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大生神社(1)-元鹿島といわれる古社

 常陸国一宮の鹿島神宮に元鹿島と言われる社があることをご存知だろうか?

私が、これを知ったのは今から1~2年ほど前のこと。それも偶然見た記事で興味を持ったのです。

そして、一度訪れてみたいと思っていて、ようやく先日行くことができました。

場所は鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少し高台になった潮来市の北端です。

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長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。

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大同元年(806年)創建とも言われるが、年代は明らかではない。
祭神は鹿島神宮と同じ健御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)(武甕槌神)であるが、ここが元鹿島と言われるのは、タケミカズチが最初にこの地で祭られた場所と言い伝えられていることにあります。
そして、今の鹿島神宮に遷宮されたと伝えられているようです。
真実のところは私にはよくわからない。

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立派な拝殿です。

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大和国の多(飯富)族がこの地に移住し、その氏神として祀ったのではないかと考えられています。

神社には天正8年(1590)の棟札が残されていて、鹿島神宮の神職を勤めている東家の文書に、この大生神社は南部大生邑(多村)から移されたあるといいます。
この大和の神社は「多坐弥志理都比古神社」です。

そして、この大和の神社は多(おお)氏の太安麻呂の子孫が神主となって続いています。

この本殿は県指定の文化財に指定されています。

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どうですか?
なんのことかわかりますか?
なんかチンプンカンプンというような気もしますね。
これはじっくり調べないと書き続けることができません。

通り一遍の説明でわからないので、自分なりに理解したいのですが、この場所だけ見ても見方が片手落ちになります。
あすの記事で少し続けてみたいとは思いますが、いい加減な記事になりそうです。ご勘弁を。



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鹿島地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/01/23 19:16

大生神社(2)

 昨日書いた元鹿島といわれる「大生(おおう)神社」について、記事を続けます。

この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばならないようです。

奈良時代初期713年頃にまとめられたと言われる常陸国風土記の行方郡の項に「建借間命(たけかしまのみこと)」(=鹿島神宮の祭神=タケミカヅチ)について書かれた記述がある。

「天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。
建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あ ば)の島に宿を設けたとき、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いで誓(うけひ)して、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」といふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵みなに命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖(く ず)、夜尺斯(や さかし)、夜筑斯(や つくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈(ふ つ な)の村であり、安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、吉(よ)く斬ると言った所が、吉前(え さき)の邑である。
 板来の南の海に、周囲三四里ほどの洲がある。春には香島や行方方面から男女が挙ってやって来て、蛤、うば貝その他いろいろの貝を拾ふ。

 ・・・・(一部略)

 田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」
(口訳・常陸国風土記より抜粋)

これによると、タケミカヅチはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。

対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。
こまったタケミカヅチは、天岩戸の話よろしく、7日7夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いてどんちゃん騒ぎをしたのです。

最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきたのです。

するとどうでしょう。彼らの住居としていた穴を塞いで、そこに出てきた原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまったのです。
(これは茨城の名前の起こりとなった黒坂命が土蜘蛛の棲家を茨で塞いで殺したのと同じです)

その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。

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この地を制圧したタケミカヅチの一族(=多氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思います。

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そして、この神社にタケミカヅチが祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになった。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)であると言われている。
元鹿島というには少し時代が後のような気がする。

この大生神社がもっと古くからある神社としても、では鹿島神宮の方が新しい?

そんなことはありません。
そんな鹿島神宮は安易なものではないと思います。

これは私の勝手な解釈ですが、鹿島神宮は大昔は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。

この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないでしょうか。

ですから最初は大生神社に祭られたタメミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。

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大生神社の参道はこのように長くのびています。

鹿島神宮の神官?であったと言われる中臣氏と中臣鎌足(藤原釜足)とのつながりはあるはずですが、鎌足が常陸国で生まれたのか、大和国で生まれたのかは定かではありません。
常陸国出身という説はかなり確率は高いと思っています。

奈良の御蓋山(みかさやま)に藤原氏の象徴として建てられた「春日大社」は鎌足の子「藤原不比等」が710年に建立したものです。
この神社は常陸国中臣氏の祭神「タケミカヅチ」が白鹿に乗って山に降り立ったとされています。

この藤原不比等の子供(三男)が常陸国風土記を編纂したとも言われている常陸国守であった藤原宇合(うまかい)ですので何かつながりが感じられます。

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大生神社の本殿の現地説明板です。

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この神社に伝わる祭りに「巫女舞」があります。13歳までの少女が毎年選ばれます。
石岡染谷地区に伝わる十二座神楽の巫女舞も小学生が選ばれます。(2名)

この神事も同じようなものとも言えます。

さて、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。

この古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。

これまでタケミカヅチについて書いてきましたが、この地にヤマトタケルがやはり上陸し、ここから西側の行方方面を進んだという伝承が残されています。
東京湾(走水)を渡るときに妻である弟橘媛が入水して死に別れたのに、この近くの相鹿(あうか)で天から降りてきて再会したとも言われているのです。(常陸国風土記)

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鹿島地区 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2013/01/24 19:29

文殊院(大生)

 今朝の地震は大きかったです。
一瞬この前のことがよぎりましたが、直ぐに収まったので大したことはなかったのですが、心配になりテレビをつけ、震度を確認したりしていました。

朝3時半に目が覚めて、そのまましばらく眠れなかったので今頃になって眠くなってきました。
今日は、ブログを書くのも程々にして早めに寝ることにします。

 さて、先日大生神社を探していて、場所がわからなくて、少し先を進んでしまい見つけたのがこの「文殊院」です。

古ぼけたお堂が3つ並んで置かれています。

こんな立派なお堂が横に3つ並んでいるのを見たのは初めてです。

境内は子供用のブランコなどがあり、遊び場でもあるようです。

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入口の石柱には「大生山 文殊院」と「天台宗 神宮寺」と左右に分かれて書かれています。
神宮寺というので、恐らく大生神社に付帯して後から建てられたものでしょう。

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1698年の棟札があるというので、江戸時代初期に建てられたものなのか、それとももっと前からあったのかは明らかではありません。

左から阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂です。

変わっていますよね。普通は寺のこれらの建物は全体の中でバラバラに配置して置くのですが、このように隣接して並べておくのは見たことがありません。
どんな意図があるのでしょうか。

それに寺の本堂はどうしたのでしょうか? やはり多氏(おおし)と関係があるのでしょうか。

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現地の説明板です。

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文殊院のカヤノキ

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阿弥陀堂です。中に小さな「阿弥陀菩薩像」が置かれています。

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阿弥陀堂厨子には寛文5年(1665年)と書かれており、貴重なものです。
この阿弥陀様は、地元では「いぼ取り」の信仰があるそうです。

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観音堂です。中には毘沙門天・十一面観音・不動明王が祀られています。
安産・子育ての神様として信仰されています。

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地蔵堂です。こちらも中には小さな「地蔵菩薩像」が祀られています。

このように中の像が完全に残っているのも最近では少なくなりました。大切にして欲しいと思います。

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鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/28 19:38

塚原卜伝の墓

 今日は鹿島神宮に近い場所に眠る「塚原卜伝」の墓を紹介します。

NHKの時代劇ドラマで放送されているのでこの剣豪の名前を知る人も多くなったかもしれないが、私の年代では宮本武蔵が刀で切りつけたのをさっと囲炉裏の鍋蓋で防いだ少年本の内容の方がよく知っている。

もっともこの話は作り話で、卜伝は1489年~1571年(83歳)の人物で、武蔵は1584年~1645年(62歳?)と時代が合わない。

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鹿島神宮の神官の家系があった卜部(うらべ)家(吉川氏)の二男に生まれた。
この吉川氏は鹿島神宮の神官であったが、常陸大掾氏の一族である鹿島氏の家老でもあった。

後に吉川家から塚原家(平氏)に養子に入った。

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この墓のある場所には「梅香寺」という寺があり、そこに埋葬されたのだが、寺はなくなり、墓だけが小高い場所に置かれている。

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真剣勝負も19回しているが一度も負けず、傷ついたことも一度もなかったという。
しかし、よく語られているように勝負せずに勝つのが本当の強さだという。無手勝流と呼ばれているそうだが、これが晩年の武蔵の心境に近いものだったのかもしれない。

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テレビドラマの影響もあろうが、訪れる人は絶えないのかもしれない。
鹿島神宮や香取神宮は武人の神様と言われているので、剣道をやっている子供達や武道家の人の参拝が絶えないが、この昔の剣豪の墓も一度訪れて見て欲しい。

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鹿島神宮からはそれほど遠くないが「須賀」という地も交通は不便なところだ。
それにしてもこの墓が鹿嶋市の史跡第1号だという。

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この高台の墓の前はひらけており、見晴らしは良い。前の方の畑の先のこんもりとした森には神社があり、出世稲荷神社というそうです。



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鹿島地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/03/08 20:46

塚原卜伝-長吉寺

 一昨日紹介した塚原卜伝の墓のある所にあった寺は廃れてなくなった。
しかし、歩いてすぐ近くに長吉寺があり、こちらに卜伝の位牌があるという。

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赤い屋根の本堂。墓などがなければ田舎の小学校のようだ。
左手の建物はこの地区の公民館らしい。
また右手の高台の上に墓地があるが、これは地区の共同墓地になっている。

この裏手の山には戦国時代に「須賀城」という城があったというが、詳細も不明だ。

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真言宗豊山派 須賀山長吉寺という。この寺の本尊は「子安観音」だそうだ。

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古びた入口の山門脇に「子安観音像」が置かれていた。

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こちらは向かって左側の子安観音像。

門を入った右側に六地蔵と水子地蔵が置かれていた。

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鹿島地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/03/10 14:12

鎌足神社

 塚原卜伝の墓を見に行って、地図をみたら「鎌足神社」という名前が目に付いた。
藤原鎌足(中臣鎌足)が鹿島出身ではないかという説がかなり信ぴょう性があると感じているが、どんな神社なのか気になった。

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鹿島神宮の少し西側で、国道51号線から少し横に入ったあたりだ。

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鎌足は鹿島神宮の神官であった中臣氏の出と思われる。
もっとも中臣氏は神と人民をつなぐ(中を取り持つ)占いをしていた氏族とみられているが、九州から大和や常陸国(鹿島)にやってきていたと思われます。

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もちろん鎌足の誕生の地というものは奈良の橿原市といわれていることは承知している。
しかし、生まれがここ鹿島ということもとても真実味がある。

そうでなければ奈良の春日大社に鹿島神宮のタケミカズチが白鹿に乗って降り立ったりしないのではないか。

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この地が鎌足が生まれたあたりなのか?
もう少し何か感じるものがあるかと思ったが、特別な神社には見えなかった。

まあ、鹿島神宮があるからこの鎌足神社はそんなに意味は持っていなかったのだろう。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/11 19:31

根本寺(鹿嶋)-芭蕉句碑

昨日で震災から2年が経過した。職場でも黙祷が行われた。
記事も何か書くべきだったとも思ったが、書く事ができなかった。

顔の表面を気持ちが上滑りして通り過ぎていくようで、落ち着かない。

地元を見ていてもわかるとおり、過疎化が進み復興などということは容易ではない。

2年たち仮設住宅などに行く人は本当に少なくなった。さてこれからどうしたらいいのだろう。

宮沢賢治のように、

「日照りのときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き」

なのかもしれませんね。

 さて、いつもの記事です。鎌足神社のすぐ近くに禅寺「根本寺」がある。

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臨済宗妙心寺派、瑞甕山根本寺。現地説明:

「当山は、推古天皇の廿一年(613)聖徳太子が勅を奉じ、鬼門鎮護と衆民修法に依り、護国興隆の発願を以って、本尊に東方薬師如来を安置して建立された勅願寺である。開祖は高麗の恵潅大僧正で、初め三輪宗に属し、その後に法相、天台と移り法燈を掲ぐ。
 建久二年(1191)鎌倉殿が再興なされ寺領六百石を寄進下さる 弘安年間蒙古来襲に当り 後宇多帝は 勅印を下して「天下平均 異国帰伏」の祈祷を修せしめる 国難霧散するするや本尊の霊験が頓にうたわれ 遂に東国屈指の霊場となる 勅印今に存す
 康永年間 光明帝の勅を奉じ 入宋の教外得蔵和尚が入山 堂宇を修営し 禅宗に改める 次いで 足利将軍義詮公も仏殿を再興され この時 後光厳帝は「祈祷」の勅額を下賜され現存する
 近世 徳川幕府は寺領百石を給し 由緒と法燈の連綿を願う 末寺二ヶ寺 塔頭五庵あり 例年五月幕下に謁して歳始を賀す
 芭蕉翁の鹿島紀行に依れば 貞享4年(1687)8月 翁は敬慕する薫化の師 当山廿一世仏頂和尚に拝顔し山内の小庵に投宿次の名句を残す

  月はやし 梢は雨を 持ちながら

  寺にねて まこと顔なる 月見かな

 幾多の変遷をへて 幕末文久 元治に至るや 筑波の天狗党の乱の際 当山もその兵火に罹り 荘厳を極めた伽藍も烏有と帰し 昔日の面影を全く失う」

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現地の説明によればかなり古い寺院で、聖徳太子によって建立されたということだ。すごいことだが、今はその面影がない。
それでも日本で最も古い寺のひとつとされる。

また、この寺を有名にしているのは芭蕉が鹿島紀行で、この寺の仏頂禅師を師と仰おり、この寺に宿泊して歌を読んでいる。
芭蕉との親交があり、当時はかなりの規模の寺院だったと思われる。

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貞亨4年(1687)8月14日、深川の芭蕉庵に移り住んで7年目の芭蕉(44歳)は、尊敬していた仏頂禅師から、月見にこないかと誘いを受けた。
仏頂和尚は、根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを寺社奉行に提訴して江戸深川の臨川庵(後の臨川寺)に滞在していたとき、仏頂和尚は芭蕉に禅を教えた。天和2年(1682)、訴訟に勝った禅師は根本寺にかえった後も、親交は続いていた。

尊敬する禅師(すでにこの寺の住職は退いていた)から月見の誘いを受けた芭蕉は仲秋の前日、曽良と宗波を伴い鹿島に旅立ったのである。

鹿島紀行より

「洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。
伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。
・・・・・・・
・・・・・・・
麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。
すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。
暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。
月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。
かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。」


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「月はやし梢は雨を持ながら」 この歌碑が本堂の入口の右手に置かれている。

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本堂に向かって左手の生垣にも上のような歌碑が置かれている。

この寺は鹿島の城山の麓にある。
城山は常陸平氏系の鹿島氏の城があったところで、この本丸跡は現在城山公園となっている。

鹿島氏も佐竹氏により滅ぼされたが、家康に再興を願い出て許可されたため、この城も明治はじめまで続いたという。その後鹿嶋市に寄贈して公園になっている。
かなり規模の大きな城であったようです。



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鹿島地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/03/12 20:09

新神宮橋(鹿島)

 今日はこれから東京に行きます。
毎年この時期に大学に友達と集まります。

もう10年以上続いています。

そして最近は年2回になりました。
やはり歳のたつのは早いですね。

更新が夜遅くなりそうなので繋ぎの記事を先にアップさせていただきます。

鹿島橋
(サムネイルです。クリックで拡大します)

先日鹿島神宮近くに行きました。

国道51号線は鹿島へ渡る橋は2本あり、いつもだと昔の面影の残る旧橋を渡るのですが、今回は新しい方の橋を通りました。
この橋(新神宮橋)からは右(東)に旧橋(神宮橋)、左(西)に鹿島線の鉄橋が見えます。

写真は国道上で車を止めて鹿島線側を撮影しました。(前後に車がいなかったので少しの間、橋の上で停車しました。)

前に記事にした旧橋(神宮橋)はこちらを見てください → こちら


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/06 13:48

鹿島城山公園(1)

出かけておりますので予約投稿になります。
コメント返信は帰宅後となります。

 先日訪れた鹿嶋市にある鹿島城山公園の写真を紹介します。

鹿島城山公園08

寒いのに落ち葉のじゅうたんがどこかやさしく暖かい。

鹿島城山公園06
(クリックで写真は拡大します)

紅葉の木の下で母子が楽しそうでした。

鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/12 18:15

鹿島城山公園(2)

今日も予約投稿です。

写真はすべてサムネイルです。クリックして見てください。

鹿島城山公園01

この城山公園からの眺めは素晴らしい。
左手下に赤い鹿島神宮の1の鳥居が見える。
そしてその右側に3本の橋が見える。
国道51号線の旧道(神宮橋)と新道(新神宮橋)、そして右端が鹿島線の鉄橋だ。

鹿島城山公園04




鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/13 19:00

鹿島城山公園(3)

 週末に親戚の結婚式があり九州に行ってきました。
先ほど無事に帰ってきました。

茨城空港から福岡まで飛行機で往復しましたが、ここも便利になりましたね。

金曜日の夕方の便で向かったのですが、出発時間が1時間半も遅れて夕方遅く到着する予定が到着したのは夜7時過ぎとなってしまいました。

雨や雪を心配していたのですが、何とかほとんど降られずに助かりました。

こちらの記事はまたあらためて書かせていただきます。

今日は鹿島城山公園のまとめとして、ここ石岡とも歴史的につながりがあるので、少し紹介します。

鹿島城山公園02

この鹿島城山公園はその名前の通り、この山の上にお城があった場所です。

鹿島氏は私のいる石岡(府中)の常陸大掾(だいじょう)氏の平氏氏族です。

鹿島城山公園03

説明文はクリックすれば読めると思いますが、良くわからない表現で氏族の位置関係がわかりにくいです。

平国香の子である鎮守府将軍平貞盛の甥(養子?)維幹(これもと)が筑波郡水守(みもり)から筑波の多気に移って多気大掾となりますが、その二代後の多気大掾繁幹(しげもと)の三男成幹が鹿島に住み、地頭となってこの鹿島氏になっていったとされています。
また平氏一族ですが源氏とのつながりも深く蝦夷征伐に前九年・後三年の役には源義家にしたがって出陣しているようです。

鹿島城山公園05

しかし、戦国末期の動乱時に常陸国を秀吉から任された佐竹氏によって1590年に常陸大掾氏(石岡)が滅ぼされると、翌年二月に鹿島・行方の大掾氏一族「南方三十三館」の城主が太田城に梅見と言われて集められるとここで一気に皆殺しにされ、氏族はことごとく滅ぼされてしまいました。

鹿島城でも城主を失い、反撃に出ますが大砲を使う佐竹氏側の攻撃にこの鹿島城は落城しました。

その後江戸時代になり家康より鹿島氏の再興が許され、鹿島神宮の社人中で三要職の一として続いていったとされます。

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鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/14 17:24

慈眼寺(浜津賀)

 鹿島七釜の一番南が武井釜だが、ここは鉾田市ではなく鹿嶋市となる。
その武井釜のすぐ南、角折の北に「浜津賀」という場所がある。
ここに国道51号線のすぐ脇に「慈眼寺」というお寺がある。

この寺の場所は合併前は大野村であった。

関東八十八観音霊場の一つ(第34番霊場)だそうだ。
正式には真言宗智山派「神戸山慈眼寺」 本尊は十一面観音だ。

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観音霊場の案内によれば「天平勝宝年間(749~57)僧・満願により鹿島神宮の北方鬼門にあたるこの地に神宮の主祭神「武甕槌神」(タケミカツチノミコト)の本地仏である十一面観世音と大般若経六百巻を奉安する慈眼寺が創建され武将の信仰をあつめた。」と縁起が書かれている。

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一方弘法大師1150年御遠忌記念事業の本堂 書院建立記念碑には

「古佛転法輪の聖地諸天擁護の霊峰なり。 
近隣近郊に多くの寺院を末寺にもち檀信徒修業僧の養成の道場であったと伝えられる。
その開山は室町足利中葉に属し應仁二年遷化せられし第一世祐悟法印の開山なり。
時は流れ第25世宥範和尚に至り、京都御室大本山仁和寺より直末の御墨付を受く大正十五年四月一日野火による災害を受け本堂に延焼せり。 古くは七堂伽藍を擁した寺であった。・・・・・・・・・・」

と書かれていた。
かなり大きな寺だったようだ。

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この道は前にも書いたが水戸から鹿島神宮や息栖神社、香取神宮などを結ぶ街道沿いであった。

このため「鹿島さまに参ったら観音さまに願かけよ」と鹿島神宮参詣後は裏参りと称し参拝者で賑わったそうだ。

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この寺には毎年一月二十一日の大般若会の時に「ご神まわし」の行事が創建以来伝承されている。

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境内には「花の寺」ののぼりがたくさんあった。
東国花の寺百ヶ寺の五十二番で、仏蘭西菊(フランスギク)だそうです。

ただ、他の花(紫陽花など)も綺麗な寺です。

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国道からは少し下った場所で、鹿島灘に近く漁師たちの信仰も篤いという。

鹿島灘はこの夏はサメが現れて海水浴やサーファイン客には大迷惑となりました。
沖合に16匹のサメが確認されています。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/08/07 21:42

奈良毛の道祖神

 北浦の東側の街道(県道18号線)を鉾田側から鹿島神宮の方に向かって車で走っていた。

もうすぐ塚原卜全の墓も近いと思い始めた時にコンビニ(ココストア)があったので立ち寄った。

場所は「奈良毛」という場所らしい。
この県道と旧道がここで別れる場所で、コンビニの裏手にあるT字路の角に小さな鳥居が見えた。

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道祖神と書かれている。
もちろん道祖神は昔から各地にあるが、このように鳥居がある神社のように祀られたところは少ないだろう。

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現地に祀られた経緯が書かれていた。

「奈良毛地区の道祖神は 伝承や周囲にあった三本松の大きさなどから室町時代から戦国時代に祀られたものと推定される。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
この道祖神の周囲には 以前見事な末の大木が聳え、奈良毛の三本松として広く近郷・近在の住民にしたしまれていたが、その三本松も昭和51年 松喰虫の被害のため枯れ住民におしまれながらその姿を消した
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・」

この地区は合併前は大野村でした。

今日はお盆休みですが銚子に仕事で出かけていました。
どこに行っても親子連れなどが多くいましたが、夜は街道はほとんど車も走っていませんでした。
街中や観光地や食事場所などを除けば全体としてはスムーズに車は走れました。

銚子で美味しいものでも食べようとしたら行列。
時間がないので、あきらめて適当にその辺で済ませました。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/08/13 22:00

津賀城跡

(予約投稿です)

 鹿嶋方面から北浦に沿って北上すると北浦大橋入口を少し過ぎたあたりに「津賀」という場所に出る。

明治の合併で津賀村は大同村となり、その後昭和30年に大野村となった。

この大野村は平成の大合併で鹿嶋市に編入された。

平成の合併の時に、合併事業の一環としてこの地にあった戦国時代の城(津賀城)跡を整備し、立派な公園とした。
敷地は約8.1ha とかなり広い。

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北浦沿いの道にでていた看板を目印に曲るとすぐに大きな駐車場が用意されていた。

しかし訪れる人はほとんどおらず、地元のお年寄りが麓に設けられた大きな広場(多目的グランド)でゲートボールをしている位なもの。

また大同西小学校がすぐ近くにあります。

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この山の上に城跡と公園があるらしいのだが直接上に登る階段は無い。
上の台地の標高は約30~40mくらい。

綺麗なトイレの先に山を回り込むように道がつくらていた。

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この城については何も知らないので、現地に置かれていた城址の説明をそのまま載せます。

「津賀城は北浦に面する台地に築かれた中世の「平山城」である。
 西側台地は「城山」と呼ばれる主部がある。城山は平坦で土塁や空掘が良く残っており、二段に廻っている。東側にも土塁や空掘に囲まれた一角がある。
 城主については、系図的に不明であるが、大永年間(1521~1528)に津賀大膳、天正年間(1573年~1591年)に津賀大炊介が居たことが「鹿島治乱記」に記されており、津賀大膳は大永4年(1524)、高天原で鹿島氏の宿老松本備前守尚勝と戦いこれを破ったとある。
 また、「津賀津福寺過去帳」には、「大安全切居士永禄11年戌辰3月20日、津賀大膳」とある。」

そのまま載せて見たが、この須賀氏についてはあまり良くわからないようだ。

平安時代の津賀大膳と戦国時代の津賀大炊介が親子、祖父孫かどうかも何もわからない。

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本丸の西側に展望台があります。

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ここから北浦が良く見渡せます。
橋は北浦大橋です。

天気が良ければかなり見晴らしは良さそうだ。
夕日などもきれいに見えるかもしれない。

それにしても誰もいないのはもったいない。

鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/09/04 18:38

大福寺-平景清の娘人丸の寺

 北浦大橋を渡り、その内陸部の少し南方よりの鹿嶋市棚木というところに「大福寺」という古寺がある。

市のホームページで県指定の十一面観音像があると知って探していってみました。

途中に案内もないため住所を頼りに探しました。

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分かりにくい場所でしたが、こんなところにと思うような場所でしたが、ここはとても興味深い寺でした。

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古びた山門をくぐると正面に観音堂が見えます。

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境内には古びた石像などが置かれています。
真中は庚申塔、その右は猿田彦です。

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このような場所に・・・・・ 姿の良い観音堂です。

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上のここに置かれている十一面観音坐像の説明は興味深いことが書かれています。

源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背をってここにきて、霊を弔うために堂宇を建てたものだと書かれています。

これは俄かには信じられないが・・・・。

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この厨子の中に十一面観音像が保存されているものと思います。

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さて、この景清については石岡にも出生の話があり、府中六井の室ヶ井で産湯をつかったとの伝説も存在する。
平家一番の勇者なので各地に伝説話がある。

これも歌舞伎などで話はまとまってしまうのだがどこまでが事実かなどは良くわからない。

この人丸は景清と遊女との娘とされる。

話は能の演目「景清」にでてくる。

「源平の戦が、源氏方の勝利で終わった後のことです。平家方の武将で、勇名を馳せた悪七兵衛景清は、盲目となり、日向国へ流されていました。景清はかつて、尾張国熱田の遊女との間に一人娘、人丸をもうけました。彼女は鎌倉に住んでいたのですが、風の便りに景清が存命していることを知り、お供と共に日向国宮崎へ景清を訪ねます。

ちょうど景清が、落魄した身の上を嘆いているところに、人丸たちがやってきます。従者は「景清を知りませんか」と声をかけますが、景清は悟られまいと、盲目でそんな人は見たこともありませんと他人のふりを押し通します。

人丸はその後、里人に事情を聞き、彼の仲介でようやく対面することができました。そして景清は、人丸の求めに応じ、八島の合戦の様子を聞かせました。源氏方の三保谷四郎と錏(しころ:=兜に密着して垂らされた首を保護するもの)を引っぱって応戦した名勝負の場面です。語り終えた景清は、もう長くは生きられないだろうからと、人丸に帰って自分の跡を弔うように頼み、親子は別れていきました。」
(「the 能.com 」より転載させていただきました)

このような話ですが、各地に色々な話として残されています。

でもここの人丸は十一面観音を携えてきてこれが残されています。
またここには人丸(妙庫比丘尼)の墓も残されています。

もう少し調べて見ても面白そうです。

茨城には平重盛の墓といわれる供養塔のある「小松寺」などもあるのですから、調べてみると面白いことが見つかるかもしれません。
でもこれはまたの機会にしましょう。

九州 福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
景清の娘が父を尋ねて京からやって来たとされています。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/09/06 21:48

天狗党の墓(鹿嶋)

 鹿島神宮から潮来側に行く時は昔は大船津から舟で渡っていた。

今は国道51号線が新旧2本の神宮橋があるが、この神宮橋の鹿嶋側のたもと辺りがこの大船津になる。

この近くに「天狗党の墓」と書かれた案内看板があり細い道を山の方に入って行った。

突き当りの山をまくように細い道が続いているが、山側にはたくさんの墓石が並んでいる。

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車を手前で停めて歩いて奥の方に進んでみた。
一般の家の墓だが、近くに寺院は見当たらない。

そのまま100m程進んだ奥に看板らしきものが見えた。

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すぐ近くには一般の墓もなくひっそりとした場所だ。

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ここが「天狗党の墓」であるという。

現地の看板の内容は

「元治元年(1864年)大平組と称する天狗党の一隊800人余りが宮中へ屯集した。
この一隊は、幕府追討軍に追われ鹿島に集まったもので、旅館や寺院などに宿陣したが、川股茂七郎以下80人程を殿軍として、大船津から延方へと渡っていった。
この時川股勢と幕府軍との間に砲戦があり、大船津は兵火に焼かれる。
幕府軍は江戸から府中(石岡市)・玉造・鉾田を経て鹿島へ到着し残党を探索した。
捕縛された23人は下生の石橋外で打ち首にされ、大掾辺田(だいじょうべた)の馬捨て場に埋められた。
明治になり斉藤俊 鹿嶋郡初代郡長によって「殉難諸子之墓」が建てられている。」

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何とも悲しい思いがする。
こんな場所に・・・

墓の場所には榎(えのき)の木が植えられ大きく枝を伸ばしていた。

鹿嶋市文化財愛護かるたに「えのきの下に天狗のお墓」とあるという。

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この墓も行って見ると感じるものがあった。
墓があることは知っていたのだがあまりにもリアルな思いがしてくる。

この場所が馬捨て場だったのか?

大掾辺田(だいじょうべた)と地名にあるようだがどういう場所なのか。
常陸大掾(だいじょう)の田圃と言う意味なのか?

辺田(べた)は「へた」と言う呼び方で各地にもある。
規格外や端っこの田と言うくらいの意味か?

前に延方を探索していて天狗党の残影があちらこちらにあった。
延方に逃げずに大船津で隠れていた天狗党の仲間がつかまって処刑。
そして無残にも馬捨て場に埋められた。

この時代の粛清は考えて見るとすさまじい。

未だに敵も味方もこの亡霊に苦しんでいるのかもしれない。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/02 21:28

景清の娘「人丸」の墓

 今日は昼間はかなり暖かくなりました。
気温差が大きくなりこれからまた寒くなったりするようですので体調を崩すかもしれませんね。
年寄りは気をつけねばなりません。

今日は「まちかど情報センター」はお休みで風の会展はお休みでした。
今度の日曜まで開催していますが、土曜は会報の印刷日だし、日曜は前に勤めていた会社のOB会があり出かけます。

定年後は比較的、暇になり会社も昔の職場単位や同期の人たちとの集まりも増えました。
また来月初めには学生の時の仲間と東京で飲み会です。これも最近は年2回です。

集まると昔に戻りますが、後で写真などを見ると皆さん年とったのがよくわかります。
自分の年を考えると嫌になります。
でも年相応の人でいたいとも思いますが、うまく年輪を重ねると言うのは難しいですね。


 2カ月ほど前に鹿嶋市棚木にある「大福寺」を紹介しました(記事はこちら

その時に見落としていたものがあり、少し前にまた行ってきました。

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平家一番の武将として知られる平景清の娘「人丸」が景清の霊を弔うために日向国(宮崎)から景清の守り本尊を背をってこの地に来たとされています。

そしてこの大福寺に「妙庫塚」という人丸の墓があったのです。

見落としていたために再訪しました。
このようなことはよくあります。
調べるのが後になりますので、見落としに気がつくのです。
ですから2度3度と訪れることがよくありますが、これも近所であればよいのですが少し離れたところだと数ヵ月後になったりします。

最初に来た時は案内板もないのでどれかわからなかったのです。
でもよく見たらこの少しこんもり土が盛られた墓がそのようです。

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これが妙庫塚でしょう。人丸はこの地で「妙庫比丘尼」と名前を変え、女人救済につとめたそうです。

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大福寺から表通りに下りたところに「景清の松」という松の木があります。

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人丸がここの松の大木に小枝で棚を作って観音を安置したと伝わっています。
このためこの松を景清の松と呼び、ここの地名が「棚木」となったと言われています。

人丸はまずこの松の木に棚を作り平家の霊を都もらっていたと言います。
その後近くに大福寺(庵)を建て尼となって過ごしたようです。

前の松は昭和47年の台風で倒れてしまいましたが、今ではその後に松が植えられています。

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歌舞伎にもなった景清や人丸の話はどこまでが事実であるかはわかりません。
しかし人しれないこのような場所に昔から言い伝えられている話は事実かもしれないとも思われてきます。

小松寺(城里町)に伝わる「平重盛の墓」なども事実であるように思われますね。

常陸国に、あまり人しれずひっそりと眠っているところがありますね。

鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/05 21:05

潮騒はまなす公園(鹿嶋市)(1)

 先週国道355号線を鹿行大橋で北浦を渡り、鹿嶋市に入り途中「大野潮騒はまなす公園」に立ち寄りました。

非常に大きな公園で整備もされているのですが、水戸と鹿島を結ぶ国道51号線沿いから公園へのアクセスはあまりよくありません。
地図で見ていたら国道沿いに大きな公園なので整備された駐車場などがあると思っていたのですが、駐車場は西側の鹿島線側でした。
道も意外に狭く奥まった感じです。

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西側の駐車場近くには大きなタワーが建っており展望台と2F部分にプラネタリウムができています。
塔の中央外側に取り付けられている絵は「ハマナス」です。

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ハマナスは自生するものとして太平洋側はこの鹿島灘近くに南限地とされている場所があります。
ここより少し北の鉾田市と鹿嶋市の境付近です。
(日本海側の南限は鳥取です)

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こうしてプラネタリウムなども見られるのですが、平日となるとほとんどお客さんはいません。
お掃除の人と散歩をしているの数人だけです。
公園内部は遊具などもあり子供連れでも一日楽しめそうです。

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公園の中に入ってみます。
山の地形を利用したように高低差があり川や池などが周りにあり中央に広場がある構成です。

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森の中を下っていくと弁天池と名のついた池に赤い橋。
この公園には昔、大きな寺があったようです。

もちろん「長者」と駅の名前にもあるように長者(塩)にまつわる話がありますのでこちらは後で紹介できたらと思います。


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日本一長いともいうジャンボローラー滑り台です。
滑り台の長さは154mだそうです。
この日(木曜日)は誰も滑っていませんでした。

これだけの施設に人が少ないのはもったいないですね。

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公園の作られた由来などが書かれていますが、これも県信の生みの親で今の百里基地を誘致したことでも知られる旧小川町(現小美玉市)の幡谷仙三郎さんの名前が刻まれていました。



ここを訪れたのは遊ぶためではありませんので、明日はもう少し別な面を調べてみたいと思います。

鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/05/28 21:02

潮騒はまなす公園(鹿嶋市)(2)

 鹿嶋市の大野はまなす公園の続きです。
ここに来た目的は公園見物ではなくここに昔あったといわれている「文太屋敷跡」を見てみたいと思ったからです。

室町時代のお伽草紙の中の最初に「文正(ふんしやう)草紙」という話が出てきます。

室町時代には立身出世や目出度い縁起の良い話しとして「縁起物」として語られたようです。
話しのすじをWikipediaから紹介します。(知っている人にはつまらないのですが)

「常陸国の鹿島大明神の大宮司に仕えていた雑色の文太はある日突然大宮司に勘当され、その後塩焼として財産をなして「文正つねおか」と名乗る長者となる。後に鹿島大明神の加護で2人の美しい娘を授かるが、ある日姉は旅の商人と結ばれてしまう。だが、その商人は姉妹の美しさを伝え聞いた関白の息子である二位中将の変装であった。姉は中将に伴われて上洛すると、今度はその評判を聞いた帝によって文正夫妻と妹が召し出された。妹は中宮となり、姉も夫の関白昇進で北政所となってそれぞれ子供に恵まれ、宰相に任ぜられた文正とその妻も長寿を保ったという。」

この塩焼きをして財を成して住んでいたのがこの場所という思われるというわけです。

駐車場隣に高いタワーがありますがその横に美術館があります。この周りにはこの公園建設にかかわった旧大野村の著名人や経済的支援をした幡谷さんの石碑や銅像がおかれているのですが、こちらの屋敷跡の説明は見当たりません。

そのため美術館の建物裏に回ってみたら、そこに屋敷跡の石碑がおかれていました。

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文太長者屋敷跡

 夕日かがやく
   この岡に
 黄金せんばい
   にせんばい

屋敷の由来
「鹿島大明神 宮司の下僕であった文太が下僕をやめて角岡ヶ磯 角折の浜に来て塩炊き の家に雇われ 薪取りや、塩水汲みの仕事をするようになりました。
 陰日向無く誰よりも良く働く文太の姿を見ていた主人から褒美に釜を上げるから自分で塩を作ってみないか と言われ釜をもらって塩を炊きはじめました。 
 作るからには 他の塩に負けない良い塩を作ろうと くふうをこらして作りました。 文太の作った塩は、真白で味も良く、その上病気もなおったと 大変な評判になりました。 そのため 作っても作っても間に合いません。 雇い人達にも屋さしく暖かい言葉をかけていたわったり励ましたりしました。 働いている人達も一生懸命働きましたので ますます良い塩ができたのです。 
 こうして何年も立たないうちに 大金持ちになり長者と呼ばれる身になりました。
 名を文正角岡と改め 何の不自由も無かったのですが 何年たっても子供に恵まれませんでした。
そこで夫婦は鹿島大明神に子供が授かりますようにとお参りをしました。 そのかいがあって、翌年美しい女の子が生まれ、蓮華と名をつけました。その翌年 また女の子が生まれました 蓮御前と名をつけ可愛がった育てました。
 姉妹ともに美しく成人し その噂が塩の評判とともに京の都まで届きました。 姉の蓮華は関白殿下の二位の中将の妻になり京に上りました。
 妹の蓮御前は帝の后に迎えられ、都に上りました。
その後 文正夫婦にも京に上るようにとの使いが来ましたので角折をはなれました。
後に文正は 大納言にまで出世したということです。
この美術館、民俗資料館は文太長者の屋敷の跡に建てたのです。

  平成二年三月 大野村教育委員会 大野村長 生井澤健二」 (現地石碑より)

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このあたりに黄金がいっぱい蓄えられた長者の文正屋敷があったようです。

この草紙をネットで調べていたら明星大学がデジタル版の草紙絵を公開していました。
明星大学絵本・絵巻の世界 ⇒ こちら
 文正草紙は ⇒ こちら

 (平家物語、北野通夜物語、十番切、文正草紙、新曲、徒然草、一目玉鉾)が収録されておりきれいな画像が見られます。

 こういうのはなかなか見られないのでネットで気楽に見れるといいですね。

さて、鹿島灘には釜と名前が付く地名が点在していますがこれはここで塩焼をした釜があったということの名残で、鹿島七釜(前の記事:こちら)として知られています。このはまなす公園のある場所は「角折」にあります。

角折は常陸国風土記に名前の説明が出てくる古い地名です。

文太が鹿島神宮の大宮司に使えていたが、やめて塩焼きになるというのは少し話が飛躍しており、話として造られたものと考えても良いだろう。また鹿島大明神という言い方をしているので、この大明神は「武甕槌神」と当然考えていたのだが、竹来三社を見てきたので、もしかしたら武甕槌神、経津主神、天児屋命の三神の総称としての「香島の天の大神」のことを指しているのかもしれないとも考えられる。

京の都から遠く離れたこの鹿島の地でいくら塩焼で成功したからと言ってこのような出世話となるのかは少し気になるところだが、室町時代には流行った話もいつかは忘れられていくようになっていったものだろう。
お伽草紙なども昔子供の頃に読んだが、「いもがゆ」「浦島太郎」「カチカチ山」などは文豪が自分の小説に取り上げたりして知られるようになった。「鉢かつぎ姫」やこの文正草紙の話もきっと別なアレンジを加えると面白くなりそうである。

なにしろ塩焼きの苦労話がこの文正草紙には出てこない。
安寿と厨子王、信太小太郎などの説話はみな塩汲みで苦労する話が加わっている。






鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/05/29 21:58

潮騒はまなす公園(鹿嶋市)(3)

常陸国風土記の香島郡のところにこのはまなす公園のある角折(つのおれ)の名前の由来が書かれている。

郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。
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・・・・・・・・・・・・・・
 その南に広がる広野を、角折の浜といふ。由来は、昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。
(口訳・常陸国風土記より)

何故蛇なのか? まは蛇に角があるのか?

常陸国風土記にはもう1か所角のある蛇の話がある。
行方郡のところに夜刀(やつ)の神の説明がある
「俗に、蛇のことを夜刀の神といふ。身の形は蛇であるが、頭に角がある。災ひを免れようとして逃げるときに、もしふり向いてその神の姿を見ようものなら、家は滅ぼされ、子孫は絶える。普段は郡家の傍らの野に群れかたまって住んでゐる。」
とある。
まるでギリシャ神話のようだ。見たら石になってしまうのと同じようだ。

この角折にこのはまなす公園があるのだが、公園の東側の国道51号線に面した一角に「霜水寺」という真言宗の寺がある。

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どうやらこの寺が昔、この公園となった場所にあったようで、かなり大きな寺であったようだ。
しかし今ではこの公園の一部を占めるだけで寺は無住であり、角折公民館と敷地が一体となっている。

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寺はこのお堂の前に古びた石碑がおかれているが、よく読むことができない。
少し新しい石碑もあるが、こちらは「大野東部土地改良区完成記念碑」であった。

どうも昔のことは忘れられているようだ。

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この寺と文太屋敷はどういうつながりがあるのだろうか?

鹿嶋市の文化財に「霜水寺西堂跡」というものが登録されており、公園の西の方にこの場所があって礎石が確認されているそうだが、これが黄金輝く文太屋敷のお堂なのではないかとも言われているようだ。

どうもイメージがわかない。


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広い公園の広場の一角にこの寺のものだと思われる墓地がひっそりと残っていた。




鹿島地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/05/30 21:52
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