あゝ石岡駅(1)
このブログもはじめてからようやく3ヶ月が経過した。
毎日続けて書くこともかなり大変なものだ。
もともとビジネス文書以外には書くこともあまりなかった。
こうして始めたからにはもう少し続けていきたいな~・・・・??
今日からは「石岡駅」について知られているようで知られていないことなどを少し書いてみたい。
「汽笛一声新橋を…」と歌にも歌われている通り新橋(現汐留駅)が完成したのは明治5年でした。
そして鉄道は瞬く間に全国に広がっていきました。
明治18年11月に東北本線(日本鉄道)が大宮-宇都宮間で開通しました。
これにあわせて、水戸-小山間に水戸鉄道が明治20年に開通します。
しかし、常磐線は、常磐炭鉱の石炭を東京の方に運ぶ必要がありましたが、建設が遅れます。
友部-土浦間の開通が明治28年。土浦-田端間が明治29年12月に開通しました。
記録によると恋瀬川を渡る橋と湿地帯の通過の工事が難航したようです。
最初は少し高くなった山側はトンネルを掘る計画だったようですが、切りとおしとし、削り取った土を湿地帯に埋めたといわれています。工事の写真が「石岡の歴史」などに載っています。
石岡駅は山王川ぞいの低地に作られました。それと同時に「大小路新道」を作り、駅に荷馬車で荷物を運びやすくしたのです。
土浦線は海岸線と名前を変更し、その後日本鉄道として国有化となりました。
さて、正岡子規が水戸への旅の途中、石岡の万屋旅館に泊まったのは、明治22年の春です。
水戸まで歩き、帰りは水戸線の列車で帰ります。
万屋さんはふるさと文庫「水戸紀行」によればピノキオというおもちゃ屋さんだというし、今泉さんのブログでは「カギヤ」さんのところでむかし玩具の店だったとあります。
市にも看板くらい出してほしいといっているがまだ実現されないようだ。
呑気なものだ・・・・。
看板を出すなら、地元新聞や大手の新聞にも連絡して、除幕式でもやってほしいものだ。
土浦の旧真鍋公園場所には霞ケ浦を眺めて読んだ歌碑ができ、きちんと除幕式も行われた。
仕事とはこういうものだ。
教育委員会が看板を出して終わりではない。
正岡子規となれば知名度は抜群だ。全国に歌の会があり、会員の数はものすごい。
先日風土記の丘にも歌の会の人が観光バスで来ていた。
知られていればきっといってみたいと思うに違いない。
今日は時間がないので続きは明日に・・・。
毎日続けて書くこともかなり大変なものだ。
もともとビジネス文書以外には書くこともあまりなかった。
こうして始めたからにはもう少し続けていきたいな~・・・・??
今日からは「石岡駅」について知られているようで知られていないことなどを少し書いてみたい。
「汽笛一声新橋を…」と歌にも歌われている通り新橋(現汐留駅)が完成したのは明治5年でした。
そして鉄道は瞬く間に全国に広がっていきました。
明治18年11月に東北本線(日本鉄道)が大宮-宇都宮間で開通しました。
これにあわせて、水戸-小山間に水戸鉄道が明治20年に開通します。
しかし、常磐線は、常磐炭鉱の石炭を東京の方に運ぶ必要がありましたが、建設が遅れます。
友部-土浦間の開通が明治28年。土浦-田端間が明治29年12月に開通しました。
記録によると恋瀬川を渡る橋と湿地帯の通過の工事が難航したようです。
最初は少し高くなった山側はトンネルを掘る計画だったようですが、切りとおしとし、削り取った土を湿地帯に埋めたといわれています。工事の写真が「石岡の歴史」などに載っています。
石岡駅は山王川ぞいの低地に作られました。それと同時に「大小路新道」を作り、駅に荷馬車で荷物を運びやすくしたのです。
土浦線は海岸線と名前を変更し、その後日本鉄道として国有化となりました。
さて、正岡子規が水戸への旅の途中、石岡の万屋旅館に泊まったのは、明治22年の春です。
水戸まで歩き、帰りは水戸線の列車で帰ります。
万屋さんはふるさと文庫「水戸紀行」によればピノキオというおもちゃ屋さんだというし、今泉さんのブログでは「カギヤ」さんのところでむかし玩具の店だったとあります。
市にも看板くらい出してほしいといっているがまだ実現されないようだ。
呑気なものだ・・・・。
看板を出すなら、地元新聞や大手の新聞にも連絡して、除幕式でもやってほしいものだ。
土浦の旧真鍋公園場所には霞ケ浦を眺めて読んだ歌碑ができ、きちんと除幕式も行われた。
仕事とはこういうものだ。
教育委員会が看板を出して終わりではない。
正岡子規となれば知名度は抜群だ。全国に歌の会があり、会員の数はものすごい。
先日風土記の丘にも歌の会の人が観光バスで来ていた。
知られていればきっといってみたいと思うに違いない。
今日は時間がないので続きは明日に・・・。
あゝ石岡駅(2)
一昨日の石岡駅にまつわる話で書いた正岡子規の泊まった万屋旅館さんの
場所についてご連絡いただきほぼ特定できたこと感謝。
これも鍵屋さんの玩具部門がピノキオとなったのと、この場所が変わって今の
ピノキオトーイさんの場所に移ったなんてまったく想像しませんでした。
ネットはやはり情報にはすごい威力を発揮します。
市の方で特定して句碑を立ててください。
万屋を出て水戸へ向かう子規は筑波山を見て句を詠んでいます。
・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體
一緒に載せていただきたいものです。「坂の上の雲」のテレビ放映がチャンス。
今日は石岡駅の昔の時刻表を載せておきます。
明治28年に石岡駅が開設され、6年後の明治34年発行の「石岡繁昌記」に載っていました。

思ったより本数が多い気がしますね。上下1日6本ずつです。

走っていたのは今はなつかしいSL(蒸気機関車)です。
時間も上野まで3時間くらいかかっていたようです。
石岡駅は現在橋上駅にする計画が進んでいます。
予定は2014年完成。30億円以上かかるそうです。また市の負担も・・・。
勝田、友部が先に橋上駅となり、特急がとまる駅としてはただ1つとり残されてしまいました。
乗降客は減る一方で20~30年前は1万人はいた客数が今では6000人以下。
このままでは計画のみで終わってしまわないかと心配です。
市民も巻き込んでの活動を推進すべきですね。
続きはまた明日。
場所についてご連絡いただきほぼ特定できたこと感謝。
これも鍵屋さんの玩具部門がピノキオとなったのと、この場所が変わって今の
ピノキオトーイさんの場所に移ったなんてまったく想像しませんでした。
ネットはやはり情報にはすごい威力を発揮します。
市の方で特定して句碑を立ててください。
万屋を出て水戸へ向かう子規は筑波山を見て句を詠んでいます。
・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體
一緒に載せていただきたいものです。「坂の上の雲」のテレビ放映がチャンス。
今日は石岡駅の昔の時刻表を載せておきます。
明治28年に石岡駅が開設され、6年後の明治34年発行の「石岡繁昌記」に載っていました。

思ったより本数が多い気がしますね。上下1日6本ずつです。

走っていたのは今はなつかしいSL(蒸気機関車)です。
時間も上野まで3時間くらいかかっていたようです。
石岡駅は現在橋上駅にする計画が進んでいます。
予定は2014年完成。30億円以上かかるそうです。また市の負担も・・・。
勝田、友部が先に橋上駅となり、特急がとまる駅としてはただ1つとり残されてしまいました。
乗降客は減る一方で20~30年前は1万人はいた客数が今では6000人以下。
このままでは計画のみで終わってしまわないかと心配です。
市民も巻き込んでの活動を推進すべきですね。
続きはまた明日。
あゝ石岡駅(3)
今日母をしばらくこちらで預かることになり、東京へ迎えに車で行ってきました。
ここ2・3日で紅葉が始まっています。桜などは葉が散り始めていました。
イチョウ並木も黄色くすっかり色づいた木や、まだ緑の木など様々です。
やはり時はまちがいなくやってきてまた去っていきます。
今日最終公演の「ことば座」(難台山城 落城哀歌」に少し遅れて行ってきました。
初日に比べすっかり息が合ってきています。
耳が聞こえない舞姫がリズムを取るのはかなり難しいだろうと思わされます。
でも、もうすっかりプロですね。
堂々とこの片田舎を脱出して羽ばたき始めるのも時間の問題だと思います。
「ふる里は物語の降る里」でもあります。しかし、いつまでも・・・。
来年2月には美浦村の陸平貝塚の会館で公演するそうです。
今日は横浜にいる娘も観劇させていただきました。とても好評でした。
母も小林さんは「耳が聞こえると思っていた」と驚いたようでした。
これからのご活躍を祈念しています。
さて、今日は石岡駅の改札の上にかかげてある額についてです。
右から「石岡駅」と書かれており、少し暗い上の壁に架かっているので
目立たない存在です。
私もある期間は毎日通っていましたが、気が付きませんでした。

この写真も暗い画像をやっと修正してUPしたものです。
これを書いたのは徳富蘇峰という人です。蘇峰の書から作られた扁額です。
蘇峰は徳富蘆花の兄にあたる人で、新聞社や政界にも大きな力を及ぼした人です。
アジアの解放を訴えて日本が侵略戦争に進む言論側の中心人物ともいわれ、現在では
その評価は分かれています。
戦後の昭和32年に94歳で亡くなるまで日本のジャーナリストとして偉大な足跡を残しました。
また徳富蘆花とは長いこと絶縁し、最後には和解したとも言われています。
しかし、当時日本が発展していくために大きな役割を果たした人なのです。
晩年は穏やかな人間的な面があらわれ、批判する人に反論するようなこともなく、偉大な
文人であることだけは確かです。
石岡駅に掲げられたのが何時なのか?
何時書かれたものなのか? わかりません。
しかし、石岡が明治後期から大正・昭和にかけてはかなりの大きな商都として力を持っていた
証しなのかもしれません。
文人「蘇峰」の名声は当時は大変なものだったと思われます。
今度駅を新しくする時には、是非説明をつけて皆が見れるように展示してほしいと思います。
ここ2・3日で紅葉が始まっています。桜などは葉が散り始めていました。
イチョウ並木も黄色くすっかり色づいた木や、まだ緑の木など様々です。
やはり時はまちがいなくやってきてまた去っていきます。
今日最終公演の「ことば座」(難台山城 落城哀歌」に少し遅れて行ってきました。
初日に比べすっかり息が合ってきています。
耳が聞こえない舞姫がリズムを取るのはかなり難しいだろうと思わされます。
でも、もうすっかりプロですね。
堂々とこの片田舎を脱出して羽ばたき始めるのも時間の問題だと思います。
「ふる里は物語の降る里」でもあります。しかし、いつまでも・・・。
来年2月には美浦村の陸平貝塚の会館で公演するそうです。
今日は横浜にいる娘も観劇させていただきました。とても好評でした。
母も小林さんは「耳が聞こえると思っていた」と驚いたようでした。
これからのご活躍を祈念しています。
さて、今日は石岡駅の改札の上にかかげてある額についてです。
右から「石岡駅」と書かれており、少し暗い上の壁に架かっているので
目立たない存在です。
私もある期間は毎日通っていましたが、気が付きませんでした。

この写真も暗い画像をやっと修正してUPしたものです。
これを書いたのは徳富蘇峰という人です。蘇峰の書から作られた扁額です。
蘇峰は徳富蘆花の兄にあたる人で、新聞社や政界にも大きな力を及ぼした人です。
アジアの解放を訴えて日本が侵略戦争に進む言論側の中心人物ともいわれ、現在では
その評価は分かれています。
戦後の昭和32年に94歳で亡くなるまで日本のジャーナリストとして偉大な足跡を残しました。
また徳富蘆花とは長いこと絶縁し、最後には和解したとも言われています。
しかし、当時日本が発展していくために大きな役割を果たした人なのです。
晩年は穏やかな人間的な面があらわれ、批判する人に反論するようなこともなく、偉大な
文人であることだけは確かです。
石岡駅に掲げられたのが何時なのか?
何時書かれたものなのか? わかりません。
しかし、石岡が明治後期から大正・昭和にかけてはかなりの大きな商都として力を持っていた
証しなのかもしれません。
文人「蘇峰」の名声は当時は大変なものだったと思われます。
今度駅を新しくする時には、是非説明をつけて皆が見れるように展示してほしいと思います。
あゝ石岡駅(4)
今日は石岡駅前に大きくかかげられている「茨城県名発祥のまち」の看板についてです。
駅の正面から見ると大きな看板ですので一度は目にされていることでしょう。

さて、私もこちらに来て最初の頃にこの看板を見て、ネットで探してバラキ(茨城)台団地
の近くに案内板があると書かれているのを見つけて、探しに団地の入口付近を何度となく探しました。
しかし見つからなかったのです。
そこで、駅の横にある観光案内所に入って案内板の場所はどこかを尋ねたのです。
すると案内所の女性の方が「高浜街道のスーパーの前辺りにありますよ。」という。
また、看板に書かれている内容からか「山の佐伯と野の佐伯という土ぐもを黒坂命(くろさかのみこと)
が滅ぼした」うんぬん・・・といかにもどうだといわんばかり。
悪気は無いのはわかっているが、そんな話を聞きたかったのではなかったのだが・・・・。
石岡の人はこの話をどのように理解し人に伝えることができるのだろうか?
行ってみると、スーパーの前には字が薄くなり読み取るにはかなり苦労するくらいの看板があった。
道理で見つからないわけだなどと思ったものだ。
茨城の名前の由来は種々説があることはぼんやりと聞いて知っていたが、これを新しく書き直すのは
市としても気が引ける気持ちだと思っていた。
ところが今年案内板が新しくなった。書かれている内容は下記である。

これを読んで正しく理解できるでしょうか?
常陸風土記で佐伯とか土ぐも(国巣)というのは、その昔この辺りに住んでいた原住民(蝦夷人?)
を指していることは明らかなのです。
それを土ぐもとまるで人間ではないかのごとく、大和朝廷の考え方が書かれているにすぎません。
かれらは、侵略者(大和人)に住居を荒らされ、奴隷のように使われ、南の方へ砂鉄や、砂金など
の採掘に使われたと推測されます。
また、8世紀に書かれたとされる「常陸風土記」は当時大和朝廷が支配出来ていない蝦夷(陸奥)
征伐に力を注いでいた時代なのです。
この看板は書かれていることが偏っており、重大な過ちを犯しているのに気がつかないようです。
今では、昔この辺りにはバラが生い茂っており、野蛮なサルのようなすばっしっこくてずるい土蜘蛛
が穴を掘って住んでいて、これをバラの刺で傷つけて退治したのだと思ってしまいます。
また、確かにこのバラキ(茨城)という地名にもあるようにこの近くに「茨城廃寺」という寺があった
といいます。また「茨城寺」などと書かれたものも出土しているそうです。
しかし、当時の行政府で茨城郡と呼ばれたところは友部近くの「小原」といわれており、ここから
石岡に郡の中心が移ってきたという歴史が存在します。
これは「茨城」発生の地(茨城郡と最初に呼ばれた中心)は「小原」ということを意味します。
もともと「茨城」は「うばらき」または「うばら」でもあり、「小原」の名前になったということも
うなずける話です。
あまり歴史学者でも諸説があるようですから詳しくはわかりませんが、土蜘蛛などとの表現はもう少し
変更するか「国巣」として、それに説明を加えるくらいはすべきだと思っています。
また、私は明治の初めの廃藩置県で「茨城」と泥臭い県名に決まったのも、水戸藩の名前や勢力を
そぐことがその背景にあったと推測しています。
もしもう少しましな県名になっていたら・・・・。
東京の人に最も人気のない県にはなっていなかったと思っています。
石岡駅には「平家発祥の地」または「平家ゆかりの地」などという看板を大きく掲げる方が良いと
思います。よほどインパクトもあります。
再来年は平清盛がNHKで放送されるのですから先手を打たねば効果が半減します。
看板を掲げて、そのお披露目を盛大にブラスバンドなどでやる。新聞に投げ込みをする。
記念のマラソン大会を行ない、昔あったという茨城3大マラソンを復活する。
如何でしょうかね・・・。
ほんとに知られていないのが不思議なくらいなのですから・・・・。
駅の正面から見ると大きな看板ですので一度は目にされていることでしょう。

さて、私もこちらに来て最初の頃にこの看板を見て、ネットで探してバラキ(茨城)台団地
の近くに案内板があると書かれているのを見つけて、探しに団地の入口付近を何度となく探しました。
しかし見つからなかったのです。
そこで、駅の横にある観光案内所に入って案内板の場所はどこかを尋ねたのです。
すると案内所の女性の方が「高浜街道のスーパーの前辺りにありますよ。」という。
また、看板に書かれている内容からか「山の佐伯と野の佐伯という土ぐもを黒坂命(くろさかのみこと)
が滅ぼした」うんぬん・・・といかにもどうだといわんばかり。
悪気は無いのはわかっているが、そんな話を聞きたかったのではなかったのだが・・・・。
石岡の人はこの話をどのように理解し人に伝えることができるのだろうか?
行ってみると、スーパーの前には字が薄くなり読み取るにはかなり苦労するくらいの看板があった。
道理で見つからないわけだなどと思ったものだ。
茨城の名前の由来は種々説があることはぼんやりと聞いて知っていたが、これを新しく書き直すのは
市としても気が引ける気持ちだと思っていた。
ところが今年案内板が新しくなった。書かれている内容は下記である。

これを読んで正しく理解できるでしょうか?
常陸風土記で佐伯とか土ぐも(国巣)というのは、その昔この辺りに住んでいた原住民(蝦夷人?)
を指していることは明らかなのです。
それを土ぐもとまるで人間ではないかのごとく、大和朝廷の考え方が書かれているにすぎません。
かれらは、侵略者(大和人)に住居を荒らされ、奴隷のように使われ、南の方へ砂鉄や、砂金など
の採掘に使われたと推測されます。
また、8世紀に書かれたとされる「常陸風土記」は当時大和朝廷が支配出来ていない蝦夷(陸奥)
征伐に力を注いでいた時代なのです。
この看板は書かれていることが偏っており、重大な過ちを犯しているのに気がつかないようです。
今では、昔この辺りにはバラが生い茂っており、野蛮なサルのようなすばっしっこくてずるい土蜘蛛
が穴を掘って住んでいて、これをバラの刺で傷つけて退治したのだと思ってしまいます。
また、確かにこのバラキ(茨城)という地名にもあるようにこの近くに「茨城廃寺」という寺があった
といいます。また「茨城寺」などと書かれたものも出土しているそうです。
しかし、当時の行政府で茨城郡と呼ばれたところは友部近くの「小原」といわれており、ここから
石岡に郡の中心が移ってきたという歴史が存在します。
これは「茨城」発生の地(茨城郡と最初に呼ばれた中心)は「小原」ということを意味します。
もともと「茨城」は「うばらき」または「うばら」でもあり、「小原」の名前になったということも
うなずける話です。
あまり歴史学者でも諸説があるようですから詳しくはわかりませんが、土蜘蛛などとの表現はもう少し
変更するか「国巣」として、それに説明を加えるくらいはすべきだと思っています。
また、私は明治の初めの廃藩置県で「茨城」と泥臭い県名に決まったのも、水戸藩の名前や勢力を
そぐことがその背景にあったと推測しています。
もしもう少しましな県名になっていたら・・・・。
東京の人に最も人気のない県にはなっていなかったと思っています。
石岡駅には「平家発祥の地」または「平家ゆかりの地」などという看板を大きく掲げる方が良いと
思います。よほどインパクトもあります。
再来年は平清盛がNHKで放送されるのですから先手を打たねば効果が半減します。
看板を掲げて、そのお披露目を盛大にブラスバンドなどでやる。新聞に投げ込みをする。
記念のマラソン大会を行ない、昔あったという茨城3大マラソンを復活する。
如何でしょうかね・・・。
ほんとに知られていないのが不思議なくらいなのですから・・・・。
あゝ石岡駅(5)
今日は石岡駅の下りホームの後方側の壁に飾られたモザイク画を紹介します。
駅を利用される方も目にしたことはあるでしょうがあまりじっくり見る機会がないですね。
石岡の国分寺に伝わる鐘の物語を絵にしたものです。
石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」の元となったお話です。
お話は尾ひれがついたり、伝わっていくうちに内容が変わっていってしまった部分など
さまざまありますが、駅に展示したのでまずはこの話を知るべきでしょう。

昔々子生(こなじ)の海岸に二つの釣鐘が浮かび上がりました。それを皆で府中の町へ運びました。
途中で車の車軸が折れたり大変苦労して運びます。

府中の国分寺に鐘は釣り下げられ、都に鐘の音が響き渡ります。ある日力持ちの大泥棒が一つの鐘を
盗み出してしまいました。

鐘を高浜から舟にのせて沖に漕ぎだしました。沖合までくると急に波が荒れ舟が沈みそうになりました。
怖くなった大泥棒は鐘を海(霞ケ浦)に放り込みました。

海の底に沈んだ鐘(雌鐘)は国分寺に残された鐘(雄鐘)を恋しがって唸り音を出し、1日に米1つぶだけ
府中の方向に動くが、波で押し流されて近づけないでいるそうです。
この鐘の製作がどこで何時ごろなされたものかは判明していません。
このように物語として伝えられていくのもよいでしょう。
物語ですのでその当時の人々の暮らしや、気持ちがその中にあります。
調べてみるといろいろと伝わるものがあり面白いですね。
昔の国分寺の繁栄と衰退、そして火災。
もう少し詳しい物語はこちらを参考に見てください。
石岡に伝わる銘菓「つりがね最中」も美味しいお菓子です。食べてみてください。
さて、実際には雌鐘は盗まれたのは確かですが、江戸時代に恋瀬川の堤防工事の時に、この鐘を川岸に
持ち出し時を告げるのに使ったため、夜中に盗まれたといわれています。
また残された雄鐘は火災で焼け落ち溶けてしまい、それを小さな鐘を記念に作って檀家に配ったといいます。
あまり現実を知ると楽しみがなくなりますね。
物語はその土地の、そこの時代ごとにいろいろと変わっていくものなのですね。
駅を利用される方も目にしたことはあるでしょうがあまりじっくり見る機会がないですね。
石岡の国分寺に伝わる鐘の物語を絵にしたものです。
石岡の銘菓「釣鐘最中(つりがねもなか)」の元となったお話です。
お話は尾ひれがついたり、伝わっていくうちに内容が変わっていってしまった部分など
さまざまありますが、駅に展示したのでまずはこの話を知るべきでしょう。



昔々子生(こなじ)の海岸に二つの釣鐘が浮かび上がりました。それを皆で府中の町へ運びました。
途中で車の車軸が折れたり大変苦労して運びます。



府中の国分寺に鐘は釣り下げられ、都に鐘の音が響き渡ります。ある日力持ちの大泥棒が一つの鐘を
盗み出してしまいました。



鐘を高浜から舟にのせて沖に漕ぎだしました。沖合までくると急に波が荒れ舟が沈みそうになりました。
怖くなった大泥棒は鐘を海(霞ケ浦)に放り込みました。


海の底に沈んだ鐘(雌鐘)は国分寺に残された鐘(雄鐘)を恋しがって唸り音を出し、1日に米1つぶだけ
府中の方向に動くが、波で押し流されて近づけないでいるそうです。
この鐘の製作がどこで何時ごろなされたものかは判明していません。
このように物語として伝えられていくのもよいでしょう。
物語ですのでその当時の人々の暮らしや、気持ちがその中にあります。
調べてみるといろいろと伝わるものがあり面白いですね。
昔の国分寺の繁栄と衰退、そして火災。
もう少し詳しい物語はこちらを参考に見てください。
石岡に伝わる銘菓「つりがね最中」も美味しいお菓子です。食べてみてください。
さて、実際には雌鐘は盗まれたのは確かですが、江戸時代に恋瀬川の堤防工事の時に、この鐘を川岸に
持ち出し時を告げるのに使ったため、夜中に盗まれたといわれています。
また残された雄鐘は火災で焼け落ち溶けてしまい、それを小さな鐘を記念に作って檀家に配ったといいます。
あまり現実を知ると楽しみがなくなりますね。
物語はその土地の、そこの時代ごとにいろいろと変わっていくものなのですね。
あゝ石岡駅(6)
今日は石岡駅の上に作られた広場と「からくり時計」です。
東口を整備し、西口をつなぐ歩道橋へ上るとそこに広場が広がっています。
この広場はバスプールの上に作られたものですが、意外に知られていません。
西口側に住んでいるとこの歩道橋に上がることはほとんどありません。
こんなにきれいに整備した空間がほとんど使われず、また知られずにいるのは
本当にもったいないと思います。
何かイベントをするにはもってこいの場所です。
先日「まちかど情報センター」で何か企画してイベントをやったようですが・・・。
私が石岡にこのような場所があることすら長い間知らないでいたのですから。

この広場に設置されている「からくり時計」です。
まわりもきれいですが市民の憩いの場にもなっていません。
花壇やベンチなどを設置して人が集まりやすくしたいですね。

時計は定時ごとに人形が踊ります。石岡のお祭りに合わせた武者人形とおかめです。

時計のてっぺんには石岡名物「獅子頭」が飾られています。

上から西口(旧市街側)を見た所です。やはり駅前は再開発が必要です。

駅と線路方向の眺めです。どのような街の姿が良いかを考えるにはちょうど位置ですね。
駅がどのように変わるかはわかりませんが、今までの物をスクラップしてビルドするのではなく
歴史やロマンのあふれたプランをねって欲しいと思います。
東口を整備し、西口をつなぐ歩道橋へ上るとそこに広場が広がっています。
この広場はバスプールの上に作られたものですが、意外に知られていません。
西口側に住んでいるとこの歩道橋に上がることはほとんどありません。
こんなにきれいに整備した空間がほとんど使われず、また知られずにいるのは
本当にもったいないと思います。
何かイベントをするにはもってこいの場所です。
先日「まちかど情報センター」で何か企画してイベントをやったようですが・・・。
私が石岡にこのような場所があることすら長い間知らないでいたのですから。

この広場に設置されている「からくり時計」です。
まわりもきれいですが市民の憩いの場にもなっていません。
花壇やベンチなどを設置して人が集まりやすくしたいですね。

時計は定時ごとに人形が踊ります。石岡のお祭りに合わせた武者人形とおかめです。

時計のてっぺんには石岡名物「獅子頭」が飾られています。

上から西口(旧市街側)を見た所です。やはり駅前は再開発が必要です。

駅と線路方向の眺めです。どのような街の姿が良いかを考えるにはちょうど位置ですね。
駅がどのように変わるかはわかりませんが、今までの物をスクラップしてビルドするのではなく
歴史やロマンのあふれたプランをねって欲しいと思います。
あゝ石岡駅(7)
さて、石岡駅をテーマにこのブログも6回書いたが、何かまだ足りない。
やはり「鹿島鉄道」についてふれなければ物足りないのだ。
しかし、私はこの鹿鉄についてあまり知らない。
私がここ石岡に来た時はすでに廃止の話が持ち上がっていた。
存続を訴える住民、高校生などの活動も結構活発だった。
今思えば、廃止は実にもったいないことをしたと感じているのだが・・・・。
鹿鉄については、そのファンなどもいくつかHPなどでも紹介があるのでここでは
その歴史的な点のみの紹介をしてみたいと思う。
鹿島鉄道が開通したのは大正13年6月で、石岡と小川間の7.1kmで「鹿島参宮鉄道」
と呼ばれた。
大正15年8月に浜駅まで7.3km延ばされ、昭和3年に玉造まで、そして昭和4年に鉾田
まで全長27.2kmの鹿島参宮鉄道が全線開通となった。
参宮鉄道と名前がついているように、当初は鹿島神宮に参拝するための鉄道を目指した
と思われる。しかし、ご存知のようにまったく違ってきてしまったようである。
これが行き詰った原因かもしれない気がしている。
途中の浜駅には、鹿島への船の連絡船の桟橋も建設されたという。
しかし時代はもう船での輸送の時代ではなくなっていた。
また、鉄道建設の初期計画では出発駅は石岡ではなく高浜であった。
石岡にした理由は「資金調達」に有利で、当時の財界有力者の協力を得るのに都合が
良かったのである。
また、この鉄道会社の創立者高柳氏、浜氏は共に貴族院に立候補し当選した。
しかし当時の貴族院の選挙権は多額納税者200人だけしかあたえられていないため、
選挙戦に多額の買収などがあったようである。
この買収により初代社長となっていた高柳氏は選挙違反で辞任。社長を浜氏に譲るのである。
浜時代がそれから続くが、鉄道会社の役員は石岡の商人が過半数を占めたのです。
その後バス事業に手を広げ、鉄道会社も吸収合併して関東鉄道になったのです。
詳しく書くのは少しためらうし、利害関係もないのでこの程度で止めておきます。
さて話は中途半端になりましたが、鹿島鉄道の最大のネックは鉾田駅とJRの新鉾田駅が
つながっていなかったことだと思われます。何故だったのでしょうか?
鹿島参宮鉄道というのならここが繋がらなくては意味を為さないはずですが・・・。
何かこの辺りにも身内主義的な臭いがしてきてしまうのです。
鹿島鉄道は自衛隊百里基地の燃料輸送でかなりの収益をあげていました。
しかし、これが鉄道から撤退されると急速に経営が悪化してしまいました。
醤油や生糸などの産業が衰退したのと同じ様ですね。
しかし、鉄道は市民の足でもあり、その影響力は一企業の損得でははかることはできません。
廃止が決まってから乗客が増え、最後は黒字になったと聞いていますが残念です。
同じ轍を踏まないように産業や企業誘致なども全体のバランスを考えて進める必要を痛感します。
やはり「鹿島鉄道」についてふれなければ物足りないのだ。
しかし、私はこの鹿鉄についてあまり知らない。
私がここ石岡に来た時はすでに廃止の話が持ち上がっていた。
存続を訴える住民、高校生などの活動も結構活発だった。
今思えば、廃止は実にもったいないことをしたと感じているのだが・・・・。
鹿鉄については、そのファンなどもいくつかHPなどでも紹介があるのでここでは
その歴史的な点のみの紹介をしてみたいと思う。
鹿島鉄道が開通したのは大正13年6月で、石岡と小川間の7.1kmで「鹿島参宮鉄道」
と呼ばれた。
大正15年8月に浜駅まで7.3km延ばされ、昭和3年に玉造まで、そして昭和4年に鉾田
まで全長27.2kmの鹿島参宮鉄道が全線開通となった。
参宮鉄道と名前がついているように、当初は鹿島神宮に参拝するための鉄道を目指した
と思われる。しかし、ご存知のようにまったく違ってきてしまったようである。
これが行き詰った原因かもしれない気がしている。
途中の浜駅には、鹿島への船の連絡船の桟橋も建設されたという。
しかし時代はもう船での輸送の時代ではなくなっていた。
また、鉄道建設の初期計画では出発駅は石岡ではなく高浜であった。
石岡にした理由は「資金調達」に有利で、当時の財界有力者の協力を得るのに都合が
良かったのである。
また、この鉄道会社の創立者高柳氏、浜氏は共に貴族院に立候補し当選した。
しかし当時の貴族院の選挙権は多額納税者200人だけしかあたえられていないため、
選挙戦に多額の買収などがあったようである。
この買収により初代社長となっていた高柳氏は選挙違反で辞任。社長を浜氏に譲るのである。
浜時代がそれから続くが、鉄道会社の役員は石岡の商人が過半数を占めたのです。
その後バス事業に手を広げ、鉄道会社も吸収合併して関東鉄道になったのです。
詳しく書くのは少しためらうし、利害関係もないのでこの程度で止めておきます。
さて話は中途半端になりましたが、鹿島鉄道の最大のネックは鉾田駅とJRの新鉾田駅が
つながっていなかったことだと思われます。何故だったのでしょうか?
鹿島参宮鉄道というのならここが繋がらなくては意味を為さないはずですが・・・。
何かこの辺りにも身内主義的な臭いがしてきてしまうのです。
鹿島鉄道は自衛隊百里基地の燃料輸送でかなりの収益をあげていました。
しかし、これが鉄道から撤退されると急速に経営が悪化してしまいました。
醤油や生糸などの産業が衰退したのと同じ様ですね。
しかし、鉄道は市民の足でもあり、その影響力は一企業の損得でははかることはできません。
廃止が決まってから乗客が増え、最後は黒字になったと聞いていますが残念です。
同じ轍を踏まないように産業や企業誘致なども全体のバランスを考えて進める必要を痛感します。
石岡駅橋上化工事始まる
石岡駅舎が橋上化されることになり、その一次工事が始まりました。
現在東西を結ぶ橋の所を工事しています。
駅を利用するのにはほとんど変更はありません。
しかし、この工事のため改札横にあったパン屋さんが営業できなくなりました。
美味しいパン屋さんで人気もあったので残念です。

現在は改札を橋上にするための階段や通路などの工事をしています。
今後駅舎や駅前などの整備が行われると思います。

この時計塔は時刻を知らせる時にからくり人形になっていて、お祭りのキツネやひょっとこなどが踊るんです。
駅が近代的になり町が発展するのはうれしいのですが、この工事の費用のほとんどは市の負担のようです。
現在市役所も震災後仮庁舎などでやっているところもあり、八郷の立派な庁舎とどのように住み分けしていくかを考えていくことになるでしょう。

まあ市役所など立派である必要はないんですよね。

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現在東西を結ぶ橋の所を工事しています。
駅を利用するのにはほとんど変更はありません。
しかし、この工事のため改札横にあったパン屋さんが営業できなくなりました。
美味しいパン屋さんで人気もあったので残念です。

現在は改札を橋上にするための階段や通路などの工事をしています。
今後駅舎や駅前などの整備が行われると思います。

この時計塔は時刻を知らせる時にからくり人形になっていて、お祭りのキツネやひょっとこなどが踊るんです。
駅が近代的になり町が発展するのはうれしいのですが、この工事の費用のほとんどは市の負担のようです。
現在市役所も震災後仮庁舎などでやっているところもあり、八郷の立派な庁舎とどのように住み分けしていくかを考えていくことになるでしょう。

まあ市役所など立派である必要はないんですよね。



あゝ新石岡駅(1)
今日は東日本大震災から5年になります。
これだけ大きな地震ですからまだまだひずみは解消されていないでしょう。
数年以内にまた大きめな地震があると考えておかねばならないでしょう。
東京も2次火災を防ぐために感震ブレーカを早急に設置させる方が、道路を拡張するよりも費用も効果も優位だと思うのですが・・・。
さて、石岡駅も大分新しい姿が見えてきました。
昨夜通ったのですが夜でしたので、今日銚子に出かける前に立ち寄ってきました。
滝平二郎さんの切り絵をもとにしたステンドグラスが4枚通路に飾られました。
これはいいですね。
表も筑波山も良いのですがこちらの方がインパクトがあります。
「ふるさとの四季」というタイトルで春夏秋冬の4枚のステンドグラスが飾られています。

春「つくしんぼ」

夏「バスが行く」

秋「赤とんぼ」

冬「雪がっせん」

滝平二郎さんは石岡の隣りの旧玉里村の生まれで、茨城県立石岡農学校(現石岡一校)出身。
この描かれている風景などもこの近くの風景や筑波山がよく使われている。
哀愁のある切り絵はインパクトがあり新しい石岡駅にとっては非常に意味のあるものだと思う。
是非石岡市内に滝平二郎さんを中心とした美術館がほしい。
熊岡美彦さんの洋画なども是非集めて紹介をしてほしいものです。
これだけ大きな地震ですからまだまだひずみは解消されていないでしょう。
数年以内にまた大きめな地震があると考えておかねばならないでしょう。
東京も2次火災を防ぐために感震ブレーカを早急に設置させる方が、道路を拡張するよりも費用も効果も優位だと思うのですが・・・。
さて、石岡駅も大分新しい姿が見えてきました。
昨夜通ったのですが夜でしたので、今日銚子に出かける前に立ち寄ってきました。
滝平二郎さんの切り絵をもとにしたステンドグラスが4枚通路に飾られました。
これはいいですね。
表も筑波山も良いのですがこちらの方がインパクトがあります。
「ふるさとの四季」というタイトルで春夏秋冬の4枚のステンドグラスが飾られています。

春「つくしんぼ」

夏「バスが行く」

秋「赤とんぼ」

冬「雪がっせん」

滝平二郎さんは石岡の隣りの旧玉里村の生まれで、茨城県立石岡農学校(現石岡一校)出身。
この描かれている風景などもこの近くの風景や筑波山がよく使われている。
哀愁のある切り絵はインパクトがあり新しい石岡駅にとっては非常に意味のあるものだと思う。
是非石岡市内に滝平二郎さんを中心とした美術館がほしい。
熊岡美彦さんの洋画なども是非集めて紹介をしてほしいものです。
あゝ新石岡駅(2)
新石岡駅が大分その姿が現れました。
旧市街地の西口側にもエレベータがつきました。
まだエスカレータしか使えませんが・・・。

そのエレベータを上がった出口の脇からバスプールの上の広場へ直接出られるようになりました。

この時計塔もやっと日の目を見ることができました。

このからくり時計がこの駅を訪れる人々に全く知られずにいたのももう終わりとなりそうです。
時刻を継げる時に上の屋根の部分が上に持ち上がり石岡ばやしの人形が踊ります。
(YouTubeの画像をお借りしました)


まだ駅の正面は工事中です。

この駅前周辺も何とか再開発できればよいのですが、もう少し先になりそうですね。

この筑波山は御幸通りからは真正面に見えます。

昨日紹介した滝平二郎さんの版画をもとにしたステンドグラスの説明板です。
珍しく英文で書かれていますね。
THE FOUR SEASONS OF MY HOMETOWN (ふるさとの四季)
旧市街地の西口側にもエレベータがつきました。
まだエスカレータしか使えませんが・・・。

そのエレベータを上がった出口の脇からバスプールの上の広場へ直接出られるようになりました。

この時計塔もやっと日の目を見ることができました。

このからくり時計がこの駅を訪れる人々に全く知られずにいたのももう終わりとなりそうです。
時刻を継げる時に上の屋根の部分が上に持ち上がり石岡ばやしの人形が踊ります。
(YouTubeの画像をお借りしました)


まだ駅の正面は工事中です。

この駅前周辺も何とか再開発できればよいのですが、もう少し先になりそうですね。

この筑波山は御幸通りからは真正面に見えます。

昨日紹介した滝平二郎さんの版画をもとにしたステンドグラスの説明板です。
珍しく英文で書かれていますね。
THE FOUR SEASONS OF MY HOMETOWN (ふるさとの四季)
あゝ新石岡駅(3)
今日は石岡市民ミュージカルの日です。
市民が参加して行なうミュージカル。この試みに拍手を送ります。
さて、石岡駅も着々とその姿が見えてきましたが、今までにあって消えてほしくないものがありました。
一つは徳富蘇峰が書いた書「石岡驛」の扁額が残されるかどうかでしたが、ちゃんと残っていました。

前も駅改札のすぐ上に置かれていたのですが、全く目立たない存在で、すぐ目には行ってきませんでした。
石岡が発展していた頃に大きな力があった証しですのできっちり残ってよかったです。

駅の改札の少し手前の上に置かれていますが、暗いと全く目立ちません。
でもこれも石岡の特徴で、探せば色々なものが見つかるという探し物ラリーでにでも使われたら面白い?

もう一つは下り線ホームの南側にある国分寺の鐘伝説をモチーフにした大きな壁画。
ちゃんと残りました。
壁画については私のホームページに以前紹介させていただいていますのでそちらを参照ください。
伝説・常陸国分寺の雄鐘と雌鐘の壁画 → こちら
昨日書いたからくり時計の広場は色々なものに利用可能ですね。
また「忠犬タロー」の像などもきっとシンボルになることでしょう。
市民が参加して行なうミュージカル。この試みに拍手を送ります。
さて、石岡駅も着々とその姿が見えてきましたが、今までにあって消えてほしくないものがありました。
一つは徳富蘇峰が書いた書「石岡驛」の扁額が残されるかどうかでしたが、ちゃんと残っていました。

前も駅改札のすぐ上に置かれていたのですが、全く目立たない存在で、すぐ目には行ってきませんでした。
石岡が発展していた頃に大きな力があった証しですのできっちり残ってよかったです。

駅の改札の少し手前の上に置かれていますが、暗いと全く目立ちません。
でもこれも石岡の特徴で、探せば色々なものが見つかるという探し物ラリーでにでも使われたら面白い?

もう一つは下り線ホームの南側にある国分寺の鐘伝説をモチーフにした大きな壁画。
ちゃんと残りました。
壁画については私のホームページに以前紹介させていただいていますのでそちらを参照ください。
伝説・常陸国分寺の雄鐘と雌鐘の壁画 → こちら
昨日書いたからくり時計の広場は色々なものに利用可能ですね。
また「忠犬タロー」の像などもきっとシンボルになることでしょう。
新石岡駅に山車と獅子頭
石岡駅もまだリニューアル中ですが、西口に観光案内所とおまつり会館的な展示場がオープンするようです。

今日昼過ぎに昨夜帰ってきていた息子が名古屋に帰るのを見送りに石岡駅に行きました。
するとそこに、金丸町の山車が運び込まれている最中でした。

金丸町ですから上の人形は弁天さんです。

エスカレータで昇った上から見るとこんな感じです。
夜になると照らされた明かりで内部はきれいに見えるかもしれません。
でもLEDでしょうね。あまり熱を持つ物は使えないですね。

これでお祭りの無い時期もじっくり山車を鑑賞する事ができそうです。

もう一つ土橋町の獅子が展示されました。
これはもっとも古い獅子頭で県の登録文化財に指定されていたと思います。


この山車が展示されている場所は西口の階段下ですが。階段・エスカレータの真下は観光案内所になるようです。
今はまだ準備中で、開店は今月30日(水)です。

a href="http://blog-imgs-90.fc2.com/y/o/t/yotsuba23/P3270008s.jpg" target="_blank">
そしてその奥はバスターミナルですが、新たにトイレができました。


今日昼過ぎに昨夜帰ってきていた息子が名古屋に帰るのを見送りに石岡駅に行きました。
するとそこに、金丸町の山車が運び込まれている最中でした。

金丸町ですから上の人形は弁天さんです。

エスカレータで昇った上から見るとこんな感じです。
夜になると照らされた明かりで内部はきれいに見えるかもしれません。
でもLEDでしょうね。あまり熱を持つ物は使えないですね。

これでお祭りの無い時期もじっくり山車を鑑賞する事ができそうです。

もう一つ土橋町の獅子が展示されました。
これはもっとも古い獅子頭で県の登録文化財に指定されていたと思います。


この山車が展示されている場所は西口の階段下ですが。階段・エスカレータの真下は観光案内所になるようです。
今はまだ準備中で、開店は今月30日(水)です。

a href="http://blog-imgs-90.fc2.com/y/o/t/yotsuba23/P3270008s.jpg" target="_blank">

そしてその奥はバスターミナルですが、新たにトイレができました。

新石岡駅(夜)
新石岡駅も東西通路と2階のイベントスペース整備が整い、西口に山車、獅子頭の展示などが始まり、昨日午前中に記念式典が行なわれました。
観光案内所もオープンとなり新しい石岡の顔となってくれるでしょう。
式典が行なわれるのはその前夜に駅を訪れて看板を見ていたので知っていました。
しかし、式典はあまり正直興味もないので後からでもFBあたりで紹介もあるだろうから仕事を優先して行きませんでした。
先日から石岡市のメールマガジンに登録しているのですが、このような式典情報は流れてきませんでした。
なんだか少し間が抜けているような気もします。
最近届いたのは3/27発行の「4月の休日夜間緊急診療情報」です。
その前は3/24に「母子健康診査等情報」「成人健康診査等情報」の2通です。
この調子だと駅の観光案内所などがきれいになっても営業時間やレンタサイクル(5台)などの貸出もどの程度便利になるのか少し心配です。(貸出時間の延長も考えてもらいたいし、他の駅などとの連携も考えたらいいですね)
でもこの先を期待します。

夜のライトアップも見て見ようと29日の夜に駅に立ち寄りました。
2階に連絡通路の西側正面のガラスケースの中にこの「幌獅子」の模型が展示されていました。
小さな模型ですが、「石岡のお祭り」風物詩を代表するものですので説明文などもお願いしたいものです。
石岡のお祭りも山車やお囃子、獅子舞いなどと並んで、この幌獅子はここだけの独特なものです。
ストライプ模様などの幌を荷台にかぶせ、車の中には多くの子供たちがそろいの祭り衣装に身を包み、女の子たちはきれいに化粧をしてもらって太鼓をたたくものや大きくなると車の前で大きく重い獅子をかついで舞う。
小さな子供たちはこの幌の荷馬車から顔を覗かせてまわりをきょろきょろ眺めている。
これがこの町独特の風物詩です。

ライトに照らされた山車や大人形もこうして見ると美しいですね。

ここは一般の山車会館などと違ってガラスケースにおさまったお人形を見るような感覚です。
このケースの外側から眺めるため、夜の方がきれいに、またよく見ることができます。

まえから祭りの期間だけでなく1年中展示する場所があっても良いのにと思っておりましたので、これからも石岡の名物となってくれることでしょう。期待します。

エレベータも稼働を始めました。
この山車や観光案内所の前を通って奥にすこし入ったところから乗り降りします。
エスカレータの人は乗りながらこの山車や人形を眺めます。

是非継続的に何か新しい事をこの上のイベント会場などを使って発信して行ってほしいものです。
空港行きのバス乗り場も整備されるようですので、茨城空港などとの連携も必要ですね。

観光案内所もオープンとなり新しい石岡の顔となってくれるでしょう。
式典が行なわれるのはその前夜に駅を訪れて看板を見ていたので知っていました。
しかし、式典はあまり正直興味もないので後からでもFBあたりで紹介もあるだろうから仕事を優先して行きませんでした。
先日から石岡市のメールマガジンに登録しているのですが、このような式典情報は流れてきませんでした。
なんだか少し間が抜けているような気もします。
最近届いたのは3/27発行の「4月の休日夜間緊急診療情報」です。
その前は3/24に「母子健康診査等情報」「成人健康診査等情報」の2通です。
この調子だと駅の観光案内所などがきれいになっても営業時間やレンタサイクル(5台)などの貸出もどの程度便利になるのか少し心配です。(貸出時間の延長も考えてもらいたいし、他の駅などとの連携も考えたらいいですね)
でもこの先を期待します。

夜のライトアップも見て見ようと29日の夜に駅に立ち寄りました。
2階に連絡通路の西側正面のガラスケースの中にこの「幌獅子」の模型が展示されていました。
小さな模型ですが、「石岡のお祭り」風物詩を代表するものですので説明文などもお願いしたいものです。
石岡のお祭りも山車やお囃子、獅子舞いなどと並んで、この幌獅子はここだけの独特なものです。
ストライプ模様などの幌を荷台にかぶせ、車の中には多くの子供たちがそろいの祭り衣装に身を包み、女の子たちはきれいに化粧をしてもらって太鼓をたたくものや大きくなると車の前で大きく重い獅子をかついで舞う。
小さな子供たちはこの幌の荷馬車から顔を覗かせてまわりをきょろきょろ眺めている。
これがこの町独特の風物詩です。

ライトに照らされた山車や大人形もこうして見ると美しいですね。

ここは一般の山車会館などと違ってガラスケースにおさまったお人形を見るような感覚です。
このケースの外側から眺めるため、夜の方がきれいに、またよく見ることができます。

まえから祭りの期間だけでなく1年中展示する場所があっても良いのにと思っておりましたので、これからも石岡の名物となってくれることでしょう。期待します。

エレベータも稼働を始めました。
この山車や観光案内所の前を通って奥にすこし入ったところから乗り降りします。
エスカレータの人は乗りながらこの山車や人形を眺めます。

是非継続的に何か新しい事をこの上のイベント会場などを使って発信して行ってほしいものです。
空港行きのバス乗り場も整備されるようですので、茨城空港などとの連携も必要ですね。

石岡駅の扁額(徳富蘇峰)に思う
会社を辞めてから駅を利用する回数がぐっと減った。
東京へ行くときも高速バスの方が便利だ。
これは休みの日に利用することが多いので首都高の渋滞にあまり影響されないせいもあるし、バス停まで歩いていけることもある。
先日久しぶりに電車に乗った。
駅の改札の手前の上に掲げてある古びた木版の扁額をながめてきた。
少し見落としやすいが、看板も急に明るいところに掲げられて恥ずかしそうに見えた。

この扁額が「徳富蘇峰」の書から起こされたものであることは知っていたし、前にも何度か書いたことがある。

今回はこの扁額の説明が、改札口通路の壁にステンレス板(?)に書かれて飾られていた。
この書かれた内容を読んで、かなりすっきりした。
石岡の歴史などというものを何度も書いたり、読んだりしてきているが、あまりこのようなことが書かれたものを見たことがない。
いやあったかもしれないが、最近こちらも見方が変わっているせいかもしれない。
各地域の神社などに書かれていたり、観光課などが説明書きを書いていたりする内容に間違ったものが良く散見される。
歴史とは事実を書いた記録だと思うのだが、街中を歩いていて看板を見かけると、どうもそこに書いた人の願望や確認されていない他の記事の「いいとこ取り」をしていて事実とは明らかにおかしなことが書かれていたりする。
でもこの説明はおそらく事実なのではないかと思う。
淡々と事柄がのべられていて残しておきたくなったのでとりあえずブログに掲載しておきたい。

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
そのまま原文を書き出してみました。
さて、このブログはここでは終われないのです。
この常陸太田駅の駅名標を探してみました。

さて、どうですか? やはりこうして2つを見比べてみなければこの話も進展しませんね。
でもどうしてつくられたのが古い常陸太田駅の方が左から右の現代式で、石岡の方が逆向きなのでしょうか?
疑問や興味があればさらに調べなければいけないですよね。
これがこのブログの良さですから・・・・時間が足りないですね。
でも簡単に調べてみました。
そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかったようです。
切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったようです。
大正時代や昭和の初め頃の街中の看板表示なども多くが左から右の横書き(現代式)の方が多かったようです。
これが右から左に書くように変わったのは戦争中だというのです。
1942年(昭和17年)に文部省の指導では左から右の横書き(現代式)への統一指導が始まったようです。
でも戦争中であり欧米に合わせることに反対の意見が多くあり、これは浸透しなかったそうです。
かえって右から左の横書き(逆向き)が多くなった傾向にありそうです。
まあ野球の言葉もかなりへんてこな言葉がありますからね。
例えば「ストライク」は「よし」なんて言っていたそうですから。
新聞社では讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から横書きを左から右の現在の様式に完全統一しています。
面白いものですね。戦前は皆右から左の横書きだったとばかり思っていましたが、調べてみることは大切なんですね。
東京へ行くときも高速バスの方が便利だ。
これは休みの日に利用することが多いので首都高の渋滞にあまり影響されないせいもあるし、バス停まで歩いていけることもある。
先日久しぶりに電車に乗った。
駅の改札の手前の上に掲げてある古びた木版の扁額をながめてきた。
少し見落としやすいが、看板も急に明るいところに掲げられて恥ずかしそうに見えた。

この扁額が「徳富蘇峰」の書から起こされたものであることは知っていたし、前にも何度か書いたことがある。

今回はこの扁額の説明が、改札口通路の壁にステンレス板(?)に書かれて飾られていた。
この書かれた内容を読んで、かなりすっきりした。
石岡の歴史などというものを何度も書いたり、読んだりしてきているが、あまりこのようなことが書かれたものを見たことがない。
いやあったかもしれないが、最近こちらも見方が変わっているせいかもしれない。
各地域の神社などに書かれていたり、観光課などが説明書きを書いていたりする内容に間違ったものが良く散見される。
歴史とは事実を書いた記録だと思うのだが、街中を歩いていて看板を見かけると、どうもそこに書いた人の願望や確認されていない他の記事の「いいとこ取り」をしていて事実とは明らかにおかしなことが書かれていたりする。
でもこの説明はおそらく事実なのではないかと思う。
淡々と事柄がのべられていて残しておきたくなったのでとりあえずブログに掲載しておきたい。

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
そのまま原文を書き出してみました。
さて、このブログはここでは終われないのです。
この常陸太田駅の駅名標を探してみました。

さて、どうですか? やはりこうして2つを見比べてみなければこの話も進展しませんね。
でもどうしてつくられたのが古い常陸太田駅の方が左から右の現代式で、石岡の方が逆向きなのでしょうか?
疑問や興味があればさらに調べなければいけないですよね。
これがこのブログの良さですから・・・・時間が足りないですね。
でも簡単に調べてみました。
そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかったようです。
切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったようです。
大正時代や昭和の初め頃の街中の看板表示なども多くが左から右の横書き(現代式)の方が多かったようです。
これが右から左に書くように変わったのは戦争中だというのです。
1942年(昭和17年)に文部省の指導では左から右の横書き(現代式)への統一指導が始まったようです。
でも戦争中であり欧米に合わせることに反対の意見が多くあり、これは浸透しなかったそうです。
かえって右から左の横書き(逆向き)が多くなった傾向にありそうです。
まあ野球の言葉もかなりへんてこな言葉がありますからね。
例えば「ストライク」は「よし」なんて言っていたそうですから。
新聞社では讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から横書きを左から右の現在の様式に完全統一しています。
面白いものですね。戦前は皆右から左の横書きだったとばかり思っていましたが、調べてみることは大切なんですね。
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