権現山公園(潮来牛堀)
今日はかなり寒かったですね。
それでも桜もだいぶ咲き始めたので、今週末が満開なのでしょうか。
来週から桜まつりではやはりおかしいですね。
昨日の朝筑波山を見たら、上のほうが白く雪に覆われていたんです。
まったくイメージしていなかったので不思議な気がしました。
さて、先週末に訪れた潮来の記事を少し書いておきたいと思います。
潮来といえば水郷とイメージしますが、具体的な場所のイメージがありません。
今まで、銚子には何回も出かけており、霞ヶ浦の南岸沿いを走ったり、北岸沿いを走ってきました。
そして、北岸沿いの時は、霞ヶ浦の先端が常陸利根川に注いでいる国道51号線で香取方面に右折し、北利根橋をわたっているのですが、この場所が潮来市牛掘という場所です。
そう、葛飾北斎が富嶽三十六景で「常州牛堀」と題した浮世絵を描いた場所であることに気がついたのです。
今まで、そんな雰囲気は何も感じなかったので頭に浮かんでこなかったのです。

(北斎の常州牛堀:富士を描いています。 ネットよりお借りしました。)
昔はこの霞ヶ浦から銚子の方に進み、途中から利根川を北上して江戸の方までの船運が発達していたのです。
この牛堀に描かれた景色が見られたのでしょう。
ここからは富士山も筑波山も見ることができます。

この牛堀の裏山に権現山公園という桜の名所があります。ソメイヨシノは約250本ほどあるそうです。

出かけたのは先週の金曜日でしたので、まだ1分咲きくらいでしょうか。

上の写真の手前は牛堀の町、その先の橋は「北利根橋」です。川は常陸利根川で、奥のほうが霞ヶ浦です。

これから桜が満開になると、ここからの眺望とあわせてとても素晴らしい場所だと思います。

この牛堀の街の川沿いには「北斎公園」という緑地帯が作られています。
対岸は常陸利根川と利根川にはさまれた中洲です。潮来市ではなく千葉県香取市になります。

上の写真はもう少し下流側を眺めました。
潮来の水郷と言われるのはこちらの方向で、十二橋(中洲)や菖蒲園(左手潮来駅近く)などがあります。


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それでも桜もだいぶ咲き始めたので、今週末が満開なのでしょうか。
来週から桜まつりではやはりおかしいですね。
昨日の朝筑波山を見たら、上のほうが白く雪に覆われていたんです。
まったくイメージしていなかったので不思議な気がしました。
さて、先週末に訪れた潮来の記事を少し書いておきたいと思います。
潮来といえば水郷とイメージしますが、具体的な場所のイメージがありません。
今まで、銚子には何回も出かけており、霞ヶ浦の南岸沿いを走ったり、北岸沿いを走ってきました。
そして、北岸沿いの時は、霞ヶ浦の先端が常陸利根川に注いでいる国道51号線で香取方面に右折し、北利根橋をわたっているのですが、この場所が潮来市牛掘という場所です。
そう、葛飾北斎が富嶽三十六景で「常州牛堀」と題した浮世絵を描いた場所であることに気がついたのです。
今まで、そんな雰囲気は何も感じなかったので頭に浮かんでこなかったのです。

(北斎の常州牛堀:富士を描いています。 ネットよりお借りしました。)
昔はこの霞ヶ浦から銚子の方に進み、途中から利根川を北上して江戸の方までの船運が発達していたのです。
この牛堀に描かれた景色が見られたのでしょう。
ここからは富士山も筑波山も見ることができます。

この牛堀の裏山に権現山公園という桜の名所があります。ソメイヨシノは約250本ほどあるそうです。

出かけたのは先週の金曜日でしたので、まだ1分咲きくらいでしょうか。

上の写真の手前は牛堀の町、その先の橋は「北利根橋」です。川は常陸利根川で、奥のほうが霞ヶ浦です。

これから桜が満開になると、ここからの眺望とあわせてとても素晴らしい場所だと思います。

この牛堀の街の川沿いには「北斎公園」という緑地帯が作られています。
対岸は常陸利根川と利根川にはさまれた中洲です。潮来市ではなく千葉県香取市になります。

上の写真はもう少し下流側を眺めました。
潮来の水郷と言われるのはこちらの方向で、十二橋(中洲)や菖蒲園(左手潮来駅近く)などがあります。




三熊野神社(潮来市牛堀)
権現山の麓に牛堀地区の鎮守と思われる古い神社があります。
公園側から降りていきましたが、牛堀地区の家並み側に鳥居があり、すぐ牛堀の船着場があった場所に近いのでしょう。

この神社の裏手が権現山だ。そして反対側は牛堀の街と常陸利根川(北斎公園)がある。
平成の大合併前は茨城県牛堀町であった。
ここでは、毎年10月に勇壮な山車祭りが行われている。
この祭りにはこの牛堀地区だけでなく、となりの麻生町(現行方市)や千葉県香取市などの山車も参加している。

この三熊野神社はこの権現山に熊野権現信仰として祀ったものだと思われます。
霞ヶ浦の水運が発達し、蒸気船(通運丸、銚子丸など9が通るようになると、ここには牛堀河岸が作られ、水産業の問屋や、佃煮の加工業者などが多く集まった場所のようです。
今もこれらの名残が感じられる町並みです。


(川瀬巴水の版画:昭和4年の「雨の牛堀」と昭和5年の「牛堀の夕暮」)
巴水はこの牛堀の版画をたくさん残しています。

この三熊野神社の歴史などはよく調べていないのでわかりません。
しかし、熊野信仰が盛んになった江戸時代になって、小さな社をまとめて建てたのかもしれません。
本殿は覆われていて内部はよく見えません。
比較的新しいようですが、立派な本殿です。

こちらが御神木の大イチョウの木で、樹齢350年ほどだそうです。

神社の拝殿から街の方を振り返るとこんな感じです。
この先に常陸利根川が流れており、北斎公園があります。




神社から山に入る道の片隅に置かれていました。
下には三猿が描かれています。青面金剛と三猿の庚申塔のようです。

こちらも庚申塔ですね。江戸時代のものでしょう。
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公園側から降りていきましたが、牛堀地区の家並み側に鳥居があり、すぐ牛堀の船着場があった場所に近いのでしょう。

この神社の裏手が権現山だ。そして反対側は牛堀の街と常陸利根川(北斎公園)がある。
平成の大合併前は茨城県牛堀町であった。
ここでは、毎年10月に勇壮な山車祭りが行われている。
この祭りにはこの牛堀地区だけでなく、となりの麻生町(現行方市)や千葉県香取市などの山車も参加している。

この三熊野神社はこの権現山に熊野権現信仰として祀ったものだと思われます。
霞ヶ浦の水運が発達し、蒸気船(通運丸、銚子丸など9が通るようになると、ここには牛堀河岸が作られ、水産業の問屋や、佃煮の加工業者などが多く集まった場所のようです。
今もこれらの名残が感じられる町並みです。


(川瀬巴水の版画:昭和4年の「雨の牛堀」と昭和5年の「牛堀の夕暮」)
巴水はこの牛堀の版画をたくさん残しています。

この三熊野神社の歴史などはよく調べていないのでわかりません。
しかし、熊野信仰が盛んになった江戸時代になって、小さな社をまとめて建てたのかもしれません。
本殿は覆われていて内部はよく見えません。
比較的新しいようですが、立派な本殿です。

こちらが御神木の大イチョウの木で、樹齢350年ほどだそうです。

神社の拝殿から街の方を振り返るとこんな感じです。
この先に常陸利根川が流れており、北斎公園があります。




神社から山に入る道の片隅に置かれていました。
下には三猿が描かれています。青面金剛と三猿の庚申塔のようです。

こちらも庚申塔ですね。江戸時代のものでしょう。


牛堀諏訪神社の板碑
(予約投稿です)
潮来の牛堀地区を散策していたら、少し変わった物を見つけた。
旧街道沿いに神社があったので立ち寄ってみた。
神社は「諏訪神社」と書かれていた。
近くには祭礼で有名な諏訪神社もあるらしいが、ごく普通の町にある諏訪神社である。

道路のところに大きな石の鳥居と奥に拝殿が見えます。

拝殿の裏に本殿があります。特に変わったこともありません。

応永7年の「阿弥陀三尊種子板碑」だそうです。
前につくば市北条を散策していた時に見つけた「毘沙門天種子板碑」(こちら)のことが懐かしく思い出されました。
そう「種子」は梵字だそうです。
応永7年というと西暦1400年だとか。室町時代ですよね。
北条の板碑は鎌倉時代ですからこちらの方があ時代は後になります。
それでも古いですね。

こちらがその板碑ですが、よく読めませんね。
何が書かれているかは説明を読んでもよくわかりません。
知りたい人は上に説明板を読んで調べてください。
関ヶ原の戦の200年も前のものがこんな神社に置かれているんですね。

こうやって見知らぬ土地に初めて来てあまり知られていないものが見つかると嬉しくなるのはどうしてでしょうね。
このような場所ですが、境内は綺麗に枯れ木などが片付けられ、掃除されているんですよ。
訪れた時も女性の方が裏の方を掃いておられました。
この板碑のそばに枯れ枝を積んであったのですが、私がカメラを構えたら「邪魔でしょう」と退かしてくれました。
なんかこんな触れ合いがいいんです。
こういうことがホームページでの紹介でなく、ブログを書くきっかけになったようなものなんですから。
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潮来の牛堀地区を散策していたら、少し変わった物を見つけた。
旧街道沿いに神社があったので立ち寄ってみた。
神社は「諏訪神社」と書かれていた。
近くには祭礼で有名な諏訪神社もあるらしいが、ごく普通の町にある諏訪神社である。

道路のところに大きな石の鳥居と奥に拝殿が見えます。

拝殿の裏に本殿があります。特に変わったこともありません。

応永7年の「阿弥陀三尊種子板碑」だそうです。
前につくば市北条を散策していた時に見つけた「毘沙門天種子板碑」(こちら)のことが懐かしく思い出されました。
そう「種子」は梵字だそうです。
応永7年というと西暦1400年だとか。室町時代ですよね。
北条の板碑は鎌倉時代ですからこちらの方があ時代は後になります。
それでも古いですね。

こちらがその板碑ですが、よく読めませんね。
何が書かれているかは説明を読んでもよくわかりません。
知りたい人は上に説明板を読んで調べてください。
関ヶ原の戦の200年も前のものがこんな神社に置かれているんですね。

こうやって見知らぬ土地に初めて来てあまり知られていないものが見つかると嬉しくなるのはどうしてでしょうね。
このような場所ですが、境内は綺麗に枯れ木などが片付けられ、掃除されているんですよ。
訪れた時も女性の方が裏の方を掃いておられました。
この板碑のそばに枯れ枝を積んであったのですが、私がカメラを構えたら「邪魔でしょう」と退かしてくれました。
なんかこんな触れ合いがいいんです。
こういうことがホームページでの紹介でなく、ブログを書くきっかけになったようなものなんですから。


観音寺(潮来)
先日いった潮来の記事が途中になっていました。
また続きを少し載せます。
潮来に来た一番の目的はこの観音寺に来ることでした。
「瑠璃光山観音寺」(真言豊山派)といい、寺伝によると徳一法師が大同2年(807年)に開創したとある。
徳一法師の寺はこのあたりにもあったのかと少し不思議な気がする。
何せ、筑波山周辺や会津には多くの寺が残存しているが、その他の地域にも多くが徳一法師(法相宗)の創設がかかれている。そのほとんどが大同2年なのだ。
ここの本尊は聖観世音菩薩で、その他に薬師如来と不動明王を祀る。

創建当時は上戸(この近くにある)の尾の詰(おのづめ)という場所にあったが、観応2年(1351年)に藤原国安により現在地に移されたと書かれている。
この「尾の詰」という地名が何処から来ているのかが分からないが、尾の詰=小野住 となって、ここにも小野小町伝説がある。

寛政年間(1789~1802)に建てられた山門(四脚門、茅葺、妻入、市指定有形文化財)

弘治3年(1557)に建てられた薬師堂(三間四面、寄棟、茅葺、県指定重要文化財)
なかなか立派な見ごたえのある薬師堂です。

徳一法師の像? それとも弘法大師?
いやいや賓頭盧(びんずる)様だそうです。どこか病の個所があればなでると治ると言われていますよ。
十六羅漢様(仏陀の弟子)の中の第1番です。

さて、観音堂の上の方にこんな花の彫りものがあった。
これは何? 笹竜胆だろうか。 そうすると源氏のマークになるが・・・。

(サムネルです)
萱ぶき屋根の薬師堂と手前のしだれ桜、裏手の竹林がすべて美しく調和している。
素敵な空間だ。

屋根は釘を用いず、四方から中心に向かって集まる垂木を一本の梁が支えている格天井様式だそうだ。

(サムネルです)

これが小野小町が植えたとされるしだれ桜の三代目です。

(サムネルです)
小野小町が眼病を患い各地を回り、この観音寺に百か日の参籠をして全快し、そのお礼にしだれ桜を寄進したと言い伝えられているそうだ。
この眼病やイボなどと言う話が各地で伝わるのも面白い。
石岡の八郷地区に小野越しの北向き観音に伝わる話も似ている。
山を越えた土浦市の小町の里も同じような話だ。

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また続きを少し載せます。
潮来に来た一番の目的はこの観音寺に来ることでした。
「瑠璃光山観音寺」(真言豊山派)といい、寺伝によると徳一法師が大同2年(807年)に開創したとある。
徳一法師の寺はこのあたりにもあったのかと少し不思議な気がする。
何せ、筑波山周辺や会津には多くの寺が残存しているが、その他の地域にも多くが徳一法師(法相宗)の創設がかかれている。そのほとんどが大同2年なのだ。
ここの本尊は聖観世音菩薩で、その他に薬師如来と不動明王を祀る。

創建当時は上戸(この近くにある)の尾の詰(おのづめ)という場所にあったが、観応2年(1351年)に藤原国安により現在地に移されたと書かれている。
この「尾の詰」という地名が何処から来ているのかが分からないが、尾の詰=小野住 となって、ここにも小野小町伝説がある。

寛政年間(1789~1802)に建てられた山門(四脚門、茅葺、妻入、市指定有形文化財)

弘治3年(1557)に建てられた薬師堂(三間四面、寄棟、茅葺、県指定重要文化財)
なかなか立派な見ごたえのある薬師堂です。

徳一法師の像? それとも弘法大師?
いやいや賓頭盧(びんずる)様だそうです。どこか病の個所があればなでると治ると言われていますよ。
十六羅漢様(仏陀の弟子)の中の第1番です。

さて、観音堂の上の方にこんな花の彫りものがあった。
これは何? 笹竜胆だろうか。 そうすると源氏のマークになるが・・・。

(サムネルです)
萱ぶき屋根の薬師堂と手前のしだれ桜、裏手の竹林がすべて美しく調和している。
素敵な空間だ。

屋根は釘を用いず、四方から中心に向かって集まる垂木を一本の梁が支えている格天井様式だそうだ。

(サムネルです)

これが小野小町が植えたとされるしだれ桜の三代目です。

(サムネルです)
小野小町が眼病を患い各地を回り、この観音寺に百か日の参籠をして全快し、そのお礼にしだれ桜を寄進したと言い伝えられているそうだ。
この眼病やイボなどと言う話が各地で伝わるのも面白い。
石岡の八郷地区に小野越しの北向き観音に伝わる話も似ている。
山を越えた土浦市の小町の里も同じような話だ。



潮来稲荷山と長勝寺(1)
潮来の街は常陸利根川を挟んだ低地の水郷地帯を中心に広がっているが、その北側にこんもりとした森がある。
それが稲荷山だ。
名前のとおり下から赤い旗に導かれて階段を上ると正面に稲荷神社がある。
しかしこの高台のところを国道51号線が走っているので、国道から見ると同じ高さになる。

国道を車で走っていて、森の中に見えた木の鳥居を見つけて立寄った。
森林公園のような雰囲気で、こちら側から入ると左手には木々の茂林で「稲荷山古墳群」があるという。
右手には稲荷神社がある。

裏から回ったので神社の本殿側に出た。 左手が拝殿。

こちらが拝殿で、潮来の街から階段を上った正面にこの拝殿がある。

上の説明にあるように神社としてはそれほど古くはない。
江戸時代に建立されたそうだ。
江戸時代にはここ潮来は水運の中心地となり、街も華やかであったと思う。

稲荷神社ですから当然キツネですね。(何故キツネなのか? 読んだこともあるけど忘れたな。)

この神社の階段上から潮来の街を見渡したところです。
この稲荷神社はそれほど歴史はないようですが、この森はかなり古くから親しまれていたようです。
この森が潮来のシンボルとして色々な記念碑が置かれていました。
稲荷山から長勝寺へ続くところは木々が茂っていて、古代の古墳がたくさん眠っているという。

このような道が続くが、あまり整備されていないので道はよくない。

この先に行くと鎌倉時代に建てられた長勝寺や水戸光圀の御休処「遺愛亭」跡などがある。

そんな中に立派な石碑が置かれていました。
菊池寛の碑なのだそうだ。潮来との関わりは?
(※訂正します。菊池寛ではなく菊池寛実だそうです。菊池寛実は炭鉱王で実業家でした。潮来とは霞ケ浦の汽船事業も行っていたそうで、そのつながりです。旧馬頭町の生まれで莫大な資産を築いたようです。(2021.11.5))

こちらは稲荷神社西側にあった「茨城百景水郷潮来」の碑

その横に「野口雨情と中山晋平」の歌碑がありました。

歌詞をみると「船頭小唄」でした。

「潮来町立女子技芸学校跡」の碑です。
この神社の横に明治40年に建てられました。
その後昭和13年に東の下の方に移転したようです。
この技芸学校というのはいかにも潮来らしいですね。
その後高等女学校になり、現在の県立潮来高校となったといいます。
京都などは芸子や舞妓などの養成学校のようですが、潮来も江戸・明治頃は花街として賑わったようですが、この学校はあまりそのような養成学校とは違うようです。
女子教育に熱心だったのでしょう。

昭和41年に建てられた橋本登美三郎さんの顕彰碑。ずいぶん立派なものでした。
建てられたのは佐藤内閣の官房長官時代です。
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それが稲荷山だ。
名前のとおり下から赤い旗に導かれて階段を上ると正面に稲荷神社がある。
しかしこの高台のところを国道51号線が走っているので、国道から見ると同じ高さになる。

国道を車で走っていて、森の中に見えた木の鳥居を見つけて立寄った。
森林公園のような雰囲気で、こちら側から入ると左手には木々の茂林で「稲荷山古墳群」があるという。
右手には稲荷神社がある。

裏から回ったので神社の本殿側に出た。 左手が拝殿。

こちらが拝殿で、潮来の街から階段を上った正面にこの拝殿がある。

上の説明にあるように神社としてはそれほど古くはない。
江戸時代に建立されたそうだ。
江戸時代にはここ潮来は水運の中心地となり、街も華やかであったと思う。

稲荷神社ですから当然キツネですね。(何故キツネなのか? 読んだこともあるけど忘れたな。)

この神社の階段上から潮来の街を見渡したところです。
この稲荷神社はそれほど歴史はないようですが、この森はかなり古くから親しまれていたようです。
この森が潮来のシンボルとして色々な記念碑が置かれていました。
稲荷山から長勝寺へ続くところは木々が茂っていて、古代の古墳がたくさん眠っているという。

このような道が続くが、あまり整備されていないので道はよくない。

この先に行くと鎌倉時代に建てられた長勝寺や水戸光圀の御休処「遺愛亭」跡などがある。

そんな中に立派な石碑が置かれていました。
菊池寛の碑なのだそうだ。潮来との関わりは?
(※訂正します。菊池寛ではなく菊池寛実だそうです。菊池寛実は炭鉱王で実業家でした。潮来とは霞ケ浦の汽船事業も行っていたそうで、そのつながりです。旧馬頭町の生まれで莫大な資産を築いたようです。(2021.11.5))

こちらは稲荷神社西側にあった「茨城百景水郷潮来」の碑

その横に「野口雨情と中山晋平」の歌碑がありました。

歌詞をみると「船頭小唄」でした。

「潮来町立女子技芸学校跡」の碑です。
この神社の横に明治40年に建てられました。
その後昭和13年に東の下の方に移転したようです。
この技芸学校というのはいかにも潮来らしいですね。
その後高等女学校になり、現在の県立潮来高校となったといいます。
京都などは芸子や舞妓などの養成学校のようですが、潮来も江戸・明治頃は花街として賑わったようですが、この学校はあまりそのような養成学校とは違うようです。
女子教育に熱心だったのでしょう。

昭和41年に建てられた橋本登美三郎さんの顕彰碑。ずいぶん立派なものでした。
建てられたのは佐藤内閣の官房長官時代です。


潮来稲荷山と長勝寺(2)
一昨日書いた潮来の稲荷山に行ったのは3月22日。まだ桜が咲き始めた頃でした。
この時記事を書いていて「長勝寺」という寺がこの山の麓にあることを知りいってみたくなりました。
なにしろ潮来では有名な寺のようなので一度見ておく必要があると思ったのです。
そして2週間後にこの近くを訪れる機会を得て寄り道したのです。
稲荷山の脇道を潮来の街へ降りていくと、古くからの水郷の街並みがあります。
山の麓を通る道は狭くてよくわからないため、商店街の道を進み適当に勘をつけて入ってみました。
一つとなりの道でしたが、大きな駐車場があったので車を止めて歩くとすぐにわかりました。
とても大きな寺です。

(サムネルです)
海雲山長勝寺(臨済宗の禅寺)です。こちらがその入口の門です。

(サムネルです)
説明書きによれば源頼朝が文治元年(1185年)に開いた寺です。
頼朝が伊豆で挙兵したのは1180年、その後安房、上総、下総、常陸と勢力を伸ばし、常陸国府(石岡)にやってきたのもこの1180年11月。大矢橋で佐竹義政を上総介広常が打ち取り一気に佐竹を追い詰めていきました。
そして壇ノ浦で平氏を滅ぼしたのは1185年です。
この年にこの寺は建てられたのです。

(サムネルです)
四月のはじめでしたが、桜は桜吹雪として舞い落ちる素敵な寺を拝顔する事ができました。
桜が散る中、寺への長い参道を進むと立派な楼門が現れました。

(サムネルです)
下の説明にあるように、元禄時代(江戸初期)に普門院の山門として建立していたものを水戸光圀(黄門)がこの寺に移したものだそうです。
普門院という寺はもう少し東側の洲崎にあるが、この近くに普門院別院がある。どちらなのだろうか。
なぜ移したのだろうか?少し気になるが・・・

(サムネルです)

山門をくぐると正面に立派な本堂が見えてきます。

(サムネルです)
藁葺きの本道は堂々としてその風格を感じます。

(サムネルです)

(サムネルです)
造りは桃山時代と考えられると書かれています。
笹竜胆の家紋(寺紋)などが施されており源氏を祀る寺のようです。

(サムネルです)
臨済宗という禅寺ですから鎌倉時代以降から室町時代頃にこの寺が臨済宗になったのでしょう。
頼朝がこの寺を創建して、その後臨済宗となったものと思われます。
もう少し明日に続きます。
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この時記事を書いていて「長勝寺」という寺がこの山の麓にあることを知りいってみたくなりました。
なにしろ潮来では有名な寺のようなので一度見ておく必要があると思ったのです。
そして2週間後にこの近くを訪れる機会を得て寄り道したのです。
稲荷山の脇道を潮来の街へ降りていくと、古くからの水郷の街並みがあります。
山の麓を通る道は狭くてよくわからないため、商店街の道を進み適当に勘をつけて入ってみました。
一つとなりの道でしたが、大きな駐車場があったので車を止めて歩くとすぐにわかりました。
とても大きな寺です。

(サムネルです)
海雲山長勝寺(臨済宗の禅寺)です。こちらがその入口の門です。

(サムネルです)
説明書きによれば源頼朝が文治元年(1185年)に開いた寺です。
頼朝が伊豆で挙兵したのは1180年、その後安房、上総、下総、常陸と勢力を伸ばし、常陸国府(石岡)にやってきたのもこの1180年11月。大矢橋で佐竹義政を上総介広常が打ち取り一気に佐竹を追い詰めていきました。
そして壇ノ浦で平氏を滅ぼしたのは1185年です。
この年にこの寺は建てられたのです。

(サムネルです)
四月のはじめでしたが、桜は桜吹雪として舞い落ちる素敵な寺を拝顔する事ができました。
桜が散る中、寺への長い参道を進むと立派な楼門が現れました。

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下の説明にあるように、元禄時代(江戸初期)に普門院の山門として建立していたものを水戸光圀(黄門)がこの寺に移したものだそうです。
普門院という寺はもう少し東側の洲崎にあるが、この近くに普門院別院がある。どちらなのだろうか。
なぜ移したのだろうか?少し気になるが・・・

(サムネルです)

山門をくぐると正面に立派な本堂が見えてきます。

(サムネルです)
藁葺きの本道は堂々としてその風格を感じます。

(サムネルです)

(サムネルです)
造りは桃山時代と考えられると書かれています。
笹竜胆の家紋(寺紋)などが施されており源氏を祀る寺のようです。

(サムネルです)
臨済宗という禅寺ですから鎌倉時代以降から室町時代頃にこの寺が臨済宗になったのでしょう。
頼朝がこの寺を創建して、その後臨済宗となったものと思われます。
もう少し明日に続きます。


潮来稲荷山と長勝寺(3)
(今日の2本目です)
潮来の観光でも外せないという長勝寺。
確かにこの桜の時期には特に美しい寺だ。
この寺は鎌倉幕府を興した源頼朝が1185年に創建したが、江戸時代にはかなり荒れてしまっていたのを、水戸光圀が力を入れて再建・修理したりしたという。
1180年に頼朝が伊豆の蛭島で挙兵した。三浦半島を支配していた三浦氏などを頼り、戦いを始めた頼朝だが、石橋山で敗北して真鶴岬から安房国に逃れた。
ここには千葉常胤や上総介広常が味方になりまず関東の制覇に向かった。
一方常陸国の南部の大掾氏勢力もこの流れに乗りますが、抵抗したのが常陸太田で勢力を持っていた佐竹氏です。
この佐竹氏は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の子孫です。
同じ源氏同士ですが、関東では平氏も源氏も入り乱れていますね。
1180年11月に上総介広常と源頼朝は常陸国府(石岡)にやってきました。
そして佐竹氏に国府に話し合いを持つためにやってくるように使者を送ります。
佐竹氏はその時兄弟二人で城を守っていましたが、反対する弟を置いて、兄義政が府中(石岡)に向かったのです。
しかし、府中の入口である園部川に架かる大矢橋で事件は起きました。(こちら)
前に書いているので内容は省略します。
この頃の話として思い出してしまいました。頼朝はこの潮来に寺を立てたということはやはり鹿島神宮のとなりであるという思いが強く働いたのでしょう。
さて、この長勝寺には明治の時代にすでに国の重要文化財となっている銅鐘があります。

この鐘は北条高時が頼朝ゆかりの寺ということで寄進した鐘だといいます。
鐘の銘に「客船夜泊常陸蘇城」と書かれているそうです。
常陸蘇城ということは、この常陸国板来(潮来)が中国の蘇州の風情に似ていたとのでしょう。
この時既にここは水運が発達していたのです。
1330年ころですから、江戸時代よりかなり前です。たくさんの客船がこの潮来の湊に停泊していたのでしょう。
ちょっと想像してみてください。

北条高時はその後、新田氏に鎌倉を攻められて31歳で自刀してしまいます。歴史の流れを感じます。
境内を散策していたら「潮来の駅屋(うまや)跡」という碑を発見しました。

奈良や平安時代に古東海道や東山道の官道の途中に馬を常備させた駅屋(うまや)が置かれていました。
潮来はこの東海道から外れますが、常陸国国府(石岡)から鹿島神宮までの道があり、その途中に置かれたと言われています。
常陸国府(石岡) - 曾尼(曾祢)駅(旧玉造町手賀) - 板来駅 - 鹿島神宮
のルートです。曾尼(曾祢)(そね)というのは常陸風土記に「提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。昔この地に住んでいたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家(うまや)が置かれている。」となっています。
そのため、手賀の少し北のあたりとされます。
いっぽうこちらの板来駅は、調べてみると弘仁6年(815)にこの駅は廃止となり、曾尼駅から直接鹿島神宮に向かっていたようです。
この頃は霞ヶ浦(香取の海、流れ海)を通る船のルートもあり、この道の利用状況はわかりません。
でもこの場にこのような看板を掲げられているからには何かここがその駅という証拠があるのでしょうか。
ほとんどの駅が未だに場所が特定されていないのです。地名でここらしいというのが多いのです。
石岡の駅の場所は前に国府町の6号沿いの高台ではないかとブログに書きました。
国府のあとは石岡小学校敷地と認定されたのですが、茨城廃寺のある茨城(ばらき)に茨城郡衙があったとすると、この二つの関係はどのようになっているのしょうか。
昨日、土浦市の上高津貝塚公園で開催されている「古代のみち」の展示会を見てきました。
かなり踏み込んで解釈がされていますが、私の持つイメージと異なります。
やはり土浦を中心に考えてしまうのですね。

その他に、芭蕉が鹿島紀行(貞享4年(1687)で残した歌の歌碑や、昭和7年に晋風建立の連句碑があります。
芭蕉が根本寺の和尚を訪ねた(こちらに記事載せています)、鹿島神宮に詣でた後、帰路に潮来の医師本間自準亭に泊まったといわれまています。
「塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すずめ」松江(自準)
「あきをこめたるくねの指杉」桃青(芭蕉)
「月見んと汐引きのぼる船とめて」曾良

この文治梅というのは、この寺の創建年号から名付けられたそうです。

こちらは「茶筅塚」というそうです。お茶をやられている方はご存知でしょうか?
茶道具などの供養?

こちらは「茶筅塚」に置かれている石碑。何と書かれているかよくわかりませんが、載せておきます。

この寺もよく調べてから来ないと見落とすものが多いようだ。
機会があればまた来よう。

なにしろ今回記事を1時間くらい書いていたが、途中保存しないうちに消してしまった。
文章をまた思い出しながら書き直すのって、とてもまた労力が必要ですね。

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潮来の観光でも外せないという長勝寺。
確かにこの桜の時期には特に美しい寺だ。
この寺は鎌倉幕府を興した源頼朝が1185年に創建したが、江戸時代にはかなり荒れてしまっていたのを、水戸光圀が力を入れて再建・修理したりしたという。
1180年に頼朝が伊豆の蛭島で挙兵した。三浦半島を支配していた三浦氏などを頼り、戦いを始めた頼朝だが、石橋山で敗北して真鶴岬から安房国に逃れた。
ここには千葉常胤や上総介広常が味方になりまず関東の制覇に向かった。
一方常陸国の南部の大掾氏勢力もこの流れに乗りますが、抵抗したのが常陸太田で勢力を持っていた佐竹氏です。
この佐竹氏は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の子孫です。
同じ源氏同士ですが、関東では平氏も源氏も入り乱れていますね。
1180年11月に上総介広常と源頼朝は常陸国府(石岡)にやってきました。
そして佐竹氏に国府に話し合いを持つためにやってくるように使者を送ります。
佐竹氏はその時兄弟二人で城を守っていましたが、反対する弟を置いて、兄義政が府中(石岡)に向かったのです。
しかし、府中の入口である園部川に架かる大矢橋で事件は起きました。(こちら)
前に書いているので内容は省略します。
この頃の話として思い出してしまいました。頼朝はこの潮来に寺を立てたということはやはり鹿島神宮のとなりであるという思いが強く働いたのでしょう。
さて、この長勝寺には明治の時代にすでに国の重要文化財となっている銅鐘があります。

この鐘は北条高時が頼朝ゆかりの寺ということで寄進した鐘だといいます。
鐘の銘に「客船夜泊常陸蘇城」と書かれているそうです。
常陸蘇城ということは、この常陸国板来(潮来)が中国の蘇州の風情に似ていたとのでしょう。
この時既にここは水運が発達していたのです。
1330年ころですから、江戸時代よりかなり前です。たくさんの客船がこの潮来の湊に停泊していたのでしょう。
ちょっと想像してみてください。

北条高時はその後、新田氏に鎌倉を攻められて31歳で自刀してしまいます。歴史の流れを感じます。
境内を散策していたら「潮来の駅屋(うまや)跡」という碑を発見しました。

奈良や平安時代に古東海道や東山道の官道の途中に馬を常備させた駅屋(うまや)が置かれていました。
潮来はこの東海道から外れますが、常陸国国府(石岡)から鹿島神宮までの道があり、その途中に置かれたと言われています。
常陸国府(石岡) - 曾尼(曾祢)駅(旧玉造町手賀) - 板来駅 - 鹿島神宮
のルートです。曾尼(曾祢)(そね)というのは常陸風土記に「提賀の里より北に、曾尼(そね)の村がある。昔この地に住んでいたそねびこといふ佐伯の名から名付けられた。今は駅家(うまや)が置かれている。」となっています。
そのため、手賀の少し北のあたりとされます。
いっぽうこちらの板来駅は、調べてみると弘仁6年(815)にこの駅は廃止となり、曾尼駅から直接鹿島神宮に向かっていたようです。
この頃は霞ヶ浦(香取の海、流れ海)を通る船のルートもあり、この道の利用状況はわかりません。
でもこの場にこのような看板を掲げられているからには何かここがその駅という証拠があるのでしょうか。
ほとんどの駅が未だに場所が特定されていないのです。地名でここらしいというのが多いのです。
石岡の駅の場所は前に国府町の6号沿いの高台ではないかとブログに書きました。
国府のあとは石岡小学校敷地と認定されたのですが、茨城廃寺のある茨城(ばらき)に茨城郡衙があったとすると、この二つの関係はどのようになっているのしょうか。
昨日、土浦市の上高津貝塚公園で開催されている「古代のみち」の展示会を見てきました。
かなり踏み込んで解釈がされていますが、私の持つイメージと異なります。
やはり土浦を中心に考えてしまうのですね。

その他に、芭蕉が鹿島紀行(貞享4年(1687)で残した歌の歌碑や、昭和7年に晋風建立の連句碑があります。
芭蕉が根本寺の和尚を訪ねた(こちらに記事載せています)、鹿島神宮に詣でた後、帰路に潮来の医師本間自準亭に泊まったといわれまています。
「塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すずめ」松江(自準)
「あきをこめたるくねの指杉」桃青(芭蕉)
「月見んと汐引きのぼる船とめて」曾良

この文治梅というのは、この寺の創建年号から名付けられたそうです。

こちらは「茶筅塚」というそうです。お茶をやられている方はご存知でしょうか?
茶道具などの供養?

こちらは「茶筅塚」に置かれている石碑。何と書かれているかよくわかりませんが、載せておきます。

この寺もよく調べてから来ないと見落とすものが多いようだ。
機会があればまた来よう。

なにしろ今回記事を1時間くらい書いていたが、途中保存しないうちに消してしまった。
文章をまた思い出しながら書き直すのって、とてもまた労力が必要ですね。



潮来あやめ祭り
昨日の金曜日は朝から晴れて蒸し暑くなりました。
午後から銚子で仕事がありましたので朝早めに出かけて潮来のあやめ祭りを見に行ってきました。
ここ数日雨続きで会場関係者もこの日ばかりはホッとしていたのでしょう。
朝の少しの時間だけしかなかったので駐車料無料の場所を探すのも時間がもったいなく、前川あやめ園さんに一番近そうな民間の駐車場に車を止めました。(500円)
時間は午前9時。それでも大分お客さんは来ており、屋台の準備も大急ぎでやっている最中というところでした。
アヤメの花も去年行ったのは5月でしたのでだいぶ早すぎてほとんど咲いていなかったのですが、昨日は満開を少し過ぎたくらいのアヤメがたくさん水郷情緒とともに輝いておりました。
30分程で撮った写真をこれから2回にわけて載せます。
あやめ祭りは今月29日(日)までです。もし行かれるのならお早めに。









現地で頂いたパンフレットをのせておきます。




明日にもう少し続きます。
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午後から銚子で仕事がありましたので朝早めに出かけて潮来のあやめ祭りを見に行ってきました。
ここ数日雨続きで会場関係者もこの日ばかりはホッとしていたのでしょう。
朝の少しの時間だけしかなかったので駐車料無料の場所を探すのも時間がもったいなく、前川あやめ園さんに一番近そうな民間の駐車場に車を止めました。(500円)
時間は午前9時。それでも大分お客さんは来ており、屋台の準備も大急ぎでやっている最中というところでした。
アヤメの花も去年行ったのは5月でしたのでだいぶ早すぎてほとんど咲いていなかったのですが、昨日は満開を少し過ぎたくらいのアヤメがたくさん水郷情緒とともに輝いておりました。
30分程で撮った写真をこれから2回にわけて載せます。
あやめ祭りは今月29日(日)までです。もし行かれるのならお早めに。









現地で頂いたパンフレットをのせておきます。




明日にもう少し続きます。


潮来あやめ祭り(2)
前の記事から2本イベント記事が入ってしまいました。
今日は夜は東京で飲み会があるので夕方には出かけます。本記事は予約投稿とします。

「潮来花嫁さん」 (唄:花村菊江 作詞:柴田よしかず 作曲:水野富士夫) 1960年
潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは 舟でゆく
月の出潮を ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
人のうわさに かくれて咲いた
花も十八 嫁御寮

. 「潮来笠」 唄:橋幸夫 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 1960年
潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
薄情そうな 渡り鳥
それでいいのさ あの移り気な
風が吹くまま 西東
なのにヨー なぜに眼に浮く潮来笠
そう、この上の2曲は同じ年の発売。今から54年も前。 橋幸夫のデビュー曲でした。
あの頃まではここ潮来も股旅物でのイメージがかなりあったんですね。
今や時代劇も無くなりさみしい限りです。

「潮来出島のまこもの中に あやめ咲くとはし ほらしや」 光圀
水戸光圀(黄門さん)が元禄12年領内巡視の折りに詠んだ歌とされる。
江戸時代はここは水戸から江戸への荷物の運搬には涸沼を通り、霞ヶ浦北浦からこの潮来を通り利根川経由で運ばれた。
そのため、ここには江戸の文化も伝わり独特の文化が花開いていた。
ここの芸者遊びなどで江戸にも伝わっていた「潮来節」と呼ばれる唄がある。
三味線による芸者唄などが主体であったかもしれないが、地方の民謡となり各地の盆踊り歌などにもなっていったようだ。
♪ 潮来出島のすな真菰(まごも)、殿に刈らせて我ささぐ。さつさおせおせ
♪ いたこ出島のまこもの中に、あやめ咲くとはつゆしらず
♪ 潮来出島の十二の橋を、行きつ戻りつ思案橋
そして、都々逸にも発展した。
都々逸の創始者「都々一坊扇歌」 は常陸府中(石岡)で亡くなり、国分寺に墓がある。
名古屋にも似た「神戸節」(ごうどぶし)があり、「そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世は サクサク」などの調子がおもしろかったので都々逸という名前になったとして、「都々逸発祥の地」などという碑もあるそうだが・・・。
もっとも都々逸も「都々一」と本来は書くはず。これは「都で一番」という意味が込められていた。
潮来節は各地の民謡に広がっているが、その代表的なものが徳島阿波踊りだともいう。
(囃子)
♪ 阿波の殿様 蜂須賀様が 今に残せし 阿波踊り
(囃子)
♪ 巡礼お鶴の あの菅笠に いとし涙の 雨が降る
♪ こうも鳴門で 未練の深み それで渦ほど 気がまわる
♪ 踊り踊らば しなよく踊れ しなのよいのを 妻に持つ
盆踊りの歌詞にこの潮来節がどこかにうたわれているものが数多くあるのは面白い。
♪ ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ (神崎神社)
♪ 潮来出島のよれ真菰(まこも) 殿に刈らせて我捧ぐ
ささぎ揃いて船に積む 船は何船宝船 船は出て行く森の影
此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐棲む
棲むや白狐 我も二三度騙された ♪ (石岡市太田善光寺)




上は鉄道ではなく県道101号線が通る。

前川から常陸利根川へ出たところ。
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今日は夜は東京で飲み会があるので夕方には出かけます。本記事は予約投稿とします。

「潮来花嫁さん」 (唄:花村菊江 作詞:柴田よしかず 作曲:水野富士夫) 1960年
潮来花嫁さんは 潮来花嫁さんは 舟でゆく
月の出潮を ギッチラ ギッチラ ギッチラコ
人のうわさに かくれて咲いた
花も十八 嫁御寮

. 「潮来笠」 唄:橋幸夫 作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 1960年
潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
薄情そうな 渡り鳥
それでいいのさ あの移り気な
風が吹くまま 西東
なのにヨー なぜに眼に浮く潮来笠
そう、この上の2曲は同じ年の発売。今から54年も前。 橋幸夫のデビュー曲でした。
あの頃まではここ潮来も股旅物でのイメージがかなりあったんですね。
今や時代劇も無くなりさみしい限りです。

「潮来出島のまこもの中に あやめ咲くとはし ほらしや」 光圀
水戸光圀(黄門さん)が元禄12年領内巡視の折りに詠んだ歌とされる。
江戸時代はここは水戸から江戸への荷物の運搬には涸沼を通り、霞ヶ浦北浦からこの潮来を通り利根川経由で運ばれた。
そのため、ここには江戸の文化も伝わり独特の文化が花開いていた。
ここの芸者遊びなどで江戸にも伝わっていた「潮来節」と呼ばれる唄がある。
三味線による芸者唄などが主体であったかもしれないが、地方の民謡となり各地の盆踊り歌などにもなっていったようだ。
♪ 潮来出島のすな真菰(まごも)、殿に刈らせて我ささぐ。さつさおせおせ
♪ いたこ出島のまこもの中に、あやめ咲くとはつゆしらず
♪ 潮来出島の十二の橋を、行きつ戻りつ思案橋
そして、都々逸にも発展した。
都々逸の創始者「都々一坊扇歌」 は常陸府中(石岡)で亡くなり、国分寺に墓がある。
名古屋にも似た「神戸節」(ごうどぶし)があり、「そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世は サクサク」などの調子がおもしろかったので都々逸という名前になったとして、「都々逸発祥の地」などという碑もあるそうだが・・・。
もっとも都々逸も「都々一」と本来は書くはず。これは「都で一番」という意味が込められていた。
潮来節は各地の民謡に広がっているが、その代表的なものが徳島阿波踊りだともいう。
(囃子)
♪ 阿波の殿様 蜂須賀様が 今に残せし 阿波踊り
(囃子)
♪ 巡礼お鶴の あの菅笠に いとし涙の 雨が降る
♪ こうも鳴門で 未練の深み それで渦ほど 気がまわる
♪ 踊り踊らば しなよく踊れ しなのよいのを 妻に持つ
盆踊りの歌詞にこの潮来節がどこかにうたわれているものが数多くあるのは面白い。
♪ ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ (神崎神社)
♪ 潮来出島のよれ真菰(まこも) 殿に刈らせて我捧ぐ
ささぎ揃いて船に積む 船は何船宝船 船は出て行く森の影
此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐棲む
棲むや白狐 我も二三度騙された ♪ (石岡市太田善光寺)




上は鉄道ではなく県道101号線が通る。

前川から常陸利根川へ出たところ。


あじさいの杜(潮来)
潮来と言えば水郷とアヤメだが、紫陽花で掘り起こしを図っている寺があるとネットで知って先日銚子に行く時に寄り道をしてきました。
場所は牛堀の方から国道51号線を少しいたこの潮来の方に行った途中の山側で、二本松寺というところです。
前に訪れた観音寺(記事はこちら)の近くです。
このお寺は知らなかったのですが、「あじさいの杜」と説明がありましたので少しわかりにくい道を入っていってみました。
とても大きな寺で駐車場も広く取ってありました。

お寺はこの上の写真の左手奥ですが、「あじさいの杜」と書かれた看板にしたがって下の方に降りて行きます。

下りる途中の左手に紫陽花の花が咲いています。 この下ったところの右手は学校(牛堀小)があります。
そして下には田んぼが広がっています。

二本松寺は少し高台にありその山の斜面を利用して約7000本の紫陽花が植えられています。

紫陽花の時期としては少し遅かったかもしれません。
これからも増やしていき1万本の紫陽花が咲き誇る寺にしたいと始めたようです。
これから数年するときっともっときれいに見られるようになると思います。

一旦下に降りてこの山を廻りこむようにして、寺へ裏手から上っていきます。

この上り道の途中にたくさんお紫陽花が植えられています。

寺の裏手に着くと「水戸光圀(黄門)公お手植えの槇」の巨木があります。
1691年に本堂を改築した時に植えたものだそうです。


こちらが本堂です。


天台宗羽黒山覚城院二本松寺。 本尊は薬師如来。
平安時代の初期824年頃に慈覚大師円仁により茂木に建てられたとされ、行方四頭の二男である島崎氏が島崎城を築城した時に京都比叡山を模して鬼門の位置にこの寺を配したという。
それから400年間島崎氏の祈願寺として繁栄した。
島崎氏が佐竹氏に滅ぼされた後も寺は佐竹氏、水戸徳川氏に守られてきたそうです。
この辺りは島崎氏の領地だったのですね。


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場所は牛堀の方から国道51号線を少しいたこの潮来の方に行った途中の山側で、二本松寺というところです。
前に訪れた観音寺(記事はこちら)の近くです。
このお寺は知らなかったのですが、「あじさいの杜」と説明がありましたので少しわかりにくい道を入っていってみました。
とても大きな寺で駐車場も広く取ってありました。

お寺はこの上の写真の左手奥ですが、「あじさいの杜」と書かれた看板にしたがって下の方に降りて行きます。

下りる途中の左手に紫陽花の花が咲いています。 この下ったところの右手は学校(牛堀小)があります。
そして下には田んぼが広がっています。

二本松寺は少し高台にありその山の斜面を利用して約7000本の紫陽花が植えられています。

紫陽花の時期としては少し遅かったかもしれません。
これからも増やしていき1万本の紫陽花が咲き誇る寺にしたいと始めたようです。
これから数年するときっともっときれいに見られるようになると思います。

一旦下に降りてこの山を廻りこむようにして、寺へ裏手から上っていきます。

この上り道の途中にたくさんお紫陽花が植えられています。

寺の裏手に着くと「水戸光圀(黄門)公お手植えの槇」の巨木があります。
1691年に本堂を改築した時に植えたものだそうです。


こちらが本堂です。


天台宗羽黒山覚城院二本松寺。 本尊は薬師如来。
平安時代の初期824年頃に慈覚大師円仁により茂木に建てられたとされ、行方四頭の二男である島崎氏が島崎城を築城した時に京都比叡山を模して鬼門の位置にこの寺を配したという。
それから400年間島崎氏の祈願寺として繁栄した。
島崎氏が佐竹氏に滅ぼされた後も寺は佐竹氏、水戸徳川氏に守られてきたそうです。
この辺りは島崎氏の領地だったのですね。




大生神社へ再び
いよいよ年も押し迫りました。
ブログの訪問者も少なくなり、多くのサイトもお休みのようですね。
まあこのブログも休んでも良いのですがせっかくの連続投稿の記録が途絶えますのでどうにかつないでいきたいと思っています。
先日鹿島方面に行く途中で元鹿島と呼ばれる「大生神社」に立ち寄ってみました。

一度来たことがあるので、近くに行って森の中にあるこの神社の場所もすぐにわかりました。
(前の記事はこちら1、こちら2)
このあたりは大生の森が広がっております。
この「大生」という名前もきっとこのあたりに住んだ「多氏(おおし)」の氏族が住みついて呼ばれるようになったものと思っています。
1500~1600年くらい前に古代大和朝廷の氏族の多氏がここに移り住んだのだと思います。
そのため元鹿島とも呼ばれているのだと思います。
常総市に菅原道真にまつわる大生郷天満宮がありますが、こちらは「おおのごう」と読むようです。



この本殿は戦国末期の天正18年(1590年)の建立といわれるのでかなり古い。
この年に石岡の大掾氏の滅んだ年です。
現地の看板に書かれていることを少し載せます。
「大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのおがみ)を祭神とする元郷社で、その創紀年代は詳らでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富(おふ)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御紀したのに始まるといわれている。・・・・」
時の流れが止まったように静かな森の中に佇むこの古社も時々訪れて見たいと思っています。
ブログの訪問者も少なくなり、多くのサイトもお休みのようですね。
まあこのブログも休んでも良いのですがせっかくの連続投稿の記録が途絶えますのでどうにかつないでいきたいと思っています。
先日鹿島方面に行く途中で元鹿島と呼ばれる「大生神社」に立ち寄ってみました。

一度来たことがあるので、近くに行って森の中にあるこの神社の場所もすぐにわかりました。
(前の記事はこちら1、こちら2)
このあたりは大生の森が広がっております。
この「大生」という名前もきっとこのあたりに住んだ「多氏(おおし)」の氏族が住みついて呼ばれるようになったものと思っています。
1500~1600年くらい前に古代大和朝廷の氏族の多氏がここに移り住んだのだと思います。
そのため元鹿島とも呼ばれているのだと思います。
常総市に菅原道真にまつわる大生郷天満宮がありますが、こちらは「おおのごう」と読むようです。



この本殿は戦国末期の天正18年(1590年)の建立といわれるのでかなり古い。
この年に石岡の大掾氏の滅んだ年です。
現地の看板に書かれていることを少し載せます。
「大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのおがみ)を祭神とする元郷社で、その創紀年代は詳らでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富(おふ)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御紀したのに始まるといわれている。・・・・」
時の流れが止まったように静かな森の中に佇むこの古社も時々訪れて見たいと思っています。
水郷県民の森と大生古墳
大生神社に向かう途中にこの「茨城県潮来県民の森」がありました。
駐車場に車を止めて、少し見学して見ました。

この県民の森もここ大生の古墳群から広がる広大な場所に建設が決まって長くの年月をかけて整備し、2006年(平成18年)に開園されました。


園内は広葉樹などの森をそのままいかして散策できるようです。
かなり広い園内なので園内散策ばかりではなく色々な体験ゾーンがあるようです。

この園内にある吊り橋(長さ85m:吊り橋部分)も宝くじの収益金で造られた物のようです。



北の方に回って見ると「大生古墳群」と矢印はあるのですが、奥の方にあるようでしたので手前のさくらの木を植林したゾーンで引き返しました。
それにしてもへいじつでもあり、広いエリアにほとんど人がおりませんでした。
駐車場に車を止めて、少し見学して見ました。

この県民の森もここ大生の古墳群から広がる広大な場所に建設が決まって長くの年月をかけて整備し、2006年(平成18年)に開園されました。


園内は広葉樹などの森をそのままいかして散策できるようです。
かなり広い園内なので園内散策ばかりではなく色々な体験ゾーンがあるようです。

この園内にある吊り橋(長さ85m:吊り橋部分)も宝くじの収益金で造られた物のようです。



北の方に回って見ると「大生古墳群」と矢印はあるのですが、奥の方にあるようでしたので手前のさくらの木を植林したゾーンで引き返しました。
それにしてもへいじつでもあり、広いエリアにほとんど人がおりませんでした。
珍しい大六天神社が潮来にあった。そこは交通量の多い要の場所。
潮来のアヤメ園の脇を通って国道50号線に出て、神栖方面から銚子に行く時に、この50号線とのT字交差点横に神社があり、この神社が「大六天神社」であると前に地図で知って、何度も立ち寄りたいと思っていました。
しかし、駐車場がないので車越しに何度も横見して通り過ぎてきました。

潮来のアヤメ園の前を東に進むと50号線に突き当る。その交差点の左角にこの大六天神社がある。
近くにどうにか車を置いて少し歩いて立ち寄りました。

神社鳥居の入口の向かって左に「大六天神社」、右手に「水神社」と二つの神社の名前が書かれている。

大六天は第六天魔王のことで神仏習合の時代にこの魔王を祀る神社が各地につくられた。
それが明治の神仏分離令に伴って、祭神が「面足命」などにかわり、神社の名前もその名前を変えて行きました。
そのためこのように今でも大六天神社と名前が残されているのは珍しいと言えます。
以前香取市の府馬の大クスの麓の窪地にあった「久保神社」もたしか昔「大六王宮」と呼ばれていたと紹介したことがありました。
(記事1、記事2)
この久保神社には神仏習合を思わせる祭りの絵が残されていて、とても印象に残っています。
ここの大六天神社はどうなのでしょうか?
もう少し詳しく知れてみたいと思います。
今日は時間もないので続きは明日に書きたいと思います。
上の写真の石碑に経緯などが書かれているのですが・・・・。
しかし、駐車場がないので車越しに何度も横見して通り過ぎてきました。

潮来のアヤメ園の前を東に進むと50号線に突き当る。その交差点の左角にこの大六天神社がある。
近くにどうにか車を置いて少し歩いて立ち寄りました。

神社鳥居の入口の向かって左に「大六天神社」、右手に「水神社」と二つの神社の名前が書かれている。

大六天は第六天魔王のことで神仏習合の時代にこの魔王を祀る神社が各地につくられた。
それが明治の神仏分離令に伴って、祭神が「面足命」などにかわり、神社の名前もその名前を変えて行きました。
そのためこのように今でも大六天神社と名前が残されているのは珍しいと言えます。
以前香取市の府馬の大クスの麓の窪地にあった「久保神社」もたしか昔「大六王宮」と呼ばれていたと紹介したことがありました。
(記事1、記事2)
この久保神社には神仏習合を思わせる祭りの絵が残されていて、とても印象に残っています。
ここの大六天神社はどうなのでしょうか?
もう少し詳しく知れてみたいと思います。
今日は時間もないので続きは明日に書きたいと思います。
上の写真の石碑に経緯などが書かれているのですが・・・・。
潮来の大六天神社はこの地(大洲)の開拓の歴史が刻まれていた。
潮来の大洲にある大六天神社に置かれた碑によるとこの地の開拓と水害の記録が見えてきた。
潮来のアヤメ園から東側の地区は先の東日本大震災でも液状化でかなり道路も凸凹になり地盤の悪さが目立った。
霞ケ浦も昔はこの辺りは水面下であったのかもしれない。
利根川の東遷で大量の土砂などで大きな洲ができ、江戸時代にはこの地を開拓して水田が広がった。

神社の境内を入った右側にこの経緯が彫られた石碑が置かれている。
その最初のところを下記に書き下ろしてみた。
「今より392年前天正5年北浦の浪逆寄洲に祖先が7軒居住し7軒島と称す。忍耐と努力を重ね新田を開拓し、水禍に嘆き苦しつつ郷土の基となる寛永18年330年前大洲新田として年貢を上納するに至り、天保15年常陸国大洲村戸数60戸となる。明治9年潮来町と合併し今日の潮来町大洲戸数84戸となる。・・・・・・・」(昭和47年建之)
何故か神社の歴史よりもこのようなことが書かれているとこの地の先祖の苦労が伝わってくる。

「かりかけし 田面の鶴や さとの秋 はせを」 の碑 (明治9年建之)
(松尾芭蕉の鹿島紀行の中にある句:稲を刈りかけた田んぼで、鶴が餌をついばんでいる)
芭蕉は鹿島紀行でこの辺りを通ったのだろうか? 確かにこの句もこのあたりと考えられなくもない。


境内には庚申塔など幾つもの石碑が置かれている。

大六天神社拝殿。

大六天神社本殿。
この大六天は何時頃の創建かは定かではないそうだが、天保5年(1834)に再造営された棟札あり、それ以前であるという。
大六天(第六天)は仏教でいうところの仏道を妨げる魔王で、欲界を支配している最強の摩王です。
他化自在天ともいわれ、人の快楽を自由に自分の快楽にしてしまう力を持つと言われています。
織田信長が第六天魔王を自称したとも言われています。
天保の頃の祭神は素盞鳴命で、現在の祭神は「高御彦霊神」だそうです。どのように変わってきたかは不明。
この大六天神社は、千葉県香取郡山田町山倉の山倉大六天神社より分礼祀されたものと思われ、小泉地区の代神として祀っていたが、途中鹿島吉田神社の境内に移し、数年後に現在地に移され、昭和46年潮来有料道路新設に伴い移転新築されたという。
鹿島吉田神社は延方相撲が有名で、この始まりの経緯などは前に書いた。(こちら)

向かって大六天神社の拝殿の右側に「水神社」が置かれていいます。
寛文3年の創立と推定されています。
潮来のアヤメ園から東側の地区は先の東日本大震災でも液状化でかなり道路も凸凹になり地盤の悪さが目立った。
霞ケ浦も昔はこの辺りは水面下であったのかもしれない。
利根川の東遷で大量の土砂などで大きな洲ができ、江戸時代にはこの地を開拓して水田が広がった。

神社の境内を入った右側にこの経緯が彫られた石碑が置かれている。
その最初のところを下記に書き下ろしてみた。
「今より392年前天正5年北浦の浪逆寄洲に祖先が7軒居住し7軒島と称す。忍耐と努力を重ね新田を開拓し、水禍に嘆き苦しつつ郷土の基となる寛永18年330年前大洲新田として年貢を上納するに至り、天保15年常陸国大洲村戸数60戸となる。明治9年潮来町と合併し今日の潮来町大洲戸数84戸となる。・・・・・・・」(昭和47年建之)
何故か神社の歴史よりもこのようなことが書かれているとこの地の先祖の苦労が伝わってくる。

「かりかけし 田面の鶴や さとの秋 はせを」 の碑 (明治9年建之)
(松尾芭蕉の鹿島紀行の中にある句:稲を刈りかけた田んぼで、鶴が餌をついばんでいる)
芭蕉は鹿島紀行でこの辺りを通ったのだろうか? 確かにこの句もこのあたりと考えられなくもない。


境内には庚申塔など幾つもの石碑が置かれている。

大六天神社拝殿。

大六天神社本殿。
この大六天は何時頃の創建かは定かではないそうだが、天保5年(1834)に再造営された棟札あり、それ以前であるという。
大六天(第六天)は仏教でいうところの仏道を妨げる魔王で、欲界を支配している最強の摩王です。
他化自在天ともいわれ、人の快楽を自由に自分の快楽にしてしまう力を持つと言われています。
織田信長が第六天魔王を自称したとも言われています。
天保の頃の祭神は素盞鳴命で、現在の祭神は「高御彦霊神」だそうです。どのように変わってきたかは不明。
この大六天神社は、千葉県香取郡山田町山倉の山倉大六天神社より分礼祀されたものと思われ、小泉地区の代神として祀っていたが、途中鹿島吉田神社の境内に移し、数年後に現在地に移され、昭和46年潮来有料道路新設に伴い移転新築されたという。
鹿島吉田神社は延方相撲が有名で、この始まりの経緯などは前に書いた。(こちら)

向かって大六天神社の拝殿の右側に「水神社」が置かれていいます。
寛文3年の創立と推定されています。
永山金刀比羅神社(潮来)
石岡から霞ケ浦の北側を国道355号線で東にむかっていくと、行方市の旧麻生町を過ぎて、潮来市に入るとすぐに、国道51号線と交差する。
この信号の少し手前の山の上に気になる神社があり、先日やっと立ち寄ってみた。
この場所は永山地区でその先が牛堀地区になる。
先日「夜越川」の由来のところで書いた「永山城」はこの山の先の方にある。

国道355号線から真っ直ぐ上に急な階段が続いている。
すぐ近くに車を止める場所がなくいつもは通り過ぎていた。
何があるか気になり手前のコンビニの広い駐車所をお借りして車を停めた。
この階段はかなり急で少し危なっかしい。右手の方にはもう少し緩やかな階段があったが、真っ直ぐに上ってみた。

しばらく登ったところに鳥居があり、神社の社務所があった。
人も常駐されている。
顔を合わせたので「こんにちは」と挨拶をして神社拝殿へ更に階段を上った。

手水舎には牛堀の人の奉納書きがある。
ということは永山と牛堀地区の両方の神社なのか。

神社拝殿(入母屋造り)。

この神社も海運の守り神「金刀比羅神社」であった。

裏に回って見るとこの本殿はかなり立派なものだ。

彫刻も目を見張るものがあった。

本殿の隣りに「元之宮」が祀られていた。
この神社の由緒書きからは安永7年(1778)春の創建と思われる。
昔は霞ケ浦沿岸、鹿島灘、銚子の方からも参拝者がたくさんあったようだ。
金毘羅さん(金刀比羅さん)は当時漁業関係者の信仰がかなり厚かったようだ。
石岡の金刀比羅神社も昔は笠間の稲荷さんと並ぶほどに大変にぎわったそうなのだが・・・・。
この信号の少し手前の山の上に気になる神社があり、先日やっと立ち寄ってみた。
この場所は永山地区でその先が牛堀地区になる。
先日「夜越川」の由来のところで書いた「永山城」はこの山の先の方にある。

国道355号線から真っ直ぐ上に急な階段が続いている。
すぐ近くに車を止める場所がなくいつもは通り過ぎていた。
何があるか気になり手前のコンビニの広い駐車所をお借りして車を停めた。
この階段はかなり急で少し危なっかしい。右手の方にはもう少し緩やかな階段があったが、真っ直ぐに上ってみた。

しばらく登ったところに鳥居があり、神社の社務所があった。
人も常駐されている。
顔を合わせたので「こんにちは」と挨拶をして神社拝殿へ更に階段を上った。

手水舎には牛堀の人の奉納書きがある。
ということは永山と牛堀地区の両方の神社なのか。

神社拝殿(入母屋造り)。

この神社も海運の守り神「金刀比羅神社」であった。

裏に回って見るとこの本殿はかなり立派なものだ。

彫刻も目を見張るものがあった。

本殿の隣りに「元之宮」が祀られていた。
この神社の由緒書きからは安永7年(1778)春の創建と思われる。
昔は霞ケ浦沿岸、鹿島灘、銚子の方からも参拝者がたくさんあったようだ。
金毘羅さん(金刀比羅さん)は当時漁業関係者の信仰がかなり厚かったようだ。
石岡の金刀比羅神社も昔は笠間の稲荷さんと並ぶほどに大変にぎわったそうなのだが・・・・。
波乗りうさぎ文様など
昨日紹介した永山金刀比羅神社の境内に少し古びた灯篭や狛犬などが置かれていましたので紹介します。

常夜燈の台座の部分に彫られた文様は「波乗りうさぎ」です。
波間から月が昇ったり、波のある水面に月が写ると、月のウサギが波間に飛び跳ねているように見えるからこんな文様が江戸時代に流行りました。
江戸時代のもになのか?、明治? 昭和の初期かもしれません。
因幡の白兎でも、鰐の背中を飛び移って兎が飛び跳ねているのもきっと同じような想像だったのではないかと思います。
鰐なんて日本には古来から棲んでいませんからね。

この狛犬もかなり迫力のある表情をしていますね。
口を開けた阿型。

口を閉じた吽型。


この神社の鳥居からも霞ケ浦が見渡せます。
昔はきっとすぐ近くまで水が来ており、湊もあったのだと思います。
霞ケ浦の水運が発達していた時はここから大小さまざまな帆を張った舟が行き来していたのでしょう。
霞ケ浦の蒸気船の船着き場は麻生の次は牛堀ですので永山にはこの湊は無いですが、牛堀はすぐ近くですので牛堀と一緒なのでしょう。

常夜燈の台座の部分に彫られた文様は「波乗りうさぎ」です。
波間から月が昇ったり、波のある水面に月が写ると、月のウサギが波間に飛び跳ねているように見えるからこんな文様が江戸時代に流行りました。
江戸時代のもになのか?、明治? 昭和の初期かもしれません。
因幡の白兎でも、鰐の背中を飛び移って兎が飛び跳ねているのもきっと同じような想像だったのではないかと思います。
鰐なんて日本には古来から棲んでいませんからね。

この狛犬もかなり迫力のある表情をしていますね。
口を開けた阿型。

口を閉じた吽型。


この神社の鳥居からも霞ケ浦が見渡せます。
昔はきっとすぐ近くまで水が来ており、湊もあったのだと思います。
霞ケ浦の水運が発達していた時はここから大小さまざまな帆を張った舟が行き来していたのでしょう。
霞ケ浦の蒸気船の船着き場は麻生の次は牛堀ですので永山にはこの湊は無いですが、牛堀はすぐ近くですので牛堀と一緒なのでしょう。
潮来アヤメまつり
5月下旬から潮来水郷ではアヤメ祭りが行われています。
銚子に行く時に近くを通っているので先週末に立ち寄ってきました。

まずは潮来のあやめ観光といえばみんなが行く「前川アヤメ園」へ。
ここ毎年行っているので少し見飽きた光景です。

アヤメも見ごろということです。
あやめ祭りは6月26日(日)までです。

この前川も昔は多くの藩の船着き場(河岸)が並んでいました。
このあやめ園近くには「大門河岸」という船着き場がありました。

土日などには花嫁舟なども出て盛り上がるようです。
この日は中学生くらい生徒が団体で遠足?に来ていました。


この日は天気も良く波も穏やかで舟も気持ちよさそうです。
櫓漕ぎ舟が人気があるようですが、エンジン付きの舟も出ています。

この前川にも十二橋めぐりという名前がついています。
常陸利根川の向こう側の中州の加藤洲の十二橋めぐりはこの先の常陸利根川岸から出ています。

この前川あやめ園の船着き場からは櫓漕ぎの舟が出ます。
でも船頭さんは男性が多いです。

船着き場の対岸は最近整備したものでしょうか?
前には通ったことがないのですが初めて通りました。

銚子に行く時に近くを通っているので先週末に立ち寄ってきました。

まずは潮来のあやめ観光といえばみんなが行く「前川アヤメ園」へ。
ここ毎年行っているので少し見飽きた光景です。

アヤメも見ごろということです。
あやめ祭りは6月26日(日)までです。

この前川も昔は多くの藩の船着き場(河岸)が並んでいました。
このあやめ園近くには「大門河岸」という船着き場がありました。

土日などには花嫁舟なども出て盛り上がるようです。
この日は中学生くらい生徒が団体で遠足?に来ていました。


この日は天気も良く波も穏やかで舟も気持ちよさそうです。
櫓漕ぎ舟が人気があるようですが、エンジン付きの舟も出ています。

この前川にも十二橋めぐりという名前がついています。
常陸利根川の向こう側の中州の加藤洲の十二橋めぐりはこの先の常陸利根川岸から出ています。

この前川あやめ園の船着き場からは櫓漕ぎの舟が出ます。
でも船頭さんは男性が多いです。

船着き場の対岸は最近整備したものでしょうか?
前には通ったことがないのですが初めて通りました。

潮来つるし雛の会と長勝寺
潮来のアヤメ園から鎌倉ゆかりの古刹「長勝寺」に向かった。
やはりここに来たからには新緑のお寺を見ていきたいと思う。
比較的近いのだがこちらに回ってくる観光客は比較的少ない。

門前通りの各家の入り口付近に「つるし雛の会」と書かれたつるし雛が飾ってあった。
時期としてはひな祭り頃の2月~3月には各地で飾られているが、このような新緑の頃にも色合いがよく合う。

紫陽花の花なども多く飾られていてきれいに整備されていて気持ちがよい。目を楽しませてくれる。

長勝寺には芭蕉の句碑(鹿島紀行の時読んだもの)がある。



万緑の中の朱色の門もインパクトがあります。
万緑叢中紅一点といったところなのだろうか。

いつみても良い形をしている。

寺の脇に「潮来の駅家(うまや)跡」の碑が置かれている。
この駅家も鹿島と常陸国府(石岡)をつなぐ官道にあったのだが比較的早く廃止された。
駅家の場所がここであったのかどうかは私はいまだ確認していない。
やはりここに来たからには新緑のお寺を見ていきたいと思う。
比較的近いのだがこちらに回ってくる観光客は比較的少ない。

門前通りの各家の入り口付近に「つるし雛の会」と書かれたつるし雛が飾ってあった。
時期としてはひな祭り頃の2月~3月には各地で飾られているが、このような新緑の頃にも色合いがよく合う。

紫陽花の花なども多く飾られていてきれいに整備されていて気持ちがよい。目を楽しませてくれる。

長勝寺には芭蕉の句碑(鹿島紀行の時読んだもの)がある。



万緑の中の朱色の門もインパクトがあります。
万緑叢中紅一点といったところなのだろうか。

いつみても良い形をしている。

寺の脇に「潮来の駅家(うまや)跡」の碑が置かれている。
この駅家も鹿島と常陸国府(石岡)をつなぐ官道にあったのだが比較的早く廃止された。
駅家の場所がここであったのかどうかは私はいまだ確認していない。
浄国寺(潮来)
潮来のアヤメ園と長勝寺の間を通る旧街道の通り沿いを少し東に進んだところに「浄国寺」という寺があり、入口に何か書かれた石碑が建っていたので車を停めて立ち寄りました。

石碑には「宮本茶村先生之墓 入口」とありました。

潮来ではこの茶村は有名人のようです。
前に延方郷校を紹介したときにすでにこのブログでも紹介しています。
また吉田松陰が水戸から鹿島にきて、ここ潮来の茶村を訪ねています。
松陰は潮来の宮本家に泊まって翌日銚子に向かったのです。

入口参道の正面突き当りに「浄国寺」がある。
さて、ここにでは宮本茶村お墓があるのかと境内を探ししたが、それらしきものはない。

入口に置かれていた説明板には茶村の墓は寺の西側の寺に隣接した寺の敷地外にあるとのこと。
よく読まずに境内を探してしまった。
後で調べるとこの寺の横に宮本家があったようで、その敷地には墓があるらしい。

ここも観音霊場だそうだ。

釈迦の生誕から涅槃像までの像が置かれている。

境内に古い墓が多くある。
宝篋印塔がいくつもあった。


石碑には「宮本茶村先生之墓 入口」とありました。

潮来ではこの茶村は有名人のようです。
前に延方郷校を紹介したときにすでにこのブログでも紹介しています。
また吉田松陰が水戸から鹿島にきて、ここ潮来の茶村を訪ねています。
松陰は潮来の宮本家に泊まって翌日銚子に向かったのです。

入口参道の正面突き当りに「浄国寺」がある。
さて、ここにでは宮本茶村お墓があるのかと境内を探ししたが、それらしきものはない。

入口に置かれていた説明板には茶村の墓は寺の西側の寺に隣接した寺の敷地外にあるとのこと。
よく読まずに境内を探してしまった。
後で調べるとこの寺の横に宮本家があったようで、その敷地には墓があるらしい。

ここも観音霊場だそうだ。

釈迦の生誕から涅槃像までの像が置かれている。

境内に古い墓が多くある。
宝篋印塔がいくつもあった。

宮本茶村の墓
前に潮来の街を散策していて「宮本茶村の墓」という標識を見つけて路地を入ったところにある浄国寺という寺を探して見つからずに戻って調べて、寺の隣にあることを知ったのだが、先日また近くを通ったので改めて茶村の墓を訪れた。
茶村のことは土浦の色川三中(いろかわみなか)を調べていたときにも名前が出てきたし、吉田松陰が水戸から潮来経由で銚子に行ったときにも出てきたので知った。
そして潮来や延方郷校などでもよき名前を目にするようになった。

この寺(浄国寺)の西側にこの墓があるが、この場所にこの宮本家があったようだ。

吉田松陰もこの茶村を訪れていて、ここに泊まったのではないかと思う。
そのあと潮来から船で息栖を経由して松岸まで行き、銚子にはそこから歩いて行った。


カメラのレンズが曇ってしまい写真もうまくないが、このような人々の功績などをやはり少しは知らねばならないだろう。


最近少し忙しい。
茶村のことは土浦の色川三中(いろかわみなか)を調べていたときにも名前が出てきたし、吉田松陰が水戸から潮来経由で銚子に行ったときにも出てきたので知った。
そして潮来や延方郷校などでもよき名前を目にするようになった。

この寺(浄国寺)の西側にこの墓があるが、この場所にこの宮本家があったようだ。

吉田松陰もこの茶村を訪れていて、ここに泊まったのではないかと思う。
そのあと潮来から船で息栖を経由して松岸まで行き、銚子にはそこから歩いて行った。


カメラのレンズが曇ってしまい写真もうまくないが、このような人々の功績などをやはり少しは知らねばならないだろう。


最近少し忙しい。