小栗の里散策(1)
小栗判官と照手姫や小栗10傑などで知られる小栗の里に行った。
前から一度行ってみなければとは思っていたが、その機会に恵まれなかった。
場所も今まで漠然と思い描いていたところからかなりずれていた。
小栗というのは石岡から見れば峠を越えて真壁を通り、その先の昔の協和町であり、石岡の山の麓の方にも小栗の殿様がやってきていた話などが結構残されている。
また小栗道なるものが石岡(常陸国府中)から筑波山の隣の湯袋峠を通り小栗に通じていた。
そのため、漠然としたエリアしか理解していなかったが、いってみたら筑西市(旧協和町)の北のはずれで、小貝川がすぐ横を流れ、少し行くと栃木県との県境であった。
古代の新治郡の郡衙跡や新治廃寺跡などが水戸線の新治駅近くの国道50号線沿いにあり、何となくこの近くの西側のような気になっていたが、もっとずっと北側であった。

これは大分前になるが、友人からもらったパンフレットであるが、真壁伝承館歴史資料館の企画展のもの。
小栗は筑西市になるが、この資料は桜川市の教育委員会がまとめたもので、茨城大や県教育委員会、県立歴史館、つくば市・土浦市・桜川市などの協力態勢でとりまとめがされている。
どういう訳か何時この手の集まりに石岡市の教育委員会の名前がない。
常陸風土記1300年記念で行なった「古代の道」などの調査研究やその発表などにも石岡は名を連ねていない。
従ってこの鎌倉道・小栗道などについても峠を越えて石岡側の記述は一つもない。
このパンフレットもまだまだ片手落ちという気はするが、今回は少しこれによる知識も踏まえて少しずつ紐解いてみたい。
まだ1度訪れてだけであるからこれから数度訪れなければ全容はわからないだろう。
途中に他の記事を挟みながらでも数度に分けて紹介して見たいと思います。

国道50号線の新治廃寺跡から少し下館寄りに「門井」という信号があり、ここから北の方に曲るとそこが小栗道です。
昔の小栗道はこの小栗から真壁の方に通じていたようです。
そして湯袋峠を通って府中(常陸国府)=石岡に通じていたのです。
この小栗に向かう道の両側は広々とした田が広がっています。
写真に見える小山の向こう側は栃木県の真岡市です。

この今の県道45号線をしばらく行くと道は2又に別れ、右は県道45号線で峠を越えて真岡市へつながっています。
左に行くと昔の小栗の町を通り突き当りに昔の小栗城跡と「内外大神宮」があります。

この分かれ道のところに大きな石碑が立っていました。
「小貝の沃野 今日小栗の地を拓く」(平成2年)と書かれています。
内容はこの地の農地を整備し、大型機械を導入できるようにまとめて、水路などを綺麗にまとめたようです。

「耕地整理竣功記念碑」です。
数回に分けてこの地を探索しながら小栗判官伝説の背景なども見ていけたらと思います。
まだ何の手がかりもなくどんなものが出てくるかもわかりませんが何もないようなところでも、この伝説が生まれ、歌舞伎などの重要な出し物になったのには何かが眠っているはずです。
神奈川県藤沢市の長生寺や、熊野にある「つぼ湯」も実際に残されていますのでただの作り話でもなさそうです。
前から一度行ってみなければとは思っていたが、その機会に恵まれなかった。
場所も今まで漠然と思い描いていたところからかなりずれていた。
小栗というのは石岡から見れば峠を越えて真壁を通り、その先の昔の協和町であり、石岡の山の麓の方にも小栗の殿様がやってきていた話などが結構残されている。
また小栗道なるものが石岡(常陸国府中)から筑波山の隣の湯袋峠を通り小栗に通じていた。
そのため、漠然としたエリアしか理解していなかったが、いってみたら筑西市(旧協和町)の北のはずれで、小貝川がすぐ横を流れ、少し行くと栃木県との県境であった。
古代の新治郡の郡衙跡や新治廃寺跡などが水戸線の新治駅近くの国道50号線沿いにあり、何となくこの近くの西側のような気になっていたが、もっとずっと北側であった。

これは大分前になるが、友人からもらったパンフレットであるが、真壁伝承館歴史資料館の企画展のもの。
小栗は筑西市になるが、この資料は桜川市の教育委員会がまとめたもので、茨城大や県教育委員会、県立歴史館、つくば市・土浦市・桜川市などの協力態勢でとりまとめがされている。
どういう訳か何時この手の集まりに石岡市の教育委員会の名前がない。
常陸風土記1300年記念で行なった「古代の道」などの調査研究やその発表などにも石岡は名を連ねていない。
従ってこの鎌倉道・小栗道などについても峠を越えて石岡側の記述は一つもない。
このパンフレットもまだまだ片手落ちという気はするが、今回は少しこれによる知識も踏まえて少しずつ紐解いてみたい。
まだ1度訪れてだけであるからこれから数度訪れなければ全容はわからないだろう。
途中に他の記事を挟みながらでも数度に分けて紹介して見たいと思います。

国道50号線の新治廃寺跡から少し下館寄りに「門井」という信号があり、ここから北の方に曲るとそこが小栗道です。
昔の小栗道はこの小栗から真壁の方に通じていたようです。
そして湯袋峠を通って府中(常陸国府)=石岡に通じていたのです。
この小栗に向かう道の両側は広々とした田が広がっています。
写真に見える小山の向こう側は栃木県の真岡市です。

この今の県道45号線をしばらく行くと道は2又に別れ、右は県道45号線で峠を越えて真岡市へつながっています。
左に行くと昔の小栗の町を通り突き当りに昔の小栗城跡と「内外大神宮」があります。

この分かれ道のところに大きな石碑が立っていました。
「小貝の沃野 今日小栗の地を拓く」(平成2年)と書かれています。
内容はこの地の農地を整備し、大型機械を導入できるようにまとめて、水路などを綺麗にまとめたようです。

「耕地整理竣功記念碑」です。
数回に分けてこの地を探索しながら小栗判官伝説の背景なども見ていけたらと思います。
まだ何の手がかりもなくどんなものが出てくるかもわかりませんが何もないようなところでも、この伝説が生まれ、歌舞伎などの重要な出し物になったのには何かが眠っているはずです。
神奈川県藤沢市の長生寺や、熊野にある「つぼ湯」も実際に残されていますのでただの作り話でもなさそうです。
小栗の里散策(2)-内外大神宮
小栗の里の一番奥に小山があり小栗城が築かれていました。
その麓にこの「内外大神宮(ないげだいじんぐう)」があります。
この地域は、中世には伊勢神宮領の小栗御厨であった。
小栗の地は、常陸国にあっては平安時代 後期の寛治・康和年間(1087~1104)には伊勢神宮内宮領 となり、小栗保(御厨)として成立した。この保(御厨) を管理したのが、桓武平氏流常陸平氏の小栗氏だといいます。

最初場所がわからず県道を栃木県真岡市側に入り引き返した。
小栗の市街地の通り(旧道風)のほぼ突き当りであった。
カーナビを使っていたが正確に住所を表示しなかった。
私が行く神社や史跡などはあまり正確な住所がなく、カーナビに登録されていないことが多い。
この入口の脇を左に回り込むと小栗城跡の山に登る。

この鳥居をくぐって参道を進みます。

参道も歩くところはコンクリートで固められている。

階段を上ると正面に神社拝殿がある、

そして左側には神楽殿。

ここでは春4月21日と秋11月10日の2回「太々神楽(だいだいかぐら)」が奉納される。
これは県指定無形民俗文化財に指定されています。
現地の説明板によれば
寛延4年(1751)6月山城国(現京都府)愛宕郡三嶋神宮宮司、友田左京及び祇置大政所市大進の両名により時の内外大神宮宮司、小栗山城守宣政に伝授され、その後、伊勢神楽師の指導を受け、十二神楽三十六座を成立させた。更に小栗三喜が舞に工夫をこらし、現在の神楽師に伝承された」
とあります。

拝殿の後ろには玉垣に囲まれた本殿(内宮、外宮)が2つ並んでいます。
内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祀り、伊勢神宮と同じになっている。
この本殿は応永年間(1394~1427)に火災により焼失し、延宝7年(1679)10月に再建されたもの。



本殿の裏側にはたくさんの祠が置かれている。

本殿脇には藁葺屋根の社殿が保護屋根をかぶせられて置かれている。
こちらは「遷宮(うつしのみや)」または「御遷殿」といい、1574年建立であるという。


内宮、外宮、遷宮の3つの建物は国の重要y文化財に指定されている。
小栗氏などについてはもう少し調べてからまとめて見たいと思う。
明日は小栗城跡を紹介します。
その麓にこの「内外大神宮(ないげだいじんぐう)」があります。
この地域は、中世には伊勢神宮領の小栗御厨であった。
小栗の地は、常陸国にあっては平安時代 後期の寛治・康和年間(1087~1104)には伊勢神宮内宮領 となり、小栗保(御厨)として成立した。この保(御厨) を管理したのが、桓武平氏流常陸平氏の小栗氏だといいます。

最初場所がわからず県道を栃木県真岡市側に入り引き返した。
小栗の市街地の通り(旧道風)のほぼ突き当りであった。
カーナビを使っていたが正確に住所を表示しなかった。
私が行く神社や史跡などはあまり正確な住所がなく、カーナビに登録されていないことが多い。
この入口の脇を左に回り込むと小栗城跡の山に登る。

この鳥居をくぐって参道を進みます。

参道も歩くところはコンクリートで固められている。

階段を上ると正面に神社拝殿がある、

そして左側には神楽殿。

ここでは春4月21日と秋11月10日の2回「太々神楽(だいだいかぐら)」が奉納される。
これは県指定無形民俗文化財に指定されています。
現地の説明板によれば
寛延4年(1751)6月山城国(現京都府)愛宕郡三嶋神宮宮司、友田左京及び祇置大政所市大進の両名により時の内外大神宮宮司、小栗山城守宣政に伝授され、その後、伊勢神楽師の指導を受け、十二神楽三十六座を成立させた。更に小栗三喜が舞に工夫をこらし、現在の神楽師に伝承された」
とあります。

拝殿の後ろには玉垣に囲まれた本殿(内宮、外宮)が2つ並んでいます。
内宮は天照大神、外宮は豊受大神を祀り、伊勢神宮と同じになっている。
この本殿は応永年間(1394~1427)に火災により焼失し、延宝7年(1679)10月に再建されたもの。



本殿の裏側にはたくさんの祠が置かれている。

本殿脇には藁葺屋根の社殿が保護屋根をかぶせられて置かれている。
こちらは「遷宮(うつしのみや)」または「御遷殿」といい、1574年建立であるという。


内宮、外宮、遷宮の3つの建物は国の重要y文化財に指定されている。
小栗氏などについてはもう少し調べてからまとめて見たいと思う。
明日は小栗城跡を紹介します。
小栗の里散策(3)-小栗城跡
小栗氏の家系についてはこの後でまた紹介したいが、常陸大掾職を与えられた平維幹(これもと)が多気(大掾)氏となり、潤沢な資産を背景に勢力を拡大していった。
この多気3代目多気大掾(平)重幹の子供、重義(四男?)がこの伊勢神宮領(真壁郡小栗邑)を与えられて「小栗氏」になったとされるので、この城もその頃に最初に築かれたとすると、西暦1100年前後の築城であろうか。
小栗判官の浄瑠璃(?)などのモデルとなったのは小栗家十五代の小栗小太郎助重であるが、話を調べるとなかなか面白い人物である。
ここで戦国期の小栗氏は滅亡している。
この城もその後に無くなってしまったのであろうか?
系図や小栗判官の話などはこの次に紐解くことにしましょう。

現地に置かれた城の地図であるが、なかなか凝った作りである。
本丸が一番山の上にあるが、すぐ裏(北側と北西側)は崖であり、小貝川が流れている。
また北西部の川沿いに船着き場があったようで、本丸から下りられるようになっている。
自然地形を生かした山城で、今でも城の昔の地形がわかるようだ。
古城ファンなら一度実際に見て見ると感じるものがありそうである。

内外大神宮から左側に回り込むと「小栗城跡」の大きな石碑があり、ここから城の本丸へは山を登ることになる。

道はしっかりと案内がされているので見間違うこともないと思うが、思ったより登りは長かった。

昔は山登りもしたが最近はすっかり鈍ってしまった足で登るのは息も切れる。
つい、あの先に見える階段を上ったところかと期待して登るが、また少し先に回るように道が続き、少しずつ高度を上げる。

登り道の途中で北側が見える場所があったが、その先にあるのは小貝川と真岡の町である。

一人では少し寂しいが誰もいない。夕日が傾きかけてくる。

程なく「本丸跡」に到着。

丸く開けた場所が広がっていたが、それほど大きなものではない。

下りは南西側から直接下る道があり、一気に下って下の通りに出た。

そこには夕日を浴びた「カラスウリ」の実が残っていた。
そ、真っ赤な秋の歌に出てくる「真っ赤だな、真っ赤だな、カラスウリって真っ赤だな・・・」である。
懐かしいね。

下りたところは小貝川との間に田畑が広がっていたが、もう夕日が沈む。
早く家に戻ろうとこの日は早々と家路についた。
また先日見残したところを探して行ってきたので「小栗判官と照手姫」の話などを少し調べて、その後に紹介しましょう。
この多気3代目多気大掾(平)重幹の子供、重義(四男?)がこの伊勢神宮領(真壁郡小栗邑)を与えられて「小栗氏」になったとされるので、この城もその頃に最初に築かれたとすると、西暦1100年前後の築城であろうか。
小栗判官の浄瑠璃(?)などのモデルとなったのは小栗家十五代の小栗小太郎助重であるが、話を調べるとなかなか面白い人物である。
ここで戦国期の小栗氏は滅亡している。
この城もその後に無くなってしまったのであろうか?
系図や小栗判官の話などはこの次に紐解くことにしましょう。

現地に置かれた城の地図であるが、なかなか凝った作りである。
本丸が一番山の上にあるが、すぐ裏(北側と北西側)は崖であり、小貝川が流れている。
また北西部の川沿いに船着き場があったようで、本丸から下りられるようになっている。
自然地形を生かした山城で、今でも城の昔の地形がわかるようだ。
古城ファンなら一度実際に見て見ると感じるものがありそうである。

内外大神宮から左側に回り込むと「小栗城跡」の大きな石碑があり、ここから城の本丸へは山を登ることになる。

道はしっかりと案内がされているので見間違うこともないと思うが、思ったより登りは長かった。

昔は山登りもしたが最近はすっかり鈍ってしまった足で登るのは息も切れる。
つい、あの先に見える階段を上ったところかと期待して登るが、また少し先に回るように道が続き、少しずつ高度を上げる。

登り道の途中で北側が見える場所があったが、その先にあるのは小貝川と真岡の町である。

一人では少し寂しいが誰もいない。夕日が傾きかけてくる。

程なく「本丸跡」に到着。

丸く開けた場所が広がっていたが、それほど大きなものではない。

下りは南西側から直接下る道があり、一気に下って下の通りに出た。

そこには夕日を浴びた「カラスウリ」の実が残っていた。
そ、真っ赤な秋の歌に出てくる「真っ赤だな、真っ赤だな、カラスウリって真っ赤だな・・・」である。
懐かしいね。

下りたところは小貝川との間に田畑が広がっていたが、もう夕日が沈む。
早く家に戻ろうとこの日は早々と家路についた。
また先日見残したところを探して行ってきたので「小栗判官と照手姫」の話などを少し調べて、その後に紹介しましょう。
小栗の里散策(4)-小栗判官伝説について
小栗判官(はんがん)と照手姫および10勇士の話は、いくつかあり、神奈川県藤沢市や常陸国小栗に伝わっている話もかなり違っているようです。
小栗の里を散策するにはこのお話もある程度理解しておかなければなりません。
まずは、一般的に歌舞伎や浄瑠璃にとりあげられている話(説話が元)を簡単にまとめて見ます。
「平安時代中期、都の大納言は鞍馬の毘沙門天に祈って息子「小栗」をさずかる。この小栗は勇敢な武術も達者な若者に育つが、ある日鞍馬山に詣でる途中でうら若い女に見初められその女を妻とした。
しかしこの女は池の大蛇の化身したものであり、女が懐妊する。これが都のうわさとなり、小栗は大納言の所領していた常陸国に流される。常陸国でも大切に扱われていたが、ある日旅の行商から相模の国の横山という豪族の娘「照手姫」の話を聞き、恋してしまい10人の優れた武将を連れて相模に会いに行く。
これが親の横山にばれて、婿と認めたくない横山はだれもが乗りこなせない暴れ馬を示してこれを乗りこなせたら認めてやろうという。しかし小栗は馬の名手でこれを楽々乗りこなしてしまう。
仕方なく横山は小栗と10人の武将を宴席に誘いだまして毒殺して上野原に埋めてしまう。
照手姫も檻に入れられ相模川に沈められようとしますが、同情した家来が重石を切ったために沈まずに流されてある村君太夫(村長)に助けられ、養女になります。しかし、嫉妬した村長の妻が人買いに売り渡してしまいます。
そして各地を転々として美濃国青墓の万屋という遊女屋に売られます。しかし遊女を拒み下女として3年働いていました。
さて、殺された小栗と10人の武将は死んで閻魔大王に会います。この10人の武将の懸命な小栗の命乞いが閻魔大王に聞き届けられ、小栗は毒でボロボロになった体で口もきけず目も見えない状態で土車に乗せられ、「熊野の薬湯に連れて行って湯に入れろ。引くと大変ご利益がある」という張り紙をされて地上(藤沢)に返されます。
この餓鬼のような姿となった小栗を何人もの手が車を引いて、美濃国青墓を通ります。
照手姫はこれが死んだ小栗だとは気が付きませんが、5日の休みをもらい、この車を4日間引いて、1日で戻ります。
この時に首に下げた札に自分のことも書きます。
その後小栗は何人かの手で無事に熊野のつぼ湯に浸かり息を吹き返すことができます。元気になった小栗は都に行って親の大納言に会い、今までの奇跡の出来事を帝に話し、小栗に近畿地方の五ヶ国と、美濃を所領として与えます。
その後大軍を率いて相模に行き、横山への復讐を遂げ、死後に八幡の神として祀られます。
これが歌舞伎になると話を少し面白くするためにいくつか話が変更されたり、付け加えられたりします。
お家騒動が話につけ加わり、また荒馬を乗りこなす話は「馬で小さな碁盤に乗る」曲乗りなどがあります。」
お話としてはその他に相模国(藤沢)の長生院に伝わる話があります。
「常陸国の小栗判官(小栗助重)は鎌倉公方足利持氏に攻め落とされ、10人の部下と共に相模の国に潜伏する。
そして相模国の横山家の娘「照手姫」(本来は北面武士の娘)を見染め、結婚の約束をする。しかしこれを良しと思わず、また小栗の金品も狙っていた横山親子により毒殺され上野原に埋められる。
そして大空上人が閻魔大王の夢のお告げでまだ息のあった小栗を何とか掘り出して寺に連れて帰り、熊野の湯の効能で回復する。
その後小栗は常陸の領地を与えられ、判官の任を与えられ、兵を率いて相模の横山を滅ぼし、照手姫を見つけ出して常陸の国に帰り二人は夫婦として過ごす。
小栗が亡くなった後、小栗の弟の助重が領地をつぎ、家来10勇士の墓をたてた。
さて、ここまでの話はどうも大分作られた話のようです。
では実際はどんなことがあったのでしょうか。

小栗の一向寺にある「十五代城主 小栗助重公(判官)之碑」:歌舞伎俳優三代目市川猿之助の奉納
常陸国の小栗氏は常陸国の大掾職を踏襲した桓武平氏系の多気大掾から分かれたものです。
(多気大掾3代目多気大掾(平)重幹の子供重義が初代小栗氏)
これは平安時代の西暦では1100年頃だと思われますから、この話の背景では、城主は14代目の小栗満重の時です。
応永18年(1411)10月、上杉禅秀に味方して鎌倉公方足利持氏に対し挙兵し公方の小山満泰などを打ち破るが、1423年には足利持氏自ら兵を率いての制圧により小栗満重は敗れ自殺したと言われている。
さて物語の主人公はこの満重の子供の助重が逃げのびて、1440年には結城合戦で武功を挙げて旧領を回復したという。
しかしその後またこの地を奪われ、助重は出家して入道となり「宗湛(そうたん)」と号した。
この宗湛はなかなかの画才の持ち主で、足利将軍家の御用絵師としてその才能を発揮した。
このような絵の才能があったことからこの浄瑠璃や説話が脚色されて伝わって行ったのではないかと思われます。
長くなりましたので、小栗の里に残された跡(一向寺など)などをもう少しこの後に紹介します。
小栗の里を散策するにはこのお話もある程度理解しておかなければなりません。
まずは、一般的に歌舞伎や浄瑠璃にとりあげられている話(説話が元)を簡単にまとめて見ます。
「平安時代中期、都の大納言は鞍馬の毘沙門天に祈って息子「小栗」をさずかる。この小栗は勇敢な武術も達者な若者に育つが、ある日鞍馬山に詣でる途中でうら若い女に見初められその女を妻とした。
しかしこの女は池の大蛇の化身したものであり、女が懐妊する。これが都のうわさとなり、小栗は大納言の所領していた常陸国に流される。常陸国でも大切に扱われていたが、ある日旅の行商から相模の国の横山という豪族の娘「照手姫」の話を聞き、恋してしまい10人の優れた武将を連れて相模に会いに行く。
これが親の横山にばれて、婿と認めたくない横山はだれもが乗りこなせない暴れ馬を示してこれを乗りこなせたら認めてやろうという。しかし小栗は馬の名手でこれを楽々乗りこなしてしまう。
仕方なく横山は小栗と10人の武将を宴席に誘いだまして毒殺して上野原に埋めてしまう。
照手姫も檻に入れられ相模川に沈められようとしますが、同情した家来が重石を切ったために沈まずに流されてある村君太夫(村長)に助けられ、養女になります。しかし、嫉妬した村長の妻が人買いに売り渡してしまいます。
そして各地を転々として美濃国青墓の万屋という遊女屋に売られます。しかし遊女を拒み下女として3年働いていました。
さて、殺された小栗と10人の武将は死んで閻魔大王に会います。この10人の武将の懸命な小栗の命乞いが閻魔大王に聞き届けられ、小栗は毒でボロボロになった体で口もきけず目も見えない状態で土車に乗せられ、「熊野の薬湯に連れて行って湯に入れろ。引くと大変ご利益がある」という張り紙をされて地上(藤沢)に返されます。
この餓鬼のような姿となった小栗を何人もの手が車を引いて、美濃国青墓を通ります。
照手姫はこれが死んだ小栗だとは気が付きませんが、5日の休みをもらい、この車を4日間引いて、1日で戻ります。
この時に首に下げた札に自分のことも書きます。
その後小栗は何人かの手で無事に熊野のつぼ湯に浸かり息を吹き返すことができます。元気になった小栗は都に行って親の大納言に会い、今までの奇跡の出来事を帝に話し、小栗に近畿地方の五ヶ国と、美濃を所領として与えます。
その後大軍を率いて相模に行き、横山への復讐を遂げ、死後に八幡の神として祀られます。
これが歌舞伎になると話を少し面白くするためにいくつか話が変更されたり、付け加えられたりします。
お家騒動が話につけ加わり、また荒馬を乗りこなす話は「馬で小さな碁盤に乗る」曲乗りなどがあります。」
お話としてはその他に相模国(藤沢)の長生院に伝わる話があります。
「常陸国の小栗判官(小栗助重)は鎌倉公方足利持氏に攻め落とされ、10人の部下と共に相模の国に潜伏する。
そして相模国の横山家の娘「照手姫」(本来は北面武士の娘)を見染め、結婚の約束をする。しかしこれを良しと思わず、また小栗の金品も狙っていた横山親子により毒殺され上野原に埋められる。
そして大空上人が閻魔大王の夢のお告げでまだ息のあった小栗を何とか掘り出して寺に連れて帰り、熊野の湯の効能で回復する。
その後小栗は常陸の領地を与えられ、判官の任を与えられ、兵を率いて相模の横山を滅ぼし、照手姫を見つけ出して常陸の国に帰り二人は夫婦として過ごす。
小栗が亡くなった後、小栗の弟の助重が領地をつぎ、家来10勇士の墓をたてた。
さて、ここまでの話はどうも大分作られた話のようです。
では実際はどんなことがあったのでしょうか。

小栗の一向寺にある「十五代城主 小栗助重公(判官)之碑」:歌舞伎俳優三代目市川猿之助の奉納
常陸国の小栗氏は常陸国の大掾職を踏襲した桓武平氏系の多気大掾から分かれたものです。
(多気大掾3代目多気大掾(平)重幹の子供重義が初代小栗氏)
これは平安時代の西暦では1100年頃だと思われますから、この話の背景では、城主は14代目の小栗満重の時です。
応永18年(1411)10月、上杉禅秀に味方して鎌倉公方足利持氏に対し挙兵し公方の小山満泰などを打ち破るが、1423年には足利持氏自ら兵を率いての制圧により小栗満重は敗れ自殺したと言われている。
さて物語の主人公はこの満重の子供の助重が逃げのびて、1440年には結城合戦で武功を挙げて旧領を回復したという。
しかしその後またこの地を奪われ、助重は出家して入道となり「宗湛(そうたん)」と号した。
この宗湛はなかなかの画才の持ち主で、足利将軍家の御用絵師としてその才能を発揮した。
このような絵の才能があったことからこの浄瑠璃や説話が脚色されて伝わって行ったのではないかと思われます。
長くなりましたので、小栗の里に残された跡(一向寺など)などをもう少しこの後に紹介します。
小栗の里散策(5)-小栗判官(助重)建立の太陽寺供養塔
小栗判官の話が常陸国小栗にはどのように伝わっているのでしょうか。
昨日も書きましたが、この小栗判官は小栗の15代城主の助重がモデルだと思われますが、毒殺されたと思われるのはこの父である14代の満重です。
助重は毒殺から逃れて後に武功を挙げて故郷に戻ります。そして菩提寺であった太陽寺を復興させて、そこに親と10人の家来達の供養塔を建立したと伝わっています。
この太陽寺は現在廃寺となっているが、まだこの供養塔が「井出蛯沢地内」の残されていると言うので探してみました。
小貝川に近い場所の井出蛯沢と言うだけでは場所があまり特定されません。道も細く、すこしウロウロしてようやく見つけました。

満重公を祀る正面の九重層塔の左右に5基ずつ比較的小さな五輪塔が合計10基置かれています。


説明文を下記に起こしてみました。
(伝)小栗十四代城主・小栗孫次郎平満重公と家臣の供養塔の由来(伝・大九重層塔・十人殿原五輪供養塔)
桓武天皇の曽孫・平上総介高望公から七代の子孫と伝えられる平重家公(平上総介重幹公の四子)は、平安時代の久寿2年(1155)にこの地方の伊勢皇太神宮小栗御厨(神領)の保司となって要害の地であった小栗山に築城し、小栗氏となり、その子孫は十五代まで300年余の間、盛衰の歴史の中にこの地方を統括されてきました。
その小栗の十四代城主であった小栗孫次郎平満重公は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、関東公方足利持氏との激戦で敗れ小栗城は落城しました。
伝承によれば、この落城により満重公親子(満重・助重)と家臣十名は、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中の応永33年(1426)3月16日に、相州(神奈川県横浜市)の豪族横山氏館での歓待宴膳の毒酒によって、満重公と家臣十名は毒殺されて上野ヶ原(神奈川県藤沢市)に棄てられたが、幸いにして時宗総本山遊行時(神奈川県藤沢市)遊行14代・他阿太空上人のご高配によって境内墓地に厚く埋葬されました。
幸運にもこの大難を逃れ九死に一生を得た小栗助重公は、一族の小栗貞重等に落ちのびたのち十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦に、幕府軍の将として大活躍をなし得た論功により再び小栗領に復しました。
なお助重公は旧領に復した後の嘉吉年間(1441~1443)のころに、御先祖ご供養のため菩提寺であった天照山太陽寺(協和町井出蛯沢)を再び新しくご建立になり、毒殺という非業の死をとげられた父満重公と十勇家臣の追善供養のために、境内墓地に満重公の大九重層塔と、家臣の十人殿原五輪供養塔十基を建立されたと伝えられております。
この施主助重公が天照山太陽中興の開基であり、世上有名な小栗判官と称された室町戦国の武将で、小栗十五代城主・小栗彦次郎平助重公であります。(現地案内板)
この案内板にはそれ以外に小栗家の家系図と10勇家臣の名前と戒名が書かれています。

太陽寺は現在は無く、ここは「太陽寺共同墓地」となっていました。

墓地の隣には「天照山」の扁額のかかった山門があり、「天照山太陽寺」の寺を継承しているとも思われましたが、寺ではなく一般のお家のようでした。

となりを流れる小貝川の土手に登って見ました。
川もかなり上流になりますので、それ程水量はありません。
また下館よりはだいぶ北ですので、今回の常総市の氾濫などの影響はあまりなかったでしょう。

小貝川の堤防の上から共同墓地を眺めて見ました。
共同墓地の左手はこんもりした山があり、形は古墳のように見えます。
実際が何かは調べていないのでわかりません。
さて、十勇家臣は池野庄 司助長、後藤兵助介高、後藤大八郎高次、風間次郎正興、風間八郎正国、田邊平六郎長秀、田邊平八郎長為、片岡加太郎春教、片岡加治郎春高、水戸太郎為久 の10名と書かれています。
このうち、城が落城した時に石岡の大掾氏を頼って家臣の風間氏が守り本尊としていた阿弥陀像を持って石岡に逃げてきたといわれ、現在石岡のふるさと歴史館横に「風間阿弥陀」として前から置かれて展示されているものです。

(石岡市にある風間阿弥陀)
また、稲敷市の江戸崎の昔の城主「土岐原氏」もこの時関東管領上杉憲方に従って美濃からやってきたのです。
昨日も書きましたが、この小栗判官は小栗の15代城主の助重がモデルだと思われますが、毒殺されたと思われるのはこの父である14代の満重です。
助重は毒殺から逃れて後に武功を挙げて故郷に戻ります。そして菩提寺であった太陽寺を復興させて、そこに親と10人の家来達の供養塔を建立したと伝わっています。
この太陽寺は現在廃寺となっているが、まだこの供養塔が「井出蛯沢地内」の残されていると言うので探してみました。
小貝川に近い場所の井出蛯沢と言うだけでは場所があまり特定されません。道も細く、すこしウロウロしてようやく見つけました。

満重公を祀る正面の九重層塔の左右に5基ずつ比較的小さな五輪塔が合計10基置かれています。


説明文を下記に起こしてみました。
(伝)小栗十四代城主・小栗孫次郎平満重公と家臣の供養塔の由来(伝・大九重層塔・十人殿原五輪供養塔)
桓武天皇の曽孫・平上総介高望公から七代の子孫と伝えられる平重家公(平上総介重幹公の四子)は、平安時代の久寿2年(1155)にこの地方の伊勢皇太神宮小栗御厨(神領)の保司となって要害の地であった小栗山に築城し、小栗氏となり、その子孫は十五代まで300年余の間、盛衰の歴史の中にこの地方を統括されてきました。
その小栗の十四代城主であった小栗孫次郎平満重公は、室町時代の応永30年(1423)8月2日、関東公方足利持氏との激戦で敗れ小栗城は落城しました。
伝承によれば、この落城により満重公親子(満重・助重)と家臣十名は、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中の応永33年(1426)3月16日に、相州(神奈川県横浜市)の豪族横山氏館での歓待宴膳の毒酒によって、満重公と家臣十名は毒殺されて上野ヶ原(神奈川県藤沢市)に棄てられたが、幸いにして時宗総本山遊行時(神奈川県藤沢市)遊行14代・他阿太空上人のご高配によって境内墓地に厚く埋葬されました。
幸運にもこの大難を逃れ九死に一生を得た小栗助重公は、一族の小栗貞重等に落ちのびたのち十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦に、幕府軍の将として大活躍をなし得た論功により再び小栗領に復しました。
なお助重公は旧領に復した後の嘉吉年間(1441~1443)のころに、御先祖ご供養のため菩提寺であった天照山太陽寺(協和町井出蛯沢)を再び新しくご建立になり、毒殺という非業の死をとげられた父満重公と十勇家臣の追善供養のために、境内墓地に満重公の大九重層塔と、家臣の十人殿原五輪供養塔十基を建立されたと伝えられております。
この施主助重公が天照山太陽中興の開基であり、世上有名な小栗判官と称された室町戦国の武将で、小栗十五代城主・小栗彦次郎平助重公であります。(現地案内板)
この案内板にはそれ以外に小栗家の家系図と10勇家臣の名前と戒名が書かれています。

太陽寺は現在は無く、ここは「太陽寺共同墓地」となっていました。

墓地の隣には「天照山」の扁額のかかった山門があり、「天照山太陽寺」の寺を継承しているとも思われましたが、寺ではなく一般のお家のようでした。

となりを流れる小貝川の土手に登って見ました。
川もかなり上流になりますので、それ程水量はありません。
また下館よりはだいぶ北ですので、今回の常総市の氾濫などの影響はあまりなかったでしょう。

小貝川の堤防の上から共同墓地を眺めて見ました。
共同墓地の左手はこんもりした山があり、形は古墳のように見えます。
実際が何かは調べていないのでわかりません。
さて、十勇家臣は池野庄 司助長、後藤兵助介高、後藤大八郎高次、風間次郎正興、風間八郎正国、田邊平六郎長秀、田邊平八郎長為、片岡加太郎春教、片岡加治郎春高、水戸太郎為久 の10名と書かれています。
このうち、城が落城した時に石岡の大掾氏を頼って家臣の風間氏が守り本尊としていた阿弥陀像を持って石岡に逃げてきたといわれ、現在石岡のふるさと歴史館横に「風間阿弥陀」として前から置かれて展示されているものです。

(石岡市にある風間阿弥陀)
また、稲敷市の江戸崎の昔の城主「土岐原氏」もこの時関東管領上杉憲方に従って美濃からやってきたのです。
小栗の里散策(6)-小栗判官(助重)の供養塔と一向寺
小栗判官のモデルとなったとみられている小栗氏最後の城主 小栗(平)助重の建立(再興)した寺という太陽寺は昨日書いたように廃寺となって今は無い。
そこに十四代城主満重と十勇士を祀る「九重層塔と10基の五輪塔」が置かれているが、助重(判官)と照手姫を祀っているのが今回紹介する一向寺と言うようだ。
「ようだ」と書いたが、これは詳しく知らないので調べて見るがはっきりと紹介されているものは少ないようなので「ようだ」と書かせていただいた。

寺の門を入って右手に大きな五輪塔と歴代住職の墓標?、並んで古びた板碑や五輪塔などが置かれており、その裏手に古びた板碑も置かれている。

どうやらこの左手の古びた墓のような墓碑群が小栗助重と照手姫の供養塔のようだ。
三代目市川猿之助の奉納した碑が立てられている。
助重の墓とか照手姫の墓であるとの説もあるようだが、はっきりせず現在は供養塔とのみ表示している。

また貞治三年(1364)の南北朝の北朝の年号が彫られた板碑があると言うのはかなり貴重なものであろう。

寺の本堂手前に「小栗判官説話発祥地の碑」という石碑が置かれていた。
なかなか興味深いので、下記に文字に起こしておきます。
「小栗の物語は民衆が生んだ壮大なロマンである。伝承によると祖は、桓武平氏の流れの平重家。常陸国小栗邑(協和町)に小栗姓を名乗り築城、十五代、約三百年間続いた名家。
代々、小栗御厨(伊勢神領)の在地領主を務めたが、応永の戦乱で落城した。十四代満重は死、その子、助重はかろうじて脱出した。
後の結城合戦で功を立て再興したが、次の合戦に敗れ、三河(愛知)に落ちて行く。この助重が世上知られた説経「小栗判官」に相当すると云う。助重の波乱万丈の生涯は説話の格好の素材となった。原型は一向寺などに拠る時衆(宗)の沙弥、巫子たちが小栗と郎党の霊を慰撫する為語り始め、時宗本山遊行寺(清浄光寺)に伝えられた。更に青墓(岐阜)和泉(大阪)などの遊芸人、熊野の比丘尼達が唱導文芸として創り膨らませ、伝播させた。
江戸期、近松門左衛門の浄瑠璃「当流・小栗判官」が人気を呼び、以后、様々な小栗ものが登場した。実像の小栗は常陸が本地だが、ここに虚像の小栗ものが入り、説話として今日に語り継がれて来た。小栗の郷は小栗判官説話発祥の地である。
桂北山一向寺五十八世 吉水徳誉了信 」
(訂正:2016.8/24 ご住職のお名前が違っていましたので訂正しました。ご指摘ありがとうございました。)
この説明は比較的わかりやすいと感じたので文字に起こしました。

旧道にある「桂北山一向寺」入口 この入って右手に助重供養碑がある。

入口前は広く駐車場になっていてその一角に古びた六地蔵が置かれていた。

更に手前の離れたところに本来の山門があった。
こちらが昔の入口なのだろう。参道が長い。
こちらも道路に面しているが、するとこの山門の通りが昔のとおりだろうか。
今日は寒くなってきました。
北海道は大雪が降っているそうです。
急に暖房が恋しくなりました。ストーブやエアコンも今日は出動です。
明日は銚子に出かけます。
こんなに寒くないと良いのですが・・・・。
そこに十四代城主満重と十勇士を祀る「九重層塔と10基の五輪塔」が置かれているが、助重(判官)と照手姫を祀っているのが今回紹介する一向寺と言うようだ。
「ようだ」と書いたが、これは詳しく知らないので調べて見るがはっきりと紹介されているものは少ないようなので「ようだ」と書かせていただいた。

寺の門を入って右手に大きな五輪塔と歴代住職の墓標?、並んで古びた板碑や五輪塔などが置かれており、その裏手に古びた板碑も置かれている。

どうやらこの左手の古びた墓のような墓碑群が小栗助重と照手姫の供養塔のようだ。
三代目市川猿之助の奉納した碑が立てられている。
助重の墓とか照手姫の墓であるとの説もあるようだが、はっきりせず現在は供養塔とのみ表示している。

また貞治三年(1364)の南北朝の北朝の年号が彫られた板碑があると言うのはかなり貴重なものであろう。

寺の本堂手前に「小栗判官説話発祥地の碑」という石碑が置かれていた。
なかなか興味深いので、下記に文字に起こしておきます。
「小栗の物語は民衆が生んだ壮大なロマンである。伝承によると祖は、桓武平氏の流れの平重家。常陸国小栗邑(協和町)に小栗姓を名乗り築城、十五代、約三百年間続いた名家。
代々、小栗御厨(伊勢神領)の在地領主を務めたが、応永の戦乱で落城した。十四代満重は死、その子、助重はかろうじて脱出した。
後の結城合戦で功を立て再興したが、次の合戦に敗れ、三河(愛知)に落ちて行く。この助重が世上知られた説経「小栗判官」に相当すると云う。助重の波乱万丈の生涯は説話の格好の素材となった。原型は一向寺などに拠る時衆(宗)の沙弥、巫子たちが小栗と郎党の霊を慰撫する為語り始め、時宗本山遊行寺(清浄光寺)に伝えられた。更に青墓(岐阜)和泉(大阪)などの遊芸人、熊野の比丘尼達が唱導文芸として創り膨らませ、伝播させた。
江戸期、近松門左衛門の浄瑠璃「当流・小栗判官」が人気を呼び、以后、様々な小栗ものが登場した。実像の小栗は常陸が本地だが、ここに虚像の小栗ものが入り、説話として今日に語り継がれて来た。小栗の郷は小栗判官説話発祥の地である。
桂北山一向寺五十八世 吉水徳誉了信 」
(訂正:2016.8/24 ご住職のお名前が違っていましたので訂正しました。ご指摘ありがとうございました。)
この説明は比較的わかりやすいと感じたので文字に起こしました。

旧道にある「桂北山一向寺」入口 この入って右手に助重供養碑がある。

入口前は広く駐車場になっていてその一角に古びた六地蔵が置かれていた。

更に手前の離れたところに本来の山門があった。
こちらが昔の入口なのだろう。参道が長い。
こちらも道路に面しているが、するとこの山門の通りが昔のとおりだろうか。
今日は寒くなってきました。
北海道は大雪が降っているそうです。
急に暖房が恋しくなりました。ストーブやエアコンも今日は出動です。
明日は銚子に出かけます。
こんなに寒くないと良いのですが・・・・。
小栗の里散策(7)-西光寺
太陽寺は一向寺から南西方向に1km程離れている。
この2つの場所のちょうど中間に「西光寺」というやはり古いお寺があった。

「光明山西光寺」 浄土宗の寺だ。

本堂:
天保11年(1940)に焼失し、嘉永2年(1849)に常州西那珂郡飯岡郷坂戸城主小宅判官三万8千石の大名屋敷の書院を移した。
何度か改修をし、明治29年に茅葺屋根を瓦屋根に切り替えた。
寺の説明板によれば
「光明山に志光寺は、正中2年(1325)に禮智上人が布教の為、諸国行脚の途中この地に立ち寄り西光寺を開山し、爾来、衆人の信仰を集め今日に至っております。
西光寺はもと時宗一向派に属しておりましたが昭和17年宗教団体法公布を機に浄土宗に帰属することになりました。
・・・・・・・・・・・・・・」
とあります。やはり一向派だったようです。

薬師堂?

観音堂?

(観音堂ではなく本堂に保管されているようです)
調べて見ると平成19年11月に県指定文化財となった奈良時代制作の「銅造誕生釈迦仏立像」が所蔵されていることになっており、本尊は「阿弥陀仏座像」で嘉永3年(1850)の銘があるものだそうです。
石岡の徳一法師が建立したと言われている西光院(関東の清水寺)にも小栗の殿様が来た話も残されており、何処かにつながりもあるのかもしれません。
あまり紹介されているものが少ないようで、いまはわからなくても、どこかで話が見えてくるのかもしれません。
この2つの場所のちょうど中間に「西光寺」というやはり古いお寺があった。

「光明山西光寺」 浄土宗の寺だ。

本堂:
天保11年(1940)に焼失し、嘉永2年(1849)に常州西那珂郡飯岡郷坂戸城主小宅判官三万8千石の大名屋敷の書院を移した。
何度か改修をし、明治29年に茅葺屋根を瓦屋根に切り替えた。
寺の説明板によれば
「光明山に志光寺は、正中2年(1325)に禮智上人が布教の為、諸国行脚の途中この地に立ち寄り西光寺を開山し、爾来、衆人の信仰を集め今日に至っております。
西光寺はもと時宗一向派に属しておりましたが昭和17年宗教団体法公布を機に浄土宗に帰属することになりました。
・・・・・・・・・・・・・・」
とあります。やはり一向派だったようです。

薬師堂?

観音堂?

(観音堂ではなく本堂に保管されているようです)
調べて見ると平成19年11月に県指定文化財となった奈良時代制作の「銅造誕生釈迦仏立像」が所蔵されていることになっており、本尊は「阿弥陀仏座像」で嘉永3年(1850)の銘があるものだそうです。
石岡の徳一法師が建立したと言われている西光院(関東の清水寺)にも小栗の殿様が来た話も残されており、何処かにつながりもあるのかもしれません。
あまり紹介されているものが少ないようで、いまはわからなくても、どこかで話が見えてくるのかもしれません。
小栗の里散策(8)-徳聖寺
小栗の里ということでまず「内外大神宮」を目指すことにした時にまず手前で目にとまった寺が今回紹介する「徳聖寺」です。
「松原山 持寶院 徳聖寺」 創建は大同2年(807)と伝わります。

市指定文化財の山門です。
建立は江戸時代。
火災で寺が焼失した跡に建てなおされた文政年間(1818年~1830年)にこの山門も建てられたと考えられています。
鐘楼が一体となった山門だそうですが、ここに鐘楼はありません。
屋根は大正7、8年頃に草葺きから瓦葺きに替えたと説明板がありました。

本尊は薬師三尊。真言宗 豊山派
昔、内外大神宮の隣に高台院という寺があり、この寺が大同2年の建立で、この寺とこちらの徳聖寺(江戸時代初期の建立?)が一緒になったそうです。
高台院の方が古い寺であり、本尊も大日如来だそうですが、こちらの開山も法印海寛僧正が京都から御本尊(薬師三尊)をもってきたようです。

寺のHPをみると、ここ小栗の徳聖寺と桜川市西飯岡の満願寺は一体の運営がされているようです。

落ち葉が散る庭を住職さん?と若者が盛んにきれいに掃き清めておりました。

また横を走る昔の通り沿いには古びたお堂が並んでいました。

この通りをそのまま行くと内外大神宮に行きます。

小栗は筑西市ですが、合併前は協和町でした。
協和町の特産は「こだまスイカ」、「キュウリ」などです。
小栗城も山城で裏は小貝川で守られるような地形ですが、これもほんのそこだけの一角で、その手前はだだ広い田畑が広がっているだけです。
守るのも意外に難しいように思います。
「松原山 持寶院 徳聖寺」 創建は大同2年(807)と伝わります。

市指定文化財の山門です。
建立は江戸時代。
火災で寺が焼失した跡に建てなおされた文政年間(1818年~1830年)にこの山門も建てられたと考えられています。
鐘楼が一体となった山門だそうですが、ここに鐘楼はありません。
屋根は大正7、8年頃に草葺きから瓦葺きに替えたと説明板がありました。

本尊は薬師三尊。真言宗 豊山派
昔、内外大神宮の隣に高台院という寺があり、この寺が大同2年の建立で、この寺とこちらの徳聖寺(江戸時代初期の建立?)が一緒になったそうです。
高台院の方が古い寺であり、本尊も大日如来だそうですが、こちらの開山も法印海寛僧正が京都から御本尊(薬師三尊)をもってきたようです。

寺のHPをみると、ここ小栗の徳聖寺と桜川市西飯岡の満願寺は一体の運営がされているようです。

落ち葉が散る庭を住職さん?と若者が盛んにきれいに掃き清めておりました。

また横を走る昔の通り沿いには古びたお堂が並んでいました。

この通りをそのまま行くと内外大神宮に行きます。

小栗は筑西市ですが、合併前は協和町でした。
協和町の特産は「こだまスイカ」、「キュウリ」などです。
小栗城も山城で裏は小貝川で守られるような地形ですが、これもほんのそこだけの一角で、その手前はだだ広い田畑が広がっているだけです。
守るのも意外に難しいように思います。
小栗の里散策(9)-新治郡衙
茨城県筑西市の小栗地区の紹介をしています。
元協和町は小玉スイカやキュウリ、トマトなどの栽培が盛んなようです。
小栗城は1100年頃から300年ほど栄え、攻防を繰り返し1450年頃に消えっていきました。
しかし小栗判官として神奈川県藤沢や熊野の方に説話として物語が語り継がれ、浄瑠璃や歌舞伎の題材になりました。
実際に起こったことから話は大きく作られた物とはなっていても、そこにはここで栄えた平氏の一族としての誇りがあり、鎌倉末期の争いに巻き込まれ、この小栗の里には昔の跡を偲ぶものはかなり少なくなっていました。
小栗から常陸国府の府中(現石岡)との間に小栗街道と言う道があったようです。
小栗から新治、真壁(白壁)を通り、湯袋峠を越えていたようです。
今日は、昔の新治(にいはり)郡の郡衙(ぐんが)の跡を見てきましたので紹介します。

場所は筑西市古郡(ふるごおり)と地名でもその名が残る場所です。
でもまわりは畑で、道も国道50号線から東南に比較的細い道を入っていきます。
真中の石碑は「史跡 新治郡衙跡」と彫られています。

右側の少し高い石碑には「史跡 新治群家 不動倉址」と彫られています。

まわりは一面野菜畑のようです。つくばの山並みなども遠くに見えます。
昭和16年と18年の発掘調査で、約12ヘクタールの広大な範囲に4つにわかれた建物群が存在し、全部で51棟の建物の存在が確認されています。そして日本で初めて郡家(郡衙)の遺構であることが確認された記録的な遺跡です。
かなり大掛かりですね。筑波郡衙である平沢官衙が建物を復元したりして公園化されているのですが、こちらはひっそりとこの2つの石碑と説明板があるだけです。
そして駐車場もないので長く停車していることもできず、遠くの山々や周りに広がる畑を吹き抜けるさわやかな風を感じて少し後ろ髪を引かれながら引き揚げました。

説明板によると東部地域の13棟倉庫跡があり、日本後紀に「弘仁八年(817)冬十月癸亥 常陸國新治郡災。焼不動倉十三宇。穀九千九百九十斛」と書かれており、この不動倉13棟と穀9990石を焼失したことが書かれていることの裏付けと考えられています。
このような場所はもう少し整備して大切に残してほしいものです。
元協和町は小玉スイカやキュウリ、トマトなどの栽培が盛んなようです。
小栗城は1100年頃から300年ほど栄え、攻防を繰り返し1450年頃に消えっていきました。
しかし小栗判官として神奈川県藤沢や熊野の方に説話として物語が語り継がれ、浄瑠璃や歌舞伎の題材になりました。
実際に起こったことから話は大きく作られた物とはなっていても、そこにはここで栄えた平氏の一族としての誇りがあり、鎌倉末期の争いに巻き込まれ、この小栗の里には昔の跡を偲ぶものはかなり少なくなっていました。
小栗から常陸国府の府中(現石岡)との間に小栗街道と言う道があったようです。
小栗から新治、真壁(白壁)を通り、湯袋峠を越えていたようです。
今日は、昔の新治(にいはり)郡の郡衙(ぐんが)の跡を見てきましたので紹介します。

場所は筑西市古郡(ふるごおり)と地名でもその名が残る場所です。
でもまわりは畑で、道も国道50号線から東南に比較的細い道を入っていきます。
真中の石碑は「史跡 新治郡衙跡」と彫られています。

右側の少し高い石碑には「史跡 新治群家 不動倉址」と彫られています。

まわりは一面野菜畑のようです。つくばの山並みなども遠くに見えます。
昭和16年と18年の発掘調査で、約12ヘクタールの広大な範囲に4つにわかれた建物群が存在し、全部で51棟の建物の存在が確認されています。そして日本で初めて郡家(郡衙)の遺構であることが確認された記録的な遺跡です。
かなり大掛かりですね。筑波郡衙である平沢官衙が建物を復元したりして公園化されているのですが、こちらはひっそりとこの2つの石碑と説明板があるだけです。
そして駐車場もないので長く停車していることもできず、遠くの山々や周りに広がる畑を吹き抜けるさわやかな風を感じて少し後ろ髪を引かれながら引き揚げました。

説明板によると東部地域の13棟倉庫跡があり、日本後紀に「弘仁八年(817)冬十月癸亥 常陸國新治郡災。焼不動倉十三宇。穀九千九百九十斛」と書かれており、この不動倉13棟と穀9990石を焼失したことが書かれていることの裏付けと考えられています。
このような場所はもう少し整備して大切に残してほしいものです。
小栗の里散策(10)-新治廃寺跡
今日はギター文化館で25絃箏奏者の中川果林さんの演奏会を聞きに行ってきました。
とても素晴らしい演奏でした。
こちらはまた後で紹介します。
昨日の新治郡衙跡のすぐ近くにある新治廃寺跡を紹介します。
国道50号線に沿った場所になり、通りからも見ることができますが、残念ながら街道沿いは草で覆われてそれと知らなければ気が付きません。

国道横の畑一帯に群の寺があり、幾つもの塔がそびえていました。
いまは金堂跡に大きな木が聳え、少し離れた場所に東塔と西塔があった場所にそれぞれ石碑が立っています。

こちらが東塔跡です。

西塔跡です。

金堂跡近くに塔の礎石(?)が置かれていました。

この木は何時頃植えられたものでしょうか。
この新治廃寺は奈良朝前期の末頃には常陸国新治郡の大領新治直家を中心に建てられ、平安初頭弘塵年(817)の火災で焼失したと考えられている。(現地説明板)
昨日紹介した新治郡衙跡と共に国指定史跡に指定されています。

この金堂と東西の塔の場所から北側に離れた場所にあるのが講堂跡だ。

これが配置図で、回廊が取り囲んでいる。
この図を見ていたら石岡の国分尼寺の配置が思い浮かんだ。よく似ている気がする。

こちらが石岡にある常陸国分尼寺の配置だ。
比べて見るとやはりかなり違うようだ。
しかしこの図の北方建物群というのは食堂や尼僧のいた建て物なので同じような配置で、やはり回廊がまわりを囲んでいる。
とても素晴らしい演奏でした。
こちらはまた後で紹介します。
昨日の新治郡衙跡のすぐ近くにある新治廃寺跡を紹介します。
国道50号線に沿った場所になり、通りからも見ることができますが、残念ながら街道沿いは草で覆われてそれと知らなければ気が付きません。

国道横の畑一帯に群の寺があり、幾つもの塔がそびえていました。
いまは金堂跡に大きな木が聳え、少し離れた場所に東塔と西塔があった場所にそれぞれ石碑が立っています。

こちらが東塔跡です。

西塔跡です。

金堂跡近くに塔の礎石(?)が置かれていました。

この木は何時頃植えられたものでしょうか。
この新治廃寺は奈良朝前期の末頃には常陸国新治郡の大領新治直家を中心に建てられ、平安初頭弘塵年(817)の火災で焼失したと考えられている。(現地説明板)
昨日紹介した新治郡衙跡と共に国指定史跡に指定されています。

この金堂と東西の塔の場所から北側に離れた場所にあるのが講堂跡だ。

これが配置図で、回廊が取り囲んでいる。
この図を見ていたら石岡の国分尼寺の配置が思い浮かんだ。よく似ている気がする。

こちらが石岡にある常陸国分尼寺の配置だ。
比べて見るとやはりかなり違うようだ。
しかしこの図の北方建物群というのは食堂や尼僧のいた建て物なので同じような配置で、やはり回廊がまわりを囲んでいる。
小栗の里散策(11)-にひばりの里
新治廃寺跡に隣接して古びた神社があり、そこの「にひばりの里」というおおきな石碑が置かれている。
日本武尊(ヤマトタケル)が東征を終えて岐路につくときに、甲斐国の酒折宮で詠んだという有名な歌がある。
これが初めて連歌であることで、そこには「連歌発祥の碑」がある。
その有名な連歌は
日本武尊: 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
焚き火番の老人:日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
これも単純に読めば、「新治・筑波をでてから幾晩寝ただろうか」「指折り数えて見れば、九晩十日です」などと言うことなのだが、何か不思議な歌ですね。
この新治がこの辺りだと言うのでしょうか?

この新治は古事記では「邇比婆利(にひばり)」とあり、和名類聚抄に爾比波里(にひはり)」と書かれている。
このため「にひばり」または「にひはり」と読むのが良いのかもしれない。
この新治郡は茨城県の中でもあちこちに飛び火して新治郡、新治村などと色々できているがこれらはほとんど「にいはり」とよむ。
群馬県にも新治村があったが、こちらは「にいはる」と読んだ。
越後や上州などでは「にいはる」の方が地方の言葉としてもしっくりするので語源は同じなのかもしれない。
むかし、この新治郡の名前の変遷はブログ記事に書いた。(こちら)
これは「茨城」の名前の謂れを書いたものだ。(こちら)
石岡駅に「茨城県名発祥のまち」という看板がかかっていることに疑問を呈したものだ。
こんなことも懐かしい。

小栗の里散策として続けてきた記事はここで終わりです。
もう少し真壁や石岡府中などとの関連も調べて見たいのですが、今はまだ記事にできるような知識もありません。
それはまた後日に譲りましょう。
日本武尊(ヤマトタケル)が東征を終えて岐路につくときに、甲斐国の酒折宮で詠んだという有名な歌がある。
これが初めて連歌であることで、そこには「連歌発祥の碑」がある。
その有名な連歌は
日本武尊: 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
焚き火番の老人:日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を
これも単純に読めば、「新治・筑波をでてから幾晩寝ただろうか」「指折り数えて見れば、九晩十日です」などと言うことなのだが、何か不思議な歌ですね。
この新治がこの辺りだと言うのでしょうか?

この新治は古事記では「邇比婆利(にひばり)」とあり、和名類聚抄に爾比波里(にひはり)」と書かれている。
このため「にひばり」または「にひはり」と読むのが良いのかもしれない。
この新治郡は茨城県の中でもあちこちに飛び火して新治郡、新治村などと色々できているがこれらはほとんど「にいはり」とよむ。
群馬県にも新治村があったが、こちらは「にいはる」と読んだ。
越後や上州などでは「にいはる」の方が地方の言葉としてもしっくりするので語源は同じなのかもしれない。
むかし、この新治郡の名前の変遷はブログ記事に書いた。(こちら)
これは「茨城」の名前の謂れを書いたものだ。(こちら)
石岡駅に「茨城県名発祥のまち」という看板がかかっていることに疑問を呈したものだ。
こんなことも懐かしい。

小栗の里散策として続けてきた記事はここで終わりです。
もう少し真壁や石岡府中などとの関連も調べて見たいのですが、今はまだ記事にできるような知識もありません。
それはまた後日に譲りましょう。
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