天王崎の夕日
昨日霞ケ浦大橋の「道の駅たまつくり」などのことに触れた。
訪れたのは21日の日曜日の午前中で、調べてみるとこの道の駅から麻生の白帆までサイクリングツアーが行われたようだ。
霞ケ浦に沿ってサイクルロードができているようだ。
この白帆には旧麻生町町営の白帆の湯と国民宿舎「白帆荘」があり、その風光明媚と温泉が売り物です。
私も時々温泉にお邪魔をしています。
午後5時には半額になるので何時もこの時間以降ですが、昨年夏に訪れた時にこの温泉の下が天王崎公園があり、ここから霞ケ浦に沈む夕日がとても素晴らしいのです。
あまり知られていないようですので、是非紹介しておきます。

国道355線の天王崎の反対側の山側には「羽黒山公園」があり、ここは常陸大掾氏の一族行方忠幹の孫、家幹が築いた麻生城の城跡があり、ここから霞ケ浦を展望することができます。
石岡の大掾氏とは親類ですので関係が深かったといえますね。
行方忠幹の子景幹が義経に従って屋島の戦いで戦死し、4人の子供が「行方」「島崎」「麻生」「玉造」にそれぞれ所領を得て「行方四頭」と呼ばれるようになったといいます。
義経は源氏です。面白いですね。
麻生の歴史を少し調べて、白帆の湯(一番上の階が温泉で、霞ケ浦を展望できる露天風呂がついています)につかり、外へ出て霞ケ浦に沈む夕日を眺める。
とてもロマンがあります。
また、温泉の入口で売られている手作りパンも美味しかったです。
石岡ばかりではなく、少しまわりも見渡してみないと、ここ石岡の良さが見えなくなります。
これからは周辺も含めて紹介していけたらよいと思っています。
訪れたのは21日の日曜日の午前中で、調べてみるとこの道の駅から麻生の白帆までサイクリングツアーが行われたようだ。
霞ケ浦に沿ってサイクルロードができているようだ。
この白帆には旧麻生町町営の白帆の湯と国民宿舎「白帆荘」があり、その風光明媚と温泉が売り物です。
私も時々温泉にお邪魔をしています。
午後5時には半額になるので何時もこの時間以降ですが、昨年夏に訪れた時にこの温泉の下が天王崎公園があり、ここから霞ケ浦に沈む夕日がとても素晴らしいのです。
あまり知られていないようですので、是非紹介しておきます。

国道355線の天王崎の反対側の山側には「羽黒山公園」があり、ここは常陸大掾氏の一族行方忠幹の孫、家幹が築いた麻生城の城跡があり、ここから霞ケ浦を展望することができます。
石岡の大掾氏とは親類ですので関係が深かったといえますね。
行方忠幹の子景幹が義経に従って屋島の戦いで戦死し、4人の子供が「行方」「島崎」「麻生」「玉造」にそれぞれ所領を得て「行方四頭」と呼ばれるようになったといいます。
義経は源氏です。面白いですね。
麻生の歴史を少し調べて、白帆の湯(一番上の階が温泉で、霞ケ浦を展望できる露天風呂がついています)につかり、外へ出て霞ケ浦に沈む夕日を眺める。
とてもロマンがあります。
また、温泉の入口で売られている手作りパンも美味しかったです。
石岡ばかりではなく、少しまわりも見渡してみないと、ここ石岡の良さが見えなくなります。
これからは周辺も含めて紹介していけたらよいと思っています。
天王崎
行方市の霞ケ浦に少しとびだしている「天王崎」に夕日を見に行った。
茨城100景に選ばれているとても風光明美なところだ。

しかし、陸では風もほとんどなかったが、霞ケ浦湖畔にいってみると、とても波が高く、防波堤のないところは怖いくらいだ。

荒れた波の先に筑波山が浮かぶ。
波が荒れているのを見ると「国分寺の鐘伝説」を思い出す。泥棒もこの波では命が惜しくなって鐘を湖に投げ捨ててしまうのもよくわかる。


夕日がきれいで有名なところであったが、今回は期待外れ。(もう1週間以上前のこと)

両側に波消しの堤防があるが、それでも波が荒く岸に打ち寄せていた。

砂浜のあるところで夕日を撮って見たが、期待外れでした。またの機会にします。
← よろしければクリックお願いします。
茨城100景に選ばれているとても風光明美なところだ。

しかし、陸では風もほとんどなかったが、霞ケ浦湖畔にいってみると、とても波が高く、防波堤のないところは怖いくらいだ。

荒れた波の先に筑波山が浮かぶ。
波が荒れているのを見ると「国分寺の鐘伝説」を思い出す。泥棒もこの波では命が惜しくなって鐘を湖に投げ捨ててしまうのもよくわかる。


夕日がきれいで有名なところであったが、今回は期待外れ。(もう1週間以上前のこと)

両側に波消しの堤防があるが、それでも波が荒く岸に打ち寄せていた。

砂浜のあるところで夕日を撮って見たが、期待外れでした。またの機会にします。


羽黒山公園と麻生城跡
12月初めに行った行方市(なめかたし)の天王崎で夕日を撮っていたが、本当の目的はもう一つあって、このすぐ裏の山に行ってみたかったのです。
岬での夕日を程々にして、暗くならないうちにすぐ近くの羽黒山公園に登ってみました。
ここは行方四頭の麻生氏の居城があったところなのです。
昨年ブログで「羽黒」の地名として載せていたところです。
関東平家の直系である「常陸大掾(だいじょう)氏」の平清幹の三子がそれぞれ長男盛幹は吉田太郎、次男忠幹は行方次郎、三男成幹は鹿島三郎となり吉田氏・行方氏・鹿島氏となる。
この次男忠幹(行方氏始祖)の子景幹が地頭職に任じられ、行方地方で勢力を拡大し開拓していきました。
しかし、このあちこちには鹿島の神宮の領地もあり、争いも盛んに起こったようです。
この景幹には4人の息子がおり、行方氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏になっていきます。
その三男の麻生氏の居城がここにあったのです。

天王崎のすぐ陸側が小高い山となっており、ここが麻生城跡で現在は羽黒山公園になっています。
上の写真は羽黒山公園から天王崎に沈む夕日を眺めたものです。
ここからの夕日がきれいでした。

夕日が公園の紅葉を更に赤く染めていました。


ここに「麻生城跡」の碑が立っています。
「椎の大木に囲まれ、霞ケ浦を一望できる羽黒山公園は、鎌倉時代に常陸大掾氏の一族行方忠幹(ただもと)の孫、家幹(いえもと)が築いた麻生城(別称羽黒城)の跡である。忠幹の子景幹(かげもと)は、元暦元年(1184)源義経に従って、屋島の戦で戦死し、その所領は四人の子に譲与された。
長子為幹が行方(後に小高に移る)、二子高幹が島崎、三子家幹が麻生、四子幹政が玉造に城を築き、それぞれ地名を名字として、武威を振るった。
この子孫は「行方四頭」とよばれ、中世を通じて行方郡の中心勢力となった。
しかし、戦国時代になって、常陸大掾家の統制力が弱まると、同族間で抗争し、麻生城主之幹(これもと)は天正12年(1584)、同族の島崎安定に攻められ、滅亡した。
周囲の土塁、空濠などに当時の面影を残している。」(現地説明看板)
← よろしければクリックお願いします。
岬での夕日を程々にして、暗くならないうちにすぐ近くの羽黒山公園に登ってみました。
ここは行方四頭の麻生氏の居城があったところなのです。
昨年ブログで「羽黒」の地名として載せていたところです。
関東平家の直系である「常陸大掾(だいじょう)氏」の平清幹の三子がそれぞれ長男盛幹は吉田太郎、次男忠幹は行方次郎、三男成幹は鹿島三郎となり吉田氏・行方氏・鹿島氏となる。
この次男忠幹(行方氏始祖)の子景幹が地頭職に任じられ、行方地方で勢力を拡大し開拓していきました。
しかし、このあちこちには鹿島の神宮の領地もあり、争いも盛んに起こったようです。
この景幹には4人の息子がおり、行方氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏になっていきます。
その三男の麻生氏の居城がここにあったのです。

天王崎のすぐ陸側が小高い山となっており、ここが麻生城跡で現在は羽黒山公園になっています。
上の写真は羽黒山公園から天王崎に沈む夕日を眺めたものです。
ここからの夕日がきれいでした。

夕日が公園の紅葉を更に赤く染めていました。


ここに「麻生城跡」の碑が立っています。
「椎の大木に囲まれ、霞ケ浦を一望できる羽黒山公園は、鎌倉時代に常陸大掾氏の一族行方忠幹(ただもと)の孫、家幹(いえもと)が築いた麻生城(別称羽黒城)の跡である。忠幹の子景幹(かげもと)は、元暦元年(1184)源義経に従って、屋島の戦で戦死し、その所領は四人の子に譲与された。
長子為幹が行方(後に小高に移る)、二子高幹が島崎、三子家幹が麻生、四子幹政が玉造に城を築き、それぞれ地名を名字として、武威を振るった。
この子孫は「行方四頭」とよばれ、中世を通じて行方郡の中心勢力となった。
しかし、戦国時代になって、常陸大掾家の統制力が弱まると、同族間で抗争し、麻生城主之幹(これもと)は天正12年(1584)、同族の島崎安定に攻められ、滅亡した。
周囲の土塁、空濠などに当時の面影を残している。」(現地説明看板)


常安寺(行方市麻生)
今日は冬至。太陽が一番弱い時ですからこれから少しづつ明るさも増していくことでしょう。
でも急に寒くなってきました。冬はこれからですね。
カボチャは昼も晩も食べたから、後は庭の木の柚子を20個位もいできたので風呂に浮かべて楽しみます。
さて、今日は麻生城(羽黒山)の麓に麻生氏の菩提寺「常安寺」(じょうあんじ)を紹介します。
「麻生三郎常安(つねやす)が天文14年(1545)に開祖したものと伝えられる。もとは麻生城の北方の字道知にあり、那智山道知院と呼ばれ、道知幽源和尚がその第一世であった。その後、慶長4年(1599)2月、鷹庵大雛和尚が錫を麻生の地にとどめ、麻生氏の滅亡で荒廃し寺を、現在の地に再興し、太平山常安寺と改称したものである。 麻生町 」と書かています。

曹洞宗 太平山常安寺。

赤レンガ塀。 お寺に使われているのはあまり見かけません。

鐘楼。鐘の後ろの木はナギの木で市指定天然記念物です。
ナギの木は熊野信仰と結びついて神社に多い木だそうです。
← よろしければクリックお願いします。
でも急に寒くなってきました。冬はこれからですね。
カボチャは昼も晩も食べたから、後は庭の木の柚子を20個位もいできたので風呂に浮かべて楽しみます。
さて、今日は麻生城(羽黒山)の麓に麻生氏の菩提寺「常安寺」(じょうあんじ)を紹介します。
「麻生三郎常安(つねやす)が天文14年(1545)に開祖したものと伝えられる。もとは麻生城の北方の字道知にあり、那智山道知院と呼ばれ、道知幽源和尚がその第一世であった。その後、慶長4年(1599)2月、鷹庵大雛和尚が錫を麻生の地にとどめ、麻生氏の滅亡で荒廃し寺を、現在の地に再興し、太平山常安寺と改称したものである。 麻生町 」と書かています。

曹洞宗 太平山常安寺。

赤レンガ塀。 お寺に使われているのはあまり見かけません。

鐘楼。鐘の後ろの木はナギの木で市指定天然記念物です。
ナギの木は熊野信仰と結びついて神社に多い木だそうです。


水郷麻生(茨城百景)
今日はクリスマスイブですね。でもどこか石岡の街中は静かです。
行方市の旧麻生町は行方四頭の(三男)麻生氏がいたところであるが、この名前の基になったのはやはり麻が生い茂っていたのであろうか。大麻神社があるので、これは確かなことかもしれない。
大麻と言うと今ではマリファナなどの原料だというので栽培は一部のところに限られるが、昔は麻は当然大切な材料であった。
総(ふさ)の国というのはこの麻であり、徳島(阿波)からもたらされたものである。
大麻神社はまた何時か紹介するとして、今日は先日から紹介している天王崎のすぐ近くに「茨城百景水郷麻生」という碑が建っていることを紹介しておきたい。
この碑が少しわかりにくいのだが、この岬のすぐそばにある「八坂神社」の境内に置かれている。

この写真のように霞ケ浦から吹き付ける風などでかなり読みにくくなっていました。


神社の鳥居は今回の震災の影響かわからないが、少し危なっかしくなっていた。

参道の両脇は松並木となっており、海べりと言う印象が強い。
霞ケ浦も昔は海だった。

この八坂神社は慶長9年(1604)麻生藩の藩内24か村の総鎮守として祀られたという。
昔は旧暦の6月14日、15日に藩の祭典が盛大に行われ、廃藩後は、古宿、新田の両集落が中心となって「麻生祇園馬出し祭」が行なわれてきたという。いまでも7月最終の土日に祭典が行なわれており、八岐大蛇に見立てた飾り馬と須佐之男命を奉じた神輿がもみ合う神事が行なわれているそうです。

「新治の洲」から新治国(筑波山)を望む

← よろしければクリックお願いします。
行方市の旧麻生町は行方四頭の(三男)麻生氏がいたところであるが、この名前の基になったのはやはり麻が生い茂っていたのであろうか。大麻神社があるので、これは確かなことかもしれない。
大麻と言うと今ではマリファナなどの原料だというので栽培は一部のところに限られるが、昔は麻は当然大切な材料であった。
総(ふさ)の国というのはこの麻であり、徳島(阿波)からもたらされたものである。
大麻神社はまた何時か紹介するとして、今日は先日から紹介している天王崎のすぐ近くに「茨城百景水郷麻生」という碑が建っていることを紹介しておきたい。
この碑が少しわかりにくいのだが、この岬のすぐそばにある「八坂神社」の境内に置かれている。

この写真のように霞ケ浦から吹き付ける風などでかなり読みにくくなっていました。


神社の鳥居は今回の震災の影響かわからないが、少し危なっかしくなっていた。

参道の両脇は松並木となっており、海べりと言う印象が強い。
霞ケ浦も昔は海だった。

この八坂神社は慶長9年(1604)麻生藩の藩内24か村の総鎮守として祀られたという。
昔は旧暦の6月14日、15日に藩の祭典が盛大に行われ、廃藩後は、古宿、新田の両集落が中心となって「麻生祇園馬出し祭」が行なわれてきたという。いまでも7月最終の土日に祭典が行なわれており、八岐大蛇に見立てた飾り馬と須佐之男命を奉じた神輿がもみ合う神事が行なわれているそうです。

「新治の洲」から新治国(筑波山)を望む



風の搭(行方・天王崎)
今日が仕事納めでした。もう若い人からみれば十分年寄りなので、無理せず早く帰ってきました。
昔は打ち上げで、なんだかんだと少し遅くなりましたが、今日は、適当に挨拶して引き揚げました。
息子の方が今日から休みで帰ってきました。娘(2番目)とはあす東京で会います。
上の娘はイギリスなので正月は会えません。3月頃に日本に来るようなのでまた会えるでしょう。
1年がたつのは早いですね。この1年を振り返ると段々体力的なものに少し限界を感じるようになりました。
来年は、いろいろとあまり多くを欲張らずに少し整理をしたいと思います。
アクセクせずに楽しむことを工夫します。
さて、今日は前に書きだして途中だった、ネタを出します。
風の塔というと東京湾アクアラインを思い浮かべるのですが、この風の塔は行方市麻生の天王崎に立っています。
またアクアラインの設備は海中トンネンルの通気が目的ですが、ここはトイレです。
年末ももう最後だというのにすみません。こんな話題で・・・。
でも入口の壁には霞ケ浦の帆引き船の絵がタイルに描かれています。
塔には真中に螺旋階段があります。
一番上についているのは風速でも測っているのかと思いましたが、
どうやらただの帆引き船のモニュメントのようです。

風の塔。別名麻生タワー

タワーの上からの眺め。
この日は風が強く、のんびり眺めていられなかった。
名前の通り風、上の方はをまともに受ける。
この麻生の天王崎には白帆の湯という日帰り温泉施設(国民宿舎と隣接)があり、この浴室が最上階にあり風の塔からの眺めよりも良いかもしれません。
5時過ぎには500円になったように思いますので、夕日を眺めて温泉に入るのもいいでしょう。
この日は温泉には入りませんでした。
← よろしければクリックお願いします。
昔は打ち上げで、なんだかんだと少し遅くなりましたが、今日は、適当に挨拶して引き揚げました。
息子の方が今日から休みで帰ってきました。娘(2番目)とはあす東京で会います。
上の娘はイギリスなので正月は会えません。3月頃に日本に来るようなのでまた会えるでしょう。
1年がたつのは早いですね。この1年を振り返ると段々体力的なものに少し限界を感じるようになりました。
来年は、いろいろとあまり多くを欲張らずに少し整理をしたいと思います。
アクセクせずに楽しむことを工夫します。
さて、今日は前に書きだして途中だった、ネタを出します。
風の塔というと東京湾アクアラインを思い浮かべるのですが、この風の塔は行方市麻生の天王崎に立っています。
またアクアラインの設備は海中トンネンルの通気が目的ですが、ここはトイレです。
年末ももう最後だというのにすみません。こんな話題で・・・。
でも入口の壁には霞ケ浦の帆引き船の絵がタイルに描かれています。
塔には真中に螺旋階段があります。
一番上についているのは風速でも測っているのかと思いましたが、
どうやらただの帆引き船のモニュメントのようです。

風の塔。別名麻生タワー

タワーの上からの眺め。
この日は風が強く、のんびり眺めていられなかった。
名前の通り風、上の方はをまともに受ける。
この麻生の天王崎には白帆の湯という日帰り温泉施設(国民宿舎と隣接)があり、この浴室が最上階にあり風の塔からの眺めよりも良いかもしれません。
5時過ぎには500円になったように思いますので、夕日を眺めて温泉に入るのもいいでしょう。
この日は温泉には入りませんでした。


天王崎の夕日
夕方、霞ヶ浦の北岸、行方市(旧麻生町)の天王崎で夕日を眺めてきました。

(クリックで拡大します)
霞ヶ浦に少し飛び出したこの天王崎は筑波の方もよく眺めることができます。
この日は筑波山も少し霞んでいます。
常陸国風土記でも
「郡家より南へ二十里のところに、香澄(か すみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(い なみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」と侍臣におっしゃった。
この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
里の東の山にある社には、榎、槻、椿、椎、竹、箭、やますげが多く繁る。里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。
洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波(を つくは)の山が見えることから、名付けられた。」
と書かれています。
この新治の洲というのがこの天王崎辺りではないかと思われます。
霞ヶ浦湖畔では最も夕日が綺麗なところです。

(クリックで拡大します)
波は穏やかで、少し雲が多かったのですが湿度の少ない日で、夕焼けはあまり出ませんでした。
昔からこのように太陽の沈むのを見ていたのでしょうか。

(クリックで拡大します)
太陽が沈む方向(写真ではもう少し右側)に「新治、筑波」の地があります。

(クリックで拡大します)
この日は太陽の沈むのをゆっくりと眺めていました。
ここには温泉施設(白帆の湯)もありますので、今度はゆっくり来たいですね。
← よろしければクリックお願いします。

(クリックで拡大します)
霞ヶ浦に少し飛び出したこの天王崎は筑波の方もよく眺めることができます。
この日は筑波山も少し霞んでいます。
常陸国風土記でも
「郡家より南へ二十里のところに、香澄(か すみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(い なみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」と侍臣におっしゃった。
この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
里の東の山にある社には、榎、槻、椿、椎、竹、箭、やますげが多く繁る。里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。
洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波(を つくは)の山が見えることから、名付けられた。」
と書かれています。
この新治の洲というのがこの天王崎辺りではないかと思われます。
霞ヶ浦湖畔では最も夕日が綺麗なところです。

(クリックで拡大します)
波は穏やかで、少し雲が多かったのですが湿度の少ない日で、夕焼けはあまり出ませんでした。
昔からこのように太陽の沈むのを見ていたのでしょうか。

(クリックで拡大します)
太陽が沈む方向(写真ではもう少し右側)に「新治、筑波」の地があります。

(クリックで拡大します)
この日は太陽の沈むのをゆっくりと眺めていました。
ここには温泉施設(白帆の湯)もありますので、今度はゆっくり来たいですね。


麻生藩家老屋敷
行方市(旧麻生町)麻生小学校の隣に江戸時代の麻生藩家老の屋敷が残されていると聞いてやってきました。
石岡にいると麻生も大掾氏の同族であった行方四頭(行方氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)のことは繋がってくるのですが、関ヶ原以降の事は良くわかりません。
しかし、国道355線を走り麻生陣屋などという看板も見かけ、この麻生藩がどのようなところだったのか少し興味を持っていました。

ここ「麻生藩家老屋敷記念館」はきれいに整備され、復元・保存状態も良く、江戸時代の屋敷を知りたい方は是非一度見て見たらよいと思います。
場所は麻生小学校の校庭横です。
駐車場も前に設けられております。
中を見られるのは木・金・土・日及び祝祭日の9:00~16:00(無料)です。

これは家老屋敷の表門で薬医門だそうです。
建築されたのが何時のものかははっきりしていません。
手前の両側に小屋根のついた塀が作られ、高麗門に似た(高麗門なら内側に小屋根に棟がつく)ような少し変わった形式をしている。
でもこれは外側を囲う塀があったのでしょう。そして門を少し引っ込めた構造だったのだろうと想像しました。

これが麻生藩(新庄氏)家老の畑家の屋敷を復元したものです。
この屋敷は江戸末期の安政3年(1856)に火災で焼失し、翌年に再建され、明治以降も残されてきましたが、これを明治23年(1890)にかすみがうら市牛渡出身の医師福田氏が買い取り、ここで開業して保存にも努めていたという。
平成3年に 旧麻生町に寄付され、平成4年に修復整備したという。

正面玄関内

玄関の隣の家の中心の間。
三部屋あって裏庭に続いています。

勝手口の土間。竈がおかれています。

屋敷の見取り図





麻生小学校です。藩の陣屋がここに置かれていたそうです。
どこも同じですね。陣屋の跡に小学校ができる。
石岡にいると麻生も大掾氏の同族であった行方四頭(行方氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏)のことは繋がってくるのですが、関ヶ原以降の事は良くわかりません。
しかし、国道355線を走り麻生陣屋などという看板も見かけ、この麻生藩がどのようなところだったのか少し興味を持っていました。

ここ「麻生藩家老屋敷記念館」はきれいに整備され、復元・保存状態も良く、江戸時代の屋敷を知りたい方は是非一度見て見たらよいと思います。
場所は麻生小学校の校庭横です。
駐車場も前に設けられております。
中を見られるのは木・金・土・日及び祝祭日の9:00~16:00(無料)です。

これは家老屋敷の表門で薬医門だそうです。
建築されたのが何時のものかははっきりしていません。
手前の両側に小屋根のついた塀が作られ、高麗門に似た(高麗門なら内側に小屋根に棟がつく)ような少し変わった形式をしている。
でもこれは外側を囲う塀があったのでしょう。そして門を少し引っ込めた構造だったのだろうと想像しました。

これが麻生藩(新庄氏)家老の畑家の屋敷を復元したものです。
この屋敷は江戸末期の安政3年(1856)に火災で焼失し、翌年に再建され、明治以降も残されてきましたが、これを明治23年(1890)にかすみがうら市牛渡出身の医師福田氏が買い取り、ここで開業して保存にも努めていたという。
平成3年に 旧麻生町に寄付され、平成4年に修復整備したという。

正面玄関内

玄関の隣の家の中心の間。
三部屋あって裏庭に続いています。

勝手口の土間。竈がおかれています。

屋敷の見取り図





麻生小学校です。藩の陣屋がここに置かれていたそうです。
どこも同じですね。陣屋の跡に小学校ができる。
本城薬師堂(麻生)
今日は1日中雨模様。
連休だと言うのに天気が悪いと少し買い物に出かけたり、郵便局に小包を出しに行ったりするくらいでノンビリしていた。
暇でテレビのニュースやPCのニュースを見ていると気になることが結構あるものだ。
まずはTPP交渉はオバマ大統領のいる間に大筋合意したらしい。それをまだ決まらなかったと言い、今日は全国農業協同組合中央会(JA全中)への各農協から負担金(年間約80億円)制度を廃止する方針を打ち出した。
今やっている世界卓球の「JA全農」とはどんな関係がある?
また豚肉が急に高くなっていると・・・・ 子豚がPED感染で何万頭も死んでいるのが原因だと言うがタイミングがいいよね。
オバマさんは韓国に行って慰安婦の発言は沈没船で窮地に陥っている朴槿恵大統領を支えるしかなかったということなのか?
それにしても困ったものだ。70年も前の解釈が分かれる話しに乗ってしまうとは。
国のTOP同士の話にこれが議題なのか??
日本人としては気分の良いことではない。こんなことをいつまでやっているつもりなのか。
韓国の沈没船の映像がたくさん出てきてテレビで流される。これだけの時間があって、こんなに多くの人が犠牲になったてしまったのは本当に胸が痛む。
テレビではキャンスターやコメンテータおよび何とかの専門家と言われる人が「日本ではこんな対応はしない」「すぐに中に入って人の確認をする」「沈む前にもっと浅瀬に曳航する」などと韓国政府や海洋警察の無能ぶりをことさら日本と対比して話をする。
私はこのような話を聞くのは気持ちの良いものではないし、違和感を感じてしまう。本当にそんなことを伝えるのが日本のメディアの本当に仕事なのか??
他国の教訓から自らを問い直す必要が無いのか。日本では過積載はないのか?
積み荷の固定は間違いないのか。復元力が弱い船はないのか?
船の中のどの部分に多くの人が避難していたのか。またそこにはどのようなドアがあったのか。
どうして逃げられなかったのか。外圧がかかった時非常コックのような設備でドアが開けられないのか。
そのような構造に日本の船をいち早く改造する必要はないのか?
そんな報道がどうして少ないのか。救命いかだがどうして少ししか降ろされなかったのか。
どんな場合もそうだがまず避難路を確保することが一番大切なはずだ。
そのようなことをこれからの教訓に生かしたい。
それにしても靖国神社にたくさんの国会議員が参拝に訪れたと言う。こんな時期に??
国会議員の定数削減の約束はいったいどうなった?
どこかの議員が少し定数を削減してもそんなに大きな金額でないからそんなことは大きな問題ではないなどと言っているのが聞こえた。馬鹿か?こんな議員はその資格はないからさっさとやめてくれ。
金額の問題ではない。何でそんなこともわからないのか。
少なくても消費税を上げるのとはセットでやらねばならないのに。自分たちの給料は5月から元に戻る。
1人の議員がいるだけで秘書まで考えれば税金は6~7000万円ほどかかる。これは決して少ない金額ではない。
次の国政選挙が無いことをいいことに約束を守らなければもう次はない。
参議院を止めにするくらいの事をやってほしいものだ。
参議院議員は政党に属さないなら意味があるように思うが、今のままなら不要だと思う。
さて、今日は先日行方市の旧麻生の街中を散策して時に見つけた薬師堂を紹介します。
この薬師堂には本城と名前がつくのだから麻生城跡(羽黒山公園)の麓の街にある。

朱色の堂塀が特徴があるが、戦国末期の城が滅びた時の霊を祀った「行人堂」がその元になったという。
どうもこの地区はあちこちに薬師像が置かれているように思う。

下の説明にあるように、戦国末期に麻生氏の城が落城し多くの人が戦死した。
その時の麻生城主の正妻はこの城を攻めた島崎氏の妹だったという。
これは石岡の大掾氏(大掾平清幹)の妻も敵となった小川の園部氏の娘だった。
常陸大掾氏から吉田氏・行方氏・鹿島氏が出てくるが、この行方氏から行方四頭(行方氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏)に別れました。
ですから麻生氏を攻めた島崎氏も元は大掾一族なのです。
この島崎氏も最後は佐竹氏に呼び出されて殺されてしまいます。はかないですね。

今から400年以上昔のこと。そのような時からこの地でこんなお堂が護られてきたなんて不思議ですね。
← よろしければクリックお願いします。
連休だと言うのに天気が悪いと少し買い物に出かけたり、郵便局に小包を出しに行ったりするくらいでノンビリしていた。
暇でテレビのニュースやPCのニュースを見ていると気になることが結構あるものだ。
まずはTPP交渉はオバマ大統領のいる間に大筋合意したらしい。それをまだ決まらなかったと言い、今日は全国農業協同組合中央会(JA全中)への各農協から負担金(年間約80億円)制度を廃止する方針を打ち出した。
今やっている世界卓球の「JA全農」とはどんな関係がある?
また豚肉が急に高くなっていると・・・・ 子豚がPED感染で何万頭も死んでいるのが原因だと言うがタイミングがいいよね。
オバマさんは韓国に行って慰安婦の発言は沈没船で窮地に陥っている朴槿恵大統領を支えるしかなかったということなのか?
それにしても困ったものだ。70年も前の解釈が分かれる話しに乗ってしまうとは。
国のTOP同士の話にこれが議題なのか??
日本人としては気分の良いことではない。こんなことをいつまでやっているつもりなのか。
韓国の沈没船の映像がたくさん出てきてテレビで流される。これだけの時間があって、こんなに多くの人が犠牲になったてしまったのは本当に胸が痛む。
テレビではキャンスターやコメンテータおよび何とかの専門家と言われる人が「日本ではこんな対応はしない」「すぐに中に入って人の確認をする」「沈む前にもっと浅瀬に曳航する」などと韓国政府や海洋警察の無能ぶりをことさら日本と対比して話をする。
私はこのような話を聞くのは気持ちの良いものではないし、違和感を感じてしまう。本当にそんなことを伝えるのが日本のメディアの本当に仕事なのか??
他国の教訓から自らを問い直す必要が無いのか。日本では過積載はないのか?
積み荷の固定は間違いないのか。復元力が弱い船はないのか?
船の中のどの部分に多くの人が避難していたのか。またそこにはどのようなドアがあったのか。
どうして逃げられなかったのか。外圧がかかった時非常コックのような設備でドアが開けられないのか。
そのような構造に日本の船をいち早く改造する必要はないのか?
そんな報道がどうして少ないのか。救命いかだがどうして少ししか降ろされなかったのか。
どんな場合もそうだがまず避難路を確保することが一番大切なはずだ。
そのようなことをこれからの教訓に生かしたい。
それにしても靖国神社にたくさんの国会議員が参拝に訪れたと言う。こんな時期に??
国会議員の定数削減の約束はいったいどうなった?
どこかの議員が少し定数を削減してもそんなに大きな金額でないからそんなことは大きな問題ではないなどと言っているのが聞こえた。馬鹿か?こんな議員はその資格はないからさっさとやめてくれ。
金額の問題ではない。何でそんなこともわからないのか。
少なくても消費税を上げるのとはセットでやらねばならないのに。自分たちの給料は5月から元に戻る。
1人の議員がいるだけで秘書まで考えれば税金は6~7000万円ほどかかる。これは決して少ない金額ではない。
次の国政選挙が無いことをいいことに約束を守らなければもう次はない。
参議院を止めにするくらいの事をやってほしいものだ。
参議院議員は政党に属さないなら意味があるように思うが、今のままなら不要だと思う。
さて、今日は先日行方市の旧麻生の街中を散策して時に見つけた薬師堂を紹介します。
この薬師堂には本城と名前がつくのだから麻生城跡(羽黒山公園)の麓の街にある。

朱色の堂塀が特徴があるが、戦国末期の城が滅びた時の霊を祀った「行人堂」がその元になったという。
どうもこの地区はあちこちに薬師像が置かれているように思う。

下の説明にあるように、戦国末期に麻生氏の城が落城し多くの人が戦死した。
その時の麻生城主の正妻はこの城を攻めた島崎氏の妹だったという。
これは石岡の大掾氏(大掾平清幹)の妻も敵となった小川の園部氏の娘だった。
常陸大掾氏から吉田氏・行方氏・鹿島氏が出てくるが、この行方氏から行方四頭(行方氏・島崎氏・麻生氏・玉造氏)に別れました。
ですから麻生氏を攻めた島崎氏も元は大掾一族なのです。
この島崎氏も最後は佐竹氏に呼び出されて殺されてしまいます。はかないですね。

今から400年以上昔のこと。そのような時からこの地でこんなお堂が護られてきたなんて不思議ですね。


海了寺(麻生)
連休中で頭もボケてしまっているが、昼間からテレビはつまらぬことばかり。
札幌で爆発事件の被疑者の女性が逮捕され、テレビはこぞってその被疑者の過去だとか、生活の噂話、自宅まで映し出している。
でも警察からの発表は証拠となる事柄を小出しにして如何にも犯人に間違いがないとマスコミを誘導しているように見える。
これが誤認逮捕だったら警察はどのような言い訳をするのだろうか。マスコミももう少し週刊誌的な発想で被疑者を追いかけるのはやめた方がいいのではないかと思ってしまう。
起訴がされてからでもいいのではないかと思う。
そして取り調べの可視化の案が次の日に出てくる。さて今度の事件にこれが適用されるのかと思いながら内容を見て見ると何とも後ろ向きな内容でとても冤罪を防止できる代物ではないようだ。
もう少し検察、警察も反省して全てを可視化、ビデオで残す位な事を真剣に考えてもらいたい。
今回の物証を聞いているだけではとても逮捕に結び付けられるようなものはないように思う。
パソコンの遠隔操作事件もしかり。相棒の杉下右京のような鋭い推理がないものな~。
さて、昨日紹介した旧麻生町の羽黒山公園(麻生城跡)の裏手にこの海了寺があります。
国道355線沿いに寺の案内板がありましたので立寄って見ました。
水路沿いの細い道を走っていくと周りは水田が広がっています。

この水田の間の道を入ったところにこの海了寺がありました。
正面に見える門が寺の入口です。そして左手の裏山がお墓のようです。
この裏山は羽黒山と繋がっているのでしょうか。

下の説明文にあるようにここは戦国時代までの麻生氏とは関係なく、江戸時代になって摂津(大阪)の高槻にいた新庄氏が行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石(後に分散していた領地を分離して最後は1万石)を得てここ麻生に居を構え麻生藩が出来たのです。
この新庄藩主3代目(新庄直好)の時にここ海了寺を菩提寺として建立したという。

しかし、説明文に書かれたことから見ると新庄家の墓は4代目の新庄直時だけがここに葬られているのだそうです。
この直時は3代目藩主の新庄直好に子供が無く養子に入っていたのですが、高齢で実子が生まれ跡を継ぐのは実子直矩の予定でしたが直好がその後しばらくして亡くなってしまい直時が4代目となりました。
そして直矩が15歳になったので直矩が5代目藩主になりました。しかしこの直矩は17歳で急死してしまいその継嗣持いないために後継者を幕府に無断で擁立しようとして麻生藩は一時改易されてしまいました。
幕府は4代目の直時が7000石旗本となっていたのをこの麻生藩の6代目にして麻生藩が再興されたのだそうです。

寺の裏側に回ると山の方に道が続いていてそこが新庄家の墓所のようです。
その登り口に大きな五輪塔がおかれています。かなり立派なものです。
説明にあるように4代(=6代)藩主の新庄直時の五輪塔だと思われます。
その他の新庄家歴代の藩主の墓や五輪塔は東京駒込の吉祥寺にあり、みな立派な五輪塔も残されています。

坂道を登るとそこに直時の墓碑が置かれています。

ひっそりと佇む墓碑が寂しく・・・。
吉祥寺にはたくさん寄り添うようにまとまって新庄家の墓が並んでいるようです。
八百屋お七の供養塔や二宮尊徳の墓、函館五稜郭で官軍に抵抗した榎本武揚の墓などもこの駒込吉祥寺にあるそうです。
← よろしければクリックお願いします。
札幌で爆発事件の被疑者の女性が逮捕され、テレビはこぞってその被疑者の過去だとか、生活の噂話、自宅まで映し出している。
でも警察からの発表は証拠となる事柄を小出しにして如何にも犯人に間違いがないとマスコミを誘導しているように見える。
これが誤認逮捕だったら警察はどのような言い訳をするのだろうか。マスコミももう少し週刊誌的な発想で被疑者を追いかけるのはやめた方がいいのではないかと思ってしまう。
起訴がされてからでもいいのではないかと思う。
そして取り調べの可視化の案が次の日に出てくる。さて今度の事件にこれが適用されるのかと思いながら内容を見て見ると何とも後ろ向きな内容でとても冤罪を防止できる代物ではないようだ。
もう少し検察、警察も反省して全てを可視化、ビデオで残す位な事を真剣に考えてもらいたい。
今回の物証を聞いているだけではとても逮捕に結び付けられるようなものはないように思う。
パソコンの遠隔操作事件もしかり。相棒の杉下右京のような鋭い推理がないものな~。
さて、昨日紹介した旧麻生町の羽黒山公園(麻生城跡)の裏手にこの海了寺があります。
国道355線沿いに寺の案内板がありましたので立寄って見ました。
水路沿いの細い道を走っていくと周りは水田が広がっています。

この水田の間の道を入ったところにこの海了寺がありました。
正面に見える門が寺の入口です。そして左手の裏山がお墓のようです。
この裏山は羽黒山と繋がっているのでしょうか。

下の説明文にあるようにここは戦国時代までの麻生氏とは関係なく、江戸時代になって摂津(大阪)の高槻にいた新庄氏が行方、河内、新治、真壁、那珂、下野国芳賀、都賀、河内8郡内に3万石300石(後に分散していた領地を分離して最後は1万石)を得てここ麻生に居を構え麻生藩が出来たのです。
この新庄藩主3代目(新庄直好)の時にここ海了寺を菩提寺として建立したという。

しかし、説明文に書かれたことから見ると新庄家の墓は4代目の新庄直時だけがここに葬られているのだそうです。
この直時は3代目藩主の新庄直好に子供が無く養子に入っていたのですが、高齢で実子が生まれ跡を継ぐのは実子直矩の予定でしたが直好がその後しばらくして亡くなってしまい直時が4代目となりました。
そして直矩が15歳になったので直矩が5代目藩主になりました。しかしこの直矩は17歳で急死してしまいその継嗣持いないために後継者を幕府に無断で擁立しようとして麻生藩は一時改易されてしまいました。
幕府は4代目の直時が7000石旗本となっていたのをこの麻生藩の6代目にして麻生藩が再興されたのだそうです。

寺の裏側に回ると山の方に道が続いていてそこが新庄家の墓所のようです。
その登り口に大きな五輪塔がおかれています。かなり立派なものです。
説明にあるように4代(=6代)藩主の新庄直時の五輪塔だと思われます。
その他の新庄家歴代の藩主の墓や五輪塔は東京駒込の吉祥寺にあり、みな立派な五輪塔も残されています。

坂道を登るとそこに直時の墓碑が置かれています。

ひっそりと佇む墓碑が寂しく・・・。
吉祥寺にはたくさん寄り添うようにまとまって新庄家の墓が並んでいるようです。
八百屋お七の供養塔や二宮尊徳の墓、函館五稜郭で官軍に抵抗した榎本武揚の墓などもこの駒込吉祥寺にあるそうです。


香澄
常陸国風土記の行方郡のところに「香澄の郷」の説明が書かれている所がある。
郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(いなみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて
「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」
と侍臣におっしゃった。
この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
(口訳・常陸国風土記)
昨日銚子の方に出かけた時に霞ケ浦の先端部に架かる国道51号線の北利根橋の上から筑波山を眺めた。
すると筑波山の麓に霧がかかり、この風土記の文を思い出した。
これはヤマトタケルの来たとされる場所を慕って、父の景行天皇が行方郡にやってきた時の話だと思うが、こんな風景だったのかもしれない。
文章からは行方の天王崎あたりとされるが、イメージは似ているだろう。

(クリックで拡大します)
この筑波山あたりが新治の国ということになる。
当時もこんな水鳥がいたのだろうか。

(クリックで拡大します)
水辺に近づくと水鳥たちは一斉に飛び立ちました。

(クリックで拡大します)
国道51号線の北利根橋。
ここから常陸利根川となって水郷地帯を通って利根川に合流する。
郡家より南へ二十里のところに、香澄(かすみ)の里がある。
古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(いなみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、ゆっくり歩きながら国を望み、東を振り向いて
「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるやうにこの国は見えることだ」
と侍臣におっしゃった。
この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶやうになった。
(口訳・常陸国風土記)
昨日銚子の方に出かけた時に霞ケ浦の先端部に架かる国道51号線の北利根橋の上から筑波山を眺めた。
すると筑波山の麓に霧がかかり、この風土記の文を思い出した。
これはヤマトタケルの来たとされる場所を慕って、父の景行天皇が行方郡にやってきた時の話だと思うが、こんな風景だったのかもしれない。
文章からは行方の天王崎あたりとされるが、イメージは似ているだろう。

(クリックで拡大します)
この筑波山あたりが新治の国ということになる。
当時もこんな水鳥がいたのだろうか。

(クリックで拡大します)
水辺に近づくと水鳥たちは一斉に飛び立ちました。

(クリックで拡大します)
国道51号線の北利根橋。
ここから常陸利根川となって水郷地帯を通って利根川に合流する。
大麻神社(麻生)
行方市の麻生の街中に近いところに「大麻(おおあさ)神社」があります。
大麻は「たいま」とは読ませないようで「おおあさ」と読ませています。
麻は総(ふさ)と同じで千葉県東部からこの地域に徳島(阿波=粟)からやってきた種族(忌部氏)などが麻を広めていったと思われます。

通りに面して入口の鳥居があります。
この隣りは行方警察署(旧麻生警察署)です。
入口に神社の説明が書かれています。
大麻神社(おおあさじんじゃ)
「常陸国風土記」に「麻生の里、古昔、麻、渚沐(なぎさ)の涯(きし)に生ひき。
囲み、大きなる竹の如く、長さ一丈に余れり」とある。
これが即ち麻生の地名のいわれで、また、本社社名の由来と伝えられる。
御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二柱の神の他に五柱の神々を祀る。
十月の第三、土・日・月の三日間、祭典が行なわれる。
付近にある大宮貝塚は、猪・鹿・狸・鯨の骨・人骨などが、貝殻と共に出土する縄文時代の集落跡である。」
ここでも鹿島と香取の祭神がともに重要な神としてまつられている。

通りから鳥居をくぐって階段を登る。
両脇には古木がこの神社の古さを感じさせる。

伊勢神宮(皇大神宮(内宮))のお札を一般に「大麻(たいま)」というようですが、これもお祓いの時に使われる大麻(おおぬさ)の名前から来ているそうです。
きっといろいろなところでつながっているのでしょう。

行方市のHPでのこの神社の由緒などでは
「この神社は地元では「大宮様」と称され、創祀は大同元年(806)と伝えられ、祭神は武甕槌経津主命、手力男命、大宮姫命、倉稲魂命、市杵島姫命、水速女命の七柱です。
当時、蝦夷遠征の戦勝祈願のために征夷大将軍坂上田村麻呂が北関東に神社を寄進しており、近くには武甕槌命を祀る鹿島神宮や経津主命を祀る香取神宮が鎮座していたため、麻生の里にも武勇の神を祀ったものと考えられます。」
と書かれています。
あまりしっくりしませんが大同元年・二年頃にはたくさんの神社が全国に広まりました。
そして蝦夷征伐の軍神の象徴として鹿島の神を祀る神社が増えました。
また「仏教が地方へ伝播されると地域の人々の依り代である神社と結びつき神仏習合の信仰が広がりました。
麻生地方の郷社であった大麻神社の別当として神宮寺、後の東光寺(現在の医王山蓮城院)が誕生し中世まで続きました。
又、大麻神社と神宮寺は、中世当地方を支配した常陸大掾庶流麻生氏の居城である羽黒山麻生城の北東鬼門に位置し、麻生氏一族への災いを防ぐ信仰の地となっていたのでした。
江戸時代に近江国から外様の麻生藩新庄氏が入部すると、麻生地方の人々の心の拠所で郷社であった大麻神社を庇護するとともに、氏神として諏訪神社を勧請しました。また、麻生陣屋の南西裏鬼門には八坂神社を勧請して、馬の産地の特性を活かし疫病除けの馬出し祭を興し、今日まで伝統行事として受け継がれてきたのでした。」と書かれています。
常陸国風土記でも「行方の馬」としてこの地方を馬の産地として紹介しています。
「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)
そういえば香取神宮の北東にある側高神社に伝わる話として「茨城の馬を集めて(盗んで)、連れて来た時に潮の満ち引きを利用して馬を連れてきたため、追手は渡って追いかけることができなくなった」という話があったのを思い出した。
(これは浮島の話だと思ったが少し違うのかもしれない)

大麻は「たいま」とは読ませないようで「おおあさ」と読ませています。
麻は総(ふさ)と同じで千葉県東部からこの地域に徳島(阿波=粟)からやってきた種族(忌部氏)などが麻を広めていったと思われます。

通りに面して入口の鳥居があります。
この隣りは行方警察署(旧麻生警察署)です。
入口に神社の説明が書かれています。
大麻神社(おおあさじんじゃ)
「常陸国風土記」に「麻生の里、古昔、麻、渚沐(なぎさ)の涯(きし)に生ひき。
囲み、大きなる竹の如く、長さ一丈に余れり」とある。
これが即ち麻生の地名のいわれで、また、本社社名の由来と伝えられる。
御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)の二柱の神の他に五柱の神々を祀る。
十月の第三、土・日・月の三日間、祭典が行なわれる。
付近にある大宮貝塚は、猪・鹿・狸・鯨の骨・人骨などが、貝殻と共に出土する縄文時代の集落跡である。」
ここでも鹿島と香取の祭神がともに重要な神としてまつられている。

通りから鳥居をくぐって階段を登る。
両脇には古木がこの神社の古さを感じさせる。

伊勢神宮(皇大神宮(内宮))のお札を一般に「大麻(たいま)」というようですが、これもお祓いの時に使われる大麻(おおぬさ)の名前から来ているそうです。
きっといろいろなところでつながっているのでしょう。

行方市のHPでのこの神社の由緒などでは
「この神社は地元では「大宮様」と称され、創祀は大同元年(806)と伝えられ、祭神は武甕槌経津主命、手力男命、大宮姫命、倉稲魂命、市杵島姫命、水速女命の七柱です。
当時、蝦夷遠征の戦勝祈願のために征夷大将軍坂上田村麻呂が北関東に神社を寄進しており、近くには武甕槌命を祀る鹿島神宮や経津主命を祀る香取神宮が鎮座していたため、麻生の里にも武勇の神を祀ったものと考えられます。」
と書かれています。
あまりしっくりしませんが大同元年・二年頃にはたくさんの神社が全国に広まりました。
そして蝦夷征伐の軍神の象徴として鹿島の神を祀る神社が増えました。
また「仏教が地方へ伝播されると地域の人々の依り代である神社と結びつき神仏習合の信仰が広がりました。
麻生地方の郷社であった大麻神社の別当として神宮寺、後の東光寺(現在の医王山蓮城院)が誕生し中世まで続きました。
又、大麻神社と神宮寺は、中世当地方を支配した常陸大掾庶流麻生氏の居城である羽黒山麻生城の北東鬼門に位置し、麻生氏一族への災いを防ぐ信仰の地となっていたのでした。
江戸時代に近江国から外様の麻生藩新庄氏が入部すると、麻生地方の人々の心の拠所で郷社であった大麻神社を庇護するとともに、氏神として諏訪神社を勧請しました。また、麻生陣屋の南西裏鬼門には八坂神社を勧請して、馬の産地の特性を活かし疫病除けの馬出し祭を興し、今日まで伝統行事として受け継がれてきたのでした。」と書かれています。
常陸国風土記でも「行方の馬」としてこの地方を馬の産地として紹介しています。
「椎、栗、槻、檪が繁り、猪や猿が住んでゐる。野に住む馬は乗馬用になる。
飛鳥の浄御原(きよみ はら)の大宮に天の下知ろし食しし天皇(天武天皇)の御世に、郡の大生の里の建部(たけるべ)のをころの命が、この野の馬を朝廷に献上した。以来、「行方の馬」と呼ばれた。「茨城の里の馬」といふのはまちがひである。」(口訳・常陸国風土記より)
そういえば香取神宮の北東にある側高神社に伝わる話として「茨城の馬を集めて(盗んで)、連れて来た時に潮の満ち引きを利用して馬を連れてきたため、追手は渡って追いかけることができなくなった」という話があったのを思い出した。
(これは浮島の話だと思ったが少し違うのかもしれない)

行方市島並の熊野神社(1)
行方市の少し気になる神社があり、玉造から麻生方面に向かいました。
麻生の町に入る少し手前に島並地区があります。
ここも昔、島並氏が城を築いていたそうで、麻生中学校のすぐ近くの「是心院」という曹洞宗の寺のところに中世に城があったそうです。
しかしやはり佐竹氏の南方三十三館の領主を天正19年(1591年)に一挙に殺害した時に、この島並氏も滅ぼされたようです。
麻生氏や島崎氏、玉造氏などと比べるとその存在も今ではあまり知られていないようです。
さて、国道355号線を霞ケ浦沿いに麻生の町へ向かう途中、少し山側に旧道がありそこにこの熊野神社の入口があるのですが、近くに車を止める場所がありませんでしたので、少し戻って空地に車を停めました。

するとそのすぐ近くに変わった石碑がありました。
「愛世人尊旅之碑」
さて、何の石碑なのでしょうか? 調べたがわかりません。

そしてその隣りの小屋には「椀膳蔵」と書かれた額が掛けられていました。
食事のお椀や、お膳を仕舞っておく場所なのでしょうか。
すぐ近くには大里酒屋さんです。クリーニングの取り次ぎもされているようです。


その隣りも昔の名残が感じられる板壁の家が残されています。

少し古びた街並みを歩いて神社の入口に出ました。
何かこの街並みは少し何かありそうな気もする場所です。
この神社が「大六天」も祀っているとの記事もあり興味がありますが、まあこのあたりは今は深く掘りお下げずに素通りしましょう。

熊野神社(島並)

入口の石灯篭の模様も興味深いがよくわからなくなっている。
最初は金毘羅さんなどにある「波とウサギ」の模様かと思ったが、よく見るとこれは狛犬の一種か?

ここは本殿が古いということで写真もとってきたが、長くなってしまうので次回に続きを書きます。

麻生の町に入る少し手前に島並地区があります。
ここも昔、島並氏が城を築いていたそうで、麻生中学校のすぐ近くの「是心院」という曹洞宗の寺のところに中世に城があったそうです。
しかしやはり佐竹氏の南方三十三館の領主を天正19年(1591年)に一挙に殺害した時に、この島並氏も滅ぼされたようです。
麻生氏や島崎氏、玉造氏などと比べるとその存在も今ではあまり知られていないようです。
さて、国道355号線を霞ケ浦沿いに麻生の町へ向かう途中、少し山側に旧道がありそこにこの熊野神社の入口があるのですが、近くに車を止める場所がありませんでしたので、少し戻って空地に車を停めました。

するとそのすぐ近くに変わった石碑がありました。
「愛世人尊旅之碑」
さて、何の石碑なのでしょうか? 調べたがわかりません。

そしてその隣りの小屋には「椀膳蔵」と書かれた額が掛けられていました。
食事のお椀や、お膳を仕舞っておく場所なのでしょうか。
すぐ近くには大里酒屋さんです。クリーニングの取り次ぎもされているようです。


その隣りも昔の名残が感じられる板壁の家が残されています。

少し古びた街並みを歩いて神社の入口に出ました。
何かこの街並みは少し何かありそうな気もする場所です。
この神社が「大六天」も祀っているとの記事もあり興味がありますが、まあこのあたりは今は深く掘りお下げずに素通りしましょう。

熊野神社(島並)

入口の石灯篭の模様も興味深いがよくわからなくなっている。
最初は金毘羅さんなどにある「波とウサギ」の模様かと思ったが、よく見るとこれは狛犬の一種か?

ここは本殿が古いということで写真もとってきたが、長くなってしまうので次回に続きを書きます。

行方市島並の熊野神社(2)
今日はまた銚子に行っていて帰りが遅くなりました。
そろそろ花粉も気になりだしましたね。
昨日の熊野神社の続きです。
霞ケ浦の沿岸に沿った場所にあるので、昔は沿道に沿った場所から山側に少し上ったところに祀ったものであろう。
祭神はイザナギ、イザナミ、スサノオの三神である。
一般には熊野三山を祀るのだと思うが、これは前につくば市北条の熊野神社でも書いた。(こちら)
あちらはスサノオだけが祀られていた。
まだ熊野信仰というものがよくわかっていないようだ。もう少し理解を深める必要がありそうだ。

入口の鳥居をくぐると両脇に石灯篭が置かれており、赤い拝殿まで石の階段が続く。

この常夜燈なども趣がある。

それにしても拝殿も朱色だ。

創建も1394年というので室町時代ということになる。

本殿も皆朱色である。

この本殿は「万治元年(1658年)社殿を焼失、現在の社殿は翌2年に麻生藩主新庄氏の支援により竣工したものです」と書かれていました。


この絵模様は江戸時代初期の様式だと説明にはあります。面白いもようですね。


写真ばかり多くなってしまいましたので、あすにもう少し続きます。
そろそろ花粉も気になりだしましたね。
昨日の熊野神社の続きです。
霞ケ浦の沿岸に沿った場所にあるので、昔は沿道に沿った場所から山側に少し上ったところに祀ったものであろう。
祭神はイザナギ、イザナミ、スサノオの三神である。
一般には熊野三山を祀るのだと思うが、これは前につくば市北条の熊野神社でも書いた。(こちら)
あちらはスサノオだけが祀られていた。
まだ熊野信仰というものがよくわかっていないようだ。もう少し理解を深める必要がありそうだ。

入口の鳥居をくぐると両脇に石灯篭が置かれており、赤い拝殿まで石の階段が続く。

この常夜燈なども趣がある。

それにしても拝殿も朱色だ。

創建も1394年というので室町時代ということになる。

本殿も皆朱色である。

この本殿は「万治元年(1658年)社殿を焼失、現在の社殿は翌2年に麻生藩主新庄氏の支援により竣工したものです」と書かれていました。


この絵模様は江戸時代初期の様式だと説明にはあります。面白いもようですね。


写真ばかり多くなってしまいましたので、あすにもう少し続きます。
行方市島並の熊野神社(3)
熊野神社の続きです。
このブログでも時々出かけた先にあった熊野神社を紹介してきました。
しかしまだ私には良く実態はわかっていないようです。
まだ熊野古道も行ったことが無いので、行けばまた考えも変わるかもしれません。
熊野は熊野権現(十二所権現)と書かれています。神道がよくわかっていないせいでしょうか。

この神社の本殿入り口には古ぼけた狛犬が置かれていました。

どうですかこの顔。阿吽の阿型ですね。

本殿近くには如意輪観音像が。

裏山側に少し登って写真をとりました。
この方が全体の雰囲気や山の雰囲気が伝わります。

そしてこの山に「○○天」? 大六天??
そしてここにも形の崩れた狛犬がいます。

そしてこの山にはこのようなたくさんの石碑や板碑が置かれています。
このブログでも時々出かけた先にあった熊野神社を紹介してきました。
しかしまだ私には良く実態はわかっていないようです。
まだ熊野古道も行ったことが無いので、行けばまた考えも変わるかもしれません。
熊野は熊野権現(十二所権現)と書かれています。神道がよくわかっていないせいでしょうか。

この神社の本殿入り口には古ぼけた狛犬が置かれていました。

どうですかこの顔。阿吽の阿型ですね。

本殿近くには如意輪観音像が。

裏山側に少し登って写真をとりました。
この方が全体の雰囲気や山の雰囲気が伝わります。

そしてこの山に「○○天」? 大六天??
そしてここにも形の崩れた狛犬がいます。

そしてこの山にはこのようなたくさんの石碑や板碑が置かれています。
麻生港
今日は暖かかったです。暑いくらいでした。
今日一日でこのあたりの桜もずいぶん咲きました。
あっという間に満開なんてことになるかもしれません。
先日銚子に行く途中で、旧麻生町(行方市麻生)の港に行ってみました。
国道355号線で麻生の街に入ると小さな川を渡ると「湖畔の宿 湖月」の看板があり、看板に沿って湖側には行ってみました。

するとそこに「麻生港」がありました。
ここの風情もなかなか素敵です。この木も風情があります。

まぶしく空から日差しがそそいでいました。

こんな川が麻生の街の方から流れてきています。
麻生についても川瀬巴水が版画に描いています。
「麻生の夕」(昭和11年)です。

今日一日でこのあたりの桜もずいぶん咲きました。
あっという間に満開なんてことになるかもしれません。
先日銚子に行く途中で、旧麻生町(行方市麻生)の港に行ってみました。
国道355号線で麻生の街に入ると小さな川を渡ると「湖畔の宿 湖月」の看板があり、看板に沿って湖側には行ってみました。

するとそこに「麻生港」がありました。
ここの風情もなかなか素敵です。この木も風情があります。

まぶしく空から日差しがそそいでいました。

こんな川が麻生の街の方から流れてきています。
麻生についても川瀬巴水が版画に描いています。
「麻生の夕」(昭和11年)です。

麻生港と観音様
今日も霞ケ浦の湊「麻生港」とその周辺の紹介です。
麻生港にはコンクリで囲まれた船溜り(たまり)があります。
何艘かの釣り舟が停留されています。
ここ麻生では玉造とともに「観光帆引き船」が運行されるようです。
9月から12月初めまでの土日のみの運行とか・・・
(昨年の案内は→こちら)
このワカサギ漁も漁獲量がだいぶ減り、平成18年からワカサギ資源回復計画が始まり大分増えてきているといいます。
でも昭和40年頃は霞ケ浦でワカサギの漁獲量は年に2500トンもあったそうです。
今は1/10~1/20くらいでしょうか。

少し近くを散策して見ました。 すると神社がありました。


新川観音:医王山蓮城院の別院であるこの最勝院は、享保2年(1717)に創建、始め新川の河口に建立されたので「新川の観音様」の名称がある。安永8年(1779)に類焼したが、ただちに再建された。昭和4年の麻生港船溜り掘削によって現在地に移転された。航行安全、子授け、育児に霊験あらたかをもって知られ、1月10日の取子安全大護摩修業は現在でも多数の参詣者で賑わっている。(現地看板より)

お堂の中には真中の厨子には多分新川千手観音が納められているようです。
左右にはたくさんの観音さんが納められています。
百観音信仰などのものでしょうか?

神社の裏手には「熊野権現」が祀られていました。
少し霞ケ浦の漁業の歴史を見て見たいと思います。
大昔は別にして江戸時代になる頃には霞ケ浦に48津といわれる数の湊(津)がありました。
北浦にも44津があり、それぞれ組合のような組織ができ共同運営がされていました。
しかし江戸時代になり水戸藩がこの漁場を何とか自分たちの利にしたいと考えたのが御留川(おとめがわ)制度です。
この麻生と向こう岸の浮島辺りも御留川にしようとも考えたようです。
実際に御留川と制定されたのは高浜入りの狭くなった入り口部分の玉里と井関の間です(1625年)。
両岸を水戸藩が支配し、その間の湖も川と同じようにみなしてここで採れる魚介類jはすべて水戸藩に運ばれました。
この制度には他の霞ケ浦の漁師たちは反対したようです。
そして漁獲量や漁業期間の協定を結んで霞ケ浦の資源確保を図っていたといいます。
しかし、それも大徳網など発達で大きな網元が非常に大きな力を持って漁師たちを束ねて使うようになってきたようです。
この麻生と浮島の間はあまりにも広くて離れていますので御留川とするには影響も大きく無理もあったのでしょう。
こちらには御留川とはならなかったようですが、北浦の方は大分具体化された時期もあったようです。
きっとこのあたりにも大きな網元がいたのでしょうね。
玉里の御留川が発達したので水戸藩の江戸までの水運ルートも小川の方から運んだルートも発達したものと思います。
そうでなければ涸沼から鉾田経由で北浦を通って霞ケ浦~利根川の方が近いです。
まあ色々なことを考えて見ないといけませんね。
麻生港にはコンクリで囲まれた船溜り(たまり)があります。
何艘かの釣り舟が停留されています。
ここ麻生では玉造とともに「観光帆引き船」が運行されるようです。
9月から12月初めまでの土日のみの運行とか・・・
(昨年の案内は→こちら)
このワカサギ漁も漁獲量がだいぶ減り、平成18年からワカサギ資源回復計画が始まり大分増えてきているといいます。
でも昭和40年頃は霞ケ浦でワカサギの漁獲量は年に2500トンもあったそうです。
今は1/10~1/20くらいでしょうか。

少し近くを散策して見ました。 すると神社がありました。


新川観音:医王山蓮城院の別院であるこの最勝院は、享保2年(1717)に創建、始め新川の河口に建立されたので「新川の観音様」の名称がある。安永8年(1779)に類焼したが、ただちに再建された。昭和4年の麻生港船溜り掘削によって現在地に移転された。航行安全、子授け、育児に霊験あらたかをもって知られ、1月10日の取子安全大護摩修業は現在でも多数の参詣者で賑わっている。(現地看板より)

お堂の中には真中の厨子には多分新川千手観音が納められているようです。
左右にはたくさんの観音さんが納められています。
百観音信仰などのものでしょうか?

神社の裏手には「熊野権現」が祀られていました。
少し霞ケ浦の漁業の歴史を見て見たいと思います。
大昔は別にして江戸時代になる頃には霞ケ浦に48津といわれる数の湊(津)がありました。
北浦にも44津があり、それぞれ組合のような組織ができ共同運営がされていました。
しかし江戸時代になり水戸藩がこの漁場を何とか自分たちの利にしたいと考えたのが御留川(おとめがわ)制度です。
この麻生と向こう岸の浮島辺りも御留川にしようとも考えたようです。
実際に御留川と制定されたのは高浜入りの狭くなった入り口部分の玉里と井関の間です(1625年)。
両岸を水戸藩が支配し、その間の湖も川と同じようにみなしてここで採れる魚介類jはすべて水戸藩に運ばれました。
この制度には他の霞ケ浦の漁師たちは反対したようです。
そして漁獲量や漁業期間の協定を結んで霞ケ浦の資源確保を図っていたといいます。
しかし、それも大徳網など発達で大きな網元が非常に大きな力を持って漁師たちを束ねて使うようになってきたようです。
この麻生と浮島の間はあまりにも広くて離れていますので御留川とするには影響も大きく無理もあったのでしょう。
こちらには御留川とはならなかったようですが、北浦の方は大分具体化された時期もあったようです。
きっとこのあたりにも大きな網元がいたのでしょうね。
玉里の御留川が発達したので水戸藩の江戸までの水運ルートも小川の方から運んだルートも発達したものと思います。
そうでなければ涸沼から鉾田経由で北浦を通って霞ケ浦~利根川の方が近いです。
まあ色々なことを考えて見ないといけませんね。
天王崎の夕日
牛堀から霞ケ浦の北岸沿いに西に向かって走っていると夕日が真正面から目に飛び込んでくる。
この時間帯は日の沈む速度が急に速くなるような気がするが、地平線近くなると対象物があるので早く感じるだけだろう。
霞ケ浦で夕日の名所と言えば麻生の天王崎だろう。
時刻は夕方6時半少し前、まだ夕日が見られそうなので「あそう温泉白帆の湯」の看板のところの信号で曲った。
天王崎の公園は一つ先だがこちらから土手に登って公園側に行った。

正にもうすぐ太陽が沈みます。

段々紅くなるようです。

この夕日を眺めているとちっぽけなことは忘れて明日への希望を願う気持ちになれそうです。

多少風があり浪がうねっております。
そうつまらないことなど考えるなと・・・・

地平線に雲がないというのは久しぶりのように感じました。
この時間帯は日の沈む速度が急に速くなるような気がするが、地平線近くなると対象物があるので早く感じるだけだろう。
霞ケ浦で夕日の名所と言えば麻生の天王崎だろう。
時刻は夕方6時半少し前、まだ夕日が見られそうなので「あそう温泉白帆の湯」の看板のところの信号で曲った。
天王崎の公園は一つ先だがこちらから土手に登って公園側に行った。

正にもうすぐ太陽が沈みます。

段々紅くなるようです。

この夕日を眺めているとちっぽけなことは忘れて明日への希望を願う気持ちになれそうです。

多少風があり浪がうねっております。
そうつまらないことなど考えるなと・・・・

地平線に雲がないというのは久しぶりのように感じました。
一乗寺(麻生)
霞ケ浦の北側の国道355号線を板子に向かって走っていると、行方市の旧麻生町の街を過ぎてしばらく行った左側に「吉崎美術館」という案内看板がある。
この美術館は昨年3月にオープンした画家吉崎氏個人が自分や仲間の絵などを無料で展示しているユニークな美術館なようだが、その曲がり角の道のすぐ先の突き当りにこの「一乗寺」がある。
どうやら日蓮宗の寺のようだ。

入口の古びた山門の横に旧麻生町が設置した説明板があった。
「一乗寺:
かつて、この地方には天台宗の寺が三つあった。延寿院、多宝院、観照院がそれである。
元禄十二年(1699)水戸藩主徳川光圀は、この三か寺を廃して延寿院跡に一寺を建立、無二亦山(むにやくさん)一乗寺とし、築地妙光寺二十一世の日孝上人を迎えて初祖とした。
境内には、寛政六年(1794)に立原翠軒(たちはらすいけん)が記した「一乗精舎記」の石碑がある。
寺宝としては、当地出身の画人羽生南萍(なんぺい)の武者絵がある。 麻生町 」
少し説明を読んで奇妙な気がした。
元々あったという3寺は天台宗。それを壊して1つ新しい寺を作った。それが今の寺なら日蓮宗のようだ。
どういうことか・・・
またここに築地妙光寺とあるからてっきり江戸の築地かと思ったがどうやら潮来に築地という地名(大生の少し南側)があり、そこの日蓮宗の妙光寺から二十一世の日孝上人を連れてきて住職としたと思われます。
立原翠軒は水戸藩士で学者。
どう関係しているのかは少し調べただけではわかりませんでした。
一乗寺の初祖・日孝上人は、元禄13年(1700)2月、法華の守護神を、羽黒山上に祀り、七面大明神と称したという。
どうやらこれは羽黒神社があるのでまたこちらもあとで見ておこう。

本堂です。

本堂前には日蓮さんですから「南妙法蓮華経」と書かれているのでしょうか? どなたが書かれた物なのか? 初祖・日孝上人?

この本堂も裏から少し上に山を少し登って見ると、正面から見るよりはかなり大きいです。

本堂手前の右手に一つの堂宇がありました。
この手前の右側に「道祖神」の石碑があり、左手に下の写真のような石碑があります。

左側にあるのが「奉侍二十三夜大育天王」?? の石碑(よく読めません)。 その横側には右のような文字が彫られています。
これはもう少し調べねばわからないが・・・・
今日は調べる気力がない。
ここには市指定文化財の「木造釈迦如来坐像」がある。
この木造釈迦如来坐像は、像高54.2センチメートル。南北朝~室町時代の作だという。
少し面白そうだがなかなかわからないので羽黒神社や潮来の妙光寺辺りも調べれば何か出てきそうだ。
この美術館は昨年3月にオープンした画家吉崎氏個人が自分や仲間の絵などを無料で展示しているユニークな美術館なようだが、その曲がり角の道のすぐ先の突き当りにこの「一乗寺」がある。
どうやら日蓮宗の寺のようだ。

入口の古びた山門の横に旧麻生町が設置した説明板があった。
「一乗寺:
かつて、この地方には天台宗の寺が三つあった。延寿院、多宝院、観照院がそれである。
元禄十二年(1699)水戸藩主徳川光圀は、この三か寺を廃して延寿院跡に一寺を建立、無二亦山(むにやくさん)一乗寺とし、築地妙光寺二十一世の日孝上人を迎えて初祖とした。
境内には、寛政六年(1794)に立原翠軒(たちはらすいけん)が記した「一乗精舎記」の石碑がある。
寺宝としては、当地出身の画人羽生南萍(なんぺい)の武者絵がある。 麻生町 」
少し説明を読んで奇妙な気がした。
元々あったという3寺は天台宗。それを壊して1つ新しい寺を作った。それが今の寺なら日蓮宗のようだ。
どういうことか・・・
またここに築地妙光寺とあるからてっきり江戸の築地かと思ったがどうやら潮来に築地という地名(大生の少し南側)があり、そこの日蓮宗の妙光寺から二十一世の日孝上人を連れてきて住職としたと思われます。
立原翠軒は水戸藩士で学者。
どう関係しているのかは少し調べただけではわかりませんでした。
一乗寺の初祖・日孝上人は、元禄13年(1700)2月、法華の守護神を、羽黒山上に祀り、七面大明神と称したという。
どうやらこれは羽黒神社があるのでまたこちらもあとで見ておこう。

本堂です。

本堂前には日蓮さんですから「南妙法蓮華経」と書かれているのでしょうか? どなたが書かれた物なのか? 初祖・日孝上人?

この本堂も裏から少し上に山を少し登って見ると、正面から見るよりはかなり大きいです。

本堂手前の右手に一つの堂宇がありました。
この手前の右側に「道祖神」の石碑があり、左手に下の写真のような石碑があります。


左側にあるのが「奉侍二十三夜大育天王」?? の石碑(よく読めません)。 その横側には右のような文字が彫られています。
これはもう少し調べねばわからないが・・・・
今日は調べる気力がない。
ここには市指定文化財の「木造釈迦如来坐像」がある。
この木造釈迦如来坐像は、像高54.2センチメートル。南北朝~室町時代の作だという。
少し面白そうだがなかなかわからないので羽黒神社や潮来の妙光寺辺りも調べれば何か出てきそうだ。
アサザが咲きました。
霞ケ浦で生育しているアササザも今ではかなり貴重なものになっているようだ。
今このアサザが咲いている。

黄色い可憐な花が一面に咲いている。
とてもきれいだ。

この姿を見ると確かに大切に保護しなければ絶滅してしまいそうだ。
波除けの堤防を設けているのは、その保護が目的だろう。


場所は麻生港(行方市)の船溜りブロックの隣り。

人がいても鷺が舞い飛ぶ穏やかな港だ。
今このアサザが咲いている。

黄色い可憐な花が一面に咲いている。
とてもきれいだ。

この姿を見ると確かに大切に保護しなければ絶滅してしまいそうだ。
波除けの堤防を設けているのは、その保護が目的だろう。


場所は麻生港(行方市)の船溜りブロックの隣り。

人がいても鷺が舞い飛ぶ穏やかな港だ。