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日の丸と源平合戦(1)

 このブログも2010年8月からはじめたので6年が経過した。
最近今までの記事をまとめて本の形にしたがすでに24巻にもなってしまった。

この辺で少し息を抜いてリラックスしてまたそのうち自然体で始めたいと思い始めた。
少しアクセクしすぎだ。

その間、ブログを始める前に書いてHPに載せていた記事をこちらにも転載しておきたい。
中身は今読むと恥ずかしいところもあり、多少手を加えておきたい。

タイトルは「日の丸の起源」というものであったが、少し平たくしておきたいので「日の丸と源平合戦」と改める。

では第1回目です。(数回にわたります)
ただし、これも書いたのは6年以上前なので少しピントがずれていたりしますがお許しください。

■源平合戦

 某テレビ番組の中であるジャーナリストの方が日の丸の起源について非常に興味深い話しをしていたのでここに紹介しましょう。
但しこの内容も後で調べてみると、評論家で大学教授の松本健一氏の話しとして紹介されたものであることがわかりました。
(週刊ダイヤモンド2000年12月9日号)

 京都に今も残る五条大橋は、源義経が武蔵坊弁慶の薙刀をヒラリヒラ~リとをかわして、降参させた場所で観光名所のひとつになっている。

“京の五条の橋の上 大の男の弁慶は長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる/牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へ上がって手を叩く”

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 子どものころに歌ったこの歌にある牛若丸の扇は日の丸の扇だったというのだ。
義経はそのまま壇ノ浦の戦いに出ていくが、その時源氏が平氏に対して掲げた旗は白地に赤の現在の日の丸だった。
一方の平家が掲げていたのは、赤地に白の日の丸だった。
「源平合戦で平家が勝っていれば、日本の旗は赤地に白の日の丸になっていたかもしれないのです」というのだ。

まあこれも諸説あってどこまで信用できるかはわからないが、源氏が白、平家が赤というような区別はされていたという。

 源氏の後に出てきた武将たちは、織田信長も徳川家康もみな自分たちは源氏の流れを汲んでいるという意識を持った。
そして彼らは戦いのときには必ず日の丸の旗を掲げたのだ。たとえば長篠の合戦のときである。

 長篠の合戦は1575年5月21日早朝から始まった。
織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼と戦い、壊滅的な打撃を与えた。
武田方の騎馬隊は信長側の設けた柵に阻まれ、かつ柵のなかから撃ち出された大量の鉄砲によって敗れ去ったが、このあまりにも有名なシーンは、歴史ドラマのなかでもよくとりあげられるシーンだ。

「この時、信長も家康も家紋をあしらった自分の旗を持っているのだが、連合軍として戦うときは日の丸を掲げていた。
対する武田側もまた、日の丸を掲げていました。つまり日本を支配するのは自分たちだと思ったときには、日本の国印、日本全体の国の印として、日の丸のイメージが武将の頭のなかに入っていたのです」

 さらに、外国に対するときも日本人は日の丸を掲げて行うという、常識があったという。
江戸中期に淡路島に生まれた高田屋嘉兵衛は、廻船業を営み、今私たちが北方領土と呼ぶ択捉や国後島のほうまで漁場を開いた人物だ。
嘉兵衛は松前や樺太で交易を続けたが、外国と交渉する場合には、徳川の旗ではなく日の丸の旗を掲げた。

 1853年に米国からペリーがやって来たとき、日の丸は日本側の総船印として掲げられた。
ニッポンを代表する者の旗印が日の丸だった。

「源平の古から、1000年の文化の流れがあって、1853年に米国が開国を要求してきたとき、結果として幕府が日の丸を日本の旗として定めたのです。日の丸は日本の文化のなかから、ごく自然に生まれ育ったのです」と松本氏。

 このような日の丸の成り立ちを識ってみれば、たとえ一時期、それが侵略の非難を受けている戦争に使用されたといっても、日の丸が日本の国印、国旗であることを受け容れることを、多くの人が納得できるのではないか。
逆にいえば、この種の説明なしに、法律によって日の丸を国旗とすることにどれだけの意味があるかということでもある。

このお話は、不思議と気持ちよく響きました。
戦争反対を叫んで「日の丸」に反対する気持ちもわかりますが、もう少し心を広く自国の歴史を振り返ってもよいのではないかと思われます。
先日靖国神社の近くに出かける用事があり、初めて神社に足を踏み入れました。
但し、ここはまだ軍国主義の亡霊がいるようで、戦後の教育を受けた筆者には違和感があり、近づくことに抵抗がありました。

戦争で身内を失った人、戦争責任をまだ受け入れられない人、戦争によってお国の命令で否応無く不幸を味わった人さまざまに想いはちがいます。
十年程前に沖縄での仕事で時間がとれたので、南国の海のリゾート気分を味わっておこうと沖縄南部の観光地を一人で回りました。
そしてリゾート気分で訪れた私を衝撃が襲いました。
一人で回ったせいもありますが、南部の内陸戦争の爪あとを見た時に広島を訪れた時以上の非常に強い衝撃を受けたのです。

韓国ソウルの空港に降り立った時、緑少ない大地が日本が破壊した爪あとのせいだといわれた時、またインドネシアで訪れた立派なホテルが日本の戦後の賠償金で建てたと知った時に受けたインパクトは決して忘れることができません。
硫黄島などに行ったらどんな気分になるのでしょうか?

さて、次回は源平合戦の旗についてもう少し掘り下げてみる前に、一般に言われている日の丸の起源について書いておきましょう。


日の丸と源平合戦 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2016/12/20 22:09

日の丸と源平合戦(2)

■日本船の「船印」として始まった「日の丸」の歴史

 太陽を表すとされる日の丸は、太陽信仰から生まれたものと一般的に解釈されておりますが、古事記などに見られる日本神話、その中心的存在である天照大神のイメージとともに語られてきました。
やがて「日出づる処」、つまり「日ノ本」の国という概念が出来上がっていったと思われます。 

この太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献を探すと、「続日本紀」(797年)の中にある文武天皇の大宝元年(701年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあります。
これが日の丸の原型で最も古いものといわれています。

日像

上の写真は右が日像旗、左が月像旗です。
日像旗は赤地に金色の太陽です。月像旗は黄色地に銀色の月です。

これについてはもう少し別の解釈を探してみました。
この文武天皇の後、天皇が即位する際の飾りでは、正面に鳥形の幢、左右に日月像の旗を立てるようになったと伝えられています。
「日月(じつげつ)紋]は太陽と月を象った紋です。

太陽は天照大御神、月は月読尊を表していると言われています。
この日月の紋のついた旗が「御旗」と呼ばれていたと解釈できます。
つまり、その当時は太陽と月の2つをセットにして考えられていたのです。

このように最初は太陽と月の2つの丸印を立てましたが、どちらが太陽か月であるかを区別するために、太陽を金で、月を銀で打つようになります。

月を丸ではなく三日月にしたものも現れ、室町時代からは菊家御紋章を打つものもでてきて、皇室の現在の紋章となっていったものと思われます。

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■薩摩藩が日の丸の旗を作った?

 この「日像」の旗は現在の横長とは異なり、縦長の細い白地の布に、日の丸が描かれていたと伝えられています。
現在の日の丸の旗が正式に採用されたものとしては、鹿児島の愛好家によるHPによると、「薩摩藩主島津斉彬(しまずなりあきら)が1853年(嘉永6)11月に幕府に大型船・蒸気船建造申請を行ったときに、日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した、白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言しました。
これにより幕府もその必要を認めて、1854年(安政2)に日の丸を日本全体の総印とする旨を、全国に布達した」と表現されています。 
1854年(安政2)、薩摩藩が建造した昇平丸が江戸の品川に入港したとき、日の丸が揚げられ、これが、わが国の船印として揚げられた最初のできごとだったのでした。
それから日の丸は貿易の際、外国に対して日本の標識として必要不可決なものとなっていった」
と記載があります。

これは史実では正しいでしょうが薩摩からみた日の丸の歴史と考えるべきでしょう。

■御朱印船につけられた日の丸

 上に述べた日の丸制定の歴史は、正確にはもう少し前の時代にさかのぼる必要がありそうです。
現在の通常郵便切手の初期のものとして、第1次昭和切手といわれる切手の中に昭和12年5月に発行された紫色の「御朱印船」(五厘)がありますが、ここには日の丸の旗を掲げた御朱印船が鮮やかに描かれています。

切手五厘

 豊臣期から徳川の鎖国令(1639年)までの間に行われた朱印船貿易。
その船の船尾には、日本の船籍を表すものとして「日の丸」」の旗が立てられていたのです。                        
 これが、江戸時代になって幕府は「日之丸御城米積船」の旗印を、名前にもある通りに「日の丸」としました。
正式には先の1854年に「日の丸」は島津藩の進言もあり幕府によって日本の総船印とされたのです。

 開国後初めて大西洋を渡った咸臨丸は、この「日の丸」の船印を船尾に翻して、堂々サンフランシスコに入港しました。

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「日の丸」は、西欧文明への扉を開けた時に、対外的に日本の国を表すシンボルとして自然に掲げられ、当時の日本人の目には反対の考えなどなかったのではと思われます。

■1999年国旗・国歌法制化の時の説明

 小渕内閣の時に制定された「国旗・国歌法」の審議での自民党 橋本聖子議員(オリンピックスピードスケートとして活躍)の質問時の内容です。

 御承知のとおり、我が国の国旗日の丸、国歌君が代は、ともに遠く一千年以上も昔にその起源を持ち、歴史のあるヨーロッパ諸国のそれと比較しても、長い歴史と伝統を有しております。
 起源が古いだけではありません。日の丸・君が代は、この一千年の間、絶えず広く庶民の間で大切にされ、伝え続けられてきた歴史的事実があります。

 日の丸の意匠は、西暦七〇一年、文武天皇の朝賀の儀において使われたと続日本紀に記録され、以後、平安末期から戦国時代には武門の誉れ、正義の旗印として使われてきました。また、近世初頭に東南アジアへ雄飛した朱印船には日の丸の旗が翻り、江戸時代は専ら幕府の御用船で使われました。

 さらに、日の丸は、武家社会だけでなく、田植えの田楽などでも広く庶民の間に広まっておりました。古今和歌集に詠み人知らずで記載された君が代も、鎌倉・室町時代には神社仏閣の行事うたに、江戸時代には庶民たちの小うた、浄瑠璃、盆踊りうたなどに歌い込まれ、各層に親しまれたのであります。

それは、京や江戸といった都市部だけでなく、遠い南海の種子島の祭礼歌にも登場するなど、全国各地に普及しております。君が代は、身分の分け隔てなく、地域の隔てなく、一千年以上にわたり我々の祖先が歌い継いできた、まさに祝賀の一大国民歌謡であると言えます。

 また、近代国家の成立とともに国際交流が盛んになる中で、この日の丸・君が代はさまざまな国際会議、スポーツの祭典でも国旗・国歌として内外にあまねく認知されてきました。 ・・・・・



この説明は一般的に言われていることを述べておりますが、日の丸を掲げ、戦争に突入していった時の暗い思いを抱いた人、また戦後の日本人としてのアイデンティティを否定された教育の下で育った人たちにいくら説明しても、源平合戦ほどの説得力はありません。

もう少し源平合戦をもとに、この日の丸の歴史を考えてみたいと思います。


日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/21 13:49

日の丸と源平合戦(3)

その3-那須与一と扇の的

■那須与一

 日の丸と源平合戦の話の続きを聞いてください。それは有名な弓の達人那須与一のお話しです。

 日の丸の扇をかざして弁慶を家来にした牛若丸(源義経)は、元暦2年(1185)2月、四国屋島に陣をしいていた平家をわずか150騎の軍勢で背後から攻めたてました。
慌てた平家は船で海に逃れ海辺の源氏と対峙することになりました。
戦は一進一退が続き、やがて夕暮れに近づきます。
この時平家方から立派に飾った一艘の小舟が源氏の陣に近づいて来ました。
見ると美しく着飾った女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っています。「この扇を弓で射落としてみよ」という挑戦でした。

 義経は、弓の名手那須与一を呼び寄せ「あの扇を射て」と命じました。
与一は何度も辞退しましたが、聞き入れられず意を決して馬を海中に乗り入れました。
このとき与一は弱冠20歳。「平家物語」では、このくだりをおおよそ次のように書いています。

 時は2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。舟は揺り上げられ揺り戻されているので、扇は少しも静止していない。
沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。(中略)与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。
これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。
今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな」と念じて目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり的の扇も射やすくなっているではないか。
与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。
子兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。
鏑矢は、浦一体に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸ほど離れたところを射切った。
鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。
紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動した。

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「平家物語絵巻」巻十一より屋島の戦い「扇の的」

 屋島の戦いでは当時の四国水域を支配していた熊野水軍が源氏の見方となり、平家は敗退するのですが、真偽の程は分かりませんが、この熊野水軍の統率者である熊野別当の湛増は弁慶の父と伝えられております(御伽草紙など)。
これはどうも物語を面白くするために作られたのではないかというように感じます。
この熊野水軍が源氏方につくにあたっては、赤白各7羽の鶏を闘わせ(闘鶏神社:紀伊田辺駅の近くの社)、その結果、全て白の鶏が勝ったためと伝えられております。

もっとも家来には平家にも身内が多く、源氏に加担するための演技だったとする説が本当のようです。
源平で赤と白の区別がはっきり決まっていたことが伺えるのも面白いです。

 平家は壇ノ浦の戦い(3月24日)にも破れ、滅んでいきました。
那須与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の総領(後継ぎ)の地位と領地として五カ国内の荘園を与えられたと伝えられています。 
また、与一は文治3年(1187)、それまでに平氏に味方し行動を共にしていた兄9人と十郎に那須各地を分地し、これ以降那須一族は那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていったということです。
那須の地名から那須与一を思い出す方は歴史通かも知れません。その那須も那須御用邸があり、温泉ときれいな紅葉は素敵ですが、いろいろな会社の保養所が相次いで閉鎖となり、段々と寂しくなっていくのは時代の流れなのでしょうか。
(注:これももうだいぶ前の話です)


 ところでこの屋島での平家の船に掲げられた日の丸は、今の日の丸の色ではなく、平家物語では、皆紅の扇と書かれています。地がすべて紅(赤)となっています。
では真ん中の丸はというと白ではなく金色だったようです。
もし平家が勝っていれば日の丸の旗は赤地に金色になっていたかも知れません。また扇の語源は、“あふぎ”で風を送り「神霊を仰ぎ寄せる」ことを意味しており、厄除けになると思われていました。


■与一の矢がもし外れていたら? 

 那須与一の矢が平家のかざした日の丸扇の的をもし外していたら、歴史も変わっていたのでしょうか? 
もし扇に当たらなかったら戦意も平家に傾き、日本の日の丸の旗は赤地に金色の日の丸となっていたかもしれません。
この那須与一の技がどれくらい優れていたのかを検証した、面白い記事を見つけましたので紹介しましょう。

 「ここに現代の全日本遠的競技会に数度に渡り優勝の経験を持っている、那須与一と同年代の3人の射手によって、実験が行なわれました。ただし「平家物語」の記述中にある条件の「馬上」と「鏑矢」というのは設定が難しいので、海岸に立って遠的用の矢が使われました。

 これにより那須与一よりも有利な条件になってしまいましたが、そして距離を「平家物語」の記述では5~6段「1段は6間」となっていますから約65メートルから75メートルの間となりますが、那須与一が弓を引く間際に、味方の者から声をかけられて少し扇に近づきましたから、それを考えて実験では60メートルに設定しました。

また舟に立てられた舟竿の高さは3メートルと仮定して、その先端に的を立てました。的は一回目は弓道の近的競技に使われる直径36センチの的を使い二回目は直径52センチの舞扇を使いました。実験は3人の射手が5本づつの矢を引き各々の射当てることができるかどうかを試みました。

直接、舟上にある的に向かって行射を開始しました。実験中に霧雨が降り出し的は的自信の半分ぐらいの幅でゆっくりと左右に動いています。
そして的の近くには飛んでいきますが、上下左右にと矢は的を通り越していきます。
そして二本目、三本目、四本目と3人ともにはずしてしまい、残り一射となりましたが2番目の射手である、B選手が見事に的を射抜きました。
次に挑戦の目的である扇を的に射ることにしました、60メートル離れたところにある扇は予想以上に小さく一本目、二本目、・・・四本目も3人全員外してしまいました、五本目各自最後の矢ですがA選手は真上にはずし、B選手は左上にはずしました。
そしていよいよ最後に残った、C選手に一同の最後の望みをかけることになりました。

C選手はこの一矢に全身全霊をこめて静かに弓を引き分け、一瞬の後、矢は放たれ扇に向かって吸い込まれるように飛行。
矢は扇の右上に見事命中しました。3人の中でただ一人が5回目で当てたことになります。」

 両軍の兵が見守る中、那須与一が扇の的をただの一矢で射落とすことができたのは与一の神業的な技量とともに、幸運にも恵まれていたのでしょう。
那須与一の技量と、当時の弓の性能と、今回の3人の技量と現代の弓の性能とを比較するのは難しいですが、しかし弓の性能は現代の方が格段に上なのはたしかです。


日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/22 21:55

日の丸と源平合戦(4)

その4-甲斐武田家伝来の家宝は日の丸?

■御旗・楯無も御照覧あれ
 
 戦国大名として有名な武田信玄。
この武田家では、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、それまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、それ以上の議論は止めなければならなかったといわれています。

「御旗(みはた)・楯無(たてなし)」は共に武田家の家宝であり、絶対に従わなくてはならない最も神聖なものでありました。
御旗(みはた)というのは新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜された「日の丸御旗」であり、源氏の直系を示す旗です。
「楯無(たてなし)」というのは義光が使っていた鎧(楯が無くても槍や刀を通さない丈夫な鎧)」のことであり、「この鎧に勝る楯無し」がその語源です。

御旗  楯無

左:御旗(みはた):山梨県塩山市 雲峰寺所蔵   右:楯無(たてなし):山梨県塩山市 菅田天神社蔵
 
武田信玄の子(四男)武田勝頼と織田信長が戦った「長篠の戦」では、信長が3,000丁の鉄砲で、当時無敵と言われた武田の騎馬隊を破りましたが、実は、この戦いの前夜、武田軍側は「引くべきか、攻めるべきか」で議論が紛糾したといわれています。

長老達は「引くべき」と主張し、若手は「攻めるべき」と主張し意見が分かれまとまらなかったのです。

このため、勝頼が「御旗・楯無も御照覧あれ、明日は戦いで勝負をつけよう!」というと、その瞬間、その場にいたすべての人は議論を止め、戦が始まったと伝えらています。

その結果は、皆さんがよくご存知のように、武田軍は信長の三段構え?の鉄砲隊の繰り出す砲弾の前に無謀な突撃を繰り返したのです。
途中から体制を立て直し、作戦を変えることも出来たでしょうに、勝てぬ戦と知りながらも引くことは許されなかったのでしょう。
この結果天下無敵と言われた武田の騎馬隊もほぼ全滅してしまいました。
この時武田軍が勝っていればそれから先の歴史は大きく変わっていたのは確かだと思います。

まあこの話もどこまでが本当かということは推論もあるようですので確実ではありませんが、エピソードとともにこの日の丸御旗を考えてみるのも今となっては楽しいことだと思います。

 さて、この「御旗・楯無も御照覧あれ」の言葉は現代でも、会議が長くなり、たくさんの意見が出すぎてしまって、結論が出なくなった時などに、誰かが決断する必要がある時などに、時々例として取り上げられておりますが、決断を下した結果がみじめな結果に終わることもあるので、間違ったと分かった時には軌道修正することも必要ですね。

■甲斐武田家は源氏の直系
 
武田家は清和天皇(850-880年)に始まる清和源氏の血を引く、名門の家です。

武田家は清和天皇から数えて4代目満仲(摂津源氏)の三男頼信を祖とする河内源氏の流れです。
頼信の子頼義には三人の子があり、長男は八幡太郎義家であり、この子孫が鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

武田家の祖は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)といわれており、寛徳二年(1045)源頼義を父に、上野介平直方の女を母として生まれ、近江国(滋賀県)円城寺(三井寺)の新羅明神で元服し、新羅三郎を名乗っています。

知謀に富み、弓術をよくし、笙(しょう)の名手だったと伝えられ、歴史上重要な人物です。
三郎の名の通り三男で、長男八幡太郎義家に比べ50歳を過ぎてから頭角を現します。
また次兄義綱は「賀茂次郎」と呼ばれています。

前九年・後三年の奥州合戦によって東国源氏を武門の家として確立した新羅三郎義光は上の兄二人に隠れてか、官途につくのが遅く、左兵衛尉になった時すでに四十代に手のとどく歳になっていました。
そして常陸介(ひたちのすけ)の受領職についたのは五十代の後半であり、義光の本領が発揮されたのは、それ以後のことです。

■日の丸の御旗の由来

新羅三郎義光は、父頼義が後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜された「日の丸御旗」と「楯無鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲りました。

これが、義清・清光父子とともに常陸國から甲斐國に伝えられ、甲斐武田家の家宝となったのです。

以来、御旗・楯無鎧は、武田家の惣領のしるしとして、信玄・勝頼に至るまで代々引き継がれていきました。

この御旗はまさに日の丸です。少し朱色の丸の部分が大きく、地も白色ではありません。
しかし当時日の丸が天皇家、源氏直系の印と考えられていたことがわかります。

 さて、この日の丸の御旗は何故長男「義業」ではなく「義清」に渡ったのでしょうか。

詳しく書かれている文献が見当たりません。もし、「義業」に渡っていればこの家系は常陸国を統一し、秋田藩を400年栄えさせた佐竹家ですので、武田家の家宝についても、何かいわくがありそうです。

これについてはいくつかの説があるようですが、その一端を紹介しましょう。

説によると新羅三郎義光の長男の義業は,義光の兄,加茂二郎義綱に後継ぎがいないため義綱を継ぎ,そのために義清が義光を継いだ というようにも言われています。

しかし、加茂二郎義綱に子供がいなかったのではなく、複雑な事情がありそうです。
京都の賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と呼ばれました。
父や兄と共に前九年の役で戦い、その勲功を賞され右衛門尉へと任ぜらましたが、後三年の役には参戦していません。
新羅三郎義光は後から応援に駆け付けます。

嫡男である義業が家督をついでいたらこの「日の丸の御旗」は佐竹家に伝わっていたことになります。

しかし、加茂二郎義綱のことを調べていくとなんだかドロドロとしたお家事情が見えてきます。

八幡太郎義家が死亡した後、河内源氏の棟梁は義家の三男の義忠が継いだ。
しかし、その3年後に義忠が何者かに斬られて殺された。その嫌疑が加茂二郎義綱とその三男の義明にかけられた。
疑いをかけられたjことに抗議して山に立て籠もったりし、義忠自害、義綱は佐渡に流され、20年後に自害したという。

今ではこの事件は冤罪で、新羅三郎義光のはかりごとだったと言われているそうだ。(Wikipediaより)


日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/23 22:06

日の丸と源平合戦(5)

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その5 新羅(しんら)三郎義光はどんな人物? 

■新羅三郎義光に係わる昔話

 武勇の達人である新羅三郎義光は笙(しょう)の名手でもあり、いろいろなエピソードが残っています。
そのいくつかを紹介しましょう。

【源氏の白旗】【流鏑馬】

 新羅三郎義光は、(後三年の役で)兄の八幡太郎義家が奥州地方の反乱をしずめるために戦っているのを助けようと朝廷の許しが無いにも係わらず、京を出奥州へ向かいます。

途中、甲斐の国にさしかかった時です。山深い甲斐で道に迷い、一歩も前へ進めなくなってしまいました。
その時、黒い立派な馬をひいた不思議な木こリが現われ、義光に道案内を申し出ました。

 奇妙なことに、木こりが歩いていくと、それまでは草木が生い茂って道などまったくなかったところに、自然と道がひらけていきます。
義光が驚いてあたりをよく眺めてみると、草木のなかに隠れて、真っ白い旗がところどころに立ててあります。
「この白旗が、道の目印になっているのだ。それにしても、誰が立てた道しるべなのか」
 義光はますます不思議に思いました。
木こリはなにも言わず、もくもくと進んでいきます。
やがて、目の前が広々とひらけました。
「さあ、ここが頂上です。あとは、この道をまっすぐ行けぱ、奥州へ抜けられます」
そういうと、黒駒と木こリの姿はまたたく間に消えてしまいました。

 義光がいまきた道を振り返ってみると、八本の白旗が見えました。
「そうか、八本の白旗は、源氏の守リ神の八幡大菩薩をしめすものに違いない。あの木こリこそ、八幡大菩薩の化身だったのだ」

 義光は山をおリると兵と馬を集め、冨士御室浅間神社に祈願し、奥州へと出陣していきました。
戦はみごとに勝ち、義光は帰リにも御室浅間神社にもうて、盛大な感謝のお礼祭をしました。

 冨士御室浅間神社の流鏑馬はこの時からはじまったと言われています。

【新羅三郎義光吹笙の石】

 群雄割拠の時代にあって新羅三郎義光は風流な笙(しょう)の名人といわれ、笙は豊原時元に学びました。
時元は並び無き笙の名人でありましたが、一子時秋がまだ幼少のため、家伝の秘曲を新羅三郎義光に授けました。

 その後、三郎義光は奥州で苦戦していた兄八幡太郎義家を助けるために京を立って奥州へ向かいます。
まだ若き時元の子時秋は、義光の戦死による秘伝の秘曲が永遠に伝わらなくなることを恐れ、義光の後を追いかけ、足柄山でついに追いつきます。

この時義光はその志を察して、時元より伝えられた秘曲・大食調とハ長曲の二曲を中秋朧月夜の元で時秋に授けるのです。
この時の笙の音色を、無念無想ただ嫋嫋(じょうじょう)と表現されています。

新羅三郎義光はこの時、時秋に「我は武のため、貴殿はこの道のため」と諭し、笛の秘曲の奥義を伝えたとされています。この故事にちなみ毎年9月の第2日曜日に足柄峠笛まつりが開かれています。

Ashigara.jpg
笙を吹く源義光を描いた『足柄山月』 月岡芳年「月百姿」(Wikipediaより)


この時代は東海道は足柄峠を通っていたのです。
足柄峠を通る東海道については前に書いた記事を参照ください ⇒ こちら


【新羅三郎義光伝来薄墨笛】

 源義経が牛若丸時代から愛用したといわれる横笛。
七百年の風雪に耐えて奏者を得ればいまにさえた音色を惜しむところがないといわれ、駿河国新風土記の久能寺の条に「源義経所持薄墨の笛、此笛蝉(笛につく装飾金具)なし中村式部少輔再興、笛の頭に金にて村の字を置り」とあります。

また駿国雑誌巻二十九上有度郡の条に「義朝朝臣の常に手馴持玉ひし漢竹の蓬調の薄墨と名付けたるを常磐の方より御曹司に伝え置れしを身を放たず携玉ひ」また「浄瑠璃姫別れの悲しみにたえず終にむなしくなれり。
母は姫の年ごろ携る所の器物を蓬莱寺に納め薄墨といえる笛は駿河国有度山久能山に納玉云々」と記されてあります。

 さらに笛の添え状には、薄墨の笛がそこなわれていたので文禄四年(1995)に駿河国城主中村一氏式部小輔が補修したという記録があることから、この笛は新羅三郎義光伝来のものが源義朝~常磐御前~義経~浄瑠璃姫~久能寺と伝わったといわれています。

 牛若丸が五条大橋で弁慶を家来にした際持っていたのは、日の丸の扇とこの横笛です。
牛若丸こと源義経が壇ノ浦で大活躍し、平家の滅亡につながったのですから、非常に興味深い話ですね。
(この話がどこまで真実かはよくわかりませんが・・・・)

久能寺は石岡も関係のある(高浜神社に扁額がある)山岡鉄舟が復興し、寺号も鉄舟寺と改まっています。

■武田家に関する逸話 

 長篠の戦で敗れた後、天目山の戦で武田家はついに滅びてしまうのです。
もっとも信玄により自害されられた長男にかわり、相続すべき次男は盲目であったために家督相続できなかったそうで、その子孫は現在も健在とのことです。
一方武田家は勝頼の死後、信玄の孫(信玄の養女が母との説)が、真田幸村となって大阪夏の陣で家康を追い詰めますが、討ち死にして武田家が途絶えたとの見方が一部でありますが、真田幸村は武田の武将真田昌幸の次男であり、信玄の弟「武田信繁」より名前をつけて源次郎信繁が本名です。
この武田信繁は信玄の影武者となり、川中島の戦で戦死しています。
幸村についてはまだまだなぞの部分が残されていますね。

 真田幸村は魅力的な武将です。中国三国志の諸葛孔明を思わせる魅力があります。
真田十勇士など数々のロマンの物語が生まれています。
ここは日の丸のお話ですから、真田幸村の話は他に譲って、当時の家紋が戦時中にどのように使われたのかについて、興味深いお話をします。

■真田幸村の旗印 

 1567年(永禄十年)、武田氏に仕える信濃国上田城主真田昌幸に、二人目の男の子が誕生しました。
これが後の真田幸村です。 
1582年(天正十年)、武田勢は、天目山の戦に破れ、昌幸の軍も上田城に引き返すことになりました。
ところがその途中、四万余の北条軍に遭遇してしまったのです。

「わが軍は、わずか三百。これでは到底勝ち目がない。さて、どうしたものか。」
思案に暮れる昌幸の前に、当時15才の幸村が進み出ました。
「父上、私によい考えがあります」「おお、幸村か。よい考えとは何じゃ」「私に紋のない旗をお与え下さい」

 幸村はその旗に北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。
北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。
それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着いたのです。

「でかしたぞ。幸村。
これにちなんでそなたの旗印には六つの銭を描くがよい」こうして、幸村は六文銭の旗印を持つことになったのです

■武田の旗印-風林火山

 一般的に風林火山として知られている武田軍の旗印。もともと「風林火山」という言葉は、中国の孫子によるものだそうです。そして、この風林火山には続きがあります。 

其疾如風:その疾き(はやき)こと風の如く
其徐如林:その徐か(しずか)なること林の如く.
侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く
不動如山: 動かざること山の如く
難知如陰:知り難きこと陰(やみ)の如く
動如雷震:動くこと雷の震う(ふるう)が如し

すべてを用いれば、『風林火山陰雷』となりますが、語呂が悪いですね。最初の4つを採用したところは武田信玄のセンスの良いところでしょう。知り難きこと陰の如くを採用せずに「御旗・楯無も御照覧あれ」と盲目的に突撃した武田軍と太平洋戦争中の日本の特攻隊にも何か共通するものが感じられます。
分からないことをどうやって知ろうか? 情報をいかに正確に伝えようか? 世界は益々難しい局面に入ります。
歴史に学ぶことも多いように思います。

日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/24 20:41

日の丸と源平合戦(6)

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その6-日の丸の扇(平家の赤旗、源氏の白旗)

■平家の赤旗、源氏の白旗 

 鎌倉の鶴岡八幡では、橋をはさんで片方が源氏池、もう一方が平家池と呼ばれていますが、その源平にちなんで白の蓮と紅の蓮が植えられています。
でも現在では白と紅がまじってしまっており、遠い昔が偲ばれます。

遠いといってもまだ800年と少し前のことですが、この頃の時代はずいぶん昔に感じるのは今の歴史の教育は面白くないのですかね。
先般より中学校での歴史の時間は大幅に減っているようです。
でもこの私の時代でも古代史から始めると近代史はほとんど駆け足でしたし、大学受験では世界史専攻で日本史はさっぱりわからずに来てしまいました。
今になって少し興味が湧いてきたというところです。教育では何か身近なものとして捉えるための工夫をして欲しいと思います。

 源・平の旗について『平治物語』待賢門戦の条に「平家は赤た赤しりし、日にえいじてかがやけり、源氏の大はたをしなべて白かりけるが、風に吹きみだされ、いさみすすめる有さまは、誠にすざまじくこそ覚えけれ」とあります。

 このように、源・平両氏は、当時、白・赤の旗で、自分たちの目印としたことがわかります。
この当時は争うのは2つですから、いずれも無地の源氏の白旗、平家の赤旗の二色ですんだのです。
上古以来の朝廷の軍の旗が赤色であったことから、平氏がその伝統を先取りして赤旗を用いたものであり、源氏はその対抗上、白旗を用いたものと考えられていますが、源氏はこの白を純粋無垢、清浄神明の色で、神の宿る色、神の加護(八幡大菩薩)を期待し得る色として掲げていました。

 文治元年(1185)、平家一門が滅んだとき、源頼朝は、白旗を源氏嫡流の旗として、余人の使用を許さなくなりました。
群雄割拠の戦国時代には、陣幕・旗指物・幟・馬印などに家紋がつけられ、遠距離からも彼我の区別ができるようになります。
この家紋は公家にはじまったものですが、急速に武士の間に普及していったのです。

■秋田藩佐竹家の家紋 

 平家滅亡後五年目の文治五年(1189年)八月、源頼朝が藤原泰衝征伐のため奥州に軍を進めた時のことです。
下野国宇都宮を通過の際、常陸国から馳せ参じた源氏の一族佐竹隆義が、無文の白旗を掲げているのを見とがめ白旗の使用を禁じました。
このとき、頼朝は隆義に、月を描いた扇を与えて、この文様を旗につけるよう命じたと『吾妻鏡』は伝えています。

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佐竹家の家紋:月印五本骨軍扇

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花菱月丸扇紋蒔絵鏡台
(宇和島伊達文化保存会蔵 )

 
 佐竹氏はその後、豊臣秀吉の小田原北条氏攻略に参陣し、その時の功績から、秀吉より常州の旗頭になるよう命ぜられ、水戸城を攻略し太田城(日立太田市)より水戸城へ移り、1591年に常陸国(茨城県)を統一した豪族です。

ところが、関が原の戦いでは石田三成に加勢し、家康より54万5千石から20万5千石に減封となり、秋田へ国替えを命じられてしまいます。
1602年のことですから今から約400年以上前のことでした。
しかし、この佐竹家は秋田で久保田城を完成させ、それから明治維新まで秋田を治めることとなります。
茨城県にすんでいる私にとっては非常に興味深い歴史を感じます。

 この家紋を「日の丸扇」と称するする人が大勢おります。
しかし、各種の文献を見てみると、月の丸と解釈するのが正しいと思われます。
その代表的なものとしては、花菱月丸扇紋蒔絵鏡台があります。
これは安政3(1856)年に秋田藩佐竹家より宇和島藩伊達家に嫁いだ佳姫の婚礼調度一つであり、黒漆地に花菱文・幸菱紋で全体を埋め尽くし、要所に佐竹家の家紋(月丸扇)を入れた優美なデザインになっています。

ただし、佐竹家も源氏の流れを汲む家柄で、常陸源氏を称しており、いつのまにか月が日の丸と多くの人々に思われるようになっていったのではないでしょうか。

例えば、江戸時代に秋田藩の上屋敷があった東京神田には「佐竹稲荷神社」が残っていて、この社紋は「扇に日の丸」と解釈されており、明治初めに付けられた新町名の(神田)旭町の由来はこの日の丸扇と言われています。

また秋田県にはある日の丸醸造株式会社の清酒「日の丸」があり、この名前の由来も佐竹藩の家紋「五本骨の扇に日の丸」と解説されています。
この酒造所の創業は元禄二年(1689年)と書かれておりますので、かなり古くから「日の丸扇」との一般的な解釈がなされていたものと思われます。

日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/25 19:27

日の丸と源平合戦(7)

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さて、源平と言っても何故「平氏と源氏」と言わないで「平家」というのでしょうか。
平氏について少し掘り下げてみましょう。

その7 - 関東における平氏と源氏について

■ 平氏の祖は平高望、平国香である?

 この平家というのは一般には室町時代の後期に京の都で一大勢力を築いた平清盛を代表する「伊勢平氏」のことをさしています。
このため、西の平家に対し東の源氏との一部でいわれている様に、平氏も西(関西)が中心と考えられがちですが、この平氏(桓武平氏)の起こりは室町幕府(平安遷都)をおこした桓武天皇の曾孫「高望王(たかもちおう)」が889年に宇多天皇より平(たいら)姓を受けて皇族(貴族)より下って(臣籍降下)、上総介に任じられ、上総の国(今の千葉県東部)にやってきたことが始まりだといわれています。

平高望はこの元皇族である地位と人脈を使い地方の豪族と仲良くなっていきます。
そして勢力を関東一体に拡げていったのです。未開拓の土地などの開墾なども積極的に行っており、関東の発展に寄与したといっても過言ではないでしょう。

この桓武天皇の系列は桓武平氏とよばれ、関東に根を張っていった高望王の系列と京の都に公家として残った高棟王の2つの系列があり、高望王の系列から清盛が、高棟王系列より清盛の妻「時子」が出ています。

少し時系列的に流れを見ていきましょう。

■ 関東平氏(坂東平氏)の起こり

1)平安時代に桓武天皇の孫である高望王が平(たいら)の姓をもらい(889年)民間に下って、上総介(かずさのすけ)として上総(千葉)やってきます(898年)

2)その時、国香・良兼・良将という3人の子供を連れてきます。そして高望王は任期が終了し、902年に大宰府に西海道の国司として転任となりました。
しかし、3人の子供達はこの常陸・上総・下総の地に残り、土地の豪族と手を結んでこの地に土着します。

3)長男国香は筑波の豪族であり、前常陸大掾の源護(みなもとのまもる)の娘を妻にむかえ常陸国にその基盤を築いていきます。
この国香の子孫が代々常陸国の大掾職を継いで大掾氏を名乗るようになります。

平清盛を代表とする平家と言われるのはこの国香の子孫で伊勢平氏といいます。

さて、この大掾(だいじょう)という職位はあまり聞きなれない言葉ですが、その当時の国司の職位は守(かみ)、介(すけ)、ときてその下が掾(じょう)といいました。大国(延喜式の記載では13ヶ国)と言われた国にのみ大掾と少掾が置かれていました。掾の下に目(もく)が置かれていましたが、これも大国は大目、少目が置かれました。

また、常陸国は、都の大和朝廷(皇族)の収入が困窮し始めたため、上総国・上野国とともに、天長3年(826年)以降、皇族が直接統治して税を徴収する親王任国に指定され、親王が国守となり現地には来なくなりました。
「介」も次第に名誉職となり現地は大掾(だいじょう)が取り仕切るようになって行ったのです。

4)次男の良兼は父高望王の上総介の後を継ぎ上総、下総国に勢力を張って行きます。真壁などでもこの良兼は勢力を持っていたようです。

5)三男良将(よしまさ)(良持ともいう)はやはり源護の娘婿となり下総の勢力を拡大していきますが、子供の平将門がおこした乱で敗れたため、良将の正当な子孫はいなくなりました。(将門の子孫を名乗る相馬氏などはおりますが)

■ 千葉氏の祖「平良文」について

 高望王とその三人の子供(国香・良兼・良将)が上総にやってきて常陸・下総などで勢力を拡大していきましたが、もう一人高望王には重要な子供がおります。
それが平良文です。一般的には五男といわれています。良文は高望王の側室の子といわれ、高望王が上総・坂東にやって来た時はまだ幼かったこともあり一緒にはやってきませんでした。

しかし、この良文が後に坂東八平氏(秩父氏、上総氏、千葉氏、中村氏、三浦氏、鎌倉氏など)の祖となり、特に民俗的にも謎とされている千葉氏の祖とみなされています。

高望王の正室の三人の子供は将門の乱で戦をすることになりますが、良文は戦には加わっていないようです。

坂東(関東)には武蔵国村岡(埼玉県熊谷市村岡)に移り住み、村岡五郎(五男なので)と呼ばれるようになります。
その後相模国村岡(藤沢市)、下総国村岡(下妻市)や千葉県の東庄町や旧小見川町(香取市)にも住んでいたと言われるように多くの領地を得ています。

陸奥守であった良文は、鎮守府将軍に任じられ(939年)、胆沢城にも留まり陸奥国の平定にも力を注ぎます。

翌年940年に坂東に戻りその後の秩父、上総、三浦、鎌倉などに勢力を拡大していったようです。

千葉氏、三浦氏などもその後の歴史ではかなり重要な役割を担っています。

 ■ 将門の乱(承平の乱)

 平高望の子供たちはこのように関東各地へそれぞれ開墾なども行いながら勢力を拡大していきましたが、平高望の3男「良将」の子「平将門」が935年に反乱(承平の乱)を起こし、平氏同士の戦いが始まります。
この戦いで「国香」は殺され(自害)、常陸国府(現石岡市)は将門の3000人の兵に囲まれ、町を焼かれ、常陸介藤原維幾は降参し、国衙の印を奪われてしまいました。
この結果、関東一円を支配した将門は新皇を名乗り、茨城県岩井(現坂東市)に新しい国家を宣言して京の朝廷と対立してしまいます(939年)。
将門は生まれは関東で、幼少時代を過ごしますが、後に京の藤原北家にて世話になり、主従関係を結びます。
そして930年に京より関東の地に戻ってきました。
しかし、関東に残っていたと思っていた自分の土地は国香などが占拠しており、わずかな土地からの再出発となってしまいました。

しかしその後、将門は新たな土地を開拓し、そのたぐい稀な武力と精神力で勢力を拡大していきました。
しかしこの新たに手に入れた土地も「国香」や「源護(みなもとのまもる)」らに狙われ、争いになってしまいました。
やがて、関東平氏同士の争いとして935年に承平の乱が始まります。
しかし将門の武力は非常に強く、源護の3人の子供は殺され、国香も自害に追い込まれてしまいました。

源護の子供が殺されたため、姻戚関係にあった平良正(たいらのよしまさ)が将門追討に兵を挙げます。
しかし、将門の武力の前に破れ、兄の平良兼(国香の弟)に援助を要請し、平良兼(よしかね)は国香の子、平貞盛(さだもり)と共に将門の討伐に参戦します。

それでも将門は圧倒的に武力で勝っており、たちまち3人を追い込んでしまいました。
やっとのことで3人は都に逃げ込んで朝廷に将門の処罰を要請し、将門も都に呼び出されますが、将門は都にも協力者をもっており、恩赦もあり、許されて坂東に戻ることが出来ました。

しかし、良兼らは再び将門に戦を挑みますが、当初は全て負けてしまいます。
そしてついに939年11月に常陸国府(現石岡市)を約1000名の兵で襲い国府の印と鍵を奪い取ってしまいまた。
この時常陸国府は町中を焼かれてしまったのです。
(国府には3000名近い兵がいたのに、それ程将門は強かったのです。今でも国府では将門は敵です)。

また、その後、下野(しもつけ:栃木県)、上野(かみつけ:群馬県)の国府を占拠し、下総(しもふさ)国で「新皇」を宣言して、関東に新たな国を樹立してしまいました(939年12月)。
これにより完全に「朝敵」となった将門は、朝廷の援護を得た藤原秀郷・平貞盛連合軍4000で将門への攻撃がはじまり、940年2月流れ矢に当たり将門は39歳でこの世をさってしまいました。

■将門の首が空を飛んだ??

 将門の首は京の都へ運ばれ、東市(現:下京区四条新町)にさらされました。
この将門は当時の京の都では、富士山の噴火(932年、937年と噴火が続いた)などもあり、不吉な世を暗示するかのようで、大変恐れられていたため、その首の形相がものすごく、死してもまだ動いて噛み付いてくるようで近寄る人もほとんどいなかったといわれています。

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 都に曝された将門の首(『平将門退治図会』)

2月に戦死し、京にさらされたのが4月であったのに、その首は夜な夜な恨みの言葉を発したとも噂は尾ひれがついてまことしやかに囁かれていました。
そして、ついにその生首は故郷(坂東)を目指して空を飛んでいいって、途中力尽きて、江戸大手町に落ちたため、そこに首塚と将門を祀る神田明神が建てられたといわれています。
この首塚は、東京大手町の高層ビルにはさまれたところにあり、江戸時代には大老酒井雅楽頭の上屋敷がありました。
伊達騒動で原田甲斐が殺傷事件を起こした場所でもあります。

また将門の首塚は他にいくつか存在し、事実はどこにあるかは不明ですが、胴塚は坂東の地今の坂東市(旧岩井市)に存在します。
また坂東市では毎年、将門祭りが盛大に行われています。

ところで、当時(1000年以上前)の江戸(東京)はどのようになっていたのでしょうか。
徳川家康が江戸に幕府を作る前は、多くの川が現在の東京湾に注ぎ、湿地帯でまともな交通は出来なかったのではないでしょうか。
古道東海道は江戸は通らず、東京湾を舟で渡っていました。
また、武蔵の国は現在の府中市にあり、神田や大手町あたりはどんな状態にあったのでしょうか?

将門は江戸の庶民には人気が高く、将門の首塚は後から作られたものと考えるのは風情がないでしょうか。
しかし、神田明神のホームページによると、創建は730年ですが、将門塚周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)に神田明神に奉祀されたと記されています。

■安倍晴明(陰陽師)

 将門は関東に独立国家を作って西の京に対抗したことから、後の江戸時代などでは英雄扱いされている面もありますが、これも、関東地方に勢力を拡大した平氏(武士)の勢力争いとみる方が自然でしょう。
また、この平安時代の後期には、京の都にて活躍した大陰陽師である「安倍晴明」が知られています。
京都一条戻橋には現在晴明を祀った「晴明神社」があり、今でも修学旅行などの観光名所となっていますが、この晴明の生まれについては様々な説が言われています。
晴明神社の由緒書きによれば、晴明は孝元帝の皇子大彦命の御後胤とされています。また安倍家の家系図によると、下級貴族安倍益材(あべのますき)の子として摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされています。
その他、安倍のつく地名として奈良県桜井市安倍の生まれだとの説もあるようですが、関東でも茨城県明野町(現筑西市)に晴明が生まれた地であるとの言い伝えが存在します。

地元では「晴明神社」が存在し、「晴明橋公園」、「安倍晴明生誕の地」の石碑も立てられ、最近では地元温泉施設に「晴明の湯」と名づけられています。
まさにここは将門の伝説の地に近い場所でもあります。
晴明の生まれは西暦921年頃とされていますので、将門が殺された時は20歳前くらいでしょうか。
なにか将門とも関係があったのかもしれません。

もっとも晴明が亡くなったのは1005年であり、1000年以上前の話ですから、死後各地に将門と共に伝説となっていくつもの話ができていったのかも知れません。

▼ 上総・常陸国における源氏の流れ

1)陸奥国の安倍氏との争いが活発となり、1053年に鎮守府将軍に任じられた源頼家が息子(八幡太郎)義家を伴い欧州の清原氏と協力して安倍氏を滅ぼします。(前九年の役)

2)その後の後三年の役では陸奥国の覇者をねらう清原氏を倒すために源義家(八幡太郎)が陸奥守となりやってきます。
そこに義家の弟、(新羅三郎)源義光が戦闘に加わり(1087年)戦いに勝利します。

3)後三年の役が終わり、都に帰った源義光(新羅三郎)は常陸介に任じられて常陸国に再びやってきます。そして勢力を拡大していた平国香の子孫(大掾氏)から妻を迎えこの地での地位を築いていきます。

義光の嫡男源義業は常陸平氏の吉田清幹の娘を妻に迎えます。
そして源義業は妻の里である太田の地でこの勢力をもとに勢力拡大をはかります。
そして、これが戦国時代に常陸国を制した佐竹氏の祖となって行きます。

一方義光は次男の源義清(武田冠者と呼ばれる)とともに常陸国勝田付近の武田郷に住んでいたといわれるが、鹿島神宮領域の争いで常陸国を追放となり、源義清と共に甲斐国に移り住みます。これが甲斐武田氏の始まりといわれています。

まあこの頃は平氏も源氏婚姻関係では入り乱れていますので、系図をたどるとどこかで血縁関係が成立しています。

私は長男ではないのでこのような自分の系図を紐解いてみたいとは考えたことは無く、そのことにはあまり興味はわきません。
徳川家康は系図をねつ造して自分は源氏一門であると言って官位を得ており、将軍になるにもこの源氏一族ということですんなりと受け入れられたようです。

江戸時代になっても家臣まで皆、「源氏一族」だと自称するものがたくさん出てきましたので、笹竜胆の家紋も純粋な源氏とばかりは言えないでしょう。

話しが日の丸や源平合戦からはずれてきますので、一旦はこれでこのシリーズは終了します。



日の丸と源平合戦 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/12/26 19:26
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