安食駅
さて、成田方面に向かって行ったのは成田山新勝寺ではなく、安食(あじき)です。
何で? なんて思われそうですが、ここの龍角寺を見ておきたかったのです。
今まで古東海道が下総国の国府(市川)から常陸国の国府(石岡)に渡るにはどのようにしてきたのかと考えてきました。
時代でかなり変わってきたのですが、この龍角寺方面から成田や鹿島は近いのですが、昔の流れ海を渡って常陸国に来るにはこの辺りからやってきたとの考えも捨てきれません。
ここは安食(あじき)という地名ですが、かすみがうら市の旧出島地区には安食と書いて「あんじき」と読む地名があります。
全国にもこの両方の読みがたくさん混在しています。どのような意味があるのでしょうか。

成田線の安食駅に行ってみました。
特に何もありません。
我孫子から成田まで走っている成田線(成田から先に銚子までも続いています)。
この線の駅名は皆面白いのです。それぞれ古臭い感じはしますがとても歴史を感じます。
「布佐」 は(ふさ)=総と同じで総国ですので麻です。
「木下」は(きおろし)=材木を川に下ろした場所又はその反対? それとも。「き(処)・おろし(崖)」で崖地?
「小林」は(こばやし) 「ふる(降る)・はやし(早し)」の転訛で浸水しやすい崖地という意味か。または川の流れの早い所?
「安食」は(あじき)は「あし(崖)・き(処)」で崖地という意味とか。
「下総松崎」は(しもうさまんざき) 読みは難しいが「松崎」は戦国時代頃からの名前らしい。

昔成田から海外に出張で出かけた時に我孫子からこの成田線に乗った。
まあのんびりした電車という感じで単線であった。
電車のすれ違いに駅で少し待たされたりしたし、空港に行く大きな荷物を持って乗っているのがどこか場違いのような感じだった。
その後バス路線ができて空港にもバスでいくか車でも近くのパーキングもそれほど高くは無いので旅行などの時は利用した。
最近は迎え専門だから車で行って空港の駐車場に止めることが多い。

この安食の駅前も閑散としている。
近くに都会への通勤の団地もたくさんできたのだがこの電車が不便だというのでほとんどが車での通勤が多いという。

ここは栄町という。東は成田市、西は印西市に挟まれている。
北は利根川に接し、南は印旛沼があります。
この町には龍角寺があり、この台地に地名として広い範囲で使われているので「龍のまち」と書かれた看板がありました。

いろいろ見所が書かれているが今回は時間が無いので龍角寺だけを目指してきたのだが、すぐわかると思ったのが間違いで少し脇道をうろうろしてしまいました。
まあこれはいつものことですので・・・・。
でも山道などがだんだん細くなってきたりして引き返す場所が無いなんてこともしばしばです。
今回もそうでした。(笑)
途中寄り道した所なども含めて次回から数回に分けて紹介します。
何で? なんて思われそうですが、ここの龍角寺を見ておきたかったのです。
今まで古東海道が下総国の国府(市川)から常陸国の国府(石岡)に渡るにはどのようにしてきたのかと考えてきました。
時代でかなり変わってきたのですが、この龍角寺方面から成田や鹿島は近いのですが、昔の流れ海を渡って常陸国に来るにはこの辺りからやってきたとの考えも捨てきれません。
ここは安食(あじき)という地名ですが、かすみがうら市の旧出島地区には安食と書いて「あんじき」と読む地名があります。
全国にもこの両方の読みがたくさん混在しています。どのような意味があるのでしょうか。

成田線の安食駅に行ってみました。
特に何もありません。
我孫子から成田まで走っている成田線(成田から先に銚子までも続いています)。
この線の駅名は皆面白いのです。それぞれ古臭い感じはしますがとても歴史を感じます。
「布佐」 は(ふさ)=総と同じで総国ですので麻です。
「木下」は(きおろし)=材木を川に下ろした場所又はその反対? それとも。「き(処)・おろし(崖)」で崖地?
「小林」は(こばやし) 「ふる(降る)・はやし(早し)」の転訛で浸水しやすい崖地という意味か。または川の流れの早い所?
「安食」は(あじき)は「あし(崖)・き(処)」で崖地という意味とか。
「下総松崎」は(しもうさまんざき) 読みは難しいが「松崎」は戦国時代頃からの名前らしい。

昔成田から海外に出張で出かけた時に我孫子からこの成田線に乗った。
まあのんびりした電車という感じで単線であった。
電車のすれ違いに駅で少し待たされたりしたし、空港に行く大きな荷物を持って乗っているのがどこか場違いのような感じだった。
その後バス路線ができて空港にもバスでいくか車でも近くのパーキングもそれほど高くは無いので旅行などの時は利用した。
最近は迎え専門だから車で行って空港の駐車場に止めることが多い。

この安食の駅前も閑散としている。
近くに都会への通勤の団地もたくさんできたのだがこの電車が不便だというのでほとんどが車での通勤が多いという。

ここは栄町という。東は成田市、西は印西市に挟まれている。
北は利根川に接し、南は印旛沼があります。
この町には龍角寺があり、この台地に地名として広い範囲で使われているので「龍のまち」と書かれた看板がありました。

いろいろ見所が書かれているが今回は時間が無いので龍角寺だけを目指してきたのだが、すぐわかると思ったのが間違いで少し脇道をうろうろしてしまいました。
まあこれはいつものことですので・・・・。
でも山道などがだんだん細くなってきたりして引き返す場所が無いなんてこともしばしばです。
今回もそうでした。(笑)
途中寄り道した所なども含めて次回から数回に分けて紹介します。
高浜虚子碑と長門川
安食手前に通りから脇道方面に「高浜虚子碑」と案内板があった。
道は狭そうだが折角来たのだから見ておかないといけません。
少しくねくねと狭い道を進みました。
すると開けた川岸に何やら石碑がありました。
風光明美なところなのでしょう。

利根川と印旛沼をつなぐ川がこの長門川ですが、やはり流れはほとんどないくらい穏やかです。
もっとも大昔は利根川も印旛沼も一体で大きな流れ海の一部であったはずです。

後に見えるのは「長門橋」です。
ここも国道356号(利根水郷ライン)が通っているのですが、この橋はきっと重量制限がありそうです。
私が最初に通っていたところも356号線でしたがここもまた356号線のようです。
私はこの橋は渡っていません。

「水温む利根の堤や吹くは北」
大正6年4月26日、子息としを氏を初め日日国民両新聞記者等20余名の同門を引き連れ、高浜虚子先生春の大利根に来る。これを迎えんとして参加する者、千葉・茨城の俳人160余名、丹波の泊雲氏醸造の銘酒「小鼓」を打ちながら安食の長門橋より高瀬舟に乗る。小鼓に酔春の歓喜交々唄ふ。ことに大漁節の合唱は對岸の人々を驚かしめ、灯ともる頃矢口川岸に上陸、それより龍路をたどり橋本旅館に泊り盛大な句会を催せり。為めに此の辺りの俳筵大いに興るを当時の国民新聞は報じ、又鈴木三羊もその模様をかく描写してゐる。
(現地石碑)

すぐ上の横道脇に置かれた地蔵と青面金剛。
この辺りの地形を見るにはやはり昔の姿を思い浮かべるしかありません。
それにはこのFloodMapsが便利です。
これは海面高さを+6mとした時のものです。
印旛沼と利根川がつながりました。
そして陸地の境界線を成田線が走っていることがわかります。

道は狭そうだが折角来たのだから見ておかないといけません。
少しくねくねと狭い道を進みました。
すると開けた川岸に何やら石碑がありました。
風光明美なところなのでしょう。

利根川と印旛沼をつなぐ川がこの長門川ですが、やはり流れはほとんどないくらい穏やかです。
もっとも大昔は利根川も印旛沼も一体で大きな流れ海の一部であったはずです。

後に見えるのは「長門橋」です。
ここも国道356号(利根水郷ライン)が通っているのですが、この橋はきっと重量制限がありそうです。
私が最初に通っていたところも356号線でしたがここもまた356号線のようです。
私はこの橋は渡っていません。

「水温む利根の堤や吹くは北」
大正6年4月26日、子息としを氏を初め日日国民両新聞記者等20余名の同門を引き連れ、高浜虚子先生春の大利根に来る。これを迎えんとして参加する者、千葉・茨城の俳人160余名、丹波の泊雲氏醸造の銘酒「小鼓」を打ちながら安食の長門橋より高瀬舟に乗る。小鼓に酔春の歓喜交々唄ふ。ことに大漁節の合唱は對岸の人々を驚かしめ、灯ともる頃矢口川岸に上陸、それより龍路をたどり橋本旅館に泊り盛大な句会を催せり。為めに此の辺りの俳筵大いに興るを当時の国民新聞は報じ、又鈴木三羊もその模様をかく描写してゐる。
(現地石碑)

すぐ上の横道脇に置かれた地蔵と青面金剛。
この辺りの地形を見るにはやはり昔の姿を思い浮かべるしかありません。
それにはこのFloodMapsが便利です。
これは海面高さを+6mとした時のものです。
印旛沼と利根川がつながりました。
そして陸地の境界線を成田線が走っていることがわかります。

龍角寺(1)
千葉県印旛沼周辺に伝わる有名な龍の伝説がある。
-------------------------------------------------------------
昔々のことです。
印旛沼に沼の主である龍がいました。
この龍はとても人が好きで、時々青年に姿を変えて村人の所に現われて村人と一緒に交流を楽しんでおりました。
村人もこの青年の首にうろこがあることに気が付き、龍であることを知っていたのです。
ある年のこと、 村には毎日毎日激しい日照りが続き、農作物は枯れ、村人たちは日増しに生活は苦しくなっていきました。
その姿を見て胸を痛めたこの龍の青年は、村人への恩返しのため自分の命も惜しまず雨を降らせることを決意しました。
龍はありったけの力で、印旛沼の残りすくなくなった水面から天に向かって昇って行きました。
天に向かって登って行った龍は天をするどく睨みつけました。
すると、たちまち黒雲がたちこめ、あたり一面に雨が降り始めました。
雨はしばらく降り続け、あたりの乾いた地面に潤いをもたらし、やがて轟音と閃光が走りました。
すると天から黒い塊が3つ飛び散り、雨は止みました。
この恵の雨に歓喜している村人のもとへ、どこからか現れた老人が告げました。
「龍は大竜王から雨を降らせることを禁じられていたのだ。しかしその掟をやぶった印旛沼の竜の彼はこの大竜王の怒りに触れ、体を引き裂かれてしまったのだ。」
村人たちは大変悲しみ、龍の亡骸を探し出し、それぞれの体が落ちていた場所に寺を建て、龍の供養をしたのです。
龍の頭(角)が落ちたところには龍角寺、龍の体が落ちたところには龍腹寺、そして龍の尾が落ちたところには龍尾寺となり今に伝わっています。
-----------------------------------------------------------
龍尾寺は少し離れた東側の匝瑳市大寺にあり、先日紹介しました。(こちら)
佐倉風土記には「和銅2年(709年)の龍女がここに金の薬師如来を祀ったのが始まりだと伝えられる。
その後天平3年(731年)にこの地方が干ばつに見舞われ、印旛沼の竜が天に昇って雨をふらせたが、龍はからだが3つに分かれて別々な場所に落ちたと言われている。
今回は龍角寺を紹介するのですが、この栄町は「龍のまち」ともいうようにこの龍角寺が大きなウェイトを占めている。
龍角寺台などという地名も残されている。
そのため、近くに行けばすぐにわかると思ったが、例によってウロウロしてしまった。
案内も目立たないものであり、道もせまく意外な感じであった。

天竺山寂光院 天台宗の古刹である。 本尊は薬師如来。
龍伝説でもわかる通りこの寺は関東でも屈指の古い寺の一つといわれている。
そして発掘調査の結果もっと古い寺であった可能性も出てきているという。

しかし寺の正面に見える拝殿も、粗末なもので拍子抜け。
この拝殿の裏に収納庫があります。
この寺には国の重要文化財に指定されている白鳳期の銅製薬師如来座像があり、709年の制作と考えられています。
(一部胴体は後に改鋳)
これは許可を事前に得てからでないと見ることは出来ないという。

入口の拝殿前には大きなイチョウの木がありました。
近所の御夫婦でしょうか、一生懸命に銀杏拾いをしていました。
まあこのままにしていてもにおいが臭いだけですから、中の硬い実を取り出すだけでも大変です。

寺の拝殿裏に回って見たらそこには太古の昔にあったとされる寺の伽藍の跡が広がる場所でした。
正面の少し高くなった場所が金堂跡で、礎石なども置かれています。


正面の少し高くなったところが金堂跡。 その先の建物が校倉造りの資料館です。
法隆寺式の七堂伽藍があった割には敷地はせまい。

ここ龍角寺も8世紀初めに創建されたといわれていますが中世には衰退して、承久2年(1220年)に上総介平常秀が再興し、1591年には家康から20石が与えられているそうですが、昔をしのぶ建物は今はありません。
(明日に続く)
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昔々のことです。
印旛沼に沼の主である龍がいました。
この龍はとても人が好きで、時々青年に姿を変えて村人の所に現われて村人と一緒に交流を楽しんでおりました。
村人もこの青年の首にうろこがあることに気が付き、龍であることを知っていたのです。
ある年のこと、 村には毎日毎日激しい日照りが続き、農作物は枯れ、村人たちは日増しに生活は苦しくなっていきました。
その姿を見て胸を痛めたこの龍の青年は、村人への恩返しのため自分の命も惜しまず雨を降らせることを決意しました。
龍はありったけの力で、印旛沼の残りすくなくなった水面から天に向かって昇って行きました。
天に向かって登って行った龍は天をするどく睨みつけました。
すると、たちまち黒雲がたちこめ、あたり一面に雨が降り始めました。
雨はしばらく降り続け、あたりの乾いた地面に潤いをもたらし、やがて轟音と閃光が走りました。
すると天から黒い塊が3つ飛び散り、雨は止みました。
この恵の雨に歓喜している村人のもとへ、どこからか現れた老人が告げました。
「龍は大竜王から雨を降らせることを禁じられていたのだ。しかしその掟をやぶった印旛沼の竜の彼はこの大竜王の怒りに触れ、体を引き裂かれてしまったのだ。」
村人たちは大変悲しみ、龍の亡骸を探し出し、それぞれの体が落ちていた場所に寺を建て、龍の供養をしたのです。
龍の頭(角)が落ちたところには龍角寺、龍の体が落ちたところには龍腹寺、そして龍の尾が落ちたところには龍尾寺となり今に伝わっています。
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龍尾寺は少し離れた東側の匝瑳市大寺にあり、先日紹介しました。(こちら)
佐倉風土記には「和銅2年(709年)の龍女がここに金の薬師如来を祀ったのが始まりだと伝えられる。
その後天平3年(731年)にこの地方が干ばつに見舞われ、印旛沼の竜が天に昇って雨をふらせたが、龍はからだが3つに分かれて別々な場所に落ちたと言われている。
今回は龍角寺を紹介するのですが、この栄町は「龍のまち」ともいうようにこの龍角寺が大きなウェイトを占めている。
龍角寺台などという地名も残されている。
そのため、近くに行けばすぐにわかると思ったが、例によってウロウロしてしまった。
案内も目立たないものであり、道もせまく意外な感じであった。

天竺山寂光院 天台宗の古刹である。 本尊は薬師如来。
龍伝説でもわかる通りこの寺は関東でも屈指の古い寺の一つといわれている。
そして発掘調査の結果もっと古い寺であった可能性も出てきているという。

しかし寺の正面に見える拝殿も、粗末なもので拍子抜け。
この拝殿の裏に収納庫があります。
この寺には国の重要文化財に指定されている白鳳期の銅製薬師如来座像があり、709年の制作と考えられています。
(一部胴体は後に改鋳)
これは許可を事前に得てからでないと見ることは出来ないという。

入口の拝殿前には大きなイチョウの木がありました。
近所の御夫婦でしょうか、一生懸命に銀杏拾いをしていました。
まあこのままにしていてもにおいが臭いだけですから、中の硬い実を取り出すだけでも大変です。

寺の拝殿裏に回って見たらそこには太古の昔にあったとされる寺の伽藍の跡が広がる場所でした。
正面の少し高くなった場所が金堂跡で、礎石なども置かれています。


正面の少し高くなったところが金堂跡。 その先の建物が校倉造りの資料館です。
法隆寺式の七堂伽藍があった割には敷地はせまい。

ここ龍角寺も8世紀初めに創建されたといわれていますが中世には衰退して、承久2年(1220年)に上総介平常秀が再興し、1591年には家康から20石が与えられているそうですが、昔をしのぶ建物は今はありません。
(明日に続く)
龍角寺(2)
龍角寺の説明は昨日したので、今日は境内に残されたものを写真で見ていただきましょう。

三重の塔(または五重塔)の礎石(花崗岩)。

この塔の礎石の凹にたまった水は不思議な事にいつも同じ高さの水面を保っており、決して干上がったりあふれたりしないという。
今でもそうなのかは確かめていませんが・・・・。

千葉県指定史跡 龍角寺古瓦保存塚。
昭和9年の調査で発掘された瓦は奈良時代前期のものといわれる。

立派な宝篋印塔がたくさんこの金堂跡の両側に建っている。
何時頃のものか。
この手の宝篋印塔は鎌倉時代以降と思われるので、承久2年(1220年)上総介平常秀が再興した後のものと思われる。
江戸時代のものかもしれない。

それにしてもかなり立派なものでこれだけ並んでいると壮観である。

校倉造り資料館。 明治初期の建造といわれる。
最初に建てられたのは宮内庁下総御料牧場(成田市三里塚)にあったが、成田空港建設でこの地に移された。

この資料館の屋根は藁葺で、その上にトタンで保護しているようである。

この資料館の周りにはたくさんの石像が置かれていました。
真中の石塔に大乗の文字が読めますので六十六部回国記念塔だと思います。


ここの本尊の国の文化財である銅製薬師如来座像は見ることができませんでした。
栄町役場に申請して拝観の許可もらって奉安殿(どこにある?)という収蔵庫を開けてもらう必要があるようです。
(事前予約)
この白鳳期の仏像としては関東では東京調布の深大寺にもあります。
こちらは昔ご開帳している時にガラス越しに見たことがあります。
なかなか素晴らしいものでした。

三重の塔(または五重塔)の礎石(花崗岩)。

この塔の礎石の凹にたまった水は不思議な事にいつも同じ高さの水面を保っており、決して干上がったりあふれたりしないという。
今でもそうなのかは確かめていませんが・・・・。

千葉県指定史跡 龍角寺古瓦保存塚。
昭和9年の調査で発掘された瓦は奈良時代前期のものといわれる。

立派な宝篋印塔がたくさんこの金堂跡の両側に建っている。
何時頃のものか。
この手の宝篋印塔は鎌倉時代以降と思われるので、承久2年(1220年)上総介平常秀が再興した後のものと思われる。
江戸時代のものかもしれない。

それにしてもかなり立派なものでこれだけ並んでいると壮観である。

校倉造り資料館。 明治初期の建造といわれる。
最初に建てられたのは宮内庁下総御料牧場(成田市三里塚)にあったが、成田空港建設でこの地に移された。

この資料館の屋根は藁葺で、その上にトタンで保護しているようである。

この資料館の周りにはたくさんの石像が置かれていました。
真中の石塔に大乗の文字が読めますので六十六部回国記念塔だと思います。


ここの本尊の国の文化財である銅製薬師如来座像は見ることができませんでした。
栄町役場に申請して拝観の許可もらって奉安殿(どこにある?)という収蔵庫を開けてもらう必要があるようです。
(事前予約)
この白鳳期の仏像としては関東では東京調布の深大寺にもあります。
こちらは昔ご開帳している時にガラス越しに見たことがあります。
なかなか素晴らしいものでした。
木曳坂
龍角寺と廻りの地形を知るためにウロウロして、手前の酒直地区の新興住宅内のはずれの道から成田線側に急な下り坂の脇を斜めに下りる道に「木曳坂」と書かれた看板が建てられていた。

これは龍角寺を上総介平常秀が再興した承久2年(1220年)の鎌倉時代のことであろう。
この下から寺の建築のための木材を曳いて通った道という伝承が残されているのだそうだ。
ということはこの坂の下に昔の内海であった香取海当時の津(湊)があったと言うことなのだろう。
地図で確かめることにした。
現在はこの坂を車で行くのは危なそうで、真直ぐに下へ降りる車道があるのでそちらを下って見た。
下りるとすぐに成田線の線路があり、踏切を渡ると線路沿いの県道に出た。この辺りは船戸というらしい。
佐原にも確か船戸という地名があった。
しかしこの佐原の船戸は利根川のすぐわきであり昔の津があったところというのは理解できるのだが、こちらはまだ川や印旛沼までは少し離れている気がする。
FloodMapsで海面水位を5~7m上昇させて昔の地形を想像した。
しかしこの辺りの海岸線は+7mも+5mもそれほど変わらない。
確かにこの線路際まで水が来ていても不思議ではないが、縄文海進時代ならともかく鎌倉時代でもこんなに水位が高かったとは考えにくい。
するとやはり江戸以降に利根川を銚子の方に東遷して、上流から大量の土砂が流れて陸地化したと考えるべきなのだろうか。
ただ香取の海の津があったというと現在の利根川側から舟で材木を運んだと思われそうだが、地図を見てどうやら佐倉市の方から印旛沼(現在より大分大きな)を通って運んできたと考える方が可能性は高いと感じた。
1220年頃にこの辺りがどのようになっていたかはやはり想像するしかないようです。


これは龍角寺を上総介平常秀が再興した承久2年(1220年)の鎌倉時代のことであろう。
この下から寺の建築のための木材を曳いて通った道という伝承が残されているのだそうだ。
ということはこの坂の下に昔の内海であった香取海当時の津(湊)があったと言うことなのだろう。
地図で確かめることにした。
現在はこの坂を車で行くのは危なそうで、真直ぐに下へ降りる車道があるのでそちらを下って見た。
下りるとすぐに成田線の線路があり、踏切を渡ると線路沿いの県道に出た。この辺りは船戸というらしい。
佐原にも確か船戸という地名があった。
しかしこの佐原の船戸は利根川のすぐわきであり昔の津があったところというのは理解できるのだが、こちらはまだ川や印旛沼までは少し離れている気がする。
FloodMapsで海面水位を5~7m上昇させて昔の地形を想像した。
しかしこの辺りの海岸線は+7mも+5mもそれほど変わらない。
確かにこの線路際まで水が来ていても不思議ではないが、縄文海進時代ならともかく鎌倉時代でもこんなに水位が高かったとは考えにくい。
するとやはり江戸以降に利根川を銚子の方に東遷して、上流から大量の土砂が流れて陸地化したと考えるべきなのだろうか。
ただ香取の海の津があったというと現在の利根川側から舟で材木を運んだと思われそうだが、地図を見てどうやら佐倉市の方から印旛沼(現在より大分大きな)を通って運んできたと考える方が可能性は高いと感じた。
1220年頃にこの辺りがどのようになっていたかはやはり想像するしかないようです。

大鷲神社(安食)1
千葉県の印西市と成田市の間にある栄町はこの安食(あじき)が町の印象を決めていると思う。
なかなかこの古くささが良いという人もいれば当然もっとハイカラな方が良いという人も多くいると思う。
その中で龍角寺とこの大鷲神社(おおわしじんじゃ)が特徴的であろう。
この大鷲をオオワシと読むのとオオトリと読むのとの2通りが各地に混在する。(大鷲神社、鷲神社)
主には東京より北(東)に点在し、多くで商売繁盛の酉の市(とりのいち)が行われている。
この安食の大鷲神社はその中でも一番遅い12月(初酉の日を含む3日間)に行われる酉の市だという。
もちろん祭神は天乃日鷲尊(あめのひめわしみこと)であり阿波(昔は粟)の忌部氏(いんべし)の祖神である。

神社の本殿に回って見ると立派な本殿である。
その彫刻がまた見事だ。
日本神話では天岩戸の前で弦楽器を演奏するが、この弦の先に鷲が止まったとして、この神を天乃日鷲と名づけた。
四国阿波から黒潮に乗って千葉の房総に渡ってきた人々は千葉を開拓し総(麻)を栽培し総国(ふさこく)となり安房(あわ)国となった。(たぶん)

この神社に彫られた琴を演奏する彫刻に不思議な効能があるといわれている。
12月初旬の酉の市では大鷲神社境内に特設舞台が設営され、この舞台で歌った歌手が翌年の紅白歌合戦に初出場を果たした歌手がたくさんいるのだそうだ。
瀬川瑛子、三笠優子、松原のぶえ、鳥羽一郎、冠二郎などだそうだ。

この本殿が造営されたのは天保2年(1831年)とされる。栄町の有形文化財。

この大鷲神社は一般には縁結び、子授けのじんじゃとして知られているようだ。
明日へ続きます。
なかなかこの古くささが良いという人もいれば当然もっとハイカラな方が良いという人も多くいると思う。
その中で龍角寺とこの大鷲神社(おおわしじんじゃ)が特徴的であろう。
この大鷲をオオワシと読むのとオオトリと読むのとの2通りが各地に混在する。(大鷲神社、鷲神社)
主には東京より北(東)に点在し、多くで商売繁盛の酉の市(とりのいち)が行われている。
この安食の大鷲神社はその中でも一番遅い12月(初酉の日を含む3日間)に行われる酉の市だという。
もちろん祭神は天乃日鷲尊(あめのひめわしみこと)であり阿波(昔は粟)の忌部氏(いんべし)の祖神である。

神社の本殿に回って見ると立派な本殿である。
その彫刻がまた見事だ。
日本神話では天岩戸の前で弦楽器を演奏するが、この弦の先に鷲が止まったとして、この神を天乃日鷲と名づけた。
四国阿波から黒潮に乗って千葉の房総に渡ってきた人々は千葉を開拓し総(麻)を栽培し総国(ふさこく)となり安房(あわ)国となった。(たぶん)

この神社に彫られた琴を演奏する彫刻に不思議な効能があるといわれている。
12月初旬の酉の市では大鷲神社境内に特設舞台が設営され、この舞台で歌った歌手が翌年の紅白歌合戦に初出場を果たした歌手がたくさんいるのだそうだ。
瀬川瑛子、三笠優子、松原のぶえ、鳥羽一郎、冠二郎などだそうだ。

この本殿が造営されたのは天保2年(1831年)とされる。栄町の有形文化財。

この大鷲神社は一般には縁結び、子授けのじんじゃとして知られているようだ。
明日へ続きます。
大鷲神社(安食)2
千葉県印旛郡栄町安食(あじき)の大鷲(おおわし)神社の続きです。
この神社の創建は明らかではなく、神社入口の看板では939年に主建物が建てられたとある。
当然今残っている建物がこれほど昔のものではないが、本殿の金具の銘から天保2年(1831年)の造営と考えられています。

神社入口の大鳥居。鳥居の裏側には「天保十一庚子年三月吉日」となっています。1840年のようです。

神社へは正面の石段と右から回って上る石段があります。
真直ぐ登るのは急階段で男坂。右側の緩い階段は女坂と呼ばれています。
男坂・女坂の呼び名はもう少し意味があることが上って見てわかりました。
女坂を上った先に「夫婦杉」「合体椎の木」「子授け大樹」などがありここが縁結び、子授け信仰が強いことがわかりました。

その中で特徴的なのがこの「魂生大明神」です。
ここに祀られている物は・・・・・。

説明は省きます。いやいや大きいな・・・
おみやげにもこの形の物があるようです。
また12月の酉の市では木製のこれを御神体として担ぐようです。説明は下記に載せます。
神社に飾られている中央のシンボルは石製で大きさは日本一(高さ2.5m,周囲2.3m)だそうです。

英文の説明書も付いているので興味のある方は読んでみて下さい。

そこから本殿の方に上る階段があります。

その途中にある門の扁額に「鷲賀岡神社」と掲げられていました。
この神社はもともとこの鷲賀岡神社とか鷲宮と呼ばれていたようです。
これが明治26年に現在の大鷲神社に変わりました。

力石だと思いますが非常に丸い球体状の石です。大昔から使われているようで信仰的な意味合いも強そうです。

大鷲神社拝殿。

注連縄

鷲の彫刻。

本殿の龍の彫刻。
この神社の説明によれば「江戸時代、春日局の崇敬非常に厚く、竹千代が三代将軍となったとき、そのことを祝い、将軍の船の舳先に魔除として飾ってあった金の大鷲を将軍より願い受けて奉納したといわれ、現在、宝物として保存され、出世開運の神として知られています。 」と書かれています。
この神社の創建は明らかではなく、神社入口の看板では939年に主建物が建てられたとある。
当然今残っている建物がこれほど昔のものではないが、本殿の金具の銘から天保2年(1831年)の造営と考えられています。

神社入口の大鳥居。鳥居の裏側には「天保十一庚子年三月吉日」となっています。1840年のようです。

神社へは正面の石段と右から回って上る石段があります。
真直ぐ登るのは急階段で男坂。右側の緩い階段は女坂と呼ばれています。
男坂・女坂の呼び名はもう少し意味があることが上って見てわかりました。
女坂を上った先に「夫婦杉」「合体椎の木」「子授け大樹」などがありここが縁結び、子授け信仰が強いことがわかりました。

その中で特徴的なのがこの「魂生大明神」です。
ここに祀られている物は・・・・・。

説明は省きます。いやいや大きいな・・・
おみやげにもこの形の物があるようです。
また12月の酉の市では木製のこれを御神体として担ぐようです。説明は下記に載せます。
神社に飾られている中央のシンボルは石製で大きさは日本一(高さ2.5m,周囲2.3m)だそうです。

英文の説明書も付いているので興味のある方は読んでみて下さい。

そこから本殿の方に上る階段があります。

その途中にある門の扁額に「鷲賀岡神社」と掲げられていました。
この神社はもともとこの鷲賀岡神社とか鷲宮と呼ばれていたようです。
これが明治26年に現在の大鷲神社に変わりました。

力石だと思いますが非常に丸い球体状の石です。大昔から使われているようで信仰的な意味合いも強そうです。

大鷲神社拝殿。

注連縄

鷲の彫刻。

本殿の龍の彫刻。
この神社の説明によれば「江戸時代、春日局の崇敬非常に厚く、竹千代が三代将軍となったとき、そのことを祝い、将軍の船の舳先に魔除として飾ってあった金の大鷲を将軍より願い受けて奉納したといわれ、現在、宝物として保存され、出世開運の神として知られています。 」と書かれています。
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