諏訪大神(千葉県東庄町)
香取神社を5回に分けて紹介してきましたが、周辺で少し気になるところを紹介していきたいと思います。
まずは、香取神宮から銚子の方に利根川を下ると小見川(現香取市)を過ぎて、少し銚子寄りに「笹川」駅があります。
ここは香取郡東庄町です。
国道356線(利根水郷ライン)の「東庄交番前」の信号の手前に大きな神社があります。

かなり明るく広い境内です。諏訪神社と呼ばずに「諏訪大神(だいじん)」と呼ばれているようです。
正面が拝殿です。

神社に書かれている「由緒沿革」を下記に抜粋します。
当社は御創祀は大同二年、坂上田村麻呂将軍が東夷征伐の砌、武運長久、海上安全を祈願し、勧請されたと伝えられ、以後承平二年、下総国守大江維時(これとき)の社殿造営、元暦元年、源頼朝の社領寄進、文治元年、千葉氏の社領寄進、建久二年、東重胤(とうしげたね)の社殿造営、社領寄進がありました。享保二年、神階正一位に叙せられ、明治四十二年郷社に列せられました。

坂上田村麻呂の大同二年の創建はどこまで事実かはわかりません。
この時期にたくさんの神社ができています。
でもその後の発展に多くの歴史が眠っていそうです。

この神社の祭神は諏訪大社の祭神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」と事代主命(恵比寿さま)、大国主命(大黒さま)です。
この地を開発してきた大和朝廷の皇室にゆかりの神社です。

本殿の造りも香取神宮、諏訪大社、出雲大社などと同じ流れを汲んでいるようです。

神社境内にある「神楽殿」と「相撲土俵」
春(4月)には伝統の神楽(笹川神楽、十六座)が奉納される。
秋(7月)には地域の力自慢やちびっこによる相撲大会が行われ、伝統の山車の引き回しも行われる。

「神楽殿」です。春の例祭で県指定無形文化財の笹川の神楽が披露されます。
文明7年(1475)、東常縁により、総社信州諏訪神社の神楽と混合した形で、笹川の神楽が誕生。猿田彦大神(天狗)、乙女の舞(おかめ)など16面によって構成されており、諏訪大神の春の例祭(第一土曜日)に、地元の住民によって境内の神楽殿で奉納される。(東庄町商工会HPより)

「天保十三年七月廿七日(諏訪明神祭禮の日)」の石碑
笹川(岩瀬)繁蔵は相撲の元祖野見宿禰の碑を建立すると共に農民救済を名目として大花会を催した
上州武蔵の大前田英五郎、上州上野の国定忠治、奥州仙台の鈴木忠吉、奥州信夫の常吉、駿州清水の次郎長など天下に知られた親分衆が出席し空前の盛会であった。(天保水滸伝遺跡保存会)

境内に立派な相撲土俵が作られています。

ここで出羽海部屋の夏合宿が今でも行われているようです。
相撲にとってはここでの歴史を振り返ってみるととても大切な場所のようです。
「天保水滸伝」講談や浪曲では有名で名前は聞いたことがあっても、私を含め今では知る人も少ないでしょう。

境内の一角にここ東庄町観光協会の建物があります。
「天保水滸伝遺品館」となっています。
ところで「天保(てんぽう)水滸伝」ってどんな話でしたっけ?
中国の水滸伝はまあまあ知っていますが・・・・
東庄町のHPより
「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。
となっていますが、天保15年(1844)にあった笹川一家と飯岡一家の大乱闘「大利根河原の決闘」などが伝えられて国定忠治の話などとともに講談や浪曲で伝えられてきたもののようです。
まあこのような任侠話しは娯楽の少ない時代にそれなりに世の中に受け入れられてきたのでしょう。
利根の決闘では勝利した笹川繁蔵でしたが、その後賭場帰りに、飯岡側の闇討ちにあい殺害されてしまいました。
知らなくてもいい話かもしれません。
笹川繁蔵の碑はこの神社の裏にある「延命寺」にあります。
← よろしければクリックお願いします。
まずは、香取神宮から銚子の方に利根川を下ると小見川(現香取市)を過ぎて、少し銚子寄りに「笹川」駅があります。
ここは香取郡東庄町です。
国道356線(利根水郷ライン)の「東庄交番前」の信号の手前に大きな神社があります。

かなり明るく広い境内です。諏訪神社と呼ばずに「諏訪大神(だいじん)」と呼ばれているようです。
正面が拝殿です。

神社に書かれている「由緒沿革」を下記に抜粋します。
当社は御創祀は大同二年、坂上田村麻呂将軍が東夷征伐の砌、武運長久、海上安全を祈願し、勧請されたと伝えられ、以後承平二年、下総国守大江維時(これとき)の社殿造営、元暦元年、源頼朝の社領寄進、文治元年、千葉氏の社領寄進、建久二年、東重胤(とうしげたね)の社殿造営、社領寄進がありました。享保二年、神階正一位に叙せられ、明治四十二年郷社に列せられました。

坂上田村麻呂の大同二年の創建はどこまで事実かはわかりません。
この時期にたくさんの神社ができています。
でもその後の発展に多くの歴史が眠っていそうです。

この神社の祭神は諏訪大社の祭神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」と事代主命(恵比寿さま)、大国主命(大黒さま)です。
この地を開発してきた大和朝廷の皇室にゆかりの神社です。

本殿の造りも香取神宮、諏訪大社、出雲大社などと同じ流れを汲んでいるようです。

神社境内にある「神楽殿」と「相撲土俵」
春(4月)には伝統の神楽(笹川神楽、十六座)が奉納される。
秋(7月)には地域の力自慢やちびっこによる相撲大会が行われ、伝統の山車の引き回しも行われる。

「神楽殿」です。春の例祭で県指定無形文化財の笹川の神楽が披露されます。
文明7年(1475)、東常縁により、総社信州諏訪神社の神楽と混合した形で、笹川の神楽が誕生。猿田彦大神(天狗)、乙女の舞(おかめ)など16面によって構成されており、諏訪大神の春の例祭(第一土曜日)に、地元の住民によって境内の神楽殿で奉納される。(東庄町商工会HPより)

「天保十三年七月廿七日(諏訪明神祭禮の日)」の石碑
笹川(岩瀬)繁蔵は相撲の元祖野見宿禰の碑を建立すると共に農民救済を名目として大花会を催した
上州武蔵の大前田英五郎、上州上野の国定忠治、奥州仙台の鈴木忠吉、奥州信夫の常吉、駿州清水の次郎長など天下に知られた親分衆が出席し空前の盛会であった。(天保水滸伝遺跡保存会)

境内に立派な相撲土俵が作られています。

ここで出羽海部屋の夏合宿が今でも行われているようです。
相撲にとってはここでの歴史を振り返ってみるととても大切な場所のようです。
「天保水滸伝」講談や浪曲では有名で名前は聞いたことがあっても、私を含め今では知る人も少ないでしょう。

境内の一角にここ東庄町観光協会の建物があります。
「天保水滸伝遺品館」となっています。
ところで「天保(てんぽう)水滸伝」ってどんな話でしたっけ?
中国の水滸伝はまあまあ知っていますが・・・・
東庄町のHPより
「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄が舞台の、笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語。
となっていますが、天保15年(1844)にあった笹川一家と飯岡一家の大乱闘「大利根河原の決闘」などが伝えられて国定忠治の話などとともに講談や浪曲で伝えられてきたもののようです。
まあこのような任侠話しは娯楽の少ない時代にそれなりに世の中に受け入れられてきたのでしょう。
利根の決闘では勝利した笹川繁蔵でしたが、その後賭場帰りに、飯岡側の闇討ちにあい殺害されてしまいました。
知らなくてもいい話かもしれません。
笹川繁蔵の碑はこの神社の裏にある「延命寺」にあります。


桜井浜鳥居
千葉県の佐原市と小見川町が合併して香取市となり、その中心に香取神宮がある。
その香取神宮から利根川沿いを東に進むと東庄町(とうのしょうまち)となる。
この東庄町は「利根の川風袂に入れて・・・」と歌われた天保水滸伝の話が伝わる町で、昔の任侠物や浪曲に出てくる場所であり、相撲の盛んな街でもある。
その東庄町から少し行ったところが銚子市桜井町となる。
この桜井の西のはずれの利根川岸に木製の鳥居が立っている。

桜井浜鳥居というそうだ。

この鳥居には2年に一度4月に行われる東大社(東庄町)の神幸祭(東大社式年銚子大神幸祭)でこの浜まで運ばれた神輿を50人ほどの男衆がかついで川に入り神輿を川に漬けて皆で水を神輿にかける。(お浜降り)

この桜井町はいまは銚子市になっているが、どちらかというと東庄町との関係が深いように思う。
銚子ではこの東大社も含め三つの神社の間で20年に1度の銚子大神幸祭が行われており、900年以上続く祭りとされていて、20年に1度は銚子の外川まで巡行するそうだ。


この鳥居の場所は桜井町公園という広い公園があるその端にある。
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その香取神宮から利根川沿いを東に進むと東庄町(とうのしょうまち)となる。
この東庄町は「利根の川風袂に入れて・・・」と歌われた天保水滸伝の話が伝わる町で、昔の任侠物や浪曲に出てくる場所であり、相撲の盛んな街でもある。
その東庄町から少し行ったところが銚子市桜井町となる。
この桜井の西のはずれの利根川岸に木製の鳥居が立っている。

桜井浜鳥居というそうだ。

この鳥居には2年に一度4月に行われる東大社(東庄町)の神幸祭(東大社式年銚子大神幸祭)でこの浜まで運ばれた神輿を50人ほどの男衆がかついで川に入り神輿を川に漬けて皆で水を神輿にかける。(お浜降り)

この桜井町はいまは銚子市になっているが、どちらかというと東庄町との関係が深いように思う。
銚子ではこの東大社も含め三つの神社の間で20年に1度の銚子大神幸祭が行われており、900年以上続く祭りとされていて、20年に1度は銚子の外川まで巡行するそうだ。


この鳥居の場所は桜井町公園という広い公園があるその端にある。


東大社
昨日利根川岸辺にある桜井の鳥居を紹介しましたが、あまりうまく紹介出来ていなくて反省です。
やはり調べて自分の頭で理解するのはかなり大変です。
時間がなくとりあえず書いた記事をUPして、読んだらおかしなところがありすぐに修正し、気になっていたところを調べ直していたら私の解釈が間違っていたことがありまた修正しました。
家内からも「少し手抜きになったね」などと言われるのでしばらく休みながら書こうかとも思ったのですが、止められないんです。
書いている方が苦労しても読んでもらえなければ意味もないのですが、長い目で見れば記録に残しておくと言う別次元の問題もあるのでその時に読まれなくても良いとも思っています。
昨日の桜井の鳥居を見てから数週間後にこの祭りの中心となっている東庄町(とうのしょうまち)の東大社(とうたいしゃ)に行ってみました。

成田線の下総橘(しもふさたちばな)駅より西に約2kmほど入って行った所にあります。
駅前には町の案内看板があります。
左上に天保水滸伝と諏訪大神、 そして右上に雲井岬つつじ公園と東大社が載っています。
諏訪大神については1年以上前に紹介しています。(こちら)

駅から結構近いと思ったのですがどんどん奥に入って行く感じです。
この東大社は鬱蒼とした森に囲まれ、入口は駅とは反対の西南の方向にあります。

とても歴史も古く簡単に紹介することもできないものがありますが、鹿島神宮との関係も深く鹿島神宮から鹿を奈良に運ぶ時もこの辺りを通っていたようです。
この神社拝殿は文政十年(1927)造営し、昭和31年に屋根を銅板葺に改修したもの。

この地は、鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼(たねより)が荘園(東庄)に住んで、この東大社神官より東氏(とうし)という名前を譲り受けて戦国時代まで支配してきた。

本殿は文政9年(1826)の造営。屋根は拝殿と共に昭和31年に銅版に葺き変えた。

銚子の式年神幸祭に使われている神輿。
水に浸かったりするのでそのたびに修理しているという。

この式年神幸祭は講4年(1102)にかつての東荘33郷がまとまって始められたと伝えられている。


東大社略記(クリックで拡大します)
なかなか一筋縄ではいきません。読んでみたい方は写真をクリックして拡大して読んでください。
ヤマトタケルの父「景行天皇」が息子が平定した地を後に巡行し、この神社の裏(白幡)に船でやってきて、七日間逗留した。
その時に東国・東海の鎮護としてこの神社を建てたのが始まりだとか・・・。
いまから1800年以上前?だという。(これは少しおかしいかな?)
ただ歴代の天皇や源頼朝、徳川家康などからも寄進を受けている大社である。
また明治6年に郷社、大正8年に県社となっている。
なかなか奥の深い神社である。
この地では江戸時代にはヤクザの親分がおり、天保15年(1844)、笹川繁蔵と飯岡助五郎の争いに平手造酒(ひらてみき)などが加わって、大利根河原の血闘が起こった。
この天保水滸伝も昔は浪曲で良くやっていたが、今では聞く事もないのでほとんどの方は知らないであろう。
江戸時代の水運の時代まではこの町も結構賑わっていたのであろう。
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やはり調べて自分の頭で理解するのはかなり大変です。
時間がなくとりあえず書いた記事をUPして、読んだらおかしなところがありすぐに修正し、気になっていたところを調べ直していたら私の解釈が間違っていたことがありまた修正しました。
家内からも「少し手抜きになったね」などと言われるのでしばらく休みながら書こうかとも思ったのですが、止められないんです。
書いている方が苦労しても読んでもらえなければ意味もないのですが、長い目で見れば記録に残しておくと言う別次元の問題もあるのでその時に読まれなくても良いとも思っています。
昨日の桜井の鳥居を見てから数週間後にこの祭りの中心となっている東庄町(とうのしょうまち)の東大社(とうたいしゃ)に行ってみました。

成田線の下総橘(しもふさたちばな)駅より西に約2kmほど入って行った所にあります。
駅前には町の案内看板があります。
左上に天保水滸伝と諏訪大神、 そして右上に雲井岬つつじ公園と東大社が載っています。
諏訪大神については1年以上前に紹介しています。(こちら)

駅から結構近いと思ったのですがどんどん奥に入って行く感じです。
この東大社は鬱蒼とした森に囲まれ、入口は駅とは反対の西南の方向にあります。

とても歴史も古く簡単に紹介することもできないものがありますが、鹿島神宮との関係も深く鹿島神宮から鹿を奈良に運ぶ時もこの辺りを通っていたようです。
この神社拝殿は文政十年(1927)造営し、昭和31年に屋根を銅板葺に改修したもの。

この地は、鎌倉時代の初めに千葉常胤の六男胤頼(たねより)が荘園(東庄)に住んで、この東大社神官より東氏(とうし)という名前を譲り受けて戦国時代まで支配してきた。

本殿は文政9年(1826)の造営。屋根は拝殿と共に昭和31年に銅版に葺き変えた。

銚子の式年神幸祭に使われている神輿。
水に浸かったりするのでそのたびに修理しているという。

この式年神幸祭は講4年(1102)にかつての東荘33郷がまとまって始められたと伝えられている。


東大社略記(クリックで拡大します)
なかなか一筋縄ではいきません。読んでみたい方は写真をクリックして拡大して読んでください。
ヤマトタケルの父「景行天皇」が息子が平定した地を後に巡行し、この神社の裏(白幡)に船でやってきて、七日間逗留した。
その時に東国・東海の鎮護としてこの神社を建てたのが始まりだとか・・・。
いまから1800年以上前?だという。(これは少しおかしいかな?)
ただ歴代の天皇や源頼朝、徳川家康などからも寄進を受けている大社である。
また明治6年に郷社、大正8年に県社となっている。
なかなか奥の深い神社である。
この地では江戸時代にはヤクザの親分がおり、天保15年(1844)、笹川繁蔵と飯岡助五郎の争いに平手造酒(ひらてみき)などが加わって、大利根河原の血闘が起こった。
この天保水滸伝も昔は浪曲で良くやっていたが、今では聞く事もないのでほとんどの方は知らないであろう。
江戸時代の水運の時代まではこの町も結構賑わっていたのであろう。


菅原大神
昨日紹介した東庄町の「東大社」は県社にも列せられた由緒ある神社で、銚子の式年神幸祭の中心ともなっている神社とわかりましたが、実は桜井浜の鳥居のすぐ近くには菅原道真を祀る古い神社があります。
「菅原大神天満宮神社」です。
浜から成田線の方に向かって進むと線路の手前右側にあり古社なのですが東大社などよりも低地に鎮座しています。

下に掲載した写真に由来などを載せましたが、戦国時代末期頃にはこの地にあったようです。

菅原道真は1100年ほど前に大宰府で亡くなりますが、その後全国に学問の神様として天神様が建ちました。
天神様としては「大宰府天満宮」と「北野天満宮」が有名ですが、茨城の大生郷天満宮(常総市)もかなり古い由緒ある神社です。
ではここの天満宮はどのような神社なのでしょうか。

菅原大神と神社の名前につけているように菅原道真を崇拝して祀っていること。
(神社の紋は天満宮によくある「丸に梅鉢」)
また「子宝石(子産石)」と呼ばれる大小約90個の玉石が保管されていて、子宝に恵まれない女性がこの石をおなかに抱いて祈ると、赤ちゃんができると言われていること。
しかし、この子宝石はこの近くにあって信仰を集めていた御産宮をこの菅原大神と一緒にしたという経緯があるようです。

この子宝に恵まれると言う神社やお宮は全国にたくさんありますが、この神社はその中でも古くから信仰を集めてきたようです。この神社が別名「子宝神社」としての方が有名なのかもしれません。


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「菅原大神天満宮神社」です。
浜から成田線の方に向かって進むと線路の手前右側にあり古社なのですが東大社などよりも低地に鎮座しています。

下に掲載した写真に由来などを載せましたが、戦国時代末期頃にはこの地にあったようです。

菅原道真は1100年ほど前に大宰府で亡くなりますが、その後全国に学問の神様として天神様が建ちました。
天神様としては「大宰府天満宮」と「北野天満宮」が有名ですが、茨城の大生郷天満宮(常総市)もかなり古い由緒ある神社です。
ではここの天満宮はどのような神社なのでしょうか。

菅原大神と神社の名前につけているように菅原道真を崇拝して祀っていること。
(神社の紋は天満宮によくある「丸に梅鉢」)
また「子宝石(子産石)」と呼ばれる大小約90個の玉石が保管されていて、子宝に恵まれない女性がこの石をおなかに抱いて祈ると、赤ちゃんができると言われていること。
しかし、この子宝石はこの近くにあって信仰を集めていた御産宮をこの菅原大神と一緒にしたという経緯があるようです。

この子宝に恵まれると言う神社やお宮は全国にたくさんありますが、この神社はその中でも古くから信仰を集めてきたようです。この神社が別名「子宝神社」としての方が有名なのかもしれません。




雲井岬
一昨日に千葉県東庄町にある「東大社」を紹介しましたが、この神社のある位置は利根川に近いところを走る成田線から内陸側に2km以上入ったところにあり、かなり高台(標高50m位)にある。
しかし、この神社の隣が「雲井岬」と言われる公園があり、昔は岬であり崖となっていたというのである。

今はつつじの花が美しいな所として知られているようだ。

岬公園らしきところに入って見たが、この時期でもありつつじもどのようになっているのかよく分からなかった。

通りの反対側が恐らく公園にもなっていると思われるが工事しており入ることが出来なかった。
ここから利根川の方まで見渡せるらしいのだが・・・。

岬公園からは神社の裏手の道と繋がっており、神社入口はこの反対側に入口鳥居がある。
それにしても昔の地形はどのようになっていたのだろうか。Flood Mapsでもあまりよく分からない。

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しかし、この神社の隣が「雲井岬」と言われる公園があり、昔は岬であり崖となっていたというのである。

今はつつじの花が美しいな所として知られているようだ。

岬公園らしきところに入って見たが、この時期でもありつつじもどのようになっているのかよく分からなかった。

通りの反対側が恐らく公園にもなっていると思われるが工事しており入ることが出来なかった。
ここから利根川の方まで見渡せるらしいのだが・・・。

岬公園からは神社の裏手の道と繋がっており、神社入口はこの反対側に入口鳥居がある。
それにしても昔の地形はどのようになっていたのだろうか。Flood Mapsでもあまりよく分からない。



小見川大橋
銚子から戻る時に利根川と常陸川の間にある中州を通ることが多い。
先日出かけた時に戻る時間が少し早かったので、途中の小見川大橋の所で夕暮れとなった。
信号待ちで1枚写真を撮った。

(写真はクリックすると拡大します)
利根川に架かる小見川大橋。
この川は利根川で橋を渡ると向こう側は小見川(現香取市)だ。そして香取神宮に行くことができる。
そして、この中洲の所から右に曲がると常陸川(常陸利根川)で、そこに架かる橋を息栖(いきす)大橋という。
そう、その息栖大橋を渡ると茨城県となりすぐそばに「息栖神社」があります。
この橋の所が東国三社といわれる「息栖神社」と「香取神宮」を結ぶ橋になります。
昔はこの中州の陸地はなく大きな海が繋がっていたのでしょう。
たそがれゆく空を眺め、すこし寂しく輝く明かりを見ているとどこか懐かしさがこみ上げてきます。
例え、鹿島・香取・息栖が直角三角形に並んでいるのが人工的に配置されたとしても、この三角地帯が大和朝廷の東国進出の最重要地帯だったのでしょう。
やはり黒潮に乗って、海からこの地に大和民族がやって来たのは間違いないでしょう。
前に書いた東国三社の位置関係はこちらを参照下さい。

(Flood Maps で海面高さを+5mとして表示した地図に記入)
今回はこの東国三社のレイラインと銚子と常陸国府石岡の位置関係を載せます。
前に鹿島-香取-息栖のラインを弓の弦と矢に例えてこの弓を引いた時に矢が放たれて常陸国府を焼いたという事を言っていた人がいた。
私はこの説には同調しないがこのラインの延長に常陸国府を移してきたのだと思うようになった。
石岡では「茨城の県名の発祥の地」との説明看板も立っているが、茨城は小原(現笠間市)からこの地に移されたものだ。
息栖神社を今の位置に移したと同じように、計画的にこの地に移したのではないかと思う。
まあ単なる仮説だが・・・。
今日は銚子に出かけていて戻るのが遅くなってしまった。
この橋の場所もまた通ったがもう辺りは暗闇であった。
まあこんな位置関係を考えながらここを通る人はたぶん他にはいないだろうと思う。
また上の地図では加波山までしか延ばしていないが、これをさらに延長するときっと日光に行くと思う。
徳川家康の墓所を東照宮に定めた「天海僧正」はきっとこれも見抜いて位置を決めたのかもしれない。
こんな想像も結構面白いな。
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先日出かけた時に戻る時間が少し早かったので、途中の小見川大橋の所で夕暮れとなった。
信号待ちで1枚写真を撮った。

(写真はクリックすると拡大します)
利根川に架かる小見川大橋。
この川は利根川で橋を渡ると向こう側は小見川(現香取市)だ。そして香取神宮に行くことができる。
そして、この中洲の所から右に曲がると常陸川(常陸利根川)で、そこに架かる橋を息栖(いきす)大橋という。
そう、その息栖大橋を渡ると茨城県となりすぐそばに「息栖神社」があります。
この橋の所が東国三社といわれる「息栖神社」と「香取神宮」を結ぶ橋になります。
昔はこの中州の陸地はなく大きな海が繋がっていたのでしょう。
たそがれゆく空を眺め、すこし寂しく輝く明かりを見ているとどこか懐かしさがこみ上げてきます。
例え、鹿島・香取・息栖が直角三角形に並んでいるのが人工的に配置されたとしても、この三角地帯が大和朝廷の東国進出の最重要地帯だったのでしょう。
やはり黒潮に乗って、海からこの地に大和民族がやって来たのは間違いないでしょう。
前に書いた東国三社の位置関係はこちらを参照下さい。

(Flood Maps で海面高さを+5mとして表示した地図に記入)
今回はこの東国三社のレイラインと銚子と常陸国府石岡の位置関係を載せます。
前に鹿島-香取-息栖のラインを弓の弦と矢に例えてこの弓を引いた時に矢が放たれて常陸国府を焼いたという事を言っていた人がいた。
私はこの説には同調しないがこのラインの延長に常陸国府を移してきたのだと思うようになった。
石岡では「茨城の県名の発祥の地」との説明看板も立っているが、茨城は小原(現笠間市)からこの地に移されたものだ。
息栖神社を今の位置に移したと同じように、計画的にこの地に移したのではないかと思う。
まあ単なる仮説だが・・・。
今日は銚子に出かけていて戻るのが遅くなってしまった。
この橋の場所もまた通ったがもう辺りは暗闇であった。
まあこんな位置関係を考えながらここを通る人はたぶん他にはいないだろうと思う。
また上の地図では加波山までしか延ばしていないが、これをさらに延長するときっと日光に行くと思う。
徳川家康の墓所を東照宮に定めた「天海僧正」はきっとこれも見抜いて位置を決めたのかもしれない。
こんな想像も結構面白いな。


諏訪大神(小見川下小堀)(1)
千葉県香取市周辺で諏訪神社といえば佐原の祭りで有名な諏訪神社(こちら1、こちら2、こちら3)と、東庄町笹川の諏訪大神(こちら)がゆうめいである。
でもなんでこの地方に大きな諏訪神社や諏訪大神があるのだろうと不思議に思っていた。
そんな中、国道356号を佐原(香取市)の町から銚子方面に進むと香取神宮への道を過ぎて旧小見川町へ入ったあたりで道路沿いに少し不思議な形をした神社を見かけて前から気になっていた。
小見川は太古の時代には霞ヶ浦が大きな内海となって香取海と呼ばれていた時には内陸の方まで水がはいりこんでいたという。
そのために内陸に貝塚などが見つかっているのだそうだ。
先日この神社に立寄って見た。書かれたものは何もないが、地図では「諏訪神社」とあり、参道には「諏訪大神」とかかれていた。

この神社拝殿の両横をすっぽりとかぶせたような板がつけられており、なんとも奇妙な感じだ。

どうやらこれは中に古くからの神社本殿があり、これを風雨から保護するためにつけられたものらしい。

かなり古い神社のようで古木もこの通り。
根っこが人の足のようで、まるで生きているかのようだ。

サイドの板はトタンででもできているのだろうが、なかなか面白い形になっている。
色が塗られていて雰囲気が一体になっているせいか。

さあこの中に保存されている神社の本殿の彫刻は見事であり見ごたえがあるものであった。
調べると「石田丹治」と「鈴木多門豊賢」という彫師の手で彫られたものだろうとのこと。
江戸の末期になるようだ。

確かに彫刻はかなり凝ったものだ。

「諏訪宮」と掲げられていた。

信濃諏訪大社とこの地との関係が何かあるのだろうか。出雲系の人びとが進出してきたのであろうか。
諏訪氏の一部が室町時代頃にこの近くにやって来て城を築いたとの記録もあるようだから、その頃にできたものかもしれない。
境内の様子は明日に載せます。
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でもなんでこの地方に大きな諏訪神社や諏訪大神があるのだろうと不思議に思っていた。
そんな中、国道356号を佐原(香取市)の町から銚子方面に進むと香取神宮への道を過ぎて旧小見川町へ入ったあたりで道路沿いに少し不思議な形をした神社を見かけて前から気になっていた。
小見川は太古の時代には霞ヶ浦が大きな内海となって香取海と呼ばれていた時には内陸の方まで水がはいりこんでいたという。
そのために内陸に貝塚などが見つかっているのだそうだ。
先日この神社に立寄って見た。書かれたものは何もないが、地図では「諏訪神社」とあり、参道には「諏訪大神」とかかれていた。

この神社拝殿の両横をすっぽりとかぶせたような板がつけられており、なんとも奇妙な感じだ。

どうやらこれは中に古くからの神社本殿があり、これを風雨から保護するためにつけられたものらしい。

かなり古い神社のようで古木もこの通り。
根っこが人の足のようで、まるで生きているかのようだ。

サイドの板はトタンででもできているのだろうが、なかなか面白い形になっている。
色が塗られていて雰囲気が一体になっているせいか。

さあこの中に保存されている神社の本殿の彫刻は見事であり見ごたえがあるものであった。
調べると「石田丹治」と「鈴木多門豊賢」という彫師の手で彫られたものだろうとのこと。
江戸の末期になるようだ。

確かに彫刻はかなり凝ったものだ。

「諏訪宮」と掲げられていた。

信濃諏訪大社とこの地との関係が何かあるのだろうか。出雲系の人びとが進出してきたのであろうか。
諏訪氏の一部が室町時代頃にこの近くにやって来て城を築いたとの記録もあるようだから、その頃にできたものかもしれない。
境内の様子は明日に載せます。


諏訪大神(小見川下小堀)(2)
昨日356号線(利根水郷ライン)沿いの旧小見川町(現香取市)下小堀地区に鎮座する諏訪寺大神(諏訪神社)を紹介しました。
今日はその境内に置かれた石碑などを紹介してみたいと思います。

神社の社殿の裏手にいくつかの像や石碑などがおかれています。

まずは青面金剛と三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の庚申塔です。

これが三猿です。
こうして古い神社などを見て回っていてときどき見かけるようになりました。
庚申塔は「庚申」の文字を刻んだものも多く、道端に置かれたりしていますが、このように青面金剛像と三猿を彫った石塔は江戸初期から中期に多いようです。
この思想は中国の道教によるもので、人間の体には三尺(さんし)という小さな虫が三匹棲んでおり、60日ごとに訪れる庚申の日にその人した悪事を天帝に知らせるために体から抜け出すのだそうです。
そのため庚申の日にはこの三尺が抜け出さないように徹夜で見張るのだそうです。
でも現実としては皆で夜に集まって酒を飲んだりして夜を過ごす庚申講があちこちで行われました。
そして何回かこの庚申講が無事に行われると、庚申塔を作って祀るようになったのだそうです。
酒を飲んで起きているなんて悪事の一つになりそうですよね。

次は「大乗妙典六部日本廻国供養碑」です。
これは石岡にもあり前に説明しています。(こちら)
六十六部(単に六部ともいう)といわれる人たちが妙典(法華経)を全国各地にもっていって奉納した時に、それが成就したことを記念して立てたものでしょう。

上の写真の左の石碑は「月山・湯殿山・羽黒山」と彫られています。
明治になるまではこの修験者の修行の山と言われた出羽三山の信仰がかなり強かったことがうかがわれます。
各地でこの三山が彫られた碑が置かれています。
神仏習合の権現を祀っているのだといいます。
Wikipediaを見て見ると
・月山神社:月山権現(月読命)、阿弥陀如来(仏)
・羽黒山神社:羽黒権現(伊氐波神・稲倉魂命)、正観世音菩薩(仏)
・湯殿山神社:湯殿山権現(大山祇神・大己貴命・少彦名命)、大日如来(仏)
となっています。
さて、右側の像は如来か菩薩のようでもありますが天女でしょうか。

これは「石尊大権現碑」です。
山に登る時に「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といって登ることが昔はよくありました。
山の上には山の権現(大きな石)が祀られていて、これに詣でることから山に登っていたのでしょう。
特に石尊大権現は丹沢の大山(おおやま)に祀られている「阿夫利神社(あふりじんじゃ)」を詣でる信仰が石尊信仰の代表だったようです。
他の神社でも「阿夫利」という石碑を見かけたことは何度かあります。

これらの祠は境内社なのでしょうが詳しいことはわかりません。

この石碑には「中臣大被二力度?」と彫られているようなのだがこれは何だろうか?
良く分からない。
さて、この神社につて何もわからないが近く(八本)に他にも小さな「諏訪神社」がある。
ここには、永享年間に足利成氏に加勢しに来た、信濃の諏訪豊教(すわほうきょう)が1438年八本(はちほん)砦(八本字城)を築いたと書かれていた。
信濃の諏訪大社の神官である諏訪氏の一族が室町時代にこの地にやって来ていたようだ。
この神社もその頃に建てられたのだろうか?
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今日はその境内に置かれた石碑などを紹介してみたいと思います。

神社の社殿の裏手にいくつかの像や石碑などがおかれています。

まずは青面金剛と三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の庚申塔です。

これが三猿です。
こうして古い神社などを見て回っていてときどき見かけるようになりました。
庚申塔は「庚申」の文字を刻んだものも多く、道端に置かれたりしていますが、このように青面金剛像と三猿を彫った石塔は江戸初期から中期に多いようです。
この思想は中国の道教によるもので、人間の体には三尺(さんし)という小さな虫が三匹棲んでおり、60日ごとに訪れる庚申の日にその人した悪事を天帝に知らせるために体から抜け出すのだそうです。
そのため庚申の日にはこの三尺が抜け出さないように徹夜で見張るのだそうです。
でも現実としては皆で夜に集まって酒を飲んだりして夜を過ごす庚申講があちこちで行われました。
そして何回かこの庚申講が無事に行われると、庚申塔を作って祀るようになったのだそうです。
酒を飲んで起きているなんて悪事の一つになりそうですよね。

次は「大乗妙典六部日本廻国供養碑」です。
これは石岡にもあり前に説明しています。(こちら)
六十六部(単に六部ともいう)といわれる人たちが妙典(法華経)を全国各地にもっていって奉納した時に、それが成就したことを記念して立てたものでしょう。

上の写真の左の石碑は「月山・湯殿山・羽黒山」と彫られています。
明治になるまではこの修験者の修行の山と言われた出羽三山の信仰がかなり強かったことがうかがわれます。
各地でこの三山が彫られた碑が置かれています。
神仏習合の権現を祀っているのだといいます。
Wikipediaを見て見ると
・月山神社:月山権現(月読命)、阿弥陀如来(仏)
・羽黒山神社:羽黒権現(伊氐波神・稲倉魂命)、正観世音菩薩(仏)
・湯殿山神社:湯殿山権現(大山祇神・大己貴命・少彦名命)、大日如来(仏)
となっています。
さて、右側の像は如来か菩薩のようでもありますが天女でしょうか。

これは「石尊大権現碑」です。
山に登る時に「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といって登ることが昔はよくありました。
山の上には山の権現(大きな石)が祀られていて、これに詣でることから山に登っていたのでしょう。
特に石尊大権現は丹沢の大山(おおやま)に祀られている「阿夫利神社(あふりじんじゃ)」を詣でる信仰が石尊信仰の代表だったようです。
他の神社でも「阿夫利」という石碑を見かけたことは何度かあります。

これらの祠は境内社なのでしょうが詳しいことはわかりません。

この石碑には「中臣大被二力度?」と彫られているようなのだがこれは何だろうか?
良く分からない。
さて、この神社につて何もわからないが近く(八本)に他にも小さな「諏訪神社」がある。
ここには、永享年間に足利成氏に加勢しに来た、信濃の諏訪豊教(すわほうきょう)が1438年八本(はちほん)砦(八本字城)を築いたと書かれていた。
信濃の諏訪大社の神官である諏訪氏の一族が室町時代にこの地にやって来ていたようだ。
この神社もその頃に建てられたのだろうか?


府馬の大クス(1)
石岡に樹齢1300年以上といわれる「佐久の大杉」(こちら)があるが、今日は千葉県香取市にある樹齢1300年~1500年といわれる古木「府馬の大クス」を紹介します。

小見川から県道28号線を6km程南にいった辺りの高台にある。
この古木はクスではなく正式にはタブの木だそうです。
昔は香取の海が今の内陸の方まで入りこんでいて、この木の下の低地は海だったのです。
そのすぐ近くにはやはり高台に「阿玉台貝塚」(記事はこちら)や「良文貝塚」(記事はこちら)などの貝塚が山の上の方に見つかっているのです。

この府馬の大クスのあるのは宝亀四年(西暦773)創建と伝えられる「宇賀神社」の境内なのですが、この鳥居の奥には今では小さな社があるだけです。

やはり1300年以上の木というのは風格が違います。

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小見川から県道28号線を6km程南にいった辺りの高台にある。
この古木はクスではなく正式にはタブの木だそうです。
昔は香取の海が今の内陸の方まで入りこんでいて、この木の下の低地は海だったのです。
そのすぐ近くにはやはり高台に「阿玉台貝塚」(記事はこちら)や「良文貝塚」(記事はこちら)などの貝塚が山の上の方に見つかっているのです。

この府馬の大クスのあるのは宝亀四年(西暦773)創建と伝えられる「宇賀神社」の境内なのですが、この鳥居の奥には今では小さな社があるだけです。

やはり1300年以上の木というのは風格が違います。



府馬の大クス(2)
樹齢1300年~1500年といわれる府馬の大クスを紹介していますが、私がここを紹介したくなったのはこの大木の裏にある広場にある展望台からの眺めが気にいったからです。

この大木の裏手は広い公園になっていて、遊具はありませんが一つの展望台がおかれています。

展望台から下を見下ろすと広々とした田んぼが広がっています。
「麻績千丈ヶ谷」と呼ばれる昔は海?であった広い谷が広がっていたのです。
江戸時代頃から干拓がすすみ、稲作が行われ、大切なお米の生産が行われてきたようです。

昨日の記事にYAHOOの地図を載せていますが、同じところをFloodMapsで海面の高さを+5mとした地図を下に載せます。

昔、香取の海とか○○の流れ海などといわれた現在の霞ヶ浦を含む内海は現在の霞ヶ浦の約2倍の大きさがありました。
特に利根川の東遷によりかなり地形も変わり、この辺りも昔海であった場所のほとんどが農地となり水田が広がっています。
この「麻績(おみ?)千丈ヶ谷」といわれるのは昔は海だが、その後谷のようになったところに川(黒部川)が流れいた頃の地形であろう。
そこの場所が江戸時代には水田地として開拓が進んだのだろう。
近くにある大原幽学の記念館(こちらもまた明日にでも紹介します)なども新しい農業指導の拠点だったようだ。
依然訪れた阿玉台貝塚があまりに山の中にあるので何でこんな場所に貝塚があるのかと思ったが、縄文時代には内海で生活するにはとてもよい場所だったのかもしれない。
この地形を思い描くにもこの展望台に登るのがよさそうだ。
FloodMaps(こちらの地図)
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この大木の裏手は広い公園になっていて、遊具はありませんが一つの展望台がおかれています。

展望台から下を見下ろすと広々とした田んぼが広がっています。
「麻績千丈ヶ谷」と呼ばれる昔は海?であった広い谷が広がっていたのです。
江戸時代頃から干拓がすすみ、稲作が行われ、大切なお米の生産が行われてきたようです。

昨日の記事にYAHOOの地図を載せていますが、同じところをFloodMapsで海面の高さを+5mとした地図を下に載せます。

昔、香取の海とか○○の流れ海などといわれた現在の霞ヶ浦を含む内海は現在の霞ヶ浦の約2倍の大きさがありました。
特に利根川の東遷によりかなり地形も変わり、この辺りも昔海であった場所のほとんどが農地となり水田が広がっています。
この「麻績(おみ?)千丈ヶ谷」といわれるのは昔は海だが、その後谷のようになったところに川(黒部川)が流れいた頃の地形であろう。
そこの場所が江戸時代には水田地として開拓が進んだのだろう。
近くにある大原幽学の記念館(こちらもまた明日にでも紹介します)なども新しい農業指導の拠点だったようだ。
依然訪れた阿玉台貝塚があまりに山の中にあるので何でこんな場所に貝塚があるのかと思ったが、縄文時代には内海で生活するにはとてもよい場所だったのかもしれない。
この地形を思い描くにもこの展望台に登るのがよさそうだ。
FloodMaps(こちらの地図)


小見川から府馬大クスまで
千葉県の香取市は佐原市と小見川町、山田町、栗源町が合併して旧香取郡と香取神宮にちなんで香取市となった。
しかし、まだ佐原や小見川と言った方が私にはなじみもある。
とはいってもほとんど佐原をのぞいてはほとんどこの土地を知らない。
前に東庄町を訪れて、天保水滸伝の看板が目立ち、少し古臭いイメージがついてまわる。
しかし、先日府馬の大くすを訪れ、台地の上からこの一帯を眺めたら広い水田が広がり、FloodMapsでも大昔は小見川駅などからこの平野部は香取の海に沈んでしまっていたことが判明した。
そんなことを気にしながらまた国道356号線(利根水郷ライン)から県道28号線を旭市方面に車を走らせていました。
小見川駅近くから最初のうちは結構開けた街中で旧小見川町役場などはきれいになり、大きな建物もたくさんありますが少し進むともう田園地帯になります。
これも江戸時代に開拓されたのでしょう。そんな中少し古い物を探してみました。

「JAかとり」の手前に古いお堂と石仏やお墓などが立ち並んでいました。写真奥の建物がJA(農協)です。

特に書かれたものがありませんが、何が祀られているのでしょうか。

しばらく行くと旧山田町に入ります。
通り沿いに山田町の登録文化財の立て看板が置かれていました。
「薬師如来像」とありました。

でもここはお寺ではありません。大きな門が残されていますが、一般のお宅のようです。
香取市の薬師如来像などを調べて見ると、明治の廃仏毀釈で廃寺となったところがたくさんあり、それらの本尊などがこわされたり、あちこちに分散したと言う。
この薬師如来像は高さ30cmくらいの像だが室町時代に作られたものだと言う。
この像があったのは、田部西雲寺の下の医王山東光院善能寺という寺で、廃寺となりここ青柳家で保管しているのだと言う。(詳細はこちら)
調べて見ると近くに「徳星寺」という寺もあったのでこちらにも行け良かったかもしれない。
明治になってすぐ出された廃仏毀釈は各日とても大きな影響があったのですね。
恨み節も聞こえてきます。

門の内側から表を眺めました。

この通りの場所から先の方を見るとこんもりとした森が見えます。
この森の上に府馬の大クスがあります。
雨が降ってどんよりとしていました。

FloodMapsで海面を+5mとしています。昔の地形が良く分かります。
昨日書いた「久保神社」の絵巻物と大六天宮が気になり調べたりしていましたが、結構面白いです。
昼間は仕事に出かけていますので、面白いと思っても記事にまとめるには時間が足りません。
またの機会に書きたいと思います。
毎日のブログ更新が3年9カ月休まずに続いていますが、なかなかまとめる時間はとれません。
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しかし、まだ佐原や小見川と言った方が私にはなじみもある。
とはいってもほとんど佐原をのぞいてはほとんどこの土地を知らない。
前に東庄町を訪れて、天保水滸伝の看板が目立ち、少し古臭いイメージがついてまわる。
しかし、先日府馬の大くすを訪れ、台地の上からこの一帯を眺めたら広い水田が広がり、FloodMapsでも大昔は小見川駅などからこの平野部は香取の海に沈んでしまっていたことが判明した。
そんなことを気にしながらまた国道356号線(利根水郷ライン)から県道28号線を旭市方面に車を走らせていました。
小見川駅近くから最初のうちは結構開けた街中で旧小見川町役場などはきれいになり、大きな建物もたくさんありますが少し進むともう田園地帯になります。
これも江戸時代に開拓されたのでしょう。そんな中少し古い物を探してみました。

「JAかとり」の手前に古いお堂と石仏やお墓などが立ち並んでいました。写真奥の建物がJA(農協)です。

特に書かれたものがありませんが、何が祀られているのでしょうか。

しばらく行くと旧山田町に入ります。
通り沿いに山田町の登録文化財の立て看板が置かれていました。
「薬師如来像」とありました。

でもここはお寺ではありません。大きな門が残されていますが、一般のお宅のようです。
香取市の薬師如来像などを調べて見ると、明治の廃仏毀釈で廃寺となったところがたくさんあり、それらの本尊などがこわされたり、あちこちに分散したと言う。
この薬師如来像は高さ30cmくらいの像だが室町時代に作られたものだと言う。
この像があったのは、田部西雲寺の下の医王山東光院善能寺という寺で、廃寺となりここ青柳家で保管しているのだと言う。(詳細はこちら)
調べて見ると近くに「徳星寺」という寺もあったのでこちらにも行け良かったかもしれない。
明治になってすぐ出された廃仏毀釈は各日とても大きな影響があったのですね。
恨み節も聞こえてきます。

門の内側から表を眺めました。

この通りの場所から先の方を見るとこんもりとした森が見えます。
この森の上に府馬の大クスがあります。
雨が降ってどんよりとしていました。

FloodMapsで海面を+5mとしています。昔の地形が良く分かります。
昨日書いた「久保神社」の絵巻物と大六天宮が気になり調べたりしていましたが、結構面白いです。
昼間は仕事に出かけていますので、面白いと思っても記事にまとめるには時間が足りません。
またの機会に書きたいと思います。
毎日のブログ更新が3年9カ月休まずに続いていますが、なかなかまとめる時間はとれません。


笹川港
天保水滸伝の笹川繁蔵の里「千葉県東庄町笹川」の利根川にある港に行ってみました。
大利根河原の決闘舞台はこの辺りかと思ったのですが・・・・
でもこの小さな港。目の前の川は利根川ではなく黒部川です。

このバス停は1日1本。おでかけ号となっていました。今日偶然に走っているのを見ました。
マイクロバスです。
東庄町は「とうのしょうまち」と読みます。
この町には「東大社」という大きな神社があり(記事はこちら)、式年神幸祭が銚子との間で行われています。

茨城県で蝦夷征伐の頃の歴史跡などを見てきて感じたことと、千葉県に来て感じたことが随分違います。
東大社にもこの頃の大和朝廷の前線地であったような話もあります。
やはり九十九里の栗山川からさかのぼってこちらの東庄町の方に来たのでしょうか?
まあいろいろなルートがあったようです。
まだ布佐から利根町へのルートの探検が手つかずです。
時間が無いな・・・。



鯉屋旅館。川魚料理が中心の割烹旅館とありますが、ウエディングパレスとの看板もあり結婚式にも使われるようです。


右手の川沿いに明治3年創業の老舗「土善旅館」があります。横綱双葉山や歌手の三波春雄も泊まっていたという。
旅館に弓道場があるので弓道合宿や大会もあるようです。
明治3年創業の翌年には、利根川では外輪蒸気船「利根丸」が創業している。
ここ笹川にもこの蒸気船の大きな港があった。
こんな小さな港に大きな旅館が2軒。

この小さな川は昔の水運の名残だろうか?
この上流は笹川の町の方に続く。地図を見ても名前が書かれていない。
水運の発達した時に掘られた掘りなのかもしれない。黒部川に注いでいる。
大利根河原の決闘舞台はこの辺りかと思ったのですが・・・・
でもこの小さな港。目の前の川は利根川ではなく黒部川です。

このバス停は1日1本。おでかけ号となっていました。今日偶然に走っているのを見ました。
マイクロバスです。
東庄町は「とうのしょうまち」と読みます。
この町には「東大社」という大きな神社があり(記事はこちら)、式年神幸祭が銚子との間で行われています。

茨城県で蝦夷征伐の頃の歴史跡などを見てきて感じたことと、千葉県に来て感じたことが随分違います。
東大社にもこの頃の大和朝廷の前線地であったような話もあります。
やはり九十九里の栗山川からさかのぼってこちらの東庄町の方に来たのでしょうか?
まあいろいろなルートがあったようです。
まだ布佐から利根町へのルートの探検が手つかずです。
時間が無いな・・・。



鯉屋旅館。川魚料理が中心の割烹旅館とありますが、ウエディングパレスとの看板もあり結婚式にも使われるようです。


右手の川沿いに明治3年創業の老舗「土善旅館」があります。横綱双葉山や歌手の三波春雄も泊まっていたという。
旅館に弓道場があるので弓道合宿や大会もあるようです。
明治3年創業の翌年には、利根川では外輪蒸気船「利根丸」が創業している。
ここ笹川にもこの蒸気船の大きな港があった。
こんな小さな港に大きな旅館が2軒。

この小さな川は昔の水運の名残だろうか?
この上流は笹川の町の方に続く。地図を見ても名前が書かれていない。
水運の発達した時に掘られた掘りなのかもしれない。黒部川に注いでいる。
須賀山城跡
天保水滸伝の記事を終わりにしたが、東庄町の中心にある諏訪大神のお祭りに「大木戸」地区の神輿が出る。
地名では大木戸公民館がある辺りで、先日紹介した笹川繁蔵最後の地の入口あたりの地区を言うようだ。
先日天保水滸伝史跡伝承館(東庄町観光館)の建物の前に、前には無かったかんばんが置かれていた。


この看板は昨年3月に建てられたようなので、前に来た時はそれより以前であったようだ。

須賀山城(すかやまじょう)はこのこんもりとした山の上にあった。

山の入口には「北総育成園」という障害者支援施設がある。
この建物は「紙工芸班作業所」となっている。シイタケ栽培なども行っているようだ。
その他に陶芸班などもあり、作品を作ってイベントや各種施設で販売なども行っているようだ。
下の施設?の駐車場に車を止めて城跡と書かれた案内板にしたがって山を登っていった。
登り口で施設の生徒さんのグループに会い、「こんにちは」と挨拶を交わしてから登った。
いつもこう言う時に、健常者より障害者の方達の方が気持ちよく挨拶してくれる。

山を登っていくと、所々に広場があり、伐採された木を束ねて積み重ねてあります。
薪にするのでしょうか。シイタケ栽培も盛んのようです。

山の上に到着し、右に曲がった先に看板を発見しました。

須賀山(すかやま)城跡とその説明看板

上の現地に掲げられた説明文を文字におこしてみると
「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。
その後も、須賀山城には一族が居城したと思われ、東頼数(とうのよりかず)、教頼(のりより)、常綱(つねつな)等の在城が伝えられている。
須賀山城は、千葉介胤富(ちばのすけたねとみ)の森山城入城と共に破却されたといわれている。
尚、千葉胤富判物(原文書)に、森山城の「外郭部」として取り込まれていたと推定される記載がある。
須賀山城は、多郭雑形で、遺構は空堀と土塁の一部を残すのみで、
本丸跡は通称「シジミ台」といわれている。・・・・・・・・・」
どうですか? わかりますか。歴史に興味のある方はわかるかもしれません。
しかし常陸国国府の石岡周辺にいて聞く話は、すぐに平国香がどうしたこうしたとかのの話しか聞こえてきません。
千葉県には上総、下総、安房とそれぞれの歴史が繋がっていて理解するのも結構大変そうです。
昔の人の名前もまともに覚えられないのですから、記憶力の衰えた文系オンチな老人にはなかなか素直に話が入ってきません。こう言う時はしょうがないので一つずつネットで調べます。そして自分の頭で少し理解が出来たと思うと安心するのです。
まず千葉常胤ですがこの人の名前は聞いたことがあります。
「桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介(ちばのすけ)。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。」と説明にあります。
上総広常は知っている。これは上総介(平広常)で、石岡の歴史にも源頼朝と佐竹氏討伐に石岡にやって来ている。大矢橋で佐竹義政を切った人物だ。(記事はこちら)、頼朝の見方をして最後は疑われて切られてしまった人物である。
平広常も千葉常胤も共に高望王の子供(長男は国香)である平良文の子孫だ。この付近は良文貝塚(記事はこちら)などもあり、良文の子孫が暮らしてきた場所であろう。
ではこの城を築いた東胤頼とはどんな関係なのか?また調べます。
「千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。」とあります。
父の千葉常胤とともに源頼朝にしたがって、安房国へ逃れた頼朝への加勢をすると共に坂東武士団の頼朝加勢の原動力になったようだ。そして報償として東荘を拝領して(1185年)東氏を名乗るようになった。
その東氏の城がこの須賀山城で1190年に築城して16世紀半ばまで続いたが千葉 胤富(千葉氏27代)隣の森山城に移りこの城は廃棄されたという。
千葉氏も謎めいているし、今の千葉市(千葉荘)のあたりから見ると大分離れていて遠い感じはあったのでしょうね。
しかし、この地は霞ヶ浦、利根川の水運が発達していた頃には要の場所だったのでしょう。
利根川流域を抑える中間(海上郡と香取郡の中間)として重要な場所といえたのです。

山の上には小さな祠が祀られていた。これも調べて見ると「六所神社」であるらしい。

もう少し調べる時間が許せば理解も深まるのでしょうが、毎日適当に話題を提供はしているものの仕事もおろそかにはできません。いつまで続けることが出来るのか・・・。
妙見尊星王も気になるのですが、これは千葉県の寺を巡るとたくさん出てきますし、日蓮宗の寺では妙見菩薩の名前はあちこちで聞こえてきます。まあ今は千葉氏の守護本尊という程度にしておきます。
← よろしければクリックお願いします。
地名では大木戸公民館がある辺りで、先日紹介した笹川繁蔵最後の地の入口あたりの地区を言うようだ。
先日天保水滸伝史跡伝承館(東庄町観光館)の建物の前に、前には無かったかんばんが置かれていた。


この看板は昨年3月に建てられたようなので、前に来た時はそれより以前であったようだ。

須賀山城(すかやまじょう)はこのこんもりとした山の上にあった。

山の入口には「北総育成園」という障害者支援施設がある。
この建物は「紙工芸班作業所」となっている。シイタケ栽培なども行っているようだ。
その他に陶芸班などもあり、作品を作ってイベントや各種施設で販売なども行っているようだ。
下の施設?の駐車場に車を止めて城跡と書かれた案内板にしたがって山を登っていった。
登り口で施設の生徒さんのグループに会い、「こんにちは」と挨拶を交わしてから登った。
いつもこう言う時に、健常者より障害者の方達の方が気持ちよく挨拶してくれる。

山を登っていくと、所々に広場があり、伐採された木を束ねて積み重ねてあります。
薪にするのでしょうか。シイタケ栽培も盛んのようです。

山の上に到着し、右に曲がった先に看板を発見しました。

須賀山(すかやま)城跡とその説明看板

上の現地に掲げられた説明文を文字におこしてみると
「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。
その後も、須賀山城には一族が居城したと思われ、東頼数(とうのよりかず)、教頼(のりより)、常綱(つねつな)等の在城が伝えられている。
須賀山城は、千葉介胤富(ちばのすけたねとみ)の森山城入城と共に破却されたといわれている。
尚、千葉胤富判物(原文書)に、森山城の「外郭部」として取り込まれていたと推定される記載がある。
須賀山城は、多郭雑形で、遺構は空堀と土塁の一部を残すのみで、
本丸跡は通称「シジミ台」といわれている。・・・・・・・・・」
どうですか? わかりますか。歴史に興味のある方はわかるかもしれません。
しかし常陸国国府の石岡周辺にいて聞く話は、すぐに平国香がどうしたこうしたとかのの話しか聞こえてきません。
千葉県には上総、下総、安房とそれぞれの歴史が繋がっていて理解するのも結構大変そうです。
昔の人の名前もまともに覚えられないのですから、記憶力の衰えた文系オンチな老人にはなかなか素直に話が入ってきません。こう言う時はしょうがないので一つずつネットで調べます。そして自分の頭で少し理解が出来たと思うと安心するのです。
まず千葉常胤ですがこの人の名前は聞いたことがあります。
「桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介(ちばのすけ)。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。」と説明にあります。
上総広常は知っている。これは上総介(平広常)で、石岡の歴史にも源頼朝と佐竹氏討伐に石岡にやって来ている。大矢橋で佐竹義政を切った人物だ。(記事はこちら)、頼朝の見方をして最後は疑われて切られてしまった人物である。
平広常も千葉常胤も共に高望王の子供(長男は国香)である平良文の子孫だ。この付近は良文貝塚(記事はこちら)などもあり、良文の子孫が暮らしてきた場所であろう。
ではこの城を築いた東胤頼とはどんな関係なのか?また調べます。
「千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。」とあります。
父の千葉常胤とともに源頼朝にしたがって、安房国へ逃れた頼朝への加勢をすると共に坂東武士団の頼朝加勢の原動力になったようだ。そして報償として東荘を拝領して(1185年)東氏を名乗るようになった。
その東氏の城がこの須賀山城で1190年に築城して16世紀半ばまで続いたが千葉 胤富(千葉氏27代)隣の森山城に移りこの城は廃棄されたという。
千葉氏も謎めいているし、今の千葉市(千葉荘)のあたりから見ると大分離れていて遠い感じはあったのでしょうね。
しかし、この地は霞ヶ浦、利根川の水運が発達していた頃には要の場所だったのでしょう。
利根川流域を抑える中間(海上郡と香取郡の中間)として重要な場所といえたのです。

山の上には小さな祠が祀られていた。これも調べて見ると「六所神社」であるらしい。

もう少し調べる時間が許せば理解も深まるのでしょうが、毎日適当に話題を提供はしているものの仕事もおろそかにはできません。いつまで続けることが出来るのか・・・。
妙見尊星王も気になるのですが、これは千葉県の寺を巡るとたくさん出てきますし、日蓮宗の寺では妙見菩薩の名前はあちこちで聞こえてきます。まあ今は千葉氏の守護本尊という程度にしておきます。


須賀山東福寺
千葉県東庄町(とうのしょうまち)は天保水滸伝の里として紹介しました。
そしてそこの少し山側にある千葉氏一族の東氏(とうし)の居城であった「須賀山(すかやま)城」跡を紹介しました。
その須賀山城があった山の麓に今日紹介する「東福寺」があります。

真言宗智山派 須賀山鏡智院東福寺。
正面のお堂と右側のお堂が美しい。
門の手前に大利根用水が流れています。

弘法大師の像が置かれている。

本堂の膜に描かれた家紋は「九曜星」で千葉氏の紋。

上の説明によると徳一僧正の開山らしい。
徳一法師と言えば筑波山をはじめ茨城には山の中腹や上にたくさんある法相宗の徳一法師(平安時代初期)を思い浮かべるが、こちらは時代も300年程(仁安2年(1167))後になり、天台宗なので別人のようだ。
最初にあったという平山青年会館というのはここから街道を少し南の山の方に登った左手(東側)に入った辺りにある。
この地の領主、千葉氏千葉家中興の祖、五代千葉常胤が現在地に伽藍を建設し、薬師如来を千葉氏の守護本尊としたと。
現住職は57世だとか。

こちらは門を入って右側にある「経堂」

こちらは本堂横にある「不動堂」。こちらはかなり古そうだ。
姿のいいお堂だ。
しかし、いろいろ調べて見たが詳しいことがわからない。何時頃の建物なのだろうか?

江戸時代だろうか?

またわかれば後で書くかもしれない。
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そしてそこの少し山側にある千葉氏一族の東氏(とうし)の居城であった「須賀山(すかやま)城」跡を紹介しました。
その須賀山城があった山の麓に今日紹介する「東福寺」があります。

真言宗智山派 須賀山鏡智院東福寺。
正面のお堂と右側のお堂が美しい。
門の手前に大利根用水が流れています。

弘法大師の像が置かれている。

本堂の膜に描かれた家紋は「九曜星」で千葉氏の紋。


上の説明によると徳一僧正の開山らしい。
徳一法師と言えば筑波山をはじめ茨城には山の中腹や上にたくさんある法相宗の徳一法師(平安時代初期)を思い浮かべるが、こちらは時代も300年程(仁安2年(1167))後になり、天台宗なので別人のようだ。
最初にあったという平山青年会館というのはここから街道を少し南の山の方に登った左手(東側)に入った辺りにある。
この地の領主、千葉氏千葉家中興の祖、五代千葉常胤が現在地に伽藍を建設し、薬師如来を千葉氏の守護本尊としたと。
現住職は57世だとか。

こちらは門を入って右側にある「経堂」

こちらは本堂横にある「不動堂」。こちらはかなり古そうだ。
姿のいいお堂だ。
しかし、いろいろ調べて見たが詳しいことがわからない。何時頃の建物なのだろうか?

江戸時代だろうか?

またわかれば後で書くかもしれない。


100年の歴史を持つ小学校の分校が2つ廃校
数年前から銚子へ月に数回出かけている。
霞ケ浦の北側や土浦側の南側を通って国道51号線で茨城県から千葉県に入る。
そして利根川を渡った国道356号(利根水郷ライン)を川に沿って走るか、混雑を避けるために利根川の北側の中州の道路を走ることも多い。
この中州は利根川と常陸利根川とに挟まれた地帯で、開墾によって整備されたと思われる田が広がる田園地帯である。


この通り沿いに小学校の分校の案内看板が2か所でており、前から
「いまどき、山の中でもないのにまだ分校なんてあるのか?」
と気になっていました。
しかし何度か通っているうちにこの看板が変化していることに気が付きました。
看板の「○○分校」の後ろに「跡」という文字が追加されていたのです。
まあもともと看板が古くて、分校などもうないものだと思っていたので少し意外な気がしました。
銚子に行く時間にもまだ余裕があったので見学して見ることにしました。

まず「香取市立新島小学校大東分校」(跡)です。
明治30年に寺子屋式で開校。
明治34年に校舎建設し、新島小学校大東分教場となる。
平成25年3月31日で閉校。(116年の歴史に幕)
最後の卒業生は3人で残りの10人が新島小学校に編入。

廃校後1年半以上過ぎ今では校舎(昭和62年新築)もほぼ取り壊され広い敷地が残っています。

もう一つも比較的近くです。
「香取市立小見川北小学校利北分校」(跡)
明治38年利根川で分断された地域の通学の便を計るため分室として開設
明治40年分教場
昭和8年 豊浦尋常高等小学校利北分教場
昭和48年校舎改築
平成7年 校舎新築
平成26年3月31日 閉校 (107年の歴史に幕)
こちらは大東分校廃校より1年遅れの昨春に廃校となりました。

こちらは5・6年生は本校に通うため、1~4年生のみが分校に通っていました。
閉校時の生徒数は13人(1~4年生)です。
こちらは廃校まだ間もないので、校舎もそのまま残っていました。
これは今後どうするのでしょうか?

こんなに近くに2つの小学校分校があったのには訳があります。
大東分校の住所は香取市附洲新田(つきすしんでん)1356-1で市町村合併前の佐原市です。
一方利北分校は香取市一之分目(いちのわけめ)番外7-3でもとの小見川町です。
大東分校は新島小学校がもっと西にありこのあたりは水郷地帯で舟を使ったりした移動が必要で一番離れた東端に分校を建てたものと思われます。
一方利北分校の本校は利根川の南側にあり、通うには利根川を舟で渡らねばなりません。
この中州の開拓地帯の歴史は古く、江戸時代に国の政策として開墾がすすめられたようです。
そのため、開墾農民が暮らすこのエリアにかなりの人が暮らしており、便宜を図るために分教場が設けられたと考えられます。
でもそんなところは日本中たくさんあり、分校もほとんどは統合されたり、独立した小学校となったりしています。
地元の分校はそこに暮らす人の子供たちや親にとってかなり利便性が良かったのでしょう。
それもとうとう少子化と全国の学校の統廃合がすすめられていく渦の中に巻き込まれてしまったのだと思います。
利根川の南側に国道356号線(利根水郷ライン)を佐原から小見川方面(銚子方面)に走っていくとバス停などの標識に「一之分目」(いちのわけめ)と「三之分目」(さんおわけめ)という」地名が出てきて「あれ?」という気がします。
いまどきの地名としては少し古いイメージですよね。
どういう訳か「二之分目」という」地名はないようです。
江戸時代に区画整理をした時につけられた区分名が村名(一之分目村など)となり、そのままいまは香取市の住所となって残されています。
この地域が利根川北側の中州側の低地と、南側の地域に分断されましたが、行政としては一体に運営されてきたことが推察されます。
江戸時代に入り徳川家康の命令で利根川は江戸湾から銚子に流れが変えられたのです。
こんな分校の廃校ということから、私は昔はどんな暮らしがここにはあったのかを少し考えさせられました。
もう少し調べて記事を書きたいと思っていましたがなかなか手が進みません。
記事が古くなってしまいますのでまずは感じたことなどを綴ってみました。
霞ケ浦の北側や土浦側の南側を通って国道51号線で茨城県から千葉県に入る。
そして利根川を渡った国道356号(利根水郷ライン)を川に沿って走るか、混雑を避けるために利根川の北側の中州の道路を走ることも多い。
この中州は利根川と常陸利根川とに挟まれた地帯で、開墾によって整備されたと思われる田が広がる田園地帯である。



この通り沿いに小学校の分校の案内看板が2か所でており、前から
「いまどき、山の中でもないのにまだ分校なんてあるのか?」
と気になっていました。
しかし何度か通っているうちにこの看板が変化していることに気が付きました。
看板の「○○分校」の後ろに「跡」という文字が追加されていたのです。
まあもともと看板が古くて、分校などもうないものだと思っていたので少し意外な気がしました。
銚子に行く時間にもまだ余裕があったので見学して見ることにしました。

まず「香取市立新島小学校大東分校」(跡)です。
明治30年に寺子屋式で開校。
明治34年に校舎建設し、新島小学校大東分教場となる。
平成25年3月31日で閉校。(116年の歴史に幕)
最後の卒業生は3人で残りの10人が新島小学校に編入。

廃校後1年半以上過ぎ今では校舎(昭和62年新築)もほぼ取り壊され広い敷地が残っています。

もう一つも比較的近くです。
「香取市立小見川北小学校利北分校」(跡)
明治38年利根川で分断された地域の通学の便を計るため分室として開設
明治40年分教場
昭和8年 豊浦尋常高等小学校利北分教場
昭和48年校舎改築
平成7年 校舎新築
平成26年3月31日 閉校 (107年の歴史に幕)
こちらは大東分校廃校より1年遅れの昨春に廃校となりました。

こちらは5・6年生は本校に通うため、1~4年生のみが分校に通っていました。
閉校時の生徒数は13人(1~4年生)です。
こちらは廃校まだ間もないので、校舎もそのまま残っていました。
これは今後どうするのでしょうか?

こんなに近くに2つの小学校分校があったのには訳があります。
大東分校の住所は香取市附洲新田(つきすしんでん)1356-1で市町村合併前の佐原市です。
一方利北分校は香取市一之分目(いちのわけめ)番外7-3でもとの小見川町です。
大東分校は新島小学校がもっと西にありこのあたりは水郷地帯で舟を使ったりした移動が必要で一番離れた東端に分校を建てたものと思われます。
一方利北分校の本校は利根川の南側にあり、通うには利根川を舟で渡らねばなりません。
この中州の開拓地帯の歴史は古く、江戸時代に国の政策として開墾がすすめられたようです。
そのため、開墾農民が暮らすこのエリアにかなりの人が暮らしており、便宜を図るために分教場が設けられたと考えられます。
でもそんなところは日本中たくさんあり、分校もほとんどは統合されたり、独立した小学校となったりしています。
地元の分校はそこに暮らす人の子供たちや親にとってかなり利便性が良かったのでしょう。
それもとうとう少子化と全国の学校の統廃合がすすめられていく渦の中に巻き込まれてしまったのだと思います。
利根川の南側に国道356号線(利根水郷ライン)を佐原から小見川方面(銚子方面)に走っていくとバス停などの標識に「一之分目」(いちのわけめ)と「三之分目」(さんおわけめ)という」地名が出てきて「あれ?」という気がします。
いまどきの地名としては少し古いイメージですよね。
どういう訳か「二之分目」という」地名はないようです。
江戸時代に区画整理をした時につけられた区分名が村名(一之分目村など)となり、そのままいまは香取市の住所となって残されています。
この地域が利根川北側の中州側の低地と、南側の地域に分断されましたが、行政としては一体に運営されてきたことが推察されます。
江戸時代に入り徳川家康の命令で利根川は江戸湾から銚子に流れが変えられたのです。
こんな分校の廃校ということから、私は昔はどんな暮らしがここにはあったのかを少し考えさせられました。
もう少し調べて記事を書きたいと思っていましたがなかなか手が進みません。
記事が古くなってしまいますのでまずは感じたことなどを綴ってみました。
木内大神と木内集落(1)
利根川を小見川大橋で渡ってそのまま真っ直ぐ成田方面に進むと、少し行くと木内(きのうち)という信号がある。
この少し先の右側に池があるがこれは「木内堰」と呼ばれているようなので、水田の灌漑ように川を堰止めたものだろう。
この池の山側に入ったところにこの辺りではかなり古いという「木内大神」(きのうちだいじん)があると知り、探しながら狭い道を登って行った。

かなり古くから集落があったような雰囲気で板碑や石仏があちこちに見受けられる。

観音菩薩や如意輪観音像などが並んでいる。

宝篋印塔も置かれていた。何時頃のものだろうか。

場所は集落の集会場「木ノ内区民センター」と書かれた場所。

そして変わった梵字の石板碑が置かれている。これも模様がある。

そしてそこから少し上ったところに大きな古木(スタジイ?)があり、その周りにたくさんの下総?板碑が並んで置かれていた。
永年信仰されてきた証なのだろう。迫るような迫力がある。
この先にあるという「木内大神」に期待が高まる。
このあたりは神社のことを大神と呼んだり、書いたりしている所がたくさんある。
茨城の方ではあまり見かけないが・・・。

明日、十二座神楽が残されているというこの神社(木内大神)を紹介します。
この少し先の右側に池があるがこれは「木内堰」と呼ばれているようなので、水田の灌漑ように川を堰止めたものだろう。
この池の山側に入ったところにこの辺りではかなり古いという「木内大神」(きのうちだいじん)があると知り、探しながら狭い道を登って行った。

かなり古くから集落があったような雰囲気で板碑や石仏があちこちに見受けられる。

観音菩薩や如意輪観音像などが並んでいる。

宝篋印塔も置かれていた。何時頃のものだろうか。

場所は集落の集会場「木ノ内区民センター」と書かれた場所。

そして変わった梵字の石板碑が置かれている。これも模様がある。

そしてそこから少し上ったところに大きな古木(スタジイ?)があり、その周りにたくさんの下総?板碑が並んで置かれていた。
永年信仰されてきた証なのだろう。迫るような迫力がある。
この先にあるという「木内大神」に期待が高まる。
このあたりは神社のことを大神と呼んだり、書いたりしている所がたくさんある。
茨城の方ではあまり見かけないが・・・。

明日、十二座神楽が残されているというこの神社(木内大神)を紹介します。
木内大神と木内集落(2)
昨日書いた木ノ内区民センターからさらに100m程進んだところに「木内大神(きのうちだいじん)」があった。
辺りは神社の古さを思わせる樹木がうっそうとしている。

通りの横に通りの方向と平行に入口鳥居が置かれている(東向き)。

そして、参道を少し進むと参道は右にカーブして正面に拝殿が見える。

正面が神社拝殿(南向き)で、左手に舞台がある。

創建は多くの古い神社が創建されたと伝わっている大同年間(806~810年)とされる。
主祭神は穀物の女神である豊受姫命(伊勢神宮外宮の神)。
ウィキペディアによれば「大納言四条隆房がこの地を領地とした時に保護し、鎌倉時代には東胤頼の二男木内胤朝が領し社殿を造営、神領を納め一族の祈願所とした。千葉氏や北条氏の崇敬が厚く伏見天皇の直筆書が献ぜられている。」と書かれている。
よくわからないので更にウィキペディアで調べて見る。
・大納言四条隆房:藤原隆房(ふじわらのたかふさ):平安時代末期から鎌倉時代初期(1148~1209)にかけての公卿。
平清盛の娘を正室とし、加賀国・因幡国の国司などを歴任したそうなので、この上総介などにもついたのか?
建永元年(1206年)に出家し引退。法名は寂恵。
・東 胤頼(とう たねより):平安時代末期から鎌倉時代初期(1155~1228年)の武将。千葉氏の一族。千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。胤頼は六男であり従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。
・・・源頼朝が三浦半島での敗北で安房に逃れた時に頼朝勢に加勢して関東での頼朝の勢力拡大に一役買っているようだが晩年は出家して法然の弟子となり、法阿弥陀仏(法阿)と称したそうだ。
これ以上は調べるのも時間がかかりそうなのでこの辺でギブアップ。

この舞台では香取市無形文化財に指定されている十二座神楽が3月3日に奉納される。

上の説明に寄れば、江戸時代後期から神社関係者で神楽は奉納されてきたようだ。
そして明治初期には青年たちも一緒に6日間祭事の前は共に寝起きし、神楽を奉納したという。
これらは多くの神社で似たようなことが昔は行なわれていた。
石岡には染谷、柿岡、根小屋にも同じような十二座神楽が残されている。
もう少し明日に続きます。
辺りは神社の古さを思わせる樹木がうっそうとしている。

通りの横に通りの方向と平行に入口鳥居が置かれている(東向き)。

そして、参道を少し進むと参道は右にカーブして正面に拝殿が見える。

正面が神社拝殿(南向き)で、左手に舞台がある。

創建は多くの古い神社が創建されたと伝わっている大同年間(806~810年)とされる。
主祭神は穀物の女神である豊受姫命(伊勢神宮外宮の神)。
ウィキペディアによれば「大納言四条隆房がこの地を領地とした時に保護し、鎌倉時代には東胤頼の二男木内胤朝が領し社殿を造営、神領を納め一族の祈願所とした。千葉氏や北条氏の崇敬が厚く伏見天皇の直筆書が献ぜられている。」と書かれている。
よくわからないので更にウィキペディアで調べて見る。
・大納言四条隆房:藤原隆房(ふじわらのたかふさ):平安時代末期から鎌倉時代初期(1148~1209)にかけての公卿。
平清盛の娘を正室とし、加賀国・因幡国の国司などを歴任したそうなので、この上総介などにもついたのか?
建永元年(1206年)に出家し引退。法名は寂恵。
・東 胤頼(とう たねより):平安時代末期から鎌倉時代初期(1155~1228年)の武将。千葉氏の一族。千葉常胤の六男。東氏、遠藤氏の祖。胤頼は六男であり従五位の別称大夫を付し、東六郎大夫と称した。
・・・源頼朝が三浦半島での敗北で安房に逃れた時に頼朝勢に加勢して関東での頼朝の勢力拡大に一役買っているようだが晩年は出家して法然の弟子となり、法阿弥陀仏(法阿)と称したそうだ。
これ以上は調べるのも時間がかかりそうなのでこの辺でギブアップ。

この舞台では香取市無形文化財に指定されている十二座神楽が3月3日に奉納される。

上の説明に寄れば、江戸時代後期から神社関係者で神楽は奉納されてきたようだ。
そして明治初期には青年たちも一緒に6日間祭事の前は共に寝起きし、神楽を奉納したという。
これらは多くの神社で似たようなことが昔は行なわれていた。
石岡には染谷、柿岡、根小屋にも同じような十二座神楽が残されている。
もう少し明日に続きます。
木内大神と木内集落(3)
早いもので昨日からもう3月だ。
一昨日は太陽も照ってかなり暖かく気持ちが良かったが、昨日は雨となってあまり気温も上がらなかった。
雨も花粉症にとってはありがたいことであるが、3月はあまり辺りを散策することは控えることになりそうだ。
今日はまた太陽が戻ってきた。
夕焼けも復活。
昨日EMSで郵便局からイギリスの孫に本などを送ってきた。
今月で孫も2歳になる。秋には日本にまた来てくれそうだ。
さて、小見川の木内大神を紹介しているが3回目となる。
鎌倉以降、千葉氏一族の東氏、木内氏と続いた氏族の祈願所としてこの神社は発展してきたようだ。

辺りは木々がうっそうと茂る。
古木の前の狛犬は比較的新しいようだ。

こちらが神社の本殿。
神社の説明板に寄れば、「天明7年(1787)に正殿を改造し、又、大正9年本社、拝殿、社務所を改造している。」と書かれている。
これは正殿? 本社? とすれば1787年に改造され、また大正9年にも改造されたものか?

なかなかきれいな造りです。

境内にはかなり年月を感じる古木(スタジイ?)が目立ちます。

上の写真は猿田彦が祀られています。

神社の御神木は本殿近くに大きなスギの木がありました。
でもやはりこのようなスタジイは迫力があります。
明日は3月3日でこの神社の祭日。木内(きのうち)神楽が奉納されます。
一昨日は太陽も照ってかなり暖かく気持ちが良かったが、昨日は雨となってあまり気温も上がらなかった。
雨も花粉症にとってはありがたいことであるが、3月はあまり辺りを散策することは控えることになりそうだ。
今日はまた太陽が戻ってきた。
夕焼けも復活。
昨日EMSで郵便局からイギリスの孫に本などを送ってきた。
今月で孫も2歳になる。秋には日本にまた来てくれそうだ。
さて、小見川の木内大神を紹介しているが3回目となる。
鎌倉以降、千葉氏一族の東氏、木内氏と続いた氏族の祈願所としてこの神社は発展してきたようだ。

辺りは木々がうっそうと茂る。
古木の前の狛犬は比較的新しいようだ。

こちらが神社の本殿。
神社の説明板に寄れば、「天明7年(1787)に正殿を改造し、又、大正9年本社、拝殿、社務所を改造している。」と書かれている。
これは正殿? 本社? とすれば1787年に改造され、また大正9年にも改造されたものか?

なかなかきれいな造りです。

境内にはかなり年月を感じる古木(スタジイ?)が目立ちます。

上の写真は猿田彦が祀られています。

神社の御神木は本殿近くに大きなスギの木がありました。
でもやはりこのようなスタジイは迫力があります。
明日は3月3日でこの神社の祭日。木内(きのうち)神楽が奉納されます。
西音寺(1)
小見川の木内大神を訪問した後に、近くのもう一つ気になる場所へ行きました。

天光山 良忠院 西音寺。 浄土宗(鎮西派)
康元元年(1256年)荒見胤村(東胤頼の甥)が創建。僧 然阿良忠が開山。
その後250年ほどは寺門を閉ざしていたという。それを室町時代末期の永禄5年(1562)に秀誉讃公上人が森山城主東胤富の帰依をうけて,再建された。

手前に左右それぞれ3体の地蔵。 六地蔵

立派な屋根の本堂。
1676年に火災で焼失したが、1685年に再建された。
それから現在まで330年間数度の修理を実施したとのこと。

本堂入口の上には龍の彫り物

本堂内部にも大きな龍。本尊は阿弥陀如来

境内の大イチョウ。(樹齢は本堂再建の頃からと思われ、約330年くらいか)
冬場のため葉は落ちていたが見事なもの。
この根が出たようになっている突起物を乳根(ちちね)と呼ぶそうです。
秋の黄葉は見事なようです。また今度その頃に訪れて見たいと思います。

観音堂?

「奉修四十九堂・・・・」と書かれた紙がたくさん貼られていました。

このお寺は見どころがいっぱいあります。
明日もう少し載せます。

天光山 良忠院 西音寺。 浄土宗(鎮西派)
康元元年(1256年)荒見胤村(東胤頼の甥)が創建。僧 然阿良忠が開山。
その後250年ほどは寺門を閉ざしていたという。それを室町時代末期の永禄5年(1562)に秀誉讃公上人が森山城主東胤富の帰依をうけて,再建された。

手前に左右それぞれ3体の地蔵。 六地蔵

立派な屋根の本堂。
1676年に火災で焼失したが、1685年に再建された。
それから現在まで330年間数度の修理を実施したとのこと。

本堂入口の上には龍の彫り物

本堂内部にも大きな龍。本尊は阿弥陀如来

境内の大イチョウ。(樹齢は本堂再建の頃からと思われ、約330年くらいか)
冬場のため葉は落ちていたが見事なもの。
この根が出たようになっている突起物を乳根(ちちね)と呼ぶそうです。
秋の黄葉は見事なようです。また今度その頃に訪れて見たいと思います。

観音堂?

「奉修四十九堂・・・・」と書かれた紙がたくさん貼られていました。

このお寺は見どころがいっぱいあります。
明日もう少し載せます。
西音寺(2)
香取市西音寺は小見川と笹川のほぼ中間にあります。
比較的低地でまわりは田圃などが広がりますが、その中に少し盛り上がった小山にあります。

この鐘楼堂は平成元年に、旧小見川町の篤志家より寄進建立されたものだそうです。

鐘には阿弥像や天女像?が鋳込まれています。

下部の花模様。どのようにして造られたものか?
この梵鐘は一般的な和鐘ではなく「朝鮮鐘」と呼ばれる梵鐘の系統らしい。

飛天?


鐘楼堂の天井には龍の絵が描かれている。

この鐘楼堂はまだ新しいようだ。
しかし、まわりは殺風景なところでもあり、春や秋には銀杏の木とともに境内を美しく彩ってくれるでしょう。


比較的低地でまわりは田圃などが広がりますが、その中に少し盛り上がった小山にあります。

この鐘楼堂は平成元年に、旧小見川町の篤志家より寄進建立されたものだそうです。

鐘には阿弥像や天女像?が鋳込まれています。

下部の花模様。どのようにして造られたものか?
この梵鐘は一般的な和鐘ではなく「朝鮮鐘」と呼ばれる梵鐘の系統らしい。

飛天?


鐘楼堂の天井には龍の絵が描かれている。

この鐘楼堂はまだ新しいようだ。
しかし、まわりは殺風景なところでもあり、春や秋には銀杏の木とともに境内を美しく彩ってくれるでしょう。

