じゃかもこじゃん考(1)-土浦鷲神社(1)

 今日2月3日は節分ということで、最近馬鹿に豪華に目立ってきた海鮮の具が一杯入った太い恵方巻きを南南東に向かってかぶりつき、焼いたお頭付きイワシにかぶりついてみた。

何のことは無いが訳の分らぬ行事になってきたような気もする。
節分というので明日は立春。

明日から段々春めいてくるのだろう。

石岡でも総社宮で豆まきと鬼を追い払う「追儺(ついな)」の儀式が行なわれたようだ。

鬼とは何かを本当はもう少し考えたいが、こちらのテーマはまたに譲って、今回は私の知っている所では3か所で呼ばれている(呼ばれていた)「じゃかもこじゃん」という祭りはどんな意味合いがあったのかを少しだけ考えて見たい。

まずは、昨年から祭りが中止されてしまった土浦の鷲神社(わしじんじゃ)のジャカモコジャンである。

場所は土浦の郵便局から土浦駅の方に斜めに少し入った「東﨑町」にある。

PC010036s.jpg

ここを訪れたのは昨年の12月1日?頃でまたイチョウの葉が黄葉してきれいだった。

PC010037s.jpg

この神社は鷲神社を「わしじんじゃ」と読むようで、東京から北にたくさんある商売繁盛の熊手を売る「おおとりじんじゃ」「とりじんじゃ」などとまったく同じ系統の神社だと思う。地元では「わしの宮」と呼ばれている。

祭神は忌部氏の祖、天日鷲命(あめのひわしのみこと)である。
四国徳島(阿波)からやってきた忌部氏が千葉の安房にやってきて広めたものと考えている。

PC010038s.jpg

PC010042s.jpg

この神社で行われていた「じゃかもこじゃん」という祭りは旧暦1月15日に神社境内で「味噌おでん」を買って食べると風邪をひかないという風習の祭りである。

旧暦の1月15日であるから今の2月半ば頃に毎年行なわれていた。
それがやはり人出不足ということで昨年から中止になってしまったという。
今年もやはりやらないのだろう。とても残念だ。

おでんといっても「里芋」「豆腐」「長方形のコンニャク」をそれぞれ串で刺して焼いたものに味噌をつけて食べるというもの。
大きな具と別梱包の味噌ダレがセットでたしか500円くらいで販売していたと思う。

ではなぜこれを「じゃかもこじゃん」というのかについてだが、上の写真の現地看板には
「境内にあった千手院の念仏講の鉦・太鼓の音から出た名称といわれる」
と書かれている。

でもこれでは「みそおでん」との関係がどうにも説明がつかない。

この祭りが旧暦1月15日に行なわれていたということも何か関係があるのではないかと・・・・。

もう2か所のジャカモコジャンは石岡の柿岡八幡宮で中秋の名月である十五夜(旧暦8月15日)に行なわれる代々神楽と片野地区(根小屋)の七代神社で毎年旧暦2月8日・8月15日(十五夜)・11月8日の三回奉納されていたというやはり代々神楽(十二座神楽)である。(七代神社の神楽は現在は11月3日に行なわれているようだ)

これらの関係はどんな関係があるのだろうか?

もう少し調べながら明日にでも続きを書いていきたいと思う。

このような面白い言葉(じゃかもこじゃん)が残されているというのも興味がそそられますよね。

それにしてもこの土浦の祭りがどうも理解されずに消えて行くというのはとても残念で仕方がない。

(続く)

じゃかもこじゃん考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/02/03 21:04

じゃかもこじゃん考(2)-土浦鷲神社(2)

 今日は立春。
朝は寒かったが昼間はポカポカ陽気。

これから三寒四温で段々あたたかくなってくるでしょう。

P2040003s.jpg

野原ではオオイヌノフグリも咲きだしました。

P2040006s2.jpg

黄色い花も・・・(名前はわからない)

今日は昨日の続き「じゃかもこじゃん考」の2回目です。

鷲神社1

ここで毎年旧暦の1月15日に行なわれていた「じゃかもこじゃん」で売られていた味噌おでんです。
(味噌は別に分けて添付されています)

鷲神社2

こちらはその包装紙。

「このおでんをご家族みんなで食べると一家招福 無病息災 とくに交通安全 流行性感冒に負けない 丈夫なからだになり 受験合格 就職万歳 夫婦和合とむかしからゆわれている」
と書かれています。

神社の由来については
「鷲の宮は平安時代に祀られたもので、室町時代東崎町の開発百姓が出島の田村から分家してこの地に移ったとき、田村鷲の宮を分請してきたといわれ、土浦市の中心になっている」
と書かれています。

田村は現在は土浦市田村で旧出島村(現かすみがうら市)に近い場所です。
そこに鷲神社があります。遺跡などが発掘され、かなり古くから人が住んでいたようです。
一方土浦市は現在市街地となっている場所の多くが、昔は湿地帯だったりして、比較的新しくその中でもこの東崎町はかなり古く(室町時代に)開発されたと思われます。

このじゃかもこじゃんという祭りが何時から始まったのかよくわかりません。
しかし田村の鷲神社ではこのような祭りはやっていません。

私が考えるのは

「おでん」=「田楽豆腐」=「田楽舞」=「じゃかもこじゃん」

であるという流れです。田楽舞、申楽(さるがく)などは平安時代に始まっています。

もともと「おでん」という名前の発祥はこの串に刺して焼いた豆腐の姿が「田楽舞」(五穀豊穣を祈願しの神楽)の竹馬に乗って踊る姿に似ていることからついたとされています。

石岡のじゃかもこじゃんは代々神楽ですから、おでんも「神楽」ということで、両者に共通点があります。

この先はまた後日に続きを書きたいと思います。

明日は銚子に出かけますので夜遅くなり、続きは書けないかもしれません。

じゃかもこじゃん考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/02/04 20:32

じゃかもこじゃん考(3)-田楽と猿楽

 じゃかもこじゃんというお祭りについて勝手な推理を進めていますが、まだはっきりまとまらずに書き始めていますので思うように先に進めません。

まずはここ土浦市東崎町にある鷲神社(鷲の宮)の様子をもう少し紹介しておきましょう。

PC010040s.jpg

境内に入ってすぐ右側に「久松五右衛門翁之像」が立っています。

久松五右衛門は土浦の街の発展に寄与した人物だそうで、霞ヶ浦岸の蓮河原地区の耕地整理組合長として桜町などの開発に多大な貢献があったそうです。

阿見の予科練(霞ケ浦航空隊)などの歓楽街として桜川沿いの湿地帯を一大歓楽街として整備したようです。
歓楽街といえば風俗などもここに集中し、私が会社に入った頃(40年ほど前)はまだ近づくのが少し怖い場所でした。
まあそこに足しげく通う兵もいましたが・・・。

今ではすっかりその姿は薄れています。

PC010043s.jpg

鷲神社拝殿。

PC010044s.jpg

PC010045s.jpg

拝殿の扁額

PC010049s.jpg

市指定有形文化財の力石3個。
これはかなり大きいです。
多くの神社にある力石より大きいので持ち上がらないのでは??

力石は力自慢だけでなく、商売などをやっていたところでは持ち上げた高さによって給金を決めていたところなどもあったそうですが(飯岡助五郎の逸話)、ここではどうだったのでしょうか。

PC010050s.jpg

本殿。 かなり凝った彫刻が施されています。
何時頃の物か? 少し色あせています。

PC010053s.jpg

境内には弁天池と上の写真のような小山が築かれ、不動明王?像が祀られていました。

さて、神社の様子はこんなものですが、室町時代にこの神社がこの地に建てられたとして、この味噌おでん(田楽)を食べる風習との関係を考えて見ましょう。

まずこの「おでん」が田楽からきているとして、田楽とは何でしょうか?
私もよくわからないので少しずつ調べながら書いていきましょう。

まず「田楽」を語源由来辞典で見て見ると
「平安時代におこなわれていた「田楽」という芸能に由来する。
豆腐を串に刺した形が、踊る芸人の姿に似ていたことから名付けられた。
芸能として「田楽」は、田植えの際に豊作を祈る「田舞(たまい)」が発展した芸能で、鎌倉末期まで流行したが室町後期には衰退し、現代では民俗芸能として神社などで行なわれている。」
と書かれています。

さらにWikipediaでは
「田楽は平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。」
と書かれています。

さて、この田楽と同じようなものとして、もう一つ、能の起源といわれる猿楽(申楽)があります。
こちらをWikipediaで調べて見ましょう。

「猿楽(さるがく、猿樂)は、平安時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである」

「散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)とも書く。読み方は「さるごう(さるがう)」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。もっとも、これを誤りとする説もある」
「現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている」
などと書かれています。

わかったようなわからないような・・・・・・。

さらに「散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。」

「平安時代には中央的でなかった猿楽であったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。」

などと書かれている。

さて、これらの事を調べて行くとさらに深みにはまりわからなくなります。
私は専門家でもないので、こんなことをまともに理解することはできそうにありません。

ここでは「じゃかもこじゃん」が何故「味噌おでん」や「代々神楽」なのかを考えているだけですので、あまり深く追求するのはこれくらいにして、「おでん」や「神楽」が「田楽」「猿楽」「能」などと関係が深く、室町時代頃に盛んに行なわれ、色々な芸能に発展したり、神社など伝わり地域芸能として受け継がれてきたということがおぼろげながら浮かんできました。

では、能の基は猿楽というので、やはり能を大成した世阿弥を知らなけれなならなそうです。

続きはまた後ほど・・・・。

じゃかもこじゃん考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/02/06 21:54

じゃかもこじゃん考(4)-石岡市柿岡のじゃかもこじゃん

 毎年、中秋の名月(旧暦8月15日)の晩とその前の晩の2日に亘って石岡市柿岡の八幡神社で行われる伝統行事「八幡宮太々神楽」を紹介します。
この祭りを地元では「じゃかもこじゃん」と呼びます。

夜7時から11時まで12座の神楽を神社に奉納します。(昔はもう少し遅い時間から始まって真夜中まで行われていたといいます)

太々神楽=代々神楽は基本的には地元の家を継承する長男が代々引き継いでこの神楽を継承したようですが、現在では長男に限らず保存会を作って保存継承していると言います。

祭りの謂れは、文禄4年(1595)長倉義興が、柿岡城主になった時に伊勢からこの神楽(24舞)を持ち帰り、そのうちの12座を継承してきたと言われています。
長倉城は御前山近くの那珂川北側の城で、詳細は前に記事を書いています。(長倉宿:こちら、長倉城跡(蒼泉寺):こちら

「十二座神楽」は
1、国堅(くにがため)
(巫女舞=神子舞)
2、老翁(おきな)(天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)
3、天狐(てんこ)・種嫁(たねがし)の舞
4、龍神(天御柱命)
5、地法(ちのり)・赤鬼 (タケミカズチ=鹿島神宮の祭神)
6、神酒(みき)の舞 (天児屋根命)
7、西ノ宮大神 (蛭児之神)
8、鈿女(うずめ)(天鈿女神・・・猿田彦と結婚)
9、岩戸
10、戸隠 (天手力男命)
11、猿田彦の大神
12、山の神 (天大山祇命)

夜7時からはじまり終わるのは11時近くにまで及びます。
最後に餅をまきます。

IMG_8671s.jpg

神社の拝殿は畳の広いほぼ真四角な舞台になっています。

IMG_8674s.jpg

最初は男性4人が舞う「国堅(くにがため)」です。
日本の国を造った時、たくさんの島々ができました。
この島々が出来るのを喜んで堅めてまわるイザナギ・イザナミの2神の様子を描いています。

この旧八幡町に婿にやってきた男性が演じることになっていたそうです。
最初は2人だったはずですが、いつの間にか4人で演じる様になったようです
この踊りは「早みこ」ともいうそうです。

IMG_8679s.jpg

さて、次は地元の小学生から選ばれた巫女4人が踊ります。
巫女舞=神子舞だそうです。

穢れのない女の子ということで、地元の10歳前後の子供から毎年選ばれます。

IMG_8695s.jpg

この神子舞は十二座には入っていません。
各神楽の途中で計4回別々の神子舞が披露されるそうです。

IMG_8698s.jpg

さて、次が「老翁(おきな)」です。
天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)です。
天上界の主神です。

剣を腰に差し、手に白い紙を持って、数回廻ります。紙で四方に種をまいているのでしょうか。

剣を抜いて、また四方を廻ります。
剣で蛮族を平定しているようです。

老翁は四隅でそれぞれ剣を突き立て、変な腰振りダンスを踊ります。

これは四方に柱を建て、地を固めている姿と言いますが、昔の事やはり少し別な意味合いもありそうです。

五穀豊穣、子孫繁栄・・・ 昔の古事記の世界かもしれません。

IMG_8718s.jpg

つづいて、キツネが登場します。
「天狐(てんこ)」と「種嫁(たねがし)」の舞です。

三部構成で、最初は天狐が一人で自由奔放に舞います。

IMG_8726s.jpg

天児屋根命(あめのこやねのみこと)の孫、天種子命(あめのたねがしのみこと)をあらわしており、五穀豊穣の舞です。

そこに種子命がやって来て、種まきをするのを天狐が手伝う様子を表現します。

IMG_8730s.jpg

最後に命(みこと)が高天原に戻ってしまうのを天狐は慕ってとび跳ねたりします

さて、「じゃかもこじゃん」というのは、踊りの時になる拍子の音がそのように聞こえるからともいわれていますが、この神楽の中の翁舞い(老翁)のことを指しているとも言われているようです。

(この写真と記事の内容は2013年の9月のものです。)

長くなってしまいましたので続きは明日。
田楽、神楽、翁舞などの関係を少しわかれば「じゃかもこじゃん」の意味もわかってくるかもしれません。

じゃかもこじゃん考 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2016/02/07 20:36

じゃかもこじゃん考(5)-翁舞と世阿弥に能(申楽)

 昨日書いた柿岡の八幡宮で行なわれている神楽「じゃかもこじゃん」の中でも、特に「老翁」の舞いがじゃかもこじゃんに通じると言われています。
何故なのでしょう?

okina.jpg
 (柿岡じゃかもこじゃんの翁舞)

そのため少し「翁舞」という伝統芸能について調べて見ましょう。

Wikipediaによれば
「翁舞(おきなまい)は、日本の伝統芸能の舞。現在の能楽の原典とされる他、民俗芸能として各地に伝えられている。長寿の翁が人々の安寧を祈って舞う。
古くは田楽や猿楽、あるいは人形浄瑠璃、歌舞伎、また民俗芸能などでも演じられる儀式的祝言曲であり、芸能本来の目的の一つに人の延命を願うことがあるが、その表現として翁媼を登場させることがあったものと考えられている。しかし、面を付け舞や語りを演じる芸能は猿楽が最初であり、翁猿楽とか式三番と称された。」
と書かれています。

やはり「おでん」と同じく「田楽や猿楽」がそのルーツです。
でもその中でも翁には特別な意味が隠されているのかもしれません。
もう一つこの翁舞に続いて演じられるという「三番叟(さんばそう)」がありますが、これもこの流れが続いているものと考えます。

三番叟としてこの近くで思い浮かべるのは成田飛行場近くの取香にある側高神社で行なわれています。
取香(とっこう)は香取をひっくり返した地名で、側高(そばたか)神社も祭神が長いこと不明とされてる千葉氏ゆかりの神社です。

さて、もう一つ前に書いた記事を思い出しています。

 それは雨引観音で行なわれている「マダラ鬼神祭」について書いたブログ記事です。前に書いたのとダブってしまいますが、もう一度書くことをお許しください。
(前の記事はこちら

室町時代に父親の観阿弥とともに「能」を完成させた世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに書かれている。

「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。
三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。
なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。
その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。
日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。
御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。
成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。
「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。
上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。
橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。
上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。
これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。
または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」

と書かれている。

今では「能」と言っているが明治の前までは「猿楽」と呼ばれており、世阿弥は「申楽」とこの「風姿花伝」には書いている。

そして、世阿弥によれば、この申楽(猿楽)の歴史は、渡来人である「秦河勝(はたかわかつ)」によるとしている。
秦河勝は6世紀に朝鮮半島からこの国に渡ってきた渡来人集団「秦氏」の長で、秦の始皇帝の子孫であるとも言われている人物だ。

このため能の起こりは渡来であるとの説が強くあるが、日本に来て発展して芸能に高めたのは世阿弥であった。

さて、この田楽や猿楽と「じゃかもこじゃん」という一風変わった名前がどう結びついたかであるが、このヒントをもらったのがこの秦河勝が住んだと言われている京都太秦(うずまさ)のにある広隆寺に伝わる「摩多羅神(まだらじん)祭」である。

広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。

摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。

「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」

と書かれている。

後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。

摩多神

この本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙であるが、ここに不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。

これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。

そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。

この本によれば摩多羅神は「宿神(しゅくじん)」であるという。

どうもこの宿神という言葉が「しゅくじん」「しゃくじん」などと呼ばれていたので、これが言葉の響きから「じゃかもこじゃん」となったのではないだろうか。

この宿神について、世界大百科事典では
「呪術的信仰対象の一つ。〈しゅくしん〉は,守宮神,守久神,社宮司,守公神,守瞽神,主空神,粛慎の神,守君神など,さまざまな表記があるが,元来はシャグジ,シュグジなどと称された小祠の神の名だったと思われる。シャグジ,シュグジは辺境の地主神であるが,呪術的性格の強かった密教や神道のほか荒神,道祖神など他の民間信仰と習合を果たし,非常に複雑なまつられ方をしている。おびただしい異表記があるのはそのためである。」
と解説されている。

東京にある「石神井(しゃくじい)などもおそらくこの宿神から変化したものと思われる。

長くなったが、これからもっと深めるのはもう少し勉強してみなければ理解できそうにない。

雨引山に伝わる「マダラ鬼神祭」なども、寺が焼けた時にどこからともなくやってきたマダラ鬼があっという間に寺を再建したという言い伝えから今でもこれを祭りとして行なっているもので、奥が深そうなのだがこれがまたよくわからない。

祭りの様子は前に紹介しているので興味があれば読んでみてください。
こちら1こちら2こちら3







じゃかもこじゃん考 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2016/02/08 21:17

じゃかもこじゃん考(6)-開催日は満月?

 土浦の鷲神社に伝わってきたおでんを食べる「じゃかもこじゃん」が行なわれていたのは旧暦の1月15日です。
一方の石岡市柿岡の八幡神社で行なわれている神楽「じゃかもこじゃん」は旧暦の8月15日ですので共に満月に行なわれています。

これは何か意味があるのでしょうか。
じゃかもこじゃん考は昨日で一旦終わろうと思っていたので、きょうのはまあ附録のようなものです。

太陽歴が一般的となり、月の暦である旧暦の考え方が薄れてしまって、戦後生まれの私達にはあまりピーンと来るものがありません。

中国や台湾などでは未だに正月行事など旧暦で行なわれていますので私達が忘れてしまった何かがあるのかもしれません。
そこで旧暦1月15日を調べて見ました。

この日については、なかなか面白いことが載っています。

まず旧暦の正月は「春節」で、今年なら2月8日(月)の昨日になります。
月の暦で言うと「新月」です。

では旧暦で言う年が明けての最初の満月が旧暦の1月15日で、今年なら2月23日(火)です。

やはり旧暦の中でも特別な日で「元宵節(げんしょうせつ)」となります。
この元宵節というのは元月の最初の宵(夜)という意味で、過年は元宵節を迎えて終了すると解釈される重要な一日なのだそうだ。

この「元宵節」が漢の時代に始まったようだが、道教や仏教などでもとりいれられるようになって、民間でも「灯り」を灯す風習が始まったという。

それが「元宵節」ではランタンを灯す習慣がはじまり各地でランタン祭りなどが行なわれている。

これには面白い逸話があるという。

「一羽の天鵞が天より人間界に舞い降りた際、一人の猟師の放った矢で傷ついてしまった。それを知った玉皇大帝は、自ら大切にしていた天鵞に変わって正月15日に天より兵を遣わし地上を焼き払うことを計画した。その計画を知った一人の仙人は民衆を救うために地上に降り、正月15日に家々で松明を燃やしランタンを灯すことで厄災を逃れることができると伝えた。

人々は仙人の言葉の通りに正月15日に松明を燃やしランタンを灯すと、その仙人は玉皇大帝に対し既に地上は焼き払ったと報告、玉皇大帝は衆神を率いて南天門より地上を見下ろすと、地上は赤々とした炎に包まれており、既に地上を焼き払ったと錯覚したため人間界が焼き払われなくて済んだ。このことから毎年正月15日にランタンを灯す習慣ができたといわれている。」
(Wikipediaより抜粋)

長崎のランタンフェスティバルは旧暦の1月1日~1月15日まで新地中華街で1万数千個のランタンが点灯されるという。

また台湾のランタンフェスティバルも 旧正月から元宵節に行なわれるそうですが、多くの行事は最後の元宵節に合わせて行なわれているのだという。
今年なら2月20日~24日が最もにぎやかなのだそうだ。
調べて見ると今年は桃園で2月22日から3月6日にたくさんのランタンが広場や通り沿いに並び花火が打ち上げられるという。

日本でも昔は意味のある日だったのだ。
旧暦の1月1日は「(大)正月」であるのに対し、1月15日は「小正月」といった。
小正月は満月(望)で、14日~16日までがこれに当たり、特に夜が行事の中心だったようだ。

今では正月が新暦の1月1日となってしまったので小正月も新暦で表示するように変わってしまった。

柿岡のじゃかもこじゃんが旧暦8月14日の夜と、15日(中秋の名月)の夜の2日間行われることにはやはり意味があったようだ。

PC010058s.jpg

土浦市東崎町の鷲神社

PC010057s.jpg

「皇紀二千六百年 鷲神社植樹記念碑」

PC010052s.jpg

境内にある弁天池 奥に見える赤い鳥居は境内社「瑞徳稲荷神社」。


じゃかもこじゃん考(終わり)

(じゃかもこじゃん考1~読むには → こちら




じゃかもこじゃん考 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/02/09 20:18
 | HOME |