潮来から息栖(1)-普門院
石岡の路地歩きの記事を半月前から14回ほど書いてきました。
この路地歩きもまた少ししたら続きを書きたいと思います。
しかし、その前に書いていた潮来周辺の記事も途中でしたのでこちらも少し書き足しておきたいと思います。
潮来から鹿島に向かうには国道51号線で延方(のぶかた)を通過して北浦に架かる大橋(神宮橋または新神宮橋)を渡っていきます。
もちろん延方も潮来市ですが潮来というと水郷のイメージが強いので、それとは少し違ったイメージも紹介したいとタイトルを「潮来と延方」としてきましたが、この先の息栖方面との繋がりを別なカテゴリとしてまとめてみたいと思います。
まず最初は、神宮橋のすぐ手前の洲崎の交差点手前を左側に入ったあたりに「普門院」というお寺です。
ここを訪れたのはもう1カ月以上前になりました。
桜の花の散った頃ですが、潮来の鎌倉幕府とのつながりが強い象徴である「長勝寺」の立派な入口の山門(楼門)はこの普門院の門を移築したものだと聞いていたので一度行ってみたいと思っていたものです。

寺の裏側に駐車場があったのでそちらに車を止めて寺の裏側から入りました。
こちらは寺の住職のいる住まいのようでかなりきれいにされています。

庭を通って本堂(地蔵堂?)のある方に行ってみました。
このお堂は地蔵尊を祀っているので地蔵堂だそうです。

とても驚くほど立派なお堂ですが、現在このお堂に鉄骨で覆って屋根をかぶせ、風雨から守るようにしています。
写真を撮らせていただいていると、近くを掃いていた小坊主さんがおりましたので内部の写真を撮らせていただいても良いか伺いました。

住職に聞いてきますと母屋の方に行きしばらくして戻ってきました。
「現在痛みがひどくて、まだ彩色も残っているうちに何とか修理をしたいと浄財を集めていますが、このような状態では写真もできれば遠慮してほしいと申しております」とのこと。

まあそうは言われてもこれだけの歴史的な構造物に彫刻の立派なものを紹介しないわけにもいきません。
外から少しだけということで写真を撮らせていただきました。
少しと言いながらかなり多くなってしまいました。立派なものですのでお許しください。

この地蔵堂は徳川光圀が潮来村から延方村に移したものだそうです。
建築年代は天和3年(1683)で、市の紹介記事によると「来迎柱の裏面に朱書きで遊女たち70名の名前が書かれている」とあります。

350年ほど前に建てられたものですのでやはり修理も必要でしょう。
何とか早く修繕して立派な姿をよみがえらせてほしいものです。

よく見ると確かに痛みも目立ちますし、ところどころ欠けてしまったところも目につきます。
いまはまだ色彩も残っており、修理も可能な状態ですので文化財的な観点からも是非昔の姿がよみがえればよいと願っています。

さて、この寺は舟に乗った地蔵(船越地蔵)を本尊としています。

本尊の船越地蔵菩薩はこの奥の厨子?の中に安置されていて、通常は身代わり地蔵を公開しているようです。
言い伝えによると鎌倉時代の建長4年(1252)9月15日に高僧「忍性」が鹿島神社に詣で、7日の間衆生済度を物語ったところ「鹿島社の神木の南枝で地蔵を刻み、この洲崎普門院に安置すれば、五穀豊穣、国家安泰となるであろうとの神託を受け、忍性が地蔵菩薩像を三体作成し、普門院、普渡寺(大船津)、菩薩寺にそれぞれ安置したという。
現在この普門院の地蔵尊は舟に乗った姿の地蔵で、欅の木の一本造りで丈は三尺三寸だという。
(ただしかなり傷みも激しいとのこと)



現在の寺の山門(入口)は北浦の方を向いている。
この路地歩きもまた少ししたら続きを書きたいと思います。
しかし、その前に書いていた潮来周辺の記事も途中でしたのでこちらも少し書き足しておきたいと思います。
潮来から鹿島に向かうには国道51号線で延方(のぶかた)を通過して北浦に架かる大橋(神宮橋または新神宮橋)を渡っていきます。
もちろん延方も潮来市ですが潮来というと水郷のイメージが強いので、それとは少し違ったイメージも紹介したいとタイトルを「潮来と延方」としてきましたが、この先の息栖方面との繋がりを別なカテゴリとしてまとめてみたいと思います。
まず最初は、神宮橋のすぐ手前の洲崎の交差点手前を左側に入ったあたりに「普門院」というお寺です。
ここを訪れたのはもう1カ月以上前になりました。
桜の花の散った頃ですが、潮来の鎌倉幕府とのつながりが強い象徴である「長勝寺」の立派な入口の山門(楼門)はこの普門院の門を移築したものだと聞いていたので一度行ってみたいと思っていたものです。

寺の裏側に駐車場があったのでそちらに車を止めて寺の裏側から入りました。
こちらは寺の住職のいる住まいのようでかなりきれいにされています。

庭を通って本堂(地蔵堂?)のある方に行ってみました。
このお堂は地蔵尊を祀っているので地蔵堂だそうです。

とても驚くほど立派なお堂ですが、現在このお堂に鉄骨で覆って屋根をかぶせ、風雨から守るようにしています。
写真を撮らせていただいていると、近くを掃いていた小坊主さんがおりましたので内部の写真を撮らせていただいても良いか伺いました。

住職に聞いてきますと母屋の方に行きしばらくして戻ってきました。
「現在痛みがひどくて、まだ彩色も残っているうちに何とか修理をしたいと浄財を集めていますが、このような状態では写真もできれば遠慮してほしいと申しております」とのこと。

まあそうは言われてもこれだけの歴史的な構造物に彫刻の立派なものを紹介しないわけにもいきません。
外から少しだけということで写真を撮らせていただきました。
少しと言いながらかなり多くなってしまいました。立派なものですのでお許しください。

この地蔵堂は徳川光圀が潮来村から延方村に移したものだそうです。
建築年代は天和3年(1683)で、市の紹介記事によると「来迎柱の裏面に朱書きで遊女たち70名の名前が書かれている」とあります。

350年ほど前に建てられたものですのでやはり修理も必要でしょう。
何とか早く修繕して立派な姿をよみがえらせてほしいものです。

よく見ると確かに痛みも目立ちますし、ところどころ欠けてしまったところも目につきます。
いまはまだ色彩も残っており、修理も可能な状態ですので文化財的な観点からも是非昔の姿がよみがえればよいと願っています。

さて、この寺は舟に乗った地蔵(船越地蔵)を本尊としています。

本尊の船越地蔵菩薩はこの奥の厨子?の中に安置されていて、通常は身代わり地蔵を公開しているようです。
言い伝えによると鎌倉時代の建長4年(1252)9月15日に高僧「忍性」が鹿島神社に詣で、7日の間衆生済度を物語ったところ「鹿島社の神木の南枝で地蔵を刻み、この洲崎普門院に安置すれば、五穀豊穣、国家安泰となるであろうとの神託を受け、忍性が地蔵菩薩像を三体作成し、普門院、普渡寺(大船津)、菩薩寺にそれぞれ安置したという。
現在この普門院の地蔵尊は舟に乗った姿の地蔵で、欅の木の一本造りで丈は三尺三寸だという。
(ただしかなり傷みも激しいとのこと)



現在の寺の山門(入口)は北浦の方を向いている。
潮来から息栖(2) - 鰐川
潮来の水郷というのは江戸時代に家康がそれまで江戸が湿地帯で水害も多く発生していたことから現在の東京湾に注ぎこんでいた利根川の流れを銚子の方の川につなぎ直すという大改革(利根川の東遷)を行なったことに端を発します。
この東遷事業は1594年から1654年までの徳川三代将軍家光の死後までかかるが、これにより利根川上流からの土砂によりこの潮来付近には三角州ができ、そこを開拓して大きな耕作地が造られた。
潮来水郷観光の十二橋巡りなどというのもこの加藤洲といわれる開拓地の水路の両側の家々を行き来するために掛けられた十二の橋が続いている水路を巡るものだ。
昔はサッパ舟が生活の一部となっていた風情を楽しむものだ。
さて、この加藤洲ができたときに利根川と常陸利根川との間に北浦からこの常陸利根川に流れ込む流れのために三角洲が形成されないで大きな湖の形が残った。
これが外浪逆浦(そとなさかうら)という。
この名前もなんとなくイメージとしてその湖の状態をよく表しているように思う。
普段は北浦から常陸利根川に水は流れ込むが、大雨の後などは利根川が増水して北浦に逆流する。
また昔は海水も流れ込んだ。
今日のブログのテーマはこの北浦と外浪逆浦をつなぐ川についてである。
川の名前を「鰐川」(わにがわ)という。
何故鰐川という名前なのだろう。
こんなことを考えていたらこの記事を書くのが1カ月も遅くなってしまった。

上の写真は鰐川に架かる国道50号の鰐川橋。右手が潮来で左手は神栖方面である。
この鰐川に鰐が棲んでいたという伝説が残っている。
昨日紹介した「普門院」に伝わる話である。
普門院は北浦の先端、この鰐川の入口の位置にある。
そして、筑波山手前の宝篋山麓にあった極楽寺にやってきて常陸での布教活動をした高僧「忍性」が鹿島神宮の御神木の枝で彫ったという舟に乗った地蔵尊(船越地蔵)を本尊としている。
潮来市の広報「いたこ」2010年5月号の記事から紹介します。
「この地蔵が普門院船越地蔵として尊ばれたのは、この入り海の普門院前の水路は、潮の流れが速く、常に渦を巻く荒川であり、太平洋の海が逆流するため、いつしか鰐(わに)がすんで渡し船を覆し人々を取り喰う被害が絶えなかった。そこで近村の人々は、鹿島社に詣でお祈りをした。次の日、一人の僧が川辺に佇み、水上に向かい読経を始めた。すると水面にわかに逆巻が立ち、風を起こし、丈余(約3m)の鰐の群れが出現し、回りながら太平洋に流れ去ったという。
その後この僧は普門院の地蔵堂へ忽然とその姿が消えた。その後、渡船の事故もなく、五穀豊穣、人々は忍性作の船越地蔵を尊んだという。

さて、この話をそのまま解釈してもしょうがない。その当時に日本の川や海に鰐がいたなどという記録は無い。
そうすると思いだすのは「稲羽の素兎」(因幡の白兎)の話だ。
子供の頃に歌も習った。大黒様(大国主)の話で出雲の話として出てくる。
♪♪ 大きな袋を 肩にかけ
大黒様が 来かかると
ここに因幡の 白うさぎ
皮をむかれて 赤裸 ♪♪

この歌も古事記などに出てくる神話が出典なのだが、
神話の「国譲り」では今の日本や大和政権が統一する前に出雲に「国」がまずあったことの説明として話が造られたと考えられそうだ。
隠岐の島から本土に渡る手段がなかったウサギは鰐を集め、言葉巧みにだまして鰐を島から本土まで並べさせ、数を数えるふりをして鰐の背中を飛び跳ねながら本土まで渡ります。
そしてウサギは渡り終えるとだましていたことをうっかり鰐にしゃべってしまい、怒った鰐によって皮をはがされてしまいます。
そして痛がって泣いているこの兎を八百神がうそを教え、兎は更に苦しみます。
最後にやってきた大黒様(大国主)がこの白兎を助けてやるわけですが、この話は、この国が最初はこの出雲の神(大国主)が持っていたことの説明として使われていると解釈するとスッキリします。
しかし、鰐は当時の日本にも恐らくいないであろうから一般には鰐(ワニ)ではなく「鮫」(サメ)のことだという説がかなり定説のようになっています。
まあ鮫でもワニでもどちらでもいいようですが、大昔に波の荒れた海を見ているとまだ見たことのない鰐がたくさん泳いでいるように感じたのかもしれません。
江戸時代になると波乗り兎の文様が流行りますが、月が海面に写ると、月に住む兎が波間を飛び跳ねているように見えたのでしょう。
すると、鰐は荒れ狂う波のことなのかもしれません。

上の写真は鰐川の上流側(北浦方面)を見た所。
地図ではそれ程の川ではないと思うが、実際に見てみるとかなり広い。
昔は海からの流れと、北浦からの流れが渦巻いていたのかも知れない。
今では利根川とは水門があって逆流もしない。
もちろん海水は流れて来ない。逆流はしないのだ。
洪水や水田にとっては水門の逆流は好ましくなかったのだがじれでは霞ケ浦全体の水質は悪くなるばかりである。
窒息しないうちに、時々吸ったり吐いたり息をさせてほしい。
この東遷事業は1594年から1654年までの徳川三代将軍家光の死後までかかるが、これにより利根川上流からの土砂によりこの潮来付近には三角州ができ、そこを開拓して大きな耕作地が造られた。
潮来水郷観光の十二橋巡りなどというのもこの加藤洲といわれる開拓地の水路の両側の家々を行き来するために掛けられた十二の橋が続いている水路を巡るものだ。
昔はサッパ舟が生活の一部となっていた風情を楽しむものだ。
さて、この加藤洲ができたときに利根川と常陸利根川との間に北浦からこの常陸利根川に流れ込む流れのために三角洲が形成されないで大きな湖の形が残った。
これが外浪逆浦(そとなさかうら)という。
この名前もなんとなくイメージとしてその湖の状態をよく表しているように思う。
普段は北浦から常陸利根川に水は流れ込むが、大雨の後などは利根川が増水して北浦に逆流する。
また昔は海水も流れ込んだ。
今日のブログのテーマはこの北浦と外浪逆浦をつなぐ川についてである。
川の名前を「鰐川」(わにがわ)という。
何故鰐川という名前なのだろう。
こんなことを考えていたらこの記事を書くのが1カ月も遅くなってしまった。

上の写真は鰐川に架かる国道50号の鰐川橋。右手が潮来で左手は神栖方面である。
この鰐川に鰐が棲んでいたという伝説が残っている。
昨日紹介した「普門院」に伝わる話である。
普門院は北浦の先端、この鰐川の入口の位置にある。
そして、筑波山手前の宝篋山麓にあった極楽寺にやってきて常陸での布教活動をした高僧「忍性」が鹿島神宮の御神木の枝で彫ったという舟に乗った地蔵尊(船越地蔵)を本尊としている。
潮来市の広報「いたこ」2010年5月号の記事から紹介します。
「この地蔵が普門院船越地蔵として尊ばれたのは、この入り海の普門院前の水路は、潮の流れが速く、常に渦を巻く荒川であり、太平洋の海が逆流するため、いつしか鰐(わに)がすんで渡し船を覆し人々を取り喰う被害が絶えなかった。そこで近村の人々は、鹿島社に詣でお祈りをした。次の日、一人の僧が川辺に佇み、水上に向かい読経を始めた。すると水面にわかに逆巻が立ち、風を起こし、丈余(約3m)の鰐の群れが出現し、回りながら太平洋に流れ去ったという。
その後この僧は普門院の地蔵堂へ忽然とその姿が消えた。その後、渡船の事故もなく、五穀豊穣、人々は忍性作の船越地蔵を尊んだという。

さて、この話をそのまま解釈してもしょうがない。その当時に日本の川や海に鰐がいたなどという記録は無い。
そうすると思いだすのは「稲羽の素兎」(因幡の白兎)の話だ。
子供の頃に歌も習った。大黒様(大国主)の話で出雲の話として出てくる。
♪♪ 大きな袋を 肩にかけ
大黒様が 来かかると
ここに因幡の 白うさぎ
皮をむかれて 赤裸 ♪♪

この歌も古事記などに出てくる神話が出典なのだが、
神話の「国譲り」では今の日本や大和政権が統一する前に出雲に「国」がまずあったことの説明として話が造られたと考えられそうだ。
隠岐の島から本土に渡る手段がなかったウサギは鰐を集め、言葉巧みにだまして鰐を島から本土まで並べさせ、数を数えるふりをして鰐の背中を飛び跳ねながら本土まで渡ります。
そしてウサギは渡り終えるとだましていたことをうっかり鰐にしゃべってしまい、怒った鰐によって皮をはがされてしまいます。
そして痛がって泣いているこの兎を八百神がうそを教え、兎は更に苦しみます。
最後にやってきた大黒様(大国主)がこの白兎を助けてやるわけですが、この話は、この国が最初はこの出雲の神(大国主)が持っていたことの説明として使われていると解釈するとスッキリします。
しかし、鰐は当時の日本にも恐らくいないであろうから一般には鰐(ワニ)ではなく「鮫」(サメ)のことだという説がかなり定説のようになっています。
まあ鮫でもワニでもどちらでもいいようですが、大昔に波の荒れた海を見ているとまだ見たことのない鰐がたくさん泳いでいるように感じたのかもしれません。
江戸時代になると波乗り兎の文様が流行りますが、月が海面に写ると、月に住む兎が波間を飛び跳ねているように見えたのでしょう。
すると、鰐は荒れ狂う波のことなのかもしれません。

上の写真は鰐川の上流側(北浦方面)を見た所。
地図ではそれ程の川ではないと思うが、実際に見てみるとかなり広い。
昔は海からの流れと、北浦からの流れが渦巻いていたのかも知れない。
今では利根川とは水門があって逆流もしない。
もちろん海水は流れて来ない。逆流はしないのだ。
洪水や水田にとっては水門の逆流は好ましくなかったのだがじれでは霞ケ浦全体の水質は悪くなるばかりである。
窒息しないうちに、時々吸ったり吐いたり息をさせてほしい。
潮来から息栖(3)-なさか夕日の郷
潮来から神栖地区に入る境を流れる「鰐川」。
この川は北浦から外浪逆浦という湖に注ぐ。
この湖は常陸利根川の途中が膨らんだような湖で、利根川が銚子の方に東遷したことでこんな形になったものだろう。
国道50号線で潮来から神栖へ向かうとこの鰐川に架かる橋が「鰐川橋」である。
そして、ここからもう外浪逆浦が始まるといってよいようだ。
外浪逆浦は「そとなさかうら」と読む。
そしてこの川のすぐ近くにここから外浪逆浦に沈む夕日がきれいなことから「なさか夕日の郷公園」という小さな公園がある。
ただこの近くは道が狭く入り組んでいて知らないと、少しまごつきそうだ。
自転車や徒歩なら川沿いを行けばよい。

7~8台位停まれる駐車場がある。

こんなブランコもある。
奥に見えるのが夕日を眺める展望台。

展望台の上から外浪逆浦を眺めた。
ここを訪れたのは午前中で、天気もあまり良くなく太陽は見られなかったが、夕日がきれいなのだとか。

川の上流側には先に紹介した「鰐川橋」が見える。

川や湖はこの公園の西側になるが、東側は上の写真のような田んぼや畑が広がる。

この川の東側は「神栖市下幡木(しもはたき)地区」と呼ばれる。
このあたりの土地の開墾や開拓については鰐川橋の麓にこんな碑が建てられていた。
「未来を創る大地」と彫られている。

内容は上の写真をクリックすれば読めると思います。

Flood Mapsで水面を1mだけ上げて表示させてみました。
このあたり一体は水面下になります。また潮来市側も徳島地区も水浸しです。
そしてこの地区にできた広大な土地の開拓が行なわれたのは江戸時代です。
昔この徳島地区の広大な水田地帯を「延方」と「下幡木」のどちらの領地に含めるかということで取りあいとなった。
この決着を江戸幕府が裁定を下し延方に軍配を上げた。
そして喜んだ延方では地元の神社に相撲を奉納した。
それが、寛文13年(1672年)に鹿嶋吉田神社で始まった「延方相撲」である。
しかし、このような低地は色々水害も多く発生し問題山済みだったようだ。
私が東日本大震災の数ヵ月後に車で高速道路の「潮来」インターで降りて潮来市街に向かった時にこの付近を通った。
道路は液状化でデコボコで惨憺たる状況であった。
現在も潮来川の日の出地区では連日道路工事が行なわれているが、これは当時の復興もあるが新たにこの地区の開発を進めているようだ。
別途いつかそちらの様子も紹介したい。
まずはここから息栖神社を目指すこととしました。
息栖神社まで4kmくらいでしょうか。
昔東国三社(鹿島、息栖、香取)を巡ることが流行りました。
この鹿島神宮から息栖神社に行くルートは小林一茶の日記などで比較的わかるようです。
陸でつながっているのですが、参拝客は鹿島の大船津を舟で対岸に渡り、潮来から帆船?で息栖や銚子に向かったようです。
潮来は隣りの牛堀なども風を待つ船が待っていて、風が海の方に吹き始めると急いで船に乗り込んだようです。
小林一茶が潮来で舟にのったのは早朝の5時頃。
いっぽう吉田松陰が牛堀から舟に乗ったのはもう夕方になっていたようです。
朝日が昇って夕方までは海から陸に風が吹いていたのでしょう。
その風待ち港となったのが牛堀だったようです。
今の生活ではなかなか想像がつきにくいですね。
前に牛久沼で「うな丼」が発明された(記事はこちら)と書きましたが、これも風待ちで急に出向するようになったのでしょうか。
それほど大きな沼でもないのにどんな状態であったのかを想像するの楽しいですね。
この川は北浦から外浪逆浦という湖に注ぐ。
この湖は常陸利根川の途中が膨らんだような湖で、利根川が銚子の方に東遷したことでこんな形になったものだろう。
国道50号線で潮来から神栖へ向かうとこの鰐川に架かる橋が「鰐川橋」である。
そして、ここからもう外浪逆浦が始まるといってよいようだ。
外浪逆浦は「そとなさかうら」と読む。
そしてこの川のすぐ近くにここから外浪逆浦に沈む夕日がきれいなことから「なさか夕日の郷公園」という小さな公園がある。
ただこの近くは道が狭く入り組んでいて知らないと、少しまごつきそうだ。
自転車や徒歩なら川沿いを行けばよい。

7~8台位停まれる駐車場がある。

こんなブランコもある。
奥に見えるのが夕日を眺める展望台。

展望台の上から外浪逆浦を眺めた。
ここを訪れたのは午前中で、天気もあまり良くなく太陽は見られなかったが、夕日がきれいなのだとか。

川の上流側には先に紹介した「鰐川橋」が見える。

川や湖はこの公園の西側になるが、東側は上の写真のような田んぼや畑が広がる。

この川の東側は「神栖市下幡木(しもはたき)地区」と呼ばれる。
このあたりの土地の開墾や開拓については鰐川橋の麓にこんな碑が建てられていた。
「未来を創る大地」と彫られている。

内容は上の写真をクリックすれば読めると思います。

Flood Mapsで水面を1mだけ上げて表示させてみました。
このあたり一体は水面下になります。また潮来市側も徳島地区も水浸しです。
そしてこの地区にできた広大な土地の開拓が行なわれたのは江戸時代です。
昔この徳島地区の広大な水田地帯を「延方」と「下幡木」のどちらの領地に含めるかということで取りあいとなった。
この決着を江戸幕府が裁定を下し延方に軍配を上げた。
そして喜んだ延方では地元の神社に相撲を奉納した。
それが、寛文13年(1672年)に鹿嶋吉田神社で始まった「延方相撲」である。
しかし、このような低地は色々水害も多く発生し問題山済みだったようだ。
私が東日本大震災の数ヵ月後に車で高速道路の「潮来」インターで降りて潮来市街に向かった時にこの付近を通った。
道路は液状化でデコボコで惨憺たる状況であった。
現在も潮来川の日の出地区では連日道路工事が行なわれているが、これは当時の復興もあるが新たにこの地区の開発を進めているようだ。
別途いつかそちらの様子も紹介したい。
まずはここから息栖神社を目指すこととしました。
息栖神社まで4kmくらいでしょうか。
昔東国三社(鹿島、息栖、香取)を巡ることが流行りました。
この鹿島神宮から息栖神社に行くルートは小林一茶の日記などで比較的わかるようです。
陸でつながっているのですが、参拝客は鹿島の大船津を舟で対岸に渡り、潮来から帆船?で息栖や銚子に向かったようです。
潮来は隣りの牛堀なども風を待つ船が待っていて、風が海の方に吹き始めると急いで船に乗り込んだようです。
小林一茶が潮来で舟にのったのは早朝の5時頃。
いっぽう吉田松陰が牛堀から舟に乗ったのはもう夕方になっていたようです。
朝日が昇って夕方までは海から陸に風が吹いていたのでしょう。
その風待ち港となったのが牛堀だったようです。
今の生活ではなかなか想像がつきにくいですね。
前に牛久沼で「うな丼」が発明された(記事はこちら)と書きましたが、これも風待ちで急に出向するようになったのでしょうか。
それほど大きな沼でもないのにどんな状態であったのかを想像するの楽しいですね。
潮来から息栖(4) -川に沿って
潮来と神栖市の境を流れる鰐川から息栖神社まで常陸利根川沿いを行って見ることにしました。
約4kmほど離れています。
川沿いの土手は車は走れませんが、土手の下に道があります。
この道は少し走るとまた土手に上がってすぐにまた下ります。
これを繰り返します。

土手を登ったところはモータ溜りなどがあります。

昔はこのような川を潮来から銚子まで船で旅したようです。
潮来や牛堀から息栖まで4~5kmですからそれ程の距離ではありません。
帆船なら風を受けて走れば1時間もかからないでしょう。
今回潮来から息栖神社に向かったのは、こちらから神社を訪ねないとどうもこの神社の性格がわからないように感じたことです。

このように川の水位計があります。

また小さな神社があります。水神様でしょうか。

そして息栖神社近くまでやってきました。
どの辺りに船着き場があったのでしょうか。
昔の船着き場らしい場所はありません。
息栖神社は江戸時代は伊勢神宮や熊野神社をお参りした裏参拝として鹿島・香取・息栖の直角三角形に配置されて「東国三社」の参拝がカナリブームになったようです。
江戸からは舟でこちらに来るには江戸川をかなり上流まで(関宿)まで遡り、利根川にそのまま入って銚子に下ってこなくてはなりません。
明治の蒸気船の頃なら良いのですが、旅人は松戸辺りから陸路をとり(または行徳の方から)、布佐付近から利根川を下りやってきました。
息栖神社を「日本三代実録」では「於岐都説(おきつせ)神」と書かれています。
香取は「舵取り」で、息栖は「おきす=沖洲(隠岐洲)」となると、何かありそうな気がします。
そして「鰐川」があり、稲葉の素兎(因幡の白ウサギ)伝説がある。
今回はわからないままで終わろう。
今かなり大きな地震があった。小笠原だというがこれはかなり影響がありそうだ。
東京オリンピックの頃に東南海地震などが心配だ。
富士山や浅間山が爆発するのもかなり現実味が出てきた。
約4kmほど離れています。
川沿いの土手は車は走れませんが、土手の下に道があります。
この道は少し走るとまた土手に上がってすぐにまた下ります。
これを繰り返します。

土手を登ったところはモータ溜りなどがあります。

昔はこのような川を潮来から銚子まで船で旅したようです。
潮来や牛堀から息栖まで4~5kmですからそれ程の距離ではありません。
帆船なら風を受けて走れば1時間もかからないでしょう。
今回潮来から息栖神社に向かったのは、こちらから神社を訪ねないとどうもこの神社の性格がわからないように感じたことです。

このように川の水位計があります。

また小さな神社があります。水神様でしょうか。

そして息栖神社近くまでやってきました。
どの辺りに船着き場があったのでしょうか。
昔の船着き場らしい場所はありません。
息栖神社は江戸時代は伊勢神宮や熊野神社をお参りした裏参拝として鹿島・香取・息栖の直角三角形に配置されて「東国三社」の参拝がカナリブームになったようです。
江戸からは舟でこちらに来るには江戸川をかなり上流まで(関宿)まで遡り、利根川にそのまま入って銚子に下ってこなくてはなりません。
明治の蒸気船の頃なら良いのですが、旅人は松戸辺りから陸路をとり(または行徳の方から)、布佐付近から利根川を下りやってきました。
息栖神社を「日本三代実録」では「於岐都説(おきつせ)神」と書かれています。
香取は「舵取り」で、息栖は「おきす=沖洲(隠岐洲)」となると、何かありそうな気がします。
そして「鰐川」があり、稲葉の素兎(因幡の白ウサギ)伝説がある。
今回はわからないままで終わろう。
今かなり大きな地震があった。小笠原だというがこれはかなり影響がありそうだ。
東京オリンピックの頃に東南海地震などが心配だ。
富士山や浅間山が爆発するのもかなり現実味が出てきた。
潮来から息栖(5)-息栖神社
潮来境界の鰐川から川に沿って息栖神社を目指しました。
車の通る道は整備されておらず、ただ土手に沿って道はあり、少し走っては土手に登り、またその先で下に下りてまた土手に登るということを数回繰り返しました。
神社まであと1kmくらいのところで舗装された道が現れました。

そしてそのまま川沿いの道を進むと見たことのある息栖神社の「忍潮井」という池の場所に出ました。
ここは川から水門で水を池に取り込んでいます。

しかしこの池はただの池ではありません。
「忍潮井(おしおい)」(潮を押し退けて霊水が噴き出したいる?)と呼ばれる天然の井戸として大変貴重なものとされていました。
なにしろ日本三霊泉の一つと言われました。

元々海水と川の水が混ざる汽水湖の中から真水が噴き出していたというのです。
この鳥居の近くに「男瓶」「女瓶」といわれる瓶(ビン)の形(男瓶は銚子の形、女瓶は土器の形)をした中から真水が湧き出しているというのです。
しかし、この神社も西暦809年に東国三社が直角三角形の位置になるように移動したものですから、最初の井戸は移る前の場所(日川地区)にあったことになります。
移動した時にこの瓶が泣きながらついてきてこの場所におさまったとの話が残されています。

今回潮来側から川沿いにやって来て見ると、この神社のイメージが少し違って見えました。
やはり沖(隠岐)の洲の場所に二つの武神(香取、鹿島)の間にバランスを取るように武神達を案内する船の神(天鳥船命)と汚れを清める神、岐神(くなどのかみ)が祀られているのはそれなりに意味がありそうです。
息栖(いきす)という名前も沖洲から来たものと考えていましたが、この井戸が汚れを清め、この地から北へ豊かな恵みの稲作を広めていった根本に置かれるという役割を感じます。
日本三大実録では「於岐都説神」(おきつせ)であり、江戸時代には芭蕉が書いたように「気吹戸主神」とも呼ばれていたようなのでこれも漠然とイメージは浮かんできます。
しかし今の神社の社殿はコンクリート造りでどうも雰囲気を半減してしまっているのは残念に思う。

<これまでの関連記事>
息栖神社(1) 東国三社(こちら)
息栖神社(2)-句碑(こちら)
息栖神社-忍潮井(こちら)
息栖神社遷座(こちら)
車の通る道は整備されておらず、ただ土手に沿って道はあり、少し走っては土手に登り、またその先で下に下りてまた土手に登るということを数回繰り返しました。
神社まであと1kmくらいのところで舗装された道が現れました。

そしてそのまま川沿いの道を進むと見たことのある息栖神社の「忍潮井」という池の場所に出ました。
ここは川から水門で水を池に取り込んでいます。

しかしこの池はただの池ではありません。
「忍潮井(おしおい)」(潮を押し退けて霊水が噴き出したいる?)と呼ばれる天然の井戸として大変貴重なものとされていました。
なにしろ日本三霊泉の一つと言われました。

元々海水と川の水が混ざる汽水湖の中から真水が噴き出していたというのです。
この鳥居の近くに「男瓶」「女瓶」といわれる瓶(ビン)の形(男瓶は銚子の形、女瓶は土器の形)をした中から真水が湧き出しているというのです。
しかし、この神社も西暦809年に東国三社が直角三角形の位置になるように移動したものですから、最初の井戸は移る前の場所(日川地区)にあったことになります。
移動した時にこの瓶が泣きながらついてきてこの場所におさまったとの話が残されています。

今回潮来側から川沿いにやって来て見ると、この神社のイメージが少し違って見えました。
やはり沖(隠岐)の洲の場所に二つの武神(香取、鹿島)の間にバランスを取るように武神達を案内する船の神(天鳥船命)と汚れを清める神、岐神(くなどのかみ)が祀られているのはそれなりに意味がありそうです。
息栖(いきす)という名前も沖洲から来たものと考えていましたが、この井戸が汚れを清め、この地から北へ豊かな恵みの稲作を広めていった根本に置かれるという役割を感じます。
日本三大実録では「於岐都説神」(おきつせ)であり、江戸時代には芭蕉が書いたように「気吹戸主神」とも呼ばれていたようなのでこれも漠然とイメージは浮かんできます。
しかし今の神社の社殿はコンクリート造りでどうも雰囲気を半減してしまっているのは残念に思う。

<これまでの関連記事>
息栖神社(1) 東国三社(こちら)
息栖神社(2)-句碑(こちら)
息栖神社-忍潮井(こちら)
息栖神社遷座(こちら)
潮来から息栖(6)-高浜
息栖神社の入口には忍潮井があり、この場所に船は接岸できないでしょう。
潮来側のここまでに昔、湊となりそうな場所はありませんでした。
するともう少し先なのでしょうか。
現在の息栖大橋辺りも考えられますがもう少し先かもしれません。
潮来から息栖、神栖、銚子への道は鹿島コンビナートができたために、道路はかなり広く良くなっています。
潮来からの道は途中から鹿嶋市方面から来る124号線に合流し、片側2車線の道になります。
起伏もほとんどなくほぼ真っ直ぐ道が続くため道路わきには「ここは高速道路ではありません」などと書かれた看板もあります。
しかしこの124号線は昔の道ではないのでもう一つ川に近いところを県道260号線が平行に走っていました。
息栖大橋への道を横切ってこの260号線を走って見ました。
あまり車も走っていません。
すこし行くと「高浜」という地名の場所に出ました。ここに浜や港があったのでしょうか。
川が蛇行している場所ですので浜があっったようです。
石岡の高浜はかなり古い地名で「国府浜(こうのはま)」が高浜になったのではないかといわれています。
するとこの高浜はどんないわれがあるのでしょうか。
この高浜地区に気になる古いお堂がありました。

観音堂のようですが、内部はわかりません。
また説明されている資料も見つかりませんでした。


この観音堂の裏手に地図では「東漸寺」となっていますが、建物正面は「高浜公民館」と書かれています。
おそらくこの裏にお寺があるのでしょう。
真言宗智山派となっています。
しかし寺の歴史などは書かれた資料が見つからない。
この辺りももうあまり通る車もなく徐々に忘れられて行くのであろうか?

境内の隅に如意輪観音石像が並んで置かれていました。
このあたりは観音信仰が強かったようです。
特に女性の間で十九夜講などが盛んに行なわれていたのではないかと思います。
良く読めないが、真中が延宝3年(1675)?の十九夜講で奉納したもの(同行79人?)、向かって右は寛延2年(1749)?の十九夜講で2度目の奉納(同行30人)?、左は明和9年(1772)の奉納?
皆はっきりとは読めないが江戸時代初期から中期にかけてのものでしょう。
結構古いです。

また少し離れて地蔵石像が半分土に埋まっています。
真中の像は「宝暦3年」(1753)ではないかと思います。
恐らく、如意輪観音像と同じ頃のように思います。

こちらは特別なのでしょうか。子安地蔵が木の屋根と塀に囲まれて置かれています。
年代は読み取れませんでした。

向かって右が「普門品一万巻供養塔」、左が「二十三夜塔」となっています。
普門品(ふもんぼん)は法華経の第25品「観世音菩薩普門品」のことで、観音経を一万回唱えることができた時にこれを奉納したようです。
二十三夜講は多分、男衆の集まりですね。
潮来側のここまでに昔、湊となりそうな場所はありませんでした。
するともう少し先なのでしょうか。
現在の息栖大橋辺りも考えられますがもう少し先かもしれません。
潮来から息栖、神栖、銚子への道は鹿島コンビナートができたために、道路はかなり広く良くなっています。
潮来からの道は途中から鹿嶋市方面から来る124号線に合流し、片側2車線の道になります。
起伏もほとんどなくほぼ真っ直ぐ道が続くため道路わきには「ここは高速道路ではありません」などと書かれた看板もあります。
しかしこの124号線は昔の道ではないのでもう一つ川に近いところを県道260号線が平行に走っていました。
息栖大橋への道を横切ってこの260号線を走って見ました。
あまり車も走っていません。
すこし行くと「高浜」という地名の場所に出ました。ここに浜や港があったのでしょうか。
川が蛇行している場所ですので浜があっったようです。
石岡の高浜はかなり古い地名で「国府浜(こうのはま)」が高浜になったのではないかといわれています。
するとこの高浜はどんないわれがあるのでしょうか。
この高浜地区に気になる古いお堂がありました。

観音堂のようですが、内部はわかりません。
また説明されている資料も見つかりませんでした。


この観音堂の裏手に地図では「東漸寺」となっていますが、建物正面は「高浜公民館」と書かれています。
おそらくこの裏にお寺があるのでしょう。
真言宗智山派となっています。
しかし寺の歴史などは書かれた資料が見つからない。
この辺りももうあまり通る車もなく徐々に忘れられて行くのであろうか?

境内の隅に如意輪観音石像が並んで置かれていました。
このあたりは観音信仰が強かったようです。
特に女性の間で十九夜講などが盛んに行なわれていたのではないかと思います。
良く読めないが、真中が延宝3年(1675)?の十九夜講で奉納したもの(同行79人?)、向かって右は寛延2年(1749)?の十九夜講で2度目の奉納(同行30人)?、左は明和9年(1772)の奉納?
皆はっきりとは読めないが江戸時代初期から中期にかけてのものでしょう。
結構古いです。

また少し離れて地蔵石像が半分土に埋まっています。
真中の像は「宝暦3年」(1753)ではないかと思います。
恐らく、如意輪観音像と同じ頃のように思います。

こちらは特別なのでしょうか。子安地蔵が木の屋根と塀に囲まれて置かれています。
年代は読み取れませんでした。

向かって右が「普門品一万巻供養塔」、左が「二十三夜塔」となっています。
普門品(ふもんぼん)は法華経の第25品「観世音菩薩普門品」のことで、観音経を一万回唱えることができた時にこれを奉納したようです。
二十三夜講は多分、男衆の集まりですね。
潮来から息栖(7)
神栖市高浜の東漸寺からすこし行くと「石神」という地名になる。
ここに立派な寺があった。

「真言宗智山派 走湯山 花光院」 と書かれています。
江戸時代にここで寺小屋が開かれ子供たちが学んでいたという。
今もこの寺の裏手に幼稚園がある。

寺の本堂は立派です。その前に「弘法大師 御修業像」と書かれた像が立っています。
本堂は火災で焼失してしまい幕末の嘉永年間(1848-1854)に建てなおしたものだそうだ。

向かって右側から「奉納 日本回国供養」「普門品供養塔」「月山・湯殿山・羽黒山 西国四国秩父坂東供養塔」「奉納観世音?」「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」「普門品供養塔」となっています。
右奥には「もみのき児童公園」と書かれた子供の遊び場があります。

この如意輪観音像も十九夜講の文字が刻まれています。

ここには「弘法大師(空海)」とかかれていますので、この中に空海の像があるのでしょうか。
寺の境内にはこの反対側に「淡島さま(淡島明神)」と書かれたお堂もありました。

この五輪塔も少し変わっています。何時頃のものでしょうか。
この寺の歴代の住職の墓かもしれません。

こちらの像も半分埋まってしまっています。
真中の像には寛文九年の銘があり○○禅定尼とありますから、江戸時代の女性の墓石でしょうか。

こちらは三猿があり、庚申塔(青面金剛)です。

こちらは良く読めませんが「普門品一万巻供養塔」と書かれているようです。
説明は昨日しました。

この場所の周囲を見ると少し土塁などや堀もあったような雰囲気です。
調べて見るとやはり中世に城があったようです。
「石神城」と呼ばれ、ここの石神氏はやはり常陸大掾氏の一族だったという。
しかし1558年頃に同族同士の争いで滅んだという。
ここに立派な寺があった。

「真言宗智山派 走湯山 花光院」 と書かれています。
江戸時代にここで寺小屋が開かれ子供たちが学んでいたという。
今もこの寺の裏手に幼稚園がある。

寺の本堂は立派です。その前に「弘法大師 御修業像」と書かれた像が立っています。
本堂は火災で焼失してしまい幕末の嘉永年間(1848-1854)に建てなおしたものだそうだ。

向かって右側から「奉納 日本回国供養」「普門品供養塔」「月山・湯殿山・羽黒山 西国四国秩父坂東供養塔」「奉納観世音?」「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」「普門品供養塔」となっています。
右奥には「もみのき児童公園」と書かれた子供の遊び場があります。

この如意輪観音像も十九夜講の文字が刻まれています。

ここには「弘法大師(空海)」とかかれていますので、この中に空海の像があるのでしょうか。
寺の境内にはこの反対側に「淡島さま(淡島明神)」と書かれたお堂もありました。

この五輪塔も少し変わっています。何時頃のものでしょうか。
この寺の歴代の住職の墓かもしれません。

こちらの像も半分埋まってしまっています。
真中の像には寛文九年の銘があり○○禅定尼とありますから、江戸時代の女性の墓石でしょうか。

こちらは三猿があり、庚申塔(青面金剛)です。

こちらは良く読めませんが「普門品一万巻供養塔」と書かれているようです。
説明は昨日しました。

この場所の周囲を見ると少し土塁などや堀もあったような雰囲気です。
調べて見るとやはり中世に城があったようです。
「石神城」と呼ばれ、ここの石神氏はやはり常陸大掾氏の一族だったという。
しかし1558年頃に同族同士の争いで滅んだという。
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