玉里地区-素鷲神社

 今日は雨で気温も下がり寒かったですね。
朝から銚子に出かけて今戻ったところ。
片道2時間以上かかるので、こんな雨の日は車を運転するのも疲れます。無事帰ってやれやれです。

利根川と常陸川の合流するあたりは水かさも増えて水面まで近くて怖いくらいでした。

さて今日は、牛久から離れて、少し前に行った石岡の近くの「玉里(たまり)」の話題です。

 石岡の隣小美玉市は小川・美野里・玉里が合併してそれぞれの頭文字をとって付けられた市です。
これもできたばかりの時はどこか滑稽さも伴って巷の話題を提供してくれた。

今となってはまあしかたないし、慣れればそれなりの定着感も出てきている。

しかし歴史的な名前が変わるとそこに伝わってきた歴史のもつ継続性がかなり薄くなってしまう。
この玉里という地名もかなり昔からの話がつながってきた名前だと思う。

前にこの玉里地区に素鷲(すが)神社があることを述べてました。

最初は霞ヶ浦水運で高浜から続く高崎地区の恵比寿神社を取り上げた時に「西の宮」と呼ばれるので、東の宮はここ玉里の素鷲神社ではないかと書いたのです(こちら)。

もう一回はつい先日の出島散歩で最後の方に紹介した絵馬が奉納されていた「柏崎素鷲神社」(こちら)で対岸側の素鷲神社との関係も気になっていました。

もっとも、この素鷲神社は、玉里ばかりではなく小川や玉造にも比較的大きな素鷲(そが)神社があり祭りも盛んだと聞いている。

しかし、何となく気になっていた玉里にある素鷲神社に行ってみました。

地図にも載っているし、行けばすぐわかると思ってその前まで行って驚きました。

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どうです。これが素鷲神社のようです。
看板も何もありませんが、他にそれらしきものはありません。
通りに沿ったところにお堂が立っているだけです。

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お堂の入口は少し開けていて、古い石段があります。

お堂の中を覗いてみました。昔お祭りに使われたかもしれない小さな神輿が一つ保管されていました。

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この素鷲神社のお堂の後ろ側に少し離れて、もう一つお堂らしき小屋があります。
近づいてよく見ると、消えかかったような字で「昭和三十六年二月二十日 岩谷観世音修繕寄付者名」とあり、名前が連名で書き込まれていました。

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その観世音堂の横にこのような石像がほったらかしの状態で置かれていました。

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今でもちゃんと神社として残っているとばかり思ったのですが、どうやらこれが歴史なのかもしれませんね。

玉里の旧町役場(現市役所支所)の前に「大宮神社」という大きな神社があります。

この素鷲神社はこの大宮神社に合祀され、今ではここには神社としては祀られていないようです。

 さて、この玉里という名前は岩手県奥州市にもあり、坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイと戦った近くにもあるようですし、アテルイたちが潜んでいた岩窟には観音堂が建てられた。

この観音堂もその頃からあるのだろうか? 当然このお堂がそんなに昔からあるとは思えない。

それにしてもこの周りの素鷲(そが)神社は結構祭りも盛んなところも多く、同じ小美玉市の旧小川地区や行方市の玉造地区にもあるが、もしかしたら一番古いかもしれない玉里地区の神社は消えていってしまうのかもしれません。

この玉里という名前はヤマトタケルが行方の方からこちらへやってきて井戸を掘らせたら清らかな水が湧き出したので「みずがたまれるところ=田餘(たまり)」といったということからだととされるが、岩手県の玉里地名等を考えるともう少しちがった解釈もありそうに思う。



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玉里地区 | コメント(5) | トラックバック(0) | 2012/05/22 19:44

(玉里)大宮神社

 昨日紹介した玉里素鷲(そが)神社は今は玉里の中心部にある「大宮神社」に合祀されているらしいので、そちらへ行ったみた。

旧玉里町役場(現小美玉市役場支所)の通りをはさんで目の前に樹叢があるところが「大宮神社」である。

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神社一体は「大宮緑地環境保全地域」となっており、スダジイやタブノキ等の高木とヤブツバキ、サカキ、ムラサキシキブなどが混生した自然林となっている。

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和銅年間(708~715)の創建といわれている。祭神は鹿島神宮の神である武甕槌命で、昔は鹿島明神と行っていたらしい。それが元禄9年(1696)に徳川光圀が巡視の時に大宮大明神と改めたという。

そして明治になって「大宮神社」と改めたそうである。

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立派な拝殿です。
貞享元年(1684)の造営と言われています。

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境内社が6つあるようです。
その中の一つに昨日紹介した「素鷲(そが)神社」があります。

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鰐口(わにぐち)は前に紹介した出島の安食(あんじき)にある「太宮神社」にもありました。
こちらには「正嘉元年大才丁巳十二月八日敬日」の銘があるそうですから1257年の製造です。

常陸府中(石岡)の大掾氏が滅びた天正18年(1590)に戦火に巻き込まれてこのあたりもほとんど消失したようですが、この鰐口だけが無事に残ったようです。

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こちらが本殿です。

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この大宮神社の後方に「玉乃井跡」という場所があるそうです。
そこがヤマトタケルが井戸を掘らせたら清らかな水が湧き出したと伝えられる井戸の跡で、玉里の名前のもととなったと伝えられる場所だそうです。

8月には「魔神祭」というお祭りがあるそうです。

この大宮神社は比較的標高が高い場所にあり、ここから霞ヶ浦の方に下っていく。

YAHOOの地図でも詳細図にならないとこちらの神社の名前が出てこないが、南側の今は神社と呼べないような「素鷲神社」は出てくる。なぜなのでしょうか。



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玉里地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/05/23 19:46

モチモチの木

 今日はロシアで隕石が落ちてけが人が出たという。
その火の玉の映像がテレビに映し出された。
確かにこのようにはっきりと隕石の軌跡が写ったものを始めてみた。
ものすごいスピードだ。
関東地方でも隕石らしい衝撃や閃光が見られたのも記憶に新しい。

またこんな現象が続くと怖くなる。
巨大隕石が迫っていると言われるが、これは衝突は免れるようだ。
しかし、今日の隕石も観測されていないのだから、いつ繰り返されるか不安になる。

 さて、切り絵作家の滝平二郎さんが2009年に亡くなり、水戸の近代美術館で「さようなら滝平二郎展」が以前開かれた。

このどこか懐かしくなる切り絵の数々はみな素晴らしい。
また描かれている山が筑波山であるので、彼はこの茨城の地に縁があるのだろうと思っていた。

それが、大正10年に石岡の高浜の先の霞ヶ浦沿いの田余(田餘)村(たあまりむら)で生まれたのだと知った。
この田余村は常陸風土記にも謂れがでてくる古い地名だが、昭和30年に玉里村となり、平成の大合併で小美玉市になった。

そして石岡一高の前身「石岡農学校」を卒業している。石岡や小美玉では郷土の輝かしい先人として是非いろいろな資料を展示してもらいたい。


さて、この滝平二郎さんが挿絵を書いた「モチモチの木」という絵本がある。

この木のモデルになったといわれる木が旧玉里村の愛宕神社にあるというので出かけてきた。

それにしても素晴らしい木だ。

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(写真はサムネルです)

樹齢1000年近いくすの大木が横に枝を伸ばして広がっています。

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(写真はサムネルです)

もう子供だったらよじ登ってみたくなりますよね。
でも簡単に登れるような太さではありません。
この枝の上に乗ったら気持ちいいだろうな~。

ダメダメ。木を痛めないように大事にしましょう。

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(写真はサムネルです)

この木以外にも多くの樹叢が神社を囲んでいます。
神社はどうやら古墳の上に建てられているようです。

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(写真はサムネルです)

この木を外側から眺めてみました。どうです。夜この木のそばを通るのは怖いですよね。

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滝平二郎(たきだいらじろう)はこの神社に近いところで生まれた。

5歳の豆太は夜に家の外にある雪隠(便所)に一人では怖くていけない。いつもおじいさんが連れていってくれる。そんな弱虫の豆太がある日おじいさんが急病になり、2km離れたお医者さんを呼びに勇気を出して出かけた。
恐る恐るこの木の脇を駆け抜け、戻ってきたときにこの木に言い伝えられてきた雪明りに木が輝く美しい光景を見る。

滝平二郎はきっと自分の記憶に残る思い出を絵本として表現したのだろう。

ここはあまり雪が降る地方ではないが、この木が輝くこともあるかもしれない。
霞ヶ浦も近い。湖面がキラキラ輝く美しい光景がいつも目の前に広がっている。

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この愛宕神社は高浜から湖畔沿いに5kmほど行ったところにあります。

下から山の上にある神社までは170段程の階段を登ります。

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この神社はかなり古く、常陸国風土記には

「昔、倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食(み け)を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」

と書かれている。

しかし、この神社の場所は「もち、しい、くす」などの樹叢がその古さを表しているが、この小山は古墳だという。

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神社と湖畔とのあいだはレンコン畑が続きます。




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玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(1) | 2013/02/15 19:26

玉里の湖畔

 昨日紹介したのは滝平二郎さんの話も伝わる、小美玉市玉里地区の愛宕神社。
多くの愛宕神社はどういうわけかその多くが古墳の上に立っている。

石岡でいえば、貝地にある景清塚(平景清を祀る)も愛宕神社だがこれも恐らく古墳であろう。
また、木之地にある愛宕神社も昔はおそらく古墳の上にあったものを、開発でこの街中に移したものだと思う。

もちろん岩間の愛宕山のようにおおきな山の上にあるものもあるが、平地に小山があればそこは古墳で、その上に神社を祀る。
その中でも愛宕神社が多いということなのだろう。

さて、その玉里の愛宕神社の前から霞ヶ浦湖畔まで300mほどだが、ほとんどが蓮(レンコン)の泥水田だ。
レンコン収穫のピークは年末で、正月用に出荷するのだが、このレンコン掘りもかなりの重労働で、9月~翌年4月頃まで続く。

この冬場に冷たい泥の水田に入り、足で見分けながら、ホースからの水流で洗い流して掘り出す。
寒いのに胸まで水に浸かってやる作業も大変だ。

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車でくる時には途中でこの水の中で掘っている人を何人か見かけたのですが、ここに来たのが昼時で作業の人が引き上げたのでしょうか?
いないと思ったのですが、一箇所勢いよくポンプを回しているところがありました。

姿が見えないので近づいてみると木の茂みの陰で採ったレンコンを洗っている方がおりました。
やはり湖から吹いてくる風を避けるために、このように木を植えているのかもしれません。

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その先に、少しこんもりした茂みが見えます。神社があるようです。

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本当に蓮田に囲まれた神社(稲荷神社)です。地元の守り神なのでしょう。

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でも、ここに気になる(?)説明が書かれています。
気になるのは私くらいかもしれませんね。

とても面白いです。
この蓮田の広がる地帯に、江戸時代のはじめまで小さな集落があったようです。
それが、この玉里地区と霞ヶ浦の対岸にある井関地区が水戸藩に組み入れられ、この霞ヶ浦の高浜入りの狭くなったところを川の一部とみなして「お留川」としてこの領域を水戸藩が独占したのです。

その前まで、誰のものでもなく、乱獲を防ぐ取り決めをして生活していた漁師が突然お留川に組しないと生活できなくなってしまったのです。

一部の人はこれで財をなしていったようですが、ここの人たちは別な場所に移ってしまったようです。

その後、この神社が残り、残った地域の人が守ってきたといいます。

祭神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は日本書紀にでてくる表記で、古事記では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と表されている穀物などをつかさどる女神だとされています。

石岡の市内にもこの神を祭る場所があります。
富田町にある北向観音の前方ある「宇迦魂稲荷神社(うかのみたまじんじゃ)」です。

何かこんなところと関連付けてみるのも石岡の歴史を調べ始めた知識によるものですね。
知らなければ何にも感じないでしょう。

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それにしてもこの神社は蓮田で囲まれてしまっています。
左手奥に見えるのは「平山排水機場」の建物です。
湖岸沿いの道は車も通るようです。この排水機場のところを入った正面に愛宕神社があります。

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湖岸の道から高浜方面を見たところですが、曲がっているところなので奥に見えているのは対岸の井関地区です。筑波山はもっと右の方ですが、天気が悪いので見えませんでした。
一番飛び出した場所ですから、きっと晴れていたら綺麗な山も見えたのでしょう。
滝平二郎の切り絵の世界も感じることができたかもしれません。

ネットで注文した滝平二郎の切り絵と版画の立派な限定書籍が今日届きました。
サインも入った980部限定の画集がこんな値段で買えるのには驚きです。
定価38000円昭和49年発行のものです。それが数千円です。
これも、いつか地元で公開できればと購入しました。

財力がありませんので、美味しいものを食べたと思って、少しずつ集めようと思います。

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この湖岸から行方方面は桜の木が植えられていました。
これが立派な木の並木ができたらここをサイクリングするのは楽しいでしょうね。
「ほほえみの丘」などの砂浜の復活と合わせてあとは水をきれいにすることが残された最大の課題ですね。

水門を開けて、息ができるようにするとか、湖底の水を循環させるポンプや噴水の設置など出来ることからやっていかねばなりません。

そうすればいつか世界遺産に登録できる日も来るでしょう。



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玉里地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/02/16 16:11

円妙寺(小美玉市上玉里)

 この円妙寺については、こんな身近にこのような寺院があったのをまったく知らずにいた。

ここは茨城空港から6号バイパスを結ぶためと思われる道路工事が始まっている場所の近くだ。
先日道路建設場所にあるとされる「取手館」(多分、田木谷砦)という昔の大掾氏が「砦」を築いたとされる場所のすぐ近くにある。

きっと昔は交通の要の位置にあったものと思われる。

そのため、この近くの常陸府中(石岡)とこの場所を結ぶ道路を「円妙寺街道」と呼んだという。

何故この寺を知ったのかと言うと天台宗で常行三昧堂(常行堂)に阿弥陀如来の守護神として祀られているという秘仏「摩多羅神(またらじん)」を調べていたところ、この身近な所にあるようだとわかったのである。

秘仏というので公開されることはほとんどないが、いくつかの写真や絵があるのでその像の姿は想像がつくが、関東より北の方では平泉の毛越寺くらいしか知られていない。

常行三昧堂はそれでもいくつか有名なところがあり、行方市の西蓮寺は9月24日~30日まで毎日常行三昧会(ざんまいえ)が行われる。
しかし、この西蓮寺には阿弥陀如来の後ろに摩多羅神がいると言うことは聞いたことがない。

しかし、この円妙寺には置かれているようなのである。
そして、まったく摩多羅神の姿は知ることができないし、ほとんど紹介されたものがない。
もしかしたら置かれていないのかもしれない?

実は今年、島根県の清水寺の摩多羅神像(木造)が公開されたのだ。

私はそこまで足を延ばすことができなかったが、写真が公開された。(こちら1こちら2
また、この摩多羅神を描いた絵も有名(こちら)で、能・狂言などの猿楽のルーツとされ、非常に興味深い神なのである。

雨引観音で春に行われている「マダラ鬼神祭」などとの関係も全く分からない。
興味のある方はいろいろな本が出ているので読んで下さい。

今は私には説明ができませんので、そのうちに何かわかったら紹介したいと思います。

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常行堂。(市の紹介などでは「二階堂」と書かれていました。確かに2階ですね。)
1700(元禄13年) の建立。

ここに平安末期か鎌倉初期と思われる立派な木造の阿弥陀如来座像があります。(県指定文化財:こちら
こちらは時々公開されているようですので検索すると写真は見られます。

この時代の阿弥陀如来像は関東ではとても珍しい貴重なものだと言う。
平等院鳳凰堂の国宝阿弥陀如来座像と似た像である。

実はこの円妙寺は至徳3年(1386年)近江国園城寺(三井寺)の乗憲法師が開基したと伝えられ、この阿弥陀如来座像の方が古いのである。

この円妙寺が昔はかなりの力を持っていたものと考えられると思う。

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本堂。1684-88(貞享期) の製作

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常行堂の飾り模様

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山門(四脚門)。奥に見えるのが常行堂で、さらにその奥が本堂である。

この山門もかなり古く、室町末期頃ではないかとされる。本当か?

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実はこの寺に行きつくためには蓮田の間を抜けるような道を通って少し高台に登る。
まったくこのような立派な建物が存在するとは思ってもみなかったので驚きであった。



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玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/09/22 17:42

取手山館(小美玉市)

 国道355号線は笠間市から石岡を通って千葉県香取市を結ぶ霞ヶ浦の北側沿いを走る街道である。
昔は笠間稲荷ー常陸国府(石岡)-小川ー佐原ー香取神宮を結ぶその時代ごとに重要な役割を担っていたものと思う。

石岡から小美玉市の小川を結ぶ街道は通称「小川街道」と呼ばれ、その街道に沿って昔は鹿島鉄道が走っていた。
鉄道は数年前に廃止となって今では石岡と茨城空港を結ぶバス専用の道路になった。

この国道355号線が旧玉里村と旧小川町の境界の場所で小川の街中を通って鉾田に行く道と、最近できた茨城空港方面に行く分かれ道(T字路)がある。

バス停は「田木谷(たぎや)」とある。

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今この場所で道路工事が行われ、T字路から十字路になるようだ。これはおそらく現在建設中の6号国道千代田・石岡バイパスと茨城空港のアクセスが良くなるために建設が進められているものと思う。

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上の写真の右側で山を切り崩し、谷を埋めての道路工事が続いている。

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しかし、この場所は常陸府中(現石岡市)の関東の平氏の棟梁「大掾(だいじょう)氏」と小川城の園部氏との最後の争いの主戦場になった場所のようだ。

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道路工事に先だって、この場所の発掘調査が行われた。そして今年2月に発掘結果が公開された。
残念ながら行くことは出来なかったが、その資料によると、

取手山館:
 天文6年(1537年)、現在の石岡市に本拠地を持つ大掾氏が小川を本拠とする園部氏に対抗するために築城しました。
天正16年(1588年)、江戸・佐竹軍との戦いでは、戦死者を数多く出す激戦の末落城したとされています。

と説明がされ、この場所から縄文時代・古墳時代の竪穴住居跡や、奈良平安時代の遺物も多数発見されています。
またこの取手山館時代のものと思われる多数の鉄砲の弾が発見されました。

特徴的なのはトンネルの跡が多数発掘されており、この館にはいる時はこのトンネルを使ったのではないかと言うことでした。

まさに自然の地形を利用した砦だったと思われます。

当然「取手山」の名前も「砦山」からきたものでしょう。

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さて、工事中の写真の左手(東側)のこんもりとまだ少し残って小山に神社が建っています。
「取手稲荷神社」です。

神社への入口は、国道355号線のところから住宅の脇を通るような細い道が続いています。

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そして山に続く道の入口に「正一位取手稲荷社?」と石柱が立っています。

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その近くに「取手館跡」の説明看板が置かれていました。
少し説明がこれではわかりずらいですね。
この辺りはまた明日にでも整理して書きたいと思います。

義国は平義国(大掾)のことで、竹原城の城主であった竹原四郎義国のことのようです。
府中城の本家大掾氏の大掾貞国の弟。四郎というので四男?

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山の上には取手稲荷神社があります。
神社境内には明治44年4月1日建立の「鳥手神社三百五十年記念祭記念碑」がありました。
「鳥手神社」となっているのが目につきました。

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神社そのものはこんなこじんまりしたものです。
下草も伸び、蜘蛛の巣もかき分けて、この時期ですからあまり人が訪れないので手入れも大変です。

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キツネですからここは、お稲荷さんですね。正一位とありましたので当然ですね。



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玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/10/09 19:38

飯塚館(玉里)

 さて2回にわたって大掾氏関連の備忘録を記しましたが、その関連で「取手山館」(田木谷砦)(こちら)と関係の深い飯塚館跡を探して行ってきましたので紹介します。

当時、石岡(府中城)の大掾氏は江戸氏や佐竹氏の支援を受けた小川の園部氏と対立していた。

この両者の最前線基地が「取手(砦)山館」であった。この取手山には大掾氏の家臣たちが何人も入り防戦していたがこの最前線の砦が陥落すると手前の栗又四ケ地区に城(屋敷)を構えていた家臣たちはそれぞれの城に引いて戦った。

この栗又四ケ(くりまたしか)村にはいくつかの城があった。殿塚館、笠松館は大掾清幹の近親で中郷城主を勤めた竹原左大臣兼信の家臣である栗又左近政清(十太夫)が治めていた。

しかし、勢いに乗る佐竹勢の前にこれらの城は次々に陥落していった。

もう一つが今回紹介する「飯塚館」だ。

飯塚氏の名前は以前「耳守神社」(こちら)で出て来た名前だ。

第3代常陸大掾繁盛(平国香の直孫)の五男・五郎左衛門兼忠がこの飯塚の地に移り飯塚氏を名乗ったといわれている。

この飯塚氏の娘の千代姫の耳が治ったということで建てられたのが耳守神社で耳の病気に効力があると言う大変珍しい神社である。

それから500~600年の間、この地は大掾氏の家臣として飯塚氏が守ってきたのである。

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しかし、小川に小田氏側の園部氏が入り、大掾氏の弟が小田氏の防衛のために入った三村城が小田氏に落とされ、城主常春が自害して滅びるが、その小田氏も翌年には佐竹勢に出島の城(宍倉城、戸崎城など)を攻略され、土浦城まで陥落してしまう。小川の園部氏も江戸・佐竹勢に組むせざるを得なくなり、大掾氏攻撃の先方としてこの取手山館で戦が続けられた。

飯塚氏はこの小川と最も近い位置にあったため、自らの前線基地として取手山に砦を築いたものと考えられる。

情勢が厳しくなると、他の大掾氏の部下たちはこの取手山に集結してたたかったものと考えられる。

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府中城の陥落のことは歴史として石岡では取り上げられるが、これらの家臣たちが守ってきた城の様子はあまり語られない。

たまにはこのようなところにも日の目を見させてやる事があってもよいのではないかと思っている。
時間があれば少しずつ紐解いておきたい。

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場所は栗又地区から国道355号線に沿って南に平行に走る旧道へ入るとすぐに右に折れて玉里村の霞ヶ浦側に行く道がある。
これを道なりに少し行くと最初の写真の看板の場所に出る。

あまり車も通らないノンビリした道である。

飯塚氏は大掾氏と命運を共にしたと書かれているが、飯塚姓の方も多く子孫は健在なのではないだろうか。
飯塚氏がこの地で暮らしたのは1590年より500~600年前からであり、この地に多くの子孫がおられるはずです。


玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/11/07 18:29

玉の井跡(玉里)

 小美玉市は小川町・美野里町・玉里村が合併してそれぞれの頭の文字をとってできた市であり、最初のうちは笑っている人が多かったようだが、最近は何処かこんな名前の市も違和感がなくなってきた。

さて、その中の一番小さな玉里村の名前については、常陸国風土記の茨城郡の終わりの方に書かれている。

「郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」
(口訳・常陸国風土記より)

この清らかな井戸のあった場所と言われるところが玉里大宮神社の山の裏側にあるというので見に出かけた。

大宮神社の裏と書かれているので大宮神社に行ってそれらしきところを探してみたが、何処にもない。

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この大宮神社は前にも訪れている。(記事はこちら

なかなかどっしりとした立派な神社である。この裏山の先にありそうなのだが山の中をやみくもに進むこともできずあきらめて調べなおした。

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この玉井跡は、神社の1本先の道を入り、道なりに少し行ったところにあるというのでこちらに回って見た。

この辺りはのどかな里山が広がっており、梅の花も満開であった。(先週末)

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少し進んで神社の裏山が終わった辺りの低くなった谷のような場所に「玉井」の看板があった。

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「玉乃井跡」と彫られた立派な石碑が建てられていた。
そして奥に木でできたテーブルとベンチが置かれている。

やはり井戸の跡ということで地面は少し湿っている。

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昨年が常陸国風土記1300年ということでここも整備がされたようだ。
梅の木葉何時頃植えられたものだろう。

石碑の所は梅の老木があるのでこれはだいぶ前からあるのだろう。

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こうして梅林のようにしているので、訪れる人も増えてくれたらいいなと思う。

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すぐまた近くに「円妙寺」がある。こちらも前に記事を書いた(こちら

この寺の常行堂はかなり立派なものである。あまり知られていないようだが近くにいからたら一度寄ってほしいと思う。

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この寺の山門近くにも梅が咲き誇ったように咲いていました。



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玉里地区 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/03/28 19:02

小舟塚神社

 あまり普段は通ることもない高浜から小美玉市玉里地区の先端をぐるっと回る通りを車で通って見た。

常陸風土記にはこの玉里の語源について次のように書かれている。

「郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部(もひとりべ)に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘(たまり)といふやうになった。」

そして昔は玉里ではなく「田余」と書いていたので「たあまり」などとも発音されていたようだ。

この玉里地区の霞ケ浦沿岸部はレンコン畑が一面に広がっており、「よくたまれる水」と言うのも頷ける感がある。

その下玉里から川中子地区に向かう途中に変わった形の小山がポコンとあった。

この県道沿いにポッコリと膨らんだような小山で、まわりはハス畑で表面の水は凍っていた。

小舟塚01

そしてこの山の上に神社がまつられており「小舟塚神社」と書かれていた。

小舟塚02

どうも山も人工的な感じがしたので調べて見るとやはり古墳(大井戸古墳)だという。
前方後円墳であったものが前方部を削られてなくなり、後円部の一部のみになったという。

墳丘長100m級の旧玉里村最大級の古墳だった可能性があるのだそうだが、築堤工事の土砂採取のため大きく削られてしまったという。

近くの有名な三昧塚古墳も削られかけたことがあると聞いているが、何とか貴重な埋蔵物なども見つかり切削を免れたという。

昔は霞ケ浦も良く洪水を起こしたので護岸工事のため近くの小山などが幾つも取り崩された。
この中には多くの古墳が含まれていたものと思うと残念な思いがする。


小舟塚03

神社の祠のところまでの階段を上って見ると、結構見晴らしが良い。
下にはハス畑が広がるが、その先に霞ケ浦が見渡せる。


ところでここを通る道は、地元の人以外にはほとんど車も通らない道であるが県道194号線(宍倉玉里線)だという。
この県道は変わっていて、かすみがうら市(旧出島)の宍倉からこの玉里地区を通って355号線につながっているのだが、霞ケ浦の高浜入りのところで道路は寸断されている。

江戸時代に霞ケ浦の御留川と言われた場所がこの高浜入り部分でここに橋もないのに県道としてはつながっている名称になっている。

小美玉市のあちこちに「早期霞ケ浦二橋の実現を」などとうたっているのはここに橋を通したいからなのかもしれない。
それにしてもまわりはハス畑ばかりであり、人口も多くはなくここに橋を通しても利益を売るのはほんの一握りの住民ばかりという感がぬぐえない。

霞ケ浦二橋というのは土浦側と旧出島側に1本、そしてこの高浜入りに1本の計2本の橋をかけ、道路で土浦側と小美玉側を結ぼうというものである。
行方側に霞ケ浦大橋があるのでこの橋の計画はまだ運動中だけのようだ。

そんなことをせずに発展させたいならもっと別なことに力を入れるべきだと思う。

玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/01/06 19:50

下玉里

 下玉里地区(小美玉市)は旧玉里村の霞ケ浦沿いに飛びだした先端部にあり、湖岸にはハス田が広がっている。

下玉里01

分かれ道の大きな古木の麓には石仏などが置かれている。
このような道の辻には神様が宿ると思われてきたのでしょう。

下玉里02

手前がハス田でその向こうが霞ケ浦である。
レンコンはこの寒い冬が収穫期であり、9月から5月初め頃まで続く。

ポンプで勢いよく水を出して、田の底にあるレンコンを掘りだす。

下玉里03

この領域は江戸時代に水戸藩により御留川(おとめがわ)制度が施行された。
対岸の井関地区(現石岡市)との距離は比較的狭く、高浜入りと呼ばれていたが、この手前と向こう側の両方を水戸藩の領地(飛び地)として、この間の霞ケ浦の部分を川とみなして、ここの漁業権を全て水戸藩が握った制度である。

霞ケ浦は四十八津と言われるほどたくさんの湊があった(津=湊)。
それぞれの湊の漁師たちが集まって自分たちの漁獲量などを取り決めていたのである。

これにより乱獲を防ぐことができたが、この御留川制度はこの自主制度を全く無視してこの領域の魚などをとって、水戸へ運んだのである。

この御留川制度がどのような恩恵と負の効果をもたらしたかはよく知らない。
善悪両方があったと思う。それは地元やその先の地域などでもかなり受け止め方は違うし、漁師とそれ以外の職業の人でも考え方は違うはずだ。

下玉里04

湖に突き出したコンクリでまわりを囲った場所があるが、ここは舟溜りである。

下玉里07

湖岸の土手の上は車も通れるくらいの道幅で、サイクリング道路としてももってこいである。
そして土手沿いに桜の若木を植えてある。
数年すれば綺麗な並木となることだろう。

下玉里05

舟溜りの場所に数台の車が止まっていた。

下玉里06

車はここで釣りを楽しんでいる人々のものだ。
霞ケ浦もこのように穏やかであると大変気持ちが良い。

玉里地区 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2015/01/07 19:35
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