鹿行大橋
昨日が十三夜で明日が皆既月食だとかいってテレビなどでも騒いでおりますが、昨日の台風明けの月は少しいびつであまり美しいとは思いませんでした。
まあ旧暦8月の十五夜に対して旧暦9月の十三夜を愛でてきたのもわからない訳でもありませんが、こちらはやはり花より団子です。
昨日買ったお月見団子を今日のほぼ真丸な凛としたような空気の中に見る月を眺めながら食べることにします。
明日の夜7時半頃から見られる月食も今日のような月だったら良いですね。
ただ6時過ぎくらいから時々雲に隠れたり出たりしていますが、5時半頃はハッとするような月でした。
さて、今日は先日出掛けたついでに廻り道をして北浦方面に行ったので紹介します。
今まで霞ヶ浦の北浦方面に行く機会があまりなかったのです。
鹿島の周辺ということで塚原卜伝の墓や大生神社などには行ったのだが・・・。
今回は玉造から354号線で旧大洋村の方に向かった。

この道が北浦を渡る橋が鹿行(ろっこう)大橋だ。
もちろん鹿島と行方の頭文字をとって付けられた名前だが、天気予報などでも鹿行(ろっこう)地方と呼ばれることも多い。

上の写真は大橋側から北側鉾田方面を眺めたもの。
水戸から江戸の水上交通ルートに昔は使われたのだろう。
徳川崩壊後、徳川慶喜が江戸から水戸に移された時もここを通ったのだろうか。
少なくとも水戸街道などではなく船が使われたものと思われる。
この橋が狭くて、相互通行ができないような橋であったため掛け替えるための工事が2002年から行われてきていたのだが、その時に東日本大震災の大地震が起こった。
全国的には大きく取り上げられていないが、この橋が崩壊し、通行していた車数台が湖に落ちて、1人が死亡した。
もう少し早く完成していればこんなことにはならなかった。
今回の大地震で橋が崩壊して人が犠牲になったのはおそらくここだけだったように思う。

その隣に造られていたこの大橋は事故後に完成を急いで1年後の2012年4月に完成した。
事故後崩落した旧大橋は今年の1月にやっと撤去された。

北浦には3本の橋がかかっているが、ここが一番北の橋になる。
上の写真の方向は南の潮来方向を眺めたもの。

この新しい橋の手前に真中あたりが崩壊した旧大橋があったという。
今の新しい橋は立派な橋である。
まあ旧暦8月の十五夜に対して旧暦9月の十三夜を愛でてきたのもわからない訳でもありませんが、こちらはやはり花より団子です。
昨日買ったお月見団子を今日のほぼ真丸な凛としたような空気の中に見る月を眺めながら食べることにします。
明日の夜7時半頃から見られる月食も今日のような月だったら良いですね。
ただ6時過ぎくらいから時々雲に隠れたり出たりしていますが、5時半頃はハッとするような月でした。
さて、今日は先日出掛けたついでに廻り道をして北浦方面に行ったので紹介します。
今まで霞ヶ浦の北浦方面に行く機会があまりなかったのです。
鹿島の周辺ということで塚原卜伝の墓や大生神社などには行ったのだが・・・。
今回は玉造から354号線で旧大洋村の方に向かった。

この道が北浦を渡る橋が鹿行(ろっこう)大橋だ。
もちろん鹿島と行方の頭文字をとって付けられた名前だが、天気予報などでも鹿行(ろっこう)地方と呼ばれることも多い。

上の写真は大橋側から北側鉾田方面を眺めたもの。
水戸から江戸の水上交通ルートに昔は使われたのだろう。
徳川崩壊後、徳川慶喜が江戸から水戸に移された時もここを通ったのだろうか。
少なくとも水戸街道などではなく船が使われたものと思われる。
この橋が狭くて、相互通行ができないような橋であったため掛け替えるための工事が2002年から行われてきていたのだが、その時に東日本大震災の大地震が起こった。
全国的には大きく取り上げられていないが、この橋が崩壊し、通行していた車数台が湖に落ちて、1人が死亡した。
もう少し早く完成していればこんなことにはならなかった。
今回の大地震で橋が崩壊して人が犠牲になったのはおそらくここだけだったように思う。

その隣に造られていたこの大橋は事故後に完成を急いで1年後の2012年4月に完成した。
事故後崩落した旧大橋は今年の1月にやっと撤去された。

北浦には3本の橋がかかっているが、ここが一番北の橋になる。
上の写真の方向は南の潮来方向を眺めたもの。

この新しい橋の手前に真中あたりが崩壊した旧大橋があったという。
今の新しい橋は立派な橋である。
北浦大橋
今日は皆既月食というので先ほどまで時々月を見ていたが、確かに欠けて行くのだが影が覆っていくだけなのであまり感動するほどではなかった。
それより5時半過ぎに東の空にオレンジ色の真丸の月が一切雲もなく上がって来ている様はまさに感動ものであった。
こうして時々月を見るのも悪くないなと思った。
さて、今日は昨日紹介した鹿行大橋から潮来方面に進んだ北浦の中間くらいに架かる「北浦大橋」を紹介します。
鹿行大橋よりこちらの方が大分長いです。

長さは1295.8m(約1.3km)あります。1995年2月に完成。
淡水湖に架かる橋としては滋賀県の琵琶湖大橋についで日本第2位の長さがあります。

橋の名前の愛称を募集して「サン・ブリッジ」と決まったようですが、あまり聞いたことが無いのでまだ一般的ではないのでしょうか。

県道186号線が通っています。この橋もまだ渡ったことがありません。
橋が完成した時の東側は大野町でしたが、この年の秋に鹿島市に合併されました。
なかなか橋をかけるのも費用がかかり大変ですね。この橋は103億円かかったそうです。

湖岸から北の方を眺めました。
鹿行大橋が小さく見えます。
この北浦の先端が鉾田の町です。メロンが美味しいところですね。
それより5時半過ぎに東の空にオレンジ色の真丸の月が一切雲もなく上がって来ている様はまさに感動ものであった。
こうして時々月を見るのも悪くないなと思った。
さて、今日は昨日紹介した鹿行大橋から潮来方面に進んだ北浦の中間くらいに架かる「北浦大橋」を紹介します。
鹿行大橋よりこちらの方が大分長いです。

長さは1295.8m(約1.3km)あります。1995年2月に完成。
淡水湖に架かる橋としては滋賀県の琵琶湖大橋についで日本第2位の長さがあります。

橋の名前の愛称を募集して「サン・ブリッジ」と決まったようですが、あまり聞いたことが無いのでまだ一般的ではないのでしょうか。

県道186号線が通っています。この橋もまだ渡ったことがありません。
橋が完成した時の東側は大野町でしたが、この年の秋に鹿島市に合併されました。
なかなか橋をかけるのも費用がかかり大変ですね。この橋は103億円かかったそうです。

湖岸から北の方を眺めました。
鹿行大橋が小さく見えます。
この北浦の先端が鉾田の町です。メロンが美味しいところですね。
唐臼神社
霞ヶ浦の北浦沿岸は見所もこれといってないし、関係のある人もいないのであまり行くこともない場所だが、行かなければどんな所かわからない。
そんな気持ちで寄り道をしてみたが、港町でも無く確かにめぼしいものを感じることは無かった。
でもこれも表面的に通っただけだから何もわかっていないと言ってよいだろう。
常陸国風土記にはこちらの方に「白鳥の里」と呼ばれるところが書かれている。
場所は特定されていないが大洋村の内陸側であろう。
角折などという地名も出てくるがこれは今も地名で残っている。

鹿行大橋を渡って、北浦の東岸にそって道路沿いを車で走ったが、北浦大橋の少し手前に少しまとまった部落があった。
この辺りには少し古い神社があるだろうと気にしてみていたら、少し横道に入ったところの山の上に神社があることに気がついた。

小山の下の入口はには「村社唐臼神社」とあった。

山を巻くように登り道がつけられている。

少し登ったところに神社と二の鳥居があった。

この辺りの神社としては比較的整備され、大事にされているように感じた。

この「唐臼(からうす)」という神社の名前だが、全国に何社かあるようだ。
テコ棒を足で踏んで、臼の中の籾米をついて玄米にする農機具を言うようだがこれを祀っているとは少し考えにくい。
もう少し違った意味があったのではないかと思うが確かめようもない。
愛知県津島市に唐臼という地名があるし、この近くには小野妹子の墓ともいわれる唐臼山古墳もある。

このような場所も気にかけていると別な角度から新しい発見もありそうな気がする。
本殿は廻りを覆われていて良く見ることはできません。

山から元の入口に戻った通りの向こう側に「大野高齢者センター」という建物がありました。
そんな気持ちで寄り道をしてみたが、港町でも無く確かにめぼしいものを感じることは無かった。
でもこれも表面的に通っただけだから何もわかっていないと言ってよいだろう。
常陸国風土記にはこちらの方に「白鳥の里」と呼ばれるところが書かれている。
場所は特定されていないが大洋村の内陸側であろう。
角折などという地名も出てくるがこれは今も地名で残っている。

鹿行大橋を渡って、北浦の東岸にそって道路沿いを車で走ったが、北浦大橋の少し手前に少しまとまった部落があった。
この辺りには少し古い神社があるだろうと気にしてみていたら、少し横道に入ったところの山の上に神社があることに気がついた。

小山の下の入口はには「村社唐臼神社」とあった。

山を巻くように登り道がつけられている。

少し登ったところに神社と二の鳥居があった。

この辺りの神社としては比較的整備され、大事にされているように感じた。

この「唐臼(からうす)」という神社の名前だが、全国に何社かあるようだ。
テコ棒を足で踏んで、臼の中の籾米をついて玄米にする農機具を言うようだがこれを祀っているとは少し考えにくい。
もう少し違った意味があったのではないかと思うが確かめようもない。
愛知県津島市に唐臼という地名があるし、この近くには小野妹子の墓ともいわれる唐臼山古墳もある。

このような場所も気にかけていると別な角度から新しい発見もありそうな気がする。
本殿は廻りを覆われていて良く見ることはできません。

山から元の入口に戻った通りの向こう側に「大野高齢者センター」という建物がありました。
北浦
今日銚子に行ってきました。
朝方に家を出て、今日は北浦の方を回って行きました。

よい天気です。
新鹿行大橋を渡り、行方から鹿嶋に行きます。
大橋を渡り、すぐに北浦沿いの堤防上の道へ。
こちら側から大橋を見ることもあまりありませんでしたのですこし新鮮です。

向こうに見える建物は北浦荘? 地元の日帰り温泉施設です。

霞ケ浦側(南側)を見ると太陽が輝いています。
とても穏やかです。
昔はここも水運が発達していたようです。
今ではモタープールに置かれている舟もあまり漁舟らしきものの数が少ないように思います。
水辺には釣り人が数人いました。
のどかです。
これからの仕事のことなど忘れそうでした。
朝方に家を出て、今日は北浦の方を回って行きました。

よい天気です。
新鹿行大橋を渡り、行方から鹿嶋に行きます。
大橋を渡り、すぐに北浦沿いの堤防上の道へ。
こちら側から大橋を見ることもあまりありませんでしたのですこし新鮮です。

向こうに見える建物は北浦荘? 地元の日帰り温泉施設です。

霞ケ浦側(南側)を見ると太陽が輝いています。
とても穏やかです。
昔はここも水運が発達していたようです。
今ではモタープールに置かれている舟もあまり漁舟らしきものの数が少ないように思います。
水辺には釣り人が数人いました。
のどかです。
これからの仕事のことなど忘れそうでした。
鹿行大橋
先日銚子に行くときに、久しぶりに北浦の鹿行大橋を廻っていった。
玉造から国道354号線(北浦バイパス)を通り、北浦に架かる橋が鹿行大橋(ろっこうおおはし)という。
この名前は鹿島(かしま)と行方(なめがた)地方をつなぐ橋で、茨城県の地域区割りも「鹿行地区」となっている。

これが今の鹿行大橋だ。

北浦は霞ケ浦の一部と言ってもいいだろう。鉾田から潮来の間をつなぎ、昔は水運も発達していて、水戸方面から江戸まで物資を運んだし、蒸気船もはしった。
霞ケ浦との接点は鰐川(わにかわ)から外浪逆浦(そとなさかうら)などという流れが逆流する意味合いの名がついた浦でつながっている。
しかしこのあたりは流れがあるようにはあまり感じない。
霞ケ浦も昔はそれぞれの地域で「○○の流れ海」などと呼ばれた。

今は堤防も整備されている。

さて、この鹿行大橋は、東日本大震災で橋の真ん中が倒壊して、車が下に落ち一人が亡くなった。
当時全国的にはあまり話題にならなかったが、死者がでたのだから忘れられない事件だった。
橋の崩落した写真が上の写真。 この時現在の新しい橋を建設中で、崩落したのは旧橋の方だ。
写真の右側が橋の真ん中部分が下に落ちてしまったもの。
左側が新しく建設中だった橋で、この後完成を急ぎ現在の橋となっている。

当時の新聞記事に載った崩落部分の橋と水中を捜索している様子。

行方側(旧北浦町)の橋のたもとにあった「北浦荘」は現在も営業している。

このあたりでは珍しい源泉かけ流し温泉施設のある日帰り温泉施設。
朝は10時からだが私がこのあたりを走るのは9時半頃なのでまだやっていない。
時間があれば400円で利用できるだが、のんびりもしていられないので利用したことはない。
それにしても茨城でも、鹿島神宮は大鳥居が倒れたし、この橋の落下があり、北浦の六角堂が流されたなどの津波被害もあちこちにあった。
あれから7年だが、あれだけの大きな地震だったから10年は余震や火山の噴火などもまだおこる。
今のオリンピックでの活躍もうれしいが、2年後のオリンピックの時に何か起こらねばよいが・・・。
玉造から国道354号線(北浦バイパス)を通り、北浦に架かる橋が鹿行大橋(ろっこうおおはし)という。
この名前は鹿島(かしま)と行方(なめがた)地方をつなぐ橋で、茨城県の地域区割りも「鹿行地区」となっている。

これが今の鹿行大橋だ。

北浦は霞ケ浦の一部と言ってもいいだろう。鉾田から潮来の間をつなぎ、昔は水運も発達していて、水戸方面から江戸まで物資を運んだし、蒸気船もはしった。
霞ケ浦との接点は鰐川(わにかわ)から外浪逆浦(そとなさかうら)などという流れが逆流する意味合いの名がついた浦でつながっている。
しかしこのあたりは流れがあるようにはあまり感じない。
霞ケ浦も昔はそれぞれの地域で「○○の流れ海」などと呼ばれた。

今は堤防も整備されている。

さて、この鹿行大橋は、東日本大震災で橋の真ん中が倒壊して、車が下に落ち一人が亡くなった。
当時全国的にはあまり話題にならなかったが、死者がでたのだから忘れられない事件だった。
橋の崩落した写真が上の写真。 この時現在の新しい橋を建設中で、崩落したのは旧橋の方だ。
写真の右側が橋の真ん中部分が下に落ちてしまったもの。
左側が新しく建設中だった橋で、この後完成を急ぎ現在の橋となっている。

当時の新聞記事に載った崩落部分の橋と水中を捜索している様子。

行方側(旧北浦町)の橋のたもとにあった「北浦荘」は現在も営業している。

このあたりでは珍しい源泉かけ流し温泉施設のある日帰り温泉施設。
朝は10時からだが私がこのあたりを走るのは9時半頃なのでまだやっていない。
時間があれば400円で利用できるだが、のんびりもしていられないので利用したことはない。
それにしても茨城でも、鹿島神宮は大鳥居が倒れたし、この橋の落下があり、北浦の六角堂が流されたなどの津波被害もあちこちにあった。
あれから7年だが、あれだけの大きな地震だったから10年は余震や火山の噴火などもまだおこる。
今のオリンピックでの活躍もうれしいが、2年後のオリンピックの時に何か起こらねばよいが・・・。
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