小川素鷲神社(小美玉市)
昨日は玉造の素鷲神社を紹介しました。かなり古からありそうな神社ですが、現地に書かれたものがなく記事も中途半端でしたので、後で少し調べてみました。
素鷲神社と言われる前に、「大宝天王宮」と呼ばれていたようで、大宝年間(701年~704年)の創建ということが本当ならかなり古いことになりそうです。
調べてみると滋賀県の栗東市に大宝神社というやはりスサノオを祀る古社があることがわかりました。
こういうこともどこかで他の神社などでもきっと関係が出てくるかもしれません。
さて今日はもう一つの素鷲(そが)神社として旧小川町(小美玉市)にある素鷲神社を紹介します。

旧小川町の中心部から小川小学校へ坂道を登った先に神社があります。
この小川小学校の高台の台地は昔小川城(園部城)があったところで室町、戦国時代には石岡とも同盟したり、逆に敵となったりしましたが、最後は佐竹氏に滅ぼされてしまいました。

この神社はなかなか大きな神社で宮司さんもいます。祭りも盛んで、今でも近隣の信仰を集めています。
基本的には天王社で、祇園祭です。山車でひょっとこ踊りもあります。
他のブログで紹介されている神社はほとんど宮司さんがいるところが多いのですが、どういうわけか私が掘り出している神社は誰もいないところがたくさんあるのです。(笑)

由緒書きによれば、創建は、亨禄2(1529)年、橋本源左衛門、孫左衛門兄弟が園部川より神像を拾い上げそれを祀ったのが始まりだというので、それ程古いものではありません。
昔は天王宮といったが、天保年間(1830-1843年)に素鷲神社に改められたといいます。
ただ、もとはスサノオのミコトを陽神とし園部城外に素鷲神社として祀り、妻となった櫛稲田姫を陰神として園部城内に祀っていたという。
スサノオを祀った素鷲神社も明治2年(1869)に神社を現在の場所に移し、現在は園部城内にあった稲田姫神社を素鷲神社の境内に移して祀っています。
明治3年に小川鎮守となり、明治6年に村社に列し、昭和62年には神社庁特別神社となりました。
本殿は明治32年、拝殿は昭和7年に建立されたものです。

拝殿の彫刻。

こちらが本殿です。

狛犬も趣のある姿です。

境内にある「稲田姫神社」です。
笠間の稲田神社を思い出しますが、下の説明にあるように平成22年に改築した新しいものです。

拝殿と狛犬を入れて全体をUPします。

さて、小川城(園部城)は今はその面影は全くありませんが、小学校やこの素鷲神社の場所は昔の城の本丸のあたりになるようです。
四つの素鷲神社の位置関係をFlood Mapで水面が+3mとした地図に書き込んでみました。

何か置かれている場所に共通点があるように思われます。
もっとも石岡の中心部(まちかど情報センター近く)にも昔「天王社」がありましたので、関係があるのかないのかもわかりません。
しかし、現在の石岡のおまつりのルーツをたどるとこの天王社(牛頭天王)の祇園祭がとても興味深いのです。
また、ただ地図で見て面白いと感じただけです。
特に園部川の河口付近は大きく開いた河口となっていたのがわかります。
この辺の地名が「川中子(かわなご)」となっており、河口部に中洲のような島になっていた頃の地名ではないかと思います。
小川城(園部城)などについてはもう少し調べてみてわかればいつか書きたいと思います。
← よろしければクリックお願いします。
素鷲神社と言われる前に、「大宝天王宮」と呼ばれていたようで、大宝年間(701年~704年)の創建ということが本当ならかなり古いことになりそうです。
調べてみると滋賀県の栗東市に大宝神社というやはりスサノオを祀る古社があることがわかりました。
こういうこともどこかで他の神社などでもきっと関係が出てくるかもしれません。
さて今日はもう一つの素鷲(そが)神社として旧小川町(小美玉市)にある素鷲神社を紹介します。

旧小川町の中心部から小川小学校へ坂道を登った先に神社があります。
この小川小学校の高台の台地は昔小川城(園部城)があったところで室町、戦国時代には石岡とも同盟したり、逆に敵となったりしましたが、最後は佐竹氏に滅ぼされてしまいました。

この神社はなかなか大きな神社で宮司さんもいます。祭りも盛んで、今でも近隣の信仰を集めています。
基本的には天王社で、祇園祭です。山車でひょっとこ踊りもあります。
他のブログで紹介されている神社はほとんど宮司さんがいるところが多いのですが、どういうわけか私が掘り出している神社は誰もいないところがたくさんあるのです。(笑)

由緒書きによれば、創建は、亨禄2(1529)年、橋本源左衛門、孫左衛門兄弟が園部川より神像を拾い上げそれを祀ったのが始まりだというので、それ程古いものではありません。
昔は天王宮といったが、天保年間(1830-1843年)に素鷲神社に改められたといいます。
ただ、もとはスサノオのミコトを陽神とし園部城外に素鷲神社として祀り、妻となった櫛稲田姫を陰神として園部城内に祀っていたという。
スサノオを祀った素鷲神社も明治2年(1869)に神社を現在の場所に移し、現在は園部城内にあった稲田姫神社を素鷲神社の境内に移して祀っています。
明治3年に小川鎮守となり、明治6年に村社に列し、昭和62年には神社庁特別神社となりました。
本殿は明治32年、拝殿は昭和7年に建立されたものです。

拝殿の彫刻。

こちらが本殿です。

狛犬も趣のある姿です。

境内にある「稲田姫神社」です。
笠間の稲田神社を思い出しますが、下の説明にあるように平成22年に改築した新しいものです。

拝殿と狛犬を入れて全体をUPします。

さて、小川城(園部城)は今はその面影は全くありませんが、小学校やこの素鷲神社の場所は昔の城の本丸のあたりになるようです。
四つの素鷲神社の位置関係をFlood Mapで水面が+3mとした地図に書き込んでみました。

何か置かれている場所に共通点があるように思われます。
もっとも石岡の中心部(まちかど情報センター近く)にも昔「天王社」がありましたので、関係があるのかないのかもわかりません。
しかし、現在の石岡のおまつりのルーツをたどるとこの天王社(牛頭天王)の祇園祭がとても興味深いのです。
また、ただ地図で見て面白いと感じただけです。
特に園部川の河口付近は大きく開いた河口となっていたのがわかります。
この辺の地名が「川中子(かわなご)」となっており、河口部に中洲のような島になっていた頃の地名ではないかと思います。
小川城(園部城)などについてはもう少し調べてみてわかればいつか書きたいと思います。


旧小川町の街並み
昨日紹介した小川素鷲神社はスサノオノミコトを祀る素鷲神社と境内に櫛稲田姫を祀る稲田神社が一緒になっている。
神社の説明では、両方をお参りすれば男女の絆が深まり幸せになれるとか・・・。
まあ今更でもないが、しっかりお参りしておきましたよ。
この素鷲(そが)神社と隣の小川小学校の敷地は昔、園部城があった場所で、その後医学の学校ができた。
これについてはかなり特筆すべき内容なので、後ほど紹介したいと思います。
今日は近くの街並みを少しだけ紹介しましょう。

ここは内山家具屋さんの横の通りを少し登ったところです。
古い町並みです。
内山家具屋さんももう20年以上前に一度子供の机か何かを購入したことがあった。
それから毎年年賀状が来ていたが、こちらも引っ越したので今は何もない。
昔はもう少しまわりも賑やかっだたように思うが・・・。

このような蔵は石岡と同じですが、鹿島鉄道が廃止されて、だんだん街がさみしくなっているような気もします。
茨城空港には近いのでまた復活してもらいたいものです。

坂の途中の脇道から入ったところにあったものですが、「台之坊本尊薬師如来参道」と書かれています。
ネットで探してみたが、謂れもわからなかった。

まあ、ほかに紹介されていないのだから、写真をUPしておけばそのうちわかるかもしれない。
明日は近くでまた面白いものを見つけたのでそちらも紹介します。
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神社の説明では、両方をお参りすれば男女の絆が深まり幸せになれるとか・・・。
まあ今更でもないが、しっかりお参りしておきましたよ。
この素鷲(そが)神社と隣の小川小学校の敷地は昔、園部城があった場所で、その後医学の学校ができた。
これについてはかなり特筆すべき内容なので、後ほど紹介したいと思います。
今日は近くの街並みを少しだけ紹介しましょう。

ここは内山家具屋さんの横の通りを少し登ったところです。
古い町並みです。
内山家具屋さんももう20年以上前に一度子供の机か何かを購入したことがあった。
それから毎年年賀状が来ていたが、こちらも引っ越したので今は何もない。
昔はもう少しまわりも賑やかっだたように思うが・・・。

このような蔵は石岡と同じですが、鹿島鉄道が廃止されて、だんだん街がさみしくなっているような気もします。
茨城空港には近いのでまた復活してもらいたいものです。

坂の途中の脇道から入ったところにあったものですが、「台之坊本尊薬師如来参道」と書かれています。
ネットで探してみたが、謂れもわからなかった。

まあ、ほかに紹介されていないのだから、写真をUPしておけばそのうちわかるかもしれない。
明日は近くでまた面白いものを見つけたのでそちらも紹介します。


天聖寺跡1(旧小川町)
昨日旧小川町の街並みの一部を紹介しましたが、その通りを少し先に行った先に醤油の工場「幡谷本店」があったのですが、見落としました。
しかし、同じ通りに旧小川町の歴史のいったんを知る貴重な場所がありました。
私が知る旧小川町のイメージは自衛隊の百里基地(現在では茨城空港併設)のある場所で、中世の園部城があったくらいで、石岡と小川を結ぶ小川街道沿いには飲食店や飲み屋さんも多いところだというくらいでした。
しかし、偶然見つけたこの場所で、私の頭から欠落していた歴史が見えてきたのです。

古い家並みの間に狭い路地があり、入口に「天聖寺斎場表参道」と書かれた石柱が立っています。
なに! 斎場ということは・・・・
普通なら入らないところですが、その先の石段脇にたくさんの石板や石仏が見えますので、恐る恐る中に入ってみました。

何やら、上り階段(ここは寺の参道?)の脇には古めかしい石碑や仏像などが所狭しと並んでいます。

そして、階段の登り口には禅寺で前に見かけたのと同じ「不許葷酒入山門」の文字が読めます。
これは前に古渡(ふっと)の興善寺や出島の田伏の実伝寺の山門にあったものと同じです。
「葷酒(くんしゅ)(ニンニクなどのくさい匂いをさせた者や酒を飲んでいる者)はこの山門から先に入ることを許さない」という意味でしたね。
何度か勉強したので覚えています。
昔はここに山門があったのでしょう。

ここから先の石段の両脇にはこのような石仏に混ざってたくさんの石板が並んでいます。
これは墓石なのか、塔婆のようなものなのかはわかりませんが、あまり写真におさめるものではないかもしれません。
嫌いな方は無視くださいね。

右側も同じです。

この参道脇にずうっと続いています。

何か不気味でもありますが、こんな光景は見たことありません。

これは庚申像(青面金剛と三猿)ですね。やっと覚えました。
よく見るとあちこちにあるんですね。
階段を上った先に、この場所にあった「天聖寺」のことが書かれていました。

説明の内容を理解するのに少し時間がかかりましたが、小川町の江戸時代から明治はじめまでの歴史の一端が見えたように思えました。
わかりにくく書かれているので要約してみると、
「この寺の開祖は水戸の祇園寺の第三世和尚である蘭山和尚が宝永4年(1707)に水戸義公(光圀)の取りなしで、88歳の高齢でこの場所に移ってきたのが始まりだという。
この蘭山和尚は元々は京都の名僧であったが、江戸に出てきた時に水戸光圀に認められて、僧籍のままで光圀の大日本史編纂を助けていたそうです。
そして、それから30石以上の寺領を与えられ、禅寺として14世に渡って発展を遂げてきたといいます。
しかし、幕末の天狗騒動で天狗党の棲家となってその後荒廃してしまい火災が起こって廃寺になったのだそうです。」
しかし、今となっては墓地のみとなってしまった天聖寺の跡地を近くに来たら行ってみませんか?
まあそれほど嫌いではない方のみにおすすめします。
あすへ記事は続きます。
しかし、同じ通りに旧小川町の歴史のいったんを知る貴重な場所がありました。
私が知る旧小川町のイメージは自衛隊の百里基地(現在では茨城空港併設)のある場所で、中世の園部城があったくらいで、石岡と小川を結ぶ小川街道沿いには飲食店や飲み屋さんも多いところだというくらいでした。
しかし、偶然見つけたこの場所で、私の頭から欠落していた歴史が見えてきたのです。

古い家並みの間に狭い路地があり、入口に「天聖寺斎場表参道」と書かれた石柱が立っています。
なに! 斎場ということは・・・・
普通なら入らないところですが、その先の石段脇にたくさんの石板や石仏が見えますので、恐る恐る中に入ってみました。

何やら、上り階段(ここは寺の参道?)の脇には古めかしい石碑や仏像などが所狭しと並んでいます。

そして、階段の登り口には禅寺で前に見かけたのと同じ「不許葷酒入山門」の文字が読めます。
これは前に古渡(ふっと)の興善寺や出島の田伏の実伝寺の山門にあったものと同じです。
「葷酒(くんしゅ)(ニンニクなどのくさい匂いをさせた者や酒を飲んでいる者)はこの山門から先に入ることを許さない」という意味でしたね。
何度か勉強したので覚えています。
昔はここに山門があったのでしょう。

ここから先の石段の両脇にはこのような石仏に混ざってたくさんの石板が並んでいます。
これは墓石なのか、塔婆のようなものなのかはわかりませんが、あまり写真におさめるものではないかもしれません。
嫌いな方は無視くださいね。

右側も同じです。

この参道脇にずうっと続いています。

何か不気味でもありますが、こんな光景は見たことありません。

これは庚申像(青面金剛と三猿)ですね。やっと覚えました。
よく見るとあちこちにあるんですね。
階段を上った先に、この場所にあった「天聖寺」のことが書かれていました。

説明の内容を理解するのに少し時間がかかりましたが、小川町の江戸時代から明治はじめまでの歴史の一端が見えたように思えました。
わかりにくく書かれているので要約してみると、
「この寺の開祖は水戸の祇園寺の第三世和尚である蘭山和尚が宝永4年(1707)に水戸義公(光圀)の取りなしで、88歳の高齢でこの場所に移ってきたのが始まりだという。
この蘭山和尚は元々は京都の名僧であったが、江戸に出てきた時に水戸光圀に認められて、僧籍のままで光圀の大日本史編纂を助けていたそうです。
そして、それから30石以上の寺領を与えられ、禅寺として14世に渡って発展を遂げてきたといいます。
しかし、幕末の天狗騒動で天狗党の棲家となってその後荒廃してしまい火災が起こって廃寺になったのだそうです。」
しかし、今となっては墓地のみとなってしまった天聖寺の跡地を近くに来たら行ってみませんか?
まあそれほど嫌いではない方のみにおすすめします。
あすへ記事は続きます。
天聖寺跡2-天妃(海洋の女神)
昨日の続きです。
今日は旧小川町の天聖寺に伝わる「天妃尊」像についての話です。
調べていったわけではないので、偶然見かけたものなのですが、とても興味が湧きました。

石段を登った上にこのような小さな石の保管庫が置かれています。

扉は開いておりませんが、説明板が置かれていました。「天妃尊」と書かれています。
この短い説明文だけでは内容がよくわかりません。調べてみる必要がありそうです。

この天妃は中国の海洋航海の女神だそうで、いまでも台湾にはたくさん信仰があるそうです。
参考資料:「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」
これによれば、天妃は媽祖(まそ)という道教の女神と同一で、中国の福建省に10世紀に実在した娘(黙娘)が神通力を得て奇跡をおこしたことなどから信仰の対象となっていったようです。
これが日本にも伝わり、ヤマトタケルの東征時に東京湾で入水して波を沈めたという弟橘姫伝説と一体となって信仰の対象となっていったということのようです。
この小美玉市の天聖寺に伝わったのは、江戸前期に清より伝わり、水戸義公(光圀)によって水戸の祇園寺に祀られ、その後その像を模して北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)、とここ小川の天聖寺に像が置かれたようです。
また、日本の信仰と一体となって神道の信仰に取り入れられていったようです。
神道を裏付けるようにこの寺の墓には次のような墓石がたくさんありました。

神道の墓には、仏教の戒名に当たるような決まりがあり、翁は老人男子、刀自(とじ)は老年女子のことだそうです。
たくさんの墓にこの文字が書かれていました。
調べた時に参考とさせていただいた前述の論文は関西大学のものですが、この中にこれらの寺などが置かれている場所の位置と海岸までの距離を地図でみて判定したところがありましたが、残念ながら現在の地図で判定したのではこの小美玉市の寺はきっと理解できないようです。
海岸(霞ヶ浦湖岸)まで2KM以上離れているとなっています。
でもこれは前にも書いたとおり、この園部川の河口付近が昔は大きな入江になっていたと思われるのです。
また、この小川が江戸時代の水戸と江戸を結ぶ海洋ルートの重要な港になっていたということを忘れてはいけないようです。
そのために水戸藩がこの小川の地を治めたのでしょう。
水戸藩とのつながりが強かったものと思われます。
江戸との物資運搬は、外洋航路が安定して行えるまでは、水戸から船で那珂湊より涸沼に入り、その先で陸でこの小川または鉾田に荷を運び、そこでまた船に載せ霞ヶ浦水運で利根川経由で江戸に運んでいたようです。
長い間、このルートが発達していたのですが、明治中頃に開通した鉄道に押され、この小川町は鉄道からも離れてしまいました。
やっとできた鹿島鉄道はこの小川の駅は「常陸小川駅」という名前で、設置されたのは隣町の玉里村でした。
この時にも、小川は水運の湊の意識が強く、駅は隣町になったとも言われているようです。
この鹿島鉄道も今はありません。
しかし、幡谷町長の時に大変な反対運動もあったようですが、自衛隊の百里基地を誘致して財政は大分助かったようです。
この幡谷仙三郎氏の碑が茨城空港のファントム展示場のすぐ近くに昨年秋に作られています。
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今日は旧小川町の天聖寺に伝わる「天妃尊」像についての話です。
調べていったわけではないので、偶然見かけたものなのですが、とても興味が湧きました。

石段を登った上にこのような小さな石の保管庫が置かれています。

扉は開いておりませんが、説明板が置かれていました。「天妃尊」と書かれています。
この短い説明文だけでは内容がよくわかりません。調べてみる必要がありそうです。

この天妃は中国の海洋航海の女神だそうで、いまでも台湾にはたくさん信仰があるそうです。
参考資料:「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」
これによれば、天妃は媽祖(まそ)という道教の女神と同一で、中国の福建省に10世紀に実在した娘(黙娘)が神通力を得て奇跡をおこしたことなどから信仰の対象となっていったようです。
これが日本にも伝わり、ヤマトタケルの東征時に東京湾で入水して波を沈めたという弟橘姫伝説と一体となって信仰の対象となっていったということのようです。
この小美玉市の天聖寺に伝わったのは、江戸前期に清より伝わり、水戸義公(光圀)によって水戸の祇園寺に祀られ、その後その像を模して北茨城の弟橘神社、大洗の弟橘比売神社(天妃神社)、とここ小川の天聖寺に像が置かれたようです。
また、日本の信仰と一体となって神道の信仰に取り入れられていったようです。
神道を裏付けるようにこの寺の墓には次のような墓石がたくさんありました。

神道の墓には、仏教の戒名に当たるような決まりがあり、翁は老人男子、刀自(とじ)は老年女子のことだそうです。
たくさんの墓にこの文字が書かれていました。
調べた時に参考とさせていただいた前述の論文は関西大学のものですが、この中にこれらの寺などが置かれている場所の位置と海岸までの距離を地図でみて判定したところがありましたが、残念ながら現在の地図で判定したのではこの小美玉市の寺はきっと理解できないようです。
海岸(霞ヶ浦湖岸)まで2KM以上離れているとなっています。
でもこれは前にも書いたとおり、この園部川の河口付近が昔は大きな入江になっていたと思われるのです。
また、この小川が江戸時代の水戸と江戸を結ぶ海洋ルートの重要な港になっていたということを忘れてはいけないようです。
そのために水戸藩がこの小川の地を治めたのでしょう。
水戸藩とのつながりが強かったものと思われます。
江戸との物資運搬は、外洋航路が安定して行えるまでは、水戸から船で那珂湊より涸沼に入り、その先で陸でこの小川または鉾田に荷を運び、そこでまた船に載せ霞ヶ浦水運で利根川経由で江戸に運んでいたようです。
長い間、このルートが発達していたのですが、明治中頃に開通した鉄道に押され、この小川町は鉄道からも離れてしまいました。
やっとできた鹿島鉄道はこの小川の駅は「常陸小川駅」という名前で、設置されたのは隣町の玉里村でした。
この時にも、小川は水運の湊の意識が強く、駅は隣町になったとも言われているようです。
この鹿島鉄道も今はありません。
しかし、幡谷町長の時に大変な反対運動もあったようですが、自衛隊の百里基地を誘致して財政は大分助かったようです。
この幡谷仙三郎氏の碑が茨城空港のファントム展示場のすぐ近くに昨年秋に作られています。


稽医館(小川)
ここ数日にわたって現小美玉市の旧小川町の紹介をしています。
今日も、訪れて初めて知ったことを紹介します。
(小川)稽医館(けいいかん)という医学の研究所があったことを知っているだろうか?
小川の方なら多くの人が知っているのかもしれませんね。
先日訪れた小川素鷲神社の隣に小川小学校があります。
この小学校の敷地は中世は園部城があった場所で、江戸時代になり運送庁の使われなくなった建物があったようです。
そこに文化元年(1804)に水戸藩の施設として医学研究所が設立され、後に烈公(徳川斉昭)に稽医館という名前を授けてもらったという。
この時に医学の神様の名前を書いた斉昭の書が残されているという。
この医学の神様は「大穴牟遅神(おおなむじのかみ) =大国主命」と「少名毘古那神=少名彦名命」です。
この医学研究所は水戸藩の最初の郷校(今で言う学校。水戸藩の教育機関)である「小川郷校」にも後になったようです。
小川小学校の敷地に碑が置かれていると書かれていましたが、今回見ていません。
稽医館は当時としては最先端の医療研究をしていたようで、主な研究テーマは種痘や外科手術だったといいます。
稽(けい)というと稽古の稽ですが、稽える=考える という意味のようです。
実はこの稽医館の存在は、天聖寺の墓地にある本間家の墓所に掲げられた説明板に書かれていたことで知ったのです。
雑誌「常陽藝文」の4月号に「郷土の医事先駆者たち」という特集記事が掲載されました。
そこに本間玄調という名医が紹介されています。
記事では本間家八代の本間玄調はこの稽医館が設立された1804年に生まれ、水戸藩医の原南陽に学び、江戸や京都の名医の門をたたき、紀州の華岡青洲や長崎にいたシーボルトにも師事したそうです。
そして、脱疽の重症患者を救うために、日本初の下肢切断(足の切断)手術に成功した人物だそうです。
その後、斉昭の招きで水戸弘道館の医学館教授を勤め、天然痘の予防接種を広めるのに貢献したといいます。
また膀胱結石の手術や肺結核の治療に取り組みました。
この本(藝文)は常陽銀行の各支店には無料で閲覧出来るように置かれていると思いますので、興味のある方は読んでみてください。

上は天聖寺にある本間家の墓所に書かれていた説明文です。
本間家6代の道意の時にこの小川に移り住み、玄調の父玄有(8代)、祖父玄琢(7代)が稽医館を開いたのです。
また、水戸市三の丸の三の丸小学校の前に本間玄調の立像が置かれているそうです。

さて、ここに掲げられている芭蕉の歌に弟子の曽良とともに、潮来の医師「本間道悦=本間家一代」(号は松江)の歌が載っています。
芭蕉はこの道悦に医術の知識を学んだとも言われ、芭蕉がこの道悦を訪ねて潮来に来た時に、鹿島方面にも行ったようです。
鹿行地域(鹿島・行方)に行くと、芭蕉の句碑がいくつかあります。
これが皆、芭蕉がこの本間道悦という医者と交流があったためだと知りました。
潮来にある長勝寺にも上の歌の句碑が置かれているそうです。
また本間道悦の墓は牛堀の長国寺にあるとかかれていました。
牛堀町は潮来町と合併しましたが、富嶽三十六景の「常州牛堀」に描かれている場所でもあります。
これで今までの記事ともつながりました。
1、鉾田市の月蔵寺の芭蕉句碑。
2、息栖神社の芭蕉句碑

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今日も、訪れて初めて知ったことを紹介します。
(小川)稽医館(けいいかん)という医学の研究所があったことを知っているだろうか?
小川の方なら多くの人が知っているのかもしれませんね。
先日訪れた小川素鷲神社の隣に小川小学校があります。
この小学校の敷地は中世は園部城があった場所で、江戸時代になり運送庁の使われなくなった建物があったようです。
そこに文化元年(1804)に水戸藩の施設として医学研究所が設立され、後に烈公(徳川斉昭)に稽医館という名前を授けてもらったという。
この時に医学の神様の名前を書いた斉昭の書が残されているという。
この医学の神様は「大穴牟遅神(おおなむじのかみ) =大国主命」と「少名毘古那神=少名彦名命」です。
この医学研究所は水戸藩の最初の郷校(今で言う学校。水戸藩の教育機関)である「小川郷校」にも後になったようです。
小川小学校の敷地に碑が置かれていると書かれていましたが、今回見ていません。
稽医館は当時としては最先端の医療研究をしていたようで、主な研究テーマは種痘や外科手術だったといいます。
稽(けい)というと稽古の稽ですが、稽える=考える という意味のようです。
実はこの稽医館の存在は、天聖寺の墓地にある本間家の墓所に掲げられた説明板に書かれていたことで知ったのです。
雑誌「常陽藝文」の4月号に「郷土の医事先駆者たち」という特集記事が掲載されました。
そこに本間玄調という名医が紹介されています。
記事では本間家八代の本間玄調はこの稽医館が設立された1804年に生まれ、水戸藩医の原南陽に学び、江戸や京都の名医の門をたたき、紀州の華岡青洲や長崎にいたシーボルトにも師事したそうです。
そして、脱疽の重症患者を救うために、日本初の下肢切断(足の切断)手術に成功した人物だそうです。
その後、斉昭の招きで水戸弘道館の医学館教授を勤め、天然痘の予防接種を広めるのに貢献したといいます。
また膀胱結石の手術や肺結核の治療に取り組みました。
この本(藝文)は常陽銀行の各支店には無料で閲覧出来るように置かれていると思いますので、興味のある方は読んでみてください。

上は天聖寺にある本間家の墓所に書かれていた説明文です。
本間家6代の道意の時にこの小川に移り住み、玄調の父玄有(8代)、祖父玄琢(7代)が稽医館を開いたのです。
また、水戸市三の丸の三の丸小学校の前に本間玄調の立像が置かれているそうです。

さて、ここに掲げられている芭蕉の歌に弟子の曽良とともに、潮来の医師「本間道悦=本間家一代」(号は松江)の歌が載っています。
芭蕉はこの道悦に医術の知識を学んだとも言われ、芭蕉がこの道悦を訪ねて潮来に来た時に、鹿島方面にも行ったようです。
鹿行地域(鹿島・行方)に行くと、芭蕉の句碑がいくつかあります。
これが皆、芭蕉がこの本間道悦という医者と交流があったためだと知りました。
潮来にある長勝寺にも上の歌の句碑が置かれているそうです。
また本間道悦の墓は牛堀の長国寺にあるとかかれていました。
牛堀町は潮来町と合併しましたが、富嶽三十六景の「常州牛堀」に描かれている場所でもあります。
これで今までの記事ともつながりました。
1、鉾田市の月蔵寺の芭蕉句碑。
2、息栖神社の芭蕉句碑



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