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カラスは嫌われ者?

 朝晩はようやく秋らしくなり、朝起きると山鳩が毎日のように遠くで鳴いている。鳴き声がこもったような鳴き方だがよく聞こえる。「ポーポッボッボー」などと聞こえる。鳥の鳴き方は人によっても違って聞こえるし、国によっても違うようです。今日車で信号待ちしていたら、隣りの反対車線にカラスが道路に落ちているエサをついばんでいた。こちらを見て首を傾げたような仕草をしておどけたようにも見えた。真っ黒で愛嬌などは感じないのだが、人間に嫌われてばかりではかわいそうだ。
このカラスは「カアカア」などと何時も表現されるが、英語でも「CAW」というので世界共通なのであろうか? ところでロシアのモスクワの赤の広場に近い公園で白いカラスを見かけたことがある。
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白いといっても真っ白ではなく、写真のように腹と背中の一部が白っぽい灰色です。普通に沢山いた。
「カラスは黒い」とは、世界中共通であると思っていたが、そうでもないようだ。童謡などでは「からすの羽根は何故黒い?」とか「白い羽根を拾って体につけて、他の鳥の仲間になろうとしてバレタ話し」などいくつもでてくる。どれも良いイメージは持たれていないらしい。日本書紀や古事記には八咫烏(やたがらす)という三本足のカラスが登場する。神武天皇の東征で、大和に上陸したとき、熊野・吉野などの道案内をしたという。元々は中国の故事に出てくるというが、太陽神に関係するようだ。神武天皇は太陽の上る方向へ進のだが、ここでは地元の豪族に敗れ、南周りで進んだ。何か関係があるのだろうか?
またこのカラスは縁起物としてサッカーの日本代表チームのユニフォームのマークとしても使われている。この八咫烏が特別というわけではなく、昔はカラスは嫌われ者ではなかったのではないだろうか。
枕草子にも家路に帰るカラスが出てきたと思う。またカラスの鳴き声は童謡「七つの子」に登場するので家路に帰るイメージがあるのかもしれない。
しかし、カラスはとても頭の良い鳥で、かなりの知能を持っている。それなのにどこの国でも嫌われ者のようだ。
アメリカ映画「白いカラス」はユダヤ人と偽って暮らしてきた黒人の元大学教授のこころの闇を題材に黒人問題を扱っている。しかし、映画の英語でのタイトルは「The Human Stain」(人間のシミ?汚れ?)というもので、カラスなどという言葉は出てこない。日本語に直した時のものだ。
これも日本人の感性なのかもしれない。

カラスの話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/09/14 20:17

あゝ石岡駅(1)

 このブログもはじめてからようやく3ヶ月が経過した。
毎日続けて書くこともかなり大変なものだ。
もともとビジネス文書以外には書くこともあまりなかった。
こうして始めたからにはもう少し続けていきたいな~・・・・??
今日からは「石岡駅」について知られているようで知られていないことなどを少し書いてみたい。
「汽笛一声新橋を…」と歌にも歌われている通り新橋(現汐留駅)が完成したのは明治5年でした。
そして鉄道は瞬く間に全国に広がっていきました。
明治18年11月に東北本線(日本鉄道)が大宮-宇都宮間で開通しました。
これにあわせて、水戸-小山間に水戸鉄道が明治20年に開通します。
しかし、常磐線は、常磐炭鉱の石炭を東京の方に運ぶ必要がありましたが、建設が遅れます。
友部-土浦間の開通が明治28年。土浦-田端間が明治29年12月に開通しました。
記録によると恋瀬川を渡る橋と湿地帯の通過の工事が難航したようです。
最初は少し高くなった山側はトンネルを掘る計画だったようですが、切りとおしとし、削り取った土を湿地帯に埋めたといわれています。工事の写真が「石岡の歴史」などに載っています。
石岡駅は山王川ぞいの低地に作られました。それと同時に「大小路新道」を作り、駅に荷馬車で荷物を運びやすくしたのです。
土浦線は海岸線と名前を変更し、その後日本鉄道として国有化となりました。

 さて、正岡子規が水戸への旅の途中、石岡の万屋旅館に泊まったのは、明治22年の春です。
水戸まで歩き、帰りは水戸線の列車で帰ります。
万屋さんはふるさと文庫「水戸紀行」によればピノキオというおもちゃ屋さんだというし、今泉さんのブログでは「カギヤ」さんのところでむかし玩具の店だったとあります。
市にも看板くらい出してほしいといっているがまだ実現されないようだ。
呑気なものだ・・・・。
看板を出すなら、地元新聞や大手の新聞にも連絡して、除幕式でもやってほしいものだ。
土浦の旧真鍋公園場所には霞ケ浦を眺めて読んだ歌碑ができ、きちんと除幕式も行われた。
仕事とはこういうものだ。
教育委員会が看板を出して終わりではない。
正岡子規となれば知名度は抜群だ。全国に歌の会があり、会員の数はものすごい。
先日風土記の丘にも歌の会の人が観光バスで来ていた。
知られていればきっといってみたいと思うに違いない。
今日は時間がないので続きは明日に・・・。

あゝ石岡駅 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2010/11/11 20:49

あゝ石岡駅(2)

 一昨日の石岡駅にまつわる話で書いた正岡子規の泊まった万屋旅館さんの
場所についてご連絡いただきほぼ特定できたこと感謝。
これも鍵屋さんの玩具部門がピノキオとなったのと、この場所が変わって今の
ピノキオトーイさんの場所に移ったなんてまったく想像しませんでした。
ネットはやはり情報にはすごい威力を発揮します。
市の方で特定して句碑を立ててください。
万屋を出て水戸へ向かう子規は筑波山を見て句を詠んでいます。

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體

一緒に載せていただきたいものです。「坂の上の雲」のテレビ放映がチャンス。

今日は石岡駅の昔の時刻表を載せておきます。
明治28年に石岡駅が開設され、6年後の明治34年発行の「石岡繁昌記」に載っていました。

ekijikoku.jpg

思ったより本数が多い気がしますね。上下1日6本ずつです。

ressha01.jpg

走っていたのは今はなつかしいSL(蒸気機関車)です。
時間も上野まで3時間くらいかかっていたようです。

石岡駅は現在橋上駅にする計画が進んでいます。
予定は2014年完成。30億円以上かかるそうです。また市の負担も・・・。
勝田、友部が先に橋上駅となり、特急がとまる駅としてはただ1つとり残されてしまいました。
乗降客は減る一方で20~30年前は1万人はいた客数が今では6000人以下。
このままでは計画のみで終わってしまわないかと心配です。
市民も巻き込んでの活動を推進すべきですね。
続きはまた明日。

あゝ石岡駅 | コメント(7) | トラックバック(0) | 2010/11/13 17:43

あゝ石岡駅(3)

今日母をしばらくこちらで預かることになり、東京へ迎えに車で行ってきました。
ここ2・3日で紅葉が始まっています。桜などは葉が散り始めていました。
イチョウ並木も黄色くすっかり色づいた木や、まだ緑の木など様々です。
やはり時はまちがいなくやってきてまた去っていきます。
今日最終公演の「ことば座」(難台山城 落城哀歌」に少し遅れて行ってきました。
初日に比べすっかり息が合ってきています。
耳が聞こえない舞姫がリズムを取るのはかなり難しいだろうと思わされます。
でも、もうすっかりプロですね。
堂々とこの片田舎を脱出して羽ばたき始めるのも時間の問題だと思います。
「ふる里は物語の降る里」でもあります。しかし、いつまでも・・・。
来年2月には美浦村の陸平貝塚の会館で公演するそうです。

今日は横浜にいる娘も観劇させていただきました。とても好評でした。
母も小林さんは「耳が聞こえると思っていた」と驚いたようでした。
これからのご活躍を祈念しています。
 
 さて、今日は石岡駅の改札の上にかかげてある額についてです。
右から「石岡駅」と書かれており、少し暗い上の壁に架かっているので
目立たない存在です。
私もある期間は毎日通っていましたが、気が付きませんでした。

kanban01.jpg

この写真も暗い画像をやっと修正してUPしたものです。
これを書いたのは徳富蘇峰という人です。蘇峰の書から作られた扁額です。
蘇峰は徳富蘆花の兄にあたる人で、新聞社や政界にも大きな力を及ぼした人です。
アジアの解放を訴えて日本が侵略戦争に進む言論側の中心人物ともいわれ、現在では
その評価は分かれています。
戦後の昭和32年に94歳で亡くなるまで日本のジャーナリストとして偉大な足跡を残しました。
また徳富蘆花とは長いこと絶縁し、最後には和解したとも言われています。
しかし、当時日本が発展していくために大きな役割を果たした人なのです。
晩年は穏やかな人間的な面があらわれ、批判する人に反論するようなこともなく、偉大な
文人であることだけは確かです。
石岡駅に掲げられたのが何時なのか?
何時書かれたものなのか? わかりません。
しかし、石岡が明治後期から大正・昭和にかけてはかなりの大きな商都として力を持っていた
証しなのかもしれません。
文人「蘇峰」の名声は当時は大変なものだったと思われます。
今度駅を新しくする時には、是非説明をつけて皆が見れるように展示してほしいと思います。
 

あゝ石岡駅 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/11/14 18:15

あゝ石岡駅(4)

 今日は石岡駅前に大きくかかげられている「茨城県名発祥のまち」の看板についてです。
駅の正面から見ると大きな看板ですので一度は目にされていることでしょう。

isiokaeki03.jpg

さて、私もこちらに来て最初の頃にこの看板を見て、ネットで探してバラキ(茨城)台団地
の近くに案内板があると書かれているのを見つけて、探しに団地の入口付近を何度となく探しました。
しかし見つからなかったのです。
そこで、駅の横にある観光案内所に入って案内板の場所はどこかを尋ねたのです。
すると案内所の女性の方が「高浜街道のスーパーの前辺りにありますよ。」という。
また、看板に書かれている内容からか「山の佐伯と野の佐伯という土ぐもを黒坂命(くろさかのみこと)
が滅ぼした」うんぬん・・・といかにもどうだといわんばかり。
悪気は無いのはわかっているが、そんな話を聞きたかったのではなかったのだが・・・・。
石岡の人はこの話をどのように理解し人に伝えることができるのだろうか?
行ってみると、スーパーの前には字が薄くなり読み取るにはかなり苦労するくらいの看板があった。
道理で見つからないわけだなどと思ったものだ。
茨城の名前の由来は種々説があることはぼんやりと聞いて知っていたが、これを新しく書き直すのは
市としても気が引ける気持ちだと思っていた。
ところが今年案内板が新しくなった。書かれている内容は下記である。

kenmei.jpg

これを読んで正しく理解できるでしょうか?
常陸風土記で佐伯とか土ぐも(国巣)というのは、その昔この辺りに住んでいた原住民(蝦夷人?)
を指していることは明らかなのです。
それを土ぐもとまるで人間ではないかのごとく、大和朝廷の考え方が書かれているにすぎません。
かれらは、侵略者(大和人)に住居を荒らされ、奴隷のように使われ、南の方へ砂鉄や、砂金など
の採掘に使われたと推測されます。
また、8世紀に書かれたとされる「常陸風土記」は当時大和朝廷が支配出来ていない蝦夷(陸奥)
征伐に力を注いでいた時代なのです。
この看板は書かれていることが偏っており、重大な過ちを犯しているのに気がつかないようです。
今では、昔この辺りにはバラが生い茂っており、野蛮なサルのようなすばっしっこくてずるい土蜘蛛
が穴を掘って住んでいて、これをバラの刺で傷つけて退治したのだと思ってしまいます。
また、確かにこのバラキ(茨城)という地名にもあるようにこの近くに「茨城廃寺」という寺があった
といいます。また「茨城寺」などと書かれたものも出土しているそうです。
しかし、当時の行政府で茨城郡と呼ばれたところは友部近くの「小原」といわれており、ここから
石岡に郡の中心が移ってきたという歴史が存在します。
これは「茨城」発生の地(茨城郡と最初に呼ばれた中心)は「小原」ということを意味します。
もともと「茨城」は「うばらき」または「うばら」でもあり、「小原」の名前になったということも
うなずける話です。
あまり歴史学者でも諸説があるようですから詳しくはわかりませんが、土蜘蛛などとの表現はもう少し
変更するか「国巣」として、それに説明を加えるくらいはすべきだと思っています。
また、私は明治の初めの廃藩置県で「茨城」と泥臭い県名に決まったのも、水戸藩の名前や勢力を
そぐことがその背景にあったと推測しています。
もしもう少しましな県名になっていたら・・・・。
東京の人に最も人気のない県にはなっていなかったと思っています。

石岡駅には「平家発祥の地」または「平家ゆかりの地」などという看板を大きく掲げる方が良いと
思います。よほどインパクトもあります。
再来年は平清盛がNHKで放送されるのですから先手を打たねば効果が半減します。
看板を掲げて、そのお披露目を盛大にブラスバンドなどでやる。新聞に投げ込みをする。
記念のマラソン大会を行ない、昔あったという茨城3大マラソンを復活する。
如何でしょうかね・・・。
ほんとに知られていないのが不思議なくらいなのですから・・・・。
 


あゝ石岡駅 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/15 19:04

あゝ石岡駅(5)

 今日は石岡駅の下りホームの後方側の壁に飾られたモザイク画を紹介します。
駅を利用される方も目にしたことはあるでしょうがあまりじっくり見る機会がないですね。
石岡の国分寺に伝わる鐘の物語を絵にしたものです。
石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」の元となったお話です。
お話は尾ひれがついたり、伝わっていくうちに内容が変わっていってしまった部分など
さまざまありますが、駅に展示したのでまずはこの話を知るべきでしょう。

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昔々子生(こなじ)の海岸に二つの釣鐘が浮かび上がりました。それを皆で府中の町へ運びました。
途中で車の車軸が折れたり大変苦労して運びます。

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府中の国分寺に鐘は釣り下げられ、都に鐘の音が響き渡ります。ある日力持ちの大泥棒が一つの鐘を
盗み出してしまいました。

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鐘を高浜から舟にのせて沖に漕ぎだしました。沖合までくると急に波が荒れ舟が沈みそうになりました。
怖くなった大泥棒は鐘を海(霞ケ浦)に放り込みました。

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海の底に沈んだ鐘(雌鐘)は国分寺に残された鐘(雄鐘)を恋しがって唸り音を出し、1日に米1つぶだけ
府中の方向に動くが、波で押し流されて近づけないでいるそうです。


この鐘の製作がどこで何時ごろなされたものかは判明していません。
このように物語として伝えられていくのもよいでしょう。
物語ですのでその当時の人々の暮らしや、気持ちがその中にあります。
調べてみるといろいろと伝わるものがあり面白いですね。
昔の国分寺の繁栄と衰退、そして火災。
もう少し詳しい物語はこちらを参考に見てください。
石岡に伝わる銘菓「つりがね最中」も美味しいお菓子です。食べてみてください。

さて、実際には雌鐘は盗まれたのは確かですが、江戸時代に恋瀬川の堤防工事の時に、この鐘を川岸に
持ち出し時を告げるのに使ったため、夜中に盗まれたといわれています。
また残された雄鐘は火災で焼け落ち溶けてしまい、それを小さな鐘を記念に作って檀家に配ったといいます。
あまり現実を知ると楽しみがなくなりますね。
物語はその土地の、そこの時代ごとにいろいろと変わっていくものなのですね。
 
 

あゝ石岡駅 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/11/16 19:18

あゝ石岡駅(6)

 今日は石岡駅の上に作られた広場と「からくり時計」です。
東口を整備し、西口をつなぐ歩道橋へ上るとそこに広場が広がっています。
この広場はバスプールの上に作られたものですが、意外に知られていません。
西口側に住んでいるとこの歩道橋に上がることはほとんどありません。
こんなにきれいに整備した空間がほとんど使われず、また知られずにいるのは
本当にもったいないと思います。
何かイベントをするにはもってこいの場所です。
先日「まちかど情報センター」で何か企画してイベントをやったようですが・・・。
私が石岡にこのような場所があることすら長い間知らないでいたのですから。

karakuri01.jpg

この広場に設置されている「からくり時計」です。
まわりもきれいですが市民の憩いの場にもなっていません。
花壇やベンチなどを設置して人が集まりやすくしたいですね。

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時計は定時ごとに人形が踊ります。石岡のお祭りに合わせた武者人形とおかめです。

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時計のてっぺんには石岡名物「獅子頭」が飾られています。

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上から西口(旧市街側)を見た所です。やはり駅前は再開発が必要です。

ishiokaeki03.jpg

駅と線路方向の眺めです。どのような街の姿が良いかを考えるにはちょうど位置ですね。
駅がどのように変わるかはわかりませんが、今までの物をスクラップしてビルドするのではなく
歴史やロマンのあふれたプランをねって欲しいと思います。

あゝ石岡駅 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/11/17 20:03

あゝ石岡駅(7)

 さて、石岡駅をテーマにこのブログも6回書いたが、何かまだ足りない。
やはり「鹿島鉄道」についてふれなければ物足りないのだ。
しかし、私はこの鹿鉄についてあまり知らない。
私がここ石岡に来た時はすでに廃止の話が持ち上がっていた。
存続を訴える住民、高校生などの活動も結構活発だった。
今思えば、廃止は実にもったいないことをしたと感じているのだが・・・・。
鹿鉄については、そのファンなどもいくつかHPなどでも紹介があるのでここでは
その歴史的な点のみの紹介をしてみたいと思う。
鹿島鉄道が開通したのは大正13年6月で、石岡と小川間の7.1kmで「鹿島参宮鉄道」
と呼ばれた。
大正15年8月に浜駅まで7.3km延ばされ、昭和3年に玉造まで、そして昭和4年に鉾田
まで全長27.2kmの鹿島参宮鉄道が全線開通となった。
参宮鉄道と名前がついているように、当初は鹿島神宮に参拝するための鉄道を目指した
と思われる。しかし、ご存知のようにまったく違ってきてしまったようである。
これが行き詰った原因かもしれない気がしている。
途中の浜駅には、鹿島への船の連絡船の桟橋も建設されたという。
しかし時代はもう船での輸送の時代ではなくなっていた。
また、鉄道建設の初期計画では出発駅は石岡ではなく高浜であった。
石岡にした理由は「資金調達」に有利で、当時の財界有力者の協力を得るのに都合が
良かったのである。
また、この鉄道会社の創立者高柳氏、浜氏は共に貴族院に立候補し当選した。
しかし当時の貴族院の選挙権は多額納税者200人だけしかあたえられていないため、
選挙戦に多額の買収などがあったようである。
この買収により初代社長となっていた高柳氏は選挙違反で辞任。社長を浜氏に譲るのである。
浜時代がそれから続くが、鉄道会社の役員は石岡の商人が過半数を占めたのです。
その後バス事業に手を広げ、鉄道会社も吸収合併して関東鉄道になったのです。
詳しく書くのは少しためらうし、利害関係もないのでこの程度で止めておきます。

 さて話は中途半端になりましたが、鹿島鉄道の最大のネックは鉾田駅とJRの新鉾田駅が
つながっていなかったことだと思われます。何故だったのでしょうか?
鹿島参宮鉄道というのならここが繋がらなくては意味を為さないはずですが・・・。
何かこの辺りにも身内主義的な臭いがしてきてしまうのです。
鹿島鉄道は自衛隊百里基地の燃料輸送でかなりの収益をあげていました。
しかし、これが鉄道から撤退されると急速に経営が悪化してしまいました。
醤油や生糸などの産業が衰退したのと同じ様ですね。
しかし、鉄道は市民の足でもあり、その影響力は一企業の損得でははかることはできません。
廃止が決まってから乗客が増え、最後は黒字になったと聞いていますが残念です。
同じ轍を踏まないように産業や企業誘致なども全体のバランスを考えて進める必要を痛感します。
 

あゝ石岡駅 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/11/19 19:49

親鸞750回忌

 来年は親鸞聖人の750回忌にあたり、東本願寺、西本願寺のそれぞれの会派で、記念の
法要行事が始まっている。
また各地で親鸞展などが企画され一大イベントが行われようとしている。
親鸞聖人の関東での布教についてはまだ未知なことも多く、知られていない事も多い。
石岡にも親鸞聖人ゆかりの史跡や寺が多くある。
私もこの地に来るまで、親鸞の関東での布教活動などについて何も知らなかった。
もう少し声を大にしていろいろなところで宣伝がなされても良いように思う。

市としても親鸞展や旧跡を回る企画ツアーなどを是非やってほしいものだと
今年の春に市長さんあてのメールで提案したが、お返事すらいただけていない。
正岡子規の万屋跡の碑も提案して7カ月以上経ってしまった。
そしてとうとうNHKの「坂の上の雲」は2年目の幕が上がってしまった。
子規は病気で死んでしまう(1902年)ので時間がない。
日露戦争は1904年だから、この話は子規が無くなった後も続く。
来年も続くが子規はもういない。虚しさのみがこみ上げてくる。

大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の看板はいいですね。

daigakuji01.jpg

この看板のおかげで、その内容を調べてさらに興味が深まります。
しかし、一般に観光客はお寺と、そこの京都桂離宮を模した庭園「裏見なしの庭」を巡って帰っていきます。
親鸞の時代は鎌倉幕府の始まりの頃です。
一時親鸞は架空の人物ではないかとの学会論争が起こったといいます。
それ程直筆の書物などが残っていないようです。

大覚寺のすぐ横の「弁円懺悔の地」や板敷峠の「弁円護摩壇跡」などを訪れる人はほとんどいないというのも不思議な気もします。
史跡としての整備がなされていないためかもしれません。
またこの「法難の遺跡」の看板だけでは人が理解できていないのかもしれませんね。
続きはまた明日とします。
今日は東京でまた大学時代の仲間と飲み会です。
仲間は6人程ですが、大会社の副社長や役員、また大学の教授などおり、私は全くの落ちこぼれ組。
でも必ず毎年参加しています。
これからの第2、第3の人生をどう生きるのかを少しですが考えていければ充実した日々が送れる
と思っています。
 

親鸞と茨城 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2010/12/04 15:30

親鸞750回忌(2)

 昨日は大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の立て札について書きだしたので、今日はその続きです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。

 しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

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大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

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ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

itashiki02.jpg

先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。

歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」

これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

itashiki06.jpg

板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。

親鸞と茨城 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/05 18:24
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