騰波ノ江駅
取手から下館を結んでいる関東鉄道常総線に「騰波ノ江(とばのえ)駅」がある。
下妻と下館の中間で石岡から見ると筑波山の真西側の小さな駅である。
前から近くにったら寄って見たいと思っていた。

小さな駅で、一日の乗降客は数十人程度しかいない。

なぜ、ここに寄りたかったかというと昔この辺りには「鳥羽の淡海」という大きな湖が広がっていたからだ。
どんな風景だったのか?
小貝川が大きく膨らんで海のようになり、また鬼怒川との間にも大小の湖や沼が広がっていたようです。
常陸国風土記を編纂したと言われる高橋虫麻呂が筑波山から詠んだ歌がある。
草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
思ひ積み来し 憂へは止みぬ
これは師付の田居(志筑の田井)でも書いていて、筑波山から西に海のように白波の立つ「新治の鳥羽の淡海」の姿を想像するのですが今は恐らく田圃になっていたり、住宅となっていてその面影をたどるのは難しいのだろう。
しかし、やはり目で見てみなければならない。
今でもこの名前が残る「騰波ノ江駅」にやってきたのです。
恐らくこの辺りが昔の鳥羽の淡海の入口あたりになるのでしょう。
この辺りは大宝地区であり、江戸時代に大規模な干拓事業が行なわれたようだ。
その頃までは面影を残していたものと思うが、いまは「道の駅しもつま」周辺の一面の水田地帯がその面影として残るものかもしれない。

騰波ノ江駅に少し変わったものがありました。
トロッコ線が引かれています。
「とばのえ支線」と書かれています。
これは、常総線開業100周年事業の一環として前からあった農業用貨物の引込線跡を利用して、観光目的で作られたものです。
短い長さのようですが、2013年11月3日に「開通」し、第三土・日曜日に運行されます。
2人乗りトロッコ乗車体験ができますので恋人と乗って見るのも楽しい思い出ができそうです。

下妻と下館の中間で石岡から見ると筑波山の真西側の小さな駅である。
前から近くにったら寄って見たいと思っていた。

小さな駅で、一日の乗降客は数十人程度しかいない。

なぜ、ここに寄りたかったかというと昔この辺りには「鳥羽の淡海」という大きな湖が広がっていたからだ。
どんな風景だったのか?
小貝川が大きく膨らんで海のようになり、また鬼怒川との間にも大小の湖や沼が広がっていたようです。
常陸国風土記を編纂したと言われる高橋虫麻呂が筑波山から詠んだ歌がある。
草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
思ひ積み来し 憂へは止みぬ
これは師付の田居(志筑の田井)でも書いていて、筑波山から西に海のように白波の立つ「新治の鳥羽の淡海」の姿を想像するのですが今は恐らく田圃になっていたり、住宅となっていてその面影をたどるのは難しいのだろう。
しかし、やはり目で見てみなければならない。
今でもこの名前が残る「騰波ノ江駅」にやってきたのです。
恐らくこの辺りが昔の鳥羽の淡海の入口あたりになるのでしょう。
この辺りは大宝地区であり、江戸時代に大規模な干拓事業が行なわれたようだ。
その頃までは面影を残していたものと思うが、いまは「道の駅しもつま」周辺の一面の水田地帯がその面影として残るものかもしれない。

騰波ノ江駅に少し変わったものがありました。
トロッコ線が引かれています。
「とばのえ支線」と書かれています。
これは、常総線開業100周年事業の一環として前からあった農業用貨物の引込線跡を利用して、観光目的で作られたものです。
短い長さのようですが、2013年11月3日に「開通」し、第三土・日曜日に運行されます。
2人乗りトロッコ乗車体験ができますので恋人と乗って見るのも楽しい思い出ができそうです。

関城跡(南北朝の国指定史跡)
昨日紹介した常総線の「騰波ノ江駅」の西側(筑波山と反対側)に筑西市関舘という場所がある。
騰波ノ江駅からは一端北に行ってから線路を渡ってこなければならないが、ここにこんな古い南北朝時代の広大な城跡がある。
詳細に巡って見なければ遺構の詳細はわからないが、この関館の道路の両側に広がっているようだ。
特に何があるわけではないが専用の大きな駐車場も整備されている。

通りの名前は「関城通り」。 写真の左側が駐車場(ただの広い空地)。

駐車場の近くにあった案内地図。
関城通りは「現在地」から上下(北南)に走る。
現在地から東側にある赤印部分は「坑道の入口」(後ろの方に載せています)

「関城跡」の石碑は南に行った地図の緑色の場所。

関城跡(国指定史跡) 現地説明板:
(研究学園都市と民族文化ライン)
「関城はかって南北朝対立争乱の時代 小田城などとともに常陸国内宮方、南朝方の拠点として知られる史跡です。
今、関館8.5ヘクタールの城には当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。
ここは東西南の三方が大宝沼にかこまれ、北に壕を掘り前面大宝沼のかなたに友軍の城、下妻城を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かつて南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような景勝の地でもあります。
この城には興国2年(1341)小田城から移った北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史の本「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です。」

関宗祐の墓

道路の西側はこんもりした林。
民家の間を通って奥に進む。

小山の上に小さなお宮が一つ。
まわりは見事な竹林。

奥に進めば城の遺構もわかるかもしれないが、進むことは断念。

最初に示した案内図の東側の赤いマークの場所の「坑道跡」がある。

坑道口の小山の上に昔の石碑が建っている。
いまは上ると崩れるので縄で中に入れないようにしている。

これが坑道口。
日本三坑道の一つだと言う。
南朝方のこの関城を攻めた北朝方が掘ったものという。

しかし城の中からもまた外に向かって坑道を掘ったという。
坑道も幅1mで高さが2mという結構大きなもの。枠もなく掘り進めたようだ。(途中で双方中止)
さて、別冊で今日のランチ記事を更新しました。
石岡の路地で見つけたお寿司屋さん「大石屋」さんの寿司ランチ700円です。(別冊記事はこちら)

これからは別冊の更新をこちらでもお知らせします。
騰波ノ江駅からは一端北に行ってから線路を渡ってこなければならないが、ここにこんな古い南北朝時代の広大な城跡がある。
詳細に巡って見なければ遺構の詳細はわからないが、この関館の道路の両側に広がっているようだ。
特に何があるわけではないが専用の大きな駐車場も整備されている。

通りの名前は「関城通り」。 写真の左側が駐車場(ただの広い空地)。

駐車場の近くにあった案内地図。
関城通りは「現在地」から上下(北南)に走る。
現在地から東側にある赤印部分は「坑道の入口」(後ろの方に載せています)

「関城跡」の石碑は南に行った地図の緑色の場所。

関城跡(国指定史跡) 現地説明板:
(研究学園都市と民族文化ライン)
「関城はかって南北朝対立争乱の時代 小田城などとともに常陸国内宮方、南朝方の拠点として知られる史跡です。
今、関館8.5ヘクタールの城には当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。
ここは東西南の三方が大宝沼にかこまれ、北に壕を掘り前面大宝沼のかなたに友軍の城、下妻城を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かつて南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような景勝の地でもあります。
この城には興国2年(1341)小田城から移った北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史の本「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です。」

関宗祐の墓

道路の西側はこんもりした林。
民家の間を通って奥に進む。

小山の上に小さなお宮が一つ。
まわりは見事な竹林。

奥に進めば城の遺構もわかるかもしれないが、進むことは断念。

最初に示した案内図の東側の赤いマークの場所の「坑道跡」がある。

坑道口の小山の上に昔の石碑が建っている。
いまは上ると崩れるので縄で中に入れないようにしている。

これが坑道口。
日本三坑道の一つだと言う。
南朝方のこの関城を攻めた北朝方が掘ったものという。

しかし城の中からもまた外に向かって坑道を掘ったという。
坑道も幅1mで高さが2mという結構大きなもの。枠もなく掘り進めたようだ。(途中で双方中止)
さて、別冊で今日のランチ記事を更新しました。
石岡の路地で見つけたお寿司屋さん「大石屋」さんの寿司ランチ700円です。(別冊記事はこちら)

これからは別冊の更新をこちらでもお知らせします。
大宝城跡
下妻駅のすぐ北側はかなり古い地域で「大宝八幡宮」が有名です。
先日説明した「騰波ノ江駅」と「下妻駅」の中間に「大宝駅」があります。
この大宝八幡宮のある地域に昔の「大宝城跡」と呼ばれる場所があり、国の史跡に指定されています。
この指定範囲は関城も含む範囲をまとめて指定してあるものだそうです。
大宝八幡宮の一之鳥居の場所にある森にこの史跡が森林として保存されています。
隣りには大宝幼稚園、大宝小学校があります。

大宝八幡宮から南に延びた長い参道(350mくらい)の入り口鳥居と信号。

このこんもりした森が城跡の遺構とされていますが、恐らく八幡宮の敷地辺り一帯にこの大宝(だいほう)城があったものと思われます。
この城も南北朝の頃の城(下妻氏)です。

貞永元年(1232)下妻長政によって築かれ、南北朝時代に、城主下妻政泰は北畠親房に呼応して南朝方として挙兵した。
興国2年(1341)に北条城にいた北畠親房は昨日紹介した関城に移った。
しかし足利尊氏派の北朝勢(高師冬ら)により、関城との連絡も立たれ、興国4年(1343)に関城とともに落城した。

南朝方の関東における主要な城は「常陸国関城」「常陸国真壁城」「常陸国大宝城」「常陸国伊佐城」「常陸国中郡城」「下野国西明寺城」などがあります。
そういえば真壁城も広大な空き地が国の指定史跡となり整備が進んでいた。

さて小田城であるが、小田治久が北朝方に離反したことにより、北畠親房が関城に、春日顕国がこの大宝城に移った。
この当時この近くには「大宝沼」という大きな沼があった。
この沼の北側の端に関城があり、南橋にこの大宝城があったようだ。
そのため沼で片側を守ることができ、かなり守るに堅い城だった。

まあそれにしても天皇家が2つに分かれてしまった南北朝時代だが、この常陸や下野の武将たちも有利となれば乗り換えたりしたのでどちらがどちらだったのかなどと単純に考えられない。
全く複雑だ。
先日説明した「騰波ノ江駅」と「下妻駅」の中間に「大宝駅」があります。
この大宝八幡宮のある地域に昔の「大宝城跡」と呼ばれる場所があり、国の史跡に指定されています。
この指定範囲は関城も含む範囲をまとめて指定してあるものだそうです。
大宝八幡宮の一之鳥居の場所にある森にこの史跡が森林として保存されています。
隣りには大宝幼稚園、大宝小学校があります。

大宝八幡宮から南に延びた長い参道(350mくらい)の入り口鳥居と信号。

このこんもりした森が城跡の遺構とされていますが、恐らく八幡宮の敷地辺り一帯にこの大宝(だいほう)城があったものと思われます。
この城も南北朝の頃の城(下妻氏)です。

貞永元年(1232)下妻長政によって築かれ、南北朝時代に、城主下妻政泰は北畠親房に呼応して南朝方として挙兵した。
興国2年(1341)に北条城にいた北畠親房は昨日紹介した関城に移った。
しかし足利尊氏派の北朝勢(高師冬ら)により、関城との連絡も立たれ、興国4年(1343)に関城とともに落城した。

南朝方の関東における主要な城は「常陸国関城」「常陸国真壁城」「常陸国大宝城」「常陸国伊佐城」「常陸国中郡城」「下野国西明寺城」などがあります。
そういえば真壁城も広大な空き地が国の指定史跡となり整備が進んでいた。

さて小田城であるが、小田治久が北朝方に離反したことにより、北畠親房が関城に、春日顕国がこの大宝城に移った。
この当時この近くには「大宝沼」という大きな沼があった。
この沼の北側の端に関城があり、南橋にこの大宝城があったようだ。
そのため沼で片側を守ることができ、かなり守るに堅い城だった。

まあそれにしても天皇家が2つに分かれてしまった南北朝時代だが、この常陸や下野の武将たちも有利となれば乗り換えたりしたのでどちらがどちらだったのかなどと単純に考えられない。
全く複雑だ。
大宝八幡宮(1)
下妻はあまり今まで縁がなく出かけることもなかった。
砂沼サンビーチが昔から有名なくらいだが、ここまで泳ぎに来るなら海に行った方が近い。
しかし大宝(だいほう)に来たのだからかなり古いと言われる神社「大宝八幡宮」に参拝して行かねばならないだろう。
昨日の大宝城跡の碑のある一の鳥居から長い参道を進む。

途中に二の鳥居があり、その先に神社仁王門前に三の鳥居がある。

入り口横に大きく無料駐車場とある。
ここは名物団子の店「ゑびすや」さんの駐車場。
せっかく無料と書かれているので一番端の方に駐車させてもらった。
(帰りにはしっかりお店の呼び込みにあいましたが・・・・)

社伝によれば「大宝元年(701)、藤原時忠が筑紫の宇佐神宮を勧請創建したのが始まりです」とある。
このため大宝(だいほう)の名前がついたようだ。
この大宝八幡宮は関東に数多くある八幡宮では一番古いと言う。
宇佐神宮はもちろん大分県の八幡宮の総本山とされる神社だ。
また、平将門も戦勝祈願のために度々参拝し、この神社の巫女によって「新皇」の位を授けられたと伝えられているそうです。

(境内にある相撲場:毎年6月中旬に高砂部屋と錦戸部屋が稽古合宿を行う)
八幡宮というと源氏を中心とした武士集団の守り神ととらえられるのですが、もともと奥州討伐にむかった八幡太郎義家(源義家)の名前の通り、南無八幡大菩薩信仰は桓武平氏も清和源氏もともに信仰していた武士の神様だ。
祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)は「応仁天皇」のこととされている。

入口に立派な仁王門がある。
ここは神社だが、昔は神仏習合でいくつもの神宮寺((大宝八ヶ寺)があったそうです。
確かに仁王像が置かれていますが、神社の説明によれば「随身門」なのだそうです。
普通は右大臣、左大臣が置かれるのですが明らかに仁王様です。
この門は昭和天皇御座位六十年を記念して建てられたものですので比較的新しいものです。

向かって左側に奉納されている清酒「花の井」は真壁の酒屋さんです。


右側の清酒「一人娘(山中酒造)」「紬美人(野村醸造)」はともに石下の酒屋さんです。


(明日に続きます)
砂沼サンビーチが昔から有名なくらいだが、ここまで泳ぎに来るなら海に行った方が近い。
しかし大宝(だいほう)に来たのだからかなり古いと言われる神社「大宝八幡宮」に参拝して行かねばならないだろう。
昨日の大宝城跡の碑のある一の鳥居から長い参道を進む。

途中に二の鳥居があり、その先に神社仁王門前に三の鳥居がある。

入り口横に大きく無料駐車場とある。
ここは名物団子の店「ゑびすや」さんの駐車場。
せっかく無料と書かれているので一番端の方に駐車させてもらった。
(帰りにはしっかりお店の呼び込みにあいましたが・・・・)

社伝によれば「大宝元年(701)、藤原時忠が筑紫の宇佐神宮を勧請創建したのが始まりです」とある。
このため大宝(だいほう)の名前がついたようだ。
この大宝八幡宮は関東に数多くある八幡宮では一番古いと言う。
宇佐神宮はもちろん大分県の八幡宮の総本山とされる神社だ。
また、平将門も戦勝祈願のために度々参拝し、この神社の巫女によって「新皇」の位を授けられたと伝えられているそうです。

(境内にある相撲場:毎年6月中旬に高砂部屋と錦戸部屋が稽古合宿を行う)
八幡宮というと源氏を中心とした武士集団の守り神ととらえられるのですが、もともと奥州討伐にむかった八幡太郎義家(源義家)の名前の通り、南無八幡大菩薩信仰は桓武平氏も清和源氏もともに信仰していた武士の神様だ。
祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)は「応仁天皇」のこととされている。

入口に立派な仁王門がある。
ここは神社だが、昔は神仏習合でいくつもの神宮寺((大宝八ヶ寺)があったそうです。
確かに仁王像が置かれていますが、神社の説明によれば「随身門」なのだそうです。
普通は右大臣、左大臣が置かれるのですが明らかに仁王様です。
この門は昭和天皇御座位六十年を記念して建てられたものですので比較的新しいものです。

向かって左側に奉納されている清酒「花の井」は真壁の酒屋さんです。


右側の清酒「一人娘(山中酒造)」「紬美人(野村醸造)」はともに石下の酒屋さんです。


(明日に続きます)
大宝八幡宮(2)
下妻にある八幡宮としても関東最古といわれる大宝八幡宮の続きです。
今日はブログをまとめている時間が無くなりましたので写真と簡単な説明のみです。

仁王門(随神門)をくぐると、拝殿までの左右に狛犬がたくさん置かれています。

そして向かって右手の狛犬の裏にはたくさんの境内社が並んでいます。

狛犬も親子のものが多くあります。

拝殿です。


拝殿脇に置かれた狛犬には「平成狛犬」と書かれています。
説明書きには、別名「撫で狛犬」で、ご利益を得たいところを撫でると良いという説明がありました。
手書きの説明で良く見えませんでしたので撫でませんでした。

七福神像です。
まあ色々なものがありますが、今日はあまり元気がありません。
今までの2000件の記事の量は振り返って見るととてつもなく多いです。
大宝八幡ともう一つの古社「大生天満宮」を記事にまとめたいと思ったのですが、これもなかなか進みません。
二兎追うものは・・・・・

神社の東側にある門には「笑門」とあります。
右側の柱には正式な名称が書かれていました。
「蘇民将来子孫家門」が正式名なのですが、これを縮めると「将門」となって平将門になってしまうので「笑門」としたと。
しかし、「笑う門には福来る」でいいですよね。
伊勢地方などにはあるようですが、こちらの方ではほとんど見かけません。
しかし、この神社には将門の伝説があります。
将門が新皇を宣言したのは、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れて神託を受けたとされているが、この巫女はこの神社の巫女であると言われている。

今日はブログをまとめている時間が無くなりましたので写真と簡単な説明のみです。

仁王門(随神門)をくぐると、拝殿までの左右に狛犬がたくさん置かれています。

そして向かって右手の狛犬の裏にはたくさんの境内社が並んでいます。

狛犬も親子のものが多くあります。

拝殿です。


拝殿脇に置かれた狛犬には「平成狛犬」と書かれています。
説明書きには、別名「撫で狛犬」で、ご利益を得たいところを撫でると良いという説明がありました。
手書きの説明で良く見えませんでしたので撫でませんでした。

七福神像です。
まあ色々なものがありますが、今日はあまり元気がありません。
今までの2000件の記事の量は振り返って見るととてつもなく多いです。
大宝八幡ともう一つの古社「大生天満宮」を記事にまとめたいと思ったのですが、これもなかなか進みません。
二兎追うものは・・・・・

神社の東側にある門には「笑門」とあります。
右側の柱には正式な名称が書かれていました。
「蘇民将来子孫家門」が正式名なのですが、これを縮めると「将門」となって平将門になってしまうので「笑門」としたと。
しかし、「笑う門には福来る」でいいですよね。
伊勢地方などにはあるようですが、こちらの方ではほとんど見かけません。
しかし、この神社には将門の伝説があります。
将門が新皇を宣言したのは、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れて神託を受けたとされているが、この巫女はこの神社の巫女であると言われている。

大宝八幡宮(3)
今日は朝からパソコンの前で1日過ごしてしまった。
午前中は今までのブログのまとめで四苦八苦したが、こんな調子では何時まとまるかわからない。
午後からはちょっとパソコンでのアルバイトが入ってきた。
半日一生懸命やって見たが、これは年寄りのやる仕事ではない。
肩ばかり凝って、目は焦点が段々合わなくなってきた。
まだやっと四分の一しか終わらなかった。
まあ1週間くらい時間があるので手の空いた時にやっていこう。
アメリカに行っている息子から電話がきた。
今月末に任期を終えて帰ってくる。
まあ仕事場が名古屋だからこちらには9月半ばの休みまで来ないと・・・・。
向こうに行くと結構向こうが良くなるらしい。
またそのうちに行ってしまうのかもしれない。
まあ親が英語大嫌いなのに、子どもたちは何とか得意としているようだ。
そして、親元からは段々遠くなる。
世界も結構狭くなってきたものだ。
これも仕方のないこと。
まあこちらは残り少なくなってきたので、あとどこまで好きなことをやっていけるだろうか?
最近知り合いにガンの話も増えた。
今日も家内は「いわき」に行っていていない。
先ほど電話があり、向こうの方にいる知り合いがガンで明日見舞いに行くので近くの温泉にでも泊まるとか。
いわきの近くにも温泉施設があり泊まったりすることも可能だとか。
いわきに毎週行くのも、後1年くらい続けるのだろう。
私は、今日も疲れて時間が無くなってしまった。
大宝八幡宮の写真を載せて誤魔化すことにしよう。

境内社として「大宝天満宮」があった。
そして近くに太宰府天満宮の梅の木が奉納として植えられていた。

こちらは拝殿を横から見たもの。
こちらに「若宮八幡宮」が置かれていた。

若宮八幡宮は神社のHPには「源頼朝が奥州征伐を達成したのを期に、下河辺行平に命じ文治五年(1189)に勧請させた八幡宮。若宮様は第十六代仁徳天皇のことで、その父親が第十五代応神天皇八幡様です。御本殿には第十四代仲哀天皇をお祀りしているので、親・子・孫と三代続けてお祀りしていることになります。」
と書かれていた。
わが石岡にも若宮八幡宮がある。
かなり古いがよくわかっていない。

この若宮八幡様のお宮の後ろに馬が祀られていた。

こちらが本殿。

この本殿は国の有形文化財だ。
神社のHPには
「大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請創建されました。現在の建物は天正五年(1577)、下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建されたもの。再建当時の棟札墨書銘と擬宝珠刻銘も現存しており、貴重な史料となっております。建物は三間社流造で建ち上がりも高く、柱も太くてどっしりした重みを見せておりますが、それに比べて組物は小柄で複雑に組み合わされ、桃山時代の地方色が濃く表れています。屋根は萱葺きであったが、昭和40年に茅葺形銅板葺に改められました。天正期の地方的建築の有様を示す貴重な文化財として、国の重要文化財に指定されています。 」
と書かれている。



「神楽殿」
春と秋の例祭で、十二座神楽が奉納され、例祭と節分祭で、豆・餅・菓子などが撒かれる。
石岡の総社も似たようなことを行なっている。
まだ少し残ってしまったが、またの機会に載せることにしよう。
午前中は今までのブログのまとめで四苦八苦したが、こんな調子では何時まとまるかわからない。
午後からはちょっとパソコンでのアルバイトが入ってきた。
半日一生懸命やって見たが、これは年寄りのやる仕事ではない。
肩ばかり凝って、目は焦点が段々合わなくなってきた。
まだやっと四分の一しか終わらなかった。
まあ1週間くらい時間があるので手の空いた時にやっていこう。
アメリカに行っている息子から電話がきた。
今月末に任期を終えて帰ってくる。
まあ仕事場が名古屋だからこちらには9月半ばの休みまで来ないと・・・・。
向こうに行くと結構向こうが良くなるらしい。
またそのうちに行ってしまうのかもしれない。
まあ親が英語大嫌いなのに、子どもたちは何とか得意としているようだ。
そして、親元からは段々遠くなる。
世界も結構狭くなってきたものだ。
これも仕方のないこと。
まあこちらは残り少なくなってきたので、あとどこまで好きなことをやっていけるだろうか?
最近知り合いにガンの話も増えた。
今日も家内は「いわき」に行っていていない。
先ほど電話があり、向こうの方にいる知り合いがガンで明日見舞いに行くので近くの温泉にでも泊まるとか。
いわきの近くにも温泉施設があり泊まったりすることも可能だとか。
いわきに毎週行くのも、後1年くらい続けるのだろう。
私は、今日も疲れて時間が無くなってしまった。
大宝八幡宮の写真を載せて誤魔化すことにしよう。

境内社として「大宝天満宮」があった。
そして近くに太宰府天満宮の梅の木が奉納として植えられていた。

こちらは拝殿を横から見たもの。
こちらに「若宮八幡宮」が置かれていた。

若宮八幡宮は神社のHPには「源頼朝が奥州征伐を達成したのを期に、下河辺行平に命じ文治五年(1189)に勧請させた八幡宮。若宮様は第十六代仁徳天皇のことで、その父親が第十五代応神天皇八幡様です。御本殿には第十四代仲哀天皇をお祀りしているので、親・子・孫と三代続けてお祀りしていることになります。」
と書かれていた。
わが石岡にも若宮八幡宮がある。
かなり古いがよくわかっていない。

この若宮八幡様のお宮の後ろに馬が祀られていた。

こちらが本殿。

この本殿は国の有形文化財だ。
神社のHPには
「大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請創建されました。現在の建物は天正五年(1577)、下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建されたもの。再建当時の棟札墨書銘と擬宝珠刻銘も現存しており、貴重な史料となっております。建物は三間社流造で建ち上がりも高く、柱も太くてどっしりした重みを見せておりますが、それに比べて組物は小柄で複雑に組み合わされ、桃山時代の地方色が濃く表れています。屋根は萱葺きであったが、昭和40年に茅葺形銅板葺に改められました。天正期の地方的建築の有様を示す貴重な文化財として、国の重要文化財に指定されています。 」
と書かれている。



「神楽殿」
春と秋の例祭で、十二座神楽が奉納され、例祭と節分祭で、豆・餅・菓子などが撒かれる。
石岡の総社も似たようなことを行なっている。
まだ少し残ってしまったが、またの機会に載せることにしよう。
大宝八幡宮(4)
関東で一番古いと言う下妻にある大宝八幡宮。
この八幡宮は宇佐八幡宮を勧請したと言われているが、もう少し調べて見ると面白そうなところだ。
平将門の新皇をこの宮の巫女により授けられたともいわれ、鎌倉時代には「下妻宮」とも表記された。
徳川家康の御朱印百十五石というのもかなり多い。
それに徳川からの代々の朱印状が全て残されていると言う。
なぜこの地(鳥羽の淡海)に置かれたのか?
いろいろ考えなければならないことが多い。
今は時間もないので単なる材料だしだけだ。

この場所が「新治の鳥羽の淡海」に近い場所なので、高橋虫麻呂が筑波山の上から眺めて詠んだ例の歌が載った石碑がおかれている。

そして隣りには「なんじゃもんじゃの木」が植えられていた。
私は香取の西側にある「神崎(こうざき)神社のなんじゃもんじゃの木しか知らなかったが、最近はこちらの神宮外苑にもある「ヒトツバタゴ」の方が有名になってきたようだ。
しかし、一度神崎神社に行って大きなクスの木「なんじゃもんじゃ」も是非見ていただきたい。
霞ケ浦から利根川を通って江戸との船運が栄えた時、この神崎の森の木が目印になった。
(こちらの木は前に書いたブログ(神崎神社2)などを参照ください。
「ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ」
が有名ですが、石岡の八郷地区の太田の善光寺に残る盆踊り唄
「此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐棲む
棲むや白狐 我も二三度騙された」
などというものもあった。
ブログも5年も記事をかき集めていると、いろいろなことが思い出される。



御神木「おがたま(招霊)」だそうだ。 おがたまの木は鎮守の木だそうだ。
近くに大きな御釜が置かれていたが何の意味があるのか。もう少し調べたい。


神社なのに「鐘楼」がある。
これも神仏習合の名残であろうか。
説明は下の立て看板。

ここには岩槻市(現財はさいたま市岩槻区)となっているが、私のイメージでは平林寺と言えば野火止(新座市)平林寺だ。
平林寺は永和元年(1375年)に岩槻に創建され、寛文3年(1663年)に現在の野火止に移された。
今、岩槻には地名として「平林寺」が残されている。

「お乳銀杏」
今日も雑多に並べてしまった。
北朝鮮と韓国が不穏な動き。
戦争は一人おかしな指導者がいれば何時勃発してもおかしくない。
明日は銚子に行く。
この八幡宮は宇佐八幡宮を勧請したと言われているが、もう少し調べて見ると面白そうなところだ。
平将門の新皇をこの宮の巫女により授けられたともいわれ、鎌倉時代には「下妻宮」とも表記された。
徳川家康の御朱印百十五石というのもかなり多い。
それに徳川からの代々の朱印状が全て残されていると言う。
なぜこの地(鳥羽の淡海)に置かれたのか?
いろいろ考えなければならないことが多い。
今は時間もないので単なる材料だしだけだ。

この場所が「新治の鳥羽の淡海」に近い場所なので、高橋虫麻呂が筑波山の上から眺めて詠んだ例の歌が載った石碑がおかれている。

そして隣りには「なんじゃもんじゃの木」が植えられていた。
私は香取の西側にある「神崎(こうざき)神社のなんじゃもんじゃの木しか知らなかったが、最近はこちらの神宮外苑にもある「ヒトツバタゴ」の方が有名になってきたようだ。
しかし、一度神崎神社に行って大きなクスの木「なんじゃもんじゃ」も是非見ていただきたい。
霞ケ浦から利根川を通って江戸との船運が栄えた時、この神崎の森の木が目印になった。
(こちらの木は前に書いたブログ(神崎神社2)などを参照ください。
「ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ」
が有名ですが、石岡の八郷地区の太田の善光寺に残る盆踊り唄
「此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐棲む
棲むや白狐 我も二三度騙された」
などというものもあった。
ブログも5年も記事をかき集めていると、いろいろなことが思い出される。



御神木「おがたま(招霊)」だそうだ。 おがたまの木は鎮守の木だそうだ。
近くに大きな御釜が置かれていたが何の意味があるのか。もう少し調べたい。


神社なのに「鐘楼」がある。
これも神仏習合の名残であろうか。
説明は下の立て看板。

ここには岩槻市(現財はさいたま市岩槻区)となっているが、私のイメージでは平林寺と言えば野火止(新座市)平林寺だ。
平林寺は永和元年(1375年)に岩槻に創建され、寛文3年(1663年)に現在の野火止に移された。
今、岩槻には地名として「平林寺」が残されている。

「お乳銀杏」
今日も雑多に並べてしまった。
北朝鮮と韓国が不穏な動き。
戦争は一人おかしな指導者がいれば何時勃発してもおかしくない。
明日は銚子に行く。
大生天満宮(1)
昨日車で出かけている時にいくつも田園地帯を通りました。
稲の穂が黄金色に輝いてきているのに驚かされました。 わあ~ きれいだな~ と。
そしてもう一部で刈り取りが始まっていました。 もう8月も終わりなりますね。
今日は昨日までの下妻より鬼怒川沿いに10kmほど南下して、旧水海道(みつかいどう)市(現常総市)大生郷に鎮座する「大生天満宮」を紹介します。
この辺りを見て回るにはまずこの2つ(大宝八幡宮、大生天満宮)を抜きにしてはまわりが見えてこないと思っている。
大宝八幡宮を関東で一番古い八幡宮と言うならば、こちらの大生天満宮は?
天満宮なのでここは学問の神様「菅原道真」を祀る。
そして日本で三か所しかない道真の遺骨が納められていると言われている。
つくば方面からは鬼怒川を渡る必要があるが、地図(一番下)を見てもらえば分かるが、ここの地名は大生(おおう)郷といい元は菅原村大生郷といった。
そしてこの神社も「菅原天満宮」とも呼ばれていた。

神社へは裏手から上ってきてしまったが、こちらが入口らしい。 入口鳥居の前も田圃が広がっています。

石段を上って、上に鳥居があり正面に天満宮の拝殿があります。

牛の像がここもあります。
二月の初午と関係するのか?
調べて見ると天満宮は菅原道真公をおまつりしているため、牛とはゆかりが深いのだとか。
生まれが承和12(845)乙丑6月25日なので、「丑年」、また延喜3年( 903)2月25日の「丑の日」に薨去されたのだとか。
その他数々のいわれがあり天満宮に牛の像をおくようになったという。

ここはやはり学問の神様ですので、受験のお願いに訪れる人が多いのでしょう。

やはりここにも「さざれ石」

これは菅原家の家紋「梅鉢」。
最近エンブレムのデザインが盗作疑惑などという報道が多くなされていますが、日本の家紋などに似たデザインなど山ほどあると思う。
どこまでがオリジナリティがあるかということだろうから、単に形が似ているなどというだけでは盗作というには的外れと思える者も多い。
芸術的に見てあの「泳ぐ人と影」のようなものは確かにアウトだが。

梅の木も確かに多いが、太宰府天満宮はきれいだった。(参考記事:こちら)




(明日に続きます)
稲の穂が黄金色に輝いてきているのに驚かされました。 わあ~ きれいだな~ と。
そしてもう一部で刈り取りが始まっていました。 もう8月も終わりなりますね。
今日は昨日までの下妻より鬼怒川沿いに10kmほど南下して、旧水海道(みつかいどう)市(現常総市)大生郷に鎮座する「大生天満宮」を紹介します。
この辺りを見て回るにはまずこの2つ(大宝八幡宮、大生天満宮)を抜きにしてはまわりが見えてこないと思っている。
大宝八幡宮を関東で一番古い八幡宮と言うならば、こちらの大生天満宮は?
天満宮なのでここは学問の神様「菅原道真」を祀る。
そして日本で三か所しかない道真の遺骨が納められていると言われている。
つくば方面からは鬼怒川を渡る必要があるが、地図(一番下)を見てもらえば分かるが、ここの地名は大生(おおう)郷といい元は菅原村大生郷といった。
そしてこの神社も「菅原天満宮」とも呼ばれていた。

神社へは裏手から上ってきてしまったが、こちらが入口らしい。 入口鳥居の前も田圃が広がっています。

石段を上って、上に鳥居があり正面に天満宮の拝殿があります。

牛の像がここもあります。
二月の初午と関係するのか?
調べて見ると天満宮は菅原道真公をおまつりしているため、牛とはゆかりが深いのだとか。
生まれが承和12(845)乙丑6月25日なので、「丑年」、また延喜3年( 903)2月25日の「丑の日」に薨去されたのだとか。
その他数々のいわれがあり天満宮に牛の像をおくようになったという。

ここはやはり学問の神様ですので、受験のお願いに訪れる人が多いのでしょう。

やはりここにも「さざれ石」

これは菅原家の家紋「梅鉢」。
最近エンブレムのデザインが盗作疑惑などという報道が多くなされていますが、日本の家紋などに似たデザインなど山ほどあると思う。
どこまでがオリジナリティがあるかということだろうから、単に形が似ているなどというだけでは盗作というには的外れと思える者も多い。
芸術的に見てあの「泳ぐ人と影」のようなものは確かにアウトだが。

梅の木も確かに多いが、太宰府天満宮はきれいだった。(参考記事:こちら)




(明日に続きます)
大生天満宮(2)
大生八幡宮の続きです。
大生郷天満宮の裏に回って菅原道真公の御廟に向かいます。

こちらが本殿です。
見た目は新しいですね。
大正8年に歌詞により焼失して建てなおしたものだと言います。
その前に建っていた本殿は天正4年(1576年)に兵火で焼失して再建されたと言われています。

御廟にはこの神社の山から一端下りてとなりの小山に置かれています。

下は蓮池などのある広場になっていて、写真の森が大生天満宮の山です。

通りを挟んで菅原道真公の御廟が建てられ地ます。
さてどうもこちらも新しそうです。
私も今まで神社に遺骨の一部が埋められているとばかり思っていましたので、こうして別に御廟が建てられているとは思いませんでした。
この遺骨のいきさつはまた明日にでも載せたいと思います。

こちらが御廟です。
なにしろ菅原道真が大宰府で亡くなったのははるか昔の903年です。
九州大宰府にもこんな御廟は無かったような・・・・。
でも太宰府天満宮はもともとお墓があって、そこにいろいろな堂宇が建てられた者のようですから、天満宮そのものが御廟ともいえそうです。

御廟の麓にはハス池があります。

それにしてもまわりは静かな場所です。
ここに来る道も比較的狭くてこんなところにあるのかという気がしました。
大生郷天満宮の裏に回って菅原道真公の御廟に向かいます。

こちらが本殿です。
見た目は新しいですね。
大正8年に歌詞により焼失して建てなおしたものだと言います。
その前に建っていた本殿は天正4年(1576年)に兵火で焼失して再建されたと言われています。

御廟にはこの神社の山から一端下りてとなりの小山に置かれています。

下は蓮池などのある広場になっていて、写真の森が大生天満宮の山です。

通りを挟んで菅原道真公の御廟が建てられ地ます。
さてどうもこちらも新しそうです。
私も今まで神社に遺骨の一部が埋められているとばかり思っていましたので、こうして別に御廟が建てられているとは思いませんでした。
この遺骨のいきさつはまた明日にでも載せたいと思います。

こちらが御廟です。
なにしろ菅原道真が大宰府で亡くなったのははるか昔の903年です。
九州大宰府にもこんな御廟は無かったような・・・・。
でも太宰府天満宮はもともとお墓があって、そこにいろいろな堂宇が建てられた者のようですから、天満宮そのものが御廟ともいえそうです。

御廟の麓にはハス池があります。

それにしてもまわりは静かな場所です。
ここに来る道も比較的狭くてこんなところにあるのかという気がしました。
大生天満宮(3)
大生天満宮の境内に昔の謂れを彫ったという石が置かれています。

「刀研石(かたなとぎいし)」と書かれた説明板が置かれています。

この石碑は、もともとこの天満宮の東北700m離れた、昔の表参道の入口「鳥居所」に置かれていたそうです。
そして「刀研石」と呼ばれ、この石で刀を研ぐと心願が成就すると言われたと書かれています。
この石碑が置かれたのがいつなのか。 この説明には「延長7年2月25日」の日が書かれていますが、この延長7年は西暦929年で、この大生郷に菅原神社を移した年といわれています。
そして石碑の彫られていた内容を明治44年に一部を解読したと言うの説明板に書かれたものです。
それは、この天満宮が真壁の羽鳥からこの地に移された経緯が書かれています。
常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行景兼茂景茂等相共移
従(筑波・霊地)下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩薩供養也
常陸介菅原景行所建也
菅原三郎景行五十四才也
菅原兼茂四十七才也
菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
延長七年二月二十五日
菅原道真の三男といわれている「菅原景行(かげつら)」は常陸の介として東国にやってきた。
そして、東国では「平良兼」がこの豊田郡の石下町あたりに屋敷を持っていました。
道真の大宰府左遷にともなって、三男菅原景行も駿河に左遷されていたのですが、放免されて今度は常陸の介に任命されて東国にやってきました。
この地では平良兼が面倒を見ていたようで、比較的近い真壁に菅原景行は館を建てます。
そして延長4年(926年)に景行は良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。
これが全国の天満宮の最初だと言われています。
その菅原神社(天満宮)を3年後の929年に下総国(豊田郡)大生郷に移したのがこの大生天満宮の始まりとされています。
(昔は下総国だったようです)
移した理由は? まずは墓を築き、それから最も良い場所を探していたと言うのが考えられることですが、正確なことはわかりません。
大生郷という名前からして何かがあるのでしょう。
以前、元鹿嶋といわれる「大生神社」を紹介しましたが、大生と言う名前には「多氏」という古い皇室系民族が関係していそうです。
何しろ1000年以上前のことになるとあまり残されているものが少なく、書きかえられたり、推測が多く加えられているのではっきりしたことが分かりません。
羽鳥地区の古墳についてはこちらの記事を参照してください。
(→ 真壁散歩(9)-羽鳥天神塚古墳)
1000年も昔の地形を考えると、この大生郷もまわりは大きな湖に囲まれたような場所だったのかもしれません。
筑波山を見るのにも良い風光明美な土地だったのではないかと思います。

「刀研石(かたなとぎいし)」と書かれた説明板が置かれています。

この石碑は、もともとこの天満宮の東北700m離れた、昔の表参道の入口「鳥居所」に置かれていたそうです。
そして「刀研石」と呼ばれ、この石で刀を研ぐと心願が成就すると言われたと書かれています。
この石碑が置かれたのがいつなのか。 この説明には「延長7年2月25日」の日が書かれていますが、この延長7年は西暦929年で、この大生郷に菅原神社を移した年といわれています。
そして石碑の彫られていた内容を明治44年に一部を解読したと言うの説明板に書かれたものです。
それは、この天満宮が真壁の羽鳥からこの地に移された経緯が書かれています。
常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行景兼茂景茂等相共移
従(筑波・霊地)下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩薩供養也
常陸介菅原景行所建也
菅原三郎景行五十四才也
菅原兼茂四十七才也
菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
延長七年二月二十五日
菅原道真の三男といわれている「菅原景行(かげつら)」は常陸の介として東国にやってきた。
そして、東国では「平良兼」がこの豊田郡の石下町あたりに屋敷を持っていました。
道真の大宰府左遷にともなって、三男菅原景行も駿河に左遷されていたのですが、放免されて今度は常陸の介に任命されて東国にやってきました。
この地では平良兼が面倒を見ていたようで、比較的近い真壁に菅原景行は館を建てます。
そして延長4年(926年)に景行は良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。
これが全国の天満宮の最初だと言われています。
その菅原神社(天満宮)を3年後の929年に下総国(豊田郡)大生郷に移したのがこの大生天満宮の始まりとされています。
(昔は下総国だったようです)
移した理由は? まずは墓を築き、それから最も良い場所を探していたと言うのが考えられることですが、正確なことはわかりません。
大生郷という名前からして何かがあるのでしょう。
以前、元鹿嶋といわれる「大生神社」を紹介しましたが、大生と言う名前には「多氏」という古い皇室系民族が関係していそうです。
何しろ1000年以上前のことになるとあまり残されているものが少なく、書きかえられたり、推測が多く加えられているのではっきりしたことが分かりません。
羽鳥地区の古墳についてはこちらの記事を参照してください。
(→ 真壁散歩(9)-羽鳥天神塚古墳)
1000年も昔の地形を考えると、この大生郷もまわりは大きな湖に囲まれたような場所だったのかもしれません。
筑波山を見るのにも良い風光明美な土地だったのではないかと思います。