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藤内神社のフジ

 水戸の藤井町に藤内神社というかなり古い神社がある。

この神社はまた後で紹介しますが、神社の入り口近くの通りの反対側に「藤井神社のフジ」と書かれたかなりの古木がある。

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これが本当に藤の木なのかとみてもなかなかわからない。

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石の案内看板の側面にこの木の謂れが書かれている。(言い伝え)

源義家(八幡太郎)が前九年の役で奥州征伐に行く途中、この神社に武運長久を祈願した。
その時に御手洗の池にあったフジの枝をとって鞭を作り軍団を指揮した。
このため「藤井」という地名が生まれた。

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この藤内神社は常陸風土記などを考えるとき、一度は訪れたいと思っていた。
しかし、今の神社を見てもイメージはわいてこなかった。

ここに来るまで高台から下って、那珂川の支流の川がそばを流れるこの地にやってきた。

またこの先にはこんもりとした森があり、昔の人はこんなところが住みやすい場所だったのかと複雑な思いがした。

私は「藤」は「蛇」や「竜」を表しているのではないかと考えているのですが、ここにきても良くわからなかった。

古代に夢をはせて | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/10/25 21:24

藤内神社

 水戸市藤井町にある古神社「藤内神社」は、思ったより周りは開けていない場所でした。

昨日紹介した藤の木がご神木のようです。

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昨日の藤の木はこの写真の入口より左手側の道路を隔てた反対側にあります。
ご神木が境内にないのは珍しいですね。

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この神社の創建の由来が書かれていましたので紹介します。

由緒:

養老5年6月創立(721年)
当社の遙か西方にそびえる朝望(房)山は磐筒男、磐筒女の神の御子経津主命の神山と伝う。養老5年4月12日の暁、朝望(房)山の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまった。人々驚き恐れ、謹んで同年6月15日社殿を竣工させ鎮斎した(祝詞)

この藤内神社の祭神は「経津主命」(ふつぬしのみこと)です。
香取神宮の祭神と一緒です。

ということはこのあたりには7~8世紀ころに物部氏の一族がいたのかもしれません。

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康平5年(1063) 源義家征奥の途次、当社戌亥の峰に十万の勢を集め当社に武運長久を祈願し社前の藤の枝を申し受けて鞭として勇気凛凛進軍した。兵を集めたところを十万原という。

大永年間(1521~28)出火し社殿神宝消失。乱世で社殿さいけんできず百余年を経て、
寛永5年(1628)宍戸城主秋田河内守が造営した。
後元禄年中(1688~1704) 水戸藩主徳川光圀公命で改築した。

藤内大明神と尊称。奉職人数もその当時42人おり、正保年中(1644~1647)でも15人が奉職していた。


ご神木:藤の木 神池のおお欅に藤がからまり、この藤は村名の起因ともなっている。

さて、では昨日見た大木は欅の木だったのか。

もう一度よく見てみよう。

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そうだ。やはりこれは欅の木だ。
ご神木の藤は木の根元の部分に巻きついている。

やはり藤(藤)=蛇神 であっているようだ。

古事記に出てくる「三輪山説話」がやはりこの地にも伝わったようだ。

今の神社を見てもあまりわからないが、この藤の木をよく見れば何となく気持ちが伝わってくるように思う。
けやき、藤の木の麓は確かに池があったようだ。今でも水はある。

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このように写真とみるとなんとなくわかってきそうだ。
神池のところに大きな欅の木があった。そこに山藤の木が巻き付いていた。

蛇神信仰もこの藤が神様だという。
藤は蛇にもなるし山にも登る。
人間にも化けて女を懐妊させる。

生まれた子供は神の子となる。

そしてこの話は石岡にもそのまま竜神山に伝わる。
麓の部落も片岡と呼ばれた。

なかなか面白いですね。

藤井町、藤内神社、藤井川、藤井湖・・・・  三野輪池・・・・ いろいろおもしろそうだ。

笠間市小原の三本松での神の林はやはり同じ思想の流れのようだ。

三本松に巻き付いた藤の木を切ったら祟りにあったという・・・・・

今でもこの信仰は残されているのかもしれない。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/26 21:38

大井神社(水戸市飯富町)

 昨日紹介した水戸市藤井町にある「藤内神社」の創建が養老5年(721年)で、その祭神が「経津主」というこのあたりでは珍しい香取神宮の神と同じ。

今日はその少し南の飯富町にあるやはりかなり古い古社「大井神社」を紹介します。

社伝によると、第10代崇神天皇の時代に、崇神天皇の皇子・豊城入彦命の命によって建借馬命(タケカシマノミコト)この地にやってきた。
そして、そして長者山に館を構え、その北東にあたるこの飯富町の場所に神社を建てて天照大神を祀ったのが創祀だといいます。

今はこの神社の祭神はこの「建借馬命(タケカシマノミコト、常陸国風土記では建借間命)」で、建借馬命は初の古代那賀(仲)国造になった武人だ。

崇神天皇の時代は推定するに、3世紀から4世紀初めと考えられる。

建借馬命は長者山に館をかまえたとあるが、長者山は台渡里近郊である。
ここに那賀郡の郡衙があった。

日本書紀では崇神天皇は二人の息子である豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと)に対して、自分の後継者をどちらにするかをそれぞれが見る夢のお告げで決まるといった。
豊城命は「御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答えた。
活目尊は「御諸山(三輪山)に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。

その結果、弟の活目尊が後継となり、豊城命を武器を使って東国を治めさせるために派遣した。

この豊城命の墓といわれるものが石岡にある。柿岡の「丸山古墳」だ。

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この大井神社は一段高い台地の上にあり、東側に入口鳥居がある。
そして階段を上って神社に参拝するのだが、私は西側の神社と同じ台地にある西口から入った。

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こちらが東側の正規の入り口。

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かなり立派な拝殿。

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こちらが本殿。

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大井神社という一見単純そうな名前だが、この大井神社と地名の飯富町のいわれがよくいわれており、

建借馬の出であるとされる肥の国(九州)の意富臣(おふのおみ)から、この神社は意冨比(おほひ)神社と言った。
それが転じて意冨比(おほひ)→おおい→大井となり、地名も意冨→飫冨→飯富と変じたといわれている。

このあたりの歴史はかなり面白いが、石岡も負けてはいない。

もう少し探ってみよう。

今日は銚子に仕事で行く予定だったが、急に相手方の都合でキャンセルとなった。
おかげでこんな記事も書く時間が持てた。

やはり少し時間がなければ記事をまとめていくことはできない。



古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/27 21:05

有賀神社

 今日はこれまで紹介した「藤内神社」「大井神社」と関係がありそうな「有賀神社」を紹介しておきたい。

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場所は前の2社が那珂川沿いなのに対し、こちらは内原に近い方に入った場所で朝房山の南東部になる。
古墳公園も近いし「木葉下(あぼっけ)」「大足(おおだら)」も近い。

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この神社の創建は貞観元年(859年)と言われています。
言い伝えでは最初に藤内神社と同じ藤井町に建てられ、やはり「藤内神社」と呼ばれていたという。

このため、延喜式に記載されている式内社の「藤内神社」のともに論社とみられている。

祭神は「武甕槌命」と「經津主命」の2柱である。

この「武甕槌命」(タケミカヅチ)はご存じ鹿島神宮の神であるが、これと仲国造で大井神社の祭神の建借馬命(タケカシマ)が同一かどうかは分からない。

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11月11日にこの有賀神社のご神霊が大洗磯前神社に渡御する「磯渡御」という行事が行なわれている。

大洗磯前神社側の説明では、有賀さまは、大洗さまの側室の娘さんで、気立てがよく1年に1度親孝行のためにおみやげをたんと持って大洗に里帰りしてくるのだという。
なんとも今風な解釈です。


古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/28 22:46

古代に夢をはせて

 今日はここまで書いてきた「藤内神社」「大井神社」「有賀神社」の三つの神社の関係を少し眺めてみたくなっった。

下の地図に水戸市の西北部の各神社の位置関係を示します。

西側にある山が水戸では一番高いという朝房山(現地の山には朝望山とある:標高はたったの201m位)で、常陸風土記で書かれている晡時臥山(くれふしやま)と考えられている山だ。
この山が笠間市、城里町、水戸市の3つの市境にある。

そして地図の右側(東)には大きな那珂川が流れ、丁度蛇の蛇行のようにくねっているところに台渡里遺跡、台渡里廃寺跡、長者山など古代那賀国の中心地(国造が館を構えた?)あたりで、律令制の時に整備された官道の駅家(うまや)があった。(那珂川の向こうにも駅家がありここから官道は海沿いに行く道と、そのまま北に行き東山道と連結する道の二手に分かれたようだ。

常陸国の国府からこの台渡里駅家までは、鹿の子遺跡のあたりから現在の常磐高速の東側を沿うように真っ直ぐな道が伸びていたものと思われる。

ここはまさに直道(ひたみち)=常陸?と言えなくもない。

木葉下

少し地図を見ながら時代をさかのぼって考えてみよう。

3世紀初め頃、建借間(たけかしま)命は、祟神(すじん)天皇の皇子で東国征伐にやってきた「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」の命を受け、さらに北の征服に使わされました。
3世紀と書いたがもう少し後だろう。この建借間命の墓といわれる古墳が水戸にある愛宕山古墳で築造は5世紀後半から6世紀初め頃と言われている。

最初は霞ケ浦の南端側の浮島あたりで、湖(当時は内海)の向こう側(潮来あたり)にいる部族が敵か味方かを煙の流れる方向で占った。
それで敵と分かって軍団は船で向こう岸に着き、敵をやっつけようと思ったら、原住民は皆、すみかである穴に隠れて出てこなくなってしまう。
そこで知恵を絞って部下たちに浜辺でにぎやかな歌や祭りを連日連夜続けさせたら、原住民もつられて見物に出てくるようになった。
そこを一網打尽にしてみんな殺してしまったのです。
そこから、北浦を通って?那珂川に入り込み、川を北上します。

丁度よい肥沃な高台(台渡里)を見つけて館を建て、そこをさらに北への征服の根拠地にします。

建借間命は九州の部族の出身で神武天皇の御子「神八井耳(かむやゐみみ)命」の末裔といわれ、「意富(おふ・おほ)臣」の名の部族の者とされており、オホ氏(多氏)と同じ部族の人物と考えられます。

そのため、この館から北の飯富町に大井神社を建てて、自分たちの祖をまつったものと思われます。
(飯富も大井もともに自分たちの種族の名前から来ている?)

さて、その後はどうなるのでしょうか?

一つはここから海沿いを北上したところの日立の手前の大甕(おおみか)神社と鹿島神宮にヒントがあります。

鹿島神宮の境内に摂社である「高房神社」があります。この神社を調べていて知ったことですが、高房神社は常陸国二の宮である「静(しず)神社」とも深くかかわっています。

祭神は「建葉槌神(たけはづちのかみ)」です。

日本建国時にこの鹿島・香取の地を制圧して大和朝廷はさらに北を目指しました。
しかし、北の方には星を祀る信仰を持った一族が住んでいました。
「天香香背男(あめのかがせお)」です。

タケミカヅチの武力でも制圧できない大きな力を持っていました。このため、この天香香背男を倒すために「建葉槌(たけはづち)」が使わされました。

そして、日立市の手前の大甕(おおみか)近辺に香香背男という蝦夷の大きな勢力が存在していたのでしょう。

建葉槌はこの「香香背男」を制圧したのです。
神社では大きな「宿魂石」にその力を封じ込めたといわれています。

そして「大甕神社」にこの建葉槌神(たけはづちのかみ)が祀られました。

この建葉槌神はまた「倭文神(しずりのかみ)」とも呼ばれ、織物の神様としても知られます。

この倭文神として祀られているのが常陸国二の宮である「静神社」なのです。

ただこの制圧した時代がよくわかっていない。6世紀半ば過ぎころではないかと推察されるが・・・
(5世紀半ば過ぎを6世紀半ば過ぎに訂正しました:2016.30)

ところでもう一つの物部の経津主命を祀る「藤内神社」はというと、こちらは年代が書かれていて、
養老5年(721年)4月12日の暁、朝望(房)山(経津主命の神山)の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷を指して降りこのところにとどまったとされる。 これはもう律令制の始まったころになる。8世紀始めだ。

さて時間が無くなったので、この続きは明日にしよう。


古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/29 22:00

古代に夢をはせて(2)

 昨日途中まで書いた続きです。

また昨日、建借間命が3世紀とか5世紀初めとか書いたのですが、もう少し後で、西暦500年前後(5世紀後半から6世紀初め頃)の人物と考えられます。訂正します。

この初の那賀(仲)国造となる武人「建借間命(タケカシマノミコト)」は九州の種族(多氏)の人物とみられています。
その根拠は
1)今の潮来に舟で渡った時に、住処の穴に逃げ込んでしまった原住民を7日7夜の歌と踊りでおびき出しますが、この時にうたったのが九州佐賀地方の歌「杵島唱曲」だといいます。
2)建借間命の墓とされる愛宕山古墳(水戸市愛宕町:136.5mの前方後円墳).の出土物で王冠などが見つかっていますが、これが九州の出土品の特徴と一致するといいます。
3)潮来の大生郷(大生神社、古墳)などがこの一族のかかわりが考えられます。(元鹿島とも言われます)

そうすると鹿島神宮(常陸風土記では香島の大神)に最強の武人といわれる武甕槌(タケミカヅチ)という神話にしか登場しない神を祀っているのも実際はタケカシマと同一とするとまずいことになるために創造された神かもしれません。


木葉下

さて、今日はそちらの話ではなく、朝房山の東側の古墳地帯の話です。
私はなんとなくかなり前から石岡から真っ直ぐ北上し、城里町の石塚で巨大な崖に直面するこの石塚街道が気になっています。

木葉下(あぼっけ)というかなり珍しい名前の地名があり、昔からいろいろな謂れが考えられています。
アイヌ語からハケ、パッケ、バッケなどの崖の名前に由来するという説を何となく信じていたのですが、通ってみるとこれが崖のある地名とする場所かと疑問を覚えました。

そして今ではこの場所から7世紀~8世紀ころの須恵器の窯跡が多数見つかっており、どうも韓国南部の昔からの言葉で「焼き物を焼く人たち」というような意味がありそうだということを聞きました。

この朝鮮半島南部の人たちがこの地にやってきて焼き物を焼いたのでしょう。
石岡の瓦会などの古代の窯跡も同じような種族だったのではないかと思います。

そばの古墳公園(牛伏古墳群)には多くの古墳がありますが、この古墳は5世紀~6世紀末頃の築造と思われます。

とうも九州の多氏とは別な人種がたくさんいたように思います。

この石塚街道をさらに進むと石塚で大きな崖を下って下の低地にでます。
地名は圷(あくつ)です。そしてその先の那珂川との合流地点付近が阿波山、粟となります。

常陸風土記では那珂川は「粟川」と書かれています。

徳島の阿波も昔は「粟」と書きました。
阿波の忌部氏(いんべうじ)がここまでやってきたのでしょうか。

想像は膨らみます。

阿波山にある阿波山上神社は「スクナヒコナ」を祀る神社です。
大国主とともに国造りをした小人のスクナヒコナは言葉もわからずガガイモの舟で日本にやってきた異国人です。
でも薬の技術や温泉掘り、金の採掘などに多くの知識を持っていました。

これは朝鮮半島から渡ってきた人物でしょう。

さて、想像はあくまで想像で、先には進みません。

上の地図には大足(おおだら)という地名を載せました。
ダイダラボッチがここにいたという伝説がこの漢字から生まれました。
そして朝房山が昔はもっと南にあって、この大足地区で日がさす時間が短く穀物が良く採れないので、朝房山をダイダラボッチが北の方にうごかしたとの伝説が生まれました。

石岡にも大足(おおだら)という地名が八郷の太田地区にあります。
どうも足跡のような広い低地は砂鉄をとって製鉄していた跡ではないかと言われます。

好き勝手に想像するのは楽しいですね。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/10/30 20:41

小原神社

 きのう書いた笠間市(旧友部町)小原にある「小原神社」を訪ねました。

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茨城の県名発祥の地。
なんて石岡の人が言うのもおかしいけど、やはりこちらが最初の茨城郡のはず。

茨城の県の魅力度連続最下位というので、どこが発祥の初めかなどどうでもよいけど・・・・

ちゃんと調べればわかるはず。

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樹齢700年くらいの欅の木がごろごろある。
このコブは貫録がある。


古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/01 21:13

古代に夢をはせて(4)-(牛伏)舟塚古墳

 有賀神社周辺の昔書いた記事を見直している。

このあたりの古代に夢をはせていたら何かが出てきそうだからである。

この大足(おおだら)地帯はダイダラボッチが住んでいたという伝説が残る。

大串貝塚はダイダラボッチが食べた貝が山となったと常陸風土記に書かれているのでこのダイダラボッチは大きな足だから「大足」に住んでいたという単純発想だが、当然大足(おおだら)はそんな意味ではないだろう。

ではどんなことが考えられるのだろうか?

ここにある「舟塚古墳」は3年ほど前に書いたがここでもう一度振り返ってみたい。

古墳の全長は約75mで6世紀頃のものと見られています。

石岡の舟塚山古墳(全長:186m)、玉里の舟塚山古墳(全長:84m)よりは小さいがかなりの規模だ。

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今後、このあたりの記事をいくつか振り返ってみたい。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/03 21:44

古代に夢をはせて(5)-くれふしの里古墳公園

 水戸の牛伏地区まわりをみながら気が付いたところをめぐっています。
これもかなり前に書いた記事を引っ張り出しています。

3年前の記事・・・・
公園内は落ち葉を燃やしていたため煙が漂っていました。
そこに日差しが・・・・。ちょっと幻想的でした。

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古墳からはたくさんの埴輪なども出土しています。
この大きな前方後円墳は牛伏4号墳で、全長が72mです。6世紀後半の築造と推定されています。

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味気のない4号墳などと古墳に名前がつけられているが、このあたりにいた豪族がかなりいたことを物語っている。
この古墳公園内には16基の古墳が点在している。

古墳も円墳が9基含まれる。
築造年代は4世紀末から6世紀末の約200年間と考えられている。

これは何を物語っているのだろうか?
いったいどんな人たちが生活していたのか?

公園内は落ち葉を燃やす煙が立ち込め、太陽の光も幻想的な模様を描いていました。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/04 22:25

古代に夢をはせて(5)-手子后神社

 昨日書いた「くれふし古墳公園」に曲がる道を反対方向の東側に曲がってそのまま平地の道を進んで少し登り坂になった辺りの右側に手子后神社があります。(水戸市田島町)

さて、何故のこの神社を「古代に夢をはせて」に載せておきたくなったのかというと、何かこの神社を知るヒントになるのではないかと考えたのです。

手子后(てごさき)神社については前に記事にしています。

基本的には神栖市波崎の銚子大橋の入り口にある「手子后神社」がメインになる神社ですが、茨城県井次の5カ所があります。

・神栖市波崎
・石岡市中津川
・水戸市元石川町
・水戸市田島町
・城里町上圷
であり、すべて近くに古墳があります。

常陸国風土記に「童子女(うない)の松原」として出てくる話に登場する話しで

「那賀の寒田のいらつこ、海上の安是のいらつめといふ、年若くして神に仕へてゐた少年と少女が、歌垣「嬥歌(かがい))」の集ひで二人は偶然出会い、人目を避けて歌垣の庭から離れ、松の木の下で、手を合はせて膝を並らべ語らい謳っていると、時のたつのを忘れ、気が付くと日がさしてきていた。二人は恥ずかしくなってその場で松に姿が変わってしまった。いらつこの松を奈美松、いらつめの松を古津松といふ。」

この手子后神社はこの二人「奈美松命と古津松命」を祀るのが基本なのですが、それぞれ少しづつ違っています。

これを紐解いていくと鹿島郡「香島郡(かしまのこおり)」が誕生した話に行きつくようです。

香島(鹿島)郡は大化5年(649年)に下海上国より「軽野」という土地と仲(那賀)国より「寒田(さむた)」といわれる土地をそれぞれ供出して新しい郡(こおり)が置かれたとなっています。

では最初に書いた神栖市波崎の手子后神社には、この神社は神護景雲年間(西暦767年)の創建で、祭神は手子比売命(てごひめのみこと)。鹿島史によると神遊社ともいい、御祭神は、大神の御女なりとある。又一説には「常陸風土記」の「童子女の松原」に見られる安是の嬢子を祀った社とも言われている。」と書かれています。

大神は鹿島の大神のことです。

こちらのくれふし古墳の里公園に近い手子后神社を見てみましょう。

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祭神は手名椎命(てなづちのみこと)で、この神はヤマタノオロシ退治でてくる足名椎命(あしなづちのみこと)とこの手名椎命夫婦の娘がクシナダヒメのことです。

奈美松、古津松を祀ってはいません。
またこの神社だけが「宿魂石」を祀っているともいわれています。

宿魂石は大甕(おおみか)神社にありますが、この常陸の国に進出してきた建借間命(たけかしま)(那賀の初代国造になった)が退治できない強敵の「星神香香背男(ほしのかがせお)」を退治するために派遣された「建葉槌命」により大甕山でこの宿魂石で抑え込まれているということになります。

この建葉槌命は常陸国二宮である「静神社」に祀られています。

どうですか何か感じませんか?

詳しくは、前にまとめて書いた記事(こちら)を参照ください。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/05 21:11

古代に夢をはせて(6)-鹿の子から五万堀官道

 石岡の鹿の子遺跡は常磐高速道路の工事の時に掘り返して発掘され、多くの住居跡や漆紙文書などが見つかり、地下の正倉院と呼ばれたりしています。

しかし、ここは蝦夷征伐のための武器供給の拠点でした。

見つかった文書などから奈良時代半ばから平安時代初期頃(西暦750年頃から900年頃)にここから東北に向けて多くの人も武器も送り出されたものと考えられます。

このため、現在の高速道路に沿うように広い官道(両端に溝を持つ)が真っ直ぐに水戸の台渡里(延喜式駅家では河内駅)まで続いていました。

この官道はその後廃れ、土で埋まり、一部は鎌倉時代にまた作られたりしたようです。

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見つかった五万堀官道の発掘場所。
ここの場所は石岡からは石塚街道(県道52号線)で涸沼川を「仁古田」の橋を渡り、その先の十字路の信号を左折すると、常磐高速の友部サービスエリア(スマートインター併設)に出るが、この信号から南西方向に斜めに細い道が続いている。

道路の両側には側溝が掘られ、側溝中心間の幅で6~11mで、7世紀後半のものから10世紀にわたって数種類の道路が跡が見られた。幅の広い程時代が古いという。

鹿の子遺跡で見つかっている文書などから、武器工場はもっと古くできていたようなので、この官道は少し後に、いろいろな用途で作られたものなのだろう。

延喜式(927年完成)に書かれている駅家(うまや)の名前はこの先も東山道につながるように続いているので、かなりの人力を使って道を掘ったと思われます。

そののち、ここは五万堀などと呼ばれ、八幡太郎の軍勢が5万人集まったなどと話はそちらにばかり発展してしまいます。

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今もたぶんこの官道が通ったであろう場所を掘れば官道跡が見つかるのではないかと思われます。

この記事ももう3年ほど前に書いたものと基本的には変わりません。
少し思い出しながら時代考証してみています。

古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/06 22:43

景行天皇は東国に来たのか?

 常陸国風土記を紐解いていると景行天皇が東国にやってきた事が数カ所に書かれている。
景行天皇は第12代天皇で、ヤマトタケルの父と言った方がわかりやすい。
しかし実在したのかどうかも分からない。

日本書紀によれば西暦71年から西暦130年の60年間在位したことになり、生まれたのは紀元前13年であるので、143歳まで生きたことになる。
また古事記には子供の数も80人いたとされ、奥さんの数も30人以上です。
また身の丈も一丈二寸(約2m)位の大男と書かれている。
各地の風土記などの記録や日本書紀によれば、景行天皇は息子のヤマトタケル(日本武尊)を東国に派遣し、自らは九州に遠征してそこの熊襲(くまそ)や土蜘蛛を征伐したとされる。

しかし、この時代はというと卑弥呼のいた邪馬台国の後である。
中国三国志(魏志倭人伝)が書かれたのは3世紀末頃であり、邪馬台国は西暦238年から247年頃の出来事だ。

では実際に景行天皇が実在したとするといつごろの時代になるかというと、恐らく西暦350年~380年頃になりそうです。

息子のヤマトタケルは東国を平定して伊勢に戻り亡くなったとされるが、常陸国風土記では、この死を悼み景行天皇は常陸国にも息子ヤマトタケルがたどった後を偲んで訪れます。

数カ所にしか出てきませんが、その跡を少したどってみたくなりました。

次の地図は昔の地形を再現するために「FloodMaps」という地図ソフトで海面の高さを+5mとしたものに風土記に記載された場所を記入したものです。

鳥見の丘3

まず千葉県側ですが、船橋や市川(上総国国府)の方から印旛沼近くの栄町あたりにきて「鳥見の丘」に上り、そこからかすみがたなびく先に陸をながめます。
そしてこのかすみがたなびく陸を「霞の郷」と呼ぶようになります。
この鳥見の丘の候補地を2か所記載しました。
「印西市小林の鳥見神社」と「栄町の一之宮神社」です。

その後どこへ行ったのでしょうか。
常陸国風土記の信太郡のところに、「大足日子(おほたらしひこ)の天皇(景行天皇)が浮島の帳の宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部をして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗(をぐり)の村にある。
と書かれています。
この雄栗の村は現在の陸平(おかだいら)貝塚あたりだと考えられており、この井戸が「ぶくぶく水」といわれる湧水だとされます。

この景行天皇が滞在したという浮島の帳(とばり)の宮については風土記の本文には残されてなく、逸文として残されたものがあります。
浮島の通りから少し高台になったところに「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」(お伊勢の台)という碑が立っています。
それによると、
この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたとされています。

常陸国風土記には景行天王は「大足日子(おほたらしひこ)の天皇」と表記され、日本武尊(ヤマトタケル)は「倭武 の天皇」と表記されています。

倭武 の天皇についてはたくさん出てくるのですが、大足日子の天皇については上記の2か所(鳥見の丘と浮島)だけです。

ヤマトタケルは想像の英雄とすると、その父景行天皇も架空の人物であるかもしれません。
でもなぜ東国の風土記の中にあえて2か所に名前を入れたのには何か意図があったのかもしれません。

まあ、風土記が書かれたのは景行天皇の時代からは350年ほど後になりますし、古事記や日本書紀などの神話成立とほぼ同じ時期ですので、この神話の影響は多分に受けているでしょう。


古代に夢をはせて | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/10/15 19:11
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