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錫高野は新緑に燃え水田に張られた水は光り輝く

 今日は昼から城里方面に久しぶりに出かけてきました。

山々は新緑がまぶしく、田には満面の水が張られ、あちらこちらで田植えも始まっていました。

今回の目的は旧桂村にある石船神社にまた行ってみたくなったのですが、途中で寄り道しながら行きました。

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錫高野は山で「錫(すず)」が採掘された事からそれまで「高野」という地名に錫の文字が付いたといわれています。
佐竹氏にとって金山やこの錫なども重要な資源だったのだと思います。

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この錫高野に来たのは明治初期に女性として初めての教師となった黒沢止幾(とき)が生まれたところであり、ここで寺子屋式に教えていた生家があると思ったからです。

あまりよく調べずに来たので近くまで行ったのですが生家はわからずじまいでした。
数年前にもうだいぶ荒れ果てて崩れそうな藁ぶき屋根の家でしたので壊れてしまったのかもしれません。

少し他を回ってきたので道がよくわからなくなり、残念ですがまた機会があれば調べてからまた来ることにします。

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写真は錫高野に向かう途中でボタン桜と水が張られた水田の景色が素晴らしかったので車を停めました。

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城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/04/30 19:32

石船神社の里は新緑に包まれていた。

 今回城里町に行く気になったのは、午前中にひと仕事を終わらせ、3~4時間くらい時間があったので大きな石を信仰している延喜式式内社でもある「石船神社」の今の姿が急に見たくなったからだ。

場所は旧桂村の大山(阿波山上神社)から西に少し入った岩船地区の奥に鎮座している。

岩船(いわふね)地区にあるのだから石船も「いわふね」読むと思うのだが、どこにも「いしふね」と書かれている。

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あまり訪れる人は少ないが、なかなか新緑や紅葉時期は訪れる価値がある。

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小さな石の鳥居をくぐると参道沿いに川のせせらぎが聞こえてくる。

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そして大きな石にはしめ縄が巻かれたり、石の作で囲ってあったりする。
この石は八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」といわれている。

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そして川(岩船川)の向こう側に神社の建物が見えてくる。

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神社にはこの石の太鼓橋は、渡る人が少ないのか緑の苔で覆われていた。

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神社の拝殿の中には大きな鏡が置かれている。
御神鏡である。

この神社の祭神は「天鳥船命」である。
そのため船や航空関係の方の参拝が多いという。

天鳥船命(アメノトリフネノミコト)が祀られているところ(神社)は比較的に少ない。


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この石は船の形をしているので特別にあがめられているようだ。

でもこの神社の一番の特徴は神社のご神体がとても大きな石ということだろう。

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本殿はこの石を覆い隠しているのだが、大きすぎて隠しきれない。
石の名前は「兜石」という。

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前に2~3回訪れているがその時はこの石の上にたくさんの杉の葉や落ち葉、枯れ枝などが積まれて石は見えなかったが。今回訪れて覗いてみたらはっきり見えましたよ。

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この神社はあまり注目されませんが、私は好きな神社の一つです。
巨岩信仰は山ばかりとは限らないようです。

筑波山では麓に「飯名神社」があります。
また鉾田市大和田の「主石神社」は成長する石がご神体です。

こういうのも興味深い。
でもやはり新緑の頃はいいですね。
ここに来る途中も目を奪われる光景があちこちにみられました。


城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/01 22:23

懐かしの壁面観音様にご挨拶

 城里町の石船神社を訪れた足でそのちかくにある「壁面観世音」を見ておくことにしました。
ここを訪れるのはもう5年ぶりくらいでしょうか?

徳一法師が一夜のうちに壁に彫ったという観音様。
しかし夜明けまでと願かけしたが、目を入れる前に一番鳥が鳴いてしまったために目がないという。

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場所は大山寺の前の道を真っ直ぐ西へ。
途中岩船神社への道が右に分かれるがそのまま直進。
突き当りで少し戸惑うが、車の矢印は左に「笠間」の案内があるが、ここは狭い右側に進む。
その先の崖の壁にこの観音様が彫られていいる。
車は適当に少し空いたところに停めて草の中を少し歩く。

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ボタン桜と新緑がきれいだ。
その先にお堂が見えてくる。
このお堂の裏のえぐられた穴の中に観音様が彫り込まれている。

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前に来た時に比べてお堂の建物は新しくなっているようだ。
また前には観音様の前にこの堂が建てられ、脇からは入れないように柵がしてあったが、今回はこの柵が無くなっていた。

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観音様を拝むには、このお堂の中から拝むのがルールらしい。
しかし今回はお堂と壁との隙間が十分ありこの間に入って正面から拝むことができた。


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これが徳一法師が彫ったという目が未完の観音様だ。
一番鳥が鳴いたのが悪いということで、このあたりでは鳥を飼わないといわれているようだが、いまもそうかな?

何しろこのあたり一帯は結構鳥が買われている。
もう少し北へ行った緒川は養鶏所が多いし、奥久慈卵でよく知られるようになった。

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平安時代からこの観音様が彫られていたのだろうか。
徳一法師は筑波山に中禅寺を建て、その後たくさんお寺を建てた。
会津に行く前にこのあたりにも来たのだろう。

あまり知られていないところだが、この時期はやはり美しい。
奈良の室生寺あたりに行かなくても気軽に楽しめる場所はたくさんある。
人が誰もいないのだからなおさらよい。

城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/03 23:21

鹿島神社(城里町高久)と悪路王

 このブログも毎日更新していたのをやめて、比較的自由に書こうとしていたら、徐々に更新間隔が長くなってしまった。
1日おきくらいには書きたいと昨日も途中まで記事を書いていたが、書いていた記事が途中で消えてしまい書く気をなくしてしまいました。

それでも記事にアクセスしていただいている方が多くおられるので、記事を書き直してUPします。

今日で世の中はゴールデンウィークが終わるようで、また明日から街中もお年寄りばかりが目立つ静かな日々に戻ることでしょう。

今日は城里町高久にある鹿島神社を紹介します。
地図にも神社マークはあるものの、神社名も記されていない地図も多いあまり目立つ神社でもありません。

石岡と城里町石塚を結ぶ通称「石塚街道」(県道52号線)は石岡の鹿の子から水戸の台渡里を結んでいたと思われる古代官道(五万掘古道?)の近くを通る道でもある。

この道は石塚で終点だがそのまま進むと那珂川に沿った低地へ急激に下り、旧桂村の粟地方を通り、御前山方面に行く。

さて鹿島神社のある場所は、この崖下(圷:あくつ)へ降りてから左(西)へ行っても良いが、城里町役場手前から左に曲がる県道246号(錫高野石塚線)を進むとなだらかに下って、この神社の前に出る。

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鹿島神社の本殿彫刻は目を見張るものがある。
もう5年近く来ていなかったせいか、前に来たときは色が鮮やかであったが、今はだいぶ薄れてしまった。

それでもこの中国式の彫刻はひときわ目立つ。

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現地看板「 鹿島神社の創建は光仁天皇の御代、天応元年社殿を造り休塚明神と称す。本殿彫刻は、廃寺となった吉祥院のものといわれ、中国の故事が巧みに表現されており、その精巧さは近隣では極めて珍しい。作者は不明である。昭和50年5月日光の名工によって塗りかえられた」

この吉祥院がどこにあったものかよく知らない。

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鹿島神社が注目されるのはここに「悪路王」の首の彫刻が置かれていることである。
蝦夷の首領であったアテルイが悪路王と呼ばれていて同一人物と言われているのだが、この悪路王の彫刻は鹿島神宮(常陸国一宮)とこの高久鹿島神社の2か所である。

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鹿島神宮は宝物館に展示されており、首を酒に漬けこんで運んだとされる首桶と一緒に展示されている。
宝物館の説明には「坂上田村麻呂将軍が奥州において征伐した悪路王(阿弖流為‐アテルイ)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの」とある。

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鹿島神宮の宝物館に比べればこちらの扱いはこの説明紙切れだけである。

また看板には「当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(782~806年)坂上田村麻呂が北征のおり、陸奥達谷窟でアテルイ(悪路王)を誅し、凱旋の途中この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったがこれを模型化したものといわれる。高さが50cmほどで形相物凄く優れた彫刻である。」と書かれている。
(残念ながら彫刻の現物はまだ見ていない)

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まあ歴史的には、現在は坂上田村麻呂が蝦夷を打ち破った時に投降した蝦夷の首領の「アテルイ」と「モレ」という2人の人物を都に連れて帰ったといわれている。
そして京都でこの2人は処刑され、清水寺にその碑が立てられている。

東北で打ち取られたこの首は誰のものだったのか?
悪路王とはアテルイだけではなくほかにもいたのか?

前に私がHPで京都で処刑されたアテルイの首は将門と同じように空を飛んで東北目指したがこの地に力尽きて落ちたのかもしれないと書いたが、解釈は好きにやっても良いだろう。

このような話が伝わることは、やはりこの道が昔の蝦夷征伐に通ったルートに近いのだろうという気がしている。

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城里 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/05/07 06:44

平重盛ゆかりの小松寺は新緑につつまれて

 平重盛の墓があるとされる城里町の小松寺を訪ねました。
ここも入口に大きなしだれ桜の木があり、数年前にも桜の時期に訪れました。

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重盛は平清盛の長子であったが、父清盛よりも先に死んでしまった。
そして高野山に葬られたという。

京都六波羅の小松に屋敷があり内大臣まで登りつめたので小松内大臣と呼ばれた。
源平合戦で都落ちとなった平家が九州を目指したが、これに反対した重盛の腹心「平貞能(さだよし)」は高野山に登り、重盛の遺骨を掘り出して土は加茂川に流し、その痕跡を消して、重盛夫人を伴って関東に逃れてきた。

史実はこのあたりでよくわからなくなるが、この小松寺にはこの重盛、貞能、夫人で尼となった得律禅尼の3名の墓がある。
(益子や仙台にも別な話が伝わっており、いくつかの説が残っています)

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紫の花はオオアラセイトウ(花ダイコン、ムラサキハナナ、諸葛菜)です。
何時ごろから咲きだしたのでしょうか。

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石楠花の花が咲いて・・・・

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建久5年(1194)に建立されたという観音堂。堂々としたきれいな建物です。

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この写真の奥の階段を上ると上の山の中腹に重盛公の墓があります。
今回は前に来ているし、時間もないので上るのはやめておきました。

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城里 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2017/05/08 23:06

清音寺(古内茶発祥の地)

 城里町の錫高野に行った時にその奥(西側)の下古内地区にある古刹「清音禅寺」へ行ってみることにしました。
比較的近いと思っていましたが少し遠回りになってしまいました。

しかし古くから茶葉(古内茶)の栽培がおこなわれているこの地区も新緑場美しい山間にありました。

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寺の参道入り口に車を停めて歩いて中に入りました。
太古山 清音禅寺 と書かれています。

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案内板を読んでみると、
「禅宗」臨済宗南禅寺派の別格地。
前半は仁明帝の勅願寺、後半は復庵大光禅師の古禅林護国の海印座禅道場である。
<前半>
 草創、大同4年(809)弘法大師が草庵を構え、承和4年(837)真雅僧正が伽藍を建立して浄光寺と号し、仁明帝より東夷鎮護山の勅願を賜り壮大な寺構えであった。
その後、鎌倉幕府の源頼義、実朝が厚く崇敬したが、嘉禎3年(1237)罹災した。
<後半>
 創建、文和元年(1252)に常陸領主の佐竹義敦が父、貞義の追善の為に名僧、復庵大光禅師を招き開山とし、大伽藍を建立して宗を臨済宗に改め、独立本山として表題の山、寺号となり、関東屈指の林下修業道場となった。
・・・・・・・・・・・・・・
元禄の初め水戸光圀が当山の禅境を愛し徹伝、大忠両禅師と詩友として再度来山され名吟等を残し加護され、公の上申にて京都五山の上、南禅寺派に属した。
・・・・・・・・・・・・・・

かなり歴史的に面白いのだが、このような看板内容もやはり内容をもっと調べてみないとよくわかりません。
最近はこの先を調べるのにパワー不足を感じるこの頃です。

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少し長い参道を進むと、周囲の木々の緑がきれいです。

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参道は左に昔の山門が残されています。

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この山門が禅道場の入り口のようです。
これは中門でこの先に旧仁王門の礎石が残されていました。

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山門をくぐると正面に本堂と手前に茶畑が見えます。
本堂(方丈)の手前に昔は仏殿(法燈)があったようです。
禅僧の道場は本堂向かって右手にあったようです。

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本堂の左手に佐竹氏の墓所とこの建物(開山堂)がありますが、このあたりのも佐竹氏ゆかりのお堂や庵があったようです。

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この裏手の山側に少し入ったところに佐竹氏の宝篋印塔があります。
形から南北朝時代のものと考えられており、向かって右から佐竹貞義、復庵禅師、佐竹義敦の墳墓と言われています。

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本堂手前は茶畑と梅の木が植えられています。

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石楠花もきれいに咲いていました。

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江戸時代から茶を栽培してきたこの古内地方は古内茶の産地として有名なところだそうですが、徳川光圀がこの茶を愛でて詩を詠んだといわれていますが、その当時はこの清音寺の境内だけで栽培がされていたそうです。
「清音寺開山の復庵禅師が、中国から茶の実を持ち帰り、境内に蒔いた」と伝わっています。

今ではこの下古内地区で広く茶の栽培がおこなわれています。

佐竹氏の家系図を見てみると8代佐竹貞義の後は9代佐竹義篤(山入氏の兄)の名前が見えます。
この義篤がきっと義敦のことだと思います。
この佐竹義篤は、南北朝の争乱が勃発すると足利尊氏に味方し、常陸守護に任じられたとあります。


城里 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/05/11 09:54
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