

この地では江戸時代にはヤクザの親分がおり、天保15年(1844)、笹川繁蔵と飯岡助五郎の争いに平手造酒(ひらてみき)などが加わって、大利根河原の血闘が起こった。
この天保水滸伝も昔は浪曲で良くやっていたが、今では聞く事もないのでほとんどの方は知らないであろう。

江戸時代の水運の時代まではこの町も結構賑わっていたのであろう。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/01/25 21:05

菅原大神

 昨日紹介した東庄町の「東大社」は県社にも列せられた由緒ある神社で、銚子の式年神幸祭の中心ともなっている神社とわかりましたが、実は桜井浜の鳥居のすぐ近くには菅原道真を祀る古い神社があります。

「菅原大神天満宮神社」です。

浜から成田線の方に向かって進むと線路の手前右側にあり古社なのですが東大社などよりも低地に鎮座しています。

IMG_0100s.jpg

下に掲載した写真に由来などを載せましたが、戦国時代末期頃にはこの地にあったようです。

IMG_0104s.jpg

菅原道真は1100年ほど前に大宰府で亡くなりますが、その後全国に学問の神様として天神様が建ちました。
天神様としては「大宰府天満宮」と「北野天満宮」が有名ですが、茨城の大生郷天満宮(常総市)もかなり古い由緒ある神社です。

ではここの天満宮はどのような神社なのでしょうか。

IMG_0105s.jpg

菅原大神と神社の名前につけているように菅原道真を崇拝して祀っていること。
(神社の紋は天満宮によくある「丸に梅鉢」)

また「子宝石(子産石)」と呼ばれる大小約90個の玉石が保管されていて、子宝に恵まれない女性がこの石をおなかに抱いて祈ると、赤ちゃんができると言われていること。

しかし、この子宝石はこの近くにあって信仰を集めていた御産宮をこの菅原大神と一緒にしたという経緯があるようです。

IMG_0102s.jpg

この子宝に恵まれると言う神社やお宮は全国にたくさんありますが、この神社はその中でも古くから信仰を集めてきたようです。この神社が別名「子宝神社」としての方が有名なのかもしれません。

IMG_0106s.jpg

IMG_0108s.jpg



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/26 20:30

雲井岬

 一昨日に千葉県東庄町にある「東大社」を紹介しましたが、この神社のある位置は利根川に近いところを走る成田線から内陸側に2km以上入ったところにあり、かなり高台(標高50m位)にある。

しかし、この神社の隣が「雲井岬」と言われる公園があり、昔は岬であり崖となっていたというのである。

IMG_0278s.jpg

今はつつじの花が美しいな所として知られているようだ。

IMG_0275s.jpg

岬公園らしきところに入って見たが、この時期でもありつつじもどのようになっているのかよく分からなかった。

IMG_0276s.jpg

通りの反対側が恐らく公園にもなっていると思われるが工事しており入ることが出来なかった。
ここから利根川の方まで見渡せるらしいのだが・・・。

IMG_0277s.jpg

岬公園からは神社の裏手の道と繋がっており、神社入口はこの反対側に入口鳥居がある。

それにしても昔の地形はどのようになっていたのだろうか。Flood Mapsでもあまりよく分からない。

東庄町

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/01/27 20:04

小見川大橋

銚子から戻る時に利根川と常陸川の間にある中州を通ることが多い。

先日出かけた時に戻る時間が少し早かったので、途中の小見川大橋の所で夕暮れとなった。

信号待ちで1枚写真を撮った。

IMG_0309s.jpg
(写真はクリックすると拡大します)

利根川に架かる小見川大橋。

この川は利根川で橋を渡ると向こう側は小見川(現香取市)だ。そして香取神宮に行くことができる。

そして、この中洲の所から右に曲がると常陸川(常陸利根川)で、そこに架かる橋を息栖(いきす)大橋という。

そう、その息栖大橋を渡ると茨城県となりすぐそばに「息栖神社」があります。

この橋の所が東国三社といわれる「息栖神社」と「香取神宮」を結ぶ橋になります。

昔はこの中州の陸地はなく大きな海が繋がっていたのでしょう。

たそがれゆく空を眺め、すこし寂しく輝く明かりを見ているとどこか懐かしさがこみ上げてきます。

例え、鹿島・香取・息栖が直角三角形に並んでいるのが人工的に配置されたとしても、この三角地帯が大和朝廷の東国進出の最重要地帯だったのでしょう。

やはり黒潮に乗って、海からこの地に大和民族がやって来たのは間違いないでしょう。

前に書いた東国三社の位置関係はこちらを参照下さい。

東国三社2
(Flood Maps で海面高さを+5mとして表示した地図に記入)

今回はこの東国三社のレイラインと銚子と常陸国府石岡の位置関係を載せます。

前に鹿島-香取-息栖のラインを弓の弦と矢に例えてこの弓を引いた時に矢が放たれて常陸国府を焼いたという事を言っていた人がいた。

私はこの説には同調しないがこのラインの延長に常陸国府を移してきたのだと思うようになった。

石岡では「茨城の県名の発祥の地」との説明看板も立っているが、茨城は小原(現笠間市)からこの地に移されたものだ。
息栖神社を今の位置に移したと同じように、計画的にこの地に移したのではないかと思う。
まあ単なる仮説だが・・・。

今日は銚子に出かけていて戻るのが遅くなってしまった。
この橋の場所もまた通ったがもう辺りは暗闇であった。
まあこんな位置関係を考えながらここを通る人はたぶん他にはいないだろうと思う。

また上の地図では加波山までしか延ばしていないが、これをさらに延長するときっと日光に行くと思う。

徳川家康の墓所を東照宮に定めた「天海僧正」はきっとこれも見抜いて位置を決めたのかもしれない。
こんな想像も結構面白いな。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/03 22:47

諏訪大神(小見川下小堀)(1)

 千葉県香取市周辺で諏訪神社といえば佐原の祭りで有名な諏訪神社(こちら1こちら2こちら3)と、東庄町笹川の諏訪大神(こちら)がゆうめいである。

でもなんでこの地方に大きな諏訪神社や諏訪大神があるのだろうと不思議に思っていた。

そんな中、国道356号を佐原(香取市)の町から銚子方面に進むと香取神宮への道を過ぎて旧小見川町へ入ったあたりで道路沿いに少し不思議な形をした神社を見かけて前から気になっていた。

小見川は太古の時代には霞ヶ浦が大きな内海となって香取海と呼ばれていた時には内陸の方まで水がはいりこんでいたという。
そのために内陸に貝塚などが見つかっているのだそうだ。

先日この神社に立寄って見た。書かれたものは何もないが、地図では「諏訪神社」とあり、参道には「諏訪大神」とかかれていた。

IMG_0425s.jpg

この神社拝殿の両横をすっぽりとかぶせたような板がつけられており、なんとも奇妙な感じだ。

IMG_0427s.jpg

どうやらこれは中に古くからの神社本殿があり、これを風雨から保護するためにつけられたものらしい。

IMG_0428s.jpg

かなり古い神社のようで古木もこの通り。
根っこが人の足のようで、まるで生きているかのようだ。

IMG_0429s.jpg

サイドの板はトタンででもできているのだろうが、なかなか面白い形になっている。
色が塗られていて雰囲気が一体になっているせいか。

IMG_0430s.jpg

さあこの中に保存されている神社の本殿の彫刻は見事であり見ごたえがあるものであった。
調べると「石田丹治」と「鈴木多門豊賢」という彫師の手で彫られたものだろうとのこと。
江戸の末期になるようだ。

IMG_0432s.jpg

確かに彫刻はかなり凝ったものだ。

IMG_0433s.jpg

「諏訪宮」と掲げられていた。

IMG_0434s.jpg

信濃諏訪大社とこの地との関係が何かあるのだろうか。出雲系の人びとが進出してきたのであろうか。

諏訪氏の一部が室町時代頃にこの近くにやって来て城を築いたとの記録もあるようだから、その頃にできたものかもしれない。

境内の様子は明日に載せます。



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2014/02/17 20:50

諏訪大神(小見川下小堀)(2)

 昨日356号線(利根水郷ライン)沿いの旧小見川町(現香取市)下小堀地区に鎮座する諏訪寺大神(諏訪神社)を紹介しました。

今日はその境内に置かれた石碑などを紹介してみたいと思います。

IMG_0435s.jpg

神社の社殿の裏手にいくつかの像や石碑などがおかれています。

IMG_0436s.jpg

まずは青面金剛と三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の庚申塔です。

IMG_0436s2.jpg

これが三猿です。
こうして古い神社などを見て回っていてときどき見かけるようになりました。
庚申塔は「庚申」の文字を刻んだものも多く、道端に置かれたりしていますが、このように青面金剛像と三猿を彫った石塔は江戸初期から中期に多いようです。

この思想は中国の道教によるもので、人間の体には三尺(さんし)という小さな虫が三匹棲んでおり、60日ごとに訪れる庚申の日にその人した悪事を天帝に知らせるために体から抜け出すのだそうです。
そのため庚申の日にはこの三尺が抜け出さないように徹夜で見張るのだそうです。

でも現実としては皆で夜に集まって酒を飲んだりして夜を過ごす庚申講があちこちで行われました。
そして何回かこの庚申講が無事に行われると、庚申塔を作って祀るようになったのだそうです。

酒を飲んで起きているなんて悪事の一つになりそうですよね。

IMG_0437s.jpg

次は「大乗妙典六部日本廻国供養碑」です。

これは石岡にもあり前に説明しています。(こちら

六十六部(単に六部ともいう)といわれる人たちが妙典(法華経)を全国各地にもっていって奉納した時に、それが成就したことを記念して立てたものでしょう。

IMG_0438s.jpg

上の写真の左の石碑は「月山・湯殿山・羽黒山」と彫られています。
明治になるまではこの修験者の修行の山と言われた出羽三山の信仰がかなり強かったことがうかがわれます。
各地でこの三山が彫られた碑が置かれています。

神仏習合の権現を祀っているのだといいます。

Wikipediaを見て見ると
・月山神社:月山権現(月読命)、阿弥陀如来(仏)
・羽黒山神社:羽黒権現(伊氐波神・稲倉魂命)、正観世音菩薩(仏)
・湯殿山神社:湯殿山権現(大山祇神・大己貴命・少彦名命)、大日如来(仏)

となっています。

さて、右側の像は如来か菩薩のようでもありますが天女でしょうか。

IMG_0439s.jpg

これは「石尊大権現碑」です。

山に登る時に「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といって登ることが昔はよくありました。
山の上には山の権現(大きな石)が祀られていて、これに詣でることから山に登っていたのでしょう。

特に石尊大権現は丹沢の大山(おおやま)に祀られている「阿夫利神社(あふりじんじゃ)」を詣でる信仰が石尊信仰の代表だったようです。
他の神社でも「阿夫利」という石碑を見かけたことは何度かあります。

IMG_0440s.jpg

これらの祠は境内社なのでしょうが詳しいことはわかりません。

IMG_0441s.jpg

この石碑には「中臣大被二力度?」と彫られているようなのだがこれは何だろうか?
良く分からない。

さて、この神社につて何もわからないが近く(八本)に他にも小さな「諏訪神社」がある。

ここには、永享年間に足利成氏に加勢しに来た、信濃の諏訪豊教(すわほうきょう)が1438年八本(はちほん)砦(八本字城)を築いたと書かれていた。

信濃の諏訪大社の神官である諏訪氏の一族が室町時代にこの地にやって来ていたようだ。
この神社もその頃に建てられたのだろうか?

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/02/18 20:37

府馬の大クス(1)

 石岡に樹齢1300年以上といわれる「佐久の大杉」(こちら)があるが、今日は千葉県香取市にある樹齢1300年~1500年といわれる古木「府馬の大クス」を紹介します。

IMG_1385s.jpg

小見川から県道28号線を6km程南にいった辺りの高台にある。
この古木はクスではなく正式にはタブの木だそうです。

昔は香取の海が今の内陸の方まで入りこんでいて、この木の下の低地は海だったのです。

そのすぐ近くにはやはり高台に「阿玉台貝塚」(記事はこちら)や「良文貝塚」(記事はこちら)などの貝塚が山の上の方に見つかっているのです。

IMG_1386s.jpg

この府馬の大クスのあるのは宝亀四年(西暦773)創建と伝えられる「宇賀神社」の境内なのですが、この鳥居の奥には今では小さな社があるだけです。

IMG_1388s.jpg

やはり1300年以上の木というのは風格が違います。

IMG_1392s.jpg







にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/09 20:20

府馬の大クス(2)

 樹齢1300年~1500年といわれる府馬の大クスを紹介していますが、私がここを紹介したくなったのはこの大木の裏にある広場にある展望台からの眺めが気にいったからです。

IMG_1395s.jpg

この大木の裏手は広い公園になっていて、遊具はありませんが一つの展望台がおかれています。

IMG_1397s.jpg

展望台から下を見下ろすと広々とした田んぼが広がっています。

「麻績千丈ヶ谷」と呼ばれる昔は海?であった広い谷が広がっていたのです。
江戸時代頃から干拓がすすみ、稲作が行われ、大切なお米の生産が行われてきたようです。

IMG_1400s.jpg

昨日の記事にYAHOOの地図を載せていますが、同じところをFloodMapsで海面の高さを+5mとした地図を下に載せます。

千丈ヶ谷

昔、香取の海とか○○の流れ海などといわれた現在の霞ヶ浦を含む内海は現在の霞ヶ浦の約2倍の大きさがありました。

特に利根川の東遷によりかなり地形も変わり、この辺りも昔海であった場所のほとんどが農地となり水田が広がっています。

この「麻績(おみ?)千丈ヶ谷」といわれるのは昔は海だが、その後谷のようになったところに川(黒部川)が流れいた頃の地形であろう。

そこの場所が江戸時代には水田地として開拓が進んだのだろう。

近くにある大原幽学の記念館(こちらもまた明日にでも紹介します)なども新しい農業指導の拠点だったようだ。

依然訪れた阿玉台貝塚があまりに山の中にあるので何でこんな場所に貝塚があるのかと思ったが、縄文時代には内海で生活するにはとてもよい場所だったのかもしれない。

この地形を思い描くにもこの展望台に登るのがよさそうだ。



FloodMaps(こちらの地図

にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 茨城県情報へ  ← よろしければクリックお願いします。

小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/05/10 19:12
 | HOME | Next »