雑感-庭の花
今年は暑さも異常なくらいでインドでは46℃などとなったニュースが流れている。
このブログも昨日の続きを書こうと思っていたが、昨日今日とやらなければならない仕事があって、どうにか片付きホッとしていたら夜になってしまった。
家内と外に食事に出かけきたので今更昨日の続きを書く元気がない。
東国三社としての息栖神社をどう見るかを考えていた。
まああまり考えるほどのネタも持っていないので昨日庭で採った花を載せておこう。
今年はやはり花が咲くのが早いようだ。

額紫陽花
アジサイも色々な種類があるようだ。かなりきれいに咲いた。

まだ咲きだしたばかり。
何処か紫陽花のきれいなところ(あまり人に知られていない)に出かけてみたい。

赤い花が綺麗に咲きだした。
ザクロ(柘榴)の花だ。
「万緑叢中紅一点」の紅はこんな朱色だったのか? 綺麗な色だ。

この花が段々とザクロの実になっていく・・・・・。
でもこの木ではきちんとした実には毎年ならない。
やはり剪定や人工授粉をちゃんとやらないからだろう。
このブログも昨日の続きを書こうと思っていたが、昨日今日とやらなければならない仕事があって、どうにか片付きホッとしていたら夜になってしまった。
家内と外に食事に出かけきたので今更昨日の続きを書く元気がない。
東国三社としての息栖神社をどう見るかを考えていた。
まああまり考えるほどのネタも持っていないので昨日庭で採った花を載せておこう。
今年はやはり花が咲くのが早いようだ。

額紫陽花
アジサイも色々な種類があるようだ。かなりきれいに咲いた。

まだ咲きだしたばかり。
何処か紫陽花のきれいなところ(あまり人に知られていない)に出かけてみたい。

赤い花が綺麗に咲きだした。
ザクロ(柘榴)の花だ。
「万緑叢中紅一点」の紅はこんな朱色だったのか? 綺麗な色だ。

この花が段々とザクロの実になっていく・・・・・。
でもこの木ではきちんとした実には毎年ならない。
やはり剪定や人工授粉をちゃんとやらないからだろう。
ふるさとは何処か?
昨日のヒロ爺(白井啓治さん)のブログに「ふる里の風に聞いてみた ふる里は何処かと」という記事が載った。(こちら)
これは昨日私が市のある団体にこの会の支援ができないかを相談したが、あまりに肝っ玉の小さな"井の中の蛙"を実感したことをぼやいて氏へメールで連絡したからかもしれない。
もちろんこれは私が勝手にこんな組織に相談した方が悪いのだが。
こちらから綺麗な音色を期待してトライアングルを小さなバチで軽く打ちならしてもかえってくるのは蚊の鳴き声か?
それならと太鼓を大きなばちでたたいてみても間延びした鈍い響きがかえるだけだ。
白井啓治さんは「ふるさと風の会」の主査をされているが、この会も今月でまる九年となった。
来年は十年という節目を迎える。
そしてこの風の会展を
☆ 6月20日(土)・21日(日)10:00~14:30 石岡市柴間 ギター文化館
で開く。是非お越しください。14:30からはことば座公演も行なわれます。
(詳細は:こちら)
しかし常世といわれたこの地で風に向かってつぶやいて九年になり大地に根をしっかり張っているので多少の風雨では倒れないが、いまだこの地では大きく開いてこない。
私の夢はこの地でなくとも綿毛のように飛んでいってそこで花開かせ、また舞い戻ってくることだって素晴らしいと思う。
この1年間少しだけでも動いてみたい。
結成三年目で白井啓治が書いた会報に引用された三好達治の詩(詩集「花筺(はながたみ)」より)を思い出したので紹介しましょう (風に吹かれて(09-9))
「かよわい花」
かよわい花です
もろげな花です
はかない花の命です
朝さく花の朝がほは
昼にはしぼんでしまひます
昼さく花の昼がほは
夕方しぼんでしまひます
夕方にさく夕がほは
朝にはしぼんでしまひます
みんな短い命です
けれども時間を守ります
そうしてさつさと帰ります
どこかへ帰ってしまひます

(2015.6.11 7:00 am 撮影)
時期的にはまだ朝顔も早いがもう咲いた。
これもたくさんの花が次々と昼といわず夕方ころまで咲く。
これは昨日私が市のある団体にこの会の支援ができないかを相談したが、あまりに肝っ玉の小さな"井の中の蛙"を実感したことをぼやいて氏へメールで連絡したからかもしれない。
もちろんこれは私が勝手にこんな組織に相談した方が悪いのだが。
こちらから綺麗な音色を期待してトライアングルを小さなバチで軽く打ちならしてもかえってくるのは蚊の鳴き声か?
それならと太鼓を大きなばちでたたいてみても間延びした鈍い響きがかえるだけだ。
白井啓治さんは「ふるさと風の会」の主査をされているが、この会も今月でまる九年となった。
来年は十年という節目を迎える。
そしてこの風の会展を
☆ 6月20日(土)・21日(日)10:00~14:30 石岡市柴間 ギター文化館
で開く。是非お越しください。14:30からはことば座公演も行なわれます。
(詳細は:こちら)
しかし常世といわれたこの地で風に向かってつぶやいて九年になり大地に根をしっかり張っているので多少の風雨では倒れないが、いまだこの地では大きく開いてこない。
私の夢はこの地でなくとも綿毛のように飛んでいってそこで花開かせ、また舞い戻ってくることだって素晴らしいと思う。
この1年間少しだけでも動いてみたい。
結成三年目で白井啓治が書いた会報に引用された三好達治の詩(詩集「花筺(はながたみ)」より)を思い出したので紹介しましょう (風に吹かれて(09-9))
「かよわい花」
かよわい花です
もろげな花です
はかない花の命です
朝さく花の朝がほは
昼にはしぼんでしまひます
昼さく花の昼がほは
夕方しぼんでしまひます
夕方にさく夕がほは
朝にはしぼんでしまひます
みんな短い命です
けれども時間を守ります
そうしてさつさと帰ります
どこかへ帰ってしまひます

(2015.6.11 7:00 am 撮影)
時期的にはまだ朝顔も早いがもう咲いた。
これもたくさんの花が次々と昼といわず夕方ころまで咲く。
今年も半分終わった。
今日で6月も終わり。今年も半分終わってしまった。
何にもしないうちに半分も終わったと少し焦りを感じる・・・・・。
といって何もしなくても良いのだが。おかしなものだ。
ギリシャのIMFの債務約2000億円の返済期限が今日である。
でも返せないという。
デフォルトとなりそうだ。
他人事と言ってもいられそうにないのが借金大国日本なのだが・・・・・・。
こんなニュースのもう一方で東京国立競技場の建設費が大幅に見込みが狂い客席数を減らしたり、開閉式の屋根を後に回して建設資金を圧縮しても2520億円かかるのだとか。
全くあきれてものが言えない。
ギリシャの債務より大きいではないか!!
それなのに無神経な役人どもが平気な顔をしてだれも責任はないような厚顔ぶりである。
こんなことで東南海大地震や東京直下型地震が来るかもしれないのに何も感じていないのか。
箱根大涌谷で小規模とはいえ噴火したようだ。
何かむなしさが押し寄せてくる。
まわりを見ても年寄りばかり。
若者・馬鹿者・よそ者が町を変えるという。

常陸風土記の丘へ夕方行ってみた。
もうスカシユリは終わりのようだ。
この姿を見ると今年のスカシユリは失敗だったのではないか?

古代ハスも少し咲いていた。
これからだろうからまた来て見よう。
でもハスの花は朝来なくてはならない。
何にもしないうちに半分も終わったと少し焦りを感じる・・・・・。
といって何もしなくても良いのだが。おかしなものだ。
ギリシャのIMFの債務約2000億円の返済期限が今日である。
でも返せないという。
デフォルトとなりそうだ。
他人事と言ってもいられそうにないのが借金大国日本なのだが・・・・・・。
こんなニュースのもう一方で東京国立競技場の建設費が大幅に見込みが狂い客席数を減らしたり、開閉式の屋根を後に回して建設資金を圧縮しても2520億円かかるのだとか。
全くあきれてものが言えない。
ギリシャの債務より大きいではないか!!
それなのに無神経な役人どもが平気な顔をしてだれも責任はないような厚顔ぶりである。
こんなことで東南海大地震や東京直下型地震が来るかもしれないのに何も感じていないのか。
箱根大涌谷で小規模とはいえ噴火したようだ。
何かむなしさが押し寄せてくる。
まわりを見ても年寄りばかり。
若者・馬鹿者・よそ者が町を変えるという。

常陸風土記の丘へ夕方行ってみた。
もうスカシユリは終わりのようだ。
この姿を見ると今年のスカシユリは失敗だったのではないか?

古代ハスも少し咲いていた。
これからだろうからまた来て見よう。
でもハスの花は朝来なくてはならない。
梅雨とはいえ・・・・
梅雨に入ったが厚い晴れ間があったと思ったら突然のスコール。
年々梅雨がはっきりしなくなっているように思う。
五月雨(さみだれ)、五月蝿(うるさい)、など梅雨は旧暦の5月。
各地で豪雨なども時々は起こっていたが、最近はこの頻度が上がってきているように感じる。
地球の温暖化とこれも関係するのだろう。
6月というので「6月の雨」の歌を2曲紹介します。
関西四国を中心に活躍されているシャンソン歌手別府葉子さんのオリジナル曲「六月の雨」
(ご本人がYouTubeにのせていますのでリンクさせていただきました)
もう1曲は小椋佳 さんの「六月の雨」
こちらは著作権のためYouTubeも問題があります。
⇒ こちらからPCの場合は視聴できます。
年々梅雨がはっきりしなくなっているように思う。
五月雨(さみだれ)、五月蝿(うるさい)、など梅雨は旧暦の5月。
各地で豪雨なども時々は起こっていたが、最近はこの頻度が上がってきているように感じる。
地球の温暖化とこれも関係するのだろう。
6月というので「6月の雨」の歌を2曲紹介します。
関西四国を中心に活躍されているシャンソン歌手別府葉子さんのオリジナル曲「六月の雨」
(ご本人がYouTubeにのせていますのでリンクさせていただきました)
もう1曲は小椋佳 さんの「六月の雨」
こちらは著作権のためYouTubeも問題があります。
⇒ こちらからPCの場合は視聴できます。
日本と韓国の人口
このブログも昔お蔵入りとなった記事の整理をしようと、書きかけのものを削除しようと見ていた。
その中に2015年5月24日 (今から4年前) の記事があった。
4年も経ったが、この頃に比べて今は日韓関係も最悪だと。 改善していないとなあ・・・・
とのことで、当時思っていたことを残しておくことにした。
-------------2015.05.24 作成--------------
日韓関係がかなり悪化している。
あれほど韓流ブームと騒がれていたのが嘘のようだ。
まだテレビなどでは韓流ドラマが毎日のように放送されているが、一時期に比べたらかなり減った。
残念ながら私は韓国ドラマはどうも苦手で見たことはほとんどない。
戦後生まれの人がほとんどになった時代に「日本が悪い。謝れ!」と言われても、もう前に謝り謝罪し、賠償金も払って和解したのになぜこうもいつまでも叫び続けるのか?というのは多くの国民の気持ちだろう。
国民性の問題もあるが、いくらおとなしい日本人でも良い気持ちを持たなくなるのは当然で、何故前向きな方向を向いて仲良くできないのかと思う。
昔韓流ブームが始まるより大分前だが勤務先の大型機械の注文とりの仕事でソウルに行った。
向こうの人とはかなり親密に話せたしお互いに悪い感情は持たなかったと思う。
しかし最後にひっくり返った。ヨーロッパ企業に発注された。
何がいけなかったかとその頃考えたが相手は日本と韓国の両方の資本を持つ合弁企業で、その韓国側の首脳陣が主導権を持っており、どうもあまり日本に良い思いを持っていなかったらしいことを知らされた。
ソウル近郊の土産物屋などでは日本人相手に「社長、社長」などとすぐ寄ってくる場所もかなりあったが、表面の態度と心の奥に持っている隠された感情が違うのではないかと感じるようになった。
ソウルの金浦空港まわりも緑の少ないハゲ山でこれも戦争のせいだと聞いたこともやはりショックであった。
母などからむかし歌ったという「紀元二千六百年」などという歌を良く歌ったと聞いたことがあったが、これは昭和十五年に皇室が2600年を迎えるということを祝って作られた歌というが、戦後教育を受けたものにはあまりにも滑稽で内容はとても信じられるものではないが、皇室が朝鮮半島からやってきたということはほぼ間違いのないところで日本人も韓国人も似た人種なのだ。
しかし日本人のDNAを調べると1万年以上前からこの島に住んでいたという縄文人と韓国や中国などのDNAをかけ合わせた
戦後生まれの者にとって教育の違いもあるが私は昔から日本と韓国の人口の違いに注目している。
日本の総人口が約1億2700万人(2015年)。それに対して韓国は人口約5000万人弱(2006年)と日本の半分以下。
高齢者の割合で見ると65歳以上は日本が25%強、韓国は約10%とまだかなり余裕がありそうに見える。
しかし、韓国は人口の多くが首都ソウル近郊に集中しており、高齢化も急速に進んでいる。
日銀の黒田総裁が先日シンガポールの欧州中央銀行の会合で「日本の労働人口の減少が、日本の潜在的な経済成長力に対し、大きな脅威となる」と言ったという。
現在まわりを見ても年寄りばかりで、女性もある年齢以上の人はほとんど働いていない。
(働く人というのはちゃんと税金を納めている人ということ)
これはいつも感じることで、これだけの長寿国になったら働く人口を確保しなければどうにもならないのであるから、やむを得ないことで、働けない人は別として働かないとこの国はやっていけないということだ。
私もこの春からほぼ年金の生活になってしまったので「まだ働けるぞ!」と気持ちはあれど仕事はそんなに思うようにはならない。
70歳くらいまで(あと3年)は元気なので何処かで働きたいものである。
さて、それはともかくとして、この日本の人口が1億人を切ると大変なことが起こると思っている。
老齢人口の増加もあるがそれ以外にも日本は独自の文化をもっていて、現在アニメだの歌舞伎だの独特の文化を世界に発信しているが、これが人口1億を切ると成り立たなくなると感じているのだ。
携帯電話も日本独自の発達を遂げガラパゴスなどとも言われるが、これは人口が1億以上いるから内需があり成り立つのだ。
韓国は人口が日本の半分以下であり、国内消費だけではこのような文化は成立しない。
人口をこのようにとらえないとこれからの政策は全く間違った方向に行きかねない。
老人福祉などにやさしい国は当然必要だが、働けるものはもう少し働いてそれが消費にも回るように仕組みを変えてほしいものだ。
そうでなければ完全な福祉国家を目指すしかないが、資源の乏しい日本では現状ではやはり物を作って輸出していかなければ三流国にならざるを得ないだろう。
日本企業はまだヨーロッパなどに比べ合併などが少ないようだ。
私の知っているヨーロッパの大きな企業もあっという間に統合されたり吸収されて名前が変わっていった。
サンヨーがパナソニックになり、シャープが大幅資本金減額。
資本金を減らせば外国資本に吸収されてしまうリスクは大幅に増す。
電気業界の再編はまだ途についたばかりなのかもしれない。
昔心配したことが現実になってきている。
地元石岡市の「まちおこし」などということでも、やはり街中に活気がないというのは他所からの働く人口の流入が少ない事が最大の問題点だと思う。
市のキャッチフレーズも「古都1300年の歴史と郷の文化に出会える街」といわれるが、今年から「石岡市子ども・子育て支援事業計画」も始まった。
古都の歴史ゾーン、里山田舎暮らしゾーンだけではなく、企業を誘致して子育て働く人たちを増やすことも最重要課題だと思う。
自分でできることはわずかであるが、これからは少しずつこれらの活動にも積極的に目を向けていきたいと思う。
-----------ここまで------------------
さて現在は私も70歳を超えてしまったが、この頃からあまり変っていない。反省です。
その中に2015年5月24日 (今から4年前) の記事があった。
4年も経ったが、この頃に比べて今は日韓関係も最悪だと。 改善していないとなあ・・・・
とのことで、当時思っていたことを残しておくことにした。
-------------2015.05.24 作成--------------
日韓関係がかなり悪化している。
あれほど韓流ブームと騒がれていたのが嘘のようだ。
まだテレビなどでは韓流ドラマが毎日のように放送されているが、一時期に比べたらかなり減った。
残念ながら私は韓国ドラマはどうも苦手で見たことはほとんどない。
戦後生まれの人がほとんどになった時代に「日本が悪い。謝れ!」と言われても、もう前に謝り謝罪し、賠償金も払って和解したのになぜこうもいつまでも叫び続けるのか?というのは多くの国民の気持ちだろう。
国民性の問題もあるが、いくらおとなしい日本人でも良い気持ちを持たなくなるのは当然で、何故前向きな方向を向いて仲良くできないのかと思う。
昔韓流ブームが始まるより大分前だが勤務先の大型機械の注文とりの仕事でソウルに行った。
向こうの人とはかなり親密に話せたしお互いに悪い感情は持たなかったと思う。
しかし最後にひっくり返った。ヨーロッパ企業に発注された。
何がいけなかったかとその頃考えたが相手は日本と韓国の両方の資本を持つ合弁企業で、その韓国側の首脳陣が主導権を持っており、どうもあまり日本に良い思いを持っていなかったらしいことを知らされた。
ソウル近郊の土産物屋などでは日本人相手に「社長、社長」などとすぐ寄ってくる場所もかなりあったが、表面の態度と心の奥に持っている隠された感情が違うのではないかと感じるようになった。
ソウルの金浦空港まわりも緑の少ないハゲ山でこれも戦争のせいだと聞いたこともやはりショックであった。
母などからむかし歌ったという「紀元二千六百年」などという歌を良く歌ったと聞いたことがあったが、これは昭和十五年に皇室が2600年を迎えるということを祝って作られた歌というが、戦後教育を受けたものにはあまりにも滑稽で内容はとても信じられるものではないが、皇室が朝鮮半島からやってきたということはほぼ間違いのないところで日本人も韓国人も似た人種なのだ。
しかし日本人のDNAを調べると1万年以上前からこの島に住んでいたという縄文人と韓国や中国などのDNAをかけ合わせた
戦後生まれの者にとって教育の違いもあるが私は昔から日本と韓国の人口の違いに注目している。
日本の総人口が約1億2700万人(2015年)。それに対して韓国は人口約5000万人弱(2006年)と日本の半分以下。
高齢者の割合で見ると65歳以上は日本が25%強、韓国は約10%とまだかなり余裕がありそうに見える。
しかし、韓国は人口の多くが首都ソウル近郊に集中しており、高齢化も急速に進んでいる。
日銀の黒田総裁が先日シンガポールの欧州中央銀行の会合で「日本の労働人口の減少が、日本の潜在的な経済成長力に対し、大きな脅威となる」と言ったという。
現在まわりを見ても年寄りばかりで、女性もある年齢以上の人はほとんど働いていない。
(働く人というのはちゃんと税金を納めている人ということ)
これはいつも感じることで、これだけの長寿国になったら働く人口を確保しなければどうにもならないのであるから、やむを得ないことで、働けない人は別として働かないとこの国はやっていけないということだ。
私もこの春からほぼ年金の生活になってしまったので「まだ働けるぞ!」と気持ちはあれど仕事はそんなに思うようにはならない。
70歳くらいまで(あと3年)は元気なので何処かで働きたいものである。
さて、それはともかくとして、この日本の人口が1億人を切ると大変なことが起こると思っている。
老齢人口の増加もあるがそれ以外にも日本は独自の文化をもっていて、現在アニメだの歌舞伎だの独特の文化を世界に発信しているが、これが人口1億を切ると成り立たなくなると感じているのだ。
携帯電話も日本独自の発達を遂げガラパゴスなどとも言われるが、これは人口が1億以上いるから内需があり成り立つのだ。
韓国は人口が日本の半分以下であり、国内消費だけではこのような文化は成立しない。
人口をこのようにとらえないとこれからの政策は全く間違った方向に行きかねない。
老人福祉などにやさしい国は当然必要だが、働けるものはもう少し働いてそれが消費にも回るように仕組みを変えてほしいものだ。
そうでなければ完全な福祉国家を目指すしかないが、資源の乏しい日本では現状ではやはり物を作って輸出していかなければ三流国にならざるを得ないだろう。
日本企業はまだヨーロッパなどに比べ合併などが少ないようだ。
私の知っているヨーロッパの大きな企業もあっという間に統合されたり吸収されて名前が変わっていった。
サンヨーがパナソニックになり、シャープが大幅資本金減額。
資本金を減らせば外国資本に吸収されてしまうリスクは大幅に増す。
電気業界の再編はまだ途についたばかりなのかもしれない。
昔心配したことが現実になってきている。
地元石岡市の「まちおこし」などということでも、やはり街中に活気がないというのは他所からの働く人口の流入が少ない事が最大の問題点だと思う。
市のキャッチフレーズも「古都1300年の歴史と郷の文化に出会える街」といわれるが、今年から「石岡市子ども・子育て支援事業計画」も始まった。
古都の歴史ゾーン、里山田舎暮らしゾーンだけではなく、企業を誘致して子育て働く人たちを増やすことも最重要課題だと思う。
自分でできることはわずかであるが、これからは少しずつこれらの活動にも積極的に目を向けていきたいと思う。
-----------ここまで------------------
さて現在は私も70歳を超えてしまったが、この頃からあまり変っていない。反省です。
日米和親条約裏話(備忘録)
日米和親条約裏話
江戸時代末期に日本に訪れた黒船。江戸幕府は1639年に鎖国を開始してからは長﨑出島のみを開港しておりました。
ここでの貿易相手はポルトガル、オランダ、中国などであり、蘭学(オランダ語)が中心でした。
政府が正式にこの外国人との間で話す場合には、今でいう通訳がおりました。
公式の通訳は職業として政府により任命された者だけが許されるのですが、この職の人を通詞(つうじ)と呼びますが、この通詞は身分としても結構高く、それも親から子へ代々引き継がれたりしていたようです。
しかし、シーボルトが伊能忠敬の地図など持ち出そうとした事件などでも数名の通詞が連座となり処罰を受け、また薩摩藩の密貿易(沖合いで荷物を直接取引)などで、磔刑となった通詞もいました。

(ペリーの神奈川上陸)
さて、この鎖国が実質的な終わりを告げるのは、嘉永7年(1854年)ペリーと交わした「神奈川条約(日米和親条約)」が締結されたこととなりますが、この交渉時にどのような様子であったのかは、日本側にはあまり残された文書が無く、交渉にあたったペリー艦隊が帰国後、ペリーの日記を編纂して『ペリー艦隊 日本遠征記』を書いて残しています。
この中で条約締結直後に、黒船(ポーハタン号)の甲板では盛大なパーティが催され、当時の様子を次のように書いています。
『日が暮れると、日本人は飲めるだけの酒をしたたか飲んで、退艦の用意にかかった。陽気な松崎(満太郎)は両手をペリー提督の首にまわし、よろよろしながら抱きしめ提督の新しい肩章を押しつぶしながら、涙ながらに日本語で「Nippon and America, all the same heart」(日米、同心、日本とアメリカ心は一つ)という意味の言葉を繰り返した』とあり、また、ペリーの日記には松崎に抱きつかれたペリーは条約に署名してくれたら「キスをしても良い」とまで言ったとある。
日本側の主席通詞は堀達之助だったようで、当時英語、ロシア語なども勉強させられていたようだが、黒船に向かって “I can speak Dutch”とだけ英語で叫び、日本側の得意とするオランダ語を土俵とする交渉に引き込んだ といわれているそうです。
通詞(つうじ)の話は歴史の文献には余りかかれることがありません。
そのため、実態がよくわかりませんでしたが、甲子夜話の一文を読んで、少し当時の様子が垣間見れ、調べた内容をここに残しておきます。
江戸時代末期に日本に訪れた黒船。江戸幕府は1639年に鎖国を開始してからは長﨑出島のみを開港しておりました。
ここでの貿易相手はポルトガル、オランダ、中国などであり、蘭学(オランダ語)が中心でした。
政府が正式にこの外国人との間で話す場合には、今でいう通訳がおりました。
公式の通訳は職業として政府により任命された者だけが許されるのですが、この職の人を通詞(つうじ)と呼びますが、この通詞は身分としても結構高く、それも親から子へ代々引き継がれたりしていたようです。
しかし、シーボルトが伊能忠敬の地図など持ち出そうとした事件などでも数名の通詞が連座となり処罰を受け、また薩摩藩の密貿易(沖合いで荷物を直接取引)などで、磔刑となった通詞もいました。

(ペリーの神奈川上陸)
さて、この鎖国が実質的な終わりを告げるのは、嘉永7年(1854年)ペリーと交わした「神奈川条約(日米和親条約)」が締結されたこととなりますが、この交渉時にどのような様子であったのかは、日本側にはあまり残された文書が無く、交渉にあたったペリー艦隊が帰国後、ペリーの日記を編纂して『ペリー艦隊 日本遠征記』を書いて残しています。
この中で条約締結直後に、黒船(ポーハタン号)の甲板では盛大なパーティが催され、当時の様子を次のように書いています。
『日が暮れると、日本人は飲めるだけの酒をしたたか飲んで、退艦の用意にかかった。陽気な松崎(満太郎)は両手をペリー提督の首にまわし、よろよろしながら抱きしめ提督の新しい肩章を押しつぶしながら、涙ながらに日本語で「Nippon and America, all the same heart」(日米、同心、日本とアメリカ心は一つ)という意味の言葉を繰り返した』とあり、また、ペリーの日記には松崎に抱きつかれたペリーは条約に署名してくれたら「キスをしても良い」とまで言ったとある。
日本側の主席通詞は堀達之助だったようで、当時英語、ロシア語なども勉強させられていたようだが、黒船に向かって “I can speak Dutch”とだけ英語で叫び、日本側の得意とするオランダ語を土俵とする交渉に引き込んだ といわれているそうです。
通詞(つうじ)の話は歴史の文献には余りかかれることがありません。
そのため、実態がよくわかりませんでしたが、甲子夜話の一文を読んで、少し当時の様子が垣間見れ、調べた内容をここに残しておきます。
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