大利根河原
笹川の港に行ってみたが決闘というには場所がごちゃごちゃしている。
歌や浪曲のイメージにあわないと思っていた。
そして先日前にも書いた利根川と霞ヶ浦の2つの水門がある東庄側のたもとにあるこじんまりした公園に立寄った。

こちら側は利根川の水門で、そのままこの先に常陸利根川(霞ヶ浦)の水門がある。
訪れた時はその前の2日間が大雨が降った後で、水門の多くが上まで持ち上がっていた。
こんな状態を見るのは初めてであった。
どうやら雨が多く降ると開ける水門の数で調節しているようだ。 今日も通ったが開いていたのは1か所だけであった。

そのすぐ近くの公園風の場所に草に隠れて2つの石碑が置かれていた。
天保水滸伝の最初の舞台となった大利根河原の決闘の場所に近いのかもしれない。
「利根の川風袂に入れて 月に棹差す高瀬舟」
玉川勝太郎の浪曲「天保水滸伝」。

その隣に天保水滸伝遺跡保存会?の説明文が彫られた石碑がありました。
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歌や浪曲のイメージにあわないと思っていた。
そして先日前にも書いた利根川と霞ヶ浦の2つの水門がある東庄側のたもとにあるこじんまりした公園に立寄った。

こちら側は利根川の水門で、そのままこの先に常陸利根川(霞ヶ浦)の水門がある。
訪れた時はその前の2日間が大雨が降った後で、水門の多くが上まで持ち上がっていた。
こんな状態を見るのは初めてであった。
どうやら雨が多く降ると開ける水門の数で調節しているようだ。 今日も通ったが開いていたのは1か所だけであった。

そのすぐ近くの公園風の場所に草に隠れて2つの石碑が置かれていた。
天保水滸伝の最初の舞台となった大利根河原の決闘の場所に近いのかもしれない。
「利根の川風袂に入れて 月に棹差す高瀬舟」
玉川勝太郎の浪曲「天保水滸伝」。

その隣に天保水滸伝遺跡保存会?の説明文が彫られた石碑がありました。


天保水滸伝所縁の里(1)-笹川繁蔵の最後地
千葉県東庄町の東庄交番の信号から旭市(飯岡)方面に走る県道266号線がある。
信号から少しいったところを左に入る細い道がある。
その道を道なりに200mほどいったところに「笹川繁蔵最後の跡」という石碑が置かれている。
諏訪大神の境内にある天保水滸伝遺品館で観光案内のパンフレットを頂いて地図を見て一度探したがわからずに次に訪れた時に見当をつけていて見つかった。(最初はもう一つ先の脇道を探してしまった)
まあ見つけられなかったからどうということもないが、気になるとやはり見ておきたくなる。
天保水滸伝などというとまあ今の世の中に興味を持つ人はどれくらいいるのかわからないし、特に女性には多分ほとんど興味もないのかもしれない。
しかし、佐原から小見川に来てこの東庄(ひがしのしょう)町にくると、この笹川繁蔵を考えずに素通りはできないようだ。
あまり最初は興味もなかったが、調べて行くうちにこれを理解しないと飯岡や笹川の町、また東庄33郷の壮大な荘園を領した鎌倉時代以降の歴史も見えてこないように感じた。
くだらないようにも思うが、ここ数カ月にわたって、この近くを散策した時に見た風景などを順に紹介していきたいと思う。


この場所は笹川の中心地とは目と鼻の先。確かに昔はここと飯岡はこの道も繋がっていたのかもしれない。
この場所で笹川繁蔵は飯岡(石渡)助五郎の手先に待ち伏せされ命を落とした。38歳であった。
この時助五郎の手下は3人(成田甚蔵、三浦屋孫治郎らの)で皆虚無僧姿に変装していたと言う。
大利根河原の決闘が天保15年(1844年)で、その後一時身を隠していた笹川繁蔵がこの地に弘化4年(1847年)春に戻って来てそれほど経たない同年7月4日のことだという。
ここには小さな川が流れていてその川に架かる橋の名前を「ビヤク橋」という。
この助五郎の子分たちは、繁蔵の首を飯岡に持ち帰り、そして胴体は利根川に流されたと伝わっていた。
そのため笹川方の子分達は亡骸の代わりにこの土地の土などを持ち帰り埋葬したと。
そして飯岡助五郎は持ち帰った首を海に捨てよと命じたが孫次郎らが丁寧に埋葬して弔ったと伝わった。
しかし事実は助五郎により丁寧に葬られ、弔われたと・・・・
そしてこれが長い間何処にあるか不明であったとも言う。
この続きは飯岡に行かないとわからないので明日書きます。
(興味のない方はこの下はパスして下さい)
その前に天保水滸伝の概要を少しだけ書いておきます。
これもあまり興味もわかなかったので読む人だって面白くないに決まっている。
江戸時代に大衆芸能として浪曲などで人気を博したまあ任侠物で、清水次郎長に森の石松、国定忠治の赤城山。
まあ時代劇が花盛りなら話も興味が出るが、今では時代劇も製作するにも道具も殺陣師も昔の建物だって段々自由にならない時代で自然と消えゆくのかもしれない。アメリカでさえ西部劇など最近は聞いたこともない。
それでも少しは調べて見たので記録として残しておきたい。
1792年に相模国山崎(現横須賀市三春町)で飯岡助五郎(本名石渡助五郎)は生まれた。半農半漁の家の長男であったが身体も大きくて力持ちで、ある時町に地方巡業に来ていた相撲の友綱親方に見込まれて弟子入り(1807年)し、江戸で角力(相撲)取りになる。しかし、江戸で頼りにしていた親方が死に、相撲取りを1年程で廃業し、地引網漁でにぎわっていた九十九里浜にやってきて漁師となる。
そして更に飯岡が鰯漁でにぎわっていたため飯岡に来て、力自慢や人情味の良さで次第に頭角を現す。
玉崎神社の奉納相撲で名を上げ、銚子から飯岡で縄張りを持っていた五郎蔵親分から網元と縄張りを譲り受けてこの地方の大親分になっていった。
一方笹川(岩瀬)繁蔵は1810年にこの笹川から少し西に行った下総国須賀山村の醤油・酒の醸造を営む大きな家の三男として生まれた。やはり力が強く、地元の相撲で有名になり相撲取りを目指して江戸に行って千賀ノ浦部屋に入門するがこちらも1年ほどで角力(相撲)を廃業し、博打うちの世界(任侠)に入り、故郷に近い笹川で一家を興す。
この地方は当時も米どころで豊かな土地であったが、冷夏で飢饉の年も続いた。そこで繁蔵がとった行動は、関東・東海各地の大親分を集めて大花会(親分だけの賭博)を開き、資金を集めることであった天保13年(1842年)。
清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎などがやってきたと言われるが何処まで本当かはわからない。
さあ、その頃飯岡助五郎は銚子から飯岡などの縄張りに十手まで預かる身になっており、笹川の勢力が自分の所の勢力域を脅かされない勢いとなり無視できなくなっていた。
まあ中間域の博打場の寺銭を奪い合う事がおき、お互いの一家が争い始め、そのうちに血気にはやるやくざ者がお互いの親分の命まで狙い始めたというところだろう。
そこで天保15年(1844年)8月に飯岡一派が笹川一家に殴り込みをかけたのである。その時は川の方からと陸の方からと二手に分かれて襲ったと言う。(大利根河原の決闘)
結果は笹川一家では助っ人として駆け付けた平手造酒(みき)ただ一人が亡くなり、飯岡方では3人が亡くなったと言われている。
この平手造酒も酒乱でもあったが千葉道場門下の凄腕で、当時結核を患っていたなどと浪曲などでのキャラクタが定着しており何処までが本当なのかはよくわからない。三波春雄の歌などではこのキャラクタとして登場します。
この決闘は笹川方の勝利となりましたが、そこは十手も預かる飯岡方の追及も江戸幕府にも届き笹川繁蔵は追われる身となります。そして3年近くほとぼりを冷ますためにこの地を離れて、追及も緩んだとして1847年春に笹川に戻ります。
戻った後はこの繁蔵を慕う者に対し助五郎の息のかかった者もおり、最初に書いたようにビヤク橋のたもとで虚無僧姿の助五郎の子分に闇討ちされ、首を持ち去られてしまいました。胴体も消えていました。
さて、水滸伝と言うのは当然中国の水滸伝(15世紀に書かれた)から付けられた名前ですが、水滸とは「水のほとり」という意味であるので話が似ていること、また有名な梁山泊に108人程で立てこもり、悪徳官史を倒す話が何処となく似ているとして、講談や浪曲でのインパクトから考えられた名前と言えるでしょう。
梁山泊に対してこちらでは笹川繁蔵亡きあとに、繁蔵を慕って集まった者たちが一の子分の勢力富五郎を中心に集まり、助五郎一家や関東取締出役に追われ、金毘羅山(勢力山)に逃げ込み52日間幕府に反抗して捕まらなかったというのもどこか似ているのかもしれません。
しかし最後は自刀して果てたようです。
この勢力富五郎は万歳村の出身といいます。墓は笹川の延命寺に平手造酒の墓と共にあります。
先日旭市を車で走っていてこの万歳の名前を見かけました。変わった名前で覚えています。
また近くに干潟などの名前をみられますので、干拓地当たりにも笹川一家の勢力がかなり広がっていたのかもしれません。
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その道を道なりに200mほどいったところに「笹川繁蔵最後の跡」という石碑が置かれている。
諏訪大神の境内にある天保水滸伝遺品館で観光案内のパンフレットを頂いて地図を見て一度探したがわからずに次に訪れた時に見当をつけていて見つかった。(最初はもう一つ先の脇道を探してしまった)
まあ見つけられなかったからどうということもないが、気になるとやはり見ておきたくなる。
天保水滸伝などというとまあ今の世の中に興味を持つ人はどれくらいいるのかわからないし、特に女性には多分ほとんど興味もないのかもしれない。
しかし、佐原から小見川に来てこの東庄(ひがしのしょう)町にくると、この笹川繁蔵を考えずに素通りはできないようだ。
あまり最初は興味もなかったが、調べて行くうちにこれを理解しないと飯岡や笹川の町、また東庄33郷の壮大な荘園を領した鎌倉時代以降の歴史も見えてこないように感じた。
くだらないようにも思うが、ここ数カ月にわたって、この近くを散策した時に見た風景などを順に紹介していきたいと思う。


この場所は笹川の中心地とは目と鼻の先。確かに昔はここと飯岡はこの道も繋がっていたのかもしれない。
この場所で笹川繁蔵は飯岡(石渡)助五郎の手先に待ち伏せされ命を落とした。38歳であった。
この時助五郎の手下は3人(成田甚蔵、三浦屋孫治郎らの)で皆虚無僧姿に変装していたと言う。
大利根河原の決闘が天保15年(1844年)で、その後一時身を隠していた笹川繁蔵がこの地に弘化4年(1847年)春に戻って来てそれほど経たない同年7月4日のことだという。
ここには小さな川が流れていてその川に架かる橋の名前を「ビヤク橋」という。
この助五郎の子分たちは、繁蔵の首を飯岡に持ち帰り、そして胴体は利根川に流されたと伝わっていた。
そのため笹川方の子分達は亡骸の代わりにこの土地の土などを持ち帰り埋葬したと。
そして飯岡助五郎は持ち帰った首を海に捨てよと命じたが孫次郎らが丁寧に埋葬して弔ったと伝わった。
しかし事実は助五郎により丁寧に葬られ、弔われたと・・・・
そしてこれが長い間何処にあるか不明であったとも言う。
この続きは飯岡に行かないとわからないので明日書きます。
(興味のない方はこの下はパスして下さい)
その前に天保水滸伝の概要を少しだけ書いておきます。
これもあまり興味もわかなかったので読む人だって面白くないに決まっている。
江戸時代に大衆芸能として浪曲などで人気を博したまあ任侠物で、清水次郎長に森の石松、国定忠治の赤城山。
まあ時代劇が花盛りなら話も興味が出るが、今では時代劇も製作するにも道具も殺陣師も昔の建物だって段々自由にならない時代で自然と消えゆくのかもしれない。アメリカでさえ西部劇など最近は聞いたこともない。
それでも少しは調べて見たので記録として残しておきたい。
1792年に相模国山崎(現横須賀市三春町)で飯岡助五郎(本名石渡助五郎)は生まれた。半農半漁の家の長男であったが身体も大きくて力持ちで、ある時町に地方巡業に来ていた相撲の友綱親方に見込まれて弟子入り(1807年)し、江戸で角力(相撲)取りになる。しかし、江戸で頼りにしていた親方が死に、相撲取りを1年程で廃業し、地引網漁でにぎわっていた九十九里浜にやってきて漁師となる。
そして更に飯岡が鰯漁でにぎわっていたため飯岡に来て、力自慢や人情味の良さで次第に頭角を現す。
玉崎神社の奉納相撲で名を上げ、銚子から飯岡で縄張りを持っていた五郎蔵親分から網元と縄張りを譲り受けてこの地方の大親分になっていった。
一方笹川(岩瀬)繁蔵は1810年にこの笹川から少し西に行った下総国須賀山村の醤油・酒の醸造を営む大きな家の三男として生まれた。やはり力が強く、地元の相撲で有名になり相撲取りを目指して江戸に行って千賀ノ浦部屋に入門するがこちらも1年ほどで角力(相撲)を廃業し、博打うちの世界(任侠)に入り、故郷に近い笹川で一家を興す。
この地方は当時も米どころで豊かな土地であったが、冷夏で飢饉の年も続いた。そこで繁蔵がとった行動は、関東・東海各地の大親分を集めて大花会(親分だけの賭博)を開き、資金を集めることであった天保13年(1842年)。
清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎などがやってきたと言われるが何処まで本当かはわからない。
さあ、その頃飯岡助五郎は銚子から飯岡などの縄張りに十手まで預かる身になっており、笹川の勢力が自分の所の勢力域を脅かされない勢いとなり無視できなくなっていた。
まあ中間域の博打場の寺銭を奪い合う事がおき、お互いの一家が争い始め、そのうちに血気にはやるやくざ者がお互いの親分の命まで狙い始めたというところだろう。
そこで天保15年(1844年)8月に飯岡一派が笹川一家に殴り込みをかけたのである。その時は川の方からと陸の方からと二手に分かれて襲ったと言う。(大利根河原の決闘)
結果は笹川一家では助っ人として駆け付けた平手造酒(みき)ただ一人が亡くなり、飯岡方では3人が亡くなったと言われている。
この平手造酒も酒乱でもあったが千葉道場門下の凄腕で、当時結核を患っていたなどと浪曲などでのキャラクタが定着しており何処までが本当なのかはよくわからない。三波春雄の歌などではこのキャラクタとして登場します。
この決闘は笹川方の勝利となりましたが、そこは十手も預かる飯岡方の追及も江戸幕府にも届き笹川繁蔵は追われる身となります。そして3年近くほとぼりを冷ますためにこの地を離れて、追及も緩んだとして1847年春に笹川に戻ります。
戻った後はこの繁蔵を慕う者に対し助五郎の息のかかった者もおり、最初に書いたようにビヤク橋のたもとで虚無僧姿の助五郎の子分に闇討ちされ、首を持ち去られてしまいました。胴体も消えていました。
さて、水滸伝と言うのは当然中国の水滸伝(15世紀に書かれた)から付けられた名前ですが、水滸とは「水のほとり」という意味であるので話が似ていること、また有名な梁山泊に108人程で立てこもり、悪徳官史を倒す話が何処となく似ているとして、講談や浪曲でのインパクトから考えられた名前と言えるでしょう。
梁山泊に対してこちらでは笹川繁蔵亡きあとに、繁蔵を慕って集まった者たちが一の子分の勢力富五郎を中心に集まり、助五郎一家や関東取締出役に追われ、金毘羅山(勢力山)に逃げ込み52日間幕府に反抗して捕まらなかったというのもどこか似ているのかもしれません。
しかし最後は自刀して果てたようです。
この勢力富五郎は万歳村の出身といいます。墓は笹川の延命寺に平手造酒の墓と共にあります。
先日旭市を車で走っていてこの万歳の名前を見かけました。変わった名前で覚えています。
また近くに干潟などの名前をみられますので、干拓地当たりにも笹川一家の勢力がかなり広がっていたのかもしれません。


天保水滸伝所縁の里(2)-笹川繁蔵の首塚
旭市飯岡の玉崎神社は何度かにわたって紹介した。(その1、その2、その3、その4、その5)
そしてその最後(その6)で飯岡助五郎の碑を紹介した。
今日は昨日の笹川繁蔵が闇討ちにあって飯岡側に持ち去られた繁蔵の首の行方の話です。
この玉崎神社のすぐ裏手を少し行くと定慶寺という真言宗智山派の寺がある。
その寺と反対側の墓地に「笹川繁蔵之首塚」と書かれた立派な石碑が立てられている。
さて、昨日書いた繁蔵が打ち取られたときに首と胴体はバラバラにされたのですが、昭和7年に本銚子(植松町3丁目)の道路改修の時に町営のある墓地から繁蔵の墓標とともに胴体が発見された。
胴体は利根川に流されたと長い間伝わってきたのですが、ちゃんと埋葬されていたのです。
首は飯岡助五郎の子分であり繁蔵を襲った三浦屋孫次郎が丁寧に埋葬して一生をかけて弔ったとかいわれるが、実際は助五郎は浪曲などに描かれたような悪人ではなく。繁蔵を闇討ちしたのも自分の意志ではなかったように思われます。
胴体は繁蔵の戒名を書いた墓標により発見されましたが、首の方はどうしたのでしょうか。
この定慶寺の首塚に埋葬されていたのでしょうか。
実はこの首は胴体の発見の翌年に存在が判明したようです。
それは胴体の発見により首の部分もあるはずなので笹川に戻してほしいとの申し入れが飯岡側にあり、探して判明したようです。
それは助五郎が自宅近くの山林に丁寧に埋葬し、毎年供養を行っていたようです。
助五郎はこの首塚に戒名「清岩繁勇信士」をつけ、これを石碑に刻んでいました。
そして、首も笹川側に戻されたようですが、この石碑はこの飯岡の定慶寺におかれ、首塚の碑が立てられたのでしょう。
頭の遺骨も笹川の街中の延命寺にある平手造酒と勢力富五郎の墓の中間に埋葬され、笹川繁蔵之碑が立てられたようです。
笹川のビヤク橋で繁蔵が殺されたときに部下や愛人が駆け付けたがすでに死体は無く、そこに残された土などを持ち帰り埋葬したと言われています。

この石碑は地元の平野普次郎氏が繁蔵の首と胴を合わせてそれを弔うために、昭和8年にここに建てたものです。
そして遺骨は笹川方に戻されたのでしょう。

寺の境内には「首洗い井戸」というのも残っているそうですが、どれか良く分かりません。


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そしてその最後(その6)で飯岡助五郎の碑を紹介した。
今日は昨日の笹川繁蔵が闇討ちにあって飯岡側に持ち去られた繁蔵の首の行方の話です。
この玉崎神社のすぐ裏手を少し行くと定慶寺という真言宗智山派の寺がある。
その寺と反対側の墓地に「笹川繁蔵之首塚」と書かれた立派な石碑が立てられている。
さて、昨日書いた繁蔵が打ち取られたときに首と胴体はバラバラにされたのですが、昭和7年に本銚子(植松町3丁目)の道路改修の時に町営のある墓地から繁蔵の墓標とともに胴体が発見された。
胴体は利根川に流されたと長い間伝わってきたのですが、ちゃんと埋葬されていたのです。
首は飯岡助五郎の子分であり繁蔵を襲った三浦屋孫次郎が丁寧に埋葬して一生をかけて弔ったとかいわれるが、実際は助五郎は浪曲などに描かれたような悪人ではなく。繁蔵を闇討ちしたのも自分の意志ではなかったように思われます。
胴体は繁蔵の戒名を書いた墓標により発見されましたが、首の方はどうしたのでしょうか。
この定慶寺の首塚に埋葬されていたのでしょうか。
実はこの首は胴体の発見の翌年に存在が判明したようです。
それは胴体の発見により首の部分もあるはずなので笹川に戻してほしいとの申し入れが飯岡側にあり、探して判明したようです。
それは助五郎が自宅近くの山林に丁寧に埋葬し、毎年供養を行っていたようです。
助五郎はこの首塚に戒名「清岩繁勇信士」をつけ、これを石碑に刻んでいました。
そして、首も笹川側に戻されたようですが、この石碑はこの飯岡の定慶寺におかれ、首塚の碑が立てられたのでしょう。
頭の遺骨も笹川の街中の延命寺にある平手造酒と勢力富五郎の墓の中間に埋葬され、笹川繁蔵之碑が立てられたようです。
笹川のビヤク橋で繁蔵が殺されたときに部下や愛人が駆け付けたがすでに死体は無く、そこに残された土などを持ち帰り埋葬したと言われています。

この石碑は地元の平野普次郎氏が繁蔵の首と胴を合わせてそれを弔うために、昭和8年にここに建てたものです。
そして遺骨は笹川方に戻されたのでしょう。

寺の境内には「首洗い井戸」というのも残っているそうですが、どれか良く分かりません。




天保水滸伝所縁の里(3)-飯岡助五郎の墓
飯岡助五郎はこの旭市飯岡では比較的評判も良く町の復興にも尽力した良い人と伝わっているようです。
まあ所詮は賭博の元締めでもあったようですからその評判も色々ではあったと思います。
しかし、3年前の大震災で起きた津波でこの飯岡が大きな被害を受けました。
そして江戸時代にも同じように津波などで被害があったそうです。
その当時、自分の出身であった三浦半島の方から多くの漁師を送りこんで鰯漁を廃れさせず、沿岸の堤防などの設置などで大変な功労者と言われています。
さて、その助五郎は天保水滸伝では悪役という設定ですが、これも話を面白くし、判官びいき(義経が判官と言われたことから出た言葉で弱い者の味方をしたい心理)を利用した作り話の要素が多そうです。

この飯岡助五郎の墓は、昨日書いた定慶寺からほど近い光台寺にあります。
周りを田んぼや畑で囲まれたような場所です。
助五郎の菩提寺ということですが、思ったより大きな寺ではありません。

現国山光台寺といい、浄土真宗のお寺です。
江戸の桜田にあったものが、慶長年間(1596~1615年)にこの地に移転したのだと言う。
山門には桐花の紋が付けられていた。何時頃からどのようにしてこの紋になったのかは不明。

本堂にはこの地方に多い龍の彫り物があった。

これが助五郎の墓。享年67歳で任侠者としてはまっとうに畳の上で亡くなったようだ。

玉崎神社などで大きな石碑が置かれ、力石などが祀られ、助五郎神社まで作られている人物にしては実際の墓の場所や規模はまずまず普通であり意外な感じがした。
明日は笹川の繁蔵菩提寺である延命寺を紹介します。
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まあ所詮は賭博の元締めでもあったようですからその評判も色々ではあったと思います。
しかし、3年前の大震災で起きた津波でこの飯岡が大きな被害を受けました。
そして江戸時代にも同じように津波などで被害があったそうです。
その当時、自分の出身であった三浦半島の方から多くの漁師を送りこんで鰯漁を廃れさせず、沿岸の堤防などの設置などで大変な功労者と言われています。
さて、その助五郎は天保水滸伝では悪役という設定ですが、これも話を面白くし、判官びいき(義経が判官と言われたことから出た言葉で弱い者の味方をしたい心理)を利用した作り話の要素が多そうです。

この飯岡助五郎の墓は、昨日書いた定慶寺からほど近い光台寺にあります。
周りを田んぼや畑で囲まれたような場所です。
助五郎の菩提寺ということですが、思ったより大きな寺ではありません。

現国山光台寺といい、浄土真宗のお寺です。
江戸の桜田にあったものが、慶長年間(1596~1615年)にこの地に移転したのだと言う。
山門には桐花の紋が付けられていた。何時頃からどのようにしてこの紋になったのかは不明。

本堂にはこの地方に多い龍の彫り物があった。

これが助五郎の墓。享年67歳で任侠者としてはまっとうに畳の上で亡くなったようだ。

玉崎神社などで大きな石碑が置かれ、力石などが祀られ、助五郎神社まで作られている人物にしては実際の墓の場所や規模はまずまず普通であり意外な感じがした。
明日は笹川の繁蔵菩提寺である延命寺を紹介します。


天保水滸伝所縁の里(4)-笹川繁蔵、平手造酒の墓
笹川(東庄町)の中心には諏訪大神という神社があります。
ここはもう一年半ほど前に一度紹介しています。(記事はこちら)
この神社には天保水滸伝遺品館と東庄町観光会館が置かれている。(遺品館は有料で200円?)

笹川繁蔵たちの墓はこの神社から少し港側に行ったところにあった。

少しくたびれたような看板がかかっていた。
平手造酒墓
笹川繁蔵墓
勢力富五郎碑
と勢力富五郎だけが碑となっている。

そして寺の入口に置かれた結界石? 何と書かれているのか・・・・。
ここは笹川山と号する真言宗智山派の寺だ。
禅寺では結界石が置かれているのはたまに見かけるが、真言密教?

この入口に架けられた説明看板には任侠三士の墓所とあり、平手造酒だけが墓で、繁蔵と富五郎は碑になっている。

入口をはいると広くなっていて奥に本堂がある。
任侠三士の墓所は本堂に向かって右側に置かれていた。

右側に「平手造酒(みき)之墓」(昭和三年建立)
右手に「勢力富五郎之碑」(昭和3年建立)
真中奥に「笹川繁蔵之碑」(昭和15年建立)、その手前に「天保水滸伝発祥之地」の石碑があります。

繁蔵の碑のすぐ手前には「笹川繁蔵之勝負石」と書かれた賭博のすごろく(丁半)をあしらった大きな石が置かれています。
さて墓と碑と書かれた違いがはっきりしないのが気になった。
まず笹川繁蔵の一の子分の勢力富五郎は「碑」となっているので、金比羅山に結集して追手を逃れて抵抗を続け自刀して果てた富五郎は実際の遺骨は無いのかもしれない。
この当時に山に籠って戦い捕まった他の人たちは皆江戸に送られ死罪になったと言う。
次に平手造酒は墓とあるのでここに遺骨もあるのだろう。
実際にこの大きな造酒の石碑の裏手に小さな墓「平田深喜」(平手造酒の本名)(嘉永3年)があるという。
さて肝心の笹川繁蔵は墓と書かれたものと碑と書かれたものが混在している。
繁蔵の墓は明治7年になり繁蔵の愛人であった高橋豊子が立てたものがあるという。
そしてこの高橋豊子もここに眠っているという。
しかし一昨日書いたように繁蔵は飯岡助五郎側で丁寧に葬られ、胴体が墓標と共に銚子で昭和7年に見つかり、翌年には首の所在がわかり、遺骨をこの地に持ってきたと思わる。
それが昭和15年の碑となったのだろう。

延命寺の境内に気になる宝篋印塔と地蔵堂がある。
これらのものを調べようとしたが、この寺は天保水滸伝以外の事はほとんどわからなかった。
ただこの地蔵堂の修理の時に棟札に「宝暦七年(1757) 改築 鹿島大神宮別当寺有範」とあるというので、香取神宮に近い土地柄ではあるが鹿島神宮とつながりがあったのかもしれない。
この地蔵堂だけが江戸時代の火災などの災害から守られてきた建物だそうだ。

それでは平手造酒を歌った三波春夫のヒット曲「大利根無情」を暇な方は聞いてください。
大利根無情
作詞:猪又良
作曲:長津義司
利根の利根の川風 よしきりの
声が冷たく 身をせめる
これが浮世か
見てはいけない 西空見れば
江戸へ江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲
「佐原囃子が聴えてくらあ、想い出すなア…、
御玉ヶ池の千葉道場か、うふ…。
平手造酒も、今じゃやくざの用心棒、
人生裏街道の枯落葉か。」
義理の義理の夜風に さらされて
月よお前も 泣きたかろ
こゝろみだれて
抜いたすすきを 奥歯で噛んだ
男男泪(なみだ)の 落し差し
「止めて下さるな、妙心殿。落ちぶれ果てても平手は
武士じゃ男の散りぎわは 知って居り申す、
行かねばならぬそこをどいて下され、
行かねばならぬのだ。」
瞼(まぶた)瞼ぬらして 大利根の
水に流した 夢いくつ
息をころして
地獄まいりの 冷酒のめば
鐘が鐘が鳴る鳴る 妙円寺
ここに出てくる「妙円寺」というのがこの延命寺の事だと解釈されています。
でも平手造酒はたしかもう少し西の神崎(なんじゃもんじゃの木がある)の方にいたと聞いたことがあるが・・・。
本当に久しぶりに三波春夫の歌を聞いた。こんな時代だったんですね。
なにしろ1964年の東京オリンピックから50年経つのですから。もうこれも過去の歴史なのです。
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ここはもう一年半ほど前に一度紹介しています。(記事はこちら)
この神社には天保水滸伝遺品館と東庄町観光会館が置かれている。(遺品館は有料で200円?)

笹川繁蔵たちの墓はこの神社から少し港側に行ったところにあった。

少しくたびれたような看板がかかっていた。
平手造酒墓
笹川繁蔵墓
勢力富五郎碑
と勢力富五郎だけが碑となっている。

そして寺の入口に置かれた結界石? 何と書かれているのか・・・・。
ここは笹川山と号する真言宗智山派の寺だ。
禅寺では結界石が置かれているのはたまに見かけるが、真言密教?

この入口に架けられた説明看板には任侠三士の墓所とあり、平手造酒だけが墓で、繁蔵と富五郎は碑になっている。

入口をはいると広くなっていて奥に本堂がある。
任侠三士の墓所は本堂に向かって右側に置かれていた。

右側に「平手造酒(みき)之墓」(昭和三年建立)
右手に「勢力富五郎之碑」(昭和3年建立)
真中奥に「笹川繁蔵之碑」(昭和15年建立)、その手前に「天保水滸伝発祥之地」の石碑があります。

繁蔵の碑のすぐ手前には「笹川繁蔵之勝負石」と書かれた賭博のすごろく(丁半)をあしらった大きな石が置かれています。
さて墓と碑と書かれた違いがはっきりしないのが気になった。
まず笹川繁蔵の一の子分の勢力富五郎は「碑」となっているので、金比羅山に結集して追手を逃れて抵抗を続け自刀して果てた富五郎は実際の遺骨は無いのかもしれない。
この当時に山に籠って戦い捕まった他の人たちは皆江戸に送られ死罪になったと言う。
次に平手造酒は墓とあるのでここに遺骨もあるのだろう。
実際にこの大きな造酒の石碑の裏手に小さな墓「平田深喜」(平手造酒の本名)(嘉永3年)があるという。
さて肝心の笹川繁蔵は墓と書かれたものと碑と書かれたものが混在している。
繁蔵の墓は明治7年になり繁蔵の愛人であった高橋豊子が立てたものがあるという。
そしてこの高橋豊子もここに眠っているという。
しかし一昨日書いたように繁蔵は飯岡助五郎側で丁寧に葬られ、胴体が墓標と共に銚子で昭和7年に見つかり、翌年には首の所在がわかり、遺骨をこの地に持ってきたと思わる。
それが昭和15年の碑となったのだろう。

延命寺の境内に気になる宝篋印塔と地蔵堂がある。
これらのものを調べようとしたが、この寺は天保水滸伝以外の事はほとんどわからなかった。
ただこの地蔵堂の修理の時に棟札に「宝暦七年(1757) 改築 鹿島大神宮別当寺有範」とあるというので、香取神宮に近い土地柄ではあるが鹿島神宮とつながりがあったのかもしれない。
この地蔵堂だけが江戸時代の火災などの災害から守られてきた建物だそうだ。

それでは平手造酒を歌った三波春夫のヒット曲「大利根無情」を暇な方は聞いてください。
大利根無情
作詞:猪又良
作曲:長津義司
利根の利根の川風 よしきりの
声が冷たく 身をせめる
これが浮世か
見てはいけない 西空見れば
江戸へ江戸へひと刷毛(はけ) あかね雲
「佐原囃子が聴えてくらあ、想い出すなア…、
御玉ヶ池の千葉道場か、うふ…。
平手造酒も、今じゃやくざの用心棒、
人生裏街道の枯落葉か。」
義理の義理の夜風に さらされて
月よお前も 泣きたかろ
こゝろみだれて
抜いたすすきを 奥歯で噛んだ
男男泪(なみだ)の 落し差し
「止めて下さるな、妙心殿。落ちぶれ果てても平手は
武士じゃ男の散りぎわは 知って居り申す、
行かねばならぬそこをどいて下され、
行かねばならぬのだ。」
瞼(まぶた)瞼ぬらして 大利根の
水に流した 夢いくつ
息をころして
地獄まいりの 冷酒のめば
鐘が鐘が鳴る鳴る 妙円寺
ここに出てくる「妙円寺」というのがこの延命寺の事だと解釈されています。
でも平手造酒はたしかもう少し西の神崎(なんじゃもんじゃの木がある)の方にいたと聞いたことがあるが・・・。
本当に久しぶりに三波春夫の歌を聞いた。こんな時代だったんですね。
なにしろ1964年の東京オリンピックから50年経つのですから。もうこれも過去の歴史なのです。


天保水滸伝所縁の里(5)-清滝佐吉伝承碑
天保水滸伝に登場する人物で笹川方で任侠三士(笹川繁蔵・平手造酒・勢力富五郎)とともに、この旭市側で長い間語り伝えられている人物がいた。
清滝村の佐吉(清滝佐吉)である。

2009年に佐吉の160回忌に合わせて、この伝承碑が完成した。ここは墓所でもあり薬師堂がある。
清滝村の佐吉は岩井滝不動(龍福寺)(記事こちら1、こちら2)近郊の村の出身で、笹川方についていた。
そして最後は勢力富五郎などと共に飯岡助五郎をはじめとする十手方に追われ捕らわれの身となり江戸に送られた。
江戸ではこれらの博徒達は皆処刑された。中でも数人は見せしめのため獄門さらし首となった。
佐吉もその一人であった。

こんな細かな説明も石に刻まれている。
また境内にこの伝承を伝えるチラシが置かれていました。

書かれている文字の数があまりにも多く良く読めません(読みたい人はクリックして拡大すれば読めます)
しかし、ここに書かれている内容は一般的な事が書かれているに過ぎ無いように思います。
清滝にある岩井滝不動(龍福寺)については前に訪れていたので、すぐ前は椿海の干拓で広がった水田が広がる場所で、江戸の後期には江戸の米どころとして大分有名だったように思います。
そこに佐吉という力自慢の若者がこのの賭博場や滝不動の祭りの寺銭を取り仕切っていたようです。
そして場所柄飯岡助五郎の縄張りに近いためにこの勢力にとりこまれそうになったのでしょう。
そこで佐吉は笹川繁蔵の方につくことで自分の縄張りを守ろうと思ったようです。
天保水滸伝の話はこの寺銭をめぐって笹川と飯岡の争いとなり、飯岡助五郎を襲ったが怪我をしただけで助かった助五郎がそのし返しに笹川方を襲ったのが大利根河原の決闘となったと・・・・。
まあこの話は何処までが本当かはわかりませんが、訪れて見ると笹川と飯岡の中間というよりはあきらかに飯岡側に近い場所です。
また勢力富五郎も万歳村出身で、こちらはやはりこの椿海干拓地の場所です。
この干潟八万石の勢力の争いも大きく影響しているように思います。
この時代(ペルーが浦賀に来た頃)に地元の力自慢がこのように任侠の世界に入り、賭博で資金稼ぎ。
そしてほとんどが角力(相撲)とりになったりしていますのでその頃の相撲という世界には親分と呼ばれる地方の任侠者とのつながりが強かったこともあるようです。
浪曲などでは、この江戸での処刑でこれらの事件を知った後に、天保水滸伝(大衆娯楽物)として面白く作られていったものだと思います。
現地説明文の最後の結びに書かれていたことを文字にしてみました。
「 浪曲や映画・小説などで広く知られる「天保水滸伝」は、面白いようにつくられた物語ですから、物語は物語として楽しむことであり、善悪や真偽を問う議論にはなじまないことがらです。歴史としても、資料には勝者・敗者の記録があり、書き残されなかった歴史や、語ることのできなかった歴史があり、密かに伝えなければならなかった歴史もあることを考えるとき、嘉永二年の大捕物で処刑されたり自決した仁侠のことも、視点を変えて、新たな光りを当てれば新たな実像が浮かび上がります。処刑されたということも、現代の裁判に於けるそれとは異なり、言い訳無用、切り捨て御免の時代であったことを伝えるとともに、天保水滸伝によって飯岡・笹川の名が全国に知られ、「清滝」をはじめ村々の名が出てくることも愉快な話として受け止め、名物男たちのことは名物男として永く語り伝えたいところです。(清滝佐吉伝承会)」
私のブログ水滸伝記事もこの辺で幕にしましょう。
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清滝村の佐吉(清滝佐吉)である。

2009年に佐吉の160回忌に合わせて、この伝承碑が完成した。ここは墓所でもあり薬師堂がある。
清滝村の佐吉は岩井滝不動(龍福寺)(記事こちら1、こちら2)近郊の村の出身で、笹川方についていた。
そして最後は勢力富五郎などと共に飯岡助五郎をはじめとする十手方に追われ捕らわれの身となり江戸に送られた。
江戸ではこれらの博徒達は皆処刑された。中でも数人は見せしめのため獄門さらし首となった。
佐吉もその一人であった。

こんな細かな説明も石に刻まれている。
また境内にこの伝承を伝えるチラシが置かれていました。

書かれている文字の数があまりにも多く良く読めません(読みたい人はクリックして拡大すれば読めます)
しかし、ここに書かれている内容は一般的な事が書かれているに過ぎ無いように思います。
清滝にある岩井滝不動(龍福寺)については前に訪れていたので、すぐ前は椿海の干拓で広がった水田が広がる場所で、江戸の後期には江戸の米どころとして大分有名だったように思います。
そこに佐吉という力自慢の若者がこのの賭博場や滝不動の祭りの寺銭を取り仕切っていたようです。
そして場所柄飯岡助五郎の縄張りに近いためにこの勢力にとりこまれそうになったのでしょう。
そこで佐吉は笹川繁蔵の方につくことで自分の縄張りを守ろうと思ったようです。
天保水滸伝の話はこの寺銭をめぐって笹川と飯岡の争いとなり、飯岡助五郎を襲ったが怪我をしただけで助かった助五郎がそのし返しに笹川方を襲ったのが大利根河原の決闘となったと・・・・。
まあこの話は何処までが本当かはわかりませんが、訪れて見ると笹川と飯岡の中間というよりはあきらかに飯岡側に近い場所です。
また勢力富五郎も万歳村出身で、こちらはやはりこの椿海干拓地の場所です。
この干潟八万石の勢力の争いも大きく影響しているように思います。
この時代(ペルーが浦賀に来た頃)に地元の力自慢がこのように任侠の世界に入り、賭博で資金稼ぎ。
そしてほとんどが角力(相撲)とりになったりしていますのでその頃の相撲という世界には親分と呼ばれる地方の任侠者とのつながりが強かったこともあるようです。
浪曲などでは、この江戸での処刑でこれらの事件を知った後に、天保水滸伝(大衆娯楽物)として面白く作られていったものだと思います。
現地説明文の最後の結びに書かれていたことを文字にしてみました。
「 浪曲や映画・小説などで広く知られる「天保水滸伝」は、面白いようにつくられた物語ですから、物語は物語として楽しむことであり、善悪や真偽を問う議論にはなじまないことがらです。歴史としても、資料には勝者・敗者の記録があり、書き残されなかった歴史や、語ることのできなかった歴史があり、密かに伝えなければならなかった歴史もあることを考えるとき、嘉永二年の大捕物で処刑されたり自決した仁侠のことも、視点を変えて、新たな光りを当てれば新たな実像が浮かび上がります。処刑されたということも、現代の裁判に於けるそれとは異なり、言い訳無用、切り捨て御免の時代であったことを伝えるとともに、天保水滸伝によって飯岡・笹川の名が全国に知られ、「清滝」をはじめ村々の名が出てくることも愉快な話として受け止め、名物男たちのことは名物男として永く語り伝えたいところです。(清滝佐吉伝承会)」
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