真家のみたまおどり
石岡の真家地区には平安時代から続く「みたまおどり」が伝承されている。
毎年8月15日に行われる盆踊りです。
朝8時に明円寺に集まり、最初の踊りを披露します。
その後新盆の家をまわり、園部地区から全龍寺、最後にこの踊りが奈良の長谷寺から最初に伝えられたといわれる福寿院で午後3時頃まで続きます。
今日は朝8時と時間が早いにもかかわらず、カメラマンが10名ほど集まり、ホーイ・ホイ、ホーイ・ホイの掛け声で始まりました。
みたま踊りは文化庁選定無形文化財の指定を受けており盆踊りの原型を探る上でも大変貴重なものです。
地元保存会の方や子供たちが頑張って伝え残していってほしいものです。
今日は朝から夏の天気で子供たちも大変です。今年は新盆3か所を含め、8か所で踊ります。30分/回くらいの結構長いものです。
この日の真家地区は献上柿の木々のまわりをオニヤンマが飛び回っていました。

みたまおどり その(2) 2012年夏へ
毎年8月15日に行われる盆踊りです。
朝8時に明円寺に集まり、最初の踊りを披露します。
その後新盆の家をまわり、園部地区から全龍寺、最後にこの踊りが奈良の長谷寺から最初に伝えられたといわれる福寿院で午後3時頃まで続きます。
今日は朝8時と時間が早いにもかかわらず、カメラマンが10名ほど集まり、ホーイ・ホイ、ホーイ・ホイの掛け声で始まりました。
みたま踊りは文化庁選定無形文化財の指定を受けており盆踊りの原型を探る上でも大変貴重なものです。
地元保存会の方や子供たちが頑張って伝え残していってほしいものです。
今日は朝から夏の天気で子供たちも大変です。今年は新盆3か所を含め、8か所で踊ります。30分/回くらいの結構長いものです。
この日の真家地区は献上柿の木々のまわりをオニヤンマが飛び回っていました。

みたまおどり その(2) 2012年夏へ
真家みたまおどり(平安時代からの盆おどり)
今年も見てきました。
朝8時スタートというので明円寺へ行ってみると駐車場は少ししか空いていませんでしたが寺の駐車場に止めることができました。

くりこみ(提灯)を先頭に花笠マトイ、ミドシ、虎の皮、トウシン、軍配サイマラ、ビンザサラ、踊り子、太鼓、笛、歌い手の順に入場します。
おどりは「ホーイホイ」という掛け声で始まります。
(この踊りの歌は、旧八郷町誌(古い版)に載っていたと思います。興味のある方は図書館で見てください)
明円寺の入口の上り階段のところを並んで登ってきます。
しかし、カメラマンに注文をつけられて、片足を踏み出して止まってポーズだそうです。
カメラマンは年々増えて朝早いためか年配者ばかり。
私もそのひとりには違いないが、あまり一緒にはいたくない。困ったもんだ。
私は写真の出来の善し悪しにはあまりこだわりもなく、このようにカメラマンが多いところは苦手です。
写真というよりも伝えたいものがいつもあるので、どうも噛み合わないことが多いのです。

皇室への献上柿の産地として知られる「真家地区」
比較的子供も多いようです。

この踊りは平安時代に始められた盆踊りで、新盆の家を1件づつまわって輪の周りを踊るものです。
国選択無形民俗文化財に指定されています。

歴史的にも大変興味があるのですが、現在は変わった盆踊りとして伝わっているだけと感じてしまいます。

今年の主役はこの子ですね。 ちゃんとたくさんのカメラマンに狙われていました。

このスタート地点となる「明円寺」は親鸞の弟子「明法房」の明と「弁円」の円をとって名付けられています。
山伏弁円は有名な山伏でしたが、親鸞が稲田の草庵にいて日増しに評判が良くなってくるのを妬ましく感じて、ついに親鸞を襲います。
しかし、親鸞の態度と言葉にたちまち改心して弟子となり「明法房」と名乗りました。
(この話は大覚寺に残されています)

皆んな一所懸命踊っていました。



この踊りの紹介は毎年しているので、今回が3回目です。
しかし、水戸から筑波山への参詣街道であった「瀬戸井街道」(こちらに記事)がこの横を通っていたことを知ることができたので、この祭りを見る目も少し変わってきたように思います。
今日は8月15日。終戦記念日です。
何か理由のわからない動きが日本の周辺で続いています。
かなり感情的になると難しい問題になりそうです。
こういう時こそ落ち着いて大人の対応が求められますね。
みたまおどり (1) 2010年夏へ
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朝8時スタートというので明円寺へ行ってみると駐車場は少ししか空いていませんでしたが寺の駐車場に止めることができました。

くりこみ(提灯)を先頭に花笠マトイ、ミドシ、虎の皮、トウシン、軍配サイマラ、ビンザサラ、踊り子、太鼓、笛、歌い手の順に入場します。
おどりは「ホーイホイ」という掛け声で始まります。
(この踊りの歌は、旧八郷町誌(古い版)に載っていたと思います。興味のある方は図書館で見てください)
明円寺の入口の上り階段のところを並んで登ってきます。
しかし、カメラマンに注文をつけられて、片足を踏み出して止まってポーズだそうです。
カメラマンは年々増えて朝早いためか年配者ばかり。
私もそのひとりには違いないが、あまり一緒にはいたくない。困ったもんだ。
私は写真の出来の善し悪しにはあまりこだわりもなく、このようにカメラマンが多いところは苦手です。
写真というよりも伝えたいものがいつもあるので、どうも噛み合わないことが多いのです。

皇室への献上柿の産地として知られる「真家地区」
比較的子供も多いようです。

この踊りは平安時代に始められた盆踊りで、新盆の家を1件づつまわって輪の周りを踊るものです。
国選択無形民俗文化財に指定されています。

歴史的にも大変興味があるのですが、現在は変わった盆踊りとして伝わっているだけと感じてしまいます。

今年の主役はこの子ですね。 ちゃんとたくさんのカメラマンに狙われていました。

このスタート地点となる「明円寺」は親鸞の弟子「明法房」の明と「弁円」の円をとって名付けられています。
山伏弁円は有名な山伏でしたが、親鸞が稲田の草庵にいて日増しに評判が良くなってくるのを妬ましく感じて、ついに親鸞を襲います。
しかし、親鸞の態度と言葉にたちまち改心して弟子となり「明法房」と名乗りました。
(この話は大覚寺に残されています)

皆んな一所懸命踊っていました。



この踊りの紹介は毎年しているので、今回が3回目です。
しかし、水戸から筑波山への参詣街道であった「瀬戸井街道」(こちらに記事)がこの横を通っていたことを知ることができたので、この祭りを見る目も少し変わってきたように思います。
今日は8月15日。終戦記念日です。
何か理由のわからない動きが日本の周辺で続いています。
かなり感情的になると難しい問題になりそうです。
こういう時こそ落ち着いて大人の対応が求められますね。
みたまおどり (1) 2010年夏へ


太田善光寺(4)
石岡市八郷地区太田にある善光寺を数回にわたって紹介しています。
この壊れかかった寺は、「廃屋マニア」や「心霊ツアー」などに出てきたり、仮面ライダーファンなどによる映画撮影地ツアーなどに知られるのみとなってしまったようです。
しかし、なぜか前から「善光寺楼門」として室町時代の立派な門だけがポツンと残されているのが気になっていました。
そして、調べていくと本当はもっと重要な場所だったのかもしれないと考えるようになりました。
あまりにも具体的な説明がされずにいるような気がしてきたのです。
私は歴史学者でもないし、単なる最近流行になっている歴史好きなマニアの域は出ていません。
しかし、現地に出かけてそこにある風景や吹く風の音や匂いを感じていくと、知らず知らずに本当の姿が見えてくるように思えるのです。
そして、先月から入会した「ふるさと風の会」の会報に、この善光寺で昔行われていた「太田万灯祭」の記事を載せました。
詳細はそちらに1ヶ月以上前に書いてしまいましたので省きますが、写真を残しておきたいものがあるので少しだけ紹介します。
実は「万灯祭」と聞いて、土浦大畑にある「鷲神社(わじじんじゃ)の唐傘万灯祭」を想像していました。
この祭りを知る人もおそらく少ないと思いますが、回転する大きな唐傘に仕掛け花火を仕掛けて、少し離れたところから電線のように張った綱に導火線を巻いて点火します。
これが唐傘に火が移ると勢いよく花火が周囲に綺麗に飛び散ります。昔はこの唐傘がクルクル回って火花も回転して綺麗だったそうですが、これも危ないので回転はさせなくなったと聞いています。
また神社の名前は「わしじんじゃ」というのですが、本当は「とり神社」「おおとり神社」と読むのが正解なのかもしれません。でも地元ではわしじんじゃと言うそうです。
一方、こちら太田の万灯祭は今では行われなくなってしまい、どんな祭りだったのかが気になっていました。
それを、10月に訪れた時に、ちょうど地元の地区のお年寄りがたくさん集まって屋外で輪投げなどのゲームをされていました。
そして、この境内にある「太田田園都市センター」の窓やドアを開けて中を覗くことができたのです。

善光寺楼門をくぐったところが広場になっており、地区の公園のようになっています。
当然昔は寺の境内であったと思われます。
手前の真ん中あたりに池があります。
万灯祭りは旧暦の6月14日(現在の7月末)にこの境内と、上の寺の周りで夜を徹して行われたそうです。
いわゆる盆踊りに近いものでした。
そこでうたわれる歌が「苗代(なしろ)の水の口 お池の松は姫の松」とくり返し歌ったのです。
もう一つ潮来節の歌がありますが、こちらは風の会の記事に詳しく書いたので省略します。

こちらが「太田田園都市センター」です。公民館と同じようですが、大きくて立派です。
大広間と畳の部屋をつなぐ廊下があり、炊事場も備わっていました。

裏山の寺に上る階段の途中から広場を振り返ってみました。
正面に藁葺き屋根の立派な楼門があり、右手が田園都市センターです。
地元の方の話では、この都市センターのある場所に昔(明治の頃まで)は善光寺という寺があり、住職もいたそうです。
この寺の住職の墓は、この階段の途中の(中段の)東側に並んでいるものがそうです。(下記)



お墓の写真などを載せてごめんなさい。
この上の小田氏の五輪塔などとは異なっていることがよくわかります。
無くなってしまった寺はお宮といわれる現在の大きな寺と思われる建屋の下に位置していたのかもしれません。
下にあったのが善光寺で上のものが新善光寺などということも考えられます。

これが万灯祭りに使われた万灯のの模型です。
少し長くなりましたので、明日もう少し書きたいと思います。
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この壊れかかった寺は、「廃屋マニア」や「心霊ツアー」などに出てきたり、仮面ライダーファンなどによる映画撮影地ツアーなどに知られるのみとなってしまったようです。
しかし、なぜか前から「善光寺楼門」として室町時代の立派な門だけがポツンと残されているのが気になっていました。
そして、調べていくと本当はもっと重要な場所だったのかもしれないと考えるようになりました。
あまりにも具体的な説明がされずにいるような気がしてきたのです。
私は歴史学者でもないし、単なる最近流行になっている歴史好きなマニアの域は出ていません。
しかし、現地に出かけてそこにある風景や吹く風の音や匂いを感じていくと、知らず知らずに本当の姿が見えてくるように思えるのです。
そして、先月から入会した「ふるさと風の会」の会報に、この善光寺で昔行われていた「太田万灯祭」の記事を載せました。
詳細はそちらに1ヶ月以上前に書いてしまいましたので省きますが、写真を残しておきたいものがあるので少しだけ紹介します。
実は「万灯祭」と聞いて、土浦大畑にある「鷲神社(わじじんじゃ)の唐傘万灯祭」を想像していました。
この祭りを知る人もおそらく少ないと思いますが、回転する大きな唐傘に仕掛け花火を仕掛けて、少し離れたところから電線のように張った綱に導火線を巻いて点火します。
これが唐傘に火が移ると勢いよく花火が周囲に綺麗に飛び散ります。昔はこの唐傘がクルクル回って火花も回転して綺麗だったそうですが、これも危ないので回転はさせなくなったと聞いています。
また神社の名前は「わしじんじゃ」というのですが、本当は「とり神社」「おおとり神社」と読むのが正解なのかもしれません。でも地元ではわしじんじゃと言うそうです。
一方、こちら太田の万灯祭は今では行われなくなってしまい、どんな祭りだったのかが気になっていました。
それを、10月に訪れた時に、ちょうど地元の地区のお年寄りがたくさん集まって屋外で輪投げなどのゲームをされていました。
そして、この境内にある「太田田園都市センター」の窓やドアを開けて中を覗くことができたのです。

善光寺楼門をくぐったところが広場になっており、地区の公園のようになっています。
当然昔は寺の境内であったと思われます。
手前の真ん中あたりに池があります。
万灯祭りは旧暦の6月14日(現在の7月末)にこの境内と、上の寺の周りで夜を徹して行われたそうです。
いわゆる盆踊りに近いものでした。
そこでうたわれる歌が「苗代(なしろ)の水の口 お池の松は姫の松」とくり返し歌ったのです。
もう一つ潮来節の歌がありますが、こちらは風の会の記事に詳しく書いたので省略します。

こちらが「太田田園都市センター」です。公民館と同じようですが、大きくて立派です。
大広間と畳の部屋をつなぐ廊下があり、炊事場も備わっていました。

裏山の寺に上る階段の途中から広場を振り返ってみました。
正面に藁葺き屋根の立派な楼門があり、右手が田園都市センターです。
地元の方の話では、この都市センターのある場所に昔(明治の頃まで)は善光寺という寺があり、住職もいたそうです。
この寺の住職の墓は、この階段の途中の(中段の)東側に並んでいるものがそうです。(下記)



お墓の写真などを載せてごめんなさい。
この上の小田氏の五輪塔などとは異なっていることがよくわかります。
無くなってしまった寺はお宮といわれる現在の大きな寺と思われる建屋の下に位置していたのかもしれません。
下にあったのが善光寺で上のものが新善光寺などということも考えられます。

これが万灯祭りに使われた万灯のの模型です。
少し長くなりましたので、明日もう少し書きたいと思います。


太田善光寺(5)
昨日の記事の続きです。途中まで書いていたのですが、長くなったので2つに分けました。

昔行われていた時の写真が、この田園都市センターの部屋に飾られていました。
大きさはこの写真でわかりますね。大きなはしごを真ん中にして6mくらいの長さの太い竹の棒を数本と、縄を取り付けます。
はしごに2人が乗り、それを皆で持ち上げて、寺の周りを歌いながら3周するのだそうです。
これは、サラリーマンも増えたことや人手不足などで、昭和の後半にはいつの間にか行われなくなりました。

田園都市センターの中の部屋に飾られた写真を撮らせていただきました。
ここに掲載する失礼をお許しください。
もう見ることができなくなったお祭りの写真です。この祭りの記録を残したいと思います。
いつか復活してくれると嬉しいです。
歌などからしても江戸時代から続いていたことは明らかだと思います。

善光寺楼門の南側には田園が広がります。
この少し先の方には昔恋瀬川に荷を積み出す艀があったようです。

西側の地区には大きな家も目立ちます。
今の寺の場所に移される前は、この上の(北の)方の高台に寺はあったようです。

また、この少し南西側に「大足(おおだら」という地名が残されています。
水戸の方にも同じ名前の場所が有り、ダイダラボッチ伝説なども残されていますが、製鉄と関係があるような話も聞きますので、この地も大昔に海の水が入ってきていて砂鉄でも取れたのかもしれません。

写真の真ん中が「善光寺楼門」です。奥に見える山並みは吾国山(518m)から難台山(553m)、愛宕山(305m)へ続く山並みです。
ところで小田氏が善光寺信仰をしていたのでしたら、善光寺仏と言われる阿弥陀如来三尊が祀られているのかと思いました。
しかし、ここに祀られているのは1寸八分くらいの小さな金の阿弥陀如来像だそうです。
三体ではなく1体です。
普段は個人宅(小田氏の子孫といわれる)の土蔵に保管されていて、この旧暦6月14日にこの田園都市センターにお寺さんを呼んで役員の方々が集まって、開帳されると聞きました。
昔はこれも眩しくて目が潰れるなどと木箱を開けなかったそうです。
金の如来様も見てみたいですね。

帰る途中で、石岡府中酒造さんの「渡舟」の米の栽培地がありました。
ふるさと風の会の会報(11月号)→ こちら
ふるさと風の会は → こちら
← よろしければクリックお願いします。

昔行われていた時の写真が、この田園都市センターの部屋に飾られていました。
大きさはこの写真でわかりますね。大きなはしごを真ん中にして6mくらいの長さの太い竹の棒を数本と、縄を取り付けます。
はしごに2人が乗り、それを皆で持ち上げて、寺の周りを歌いながら3周するのだそうです。
これは、サラリーマンも増えたことや人手不足などで、昭和の後半にはいつの間にか行われなくなりました。

田園都市センターの中の部屋に飾られた写真を撮らせていただきました。
ここに掲載する失礼をお許しください。
もう見ることができなくなったお祭りの写真です。この祭りの記録を残したいと思います。
いつか復活してくれると嬉しいです。
歌などからしても江戸時代から続いていたことは明らかだと思います。

善光寺楼門の南側には田園が広がります。
この少し先の方には昔恋瀬川に荷を積み出す艀があったようです。

西側の地区には大きな家も目立ちます。
今の寺の場所に移される前は、この上の(北の)方の高台に寺はあったようです。

また、この少し南西側に「大足(おおだら」という地名が残されています。
水戸の方にも同じ名前の場所が有り、ダイダラボッチ伝説なども残されていますが、製鉄と関係があるような話も聞きますので、この地も大昔に海の水が入ってきていて砂鉄でも取れたのかもしれません。

写真の真ん中が「善光寺楼門」です。奥に見える山並みは吾国山(518m)から難台山(553m)、愛宕山(305m)へ続く山並みです。
ところで小田氏が善光寺信仰をしていたのでしたら、善光寺仏と言われる阿弥陀如来三尊が祀られているのかと思いました。
しかし、ここに祀られているのは1寸八分くらいの小さな金の阿弥陀如来像だそうです。
三体ではなく1体です。
普段は個人宅(小田氏の子孫といわれる)の土蔵に保管されていて、この旧暦6月14日にこの田園都市センターにお寺さんを呼んで役員の方々が集まって、開帳されると聞きました。
昔はこれも眩しくて目が潰れるなどと木箱を開けなかったそうです。
金の如来様も見てみたいですね。

帰る途中で、石岡府中酒造さんの「渡舟」の米の栽培地がありました。
ふるさと風の会の会報(11月号)→ こちら
ふるさと風の会は → こちら


じゃかもこじゃん(1)
昨日の中秋の名月(旧暦8月15日)の晩とその前の晩の2日に亘って行われた伝統行事「八幡宮太々神楽」を紹介します。
地元では「じゃかもこじゃん」と呼んでいます。

昔はもう少し遅い時間から始まって真夜中まで行われていたようですが、今は夜7時から11時までだそうです。
この石岡の八郷地区柿岡の街道から上宿信号を少し入ったところに八幡神社があります。(紹介記事はこちら)
7時少し前に到着しました。
神社(八幡宮)はこうこうと明かりがともり長い幟り旗が4本ほど立っていました。
夜空には中秋の名月が浮かんでいます。
鳥居の横の2本は「奏楽錚錚懐太古」(奏楽そうそう太古をなつかしむ)と「舞容粛粛仰神祇」<舞容しゅくしゅく神祇(じんぎ)をあおぐ>と読むそうです。何時頃作られたものでしょうか。

境内には奥に舞台。手前の周りには数多くの屋台が並んでいます。

こちらは神社の境内に作られたこの地区(荒宿)の公民館です。
係の人と共に、今日の主役の可愛い巫女さんが4人。
見た感じでは2人ずつ交代で2年間務めるのでしょうか?

親御さんたちも大変ですね。代々この地区に住む人の中から選ばれてきています。
昔この地区は「八幡町」と呼ばれていたようです。今は荒宿・西町・上宿・仲町と町名は変わっていますが、この神楽はこの地区の長男が受け継ぐことになって守られてきました。
しかし、今では長男に限らずこの地区の人すべてを対象に保存会を結成して守っています。

祭り開始前の舞台です。

舞台の正面。

境内のお稲荷さんと子安神社。
夜はきつねの目も怪しく光ります。

7時になる頃に境内も大分にぎわってきました。

(上の写真はクリックで拡大写真が見られます。)
さあ、いよいよ神楽のスタートです。
かわいい巫女さんたちは緊張した面持ちで舞台に上がり右隅に座りました。

(上の写真はクリックで拡大写真が見られます。)
謂れでは、文禄4年(1595)長倉義興が、柿岡城主になった時に伊勢からこの神楽(24舞)を持ち帰り、そのうちの12座を継承してきたと言います。
(参考まで・・・柿岡城・善慶寺:こちら、常陸大宮市長倉宿:こちら)
400年の長きにわたって続いてきたと伝わっています。
柿岡は江戸時代は幕府の天領となっている時代が長く続きました。
このような祭りを残していける何かがあったのかもしれません。
前に筑波山信仰の街道「瀬戸井街道」を紹介しましたが、この柿岡を通過しています。
また霞ヶ浦の水運の発達していた時も、ここの恋瀬川から舟で霞ヶ浦に物資を運んでいます。
神楽は全国各地にまだ残されているところがたくさんあるようです。
しかし、時代の波が現代的な合理的な生活スタイルが浸透してくると、都会の方からこれらの伝統行事が無くなって来ています。
写真が増えてしまいましたので、明日に続きます。
地元では「じゃかもこじゃん」と呼んでいます。

昔はもう少し遅い時間から始まって真夜中まで行われていたようですが、今は夜7時から11時までだそうです。
この石岡の八郷地区柿岡の街道から上宿信号を少し入ったところに八幡神社があります。(紹介記事はこちら)
7時少し前に到着しました。
神社(八幡宮)はこうこうと明かりがともり長い幟り旗が4本ほど立っていました。
夜空には中秋の名月が浮かんでいます。
鳥居の横の2本は「奏楽錚錚懐太古」(奏楽そうそう太古をなつかしむ)と「舞容粛粛仰神祇」<舞容しゅくしゅく神祇(じんぎ)をあおぐ>と読むそうです。何時頃作られたものでしょうか。

境内には奥に舞台。手前の周りには数多くの屋台が並んでいます。

こちらは神社の境内に作られたこの地区(荒宿)の公民館です。
係の人と共に、今日の主役の可愛い巫女さんが4人。
見た感じでは2人ずつ交代で2年間務めるのでしょうか?

親御さんたちも大変ですね。代々この地区に住む人の中から選ばれてきています。
昔この地区は「八幡町」と呼ばれていたようです。今は荒宿・西町・上宿・仲町と町名は変わっていますが、この神楽はこの地区の長男が受け継ぐことになって守られてきました。
しかし、今では長男に限らずこの地区の人すべてを対象に保存会を結成して守っています。

祭り開始前の舞台です。

舞台の正面。

境内のお稲荷さんと子安神社。
夜はきつねの目も怪しく光ります。

7時になる頃に境内も大分にぎわってきました。

(上の写真はクリックで拡大写真が見られます。)
さあ、いよいよ神楽のスタートです。
かわいい巫女さんたちは緊張した面持ちで舞台に上がり右隅に座りました。

(上の写真はクリックで拡大写真が見られます。)
謂れでは、文禄4年(1595)長倉義興が、柿岡城主になった時に伊勢からこの神楽(24舞)を持ち帰り、そのうちの12座を継承してきたと言います。
(参考まで・・・柿岡城・善慶寺:こちら、常陸大宮市長倉宿:こちら)
400年の長きにわたって続いてきたと伝わっています。
柿岡は江戸時代は幕府の天領となっている時代が長く続きました。
このような祭りを残していける何かがあったのかもしれません。
前に筑波山信仰の街道「瀬戸井街道」を紹介しましたが、この柿岡を通過しています。
また霞ヶ浦の水運の発達していた時も、ここの恋瀬川から舟で霞ヶ浦に物資を運んでいます。
神楽は全国各地にまだ残されているところがたくさんあるようです。
しかし、時代の波が現代的な合理的な生活スタイルが浸透してくると、都会の方からこれらの伝統行事が無くなって来ています。
写真が増えてしまいましたので、明日に続きます。
じゃかもこじゃん(2)
昨日の柿岡の荒宿にある八幡神社で行われた太々神楽(じゃかもこじゃん)の続きです。

神社の拝殿は畳の広いほぼ真四角な舞台になっています。

最初は男性4人が舞う「国堅(くにがため)」です。
日本の国を造った時、たくさんの島々ができました。
この島々が出来るのを喜んで堅めてまわるイザナギ・イザナミの2神の様子を描いています。
この旧八幡町に婿にやってきた男性が演じることになっていたそうです。
最初は2人だったはずですが、いつの間にか4人で演じる様になったようです。
舞台の周りをを4人並んでうれしそうに廻ります。この踊りは「早みこ」ともいうそうです。

この舞台は2方が開放されていますので、見物客は思い思いの格好で、舞台を取り囲んでの見物です。

さて、次は地元の小学生から選ばれた巫女4人が踊ります。
巫女舞=神子舞だそうです。
穢れのない女の子ということで、地元の10歳前後の子供から毎年選ばれます。
石岡には私の知っているところで他に2箇所同じような神楽が残されており、皆小学生の巫女さんが選ばれます。
染谷佐志能神社の十二座神楽と根小屋七代天神社の代々十二神楽です。
そういえば鹿嶋市の大生神社にも同じような神楽がありました。

気な緊張した顔が印象的でした。

近くで見ていると足の運びに緊張感がにじんでいました。
一所懸命に練習に励んだのでしょうね。

踊り終わった後の表情がとてもかわいらしいですよね。
この神子舞は十二座には入っていません。これを入れると十三になります。
各神楽の途中で計4回別々の神子舞が披露されるそうです。

さて、次がこの「じゃかもこじゃん」の言葉の元となったと思われる「老翁(おきな)」です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)です。
天上界の主神です。
剣を腰に差し、手に白い紙を持って、数回廻ります。紙で四方に種をまいているのでしょうか。


剣を抜いて、また四方を廻ります。
剣で蛮族を平定しているようです。


老翁は四隅でそれぞれ剣を突き立て、変な腰振りダンスを踊ります。
これは四方に柱を建て、地を固めている姿と言いますが、昔の事やはり少し別な意味合いもありそうです。
五穀豊穣、子孫繁栄・・・ 昔の古事記の世界かもしれません。
「じゃかもこじゃん」というのは、この踊りの事をいうようですが、踊りの時になる拍子の音がそのように聞こえるからともいいます。

舞台は地区の子供達も熱心にのぞきこんでいます。
この子供達は、将来この伝統を継いで行ってくれるのでしょう。

つづいて、キツネが登場します。
「天狐(てんこ)」と「種嫁(たねがし)」の舞です。

三部構成で、最初は天狐が一人で自由奔放に舞います。

天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫、天種子命(あめのたねがしのみこと)をあらわしており、五穀豊穣の舞です。

そこに種子命がやって来て、種まきをするのを天狐が手伝う様子を表現します。

最後に命(みこと)が高天原に戻ってしまうのを天狐は慕ってとび跳ねたりします。

ここで、1時間が経過しましたので残りは見ずに引き揚げてきてしまいました。
終わるのは夜11時頃だそうですので演じる方もかなり大変です。
残りの9つの神楽は
4、龍神(天御柱命)
5、地法(ちのり)・赤鬼 (タケミカズチ=鹿島神宮の祭神)
6、神酒(みき)の舞 (天児屋根命)
7、西ノ宮大神 (蛭児之神)
8、鈿女(うずめ)(天鈿女神・・・猿田彦と結婚)
9、岩戸
10、戸隠 (天手力男命)
11、猿田彦の大神
12、山の神 (天大山祇命)
この最後の舞の時に餅が撒かれる。 皆が急いで拾うのだそうです。
この時までいませんでしたが、前の日に撒いた時には1人で10個も拾ったなどと言う話が聞こえてきました。
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神社の拝殿は畳の広いほぼ真四角な舞台になっています。

最初は男性4人が舞う「国堅(くにがため)」です。
日本の国を造った時、たくさんの島々ができました。
この島々が出来るのを喜んで堅めてまわるイザナギ・イザナミの2神の様子を描いています。
この旧八幡町に婿にやってきた男性が演じることになっていたそうです。
最初は2人だったはずですが、いつの間にか4人で演じる様になったようです。
舞台の周りをを4人並んでうれしそうに廻ります。この踊りは「早みこ」ともいうそうです。

この舞台は2方が開放されていますので、見物客は思い思いの格好で、舞台を取り囲んでの見物です。

さて、次は地元の小学生から選ばれた巫女4人が踊ります。
巫女舞=神子舞だそうです。
穢れのない女の子ということで、地元の10歳前後の子供から毎年選ばれます。
石岡には私の知っているところで他に2箇所同じような神楽が残されており、皆小学生の巫女さんが選ばれます。
染谷佐志能神社の十二座神楽と根小屋七代天神社の代々十二神楽です。
そういえば鹿嶋市の大生神社にも同じような神楽がありました。

気な緊張した顔が印象的でした。

近くで見ていると足の運びに緊張感がにじんでいました。
一所懸命に練習に励んだのでしょうね。

踊り終わった後の表情がとてもかわいらしいですよね。
この神子舞は十二座には入っていません。これを入れると十三になります。
各神楽の途中で計4回別々の神子舞が披露されるそうです。

さて、次がこの「じゃかもこじゃん」の言葉の元となったと思われる「老翁(おきな)」です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)です。
天上界の主神です。
剣を腰に差し、手に白い紙を持って、数回廻ります。紙で四方に種をまいているのでしょうか。


剣を抜いて、また四方を廻ります。
剣で蛮族を平定しているようです。


老翁は四隅でそれぞれ剣を突き立て、変な腰振りダンスを踊ります。
これは四方に柱を建て、地を固めている姿と言いますが、昔の事やはり少し別な意味合いもありそうです。
五穀豊穣、子孫繁栄・・・ 昔の古事記の世界かもしれません。
「じゃかもこじゃん」というのは、この踊りの事をいうようですが、踊りの時になる拍子の音がそのように聞こえるからともいいます。

舞台は地区の子供達も熱心にのぞきこんでいます。
この子供達は、将来この伝統を継いで行ってくれるのでしょう。

つづいて、キツネが登場します。
「天狐(てんこ)」と「種嫁(たねがし)」の舞です。

三部構成で、最初は天狐が一人で自由奔放に舞います。

天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫、天種子命(あめのたねがしのみこと)をあらわしており、五穀豊穣の舞です。

そこに種子命がやって来て、種まきをするのを天狐が手伝う様子を表現します。

最後に命(みこと)が高天原に戻ってしまうのを天狐は慕ってとび跳ねたりします。

ここで、1時間が経過しましたので残りは見ずに引き揚げてきてしまいました。
終わるのは夜11時頃だそうですので演じる方もかなり大変です。
残りの9つの神楽は
4、龍神(天御柱命)
5、地法(ちのり)・赤鬼 (タケミカズチ=鹿島神宮の祭神)
6、神酒(みき)の舞 (天児屋根命)
7、西ノ宮大神 (蛭児之神)
8、鈿女(うずめ)(天鈿女神・・・猿田彦と結婚)
9、岩戸
10、戸隠 (天手力男命)
11、猿田彦の大神
12、山の神 (天大山祇命)
この最後の舞の時に餅が撒かれる。 皆が急いで拾うのだそうです。
この時までいませんでしたが、前の日に撒いた時には1人で10個も拾ったなどと言う話が聞こえてきました。


常行三昧会(1)
9月24日から30日までの7日間、行方市の西蓮寺で毎年、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。
今日はその中日で、籠行列も行われると聞いてやってきました。
一般に伝えられているところによると、常行(三昧)堂は、阿弥陀如来を祀り、その廻りを門徒僧侶たちが何日間も読経して廻るという修行のことで、天台宗では本来は阿弥陀如来の後ろに「摩多羅神(またらじん)」(後戸の神)が置かれていて、これが翁などの能楽の基になったと言われています。
そして、この摩多羅神は秘仏のため姿を公開されることがほとんどないと言われるのです。
この摩多羅神に興味があったため、ここの常行堂の三昧会がどのようなものかを確認しに出かけたのです。
しかし、この常行堂には摩多羅神は置かれていないようです。
これから2~3回に分けて、写真を見ながら少しずつ調べ物をして、記事をまとめていきたいと思います。

西蓮寺入口の山門(仁王門)です。これは昔、石岡市太田の善光寺楼門とほぼ同じ造りだと書いたものです。(こちら)

この祭りもかなり盛大なもので、車も山百合祭り(去年の記事1、記事2)の時の半分くらい来ていました。

さて、西蓮寺の常行堂の中に、「びんづるさま」が置かれていました。
どこか悪いところがあれば、その部分をなぜると治ると言われているものです。
一般にはインドの仏教で賓頭盧(びんづる)尊者といわれる仏陀の弟子(十六羅漢の第一位)で、日本の各地でも「びんづるさま」として親しまれているものです。
でも、ここでは少し違った解釈がされています。なにしろ「びんづるおばあちゃん」というのですから驚きです。
これはまた後でお話ししましょう。

この常行堂の裏に廻って見ました。
僧侶の方はこちらから出這入りするようです。
そしてここに張られた紙を見ると、2時間置きに僧侶たちは入れ替わっているようです。(実態は知りません)

さて、この常行堂の御本尊の薬師如来像はどれでしょうか?
正面に3体の阿弥陀如来像、左側に1体の阿弥陀如来像(上の写真)、裏にも1体、右手は確認できませんでしたが置かれていたかもしれません。

近隣のたくさんの信者の方などが来られていました。数千円で記帳して蝋燭とお札をもらい、名前を書いた紙が後に張られます。
年配の女性の方も杖をつきながら、たくさん来ておられました。

この金網の向こうに如来三尊が置かれ、その前を読経しながら僧侶が一人ずつまわります。
観音像の前で一礼していきます。
これを延々と続けていきます。


堂の中には武者絵が奉納されていました。

こちらが如来三尊です。真ん中の像も立像です。
この西蓮寺の本尊は薬師如来座像で、これは別に薬師堂裏の立派な収納庫に保管されています。
でも私には薬師如来と阿弥陀如来の区別があまりよくわかっていません。

こちらが常行堂の後ろの入口です。

この後ろ側の入口正面にも如来像が祀られていました。
さて、行方市などで紹介している資料によると、この寺は、
「寛治年間(1087~94)に地元の長者が比叡山より移したものとされ、西蓮寺の末寺、門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日の7日7夜にわたって堂内を廻りながら独特の節回しで立行誦経する大法要です。」
となっています。この辺りはまたもう少し掘り下げて見たいと思います。
この長者にまつわる話が何故ここに伝わってきたのか?
話しの内容は次回にします。
常行三昧会(2)へ
常行三昧会(3)へ
← よろしければクリックお願いします。
今日はその中日で、籠行列も行われると聞いてやってきました。
一般に伝えられているところによると、常行(三昧)堂は、阿弥陀如来を祀り、その廻りを門徒僧侶たちが何日間も読経して廻るという修行のことで、天台宗では本来は阿弥陀如来の後ろに「摩多羅神(またらじん)」(後戸の神)が置かれていて、これが翁などの能楽の基になったと言われています。
そして、この摩多羅神は秘仏のため姿を公開されることがほとんどないと言われるのです。
この摩多羅神に興味があったため、ここの常行堂の三昧会がどのようなものかを確認しに出かけたのです。
しかし、この常行堂には摩多羅神は置かれていないようです。
これから2~3回に分けて、写真を見ながら少しずつ調べ物をして、記事をまとめていきたいと思います。

西蓮寺入口の山門(仁王門)です。これは昔、石岡市太田の善光寺楼門とほぼ同じ造りだと書いたものです。(こちら)

この祭りもかなり盛大なもので、車も山百合祭り(去年の記事1、記事2)の時の半分くらい来ていました。

さて、西蓮寺の常行堂の中に、「びんづるさま」が置かれていました。
どこか悪いところがあれば、その部分をなぜると治ると言われているものです。
一般にはインドの仏教で賓頭盧(びんづる)尊者といわれる仏陀の弟子(十六羅漢の第一位)で、日本の各地でも「びんづるさま」として親しまれているものです。
でも、ここでは少し違った解釈がされています。なにしろ「びんづるおばあちゃん」というのですから驚きです。
これはまた後でお話ししましょう。

この常行堂の裏に廻って見ました。
僧侶の方はこちらから出這入りするようです。
そしてここに張られた紙を見ると、2時間置きに僧侶たちは入れ替わっているようです。(実態は知りません)

さて、この常行堂の御本尊の薬師如来像はどれでしょうか?
正面に3体の阿弥陀如来像、左側に1体の阿弥陀如来像(上の写真)、裏にも1体、右手は確認できませんでしたが置かれていたかもしれません。

近隣のたくさんの信者の方などが来られていました。数千円で記帳して蝋燭とお札をもらい、名前を書いた紙が後に張られます。
年配の女性の方も杖をつきながら、たくさん来ておられました。

この金網の向こうに如来三尊が置かれ、その前を読経しながら僧侶が一人ずつまわります。
観音像の前で一礼していきます。
これを延々と続けていきます。


堂の中には武者絵が奉納されていました。

こちらが如来三尊です。真ん中の像も立像です。
この西蓮寺の本尊は薬師如来座像で、これは別に薬師堂裏の立派な収納庫に保管されています。
でも私には薬師如来と阿弥陀如来の区別があまりよくわかっていません。

こちらが常行堂の後ろの入口です。

この後ろ側の入口正面にも如来像が祀られていました。
さて、行方市などで紹介している資料によると、この寺は、
「寛治年間(1087~94)に地元の長者が比叡山より移したものとされ、西蓮寺の末寺、門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日の7日7夜にわたって堂内を廻りながら独特の節回しで立行誦経する大法要です。」
となっています。この辺りはまたもう少し掘り下げて見たいと思います。
この長者にまつわる話が何故ここに伝わってきたのか?
話しの内容は次回にします。
常行三昧会(2)へ
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常行三昧会(2)
昨日の西蓮寺の常行三昧会の様子の続きです。
ここの天台宗の西蓮寺(さいれんじ)の阿弥陀如来を祀る「常行堂」では、毎年9月24日~30日の7日間に亘って、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。
これは近隣の寺からもたくさんの僧侶が参加して、数体の阿弥陀如来像が祀られている廻りを読経して休みなくぐるぐる回る修行の場ですが、同時に近隣からたくさんの信者の方が訪れて、「仏立て(ほとけだて)」という行事も行われます。
普段は開放されないこれらのお堂の仏像も開帳されます。
常行三昧堂は天台宗の中心である比叡山延暦寺などの修行の中心となる寺院に造られています。
この修行が通常は90日間も行う厳しいものだったようですが、ここでは現在は7日間だけ行われています。
(この西蓮寺が昔は90日も行っていたのかについては良くわかりませんが、そういう時代もあったのではないかと思っています)
そして、この常行三昧堂の阿弥陀如来の後ろに「後戸の神」といわれる「摩多羅神(まだらじん)」(能楽の神?)が中世には置かれていたのではないかとも思うのですが、いろいろこの寺について書かれたものを見てもその記述はありません。
それこそ翁の面をかぶった神楽のような舞でもあればその存在を考えるのですが、まったくその気配はありません。
7日間の三昧会の初日・中日・最終日の3回に昼の12時から平安時代を思わせる駕籠行列が行われます。
中日である昨日(9/27)に見たので紹介します。

十二時近くなり、常行堂と境内の反対側にある「客殿」前に駕籠が準備され、僧侶が法螺貝などを手にして整列を始めました。

奥が客殿です。ここから真直ぐ前の常行堂に向かって行列が始まります。

先頭は拍子木を鳴らして進みます。

(クリックすると大きな写真となります)
その後ろを法螺貝を吹く僧侶も続きます。

(クリックすると大きな写真となります)

(クリックすると大きな写真となります)
最後に4人に担がれた駕籠が、赤い傘が印象的です。
この駕籠には大僧正?様が乗っています。

(クリックすると大きな写真となります)
弘安の役(元寇)の戦勝を記念して1287年(弘安10)に建立したと伝えられる相輪と樹齢約1000年以上といわれるイチョウの大木の間を通ります。

(クリックすると大きな写真となります)
行列は常行堂の正面から外側を廻って裏の入口へ到着しました。
ここから中に入ります。

(クリックすると大きな写真となります)
駕籠がこの裏の入口に横付けされました。
結構重たいのでよろよろしながら無事到着しました。
それにしてももう少し若い人が担いだ方が良いのでは?
私より年配の方ばかりのように見えました。

駕籠から大僧正が下りてきました。

階段を上り、常行堂の中に入って行きました。

そして、お堂の中ではまた読経が続けられます。

阿弥陀如来の像の前でお経を唱えて廻ります。

堂の正面には阿弥陀三尊がありますが、その左手にこの阿弥陀如来様があります。

(クリックすると大きな写真となります)
恐らく昔はこんな行列での行事はなかったのでしょうが、いつから始まったものなのかはよくわかりませんでした。
僧侶と平安衣装に法螺貝。どのような意味合いが含まれているのか。
なかなか考えはまとまりません。
明日、もう少し続きます。
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ここの天台宗の西蓮寺(さいれんじ)の阿弥陀如来を祀る「常行堂」では、毎年9月24日~30日の7日間に亘って、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。
これは近隣の寺からもたくさんの僧侶が参加して、数体の阿弥陀如来像が祀られている廻りを読経して休みなくぐるぐる回る修行の場ですが、同時に近隣からたくさんの信者の方が訪れて、「仏立て(ほとけだて)」という行事も行われます。
普段は開放されないこれらのお堂の仏像も開帳されます。
常行三昧堂は天台宗の中心である比叡山延暦寺などの修行の中心となる寺院に造られています。
この修行が通常は90日間も行う厳しいものだったようですが、ここでは現在は7日間だけ行われています。
(この西蓮寺が昔は90日も行っていたのかについては良くわかりませんが、そういう時代もあったのではないかと思っています)
そして、この常行三昧堂の阿弥陀如来の後ろに「後戸の神」といわれる「摩多羅神(まだらじん)」(能楽の神?)が中世には置かれていたのではないかとも思うのですが、いろいろこの寺について書かれたものを見てもその記述はありません。
それこそ翁の面をかぶった神楽のような舞でもあればその存在を考えるのですが、まったくその気配はありません。
7日間の三昧会の初日・中日・最終日の3回に昼の12時から平安時代を思わせる駕籠行列が行われます。
中日である昨日(9/27)に見たので紹介します。

十二時近くなり、常行堂と境内の反対側にある「客殿」前に駕籠が準備され、僧侶が法螺貝などを手にして整列を始めました。

奥が客殿です。ここから真直ぐ前の常行堂に向かって行列が始まります。

先頭は拍子木を鳴らして進みます。

(クリックすると大きな写真となります)
その後ろを法螺貝を吹く僧侶も続きます。

(クリックすると大きな写真となります)

(クリックすると大きな写真となります)
最後に4人に担がれた駕籠が、赤い傘が印象的です。
この駕籠には大僧正?様が乗っています。

(クリックすると大きな写真となります)
弘安の役(元寇)の戦勝を記念して1287年(弘安10)に建立したと伝えられる相輪と樹齢約1000年以上といわれるイチョウの大木の間を通ります。

(クリックすると大きな写真となります)
行列は常行堂の正面から外側を廻って裏の入口へ到着しました。
ここから中に入ります。

(クリックすると大きな写真となります)
駕籠がこの裏の入口に横付けされました。
結構重たいのでよろよろしながら無事到着しました。
それにしてももう少し若い人が担いだ方が良いのでは?
私より年配の方ばかりのように見えました。

駕籠から大僧正が下りてきました。

階段を上り、常行堂の中に入って行きました。

そして、お堂の中ではまた読経が続けられます。

阿弥陀如来の像の前でお経を唱えて廻ります。

堂の正面には阿弥陀三尊がありますが、その左手にこの阿弥陀如来様があります。

(クリックすると大きな写真となります)
恐らく昔はこんな行列での行事はなかったのでしょうが、いつから始まったものなのかはよくわかりませんでした。
僧侶と平安衣装に法螺貝。どのような意味合いが含まれているのか。
なかなか考えはまとまりません。
明日、もう少し続きます。
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常行三昧会(3)
行方(なめがた)市の常陸高野こと西連寺の常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)に関して紹介しています。
この(尸羅慶台上山)西蓮寺(天台宗)の創建はかなり古く、782年(延暦元年)に桓武天皇の勅命によって最仙によって創建されたと伝えられています。
最仙上人は最澄(伝教大師)の弟子といわれる僧侶で、常陸国の関城(真壁郡)に生まれ、最初は徳一法師と同じ法相宗に属していたとされます。
そして、常陸国分寺、国分尼寺の僧尼などに経典を講義する講師(こうじ)に任ぜられた人物です。
常陸国ではこの西蓮寺の他、筑波四面薬師と言われる「東城寺」「椎尾薬師」なども創建したと伝わっています。
また、ここの西蓮寺は曼珠院の院号を持っており、鎌倉時代の中頃、比叡山の無動寺から慶弁阿闍梨(けいべんあじゃり)が来て七堂伽藍を造営し、京都の曼殊院(まんじゅいん)の門跡忠尋大僧正が、乱をのがれてこの寺に来てとどまり、曼殊院の額を山門にかかげたと伝えられています。
私も中学時代の京都修学旅行の自由時間にこの曼殊院を訪れたことがあります。修学院離宮の近くにひっそりと有りましたが、庭園も素晴らしく、戸や襖の取っ手模様まで大変凝った造りで印象深く思いだされます。
このように歴史ある寺であり、常陸国の天台宗では中心となる寺名のですが、この有名な常行三昧会(仏立て)の行事の始まりとして少し変わった内容が伝わっています。
それは、源氏の元となる八幡太郎義家が後三年の役(1083~1087)の蝦夷征伐時に鹿島神宮に戦勝を祈願するためにこの地を訪れます。
そしてこの土地の長者(唐ケ崎長者)の家で食事をふるまってほしいと頼んだそうだ。しかし、口に合うようなものが用意できないと丁重にお断りした所、粗末なものでもよいのでといわれ、出されたのがたいそう豪華な食事だったそうだ。
こんな金持ちの長者を生かしておいたら大変だと義家は一家を皆殺しにしてしまった。
ところが娘が一人だけ生き残り、この西蓮寺に預けられ、この娘が両親の供養のために、比叡山から常行三昧会をこの寺に移して始まったというのである。
これはいろいろな話がごっちゃになっているような思いに駆られる。
そのまま信じるには少しばかりおかしい。
何故、長者、またはその娘が比叡山からこのような行事を移すことができたのか?
長者は何故八幡太郎義家に殺されたのか? これは何故、水戸の渡里町に残された渡里長者伝説とそっくりなのか?
義家は本当にこの地を訪れたことがあるのか?
この寺は薬師如来が本尊だが、常行堂に祀られているのは「阿弥陀如来」であり、天台宗の寺であるのにこの仏立て行事は宗派を問わないのは何故なのか?
まあ、あまり考えても真実は出てこないと思うが、少しおかしいと思うのは私だけなのかな?
びんづる尊者像も「この長者の娘で、びんづるおばあちゃん」と言うのもなんだかおかしいよね。

この西蓮寺の本尊は薬師如来で、常行堂の西側にある薬師堂の後ろにあるコンクリートの収納庫に保存されている。
この薬師如来座像は、開基した最仙上人自らが彫ったものとされ、一木背刳(せぐり)造りである。

この日は何時も閉じられている薬師堂も開放され、入口で役員が受付していた。

少し遠くから写真を撮ったが中が暗くて本尊が撮れているのかもよくわからない。

この日は行列を見ようと地元の保育園(幼稚園)生か小学生?見物に来ていました。
みんなお行儀よく座って行列の来るのを待っていました。

みんな今か今かと待っています。
しかし、私を含めアマチュアカメラマンもたくさん来ていました。
これがあまりマナーが良くないんです。
私がカメラを構えたすぐ前にやって来て頭が邪魔でなかなか撮れません。
本当にイライラします。
でも、「他人の振り見て我が振り直せ」ですね。
自分も邪魔になっているかとも思いましたね・・・・・。

1000年以上にもなると言うイチョウの木は本当に見事です。子供達も不思議そうに見上げていました。



常行三昧会(1)へ
常行三昧会(2)へ
この(尸羅慶台上山)西蓮寺(天台宗)の創建はかなり古く、782年(延暦元年)に桓武天皇の勅命によって最仙によって創建されたと伝えられています。
最仙上人は最澄(伝教大師)の弟子といわれる僧侶で、常陸国の関城(真壁郡)に生まれ、最初は徳一法師と同じ法相宗に属していたとされます。
そして、常陸国分寺、国分尼寺の僧尼などに経典を講義する講師(こうじ)に任ぜられた人物です。
常陸国ではこの西蓮寺の他、筑波四面薬師と言われる「東城寺」「椎尾薬師」なども創建したと伝わっています。
また、ここの西蓮寺は曼珠院の院号を持っており、鎌倉時代の中頃、比叡山の無動寺から慶弁阿闍梨(けいべんあじゃり)が来て七堂伽藍を造営し、京都の曼殊院(まんじゅいん)の門跡忠尋大僧正が、乱をのがれてこの寺に来てとどまり、曼殊院の額を山門にかかげたと伝えられています。
私も中学時代の京都修学旅行の自由時間にこの曼殊院を訪れたことがあります。修学院離宮の近くにひっそりと有りましたが、庭園も素晴らしく、戸や襖の取っ手模様まで大変凝った造りで印象深く思いだされます。
このように歴史ある寺であり、常陸国の天台宗では中心となる寺名のですが、この有名な常行三昧会(仏立て)の行事の始まりとして少し変わった内容が伝わっています。
それは、源氏の元となる八幡太郎義家が後三年の役(1083~1087)の蝦夷征伐時に鹿島神宮に戦勝を祈願するためにこの地を訪れます。
そしてこの土地の長者(唐ケ崎長者)の家で食事をふるまってほしいと頼んだそうだ。しかし、口に合うようなものが用意できないと丁重にお断りした所、粗末なものでもよいのでといわれ、出されたのがたいそう豪華な食事だったそうだ。
こんな金持ちの長者を生かしておいたら大変だと義家は一家を皆殺しにしてしまった。
ところが娘が一人だけ生き残り、この西蓮寺に預けられ、この娘が両親の供養のために、比叡山から常行三昧会をこの寺に移して始まったというのである。
これはいろいろな話がごっちゃになっているような思いに駆られる。
そのまま信じるには少しばかりおかしい。
何故、長者、またはその娘が比叡山からこのような行事を移すことができたのか?
長者は何故八幡太郎義家に殺されたのか? これは何故、水戸の渡里町に残された渡里長者伝説とそっくりなのか?
義家は本当にこの地を訪れたことがあるのか?
この寺は薬師如来が本尊だが、常行堂に祀られているのは「阿弥陀如来」であり、天台宗の寺であるのにこの仏立て行事は宗派を問わないのは何故なのか?
まあ、あまり考えても真実は出てこないと思うが、少しおかしいと思うのは私だけなのかな?
びんづる尊者像も「この長者の娘で、びんづるおばあちゃん」と言うのもなんだかおかしいよね。

この西蓮寺の本尊は薬師如来で、常行堂の西側にある薬師堂の後ろにあるコンクリートの収納庫に保存されている。
この薬師如来座像は、開基した最仙上人自らが彫ったものとされ、一木背刳(せぐり)造りである。

この日は何時も閉じられている薬師堂も開放され、入口で役員が受付していた。

少し遠くから写真を撮ったが中が暗くて本尊が撮れているのかもよくわからない。

この日は行列を見ようと地元の保育園(幼稚園)生か小学生?見物に来ていました。
みんなお行儀よく座って行列の来るのを待っていました。

みんな今か今かと待っています。
しかし、私を含めアマチュアカメラマンもたくさん来ていました。
これがあまりマナーが良くないんです。
私がカメラを構えたすぐ前にやって来て頭が邪魔でなかなか撮れません。
本当にイライラします。
でも、「他人の振り見て我が振り直せ」ですね。
自分も邪魔になっているかとも思いましたね・・・・・。

1000年以上にもなると言うイチョウの木は本当に見事です。子供達も不思議そうに見上げていました。



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マダラ鬼神祭(1)
今日桜川市の雨引観音で「マダラ鬼神祭」が行なわれました。
前から一度見て見たいと思っていたのですがようやく行ってきました。
朝11時からというので駐車場などの混雑を考慮して10時前に到着しました。
上の駐車場もまだ余裕があり正解でした。
帰り際に確認したら下の方までいっぱいになっていました。

薬医門からこの石段を上り、仁王門をくぐってその先の石段を登ってまず本殿にお参りしました。
昨年次女の安産祈願を家内がしてくれています。
来月が予定日なので安産を願ってきました。
たくさん子供連れも、生まれてすぐの赤ちゃんのお宮参りと思われる人たちもたくさん来ていました。
そして境内の桜などを楽しんでからこの石段脇に陣取って祭りの始まるのを待ちました。

11時をすぎた頃花火の合図で、鬼の面をかぶったマダラ神が白馬に載って一気にこの石段をかけのぼります。

この鬼の面は前があまり良く見えません。
馬の足元を確認できないのですが、馬がもう慣れたように登っていきます。

桜の花びらが降り注ぐ中を仁王門に向かいます。
この門をくぐると急な石の階段があります。
数十段の階段ですが、馬はここで途中で止まると危険なので下から一気に駆け上るのだそうです。

マダラ神の後は寺の僧侶が、ホラ貝を吹きならしながら登ってきました。

ホラ貝も難しいのでしょうが、いい音を響かせていました。

その後ろから5匹の鬼がたいまつをかざしてやってきます。

皆鬼の顔の色は違います。
祭りの謂れなどはまた後で書きます。

のぼり旗に描かれた絵も面白そうです。


のぼり旗の後ろから稚児行列が続きます。
この稚児や親たちも募集に応募した人たちのようです。




稚児たちの後ろを赤い傘をさした僧侶が登ります。

その後ろを駕籠を4人でかついで登っていきますが、中に大僧正が載っているかどうかはわかりません。
でも前を歩いている方がそうかもしれません。


一番最後に裃を着た檀家や関係者が登って行きました。


この楼門(仁王門)は綺麗ですね。

仁王門からその先に見えるピンクのしだれ桜がまぶしく輝いていました。
とてもきれいです。


明日は境内で行われた祭りの様子を紹介します。
マダラ神についても後で紹介したいと思います。
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
前から一度見て見たいと思っていたのですがようやく行ってきました。
朝11時からというので駐車場などの混雑を考慮して10時前に到着しました。
上の駐車場もまだ余裕があり正解でした。
帰り際に確認したら下の方までいっぱいになっていました。

薬医門からこの石段を上り、仁王門をくぐってその先の石段を登ってまず本殿にお参りしました。
昨年次女の安産祈願を家内がしてくれています。
来月が予定日なので安産を願ってきました。
たくさん子供連れも、生まれてすぐの赤ちゃんのお宮参りと思われる人たちもたくさん来ていました。
そして境内の桜などを楽しんでからこの石段脇に陣取って祭りの始まるのを待ちました。

11時をすぎた頃花火の合図で、鬼の面をかぶったマダラ神が白馬に載って一気にこの石段をかけのぼります。

この鬼の面は前があまり良く見えません。
馬の足元を確認できないのですが、馬がもう慣れたように登っていきます。

桜の花びらが降り注ぐ中を仁王門に向かいます。
この門をくぐると急な石の階段があります。
数十段の階段ですが、馬はここで途中で止まると危険なので下から一気に駆け上るのだそうです。

マダラ神の後は寺の僧侶が、ホラ貝を吹きならしながら登ってきました。

ホラ貝も難しいのでしょうが、いい音を響かせていました。

その後ろから5匹の鬼がたいまつをかざしてやってきます。

皆鬼の顔の色は違います。
祭りの謂れなどはまた後で書きます。

のぼり旗に描かれた絵も面白そうです。


のぼり旗の後ろから稚児行列が続きます。
この稚児や親たちも募集に応募した人たちのようです。




稚児たちの後ろを赤い傘をさした僧侶が登ります。

その後ろを駕籠を4人でかついで登っていきますが、中に大僧正が載っているかどうかはわかりません。
でも前を歩いている方がそうかもしれません。


一番最後に裃を着た檀家や関係者が登って行きました。


この楼門(仁王門)は綺麗ですね。

仁王門からその先に見えるピンクのしだれ桜がまぶしく輝いていました。
とてもきれいです。


明日は境内で行われた祭りの様子を紹介します。
マダラ神についても後で紹介したいと思います。
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マダラ鬼神祭(4)へ
マダラ鬼神祭(2)
昨日の雨引観音のマダラ鬼神祭の続きです。
このマダラ鬼神祭の由来などは後から説明することとして、祭りとしてどのようなことをやっているかを見て見ましょう。
入口の薬医門から続く石段を鬼たちは登り、仁王門をくぐって急な石段をかけのぼって本殿に入ります。
この雨引観音は真中の多宝塔と本殿の間に入口があります。

祭りは多宝塔の前の境内空地に竹で組んだ竹矢来(たけやらい)で祭りが行なわれます。
後から行くとすでに人の山。

写真を撮るために前に割り込む人や用意した脚立を建てる人などいろいろです。
あまり出しゃばれないので人の後ろから邪魔な頭を避けて何とか撮りました。

開始の案内の後に祝詞が読み上げられ、僧侶が日本刀をかかげて修抜(しゅうばつ)=お祓いが行なわれました。

そののちに由緒などを含めた祝詞が読み上げられたようですがよく聞きとれませんでした。

正面の多宝塔の回廊にはこの日稚児行列に参加した子供たちと太鼓のたたく子供たちが並んでいます。

その後、たいまつを手に持ったマダラ鬼神と白装束の6人の鬼神(白、赤、緑・・・)が鬼踊りを披露します。

その中を僧侶が真中に積まれた焚き木に火をつけます。


火が勢いよく燃えてくると、鬼たちが手にした松明に点火して威勢の良い踊りを披露します。






一通り鬼踊りが終わると鬼たちが引き上げ、松明が消され、そののちに焚火の消火が行なわれます。
消火と整理に時間がかかるのでこの後は早めに下山することにしました。
この祭りはこの後鬼たちが背にしていた49本の破魔矢を天に向けて放ち、これを観客が取りあいます。
また餅がまかれます。
この破魔矢や餅を手に入れると御利益があるそうです。
さて、地元ではこの祭りを日本で二つしかない鬼の祭りだと言っていました。
もう一つは京都太秦にある広隆寺(半跏思惟像の弥勒菩薩が有名)で行なわれる祭りです。
時間が無いので明日にもう少しまとめて見たい。
今日はここ雨引山の祭りの起源とされる話だけを記載する。
時は室町時代、文明3年(1471)に上杉氏憲 (禅秀) が鎌倉方(足利勢)に対しておこした反乱に起因する。
上杉方の武将長尾景信により足利方の古河城が奪われる。
千葉まで逃れた足利勢が千葉氏などの仲間をひきつれて古河城を奪還、城を追われた長尾勢はこの雨引山に逃げ込んだ。
そして雨引山を囲んだ足利勢が麓から火を放ち、この楽法寺(雨引観音)は炎上してしまう。
本尊の薬師如来は自ら古木の陰に隠れて難を逃れたが、寺の堂宇は焼失してしまった。
しかし、その後どこからともなく、夜毎覆面をした職人が現れ、それを指揮した白馬に乗った鬼面をかぶった神がいた。
寺の本堂はわずか7日で再興され、この指揮をとっていたのがマダラ神であったという話が広まった。
この伝説が元になりこの祭りが始まったと伝えられる。
このマダラ神=摩多羅神というのはとても興味深いのだが、調べだすと奥がどんどん深くなる。
そして良くわからなくなる。
これをもう少し調べてみたい。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
このマダラ鬼神祭の由来などは後から説明することとして、祭りとしてどのようなことをやっているかを見て見ましょう。
入口の薬医門から続く石段を鬼たちは登り、仁王門をくぐって急な石段をかけのぼって本殿に入ります。
この雨引観音は真中の多宝塔と本殿の間に入口があります。

祭りは多宝塔の前の境内空地に竹で組んだ竹矢来(たけやらい)で祭りが行なわれます。
後から行くとすでに人の山。

写真を撮るために前に割り込む人や用意した脚立を建てる人などいろいろです。
あまり出しゃばれないので人の後ろから邪魔な頭を避けて何とか撮りました。

開始の案内の後に祝詞が読み上げられ、僧侶が日本刀をかかげて修抜(しゅうばつ)=お祓いが行なわれました。

そののちに由緒などを含めた祝詞が読み上げられたようですがよく聞きとれませんでした。

正面の多宝塔の回廊にはこの日稚児行列に参加した子供たちと太鼓のたたく子供たちが並んでいます。

その後、たいまつを手に持ったマダラ鬼神と白装束の6人の鬼神(白、赤、緑・・・)が鬼踊りを披露します。

その中を僧侶が真中に積まれた焚き木に火をつけます。


火が勢いよく燃えてくると、鬼たちが手にした松明に点火して威勢の良い踊りを披露します。






一通り鬼踊りが終わると鬼たちが引き上げ、松明が消され、そののちに焚火の消火が行なわれます。
消火と整理に時間がかかるのでこの後は早めに下山することにしました。
この祭りはこの後鬼たちが背にしていた49本の破魔矢を天に向けて放ち、これを観客が取りあいます。
また餅がまかれます。
この破魔矢や餅を手に入れると御利益があるそうです。
さて、地元ではこの祭りを日本で二つしかない鬼の祭りだと言っていました。
もう一つは京都太秦にある広隆寺(半跏思惟像の弥勒菩薩が有名)で行なわれる祭りです。
時間が無いので明日にもう少しまとめて見たい。
今日はここ雨引山の祭りの起源とされる話だけを記載する。
時は室町時代、文明3年(1471)に上杉氏憲 (禅秀) が鎌倉方(足利勢)に対しておこした反乱に起因する。
上杉方の武将長尾景信により足利方の古河城が奪われる。
千葉まで逃れた足利勢が千葉氏などの仲間をひきつれて古河城を奪還、城を追われた長尾勢はこの雨引山に逃げ込んだ。
そして雨引山を囲んだ足利勢が麓から火を放ち、この楽法寺(雨引観音)は炎上してしまう。
本尊の薬師如来は自ら古木の陰に隠れて難を逃れたが、寺の堂宇は焼失してしまった。
しかし、その後どこからともなく、夜毎覆面をした職人が現れ、それを指揮した白馬に乗った鬼面をかぶった神がいた。
寺の本堂はわずか7日で再興され、この指揮をとっていたのがマダラ神であったという話が広まった。
この伝説が元になりこの祭りが始まったと伝えられる。
このマダラ神=摩多羅神というのはとても興味深いのだが、調べだすと奥がどんどん深くなる。
そして良くわからなくなる。
これをもう少し調べてみたい。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
マダラ鬼神祭(3)
前からマダラ神(摩多羅神)が何故ここでは鬼の姿になったのかを考えていた。
しかしよくわからずに時間ばかりが過ぎていく。
まあもう少しこの問題はじっくり考えていこうと思う。
昼間仕事をしていたのでやはり調べたりするには時間の制約が多すぎる。
雨引観音にも時々行ってはいるが春の桜がこのように美しい時に来たのは初めてだ。
紫陽花も有名だし、秋の黄葉時期も美しい。
坂東33観音の24番札所だ。
25番は筑波山大御堂、26番が土浦市小町の里に近い清瀧寺で、27番はずっと離れて銚子の飯沼観音だ。
どこも美しい寺ばかりだ。
100観音巡り(西国33、坂東33、秩父34)などをされる方の気持ちもわかる気がする。

この石段周りは紫陽花の花が咲くとまた美しくなる。





向こうに見えるのは筑波山。


楼門(仁王門)の朱色と桜の花が同色系であっても意外にコントラクトが効いている。


鬼踊りに使われる前の松明。



鐘楼堂と桜

本堂(観音堂)と桜

仁王門としだれ桜

桜と筑波山。
今日は桜の写真で終わってしまいました。
もう少し書きたいことがあるのですが書こうとしてもまとまりません。
明日にでも時間があれば少しだけ書いておきたいと思います。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
しかしよくわからずに時間ばかりが過ぎていく。
まあもう少しこの問題はじっくり考えていこうと思う。
昼間仕事をしていたのでやはり調べたりするには時間の制約が多すぎる。
雨引観音にも時々行ってはいるが春の桜がこのように美しい時に来たのは初めてだ。
紫陽花も有名だし、秋の黄葉時期も美しい。
坂東33観音の24番札所だ。
25番は筑波山大御堂、26番が土浦市小町の里に近い清瀧寺で、27番はずっと離れて銚子の飯沼観音だ。
どこも美しい寺ばかりだ。
100観音巡り(西国33、坂東33、秩父34)などをされる方の気持ちもわかる気がする。

この石段周りは紫陽花の花が咲くとまた美しくなる。





向こうに見えるのは筑波山。


楼門(仁王門)の朱色と桜の花が同色系であっても意外にコントラクトが効いている。


鬼踊りに使われる前の松明。



鐘楼堂と桜

本堂(観音堂)と桜

仁王門としだれ桜

桜と筑波山。
今日は桜の写真で終わってしまいました。
もう少し書きたいことがあるのですが書こうとしてもまとまりません。
明日にでも時間があれば少しだけ書いておきたいと思います。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
マダラ鬼神祭(4)
私がマダラ神(摩多羅神)のことを知ったのは、2年前に島根県安来の清水寺常行堂に秘仏として納められていた摩多羅神座像が公開された時だった。
それがリンク先のブログ記事で知った。
そして公開された摩多羅神座像は無断で写真を転載できないので朝日新聞デジタルの写真を参照してほしい(こちら)
そしてこの少し薄笑いを浮かべたような不思議な像は秘仏としてどこもが公開していないという。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。
この摩多羅神に興味をもったので次のような本を買った。

この本の表紙に不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
これは丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」の二童子だとされ、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに、
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
さて、桜川市雨引観音のマダラ鬼神祭では、日本で2か所だけの鬼祭りだと聞いた。
しかし、このブログへの投稿で国東半島にも鬼の祭りはあるというので、正確には摩多羅神の祭りとして鬼に関する祭りとしては日本で2か所だけだということなのかも知れない。
もう一か所は京都太秦(うずまさ)にある広隆寺だという。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
この半跏思惟像は言わずとも良く知れた素晴らしい仏像でもっとも古いものの一つとされている。
この広隆寺で10月12日に不定期で行なわれている「牛祭り」がこの摩多羅神のまつりで、正式には広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして行なわれてきたそうだ。

(出典:日文研データベース http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/gyouji/gyouji_86.html)
この上の写真はお借りしたもので実際の祭りは夜行なわれておりあまり写真もない。
しかし牛祭りの名前のごとく摩多羅神は馬ではなく牛に乗って表れる。
祭りの起源も平安時代に遡るようなので牛が移動手段に使われていた時代である。
そして自らは鬼の面ではなく摩多羅神の面(紙)をかぶり鬼を従えている。
この摩多羅神は変わった祭文(国家安穏・五穀豊穣・悪病退散)を独特の調子で述べ、参拝者はそれに向かって野次を飛ばす。
読み終わると摩多羅神は四天王とともに薬師堂内に逃げ込むが、群集が追いかけてその面を取り上げるという。
面を取りあげることで厄祓いがなされると解釈されたという。(現在も行なわれているかは不明)
1790年にこの牛祭りを描いた絵がある。

『都名所図会』(1790年)より「太秦牛祭図絵」
またYouTubeで探してみると1982年に撮影された貴重なスライドがUPされていた。
最近は牛の調達が困難になり祭りもあまり行われていないようだ。
さて、この広隆寺は京都に都ができる前からあるといわれる古寺で、秦河勝が創建したという。
この秦氏は渡来人集団といわれ、朝鮮半島を経由してインド近くから日本にやってきたといわれる。
また秦の始皇帝の子孫であるとして秦(しん=はた)とよばれた。
当時の中国などとも往来して数々の技術なども日本にもたらした。
特に機織り技術は特筆したもので、各地に「秦」という字のついた地名がたくさん残された。
広隆寺のある太秦(うずまさ)は特にこの河勝が住んだと伝わっている。神奈川県の秦野市なども昔には秦氏が住んだとも伝えられている。
茨城でも前に養蚕・織物を調べていて常陸太田市の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」ではこの秦氏との関係が気になった(記事→こちら)
さて、このブログも常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)を何箇所か見たが後戸の神である摩多羅神は見たことがなく、その存在もはっきりしない。
一つは行方市西蓮寺の常行堂だが、ここでは毎年9月に常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行こなわれる。
(前に書いた記事を参照 → こちら)
またもう一つは、小美玉市の円妙寺にある常行堂だ(記事は → こちら)
また、いくつかの神社には伊勢神宮などから伝わったとされる神楽が奉納されているところがある。
この中で翁(おきな)の舞いが田楽や申楽と関係が深いと考えています。

(石岡市柿岡八幡宮太々神楽(じゃかもこじゃん)の翁の舞)
例えば、この「じゃかもこじゃん」と呼ばれる祭りには、翁の舞いがありますが、これが宿神(しゅくじん、じゃくじん)などと呼ばれることからこのような呼び名になったものと推論をしています。
また土浦の鷲神社で行われていた祭りも「じゃかもこじゃん」と言われており、これは踊りではなく串に刺したおでんを味噌をつけて食べるんだという
おでんのもとになったのが「でんがく」=田楽であったことに由来するからじゃかもこじゃんは田楽のことを指すのだと考えてよさそうです。
しかし、この祭りも今年から中止(2月)になってしまったそうです。
とても残念です。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
それがリンク先のブログ記事で知った。
そして公開された摩多羅神座像は無断で写真を転載できないので朝日新聞デジタルの写真を参照してほしい(こちら)
そしてこの少し薄笑いを浮かべたような不思議な像は秘仏としてどこもが公開していないという。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。
この摩多羅神に興味をもったので次のような本を買った。

この本の表紙に不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
これは丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」の二童子だとされ、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに、
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
さて、桜川市雨引観音のマダラ鬼神祭では、日本で2か所だけの鬼祭りだと聞いた。
しかし、このブログへの投稿で国東半島にも鬼の祭りはあるというので、正確には摩多羅神の祭りとして鬼に関する祭りとしては日本で2か所だけだということなのかも知れない。
もう一か所は京都太秦(うずまさ)にある広隆寺だという。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
この半跏思惟像は言わずとも良く知れた素晴らしい仏像でもっとも古いものの一つとされている。
この広隆寺で10月12日に不定期で行なわれている「牛祭り」がこの摩多羅神のまつりで、正式には広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして行なわれてきたそうだ。

(出典:日文研データベース http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/gyouji/gyouji_86.html)
この上の写真はお借りしたもので実際の祭りは夜行なわれておりあまり写真もない。
しかし牛祭りの名前のごとく摩多羅神は馬ではなく牛に乗って表れる。
祭りの起源も平安時代に遡るようなので牛が移動手段に使われていた時代である。
そして自らは鬼の面ではなく摩多羅神の面(紙)をかぶり鬼を従えている。
この摩多羅神は変わった祭文(国家安穏・五穀豊穣・悪病退散)を独特の調子で述べ、参拝者はそれに向かって野次を飛ばす。
読み終わると摩多羅神は四天王とともに薬師堂内に逃げ込むが、群集が追いかけてその面を取り上げるという。
面を取りあげることで厄祓いがなされると解釈されたという。(現在も行なわれているかは不明)
1790年にこの牛祭りを描いた絵がある。

『都名所図会』(1790年)より「太秦牛祭図絵」
またYouTubeで探してみると1982年に撮影された貴重なスライドがUPされていた。
最近は牛の調達が困難になり祭りもあまり行われていないようだ。
さて、この広隆寺は京都に都ができる前からあるといわれる古寺で、秦河勝が創建したという。
この秦氏は渡来人集団といわれ、朝鮮半島を経由してインド近くから日本にやってきたといわれる。
また秦の始皇帝の子孫であるとして秦(しん=はた)とよばれた。
当時の中国などとも往来して数々の技術なども日本にもたらした。
特に機織り技術は特筆したもので、各地に「秦」という字のついた地名がたくさん残された。
広隆寺のある太秦(うずまさ)は特にこの河勝が住んだと伝わっている。神奈川県の秦野市なども昔には秦氏が住んだとも伝えられている。
茨城でも前に養蚕・織物を調べていて常陸太田市の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」ではこの秦氏との関係が気になった(記事→こちら)
さて、このブログも常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)を何箇所か見たが後戸の神である摩多羅神は見たことがなく、その存在もはっきりしない。
一つは行方市西蓮寺の常行堂だが、ここでは毎年9月に常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行こなわれる。
(前に書いた記事を参照 → こちら)
またもう一つは、小美玉市の円妙寺にある常行堂だ(記事は → こちら)
また、いくつかの神社には伊勢神宮などから伝わったとされる神楽が奉納されているところがある。
この中で翁(おきな)の舞いが田楽や申楽と関係が深いと考えています。

(石岡市柿岡八幡宮太々神楽(じゃかもこじゃん)の翁の舞)
例えば、この「じゃかもこじゃん」と呼ばれる祭りには、翁の舞いがありますが、これが宿神(しゅくじん、じゃくじん)などと呼ばれることからこのような呼び名になったものと推論をしています。
また土浦の鷲神社で行われていた祭りも「じゃかもこじゃん」と言われており、これは踊りではなく串に刺したおでんを味噌をつけて食べるんだという
おでんのもとになったのが「でんがく」=田楽であったことに由来するからじゃかもこじゃんは田楽のことを指すのだと考えてよさそうです。
しかし、この祭りも今年から中止(2月)になってしまったそうです。
とても残念です。
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マダラ鬼神祭(3)へ
じゃかもこじゃん考(1)-土浦鷲神社(1)
今日2月3日は節分ということで、最近馬鹿に豪華に目立ってきた海鮮の具が一杯入った太い恵方巻きを南南東に向かってかぶりつき、焼いたお頭付きイワシにかぶりついてみた。
何のことは無いが訳の分らぬ行事になってきたような気もする。
節分というので明日は立春。
明日から段々春めいてくるのだろう。
石岡でも総社宮で豆まきと鬼を追い払う「追儺(ついな)」の儀式が行なわれたようだ。
鬼とは何かを本当はもう少し考えたいが、こちらのテーマはまたに譲って、今回は私の知っている所では3か所で呼ばれている(呼ばれていた)「じゃかもこじゃん」という祭りはどんな意味合いがあったのかを少しだけ考えて見たい。
まずは、昨年から祭りが中止されてしまった土浦の鷲神社(わしじんじゃ)のジャカモコジャンである。
場所は土浦の郵便局から土浦駅の方に斜めに少し入った「東﨑町」にある。

ここを訪れたのは昨年の12月1日?頃でまたイチョウの葉が黄葉してきれいだった。

この神社は鷲神社を「わしじんじゃ」と読むようで、東京から北にたくさんある商売繁盛の熊手を売る「おおとりじんじゃ」「とりじんじゃ」などとまったく同じ系統の神社だと思う。地元では「わしの宮」と呼ばれている。
祭神は忌部氏の祖、天日鷲命(あめのひわしのみこと)である。
四国徳島(阿波)からやってきた忌部氏が千葉の安房にやってきて広めたものと考えている。


この神社で行われていた「じゃかもこじゃん」という祭りは旧暦1月15日に神社境内で「味噌おでん」を買って食べると風邪をひかないという風習の祭りである。
旧暦の1月15日であるから今の2月半ば頃に毎年行なわれていた。
それがやはり人出不足ということで昨年から中止になってしまったという。
今年もやはりやらないのだろう。とても残念だ。
おでんといっても「里芋」「豆腐」「長方形のコンニャク」をそれぞれ串で刺して焼いたものに味噌をつけて食べるというもの。
大きな具と別梱包の味噌ダレがセットでたしか500円くらいで販売していたと思う。
ではなぜこれを「じゃかもこじゃん」というのかについてだが、上の写真の現地看板には
「境内にあった千手院の念仏講の鉦・太鼓の音から出た名称といわれる」
と書かれている。
でもこれでは「みそおでん」との関係がどうにも説明がつかない。
この祭りが旧暦1月15日に行なわれていたということも何か関係があるのではないかと・・・・。
もう2か所のジャカモコジャンは石岡の柿岡八幡宮で中秋の名月である十五夜(旧暦8月15日)に行なわれる代々神楽と片野地区(根小屋)の七代神社で毎年旧暦2月8日・8月15日(十五夜)・11月8日の三回奉納されていたというやはり代々神楽(十二座神楽)である。(七代神社の神楽は現在は11月3日に行なわれているようだ)
これらの関係はどんな関係があるのだろうか?
もう少し調べながら明日にでも続きを書いていきたいと思う。
このような面白い言葉(じゃかもこじゃん)が残されているというのも興味がそそられますよね。
それにしてもこの土浦の祭りがどうも理解されずに消えて行くというのはとても残念で仕方がない。
(続く)
何のことは無いが訳の分らぬ行事になってきたような気もする。
節分というので明日は立春。
明日から段々春めいてくるのだろう。
石岡でも総社宮で豆まきと鬼を追い払う「追儺(ついな)」の儀式が行なわれたようだ。
鬼とは何かを本当はもう少し考えたいが、こちらのテーマはまたに譲って、今回は私の知っている所では3か所で呼ばれている(呼ばれていた)「じゃかもこじゃん」という祭りはどんな意味合いがあったのかを少しだけ考えて見たい。
まずは、昨年から祭りが中止されてしまった土浦の鷲神社(わしじんじゃ)のジャカモコジャンである。
場所は土浦の郵便局から土浦駅の方に斜めに少し入った「東﨑町」にある。

ここを訪れたのは昨年の12月1日?頃でまたイチョウの葉が黄葉してきれいだった。

この神社は鷲神社を「わしじんじゃ」と読むようで、東京から北にたくさんある商売繁盛の熊手を売る「おおとりじんじゃ」「とりじんじゃ」などとまったく同じ系統の神社だと思う。地元では「わしの宮」と呼ばれている。
祭神は忌部氏の祖、天日鷲命(あめのひわしのみこと)である。
四国徳島(阿波)からやってきた忌部氏が千葉の安房にやってきて広めたものと考えている。


この神社で行われていた「じゃかもこじゃん」という祭りは旧暦1月15日に神社境内で「味噌おでん」を買って食べると風邪をひかないという風習の祭りである。
旧暦の1月15日であるから今の2月半ば頃に毎年行なわれていた。
それがやはり人出不足ということで昨年から中止になってしまったという。
今年もやはりやらないのだろう。とても残念だ。
おでんといっても「里芋」「豆腐」「長方形のコンニャク」をそれぞれ串で刺して焼いたものに味噌をつけて食べるというもの。
大きな具と別梱包の味噌ダレがセットでたしか500円くらいで販売していたと思う。
ではなぜこれを「じゃかもこじゃん」というのかについてだが、上の写真の現地看板には
「境内にあった千手院の念仏講の鉦・太鼓の音から出た名称といわれる」
と書かれている。
でもこれでは「みそおでん」との関係がどうにも説明がつかない。
この祭りが旧暦1月15日に行なわれていたということも何か関係があるのではないかと・・・・。
もう2か所のジャカモコジャンは石岡の柿岡八幡宮で中秋の名月である十五夜(旧暦8月15日)に行なわれる代々神楽と片野地区(根小屋)の七代神社で毎年旧暦2月8日・8月15日(十五夜)・11月8日の三回奉納されていたというやはり代々神楽(十二座神楽)である。(七代神社の神楽は現在は11月3日に行なわれているようだ)
これらの関係はどんな関係があるのだろうか?
もう少し調べながら明日にでも続きを書いていきたいと思う。
このような面白い言葉(じゃかもこじゃん)が残されているというのも興味がそそられますよね。
それにしてもこの土浦の祭りがどうも理解されずに消えて行くというのはとても残念で仕方がない。
(続く)
じゃかもこじゃん考(2)-土浦鷲神社(2)
今日は立春。
朝は寒かったが昼間はポカポカ陽気。
これから三寒四温で段々あたたかくなってくるでしょう。

野原ではオオイヌノフグリも咲きだしました。

黄色い花も・・・(名前はわからない)
今日は昨日の続き「じゃかもこじゃん考」の2回目です。

ここで毎年旧暦の1月15日に行なわれていた「じゃかもこじゃん」で売られていた味噌おでんです。
(味噌は別に分けて添付されています)

こちらはその包装紙。
「このおでんをご家族みんなで食べると一家招福 無病息災 とくに交通安全 流行性感冒に負けない 丈夫なからだになり 受験合格 就職万歳 夫婦和合とむかしからゆわれている」
と書かれています。
神社の由来については
「鷲の宮は平安時代に祀られたもので、室町時代東崎町の開発百姓が出島の田村から分家してこの地に移ったとき、田村鷲の宮を分請してきたといわれ、土浦市の中心になっている」
と書かれています。
田村は現在は土浦市田村で旧出島村(現かすみがうら市)に近い場所です。
そこに鷲神社があります。遺跡などが発掘され、かなり古くから人が住んでいたようです。
一方土浦市は現在市街地となっている場所の多くが、昔は湿地帯だったりして、比較的新しくその中でもこの東崎町はかなり古く(室町時代に)開発されたと思われます。
このじゃかもこじゃんという祭りが何時から始まったのかよくわかりません。
しかし田村の鷲神社ではこのような祭りはやっていません。
私が考えるのは
「おでん」=「田楽豆腐」=「田楽舞」=「じゃかもこじゃん」
であるという流れです。田楽舞、申楽(さるがく)などは平安時代に始まっています。
もともと「おでん」という名前の発祥はこの串に刺して焼いた豆腐の姿が「田楽舞」(五穀豊穣を祈願しの神楽)の竹馬に乗って踊る姿に似ていることからついたとされています。
石岡のじゃかもこじゃんは代々神楽ですから、おでんも「神楽」ということで、両者に共通点があります。
この先はまた後日に続きを書きたいと思います。
明日は銚子に出かけますので夜遅くなり、続きは書けないかもしれません。
朝は寒かったが昼間はポカポカ陽気。
これから三寒四温で段々あたたかくなってくるでしょう。

野原ではオオイヌノフグリも咲きだしました。

黄色い花も・・・(名前はわからない)
今日は昨日の続き「じゃかもこじゃん考」の2回目です。

ここで毎年旧暦の1月15日に行なわれていた「じゃかもこじゃん」で売られていた味噌おでんです。
(味噌は別に分けて添付されています)

こちらはその包装紙。
「このおでんをご家族みんなで食べると一家招福 無病息災 とくに交通安全 流行性感冒に負けない 丈夫なからだになり 受験合格 就職万歳 夫婦和合とむかしからゆわれている」
と書かれています。
神社の由来については
「鷲の宮は平安時代に祀られたもので、室町時代東崎町の開発百姓が出島の田村から分家してこの地に移ったとき、田村鷲の宮を分請してきたといわれ、土浦市の中心になっている」
と書かれています。
田村は現在は土浦市田村で旧出島村(現かすみがうら市)に近い場所です。
そこに鷲神社があります。遺跡などが発掘され、かなり古くから人が住んでいたようです。
一方土浦市は現在市街地となっている場所の多くが、昔は湿地帯だったりして、比較的新しくその中でもこの東崎町はかなり古く(室町時代に)開発されたと思われます。
このじゃかもこじゃんという祭りが何時から始まったのかよくわかりません。
しかし田村の鷲神社ではこのような祭りはやっていません。
私が考えるのは
「おでん」=「田楽豆腐」=「田楽舞」=「じゃかもこじゃん」
であるという流れです。田楽舞、申楽(さるがく)などは平安時代に始まっています。
もともと「おでん」という名前の発祥はこの串に刺して焼いた豆腐の姿が「田楽舞」(五穀豊穣を祈願しの神楽)の竹馬に乗って踊る姿に似ていることからついたとされています。
石岡のじゃかもこじゃんは代々神楽ですから、おでんも「神楽」ということで、両者に共通点があります。
この先はまた後日に続きを書きたいと思います。
明日は銚子に出かけますので夜遅くなり、続きは書けないかもしれません。
じゃかもこじゃん考(3)-田楽と猿楽
じゃかもこじゃんというお祭りについて勝手な推理を進めていますが、まだはっきりまとまらずに書き始めていますので思うように先に進めません。
まずはここ土浦市東崎町にある鷲神社(鷲の宮)の様子をもう少し紹介しておきましょう。

境内に入ってすぐ右側に「久松五右衛門翁之像」が立っています。
久松五右衛門は土浦の街の発展に寄与した人物だそうで、霞ヶ浦岸の蓮河原地区の耕地整理組合長として桜町などの開発に多大な貢献があったそうです。
阿見の予科練(霞ケ浦航空隊)などの歓楽街として桜川沿いの湿地帯を一大歓楽街として整備したようです。
歓楽街といえば風俗などもここに集中し、私が会社に入った頃(40年ほど前)はまだ近づくのが少し怖い場所でした。
まあそこに足しげく通う兵もいましたが・・・。
今ではすっかりその姿は薄れています。

鷲神社拝殿。


拝殿の扁額

市指定有形文化財の力石3個。
これはかなり大きいです。
多くの神社にある力石より大きいので持ち上がらないのでは??
力石は力自慢だけでなく、商売などをやっていたところでは持ち上げた高さによって給金を決めていたところなどもあったそうですが(飯岡助五郎の逸話)、ここではどうだったのでしょうか。

本殿。 かなり凝った彫刻が施されています。
何時頃の物か? 少し色あせています。

境内には弁天池と上の写真のような小山が築かれ、不動明王?像が祀られていました。
さて、神社の様子はこんなものですが、室町時代にこの神社がこの地に建てられたとして、この味噌おでん(田楽)を食べる風習との関係を考えて見ましょう。
まずこの「おでん」が田楽からきているとして、田楽とは何でしょうか?
私もよくわからないので少しずつ調べながら書いていきましょう。
まず「田楽」を語源由来辞典で見て見ると
「平安時代におこなわれていた「田楽」という芸能に由来する。
豆腐を串に刺した形が、踊る芸人の姿に似ていたことから名付けられた。
芸能として「田楽」は、田植えの際に豊作を祈る「田舞(たまい)」が発展した芸能で、鎌倉末期まで流行したが室町後期には衰退し、現代では民俗芸能として神社などで行なわれている。」
と書かれています。
さらにWikipediaでは
「田楽は平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。」
と書かれています。
さて、この田楽と同じようなものとして、もう一つ、能の起源といわれる猿楽(申楽)があります。
こちらをWikipediaで調べて見ましょう。
「猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである」
「散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)とも書く。読み方は「さるごう(さるがう)」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。もっとも、これを誤りとする説もある」
「現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている」
などと書かれています。
わかったようなわからないような・・・・・・。
さらに「散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。」
「平安時代には中央的でなかった猿楽であったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。」
などと書かれている。
さて、これらの事を調べて行くとさらに深みにはまりわからなくなります。
私は専門家でもないので、こんなことをまともに理解することはできそうにありません。
ここでは「じゃかもこじゃん」が何故「味噌おでん」や「代々神楽」なのかを考えているだけですので、あまり深く追求するのはこれくらいにして、「おでん」や「神楽」が「田楽」「猿楽」「能」などと関係が深く、室町時代頃に盛んに行なわれ、色々な芸能に発展したり、神社など伝わり地域芸能として受け継がれてきたということがおぼろげながら浮かんできました。
では、能の基は猿楽というので、やはり能を大成した世阿弥を知らなけれなならなそうです。
続きはまた後ほど・・・・。
まずはここ土浦市東崎町にある鷲神社(鷲の宮)の様子をもう少し紹介しておきましょう。

境内に入ってすぐ右側に「久松五右衛門翁之像」が立っています。
久松五右衛門は土浦の街の発展に寄与した人物だそうで、霞ヶ浦岸の蓮河原地区の耕地整理組合長として桜町などの開発に多大な貢献があったそうです。
阿見の予科練(霞ケ浦航空隊)などの歓楽街として桜川沿いの湿地帯を一大歓楽街として整備したようです。
歓楽街といえば風俗などもここに集中し、私が会社に入った頃(40年ほど前)はまだ近づくのが少し怖い場所でした。
まあそこに足しげく通う兵もいましたが・・・。
今ではすっかりその姿は薄れています。

鷲神社拝殿。


拝殿の扁額

市指定有形文化財の力石3個。
これはかなり大きいです。
多くの神社にある力石より大きいので持ち上がらないのでは??
力石は力自慢だけでなく、商売などをやっていたところでは持ち上げた高さによって給金を決めていたところなどもあったそうですが(飯岡助五郎の逸話)、ここではどうだったのでしょうか。

本殿。 かなり凝った彫刻が施されています。
何時頃の物か? 少し色あせています。

境内には弁天池と上の写真のような小山が築かれ、不動明王?像が祀られていました。
さて、神社の様子はこんなものですが、室町時代にこの神社がこの地に建てられたとして、この味噌おでん(田楽)を食べる風習との関係を考えて見ましょう。
まずこの「おでん」が田楽からきているとして、田楽とは何でしょうか?
私もよくわからないので少しずつ調べながら書いていきましょう。
まず「田楽」を語源由来辞典で見て見ると
「平安時代におこなわれていた「田楽」という芸能に由来する。
豆腐を串に刺した形が、踊る芸人の姿に似ていたことから名付けられた。
芸能として「田楽」は、田植えの際に豊作を祈る「田舞(たまい)」が発展した芸能で、鎌倉末期まで流行したが室町後期には衰退し、現代では民俗芸能として神社などで行なわれている。」
と書かれています。
さらにWikipediaでは
「田楽は平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。」
と書かれています。
さて、この田楽と同じようなものとして、もう一つ、能の起源といわれる猿楽(申楽)があります。
こちらをWikipediaで調べて見ましょう。
「猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである」
「散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)とも書く。読み方は「さるごう(さるがう)」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。もっとも、これを誤りとする説もある」
「現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている」
などと書かれています。
わかったようなわからないような・・・・・・。
さらに「散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。」
「平安時代には中央的でなかった猿楽であったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。」
などと書かれている。
さて、これらの事を調べて行くとさらに深みにはまりわからなくなります。
私は専門家でもないので、こんなことをまともに理解することはできそうにありません。
ここでは「じゃかもこじゃん」が何故「味噌おでん」や「代々神楽」なのかを考えているだけですので、あまり深く追求するのはこれくらいにして、「おでん」や「神楽」が「田楽」「猿楽」「能」などと関係が深く、室町時代頃に盛んに行なわれ、色々な芸能に発展したり、神社など伝わり地域芸能として受け継がれてきたということがおぼろげながら浮かんできました。
では、能の基は猿楽というので、やはり能を大成した世阿弥を知らなけれなならなそうです。
続きはまた後ほど・・・・。
じゃかもこじゃん考(4)-石岡市柿岡のじゃかもこじゃん
毎年、中秋の名月(旧暦8月15日)の晩とその前の晩の2日に亘って石岡市柿岡の八幡神社で行われる伝統行事「八幡宮太々神楽」を紹介します。
この祭りを地元では「じゃかもこじゃん」と呼びます。
夜7時から11時まで12座の神楽を神社に奉納します。(昔はもう少し遅い時間から始まって真夜中まで行われていたといいます)
太々神楽=代々神楽は基本的には地元の家を継承する長男が代々引き継いでこの神楽を継承したようですが、現在では長男に限らず保存会を作って保存継承していると言います。
祭りの謂れは、文禄4年(1595)長倉義興が、柿岡城主になった時に伊勢からこの神楽(24舞)を持ち帰り、そのうちの12座を継承してきたと言われています。
長倉城は御前山近くの那珂川北側の城で、詳細は前に記事を書いています。(長倉宿:こちら、長倉城跡(蒼泉寺):こちら)
「十二座神楽」は
1、国堅(くにがため)
(巫女舞=神子舞)
2、老翁(おきな)(天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)
3、天狐(てんこ)・種嫁(たねがし)の舞
4、龍神(天御柱命)
5、地法(ちのり)・赤鬼 (タケミカズチ=鹿島神宮の祭神)
6、神酒(みき)の舞 (天児屋根命)
7、西ノ宮大神 (蛭児之神)
8、鈿女(うずめ)(天鈿女神・・・猿田彦と結婚)
9、岩戸
10、戸隠 (天手力男命)
11、猿田彦の大神
12、山の神 (天大山祇命)
夜7時からはじまり終わるのは11時近くにまで及びます。
最後に餅をまきます。

神社の拝殿は畳の広いほぼ真四角な舞台になっています。

最初は男性4人が舞う「国堅(くにがため)」です。
日本の国を造った時、たくさんの島々ができました。
この島々が出来るのを喜んで堅めてまわるイザナギ・イザナミの2神の様子を描いています。
この旧八幡町に婿にやってきた男性が演じることになっていたそうです。
最初は2人だったはずですが、いつの間にか4人で演じる様になったようです
この踊りは「早みこ」ともいうそうです。

さて、次は地元の小学生から選ばれた巫女4人が踊ります。
巫女舞=神子舞だそうです。
穢れのない女の子ということで、地元の10歳前後の子供から毎年選ばれます。

この神子舞は十二座には入っていません。
各神楽の途中で計4回別々の神子舞が披露されるそうです。

さて、次が「老翁(おきな)」です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)です。
天上界の主神です。
剣を腰に差し、手に白い紙を持って、数回廻ります。紙で四方に種をまいているのでしょうか。
剣を抜いて、また四方を廻ります。
剣で蛮族を平定しているようです。
老翁は四隅でそれぞれ剣を突き立て、変な腰振りダンスを踊ります。
これは四方に柱を建て、地を固めている姿と言いますが、昔の事やはり少し別な意味合いもありそうです。
五穀豊穣、子孫繁栄・・・ 昔の古事記の世界かもしれません。

つづいて、キツネが登場します。
「天狐(てんこ)」と「種嫁(たねがし)」の舞です。
三部構成で、最初は天狐が一人で自由奔放に舞います。

天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫、天種子命(あめのたねがしのみこと)をあらわしており、五穀豊穣の舞です。
そこに種子命がやって来て、種まきをするのを天狐が手伝う様子を表現します。

最後に命(みこと)が高天原に戻ってしまうのを天狐は慕ってとび跳ねたりします
さて、「じゃかもこじゃん」というのは、踊りの時になる拍子の音がそのように聞こえるからともいわれていますが、この神楽の中の翁舞い(老翁)のことを指しているとも言われているようです。
(この写真と記事の内容は2013年の9月のものです。)
長くなってしまいましたので続きは明日。
田楽、神楽、翁舞などの関係を少しわかれば「じゃかもこじゃん」の意味もわかってくるかもしれません。
この祭りを地元では「じゃかもこじゃん」と呼びます。
夜7時から11時まで12座の神楽を神社に奉納します。(昔はもう少し遅い時間から始まって真夜中まで行われていたといいます)
太々神楽=代々神楽は基本的には地元の家を継承する長男が代々引き継いでこの神楽を継承したようですが、現在では長男に限らず保存会を作って保存継承していると言います。
祭りの謂れは、文禄4年(1595)長倉義興が、柿岡城主になった時に伊勢からこの神楽(24舞)を持ち帰り、そのうちの12座を継承してきたと言われています。
長倉城は御前山近くの那珂川北側の城で、詳細は前に記事を書いています。(長倉宿:こちら、長倉城跡(蒼泉寺):こちら)
「十二座神楽」は
1、国堅(くにがため)
(巫女舞=神子舞)
2、老翁(おきな)(天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)
3、天狐(てんこ)・種嫁(たねがし)の舞
4、龍神(天御柱命)
5、地法(ちのり)・赤鬼 (タケミカズチ=鹿島神宮の祭神)
6、神酒(みき)の舞 (天児屋根命)
7、西ノ宮大神 (蛭児之神)
8、鈿女(うずめ)(天鈿女神・・・猿田彦と結婚)
9、岩戸
10、戸隠 (天手力男命)
11、猿田彦の大神
12、山の神 (天大山祇命)
夜7時からはじまり終わるのは11時近くにまで及びます。
最後に餅をまきます。

神社の拝殿は畳の広いほぼ真四角な舞台になっています。

最初は男性4人が舞う「国堅(くにがため)」です。
日本の国を造った時、たくさんの島々ができました。
この島々が出来るのを喜んで堅めてまわるイザナギ・イザナミの2神の様子を描いています。
この旧八幡町に婿にやってきた男性が演じることになっていたそうです。
最初は2人だったはずですが、いつの間にか4人で演じる様になったようです
この踊りは「早みこ」ともいうそうです。

さて、次は地元の小学生から選ばれた巫女4人が踊ります。
巫女舞=神子舞だそうです。
穢れのない女の子ということで、地元の10歳前後の子供から毎年選ばれます。

この神子舞は十二座には入っていません。
各神楽の途中で計4回別々の神子舞が披露されるそうです。

さて、次が「老翁(おきな)」です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)です。
天上界の主神です。
剣を腰に差し、手に白い紙を持って、数回廻ります。紙で四方に種をまいているのでしょうか。
剣を抜いて、また四方を廻ります。
剣で蛮族を平定しているようです。
老翁は四隅でそれぞれ剣を突き立て、変な腰振りダンスを踊ります。
これは四方に柱を建て、地を固めている姿と言いますが、昔の事やはり少し別な意味合いもありそうです。
五穀豊穣、子孫繁栄・・・ 昔の古事記の世界かもしれません。

つづいて、キツネが登場します。
「天狐(てんこ)」と「種嫁(たねがし)」の舞です。
三部構成で、最初は天狐が一人で自由奔放に舞います。

天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫、天種子命(あめのたねがしのみこと)をあらわしており、五穀豊穣の舞です。
そこに種子命がやって来て、種まきをするのを天狐が手伝う様子を表現します。

最後に命(みこと)が高天原に戻ってしまうのを天狐は慕ってとび跳ねたりします
さて、「じゃかもこじゃん」というのは、踊りの時になる拍子の音がそのように聞こえるからともいわれていますが、この神楽の中の翁舞い(老翁)のことを指しているとも言われているようです。
(この写真と記事の内容は2013年の9月のものです。)
長くなってしまいましたので続きは明日。
田楽、神楽、翁舞などの関係を少しわかれば「じゃかもこじゃん」の意味もわかってくるかもしれません。
じゃかもこじゃん考(5)-翁舞と世阿弥に能(申楽)
昨日書いた柿岡の八幡宮で行なわれている神楽「じゃかもこじゃん」の中でも、特に「老翁」の舞いがじゃかもこじゃんに通じると言われています。
何故なのでしょう?

(柿岡じゃかもこじゃんの翁舞)
そのため少し「翁舞」という伝統芸能について調べて見ましょう。
Wikipediaによれば
「翁舞(おきなまい)は、日本の伝統芸能の舞。現在の能楽の原典とされる他、民俗芸能として各地に伝えられている。長寿の翁が人々の安寧を祈って舞う。
古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられている。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称された。」
と書かれています。
やはり「おでん」と同じく「田楽や猿楽」がそのルーツです。
でもその中でも翁には特別な意味が隠されているのかもしれません。
もう一つこの翁舞に続いて演じられるという「三番叟(さんばそう)」がありますが、これもこの流れが続いているものと考えます。
三番叟としてこの近くで思い浮かべるのは成田飛行場近くの取香にある側高神社で行なわれています。
取香(とっこう)は香取をひっくり返した地名で、側高(そばたか)神社も祭神が長いこと不明とされてる千葉氏ゆかりの神社です。
さて、もう一つ前に書いた記事を思い出しています。
それは雨引観音で行なわれている「マダラ鬼神祭」について書いたブログ記事です。前に書いたのとダブってしまいますが、もう一度書くことをお許しください。
(前の記事はこちら)
室町時代に父親の観阿弥とともに「能」を完成させた世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに書かれている。
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。
三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。
なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。
その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。
日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。
御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。
成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。
「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。
上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。
橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。
上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。
これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。
または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
今では「能」と言っているが明治の前までは「猿楽」と呼ばれており、世阿弥は「申楽」とこの「風姿花伝」には書いている。
そして、世阿弥によれば、この申楽(猿楽)の歴史は、渡来人である「秦河勝(はたかわかつ)」によるとしている。
秦河勝は6世紀に朝鮮半島からこの国に渡ってきた渡来人集団「秦氏」の長で、秦の始皇帝の子孫であるとも言われている人物だ。
このため能の起こりは渡来であるとの説が強くあるが、日本に来て発展して芸能に高めたのは世阿弥であった。
さて、この田楽や猿楽と「じゃかもこじゃん」という一風変わった名前がどう結びついたかであるが、このヒントをもらったのがこの秦河勝が住んだと言われている京都太秦(うずまさ)のにある広隆寺に伝わる「摩多羅神(まだらじん)祭」である。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。

この本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙であるが、ここに不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
この本によれば摩多羅神は「宿神(しゅくじん)」であるという。
どうもこの宿神という言葉が「しゅくじん」「しゃくじん」などと呼ばれていたので、これが言葉の響きから「じゃかもこじゃん」となったのではないだろうか。
この宿神について、世界大百科事典では
「呪術的信仰対象の一つ。〈しゅくしん〉は,守宮神,守久神,社宮司,守公神,守瞽神,主空神,粛慎の神,守君神など,さまざまな表記があるが,元来はシャグジ,シュグジなどと称された小祠の神の名だったと思われる。シャグジ,シュグジは辺境の地主神であるが,呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神,道祖神など他の民間信仰と習合を果たし,非常に複雑なまつられ方をしている。おびただしい異表記があるのはそのためである。」
と解説されている。
東京にある「石神井(しゃくじい)などもおそらくこの宿神から変化したものと思われる。
長くなったが、これからもっと深めるのはもう少し勉強してみなければ理解できそうにない。
雨引山に伝わる「マダラ鬼神祭」なども、寺が焼けた時にどこからともなくやってきたマダラ鬼があっという間に寺を再建したという言い伝えから今でもこれを祭りとして行なっているもので、奥が深そうなのだがこれがまたよくわからない。
祭りの様子は前に紹介しているので興味があれば読んでみてください。
(こちら1、こちら2、こちら3)
何故なのでしょう?

(柿岡じゃかもこじゃんの翁舞)
そのため少し「翁舞」という伝統芸能について調べて見ましょう。
Wikipediaによれば
「翁舞(おきなまい)は、日本の伝統芸能の舞。現在の能楽の原典とされる他、民俗芸能として各地に伝えられている。長寿の翁が人々の安寧を祈って舞う。
古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられている。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称された。」
と書かれています。
やはり「おでん」と同じく「田楽や猿楽」がそのルーツです。
でもその中でも翁には特別な意味が隠されているのかもしれません。
もう一つこの翁舞に続いて演じられるという「三番叟(さんばそう)」がありますが、これもこの流れが続いているものと考えます。
三番叟としてこの近くで思い浮かべるのは成田飛行場近くの取香にある側高神社で行なわれています。
取香(とっこう)は香取をひっくり返した地名で、側高(そばたか)神社も祭神が長いこと不明とされてる千葉氏ゆかりの神社です。
さて、もう一つ前に書いた記事を思い出しています。
それは雨引観音で行なわれている「マダラ鬼神祭」について書いたブログ記事です。前に書いたのとダブってしまいますが、もう一度書くことをお許しください。
(前の記事はこちら)
室町時代に父親の観阿弥とともに「能」を完成させた世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに書かれている。
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。
三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。
なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。
その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。
日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。
御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。
成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。
「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。
上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。
橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。
上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。
これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。
または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
今では「能」と言っているが明治の前までは「猿楽」と呼ばれており、世阿弥は「申楽」とこの「風姿花伝」には書いている。
そして、世阿弥によれば、この申楽(猿楽)の歴史は、渡来人である「秦河勝(はたかわかつ)」によるとしている。
秦河勝は6世紀に朝鮮半島からこの国に渡ってきた渡来人集団「秦氏」の長で、秦の始皇帝の子孫であるとも言われている人物だ。
このため能の起こりは渡来であるとの説が強くあるが、日本に来て発展して芸能に高めたのは世阿弥であった。
さて、この田楽や猿楽と「じゃかもこじゃん」という一風変わった名前がどう結びついたかであるが、このヒントをもらったのがこの秦河勝が住んだと言われている京都太秦(うずまさ)のにある広隆寺に伝わる「摩多羅神(まだらじん)祭」である。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。

この本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙であるが、ここに不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
この本によれば摩多羅神は「宿神(しゅくじん)」であるという。
どうもこの宿神という言葉が「しゅくじん」「しゃくじん」などと呼ばれていたので、これが言葉の響きから「じゃかもこじゃん」となったのではないだろうか。
この宿神について、世界大百科事典では
「呪術的信仰対象の一つ。〈しゅくしん〉は,守宮神,守久神,社宮司,守公神,守瞽神,主空神,粛慎の神,守君神など,さまざまな表記があるが,元来はシャグジ,シュグジなどと称された小祠の神の名だったと思われる。シャグジ,シュグジは辺境の地主神であるが,呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神,道祖神など他の民間信仰と習合を果たし,非常に複雑なまつられ方をしている。おびただしい異表記があるのはそのためである。」
と解説されている。
東京にある「石神井(しゃくじい)などもおそらくこの宿神から変化したものと思われる。
長くなったが、これからもっと深めるのはもう少し勉強してみなければ理解できそうにない。
雨引山に伝わる「マダラ鬼神祭」なども、寺が焼けた時にどこからともなくやってきたマダラ鬼があっという間に寺を再建したという言い伝えから今でもこれを祭りとして行なっているもので、奥が深そうなのだがこれがまたよくわからない。
祭りの様子は前に紹介しているので興味があれば読んでみてください。
(こちら1、こちら2、こちら3)
じゃかもこじゃん考(6)-開催日は満月?
土浦の鷲神社に伝わってきたおでんを食べる「じゃかもこじゃん」が行なわれていたのは旧暦の1月15日です。
一方の石岡市柿岡の八幡神社で行なわれている神楽「じゃかもこじゃん」は旧暦の8月15日ですので共に満月に行なわれています。
これは何か意味があるのでしょうか。
じゃかもこじゃん考は昨日で一旦終わろうと思っていたので、きょうのはまあ附録のようなものです。
太陽歴が一般的となり、月の暦である旧暦の考え方が薄れてしまって、戦後生まれの私達にはあまりピーンと来るものがありません。
中国や台湾などでは未だに正月行事など旧暦で行なわれていますので私達が忘れてしまった何かがあるのかもしれません。
そこで旧暦1月15日を調べて見ました。
この日については、なかなか面白いことが載っています。
まず旧暦の正月は「春節」で、今年なら2月8日(月)の昨日になります。
月の暦で言うと「新月」です。
では旧暦で言う年が明けての最初の満月が旧暦の1月15日で、今年なら2月23日(火)です。
やはり旧暦の中でも特別な日で「元宵節(げんしょうせつ)」となります。
この元宵節というのは元月の最初の宵(夜)という意味で、過年は元宵節を迎えて終了すると解釈される重要な一日なのだそうだ。
この「元宵節」が漢の時代に始まったようだが、道教や仏教などでもとりいれられるようになって、民間でも「灯り」を灯す風習が始まったという。
それが「元宵節」ではランタンを灯す習慣がはじまり各地でランタン祭りなどが行なわれている。
これには面白い逸話があるという。
「一羽の天鵞が天より人間界に舞い降りた際、一人の猟師の放った矢で傷ついてしまった。それを知った玉皇大帝は、自ら大切にしていた天鵞に変わって正月15日に天より兵を遣わし地上を焼き払うことを計画した。その計画を知った一人の仙人は民衆を救うために地上に降り、正月15日に家々で松明を燃やしランタンを灯すことで厄災を逃れることができると伝えた。
人々は仙人の言葉の通りに正月15日に松明を燃やしランタンを灯すと、その仙人は玉皇大帝に対し既に地上は焼き払ったと報告、玉皇大帝は衆神を率いて南天門より地上を見下ろすと、地上は赤々とした炎に包まれており、既に地上を焼き払ったと錯覚したため人間界が焼き払われなくて済んだ。このことから毎年正月15日にランタンを灯す習慣ができたといわれている。」
(Wikipediaより抜粋)
長崎のランタンフェスティバルは旧暦の1月1日~1月15日まで新地中華街で1万数千個のランタンが点灯されるという。
また台湾のランタンフェスティバルも 旧正月から元宵節に行なわれるそうですが、多くの行事は最後の元宵節に合わせて行なわれているのだという。
今年なら2月20日~24日が最もにぎやかなのだそうだ。
調べて見ると今年は桃園で2月22日から3月6日にたくさんのランタンが広場や通り沿いに並び花火が打ち上げられるという。
日本でも昔は意味のある日だったのだ。
旧暦の1月1日は「(大)正月」であるのに対し、1月15日は「小正月」といった。
小正月は満月(望)で、14日~16日までがこれに当たり、特に夜が行事の中心だったようだ。
今では正月が新暦の1月1日となってしまったので小正月も新暦で表示するように変わってしまった。
柿岡のじゃかもこじゃんが旧暦8月14日の夜と、15日(中秋の名月)の夜の2日間行われることにはやはり意味があったようだ。

土浦市東崎町の鷲神社

「皇紀二千六百年 鷲神社植樹記念碑」

境内にある弁天池 奥に見える赤い鳥居は境内社「瑞徳稲荷神社」。
じゃかもこじゃん考(終わり)
(じゃかもこじゃん考1~読むには → こちら)
一方の石岡市柿岡の八幡神社で行なわれている神楽「じゃかもこじゃん」は旧暦の8月15日ですので共に満月に行なわれています。
これは何か意味があるのでしょうか。
じゃかもこじゃん考は昨日で一旦終わろうと思っていたので、きょうのはまあ附録のようなものです。
太陽歴が一般的となり、月の暦である旧暦の考え方が薄れてしまって、戦後生まれの私達にはあまりピーンと来るものがありません。
中国や台湾などでは未だに正月行事など旧暦で行なわれていますので私達が忘れてしまった何かがあるのかもしれません。
そこで旧暦1月15日を調べて見ました。
この日については、なかなか面白いことが載っています。
まず旧暦の正月は「春節」で、今年なら2月8日(月)の昨日になります。
月の暦で言うと「新月」です。
では旧暦で言う年が明けての最初の満月が旧暦の1月15日で、今年なら2月23日(火)です。
やはり旧暦の中でも特別な日で「元宵節(げんしょうせつ)」となります。
この元宵節というのは元月の最初の宵(夜)という意味で、過年は元宵節を迎えて終了すると解釈される重要な一日なのだそうだ。
この「元宵節」が漢の時代に始まったようだが、道教や仏教などでもとりいれられるようになって、民間でも「灯り」を灯す風習が始まったという。
それが「元宵節」ではランタンを灯す習慣がはじまり各地でランタン祭りなどが行なわれている。
これには面白い逸話があるという。
「一羽の天鵞が天より人間界に舞い降りた際、一人の猟師の放った矢で傷ついてしまった。それを知った玉皇大帝は、自ら大切にしていた天鵞に変わって正月15日に天より兵を遣わし地上を焼き払うことを計画した。その計画を知った一人の仙人は民衆を救うために地上に降り、正月15日に家々で松明を燃やしランタンを灯すことで厄災を逃れることができると伝えた。
人々は仙人の言葉の通りに正月15日に松明を燃やしランタンを灯すと、その仙人は玉皇大帝に対し既に地上は焼き払ったと報告、玉皇大帝は衆神を率いて南天門より地上を見下ろすと、地上は赤々とした炎に包まれており、既に地上を焼き払ったと錯覚したため人間界が焼き払われなくて済んだ。このことから毎年正月15日にランタンを灯す習慣ができたといわれている。」
(Wikipediaより抜粋)
長崎のランタンフェスティバルは旧暦の1月1日~1月15日まで新地中華街で1万数千個のランタンが点灯されるという。
また台湾のランタンフェスティバルも 旧正月から元宵節に行なわれるそうですが、多くの行事は最後の元宵節に合わせて行なわれているのだという。
今年なら2月20日~24日が最もにぎやかなのだそうだ。
調べて見ると今年は桃園で2月22日から3月6日にたくさんのランタンが広場や通り沿いに並び花火が打ち上げられるという。
日本でも昔は意味のある日だったのだ。
旧暦の1月1日は「(大)正月」であるのに対し、1月15日は「小正月」といった。
小正月は満月(望)で、14日~16日までがこれに当たり、特に夜が行事の中心だったようだ。
今では正月が新暦の1月1日となってしまったので小正月も新暦で表示するように変わってしまった。
柿岡のじゃかもこじゃんが旧暦8月14日の夜と、15日(中秋の名月)の夜の2日間行われることにはやはり意味があったようだ。

土浦市東崎町の鷲神社

「皇紀二千六百年 鷲神社植樹記念碑」

境内にある弁天池 奥に見える赤い鳥居は境内社「瑞徳稲荷神社」。
じゃかもこじゃん考(終わり)
(じゃかもこじゃん考1~読むには → こちら)
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