長勝寺(潮来)
数日前に銚子に行く時に何処か寄り道して桜を見るならどこが良いかと考えた。
そしてこの潮来の古刹「長勝寺」にやってきた。

この寺は潮来が源頼朝と縁が深かった由縁の寺だ。
1185年に源頼朝が創建したと伝わる。
寺の屋根の紋も源氏の笹竜胆だ。

でも何と言っても入口山門から本堂に続く間の桜並木が美しい。
今回も桜が散る時にきてしまった。
ひらひら舞い落ちる桜の花びら。

この楼門も移築したものとはいえ素晴らしい風情を感じる。
制作年代もあまりはっきりしないが室町時代と考えられている。(県指定文化財)

何回か訪れているので駐車場の場所なども比較的スムーズに入ることができたが、最初は結構手間取った。
前川アヤメ園まで行くのも5~600mくらいのはずなので寺の駐車場以外にもすぐ近くに大きな駐車場があるので観光もできるかもしれない。
ただ知らないと入り口がわかりにくいか? 近くの西円寺を目指すと良いかもしれない。



上の写真に駐車場の向こう側にあるのは国の重要文化財に指定されている鐘楼。
この鐘は1330年(元徳2)に北条高時が源頼朝の菩提の為に寄進したもので、鐘銘の作者は、鎌倉円覚寺十六世清拙和尚(大鑑禅師)で、鋳物師は甲斐権守ト部助光だそうだ。
そしてこの潮来の古刹「長勝寺」にやってきた。

この寺は潮来が源頼朝と縁が深かった由縁の寺だ。
1185年に源頼朝が創建したと伝わる。
寺の屋根の紋も源氏の笹竜胆だ。

でも何と言っても入口山門から本堂に続く間の桜並木が美しい。
今回も桜が散る時にきてしまった。
ひらひら舞い落ちる桜の花びら。

この楼門も移築したものとはいえ素晴らしい風情を感じる。
制作年代もあまりはっきりしないが室町時代と考えられている。(県指定文化財)

何回か訪れているので駐車場の場所なども比較的スムーズに入ることができたが、最初は結構手間取った。
前川アヤメ園まで行くのも5~600mくらいのはずなので寺の駐車場以外にもすぐ近くに大きな駐車場があるので観光もできるかもしれない。
ただ知らないと入り口がわかりにくいか? 近くの西円寺を目指すと良いかもしれない。



上の写真に駐車場の向こう側にあるのは国の重要文化財に指定されている鐘楼。
この鐘は1330年(元徳2)に北条高時が源頼朝の菩提の為に寄進したもので、鐘銘の作者は、鎌倉円覚寺十六世清拙和尚(大鑑禅師)で、鋳物師は甲斐権守ト部助光だそうだ。
西円寺(潮来)
昔の記事に拍手をいただくことが時々ある。
そして、その記事を読みかえしてどんなことを書いていたのかを振り返る。
ああ、「こんなことに興味を持っていただいたのか」、とか
「あの時に自分はこんな気持ちを持っていたのか」、とか
「結構良く調べて丁寧に書いていたな」、とか
「こんな程度しかかけていなかったな」、など
思い出している。
そして最近は自分はどうも昔より記事に対する姿勢が足りないのではないかと思ったりする。
桜めぐりなどと毎日のように桜を見せられたって読まれる方は飽きてしまうに違いないのだ。
記事の中に多少でもこちらの思いや歴史的な事柄を混ぜてはいるのだが、所詮は自己満足。
しかし今年は仕事のリタイヤと重なり精神的にも少し寂しさがあったせいで、今年の花見は自分にとっては少しいつもと違って見えた。
そしてこの風景を残しておきたくなった。
でも花見も終わり。
また気持も新たに次の目標に向かっていきたいと思う。
今日は昨日紹介した潮来の長勝寺近くにあった「西円寺」を少しだけ紹介します。

梅龍山西円寺 浄土真宗大谷派の寺です。 別名中寺(なかでら)。
元禄5年(1692)、如信の弟子、潤信が開基といわれている。

門の正面に大きな銀杏の木があります。
潮来市指定の文化財。
寺には遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てた墓がありますが、一回りしたがよくわからなかった。


「三味線で鴫(しぎ)を立たせる潮来かな」 漱石(一茶の句を夏目漱石が書いたもの)

小林一茶は文化14年(1817)5月26日に鹿島詣の後、大舟津より舟で板久(潮来)に来て俵屋に宿泊します。
そして翌27日に船で銚子に行ったのです。

句の下には小川芋銭の書いた絵が彫られています。
そして、その記事を読みかえしてどんなことを書いていたのかを振り返る。
ああ、「こんなことに興味を持っていただいたのか」、とか
「あの時に自分はこんな気持ちを持っていたのか」、とか
「結構良く調べて丁寧に書いていたな」、とか
「こんな程度しかかけていなかったな」、など
思い出している。
そして最近は自分はどうも昔より記事に対する姿勢が足りないのではないかと思ったりする。
桜めぐりなどと毎日のように桜を見せられたって読まれる方は飽きてしまうに違いないのだ。
記事の中に多少でもこちらの思いや歴史的な事柄を混ぜてはいるのだが、所詮は自己満足。
しかし今年は仕事のリタイヤと重なり精神的にも少し寂しさがあったせいで、今年の花見は自分にとっては少しいつもと違って見えた。
そしてこの風景を残しておきたくなった。
でも花見も終わり。
また気持も新たに次の目標に向かっていきたいと思う。
今日は昨日紹介した潮来の長勝寺近くにあった「西円寺」を少しだけ紹介します。

梅龍山西円寺 浄土真宗大谷派の寺です。 別名中寺(なかでら)。
元禄5年(1692)、如信の弟子、潤信が開基といわれている。

門の正面に大きな銀杏の木があります。
潮来市指定の文化財。
寺には遊郭の主人が亡くなった遊女を寺に弔って建てた墓がありますが、一回りしたがよくわからなかった。


「三味線で鴫(しぎ)を立たせる潮来かな」 漱石(一茶の句を夏目漱石が書いたもの)

小林一茶は文化14年(1817)5月26日に鹿島詣の後、大舟津より舟で板久(潮来)に来て俵屋に宿泊します。
そして翌27日に船で銚子に行ったのです。

句の下には小川芋銭の書いた絵が彫られています。
常州牛堀(潮来)-1
今日は朝から銚子に出かけていました。
朝、家を出る頃はそれほどでもなかったのですが、11時頃になると日差しが車の中に注いでかなり暑くなりました。
花粉が気になり窓は閉ざしていましたのでとうとう車のクーラを少しの時間ですが入れてしまいました。
寒暖の差が激しいですね。
前に銚子に行った時に書いたのですが、吉田松陰が水戸から鹿島を通り潮来で一泊して牛堀から舟で銚子の手前の松岸まで行っています。
最近この潮来(いたこ)周辺を少し調べ始めているのですが、江戸時代はかなりにぎわっていたようです。
江戸-銚子-潮来間は大型の船が行き来し、潮来で底の浅い高瀬舟に荷を詰め替え、各店の屋号をつけた高瀬舟がたくさん各方面に潮来から出ていたようです。
当時の様子を書いた絵や、神社の奉納絵などにもたくさんの高瀬船が描かれています。
それと、この水郷地帯の潮来や牛堀も風情があり、特に牛堀は葛飾北斎の富嶽三十六景にも描かれているのです。

葛飾北斎 富嶽三十六景 「常州牛堀」
葛飾北斎が書いた富嶽36景の1枚だが、このような富士からかなり離れた場所からも富士山が昔は良く見えた。
水郷牛堀地区の朝の風景を描いたもの。
今は霞ケ浦周辺からも天気が良いと時々富士山は見える。
舟で寝起きをし、朝早く米のとぎ汁を舟から川に流している。
今ではこのような行為は問題が多いが昔は普通であったのだろう。

川瀬巴水「雨の牛堀」 昭和初期の頃か?
巴水は霞ケ浦周辺の風景を版画に多くのこした。
特に牛堀を始め潮来の水郷地帯の風景を好んで描いた。
今の牛堀地区は常陸利根川に面した河岸を細長く整備して「北斎公園」と名付けられた緑の芝生の公園となっている。
少し絵に近いようなところを探してみた。

蔵を利用した喫茶&レストラン「蔵」

何とも無粋な自動販売機

千歳屋旅館側から隣りの「北斎遊学館」と常陸利根川

「北斎遊学館」:蔵を利用した地元のイベント会場施設。
もう少し活発に利用されているかと思ったが、この日も閉まっていた。
上の写真の左側の蔵がレストラン「蔵」

川沿いの公園横にある大谷石の建物だが、壁を白く塗りつぶされていた。
そして看板には「この建物は大谷石造りのため、地震の際危険ですので近づかないでください」と書かれていた。
何とも悲しい。

明日に続きます。
朝、家を出る頃はそれほどでもなかったのですが、11時頃になると日差しが車の中に注いでかなり暑くなりました。
花粉が気になり窓は閉ざしていましたのでとうとう車のクーラを少しの時間ですが入れてしまいました。
寒暖の差が激しいですね。
前に銚子に行った時に書いたのですが、吉田松陰が水戸から鹿島を通り潮来で一泊して牛堀から舟で銚子の手前の松岸まで行っています。
最近この潮来(いたこ)周辺を少し調べ始めているのですが、江戸時代はかなりにぎわっていたようです。
江戸-銚子-潮来間は大型の船が行き来し、潮来で底の浅い高瀬舟に荷を詰め替え、各店の屋号をつけた高瀬舟がたくさん各方面に潮来から出ていたようです。
当時の様子を書いた絵や、神社の奉納絵などにもたくさんの高瀬船が描かれています。
それと、この水郷地帯の潮来や牛堀も風情があり、特に牛堀は葛飾北斎の富嶽三十六景にも描かれているのです。

葛飾北斎 富嶽三十六景 「常州牛堀」
葛飾北斎が書いた富嶽36景の1枚だが、このような富士からかなり離れた場所からも富士山が昔は良く見えた。
水郷牛堀地区の朝の風景を描いたもの。
今は霞ケ浦周辺からも天気が良いと時々富士山は見える。
舟で寝起きをし、朝早く米のとぎ汁を舟から川に流している。
今ではこのような行為は問題が多いが昔は普通であったのだろう。

川瀬巴水「雨の牛堀」 昭和初期の頃か?
巴水は霞ケ浦周辺の風景を版画に多くのこした。
特に牛堀を始め潮来の水郷地帯の風景を好んで描いた。
今の牛堀地区は常陸利根川に面した河岸を細長く整備して「北斎公園」と名付けられた緑の芝生の公園となっている。
少し絵に近いようなところを探してみた。

蔵を利用した喫茶&レストラン「蔵」

何とも無粋な自動販売機

千歳屋旅館側から隣りの「北斎遊学館」と常陸利根川

「北斎遊学館」:蔵を利用した地元のイベント会場施設。
もう少し活発に利用されているかと思ったが、この日も閉まっていた。
上の写真の左側の蔵がレストラン「蔵」

川沿いの公園横にある大谷石の建物だが、壁を白く塗りつぶされていた。
そして看板には「この建物は大谷石造りのため、地震の際危険ですので近づかないでください」と書かれていた。
何とも悲しい。

明日に続きます。
常州牛堀(2)
茨城県潮来市牛堀地区の紹介をしています。
あまり常州といういい方は目にしないのですが、常陸国のことを常州ともいうようです。
また江戸時代から江戸からは香取・鹿島詣での舟が出ていたようです。
江戸川で関宿まで上り、そこから利根川に入って銚子近くまで下ります。
香取神宮は佐原で陸に上がればよいですが、鹿島神宮は潮来で降りるのでしょう。
芭蕉が鹿島紀行で旅した時は、陸路を千葉県布佐の辺りまで行って、そこから利根川を舟で下って行きました。
関宿まで行くより、こちらの方が近いですね。
この牛堀は霞ケ浦の出口部分にありここから常陸利根川を下り、銚子の少し手前で利根川に合流します。
昔は霞ケ浦には大小さまざまな舟が行き来していたそうです。
しかし蒸気船が導入されたのは明治になってからで、江戸時代は大型の千石船や底の浅い高瀬舟がたくさん走っていたようです。
小林一茶が1817年に鹿島詣でのあと鹿島から潮来まで小舟に乗り(大舟津ヨリ舟渡 六十四文)、潮来から大きな船で銚子に行っている(卯上刻出船 二百六十四文 未下刻銚子ニ入)ようです。
銚子より少し西の牛堀からは今では横利根川が流れています。
昔もこの川はあったのだと思いますが、今の運河のような整備されたものではなく水郷の外浦などと繋がった入り組んだものだったのではないでしょうか。

この牛堀には現在北斎の絵にちなんで「北斎公園」という川沿いに細長い公園があります。
上の写真の右側の街路樹のある辺りが昔の河岸のようです。

この公園部分は川の部分にテトラブロックのようなものを沈めて、その上に土と芝生で公園部分を作りだした物のようです。

ここは右側が霞ケ浦で、この場所から川(常陸利根川)となって利根川にこの20kmほど先で利根川に合流します。
この川の対岸は上の写真の真中奥に水門が写っていますが、ここが横利根川の入口部分で右(西)側が茨城県稲敷市で左(東)側は千葉県香取市になります。

下流側は潮来まで3kmほどでしょうか、その先利根川と合流し銚子まで25~30kmほどあります。

上の写真を見れば、この芝生の公園が川の中に置かれたコンクリートブロックの上に造られたものであることがわかります。

この公園部分が無い方が昔の雰囲気は伝わるように思いますが、人を呼ぶためにはしょうがないでしょうか。
でもこの道もせまく、手前に駐車場は設けられていますがあまり訪れる人はいません。
釣りをやる方にとってはこの辺りも良い魚場のようです。

この公園わきの道路も整備はされていますが車が1台やっと通れる広さです。

この公園の潮来川の一角に昨日写真で紹介した蔵の建物があります。
正面が「蔵」という喫茶&レストラン、左側が「北斎遊学館」という施設で時々コンサートや地元野菜の市などのイベント会場に使われているようです。
蔵の壁は大谷石で造られており昭和初期に建てられているそうですから、川瀬巴水の版画にある建て物なのかもしれません。
ただ、昨日も書きましたがせっかくの大谷石の建物の風情を後からつけ足した造作物や自動販売機などで台無しにしてしまっているように思われます。(私の感想ですが)


入り口部分の屋根はしょうがないにしても壁際の物は別な場所に設けるなど工夫してもらいたいものです。
写真を撮る時に困ってしまいました。
あまり常州といういい方は目にしないのですが、常陸国のことを常州ともいうようです。
また江戸時代から江戸からは香取・鹿島詣での舟が出ていたようです。
江戸川で関宿まで上り、そこから利根川に入って銚子近くまで下ります。
香取神宮は佐原で陸に上がればよいですが、鹿島神宮は潮来で降りるのでしょう。
芭蕉が鹿島紀行で旅した時は、陸路を千葉県布佐の辺りまで行って、そこから利根川を舟で下って行きました。
関宿まで行くより、こちらの方が近いですね。
この牛堀は霞ケ浦の出口部分にありここから常陸利根川を下り、銚子の少し手前で利根川に合流します。
昔は霞ケ浦には大小さまざまな舟が行き来していたそうです。
しかし蒸気船が導入されたのは明治になってからで、江戸時代は大型の千石船や底の浅い高瀬舟がたくさん走っていたようです。
小林一茶が1817年に鹿島詣でのあと鹿島から潮来まで小舟に乗り(大舟津ヨリ舟渡 六十四文)、潮来から大きな船で銚子に行っている(卯上刻出船 二百六十四文 未下刻銚子ニ入)ようです。
銚子より少し西の牛堀からは今では横利根川が流れています。
昔もこの川はあったのだと思いますが、今の運河のような整備されたものではなく水郷の外浦などと繋がった入り組んだものだったのではないでしょうか。

この牛堀には現在北斎の絵にちなんで「北斎公園」という川沿いに細長い公園があります。
上の写真の右側の街路樹のある辺りが昔の河岸のようです。

この公園部分は川の部分にテトラブロックのようなものを沈めて、その上に土と芝生で公園部分を作りだした物のようです。

ここは右側が霞ケ浦で、この場所から川(常陸利根川)となって利根川にこの20kmほど先で利根川に合流します。
この川の対岸は上の写真の真中奥に水門が写っていますが、ここが横利根川の入口部分で右(西)側が茨城県稲敷市で左(東)側は千葉県香取市になります。

下流側は潮来まで3kmほどでしょうか、その先利根川と合流し銚子まで25~30kmほどあります。

上の写真を見れば、この芝生の公園が川の中に置かれたコンクリートブロックの上に造られたものであることがわかります。

この公園部分が無い方が昔の雰囲気は伝わるように思いますが、人を呼ぶためにはしょうがないでしょうか。
でもこの道もせまく、手前に駐車場は設けられていますがあまり訪れる人はいません。
釣りをやる方にとってはこの辺りも良い魚場のようです。

この公園わきの道路も整備はされていますが車が1台やっと通れる広さです。

この公園の潮来川の一角に昨日写真で紹介した蔵の建物があります。
正面が「蔵」という喫茶&レストラン、左側が「北斎遊学館」という施設で時々コンサートや地元野菜の市などのイベント会場に使われているようです。
蔵の壁は大谷石で造られており昭和初期に建てられているそうですから、川瀬巴水の版画にある建て物なのかもしれません。
ただ、昨日も書きましたがせっかくの大谷石の建物の風情を後からつけ足した造作物や自動販売機などで台無しにしてしまっているように思われます。(私の感想ですが)


入り口部分の屋根はしょうがないにしても壁際の物は別な場所に設けるなど工夫してもらいたいものです。
写真を撮る時に困ってしまいました。
常州牛堀(3)
潮来市牛堀の北斎公園をあとにして少し周辺を散策して見ました。

常陸利根川から脇道に入ると旧道沿いに昔のイメージを感じる建物が散見されます。



少し山側に入ったところに昔小学校であったところに出ました。

今は銚子市立図書館となっています。

図書館の建物です。
この建物は小学校の体育館を残して平成18年に図書館がオープンしました。

ここには牛堀第一小学校がありました。
平成16年(2004年)にこの牛堀第一小学校と第二小学校、八代小学校の3つが統合して新しい牛堀小学校を建設したようです。

この図書館の敷地にある人物の銅像が置かれていました。

小堀進画伯の銅像。絵筆を持って絵を書いている姿です。
昭和初期の代表的水彩画家で初の日本芸術院会員となった人だそうです。
潮来市大生の出身。1年の半分ほどは何処かに出かけていて風景などを好んで描いていたそうです。
作品はネットで見て見ました。 参考までの → こちら(天王崎) また、小堀進展(2012年)
空の構図が大胆なものが多いですね。
写真などでもとても参考になりそうです。

この地元の神社である「三熊野神社」です。
こちらは前にこの裏山の権現山公園から下りてきたことがあります。(記事は → こちら)
その時にこの神社もお参りしました(こちら参照)


この三熊野神社の鳥居は牛堀の昔の船着き場に向かっているようです。

明日はこの川の向こう側から見える景色を紹介します。

常陸利根川から脇道に入ると旧道沿いに昔のイメージを感じる建物が散見されます。



少し山側に入ったところに昔小学校であったところに出ました。

今は銚子市立図書館となっています。

図書館の建物です。
この建物は小学校の体育館を残して平成18年に図書館がオープンしました。

ここには牛堀第一小学校がありました。
平成16年(2004年)にこの牛堀第一小学校と第二小学校、八代小学校の3つが統合して新しい牛堀小学校を建設したようです。

この図書館の敷地にある人物の銅像が置かれていました。

小堀進画伯の銅像。絵筆を持って絵を書いている姿です。
昭和初期の代表的水彩画家で初の日本芸術院会員となった人だそうです。
潮来市大生の出身。1年の半分ほどは何処かに出かけていて風景などを好んで描いていたそうです。
作品はネットで見て見ました。 参考までの → こちら(天王崎) また、小堀進展(2012年)
空の構図が大胆なものが多いですね。
写真などでもとても参考になりそうです。

この地元の神社である「三熊野神社」です。
こちらは前にこの裏山の権現山公園から下りてきたことがあります。(記事は → こちら)
その時にこの神社もお参りしました(こちら参照)


この三熊野神社の鳥居は牛堀の昔の船着き場に向かっているようです。

明日はこの川の向こう側から見える景色を紹介します。
常州牛堀(4)
常州牛堀(潮来)は霞ケ浦が銚子の方に流れる常陸利根川の入口に当たります。
昔も霞ケ浦を通った高瀬舟はここから常陸利根川を通って途中利根川に合流して銚子または利根川を登って江戸まで船で行けました。
しかし銚子の方まで行くのは時間もかかり外浦なども通るため、ここから利根川まで繫ぐ運河の役目をする横利根川が整備されたのです。
でも利根川が多雨で氾濫するとここを通って霞ケ浦が増水して土浦や高浜は洪水被害が絶えませんでした。
高浜地区などの増水の記録は比較的最近まであったようです。
この横利根川に水門ができ、また常陸利根川と利根川が合流するところに水門ができ、さらに霞ケ浦の堤防の高さを整備して今ではほとんど水害は聞かなくなりました。
逆に門を締め切っていると霞ケ浦の水質がどんどん悪化して、以前海水浴ができたこの霞ケ浦も昔からは全く想像もできないような水質の悪化が起こってしまいました。
土浦も高浜も夏場にはアオコが発生して近くを通るにも悪臭がする状態が続いています。
世界湖沼会議なども開けれて何とかこの水を浄化する算段が取られてきてはいるのですが、政治的な利権も絡んでいるようであまり進展していないように思われます。
堤防も整備が行なわれたので水門の長時間開放を検討する時ではないかと思います。
今日は昔の牛堀のイメージが多少残る対岸に行って、反対側から牛堀を眺めてみました。

こちらは横利根川で茨城県と千葉県の境界になっています。
このあたりは常陸利根川の雰囲気が残っています。

川沿いには葦などの水草が生え、水鳥もたくさんいます。
近づくと一斉に逃げ出します。
対岸が牛堀地区です。

この下流側が水郷潮来です。

上流側には国道51号線の橋があり、この橋(北利根橋)の向こう側が霞ケ浦です。
前にここから霞ケ浦を眺めて「霞みの郷」の言葉を思い出していました。
国道51号線は水戸から千葉までを結んでいますが鹿島神宮と香取神宮を結ぶ道でもあります。
また成田も通ります。

ここから利根川まで横利根川が流れており、川の両端に水門があります。

こちらが新横利根閘門で、利根川側は国の重要文化財に指定されているレンガ造りの「横利根閘門」があります。
このブログでも何度か紹介しています。
段々とブログネタがつながってきます。
昔も霞ケ浦を通った高瀬舟はここから常陸利根川を通って途中利根川に合流して銚子または利根川を登って江戸まで船で行けました。
しかし銚子の方まで行くのは時間もかかり外浦なども通るため、ここから利根川まで繫ぐ運河の役目をする横利根川が整備されたのです。
でも利根川が多雨で氾濫するとここを通って霞ケ浦が増水して土浦や高浜は洪水被害が絶えませんでした。
高浜地区などの増水の記録は比較的最近まであったようです。
この横利根川に水門ができ、また常陸利根川と利根川が合流するところに水門ができ、さらに霞ケ浦の堤防の高さを整備して今ではほとんど水害は聞かなくなりました。
逆に門を締め切っていると霞ケ浦の水質がどんどん悪化して、以前海水浴ができたこの霞ケ浦も昔からは全く想像もできないような水質の悪化が起こってしまいました。
土浦も高浜も夏場にはアオコが発生して近くを通るにも悪臭がする状態が続いています。
世界湖沼会議なども開けれて何とかこの水を浄化する算段が取られてきてはいるのですが、政治的な利権も絡んでいるようであまり進展していないように思われます。
堤防も整備が行なわれたので水門の長時間開放を検討する時ではないかと思います。
今日は昔の牛堀のイメージが多少残る対岸に行って、反対側から牛堀を眺めてみました。

こちらは横利根川で茨城県と千葉県の境界になっています。
このあたりは常陸利根川の雰囲気が残っています。

川沿いには葦などの水草が生え、水鳥もたくさんいます。
近づくと一斉に逃げ出します。
対岸が牛堀地区です。

この下流側が水郷潮来です。

上流側には国道51号線の橋があり、この橋(北利根橋)の向こう側が霞ケ浦です。
前にここから霞ケ浦を眺めて「霞みの郷」の言葉を思い出していました。
国道51号線は水戸から千葉までを結んでいますが鹿島神宮と香取神宮を結ぶ道でもあります。
また成田も通ります。

ここから利根川まで横利根川が流れており、川の両端に水門があります。

こちらが新横利根閘門で、利根川側は国の重要文化財に指定されているレンガ造りの「横利根閘門」があります。
このブログでも何度か紹介しています。
段々とブログネタがつながってきます。
長国寺(潮来)
潮来の牛堀地区の旧道沿いをアヤメ園の方に少し行くと「長国寺」という曹洞宗の禅寺があります。
この長国という名前は戦国時代までこの地を治めていた行方四頭の一人島崎氏の島崎長国の名前からつけられた。
そのためここは島崎氏の菩提寺です。

大掾氏の一族で行方地方に進出した景幹の4人の子供が行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)となり霞ケ浦北側と北浦の地域を鎌倉時代から長い間支配が行なわれた。
次男の島崎氏が領した土地がこのあたりにあったということのようだ。

島崎氏の城はもう少し北側の山の麓で地図に書き込んだが、お札神社がある辺りだという。
しかし道もせまくあまりこのあたりに行くこともない。
機会があればいつか行って見るつもりだが・・・。
観音寺は徳一法師が建てたといわれる古刹で前に記事を書いた。(こちら)
島崎氏は400年ほどこの地を領していたものと思われ、兄弟分の隣りの麻生氏などとも戦になり勝っている。
しかし最後は佐竹氏の南方三十三館の領主皆殺しで滅び去った。

実は前に小川(小美玉市)の江戸時代の稽医館(けいいかん)という医学の研究所を紹介した時にここで本間道悦という人の紹介をしたことがあります。(こちら)
そして天聖寺の墓地でこの本間家の墓と芭蕉の句碑を紹介したのですが、この本間家一世の「本間道悦」の墓がこの長国寺にあると書いたのです。
松尾芭蕉と交流のあったという本間道悦は潮来の医師で、芭蕉に「医術免許状」を書き与えたと伝えられる人物として知られ、芭蕉の鹿島紀行でも鹿島詣での帰りにこの道悦のところに宿したと思われる。(「帰路自準に宿す」と書かれている)
昔は潮来と言ってもこちらの牛堀方面にこのような著名人がいたのでしょう。
潮来ではもう一つ「延方」も気になる土地です。
この後にもう少し調べて見たいと思います。

寺の入口山門を入って両側にたくさんの石灯篭が並んでいます。

灯篭沿いの道を少し進んだところに戒壇石柱 『不許葷酒入山門』(文政十二年1829年建立)がおかれています。
なかなか立派なものです。

正面に本堂があります。
大興山長国寺の本尊は聖観音。
島崎城主第13代島崎長国が文明2年(1470年)に創建したとされ、永正年間(1504~21年)に現在地に移建した。
しかし火災で伽藍は焼失し、安政2年(1855年)に再建されたという。





樹齢約400年のイヌマキの木。
この長国という名前は戦国時代までこの地を治めていた行方四頭の一人島崎氏の島崎長国の名前からつけられた。
そのためここは島崎氏の菩提寺です。

大掾氏の一族で行方地方に進出した景幹の4人の子供が行方四頭(小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)となり霞ケ浦北側と北浦の地域を鎌倉時代から長い間支配が行なわれた。
次男の島崎氏が領した土地がこのあたりにあったということのようだ。

島崎氏の城はもう少し北側の山の麓で地図に書き込んだが、お札神社がある辺りだという。
しかし道もせまくあまりこのあたりに行くこともない。
機会があればいつか行って見るつもりだが・・・。
観音寺は徳一法師が建てたといわれる古刹で前に記事を書いた。(こちら)
島崎氏は400年ほどこの地を領していたものと思われ、兄弟分の隣りの麻生氏などとも戦になり勝っている。
しかし最後は佐竹氏の南方三十三館の領主皆殺しで滅び去った。

実は前に小川(小美玉市)の江戸時代の稽医館(けいいかん)という医学の研究所を紹介した時にここで本間道悦という人の紹介をしたことがあります。(こちら)
そして天聖寺の墓地でこの本間家の墓と芭蕉の句碑を紹介したのですが、この本間家一世の「本間道悦」の墓がこの長国寺にあると書いたのです。
松尾芭蕉と交流のあったという本間道悦は潮来の医師で、芭蕉に「医術免許状」を書き与えたと伝えられる人物として知られ、芭蕉の鹿島紀行でも鹿島詣での帰りにこの道悦のところに宿したと思われる。(「帰路自準に宿す」と書かれている)
昔は潮来と言ってもこちらの牛堀方面にこのような著名人がいたのでしょう。
潮来ではもう一つ「延方」も気になる土地です。
この後にもう少し調べて見たいと思います。

寺の入口山門を入って両側にたくさんの石灯篭が並んでいます。

灯篭沿いの道を少し進んだところに戒壇石柱 『不許葷酒入山門』(文政十二年1829年建立)がおかれています。
なかなか立派なものです。

正面に本堂があります。
大興山長国寺の本尊は聖観音。
島崎城主第13代島崎長国が文明2年(1470年)に創建したとされ、永正年間(1504~21年)に現在地に移建した。
しかし火災で伽藍は焼失し、安政2年(1855年)に再建されたという。





樹齢約400年のイヌマキの木。
潮来と延方(1)-二十三夜尊と延方郷校孔子堂
潮来から鹿島神宮に向かう途中、北浦の手前に「延方(のぶかた)」という場所がある。
前から気になっていた名前だが、先日、吉田松陰が潮来-牛堀から銚子に行ったことを調べていた時に、この潮来の地で「宮本茶村」という名前を見つけた。
茶村は潮来村の名主であったが儒学者として名が知られているようだ。
松陰も鹿島から潮来経由で銚子に行った時にこの茶村や津宮(香取神宮の入口にある)の久保木清淵を訪ねているようだ。
この宮本茶村も津宮(つのみや)の久保木清淵(竹窓)もこの延方にあった水戸藩の郷校で教えていたという。
そこで延方にあった郷校とはどんなところか知りたくなった。
まずは今でもその建物が一部残されているというので潮来の街中にある「二十三夜尊」に行って見た。

石岡にも二十三夜尊があるのでそれほど不思議にも思わないが、あまり他所にこのようなものは残っていない。

上の写真が二十三夜尊堂といわれる旧延方郷校の聖堂で孔子の教えを説いていたので「孔子聖堂」という。

茨城県教育委員会の説明によると、「この堂宇は、茨城県における学校の始祖としてその偉容を誇った旧延方郷校の聖堂で、1807年(文化4)に水戸藩主徳川斉昭公が延方内田山に自ら篆書した「至聖先師孔子神位」の木碑を祀った建物であったが、1872年(明治5)廃校に伴い、1878年(明治11)現在地に移建されたものである」という。

石岡の二十三夜尊の本尊は「勢至菩薩」であるというが、ここの二十三夜尊は「月読尊」だという。
この違いがわからないのでネット検索した。
(真夜中に出る二十三夜の月の出を待つ)二十三夜講での信仰対象は、仏教では勢至菩薩を、神道では月読尊を祀ったということのようです。

さて、この二十三夜尊がここでは安産・子育てにご利益があるとして祀られているのですが、これについては
「神社としての創建は貞享2年(1685)、月読命の分霊を勧請したのが始まりとされ、古くから神仏習合し月読命の本地である勢至菩薩が同時に信仰されました。勢至菩薩は二十三夜講の本尊でもあり、周辺住民の講中の拠点として信仰され、特に月読命は女神で勢至菩薩は女性的な印象が強い事から安産、子育て、子授かりに御利益があるとして女性から支持されました」
という説明がありました。(茨城県:歴史・観光・見所<いば旅>:こちら)


今回のタイトルを「潮来と延方」として、この潮来から延方周辺を何回かに分けて紹介します。
前から気になっていた名前だが、先日、吉田松陰が潮来-牛堀から銚子に行ったことを調べていた時に、この潮来の地で「宮本茶村」という名前を見つけた。
茶村は潮来村の名主であったが儒学者として名が知られているようだ。
松陰も鹿島から潮来経由で銚子に行った時にこの茶村や津宮(香取神宮の入口にある)の久保木清淵を訪ねているようだ。
この宮本茶村も津宮(つのみや)の久保木清淵(竹窓)もこの延方にあった水戸藩の郷校で教えていたという。
そこで延方にあった郷校とはどんなところか知りたくなった。
まずは今でもその建物が一部残されているというので潮来の街中にある「二十三夜尊」に行って見た。

石岡にも二十三夜尊があるのでそれほど不思議にも思わないが、あまり他所にこのようなものは残っていない。

上の写真が二十三夜尊堂といわれる旧延方郷校の聖堂で孔子の教えを説いていたので「孔子聖堂」という。

茨城県教育委員会の説明によると、「この堂宇は、茨城県における学校の始祖としてその偉容を誇った旧延方郷校の聖堂で、1807年(文化4)に水戸藩主徳川斉昭公が延方内田山に自ら篆書した「至聖先師孔子神位」の木碑を祀った建物であったが、1872年(明治5)廃校に伴い、1878年(明治11)現在地に移建されたものである」という。

石岡の二十三夜尊の本尊は「勢至菩薩」であるというが、ここの二十三夜尊は「月読尊」だという。
この違いがわからないのでネット検索した。
(真夜中に出る二十三夜の月の出を待つ)二十三夜講での信仰対象は、仏教では勢至菩薩を、神道では月読尊を祀ったということのようです。

さて、この二十三夜尊がここでは安産・子育てにご利益があるとして祀られているのですが、これについては
「神社としての創建は貞享2年(1685)、月読命の分霊を勧請したのが始まりとされ、古くから神仏習合し月読命の本地である勢至菩薩が同時に信仰されました。勢至菩薩は二十三夜講の本尊でもあり、周辺住民の講中の拠点として信仰され、特に月読命は女神で勢至菩薩は女性的な印象が強い事から安産、子育て、子授かりに御利益があるとして女性から支持されました」
という説明がありました。(茨城県:歴史・観光・見所<いば旅>:こちら)


今回のタイトルを「潮来と延方」として、この潮来から延方周辺を何回かに分けて紹介します。
潮来と延方(2)-硯宮神社
昨日紹介した二十三夜尊堂の隣りに「硯宮(すずりのみや)神社」があります。
国道51号線を鹿島方面に向かい、潮来市役所を少し過ぎたところに「辻」という信号があり、そこを南に入って突き当った旧道沿いです。
この硯(すずり)の名前は源頼朝が戦勝祈願の為に鹿島神宮に参拝した時にこの地で祈願文を書いたとされ、この時に使った硯をこの神社に奉納したという言い伝えが残されており、それを知った水戸光圀が「硯宮神社」と命名したという。
元々は今宮八幡宮と言われたそうだ。
この潮来(いたこ)の名前も元々「板久」であったのを潮来に変更したのも光圀だといわれている。
このあたりは一体は水戸南領といわれた水戸藩の敷地で、黄門さんの領地でもあった。
水戸南領は玉造周辺一帯もそうであったが、潮来との間には麻生藩があった。
水戸南領を取りまとめていたのは大山守であったようで、玉造の大塲家(おおばけ)が代々水戸藩大山守をつとめていた。
しかし潮来にきて牛堀の治水事業で知られる須田誠太郎氏の須田家もつとめていたような記述を見かけた。
大山守が良くわからず調べて見たがどうやらこの地方の20ヶ村以上にあった水戸藩の御立山(御留山)を管理するのが主の役目で、そのうち名主などを束ねて税の取り立てなどを行なっていたようだ。

神社の入口には「茨城百景水郷潮来硯宮神社」の碑が置かれています。


社殿は昭和54年(1979)に火災で焼失し、昭和56年に再建されたもの。

硯宮神社の裏手には「愛友酒造」という酒蔵所がありました。
創業文化元年(1804)というのでかなり古い。
無料で酒造見学なども年中やってくれるようですので潮来あやめ見物のついでにでも立ち寄って見るのもよさそうです。
(見学前には一度電話で確認して見る必要はあるかもしれません)

この硯宮神社の隣りが昨日紹介した二十三夜尊でその隣りの空地に「津知村役場跡」と書かれた碑が建てられていました。
この津知村(つじむら)は明治22年から昭和30年まで存在しました。
明治22年前は「辻村」があったようです。この近くの国道51号線の信号名は「辻」です。
明治22年に辻村・築地村が合併して「津知村」となったそうですが、この名前を検索すると神戸市芦屋に同じ津知村というのがあり、やはり辻村とも書いていたようなので名前の関連性がありそうです。
さらに調べて見ると芦屋の津知(つぢ・辻)の名前は交通上の交差点である「辻」がその名前の由来で、西国街道と浜へ向かう道の交わるところにだという。
恐らく潮来の「辻」も鹿島~玉造~石岡(常陸府中)を結ぶ街道から潮来の浜への分かれ道なのだろうと思う。
潮来のあやめ園に続く前川が近くを流れている。
硯宮神社のすぐ北側に地図に「鬼子母尊神社」という名前があったので寄ってみました。

通りから少し入ったところにありました。
由来やいきさつはわかりません。
雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)が有名ですが、安産・子育てとして昔から信仰されてきたのでしょう。
国道51号線を鹿島方面に向かい、潮来市役所を少し過ぎたところに「辻」という信号があり、そこを南に入って突き当った旧道沿いです。
この硯(すずり)の名前は源頼朝が戦勝祈願の為に鹿島神宮に参拝した時にこの地で祈願文を書いたとされ、この時に使った硯をこの神社に奉納したという言い伝えが残されており、それを知った水戸光圀が「硯宮神社」と命名したという。
元々は今宮八幡宮と言われたそうだ。
この潮来(いたこ)の名前も元々「板久」であったのを潮来に変更したのも光圀だといわれている。
このあたりは一体は水戸南領といわれた水戸藩の敷地で、黄門さんの領地でもあった。
水戸南領は玉造周辺一帯もそうであったが、潮来との間には麻生藩があった。
水戸南領を取りまとめていたのは大山守であったようで、玉造の大塲家(おおばけ)が代々水戸藩大山守をつとめていた。
しかし潮来にきて牛堀の治水事業で知られる須田誠太郎氏の須田家もつとめていたような記述を見かけた。
大山守が良くわからず調べて見たがどうやらこの地方の20ヶ村以上にあった水戸藩の御立山(御留山)を管理するのが主の役目で、そのうち名主などを束ねて税の取り立てなどを行なっていたようだ。

神社の入口には「茨城百景水郷潮来硯宮神社」の碑が置かれています。


社殿は昭和54年(1979)に火災で焼失し、昭和56年に再建されたもの。

硯宮神社の裏手には「愛友酒造」という酒蔵所がありました。
創業文化元年(1804)というのでかなり古い。
無料で酒造見学なども年中やってくれるようですので潮来あやめ見物のついでにでも立ち寄って見るのもよさそうです。
(見学前には一度電話で確認して見る必要はあるかもしれません)

この硯宮神社の隣りが昨日紹介した二十三夜尊でその隣りの空地に「津知村役場跡」と書かれた碑が建てられていました。
この津知村(つじむら)は明治22年から昭和30年まで存在しました。
明治22年前は「辻村」があったようです。この近くの国道51号線の信号名は「辻」です。
明治22年に辻村・築地村が合併して「津知村」となったそうですが、この名前を検索すると神戸市芦屋に同じ津知村というのがあり、やはり辻村とも書いていたようなので名前の関連性がありそうです。
さらに調べて見ると芦屋の津知(つぢ・辻)の名前は交通上の交差点である「辻」がその名前の由来で、西国街道と浜へ向かう道の交わるところにだという。
恐らく潮来の「辻」も鹿島~玉造~石岡(常陸府中)を結ぶ街道から潮来の浜への分かれ道なのだろうと思う。
潮来のあやめ園に続く前川が近くを流れている。
硯宮神社のすぐ北側に地図に「鬼子母尊神社」という名前があったので寄ってみました。

通りから少し入ったところにありました。
由来やいきさつはわかりません。
雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)が有名ですが、安産・子育てとして昔から信仰されてきたのでしょう。
潮来と延方(3)-内田山と延方郷校跡
水戸藩には藩校と郷校があった。
しかし各地を見ていくとどうもこの郷校がかなりの役割を担ったことを感じることができる。
藩校は主に藩士とその子弟の教育機関であったが、郷校は庶民教育のために各地に設置され、全部で15ほどあったという。
その中で三郷校というのが小川の稽医館(前に紹介した:こちら)と湊郷校(敬業館)(ひたちなか市)とここ潮来(延方郷校)だという。
この延方郷校の跡といわれる場所があまり良くわからなかったが、まずは内田山の麓に建てられたというのでこの内田山を探した。
調べると内田山には現在潮来高校があり、国道51号線の曲松信号に近い場所だ。

内田山にある潮来高校。

高校への登り坂の途中に「延方郷校跡」の碑が立てられている。

そこから山をまくように田んぼのあぜ道のような小道を進むと郷校跡があった。

山の麓にあるが本当にここに芹沢鴨も学んだというの延方郷校があったのかという思いがする。

この学校には2000冊近い蔵書があり、当時としてはかなり大きなものだったようだ。
水戸弘道館よりも30年以上前に設立されたという。

設立されたのは文化4年(1804年)に内田山に孔子を祀った孔子聖廊廟(せいびょう)を建て、文化7年(1807)に大成殿が建てられた。
文化14年(1814)に水戸藩主「徳川斉脩(なりのぶ)」親筆の「至聖先師孔子神位」の位碑(現在「潮来市立図書館」内の郷土資料室に展示)を納めた聖堂を建立した。
しかし各地を見ていくとどうもこの郷校がかなりの役割を担ったことを感じることができる。
藩校は主に藩士とその子弟の教育機関であったが、郷校は庶民教育のために各地に設置され、全部で15ほどあったという。
その中で三郷校というのが小川の稽医館(前に紹介した:こちら)と湊郷校(敬業館)(ひたちなか市)とここ潮来(延方郷校)だという。
この延方郷校の跡といわれる場所があまり良くわからなかったが、まずは内田山の麓に建てられたというのでこの内田山を探した。
調べると内田山には現在潮来高校があり、国道51号線の曲松信号に近い場所だ。

内田山にある潮来高校。

高校への登り坂の途中に「延方郷校跡」の碑が立てられている。

そこから山をまくように田んぼのあぜ道のような小道を進むと郷校跡があった。

山の麓にあるが本当にここに芹沢鴨も学んだというの延方郷校があったのかという思いがする。

この学校には2000冊近い蔵書があり、当時としてはかなり大きなものだったようだ。
水戸弘道館よりも30年以上前に設立されたという。

設立されたのは文化4年(1804年)に内田山に孔子を祀った孔子聖廊廟(せいびょう)を建て、文化7年(1807)に大成殿が建てられた。
文化14年(1814)に水戸藩主「徳川斉脩(なりのぶ)」親筆の「至聖先師孔子神位」の位碑(現在「潮来市立図書館」内の郷土資料室に展示)を納めた聖堂を建立した。