真家のみたまおどり

 石岡の真家地区には平安時代から続く「みたまおどり」が伝承されている。毎年8月15日に行われる盆踊りです。朝8時に明円寺に集まり、最初の踊りを披露します。その後新盆の家をまわり、園部地区から全龍寺、最後にこの踊りが奈良の長谷寺から最初に伝えられたといわれる福寿院で午後3時頃まで続きます。今日は朝8時と時間が早いにもかかわらず、カメラマンが10名ほど集まり、ホーイ・ホイ、ホーイ・ホイの掛け声で始まりました。
みたま踊りは文化庁選定無形文化財の指定を受けており盆踊りの原型を探る上でも大変貴重なものです。地元保存会の方や子供たちが頑張って伝え残していってほしいものです。今日は朝から夏の天気で子供たちも大変です。今年は新盆3か所を含め、8か所で踊ります。30分/回くらいの結構長いものです。
この日の真家地区は献上柿の木々のまわりをオニヤンマが飛び回っていました。
みたま踊り

民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/08/15 11:16

真家みたまおどり(平安時代からの盆おどり)

 今年も見てきました。
朝8時スタートというので明円寺へ行ってみると駐車場は少ししか空いていませんでしたが寺の駐車場に止めることができました。

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くりこみ(提灯)を先頭に花笠マトイ、ミドシ、虎の皮、トウシン、軍配サイマラ、ビンザサラ、踊り子、太鼓、笛、歌い手の順に入場します。
おどりは「ホーイホイ」という掛け声で始まります。

(この踊りの歌は、旧八郷町誌(古い版)に載っていたと思います。興味のある方は図書館で見てください)

明円寺の入口の上り階段のところを並んで登ってきます。
しかし、カメラマンに注文をつけられて、片足を踏み出して止まってポーズだそうです。

カメラマンは年々増えて朝早いためか年配者ばかり。
私もそのひとりには違いないが、あまり一緒にはいたくない。困ったもんだ。

私は写真の出来の善し悪しにはあまりこだわりもなく、このようにカメラマンが多いところは苦手です。

写真というよりも伝えたいものがいつもあるので、どうも噛み合わないことが多いのです。

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皇室への献上柿の産地として知られる「真家地区」
比較的子供も多いようです。

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この踊りは平安時代に始められた盆踊りで、新盆の家を1件づつまわって輪の周りを踊るものです。

国選択無形民俗文化財に指定されています。

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歴史的にも大変興味があるのですが、現在は変わった盆踊りとして伝わっているだけと感じてしまいます。

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今年の主役はこの子ですね。 ちゃんとたくさんのカメラマンに狙われていました。

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このスタート地点となる「明円寺」は親鸞の弟子「明法房」の明と「弁円」の円をとって名付けられています。
山伏弁円は有名な山伏でしたが、親鸞が稲田の草庵にいて日増しに評判が良くなってくるのを妬ましく感じて、ついに親鸞を襲います。
しかし、親鸞の態度と言葉にたちまち改心して弟子となり「明法房」と名乗りました。

(この話は大覚寺に残されています)

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皆んな一所懸命踊っていました。

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この踊りの紹介は毎年しているので、今回が3回目です。

しかし、水戸から筑波山への参詣街道であった「瀬戸井街道」(こちらに記事)がこの横を通っていたことを知ることができたので、この祭りを見る目も少し変わってきたように思います。

今日は8月15日。終戦記念日です。
何か理由のわからない動きが日本の周辺で続いています。

かなり感情的になると難しい問題になりそうです。
こういう時こそ落ち着いて大人の対応が求められますね。

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民族と芸能 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2012/08/15 19:00

太田善光寺(4)

 石岡市八郷地区太田にある善光寺を数回にわたって紹介しています。

 この壊れかかった寺は、「廃屋マニア」や「心霊ツアー」などに出てきたり、仮面ライダーファンなどによる映画撮影地ツアーなどに知られるのみとなってしまったようです。

しかし、なぜか前から「善光寺楼門」として室町時代の立派な門だけがポツンと残されているのが気になっていました。

そして、調べていくと本当はもっと重要な場所だったのかもしれないと考えるようになりました。
あまりにも具体的な説明がされずにいるような気がしてきたのです。
私は歴史学者でもないし、単なる最近流行になっている歴史好きなマニアの域は出ていません。

しかし、現地に出かけてそこにある風景や吹く風の音や匂いを感じていくと、知らず知らずに本当の姿が見えてくるように思えるのです。

そして、先月から入会した「ふるさと風の会」の会報に、この善光寺で昔行われていた「太田万灯祭」の記事を載せました。
詳細はそちらに1ヶ月以上前に書いてしまいましたので省きますが、写真を残しておきたいものがあるので少しだけ紹介します。

実は「万灯祭」と聞いて、土浦大畑にある「鷲神社(わじじんじゃ)の唐傘万灯祭」を想像していました。
この祭りを知る人もおそらく少ないと思いますが、回転する大きな唐傘に仕掛け花火を仕掛けて、少し離れたところから電線のように張った綱に導火線を巻いて点火します。

これが唐傘に火が移ると勢いよく花火が周囲に綺麗に飛び散ります。昔はこの唐傘がクルクル回って火花も回転して綺麗だったそうですが、これも危ないので回転はさせなくなったと聞いています。
また神社の名前は「わしじんじゃ」というのですが、本当は「とり神社」「おおとり神社」と読むのが正解なのかもしれません。でも地元ではわしじんじゃと言うそうです。

一方、こちら太田の万灯祭は今では行われなくなってしまい、どんな祭りだったのかが気になっていました。
それを、10月に訪れた時に、ちょうど地元の地区のお年寄りがたくさん集まって屋外で輪投げなどのゲームをされていました。

そして、この境内にある「太田田園都市センター」の窓やドアを開けて中を覗くことができたのです。

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善光寺楼門をくぐったところが広場になっており、地区の公園のようになっています。
当然昔は寺の境内であったと思われます。

手前の真ん中あたりに池があります。
万灯祭りは旧暦の6月14日(現在の7月末)にこの境内と、上の寺の周りで夜を徹して行われたそうです。
いわゆる盆踊りに近いものでした。

そこでうたわれる歌が「苗代(なしろ)の水の口 お池の松は姫の松」とくり返し歌ったのです。

もう一つ潮来節の歌がありますが、こちらは風の会の記事に詳しく書いたので省略します。

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こちらが「太田田園都市センター」です。公民館と同じようですが、大きくて立派です。
大広間と畳の部屋をつなぐ廊下があり、炊事場も備わっていました。

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裏山の寺に上る階段の途中から広場を振り返ってみました。
正面に藁葺き屋根の立派な楼門があり、右手が田園都市センターです。
地元の方の話では、この都市センターのある場所に昔(明治の頃まで)は善光寺という寺があり、住職もいたそうです。

この寺の住職の墓は、この階段の途中の(中段の)東側に並んでいるものがそうです。(下記)

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お墓の写真などを載せてごめんなさい。
この上の小田氏の五輪塔などとは異なっていることがよくわかります。
無くなってしまった寺はお宮といわれる現在の大きな寺と思われる建屋の下に位置していたのかもしれません。
下にあったのが善光寺で上のものが新善光寺などということも考えられます。

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これが万灯祭りに使われた万灯のの模型です。

少し長くなりましたので、明日もう少し書きたいと思います。

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民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/12/17 18:43

太田善光寺(5)

昨日の記事の続きです。途中まで書いていたのですが、長くなったので2つに分けました。

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昔行われていた時の写真が、この田園都市センターの部屋に飾られていました。

大きさはこの写真でわかりますね。大きなはしごを真ん中にして6mくらいの長さの太い竹の棒を数本と、縄を取り付けます。
はしごに2人が乗り、それを皆で持ち上げて、寺の周りを歌いながら3周するのだそうです。

これは、サラリーマンも増えたことや人手不足などで、昭和の後半にはいつの間にか行われなくなりました。

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田園都市センターの中の部屋に飾られた写真を撮らせていただきました。
ここに掲載する失礼をお許しください。
もう見ることができなくなったお祭りの写真です。この祭りの記録を残したいと思います。
いつか復活してくれると嬉しいです。

歌などからしても江戸時代から続いていたことは明らかだと思います。

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善光寺楼門の南側には田園が広がります。
この少し先の方には昔恋瀬川に荷を積み出す艀があったようです。

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西側の地区には大きな家も目立ちます。
今の寺の場所に移される前は、この上の(北の)方の高台に寺はあったようです。

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また、この少し南西側に「大足(おおだら」という地名が残されています。
水戸の方にも同じ名前の場所が有り、ダイダラボッチ伝説なども残されていますが、製鉄と関係があるような話も聞きますので、この地も大昔に海の水が入ってきていて砂鉄でも取れたのかもしれません。

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写真の真ん中が「善光寺楼門」です。奥に見える山並みは吾国山(518m)から難台山(553m)、愛宕山(305m)へ続く山並みです。

ところで小田氏が善光寺信仰をしていたのでしたら、善光寺仏と言われる阿弥陀如来三尊が祀られているのかと思いました。

しかし、ここに祀られているのは1寸八分くらいの小さな金の阿弥陀如来像だそうです。
三体ではなく1体です。
普段は個人宅(小田氏の子孫といわれる)の土蔵に保管されていて、この旧暦6月14日にこの田園都市センターにお寺さんを呼んで役員の方々が集まって、開帳されると聞きました。

昔はこれも眩しくて目が潰れるなどと木箱を開けなかったそうです。
金の如来様も見てみたいですね。

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帰る途中で、石岡府中酒造さんの「渡舟」の米の栽培地がありました。



ふるさと風の会の会報(11月号)→ こちら

ふるさと風の会は → こちら

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民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/12/18 18:41

じゃかもこじゃん(1)

 昨日の中秋の名月(旧暦8月15日)の晩とその前の晩の2日に亘って行われた伝統行事「八幡宮太々神楽」を紹介します。

地元では「じゃかもこじゃん」と呼んでいます。

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昔はもう少し遅い時間から始まって真夜中まで行われていたようですが、今は夜7時から11時までだそうです。

この石岡の八郷地区柿岡の街道から上宿信号を少し入ったところに八幡神社があります。(紹介記事はこちら

7時少し前に到着しました。

神社(八幡宮)はこうこうと明かりがともり長い幟り旗が4本ほど立っていました。
夜空には中秋の名月が浮かんでいます。

鳥居の横の2本は「奏楽錚錚懐太古」(奏楽そうそう太古をなつかしむ)と「舞容粛粛仰神祇」<舞容しゅくしゅく神祇(じんぎ)をあおぐ>と読むそうです。何時頃作られたものでしょうか。

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境内には奥に舞台。手前の周りには数多くの屋台が並んでいます。

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こちらは神社の境内に作られたこの地区(荒宿)の公民館です。

係の人と共に、今日の主役の可愛い巫女さんが4人。
見た感じでは2人ずつ交代で2年間務めるのでしょうか?

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親御さんたちも大変ですね。代々この地区に住む人の中から選ばれてきています。

昔この地区は「八幡町」と呼ばれていたようです。今は荒宿・西町・上宿・仲町と町名は変わっていますが、この神楽はこの地区の長男が受け継ぐことになって守られてきました。

しかし、今では長男に限らずこの地区の人すべてを対象に保存会を結成して守っています。

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祭り開始前の舞台です。

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舞台の正面。

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境内のお稲荷さんと子安神社。
夜はきつねの目も怪しく光ります。

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7時になる頃に境内も大分にぎわってきました。

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(上の写真はクリックで拡大写真が見られます。)

さあ、いよいよ神楽のスタートです。

かわいい巫女さんたちは緊張した面持ちで舞台に上がり右隅に座りました。

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(上の写真はクリックで拡大写真が見られます。)


謂れでは、文禄4年(1595)長倉義興が、柿岡城主になった時に伊勢からこの神楽(24舞)を持ち帰り、そのうちの12座を継承してきたと言います。
(参考まで・・・柿岡城・善慶寺:こちら、常陸大宮市長倉宿:こちら

400年の長きにわたって続いてきたと伝わっています。
柿岡は江戸時代は幕府の天領となっている時代が長く続きました。

このような祭りを残していける何かがあったのかもしれません。
前に筑波山信仰の街道「瀬戸井街道」を紹介しましたが、この柿岡を通過しています。
また霞ヶ浦の水運の発達していた時も、ここの恋瀬川から舟で霞ヶ浦に物資を運んでいます。

神楽は全国各地にまだ残されているところがたくさんあるようです。
しかし、時代の波が現代的な合理的な生活スタイルが浸透してくると、都会の方からこれらの伝統行事が無くなって来ています。

写真が増えてしまいましたので、明日に続きます。


民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/09/20 19:17

じゃかもこじゃん(2)

 昨日の柿岡の荒宿にある八幡神社で行われた太々神楽(じゃかもこじゃん)の続きです。

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神社の拝殿は畳の広いほぼ真四角な舞台になっています。

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最初は男性4人が舞う「国堅(くにがため)」です。
日本の国を造った時、たくさんの島々ができました。
この島々が出来るのを喜んで堅めてまわるイザナギ・イザナミの2神の様子を描いています。

この旧八幡町に婿にやってきた男性が演じることになっていたそうです。
最初は2人だったはずですが、いつの間にか4人で演じる様になったようです。

舞台の周りをを4人並んでうれしそうに廻ります。この踊りは「早みこ」ともいうそうです。

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この舞台は2方が開放されていますので、見物客は思い思いの格好で、舞台を取り囲んでの見物です。

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さて、次は地元の小学生から選ばれた巫女4人が踊ります。
巫女舞=神子舞だそうです。

穢れのない女の子ということで、地元の10歳前後の子供から毎年選ばれます。

石岡には私の知っているところで他に2箇所同じような神楽が残されており、皆小学生の巫女さんが選ばれます。

染谷佐志能神社の十二座神楽と根小屋七代天神社の代々十二神楽です。

そういえば鹿嶋市の大生神社にも同じような神楽がありました。

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気な緊張した顔が印象的でした。

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近くで見ていると足の運びに緊張感がにじんでいました。
一所懸命に練習に励んだのでしょうね。

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踊り終わった後の表情がとてもかわいらしいですよね。

この神子舞は十二座には入っていません。これを入れると十三になります。

各神楽の途中で計4回別々の神子舞が披露されるそうです。

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さて、次がこの「じゃかもこじゃん」の言葉の元となったと思われる「老翁(おきな)」です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)です。
天上界の主神です。

剣を腰に差し、手に白い紙を持って、数回廻ります。紙で四方に種をまいているのでしょうか。

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剣を抜いて、また四方を廻ります。
剣で蛮族を平定しているようです。

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老翁は四隅でそれぞれ剣を突き立て、変な腰振りダンスを踊ります。

これは四方に柱を建て、地を固めている姿と言いますが、昔の事やはり少し別な意味合いもありそうです。

五穀豊穣、子孫繁栄・・・ 昔の古事記の世界かもしれません。

「じゃかもこじゃん」というのは、この踊りの事をいうようですが、踊りの時になる拍子の音がそのように聞こえるからともいいます。

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舞台は地区の子供達も熱心にのぞきこんでいます。
この子供達は、将来この伝統を継いで行ってくれるのでしょう。

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つづいて、キツネが登場します。
「天狐(てんこ)」と「種嫁(たねがし)」の舞です。

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三部構成で、最初は天狐が一人で自由奔放に舞います。

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天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫、天種子命(あめのたねがしのみこと)をあらわしており、五穀豊穣の舞です。

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そこに種子命がやって来て、種まきをするのを天狐が手伝う様子を表現します。

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最後に命(みこと)が高天原に戻ってしまうのを天狐は慕ってとび跳ねたりします。

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ここで、1時間が経過しましたので残りは見ずに引き揚げてきてしまいました。
終わるのは夜11時頃だそうですので演じる方もかなり大変です。

残りの9つの神楽は

4、龍神(天御柱命)
5、地法(ちのり)・赤鬼 (タケミカズチ=鹿島神宮の祭神)
6、神酒(みき)の舞 (天児屋根命)
7、西ノ宮大神 (蛭児之神)
8、鈿女(うずめ)(天鈿女神・・・猿田彦と結婚)
9、岩戸
10、戸隠 (天手力男命)
11、猿田彦の大神
12、山の神 (天大山祇命)

この最後の舞の時に餅が撒かれる。 皆が急いで拾うのだそうです。
この時までいませんでしたが、前の日に撒いた時には1人で10個も拾ったなどと言う話が聞こえてきました。

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民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/09/21 16:36

常行三昧会(1)

 9月24日から30日までの7日間、行方市の西蓮寺で毎年、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。

今日はその中日で、籠行列も行われると聞いてやってきました。

一般に伝えられているところによると、常行(三昧)堂は、阿弥陀如来を祀り、その廻りを門徒僧侶たちが何日間も読経して廻るという修行のことで、天台宗では本来は阿弥陀如来の後ろに「摩多羅神(またらじん)」(後戸の神)が置かれていて、これが翁などの能楽の基になったと言われています。

そして、この摩多羅神は秘仏のため姿を公開されることがほとんどないと言われるのです。

この摩多羅神に興味があったため、ここの常行堂の三昧会がどのようなものかを確認しに出かけたのです。

しかし、この常行堂には摩多羅神は置かれていないようです。

これから2~3回に分けて、写真を見ながら少しずつ調べ物をして、記事をまとめていきたいと思います。

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西蓮寺入口の山門(仁王門)です。これは昔、石岡市太田の善光寺楼門とほぼ同じ造りだと書いたものです。(こちら

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この祭りもかなり盛大なもので、車も山百合祭り(去年の記事1記事2)の時の半分くらい来ていました。

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さて、西蓮寺の常行堂の中に、「びんづるさま」が置かれていました。
どこか悪いところがあれば、その部分をなぜると治ると言われているものです。

一般にはインドの仏教で賓頭盧(びんづる)尊者といわれる仏陀の弟子(十六羅漢の第一位)で、日本の各地でも「びんづるさま」として親しまれているものです。

でも、ここでは少し違った解釈がされています。なにしろ「びんづるおばあちゃん」というのですから驚きです。
これはまた後でお話ししましょう。

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この常行堂の裏に廻って見ました。
僧侶の方はこちらから出這入りするようです。
そしてここに張られた紙を見ると、2時間置きに僧侶たちは入れ替わっているようです。(実態は知りません)

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さて、この常行堂の御本尊の薬師如来像はどれでしょうか?

正面に3体の阿弥陀如来像、左側に1体の阿弥陀如来像(上の写真)、裏にも1体、右手は確認できませんでしたが置かれていたかもしれません。

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近隣のたくさんの信者の方などが来られていました。数千円で記帳して蝋燭とお札をもらい、名前を書いた紙が後に張られます。

年配の女性の方も杖をつきながら、たくさん来ておられました。

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この金網の向こうに如来三尊が置かれ、その前を読経しながら僧侶が一人ずつまわります。
観音像の前で一礼していきます。

これを延々と続けていきます。

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堂の中には武者絵が奉納されていました。

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こちらが如来三尊です。真ん中の像も立像です。

この西蓮寺の本尊は薬師如来座像で、これは別に薬師堂裏の立派な収納庫に保管されています。

でも私には薬師如来と阿弥陀如来の区別があまりよくわかっていません。

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こちらが常行堂の後ろの入口です。

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この後ろ側の入口正面にも如来像が祀られていました。


さて、行方市などで紹介している資料によると、この寺は、

「寛治年間(1087~94)に地元の長者が比叡山より移したものとされ、西蓮寺の末寺、門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日の7日7夜にわたって堂内を廻りながら独特の節回しで立行誦経する大法要です。」

となっています。この辺りはまたもう少し掘り下げて見たいと思います。

この長者にまつわる話が何故ここに伝わってきたのか?
話しの内容は次回にします。

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民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/09/27 19:59

常行三昧会(2)

 昨日の西蓮寺の常行三昧会の様子の続きです。

ここの天台宗の西蓮寺(さいれんじ)の阿弥陀如来を祀る「常行堂」では、毎年9月24日~30日の7日間に亘って、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。

これは近隣の寺からもたくさんの僧侶が参加して、数体の阿弥陀如来像が祀られている廻りを読経して休みなくぐるぐる回る修行の場ですが、同時に近隣からたくさんの信者の方が訪れて、「仏立て(ほとけだて)」という行事も行われます。

普段は開放されないこれらのお堂の仏像も開帳されます。

常行三昧堂は天台宗の中心である比叡山延暦寺などの修行の中心となる寺院に造られています。

この修行が通常は90日間も行う厳しいものだったようですが、ここでは現在は7日間だけ行われています。
(この西蓮寺が昔は90日も行っていたのかについては良くわかりませんが、そういう時代もあったのではないかと思っています)

そして、この常行三昧堂の阿弥陀如来の後ろに「後戸の神」といわれる「摩多羅神(まだらじん)」(能楽の神?)が中世には置かれていたのではないかとも思うのですが、いろいろこの寺について書かれたものを見てもその記述はありません。

それこそ翁の面をかぶった神楽のような舞でもあればその存在を考えるのですが、まったくその気配はありません。

7日間の三昧会の初日・中日・最終日の3回に昼の12時から平安時代を思わせる駕籠行列が行われます。
中日である昨日(9/27)に見たので紹介します。

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十二時近くなり、常行堂と境内の反対側にある「客殿」前に駕籠が準備され、僧侶が法螺貝などを手にして整列を始めました。

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奥が客殿です。ここから真直ぐ前の常行堂に向かって行列が始まります。

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先頭は拍子木を鳴らして進みます。

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(クリックすると大きな写真となります)

その後ろを法螺貝を吹く僧侶も続きます。

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(クリックすると大きな写真となります)


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(クリックすると大きな写真となります)

最後に4人に担がれた駕籠が、赤い傘が印象的です。
この駕籠には大僧正?様が乗っています。

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(クリックすると大きな写真となります)

弘安の役(元寇)の戦勝を記念して1287年(弘安10)に建立したと伝えられる相輪と樹齢約1000年以上といわれるイチョウの大木の間を通ります。

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(クリックすると大きな写真となります)

行列は常行堂の正面から外側を廻って裏の入口へ到着しました。
ここから中に入ります。

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(クリックすると大きな写真となります)

駕籠がこの裏の入口に横付けされました。
結構重たいのでよろよろしながら無事到着しました。
それにしてももう少し若い人が担いだ方が良いのでは?
私より年配の方ばかりのように見えました。

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駕籠から大僧正が下りてきました。

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階段を上り、常行堂の中に入って行きました。

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そして、お堂の中ではまた読経が続けられます。

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阿弥陀如来の像の前でお経を唱えて廻ります。

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堂の正面には阿弥陀三尊がありますが、その左手にこの阿弥陀如来様があります。

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(クリックすると大きな写真となります)

恐らく昔はこんな行列での行事はなかったのでしょうが、いつから始まったものなのかはよくわかりませんでした。

僧侶と平安衣装に法螺貝。どのような意味合いが含まれているのか。

なかなか考えはまとまりません。

明日、もう少し続きます。

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民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/09/28 20:17

常行三昧会(3)

 行方(なめがた)市の常陸高野こと西連寺の常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)に関して紹介しています。

この(尸羅慶台上山)西蓮寺(天台宗)の創建はかなり古く、782年(延暦元年)に桓武天皇の勅命によって最仙によって創建されたと伝えられています。

最仙上人は最澄(伝教大師)の弟子といわれる僧侶で、常陸国の関城(真壁郡)に生まれ、最初は徳一法師と同じ法相宗に属していたとされます。

そして、常陸国分寺、国分尼寺の僧尼などに経典を講義する講師(こうじ)に任ぜられた人物です。
常陸国ではこの西蓮寺の他、筑波四面薬師と言われる「東城寺」「椎尾薬師」なども創建したと伝わっています。

また、ここの西蓮寺は曼珠院の院号を持っており、鎌倉時代の中頃、比叡山の無動寺から慶弁阿闍梨(けいべんあじゃり)が来て七堂伽藍を造営し、京都の曼殊院(まんじゅいん)の門跡忠尋大僧正が、乱をのがれてこの寺に来てとどまり、曼殊院の額を山門にかかげたと伝えられています。

私も中学時代の京都修学旅行の自由時間にこの曼殊院を訪れたことがあります。修学院離宮の近くにひっそりと有りましたが、庭園も素晴らしく、戸や襖の取っ手模様まで大変凝った造りで印象深く思いだされます。

このように歴史ある寺であり、常陸国の天台宗では中心となる寺名のですが、この有名な常行三昧会(仏立て)の行事の始まりとして少し変わった内容が伝わっています。

それは、源氏の元となる八幡太郎義家が後三年の役(1083~1087)の蝦夷征伐時に鹿島神宮に戦勝を祈願するためにこの地を訪れます。

そしてこの土地の長者(唐ケ崎長者)の家で食事をふるまってほしいと頼んだそうだ。しかし、口に合うようなものが用意できないと丁重にお断りした所、粗末なものでもよいのでといわれ、出されたのがたいそう豪華な食事だったそうだ。

こんな金持ちの長者を生かしておいたら大変だと義家は一家を皆殺しにしてしまった。
ところが娘が一人だけ生き残り、この西蓮寺に預けられ、この娘が両親の供養のために、比叡山から常行三昧会をこの寺に移して始まったというのである。

これはいろいろな話がごっちゃになっているような思いに駆られる。
そのまま信じるには少しばかりおかしい。

何故、長者、またはその娘が比叡山からこのような行事を移すことができたのか?
長者は何故八幡太郎義家に殺されたのか? これは何故、水戸の渡里町に残された渡里長者伝説とそっくりなのか?
義家は本当にこの地を訪れたことがあるのか?

この寺は薬師如来が本尊だが、常行堂に祀られているのは「阿弥陀如来」であり、天台宗の寺であるのにこの仏立て行事は宗派を問わないのは何故なのか?

まあ、あまり考えても真実は出てこないと思うが、少しおかしいと思うのは私だけなのかな?

びんづる尊者像も「この長者の娘で、びんづるおばあちゃん」と言うのもなんだかおかしいよね。

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この西蓮寺の本尊は薬師如来で、常行堂の西側にある薬師堂の後ろにあるコンクリートの収納庫に保存されている。

この薬師如来座像は、開基した最仙上人自らが彫ったものとされ、一木背刳(せぐり)造りである。

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この日は何時も閉じられている薬師堂も開放され、入口で役員が受付していた。

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少し遠くから写真を撮ったが中が暗くて本尊が撮れているのかもよくわからない。

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この日は行列を見ようと地元の保育園(幼稚園)生か小学生?見物に来ていました。
みんなお行儀よく座って行列の来るのを待っていました。

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みんな今か今かと待っています。
しかし、私を含めアマチュアカメラマンもたくさん来ていました。
これがあまりマナーが良くないんです。

私がカメラを構えたすぐ前にやって来て頭が邪魔でなかなか撮れません。

本当にイライラします。

でも、「他人の振り見て我が振り直せ」ですね。

自分も邪魔になっているかとも思いましたね・・・・・。

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1000年以上にもなると言うイチョウの木は本当に見事です。子供達も不思議そうに見上げていました。

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民族と芸能 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/09/29 16:28
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