鹿島鉄道車両
先日紹介した行方で、鹿島鉄道の車両が見られるとの情報いただきました。そこで少し調べてみました。
鹿島鉄道は全てジーゼル車両で、この廃止が決まった時、残された車両について、Wikipediaによると、
「廃線後に保存されている車両は全部で6輌ある。「鉾田駅保存会」が購入したキハ601とKR505がのちに鉾田市に寄付されてほっとパーク鉾田で動態保存されている。「鹿島鉄道保存会」が購入したキハ714・キハ431・KR501が小美玉市の「鹿島鉄道記念館」で静態保存されている(期日指定公開であり、ふだんは非公開)。また、キハ432は小美玉市の小川南病院「はるるの郷」の利用者用施設として保存されている」
と書かれていましたので、小川南病院の車両を見に行ってきました。
病院のリハビリ用の施設として使っているようですので、一般の人は中には入れません。



きれいに車両は化粧直しがされていますが、懐かしいと思う人は多いでしょう。
鹿島鉄道は全てジーゼル車両で、この廃止が決まった時、残された車両について、Wikipediaによると、
「廃線後に保存されている車両は全部で6輌ある。「鉾田駅保存会」が購入したキハ601とKR505がのちに鉾田市に寄付されてほっとパーク鉾田で動態保存されている。「鹿島鉄道保存会」が購入したキハ714・キハ431・KR501が小美玉市の「鹿島鉄道記念館」で静態保存されている(期日指定公開であり、ふだんは非公開)。また、キハ432は小美玉市の小川南病院「はるるの郷」の利用者用施設として保存されている」
と書かれていましたので、小川南病院の車両を見に行ってきました。
病院のリハビリ用の施設として使っているようですので、一般の人は中には入れません。



きれいに車両は化粧直しがされていますが、懐かしいと思う人は多いでしょう。
小川高校下駅(旧鹿島鉄道線)
鹿島鉄道が廃止されて4年が経ちました。結構前だったのだな~と思いますね。
私が石岡に来た時は盛んに存続運動をやっていました。
当時はあまり分からず眺めるだけでしたが、やはり惜しいことをしたと思います。
先日行方市に行った時に並行に走っていた国道355線を通ると、あちこちにまだ名残が見られました。
小美玉市にある県立小川高校の下車駅であった「小川高校下駅(おがわこうこうしたえき)」がまだ形をとどめていました。

駅の外壁には存続運動の中心であった小川高校に生徒さん達のイラストなどがまだ鮮やかに残っていました。
「未来へはしれ!鹿島鉄道」
今はどこかむなしさが・・・。

駅のホームと隣にあった自転車置き場は荒れてはいますが残っています。
駅の名前が描かれたプレートは外されていてありません。

軌道のレールは除かれておりますが、その他はむかしのままです。そこに草が生い茂っています。
この駅は手前が常陸小川駅で700mしか離れていません。昭和61年開校の県立小川高校と小川南病院の最寄り駅として昭和63年に開設された無人の駅でした。
そして、この小川高校も新規の学生募集は行なわず、2年後に廃止が決まっています。
私が石岡に来た時は盛んに存続運動をやっていました。
当時はあまり分からず眺めるだけでしたが、やはり惜しいことをしたと思います。
先日行方市に行った時に並行に走っていた国道355線を通ると、あちこちにまだ名残が見られました。
小美玉市にある県立小川高校の下車駅であった「小川高校下駅(おがわこうこうしたえき)」がまだ形をとどめていました。

駅の外壁には存続運動の中心であった小川高校に生徒さん達のイラストなどがまだ鮮やかに残っていました。
「未来へはしれ!鹿島鉄道」
今はどこかむなしさが・・・。

駅のホームと隣にあった自転車置き場は荒れてはいますが残っています。
駅の名前が描かれたプレートは外されていてありません。

軌道のレールは除かれておりますが、その他はむかしのままです。そこに草が生い茂っています。
この駅は手前が常陸小川駅で700mしか離れていません。昭和61年開校の県立小川高校と小川南病院の最寄り駅として昭和63年に開設された無人の駅でした。
そして、この小川高校も新規の学生募集は行なわず、2年後に廃止が決まっています。
出島散歩(1)
旧出島地区をまわりましたので、今日から数回にわたり載せていと思います。
この出島というのは、霞ケ浦の西側で石岡入り江と土浦入り江に挟まれた地区で、霞ケ浦に飛び出ている場所から出島と名付けられました。
現在は千代田町と合併して「かすみがうら市」となっています。
霞ケ浦に飛びだした地区ですので、霞ケ浦の魚の養殖やレンコン栽培が盛んなところです。
この辺りでは、春が比較的早くやってくるような気がして行ってみたくなりました。
順不同で紹介していきます。
まずは出かける前に撮った、自宅のアセビ(馬酔木、アシビ)の花です。

(上の写真はサムネルです。クリックすると拡大します)

実はこのアセビは我が家の玄関を出たすぐ先にあるのですが、2月末ごろから花が咲きだしていました。
この木のすぐそばに梅の木もあり、まだつぼみも小さく硬い状態ですが、このアセビはいつもと同じ頃に咲いたようです。
でも、自分の家に咲いている花がアセビと気がつかずにいたという間抜けさが、我ながら恥ずかしいですね。
他の方のブログの写真を見て、そう言えばこの木は、この葉っぱの特徴から行ってアセビに間違いないなんて気がついたわけです。花の名前も全く知らないのでもっと勉強しなくては・・・??
自分で植えたわけではないのでよくわかんなかったんです。
東京の実家にもあったのですが、もっと背が小さく葉の形の風情を楽しむような植え方をしていたので、同じものだと思わなかったんです。
それにしても、この木は奈良公園で鹿も食べないのでたくさん繁殖したといいます。
馬も酔っぱらうのですから、鹿も酔っぱらうのですかね。
さて、出島散歩の1回目は先端にある「歩崎公園」そばからです。
この場所は前に数回紹介したことがあります。
・水族館 2010.11.23
・中秋の名月、・キッチンが走る 2011.9.12
・鯉養殖 2012.1.5
ということで紹介は止めて置いて写真のみ数点載せます。

霞ケ浦の湖に近い道を車で走って見ると、あちこちに梅もほころんでいました。
これは先端の歩崎公園の横です。


平日のせいか、また日暮れに近かったせいか、公園も、この突端の道路にも誰もいません。
いつもなら釣り人は結構いるのですが・・・。

人があまりこない公園の外れ(水族館の裏手の空地)には、昔使われたと思われる木の舟が置かれていました。

この写真はサムネルです。沖合に鯉の養殖生け簀が見えます。
手前にはたくさんの水鳥が波に揺られて楽しんでいるようです。
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この出島というのは、霞ケ浦の西側で石岡入り江と土浦入り江に挟まれた地区で、霞ケ浦に飛び出ている場所から出島と名付けられました。
現在は千代田町と合併して「かすみがうら市」となっています。
霞ケ浦に飛びだした地区ですので、霞ケ浦の魚の養殖やレンコン栽培が盛んなところです。
この辺りでは、春が比較的早くやってくるような気がして行ってみたくなりました。
順不同で紹介していきます。
まずは出かける前に撮った、自宅のアセビ(馬酔木、アシビ)の花です。

(上の写真はサムネルです。クリックすると拡大します)

実はこのアセビは我が家の玄関を出たすぐ先にあるのですが、2月末ごろから花が咲きだしていました。
この木のすぐそばに梅の木もあり、まだつぼみも小さく硬い状態ですが、このアセビはいつもと同じ頃に咲いたようです。
でも、自分の家に咲いている花がアセビと気がつかずにいたという間抜けさが、我ながら恥ずかしいですね。
他の方のブログの写真を見て、そう言えばこの木は、この葉っぱの特徴から行ってアセビに間違いないなんて気がついたわけです。花の名前も全く知らないのでもっと勉強しなくては・・・??
自分で植えたわけではないのでよくわかんなかったんです。
東京の実家にもあったのですが、もっと背が小さく葉の形の風情を楽しむような植え方をしていたので、同じものだと思わなかったんです。
それにしても、この木は奈良公園で鹿も食べないのでたくさん繁殖したといいます。
馬も酔っぱらうのですから、鹿も酔っぱらうのですかね。
さて、出島散歩の1回目は先端にある「歩崎公園」そばからです。
この場所は前に数回紹介したことがあります。
・水族館 2010.11.23
・中秋の名月、・キッチンが走る 2011.9.12
・鯉養殖 2012.1.5
ということで紹介は止めて置いて写真のみ数点載せます。

霞ケ浦の湖に近い道を車で走って見ると、あちこちに梅もほころんでいました。
これは先端の歩崎公園の横です。


平日のせいか、また日暮れに近かったせいか、公園も、この突端の道路にも誰もいません。
いつもなら釣り人は結構いるのですが・・・。

人があまりこない公園の外れ(水族館の裏手の空地)には、昔使われたと思われる木の舟が置かれていました。

この写真はサムネルです。沖合に鯉の養殖生け簀が見えます。
手前にはたくさんの水鳥が波に揺られて楽しんでいるようです。


出島散歩(2)(歩崎観音1)
霞ケ浦に飛び出た陸地である旧出島村。この最端部にある場所が歩崎(あゆみさき)であり水族館や公園があるのだが、この地名の由来となったのが公園の裏手の高台に建つ「歩崎観音」である。
正式には「宝性院歩崎山長禅寺」といい、聖武天皇の時代(724-749年)に行基菩薩が彫ったと伝えられる十一面観音が祀られています。
しかし、この観音様のご開帳は33年に1度しか巡ってきません。
昭和23年、昭和56年、ときましたので次回は2014年です。今から2年後です。
<訂正と追加>
この33年に1回の開帳を今年(2012年)から年1回にするそうです。
毎年8月16日におこなわれる「あゆみ祭り」に合わせて、いつもは見られない所も開放するそうです。
読者の方より情報いただき、市の観光課に確認しました。
(2012年7月25日)

公園側からみると、このような崖の上に立っており、ここには霞ケ浦を一望できる展望台が作られています。
展望台からの眺めは素晴らしく、茨城百景に選定されています。
寺への上り口はこの展望台の左右に参道口が2本と、その真中に展望台に真っ直ぐに登る石段があり3本ありますが、今は真中の石段以外はあまり通る人が少なくなっているようです。

東参道口(右側)。こちらからは比較的なだらかな石段で今でも登ることができる。
逆に西側は急であまり使われていないようだ。
公園が出来る前は、この位置まで霞ケ浦の湖岸が来ており、岸辺に下りるようなイメージだったようです。

真中にある展望台への上り口。真っ直ぐ登るので少し急である。

途中の階段はこんな感じです。左右の壁を切り落として階段をつけたようです。

上に登ったところにある展望台はさえぎるものが無く、かなり広範囲に見渡せます。
東向きですから日の出は良く拝むことができそうです。
今年の元旦に訪れましたが、雲がかかって初日の出は拝めませんでした。

右側(土浦・阿見・美浦方面)の眺めです。右下に見えるのは「かすみがうら水族館」です。

真中(東側)の眺め。この沖合を霞ケ浦が土浦入りと高浜(石岡)入りの二つに分かれる地点で三又と言われ、風の強い日などには多くの舟が遭難した流れが速い場所です。

左側は行方市がある方向です。現在はこの出島から大橋で結ばれています。
昔は有料な橋でしたが現在は無料です。
橋を渡った行方市には水の公園「霞ケ浦ふれあいランド」や道の駅などがあります。

展望台の入口にはこの地で撮影された映画「米」(1957年今井正監督)の撮影記念碑が立っています。
近くのお城の形をしたかすみがうら市の郷土資料館にも映画「米」に関する資料が置かれています。
映画でえがかれているようにこの地の農魚村(半農半魚)も貧しい生活をしていたのでしょうか。
記念碑の裏には「「青い湖のほとり ここに芽ばえた米の一生とそれをめぐる人々の哀歓を描き上げたこの映画は 昨年の四月から一ヶ年にわたる 育くむもの、愛と汗の豊かな稔りでもあった」
と手書きの文面が彫られています。

これは、その米の記念碑の隣りに立っている「折本良平頌徳碑」があります。
折本さんは、それまで地引網に頼っていた漁を明治13年に「帆引き船」漁法を考案した人です。
動力を使ったトロール漁法に切り替わる今から50年程前まで、この霞ケ浦の名物とまで言われた美しい帆を張った舟がたくさん浮かんでいたのです。
今では観光帆引き船が時々就航して観光客を楽しませています。

歩崎観音は明日紹介します。
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正式には「宝性院歩崎山長禅寺」といい、聖武天皇の時代(724-749年)に行基菩薩が彫ったと伝えられる十一面観音が祀られています。
しかし、この観音様のご開帳は33年に1度しか巡ってきません。
昭和23年、昭和56年、ときましたので次回は2014年です。今から2年後です。
<訂正と追加>
この33年に1回の開帳を今年(2012年)から年1回にするそうです。
毎年8月16日におこなわれる「あゆみ祭り」に合わせて、いつもは見られない所も開放するそうです。
読者の方より情報いただき、市の観光課に確認しました。
(2012年7月25日)

公園側からみると、このような崖の上に立っており、ここには霞ケ浦を一望できる展望台が作られています。
展望台からの眺めは素晴らしく、茨城百景に選定されています。
寺への上り口はこの展望台の左右に参道口が2本と、その真中に展望台に真っ直ぐに登る石段があり3本ありますが、今は真中の石段以外はあまり通る人が少なくなっているようです。

東参道口(右側)。こちらからは比較的なだらかな石段で今でも登ることができる。
逆に西側は急であまり使われていないようだ。
公園が出来る前は、この位置まで霞ケ浦の湖岸が来ており、岸辺に下りるようなイメージだったようです。

真中にある展望台への上り口。真っ直ぐ登るので少し急である。

途中の階段はこんな感じです。左右の壁を切り落として階段をつけたようです。

上に登ったところにある展望台はさえぎるものが無く、かなり広範囲に見渡せます。
東向きですから日の出は良く拝むことができそうです。
今年の元旦に訪れましたが、雲がかかって初日の出は拝めませんでした。

右側(土浦・阿見・美浦方面)の眺めです。右下に見えるのは「かすみがうら水族館」です。

真中(東側)の眺め。この沖合を霞ケ浦が土浦入りと高浜(石岡)入りの二つに分かれる地点で三又と言われ、風の強い日などには多くの舟が遭難した流れが速い場所です。

左側は行方市がある方向です。現在はこの出島から大橋で結ばれています。
昔は有料な橋でしたが現在は無料です。
橋を渡った行方市には水の公園「霞ケ浦ふれあいランド」や道の駅などがあります。

展望台の入口にはこの地で撮影された映画「米」(1957年今井正監督)の撮影記念碑が立っています。
近くのお城の形をしたかすみがうら市の郷土資料館にも映画「米」に関する資料が置かれています。
映画でえがかれているようにこの地の農魚村(半農半魚)も貧しい生活をしていたのでしょうか。
記念碑の裏には「「青い湖のほとり ここに芽ばえた米の一生とそれをめぐる人々の哀歓を描き上げたこの映画は 昨年の四月から一ヶ年にわたる 育くむもの、愛と汗の豊かな稔りでもあった」
と手書きの文面が彫られています。

これは、その米の記念碑の隣りに立っている「折本良平頌徳碑」があります。
折本さんは、それまで地引網に頼っていた漁を明治13年に「帆引き船」漁法を考案した人です。
動力を使ったトロール漁法に切り替わる今から50年程前まで、この霞ケ浦の名物とまで言われた美しい帆を張った舟がたくさん浮かんでいたのです。
今では観光帆引き船が時々就航して観光客を楽しませています。

歩崎観音は明日紹介します。


出島散歩(3)(歩崎観音2)
昨日の歩崎観音の続きです。

入口の山門です。左右には大きな一対の仁王像が置かれています。
この仁王様も興味深い話が伝わっています。
江戸時代に日光東照宮を建築するために多くの名匠が集められていたそうです。
その工事には30年もの年月を費やしており、この日光の仕事が終わった後に関東各地にこの名匠たちが散って行ったようです。
その中の1人がこの地で仁王像を彫って納めたといわれているようです。(記録では1534年)

山門から奥の本堂を見たところです。山門も本堂もかなり重厚な趣を感じます。

境内から見た正面が本堂。右側が寺の管理をしている真如苑の茨城本部です。こちらの建物は対岸にあった長泉寺より建て物を移したものだそうです。
この寺も古くからの歴史のある寺でしたが、檀家がいないため戦後には荒廃が進んでしまい、昭和23年に真如苑にお願いして管理していただいているものだといいます。

本堂です。

この本堂の拝殿上には龍の彫り物があります。

この本堂は戦時中の爆弾投下によって後ろ側に少し傾いてしまったそうです。
それを2本の丸太で支えています。写真は写しませんでしたが、今でも2本の丸太が見えます。
現地でこの支えを見た時に昨年の地震の影響かと思いました。
あとで調べてわかったものです。
本堂横には鐘楼があり、山門の先には昨日紹介した展望台があります。
昔は海を眺めるように山門が建っていたのでしょう。
この歩崎観音もかなり面白いです。調べると色々なことがあるようですがあまりか書かれていません。
このブログもこのままでは観光案内に終わってしまいますのでもう1回この続きを明日書きますね。
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入口の山門です。左右には大きな一対の仁王像が置かれています。
この仁王様も興味深い話が伝わっています。
江戸時代に日光東照宮を建築するために多くの名匠が集められていたそうです。
その工事には30年もの年月を費やしており、この日光の仕事が終わった後に関東各地にこの名匠たちが散って行ったようです。
その中の1人がこの地で仁王像を彫って納めたといわれているようです。(記録では1534年)

山門から奥の本堂を見たところです。山門も本堂もかなり重厚な趣を感じます。

境内から見た正面が本堂。右側が寺の管理をしている真如苑の茨城本部です。こちらの建物は対岸にあった長泉寺より建て物を移したものだそうです。
この寺も古くからの歴史のある寺でしたが、檀家がいないため戦後には荒廃が進んでしまい、昭和23年に真如苑にお願いして管理していただいているものだといいます。

本堂です。

この本堂の拝殿上には龍の彫り物があります。

この本堂は戦時中の爆弾投下によって後ろ側に少し傾いてしまったそうです。
それを2本の丸太で支えています。写真は写しませんでしたが、今でも2本の丸太が見えます。
現地でこの支えを見た時に昨年の地震の影響かと思いました。
あとで調べてわかったものです。
本堂横には鐘楼があり、山門の先には昨日紹介した展望台があります。
昔は海を眺めるように山門が建っていたのでしょう。
この歩崎観音もかなり面白いです。調べると色々なことがあるようですがあまりか書かれていません。
このブログもこのままでは観光案内に終わってしまいますのでもう1回この続きを明日書きますね。


出島散歩(4)(歩崎観音3)
歩崎観音の3回目です。これで最後です。
それにしても33年に1度しか開帳されないものに興味がわきますね。
(追加:2012年から8月16日のあゆみ祭りの時に毎年開帳されるようです)
まず1つはご本尊である「十一面観音像」です。
行基菩薩が彫った像を旅の僧がこの地に堂宇を建てて安置したといわれるものです。
もう一つは「黄金で造った機織機」です。
1182~3年頃、竜女がお産に苦しんでおりました。その時この観音様に願掛けします。
「このお産が無事にできれば黄金で機織り機を造って奉納いたします。どうか無事に子供が生まれますように!」と。
願い通り安産となった竜女は約束通り、金の機織り機を奉納したといわれています。
もう一つ見たいものがあります。
それは石岡の三村地区の上の高台に「正月平」という土地があり、ここに伝わる話です。
この目出度い土地の名前は前に書いたことがありますが、源義家親子が前九年の役で、奥州に向かう途中でこの地で正月を迎えました。
数軒しかなかったこの地の住民は総出で、乏しい貯えの中から赤飯を炊いて正月のおもてなしをしたそうです。
そして源義家(八幡太郎)と父の頼義は、それに大いに感激しそうです。
このことは「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表しているそうです。
さて、この時に源義家親子は、この地に「黄金のはたし」を残したといわれています。この黄金のはたしは江戸時代まで地元(正月平)にあったが、歩崎観音に奉納され、これも33年に1度しか見ることができなくなったのです。
この「はたし」とはどんなものかまったくわかりません。旗でしょうか。
私が古東海道が常陸国府である石岡には美浦村から霞ケ浦を渡ってこの出島地区を通って、またこの三村地区で中津川へ渡っていたと確信した一つの表れでもあります。
しかし、何処にも書かれているものもないんですよね。
地元に伝わっている僅かな痕跡もわかった時に少しずつ何処かに書いたものを残せば、それを見てまた調べたりする人も出てくるかもしれません。

上の写真は歩崎観音のすぐ裏手にあったものですが、お墓でしょうか。
読みとれるものが少ないのですが、一番左側に「海量法師」と書かれています。
少し興味を持って調べてみました。
海量法師は江戸時代後期の僧・歌人で、1733年に近江国犬上郡の浄土真宗の寺に生まれ、後に江戸に出て歌人となり、近江の彦根藩主井伊直中に招かれて、藩校などを建て彦根藩の教育に尽力した人物だそうですが、後に全国の諸国を回ったといいます。
この歩崎観音には何時来たのかよくわかりません。しかし、この寺の住職をして数々の奇跡などを示したと言われていて、この地で不慮の死を遂げたといわれています。
このあたりは、何処までが真実かは知る由もないのですが、考えると興味は尽きません。
この海量法師がいなくなってから、この寺は無住になり荒廃が進んでしまったのだそうです。
調べた中にある方のブログ(こちら)に四国石鎚山で詠んだ歌が載っていました。
遠遊 千里 天涯を 度る
南予の 山川 行路 斜めなり
独り 石鎚の 山色を起こす 有り
暮春 三月 雪花の 如し
3月に石鎚山も雪が積もっています。こちらも他の方のブログでその景色を見ました。
夏には鎖場などを伝って登ったこともあるのですが、冬のこの山は知りません。
今の時期にこの歌がピッタリでしたので転載させていただきました。(勝手にすみません)

こちらは、北参道(あまり使われていない)側に立っていた石碑「豚霊之碑」です。
このあたりに養豚がさかんというような感じはしませんが、何かあるのでしょうね。
少し調べて見たのだけれどわかりませんでした。

こちらは展望台のすぐ横に置かれている「金毘羅神社」です。
何時頃建てられたものかは不明ですが、かなり古くからあるようで、歩崎観音を修復する時にこちらも修繕したようです。
海(霞ケ浦)の安全を願って漁される方などが参拝をされる方が多いそうです。
さて、歩崎(あゆみさき)の名前ですが、今から900年ほど前のこと、この沖合を航行する船が嵐で沈みそうになりました。
その時に「観世音菩薩様」と唱えると、観音様が現れて海を歩いて船までやってきて、岸辺に導いてくれたといいます。
このためこの観音様を歩崎観音と言うようになったといいます。
この話が本当かうそかなどは何の問題もありません。
このような話にはその時代の歴史的な思いが伝わってきます。
それが大切に伝えていく意義があるのだと思います。
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それにしても33年に1度しか開帳されないものに興味がわきますね。
(追加:2012年から8月16日のあゆみ祭りの時に毎年開帳されるようです)
まず1つはご本尊である「十一面観音像」です。
行基菩薩が彫った像を旅の僧がこの地に堂宇を建てて安置したといわれるものです。
もう一つは「黄金で造った機織機」です。
1182~3年頃、竜女がお産に苦しんでおりました。その時この観音様に願掛けします。
「このお産が無事にできれば黄金で機織り機を造って奉納いたします。どうか無事に子供が生まれますように!」と。
願い通り安産となった竜女は約束通り、金の機織り機を奉納したといわれています。
もう一つ見たいものがあります。
それは石岡の三村地区の上の高台に「正月平」という土地があり、ここに伝わる話です。
この目出度い土地の名前は前に書いたことがありますが、源義家親子が前九年の役で、奥州に向かう途中でこの地で正月を迎えました。
数軒しかなかったこの地の住民は総出で、乏しい貯えの中から赤飯を炊いて正月のおもてなしをしたそうです。
そして源義家(八幡太郎)と父の頼義は、それに大いに感激しそうです。
このことは「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表しているそうです。
さて、この時に源義家親子は、この地に「黄金のはたし」を残したといわれています。この黄金のはたしは江戸時代まで地元(正月平)にあったが、歩崎観音に奉納され、これも33年に1度しか見ることができなくなったのです。
この「はたし」とはどんなものかまったくわかりません。旗でしょうか。
私が古東海道が常陸国府である石岡には美浦村から霞ケ浦を渡ってこの出島地区を通って、またこの三村地区で中津川へ渡っていたと確信した一つの表れでもあります。
しかし、何処にも書かれているものもないんですよね。
地元に伝わっている僅かな痕跡もわかった時に少しずつ何処かに書いたものを残せば、それを見てまた調べたりする人も出てくるかもしれません。

上の写真は歩崎観音のすぐ裏手にあったものですが、お墓でしょうか。
読みとれるものが少ないのですが、一番左側に「海量法師」と書かれています。
少し興味を持って調べてみました。
海量法師は江戸時代後期の僧・歌人で、1733年に近江国犬上郡の浄土真宗の寺に生まれ、後に江戸に出て歌人となり、近江の彦根藩主井伊直中に招かれて、藩校などを建て彦根藩の教育に尽力した人物だそうですが、後に全国の諸国を回ったといいます。
この歩崎観音には何時来たのかよくわかりません。しかし、この寺の住職をして数々の奇跡などを示したと言われていて、この地で不慮の死を遂げたといわれています。
このあたりは、何処までが真実かは知る由もないのですが、考えると興味は尽きません。
この海量法師がいなくなってから、この寺は無住になり荒廃が進んでしまったのだそうです。
調べた中にある方のブログ(こちら)に四国石鎚山で詠んだ歌が載っていました。
遠遊 千里 天涯を 度る
南予の 山川 行路 斜めなり
独り 石鎚の 山色を起こす 有り
暮春 三月 雪花の 如し
3月に石鎚山も雪が積もっています。こちらも他の方のブログでその景色を見ました。
夏には鎖場などを伝って登ったこともあるのですが、冬のこの山は知りません。
今の時期にこの歌がピッタリでしたので転載させていただきました。(勝手にすみません)

こちらは、北参道(あまり使われていない)側に立っていた石碑「豚霊之碑」です。
このあたりに養豚がさかんというような感じはしませんが、何かあるのでしょうね。
少し調べて見たのだけれどわかりませんでした。

こちらは展望台のすぐ横に置かれている「金毘羅神社」です。
何時頃建てられたものかは不明ですが、かなり古くからあるようで、歩崎観音を修復する時にこちらも修繕したようです。
海(霞ケ浦)の安全を願って漁される方などが参拝をされる方が多いそうです。
さて、歩崎(あゆみさき)の名前ですが、今から900年ほど前のこと、この沖合を航行する船が嵐で沈みそうになりました。
その時に「観世音菩薩様」と唱えると、観音様が現れて海を歩いて船までやってきて、岸辺に導いてくれたといいます。
このためこの観音様を歩崎観音と言うようになったといいます。
この話が本当かうそかなどは何の問題もありません。
このような話にはその時代の歴史的な思いが伝わってきます。
それが大切に伝えていく意義があるのだと思います。


出島散歩(5)(田伏城と実伝寺)
旧出島村と行方市を結ぶ霞ケ浦大橋の近くに実伝寺という曹洞宗のお寺がありました。
この寺の場所が少し気になって立ち寄りました。
お寺としては特にこれといった特徴もないように見えます。
しかし、置かれている位置が少し気になったのです。
この場所は近くに霞ケ浦名産の佃煮などの加工場もあり養殖の陸いけすもある低地です。

(サムネルです。クリックで拡大します)
寺の入り口横に小山がありその麓に紅梅がきれいに咲いていました。

(サムネルです。クリックで拡大します)
この小山の入口に鳥居があり、頂上には神社でもあるのでしょうか。こんもりとした山なのでまるで古墳のような感じがしますが、何も書かれた物はありません。
ネットで調べて見るとどうやら「青祖神社」と呼ばれているらしい。

(サムネルです。クリックで拡大します)
お寺の横の梅の古木はまだほとんど咲いていませんでした。

お寺は特にこれといった特徴があるものではありません。
少し古びた山門と奥に本堂があるだけです。
しかし、調べて見るとこのお寺の裏山(今は麓からお墓が延びています)が、かって小田氏の部下の「田伏氏」の居城があったそうです。
田伏氏は土浦の小田氏が佐竹氏に滅ぼされた時に滅亡しました。
この実伝寺の名前も田伏城の城主「田伏次郎大夫藤原実伝」という人物がこの寺を建立したのでつけられたようです。この藤原実伝は1396年に没したそうだから、この寺はその前からあるのでしょう。
土浦の小田氏が滅んだのは1590年頃なので、その前後にこの城も滅んだものと思われます。
城は滅んでも寺は残るんですね。
焼けても後に建てなおされるのでしょう。
(石岡)府中城の城主の弟の居城「三村城」の常春(つねはる)が建てた常春(じょうしゅん)寺はその麓に残っているのと同じでしょう。

参道の中間に建つ山門です。

この山門の入口に「不許葷酒界内」と書かれています。
これは前に稲敷市の興禅寺の山門の入口に「不許葷酒入山」と書かれていましたものと同じですね。(こちら)
この時は「葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」でニンニクなどの臭いにおいや酒臭い人はこの山門から入ってはいけないという意味でしたが、こちらは界内に入ることを許さずです。
この石柱が建てられた年月が裏側に彫られていて嘉永元年となっていますので1848年です。
ネットで検索していたらこのお寺の場所に「実伝寺貝塚」と言うのが載っていました。
貝塚があった少し盛り上がった台地にお寺を建てたのかもしれません。
でも霞ケ浦まですぐです。
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この寺の場所が少し気になって立ち寄りました。
お寺としては特にこれといった特徴もないように見えます。
しかし、置かれている位置が少し気になったのです。
この場所は近くに霞ケ浦名産の佃煮などの加工場もあり養殖の陸いけすもある低地です。

(サムネルです。クリックで拡大します)
寺の入り口横に小山がありその麓に紅梅がきれいに咲いていました。

(サムネルです。クリックで拡大します)
この小山の入口に鳥居があり、頂上には神社でもあるのでしょうか。こんもりとした山なのでまるで古墳のような感じがしますが、何も書かれた物はありません。
ネットで調べて見るとどうやら「青祖神社」と呼ばれているらしい。

(サムネルです。クリックで拡大します)
お寺の横の梅の古木はまだほとんど咲いていませんでした。

お寺は特にこれといった特徴があるものではありません。
少し古びた山門と奥に本堂があるだけです。
しかし、調べて見るとこのお寺の裏山(今は麓からお墓が延びています)が、かって小田氏の部下の「田伏氏」の居城があったそうです。
田伏氏は土浦の小田氏が佐竹氏に滅ぼされた時に滅亡しました。
この実伝寺の名前も田伏城の城主「田伏次郎大夫藤原実伝」という人物がこの寺を建立したのでつけられたようです。この藤原実伝は1396年に没したそうだから、この寺はその前からあるのでしょう。
土浦の小田氏が滅んだのは1590年頃なので、その前後にこの城も滅んだものと思われます。
城は滅んでも寺は残るんですね。
焼けても後に建てなおされるのでしょう。
(石岡)府中城の城主の弟の居城「三村城」の常春(つねはる)が建てた常春(じょうしゅん)寺はその麓に残っているのと同じでしょう。

参道の中間に建つ山門です。

この山門の入口に「不許葷酒界内」と書かれています。
これは前に稲敷市の興禅寺の山門の入口に「不許葷酒入山」と書かれていましたものと同じですね。(こちら)
この時は「葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」でニンニクなどの臭いにおいや酒臭い人はこの山門から入ってはいけないという意味でしたが、こちらは界内に入ることを許さずです。
この石柱が建てられた年月が裏側に彫られていて嘉永元年となっていますので1848年です。
ネットで検索していたらこのお寺の場所に「実伝寺貝塚」と言うのが載っていました。
貝塚があった少し盛り上がった台地にお寺を建てたのかもしれません。
でも霞ケ浦まですぐです。


出島散歩(6)(南円寺1)
湖の先端に行くのに通りを走っていて偶然見つけた「花の寺」の看板。
「五智山南圓寺」と書かれている。一度通り過ぎて気になって戻って寺の駐車場へいった。
駐車場も整備されていてきれいな寺だった。
通りの反対側には「南圓寺信徒会館」などもある大きなお寺である。
調べて見ると、このお寺は結構興味深い。
1374(応安7)年、この地を治めていた小田孝朝が、小田城の守りとして定めた小田領4ケ寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)の一つだそうだ。
前に筑波古道である「つくば道」を紹介した(こちら)時に、道の途中にあったお寺が「普門寺」で、この名前を懐かしく思い出した。
小田氏はこれら4つの寺を祈願所(小田四箇寺)に定め、寺もこの時(鎌倉・室町)時代に勢力を拡大したようだ。
また当時の普門寺は僧兵五百、こちらの南円寺は僧兵三百となっており、末寺もそれぞれ百以上持っていたそうである。
この話から石岡(府中)の三村城の秘話(こちら)を思い出した。
府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)がこの小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にある三村の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。
また、この攻防を聞いた府中城から応援に駆け付けた援軍は、恋瀬川の高浜に近い対岸の高台で城の燃えるのをながめ、間にあわなかったのを嘆きその場で自害した。その数197人。麓の香勢堂墓地に地蔵が建っている。
これも偶然見つけて昔ブログに書いた。(こちら)
この三村城(現三村小学校敷地)とこの南円寺とは直接台地でつながっており間にさえぎるものはない。
小田氏との攻防も厳しいものがあったのだという感じが伝わってくる。
また先日紹介している歩崎の観音様(行基菩薩の作といわれる)と同じ木で作られた三体のうちの一つがあるという。
国宝級の茨城三観音といわれるらしい。どんなものか見て見たい。

寺の山門。山門を入ると梅や桜の木が迎えてくれる。
まだ梅も2~3分咲きくらいでこれからであったが、もう少ししたら綺麗な花が見られそうだ。

寺の境内には「長谷寺」の案内が書かれていた。
奈良の長谷寺も真言宗豊山派の寺で十一面観音を本尊としているので、こちらも同じ豊山派なのだろう。
奈良長谷寺は牡丹の花が有名なので、こちらにも牡丹があるのか?
庭を見て回ったら、シャクナゲの木がいくつか目についた。
シャクナゲといって思い出すのは女人高野室生寺である。
こちらの室生寺も真言宗(室生寺派)で国宝の十一面観音像がある。
上の写真の右側に並んでいる石像はなかなか面白いものが置かれていた。明日紹介します。

咲き始めた紅梅とバックの赤い鐘楼堂がきれいなコントラストを映していました。

そしてすぐ近くには白梅が僅かに花を咲かせていました。(3月15日)

寺の本堂です。

境内に置かれていた古い観音石像です。
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「五智山南圓寺」と書かれている。一度通り過ぎて気になって戻って寺の駐車場へいった。
駐車場も整備されていてきれいな寺だった。
通りの反対側には「南圓寺信徒会館」などもある大きなお寺である。
調べて見ると、このお寺は結構興味深い。
1374(応安7)年、この地を治めていた小田孝朝が、小田城の守りとして定めた小田領4ケ寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)の一つだそうだ。
前に筑波古道である「つくば道」を紹介した(こちら)時に、道の途中にあったお寺が「普門寺」で、この名前を懐かしく思い出した。
小田氏はこれら4つの寺を祈願所(小田四箇寺)に定め、寺もこの時(鎌倉・室町)時代に勢力を拡大したようだ。
また当時の普門寺は僧兵五百、こちらの南円寺は僧兵三百となっており、末寺もそれぞれ百以上持っていたそうである。
この話から石岡(府中)の三村城の秘話(こちら)を思い出した。
府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)がこの小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にある三村の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。
また、この攻防を聞いた府中城から応援に駆け付けた援軍は、恋瀬川の高浜に近い対岸の高台で城の燃えるのをながめ、間にあわなかったのを嘆きその場で自害した。その数197人。麓の香勢堂墓地に地蔵が建っている。
これも偶然見つけて昔ブログに書いた。(こちら)
この三村城(現三村小学校敷地)とこの南円寺とは直接台地でつながっており間にさえぎるものはない。
小田氏との攻防も厳しいものがあったのだという感じが伝わってくる。
また先日紹介している歩崎の観音様(行基菩薩の作といわれる)と同じ木で作られた三体のうちの一つがあるという。
国宝級の茨城三観音といわれるらしい。どんなものか見て見たい。

寺の山門。山門を入ると梅や桜の木が迎えてくれる。
まだ梅も2~3分咲きくらいでこれからであったが、もう少ししたら綺麗な花が見られそうだ。

寺の境内には「長谷寺」の案内が書かれていた。
奈良の長谷寺も真言宗豊山派の寺で十一面観音を本尊としているので、こちらも同じ豊山派なのだろう。
奈良長谷寺は牡丹の花が有名なので、こちらにも牡丹があるのか?
庭を見て回ったら、シャクナゲの木がいくつか目についた。
シャクナゲといって思い出すのは女人高野室生寺である。
こちらの室生寺も真言宗(室生寺派)で国宝の十一面観音像がある。
上の写真の右側に並んでいる石像はなかなか面白いものが置かれていた。明日紹介します。

咲き始めた紅梅とバックの赤い鐘楼堂がきれいなコントラストを映していました。

そしてすぐ近くには白梅が僅かに花を咲かせていました。(3月15日)

寺の本堂です。

境内に置かれていた古い観音石像です。


出島散歩(7)(南円寺2)
昨日の南円寺の続きです。
南円寺の山門をくぐったところに変わった石板(石像)が並んでいます。
お釈迦様の生涯を描いた石板です。

最初は「釈迦の誕生」です。天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)ですね。
みんなかけがいの無い命をいただいています。たった一つしかない命を大切にしましょう。
4月8日は日本でも花祭りが行なわれますね。

「出城」。シャーキャ族の王子であった釈迦は29歳(2月8日)で城を出ました。(出家)

「苦行」の姿です。出家後、5人の仲間と6年間苦行生活を送り、悟りを開こうと苦行していた時の姿です。
でもこの苦行では悟りは開けず、5人とも別れ1人離れていきます。

「降魔修業」です。苦行では悟りが開けなかった釈迦は一人菩提樹の木の下で瞑想します。
するとそこに色々邪悪な悪魔(煩悩)が修行の邪魔をしようとやってきます。
この図は、右手指を下に向け地面に触れ、修業の邪魔をしようとする悪魔を追い払っている姿です。
そしてついに悟りを開きました(12月8日成道会)。(35歳)

「初転法輪(ぽうりん)」釈迦が初めて法輪を説いたことを指します。5人の元修業していた仲間に説いたといわれています。
苦行が耐えられなくなって離脱したと軽蔑していた5人は、この時釈迦の姿を見てすぐに自分達の考え方が間違っていたことに気がついたようです。

「竹林説法」釈迦は北インドの「祇園精舎」「竹林精舎」で説法したとされます。

「涅槃(ねはん)」です。80歳でついに死を迎えます。頭を北に顔を西に向け横たわった釈迦を弟子たちが悲しそうに見守っています。12月15日に涅槃会が行なわれるそうです。
涅槃(ねはん)とは「煩悩の火が吹き消された状態」を意味するそうです。
今日はお釈迦様の説明に終わってしまいました。
真言宗豊山派のお寺にはこの釈迦像があるようですが、HPなどで見てもみな少しずつ違っています。
今まであまり釈迦の生涯などを勉強する機会がありませんでしたので、これを機会に少し覚えました。
さて、琵琶法師が語り伝えた平家物語の有名な冒頭部分
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」
この解釈も釈迦の話を聞いてみると解釈がわかってきました。
「釈迦が説法をした祇園精舎の鐘の音は、この世の全てのものが消滅流転すると言う真理を告げる響きがある。
釈迦が入滅したとき、その死を悲しんで、沙羅双樹の花の色も俄かに白色に変わり、枯れてしまったという。どれほど栄えたものでも必ず衰える時が来るものなのである。」
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南円寺の山門をくぐったところに変わった石板(石像)が並んでいます。
お釈迦様の生涯を描いた石板です。

最初は「釈迦の誕生」です。天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)ですね。
みんなかけがいの無い命をいただいています。たった一つしかない命を大切にしましょう。
4月8日は日本でも花祭りが行なわれますね。

「出城」。シャーキャ族の王子であった釈迦は29歳(2月8日)で城を出ました。(出家)

「苦行」の姿です。出家後、5人の仲間と6年間苦行生活を送り、悟りを開こうと苦行していた時の姿です。
でもこの苦行では悟りは開けず、5人とも別れ1人離れていきます。

「降魔修業」です。苦行では悟りが開けなかった釈迦は一人菩提樹の木の下で瞑想します。
するとそこに色々邪悪な悪魔(煩悩)が修行の邪魔をしようとやってきます。
この図は、右手指を下に向け地面に触れ、修業の邪魔をしようとする悪魔を追い払っている姿です。
そしてついに悟りを開きました(12月8日成道会)。(35歳)

「初転法輪(ぽうりん)」釈迦が初めて法輪を説いたことを指します。5人の元修業していた仲間に説いたといわれています。
苦行が耐えられなくなって離脱したと軽蔑していた5人は、この時釈迦の姿を見てすぐに自分達の考え方が間違っていたことに気がついたようです。

「竹林説法」釈迦は北インドの「祇園精舎」「竹林精舎」で説法したとされます。

「涅槃(ねはん)」です。80歳でついに死を迎えます。頭を北に顔を西に向け横たわった釈迦を弟子たちが悲しそうに見守っています。12月15日に涅槃会が行なわれるそうです。
涅槃(ねはん)とは「煩悩の火が吹き消された状態」を意味するそうです。
今日はお釈迦様の説明に終わってしまいました。
真言宗豊山派のお寺にはこの釈迦像があるようですが、HPなどで見てもみな少しずつ違っています。
今まであまり釈迦の生涯などを勉強する機会がありませんでしたので、これを機会に少し覚えました。
さて、琵琶法師が語り伝えた平家物語の有名な冒頭部分
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」
この解釈も釈迦の話を聞いてみると解釈がわかってきました。
「釈迦が説法をした祇園精舎の鐘の音は、この世の全てのものが消滅流転すると言う真理を告げる響きがある。
釈迦が入滅したとき、その死を悲しんで、沙羅双樹の花の色も俄かに白色に変わり、枯れてしまったという。どれほど栄えたものでも必ず衰える時が来るものなのである。」


出島散歩(8)(奉安殿)
奉安殿(ほうあんでん)というの名前をご存知ですか?
私はまったく知りませんでした。またこんなものを見たのも初めてです。
戦前に教育を受けた人にはなじみのものだったのかもしれません。
奉安殿には天皇・皇后の写真と教育勅語を入れて各学校(尋常小学校や旧制中学校)に設置され、式典やその前を通る時には服装を正し最敬礼するように義務つけられたそうです。
色々な形のものがあるようですが、耐火を考慮して写真のような石作りの物も多く建てられたといいます。
終戦後、GHQの命令により取り壊されたり、地下に埋められたりしたものが多いといいます。

場所は下の地図にあるように「下大津小学校」の通りの反対側の一角にちょこんと置かれていました。
昨日紹介した南円寺のすぐ近くです。
通りかかった時に気になったので写真を撮りあとで調べて内容を知ったのです。
私の年代でもあまり知らないのだから若い人は見たことも聞いたこともないのではないだろうか。

調べると茨城県では同じようなものが真壁駅の近くに保存されているそうです。
これも、このまま朽ちらせてしまうのは惜しい気がする。

天皇崇拝信仰的なことが、戦後教育から全て削除されれたとしても、昔の確かに存在したという記憶をとどめる貴重な資産だと考えます。
戦後の教育が日本国民と言うアイデンティティを否定するものならそれは間違った教育でしょう。
戦時中の軍国主義的な教育などたしかに嫌いです。でも日本人でないような教育も嫌いです。

でもなかなか凝ったつくりですね。
この中に入れた写真や教育勅語などが湿気てカビが生えて処罰を受けたりしとも言われます。

この地区は戦国時代までは小田氏の領域だとすると、土浦やつくばなどとつながりが深そうです。

すぐ裏手の広場にはかなり古い古木が数本ありました。
このような古木が残されているのを見ると、そこに暮らしていた人々の思いを考えてしまいます。
さて、この下大津尋常高等小学校は明治36年の創立と書かれていました。全校生徒93人だそうです。
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私はまったく知りませんでした。またこんなものを見たのも初めてです。
戦前に教育を受けた人にはなじみのものだったのかもしれません。
奉安殿には天皇・皇后の写真と教育勅語を入れて各学校(尋常小学校や旧制中学校)に設置され、式典やその前を通る時には服装を正し最敬礼するように義務つけられたそうです。
色々な形のものがあるようですが、耐火を考慮して写真のような石作りの物も多く建てられたといいます。
終戦後、GHQの命令により取り壊されたり、地下に埋められたりしたものが多いといいます。

場所は下の地図にあるように「下大津小学校」の通りの反対側の一角にちょこんと置かれていました。
昨日紹介した南円寺のすぐ近くです。
通りかかった時に気になったので写真を撮りあとで調べて内容を知ったのです。
私の年代でもあまり知らないのだから若い人は見たことも聞いたこともないのではないだろうか。

調べると茨城県では同じようなものが真壁駅の近くに保存されているそうです。
これも、このまま朽ちらせてしまうのは惜しい気がする。

天皇崇拝信仰的なことが、戦後教育から全て削除されれたとしても、昔の確かに存在したという記憶をとどめる貴重な資産だと考えます。
戦後の教育が日本国民と言うアイデンティティを否定するものならそれは間違った教育でしょう。
戦時中の軍国主義的な教育などたしかに嫌いです。でも日本人でないような教育も嫌いです。

でもなかなか凝ったつくりですね。
この中に入れた写真や教育勅語などが湿気てカビが生えて処罰を受けたりしとも言われます。

この地区は戦国時代までは小田氏の領域だとすると、土浦やつくばなどとつながりが深そうです。

すぐ裏手の広場にはかなり古い古木が数本ありました。
このような古木が残されているのを見ると、そこに暮らしていた人々の思いを考えてしまいます。
さて、この下大津尋常高等小学校は明治36年の創立と書かれていました。全校生徒93人だそうです。


出島散歩(9)(椎名家住宅)
先日紹介した南円寺から更に少し進んだ出島の湖に出る途中の街道沿いに「椎名家住宅」という看板が出ていた。
その看板から細い横道を入って見ると、かなり立派な昔の住宅が残されていた。
こんなところにと不思議な気がしたが、どうやらこの民家はすごいものだった。
東日本で記録のわかっているうちで「もっとも古い民家」だという。
国の重要文化財なのだ。
こんな場所にと不思議な気がしたが、やはりこのあたりは古くからの何かがありそうだ。

この椎名家住宅が建築されたのは1674年だという。徳川4代将軍家綱の時代である。
もっとも昭和後半に解体修理したそうだが、昔を復元しているという。

詳細は読んでいただければわかりますね。(現地の説明看板です)

金・土・日のみの見学と書かれていたが、訪れたのは木曜日。でも行ってみると戸は開けられ、一応は暗いが中は見れた。
土間にはかまどと農機具などが置かれていました。

当時の者が置かれているのだろうが、あまり置かれているものは少ない。

今から340年くらい前の民家として考えると、この椎名家はこの辺りではかなりの豪農であったのだと思う。
藁葺屋根の造りなど興味深いものがあります。

住宅への入口です。大きな古木(榎)が入口に残っています。
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その看板から細い横道を入って見ると、かなり立派な昔の住宅が残されていた。
こんなところにと不思議な気がしたが、どうやらこの民家はすごいものだった。
東日本で記録のわかっているうちで「もっとも古い民家」だという。
国の重要文化財なのだ。
こんな場所にと不思議な気がしたが、やはりこのあたりは古くからの何かがありそうだ。

この椎名家住宅が建築されたのは1674年だという。徳川4代将軍家綱の時代である。
もっとも昭和後半に解体修理したそうだが、昔を復元しているという。

詳細は読んでいただければわかりますね。(現地の説明看板です)

金・土・日のみの見学と書かれていたが、訪れたのは木曜日。でも行ってみると戸は開けられ、一応は暗いが中は見れた。
土間にはかまどと農機具などが置かれていました。

当時の者が置かれているのだろうが、あまり置かれているものは少ない。

今から340年くらい前の民家として考えると、この椎名家はこの辺りではかなりの豪農であったのだと思う。
藁葺屋根の造りなど興味深いものがあります。

住宅への入口です。大きな古木(榎)が入口に残っています。


出島散歩(10)(崎浜横穴古墳)
先日この出島地区の記事を書くのに調べていたら、このあたりとしては変わった古墳が載っていた。
これは霞ケ浦沿いを走る県道118号沿いの崎浜にあった。
この辺りも何度か車で通ったことがあったが見落としていたようだ。
「崎浜横穴古墳」という。早速見に行ってきました。
一般的な土を盛った古墳は霞ケ浦沿いにも多くあるが、このように壁面に横穴を掘って安置するのはあまり聞かない。
少し北へ行けばひたちなか市の「十五郎穴古墳群」があり、茨城でも南部はほとんど見つかっていないという。
十五郎穴古墳は横穴は100個以上あるらしいが(史跡指定は34基)、ここの横穴は16基が確認されているという。
昔、埼玉県の「吉見百穴」を見学したことがあり、横穴古墳も知っていたが、こんなところにもあったことは知らなかった。

街道沿いに穴が並んでいます。ここが他の場所の横穴古墳群と違っているのは、この壁面は貝塚で、貝がびっしり積み重なっています。




この穴は左右と奥が高くなっています。
恐らく家族の遺体を安置したものと思いますが、この左右の高い部分にお棺を安置し、奥の高いところには副葬品が置かれたようです。

こちらは左右に棺が置かれ、奥の高台はありません。
この穴の大きさは人がかがんで中に入れるくらいあります。

この穴は棺は左側に1個のみとなります。


このようにまわりには貝殻がびっしり積み重なっています。正の貝塚に横穴を掘ったようです。

場所は霞ケ浦につきだしている崎浜地区で、梅の木の向こう側の小山の壁面です。

この場所から湖側を眺めるとご覧の通り蓮田池(レンコン水田)です。
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これは霞ケ浦沿いを走る県道118号沿いの崎浜にあった。
この辺りも何度か車で通ったことがあったが見落としていたようだ。
「崎浜横穴古墳」という。早速見に行ってきました。
一般的な土を盛った古墳は霞ケ浦沿いにも多くあるが、このように壁面に横穴を掘って安置するのはあまり聞かない。
少し北へ行けばひたちなか市の「十五郎穴古墳群」があり、茨城でも南部はほとんど見つかっていないという。
十五郎穴古墳は横穴は100個以上あるらしいが(史跡指定は34基)、ここの横穴は16基が確認されているという。
昔、埼玉県の「吉見百穴」を見学したことがあり、横穴古墳も知っていたが、こんなところにもあったことは知らなかった。

街道沿いに穴が並んでいます。ここが他の場所の横穴古墳群と違っているのは、この壁面は貝塚で、貝がびっしり積み重なっています。




この穴は左右と奥が高くなっています。
恐らく家族の遺体を安置したものと思いますが、この左右の高い部分にお棺を安置し、奥の高いところには副葬品が置かれたようです。

こちらは左右に棺が置かれ、奥の高台はありません。
この穴の大きさは人がかがんで中に入れるくらいあります。

この穴は棺は左側に1個のみとなります。


このようにまわりには貝殻がびっしり積み重なっています。正の貝塚に横穴を掘ったようです。

場所は霞ケ浦につきだしている崎浜地区で、梅の木の向こう側の小山の壁面です。

この場所から湖側を眺めるとご覧の通り蓮田池(レンコン水田)です。


出島散歩(11)(宍倉城本丸跡)
霞ケ浦大橋の手前から石岡三村の方に向かう街道(県道118号)があります。
あまり何もないところなのですが、ここに「宍倉城本丸跡」があります。
この城は永享年間(1429年~1440年)に野口遠江守が筑城し、その後小田氏の有力家臣である菅谷氏の城となっていました。
その後小田氏が佐竹氏に追い込まれていく中でどうやら佐竹氏側についたようです。
しかし、佐竹氏が秋田(出羽)に移ると(1602年)、それに伴って秋田にいったようです。
そしてこの城は廃城となりました。

県道の入口に矢印看板がありました。 近くにはミカンの木が。入口道路は車1台が入れるくらいの広さです。
手前で停めて、歩いていってみました。

そこは広い畑が一面に広がる台地です。
訪れた時はもう夕方で日が沈みかけています。

このように一面畑が広がります。周りに梅の木が数本あります。
本丸の大きさからするとかなり大きな城だったようです。
またこの城の周りには家臣の住宅などを配し、大きな城郭を形成していたようです。

この台地の一角に「城之内稲荷神社」が置かれています。



土塁などはよくわかりませんが、この台地を囲むように堀が彫られていた形跡が残されています。

稲荷神社の狐さんです。

神社から本丸跡を眺めてみました。この狐さんもどうやらそちらを見ているようです。
地理的に見て三村城で北の敵へ攻めるために城を出たすきをついて、攻めてきたのはこの菅谷氏あたりが小田側の主力だったのかもしれません。
石岡側から見ているだけではまわりの情勢が見えません。こういうところも見ておくことも必要です。
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あまり何もないところなのですが、ここに「宍倉城本丸跡」があります。
この城は永享年間(1429年~1440年)に野口遠江守が筑城し、その後小田氏の有力家臣である菅谷氏の城となっていました。
その後小田氏が佐竹氏に追い込まれていく中でどうやら佐竹氏側についたようです。
しかし、佐竹氏が秋田(出羽)に移ると(1602年)、それに伴って秋田にいったようです。
そしてこの城は廃城となりました。

県道の入口に矢印看板がありました。 近くにはミカンの木が。入口道路は車1台が入れるくらいの広さです。
手前で停めて、歩いていってみました。

そこは広い畑が一面に広がる台地です。
訪れた時はもう夕方で日が沈みかけています。

このように一面畑が広がります。周りに梅の木が数本あります。
本丸の大きさからするとかなり大きな城だったようです。
またこの城の周りには家臣の住宅などを配し、大きな城郭を形成していたようです。

この台地の一角に「城之内稲荷神社」が置かれています。



土塁などはよくわかりませんが、この台地を囲むように堀が彫られていた形跡が残されています。


稲荷神社の狐さんです。

神社から本丸跡を眺めてみました。この狐さんもどうやらそちらを見ているようです。
地理的に見て三村城で北の敵へ攻めるために城を出たすきをついて、攻めてきたのはこの菅谷氏あたりが小田側の主力だったのかもしれません。
石岡側から見ているだけではまわりの情勢が見えません。こういうところも見ておくことも必要です。


出島散歩(12)戸崎城跡
前に書いた釈迦像のあった南円寺や奉安殿の残っていた下大津小からほど遠くないところに、戦国時代まであったという戸崎城の本丸跡があるというので行ってきた。
霞ケ浦湖岸側の県道118号線の戸崎から北へ登るようにも入れるが、197号線側にも案内板があったのでこちらから行った。
県道から入ったところにかなり古い「香取神社」(かすみがうら市加茂4834)があったので、まずこちらを紹介しましょう。

県道から入ってすぐ道は神社をまくように左右に分かれて向こう側で一緒になる。
この神社一角はかなり大きな古木が数本ある。
どうやら戸崎城の家臣の館などが近くにあったようだ。

神社はあまり特徴もないが裏に本殿がある。

神社の鳥居の脇には大きな椿の木があり、この神社に彩りを添えていた。神社参道わきにはこぶの多い数百年の欅の大木が数本天に向かって枝を伸ばしていた。

左手の畑の向こうに、山の白梅が一面を飾っていた。
ここから戸崎城本丸跡まで、両脇にハス田が続く間の道を進む。突き当り正面に池があるところを右に行くと城の守り寺「松学寺」があるが、本丸跡には左側をぐるりと回り込むように道がある。
この城についても、昨日書いた宍倉城と同じような経緯をたどっている。
かなり大きな山城で、まわりをハス田に囲まれたような小高い丘の上に本丸跡があった。

写真の上の台地が本丸のあった場所。

この城も宍倉城と同じように小田氏の家臣の戸崎氏の居城でしたが、佐竹氏の軍門に下り、佐竹氏家臣が管理するところとなり、佐竹氏の秋田への転封により廃城となったようです。

台地の上は畑と草が生い茂った地となっていました。

本丸の入口から西に下りる道が続いています。
こちら側には二の丸があったようです。

本丸の台地の北側は崖になっていてその下にはハス田が広がっていました。
NHKのドラマ「利家とマツ」の撮影の一部にこの近くで撮影が行なわれたそうです。
それにしても、NHKは本当によく道もわからないような場所を使うものですね。
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霞ケ浦湖岸側の県道118号線の戸崎から北へ登るようにも入れるが、197号線側にも案内板があったのでこちらから行った。
県道から入ったところにかなり古い「香取神社」(かすみがうら市加茂4834)があったので、まずこちらを紹介しましょう。

県道から入ってすぐ道は神社をまくように左右に分かれて向こう側で一緒になる。
この神社一角はかなり大きな古木が数本ある。
どうやら戸崎城の家臣の館などが近くにあったようだ。

神社はあまり特徴もないが裏に本殿がある。

神社の鳥居の脇には大きな椿の木があり、この神社に彩りを添えていた。神社参道わきにはこぶの多い数百年の欅の大木が数本天に向かって枝を伸ばしていた。

左手の畑の向こうに、山の白梅が一面を飾っていた。
ここから戸崎城本丸跡まで、両脇にハス田が続く間の道を進む。突き当り正面に池があるところを右に行くと城の守り寺「松学寺」があるが、本丸跡には左側をぐるりと回り込むように道がある。
この城についても、昨日書いた宍倉城と同じような経緯をたどっている。
かなり大きな山城で、まわりをハス田に囲まれたような小高い丘の上に本丸跡があった。

写真の上の台地が本丸のあった場所。

この城も宍倉城と同じように小田氏の家臣の戸崎氏の居城でしたが、佐竹氏の軍門に下り、佐竹氏家臣が管理するところとなり、佐竹氏の秋田への転封により廃城となったようです。

台地の上は畑と草が生い茂った地となっていました。

本丸の入口から西に下りる道が続いています。
こちら側には二の丸があったようです。

本丸の台地の北側は崖になっていてその下にはハス田が広がっていました。
NHKのドラマ「利家とマツ」の撮影の一部にこの近くで撮影が行なわれたそうです。
それにしても、NHKは本当によく道もわからないような場所を使うものですね。


出島散歩(13)(ガガイモ)
<観光情報>
1)水戸偕楽園ただいま8分咲き。梅祭りを再延長して4月8日までおこなう。
4月からは桜まつりも始まるので両方楽しめるそうです。
2)茨城空港を利用して茨城県内に1泊以上する人はレンタカー1日1000円。
ただし、2名以上で宿泊。1人だけなら2000円だそうです。
3)石岡観光用小型バス4月-6月の土日休日のみ運行。1日券乗り放題1000円。
このバスの愛称とロゴを募集していて、「石岡くるりん」に決まったそうな。
まあ笑っちゃいけないけど頑張ってもらわなくちゃ。
さて、今日の記事は・・・。
昨日紹介した戸崎城本丸跡で面白いものを見つけた。

城跡は畑が広がり、その周りには枯れ草が残っていた。
その枯れ草の中に写真のような実があった。
どうやらガガイモの実だと思う。
半分に割れ、中の綿毛のついた種はすでにどこかに飛んでいってしまったようだ。
残ったのはこんな空の殻。
日本神話ではスクナヒコナはこんな船にのって日本(出雲)にわたってきた。
そして、日本に薬の知識を教え、温泉も掘り当て、温泉が体に良いことを教えた。
この小人「スクナヒコナ」は薬の神様でもあり、温泉の神様でもある。
スクナヒコナ(少彦名)が乗っていた船が天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)なのだが、これがガガイモの実だというのだ。
ガガイモの実は秋に実が割れて冬には綿毛のような羽根がついた種がたくさん風に飛んで散らばっていく。
今の時期はもう種はみんな飛んでいって殻だけが残る。
この殻はちょうど水に浮かべれば船のように浮かぶだろう。
出雲に渡ってきたスクナヒコナは日本語が喋れなかった。
物知りの「山田のかかし」が素性を勝手に知らせただけだ。
本当の素性は?
日本の国造りで大国主命(おおくにぬしのみこと)の手助けをして、ほぼ統一を成し遂げると、粟の茎に登ってその茎の弾力ではじかれて常世の国に飛んでいった。
この粟の場所が現在の和歌山県加太の淡嶋神社とされる。
飛んでいった先は常世の国だからきっとこの茨城だろう。
茨城でスクナヒコを祀る有名な神社は酒列磯前神社と大洗磯前神社である。
こんな蔦のような草の実がなぜ神話に載ってくるのだろうか?
この常陸の国は縄文時代には1万年以上にわたり平和に暮らしてきた縄文人がいた。
塩も鉄も採れた。
先日国会中継でたちあがれ日本の某女性議員がこの国は2600年以上前より天皇の国だと、話をしていた。
しかし紀元前にはまだ日本に国家はなかった。
少なくとも、この常陸には縄文人が木の実や貝を食べ、魚をとり、獣を追いかけて暮らしていた。
食べ物も豊富で、まさに常世の国だった。
塩もたくさん採れた。製塩技術もあった。
日本国を牛耳った藤原氏はこの常陸国の鹿島の出身とも言われている。
こんなことが、この戦国時代に小田氏-佐竹氏の勢力争いで滅んだ戸塚城の何にもない昔の城跡と言われる野原に残されたガガイモの実から、走馬灯のように想いが駆け巡ってきます。
この地ももうすぐ春の息吹が感じられるでしょう。
この台地の下は蓮田が広がっています。レンコンの収穫は水の冷たい冬です。
明日は霞ヶ浦周辺に広がるレンコン畑を見てみましょう。
今日の夕方つくば山が綺麗に赤く染まった。

いつも思うが、石岡の恋瀬川から見た筑波山は姿がいい。

最後までお読みいただきありがとうございました。
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1)水戸偕楽園ただいま8分咲き。梅祭りを再延長して4月8日までおこなう。
4月からは桜まつりも始まるので両方楽しめるそうです。
2)茨城空港を利用して茨城県内に1泊以上する人はレンタカー1日1000円。
ただし、2名以上で宿泊。1人だけなら2000円だそうです。
3)石岡観光用小型バス4月-6月の土日休日のみ運行。1日券乗り放題1000円。
このバスの愛称とロゴを募集していて、「石岡くるりん」に決まったそうな。
まあ笑っちゃいけないけど頑張ってもらわなくちゃ。
さて、今日の記事は・・・。
昨日紹介した戸崎城本丸跡で面白いものを見つけた。

城跡は畑が広がり、その周りには枯れ草が残っていた。
その枯れ草の中に写真のような実があった。
どうやらガガイモの実だと思う。
半分に割れ、中の綿毛のついた種はすでにどこかに飛んでいってしまったようだ。
残ったのはこんな空の殻。
日本神話ではスクナヒコナはこんな船にのって日本(出雲)にわたってきた。
そして、日本に薬の知識を教え、温泉も掘り当て、温泉が体に良いことを教えた。
この小人「スクナヒコナ」は薬の神様でもあり、温泉の神様でもある。
スクナヒコナ(少彦名)が乗っていた船が天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)なのだが、これがガガイモの実だというのだ。
ガガイモの実は秋に実が割れて冬には綿毛のような羽根がついた種がたくさん風に飛んで散らばっていく。
今の時期はもう種はみんな飛んでいって殻だけが残る。
この殻はちょうど水に浮かべれば船のように浮かぶだろう。
出雲に渡ってきたスクナヒコナは日本語が喋れなかった。
物知りの「山田のかかし」が素性を勝手に知らせただけだ。
本当の素性は?
日本の国造りで大国主命(おおくにぬしのみこと)の手助けをして、ほぼ統一を成し遂げると、粟の茎に登ってその茎の弾力ではじかれて常世の国に飛んでいった。
この粟の場所が現在の和歌山県加太の淡嶋神社とされる。
飛んでいった先は常世の国だからきっとこの茨城だろう。
茨城でスクナヒコを祀る有名な神社は酒列磯前神社と大洗磯前神社である。
こんな蔦のような草の実がなぜ神話に載ってくるのだろうか?
この常陸の国は縄文時代には1万年以上にわたり平和に暮らしてきた縄文人がいた。
塩も鉄も採れた。
先日国会中継でたちあがれ日本の某女性議員がこの国は2600年以上前より天皇の国だと、話をしていた。
しかし紀元前にはまだ日本に国家はなかった。
少なくとも、この常陸には縄文人が木の実や貝を食べ、魚をとり、獣を追いかけて暮らしていた。
食べ物も豊富で、まさに常世の国だった。
塩もたくさん採れた。製塩技術もあった。
日本国を牛耳った藤原氏はこの常陸国の鹿島の出身とも言われている。
こんなことが、この戦国時代に小田氏-佐竹氏の勢力争いで滅んだ戸塚城の何にもない昔の城跡と言われる野原に残されたガガイモの実から、走馬灯のように想いが駆け巡ってきます。
この地ももうすぐ春の息吹が感じられるでしょう。
この台地の下は蓮田が広がっています。レンコンの収穫は水の冷たい冬です。
明日は霞ヶ浦周辺に広がるレンコン畑を見てみましょう。
今日の夕方つくば山が綺麗に赤く染まった。

いつも思うが、石岡の恋瀬川から見た筑波山は姿がいい。

最後までお読みいただきありがとうございました。


出島散歩(14)レンコン田


土浦から霞ヶ浦沿岸にかけてレンコンの生産高は日本一だ。
土浦駅の霞ヶ浦側はレンコンの田んぼが一面に広がっている。
レンコンの収穫は秋から冬で、寒い時に泥だらけの田んぼの中に腰まで使って掘り出す。

出島地区も湖沿いにはレンコンの田んぼが続く。
この場所は、昨日の戸崎城から湖側に下りたところあたりだ。
先日紹介した「崎浜横穴古墳」のあったすぐ近くで写真を撮った。
向こう側に霞ヶ浦と対岸の陸地(阿見・美浦村方面)がうっすらと見える。
ご夫婦で採ったレンコンを水流ジェットで洗っています。

レンコンを採るのには、胸まで水に浸かって水圧で底の泥を除きながらレンコンを掘り当てます。
この作業のピークは年末ですね。正月のレンコンが一番忙しい時期です。
収穫したレンコンはこの赤い田舟にのせます。

この時期はもうほとんど作業する人は少なくなっているようです。寒い時の仕事なので大変です。
レンコン堀りはだいたい9月頃から翌年の4月頃までですが、それ以降でも東京等の料亭向けに出荷しているんです。
それが、このハウスで栽培しているものだと思います。
夏場のものは種類が違うのかもしれません。普通のレンコンよりだいぶほっそりしています。
日本一の生産量といっても、A品等級のものの多くが東京方面に出荷されているようです。


出島散歩(15)ナギの木
今日は夜中からかなり風が強く寝ていても怖いくらいでした。
案の定、常磐線は運転見合わせが続き、大変です。
娘の出発も昨日でよかった。娘からは無事着いたとメールが入っていたので一安心です。
こんなに風が強いと車でも飛ばされそうで怖い。
気温は暖かいのでどこもいかずに家でのんびり過ごしました。
さて、出島散歩も続いていますが、もう数回続きます。
まあこれも記事を残しておくことが、自己満足ですので興味のある方はお付き合いしてください。
出島の歩崎(あゆみさき)から霞ケ浦大橋の方に向かって湖岸に近い道を進むと大きな木が見え、そこに何やら立て看板が見えた。
何か分からなくてもまずは確認に、車を止めていって見た。

ナギの木の古木で樹齢約300年程の木だそうだ。

なぜ、神社や寺でもないところにナギの大木があるのだろうか。しかしこの大木があるのは大きな御屋敷の敷地で門なども古くからありそうな感じだった。
ナギの木も前に行方市麻生の常安寺にあったことを思い出した。(こちら)
やはり神社などをまわるとそこそこ知識が増えてくる。
この木は熊野神社の御神木で、熊野信仰に関連したところに植えられているという。

こちらはかすみがうら市の指定文化財だそうだ。
看板の下の説明が切れてしまっているので、下記に内容を書いておきます。
「マキ科に属する雌雄異株の常緑高木で、日本では近畿以西の暖地に自生しています。葉脈が強く切れにくいところから、「弁慶泣かせ」「力柴」とも言われ、神社仏閣や庭園にも植えられています。開花は5~6月、実は1~1.5cmの球形で、10~11月に熟し油が採れます。樹齢は300年位と推定され、県内屈指の大きさです。 かすみがうら市教育委員会」
まあ、こちらの考えすぎでしょうか。でも「弁慶泣かせ」なんてことも覚えられましたよ。
そうそう、熊野神社の御神木のナギの木は樹齢1000年程だといいますのですごいですね。
またナギの漢字も「梛」と書かれています。春日大社の天然記念物にもこのナギの林があるそうです。
こちらの漢字は「雌木」と書かれていますが、これは雌雄異株のため、「めぎ(女木)」のことです。
ナギの謂れは、「凪(なぎ)」からきているそうで、海の守り樹として植えられたのではないでしょうか。
(霞ケ浦も昔は湖ではなく海でしたよ)
さて、私は詳しくないのですが、女性が鏡の裏にナギの葉を入れるというむかしからの習わしがあるそうです。
調べると、これは「男女間に波風がたたない、あるいはナギの葉が切れにくいため、縁が切れず、会いたい人の姿が鏡面に浮かぶ」という言い伝えだそうです。
ナギの木一つとっても結構勉強になることがあるのだと我ながら感心してしまいました。(大笑)
こんな風の強い日に「なぎ=凪」に関係する「ナギの木」の話も覚えやすそうでいいですね。
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案の定、常磐線は運転見合わせが続き、大変です。
娘の出発も昨日でよかった。娘からは無事着いたとメールが入っていたので一安心です。
こんなに風が強いと車でも飛ばされそうで怖い。
気温は暖かいのでどこもいかずに家でのんびり過ごしました。
さて、出島散歩も続いていますが、もう数回続きます。
まあこれも記事を残しておくことが、自己満足ですので興味のある方はお付き合いしてください。
出島の歩崎(あゆみさき)から霞ケ浦大橋の方に向かって湖岸に近い道を進むと大きな木が見え、そこに何やら立て看板が見えた。
何か分からなくてもまずは確認に、車を止めていって見た。

ナギの木の古木で樹齢約300年程の木だそうだ。

なぜ、神社や寺でもないところにナギの大木があるのだろうか。しかしこの大木があるのは大きな御屋敷の敷地で門なども古くからありそうな感じだった。
ナギの木も前に行方市麻生の常安寺にあったことを思い出した。(こちら)
やはり神社などをまわるとそこそこ知識が増えてくる。
この木は熊野神社の御神木で、熊野信仰に関連したところに植えられているという。

こちらはかすみがうら市の指定文化財だそうだ。
看板の下の説明が切れてしまっているので、下記に内容を書いておきます。
「マキ科に属する雌雄異株の常緑高木で、日本では近畿以西の暖地に自生しています。葉脈が強く切れにくいところから、「弁慶泣かせ」「力柴」とも言われ、神社仏閣や庭園にも植えられています。開花は5~6月、実は1~1.5cmの球形で、10~11月に熟し油が採れます。樹齢は300年位と推定され、県内屈指の大きさです。 かすみがうら市教育委員会」
まあ、こちらの考えすぎでしょうか。でも「弁慶泣かせ」なんてことも覚えられましたよ。
そうそう、熊野神社の御神木のナギの木は樹齢1000年程だといいますのですごいですね。
またナギの漢字も「梛」と書かれています。春日大社の天然記念物にもこのナギの林があるそうです。
こちらの漢字は「雌木」と書かれていますが、これは雌雄異株のため、「めぎ(女木)」のことです。
ナギの謂れは、「凪(なぎ)」からきているそうで、海の守り樹として植えられたのではないでしょうか。
(霞ケ浦も昔は湖ではなく海でしたよ)
さて、私は詳しくないのですが、女性が鏡の裏にナギの葉を入れるというむかしからの習わしがあるそうです。
調べると、これは「男女間に波風がたたない、あるいはナギの葉が切れにくいため、縁が切れず、会いたい人の姿が鏡面に浮かぶ」という言い伝えだそうです。
ナギの木一つとっても結構勉強になることがあるのだと我ながら感心してしまいました。(大笑)
こんな風の強い日に「なぎ=凪」に関係する「ナギの木」の話も覚えやすそうでいいですね。


出島散歩(16)(牛渡鹿島神社)
かすみがうら市の一部で霞ケ浦に出っ張った半島のような旧出島村地区。
今まで近くにいてもあまり見る物は少なくどのようなところかが理解できないでいた。
石岡が昔の常陸国の国府があって、古道である律令制の始まった頃の東海道がこの出島地区を通っていたとするとどのようなルートだったのか。今ではまったく想像できない。
まあ、そんなことを考える人もほとんどいないようで、明治に出来た鉄道が人々の生活も、物流・情報の流れも大きく変えてしまったようだ。
しかし、逆にあちこちを見て歩くと逆に今も変わらない昔の姿を想像することも出来そうなノンビリとした場所でもあった。
今回紹介する牛渡(うしわた)地区は、前から何度か紹介してきたが4~5世紀頃から、まだ中央政権の力が及んでいないその後の常陸国(中央から見れば蝦夷などの人々が多く暮らしていた地区の入口)に入るのにこの地に対岸の美浦村牛込地区から舟で渡ってきたのだろうと考えています。
今日紹介するこの牛渡鹿島神社はとても変わった祭りが残されているので有名です。
あまり詳しくネットでは書けないのですが、江戸時代から続いているという「へいさんぼう」というお祭りです。(毎年5月5日)
まあ、興味のある方はネットで調べられたら良いと思いますが、この「へいさんぼう」という名前も漢字では「平三坊」と書き、何か意味があると思いましたが、地元などの説明では「平さん(お百姓さんの名前)女房」がいつの間にか「へいさんぼう」となったといいます。
田植えの時期に米の豊作を願ってお腹に子を孕むとを掛けて願った祭りだそうです。
このようなお祭りも人前でやることが段々と厳しくなっていって止めてしまったところが多いそうです。
しかし、おおらかに行なうことの方がよほど健全だという気がします。
映画「米」の中でも冒頭にこの祭りの様子が紹介されていますが、昔は結構あちこちに似たようなお祭りはあったのではないかと思っています。

鹿島神社の鳥居。
割合と参道などは広々ときれいにしてあった。
また参道はこの鳥居より手前も伸びていたが、昔はそちらからが正式な入口と思うも、道が入り組んでいて入りづらい。

拝殿。
この鹿島神社はこの出島地区にも多くの鹿島神社がありますが、「本鹿島」と言われており、大同年間(806~810年)に創建されたと言われています。
常陸国府(石岡)に着任した勅使は常陸一宮である鹿島神宮に参拝するために高浜から舟に乗り参拝に行きました。この時にこの鹿島神社に休憩のために立ち寄ったとも言われています。
私はどちらかと言うと、この時(鹿島神宮参拝)に立ち寄ったのではなく、国府に着任・離任の時に立ち寄ったことがあるのではないかと考えています。
少し沖に船を停めて、小舟でここに上陸しお参りしたとも言われます。その際に停まっていた船に残された牛が勅使を追いかけて湖に入り、岸をめざし泳いだが力つきたとの話は嘘か本当かはわかりませんが、話には尾ひれがついて似たような事件がこの話になっていったとも考えられます。
ただ、このような話は嘘でも本当でも伝えていくことは大切だと思っています。
伝えていくべきは話の内容ではなくて、その話が生まれた背景が伝わっていくからです。
その牛を葬ったのが前に紹介した牛塚古墳です。(こちら)

こちらが本殿です。
この神社はやはり戦国時代は小田氏の管轄で、佐竹氏に滅ぼされた時に神社も滅亡し、後に再建された者だと思います。
古くは平将門の国府攻略時に焼かれたのかもしれません。そのような話も伝わっているようです。
また、源義家(八幡太郎)の奥州征伐時に立ち寄ったとの記述も見かけたが・・・・。

この鳥居はかなり重厚で、この左側にはおおきなタブノキの古木が聳えていた。

手前が田圃(今はまだこのようなきれいな花が咲いていた。田圃にレンゲの花は良く見るのだが・・・)
写真奥のこんもりとした茂みのあるところが鹿島神社で、手前に案内板はなかった。
この鹿島神社の場所は意外にわかりにくい。
この辺だと適当に検討をつけていき、何度がまわりをウロウロしてあきらめたことが数回ある。
これも他のところを見るついでに立ち寄ろうとしたので、カーナビは必要かな。
しかし、ウロウロしていると別な発見もある。

これは湖沿いを走る県道118号線からの神社入り口方面に入るところに置かれていた地蔵像です。

こちらは神社を少し通りこして行った先の道路わきに置かれていた石仏群です。
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今まで近くにいてもあまり見る物は少なくどのようなところかが理解できないでいた。
石岡が昔の常陸国の国府があって、古道である律令制の始まった頃の東海道がこの出島地区を通っていたとするとどのようなルートだったのか。今ではまったく想像できない。
まあ、そんなことを考える人もほとんどいないようで、明治に出来た鉄道が人々の生活も、物流・情報の流れも大きく変えてしまったようだ。
しかし、逆にあちこちを見て歩くと逆に今も変わらない昔の姿を想像することも出来そうなノンビリとした場所でもあった。
今回紹介する牛渡(うしわた)地区は、前から何度か紹介してきたが4~5世紀頃から、まだ中央政権の力が及んでいないその後の常陸国(中央から見れば蝦夷などの人々が多く暮らしていた地区の入口)に入るのにこの地に対岸の美浦村牛込地区から舟で渡ってきたのだろうと考えています。
今日紹介するこの牛渡鹿島神社はとても変わった祭りが残されているので有名です。
あまり詳しくネットでは書けないのですが、江戸時代から続いているという「へいさんぼう」というお祭りです。(毎年5月5日)
まあ、興味のある方はネットで調べられたら良いと思いますが、この「へいさんぼう」という名前も漢字では「平三坊」と書き、何か意味があると思いましたが、地元などの説明では「平さん(お百姓さんの名前)女房」がいつの間にか「へいさんぼう」となったといいます。
田植えの時期に米の豊作を願ってお腹に子を孕むとを掛けて願った祭りだそうです。
このようなお祭りも人前でやることが段々と厳しくなっていって止めてしまったところが多いそうです。
しかし、おおらかに行なうことの方がよほど健全だという気がします。
映画「米」の中でも冒頭にこの祭りの様子が紹介されていますが、昔は結構あちこちに似たようなお祭りはあったのではないかと思っています。

鹿島神社の鳥居。
割合と参道などは広々ときれいにしてあった。
また参道はこの鳥居より手前も伸びていたが、昔はそちらからが正式な入口と思うも、道が入り組んでいて入りづらい。

拝殿。
この鹿島神社はこの出島地区にも多くの鹿島神社がありますが、「本鹿島」と言われており、大同年間(806~810年)に創建されたと言われています。
常陸国府(石岡)に着任した勅使は常陸一宮である鹿島神宮に参拝するために高浜から舟に乗り参拝に行きました。この時にこの鹿島神社に休憩のために立ち寄ったとも言われています。
私はどちらかと言うと、この時(鹿島神宮参拝)に立ち寄ったのではなく、国府に着任・離任の時に立ち寄ったことがあるのではないかと考えています。
少し沖に船を停めて、小舟でここに上陸しお参りしたとも言われます。その際に停まっていた船に残された牛が勅使を追いかけて湖に入り、岸をめざし泳いだが力つきたとの話は嘘か本当かはわかりませんが、話には尾ひれがついて似たような事件がこの話になっていったとも考えられます。
ただ、このような話は嘘でも本当でも伝えていくことは大切だと思っています。
伝えていくべきは話の内容ではなくて、その話が生まれた背景が伝わっていくからです。
その牛を葬ったのが前に紹介した牛塚古墳です。(こちら)

こちらが本殿です。
この神社はやはり戦国時代は小田氏の管轄で、佐竹氏に滅ぼされた時に神社も滅亡し、後に再建された者だと思います。
古くは平将門の国府攻略時に焼かれたのかもしれません。そのような話も伝わっているようです。
また、源義家(八幡太郎)の奥州征伐時に立ち寄ったとの記述も見かけたが・・・・。

この鳥居はかなり重厚で、この左側にはおおきなタブノキの古木が聳えていた。

手前が田圃(今はまだこのようなきれいな花が咲いていた。田圃にレンゲの花は良く見るのだが・・・)
写真奥のこんもりとした茂みのあるところが鹿島神社で、手前に案内板はなかった。
この鹿島神社の場所は意外にわかりにくい。
この辺だと適当に検討をつけていき、何度がまわりをウロウロしてあきらめたことが数回ある。
これも他のところを見るついでに立ち寄ろうとしたので、カーナビは必要かな。
しかし、ウロウロしていると別な発見もある。

これは湖沿いを走る県道118号線からの神社入り口方面に入るところに置かれていた地蔵像です。

こちらは神社を少し通りこして行った先の道路わきに置かれていた石仏群です。


出島散歩(17)坂本九と霞ヶ浦
このブログも一昨年8月から1年半をすぎ、ここまで休み無く記事をUPしてきました。
すでに782件の記事を書いたことになります。
大概は休みの日などに調べて書き溜めたりしていたのですが、書きたいことはたくさんまだあるのですが、時間的な余裕がなくなってきています。
”石の上にも三年”、”継続は力なり”などと考えながら続けていますが、まあ大分きつくなってきました。
実はこの土日は今までの記事をまとめて冊子にしておこうとしたのです。これもまとまったら記事にUPしますが、かなりのボリュームになりました。
今年初めまでの分だけで、200ページで4冊位になってしまいました。
ブログをプリントされたもので見るのもいいですね。
また違ったものになるし、今までのことがよくわかります。
今日は記事を書き溜めていないので、タイトルに書いた「坂本九」ちゃんとこの霞ヶ浦のお話を少し紹介します。
坂本九さんは神奈川県川崎市で1941年12月10日に生まれました。本名は「大島九(ひさし)」。
名前のとおり九番目の子供でした。
父親は坂本寛。母親は「いく」でその旧姓が大島です。
九の誕生日は真珠湾攻撃の2日後で、太平洋戦争に突入した時に生まれたのです。
そして、戦争が激しくなり、母親と茨城県笠間に疎開します。(前に書いた「九ちゃんの家」参照)
この笠間は母親の実家があった場所で、坂本九の結婚式を笠間稲荷で挙げたため、意外に知られていますが、あまり知られていない事実があるようです。
実は、笠間に行こうと上野を列車で母親と出たのは1943年10月26日です。2歳にまだならない子供でした。
この常磐線の列車が土浦駅で貨物列車と衝突し4両が脱線し、そのうちの1両が桜川に転落し死者110名、負傷者107名の大惨事が起こりました。
この時、実はこの川に転落した車両に最初は坂本親子は乗り合わせていたそうです。しかし、途中で車両を移ったために無事だったといいます。
このことも笠間稲荷信仰の元になっていたようです。
本名の大島は母親の旧姓で、両親が離婚したので坂本から大島になったそうです。
実は、この鉄道事故の話はさて置き、坂本家がここ霞ヶ浦にも深い関係があるようです。
先日田伏城の話を書きましたが、霞ヶ浦大橋の手前あたりを「田伏」といいます。
ここに坂本九の祖父が住んでいたそうです。祖父の名前は「坂本金吉」さんといいます。
実はこの方は魚の行商等をしていたようですが、秋田の八郎潟で魚がたくさん取れると知り、妻と息子(坂本九の父親)を連れて、八郎潟に移住しました。(明治30年代)
そして、霞ヶ浦でおこなわれていた帆引き船の漁法を八郎潟に教えた人だといいます。
秋田ではまたこれを改良して「うたせ舟」漁法と言われているようです。
八郎潟のこのうたせ舟は干拓が始まる頃まではたくさん湖に浮かんでおり、八郎潟の風物詩となっていたようです。
こんなつながりを知るとまた大島家の方とも茨城のつながりを感じますね。
石岡に残された「忠犬タロー」物語。九ちゃんの長女「大島花子」さんの歌が幼稚園児の声で聞こえてきます。
「ここで君をまってるよ」(Youtube)
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すでに782件の記事を書いたことになります。
大概は休みの日などに調べて書き溜めたりしていたのですが、書きたいことはたくさんまだあるのですが、時間的な余裕がなくなってきています。
”石の上にも三年”、”継続は力なり”などと考えながら続けていますが、まあ大分きつくなってきました。
実はこの土日は今までの記事をまとめて冊子にしておこうとしたのです。これもまとまったら記事にUPしますが、かなりのボリュームになりました。
今年初めまでの分だけで、200ページで4冊位になってしまいました。
ブログをプリントされたもので見るのもいいですね。
また違ったものになるし、今までのことがよくわかります。
今日は記事を書き溜めていないので、タイトルに書いた「坂本九」ちゃんとこの霞ヶ浦のお話を少し紹介します。
坂本九さんは神奈川県川崎市で1941年12月10日に生まれました。本名は「大島九(ひさし)」。
名前のとおり九番目の子供でした。
父親は坂本寛。母親は「いく」でその旧姓が大島です。
九の誕生日は真珠湾攻撃の2日後で、太平洋戦争に突入した時に生まれたのです。
そして、戦争が激しくなり、母親と茨城県笠間に疎開します。(前に書いた「九ちゃんの家」参照)
この笠間は母親の実家があった場所で、坂本九の結婚式を笠間稲荷で挙げたため、意外に知られていますが、あまり知られていない事実があるようです。
実は、笠間に行こうと上野を列車で母親と出たのは1943年10月26日です。2歳にまだならない子供でした。
この常磐線の列車が土浦駅で貨物列車と衝突し4両が脱線し、そのうちの1両が桜川に転落し死者110名、負傷者107名の大惨事が起こりました。
この時、実はこの川に転落した車両に最初は坂本親子は乗り合わせていたそうです。しかし、途中で車両を移ったために無事だったといいます。
このことも笠間稲荷信仰の元になっていたようです。
本名の大島は母親の旧姓で、両親が離婚したので坂本から大島になったそうです。
実は、この鉄道事故の話はさて置き、坂本家がここ霞ヶ浦にも深い関係があるようです。
先日田伏城の話を書きましたが、霞ヶ浦大橋の手前あたりを「田伏」といいます。
ここに坂本九の祖父が住んでいたそうです。祖父の名前は「坂本金吉」さんといいます。
実はこの方は魚の行商等をしていたようですが、秋田の八郎潟で魚がたくさん取れると知り、妻と息子(坂本九の父親)を連れて、八郎潟に移住しました。(明治30年代)
そして、霞ヶ浦でおこなわれていた帆引き船の漁法を八郎潟に教えた人だといいます。
秋田ではまたこれを改良して「うたせ舟」漁法と言われているようです。
八郎潟のこのうたせ舟は干拓が始まる頃まではたくさん湖に浮かんでおり、八郎潟の風物詩となっていたようです。
こんなつながりを知るとまた大島家の方とも茨城のつながりを感じますね。
石岡に残された「忠犬タロー」物語。九ちゃんの長女「大島花子」さんの歌が幼稚園児の声で聞こえてきます。
「ここで君をまってるよ」(Youtube)


出島散歩(18)坂地区二の宮(1)
かすみがうら市の旧出島地区を紹介しています。
今日は霞ヶ浦の名物にもなった帆引き船。
この漁法を発明したのはこの出島村二の宮の漁師「折本良平」さんです。
この二の宮とはどこなのか、行ってみました。
地図では坂という地名になっていますが、住所表記からはかすみがうら市坂と一緒になってしまったようです。県道118号線の牛渡と歩崎のちょうど中間くらいになります。
この通り沿いに「八坂神社」という神社が建っています。
比較的新しそうなのであまり目に止めていなかったのですが、その神社の隣に昔のお堂が残っていました。
これはとても面白いです。

新しい神社の横に古びた崩れたような石段が伸びています。入口には梅の花がさいています。

石段を登った先にはお堂が一つと古びた地蔵が7体。そしてその周りには見事な竹林が。

地蔵像はだいぶ昔のようです。明治ではなく江戸時代のもののように思います。
首が折れてしまったものが一体あります。

そして、そのそばには子安観音像が数体置かれています。
「子安」「女人講中」「享和二年?・・・」などの文字が彫られています。
ということは1802年にここに奉納されたようです。
その両隣の像はよく読み取れません。さらに古いのでしょう。

このような比較的小さな二人のむつまじい感じの像がたくさん置かれていました。

こちらが新しい隣に出来ている八坂神社の拝殿と本殿です。
海の方をむいて建っています。
明日はこの地区で帆引き船の漁法の発明者「折本良平」さんについて少し書きたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
今日は霞ヶ浦の名物にもなった帆引き船。
この漁法を発明したのはこの出島村二の宮の漁師「折本良平」さんです。
この二の宮とはどこなのか、行ってみました。
地図では坂という地名になっていますが、住所表記からはかすみがうら市坂と一緒になってしまったようです。県道118号線の牛渡と歩崎のちょうど中間くらいになります。
この通り沿いに「八坂神社」という神社が建っています。
比較的新しそうなのであまり目に止めていなかったのですが、その神社の隣に昔のお堂が残っていました。
これはとても面白いです。

新しい神社の横に古びた崩れたような石段が伸びています。入口には梅の花がさいています。

石段を登った先にはお堂が一つと古びた地蔵が7体。そしてその周りには見事な竹林が。

地蔵像はだいぶ昔のようです。明治ではなく江戸時代のもののように思います。
首が折れてしまったものが一体あります。

そして、そのそばには子安観音像が数体置かれています。
「子安」「女人講中」「享和二年?・・・」などの文字が彫られています。
ということは1802年にここに奉納されたようです。
その両隣の像はよく読み取れません。さらに古いのでしょう。

このような比較的小さな二人のむつまじい感じの像がたくさん置かれていました。

こちらが新しい隣に出来ている八坂神社の拝殿と本殿です。
海の方をむいて建っています。
明日はこの地区で帆引き船の漁法の発明者「折本良平」さんについて少し書きたいと思います。

