鹿島鉄道車両

 先日紹介した行方で、鹿島鉄道の車両が見られるとの情報いただきました。そこで少し調べてみました。

 鹿島鉄道は全てジーゼル車両で、この廃止が決まった時、残された車両について、Wikipediaによると、

「廃線後に保存されている車両は全部で6輌ある。「鉾田駅保存会」が購入したキハ601とKR505がのちに鉾田市に寄付されてほっとパーク鉾田で動態保存されている。「鹿島鉄道保存会」が購入したキハ714・キハ431・KR501が小美玉市の「鹿島鉄道記念館」で静態保存されている(期日指定公開であり、ふだんは非公開)。また、キハ432は小美玉市の小川南病院「はるるの郷」の利用者用施設として保存されている」

と書かれていましたので、小川南病院の車両を見に行ってきました。
病院のリハビリ用の施設として使っているようですので、一般の人は中には入れません。

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きれいに車両は化粧直しがされていますが、懐かしいと思う人は多いでしょう。
  

旧鹿島鉄道沿線 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/22 06:42

小川高校下駅(旧鹿島鉄道線)

 鹿島鉄道が廃止されて4年が経ちました。結構前だったのだな~と思いますね。
私が石岡に来た時は盛んに存続運動をやっていました。
当時はあまり分からず眺めるだけでしたが、やはり惜しいことをしたと思います。

先日行方市に行った時に並行に走っていた国道355線を通ると、あちこちにまだ名残が見られました。

 小美玉市にある県立小川高校の下車駅であった「小川高校下駅(おがわこうこうしたえき)」がまだ形をとどめていました。

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駅の外壁には存続運動の中心であった小川高校に生徒さん達のイラストなどがまだ鮮やかに残っていました。
「未来へはしれ!鹿島鉄道」
今はどこかむなしさが・・・。

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駅のホームと隣にあった自転車置き場は荒れてはいますが残っています。
駅の名前が描かれたプレートは外されていてありません。

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軌道のレールは除かれておりますが、その他はむかしのままです。そこに草が生い茂っています。
この駅は手前が常陸小川駅で700mしか離れていません。昭和61年開校の県立小川高校と小川南病院の最寄り駅として昭和63年に開設された無人の駅でした。

そして、この小川高校も新規の学生募集は行なわず、2年後に廃止が決まっています。
  

旧鹿島鉄道沿線 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/07/25 06:59

出島散歩(1)

 旧出島地区をまわりましたので、今日から数回にわたり載せていと思います。

この出島というのは、霞ケ浦の西側で石岡入り江と土浦入り江に挟まれた地区で、霞ケ浦に飛び出ている場所から出島と名付けられました。

現在は千代田町と合併して「かすみがうら市」となっています。
霞ケ浦に飛びだした地区ですので、霞ケ浦の魚の養殖やレンコン栽培が盛んなところです。

この辺りでは、春が比較的早くやってくるような気がして行ってみたくなりました。

順不同で紹介していきます。

まずは出かける前に撮った、自宅のアセビ(馬酔木、アシビ)の花です。

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(上の写真はサムネルです。クリックすると拡大します)

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実はこのアセビは我が家の玄関を出たすぐ先にあるのですが、2月末ごろから花が咲きだしていました。
この木のすぐそばに梅の木もあり、まだつぼみも小さく硬い状態ですが、このアセビはいつもと同じ頃に咲いたようです。

でも、自分の家に咲いている花がアセビと気がつかずにいたという間抜けさが、我ながら恥ずかしいですね。

他の方のブログの写真を見て、そう言えばこの木は、この葉っぱの特徴から行ってアセビに間違いないなんて気がついたわけです。花の名前も全く知らないのでもっと勉強しなくては・・・??

自分で植えたわけではないのでよくわかんなかったんです。
東京の実家にもあったのですが、もっと背が小さく葉の形の風情を楽しむような植え方をしていたので、同じものだと思わなかったんです。

それにしても、この木は奈良公園で鹿も食べないのでたくさん繁殖したといいます。
馬も酔っぱらうのですから、鹿も酔っぱらうのですかね。

さて、出島散歩の1回目は先端にある「歩崎公園」そばからです。
この場所は前に数回紹介したことがあります。
水族館 2010.11.23
中秋の名月、・キッチンが走る 2011.9.12
鯉養殖 2012.1.5

ということで紹介は止めて置いて写真のみ数点載せます。

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霞ケ浦の湖に近い道を車で走って見ると、あちこちに梅もほころんでいました。
これは先端の歩崎公園の横です。

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平日のせいか、また日暮れに近かったせいか、公園も、この突端の道路にも誰もいません。
いつもなら釣り人は結構いるのですが・・・。

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人があまりこない公園の外れ(水族館の裏手の空地)には、昔使われたと思われる木の舟が置かれていました。

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この写真はサムネルです。沖合に鯉の養殖生け簀が見えます。
手前にはたくさんの水鳥が波に揺られて楽しんでいるようです。



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出島散歩 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/03/16 19:07

出島散歩(2)(歩崎観音1)

 霞ケ浦に飛び出た陸地である旧出島村。この最端部にある場所が歩崎(あゆみさき)であり水族館や公園があるのだが、この地名の由来となったのが公園の裏手の高台に建つ「歩崎観音」である。

正式には「宝性院歩崎山長禅寺」といい、聖武天皇の時代(724-749年)に行基菩薩が彫ったと伝えられる十一面観音が祀られています。

しかし、この観音様のご開帳は33年に1度しか巡ってきません。
昭和23年、昭和56年、ときましたので次回は2014年です。今から2年後です。

<訂正と追加>

この33年に1回の開帳を今年(2012年)から年1回にするそうです。
毎年8月16日におこなわれる「あゆみ祭り」に合わせて、いつもは見られない所も開放するそうです。
読者の方より情報いただき、市の観光課に確認しました。
    (2012年7月25日)

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公園側からみると、このような崖の上に立っており、ここには霞ケ浦を一望できる展望台が作られています。

展望台からの眺めは素晴らしく、茨城百景に選定されています。
寺への上り口はこの展望台の左右に参道口が2本と、その真中に展望台に真っ直ぐに登る石段があり3本ありますが、今は真中の石段以外はあまり通る人が少なくなっているようです。

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東参道口(右側)。こちらからは比較的なだらかな石段で今でも登ることができる。
逆に西側は急であまり使われていないようだ。
公園が出来る前は、この位置まで霞ケ浦の湖岸が来ており、岸辺に下りるようなイメージだったようです。

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真中にある展望台への上り口。真っ直ぐ登るので少し急である。

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途中の階段はこんな感じです。左右の壁を切り落として階段をつけたようです。


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上に登ったところにある展望台はさえぎるものが無く、かなり広範囲に見渡せます。
東向きですから日の出は良く拝むことができそうです。
今年の元旦に訪れましたが、雲がかかって初日の出は拝めませんでした。

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右側(土浦・阿見・美浦方面)の眺めです。右下に見えるのは「かすみがうら水族館」です。

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真中(東側)の眺め。この沖合を霞ケ浦が土浦入りと高浜(石岡)入りの二つに分かれる地点で三又と言われ、風の強い日などには多くの舟が遭難した流れが速い場所です。

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左側は行方市がある方向です。現在はこの出島から大橋で結ばれています。
昔は有料な橋でしたが現在は無料です。
橋を渡った行方市には水の公園「霞ケ浦ふれあいランド」や道の駅などがあります。

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展望台の入口にはこの地で撮影された映画「米」(1957年今井正監督)の撮影記念碑が立っています。
近くのお城の形をしたかすみがうら市の郷土資料館にも映画「米」に関する資料が置かれています。

映画でえがかれているようにこの地の農魚村(半農半魚)も貧しい生活をしていたのでしょうか。

記念碑の裏には「「青い湖のほとり ここに芽ばえた米の一生とそれをめぐる人々の哀歓を描き上げたこの映画は 昨年の四月から一ヶ年にわたる 育くむもの、愛と汗の豊かな稔りでもあった」
と手書きの文面が彫られています。

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これは、その米の記念碑の隣りに立っている「折本良平頌徳碑」があります。
折本さんは、それまで地引網に頼っていた漁を明治13年に「帆引き船」漁法を考案した人です。
動力を使ったトロール漁法に切り替わる今から50年程前まで、この霞ケ浦の名物とまで言われた美しい帆を張った舟がたくさん浮かんでいたのです。
今では観光帆引き船が時々就航して観光客を楽しませています。

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歩崎観音は明日紹介します。

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出島散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/03/17 18:42

出島散歩(3)(歩崎観音2)

 昨日の歩崎観音の続きです。

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入口の山門です。左右には大きな一対の仁王像が置かれています。
この仁王様も興味深い話が伝わっています。

江戸時代に日光東照宮を建築するために多くの名匠が集められていたそうです。
その工事には30年もの年月を費やしており、この日光の仕事が終わった後に関東各地にこの名匠たちが散って行ったようです。
その中の1人がこの地で仁王像を彫って納めたといわれているようです。(記録では1534年)

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山門から奥の本堂を見たところです。山門も本堂もかなり重厚な趣を感じます。

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境内から見た正面が本堂。右側が寺の管理をしている真如苑の茨城本部です。こちらの建物は対岸にあった長泉寺より建て物を移したものだそうです。

この寺も古くからの歴史のある寺でしたが、檀家がいないため戦後には荒廃が進んでしまい、昭和23年に真如苑にお願いして管理していただいているものだといいます。

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本堂です。

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この本堂の拝殿上には龍の彫り物があります。

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この本堂は戦時中の爆弾投下によって後ろ側に少し傾いてしまったそうです。
それを2本の丸太で支えています。写真は写しませんでしたが、今でも2本の丸太が見えます。
現地でこの支えを見た時に昨年の地震の影響かと思いました。
あとで調べてわかったものです。

本堂横には鐘楼があり、山門の先には昨日紹介した展望台があります。
昔は海を眺めるように山門が建っていたのでしょう。

この歩崎観音もかなり面白いです。調べると色々なことがあるようですがあまりか書かれていません。
このブログもこのままでは観光案内に終わってしまいますのでもう1回この続きを明日書きますね。

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出島散歩 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/03/18 18:42

出島散歩(4)(歩崎観音3)

 歩崎観音の3回目です。これで最後です。

それにしても33年に1度しか開帳されないものに興味がわきますね。

(追加:2012年から8月16日のあゆみ祭りの時に毎年開帳されるようです)

まず1つはご本尊である「十一面観音像」です。
行基菩薩が彫った像を旅の僧がこの地に堂宇を建てて安置したといわれるものです。

もう一つは「黄金で造った機織機」です。
1182~3年頃、竜女がお産に苦しんでおりました。その時この観音様に願掛けします。
「このお産が無事にできれば黄金で機織り機を造って奉納いたします。どうか無事に子供が生まれますように!」と。
願い通り安産となった竜女は約束通り、金の機織り機を奉納したといわれています。

もう一つ見たいものがあります。
それは石岡の三村地区の上の高台に「正月平」という土地があり、ここに伝わる話です。
この目出度い土地の名前は前に書いたことがありますが、源義家親子が前九年の役で、奥州に向かう途中でこの地で正月を迎えました。
数軒しかなかったこの地の住民は総出で、乏しい貯えの中から赤飯を炊いて正月のおもてなしをしたそうです。
そして源義家(八幡太郎)と父の頼義は、それに大いに感激しそうです。
このことは「休馬美落集」という巻物の中で、義家は村人に対し心より感謝の気持ちを表しているそうです。
さて、この時に源義家親子は、この地に「黄金のはたし」を残したといわれています。この黄金のはたしは江戸時代まで地元(正月平)にあったが、歩崎観音に奉納され、これも33年に1度しか見ることができなくなったのです。
この「はたし」とはどんなものかまったくわかりません。旗でしょうか。

私が古東海道が常陸国府である石岡には美浦村から霞ケ浦を渡ってこの出島地区を通って、またこの三村地区で中津川へ渡っていたと確信した一つの表れでもあります。
しかし、何処にも書かれているものもないんですよね。

地元に伝わっている僅かな痕跡もわかった時に少しずつ何処かに書いたものを残せば、それを見てまた調べたりする人も出てくるかもしれません。

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上の写真は歩崎観音のすぐ裏手にあったものですが、お墓でしょうか。
読みとれるものが少ないのですが、一番左側に「海量法師」と書かれています。
少し興味を持って調べてみました。

海量法師は江戸時代後期の僧・歌人で、1733年に近江国犬上郡の浄土真宗の寺に生まれ、後に江戸に出て歌人となり、近江の彦根藩主井伊直中に招かれて、藩校などを建て彦根藩の教育に尽力した人物だそうですが、後に全国の諸国を回ったといいます。

この歩崎観音には何時来たのかよくわかりません。しかし、この寺の住職をして数々の奇跡などを示したと言われていて、この地で不慮の死を遂げたといわれています。

このあたりは、何処までが真実かは知る由もないのですが、考えると興味は尽きません。
この海量法師がいなくなってから、この寺は無住になり荒廃が進んでしまったのだそうです。

調べた中にある方のブログ(こちら)に四国石鎚山で詠んだ歌が載っていました。

 遠遊 千里 天涯を 度る

 南予の 山川 行路 斜めなり

 独り 石鎚の 山色を起こす 有り

 暮春 三月 雪花の 如し

3月に石鎚山も雪が積もっています。こちらも他の方のブログでその景色を見ました。
夏には鎖場などを伝って登ったこともあるのですが、冬のこの山は知りません。
今の時期にこの歌がピッタリでしたので転載させていただきました。(勝手にすみません)

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こちらは、北参道(あまり使われていない)側に立っていた石碑「豚霊之碑」です。
このあたりに養豚がさかんというような感じはしませんが、何かあるのでしょうね。
少し調べて見たのだけれどわかりませんでした。

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こちらは展望台のすぐ横に置かれている「金毘羅神社」です。
何時頃建てられたものかは不明ですが、かなり古くからあるようで、歩崎観音を修復する時にこちらも修繕したようです。
海(霞ケ浦)の安全を願って漁される方などが参拝をされる方が多いそうです。

さて、歩崎(あゆみさき)の名前ですが、今から900年ほど前のこと、この沖合を航行する船が嵐で沈みそうになりました。
その時に「観世音菩薩様」と唱えると、観音様が現れて海を歩いて船までやってきて、岸辺に導いてくれたといいます。
このためこの観音様を歩崎観音と言うようになったといいます。
この話が本当かうそかなどは何の問題もありません。
このような話にはその時代の歴史的な思いが伝わってきます。
それが大切に伝えていく意義があるのだと思います。



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出島散歩 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2012/03/19 19:06

出島散歩(5)(田伏城と実伝寺)

 旧出島村と行方市を結ぶ霞ケ浦大橋の近くに実伝寺という曹洞宗のお寺がありました。
この寺の場所が少し気になって立ち寄りました。

お寺としては特にこれといった特徴もないように見えます。
しかし、置かれている位置が少し気になったのです。

この場所は近くに霞ケ浦名産の佃煮などの加工場もあり養殖の陸いけすもある低地です。

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(サムネルです。クリックで拡大します)

寺の入り口横に小山がありその麓に紅梅がきれいに咲いていました。

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(サムネルです。クリックで拡大します)

この小山の入口に鳥居があり、頂上には神社でもあるのでしょうか。こんもりとした山なのでまるで古墳のような感じがしますが、何も書かれた物はありません。
ネットで調べて見るとどうやら「青祖神社」と呼ばれているらしい。

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(サムネルです。クリックで拡大します)

お寺の横の梅の古木はまだほとんど咲いていませんでした。

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お寺は特にこれといった特徴があるものではありません。
少し古びた山門と奥に本堂があるだけです。
しかし、調べて見るとこのお寺の裏山(今は麓からお墓が延びています)が、かって小田氏の部下の「田伏氏」の居城があったそうです。

田伏氏は土浦の小田氏が佐竹氏に滅ぼされた時に滅亡しました。
この実伝寺の名前も田伏城の城主「田伏次郎大夫藤原実伝」という人物がこの寺を建立したのでつけられたようです。この藤原実伝は1396年に没したそうだから、この寺はその前からあるのでしょう。

土浦の小田氏が滅んだのは1590年頃なので、その前後にこの城も滅んだものと思われます。
城は滅んでも寺は残るんですね。
焼けても後に建てなおされるのでしょう。

(石岡)府中城の城主の弟の居城「三村城」の常春(つねはる)が建てた常春(じょうしゅん)寺はその麓に残っているのと同じでしょう。

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参道の中間に建つ山門です。

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この山門の入口に「不許葷酒界内」と書かれています。

これは前に稲敷市の興禅寺の山門の入口に「不許葷酒入山」と書かれていましたものと同じですね。(こちら

この時は「葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」でニンニクなどの臭いにおいや酒臭い人はこの山門から入ってはいけないという意味でしたが、こちらは界内に入ることを許さずです。

この石柱が建てられた年月が裏側に彫られていて嘉永元年となっていますので1848年です。

ネットで検索していたらこのお寺の場所に「実伝寺貝塚」と言うのが載っていました。
貝塚があった少し盛り上がった台地にお寺を建てたのかもしれません。

でも霞ケ浦まですぐです。



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出島散歩 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/03/20 18:43

出島散歩(6)(南円寺1)

 湖の先端に行くのに通りを走っていて偶然見つけた「花の寺」の看板。
「五智山南圓寺」と書かれている。一度通り過ぎて気になって戻って寺の駐車場へいった。
駐車場も整備されていてきれいな寺だった。

通りの反対側には「南圓寺信徒会館」などもある大きなお寺である。

調べて見ると、このお寺は結構興味深い。
1374(応安7)年、この地を治めていた小田孝朝が、小田城の守りとして定めた小田領4ケ寺(普門寺、大聖寺、法泉寺、南円寺)の一つだそうだ。

前に筑波古道である「つくば道」を紹介した(こちら)時に、道の途中にあったお寺が「普門寺」で、この名前を懐かしく思い出した。

小田氏はこれら4つの寺を祈願所(小田四箇寺)に定め、寺もこの時(鎌倉・室町)時代に勢力を拡大したようだ。
また当時の普門寺は僧兵五百、こちらの南円寺は僧兵三百となっており、末寺もそれぞれ百以上持っていたそうである。

この話から石岡(府中)の三村城の秘話(こちら)を思い出した。
府中城の大掾(だいじょう)貞国の弟の大掾常春(つねはる)がこの小田氏の進入を防ぐために恋瀬川の対岸にある三村の城主となって守っていたが、1573年に落城し、常春は25歳の短い運命を閉じた。

また、この攻防を聞いた府中城から応援に駆け付けた援軍は、恋瀬川の高浜に近い対岸の高台で城の燃えるのをながめ、間にあわなかったのを嘆きその場で自害した。その数197人。麓の香勢堂墓地に地蔵が建っている。
これも偶然見つけて昔ブログに書いた。(こちら

この三村城(現三村小学校敷地)とこの南円寺とは直接台地でつながっており間にさえぎるものはない。
小田氏との攻防も厳しいものがあったのだという感じが伝わってくる。

また先日紹介している歩崎の観音様(行基菩薩の作といわれる)と同じ木で作られた三体のうちの一つがあるという。
国宝級の茨城三観音といわれるらしい。どんなものか見て見たい。

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寺の山門。山門を入ると梅や桜の木が迎えてくれる。
まだ梅も2~3分咲きくらいでこれからであったが、もう少ししたら綺麗な花が見られそうだ。

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寺の境内には「長谷寺」の案内が書かれていた。
奈良の長谷寺も真言宗豊山派の寺で十一面観音を本尊としているので、こちらも同じ豊山派なのだろう。

奈良長谷寺は牡丹の花が有名なので、こちらにも牡丹があるのか?
庭を見て回ったら、シャクナゲの木がいくつか目についた。
シャクナゲといって思い出すのは女人高野室生寺である。
こちらの室生寺も真言宗(室生寺派)で国宝の十一面観音像がある。

上の写真の右側に並んでいる石像はなかなか面白いものが置かれていた。明日紹介します。

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咲き始めた紅梅とバックの赤い鐘楼堂がきれいなコントラストを映していました。

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そしてすぐ近くには白梅が僅かに花を咲かせていました。(3月15日)

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寺の本堂です。

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境内に置かれていた古い観音石像です。



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出島散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/03/21 19:12

出島散歩(7)(南円寺2)

 昨日の南円寺の続きです。

南円寺の山門をくぐったところに変わった石板(石像)が並んでいます。
お釈迦様の生涯を描いた石板です。

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最初は「釈迦の誕生」です。天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)ですね。
みんなかけがいの無い命をいただいています。たった一つしかない命を大切にしましょう。
4月8日は日本でも花祭りが行なわれますね。

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「出城」。シャーキャ族の王子であった釈迦は29歳(2月8日)で城を出ました。(出家)

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「苦行」の姿です。出家後、5人の仲間と6年間苦行生活を送り、悟りを開こうと苦行していた時の姿です。
でもこの苦行では悟りは開けず、5人とも別れ1人離れていきます。

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「降魔修業」です。苦行では悟りが開けなかった釈迦は一人菩提樹の木の下で瞑想します。
するとそこに色々邪悪な悪魔(煩悩)が修行の邪魔をしようとやってきます。
この図は、右手指を下に向け地面に触れ、修業の邪魔をしようとする悪魔を追い払っている姿です。
そしてついに悟りを開きました(12月8日成道会)。(35歳)

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「初転法輪(ぽうりん)」釈迦が初めて法輪を説いたことを指します。5人の元修業していた仲間に説いたといわれています。
苦行が耐えられなくなって離脱したと軽蔑していた5人は、この時釈迦の姿を見てすぐに自分達の考え方が間違っていたことに気がついたようです。

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「竹林説法」釈迦は北インドの「祇園精舎」「竹林精舎」で説法したとされます。

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「涅槃(ねはん)」です。80歳でついに死を迎えます。頭を北に顔を西に向け横たわった釈迦を弟子たちが悲しそうに見守っています。12月15日に涅槃会が行なわれるそうです。
涅槃(ねはん)とは「煩悩の火が吹き消された状態」を意味するそうです。

今日はお釈迦様の説明に終わってしまいました。
真言宗豊山派のお寺にはこの釈迦像があるようですが、HPなどで見てもみな少しずつ違っています。
今まであまり釈迦の生涯などを勉強する機会がありませんでしたので、これを機会に少し覚えました。

さて、琵琶法師が語り伝えた平家物語の有名な冒頭部分

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり

沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」

この解釈も釈迦の話を聞いてみると解釈がわかってきました。

「釈迦が説法をした祇園精舎の鐘の音は、この世の全てのものが消滅流転すると言う真理を告げる響きがある。
釈迦が入滅したとき、その死を悲しんで、沙羅双樹の花の色も俄かに白色に変わり、枯れてしまったという。どれほど栄えたものでも必ず衰える時が来るものなのである。」

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出島散歩 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/03/22 19:15

出島散歩(8)(奉安殿)

奉安殿(ほうあんでん)というの名前をご存知ですか?
私はまったく知りませんでした。またこんなものを見たのも初めてです。

戦前に教育を受けた人にはなじみのものだったのかもしれません。

奉安殿には天皇・皇后の写真と教育勅語を入れて各学校(尋常小学校や旧制中学校)に設置され、式典やその前を通る時には服装を正し最敬礼するように義務つけられたそうです。

色々な形のものがあるようですが、耐火を考慮して写真のような石作りの物も多く建てられたといいます。

終戦後、GHQの命令により取り壊されたり、地下に埋められたりしたものが多いといいます。

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場所は下の地図にあるように「下大津小学校」の通りの反対側の一角にちょこんと置かれていました。
昨日紹介した南円寺のすぐ近くです。
通りかかった時に気になったので写真を撮りあとで調べて内容を知ったのです。
私の年代でもあまり知らないのだから若い人は見たことも聞いたこともないのではないだろうか。

泰安殿02

調べると茨城県では同じようなものが真壁駅の近くに保存されているそうです。
これも、このまま朽ちらせてしまうのは惜しい気がする。

泰安殿03

天皇崇拝信仰的なことが、戦後教育から全て削除されれたとしても、昔の確かに存在したという記憶をとどめる貴重な資産だと考えます。
戦後の教育が日本国民と言うアイデンティティを否定するものならそれは間違った教育でしょう。
戦時中の軍国主義的な教育などたしかに嫌いです。でも日本人でないような教育も嫌いです。

泰安殿04

でもなかなか凝ったつくりですね。
この中に入れた写真や教育勅語などが湿気てカビが生えて処罰を受けたりしとも言われます。

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この地区は戦国時代までは小田氏の領域だとすると、土浦やつくばなどとつながりが深そうです。

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すぐ裏手の広場にはかなり古い古木が数本ありました。
このような古木が残されているのを見ると、そこに暮らしていた人々の思いを考えてしまいます。

さて、この下大津尋常高等小学校は明治36年の創立と書かれていました。全校生徒93人だそうです。



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出島散歩 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2012/03/23 19:25
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