大生神社(1)-元鹿島といわれる古社

 常陸国一宮の鹿島神宮に元鹿島と言われる社があることをご存知だろうか?

私が、これを知ったのは今から1~2年ほど前のこと。それも偶然見た記事で興味を持ったのです。

そして、一度訪れてみたいと思っていて、ようやく先日行くことができました。

場所は鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少し高台になった潮来市の北端です。

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長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。

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大同元年(806年)創建とも言われるが、年代は明らかではない。
祭神は鹿島神宮と同じ健御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)(武甕槌神)であるが、ここが元鹿島と言われるのは、タケミカズチが最初にこの地で祭られた場所と言い伝えられていることにあります。
そして、今の鹿島神宮に遷宮されたと伝えられているようです。
真実のところは私にはよくわからない。

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立派な拝殿です。

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大和国の多(飯富)族がこの地に移住し、その氏神として祀ったのではないかと考えられています。

神社には天正8年(1590)の棟札が残されていて、鹿島神宮の神職を勤めている東家の文書に、この大生神社は南部大生邑(多村)から移されたあるといいます。
この大和の神社は「多坐弥志理都比古神社」です。

そして、この大和の神社は多(おお)氏の太安麻呂の子孫が神主となって続いています。

この本殿は県指定の文化財に指定されています。

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どうですか?
なんのことかわかりますか?
なんかチンプンカンプンというような気もしますね。
これはじっくり調べないと書き続けることができません。

通り一遍の説明でわからないので、自分なりに理解したいのですが、この場所だけ見ても見方が片手落ちになります。
あすの記事で少し続けてみたいとは思いますが、いい加減な記事になりそうです。ご勘弁を。



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鹿島地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/01/23 19:16

大生神社(2)

 昨日書いた元鹿島といわれる「大生(おおう)神社」について、記事を続けます。

この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばならないようです。

奈良時代初期713年頃にまとめられたと言われる常陸国風土記の行方郡の項に「建借間命(たけかしまのみこと)」(=鹿島神宮の祭神=タケミカヅチ)について書かれた記述がある。

「天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間(たけかしま)命を遣はされた。
建借間命は、軍を率ゐて賊を言向けつつ、安婆(あ ば)の島に宿を設けたとき、海の東の浦を遥かに望むと、煙が見えた。軍人たちはこもごも賊軍ではないかと疑った。建借間の命は、天を仰いで誓(うけひ)して、「もし天人の煙ならば、立ち来たって我が上を覆へ。もし荒ぶる賊の煙ならば、遠ざかって海へ靡け」といふと、煙は、海へ向かって遠く流れて行った。かうして賊であることがわかったので、軍兵みなに命じて朝飯を早く済ませて、軍は海を渡った。一方、二人の国栖(く ず)、夜尺斯(や さかし)、夜筑斯(や つくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでゐた。官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰って、門を固く閉ぢて立て篭もった。すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整へ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)は波の音と調べ合はせて潮と流し、杵島(き しま)ぶりの歌を七日七夜歌ひ踊って、遊び楽しんだ。この楽しき歌舞を聞いて、賊どもは、家族も男女も揃って出て来て、浜辺に群れて楽しみ笑った。建借間命は、騎兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らへ、火を放って滅ぼした。痛く討つ言った所が、今の伊多久(板来)の郷であり、ふつに斬ると言った所が、布都奈(ふ つ な)の村であり、安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、吉(よ)く斬ると言った所が、吉前(え さき)の邑である。
 板来の南の海に、周囲三四里ほどの洲がある。春には香島や行方方面から男女が挙ってやって来て、蛤、うば貝その他いろいろの貝を拾ふ。

 ・・・・(一部略)

 田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おほふ)の里がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、相鹿の丘前(をかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひ ど の)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀(あ ふ か)の邑といふ。」
(口訳・常陸国風土記より抜粋)

これによると、タケミカヅチはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。

対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。
こまったタケミカヅチは、天岩戸の話よろしく、7日7夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いてどんちゃん騒ぎをしたのです。

最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきたのです。

するとどうでしょう。彼らの住居としていた穴を塞いで、そこに出てきた原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまったのです。
(これは茨城の名前の起こりとなった黒坂命が土蜘蛛の棲家を茨で塞いで殺したのと同じです)

その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。

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この地を制圧したタケミカヅチの一族(=多氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思います。

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そして、この神社にタケミカヅチが祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになった。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)であると言われている。
元鹿島というには少し時代が後のような気がする。

この大生神社がもっと古くからある神社としても、では鹿島神宮の方が新しい?

そんなことはありません。
そんな鹿島神宮は安易なものではないと思います。

これは私の勝手な解釈ですが、鹿島神宮は大昔は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。

この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないでしょうか。

ですから最初は大生神社に祭られたタメミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。

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大生神社の参道はこのように長くのびています。

鹿島神宮の神官?であったと言われる中臣氏と中臣鎌足(藤原釜足)とのつながりはあるはずですが、鎌足が常陸国で生まれたのか、大和国で生まれたのかは定かではありません。
常陸国出身という説はかなり確率は高いと思っています。

奈良の御蓋山(みかさやま)に藤原氏の象徴として建てられた「春日大社」は鎌足の子「藤原不比等」が710年に建立したものです。
この神社は常陸国中臣氏の祭神「タケミカヅチ」が白鹿に乗って山に降り立ったとされています。

この藤原不比等の子供(三男)が常陸国風土記を編纂したとも言われている常陸国守であった藤原宇合(うまかい)ですので何かつながりが感じられます。

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大生神社の本殿の現地説明板です。

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この神社に伝わる祭りに「巫女舞」があります。13歳までの少女が毎年選ばれます。
石岡染谷地区に伝わる十二座神楽の巫女舞も小学生が選ばれます。(2名)

この神事も同じようなものとも言えます。

さて、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。

この古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。

これまでタケミカヅチについて書いてきましたが、この地にヤマトタケルがやはり上陸し、ここから西側の行方方面を進んだという伝承が残されています。
東京湾(走水)を渡るときに妻である弟橘媛が入水して死に別れたのに、この近くの相鹿(あうか)で天から降りてきて再会したとも言われているのです。(常陸国風土記)

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鹿島地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/01/24 19:29

文殊院(大生)

 今朝の地震は大きかったです。
一瞬この前のことがよぎりましたが、直ぐに収まったので大したことはなかったのですが、心配になりテレビをつけ、震度を確認したりしていました。

朝3時半に目が覚めて、そのまましばらく眠れなかったので今頃になって眠くなってきました。
今日は、ブログを書くのも程々にして早めに寝ることにします。

 さて、先日大生神社を探していて、場所がわからなくて、少し先を進んでしまい見つけたのがこの「文殊院」です。

古ぼけたお堂が3つ並んで置かれています。

こんな立派なお堂が横に3つ並んでいるのを見たのは初めてです。

境内は子供用のブランコなどがあり、遊び場でもあるようです。

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入口の石柱には「大生山 文殊院」と「天台宗 神宮寺」と左右に分かれて書かれています。
神宮寺というので、恐らく大生神社に付帯して後から建てられたものでしょう。

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1698年の棟札があるというので、江戸時代初期に建てられたものなのか、それとももっと前からあったのかは明らかではありません。

左から阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂です。

変わっていますよね。普通は寺のこれらの建物は全体の中でバラバラに配置して置くのですが、このように隣接して並べておくのは見たことがありません。
どんな意図があるのでしょうか。

それに寺の本堂はどうしたのでしょうか? やはり多氏(おおし)と関係があるのでしょうか。

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現地の説明板です。

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文殊院のカヤノキ

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阿弥陀堂です。中に小さな「阿弥陀菩薩像」が置かれています。

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阿弥陀堂厨子には寛文5年(1665年)と書かれており、貴重なものです。
この阿弥陀様は、地元では「いぼ取り」の信仰があるそうです。

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観音堂です。中には毘沙門天・十一面観音・不動明王が祀られています。
安産・子育ての神様として信仰されています。

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地蔵堂です。こちらも中には小さな「地蔵菩薩像」が祀られています。

このように中の像が完全に残っているのも最近では少なくなりました。大切にして欲しいと思います。

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鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/01/28 19:38

塚原卜伝の墓

 今日は鹿島神宮に近い場所に眠る「塚原卜伝」の墓を紹介します。

NHKの時代劇ドラマで放送されているのでこの剣豪の名前を知る人も多くなったかもしれないが、私の年代では宮本武蔵が刀で切りつけたのをさっと囲炉裏の鍋蓋で防いだ少年本の内容の方がよく知っている。

もっともこの話は作り話で、卜伝は1489年~1571年(83歳)の人物で、武蔵は1584年~1645年(62歳?)と時代が合わない。

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鹿島神宮の神官の家系があった卜部(うらべ)家(吉川氏)の二男に生まれた。
この吉川氏は鹿島神宮の神官であったが、常陸大掾氏の一族である鹿島氏の家老でもあった。

後に吉川家から塚原家(平氏)に養子に入った。

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この墓のある場所には「梅香寺」という寺があり、そこに埋葬されたのだが、寺はなくなり、墓だけが小高い場所に置かれている。

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真剣勝負も19回しているが一度も負けず、傷ついたことも一度もなかったという。
しかし、よく語られているように勝負せずに勝つのが本当の強さだという。無手勝流と呼ばれているそうだが、これが晩年の武蔵の心境に近いものだったのかもしれない。

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テレビドラマの影響もあろうが、訪れる人は絶えないのかもしれない。
鹿島神宮や香取神宮は武人の神様と言われているので、剣道をやっている子供達や武道家の人の参拝が絶えないが、この昔の剣豪の墓も一度訪れて見て欲しい。

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鹿島神宮からはそれほど遠くないが「須賀」という地も交通は不便なところだ。
それにしてもこの墓が鹿嶋市の史跡第1号だという。

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この高台の墓の前はひらけており、見晴らしは良い。前の方の畑の先のこんもりとした森には神社があり、出世稲荷神社というそうです。



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鹿島地区 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2013/03/08 20:46

塚原卜伝-長吉寺

 一昨日紹介した塚原卜伝の墓のある所にあった寺は廃れてなくなった。
しかし、歩いてすぐ近くに長吉寺があり、こちらに卜伝の位牌があるという。

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赤い屋根の本堂。墓などがなければ田舎の小学校のようだ。
左手の建物はこの地区の公民館らしい。
また右手の高台の上に墓地があるが、これは地区の共同墓地になっている。

この裏手の山には戦国時代に「須賀城」という城があったというが、詳細も不明だ。

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真言宗豊山派 須賀山長吉寺という。この寺の本尊は「子安観音」だそうだ。

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古びた入口の山門脇に「子安観音像」が置かれていた。

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こちらは向かって左側の子安観音像。

門を入った右側に六地蔵と水子地蔵が置かれていた。

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鹿島地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/03/10 14:12

鎌足神社

 塚原卜伝の墓を見に行って、地図をみたら「鎌足神社」という名前が目に付いた。
藤原鎌足(中臣鎌足)が鹿島出身ではないかという説がかなり信ぴょう性があると感じているが、どんな神社なのか気になった。

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鹿島神宮の少し西側で、国道51号線から少し横に入ったあたりだ。

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鎌足は鹿島神宮の神官であった中臣氏の出と思われる。
もっとも中臣氏は神と人民をつなぐ(中を取り持つ)占いをしていた氏族とみられているが、九州から大和や常陸国(鹿島)にやってきていたと思われます。

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もちろん鎌足の誕生の地というものは奈良の橿原市といわれていることは承知している。
しかし、生まれがここ鹿島ということもとても真実味がある。

そうでなければ奈良の春日大社に鹿島神宮のタケミカズチが白鹿に乗って降り立ったりしないのではないか。

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この地が鎌足が生まれたあたりなのか?
もう少し何か感じるものがあるかと思ったが、特別な神社には見えなかった。

まあ、鹿島神宮があるからこの鎌足神社はそんなに意味は持っていなかったのだろう。


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/11 19:31

根本寺(鹿嶋)-芭蕉句碑

昨日で震災から2年が経過した。職場でも黙祷が行われた。
記事も何か書くべきだったとも思ったが、書く事ができなかった。

顔の表面を気持ちが上滑りして通り過ぎていくようで、落ち着かない。

地元を見ていてもわかるとおり、過疎化が進み復興などということは容易ではない。

2年たち仮設住宅などに行く人は本当に少なくなった。さてこれからどうしたらいいのだろう。

宮沢賢治のように、

「日照りのときは涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き」

なのかもしれませんね。

 さて、いつもの記事です。鎌足神社のすぐ近くに禅寺「根本寺」がある。

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臨済宗妙心寺派、瑞甕山根本寺。現地説明:

「当山は、推古天皇の廿一年(613)聖徳太子が勅を奉じ、鬼門鎮護と衆民修法に依り、護国興隆の発願を以って、本尊に東方薬師如来を安置して建立された勅願寺である。開祖は高麗の恵潅大僧正で、初め三輪宗に属し、その後に法相、天台と移り法燈を掲ぐ。
 建久二年(1191)鎌倉殿が再興なされ寺領六百石を寄進下さる 弘安年間蒙古来襲に当り 後宇多帝は 勅印を下して「天下平均 異国帰伏」の祈祷を修せしめる 国難霧散するするや本尊の霊験が頓にうたわれ 遂に東国屈指の霊場となる 勅印今に存す
 康永年間 光明帝の勅を奉じ 入宋の教外得蔵和尚が入山 堂宇を修営し 禅宗に改める 次いで 足利将軍義詮公も仏殿を再興され この時 後光厳帝は「祈祷」の勅額を下賜され現存する
 近世 徳川幕府は寺領百石を給し 由緒と法燈の連綿を願う 末寺二ヶ寺 塔頭五庵あり 例年五月幕下に謁して歳始を賀す
 芭蕉翁の鹿島紀行に依れば 貞享4年(1687)8月 翁は敬慕する薫化の師 当山廿一世仏頂和尚に拝顔し山内の小庵に投宿次の名句を残す

  月はやし 梢は雨を 持ちながら

  寺にねて まこと顔なる 月見かな

 幾多の変遷をへて 幕末文久 元治に至るや 筑波の天狗党の乱の際 当山もその兵火に罹り 荘厳を極めた伽藍も烏有と帰し 昔日の面影を全く失う」

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現地の説明によればかなり古い寺院で、聖徳太子によって建立されたということだ。すごいことだが、今はその面影がない。
それでも日本で最も古い寺のひとつとされる。

また、この寺を有名にしているのは芭蕉が鹿島紀行で、この寺の仏頂禅師を師と仰おり、この寺に宿泊して歌を読んでいる。
芭蕉との親交があり、当時はかなりの規模の寺院だったと思われる。

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貞亨4年(1687)8月14日、深川の芭蕉庵に移り住んで7年目の芭蕉(44歳)は、尊敬していた仏頂禅師から、月見にこないかと誘いを受けた。
仏頂和尚は、根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを寺社奉行に提訴して江戸深川の臨川庵(後の臨川寺)に滞在していたとき、仏頂和尚は芭蕉に禅を教えた。天和2年(1682)、訴訟に勝った禅師は根本寺にかえった後も、親交は続いていた。

尊敬する禅師(すでにこの寺の住職は退いていた)から月見の誘いを受けた芭蕉は仲秋の前日、曽良と宗波を伴い鹿島に旅立ったのである。

鹿島紀行より

「洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。
伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。
・・・・・・・
・・・・・・・
麓に 根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。
すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。
暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。
月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。
かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。」


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「月はやし梢は雨を持ながら」 この歌碑が本堂の入口の右手に置かれている。

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本堂に向かって左手の生垣にも上のような歌碑が置かれている。

この寺は鹿島の城山の麓にある。
城山は常陸平氏系の鹿島氏の城があったところで、この本丸跡は現在城山公園となっている。

鹿島氏も佐竹氏により滅ぼされたが、家康に再興を願い出て許可されたため、この城も明治はじめまで続いたという。その後鹿嶋市に寄贈して公園になっている。
かなり規模の大きな城であったようです。



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鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/12 20:09

新神宮橋(鹿島)

 今日はこれから東京に行きます。
毎年この時期に大学に友達と集まります。

もう10年以上続いています。

そして最近は年2回になりました。
やはり歳のたつのは早いですね。

更新が夜遅くなりそうなので繋ぎの記事を先にアップさせていただきます。

鹿島橋
(サムネイルです。クリックで拡大します)

先日鹿島神宮近くに行きました。

国道51号線は鹿島へ渡る橋は2本あり、いつもだと昔の面影の残る旧橋を渡るのですが、今回は新しい方の橋を通りました。
この橋(新神宮橋)からは右(東)に旧橋(神宮橋)、左(西)に鹿島線の鉄橋が見えます。

写真は国道上で車を止めて鹿島線側を撮影しました。(前後に車がいなかったので少しの間、橋の上で停車しました。)

前に記事にした旧橋(神宮橋)はこちらを見てください → こちら


鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/06 13:48

鹿島城山公園(1)

出かけておりますので予約投稿になります。
コメント返信は帰宅後となります。

 先日訪れた鹿嶋市にある鹿島城山公園の写真を紹介します。

鹿島城山公園08

寒いのに落ち葉のじゅうたんがどこかやさしく暖かい。

鹿島城山公園06
(クリックで写真は拡大します)

紅葉の木の下で母子が楽しそうでした。

鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/12 18:15

鹿島城山公園(2)

今日も予約投稿です。

写真はすべてサムネイルです。クリックして見てください。

鹿島城山公園01

この城山公園からの眺めは素晴らしい。
左手下に赤い鹿島神宮の1の鳥居が見える。
そしてその右側に3本の橋が見える。
国道51号線の旧道(神宮橋)と新道(新神宮橋)、そして右端が鹿島線の鉄橋だ。

鹿島城山公園04




鹿島地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/12/13 19:00
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