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石岡の路地(1)

 私の住んでいる茨城県石岡市内はやたらと狭い路地が多い。
街中に寺院も多く古い町で表面上は廃れたイメージを払しょくできないでいるが、これもこれらの車も通れないような狭い路地があちこちに点在していることもその原因の一つに違いない。

もう大分昔だが、石岡の景観を守るのに何を残したいかというようなアンケート調査があった。

その時に市内から他所の町に出ている方に石岡の魅力となる点を上げてもらった。

すると意外な答えが返ってきて驚いたことがあった。

それが「路地」であった。
私も石岡の住民となって10年、ようやく同じような心境になったのかもしれない。

写真ブログではないが時々記事の合間にその姿を残していこうと思う。

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お寺の裏に細く続く路地。
花は黄色のモッコウバラでしょう。綺麗ですね。

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この裏は常光院の墓地です。
この墓地には農機具「万能」を発明した鈴木万能の墓があります。

そういえばこの寺も歴史は古く1000年ほど経つといわれる。
昭和4年の大火で焼失して再建された。
寺の入口は寿金丸通り側にあるがやはり入口は路地である。

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常光院の入口。この路地を行った先にお寺がある(天台宗)。


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国府5丁目 常光院裏通り横道 矢車菊

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三色すみれ

春の日差しを浴びて道端につつましく咲いていました。


石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/07 19:00

石岡の路地(2)

 石岡駅の正面通りは通称八間道路と呼ぶ比較的広い道路である。
この通りは昭和4年2月に石岡市内で起こった大火の後、同じ年の秋に昭和天皇が陸軍演習に来られた時に合わせてできた通りで御幸通りと名称がついている。

この大火はかなり大きな大火災で、当時の石岡は商都としての意地もあり急ピッチで復興も行なわれた。
まあ、それでも当然焼け跡はまだ残っていて天皇陛下が通る道筋の目立つところは全て布で覆ったりして見た目を取りつくろったようだ。
石岡を訪れたのはこの火事の見舞いもあったのだろうからあまりとりつくろわなくてもとも思うが、それが当時の人達の意地でもあったと思う。

さて、路地の記事の2回目だが、この御幸通りの一つ東京側に平行して走る通りがある。通称金丸通りという。
この通りも昔はにぎわったが今はどうしても地元の人以外は通る人も少ない。
お店なども並ぶのだが地元で愛されるお店や問屋として成り立っているお店などもあるが歯が抜けたように空き地も目立つ。

この通りに沿ったところに「鈴の宮神社」がある。

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この鈴の宮の名前の由来は国府であった常陸府中(石岡)には当然駅家(うまや)が置かれていた。
都(奈良、京都)との間で馬で色々なものが運ばれたり伝令も定期的に行なわれていた。
この駅家で使われた時の合図の鈴をこの神社に祀ったことが始まりだと伝えられている。

この神社の隣りの駐車場となっている空地の辺りは、江戸時代には新地八軒と呼ばれ、8軒の遊郭などの家があった。
天狗党の中心となった藤田小四郎(藤田東湖の四男)達はこの遊郭に寝泊まりして同士の結集を図り、尊皇攘夷思想を論じていた。

そして仲間とこの鈴の宮に集結して戦勝を祈願して筑波山に登り天狗党の旗揚げをした。
この鈴の宮に集結したのは江戸から山田一郎など10人ほど、潮来から岩谷敬一郎など17・8人、小川からは竹内百太郎など10人ほど、水戸からは小四郎など20人ほどで総勢60人ほどになったという。

遊郭(旅宿)の一つ紀州屋が小四郎の定宿で、ここの女将「いく」は天狗党に「おふくろ」と慕われていた。
「いく」の墓は市内の本浄寺にあるという。(前に探したがわからなかった)

新地八軒の名前は紀州屋、三好屋、井関屋、山本、大和屋、金升屋、近江屋、松屋だという。
このような狭い空間に軒を連ねていたのだろう。

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この鈴の宮神社の脇から駅前通り(御幸通り)に続く狭い路地がある。

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写真のように狭い道で自転車でもやっと通れるくらいだ。

昔の新地八軒と言うのも通りを挟んで4軒づつ並んでいたようなので、もしかしたらこの路地が昔の遊郭の間の通りだったのかもしれない。

まあそんなことを思ってここを通る人も今ではほとんどいないだろう。

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この道が何処に出るかと言うと「川口ミシン商会」という店の脇である。
鈴の宮神社を探してなかなか見つからないという人もいるが、駅前通りを来てこのミシン商会の特徴のあるレトロな建物の脇を入れば神社に出る。


石岡の路地 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/08 19:32

石岡の路地(3)

 古い町はやはりいたるところに路地がある。
また市内の敷地は京都と同じように皆細長く通りに面した面積を狭くしたところが多い。
きっと間口税が課せられていた名残だろう。

適当に歩きまわったところを少し紹介するとまた違った街の姿が見えるのかもしれない。

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黄色のモッコウバラを先日載せたが白い物もきれいだ。
最近ガーデニングで人気が出ているようだ。

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そのモッコウバラにまじってこんなピンクの花が咲いていたが、名前がわからない。つつじの一種か?

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家から歩いて街中に出る時にこんな炉端にポピーが良く咲いている。
植えたものではなく種が風で飛んでこんなところに咲いているのだろうか。

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路地に面した垣根に花があふれていると何かうれしくなりますね。

道路は幅4mが最低だと決められていてもわが町ではこれに従っていないところは山ほどある。
何とか規制できないかとも思うが土地の面積が減ることに抵抗があるのは否めない。
しかし政治家は今まで新しい幹線道路などができる時に「自分が持っている土地を通るようにルートを決めた」という疑念を待たれることが良くある。

また道路計画のある土地も壊れそうな家をそのまま残して何年も放置されたところも良く見かける。
あまりこのようなことはさもしいと感じるのは何も持たないからなのかもしれない。

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また植木鉢にたくさん花を飾られているお家も多いです。

石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/11 19:04

石岡の路地(4)

 石岡市街のあまり人の通らない細い道を紹介しています。
今日は若松から総社宮の方への道です。

柿岡街道などがありますが、若松町は市内でも最も大きな町です。

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ここに木造十一面観音立像を保存している堂があります。
あまり人の通りは無い狭い道ですがここには室町時代から続く「長法寺」という大きな寺があったそうです。
若松町は昔はこの寺の名前を取って「長法寺町」と呼ばれていたが、江戸時代の宝永年間(1704-1711)に縁起の良い名前に変えることになって若松町改名されたという。

しかしこの長法寺と言う寺はその後もあったので一般にはまだ長法寺町と言う名前は使われていたようで、石岡の祭りでも初期の頃(明治後半から昭和初期)には年番制度の町の名前としても「長法寺町」という名称となっていた。

しかしこの寺も明治3年の長法寺大火という火事で堂宇は全て焼けてしまい、この十一面観音像だけが残され、今でもこの場所に保存されています。
お堂の横には「馬頭観音」の大きな石碑があり馬車組合というむかしの名前が書かれています。

さて何故路地ということで見てみると、江戸時代には石岡は各方面から色々な荷物が集まってきていました。
笠間方面から来ると国分寺近くや今の泉町辺りで市場が開かれており、柿岡方面からはこの長法寺周りで市場が開かれていたのではないかと思われています。

馬の背の米俵を乗せて歩いたり荷馬車で来ることを考えるともう少し周りは広い通りだったのかもしれません。
しかし今の車社会で見たよりはずっと狭い道が続いたりしていたのではないかと思います。

昔の通りのイメージを懐くにはこんな通りを通って見るのも良いのでは・・・・。

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昔の柿岡街道がこちら側を通っていたのだろう。いまは若宮八幡宮の手前からほぼ90度曲るようになって、車を運転する人は最初はきっと戸惑うと思う。

柿岡街道はこの先、鹿の子辺りから柿岡方面沿いに松並木が続いていたと聞いている。

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今来た道を振り返るとこんな感じ。
出てきたのは上の写真の右側の細い道。この道を真っ直ぐ行くと図書館前の通りを突き抜けて十一面観音(旧長法寺跡)の前に出る。

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石岡に来た人でもどこだかわからないでしょうが、このまま進むと国府跡に建った小学校の方に行きます。
上の写真は今来た道を振り返ったところ。
信号を左に曲がると若宮八幡宮、右に曲がると石岡駅の方(香丸通り)に行きます。

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これから行く側を見たところです。
正面に小学校があり市民会館や昔の中世の城跡の土塁などがあります。
その手前の右手が青屋神社、左手が市の室内プールです。このプールの場所が昔の市役所があったところとか・・・・。

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車などだとこのまま真っ直ぐに行くのですが歩きですからここからプーる手前を左に曲がります。
右手がプール、左手が山新家具さんの倉庫?

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お寺が現れます。
この道は府中松平家の菩提寺である照光寺と東耀寺とを結ぶ歩道です。

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まずは天台宗の東耀寺から。
立派な門があり、その奥の正面に「天台宗別格本山」の石柱が立っています。
でも大分前ですが来た時には無かったような気もします。

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このお寺には新撰組の鈴木三樹三郎の墓があります。

石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/12 20:49

石岡の路地(5)

 今朝は緊急地震速報の警報だ鳴って、久しぶりに緊張しました。
ネパールの地震も大変なことになっていますが、東日本大震災からまだ4年が過ぎただけです。
過去の例では10年後の大震災につながったりしていますのでまだまだ終息などしていないのでしょう。

さて昨日はまた銚子に行っていました。
やはり往復すると結構つかれますね。
片道2~2時間半くらいはかかります。

今日の記事はまた昨日の記事の続きです。

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東耀寺と隣りの照光寺とは細い道でつながっています。
東耀寺から門の前の道を横に行くと照光寺の墓地の間の道に入ります。

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この照光寺は松平家の菩提寺です。
府中松平は播磨守になっていましたので小石川後楽園近くの播磨坂付近に屋敷を構えていました。
このため文京区と姉妹都市を結んでいます。

松平播磨守は小石川に上屋敷を持ち、江戸定府でありこの石岡の地にはほとんど来たことがないと思われます。
今ではこの播磨坂は昭和35年(1960)に植えた桜の木が立派に育って桜祭りが盛大に行われるようになりました。

最後の播磨守は松平頼策(よりふみ)で明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となったが、藩が廃止された明治4年には無役となり、明治17年に子爵となった。

この頼策の長男が後を継ぐが、この松平頼孝(よりなり)は無類の鳥好きで小石川の屋敷に標本館を建て、日本産の鳥全種類の標本を集めた、外国の鳥の標本も蒐集し、学術的に極めて価値が高い膨大なコレクションを築き上げた。
しかし、Wikipediaによれば「蒐集や剥製作りに資金を注ぎ込みすぎた上、投資の失敗や遊蕩や知人からの裏切りなどが重なって、1926年に破産した。2700坪の邸宅と1万坪の所有地を売却することを余儀なくされ、剥製2000点、学術用半剥製1万7000点にのぼる貴重なコレクションは鷹司信輔や山階芳麿、蜂須賀正氏のもとに分割売却しなければならなかった」と書かれている。

これがなければ今の播磨坂周辺ももっと変わっていたと思うが、近くの寺にあった墓をこの照光寺に移したのだと思う。

この寺は天狗党の傷跡がたくさん残っていたそうですが皆新しくしました。
一部の刀傷のある柱は民俗資料館(4月からふるさと歴史館に名称変更)に保管されていますが、もう一つ大洗の願入寺にある「開基堂」は今から260年前に建てられたこの照光寺の本堂を移したものです。


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寺の敷地は一部幼稚園になっています。

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駅の方から市民会館方面に曲がる通りを神社通りと言うようですが、総社に続く道だからでしょうか。
こちらからはこのように少し引っ込んだところに寺の入口山門が見えます。

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ここは神社通りで駅の方面を見たところ。
正面突き当りに昔は中町の中心であった天王社(八幡様)がありました。
今では総社宮に合祀され、江戸時代に行なわれていたという祇園祭を地元有志達が中心となり7月に総社で引き継いで実施をしたりしているようです。
(石岡の祭りとの関係はますます曖昧です)

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反対の市民会館側です。
正面は江戸時代の陣屋があった場所で、府中城があった場所でもあり、常陸国の国府が置かれた場所でもあります。

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ではこの神社通りを行かずにそのまま突っ切って真っ直ぐ進んでみましょう。
ほとんど観光客などは歩かない道です。
上の写真はその道の突き当りを右に見たところ。この先に市が最近整備した「上池公園」があります。

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突き当りから人が通れるだけの裏道のような道があります。
そこを進むととある神社に出ます。
「木之地の愛宕神社」です。

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この愛宕神社は昔近くの愛宕山にあったそうですが、愛宕山が整備されたのでこちらに移したようです。
この神社には「木之地のみろく」という変わった人形が残されています。
中町の天王社の祭礼にはこの人形が出て彩りを添えたようですが、今ではほとんど残っておらず同じみろく人形が残されている竹原などを参考に復元したりしています。
是非これらを残してほしいと思います。
(詳細はまえに書いた→ こちら

この木之地町は石岡のおまつりに当初は参加していましたが、町が小さいということで脱退しています。

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神社前の通りを進とこのスーパータイヨーに出る。
地元でも安いと評判のスーパーでおにぎりなど1個60円で多古米使用でおいしいので最近時々買う。
セブンイレブンのおにぎりと比べても遜色なく却って美味しいくらいだ。
お金が厳しくなれば3個で181円(税込)。
このスーパーがあったところは昔「久保倉酒造」という酒造所があり、「大徳」という酒を造っていました。
久保倉酒造さんは、いまは石岡酒造と合併しています。


石岡の路地 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2015/05/13 19:14

石岡の路地(6)

 まだ5月というのに暑くなり少しやる気が失せています。
こんな調子でこれからの夏が乗り切れるのか心配ですが、まああせらずにやっていきましょう。

 昨日の町歩きの続きです。
スーパータイヨーの前の通りは坂になっていて恋瀬川の低地に下っていきますが、この通りも古くからあります。
宮下通りと言います。
宮は総社宮のことでこの下ったところから総社宮に登る入口(昔はこちらが正)があります。
今ではこちらの階段から総社宮拝殿前まで登る人はあまりおりませんね。

今はここは無視して斜めに西に一方通行を逆に歩きます。

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この一方通行を逆に登ると中町の中心に出ます。
それにしてもこの薬屋さんの目立つ看板は町の景観にマッチしていません。
景観法の制定がもたもたしているうちに建ってしまいました。

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江戸時代に染物屋をしていたという丁子屋は昭和4年の石岡の大火では唯一焼け残った江戸時代の建物で、今は町の観光用に使われています。
しかしこの建物も東日本大震災により屋根や壁に被害が出て修理しました。
そのため江戸時代の香りがだいぶ薄くなってしまいました。
上の写真の右手前が丁子屋(まち蔵藍)です。

正面ののドラッグストアのところには昔コーキという百貨店がありましたがこれも今は無くなりました。
(コーキは老舗の百貨店で昔は高喜という呉服店でした)

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こちらは丁子屋さんの裏手のお屋敷です。
写真を撮っている空地は昔コーキの駐車場であった場所です。

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この国道355号線の旧道は江戸時代の水戸街道(陸前浜街道)でした。
今ではこの昭和5年頃にできた看板建築もだいぶ浸透してきたようです。
この通りの辺りは中町ですが、ここから少し土浦寄りはこの街道を挟んで駅側を守横町、反駅側を守木町といいます。
守木という名前は昔は多分「森木」でここの金刀比羅神社あたりを呼んだ地名で、ここに住んだ森木氏から名前がついたものでしょう。
そしてその横の町なので守横町となったようです。

もう少し調べると、守木横町を略した呼び名ですが、守木横丁がこの名前になっとか。
江戸の初期には馬之地上町と呼ばれたようです。

この守横町のNTTの建物の前の信号から駅方向に入る道に進みます。
信号には「守横新道入口」となっていますので、守横新道と呼ぶようです。
道は少し狭いので駅方面からの一方通行です。

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少し進むと左手に古くからやっている老舗の蕎麦屋「丸三そば」があります。
店の中に入ると数十年前のメニュー表が大きく張り出されています。
今の値段の10分の1位ですので間違って注文する人もいないでしょう。
なかなか美味しいです。
真壁に同じ名前のお店があるので聞いてみたところやはりこのお店から分かれたお店だといいます。

右側に将棋連盟の建屋があります。比較的最近引っ越してきたのでしょうか。

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そして次の金丸寿通りの交差点角に蔦で覆われたお店があります。
「河内屋」さんです。多くの方がこのお店はもう営業されていないと云うように思われているようです。
確かに昼間来るとお店は閉まっているようにも見えます。

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でもちゃんと夜には明かりがともります。
この時期は蔦も緑でお花もあり綺麗になっています。
昔なら一杯やりにすぐにでも入って見るのですが、最近は一人で飲むこともほとんどなくなりました。
でも少し気になるお店ですよね。
そのうちにリポートしたいですね。

石岡の路地 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/14 21:15

石岡の路地(7)

 このブログもだんだんまとめるのが苦しくなってきました。
今までより時間はあるのに・・・・

気力の問題でもあり、本当はやらなくても良いのに仕事をしなければという焦りでもあり・・・・

本当は潮来周辺の記事で気になっていることが残っているのですが調べていたらまとまらなくて。
ということで石岡の路地散歩をもう少し続けますね。

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上の写真の地点は国府公民館の前。
左に行くと冨田北向観音から府中誉の酒造所のとおりです。
右の道がメイン通りですがこちらは後から造られた通りです。

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反対側は左手がすぐ6号国道の「貝地」交差点で高浜に向かう通称高浜街道です。
この道は昔からありました。
右に細い道がありますが、今は6号国道で分断されていますが、このまま進めば月天宮を通って外城方面に行きます。
多分昔は霞ケ浦から恋瀬川に入ってこの先の方からも陸に上がっていたのではないかと思われます。
真中に挟まれているのが「はとりや」菓子屋さん(緑の屋根の店)。

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ここの国府公民館はかなり利用率が高いようです。よく毎日何かに使われています。
ここに公民館を建てるかそれとも歴史資料館のような施設を建てるかと昔議論になったようですが、公民館になりました。
上の写真は公民館の裏の路地です。

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公民館の敷地手前でしょうかこのような石の蔵が残されています。
石岡もあちらこちらに石蔵が点在しています。
今度写真の収集でもやりたいと思います。
でも屋敷の奥などに眠っている所が多いのでどこまで撮らせていただけるかは不明です。

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この公民館裏通りを進み「一成」蕎麦屋さんの通りを突き抜けてさらに細い道を進みます。

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すると左手にこんもりとした盛り土上に「月読神」と「庚申塔」の石碑が置かれた場所があります。
昔紹介したことがありますが、ここは常陸国の駅家(うまや)があった場所ではないかといわれています。
いまでは本当?という感じですね。
このまま進むと坂を下って6号国道に出ますが、この6号国道の低地は昔田圃が広がり「室ヶ井」という湧水が出ていました。
府中六井の一つで平景清が産湯をつかったという話もあります。

・びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ

という歌も残されています。
水面が瓶面のような谷津に月が差している・・・?
昔はどんな状態だったのか想像も今ではできません。

古代東海道はこの常陸国府(石岡)が終点です。
この場所がそんな場所だったのか想像すらできないのですが、道は恐らく律令制初期の頃は霞ケ浦(流れ海、香取海)を渡って高浜方面から来ていたと思っています。

この場所が駅家だったと想像すると古代の道も見えてくるようにも思います。

石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/15 22:31

石岡の路地(8)

 国道6号線を土浦方面から恋瀬川を渡って石岡に入ると坂を少し上って「貝地」の交差点となる。
この交差点をすぐ先の左側に「一成(いちなる)」という少し洒落たお蕎麦屋さんがある。
今回はこの通り沿いをあるいてみましょう。

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蕎麦屋「一成」
ランチに数回お邪魔した。

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日本蕎麦と天丼やカツ丼をセットにしたメニューがお得となっている。
お店の雰囲気は良い。しかし蕎麦のつけ汁が私の好みに合わない。
私は出汁のきいた少しあっさりした方が好きだが、こちらのは関東風だ。
これはそれぞれ好みなので仕方がない。

この店のすぐ先は国府公民館が左手にある。

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「笑門」の飾りを玄関につけていたお宅があった。
このあたりではほとんど見かけたことがないが、伊勢などでは掲げている家も多いのだとか。

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お花もきれいに飾られていてシャクナゲが咲いていた。

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このお魚屋さん今はどうしているのか・・・。

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ここは隣りのクリ-ニング屋さん。
店内には色々飾ってあって楽しくなるお店。

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写真を撮っているとお店の奥さんにであって声をかけられた。
このお店もテレビか映画の撮影に来たとか。その時は店の中も撮影したとのこと。

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こちらもまた昨年?だったかにテレビに出た。
石岡の看板建築の紹介をNHKがやっていたものだが、昭和初期の看板建築を作った左官屋さんの御自宅だとか。

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こんなところにも立派な看板建築の建物があったのだが意外に気がつかない。

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その前に少し離れてレンガ造りの塀がある。
関東冷凍工業さんの工場です。何時頃建てられたものかは不明。

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さてこの通りはこの石岡プラザホテルの横に出てきます。
ホテルの前は駐車場となって道が入り組んでごちゃごちゃしています。
この駐車場(みゆみパーキング)のあたりにはスーパー「西友」がありましたがこのあたりは再開発が必要です。


石岡の路地 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2015/05/16 19:14

石岡の路地(9)

 石岡市内の路地歩きをしていて少し気になった建物などを紹介しておきます。

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今年4月に香丸町信号近くにホテルがオープンしました。ホテル「SOSHA」です。
前にここには燃料店がありました。前からあった石蔵をレストランに改造して使っています。
「レストランじょんのびバル」です。

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石岡には「茨城理容美容専門学校」があります。

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そのすぐそばにこんな看板のお店が・・・。
何時頃からあるのでしょうね。

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こちらはレストランパブ「バードランド」
気になるのですが夜食事や酒を飲みに来ることもないので入ったことはありません。
鈴の宮神社のすぐ前を南に入ったところにあります。

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こちらは「小野越」蕎麦店さん。
雰囲気の良いお店で蕎麦も美味しいのですが最近大きなビルなどができてお店の雰囲気が半減してしまいました。
それとしばらくお店も休んでいたりしたので足も遠のきました。
蕎麦は常陸蕎麦で少し黒っぽい蕎麦を提供しています。黒い方は香りが良いようにも思います。

前回のブログ記事にコメントをいただいた大吾パパさんによるとバードランドさんやこの小野越蕎麦屋さんは「上里義輝(故人)」さんという方がデザインされたお店だそうです。
このほか昨日の蕎麦一成さんや松葉寿司、カメラの飯村写真館さんなどが同じ型のデザインだそうです。

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こちらは小野越さんの通り(県信の裏通り)にあるお店です。
「鰹節」専門店カネトヨ「河津商店」さんです。
窓には「ふし粉あります」の張り紙が貼ってあります。

お蕎麦屋さんもこのあたりに多いのできっといいのでしょうね。
小売りもしています。


石岡の路地 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2015/05/17 21:09

石岡の路地(10)

 3月にウィーンから帰ってきた次女に待望の赤ん坊が今日無事産まれました。
男の子です。これでまたお爺ちゃんになったわけです。

娘は神戸ですのですぐには会いに行けませんが落ち着いたら顔を見に行きたいですね。

 茨城県石岡市の旧市街地の路地歩きの紹介をしています。
もう10回目になってしまいました。

何とはなしに紹介を始めてみると色々な姿が見えてきます。
良いこと、悪いこと色々混ざっています。
人それぞれ感じることも違いますが、この町も眠ったようでありどうしようもないと感じる人もあれば、昭和のロマンが漂っていて好きだという人もいます。

あまり発展しないことである種の郷愁が残っているのでしょう。
私は古代、中世の歴史の息づく町の面影を抱きながら町を眺めることが今まで多かったのですが、この町の路地歩きで数十年前から変化がないようでもそれなりに変化しています。

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国分寺への入口にある青柳商店さん
東日本大震災で被災したレンガへいの修復中です。
このレンガ塀の前に以前飲み屋さんがと駐車場などがありましたが今はありません。

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レンガ塀の上に瓦で屋根をつけています。
レンガ塀の左側には現在コンビニエンスストアができていますが、これも比較的最近です。

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この青柳さん「青柳新兵衛商店」といいますがこの国分寺門前通りは昔市場も開かれ江戸時代もにぎわったようです。
その頃からあるのでしょうか米穀商をされていると思います。

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こちらの蔵は駅前突き当りのマスヤさんの少し香丸通り側の駐車場空地に置かれていた石蔵ですが、最近中を整理して何かに使われ始めたようです。
重厚な扉の石蔵は昔の人の心意気を表したものでしょう。
火事の多かった石岡などの商都では競って石蔵を建てたようです。
現在もまだかなり残されていますのでこれらをもう少し市のシンボルとして活用する工夫も必要ですね。
1か所が頑張ってもなかなか有機的につながらないものでしょう。

石蔵ピザや石蔵コンサートなど各地で色々な催しも行なわれていますので、この町には何が似合うのでしょうね。

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こちらはおなじみの香丸通り側にある浜総業さんの事務所であったもの。昭和9年の建築。


石岡の路地 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2015/05/18 19:38

石岡の路地(11)

 イベント広場という大きな空地の前に石岡市中央図書館があります。
イベント広場については前に書いた記事を参照ください。
 ・イベント広場の変遷(1)
 ・イベント広場の変遷(2)
 ・イベント広場の変遷(3)
 ・イベント広場の変遷(4)

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この図書館についても前に書いていますがあらためて記事を再アップします。

「これがなかなかすごい歴史のある図書館なんです。
明治22年に私設の図書館としてオープンしたそうです。当時の石岡がかなりの街として栄えていた証拠でもあります。
茨城県の図書館では最も古い図書館です。茨城県立図書館より14年も早かったのです。
また私設図書館として後に公立の図書館に受け継がれた図書館でいまでも現存するのは日本で2箇所のみだそうです。
もっとも、図書館は最初は設立者「手塚正太郎」氏が校長をしていた現石岡小学校の校長室に作ったそうです。
石岡もこの図書館を新しくする動きもありますが、是非この輝かしい歴史をもっとアピールするように素晴らしい図書館や歴史資料館などを造っていただきたいと思います。」

この図書館を立派なものに立て替えるという案も浮上しているようです。
確かに利用者も多くいます。
また色々な図書も増え昔の新聞などもどこに保存すればよいのかなどという記事も昔ですが見た記憶もあります。

私としては市内の子供たちが学習する学習室などの確保をぜひお願いたいとも思っています。
2階の窓側にカウンターのようなテーブルと椅子が並べられていますが受験生などが使っているとゆっくり書物を読む場所も少ないのです。
もちろん借りてくれば良いのですが、この地方の歴史などの文献もできればゆっくりと探したいのです。

4月の市の広報誌に今泉市長の夢が載っています。(こちら

九州佐賀県武雄市の図書館を視察した時の記事です。
こんな夢も早く実現できると良いですね。

今は市庁舎や石岡駅のリニューアルでプライオリティが低くなっているのかもしれませんが、是非楽しい夢を描いてほしいものです。

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図書館の奥の駐車場にポツンと石蔵が一つ残されたように建っています。
何が保管されているのかは不明ですが、古い新聞などの寄贈分などであるのなら電子化を進めて廃棄するような仕組みを早く築く必要があります。

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近くのお宅の玄関脇にヤマボウシの花が咲いていました。
もう少し後かと思っていましたが早いですね。

ヤマボウシ(山法師)は白い部分は花ではなくて総包片だそうです。花は真中の緑の部分だとか・・・

ハナミズキと同じ仲間だそうです。


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石岡の路地 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/05/19 17:44

石岡の路地(12)

 今日は石岡善隣幼稚園周辺をUPします。
石岡駅から少し土浦寄りの6号国道から少し入った高台に善隣幼稚園はあります。

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大正6年(幼稚園の認可は翌年)に香丸町でこの幼稚園が始まりました。
現在地には昭和4年の大火のすぐ後の5月に移転しました。
あと2年で創立100年です。

幼稚園ですが現市長の今泉文彦氏が園長になってから夜7時までの保育ができる保育園機能を持たせた運営となっています。

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ピンクの建屋が目立ちますが、このあたりは道もせまく私には迷路のようです。
忠犬タローのお話の子供が通っていた幼稚園で、今泉氏が園長さんの頃に本「ここで君を待ってるよ」を出版しました。
私は直接園長さん(現市長さん)から本をいただきました。

昔の記事:忠犬タローの歌を聞いて(こちら)、忠犬タローの歌(こちら

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幼稚園から駅方面に歩きます。
この場所も気になるところですね。

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このように比較的狭い道が色々な方面に延びています。

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少し別な脇道に入りました。
正面に石岡プラザホテルが見えます。
手前の正面は公園があります。
公園の向こう側が先日紹介した関東冷凍工業さんの工場です。
この公園(中央児童公園)も最近きれいになりました。
街中にあるのですが普通の通りからは奥なので観光客には目に付きません。
トイレも新しくしたので利用できます。4月は桜もきれいに咲いていました。

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街中は至るところがこのように幅が3mくらいの路地がはしっています。
古い町で4mの最低道路幅になるのは余程の強権がないと無理でしょう。
今となってはこれも路地風情があるので楽しんでいきたいと思います。

石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/20 18:18

石岡の路地(13)

石岡の路地を紹介していますが、今日は金丸通りを紹介します。

石岡の通りも大昔整理されたようですが、この区割りも昔からこの地区に住んでおられればわかるのですが、私のように他所からやってきた者にとっては分かりづらいと思います。
この通りに昔から名前がついたりしているなら積極的に通りの名前を表示してPRしてほしいものです。

東京へ行っても最近通りの名前がいたるところに表示されていて親しみがわきます。
もちろん英語での表記も忘れてはいけませんね。

仙台などの地方都市でも文学者の名前やその地にちなんだ花や史跡の通り名にすればより親しみがわくものです。

私もこの町に来て当初はかなり理解できませんでした。
全て旧町名がこの通りの名前にかかわっているようです。

金丸通りというのは駅の正面通り(御幸通り)より1本南側の通りです。
通りの名前は金丸氏が住んだところだとか? 人の名前が先かと地の名前が先か? 昔ならたぶん土地の名前にそのようないわれがあったのかもしれません。

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中町の旧355号線(旧水戸街道=陸前浜街道)から東(駅方向)にすこし入ると、右手にこの「四季」という喫茶店が目につきます。
看板建築の建物として登録文化財に指定されています。
正面側だけがギリシャ風の柱様式などで飾られています。

その左手は荻野肉屋さんで、コロッケは有名なようです。
でも震災で店が被害を受けて直していたのでその後あまり立ち寄っていません。

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四季のとなりにこの石岡では有名なラーメンやさん(朝日屋)がありました。
お肉屋さんがラーメン屋さんになりテレビにも出てファンも多かったのですが4年前の震災で店が被害を受け廃業してしまいました。

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朝日屋さんの跡地は建て物を壊してそのままです。

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そのすぐ先に中華料理の「稲吉屋」があります。
地元では老舗のようですが先日一度食べに行ったことがあるだけです。
昼には店に入ってから食べる終わるまで30分以内という私の条件には合いません。
味は美味しかったです。

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そこから更に行くと左手に釣り仲間では結構有名な「池田釣り具店」があります。
池田さんは真剣居合抜きの名人でしたがお亡くなりになられ、奥さんと娘さんがお店をやっているようです。
最近は「笑魚堂」というネームで手作りのお祭りストラップなどを制作しています。
商品はまちかど情報センターなどで買うこともできます。
(前の紹介記事:こちら1こちら2こちら3

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その隣りに「梅屋」さんという着物、和服などを扱う呉服屋さんがあります。
着物は私にはよくわかりません。

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その少し先に前にも紹介した「鈴の宮神社」があり、新地八軒などと言われた遊郭もあったところですが今では空地。
隣りに写真館があります。
石岡も写真屋さんは多いですね。今ではほとんどがデジカメで自分で撮るしプリントもネットが早くて安い。
お祝い事で写真を撮ることはまだ残っていてもこれからどうなるのでしょうか。

結婚式などもフリーのカメラマンがたくさん都会などには多いです。

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右側は先日紹介したパブレストラン「バードランド」です。

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今回はお店の入口に掲げられた看板を撮って見ました。

実はこうして紹介するのは目についたものだけで、地元の方にはもっと知らない隠れたお店などもありそうです。
そのうちもう少し慣れ親しめばわかるかもしれません。

それにしても石岡にはたくさんの商店会が存在します。これらの通りごとにあるのです。
金丸通りにあるので「金丸通り商店会」というようです。

御幸通りにあれば「御幸通り商店会」、神社通りなら「神社通り商店会」・・・・・「中町商店会」?に「香丸町商店会」?など・・・・

こじんまりした街にこれらの組織はもっとまとまって「石岡商店会」「石岡おかみさん会」などとならないとあまりにこじんまりとし過ぎるように思います。
恋瀬姫が泣いているようで・・・・。




石岡の路地 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/05/21 19:35

石岡の路地(14)

 石岡の富田町は府中酒造の蔵と北向観音堂、平福寺が並んでいる。
道は狭いが昔はこちらがメイン通りであっただろう。

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この北向観音堂は常陸国総社宮の神宮寺として昔に総社境内に建てられたもの。
それを上の写真の撮っている位置辺りに移し、そしてこの町(常陸府中=石岡)の町立てをする時に今の位置に移したようだ。

この町立てをしたのが何時の事だかわからぬが、戦国末期に混乱でぐちゃぐちゃになった町を建てなおした時か、江戸時代になってからかまったくわからない。
この北向観音の正面の通りは今は「金丸寿通り」などとしゃれた名前がついているが、旧水戸街道と平行に走っているので恐らく水戸街道ができる前の町のメイン通りであったのかもしれない。

北向観音を南端に配置し、福徳稲荷神社を反対側の北端に配置して街並みを整えたに違いない。
(文献を探すが何処にもこのような記述は見つからない)

こうして見るとこの町も結構愛おしく感じる。

富田町は石岡のお祭りでは「ささら」という変わった三匹の棒獅子が出ることで、昔からの格調の高さが思われるが、江戸の宝永年間までは馬之地町といった。
隣りの現在守横町は「馬之地上町」といった。

これからしても貝地信号に近い場所が「駅家」だったことはありうることだと思う。
あまりこのあたりは発掘調査が行なわれていないようだ。

駅家(うまや)は都との連絡官道の駅として重要な役割を持ち、ここに馬などを常駐させていた。
名前からしてこの馬を管理する人たちが住んだところだろう。

北向観音堂の隣りにある平福寺は前にブログで「平氏の福を願う寺」と紹介した。
坂東平氏の嫡流である大掾氏(だいじょうし)の歴代の墓がある。

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石岡市旧冨田町の空地に置かれたいたチビトラ(小型トラクター?)
かなり年代を感じる。

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大農舎などという会社は知らないが今はどうなっているのか?
石岡町となっているので少なくても昭和29年以前です。

石岡も市制60年が過ぎました。茨城県では5番目の市だったのです。
(水戸、日立、土浦、古河の次)



石岡の路地 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2015/05/25 18:40
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