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百観音

 百観音とは、西国三十三箇所 坂東三十三箇所 秩父三十四箇所 の100か所の観音様を指すとされます。
四国88か所の巡礼と同じく、この100か所を巡礼して廻るとご利益があり願いがかなうという習わしが行われてきました。記録によると400~500年位前から行われてきたといいます。

西国とは岐阜から関西地区の寺であり、坂東は関東地方である。これらそれぞれ33か所の寺と秩父地方34か所の寺を巡るのである。
そして最後の秩父34番水潜寺を廻ったら、長野の善光寺へ参るのだといいます。

この観音参りは現世の罪を流し、極楽往生を願うものとされてきました。
前にも書きましたが、長野の善光寺は来世の極楽往生を願い、上田の北向観音では現世のご利益を願うのだといいます。
このため、善光寺をお参りしたら、上田の北向観音をお参りしないと片詣りとなるといわれます。

しかし、来世の極楽往生を願う人は多くいたのですが、またその多くはこんなに遠くまで100か所もお参りすることは体力的にも、経済的にもかなわない人がたくさん出てきたのです。

そのため、全国各地で百観音信仰が生まれてきます。
これは、100か所の寺で観音様の鋳型をもらい、それを持ちかえって地元の寺に納め、その100観音像を拝むと100か所を回ったことと同じご利益を得ることができるというものです。

観音様の鋳型が作られたのは今から300年近く前から各地の鋳物師が競技として作ってきたといいます。

さて、この百観音の鋳型が石岡市大増の正法寺にあります。
前に十八羅漢の寺として紹介しました。

 さて、今日は少し変わった百観音を見つけましたので紹介します。
これは常陸大宮市の「百観音自然公園」です。
山の中に百体の観音様が点在しているといいます。
場所は石岡方面からいくと御前山の「道の駅かつら」を過ぎて、那珂川を渡って北上したところです。

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この階段を上った先の洞窟に数十体の観音像が置かれています。

 今日は29日、もうお役所は休みが始まっているが、今日まで仕事で、ようやく夜帰ったところ。
ブログもネタを書きためていたものをUPしている。
やはり、暮れは余裕がない。
しかし、何か来年もまだ私を必要としている人が何人かいることもわかった。
もう少し頑張らないと全部はこなしていけなくなりそうだ。
 
女房にはこれから行方まで行ってくれと頼まれるし、今年の大掃除もしなければならないし・・・。
何か毎日余裕がないのは困りものだ。  
 

城里町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/29 19:03

那珂川

 台風が過ぎて急に涼しくなりましたが、如何ですか?
のんびり絵を描いてみるのもいいですね。

那珂川は常陸の中部を流れる大きな川だ。
この川の流域も大昔からの文明が発達していた。
その昔(1300年以上前)には粟川とも呼ばれていたという(常陸風土記より)。

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道の駅「かつら」近くの「那珂川大橋」付近の河原にて(2011年9月16日 撮影)
 

城里町 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/09/24 07:38

萬歳藤(城里)

 通りがかりに見つけた「萬歳藤」。
水戸光圀が名付けた藤も今は規模も小さくなったとのこと。

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 <現地案内板>

 元禄11年(1698年)頃は大きな藤で、一部は大木にからまり、また一部は数十坪の地面をおおい年々見事な花を咲かせていた。
 水戸藩主義公(光圀)がこの藤花を激賞し萬歳藤と命名して花宴を催したという。
天保4年(1833年)10月に列公(斉昭)も訪れ、次の詞を残している。

 西山の君の愛し給う藤の枯れ 元木より芽の出ずるを見て

 「咲く藤の花なき頃に来て見れば めぐみのもとにあるぞ楽しき」


 

城里町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/25 06:33

鹿島神社(城里町)-悪路王面

 さて今日はとても変わった神社を紹介します。
知っている人は知っているが(あたり前か?)ほとんど知られていないとも思う。
城里町高久にある「鹿島神社」である。

この神社がある方面の人にはとても有名な神社なのだが、その存在を知っていてもYAHOOの地図にも載っていないためか訪れる人はほとんどいない。

何が有名かというと一つは悪路王の面があること(鹿島神宮とここだけ)と中国式の立派な彫刻を施した本殿があることです。

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入口の鳥居をくぐると少し広くなった境内を通ってまっすぐこの拝殿に進みます。

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拝殿の正面上に気味の悪い首の絵が掲げられています。
この首が悪路王の物だといわれているのです。

悪路王(あくろおう)って知っていますか?
坂上田村麻呂が征夷大将軍として、西暦802年に陸奥達谷窟で長年苦しめられていた蝦夷を退治しましたが、その時の蝦夷の首領であったアテルイ(阿弖流為)のことだといわれている人物と同一とみられています。

その後の日本史では英雄として扱われた坂上田村麻呂は、最後には500人の部下を連れて投降してきたこの蝦夷の首領アテルイとモレという二人の人物を捕まえて京の都に送りました。

歴史書では田村麻呂は捉えた彼ら殺さずに、まだ反対勢力のいる蝦夷の丸めこむのに、この二人役に立つと二人の命乞いをしたと伝わっています。
しかし、都の貴族たちは、散々苦しめられてきたこのアテルイたちへの恐れのため二人の処刑が決まり、河内国で処刑されたとなっています。
そして京の清水寺にはこのアテルイとモレ(母礼)の碑が建てられています。

しかしここに残されている悪路王の話は違います。
達谷窟で成敗した悪路王の首を都に持ち帰る途中、都まで時間もかかり持ち帰れないと、この鹿島神社に奉納したものだと伝わっています。
また実際に首のミイラが残っていたといわれています。
しかし、保存も難しいとなり、面を彫刻でおこし、その面を保存しているのです。

悪路王の面は現在鹿島神宮とこの城里町の鹿島神社の2か所にありますが、それぞれの顔が全く違っています。(こちらの記事参照
(追加:ここの鹿島神社の悪路王の面彫刻はこちらを参照ください)

さて、本当のところはどうなのでしょうか?
平将門のように恐ろしい形相の首が都から故郷へ帰ろうと空を飛び、この地に落ちたのでしょうか?

長い間坂上田村麻呂は英雄として、アテルイは蛮族の悪者として歴史書から抹殺されていたので真実はほとんどわかっていないのです。

福島県の郡山の近く三春の東側に町村合併で誕生した「田村市」はこの坂上田村麻呂の伝説が多く残されており、この名前にちなんで命名されたそうです。

平安時代に蝦夷征伐に通った道がここを通るルートだったのです。
矢祭町や棚倉を通り田村を通って陸奥へ攻め入ったのでしょう。今ではあまり考えられないルートですね。

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さて、もう一つこの神社で絵を見張るものは、この神社本殿の彫刻です。
中国式の色彩も見事な彫刻は目をみはります。

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現地の説明によれば、この本殿は廃寺となった吉祥院のもので、中国の故事が巧みに表現されたものだそうです。作者は不明で、昭和50年に日光の名工によって、塗り替えられたものだそうです。

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それにしても見事な彫刻です。
神社の本殿にこのような色彩豊かな彫刻が施されるのは珍しいのではないでしょうか?

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さて、昔このブログにも書いたことがありますが、ネットで調べて見ても悪路王といわれた名前は道が相当な悪路だったとか、悪太郎の悪のようにとても強いという意味でつけられたのだろうと書かれています。

しかし、アクト、アクタ、アクツなどのアイヌ語で川沿いの低地などに使われている言葉がもとではないかと思っています。この近くにも圷(あくつ)という地名があります。
 



城里町 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/09/26 06:25

徳蔵寺(徳蔵大師)-弘法大師の寺

 さて、笠間城の歴史に書いたのですが、笠間城が築かれる前の佐白山には正福寺という寺があり百坊といわれる僧兵がいました。
そして七会村の徳蔵寺(とくぞうじ)の三百坊といわれる僧兵と勢力争いを繰り返していたといいます。
その徳蔵寺が今回紹介する寺です。

 この徳蔵寺は弘法大師ゆかりの寺で、四国八十八霊場と強い関係がある。
このため、阿波山上神社のある「阿波山」とこの寺のある「徳蔵(とくら)」を結ぶ「阿波山-徳蔵線」とあるのでそこに何かあるかもしれないと、前に行こうとして道に迷いましたが、笠間から39号線を使うとすんなり行けました。
そして、その帰りに阿波山を目指したら、この阿波山線は途中から山の中を抜ける結構狭い道を通ります。
阿波山には見覚えのある道に出て辿りつきましたが、この道は、きっと昔ここに住み着いた人々が歩いた道なのでしょうね。
(私は基本的にカーナビは使いません)

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徳蔵寺の入口には「徳蔵大師(とくらだいし)」の石柱と「僧兵と八岐大蛇伝説の里のハイキングコース」の案内板がありました。
杉並木の参道が真っすぐにのびています。

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この参道の正面に「弘法大師霊場」と書かれた「大師堂」があり、内部には弘法大師像が安置されています。
またこの弘法大師像は県の文化財に指定されているそうです。

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狛犬と大師堂。とても姿の良いお堂です。

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この徳蔵寺は元々平安時代に弘法大師により八岐大蛇伝説の山「八瓶山」の麓に建てられたと伝えら、兵火にあい、大泳二年(1522年)に空法上人が現在の地に再建したとされています。
もともと大きな寺で300人もの僧が修行しており、笠間との縄張り争いが時々起きていたのです。

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大師堂脇に立つ六地蔵。

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大師堂の反対側のわきには「御砂踏場」と書かれた場所があり、足型の下に四国八十八個所霊場の砂を集めて埋めてあるそうです。
この砂の上に立って「南無大師遍照金剛」と唱えると八十八か所をお参りしたことになると書かれています。
もちろん私も上にのって声に出してみました。
四国も数か所回りましたが、とても八十八か所はいけないので・・・・。
しかし、お遍路さんの苦労がこんなに簡単に得られてしまうとも思われません。

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大師堂から少し下がって東側に徳蔵寺がありますが、こちらは最近「開運花の寺」として人気が出ているようです。

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こちらにも少し新しい六地蔵様があります。

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花の寺巡りはこのようなスタンプ台が置かれていて、8か所全部回ってスタンプを押したら何かプレゼントがあるようですよ。
この寺の花は「芍薬=シャクヤク」ですね。

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山深い感じで雰囲気の良いお寺でした。お近くに行かれたらお立ち寄りください。

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8か所のうち半分ほど回りましたのでまた紹介しましょう。
このような試みも行ったことのないお寺が身近に感じられてよいと思いました。
結構雰囲気の良いお寺さんばかりです。



これからは毎朝1回の更新とします。
 
  

城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/27 06:35

壁面観世音像(城里)

 朝晩はめっきり涼しくなりましたね。

 今日は、城里町の指定文化財である「壁面観世音像=通称目つぶれ観音」を紹介します。

徳一法師が壁に一晩で彫ったと伝わっているものです。
一晩で観音像を彫ると願をかけ、一心に彫ったが、いざ開眼という時に一番鶏が鳴いてしまい、とうとう未完で終わったと伝わっています。

そのため、この地方では鶏を飼わないといいます。

茨城県は養鶏農家は非常に多く、この北の方も養鶏農家が多いところですが、この一帯は飼っていないのでしょう。

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壁面観音像のあるところは、大山寺の通りを西にそのまま進み、道路の突き当りのような場所ですが、少し入ると比較的開けた場所に出ます。
ここにお堂が建っており、観音像はお堂のすぐ裏にあります。

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正面にお堂があるので、お堂の中からでも拝むようにできているのでしょうか。
観光で見せるようにはなっていないようです。わきからのぞきこむしかないですね。

目つぶれ観音といわれているので目が開いていないようですが、はっきりと確認ができません。
この写真が精一杯ですね。

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壁面にへばりつくようにお堂が建てられています。

徳一法師は月山寺などを建てた時にこちらにも来たのではないかといわれているようです。

 

しばらく毎朝に更新する予定です。 

城里町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/28 06:39

立野神社(常陸大宮)

 阿波山上神社と石船神社という二つの式内社(延喜式)を調べたのでもう少し足を延ばして常陸大宮市(旧緒川村)にある立野神社(たてのじんじゃ)というところへ行った。

案内板に従って車を走らせると「小瀬小下」というバス停の前に鎮座していた。
しかしそこにあったのは小瀬小学校ではなく、「緒川小学校」となっていた。
町村合併で小学校も統廃合がなされ、昨年、小瀬小と八里小が統合されて「緒川小」になったそうだ。

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通りのバス停のところに鳥居があり、真っ直ぐに参道が伸びている。

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創建は大同年間(806~810年)に立野山に祀られたものを当地に移されたものだという。
また、物部氏の族立野の連が御鎮斎したと伝えられているそうだ。

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本殿。わきの境内には境内社が置かれている。

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佐竹七福神の「大黒天」が置かれている。

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苔むした境内社が入口に鎮座し、かなりのウエイトを占めているようだ。

祭神は級長津彦命(ツナツヒコ) 級長戸邊命(シナトベ)で、男女一対の風の神様だという。


 
 

城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/09/29 06:15

大山寺(城里町)

 さて、今日から10月です。
徳蔵寺で紹介した「開運花の寺」八か所めぐりも楽しそうなので、徳蔵寺からそのまま阿波山への道をたどり高根山大山寺に行きました。

道路標識には「阿波山-徳蔵線」と表示されているのでちゃんとした道が続いていると思ったのですが、途中から山道に入りすれ違いのできないような道が一部ありました。
これでは前に道を間違えてあきらめたのも今更ながらわかりました。
徳蔵(とくら)側からは比較的わかりやすく案内がありますが、逆からは分かれ道に案内がないので迷ってしまいました。
やはりカーナビ必要かな? 
一応は持っているのだけれど、取り外せるタイプでほとんど置きっぱなしなのです。

前に一度、2年ほど前の冬にこの寺(大山寺)を訪れたことがありますが、花の時期でなく寂しい感じだったので、今度はどんな感じになっているか楽しみにしていました。

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正面の山門とは別に花の寺らしく書院風の入口がありました。

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これは前に行った冬の時の写真ですが、この寺ではクジャクを飼っていて、時々庭を散歩しているのに出くわします。今回行った時もオリから出て逃げ回っていたようです。

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この花の庭にある東屋(あずまや)から寺の方を眺めたものです。
このお寺もいいですよね。

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山門は2つあって、手前には左右に仁王像のいる立派な山門があり、その奥に昔の山門があるのですが、
これが今回の山門です。地震後左右に補強をしたようです。

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こちらは、2年ほど前に撮ったものです。補強がありません。
この山門は平安末期の構造様式の物で、昭和40年に茅葺の物を瓦屋根にしたといいます。
また以前は15m程手前にあったといいますので、新しい山門を作る時に移動したものと思われます。

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佐竹七福神の福禄寿さんの像と厄除けの赤い旗がたくさん。ここは子供の「疳の虫(かんのむし)」除けにご利益があるそうです。

ここの花の寺は「山ぼうし」「さんしゅう」「しゃが」だといいます。
あまり聞かない花の名前ですが珍しいのでしょうか。
ここの花のスタンプはこの山ぼうしでした。5~6月頃花を咲かせ、秋には紅葉するようです。



 
 

城里町 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2011/10/01 06:21

江畔寺(こうはんじ)

 開運花の寺八寺の4番目である小瀬「江畔寺(こうはんじ)」を紹介しましょう。

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寺の境内には真中に樹齢約450歳くらいの大イチョウがあります。
この木は市の天然記念物となっていて、秋には黄色の葉がきれいだそうです。

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開運花の寺八寺の4番目で、花としては「つつじ」「さつき」「アヤメ」が登録されていますが、この時期ではこの白い萩の花がきれいでした。
また4月は木蓮もいいそうですよ。

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この本堂は禅寺の説法の間にも使われていて、かなり大きな作りで見ごたえがあります。

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現地の説明には「大方丈」と呼ばれ、江戸中期の建造物だそうです。

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寺への入口の左手前に山門が造られています。平成16年に造られたものだといいますが、山門自体はもう少し古そうですので、どこからか移設したのでしょうか。

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この山門をくぐった左手に裏山に登る階段があります。

上には「勝軍地蔵堂」が置かれていました。
説明書によると
「応永元年(1394年)に初祖(小瀬)義春を勝軍地蔵菩薩の化身仏と尊崇して西側山上に祭祀した江畔寺奥之院である」
となっています。
昔はこの山(愛宕山)の上に大きな鐘楼があったといいます。

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境内に再建された鐘楼。

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石段の途中から寺を見下ろすと、すぐ下の「仏殿」もいい形をしています。
これは、慶安元年の建立とされ釈迦如来が安置され、禅宗様式の佛殿として市の有形文化財だそうです。

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「弁財天」:室町時代に祭祀され、その後、時代の流れの中で風化していたものを平成十六年に再建したものという。
赤い橋が印象的だが、この橋の下には鯉が泳いでいた。




城里町 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/10/03 18:30

龍谷院

 「開運花の寺」8ヶ寺のうち「徳蔵寺」「大山寺」「江畔寺」と回りましたが、途中にもう一か所素通りしたところがありました。
寺の名前は「龍谷院」です。

地図をみて街道沿いに案内標識があったが、途中道が狭くなったりして不安を覚えながらも勘をたよりに無事到着しました。

とても良い寺で、花の寺としても穴場的なお勧め処ですね。YAHOOの地図には載っていません。

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山門が寺への石段の途中にあり、石段の両側には紫陽花の木がありました。
是非紫陽花の咲く時期に訪れて見てください。
とてもいいと思います。

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石段の途中にある山門です。更に奥に石段が続きます。このアングルはとても好きですね。
「瑞雲山」となっています。寺は曹洞宗(禅寺)で、長禄三年(西暦1459年)に大山城の佐竹義成か創建したとされます。
これは同じ花の寺高根山「大山寺」も佐竹義成の祈願所として寺を再興したので繋がりがありますね。

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石段を登るとこの寺の高さがわかります。やはりこの石段と山門はいいですね。

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境内です。ここは千手観音がまつられているそうです。写真は観音堂からお寺の方を見たところです。

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当然花の寺巡りのスタンプももらってきました。
花は紫陽花です。9月なのにこんな白紫陽花が咲いていました。(9月中旬撮影)

この龍谷院も一時は末寺が三十六ヶ寺にも及んだといいます。
そしていまでも7か所が続いているそうです。
驚いたことに石岡根小屋の「泰寧寺」がその一つだそうです。
この泰寧寺は「山県大弐の墓」があることで知られ、座禅や写経の体験が受けられます。



住所は城里町下阿野沢1509 です。

それから、近くに「白山神社」とあるので行ってみようとしましたが、山の上で車では無理なようです。
手前の「白山荘」という宿にいって引き返しました。

「開運花の寺」巡りは半分しか行けませんでしたが、残り笠間市稲田の「金剛寺」、那珂市の「文殊院」「一乗院」「弘願寺」はまたの機会にします。
   

城里町 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2011/10/04 18:30

大山寺(城里)

 この高根山大山寺は、前に花の寺巡りの一つとして紹介していますが、先日近くに行った時に撮った写真を載せます。

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鐘楼はやはりこの木々の緑に映えますね。一部葉も色づいてきています。紅葉にはまだ早かったようです。

この鐘は朝・昼・夕と日に三回撞かれているそうです。

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お寺の庭です。枯山水の庭もありました。

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このお寺の特徴は境内に続いてこの庭園があることでしょう。
お花の時期にまた来たいと思います。

庭園の入口に句がかかげられていました。
「うつせみの負う苦も消えむ 静もれる生々庵に憩ふひととき」

この東屋(茶室)の名前が「生々庵」と書かれています。平成4年に建てられたそうです。

うつせみ(空蝉)とはこの世のことです。
この庭にきて、この東屋で日頃の苦しさを忘れて、ゆったりとした一時を過ごしてほしいという願いが込められているのでしょう。

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この東屋からお寺の方を見るとこのような景色です。まだサルビアが咲いていました。

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お寺の入口奥にこの馬頭観音像が置かれています。とても立派な大きなものです。
良くあちこちで見かける像なのですが、こんなに大きいのは珍しいです。

城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/11/01 04:37

小松寺-平重盛の墓(1)

 今日はニュースで日本直販の破綻の話をしていた。
儲かっていると思っていたが、違ったのですね。

今日昼間、久しぶりに家にいたら、理由のわからないテレビ局という人から電話があった。
このブログで本を出しているのを見て、それをテレビショッピングで紹介したいというのだ。
本ではなくDVDだと思っていたようだが、よく聞いてみれば出すのは有料らしい。

たくさん売れるわけのないこんな本やDVDなどを見つけて電話してくるのだから、こんな話に飛びつく人もいるのかもしれない。
もちろんお断りしました。「出すだけの広告料を取られて終わり」で終わるのは目に見えている。

やはり日本全体に思ったより景気が悪いのかもしれない。
借金してお金をばら撒いて、一時的に数値を上げ、ごまかしている。
新たな仕事を生み出さずこのままなら何時になっても浮上しない。

田中大臣の言うことも一理あるが、やることの順番がまったく違う。本末転倒だと思う。
現在の大学で中学生程度の復讐をしないと大学の学問に全くついていけない生徒がたくさんいるそうだ。
これなど卒業させても資格が価値がないものだから、就職もできない。
世の中にそんな若者があふれてくる。

しかし、これは大学の数を減らすことで対応するのはおかしなことだ。
基準を決めて、補助金を出さなくすれば済むことだと思う。
全くおかしなことである。

さて、愚痴やため息は命を削るカンナ(鉋)と言うようなのでいつもの話題に入ります。

 先日御前山から袋田の方に行く途中の城里町に平重盛の墓があると聞いていたので、立ち寄った。
場所は朝房山(常陸風土記に出てくるクレフシ山と言われる)の裏側、藤井川ダムの少し北側に当たる。

平重盛は清盛の長男で跡を継ぐはずであったが、先に死んでしまった。
もし生きていれば平家は滅びなかったかもしれないなどと言われてもいる。

各地に平家の落人伝説はあるが、ここもそのひとつに過ぎないのかもと思っていた。
しかし、ここに残されている話を聞いてみると、もしかしたら本当ではないかとも思えてくる。

小松寺の名前は重盛が六波羅小松第に住んでいて「小松殿」とか「小松内大臣」と呼ばれていたことに由来するそうだ。
この寺のある地域は「小松」と呼ばれている。
 
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県道52号線を水戸方面から北上すると最近できた「水戸サテライト」を過ぎて少しいったところが「小松」の信号がある。
その信号を左(西)に曲がって少し行くと大きなしだれ桜が2本見えてくる。

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ここが小松寺である。

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寺へはこの入口から石段を登ると、両側に木々が聳える長い参道が続く。

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参道を進むと先に立派な唐門が見える。

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唐門はこのように屋根が兜のような姿で格好が良い。
しかし、唐門(からもん)は鎌倉のお寺でよく見るようなので、鎌倉時代からあるのかと思っていたが、どうやら室町後期頃から造られ始めたようだ。

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(現地の説明板より)
唐門(両唐破風中爵門)
 京都小松谷にあった平重盛邸の勅使門を模造した建造物で、常陸大掾(だいじょう)義幹(よしもと)が建久二(1191)年に寄進したと伝える(寺伝)
特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤がある。柱の上部には精巧な籠彫が施されており、扉は桟唐戸である。建築様式上からは「向う唐門」という。

 昭和47年12月27日 町指定建造物に指定された。  城里町教育委員会

どうもこの説明はしっくりしない。 
唐門は安土桃山時代から江戸時代に多く作られているようで、日光の東照宮も唐門である。それも中国の唐のことではなく日本で考え出されたという。
きっと1191年に出来た時とは形が変わってきているのかもしれない。

問題は常陸大掾義幹(よしもと)だ。
彼は多気大掾最後の人物で、石岡ではなく屋敷は多気(つくば市北条)にあった。
前に多気太郎として大きな五輪塔を紹介した。(こちら

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ここに平重盛の墓がある理由は上の説明を読んでください。
信じる信じないはそれぞれの思いのままに!

重盛は清盛の死ぬ前に病でこの世を去った。42才だったという。

墓などは裏山にあったのでこの続きで紹介します。



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城里町 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2012/11/09 19:14

小松寺-平重盛の墓(2)

 昨日書く予定でしたが、平重盛の墓の紹介をしたいと思います。

小松寺は思ったより立派なお寺でした。
本堂は新しい感じでしたが、境内に立派な観音堂があり、古い垂れ桜が境内にもあり、桜の時期に来てみたいと思いました。
こちらの様子はまた明日にでも写真を紹介します。

今日は平重盛の墓の紹介です。

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寺の本堂と観音堂を継なぐ渡り廊下の下から裏山への道があります。

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本堂脇の苔むした道を進むところに「宝篋印塔」のような塔があります。
基本的にはこれもお墓なのだと思いますが。何かはわかりません。

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今来たところを振り返りました。やはり雰囲気は感じます。

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ここから苔むして少し歩きにくいのですが急な階段があり、山の方に登っていきます。
右手には寺の墓地があります。入口に「高野山智積院 参拝記念」の碑が建てられていました。
最初の階段上に大きな石碑が置かれていましたが、内容はよく読めませんでした。

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さらに少し次の階段を登るとそこにいくつかの梵字塔やお墓などいくつかの石の塔が並んでいました。

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小松殿(平重盛)の墓(宝篋印塔)はその右側の山の斜面にありました。
手前に柵があり、直接墓の前には行くことができませんでしたが、下からお参りするようになっています。

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ここに書かれているように、平家の滅亡時に平貞能(さだよし)が、高野山の重盛の墓を掘り出して、遺骨を持って重盛婦人を連れて、この常陸国を治めていた大掾(平)義幹(よしもと)をたよってこの地に逃げてきたという。
そしてここに重盛の墓を建て、婦人は尼(得律禅尼)となって重盛公の供養をして過ごしたと言われているのです。

そして、婦人は69歳で没し、貞能は89歳でなくなってともにこの場所に葬られたとなっています。

実際のところはどうなっているのでしょうか?
私は意外にこの話は信ぴょう性があるような気がしています。

この話はいろいろと他にもあります。
逃げてきた時は貞能は重盛婦人と妹を連れて逃れてきたといいます。

実は、平貞能は、関東に逃れた時、宇都宮朝綱をたよりとしてやってきたようです。
そして源氏方に投降し、朝綱により鎌倉の頼朝に対して助命嘆願がなされたと吾妻鏡に書かれているといいます。

そして、この嘆願が認められ貞能はこの宇都宮氏の計らいで、那須塩原に妙運寺に重盛の妹の草庵を建て、ここで妹は妙雲禅尼として暮らしたといいます。
これがその後「妙運寺」という寺として、この妹の霊を祀っていると言われます。

そして重盛婦人はこの場所で暮らしたのでしょう。そして小松寺として祀られているようです。

さて貞能自身ですが、ここに墓があるのですが、よくわかりません。栃木県益子にある浄土宗の「案善寺」はこの平貞能が建立したと伝えられています。

その他、東北地方に落ち延びていったという説が強く残っており、仙台にある「定義(じょうげ)如来西方寺」に平貞能公御廟と言われるものがあります。
この寺には平貞能が安置したという阿弥陀如来を祀っているそうです。

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周りは山で日差しが遮られてしまい、かなり薄暗いので、写真は手ブレしてアップに耐えられないですがご勘弁ください。

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現地の説明によれば、一番高いところにある右側の宝篋印塔が重盛の墓。 
その左側の写真真ん中あたりにくさに隠れた宝篋印塔が重盛婦人得律禅尼の墓。そ
の左側の頭部が丸い墓が平貞能の墓ということになるのでしょうか。

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この平貞能の平家物語で「都落ち(東国に)」として物語に登場します。
しかし、重盛の遺骨は高野山に納めたとの話もありますが、遺骨を首にかけて東国に逃げてきたというのは信ぴょう性があるように思います。

この寺については明日もう少し続きます。

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城里町 | コメント(0) | トラックバック(1) | 2012/11/11 18:30

小松寺-平重盛の墓(3)

 平重盛の墓と言われる宝篋印塔がある小松寺の紹介の3回目です。

ここに重盛の遺骨を運んできたと言われる「平貞能(さだよし)」は伊賀国出身の平家家人で、重盛の次男資盛(すけもり)の補佐役を任されたという。
そして、筑前守・肥後守などを歴任し、九州にその勢力範囲を持っていたと思われるが、その後大宰府が襲われ貞能は、この鎮圧に出かけるが、食料調達にも苦労する有様で都に戻っている。

このため、都を追われて、平家が西に落ち延びる時に、この貞能(さだよし)は西に行っても頼れるものがいないことを知っており、たいそう嘆いたとも言う。

平家の仲間がみな西国に逃げ出したとき、貞能は高野山に登り、重盛の墓を掘り起こし、遺骨だけを取り出し、周りの土は鴨川に流したという。もうこの時に貞能は出家していたのかもしれません。

関東に逃げてきたのは1185年の壇ノ浦戦いのあとでしょうか。当時関東の常陸国は平氏の常陸大掾(だいじょう)氏が治めていました。

多気大掾氏はつくば市北条に拠点を持っていましたが、八田知家(小田氏)の換言で鎌倉に呼び出されて滅びたのは1193年のことです。

この間に約8年あることになります。

平貞能にしてみれば、平家は元々常陸国にやってきた高望王とその子平国香(くにか)から分かれて伊勢にいったものであるから、ここ常陸の平氏(大掾氏)を頼ってやってきたことは大いに考えられるのである。

源頼朝へのとりなしは宇都宮氏を介して行ったようなので、逃げてきた当初はこのあたりに匿われていたものというのは信ぴょう性がありそうです。

もしそうなら、この寺も墓もあまり知られていないが何故なのだろう?

墓の説明は前回やりましたので、あまりくどくど書いてもしょうがないので、今日は境内にある立派な「観音堂」を中心に紹介します。

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(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)

正面がその観音堂です。
これはかなり立派なものです。一見の価値はあります。
しだれ桜が屋根ととても調和して美しいです。
左手は本堂です。本道の正面に前に書いた唐門があります。(写真の右手前)

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(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)

観音堂です。城里町文化財に指定されています。 現地の説明看板の内容を下記します。

「建久5年(1194)に建立されたと伝えられている。 
堂の面積は29.7m2、屋根は入母屋造りで銅板葺きであるが、創建当時は柿葺きである。
その尾垂小尻には龍が彫刻されている。
内陣の来迎柱には、登龍の彫刻がされていて壁画は唐獅子が描かれ、格天井の絵は草花で統一されている。
本尊は、十一面観音像(町指定文化財)が安置されている。 (城里町教育委員会)」

「柿葺き」は「こけらふき」です。柿とは関係なく薄い板を積み重ねた屋根の葺き方だそうです。

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かなり立派ですね。ただ、1194年に建てられた時はどのような姿だったのかはわかりません。
きっともう少し後に建て直されたのではないかというように感じました。

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(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)


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(サムネルです。クリックで大きな写真を表示します)


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観音堂は本堂からこの渡り廊下を使って行き来できます。
この廊下のしたをくぐって重盛公の墓へ行くことができます。

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毘沙門天がここにあるんですね。
佐竹七福神の一つのようです。
何故平家の寺に佐竹という源氏の血筋の名前と関係が?

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境内です。左が本堂です。 正面は観音堂。 
しだれ桜がありますが、この近くに水戸黄門(光圀)が寄進した桜があったようですが、枯れてしまったのでしょうか。
今度は春に一度来てみたいと思います。

平家滅亡後、源氏一辺倒になった時にこの重盛の墓などもこのような山里にひっそりとあったとしても不思議ではないのかもしれません。

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城里町 | コメント(2) | トラックバック(1) | 2012/11/12 19:07

蒼泉寺

 昨日の長倉宿(常陸大宮市)の記事の続きになります。

この御前山の那珂川を挟んだ対岸側の山に「長倉城」があった。

鎌倉時代末期の1317年頃に佐竹氏7代佐竹行義の次男である佐竹義綱(義継?)がこの地を得て、この山に築城し長倉氏を名乗ったのに始まるとされる。

長倉3代の長倉義景(常陸介)の代に本家佐竹氏に男児がなく、このため室町時代の守護大名(関東管領)であった山内上杉家(上野・伊豆守護)から養子を迎えようとしたことにこの長倉氏は山入氏とともに反発し1407年、長倉城に立て籠もり交戦したが、城を囲まれて、1408年に城を開けて降伏した。(山入一揆)

その後も、上杉禅秀の乱などが起こりが起こり、鎌倉公方(足利持家)と室町幕府側の争いでは、幕府側について公方側により城を囲まれ(約6000名が城を囲って攻めたともいわれる)大合戦となった。
しかし、この城はたいそう堅固で、そこに籠った長倉義景の子義成を攻め落とすことができなかったという。
最後は1435年に城の包囲を一部解き、長倉義成も城を開放して軍門に下ったとされています。
この顛末を記した「長倉追罰記」にはこの時に集まった諸州の軍旗が120以上書かれていて、軍旗の資料として大変重要だといいます。

長倉城

上の写真の「長倉城跡」は北側と東側が大沢川からの崖となっており、こちら側からは攻めることができなかったようです。

その麓にここに長倉氏がいたときには「蒼泉寺」ではなく「善慶寺」があったようです。
この善慶寺は長倉氏が石岡市柿岡に移った時に、一緒に柿岡に移動したようです。
柿岡の善慶寺は明日紹介します。

石岡に住んでいるので善慶寺を先に紹介すればいいのですが、流れを知らないと今の柿岡もよくわからないのです。

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蒼泉寺(そうせんじ)入口の総門です。

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(写真はサムネルです)

このお寺も紅葉が綺麗なお寺です。

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奥に続く寺の入口にもう一つ門(山門)があります。

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寺の本堂です。
「曹洞宗 南嶽山 蒼泉寺」禅寺です。
本尊は聖観世音菩薩坐像(寛文五年-西暦1665年)だといいます。
寺の説明書きには「長倉城主十四代佐竹義興公(長倉遠江守)が曹洞宗善慶寺(現在の石岡市柿岡)の跡地に、慶長元年(1596)に創建」と書かれています。

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(写真はサムネルです)

こちらは「薬師堂」です。
この寺も末寺を13持つ大きな寺院だったそうです。
1806年に火災で寺を消失し、1811年に再建したそうです。
現在残るのはこの時のものですので200年くらい前の建物です。

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寺本堂入口の真ん中の紋は佐竹氏の「扇に月」の家紋であう。

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本堂と薬師堂の屋根が重なってしまい、このような逃げがあります。

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本堂庫裏へはこのような唐門様式の入口が造られています。
いつごろ作られたものかはわかりません。

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この寺には栃木県喜連川に1775年に生まれた南画家「津村雨林」の絵画が数多く残されている。
板戸に書かれたもの22点、格天井の絵が122点ある。貴重なものだと思う。

(蒼泉寺と長倉城の位置は国土地理院の地図で → こちら

城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2012/11/30 19:02

小松寺の桜

 桜もあっという間に散ってしまいそうなので、昨日奥久慈の方に出かける用事が有り、どこによっていこうかを考えた。
候補に挙がったのが額田の「阿弥陀寺」と城里町の「小松寺」だった。

両方を回ると時間が足りないと思い、私が選んだのは「小松寺」だ。

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(サムネルです)

この平重盛の墓がある小松寺。
重盛が小松様と呼ばれていたので小松寺となった。
入り口に大きなしだれ桜がある。

でも期待を少し裏切ってしまった。もう少し華やかに咲いていると思ったが、遅かったのか?

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そこで、上の寺の方に登ってみた。
これは見事な桜と観音堂の組み合わせだ。
思わず、すごい!なんて・・・(独り言)

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(サムネルです)

それにしても綺麗なお寺だ。あまり知られていないのがもったいない。

寺の紹介は(その1)(その2)(その3)で書いています。

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城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2013/04/05 19:52

那賀鹿島神社

 栃木県馬頭の先から水戸に流れる大きな川「那珂川」がある。

川はかなり大きな川で流れはところどころ大きく蛇行して流れており、「なか」というのは蛇のことだとか龍のことだなどと言う人もいます。

御前山でこの那珂川にかかる那珂川大橋(桂大橋)(まえに御前山まんじゅうを買った(記事はこちら))を渡りそのまま北上すると「緒川」という街に出る。

この町に入る手前に「鹿島神社」と書かれた神社が通り沿いにある。
何度か通りすぎていたのだが、少し気になって車を停めて見て来た。

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通り沿いに赤い鳥居が目につく。横にはこの地域の公民館らしき建物が建っている。
神社の入口には大きな看板で「村社・鹿島神社」と書かれている。

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鹿島神社と言うのはこの辺りにもたくさんあり、珍しいものでもないが、村社とあり、その奥に「常陸大宮市大宮市指定有形文化財 那賀鹿島神社本殿」という立て札が立てられていた。

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こういう神社はどのように紹介してよいかわからないので、いろいろな角度からネットを漁ったりして調べて見る。

そうするとおもしろいことが見えてきたりする。
ここは特に昔の屋敷がありそうなところでもないし、何か気にはなるが何もないのではないかと思っていた。
しかしどっこい色々隠れたものが見えてきた。

鹿島神宮を調べていたときだったのでなおさら興味が湧いてきた。
またもう少し調べて書くことになるかもしれない。

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こちらが鹿島神社本殿です。常陸大宮市(旧緒川村)の有形文化財です。

これは調べると市の観光協会のガイドでは
「平安時代に、当時の豪族である那賀太郎藤原通資が鹿島大神を崇拝して城の東方に建立した。」
と書かれていました。また別なサイトには
「江戸時代の元和6年(1620)に社殿の大造営が行われ、この時につくられた本殿四方の彫刻は、日光東照宮を造営した彫刻師によるものと伝えられています。」
と書かれていました。

どうですか、通り越して見過ごすには惜しい本殿と彫刻ですよね。

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でも調べても神社についてはこれ以上良くわかりません。

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でもこの「那賀」という地名と那賀太郎藤原・・・と言う名前がとても気になるんです。

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そこで、この那賀太郎藤原通資を調べて見ると、これが面白そうなんです。

「那賀」は「なか」と読みます。「なが」ではありません。

この那賀太郎藤原通資という人物は「藤原秀郷」(ムカデ退治で名をはせた俵藤太というよりは平将門をやっつけた方が有名か?)の子孫が久慈郡太田郷に着任し、その子の通直が那珂東郡川辺郷に住み、さらにその子、藤原通資がこの那珂郡那珂郷に住し、那珂氏(那賀氏)を名乗ったのだそうだ。その後230年間この地を支配したという。

この那賀氏の城(那賀城)がこの神社の通りの反対側の少し山の方にあったのだそうだ。(1150年頃)

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那賀城はこの家の奥の山の方でしょう。
この一帯が那賀氏が支配していた所で、この場所はその中心にあるようです。

特におもしろいと思ったのはこの「那賀」という地名なのです。
那賀氏(那珂氏)と言うのがこんな場所だったのかという驚きとともに「那珂川」というのは何処から名前がついたのだろうかという興味が湧いて来たのです。

昔の勝田とその東側一帯はいまでは「ひたちなか市」となりました。
これはその西側に「那珂町」という地域があって混同しやすいので平仮名になったのだと勝手に解釈していますが、すべて那珂川から地名が採られているように思います。

この那珂川の上流の栃木県には「那珂川町」と言うところがあります。馬頭町も合併してこの那珂川町に入りました。

それ程この「那珂」と言う地名は川の上流から下流までたくさん使われています。

でも、この名前の発祥地はこの「那賀」地域がではないかと勝手に想像してしまいました。

常陸国風土記には「粟川」と書かれています。これはやはり旧桂村の粟地方から突いた名前だと思います。

もう少しこの辺りは時間をかけて調べてみなければなりません。そのうちにまた書くことになるかもしれません。

那賀という場所が、鹿島神宮で調べていた「建借間」あたりと繋がってくるようにも感じています。



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城里町 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/10/01 19:13

粟野春慶

 那珂川は常陸国風土記では「粟川(あわがわ)」と書かれています。
そしてこの粟(あわ)と今でも地名が付いているところが旧桂村(現城里町)にあります。

常陸国府であった石岡から真直ぐ北上する(石塚街道)と城里町(旧城北町)石塚に到達しますが、ここから巨大な崖があり一気に下ってこの粟、圷(あくつ)などの地名の場所に至ります。

この場所には「阿波山上神社」「親鸞の大山草庵跡」「徳蔵寺」「大山寺」「悪路王面のある鹿島神社」など興味深い場所があります。

しかし、興味のない方には特別に見るところもない平凡な地域に違いありません。

その街道沿いに「粟野春慶」と書かれた黄色い看板がある家があり、前から気になっておりました。

街道沿いであり車を停めるスペースもないので、今まで何度も前を通りましたが何時も通過しておりました。

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そうです。「春慶」ってあの春慶塗りのことです。
でも私の知っているのは飛騨高山の春慶塗りです。

そこで少し調べてみました。

飛騨春慶、能代春慶(秋田)、粟野春慶(茨城)を日本三春慶と言っていると載っていました。
その他に各地に春慶塗りが存在しているようです。

その始まりもいろいろな説が合ってどうもどれを信じて良いかがわかりません。

しかし、この三春慶で最も古いのがここの茨城県の旧桂村の粟野春慶なのだそうです。

500年以上前の1489年(室町時代)に稲川山城主・源義明がこの地で始めたもので、御前山で採れる堅い檜を使っているのだそうです。

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18代とありますが、現在は息子さん(19代)が立派に後を継いで2人で重箱・お盆・弁当箱などを制作しているそうです。

制作している物などを展示していないかと思ったのですが作業所らしきところも閉まっておりました。
城里町のHPでは小売りの店舗卸はしていないので直接注文が多いようです。


秋田の能代春慶は秋田音頭にも歌われている秋田名物と言われていますが、こちらは約300年ほど前に始まった者のようです。また伝統工芸を継承する人がいないため、現在この継承者育成などの活動がされていると言います。

飛騨春慶はもちろん有名なようですが、始まりは1606年(慶長11年)だそうですのでやはり粟野春慶が最も古くから続いていることになります。

意外と知られていない物がありますね。



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城里町 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2014/01/21 19:59
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