騰波ノ江駅
取手から下館を結んでいる関東鉄道常総線に「騰波ノ江(とばのえ)駅」がある。
下妻と下館の中間で石岡から見ると筑波山の真西側の小さな駅である。
前から近くにったら寄って見たいと思っていた。

小さな駅で、一日の乗降客は数十人程度しかいない。

なぜ、ここに寄りたかったかというと昔この辺りには「鳥羽の淡海」という大きな湖が広がっていたからだ。
どんな風景だったのか?
小貝川が大きく膨らんで海のようになり、また鬼怒川との間にも大小の湖や沼が広がっていたようです。
常陸国風土記を編纂したと言われる高橋虫麻呂が筑波山から詠んだ歌がある。
草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
思ひ積み来し 憂へは止みぬ
これは師付の田居(志筑の田井)でも書いていて、筑波山から西に海のように白波の立つ「新治の鳥羽の淡海」の姿を想像するのですが今は恐らく田圃になっていたり、住宅となっていてその面影をたどるのは難しいのだろう。
しかし、やはり目で見てみなければならない。
今でもこの名前が残る「騰波ノ江駅」にやってきたのです。
恐らくこの辺りが昔の鳥羽の淡海の入口あたりになるのでしょう。
この辺りは大宝地区であり、江戸時代に大規模な干拓事業が行なわれたようだ。
その頃までは面影を残していたものと思うが、いまは「道の駅しもつま」周辺の一面の水田地帯がその面影として残るものかもしれない。

騰波ノ江駅に少し変わったものがありました。
トロッコ線が引かれています。
「とばのえ支線」と書かれています。
これは、常総線開業100周年事業の一環として前からあった農業用貨物の引込線跡を利用して、観光目的で作られたものです。
短い長さのようですが、2013年11月3日に「開通」し、第三土・日曜日に運行されます。
2人乗りトロッコ乗車体験ができますので恋人と乗って見るのも楽しい思い出ができそうです。

下妻と下館の中間で石岡から見ると筑波山の真西側の小さな駅である。
前から近くにったら寄って見たいと思っていた。

小さな駅で、一日の乗降客は数十人程度しかいない。

なぜ、ここに寄りたかったかというと昔この辺りには「鳥羽の淡海」という大きな湖が広がっていたからだ。
どんな風景だったのか?
小貝川が大きく膨らんで海のようになり、また鬼怒川との間にも大小の湖や沼が広がっていたようです。
常陸国風土記を編纂したと言われる高橋虫麻呂が筑波山から詠んだ歌がある。
草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
思ひ積み来し 憂へは止みぬ
これは師付の田居(志筑の田井)でも書いていて、筑波山から西に海のように白波の立つ「新治の鳥羽の淡海」の姿を想像するのですが今は恐らく田圃になっていたり、住宅となっていてその面影をたどるのは難しいのだろう。
しかし、やはり目で見てみなければならない。
今でもこの名前が残る「騰波ノ江駅」にやってきたのです。
恐らくこの辺りが昔の鳥羽の淡海の入口あたりになるのでしょう。
この辺りは大宝地区であり、江戸時代に大規模な干拓事業が行なわれたようだ。
その頃までは面影を残していたものと思うが、いまは「道の駅しもつま」周辺の一面の水田地帯がその面影として残るものかもしれない。

騰波ノ江駅に少し変わったものがありました。
トロッコ線が引かれています。
「とばのえ支線」と書かれています。
これは、常総線開業100周年事業の一環として前からあった農業用貨物の引込線跡を利用して、観光目的で作られたものです。
短い長さのようですが、2013年11月3日に「開通」し、第三土・日曜日に運行されます。
2人乗りトロッコ乗車体験ができますので恋人と乗って見るのも楽しい思い出ができそうです。

関城跡(南北朝の国指定史跡)
昨日紹介した常総線の「騰波ノ江駅」の西側(筑波山と反対側)に筑西市関舘という場所がある。
騰波ノ江駅からは一端北に行ってから線路を渡ってこなければならないが、ここにこんな古い南北朝時代の広大な城跡がある。
詳細に巡って見なければ遺構の詳細はわからないが、この関館の道路の両側に広がっているようだ。
特に何があるわけではないが専用の大きな駐車場も整備されている。

通りの名前は「関城通り」。 写真の左側が駐車場(ただの広い空地)。

駐車場の近くにあった案内地図。
関城通りは「現在地」から上下(北南)に走る。
現在地から東側にある赤印部分は「坑道の入口」(後ろの方に載せています)

「関城跡」の石碑は南に行った地図の緑色の場所。

関城跡(国指定史跡) 現地説明板:
(研究学園都市と民族文化ライン)
「関城はかって南北朝対立争乱の時代 小田城などとともに常陸国内宮方、南朝方の拠点として知られる史跡です。
今、関館8.5ヘクタールの城には当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。
ここは東西南の三方が大宝沼にかこまれ、北に壕を掘り前面大宝沼のかなたに友軍の城、下妻城を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かつて南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような景勝の地でもあります。
この城には興国2年(1341)小田城から移った北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史の本「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です。」

関宗祐の墓

道路の西側はこんもりした林。
民家の間を通って奥に進む。

小山の上に小さなお宮が一つ。
まわりは見事な竹林。

奥に進めば城の遺構もわかるかもしれないが、進むことは断念。

最初に示した案内図の東側の赤いマークの場所の「坑道跡」がある。

坑道口の小山の上に昔の石碑が建っている。
いまは上ると崩れるので縄で中に入れないようにしている。

これが坑道口。
日本三坑道の一つだと言う。
南朝方のこの関城を攻めた北朝方が掘ったものという。

しかし城の中からもまた外に向かって坑道を掘ったという。
坑道も幅1mで高さが2mという結構大きなもの。枠もなく掘り進めたようだ。(途中で双方中止)
さて、別冊で今日のランチ記事を更新しました。
石岡の路地で見つけたお寿司屋さん「大石屋」さんの寿司ランチ700円です。(別冊記事はこちら)

これからは別冊の更新をこちらでもお知らせします。
騰波ノ江駅からは一端北に行ってから線路を渡ってこなければならないが、ここにこんな古い南北朝時代の広大な城跡がある。
詳細に巡って見なければ遺構の詳細はわからないが、この関館の道路の両側に広がっているようだ。
特に何があるわけではないが専用の大きな駐車場も整備されている。

通りの名前は「関城通り」。 写真の左側が駐車場(ただの広い空地)。

駐車場の近くにあった案内地図。
関城通りは「現在地」から上下(北南)に走る。
現在地から東側にある赤印部分は「坑道の入口」(後ろの方に載せています)

「関城跡」の石碑は南に行った地図の緑色の場所。

関城跡(国指定史跡) 現地説明板:
(研究学園都市と民族文化ライン)
「関城はかって南北朝対立争乱の時代 小田城などとともに常陸国内宮方、南朝方の拠点として知られる史跡です。
今、関館8.5ヘクタールの城には当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主関宗祐、宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓があります。
ここは東西南の三方が大宝沼にかこまれ、北に壕を掘り前面大宝沼のかなたに友軍の城、下妻城を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かつて南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような景勝の地でもあります。
この城には興国2年(1341)小田城から移った北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史の本「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名です。」

関宗祐の墓

道路の西側はこんもりした林。
民家の間を通って奥に進む。

小山の上に小さなお宮が一つ。
まわりは見事な竹林。

奥に進めば城の遺構もわかるかもしれないが、進むことは断念。

最初に示した案内図の東側の赤いマークの場所の「坑道跡」がある。

坑道口の小山の上に昔の石碑が建っている。
いまは上ると崩れるので縄で中に入れないようにしている。

これが坑道口。
日本三坑道の一つだと言う。
南朝方のこの関城を攻めた北朝方が掘ったものという。

しかし城の中からもまた外に向かって坑道を掘ったという。
坑道も幅1mで高さが2mという結構大きなもの。枠もなく掘り進めたようだ。(途中で双方中止)
さて、別冊で今日のランチ記事を更新しました。
石岡の路地で見つけたお寿司屋さん「大石屋」さんの寿司ランチ700円です。(別冊記事はこちら)

これからは別冊の更新をこちらでもお知らせします。
大宝城跡
下妻駅のすぐ北側はかなり古い地域で「大宝八幡宮」が有名です。
先日説明した「騰波ノ江駅」と「下妻駅」の中間に「大宝駅」があります。
この大宝八幡宮のある地域に昔の「大宝城跡」と呼ばれる場所があり、国の史跡に指定されています。
この指定範囲は関城も含む範囲をまとめて指定してあるものだそうです。
大宝八幡宮の一之鳥居の場所にある森にこの史跡が森林として保存されています。
隣りには大宝幼稚園、大宝小学校があります。

大宝八幡宮から南に延びた長い参道(350mくらい)の入り口鳥居と信号。

このこんもりした森が城跡の遺構とされていますが、恐らく八幡宮の敷地辺り一帯にこの大宝(だいほう)城があったものと思われます。
この城も南北朝の頃の城(下妻氏)です。

貞永元年(1232)下妻長政によって築かれ、南北朝時代に、城主下妻政泰は北畠親房に呼応して南朝方として挙兵した。
興国2年(1341)に北条城にいた北畠親房は昨日紹介した関城に移った。
しかし足利尊氏派の北朝勢(高師冬ら)により、関城との連絡も立たれ、興国4年(1343)に関城とともに落城した。

南朝方の関東における主要な城は「常陸国関城」「常陸国真壁城」「常陸国大宝城」「常陸国伊佐城」「常陸国中郡城」「下野国西明寺城」などがあります。
そういえば真壁城も広大な空き地が国の指定史跡となり整備が進んでいた。

さて小田城であるが、小田治久が北朝方に離反したことにより、北畠親房が関城に、春日顕国がこの大宝城に移った。
この当時この近くには「大宝沼」という大きな沼があった。
この沼の北側の端に関城があり、南橋にこの大宝城があったようだ。
そのため沼で片側を守ることができ、かなり守るに堅い城だった。

まあそれにしても天皇家が2つに分かれてしまった南北朝時代だが、この常陸や下野の武将たちも有利となれば乗り換えたりしたのでどちらがどちらだったのかなどと単純に考えられない。
全く複雑だ。
先日説明した「騰波ノ江駅」と「下妻駅」の中間に「大宝駅」があります。
この大宝八幡宮のある地域に昔の「大宝城跡」と呼ばれる場所があり、国の史跡に指定されています。
この指定範囲は関城も含む範囲をまとめて指定してあるものだそうです。
大宝八幡宮の一之鳥居の場所にある森にこの史跡が森林として保存されています。
隣りには大宝幼稚園、大宝小学校があります。

大宝八幡宮から南に延びた長い参道(350mくらい)の入り口鳥居と信号。

このこんもりした森が城跡の遺構とされていますが、恐らく八幡宮の敷地辺り一帯にこの大宝(だいほう)城があったものと思われます。
この城も南北朝の頃の城(下妻氏)です。

貞永元年(1232)下妻長政によって築かれ、南北朝時代に、城主下妻政泰は北畠親房に呼応して南朝方として挙兵した。
興国2年(1341)に北条城にいた北畠親房は昨日紹介した関城に移った。
しかし足利尊氏派の北朝勢(高師冬ら)により、関城との連絡も立たれ、興国4年(1343)に関城とともに落城した。

南朝方の関東における主要な城は「常陸国関城」「常陸国真壁城」「常陸国大宝城」「常陸国伊佐城」「常陸国中郡城」「下野国西明寺城」などがあります。
そういえば真壁城も広大な空き地が国の指定史跡となり整備が進んでいた。

さて小田城であるが、小田治久が北朝方に離反したことにより、北畠親房が関城に、春日顕国がこの大宝城に移った。
この当時この近くには「大宝沼」という大きな沼があった。
この沼の北側の端に関城があり、南橋にこの大宝城があったようだ。
そのため沼で片側を守ることができ、かなり守るに堅い城だった。

まあそれにしても天皇家が2つに分かれてしまった南北朝時代だが、この常陸や下野の武将たちも有利となれば乗り換えたりしたのでどちらがどちらだったのかなどと単純に考えられない。
全く複雑だ。
大宝八幡宮(1)
下妻はあまり今まで縁がなく出かけることもなかった。
砂沼サンビーチが昔から有名なくらいだが、ここまで泳ぎに来るなら海に行った方が近い。
しかし大宝(だいほう)に来たのだからかなり古いと言われる神社「大宝八幡宮」に参拝して行かねばならないだろう。
昨日の大宝城跡の碑のある一の鳥居から長い参道を進む。

途中に二の鳥居があり、その先に神社仁王門前に三の鳥居がある。

入り口横に大きく無料駐車場とある。
ここは名物団子の店「ゑびすや」さんの駐車場。
せっかく無料と書かれているので一番端の方に駐車させてもらった。
(帰りにはしっかりお店の呼び込みにあいましたが・・・・)

社伝によれば「大宝元年(701)、藤原時忠が筑紫の宇佐神宮を勧請創建したのが始まりです」とある。
このため大宝(だいほう)の名前がついたようだ。
この大宝八幡宮は関東に数多くある八幡宮では一番古いと言う。
宇佐神宮はもちろん大分県の八幡宮の総本山とされる神社だ。
また、平将門も戦勝祈願のために度々参拝し、この神社の巫女によって「新皇」の位を授けられたと伝えられているそうです。

(境内にある相撲場:毎年6月中旬に高砂部屋と錦戸部屋が稽古合宿を行う)
八幡宮というと源氏を中心とした武士集団の守り神ととらえられるのですが、もともと奥州討伐にむかった八幡太郎義家(源義家)の名前の通り、南無八幡大菩薩信仰は桓武平氏も清和源氏もともに信仰していた武士の神様だ。
祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)は「応仁天皇」のこととされている。

入口に立派な仁王門がある。
ここは神社だが、昔は神仏習合でいくつもの神宮寺((大宝八ヶ寺)があったそうです。
確かに仁王像が置かれていますが、神社の説明によれば「随身門」なのだそうです。
普通は右大臣、左大臣が置かれるのですが明らかに仁王様です。
この門は昭和天皇御座位六十年を記念して建てられたものですので比較的新しいものです。

向かって左側に奉納されている清酒「花の井」は真壁の酒屋さんです。


右側の清酒「一人娘(山中酒造)」「紬美人(野村醸造)」はともに石下の酒屋さんです。


(明日に続きます)
砂沼サンビーチが昔から有名なくらいだが、ここまで泳ぎに来るなら海に行った方が近い。
しかし大宝(だいほう)に来たのだからかなり古いと言われる神社「大宝八幡宮」に参拝して行かねばならないだろう。
昨日の大宝城跡の碑のある一の鳥居から長い参道を進む。

途中に二の鳥居があり、その先に神社仁王門前に三の鳥居がある。

入り口横に大きく無料駐車場とある。
ここは名物団子の店「ゑびすや」さんの駐車場。
せっかく無料と書かれているので一番端の方に駐車させてもらった。
(帰りにはしっかりお店の呼び込みにあいましたが・・・・)

社伝によれば「大宝元年(701)、藤原時忠が筑紫の宇佐神宮を勧請創建したのが始まりです」とある。
このため大宝(だいほう)の名前がついたようだ。
この大宝八幡宮は関東に数多くある八幡宮では一番古いと言う。
宇佐神宮はもちろん大分県の八幡宮の総本山とされる神社だ。
また、平将門も戦勝祈願のために度々参拝し、この神社の巫女によって「新皇」の位を授けられたと伝えられているそうです。

(境内にある相撲場:毎年6月中旬に高砂部屋と錦戸部屋が稽古合宿を行う)
八幡宮というと源氏を中心とした武士集団の守り神ととらえられるのですが、もともと奥州討伐にむかった八幡太郎義家(源義家)の名前の通り、南無八幡大菩薩信仰は桓武平氏も清和源氏もともに信仰していた武士の神様だ。
祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)は「応仁天皇」のこととされている。

入口に立派な仁王門がある。
ここは神社だが、昔は神仏習合でいくつもの神宮寺((大宝八ヶ寺)があったそうです。
確かに仁王像が置かれていますが、神社の説明によれば「随身門」なのだそうです。
普通は右大臣、左大臣が置かれるのですが明らかに仁王様です。
この門は昭和天皇御座位六十年を記念して建てられたものですので比較的新しいものです。

向かって左側に奉納されている清酒「花の井」は真壁の酒屋さんです。


右側の清酒「一人娘(山中酒造)」「紬美人(野村醸造)」はともに石下の酒屋さんです。


(明日に続きます)
大宝八幡宮(2)
下妻にある八幡宮としても関東最古といわれる大宝八幡宮の続きです。
今日はブログをまとめている時間が無くなりましたので写真と簡単な説明のみです。

仁王門(随神門)をくぐると、拝殿までの左右に狛犬がたくさん置かれています。

そして向かって右手の狛犬の裏にはたくさんの境内社が並んでいます。

狛犬も親子のものが多くあります。

拝殿です。


拝殿脇に置かれた狛犬には「平成狛犬」と書かれています。
説明書きには、別名「撫で狛犬」で、ご利益を得たいところを撫でると良いという説明がありました。
手書きの説明で良く見えませんでしたので撫でませんでした。

七福神像です。
まあ色々なものがありますが、今日はあまり元気がありません。
今までの2000件の記事の量は振り返って見るととてつもなく多いです。
大宝八幡ともう一つの古社「大生天満宮」を記事にまとめたいと思ったのですが、これもなかなか進みません。
二兎追うものは・・・・・

神社の東側にある門には「笑門」とあります。
右側の柱には正式な名称が書かれていました。
「蘇民将来子孫家門」が正式名なのですが、これを縮めると「将門」となって平将門になってしまうので「笑門」としたと。
しかし、「笑う門には福来る」でいいですよね。
伊勢地方などにはあるようですが、こちらの方ではほとんど見かけません。
しかし、この神社には将門の伝説があります。
将門が新皇を宣言したのは、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れて神託を受けたとされているが、この巫女はこの神社の巫女であると言われている。

今日はブログをまとめている時間が無くなりましたので写真と簡単な説明のみです。

仁王門(随神門)をくぐると、拝殿までの左右に狛犬がたくさん置かれています。

そして向かって右手の狛犬の裏にはたくさんの境内社が並んでいます。

狛犬も親子のものが多くあります。

拝殿です。


拝殿脇に置かれた狛犬には「平成狛犬」と書かれています。
説明書きには、別名「撫で狛犬」で、ご利益を得たいところを撫でると良いという説明がありました。
手書きの説明で良く見えませんでしたので撫でませんでした。

七福神像です。
まあ色々なものがありますが、今日はあまり元気がありません。
今までの2000件の記事の量は振り返って見るととてつもなく多いです。
大宝八幡ともう一つの古社「大生天満宮」を記事にまとめたいと思ったのですが、これもなかなか進みません。
二兎追うものは・・・・・

神社の東側にある門には「笑門」とあります。
右側の柱には正式な名称が書かれていました。
「蘇民将来子孫家門」が正式名なのですが、これを縮めると「将門」となって平将門になってしまうので「笑門」としたと。
しかし、「笑う門には福来る」でいいですよね。
伊勢地方などにはあるようですが、こちらの方ではほとんど見かけません。
しかし、この神社には将門の伝説があります。
将門が新皇を宣言したのは、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れて神託を受けたとされているが、この巫女はこの神社の巫女であると言われている。

大宝八幡宮(3)
今日は朝からパソコンの前で1日過ごしてしまった。
午前中は今までのブログのまとめで四苦八苦したが、こんな調子では何時まとまるかわからない。
午後からはちょっとパソコンでのアルバイトが入ってきた。
半日一生懸命やって見たが、これは年寄りのやる仕事ではない。
肩ばかり凝って、目は焦点が段々合わなくなってきた。
まだやっと四分の一しか終わらなかった。
まあ1週間くらい時間があるので手の空いた時にやっていこう。
アメリカに行っている息子から電話がきた。
今月末に任期を終えて帰ってくる。
まあ仕事場が名古屋だからこちらには9月半ばの休みまで来ないと・・・・。
向こうに行くと結構向こうが良くなるらしい。
またそのうちに行ってしまうのかもしれない。
まあ親が英語大嫌いなのに、子どもたちは何とか得意としているようだ。
そして、親元からは段々遠くなる。
世界も結構狭くなってきたものだ。
これも仕方のないこと。
まあこちらは残り少なくなってきたので、あとどこまで好きなことをやっていけるだろうか?
最近知り合いにガンの話も増えた。
今日も家内は「いわき」に行っていていない。
先ほど電話があり、向こうの方にいる知り合いがガンで明日見舞いに行くので近くの温泉にでも泊まるとか。
いわきの近くにも温泉施設があり泊まったりすることも可能だとか。
いわきに毎週行くのも、後1年くらい続けるのだろう。
私は、今日も疲れて時間が無くなってしまった。
大宝八幡宮の写真を載せて誤魔化すことにしよう。

境内社として「大宝天満宮」があった。
そして近くに太宰府天満宮の梅の木が奉納として植えられていた。

こちらは拝殿を横から見たもの。
こちらに「若宮八幡宮」が置かれていた。

若宮八幡宮は神社のHPには「源頼朝が奥州征伐を達成したのを期に、下河辺行平に命じ文治五年(1189)に勧請させた八幡宮。若宮様は第十六代仁徳天皇のことで、その父親が第十五代応神天皇八幡様です。御本殿には第十四代仲哀天皇をお祀りしているので、親・子・孫と三代続けてお祀りしていることになります。」
と書かれていた。
わが石岡にも若宮八幡宮がある。
かなり古いがよくわかっていない。

この若宮八幡様のお宮の後ろに馬が祀られていた。

こちらが本殿。

この本殿は国の有形文化財だ。
神社のHPには
「大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請創建されました。現在の建物は天正五年(1577)、下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建されたもの。再建当時の棟札墨書銘と擬宝珠刻銘も現存しており、貴重な史料となっております。建物は三間社流造で建ち上がりも高く、柱も太くてどっしりした重みを見せておりますが、それに比べて組物は小柄で複雑に組み合わされ、桃山時代の地方色が濃く表れています。屋根は萱葺きであったが、昭和40年に茅葺形銅板葺に改められました。天正期の地方的建築の有様を示す貴重な文化財として、国の重要文化財に指定されています。 」
と書かれている。



「神楽殿」
春と秋の例祭で、十二座神楽が奉納され、例祭と節分祭で、豆・餅・菓子などが撒かれる。
石岡の総社も似たようなことを行なっている。
まだ少し残ってしまったが、またの機会に載せることにしよう。
午前中は今までのブログのまとめで四苦八苦したが、こんな調子では何時まとまるかわからない。
午後からはちょっとパソコンでのアルバイトが入ってきた。
半日一生懸命やって見たが、これは年寄りのやる仕事ではない。
肩ばかり凝って、目は焦点が段々合わなくなってきた。
まだやっと四分の一しか終わらなかった。
まあ1週間くらい時間があるので手の空いた時にやっていこう。
アメリカに行っている息子から電話がきた。
今月末に任期を終えて帰ってくる。
まあ仕事場が名古屋だからこちらには9月半ばの休みまで来ないと・・・・。
向こうに行くと結構向こうが良くなるらしい。
またそのうちに行ってしまうのかもしれない。
まあ親が英語大嫌いなのに、子どもたちは何とか得意としているようだ。
そして、親元からは段々遠くなる。
世界も結構狭くなってきたものだ。
これも仕方のないこと。
まあこちらは残り少なくなってきたので、あとどこまで好きなことをやっていけるだろうか?
最近知り合いにガンの話も増えた。
今日も家内は「いわき」に行っていていない。
先ほど電話があり、向こうの方にいる知り合いがガンで明日見舞いに行くので近くの温泉にでも泊まるとか。
いわきの近くにも温泉施設があり泊まったりすることも可能だとか。
いわきに毎週行くのも、後1年くらい続けるのだろう。
私は、今日も疲れて時間が無くなってしまった。
大宝八幡宮の写真を載せて誤魔化すことにしよう。

境内社として「大宝天満宮」があった。
そして近くに太宰府天満宮の梅の木が奉納として植えられていた。

こちらは拝殿を横から見たもの。
こちらに「若宮八幡宮」が置かれていた。

若宮八幡宮は神社のHPには「源頼朝が奥州征伐を達成したのを期に、下河辺行平に命じ文治五年(1189)に勧請させた八幡宮。若宮様は第十六代仁徳天皇のことで、その父親が第十五代応神天皇八幡様です。御本殿には第十四代仲哀天皇をお祀りしているので、親・子・孫と三代続けてお祀りしていることになります。」
と書かれていた。
わが石岡にも若宮八幡宮がある。
かなり古いがよくわかっていない。

この若宮八幡様のお宮の後ろに馬が祀られていた。

こちらが本殿。

この本殿は国の有形文化財だ。
神社のHPには
「大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請創建されました。現在の建物は天正五年(1577)、下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建されたもの。再建当時の棟札墨書銘と擬宝珠刻銘も現存しており、貴重な史料となっております。建物は三間社流造で建ち上がりも高く、柱も太くてどっしりした重みを見せておりますが、それに比べて組物は小柄で複雑に組み合わされ、桃山時代の地方色が濃く表れています。屋根は萱葺きであったが、昭和40年に茅葺形銅板葺に改められました。天正期の地方的建築の有様を示す貴重な文化財として、国の重要文化財に指定されています。 」
と書かれている。



「神楽殿」
春と秋の例祭で、十二座神楽が奉納され、例祭と節分祭で、豆・餅・菓子などが撒かれる。
石岡の総社も似たようなことを行なっている。
まだ少し残ってしまったが、またの機会に載せることにしよう。
大宝八幡宮(4)
関東で一番古いと言う下妻にある大宝八幡宮。
この八幡宮は宇佐八幡宮を勧請したと言われているが、もう少し調べて見ると面白そうなところだ。
平将門の新皇をこの宮の巫女により授けられたともいわれ、鎌倉時代には「下妻宮」とも表記された。
徳川家康の御朱印百十五石というのもかなり多い。
それに徳川からの代々の朱印状が全て残されていると言う。
なぜこの地(鳥羽の淡海)に置かれたのか?
いろいろ考えなければならないことが多い。
今は時間もないので単なる材料だしだけだ。

この場所が「新治の鳥羽の淡海」に近い場所なので、高橋虫麻呂が筑波山の上から眺めて詠んだ例の歌が載った石碑がおかれている。

そして隣りには「なんじゃもんじゃの木」が植えられていた。
私は香取の西側にある「神崎(こうざき)神社のなんじゃもんじゃの木しか知らなかったが、最近はこちらの神宮外苑にもある「ヒトツバタゴ」の方が有名になってきたようだ。
しかし、一度神崎神社に行って大きなクスの木「なんじゃもんじゃ」も是非見ていただきたい。
霞ケ浦から利根川を通って江戸との船運が栄えた時、この神崎の森の木が目印になった。
(こちらの木は前に書いたブログ(神崎神社2)などを参照ください。
「ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ」
が有名ですが、石岡の八郷地区の太田の善光寺に残る盆踊り唄
「此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐棲む
棲むや白狐 我も二三度騙された」
などというものもあった。
ブログも5年も記事をかき集めていると、いろいろなことが思い出される。



御神木「おがたま(招霊)」だそうだ。 おがたまの木は鎮守の木だそうだ。
近くに大きな御釜が置かれていたが何の意味があるのか。もう少し調べたい。


神社なのに「鐘楼」がある。
これも神仏習合の名残であろうか。
説明は下の立て看板。

ここには岩槻市(現財はさいたま市岩槻区)となっているが、私のイメージでは平林寺と言えば野火止(新座市)平林寺だ。
平林寺は永和元年(1375年)に岩槻に創建され、寛文3年(1663年)に現在の野火止に移された。
今、岩槻には地名として「平林寺」が残されている。

「お乳銀杏」
今日も雑多に並べてしまった。
北朝鮮と韓国が不穏な動き。
戦争は一人おかしな指導者がいれば何時勃発してもおかしくない。
明日は銚子に行く。
この八幡宮は宇佐八幡宮を勧請したと言われているが、もう少し調べて見ると面白そうなところだ。
平将門の新皇をこの宮の巫女により授けられたともいわれ、鎌倉時代には「下妻宮」とも表記された。
徳川家康の御朱印百十五石というのもかなり多い。
それに徳川からの代々の朱印状が全て残されていると言う。
なぜこの地(鳥羽の淡海)に置かれたのか?
いろいろ考えなければならないことが多い。
今は時間もないので単なる材料だしだけだ。

この場所が「新治の鳥羽の淡海」に近い場所なので、高橋虫麻呂が筑波山の上から眺めて詠んだ例の歌が載った石碑がおかれている。

そして隣りには「なんじゃもんじゃの木」が植えられていた。
私は香取の西側にある「神崎(こうざき)神社のなんじゃもんじゃの木しか知らなかったが、最近はこちらの神宮外苑にもある「ヒトツバタゴ」の方が有名になってきたようだ。
しかし、一度神崎神社に行って大きなクスの木「なんじゃもんじゃ」も是非見ていただきたい。
霞ケ浦から利根川を通って江戸との船運が栄えた時、この神崎の森の木が目印になった。
(こちらの木は前に書いたブログ(神崎神社2)などを参照ください。
「ここは神崎 森の下 梶をよくとれ船頭どのよ
主の心と神崎の森 ナンジャモンジャで気が知れぬ」
が有名ですが、石岡の八郷地区の太田の善光寺に残る盆踊り唄
「此処は何処だよ船頭さん 此処は神崎森の下 森の下には狐棲む
棲むや白狐 我も二三度騙された」
などというものもあった。
ブログも5年も記事をかき集めていると、いろいろなことが思い出される。



御神木「おがたま(招霊)」だそうだ。 おがたまの木は鎮守の木だそうだ。
近くに大きな御釜が置かれていたが何の意味があるのか。もう少し調べたい。


神社なのに「鐘楼」がある。
これも神仏習合の名残であろうか。
説明は下の立て看板。

ここには岩槻市(現財はさいたま市岩槻区)となっているが、私のイメージでは平林寺と言えば野火止(新座市)平林寺だ。
平林寺は永和元年(1375年)に岩槻に創建され、寛文3年(1663年)に現在の野火止に移された。
今、岩槻には地名として「平林寺」が残されている。

「お乳銀杏」
今日も雑多に並べてしまった。
北朝鮮と韓国が不穏な動き。
戦争は一人おかしな指導者がいれば何時勃発してもおかしくない。
明日は銚子に行く。
大生天満宮(1)
昨日車で出かけている時にいくつも田園地帯を通りました。
稲の穂が黄金色に輝いてきているのに驚かされました。 わあ~ きれいだな~ と。
そしてもう一部で刈り取りが始まっていました。 もう8月も終わりなりますね。
今日は昨日までの下妻より鬼怒川沿いに10kmほど南下して、旧水海道(みつかいどう)市(現常総市)大生郷に鎮座する「大生天満宮」を紹介します。
この辺りを見て回るにはまずこの2つ(大宝八幡宮、大生天満宮)を抜きにしてはまわりが見えてこないと思っている。
大宝八幡宮を関東で一番古い八幡宮と言うならば、こちらの大生天満宮は?
天満宮なのでここは学問の神様「菅原道真」を祀る。
そして日本で三か所しかない道真の遺骨が納められていると言われている。
つくば方面からは鬼怒川を渡る必要があるが、地図(一番下)を見てもらえば分かるが、ここの地名は大生(おおう)郷といい元は菅原村大生郷といった。
そしてこの神社も「菅原天満宮」とも呼ばれていた。

神社へは裏手から上ってきてしまったが、こちらが入口らしい。 入口鳥居の前も田圃が広がっています。

石段を上って、上に鳥居があり正面に天満宮の拝殿があります。

牛の像がここもあります。
二月の初午と関係するのか?
調べて見ると天満宮は菅原道真公をおまつりしているため、牛とはゆかりが深いのだとか。
生まれが承和12(845)乙丑6月25日なので、「丑年」、また延喜3年( 903)2月25日の「丑の日」に薨去されたのだとか。
その他数々のいわれがあり天満宮に牛の像をおくようになったという。

ここはやはり学問の神様ですので、受験のお願いに訪れる人が多いのでしょう。

やはりここにも「さざれ石」

これは菅原家の家紋「梅鉢」。
最近エンブレムのデザインが盗作疑惑などという報道が多くなされていますが、日本の家紋などに似たデザインなど山ほどあると思う。
どこまでがオリジナリティがあるかということだろうから、単に形が似ているなどというだけでは盗作というには的外れと思える者も多い。
芸術的に見てあの「泳ぐ人と影」のようなものは確かにアウトだが。

梅の木も確かに多いが、太宰府天満宮はきれいだった。(参考記事:こちら)




(明日に続きます)
稲の穂が黄金色に輝いてきているのに驚かされました。 わあ~ きれいだな~ と。
そしてもう一部で刈り取りが始まっていました。 もう8月も終わりなりますね。
今日は昨日までの下妻より鬼怒川沿いに10kmほど南下して、旧水海道(みつかいどう)市(現常総市)大生郷に鎮座する「大生天満宮」を紹介します。
この辺りを見て回るにはまずこの2つ(大宝八幡宮、大生天満宮)を抜きにしてはまわりが見えてこないと思っている。
大宝八幡宮を関東で一番古い八幡宮と言うならば、こちらの大生天満宮は?
天満宮なのでここは学問の神様「菅原道真」を祀る。
そして日本で三か所しかない道真の遺骨が納められていると言われている。
つくば方面からは鬼怒川を渡る必要があるが、地図(一番下)を見てもらえば分かるが、ここの地名は大生(おおう)郷といい元は菅原村大生郷といった。
そしてこの神社も「菅原天満宮」とも呼ばれていた。

神社へは裏手から上ってきてしまったが、こちらが入口らしい。 入口鳥居の前も田圃が広がっています。

石段を上って、上に鳥居があり正面に天満宮の拝殿があります。

牛の像がここもあります。
二月の初午と関係するのか?
調べて見ると天満宮は菅原道真公をおまつりしているため、牛とはゆかりが深いのだとか。
生まれが承和12(845)乙丑6月25日なので、「丑年」、また延喜3年( 903)2月25日の「丑の日」に薨去されたのだとか。
その他数々のいわれがあり天満宮に牛の像をおくようになったという。

ここはやはり学問の神様ですので、受験のお願いに訪れる人が多いのでしょう。

やはりここにも「さざれ石」

これは菅原家の家紋「梅鉢」。
最近エンブレムのデザインが盗作疑惑などという報道が多くなされていますが、日本の家紋などに似たデザインなど山ほどあると思う。
どこまでがオリジナリティがあるかということだろうから、単に形が似ているなどというだけでは盗作というには的外れと思える者も多い。
芸術的に見てあの「泳ぐ人と影」のようなものは確かにアウトだが。

梅の木も確かに多いが、太宰府天満宮はきれいだった。(参考記事:こちら)




(明日に続きます)
大生天満宮(2)
大生八幡宮の続きです。
大生郷天満宮の裏に回って菅原道真公の御廟に向かいます。

こちらが本殿です。
見た目は新しいですね。
大正8年に歌詞により焼失して建てなおしたものだと言います。
その前に建っていた本殿は天正4年(1576年)に兵火で焼失して再建されたと言われています。

御廟にはこの神社の山から一端下りてとなりの小山に置かれています。

下は蓮池などのある広場になっていて、写真の森が大生天満宮の山です。

通りを挟んで菅原道真公の御廟が建てられ地ます。
さてどうもこちらも新しそうです。
私も今まで神社に遺骨の一部が埋められているとばかり思っていましたので、こうして別に御廟が建てられているとは思いませんでした。
この遺骨のいきさつはまた明日にでも載せたいと思います。

こちらが御廟です。
なにしろ菅原道真が大宰府で亡くなったのははるか昔の903年です。
九州大宰府にもこんな御廟は無かったような・・・・。
でも太宰府天満宮はもともとお墓があって、そこにいろいろな堂宇が建てられた者のようですから、天満宮そのものが御廟ともいえそうです。

御廟の麓にはハス池があります。

それにしてもまわりは静かな場所です。
ここに来る道も比較的狭くてこんなところにあるのかという気がしました。
大生郷天満宮の裏に回って菅原道真公の御廟に向かいます。

こちらが本殿です。
見た目は新しいですね。
大正8年に歌詞により焼失して建てなおしたものだと言います。
その前に建っていた本殿は天正4年(1576年)に兵火で焼失して再建されたと言われています。

御廟にはこの神社の山から一端下りてとなりの小山に置かれています。

下は蓮池などのある広場になっていて、写真の森が大生天満宮の山です。

通りを挟んで菅原道真公の御廟が建てられ地ます。
さてどうもこちらも新しそうです。
私も今まで神社に遺骨の一部が埋められているとばかり思っていましたので、こうして別に御廟が建てられているとは思いませんでした。
この遺骨のいきさつはまた明日にでも載せたいと思います。

こちらが御廟です。
なにしろ菅原道真が大宰府で亡くなったのははるか昔の903年です。
九州大宰府にもこんな御廟は無かったような・・・・。
でも太宰府天満宮はもともとお墓があって、そこにいろいろな堂宇が建てられた者のようですから、天満宮そのものが御廟ともいえそうです。

御廟の麓にはハス池があります。

それにしてもまわりは静かな場所です。
ここに来る道も比較的狭くてこんなところにあるのかという気がしました。
大生天満宮(3)
大生天満宮の境内に昔の謂れを彫ったという石が置かれています。

「刀研石(かたなとぎいし)」と書かれた説明板が置かれています。

この石碑は、もともとこの天満宮の東北700m離れた、昔の表参道の入口「鳥居所」に置かれていたそうです。
そして「刀研石」と呼ばれ、この石で刀を研ぐと心願が成就すると言われたと書かれています。
この石碑が置かれたのがいつなのか。 この説明には「延長7年2月25日」の日が書かれていますが、この延長7年は西暦929年で、この大生郷に菅原神社を移した年といわれています。
そして石碑の彫られていた内容を明治44年に一部を解読したと言うの説明板に書かれたものです。
それは、この天満宮が真壁の羽鳥からこの地に移された経緯が書かれています。
常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行景兼茂景茂等相共移
従(筑波・霊地)下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩薩供養也
常陸介菅原景行所建也
菅原三郎景行五十四才也
菅原兼茂四十七才也
菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
延長七年二月二十五日
菅原道真の三男といわれている「菅原景行(かげつら)」は常陸の介として東国にやってきた。
そして、東国では「平良兼」がこの豊田郡の石下町あたりに屋敷を持っていました。
道真の大宰府左遷にともなって、三男菅原景行も駿河に左遷されていたのですが、放免されて今度は常陸の介に任命されて東国にやってきました。
この地では平良兼が面倒を見ていたようで、比較的近い真壁に菅原景行は館を建てます。
そして延長4年(926年)に景行は良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。
これが全国の天満宮の最初だと言われています。
その菅原神社(天満宮)を3年後の929年に下総国(豊田郡)大生郷に移したのがこの大生天満宮の始まりとされています。
(昔は下総国だったようです)
移した理由は? まずは墓を築き、それから最も良い場所を探していたと言うのが考えられることですが、正確なことはわかりません。
大生郷という名前からして何かがあるのでしょう。
以前、元鹿嶋といわれる「大生神社」を紹介しましたが、大生と言う名前には「多氏」という古い皇室系民族が関係していそうです。
何しろ1000年以上前のことになるとあまり残されているものが少なく、書きかえられたり、推測が多く加えられているのではっきりしたことが分かりません。
羽鳥地区の古墳についてはこちらの記事を参照してください。
(→ 真壁散歩(9)-羽鳥天神塚古墳)
1000年も昔の地形を考えると、この大生郷もまわりは大きな湖に囲まれたような場所だったのかもしれません。
筑波山を見るのにも良い風光明美な土地だったのではないかと思います。

「刀研石(かたなとぎいし)」と書かれた説明板が置かれています。

この石碑は、もともとこの天満宮の東北700m離れた、昔の表参道の入口「鳥居所」に置かれていたそうです。
そして「刀研石」と呼ばれ、この石で刀を研ぐと心願が成就すると言われたと書かれています。
この石碑が置かれたのがいつなのか。 この説明には「延長7年2月25日」の日が書かれていますが、この延長7年は西暦929年で、この大生郷に菅原神社を移した年といわれています。
そして石碑の彫られていた内容を明治44年に一部を解読したと言うの説明板に書かれたものです。
それは、この天満宮が真壁の羽鳥からこの地に移された経緯が書かれています。
常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行景兼茂景茂等相共移
従(筑波・霊地)下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩薩供養也
常陸介菅原景行所建也
菅原三郎景行五十四才也
菅原兼茂四十七才也
菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
延長七年二月二十五日
菅原道真の三男といわれている「菅原景行(かげつら)」は常陸の介として東国にやってきた。
そして、東国では「平良兼」がこの豊田郡の石下町あたりに屋敷を持っていました。
道真の大宰府左遷にともなって、三男菅原景行も駿河に左遷されていたのですが、放免されて今度は常陸の介に任命されて東国にやってきました。
この地では平良兼が面倒を見ていたようで、比較的近い真壁に菅原景行は館を建てます。
そして延長4年(926年)に景行は良兼の力を借りてこの羽鳥の地に「菅原天満宮」を建て、この羽鳥天神塚古墳に道真の遺骨を埋葬したのです。
これが全国の天満宮の最初だと言われています。
その菅原神社(天満宮)を3年後の929年に下総国(豊田郡)大生郷に移したのがこの大生天満宮の始まりとされています。
(昔は下総国だったようです)
移した理由は? まずは墓を築き、それから最も良い場所を探していたと言うのが考えられることですが、正確なことはわかりません。
大生郷という名前からして何かがあるのでしょう。
以前、元鹿嶋といわれる「大生神社」を紹介しましたが、大生と言う名前には「多氏」という古い皇室系民族が関係していそうです。
何しろ1000年以上前のことになるとあまり残されているものが少なく、書きかえられたり、推測が多く加えられているのではっきりしたことが分かりません。
羽鳥地区の古墳についてはこちらの記事を参照してください。
(→ 真壁散歩(9)-羽鳥天神塚古墳)
1000年も昔の地形を考えると、この大生郷もまわりは大きな湖に囲まれたような場所だったのかもしれません。
筑波山を見るのにも良い風光明美な土地だったのではないかと思います。
延命寺(将門菩提寺)
今でも平将門は人気があり、この大生天満宮の近くに将門関係の史跡が点在している。
大生天満宮から少し車を走らせたら「将門菩提寺」(坂東市岩井)という寺を発見した。
探していったわけではないが、狭い道を適当には走っていたらあらわれた。
比較的わかりにくい場所にあるのではないかと思う。

真言宗豊山派医王山金剛院延命寺
この山門は趣があります。
文安年(1445)に本堂や薬師堂、山門が建立されたが、焼けてしまい当時のものとしてはこの山門だけが残ったと言う。
山門やその先の石の太鼓橋は市の重要文化財だそうです。

「光明真言供養」と彫られています。文政二年(1819)四月建立とのこと。


なかなか面白そうなことが書かれていますね。
あまり将門を追いかけるつもりもありませんので、興味のある人は読んでください。
天慶の将門の乱の時に寺も焼かれたが、この本尊の薬師如来は難を逃れたと言われており、「島の薬師」として親しまれていると言う。
寺の本尊は大日如来座像でこれは県の重要文化財だと書かれています。

この石の太鼓橋も市の重要文化財です。

この朱塗りの建物が薬師堂です。
この堂内に薬師如来像が厨子の中に安置されています。
一説では行基の作で、将門の守り本尊だった言われています。

4月8日に縁日があり、この日はかなりにぎわったのだそうです。
1445年に寺を再建した相馬氏は将門の子孫だと自称しており真偽のほどは良くわかりません。。


この寺の前の道を西に進むと将門ゆかりの「国王神社」はすぐです。
国王神社の前を車で通りましたが、道路工事中でもあり今回は素通りしました。
大生天満宮から少し車を走らせたら「将門菩提寺」(坂東市岩井)という寺を発見した。
探していったわけではないが、狭い道を適当には走っていたらあらわれた。
比較的わかりにくい場所にあるのではないかと思う。

真言宗豊山派医王山金剛院延命寺
この山門は趣があります。
文安年(1445)に本堂や薬師堂、山門が建立されたが、焼けてしまい当時のものとしてはこの山門だけが残ったと言う。
山門やその先の石の太鼓橋は市の重要文化財だそうです。

「光明真言供養」と彫られています。文政二年(1819)四月建立とのこと。


なかなか面白そうなことが書かれていますね。
あまり将門を追いかけるつもりもありませんので、興味のある人は読んでください。
天慶の将門の乱の時に寺も焼かれたが、この本尊の薬師如来は難を逃れたと言われており、「島の薬師」として親しまれていると言う。
寺の本尊は大日如来座像でこれは県の重要文化財だと書かれています。

この石の太鼓橋も市の重要文化財です。

この朱塗りの建物が薬師堂です。
この堂内に薬師如来像が厨子の中に安置されています。
一説では行基の作で、将門の守り本尊だった言われています。

4月8日に縁日があり、この日はかなりにぎわったのだそうです。
1445年に寺を再建した相馬氏は将門の子孫だと自称しており真偽のほどは良くわかりません。。


この寺の前の道を西に進むと将門ゆかりの「国王神社」はすぐです。
国王神社の前を車で通りましたが、道路工事中でもあり今回は素通りしました。
下妻について
大宝八幡宮のある下妻市大宝から南下して大生天満宮常総市大生郷までの地形を眺めて見た。
今では平野には豊かな黄金色の穂が輝いているが、この場所は小貝川と鬼怒川が間隔を狭くして蛇行しながら流れている。
また利根川も少し西を流れている。
太古の昔にはこの辺りの川は入り乱れて流れの方向も変化していたようだ。
地図に「大宝八幡宮」と「大生天満宮」の場所を示した。
すると、大宝には「上妻」「下妻」、大生近くには「三妻」「中妻」と妻という字の付く地名が立てに並ぶ。
これはなかなか面白い。どういうことなのか?
下妻市をWikipediaで見ると、地名の由来については
「935年(承平5年)の『和名抄』に「しもつま」として記されているのが、史料初見とされている。
現在の市名「下妻」と書き記すようになったのは、おおむね鎌倉時代以降といわれている。」
と書かれている。
これについてはいくつかの解釈がなされているようだが、地図を見ながら考えていたらやはりこの沼や池などの湿地と関係があるように思えてきた。
こういった解釈はいくらでもできるが、「妻」は漢字で考えるとわからなくなる。
「つま」と昔は書いていたはずなので、アイヌ語(縄文語)由来かもしれない。
でも女性の「妻」のことは「マツ」と言うらしいので、ひっくり返せばツマになる。
しかし、つ=津といえばアイヌ語でも湊です。
では「ま」は? 沼や湖はトー というようなので・・・・
しいていえば少し狭くなった谷の様な地形かもしれないが、やはり湊といった意味合いがあったのかもしれない。
「つま」も単に沼を意味する程度かもしれない。
しかしカミナリのことを何故「稲妻」というのか? 関係はあるのか?
郵便番号で「下妻」引くと、ここの他は「福岡県筑後市下妻」「宮崎県西都市下妻」の2か所。
「上妻」はというと郵便番号地名では今は残っていない。しかし福岡県筑後市には旧地名にはある。
大生郷近くには「三妻」と「中妻」がある。
同じように郵便番号住所を検索して見ると「岩手県釜石市中妻町」「福島県南会津郡下郷町中妻」「茨城県常総市中妻町」
「茨城県北茨城市華川町中妻」「茨城県つくば市北中妻、南中妻」「埼玉県上尾市中妻」「埼玉県久喜市中妻」
「新潟県新発田市中妻」「宮崎県西都市中妻」などとたくさん出てくる。
三妻(みつま)は一個所もない。
それぞれに意味合いは違っているかもしれないが、地形的に見れば昔は幾つも大きな海のような湖などがあったことが関係していることがうかがえる。
下妻の南は現在国道125号線が走っているがここには大昔「古鬼怒川」が東西に流れていたと言う。
何かそのような地形が関係した地名だとは思う。
これは、あくまでこれからいろいろなものを見ていく時の参考程度に作成した地図だからメモ程度に残しておくだけです。
九州の福岡県筑後市八女地方にも上妻、下妻という地名があるようですが、関連性が少し気になります。
ただしこちらの「上妻」は「こ う づ ま」と読む。茨城は「かみつま」と読みます。
やはりこの「妻」が多い地域に興味を覚える人が多いようで、ネットでもいろいろなご意見があった。

今では平野には豊かな黄金色の穂が輝いているが、この場所は小貝川と鬼怒川が間隔を狭くして蛇行しながら流れている。
また利根川も少し西を流れている。
太古の昔にはこの辺りの川は入り乱れて流れの方向も変化していたようだ。
地図に「大宝八幡宮」と「大生天満宮」の場所を示した。
すると、大宝には「上妻」「下妻」、大生近くには「三妻」「中妻」と妻という字の付く地名が立てに並ぶ。
これはなかなか面白い。どういうことなのか?
下妻市をWikipediaで見ると、地名の由来については
「935年(承平5年)の『和名抄』に「しもつま」として記されているのが、史料初見とされている。
現在の市名「下妻」と書き記すようになったのは、おおむね鎌倉時代以降といわれている。」
と書かれている。
これについてはいくつかの解釈がなされているようだが、地図を見ながら考えていたらやはりこの沼や池などの湿地と関係があるように思えてきた。
こういった解釈はいくらでもできるが、「妻」は漢字で考えるとわからなくなる。
「つま」と昔は書いていたはずなので、アイヌ語(縄文語)由来かもしれない。
でも女性の「妻」のことは「マツ」と言うらしいので、ひっくり返せばツマになる。
しかし、つ=津といえばアイヌ語でも湊です。
では「ま」は? 沼や湖はトー というようなので・・・・
しいていえば少し狭くなった谷の様な地形かもしれないが、やはり湊といった意味合いがあったのかもしれない。
「つま」も単に沼を意味する程度かもしれない。
しかしカミナリのことを何故「稲妻」というのか? 関係はあるのか?
郵便番号で「下妻」引くと、ここの他は「福岡県筑後市下妻」「宮崎県西都市下妻」の2か所。
「上妻」はというと郵便番号地名では今は残っていない。しかし福岡県筑後市には旧地名にはある。
大生郷近くには「三妻」と「中妻」がある。
同じように郵便番号住所を検索して見ると「岩手県釜石市中妻町」「福島県南会津郡下郷町中妻」「茨城県常総市中妻町」
「茨城県北茨城市華川町中妻」「茨城県つくば市北中妻、南中妻」「埼玉県上尾市中妻」「埼玉県久喜市中妻」
「新潟県新発田市中妻」「宮崎県西都市中妻」などとたくさん出てくる。
三妻(みつま)は一個所もない。
それぞれに意味合いは違っているかもしれないが、地形的に見れば昔は幾つも大きな海のような湖などがあったことが関係していることがうかがえる。
下妻の南は現在国道125号線が走っているがここには大昔「古鬼怒川」が東西に流れていたと言う。
何かそのような地形が関係した地名だとは思う。
これは、あくまでこれからいろいろなものを見ていく時の参考程度に作成した地図だからメモ程度に残しておくだけです。
九州の福岡県筑後市八女地方にも上妻、下妻という地名があるようですが、関連性が少し気になります。
ただしこちらの「上妻」は「こ う づ ま」と読む。茨城は「かみつま」と読みます。
やはりこの「妻」が多い地域に興味を覚える人が多いようで、ネットでもいろいろなご意見があった。

自性院(坂東市岩井)
将門ゆかりの史跡が多く残っている岩井地区だが、気になる寺があったので立ち寄ることにした。
真言宗智山派「自性院」という。旧岩井市馬立(またて)という場所にある。
岩井市は猿島町と合併して坂東市となった。
この辺りは道がわかりにくい。
緑が多くとてもきれいな寺だ。
関東八十八所の四十番札所。 猿島(さしま)坂東観音霊場第二十六番の札所

創建ははっきりせず、記録によると永正13年(1516)に山城国より来た安智和尚が中興開山した。
この山門は明治時代に焼失したが、中興開山五百年と第二十五回観音開帳を記念して平成二十年に再建されたもの。

なかなかどっしりした本堂だ。
ここは末寺を数多く有し、壇林所としての学問所でもあった。

本堂は、江戸時代末期の文化13年(1816)に再建された。

六地蔵も寺にマッチしている。

観音堂

大師堂。
弘法大師を祀る。

大師像

この寺のご本尊は「不動明王」だという。

このお寺の山号は「亀寿山 寿亀山」なので、この屋根の鬼瓦は「亀」と「寿」であった。
猿島観音霊場は12年に1度(巳年春)の御開帳だという。
このようなところにかなりどっしりとして緑豊かな寺があったとは・・・・。
歴史的なものは良く調べてみなければわからない。
真言宗智山派「自性院」という。旧岩井市馬立(またて)という場所にある。
岩井市は猿島町と合併して坂東市となった。
この辺りは道がわかりにくい。
緑が多くとてもきれいな寺だ。
関東八十八所の四十番札所。 猿島(さしま)坂東観音霊場第二十六番の札所

創建ははっきりせず、記録によると永正13年(1516)に山城国より来た安智和尚が中興開山した。
この山門は明治時代に焼失したが、中興開山五百年と第二十五回観音開帳を記念して平成二十年に再建されたもの。

なかなかどっしりした本堂だ。
ここは末寺を数多く有し、壇林所としての学問所でもあった。

本堂は、江戸時代末期の文化13年(1816)に再建された。

六地蔵も寺にマッチしている。

観音堂

大師堂。
弘法大師を祀る。

大師像

この寺のご本尊は「不動明王」だという。

このお寺の山号は「
猿島観音霊場は12年に1度(巳年春)の御開帳だという。
このようなところにかなりどっしりとして緑豊かな寺があったとは・・・・。
歴史的なものは良く調べてみなければわからない。
坂野家住宅-国指定文化財
大生天満宮の手前に坂野家住宅という国指定重要文化財がある。
前からその存在は知っていて、パンフレットなどをいただいたこともあるが単なる昔の旧家だと思っていた。
しかしここは大分違った。
とても大きな敷地で、家の周りも緑が多く映画などの撮影としても時々利用されると言う。
百聞は一見にしかずである。

道路上に「坂野家住宅」の看板と大きめの駐車場がある。

この駐車場の位置から広い敷地内の庭へ下っていく。
説明板には「坂野家はこの土地に土着してから500年ほどになるといわれ、江戸時代には惣名主的な存在にあり、・・・・・・
「坂野家住宅」は、おおむね江戸中期に形づくられ、その後増改築を経て現在に至っています。・・・・」
と書かれています。
この住宅の外庭園も見事であり、国の指定を受けてその保存・整備にかなりの力を注いでいることがよくわかる。


美しい竹林が続きます。
こんなところでのロケもいいですね。

庭園にあった東屋~外を眺めました。

薬医門形式の表門。
この門から中は「水海道(みつかいどう)風土博物館」を兼ねており、有料施設(大人300円)になります。
ただし、私のような65歳以上の人は無料です。

では門を入って表玄関に参りましょう。
受け付けは母屋の中です。
明日に続きます。
前からその存在は知っていて、パンフレットなどをいただいたこともあるが単なる昔の旧家だと思っていた。
しかしここは大分違った。
とても大きな敷地で、家の周りも緑が多く映画などの撮影としても時々利用されると言う。
百聞は一見にしかずである。

道路上に「坂野家住宅」の看板と大きめの駐車場がある。

この駐車場の位置から広い敷地内の庭へ下っていく。
説明板には「坂野家はこの土地に土着してから500年ほどになるといわれ、江戸時代には惣名主的な存在にあり、・・・・・・
「坂野家住宅」は、おおむね江戸中期に形づくられ、その後増改築を経て現在に至っています。・・・・」
と書かれています。
この住宅の外庭園も見事であり、国の指定を受けてその保存・整備にかなりの力を注いでいることがよくわかる。


美しい竹林が続きます。
こんなところでのロケもいいですね。

庭園にあった東屋~外を眺めました。

薬医門形式の表門。
この門から中は「水海道(みつかいどう)風土博物館」を兼ねており、有料施設(大人300円)になります。
ただし、私のような65歳以上の人は無料です。

では門を入って表玄関に参りましょう。
受け付けは母屋の中です。
明日に続きます。
坂野家住宅(2)
今日は久しぶりに夏の暑さが少しだけ戻ってきました。
本格的な暑さではありませんがやはり夏ですから・・・・。
五輪エンブレムの盗用疑惑でとうとう辞退に追い込まれましたね。
ネットやメディアも何か見つけてはよろこんで攻め立てる。
いやなものですね。
エンブレムなどというのもよくわかりませんが、デザインはきっとどこか似てくるものは探せばあるでしょうね。
日本の家紋などはこれだけ種類がありなんとか区別ができるのだからたいしたものです。
デザイン性を形がどこか似ているとかいって騒ぐ人はデザインの評価はできないように思います。
似ていてもそこに違った価値観を感じさせるものであればそれでいいのではないかと思うのですが・・・。
最後まで選んだ根拠を示してそこデザインが持つ価値が違うことを主張すればよかったのではないかと思います。
あらさがしのように過去の作品を探して暴く。
確かに盗作に近いものもありましたが、今回のデザインが盗作であるとは思いません。
こんなことがこれからも続くのでしょうね。
さて、親類に不幸があり明日・明後日と出かけます。
ブログの更新を家でしかやっていないので適当な記事を予約でいれておきたいと思います。
今日は、 国の重要文化財に指定されている旧水海道にある「坂野家住宅」の続きです。

この住宅はこれだけの敷地に家屋もかなり広いです。

外庭も手入れがされて素晴らしいですが、内庭もきれいです。

母屋の表玄関は土間になっていて、入口に係りの人がおります。
料金を払う人はここで払ってすぐにビヂオで住宅の案内が流されます。
たった一人でしかも無料の人間に対しても親切のして下さいました。

土間には囲炉裏があり、屋根はこんな感じです。
当然、茅葺屋根から煙が抜けるようになっています。


靴を脱いで部屋の中に入ります。
幾つも部屋があり良くわからなくなりました。
写真が多くなったので適当に並べます。




1階の奥にトイレが2つ、風呂場が1つ。 また少し別な方角に別なトイレがあります。
この家はかなり継ぎ足して部屋を増築したように思います。
明日もう少し残りを載せます。
本格的な暑さではありませんがやはり夏ですから・・・・。
五輪エンブレムの盗用疑惑でとうとう辞退に追い込まれましたね。
ネットやメディアも何か見つけてはよろこんで攻め立てる。
いやなものですね。
エンブレムなどというのもよくわかりませんが、デザインはきっとどこか似てくるものは探せばあるでしょうね。
日本の家紋などはこれだけ種類がありなんとか区別ができるのだからたいしたものです。
デザイン性を形がどこか似ているとかいって騒ぐ人はデザインの評価はできないように思います。
似ていてもそこに違った価値観を感じさせるものであればそれでいいのではないかと思うのですが・・・。
最後まで選んだ根拠を示してそこデザインが持つ価値が違うことを主張すればよかったのではないかと思います。
あらさがしのように過去の作品を探して暴く。
確かに盗作に近いものもありましたが、今回のデザインが盗作であるとは思いません。
こんなことがこれからも続くのでしょうね。
さて、親類に不幸があり明日・明後日と出かけます。
ブログの更新を家でしかやっていないので適当な記事を予約でいれておきたいと思います。
今日は、 国の重要文化財に指定されている旧水海道にある「坂野家住宅」の続きです。

この住宅はこれだけの敷地に家屋もかなり広いです。

外庭も手入れがされて素晴らしいですが、内庭もきれいです。

母屋の表玄関は土間になっていて、入口に係りの人がおります。
料金を払う人はここで払ってすぐにビヂオで住宅の案内が流されます。
たった一人でしかも無料の人間に対しても親切のして下さいました。

土間には囲炉裏があり、屋根はこんな感じです。
当然、茅葺屋根から煙が抜けるようになっています。


靴を脱いで部屋の中に入ります。
幾つも部屋があり良くわからなくなりました。
写真が多くなったので適当に並べます。




1階の奥にトイレが2つ、風呂場が1つ。 また少し別な方角に別なトイレがあります。
この家はかなり継ぎ足して部屋を増築したように思います。
明日もう少し残りを載せます。
坂野家住宅(3)
今日は午後から出かけます。
記事を早めにUPします。
帰りは明日の夜になります。
坂野家住宅の内部の様子です。ここは水海道(みつかいどう)風土博物館を兼ねています。

一階のかなり広い土間玄関から上に上がると、広間の奥に仏間、三の間、二の間、一の間と続きます。
今は土間の方から入りますが、こちらの部屋に外から入る玄関があります。


そして三の間、二の間は玄関側と内庭の両方が解放されていて一の間まで行くと、こちらは三面が窓側ですから内廊下もありかなり風通しと採光は良いと思います。
そしてこの渡り廊下を通って奥の書院に行けます。
書院も母屋と一体になってつながっています。
昔は分かれていたのかもしれません。

所運の和室は2部屋あります。

書院の奥に便所があります。昔の方式ですがある程度近年まで改築して使っていたものかもしれません。




途中に2階に上がる階段がありますが、少し後から増設したもののように思われます。



こちらは書院2階部分で、やはり座敷は2部屋あります。




下に下りると旧納戸と思われる場所に、映画のポスターなどの資料が幾つも展示されていました。
今でも、時々映画、ドラマなどの撮影に使われているようです。
記事を早めにUPします。
帰りは明日の夜になります。
坂野家住宅の内部の様子です。ここは水海道(みつかいどう)風土博物館を兼ねています。

一階のかなり広い土間玄関から上に上がると、広間の奥に仏間、三の間、二の間、一の間と続きます。
今は土間の方から入りますが、こちらの部屋に外から入る玄関があります。


そして三の間、二の間は玄関側と内庭の両方が解放されていて一の間まで行くと、こちらは三面が窓側ですから内廊下もありかなり風通しと採光は良いと思います。
そしてこの渡り廊下を通って奥の書院に行けます。
書院も母屋と一体になってつながっています。
昔は分かれていたのかもしれません。

所運の和室は2部屋あります。

書院の奥に便所があります。昔の方式ですがある程度近年まで改築して使っていたものかもしれません。




途中に2階に上がる階段がありますが、少し後から増設したもののように思われます。



こちらは書院2階部分で、やはり座敷は2部屋あります。




下に下りると旧納戸と思われる場所に、映画のポスターなどの資料が幾つも展示されていました。
今でも、時々映画、ドラマなどの撮影に使われているようです。
下館成田山 極楽寺
孫がやってきてにぎやかになりました。
また週末には二女が5月に生まれた赤ん坊を連れて神戸からきます。
息子の結婚式(24日)までこんな状態が続くのでしょう。
嬉しいような、自分の時間が取れずに悲しいような・・・・
もちろん嬉しいに決まっていますね。
ブログなどノンビリ書く余裕もなくとり、あえずは昔に(1カ月以上前)すこし書いていた記事をUPします。
下妻も今では筑西市になり、下妻が下妻市で残ったのに対し、市町村名から消えてしまった。
確かに筑波山の西になるには違いないが、下妻、下館と慣れ親しんだ名前がなくなると何処か歴史の流れが断ち切られたような気になる。
この下館の中心市街地の地名も「筑西市甲」「筑西市乙」「筑西市丙」などとなんとも味気ない。
下館もほとんど訪れる機会もなく知識も乏しいが、有名な陶芸家の「板谷波山」の記念館が市内にある。
ここを訪れてたきっかけは前に記事を書いた阿波忌部が建てたと言われている養蚕神社の「大桑神社」を訪れた時である。
もう1カ月ほど前になる。
この大桑神社が小森という地名で「蚕守」から来た名前で、こちらの下館には「養蚕」と名のつく施設も多い。
これは昔「養蚕村(こかいむら)」と言う村が存在し、地区の名前としても残り、養蚕(ようさん)小学校などの名前が今も健在だ。
小貝川が「蚕飼川」であったのは明らかだろう。
国道50号線を下館の市街地に入るところに「五行川」があり、この川を渡ると、「桜町」「金井町」「田町」などと町のつく名前の信号が並ぶ。(五行川は小貝川に下館の先で合流する)
このため、住所表記では甲、乙、丙などという味気ない名前にこの町の名前を冠して呼んだりしているようだ。

この金井町に国道沿いに大きな寺あった。
入口に「天台宗極楽寺」と「下館成田山」の2つの石標が置かれていた。
極楽寺、成田山も名前は気になるが調べてもよくわからなかった。
歴史的な背景もほとんど知ることができなかった。
正式名称は「天台宗 無量寿山 往生院 極楽寺」で、 本尊は阿弥陀如来だそうだ。
立派な門構えなので中に入ってみた。

本堂。 寺の額は「極楽教寺」(明治42年再建) となっていた。

境内は大きな銀杏の木と景色のよいお堂が立ち並んでいた。

山門を入ってすぐ横にある鐘楼。
「朝覚醒 迷夢 夕開悟 佛道」と書かれていた。
悟りを開くとは?

地蔵堂
子安地蔵が祀られていた。

地蔵堂の隣にある「十王堂」
閻魔さまをはじめとした十王が祀られているのか? 内部はわからなかった。

不動堂。
立派な造りのお堂である。

入口の龍の彫り物は迫力があった。
堂の中は聖徳太子尊と書かれた赤提灯などがたくさんあり、「成田山」本尊をまつっているようだ。



なかなか綺麗なお寺でした。
しかし謂れなどが書かれてものがなく、私のような通りすがりの者にはよくわからずじまいでした。
また週末には二女が5月に生まれた赤ん坊を連れて神戸からきます。
息子の結婚式(24日)までこんな状態が続くのでしょう。
嬉しいような、自分の時間が取れずに悲しいような・・・・
もちろん嬉しいに決まっていますね。
ブログなどノンビリ書く余裕もなくとり、あえずは昔に(1カ月以上前)すこし書いていた記事をUPします。
下妻も今では筑西市になり、下妻が下妻市で残ったのに対し、市町村名から消えてしまった。
確かに筑波山の西になるには違いないが、下妻、下館と慣れ親しんだ名前がなくなると何処か歴史の流れが断ち切られたような気になる。
この下館の中心市街地の地名も「筑西市甲」「筑西市乙」「筑西市丙」などとなんとも味気ない。
下館もほとんど訪れる機会もなく知識も乏しいが、有名な陶芸家の「板谷波山」の記念館が市内にある。
ここを訪れてたきっかけは前に記事を書いた阿波忌部が建てたと言われている養蚕神社の「大桑神社」を訪れた時である。
もう1カ月ほど前になる。
この大桑神社が小森という地名で「蚕守」から来た名前で、こちらの下館には「養蚕」と名のつく施設も多い。
これは昔「養蚕村(こかいむら)」と言う村が存在し、地区の名前としても残り、養蚕(ようさん)小学校などの名前が今も健在だ。
小貝川が「蚕飼川」であったのは明らかだろう。
国道50号線を下館の市街地に入るところに「五行川」があり、この川を渡ると、「桜町」「金井町」「田町」などと町のつく名前の信号が並ぶ。(五行川は小貝川に下館の先で合流する)
このため、住所表記では甲、乙、丙などという味気ない名前にこの町の名前を冠して呼んだりしているようだ。

この金井町に国道沿いに大きな寺あった。
入口に「天台宗極楽寺」と「下館成田山」の2つの石標が置かれていた。
極楽寺、成田山も名前は気になるが調べてもよくわからなかった。
歴史的な背景もほとんど知ることができなかった。
正式名称は「天台宗 無量寿山 往生院 極楽寺」で、 本尊は阿弥陀如来だそうだ。
立派な門構えなので中に入ってみた。

本堂。 寺の額は「極楽教寺」(明治42年再建) となっていた。

境内は大きな銀杏の木と景色のよいお堂が立ち並んでいた。

山門を入ってすぐ横にある鐘楼。
「朝覚醒 迷夢 夕開悟 佛道」と書かれていた。
悟りを開くとは?

地蔵堂
子安地蔵が祀られていた。

地蔵堂の隣にある「十王堂」
閻魔さまをはじめとした十王が祀られているのか? 内部はわからなかった。

不動堂。
立派な造りのお堂である。

入口の龍の彫り物は迫力があった。
堂の中は聖徳太子尊と書かれた赤提灯などがたくさんあり、「成田山」本尊をまつっているようだ。



なかなか綺麗なお寺でした。
しかし謂れなどが書かれてものがなく、私のような通りすがりの者にはよくわからずじまいでした。
関本神社(筑西市)
昨日は雨もよいの天気でしたが、今日は晴れて気持ちの良い日でした。
孫と近所の公園ですべり台やブランコなど久しぶりです。
若い親子ずれが結構来ていました。
こういうことでもないとなかなか若い親子連れの子育て世代の気持ちに理解が及ばないですね。
子育ての環境整備ももっともっと必要です。
今日も少し前に行った時の記事をUPします。
下館から下妻へ向かう途中に「関本神社」という神社があった。


神社の入口に聳える欅の大木は市の天然記念物に指定されていて、樹齢400年以上だそうだ。
(胸高周囲 5.2m、樹高約23m)
削ると大変美しい玉杢(たまもく:玉のような木目)の模様が現れる木だそうです。

この土地の名前が関本であるが、この神社の由来を調べると明治6年に関本村にあった「稲荷神社」に同じ村内にあった「鹿島神社、若宮八幡神社、郡神社、神明神社」の4社を合祀して名前も関本神社と改めたのだそうだ。


筑西市関本上の関本神社で3日、春の大祭が行われ、市指定無形民俗文化財「太太(だいだい)神楽」が厳かに奉納された。
神楽は200年以上前の江戸時代の享保年間ごろから伝わる「高千穂(たかちほ)系神楽」で、地元の太太神楽保存会が守り伝えている。神楽舞は「五行の舞」「那岐(なぎ)、那美(なみ)の舞」「猿田彦の舞」「翁(おきな)の舞」「八幡舞」「蛭子(ひるこ)の舞」「連れ舞」「岩戸開きの舞」の八つの座から構成される。
境内の神楽殿では、色鮮やかな衣装を身にまとった氏子たちが笛や太鼓の演奏に合わせて舞を披露した。
孫と近所の公園ですべり台やブランコなど久しぶりです。
若い親子ずれが結構来ていました。
こういうことでもないとなかなか若い親子連れの子育て世代の気持ちに理解が及ばないですね。
子育ての環境整備ももっともっと必要です。
今日も少し前に行った時の記事をUPします。
下館から下妻へ向かう途中に「関本神社」という神社があった。


神社の入口に聳える欅の大木は市の天然記念物に指定されていて、樹齢400年以上だそうだ。
(胸高周囲 5.2m、樹高約23m)
削ると大変美しい玉杢(たまもく:玉のような木目)の模様が現れる木だそうです。

この土地の名前が関本であるが、この神社の由来を調べると明治6年に関本村にあった「稲荷神社」に同じ村内にあった「鹿島神社、若宮八幡神社、郡神社、神明神社」の4社を合祀して名前も関本神社と改めたのだそうだ。


筑西市関本上の関本神社で3日、春の大祭が行われ、市指定無形民俗文化財「太太(だいだい)神楽」が厳かに奉納された。
神楽は200年以上前の江戸時代の享保年間ごろから伝わる「高千穂(たかちほ)系神楽」で、地元の太太神楽保存会が守り伝えている。神楽舞は「五行の舞」「那岐(なぎ)、那美(なみ)の舞」「猿田彦の舞」「翁(おきな)の舞」「八幡舞」「蛭子(ひるこ)の舞」「連れ舞」「岩戸開きの舞」の八つの座から構成される。
境内の神楽殿では、色鮮やかな衣装を身にまとった氏子たちが笛や太鼓の演奏に合わせて舞を披露した。
ミュージアムパーク茨城県自然博物館へ
お盆休みを少し延長して娘と孫たちがわが家に来ていました。
何処へ行こうと相談して、坂東市の「ミュージアムパーク茨城県自然博物館」に行くことにしました。
上の孫は前に一度行っているようでしたが、少し大きくなればまた見るところも変わってくるでしょう。
でもこの期間は事前予約が必要なようで、前の日にネットで予約して出かけました。
石岡からは同じ茨城県なのですが少し遠く感じました。
また、最近調べていた平将門ゆかりの場所がちらほら・・・・・
周りは何にもないところなのですが、よくこんなものを作ったものだと感心しきり。
地球の成立ちや、人類の進化、鉱物の展示など、子供でなくてもかなり勉強になります。
一度ではとても見切れませんね。
きっと図鑑などで勉強してまた見に来たらきっと面白さも倍増しそうですし、展示をまとめている博物館員さんの熱意も感じることが出来ました。

下の孫娘はまだ3歳ですが、何を感じたでしょうね?
トリケラトプスは知っていたようです。
結構リアルで声や動きもあるので結構真剣です。



外の公園の木の下で持って行ったおにぎりを頬張って、元気な子供たちは屋外のトランポリンをやりに行きました。
年よりは木陰で一休み。
木漏れ日も気持がよいですね。
この木は「カツラ」です。

また行きたくなるようなところでした。
石岡にも博物館などが欲しいですね。
何処へ行こうと相談して、坂東市の「ミュージアムパーク茨城県自然博物館」に行くことにしました。
上の孫は前に一度行っているようでしたが、少し大きくなればまた見るところも変わってくるでしょう。
でもこの期間は事前予約が必要なようで、前の日にネットで予約して出かけました。
石岡からは同じ茨城県なのですが少し遠く感じました。
また、最近調べていた平将門ゆかりの場所がちらほら・・・・・
周りは何にもないところなのですが、よくこんなものを作ったものだと感心しきり。
地球の成立ちや、人類の進化、鉱物の展示など、子供でなくてもかなり勉強になります。
一度ではとても見切れませんね。
きっと図鑑などで勉強してまた見に来たらきっと面白さも倍増しそうですし、展示をまとめている博物館員さんの熱意も感じることが出来ました。

下の孫娘はまだ3歳ですが、何を感じたでしょうね?
トリケラトプスは知っていたようです。
結構リアルで声や動きもあるので結構真剣です。



外の公園の木の下で持って行ったおにぎりを頬張って、元気な子供たちは屋外のトランポリンをやりに行きました。
年よりは木陰で一休み。
木漏れ日も気持がよいですね。
この木は「カツラ」です。

また行きたくなるようなところでした。
石岡にも博物館などが欲しいですね。
| HOME |