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根本寺(利根町)

 石岡のおまつりまであと1週間。
街中の各地で注連縄をはったり、提灯をつけたり、山車を引きだして準備していました。
いまは各町で「たたき初め」などといってもう祭りの格好をした若者や子供達もウキウキ気分です。

今年の年番は富田町で、やはり地元は華やかです。

でもこの年番制度は昔の小さな邑の集まりのようで邑意識は養われますが、対抗意識の養われ、どうしても排他的になります。

何時までもこれではやっていけません。まあこれを延長した所に島国根性の日本の姿があります。

安倍政権もどう見てもお友達ばかりが集まり、大臣になる順番待ち・・・・   どうも愚痴が増えます。

さて、今日は古東海道のルートとして考えた利根町(文間)の押戸にある寺の紹介です。


 利根町押戸の名前の由来は舟を押しだしたことからついたものかと思われます。
今は広い田んぼや畑が一面に広がっていて、どうしてここが船着き場だったのかと不思議に思います。

押戸のバス停のすぐ上に「根本寺(こんぽんじ)」(真言宗)という利根町で最も古いともいわれる寺があります。

案内板は無く古くからありそうな町の横道を見当をつけて車で走らせ正面に山門が見えました。

なんか驚くほどインパクトの少ないひっそりとした佇まいでした。

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寺の創建は不明で、かなり古くからある寺のようです。

本堂。最近建てなおしたものらしく比較的新しい建物だ。

今は真言宗ですが、昔は天台宗であったようです。本尊は阿弥陀如来だという。

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本堂の裏手は山になっていて竹林などがあります。
この上に昔の道があるようです。

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左側に山門があり、その入口に、利根町指定有形文化財 「木造両界大日如来坐像」(写真はこちらにあります)と書かれています。
しかし、この像はここには置いてなく歴史資料館に置いてあるとのこと。

写真奥の建物は「押戸集会所」

手前の地蔵には寛文4年(1664)の銘があるという。

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集会所の右隣に墓地の入口があります。

ここの奥が鎌倉街道といわれる道の先端で、この下へ降りたところに昔は押戸の船着き場があったのかと思います。

利根町文間地区の鎌倉街道についてはこちらを参照(こちら

石柱の近くに左右2つの石地蔵が置かれています。これも江戸初期に奉納されたもののようです。
一つは十五夜供養塔なのだそうです。十五夜供養は珍しいですね。

十九夜、二十三夜は結構多く、この墓地にも十九夜の供養塔はいくつかあるようです。



利根町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/09/07 18:44

泉光寺(1)

 利根町の文間地区にある鎌倉街道と呼ばれる道。

東京などには鎌倉街道は残っているが、この辺りの道は海や川を舟で渡っている。

地元で鎌倉街道と思われていても、その道に近いところに古東海道があってもおかしくは無と思う。

昨日紹介した根本寺(こんぽんじ)のすぐ近くにあった「泉光寺」を紹介します。

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文間地区の高台にある。なかなか古びて趣のある寺である。

円通山大慈院泉光寺 真言宗。

入口の仁王門。

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奥山の泉光寺の境内には、仁王門(嘉永3年)があり運慶派仏工の作といわれる阿吽(あうん)の仁王尊2体が祀られています。仁王尊に「わらじ」を奉納し足が丈夫で無事に旅ができるよう祈ったり、奉納された「きりすね」【機織りのとき、最後に残った木綿糸のこと)を女たちの痛んだ手に巻いて回復を願い、また目が疲れたときには「め」の字を書いた絵馬を奉納し、目の回復を祈願するなどの民間信仰がありました。
(利根町ホームページより)

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仁王門は、文化八年(1811)の建立と銘された棟札があります。
また、仁王像は正徳六年(1716)に創作されたという記録があり、作者は不明ですが運慶派仏師の作と言われています。
仁王尊は、仏法守護として寺門に安置されるだけでなく、健康の象徴ともされているため、口の中でかんだ紙片を投げつけて自分の幹部または発達を願う箇所にはりつけば、願いが叶うという俗信があります。
ここの仁王門には、「きりすね」「わらじ」「木槌」が下げられていますが、これについては次のような民間信仰があります。
「きりすね」手などが痛んだとき、きりすね(機織りのとき最後に残った糸)をもらい、患部に巻いて結んでおくとよく治ります。
また、倍返しといって、一つもらったら、二つ返すのが習わしです。

(現地立て看板)

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門のわきの地面にはたくさんの穴が開いていました。
みな、セミの穴でしょうか。

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今日は中秋の名月。あいにくの天気ですので月見は出来そうにありません。

今日は銚子の方まで行って夜帰ってきました。 向こうはシトシト小雨がパラついていました。
伊豆諸島に台風が近づいているようです。




利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/08 21:17

泉光寺(2)

 夏の初め頃(7月)から毎朝早起きしてウォーキングをしていたのですが、少し疲れがでて調子が崩れてきましたので先週末から少しお休みしています。

2~3日おかしかったのですが大分戻ってきました。
涼しくなりましたのでゆっくり眠れますね。

石岡は今週末からの祭りで街中はバタバタしています。

明日は風の会の100号記念号(臨時会報)の印刷です。 
皆さんの原稿が多くなりページも増えて大変ですが嬉しい悲鳴です。

さて、今日は昨日の泉光寺の続きです。

入口の仁王門をくぐるとイチョウの木と本堂が見えます。

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本堂は天保15年(1844)12月、 大工新右衛門の再建と棟札にあるそうです。

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創建がはっきりしない寺ですが、行基菩薩がここを通って常陸国に行ったなら奈良朝にここを通るルートがあったことになります。

行基の話は常陸国にも数々あります。

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本尊は、鎌倉時代末に作られた「木造観世音菩薩立像」であり、高僧「行基が常陸の国に行く途中、 奥山の近くを通りかかると、沼の中から光明を放つものがあり、近づくとそれは一個の浮木だった。

行基はそれを拾い、奥山に上り、観音経を唱えながら、三日三晩寝ずに仏像を彫り上げた」といわれています。

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泉光寺入口から布佐・布川方面を望みます。
ここは高台で、この右手はもえぎの台という住宅街になっています。

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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/09 21:00

蛟蝄神社(門の宮)

 利根町の文間地区を古東海道が通っていたのではないかと思う理由の一つにこの蛟蝄(こうもう)神社の存在があります。

何しろ古い神社で良く分からないのです。
延喜式の式内社(相馬郡)ですが、その創建は今から2300年ほど前とも・・・・??

また神事も1400年続いているともいわれるのです。

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この神社は2カ所に分かれていますが、最初に建ったであろう門の宮といわれる場所に行ってみました。

主祭神は罔象女大神(みつはのめのおおかみ)という良く分からない水の女神様です。

名前の通り蛇または龍にかかわりがあるのでしょう。

この地区は昔大きな水の上にうかぶ島であったようです。

創建は紀元前288年というので、まあこの辺は年代的には実際と合わないことであるが、かなり古くからあることだけは確かである。

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なかなか興味深い場所だが、行ってみてやはりここは昔周りが海だったということはわかるが、どのような歴史的な流れがあったのかは推し量ることができなかった。

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なかなか面白そうなことが書かれているが、詳しくはクリックして画像を拡大して見て下さい。

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この神社の場所の近辺が貝塚であったようです。
縄文時代後晩期(約4500年~2800年くらい前)に縄文人が住んでいて、周りは海だったということでしょう。

明日は奥の院の方を紹介します。でも拝殿は建て直しするために壊されていました。



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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/10 20:25

蛟蝄神社(奥の宮)

今日で東日本大震災後3年半が経ちます。

復興もまだまだです。 それなのに・・・・


 さて、昨日の続きです。

蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)の奥の宮は門の宮から東に700mくらい離れた場所にある。

蛟蝄は「みつち」とも読みます。水蛇(みずち)からこの名前になったともいわれています。

パンフレットなどの説明によると孝霊天皇3年(紀元前288)に水神である弥都波能売命(みつはのめのみこと)を
現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文間大明神といわれてきたそうです。
そして、文武天皇2年(698)に土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、東の高台に遷座したという。

ただし、この頃の話ははっきりしているわけではなく言い伝えやその後に作られたものかもしれません。

それ程離れた場所ではないのでもしかしたらつながっていたかもしれません。

門の宮に鳥居があり、山側で6~700mくらい参道があってもおかしくは無い位置関係なのですが、歩ける道もない。

こちら(奥の宮)には社務所があり、すぐ裏手に老人ホームがあるが木々で覆われてその存在は感じさせない。

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門の宮からは山を廻りこむような下の道路を進み、やはりここから階段で登る。
車は脇から上に登れば上に駐車場はある。

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奥の宮の本殿がポツンと置かれていた。
拝殿はその手前に新しく建て替えするために基礎だけが作られていた。

本殿は元禄16年(1703年)造営

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そして狛犬がこれも両脇にそのまま残されていた。

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向かって左の吽形。なかなか趣のある姿で、

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右側の阿形。口には両側に牙がある。

嘉永5年(1852)9月建立? 「信州 上田侍従 源忠優侯」と彫られている。

これは面白い。徳川は源姓を名乗っていたらしい。

上田城は真田の城で名高い。

ここに松平忠優(ただます)は19歳で信州上田城主となった。老中になったのは37歳だという。
鎖国を開いたのもこの忠優だともいう。

何故ここと上田城主又は江戸の老中との関係は?

下総布川藩との関係なども調べたら面白いことがわかるだろう。

これは時間が無いので、また後の譲ろう。


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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/11 20:51

北用水樋門

 蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)の奥の宮からすぐ下のの田んぼ道にでました。

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写真の木々の茂った場所が蛟蝄神社の奥の宮のある山です。
昔はこの田んぼのある辺りがすべて内海だったとすると、この山は小さな島であったことになります。
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利根町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/09/12 19:22
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