茨城の難読地名(その1)-随分附(笠間市)
本ブログでも時々、気になる地名などがあると、それを考察したりして書いてきましたが、少しまとめておきたくなりました。
今回新たにカテゴリに「茨城の難読地名」を追加して時々書いていきたいと思います。
更新の頻度はまだ未定ですが、これを完成するのはかなり大変そうですのでのんびりいきましょう。
まず、第1回目は「随分附」です。
随分附 【なむさんづけ】 笠間市(旧友部町)
この漢字はなかなか読めないですね。
いったいどんなところから名前がつかられているのでしょうか?
これがさっぱり判らないという代表的な地名かもしれません。
<角川日本地名大辞典>
地名の由来については、目下の者に自分の身分に随って、そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、「なふさつ」が転訛したもの(新編常陸国誌)
と説明にはあり、これが現在の正式な見解のようです。
新編常陸国誌というのは、江戸時代の初めに徳川光圀(黄門さん)がまとめた『古今類聚常陸国誌』をもとにして、これを補うために江戸時代の後期の国学者「中山信名(なかやま・のぶな)」がまとめた歴史書ですが、中山信名の死後に、土浦の学者「色川三中(いろかわみなか)」などが追加や訂正などをして完成しています。
しかし、笠間市でもこの説明だけではよく理解できず、「アイヌ語説」「仏教語説」などもあるという言い方をしています。
「随分」とは「ずいぶん」と読みますよね。
この現在使われている意味は「はなはだ」「非常に」など限度を超えていることの表現に使われます。
しかし、本来の意味は「分(ぶん)に随う(したがう)」という意味で、身分相応という意味でしたが、これが、「身分や自分の出来る範囲で十分に」などの意味となって、現在の意味になったと考えられています。
この意味がわかると、新編常陸国誌などに書かれた意味もなんとなくわかってきます。
でもまだスッキリしませんね。それはこの身分に応じてというけれど、「何故この場所にそんなことばが発生したのか?」ということがまったく説明に無いためです。
でも、江戸時代の学者先生もたぶんわかっていれば書いていたでしょうから、きっとよくわからないでいたのでしょう。
では、私がこれを判るかといえば、これはとてもわかりません。
ただ「随分」が現在の意味に成ったのは鎌倉時代頃のようですので、それ以前の奈良、室町時代の頃、またはその前から使われていた地名なのでしょう。
その時代にこの地にどのような身分の人が住んでいたかがわかれば、きっとこの意味も理解できるような気がします。
少し視点を変えて、まわりの地形やその他の地名などに何かヒントは無いでしょうか?
「随分附」の場所を地図で眺めてみました。場所は常磐高速道と北関東道とが交差する「友部ジャンクション」の少し北側です。
近くを涸沼川(ひぬまがわ)の支流である「枝折川」が流れており、この川沿いの低地が広がる肥沃そうな場所一帯が「随分附」と呼ばれている地域です。
この「枝折川」は一級河川で「しおりがわ」と読みます。
Webの辞書では「えだおれがわ」と呼び名が書かれていますが、これはおかしいと思われます。
昔、道の別れ道などに折った枝を置いて、帰るときの道しるべなどにしていました。
これが「枝折」で、本にはさむ「しおり(栞)」の語源と成っています。
新潟の只見湖ちかくにある「枝折峠」は「しおりとうげ」と読みます。
その他にも「枝折山」などの名前も各地にあり、ほとんどが「しおり」と読ませています。
さて、じっくりと地図を見ていると気になる地名が近くにたくさん散見されます。
この涸沼川と枝折川」が合流するあたりに「長菟路(ながとろ)」「仁古田(にこだ)」「土師(はじ)」「安居(あご)」「押辺(おしのべ)」などです。
この「安居(あご)」には古代の官道の駅家(うまや)が置かれていました。
石岡(常陸国府)の鹿の子(かのこ)遺跡の場所から、水戸市の那珂川沿いにある「渡里(わたり)、長者山(ちょうじゃやま)」まで古代の官道がまっすぐにつながっていました。この途中にある馬を常時置いていた駅家(うまや)が恐らく涸沼川の川近くにあったと考えられています。
また水戸から筑波山への参拝街道として「瀬戸井街道」が知られていますが、この道は現在の県道30号線(岩間街道)のルートとほぼ同じ処を通っており、この随分附にも宿場がありました。
この随分附と岩間との間に「土師(はじ)」という地名があるのですが、これが何か「随分附(なむさんづけ)」にかかわっているような気がします。
「土師器(はじき)」ということばがあるように、これは昔の素焼きの土器で、この土器を焼く人たちのことを一般に「土師」と表記していたと考えられます。
でも「土師」は元を辿れば、古代豪族の名前で、古墳時代(4世紀末~6世紀始め頃)に古墳を築造したり、この古墳に入れる装飾品をつくる身分の氏族に与えられた名前です。
また、この土師器が作られていたのは、古墳時代から鎌倉時代の前、すなわち平安時代頃までだったようです。
これは「随分(なふさ:なむさん)」が「身分に随って」というような意味に使われていた時代に近いように思います。
古墳時代には近くに「ナムサン付遺跡」があります。
さて、近くの地名の「仁古田(にこだ)」ですが、参考になるのが、東京の西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」という地名です。
「えごだ」という響きが古臭いので、駅名は「えこだ」に変えたものと思いますが、この名前は、おそらく川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所についた名前だと感じています。
かすみがうら市の神立には「江後田(えごた)」という地名もあり、ここは霞ヶ浦に注ぐ「菱木川」の最上流の場所です。
また、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名ですが、土浦の高津貝塚遺跡で説明を受けた時に頂いた「古代の道」という冊子では、この「長菟路」は、この古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論されていましたが、こちらは、「長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・」などと漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんあり、私としては、この名前は、川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈しています。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべますが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っています。
また「押辺(おしのべ)」だが、これは「押戸」などと同じで川に舟を押し出す場所という意味ではないかと考えています。
これもあくまで私の推論を含めた参考にしか過ぎません。
(関連地名)
・長菟路(ながとろ)
・仁古田(にこだ)
・安居(あご)
・土師(はじ)
・押辺(おしのべ)
今回新たにカテゴリに「茨城の難読地名」を追加して時々書いていきたいと思います。
更新の頻度はまだ未定ですが、これを完成するのはかなり大変そうですのでのんびりいきましょう。
まず、第1回目は「随分附」です。
随分附 【なむさんづけ】 笠間市(旧友部町)
この漢字はなかなか読めないですね。
いったいどんなところから名前がつかられているのでしょうか?
これがさっぱり判らないという代表的な地名かもしれません。
<角川日本地名大辞典>
地名の由来については、目下の者に自分の身分に随って、そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、「なふさつ」が転訛したもの(新編常陸国誌)
と説明にはあり、これが現在の正式な見解のようです。
新編常陸国誌というのは、江戸時代の初めに徳川光圀(黄門さん)がまとめた『古今類聚常陸国誌』をもとにして、これを補うために江戸時代の後期の国学者「中山信名(なかやま・のぶな)」がまとめた歴史書ですが、中山信名の死後に、土浦の学者「色川三中(いろかわみなか)」などが追加や訂正などをして完成しています。
しかし、笠間市でもこの説明だけではよく理解できず、「アイヌ語説」「仏教語説」などもあるという言い方をしています。
「随分」とは「ずいぶん」と読みますよね。
この現在使われている意味は「はなはだ」「非常に」など限度を超えていることの表現に使われます。
しかし、本来の意味は「分(ぶん)に随う(したがう)」という意味で、身分相応という意味でしたが、これが、「身分や自分の出来る範囲で十分に」などの意味となって、現在の意味になったと考えられています。
この意味がわかると、新編常陸国誌などに書かれた意味もなんとなくわかってきます。
でもまだスッキリしませんね。それはこの身分に応じてというけれど、「何故この場所にそんなことばが発生したのか?」ということがまったく説明に無いためです。
でも、江戸時代の学者先生もたぶんわかっていれば書いていたでしょうから、きっとよくわからないでいたのでしょう。
では、私がこれを判るかといえば、これはとてもわかりません。
ただ「随分」が現在の意味に成ったのは鎌倉時代頃のようですので、それ以前の奈良、室町時代の頃、またはその前から使われていた地名なのでしょう。
その時代にこの地にどのような身分の人が住んでいたかがわかれば、きっとこの意味も理解できるような気がします。
少し視点を変えて、まわりの地形やその他の地名などに何かヒントは無いでしょうか?
「随分附」の場所を地図で眺めてみました。場所は常磐高速道と北関東道とが交差する「友部ジャンクション」の少し北側です。
近くを涸沼川(ひぬまがわ)の支流である「枝折川」が流れており、この川沿いの低地が広がる肥沃そうな場所一帯が「随分附」と呼ばれている地域です。
この「枝折川」は一級河川で「しおりがわ」と読みます。
Webの辞書では「えだおれがわ」と呼び名が書かれていますが、これはおかしいと思われます。
昔、道の別れ道などに折った枝を置いて、帰るときの道しるべなどにしていました。
これが「枝折」で、本にはさむ「しおり(栞)」の語源と成っています。
新潟の只見湖ちかくにある「枝折峠」は「しおりとうげ」と読みます。
その他にも「枝折山」などの名前も各地にあり、ほとんどが「しおり」と読ませています。
さて、じっくりと地図を見ていると気になる地名が近くにたくさん散見されます。
この涸沼川と枝折川」が合流するあたりに「長菟路(ながとろ)」「仁古田(にこだ)」「土師(はじ)」「安居(あご)」「押辺(おしのべ)」などです。
この「安居(あご)」には古代の官道の駅家(うまや)が置かれていました。
石岡(常陸国府)の鹿の子(かのこ)遺跡の場所から、水戸市の那珂川沿いにある「渡里(わたり)、長者山(ちょうじゃやま)」まで古代の官道がまっすぐにつながっていました。この途中にある馬を常時置いていた駅家(うまや)が恐らく涸沼川の川近くにあったと考えられています。
また水戸から筑波山への参拝街道として「瀬戸井街道」が知られていますが、この道は現在の県道30号線(岩間街道)のルートとほぼ同じ処を通っており、この随分附にも宿場がありました。
この随分附と岩間との間に「土師(はじ)」という地名があるのですが、これが何か「随分附(なむさんづけ)」にかかわっているような気がします。
「土師器(はじき)」ということばがあるように、これは昔の素焼きの土器で、この土器を焼く人たちのことを一般に「土師」と表記していたと考えられます。
でも「土師」は元を辿れば、古代豪族の名前で、古墳時代(4世紀末~6世紀始め頃)に古墳を築造したり、この古墳に入れる装飾品をつくる身分の氏族に与えられた名前です。
また、この土師器が作られていたのは、古墳時代から鎌倉時代の前、すなわち平安時代頃までだったようです。
これは「随分(なふさ:なむさん)」が「身分に随って」というような意味に使われていた時代に近いように思います。
古墳時代には近くに「ナムサン付遺跡」があります。
さて、近くの地名の「仁古田(にこだ)」ですが、参考になるのが、東京の西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」という地名です。
「えごだ」という響きが古臭いので、駅名は「えこだ」に変えたものと思いますが、この名前は、おそらく川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所についた名前だと感じています。
かすみがうら市の神立には「江後田(えごた)」という地名もあり、ここは霞ヶ浦に注ぐ「菱木川」の最上流の場所です。
また、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名ですが、土浦の高津貝塚遺跡で説明を受けた時に頂いた「古代の道」という冊子では、この「長菟路」は、この古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論されていましたが、こちらは、「長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・」などと漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんあり、私としては、この名前は、川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈しています。
秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべますが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っています。
また「押辺(おしのべ)」だが、これは「押戸」などと同じで川に舟を押し出す場所という意味ではないかと考えています。
これもあくまで私の推論を含めた参考にしか過ぎません。
(関連地名)
・長菟路(ながとろ)
・仁古田(にこだ)
・安居(あご)
・土師(はじ)
・押辺(おしのべ)
茨城の難読地名(その2)-木葉下(水戸市)

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
木葉下 【あぼっけ】 水戸市
「木葉下」は茨城の難読地名で最も有名なものの1つです。
「あぼっけ」と読むのですが、この謂れについてはかなりいろいろな説があります。
1、「角川日本地名大辞典」(茨城県)によるといくつかの説を列挙している。
(1)鎮守香取神社を下総国香取神宮から勧請(かんじょう)して遷座する際に榊葉の裏に御影を顕したということによるという説
(2)山肌の崩れた所を「ばっけ」、赤土が露出した崖地を「あかばっけ」などといいそれが転訛したという説。(新編常陸国誌)
また、木葉下の字は当地に大樹の美蔭があったことによるという説。
を挙げています。また縄文時代の小鍋遺跡、古墳時代の大鍋遺跡がある。 と書かれています。
2、「今昔 水戸の地名」(堀口友一著)には、「慶長三年(1598)の検地帳(佐竹氏が行った検地)にはアホツケ村とある。高田与清氏によれば、ホケはハケまたはカケで、山の岨(そま)などの土のかけやすいことから起こった語であるという。木葉下とはそのような場所の大樹の陰の意味であるといわれる。西端に水戸市で最も高い朝房山がある。この朝房の下にあることからアボ下の地名が起こったとも考えられる。」
と書かれています。これは上の(2)とほぼ同じです。
3、「常陸国風土記と古代地名」(鈴木健著)には、「この山(朝房山)の直下に水戸市大字木葉下(アボッケ)という珍しい地名があり、そこに朝房下という小字がある。もし他にアサ○○のサが脱落してア○○となるような類例があれば、朝房下は、アサボウイシタ⇒アボウシタ⇒アボウケ⇒アボッケとなり得る。・・・・・・・・
また「もしこの山が人が寝ているように見えたとすると、[a-ア・一般称。人にあたる言葉]、{hotke ほッケ・寝る} アイヌ語ではp・t・kが隣にあった場合、前のものが後のものに同化するので、hotke は hokke となるからアホッケ。古くからこの山をアボッケ(ヤマ)=人が寝ている(山)と呼んでいたことはなかっただろうか。やがてそこから、朝寝坊という連想が生まれ、アボッケのアボと朝寝坊が重なり、アサボウ山と呼ばれ、アボッケの方はケが下ということで、山下の地の名前に変わったのではないだろうかと考えてみたこともあった。・・・・・
これはアボッケを朝房山や朝寝坊伝説と関連づけた話しであり、地形から見ると、[pokぽク・下]・{pa-keぱケ・出崎の突端の崖}=下の崖ふち がある。その発音に木葉下(ボク・バ・ケ)が当てられ、山茶花(サン・サ・カ)の発音が(サザンカ)と逆転したようにハバッケとなった。あるいは、そのpakeの転と思われrが、関東で崖をカケとかバッケと言うので、崖下をハケシタとかバッケシタと言ったことが考えられる。・・・・・などと書いています。
鈴木健さんはアイヌ語というより「縄文語」を研究されている方です。
確かに東京小金井市の駅の南側の一段下がった崖(国分寺崖線)の下に続く道は「はけの道」と呼ばれています。
ここでは「ハケ=崖下」の意味に使われていますね。
その他四国の「大歩危(オオボケ)・小歩危(コボケ)」などのボケもおなじような崖地を表す言葉かもしれません。
でもこの木葉下(アボッケ)を私は何度も訪れているのですが、どうもこの崖下というイメージがわいてこないのです。
水戸の市内から来ると確かに山間の薄暗い場所で起伏もあります。また近くにたくさん古墳があり、大きな古墳公園もあります。
しかし、アボッケが崖地についた名前でしたら、他にも候補は山ほどあり、わざわざこんな場所にはつけないのではないかと思うのです。
昔の地形はよくわかりませんが、今から想像すると「崖」というのは少しイメージが違います。
そこでもう一つ別な解釈をネットで探してみました。
4、アボッケは古朝鮮語で「焼き物を焼く里」で、粘土などの意味もある・・・ということを書いている人がいました。
根拠があいまいなのですが、この説明があっているとすればイメージ的にはとてもよく合います。
この近く(木葉下三ケ野地区)には奈良時代の須恵器を焼いた窯跡があり、約40基の登り窯があったことが確認されていて、「木葉下遺跡」と呼ばれています。
ここから出土した瓦は、いわゆる台渡里廃寺「徳輪寺」の後期の造営に用いられたものということがわかっています。
何かこちらの関係が強いのではないかと私には思われます。
(関連地名)
・大足 【おおだら】
・全隈 【またくま、またぐま】
茨城の難読地名(その3)-月出里(稲敷市)

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
月出里 【すだち】 稲敷市
「月出里」を「すだち」と読むのですが、これもなかなか読めないですね。
この謂れについてもかなりいろいろな説があります。
1、「角川日本地名大辞典」(茨城県)によると、江戸の元禄郷帳や天保郷帳などに記載されている村名は「月出村」とあり、これで「すだちむら」と読まれていた。これが「月出里村」と「里の字を入れて「すだちむら」なったのは江戸末期頃からで、明治22年に村の合併などの変更により村名が消え、「月出里」(すだち)という大字(おおあざ)となったという。
名前の由来については
(1)地内に大清水という字があり、清水の湧き出る地に由来するという説
(2)地内に上谷原という字があり洲がたっている地に由来するという説
(3)「新編常陸国誌」によると、「出をタチと読めるは、めでたし。月出をツイタチと読めるタチと一つなり。また按ずるに、ツイ(月)の反音チなり」として【チタチ】の音が【スタチ】に転訛した。
2、「筑波地方の地名の由来」(中山満葉著)によると、
「月出里の「月出」は「朏(ひ)」のことで、「三日月」。やっと新月が現れ光彩が放たれ始めたさまで、月出里はこういう月を由縁にしている地名であれば、月讀命神を祀っているのではと思われる。その祭神をもって地名にしたのだと思うが、つくば市吉瀬の三日月神社が祀っているのもやはりこの月讀命である。三日月神社は言いかえれば朏神社であり、この月出里も書きかえれば三日月の里、朏の里、朏里(ひり)である。」と三日月説が書かれています。
3、地元(旧江戸崎町)の説明には「月の出る夜に、鳥が一斉に飛び立つ里」の意味だと書かれていた(以前)。
まあ難読地名としての面白みはあるが、どうみてもこの場所が渡り鳥が一斉に飛び立つ場所とも思われない。
湖があるわけでもなく、夜になれば辺りは暗く特に鳥の飛び立つイメージは湧かない。
大昔に小野川などがもっと幅が広かったはずですが、結構川からも離れています。
「すだち」というと徳島名産の「スダチ=酢橘」との関連はないのかなどとも疑ってみたのですが、地元で「すだち神社」と呼ばれている鹿島神社(八坂神社も併設)にもそれにまつわる話もないようだ。
ただ、地図を眺めていると古代の「信太郡」の郡衙があったとされる小野川沿いの「下君山」から、この月出里を結ぶ道路が直線的にのびており、それが昔の官道の遺構ではないかと一時騒がれていたことがあった。
これもまだ、古代の官道跡も見つかっていないし、下君山に信太郡の郡衙(ぐんが)があったかどうかもまだ確認されていない。
この信太郡もかなり古いので、郡衙も初期には阿見町の竹来(高来)あたりにあり、その後美浦村の信太地区に移転し、最後にこの下君山になったのではないかと個人的には思っています。
茨城の難読地名(その4)-古渡

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
古渡 【ふっと】 稲敷市
古渡は名古屋市にある地名のように、一般には「ふるわたり」「こわたり」「こと」などと読まれ、古に外国から渡ってきた物などを指す言葉のようですが、ここでは「ふっと」と読みます。
稲敷市の小野川が霞ケ浦にそそぐ出口の場所につけられた地名です。
国道125号線で戸崎から浮島に渡るときに通る橋が「古渡橋(ふっとばし)」で橋の手前の旧江戸崎町側が「信太古渡(しだふっと)」、渡った先の旧桜川村側が「古渡(ふっと)」または「東条古渡(とうじょうふっと)」といいます。
1、「角川日本地名辞典(茨城県)」によれば、旧江戸崎町の古渡(ふっと)の説明として、古戸とも書き、小野川が江戸崎付近で広がり、狭水道となり当地に入る地形から女性?の古語であるホト(保戸・保渡)に由来するという説があると紹介されています。
ちょっとこれでは今の時代に一般への説明に窮しますね。
なお、古渡村という地名は南北朝~室町期に見える村名で、応安年間(1368~1374年)頃と推定される海夫注文に「ふつとの津(古渡津、福戸津)」と見えるとあります。
また、旧桜川村の古渡の説明には、新編常陸国誌には「東条古渡」ともいう。南北朝には神宮寺城に拠って北畠親房を助けた近在の名主13名が処刑された(地元に十三塚の名前の謂われとして残されている)が、不在で難を逃れた阿波崎村の名主六左衛門は帰宅後敵将を追い、小野川畔に自ら進んで殺されたと伝える。これを弔ったのが著名なホイホイ地蔵。と書かれている。
確かにこの東側の阿波(あば)手前にある「神宮寺」信号近くには、南北朝時代に北畠親房が上陸して一時いた城跡などもあり、当時から古渡(ふっと)と呼ばれていたことは間違いないが、それ以前の地名の由来は明確ではありません。
2、「古渡」(ふっと)のアイヌ語説: アイヌ語で「プット(putu)」に由来し、(川の)出口を指す言葉ではないかという説。
地形をみてみると、小野川が霞ヶ浦に注いでいる場所です。流れの出口となっています。
現在も、古渡の入り江は水路のように長く、景観がとても美しい場所で、霞ケ浦湖岸でも一二を争うくらい美しい場所です。
茨城百景の中で「古渡の湖畔」が選ばれています。
3、昔、大和朝廷から派遣された武将たち(建借間命?)が、この地から潮来の方に渡り、賊(原住民)を殺したと伝わっており、それと同じく、この地でもこの地に住んでいた賊(原住民)たちの首を「フットフット」と刎ねたという言い伝えから名前が付けられたとする説。
この話は常陸国風土記に記載されている「潮来の名前の由来」にもある話に似ています。
(関連地名)
・阿波 【あば】
・潮来 【いたこ】
茨城の難読地名(その5)-鷲子

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
鷲子 【とりのこ】 常陸大宮市
茨城県の北西部、栃木県との県境に近い旧美和村の「道の駅みわ」に近いところに鷲子(とりのこ)という信号があります。
また近くには茨城県と栃木県にまたがるところに最近は「ふくろう神社」として知られる「鷲子山上神社(とりのこさんじょうじんじゃ)」という古い神社があります。
この2つの県にまたがるという県境なのですが、栃木県側の旧馬頭町(現那珂川町)とは、江戸時代は同じ水戸藩の領地でした。
このため、江戸時代までは県境というような意識はなかったのです。
また、この鷲子山上神社(とりのこさんじょうじんじゃ)ですが、807年に馬頭の僧で「大蔵坊宝珠上人」が四国の阿波国より製紙技術を得て、阿波忌部氏の祖神である「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」を祀った「鷲権現」という社を作ったことに始まるとされています。年代的には多くの神社が建てられた大同年間のことであり、どこまでが正確かはわかりません。
日本の神話を御存じの方はこの「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」がどういう神様かを御存じだと思いますが、天照大神が天岩戸(あまのいわと)の中に隠れてしまって、この世が真っ暗になった時に、岩戸の前で楽器を演奏していたその弦に鷲(わし)が飛んできてとまったという。そのためこの神は「天日鷲命」と呼ばれるようになりました。
それが四国の阿波国を作ったとされる阿波忌部(いんべ)氏になります。
その阿波忌部氏が黒潮に乗って舟で北上して千葉県に上陸し、安房国が誕生し、また総の国ができました。
そしてそこから北上し、この「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」を祭る神社が東国にたくさんできます。
そしてその神社の多くが、「鷲神社」「大鷲神社」などと書いて「とりじんじゃ」「おおとりじんじゃ」などと呼ばれています。
ですから鷲(わし)を「とり」と読むのはあまり不思議ではありません。
地名としての「鷲子(とりのこ)」については、「角川日本地名辞典(茨城)」によると、古くは鳥子と書き、元禄16年鷲子と改められた(水府志料) となっており、元禄郷帳では「鳥子村」とあり、天保郷帳では、古くは鳥子村とあるといいます。
県境の山「鷲子山(とりのこやま)」についても、奈良時代初期に書かれた「常陸国風土記」の那賀郡の条に「西は新治の郡と下野の国との境なる大き山」とあり、当時はまだ名前がなかったと思われる(新編常陸国誌) とあります。
この地にある「道の駅みわ」の入り口に地元名産のキノコのオブジェと共に大きな石碑が置かれています。
そこには「「はとうからすやまとりのこみち」と書かれています。
江戸時代にこのあたりは結構辺鄙なところで、道案内に上の様にひらがなで書かれていたのを、旅人は
「鳩、カラス、山鳥の小路」と読んで、この道は人間が通るところではないと引き返したのだという笑い話があるそうです。
元々は、「馬頭・烏山・鷲子 道」を意味していたのです。
またこの鷲子(とりのこ)地方は和紙の生産が盛んでした。
この鷲子(トリノコ)から美和を経由して常陸大宮を通って常陸太田へ出る国道293号線は江戸時代には「紙街道」とも呼ばれた道でした。
それは、この鷲子地方から小瀬地方が良質の紙(和紙)の生産地として非常に栄えていたのです。
和紙はまた久慈川をさかのぼった方でも盛んに紙漉き場があったようです。
ところで、トリノコ紙(かみ)って聞いたことがありますか?
調べてみるととても面白いですね。
鳥の子紙は雁皮(ガンピ)、コウズ、三椏(ミツマタ)などを原料にして作られた高質な和紙の呼び名で名前の由来としては、
文安元年(1444年)成立の『下学集』では、「紙の色 鳥の卵の如し 故に鳥の子というなり」と説明しされており、また『撮壌集』には、「卵紙」と表記している。 と書かれています。
一方トリノコ用紙と引くと「模造紙」のことで、愛媛県や香川県などで主にそう呼ばれているそうです。
またその他の地方でも模造紙といわずに、サイズから「B紙」、材料から「ガンピ」などと呼んでいる所もあるそうです。
ではこの模造紙ですが、これは和紙ではなく洋紙で、日本の「トリノコ和紙」を模造して造ったので模造紙といわれているそうです。
紙の歴史をたどると、エジプトで発明されたパピルスがもっとも古いとされていますが、現在のように植物繊維を水に溶いて漉く方式の紙は中国で約2000年前に発明されたものです。
日本に入ってきたのは西暦610年頃に高句麗の僧、曇徴によって製紙法が伝達され広まったと伝えられています。
今から1400年くらい前です。
鷲子山上神社の創建が9世紀初めのころとすると、1400年前に伝わった紙漉き(かみすき)の技術が、四国阿波地方で広がり、それが1200年ほど前にこの地に伝わったということになります。
そして、この地で製紙産業が盛んになり、紙を水戸や江戸に運ぶ道として現国道293号線は栄えたのです。
この鷲子の和紙は質が良く、明治の選挙の時の投票用紙にも選ばれたそうです。
和紙と鷲なんていうのもダジャレではないですが意味があるのかもしれません。
鳥の子紙は上質の和紙の代名詞となり、その技術が高く評価され、日本政府が1867年のパリと1873年のウィーン万博にこの手漉きの和紙を出品して日本の優れた技術が世界に知られるようになりました。
特に絵を描いたり、壁紙とするのにとても良かったといいます。
その日本の「鳥の子紙」を真似てオーストリアで模造紙が造られ、今では洋紙が主流になってしまったのです。
ここ鷲子山上神社のある地方が「トリノコ紙」の名前の由来になったとの確証はありませんが、逆にトリノコの名前が先にあって、この地に伝わって地名になったのかもしれません。
(関連地名)
・高部 【たかぶ】
・タバッコ峠
茨城の難読地名(その6)-河内

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
中河内 【なかがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 那珂市
東河内 【ひがしごうど】 日立市
西河内 【にしごうど】 常陸太田市
油河内 【ゆごうと】 常陸大宮市
もともと「河内」は 【かわのうち(川の内)】が ⇒ 【かわうち】 ⇒ 【かわち】(一部ではコウチ)となったものでしょう。
いっぽう、茨城県の県北地方に「がち」「ごうど」なたは「ごうと」と読ませる地名も存在します。
その成り立ちを少し調べてみましょう。
まず水戸市にある「中河内町=なかがちちょう」、「上河内町=かみがちちょう」ですが、この場所は古代官道が常陸国国府の石岡から台渡里(渡里町)まで真っ直ぐにひかれていましたが、この台渡里に馬を常駐させる駅家(うまや)がありました。
そして那珂川(古代は粟川)を挟んで対岸側がこの「河内」地区です。
ここにも馬を常駐させておく駅家(うまや)があり、河内駅家(かわちのうまや)が置かれていました。
そして何時頃からかこの地は「河内村」と呼ばれていました。
「今昔水戸の地名」(堀口友一著)によると、この「河内村」は「カチ」と呼ばれており、これは「カワチ」の急呼だといいます。
カワチをせっかちな水戸っぽが呼んで「カチ」となったのでしょう。
そしてそれが上、中、下などとわかれ、「上河内=カミガチ」「中河内=ナカガチ」となったものと思われます。
この上河内町ですが、水戸市にある町ですが、一部が隣の那珂市にもまたがっているところがあるようです。
一方やはり里川の少し上流地域にも「河内」という地名があり、東側は日立市で「東河内(ひがしごうど)」、西側は常陸太田市で「西河内(にしごうど)」と呼んでいました。
しかし現在は常陸太田市の西河内(にしごうど)との呼称は「西河内(にしごうど)上町」「西河内(にしごうど)中町」「西河内(にしごうど)下町」などと分かれ、一部が市町村合併が繰り返されたため、旧水府村の領域に入っていた 「西河内上」は合併で「河内西(かわちにし)町」と変更になりました。
また常陸大宮市の国道293号線を常陸大宮から北上し、「道の駅みわ」の手前の小舟地区から「やすらぎの里公園」方面に進み、すぐに「油河内川(ゆごうとがわ)」という小舟川の支流があります。この川を西にさかのぼった先に「油河内」と書いて「ゆごうと」という地名があります。
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、河内とは川を中心とした狭い平地を意味し、沢に温湯の湧く所があり、湯河内と名付けられ、後に油河内に改められた。(水府志料) と書かれています。
しかし、現在温泉のような施設も見当たりません。
河内を「ごうど」「ごうと」と読む由来についてはあまりはっきりしません。
ただ「河」は「こう」「ごう」とも読み、「内」も音読みでは「ない」「だい」「どう」ともよむため、「ごうどう」などとなり、「ごうど」とつまってなったものと考えられます。
しかし奈良時代に書かれた常陸国風土記の久慈郡には、「郡家(旧水府村付近)の西北二十里のところに、河内の里あり、もとは古々の村といった。(「ここ」は猿の鳴声からきたといふ。)里の東の山に石の鏡があり、昔、鬼が集まって鏡をもて遊んでゐるうちに、鬼は消えてしまった。「恐ろしい鬼も鏡を覗けばおのれを滅ぼす」といふ。そこの土は、青い色をしてゐて、良質の絵具として使へる。「あをに」とも「かきつに」ともいふ。朝廷の仰せで、都に献上しゐる。この里は、久慈河の源にあたる。」(口訳・常陸風土記)
とあり、猿の泣き声から「ここ」といい、「古々」となり、それが「河内」変わったと書かれています。
また参考までに、兵庫県には「染河内(そめごうち)」などと呼ばれる地名もあります。
その他茨城県にも「河内村(かわちむら)」などと呼ばれたところは数多くあるようです。
いまでも南部には稲敷郡「河内町(かわちまち)」がありますし、昔の真壁郡に「河内村(かわちむら)」(「かっちむら」とも呼ばれる)が存在していました。いまは関城町に組み入れられ、筑西市となり村名は無くなっています。
(関連地名)
・入四間 【いりしけん】
茨城の難読地名(その7)-廻戸

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廻戸 【はさまど】 阿見町
「廻戸」と書く地名は東北の方には結構あるようです。
福島県では、喜多方市に「東廻戸=ひがしまわりと」、南会津町に「糸沢廻戸=いとざわまわりつと」「川島廻戸=かわしままわりつと)」、昭和村に「野尻廻戸=のじりまわりと」、二本松市に小字で「廻戸=まわりと」などがあり、宮城県にも丸森町に「峠廻戸=とうげまがりど」、岩手県にも西和賀町川尻に「廻戸=まっと」などがあります。
しかしこれらはいずれも「まわりど」が語源の基であり、「まっと」などというのも言葉が詰まったことでそのようになったものと考えられます。
こちらの阿見町の「廻戸」は【はさまど】と読みます。
「角川日本地名辞典(茨城)」によれば、「迫戸とも書いた。霞ケ浦の南西岸に位置する。地名は海に挟まれた土地に由来するという(阿見町の生い立ち)。縄文時代の廻戸貝塚がある。」と書かれています。
また、江戸時代初めの慶長11年(1606)「常州知行目録」では「波佐間戸」との記載があり、江戸時代末期の「天保郷帳」には「波佐間戸村」とあり、古は廻戸村とあります。
ところが、阿見町教育委員会のまとめた「阿見の昔ばなし その6」によると、
慶長7年(1602)の検地帳には「廻戸村」とでてきており、それ以前は「波佐間戸」と書かれたり読まれたりしていたとなっています。
どうも大昔は「波佐間戸=はさまど」で、江戸の初め頃から「廻戸=はさまど」に変わったのでしょう。
でも江戸時代には「波佐間戸」も「廻戸」もどちらも使われていたのかもしれません。
また、阿見の昔ばなしの説明では、旧道をたどってみると谷津をはさむ坂道など曲がりくねった細い道だったことがわかるため、
廻戸の「廻」は、あたりをぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、このようなところからとったのかもしれません。
また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名を見つけることができます。
廻戸と向かい合う霞ケ浦対岸に「折戸」という所がありますが、「戸」は、昔入りくんだ地で河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされていますので、舟のつく所からきているのではないでしょうか。
と書かれています。
実際に行ってみました。この場所は国道125号線沿いに予科練平和記念館があり、その反対側の高台になっている場所です。
登ってみると高台と低地が入り混じった地域といえます。
坂道に沿うように住宅が並んでいて、裏手の山が中世に「廻戸城」があったという高台になっています。
上の台地の一角に「まほろば」という施設があり、そこから霞ケ浦が良く見渡せます。
また、この施設の入り口横に「廻戸貝塚」の説明看板がおかれていました。
この山一帯が中世の廻戸城の跡で、城の城主は土岐大善太夫(江戸崎の城主)の家臣「高野次郎八郎」という。
さてざっと見てきて「廻戸=はざまど」の名前の持つ意味を考えてみた。
霞ケ浦がまだ海だったころを想像してみるとこのあたりの地形はどんな様子だったのでしょうか。
恐らく、このあたりも入り江が入り込んだ地形で、一部は島のようになっていたのかもしれません。
入り江に舟着き場があって、ここから漁に舟が出て、島を廻っていたのではないでしょうか。
戸は江戸などと同じ戸口(河口)と思われます。
地形的にはこのような名前なのだと思います。
(関連地名)
・十三間戸 【じゅうさんまど】
茨城の難読地名(その8)-七五三場

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七五三場 【しめば】 結城市
この七五三は人のお名前(苗字)にも使われており、知っておられる方も多いかもしれません。
「しちごさん」ではなく「しめ」と読みます。
しめ縄(注連縄)の「しめ」です。
昔、しめ縄には三本、五本、七本というように紐をぶらさげたため、しめ縄のことを「七五三縄」とも書いていました。
この地が何故この名前になったのでしょう。
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、鎌倉時代ころに毛呂(もろ)郷の南域に「志目波(しめは)郷」という郷名があったという。
また、戦国末期の秀吉が山川晴重に与えた知行目録には「志めは」と見えるとあります。
このため七五三場村(しめばむら)という名前は江戸時代初め頃から使われだしたようです。
「志目波」が「七五三場」に変わったいきさつが書かれたものは見つかりませんが、縁起の良い名前にしようとして変えたものと推察されます。
この地名が直接神社に結び付く記録は見つかりません。
茨城の難読地名(その9)-大角豆

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大角豆 【ささぎ】 つくば市
車で国道125号(354号)線を走っていると「桜土浦IC」の近くに「大角豆」という比較的大きな交差点がある。
茨城に来て頃に、最初に何て読むんだろうと気になった場所の一つだ。
「ささぎ」と読むのですが、これは赤飯に使う「小豆(あずき)」に似た「ささげ」のことだ。
漢字で書くと「大角豆」となる。
私など赤飯もほとんど小豆だと思っていたので、ササゲそのものを知らなかった。
見た目の区別もあまりできない。
茨城地方は赤飯には「ササゲ」を使うようだ。
これは地方によっても違うという。ササゲをほとんど使わない地方もあるそうだ。
区別は小豆に比べて豆が少し黒っぽく、芽のところが小豆は白いのに対して、ササゲは白い周りに黒い縁取りがある。
あまり煮崩れしないので祝い事の赤飯には多く使われる。
「ササゲ」を「ささぎ」となったのは、方言的な要素だといっても良いだろう。今でも各地で両方使われているようだ。
でもなぜこの場所が「大角豆=ささぎ=ささげ」なのだろうか?
角川日本地名大辞典(茨城)によると、初めのころは「大角豆房村」と言っていたが、寛文年間~元禄年間に「大角豆村」に改称されたという。寛文年間の時は麻生藩で、元禄年間からは常陸府中藩(石岡)の領地であったという。
したがって、この大角豆は大角豆房が最初に名前についていたというので、小豆のようなイメージの「ささげ」ではなく、「いんげん」と同じような(房)形をした「ささげ」のことだったようです。
では「ささげ=大角豆」はいつごろから日本にあるのでしょうか?
Wikipediaによれば、平安時代に「大角豆」という記述が残されており、江戸時代の『農業全書』には「豇豆」という名前で書かれているという。
また、アズキは煮ると皮が破れやすい(腹が切れる=切腹に通じる)のに対し、ササゲは煮ても皮が破れないことから、江戸の武士の間では赤飯にアズキの代わりに使われるようになった。という。
では、戦国時代または江戸初期に、この地方で、いち早く、この大角豆(ささげ)が栽培され始めたのかもしれない。
また、大角豆の房のように土地がデコボコしていたからではないかという説もあるという。
茨城の難読地名(その10)-赤法花

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赤法花 【あかぼっけ】 守谷市
守谷市は平将門(10世紀前半)がここに城を築いたという伝説が語られていて、それにまつわる伝説がとても多い土地です。
この将門の城といわれる場所は、守谷駅のすぐ東側の「ひがし野」地区にある通称「平台山」と呼ばれる丘の上です。
ここに中世の土塁や堀の跡が残されており、「本守谷城址」または「守谷館跡」などと呼ばれています。
この「赤法花(あかぼっけ)」という場所は、この城跡から少し東の小貝川に沿った地域につけられた地名で、守谷市のホームページなどでは将門伝説の一つとしてこの名前の由来が書かれています。
それによると、「平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、唐土(もろこし:中国)の赤壁に似ていることから、「あかぼっけ」と呼ばれるようになった」とされています。
しかし、平将門がこの守谷(森屋)城を築いたという確証はなく、実際には将門の子孫を名乗る「相馬氏」の城であったと考えられています。
歴史を紐解いていくと、平安時代後期に実質的な千葉氏の祖といわれる「千葉常重」が上総氏(平常晴)からの相馬郡を譲られ、千葉氏を名乗りました。
そして、北相馬郡のあたりの土地一帯を伊勢神宮の領地として寄進し、「相馬御厨(そうまみくりや)」と呼ばれていた荘園(しょうえん)があったようです。
ただ、この後も源平の対立などもあり、この荘園の所領についてももめたようです。
その後、鎌倉時代になり、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の次男・千葉師常(もろつね)が相馬氏を名乗りこの地を領しました。そして、この守谷城を築いたと言われています。
この相馬氏は、自らを平将門の子孫であると述べており、この城も後世に「将門の城」といわれたことから、「相馬内裏」または「相馬偽宮」と大いに喧伝されましたようです。
「角川日本地名大辞典」でもこの伝承を載せているだけで、地名のその他の由来は書かれていません。
では、将門伝説ではない地名の由来を見ていきましょう。
「赤法花」と今は漢字で書きますが、昭和21年の当用漢字が定められる前は「赤法華」と書かれていました。
この「あかぼっけ」と呼ばれる地名は結構各地に存在します。
・福島県桧枝岐村 赤法華 【あかぼっけ】、赤法華沢【あかぼっけざわ】 (燧ケ岳、桧枝岐川=実川の谷間)
・栃木県下都賀郡壬生(みぶ)町 赤仏 【あかぼっけ】(姿川の最上流部にある窪地)
・茨城県守谷市 赤法花 【あかぼっけ】(小貝川の右岸段丘)(今回の地名対象)
・茨城県筑西市 赤法花 【あかぼっけ】(小貝川の左岸大沖積地)
・茨城県猿島郡五霞町小手指(こてさし) 赤法花 【あかぼっけ】(利根川の右岸大沖積地)
などです。茨城県にも結構ありますね。
一般にはこれらの地名の由来は古アイヌ語(縄文語)ではないかと言われています。
「ボッケ」「ホッケ」「ポッケ」「ハケ」などが、pokであり、崖とか崖下を意味するとするいわれており、「アカ」については、「aka」で、魚の背の線を指す言葉で、地形に使われる時は「山の尾根(稜線)」を指すとされています。
「日本語になった縄文語」(鈴木健著)によると、この「アカ」とつく地名は南は沖縄から北は北海道までたくさんあるとされ、沖縄の久米島に「阿嘉:アカ」、慶良間(けらま)島にも「阿嘉:アカ」があり、土地の形状からしても「断崖」を意味すると考えられ、アイヌ語でも【aka地形では尾根(山稜)を指す。北千島にもある語で崖または岬を指す。】とあり、絶壁の下に住む集落民からの発想で、a われわれの ka 上方 というのが語源であろう となっています。
また赤薙山(あかなぎさん:栃木県)、赤城山(あかぎさん:群馬県)、赤倉山(栃木県)などの「赤:アカ」も崖地などを指している言葉ではないかとしています。
ただ、今の地形から考えても崖地というには少し異なる場所も散見されるため、もっと別の意味があるのかもしれません。
waka (わっか:水)から w が抜けて aka アカとなったことも考えられ、水に関した地名の可能性もあるようです。
その他
・宮城県栗原市 石法花 【いしぼっけ】
・栃木県下都賀郡岩舟町 法花 【ほっけ】
・愛知県岡崎市 法花 【ほっけ】
などという地名もあります。
なお、茨城県の石岡市鯨岡の小字名に「赤法ケ」という地名があります。地元の地名由来によると赤は土の色の赤茶色をした痩せた地土を意味し、「ボック・ホック」は茨城方言で、畑地の間に掘り下げた小さな水田をいう。と書かれています。
もうすでにこのブログでも採りあげていますが、水戸の「木葉下=アボッケ」地名などもこのアカボッケと発音は似ていますね。
関連もあるようですが、詳細はわかりません。
茨城の難読地名(その11)-安食

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安食 【あじき】 つくば市、下妻市
安食 【あんじき】 かすみがうら市
安食(あじき)は小貝川流域の東側がつくば市で、西側が下妻市である。
現在の住所表記では下妻市の大字名は消えている。
この安食地名は全国にあり、アジキ、またはアンジキと読む。
他の地域の例としては
<アジキ>
1、安食 (アジキ) - 千葉県印旛郡栄町 (他に安食台、安食卜杭新田 、安食卜杭(隣の印西市))
2、安食 (アジキ) - 岐阜県岐阜市(他に安食志良古 (アジキシラコ))
<アンジキ>
3、安食西、安食南(アンジキニシ、アンジキミナミ) - 滋賀県犬上郡豊郷町
4、安食中町(アンジキナカマチ) - 滋賀県彦根市
名前の由来についてはさまざまで、確定したものはありませんが、
1)、飢餓があった時でも安心して食べられる場所という説
2)、アジ(崖)、キ(処)という意味で、アイヌ語由来の崖地の意味とする説
3)、安食地名の中の滋賀県犬上郡豊郷町にある「 阿自岐神社(あじきじんじゃ)」がその名前の元になっているとする説
特にこの3)の説は、この豊郷町にある「阿自岐神社(あじきじんじゃ)」はかなり古い神社で、1500年前の名園が残されているといわれています。神社に祀られているのは古事記などに登場する「阿遅鉏高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)」です。阿治志貴高日子根、味耜高彦根などとも書きます。
この神様は、大国主神と宗像三女神のタキリビメの間の子供とされ、日本の神の中では素性の良くわからない謎の多い神とされています。詳細はここでは省きますが、この神社の説明によれば、
この場所は、応神天皇の頃(5世紀頃か?)百済から渡来人であるアジキ氏が住んだところとされ、そのアジキ氏が祖先を祀るために阿自岐(あじき)神社が建立されたといわれています。池泉多島式と呼ばれる古式庭園の中に社殿はが鎮座しています。
この庭園は周辺の田畑を灌漑する用水池を原型とし、これを荘厳したしたものと考えられていますが、別な言い伝えでは、日本に漢字を伝えた王仁(わに)氏を招いて庭園を造ったとも言われています。
王仁(わに)氏は日本書紀や古事記に登場する百済から日本にやってきた渡来人で、日本に『論語』『千字文』(儒教と漢字)を日本に伝えたとされる人物です。
地名としての「安食(アジキ)」はこの「阿自岐(アジキ)氏」が由来というわけですが、何しろ5世紀頃の話ですので、明確にはわからないといったところでしょう。
しかし、この滋賀県豊郷町は「近江商人(おうみしょうにん)」発祥の地とも言われる街です。
この近江商人が「三方よし(売り手によし、買い手によし、世間によし)」を商売の心得として説き、各地を行商して歩き、商売の基本が広がりました。
このアジキ、アンジキ地名もその近江商人と関係があるのかもしれません。
また古事記などでは「アジ」=「可美しき(うましき)」と同意語として使われていますので、「アジキ」の「アジ」には美しいというような意味が込められていたのかもしれません。このため「アジキ=美しい処」などという意味があるのかもしれません。
かすみがうら市(旧出島村)の安食(あんじき)地名については、明治22年に安食村・柏崎村・岩坪村・下軽部村が合併して「安飾村」ができました。この「安飾」という名前がしばらく使われていたので、「安食」ではなく、いろいろな施設に「安飾」の名前が残されています。
地元の説明ではこの安飾を村の名前に使う時に、古代・中世の名前を復活させたとしていますので、大昔は「安飾=アンジキ」があって、それが「安食=アンジキ」に変わっていったのかもしれません。
茨城の難読地名(その12)-大歩

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大歩 【わご】 猿島郡境町
この「大歩」と書いて「わご」と読む地名は全国の地名を調べてみましたが、他には見つかりませんでした。
各、難読地名の紹介がなされているサイトなどでもほとんど意味不明なものばかりです。
産経ニュース「難読地名を行く-茨城編」の中で、境町歴史民俗資料館の初代館長、椎名仁氏の著書「境町の歴史散歩」の内容を紹介しています。 これによると
「アイヌ語の『湿地』を意味する地名だともいわれています」
とあり、 「わご」はアイヌ語で「湿地」を意味しており、土地柄から名付けられたのではないかという説が紹介されています。
また、その中に
「永禄10(1567)年の文書に『泉田郷の内宇和後』、元和6(1620)年の文書に『泉田の内うわこ村』とあります」。
とも書かれています。
この大歩(わご)地区の南に、現在も「西泉田」という大字があるため、この「内宇和後」(うちうわこ)が 「わご」 に変化したものではないかと書かれていました
でも「大歩」という漢字が当てられた理由はどこにもありません。
わけがわからない地名の多くが、「アイヌ語」「古アイヌ語」「縄文語」ではないかといわれ、それで何となく納得させられてしまうのですが、ここに書かれている話はどうにも理解ができません。
上に紹介されている内容からわかるのは、「わご」または「わこ」と呼ばれる地名が江戸時代の前からあり、昔は「和後」と漢字で書かれていたということです。
「わご」そのものに「湿地」という意味が、私にはアイヌ語で結びつかないのです。
湿地を意味する言葉として使われている「アイヌ語」として調べてみると、「トマム」「ニタツ」「サル」などがあります。
これらは北海道にこの語がもとになったという地名がたくさんあるようです。
では、この「大歩(わご)」のあたりを地図で見てみましょう。
この場所は「関宿(せきやど)」という、江戸時代の水運の一大基地であった場所の少し東側です。
この地で利根川は荒川と分かれるのです。
でもこれは徳川家康から3代に亘っての大工事であった「利根川東遷」事業によるものです。
この事業の前の地形はどのようになっていたのでしょうか?
家康は東京湾に注いでいた利根川を、このあたりで銚子の方に流れていた常陸川につなぎ変えるために「赤堀川(あかほりがわ)」を掘削して利根川の一部にしました。
確かに昔の地形を想像すると「湿地」であったのかもしれません。
でも「輪(わ)河(ご)」、「和(わ)河(ご)」として、河(川)の曲がっている場所、または河が合流している場所などにつけられたのではなかと思われます。
全国の郵便番号簿で「わご」「わこ」などの付く地名を探してみると、たくさん「和合」「和郷」(わごう)という地名が見つかりました。
・秋田県大仙市 和合
・山形県山形市、朝日町 和合
・新潟県新潟市 和合
・富山県上市町 和合
・長野県阿南町 和合
・岐阜県大垣市、瑞浪市、 和合 、各務原市 蘇原和合町
・静岡県浜松市 和合
・愛知県東郷町 和合
その他、「和郷(わごう)」という地名も広島県と長崎県にありました。
この「和合」という地名もおそらく 河の曲がっているところや、川が合流したりする場所に多くつけられていた名前のようです。
しかし、「和合」という漢字の持つ魅力で、いつの間にかこの字が充てられたものが多いように思われます。
ところで埼玉県の和光市の名前は、市になる前は「大和町」でしたが、神奈川県にすでに「大和市」があったために、公募でつけられた名前です。
しかし、このあたりは新羅の人たちが開墾した土地で「新座」「志木」などは「新羅」(しらぎ)が関係している地名のようです。
さて、では「大歩」という漢字が何故この地に充てられたのでしょうか。
前に述べたように、豊臣秀吉の「安土桃山時代」から家康の「江戸時代」頃には「内宇和後」「内うわこ村」などと記載されていたといいます。
これについては何も資料がないので、大胆な推測をしてみました。
豊臣秀吉が行った太閤検地で全国の田畑の測量がなされました。
この時に、田んぼの大きさによく使われる面積である「1反(たん)」が、それまで360歩(ぶ)であったのを300歩(部)に変更したのです。
今でいえば1歩は約1坪です。畳でいえば2畳ですね。ですから1反は300坪 (約1000 m2 )です。
しかし、これ以外に1反の2/3、1/2、1/3という単位が存在していました。
これを「大歩」「半歩」「小歩」と書き、特に関東では良く使われていたようです。
これによれば「大歩」は約200坪の面積となります。
太閤検地後のこのあたりの田んぼが「大歩」すなわち、約200坪単位で区切られていたなどということはなかったのでしょうか?
これは私の単なる想像にしかすぎませんが、地名を考える時に一つの参考にはなるかもしれませんね。
ところでこの堺町は「猿島郡」にあるのですが、この地も他所の地域の人は読めないようです。
「猿島=さしま」と読みます。
「猿島茶=さしまちゃ」としての茶どころとして有名ですので知っておられる方も多いかもしれません。
でもこの「猿島郡」は常陸国ではなく、下総国です。
利根川上流域は昔は下総国が多いのです。神社も鹿島神社は少なく、香取神社がたくさんあります。
<関連地名>
猿島郡五霞町幸主 【こうしゅ】
猿島郡五霞町小手指 【こてさし】
猿島郡境町内門 【うちかど】
猿島郡境町下砂井 【しもいさごい】
猿島郡境町百戸 【もど】
茨城の難読地名(その13)-圷

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圷 【あくつ】 城里町(上圷、下圷)、水戸市(圷大野)
この「圷(あくつ)」という字は茨城以外ではあまり読めないでしょう。
しかし茨城県には「圷:あくつ」というお名前の方が多いため、一般に読める方もたくさんいます。
「圷」の意味は漢字が示す通り「下の土」です。 これもその言葉を表すために作られた造語が元なのではないかと思います。
この反対語は「塙(はなわ)」です。
でもなぜ、この漢字が茨城県に多いのでしょうか。
柳田國男が昭和10年に「地名の研究」という本を書いていますが、この中に「アクツ、アクト」という名前の地名を探して研究しています。
その中で、下総に「阿久津(アクツ)村」地う地名を取り上げて、こも阿久津は水運の発達していたときに重要な船着き場であったがこらは違うだろうという。一般に漢字の「津」というのは湊(みなと)を意味することが多いのだが、「アクツ」という言葉そのものが「低地」(特に川の近くの少しジメジメした場所)を指していると述べています。
この中に常陸国志第三、那珂郡常石郷(トキハ)の條に「阿久津は常陸の俗にいう低き地をさして呼ぶ名にて、多くは川に添ひたる所なり、或は圷の字を用ふ。今も常盤村の内にて那珂川に添ひたる地をなべて阿久津と称す。」
また、アクツと同意語として「アクト」「アクド」などをあげていて、「阿久戸」「悪戸」「悪土」「悪田」「悪田原」安久田」などの地名を列挙しています。
城里町にある「圷」「上圷」「下圷」と呼ばれる場所ですが、石岡の方から北へ真っ直ぐ続く「石塚街道」の石塚地区から先は急激ながげとなって下っていて、その下にある地区の名前です。の場所も那珂川に添った場所です。
城里町の前は「桂村」でした。
また水戸市の「圷大野」ですが、ここは那珂川の河口の方に近く水戸駅の東側です。
<参考地名>
福島県郡山市阿久津町
栃木県さくら市上阿久津
栃木県塩谷郡高根沢町上阿久津
栃木県塩谷郡高根沢町中阿久津
群馬県高崎市阿久津町
群馬県太田市阿久津町
群馬県渋川市阿久津
秋田県横手市大雄阿久戸(あくど)
青森県弘前市悪戸(あくど)
秋田県能代市悪戸(あくど)
秋田県能代市鵜鳥悪戸(あくど)
秋田県能代市下悪戸(あくど)
秋田県能代市中悪戸(あくど)
秋田県大仙市南外悪戸野(あくとの)
秋田県能代市上悪土(あくど)
山形県東置賜郡高畠町安久津(あくつ)
岐阜県郡上市八幡町安久田(あくだ)
静岡県磐田市安久路(あくろ)
茨城の難読地名に思うこと
茨城の難読地名シリーズとしてブログを書いているが、対象となる地名が100以上あるのでどこまでまとめられるかわからない。はじめてから後悔する有様で情けないやら・・・・
ところで、私の名前「進」という単純な名前。進なんて当時流行っていたような名前だったように思う。まあ親としては確り考えてもらってつけていただいたに違いない。両親共に他界してしまっているが感謝である。
だが、この名前で社会人と成ってから今まで笑われたことが2度ある。
1度目は会社に入って数年後の40年近く前のこと。関西方面のお客さんの所に打ち合わせに行ったときに名刺を出した時に、相手はすぐに笑顔に成られた、あ、あの方と同じお名前ですね」と。
東京ではあまり吉本のお笑いはテレビ放映もしていなかったが、関西はこの名前は超有名だった。でもお笑いではあったが、悪く言う人はおらず、みな褒めていた。23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった喜劇役者だった。とうとう今にいたるまでこちらの地域では放送されず、直接お笑いを聞いたことがない。
もう一つは、インドネシアでのこと。海外出張でジャガルタのホテルに宿泊したときのこと。宿泊者名簿に名前を記入し、部屋にはいった。すると夜中に見知らぬ男から部屋に電話がかかってきた。「susumu susumu・・・」と連呼された。そしてなんとなく笑い声も・・・・・
夜中だし、仕事の準備もあり電話は適当に切ったが、後からこの名前がいけないのだということが分かった。
susu=おっぱい、mu=あなた で「susumu=あなたのおっぱい」だという。
現地のことばを知らないと、自分の名前を連呼してしまうかも知れず、これはまた困ったことである。この時ばかりは自分の名前が違うほうがよいと思ったものだ。
でもこのsusu(スス)という発音は口をつぼめるので赤ん坊が最初に乳を吸う口元に似ている。
赤ん坊が最初に発することばはできるだけ簡単なことばになるだろう。「アバ」「アッパ」などこれらのことばは数千年も前の日本に住んでいた縄文人の言葉を理解するにも役に立つと思う。
英語のwater(水)もアイヌ語のwaka(水)もどこか似た発音だと思う。
ところで、私の名前「進」という単純な名前。進なんて当時流行っていたような名前だったように思う。まあ親としては確り考えてもらってつけていただいたに違いない。両親共に他界してしまっているが感謝である。
だが、この名前で社会人と成ってから今まで笑われたことが2度ある。
1度目は会社に入って数年後の40年近く前のこと。関西方面のお客さんの所に打ち合わせに行ったときに名刺を出した時に、相手はすぐに笑顔に成られた、あ、あの方と同じお名前ですね」と。
東京ではあまり吉本のお笑いはテレビ放映もしていなかったが、関西はこの名前は超有名だった。でもお笑いではあったが、悪く言う人はおらず、みな褒めていた。23歳の若さで吉本新喜劇の座長となった喜劇役者だった。とうとう今にいたるまでこちらの地域では放送されず、直接お笑いを聞いたことがない。
もう一つは、インドネシアでのこと。海外出張でジャガルタのホテルに宿泊したときのこと。宿泊者名簿に名前を記入し、部屋にはいった。すると夜中に見知らぬ男から部屋に電話がかかってきた。「susumu susumu・・・」と連呼された。そしてなんとなく笑い声も・・・・・
夜中だし、仕事の準備もあり電話は適当に切ったが、後からこの名前がいけないのだということが分かった。
susu=おっぱい、mu=あなた で「susumu=あなたのおっぱい」だという。
現地のことばを知らないと、自分の名前を連呼してしまうかも知れず、これはまた困ったことである。この時ばかりは自分の名前が違うほうがよいと思ったものだ。
でもこのsusu(スス)という発音は口をつぼめるので赤ん坊が最初に乳を吸う口元に似ている。
赤ん坊が最初に発することばはできるだけ簡単なことばになるだろう。「アバ」「アッパ」などこれらのことばは数千年も前の日本に住んでいた縄文人の言葉を理解するにも役に立つと思う。
英語のwater(水)もアイヌ語のwaka(水)もどこか似た発音だと思う。
茨城の難読地名(その14)-女方、女化、男神

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
女方 【おざかた】 筑西市(下館)
女化 【おなばけ】 龍ケ崎市、牛久市
女沼 【おなぬま】 古賀市
男神 【おがみ】 かすみがうら市
全国に「女」や「男」という字が入る地名は数多い。 でも茨城県には意外に少ない。
上の4つがあったが、最初の女方=おざかた は読めないか。
少し由来を調べてみた。
1) 女方【おざかた】
女方は筑西市(旧下館市)の鬼怒川左岸にあります。下館駅の西側、「川島」駅の南側にあります。
この鬼怒川左岸の台地(河岸段丘)には「女方遺跡」と呼ばれる弥生時代中期の遺跡があります。
この遺跡からは「再葬墓」の存在が確認されていて、とても貴重な遺跡といわれています。
再埋葬というのは、一度埋葬して白骨となった人骨を壺(土器)に入れて埋葬しなおすというものです。
またその前の縄文時代の遺跡「本田前(ほんでんまえ)遺跡」もあります。
また出土した土器の口の部分に人面が形つけられたもの(人面付壺形土器:東京国立博物館所蔵)が発見されています。
また江戸初期の17世紀半ばには鬼怒川を水運として使うための河岸(女方河岸)ができていた。
女方の地名が江戸時代初期から使われていたことは判明したが、いつごろから使われた言葉なのかわからなかった。
この女方は弥生人の祈りの場であったのかもしれません。
また鬼怒川もかなり暴れ川であったのでこのあたりの地形に関係しているのかもしれません。
全国の「女」と付く地名の多くに名前の由来に伝説がついているものが多くあります。
この女方(おざかた)にも平将門伝説がありました。
「将門には正妻と言われた「君の前」のほかに妾が何人かおりました。その中の一人「桔梗の前」はとても美人で将門は特に可愛がっていました。そして桔梗の前は、この女方の「女館」に住んでいました。
しかしこの桔梗の前は将門を狙っていた藤原秀郷(俵藤太)が送ったスパイだったのです。
将門には何人も影武者がおり、また不死身であり、どうしても倒すことができなかったのです。
しかし本物はこめかみに弱点があることをこの桔梗の前が藤原秀郷に教えたため、将門はついに倒されてしまいました。」
(御伽草子の俵藤太物語)
その場所がこの女方だというのです。
こんな話を聞くと「女館(おんなかん)」が「女方(おざかた)」に変化したとも考えられますね。
それにしても「館(やかた)」という字がつく歴史的に重要な「下館(しもだて)」という地名が消えて、筑西市になってしまったのはさみしいですね。
2) 女化【おなばけ】
女化(おなばけ)は住所表記では牛久市女化町となっていますが、ここにある「女化稲荷神社」は龍ケ崎市馴馬町の飛地になっています。また女化稲荷神社は少し離れた牛久市の女化原に奥ノ院があります。
この「女化(おなばけ)」の名前の由来はそれほど古くは無いようで、女化原に伝わるキツネの伝承によるといわれています。
女化(稲荷)神社の創建ははっきりしませんが、室町時代末期の1509年に創建された説やもっと前からあるともいろいろな説があるようです。この神社の祭神は「保食神(うけもちのかみ)」で、昔の神社名は「稲荷大明神」と呼ばれたものが、「女化稲荷社」となり、明治2年に「保食神社」に変更されたのですが、また明治17年に「女化神社」に改名されています。
「 むかし、根本村(現在の新利根村根本)に忠五郎というやさしい若者がいました。
ある日、土浦で筵(むしろ)を売っての帰り道、女化ヶ原(おなばけがは)にさしかかると一人の猟師が眠っている大きな白ぎつねを射ようとしていたので、忠五郎が大きなせきばらいをしてきつねを逃がしてあげました。「ひとの仕事を邪魔しやがって」と猟師は怒りましたが、筵の売上全部を出して謝りました。
その夜のこと、忠五郎の家に若い娘と老人がたずねてきました。「奥州から鎌倉へ行く途中、道に迷って困っています。どうか一晩泊めて下さい。」忠五郎は二人を泊めてあげました。
翌朝、忠五郎が目をさますと、下男に路銀(お金)を持ち逃げされてしまったと娘が泣いていました。 そこで娘は忠五郎の家にしばらく居ることになりました。
八重という この娘は、この世のものとは思われない美しさで気立てのやさしい働き者で、やがて忠五郎の嫁になりました。
幸せな家庭に8年の月日が流れ、鶴、亀次郎、竹松という三人の子供に恵まれました。
ある秋の日、八重は竹松の添寝をしているうちに寝入ってしまったところを遊びから帰ってきた子供たちが見ると、母親に大きな尻尾(しっぽ)が出ているではありませんか。
「大変だ~、おっ母かあがきつねになっちゃった~!」 と腰を抜かさんばかりに驚き、父親のところへとんでいきました。
忠五郎が急いで帰ってみると八重の姿はなく、
「みどり子の母はと問わば女化の原に泣く泣く伏すと答えよ」
という書き置きだけがありました。
忠五郎が三人の子供を連れて、きつねの足跡を追ってくると、森の中に穴があり、そこはあの女化ヶ原でした。
「おっ母!出て来ておくれ。」と涙ながらに呼びかけました。すると中から
「こんな姿になって、もう会うことは出来ません。」と声がしました。
「どんな姿でも驚かないから出て来ておくれ!」
「ほんとうに驚かないでくださいね。」と一匹のきつねが穴から飛び出して、子供たちの顔をジーッと見つめ、
「私がおまえたちの守り神になります。」と泣きながら走り去りました。
この穴は、女化稲荷の北方300m位の所にあり、「お穴」として祀まつられています。」
(牛久市観光協会、娘に化けた狐のはなし(女化原の狐伝説)より)
また後日談として、この三人の子供の末っ子「竹松」の子孫が 戦国時代の牛久城主岡見宗治に仕えた武将「栗林左京亮」の家来となり、その後大活躍した「栗林義長」で、キツネのご加護で敵を倒すことができ、この女化神社を建てたとの話もあります。
またこの地を廻っていると、「女化騒動・牛久助郷一揆」の看板を見ました。
1804年10月に、この女化原に周辺55ヶ村の百姓たちが徒党を組み、牛久宿問屋の麻屋治左衛門の居宅などを打壊して騒動となりました。これは助郷制度という制度に悩む近隣の村の農民たちが、その制度の延期を測る名主などに反発しておこしたものでした。 この場所は、幕府の直轄天領で、ここに鎮圧に駆け付けたのが「土浦藩」と「佐倉藩」で、2つの藩の先陣争いも見られました。
いずれにしても女に化けたキツネが地名の由来になっていると考えられる場所です。
3) 女沼【おなぬま】
女沼は地名では「おなぬま」と読むが、近くを流れる「女沼川」は「めぬまがわ」と読む。
女沼川は茨城県と栃木県との県境に源を発し、利根川にそそぐ一級河川です。
また女沼とよばれる地名はこの川に添ってありますが、現在は古賀市ですが、合併前は総和町です。
この地域は川が数本入り組んでおり、このあたりに沼があっても不思議ではありません。
農業も盛んなようで「小森谷(こもりや)」さんという名前の方が多い地域です。
全国的に見ると「女沼」「化女沼」などの地名や沼の名前がありますが、その多くに伝承としての昔話などが残されています。
この古賀市の女沼にまつわる話も探してみましたが、今のところ見つかっていません。
4) 男神【おがみ】
男神はかすみがうら市の旧出島地区、牛渡(うしわた)と安食(あんじき)とを結ぶ線の中間あたりにあります。
静岡の牧之原には「男神」「女神」「鬼神」という3つの名前が隣接してある場所がありますが、この近くの地名は「男神」だけです。
しかし、この近くの「歩崎観音」 には「竜女」伝説があります。
また、この地には「男神遺跡」「男神貝塚」といわれる縄文時代の遺跡があります。
文禄4年(1596)の知行目録に、「おかみ」とありますので、それ以前からある地名だとわかりますが、地名の由来はわかりませんでした。
多くの男神地名には「男の神」ということでスサノオやタケミカヅチなどの神が由来であったり、大岩信仰が由来の元であったりします。
しかし、この場所はもしかしたら「拝む」などが言葉の語源という場合もありそうな気がします。
なお、石岡市葦穂地区の小字名に「女堰(おんなぜき)」という地名がありますが、これには伝説として、「用水路に流すための堰を作ったが、何度つくっても大雨などで壊されてしまうので、女を人柱にたてて工事したところ、それ以降堰が壊れ亡くなったので名付けられたという」 などという今では考えられないような話が伝説として伝わっています。
全国の女・男が付く地名を調べましたので以下に記載しておきます。
<女の付く地名>
北海道函館市女那川町(おながわちょう)
北海道網走郡大空町女満別(おしゃまんべつ)
青森県青森市浪岡女鹿沢(おめがさわ)
青森県弘前市青女子(あおなご)
岩手県奥州市衣川区采女沢(うねめざわ)
岩手県奥州市衣川区女石(おんないし)
岩手県二戸郡一戸町女鹿(めが)
宮城県仙台市泉区八乙女(やおとめ)
宮城県石巻市北上町女川(おながわ)
宮城県栗原市一迫女子町(おながわちょう)
宮城県柴田郡大河原町八乙女(やおとめ)
宮城県牡鹿郡女川町(おながわちょう)
秋田県秋田市雄和女米木(めめき)
秋田県男鹿市船川港女川(おんながわ)
山形県山形市早乙女(さおとめ)
福島県白河市女石(おんないし)
福島県南相馬市小高区女場(おなば)
茨城県古河市女沼(おなぬま)
栃木県小山市乙女(おとめ)
栃木県さくら市早乙女(そうとめ)
群馬県前橋市女屋町(おなやまち)
群馬県前橋市粕川町女渕(おなぶち)
群馬県伊勢崎市境女塚(おなづか)
群馬県利根郡みなかみ町奈女沢(なめざわ)
埼玉県戸田市美女木(びじょぎ)
埼玉県三郷市采女(うねめ)
埼玉県日高市女影(おなかげ)
千葉県いすみ市八乙女(やおとめ)
新潟県新潟市中央区女池(めいけ)
新潟県柏崎市女谷(おなだに)
新潟県阿賀野市女堂(おんなどう)
富山県高岡市三女子(さんよし)
富山県魚津市山女(あけび)
富山県中新川郡上市町女川(おながわ)
富山県中新川郡立山町美女平(びじょだいら)
石川県かほく市元女(がんにょ)
石川県白山市女原(おなばら)
石川県羽咋郡志賀町宿女(やどめ)
石川県鳳珠郡穴水町女良川(めらがわ)
福井県坂井市丸岡町女形谷(おおがたに)
福井県坂井市丸岡町玄女(げんにょ)
福井県南条郡南越前町八乙女(やおとめ)
長野県松本市女鳥羽(めとば)
長野県小諸市乙女(おとめ)
静岡県静岡市葵区産女(うぶめ)
静岡県浜松市北区引佐町西久留女木(くるめき)
静岡県牧之原市鬼女新田(じょしんでん)
静岡県牧之原市女神(めかみ)
愛知県名古屋市中川区五女子(ごにょうし)
三重県四日市市釆女町(うねめちょう)
滋賀県甲賀市土山町山女原(あけびはら)
滋賀県東近江市乙女浜町(おとめはまちょう)
京都府京都市北区上賀茂女夫岩町(めおといわちょう)
京都府京都市下京区佐女牛井町(さめがいちょう)
京都府京都市伏見区下鳥羽澱女町(よどめちょう)
京都府舞鶴市女布(にょう)
京都府向日市物集女町(もずめちょう)
京都府八幡市内里女谷(ざとおんなだに)
京都府八幡市八幡女郎花(おみなえし)
京都府京丹後市久美浜町女布(にょう)
岡山県苫田郡鏡野町女原(おなばら)
広島県呉市安浦町女子畑(おなごばた)
広島県安芸高田市高宮町来女木(くるめぎ)
徳島県鳴門市大麻町板東(采女) (うねめ)
徳島県阿南市十八女町(さかりちょう)
香川県高松市女木町(しめぎちょう)
福岡県福岡市西区女原(みょうばる)
福岡県八女市(やめし)
長崎県長崎市女の都(めのと)
長崎県対馬市上県町女連(うなつら)
熊本県葦北郡芦北町女島(めしま)
大分県日田市天瀬町女子畑(おなごはた)
大分県佐伯市女島(めじま)
大分県宇佐市乙女新田、上乙女、下乙女 (おとめ)
鹿児島県西之表市鴨女町(かもめちょう)
<男の付く地名>
北海道天塩郡天塩町男能富(だんのっぷ)
岩手県奥州市江刺区男石おとこいし)
秋田県男鹿市(おじがし)
埼玉県熊谷市男沼(おぬま)
福井県小浜市小浜男山(おとこやま)
静岡県牧之原市男神(おかみ)
滋賀県彦根市男鬼町(おおりちょう)
京都府京都市西京区大原野上里男鹿町(おじかちょう)
京都府八幡市男山(おとこやま)
京都府与謝郡与謝野町男山(おとこやま)
大阪府泉南市男里(おのさと)
兵庫県三木市志染町高男寺(こうなんじ)
和歌山県和歌山市男野芝丁(おのしばちょう)
香川県高松市男木町(おぎちょう)
愛媛県西予市城川町男河内(おんがわち)
熊本県上益城郡山都町男成(おとこなり)
鹿児島県姶良市蒲生町白男(しらお)
鹿児島県薩摩郡さつま町白男川(しらおがわ)
茨城の難読地名(その15)-門毛、粗毛・・・

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
門毛 【かどけ】 桜川市
粗毛 【ほぼけ】 行方市
奈良毛 【ならげ】 鹿嶋市
粕毛 【かすげ】 土浦市
毛有 【けあり】 取手市
今回は「毛」の付く地名を集めてみました。
「毛(け)」というと頭に浮かぶのはやはり人間や動物の毛、髪の毛などですよね。
こちらは栗毛色、三毛猫など色の表現にも使われます。
でももう一つ「毛=もう」がありますね。
こちらでは「不毛の土地」 「二毛作」などというように食物が育つという意味にも使われますし、そのほかにも数値の単位として分(1/10)→厘(1/100)→毛(1/1000)というような細かな単位を示す場合などにも使われます。
では茨城県の地名に使われている「毛」はどんなところからつけられているのでしょうか。
1) 門毛 【かどけ】 桜川市
この門毛の場所は茨城県と栃木県の2県にまたがる県道257号線の両県の境にある町です。
2つの県にまたがるのですが、両県とも同じ番号の県道となっています。
名前の由来については、常陸国国府(現石岡市)から「毛の国」へ行くときに、毛の国の「門」にあたる場所だということで呼ばれていたようです。
でもこの「毛の国」って何?と思いますよね。
昔、栃木県は「下野国(しもつけのくに)」と呼ばれていました。
しかしこの大昔は「毛の国=毛野(けぬの)国」と呼ばれていたのです。(「けの」は「けぬ」とも言っていた)
それが2つに分かれて「上毛野(かみつけぬの)国」「下毛野(しもつけぬの)国」となりました。
それが国名を2文字にするというお達しがあり、「下野国(しもつけのくに)」「上野国(こうずけのくに)」と名称が変わり、現在の「栃木県」と「群馬県」となったのです。都に近い方が上ですので群馬県が上です。
地名を2文字にせよとのお達し(713年)は女帝の「元明天皇」の時ですが、粟は「阿波」となり、泉は「和泉」などと国名も地域地名も変わったようです。
この「毛」という名前はほとんど消えていますが、今でも「両毛線」(鉄道)などの名前に使われています。
この最初に「毛野」と呼ばれたのは、どうも4世紀くらいの古墳時代の頃からのようです。
5世紀末には「下毛野」「上毛野」「那須」などと分かれ、7世紀末に「下毛野国」「上毛野国(上毛野+那須)」となり、8世紀初めの713年のお達しで「下野国」「上野国」となったようです。
「毛の国」と最初にこの地域が呼ばれるようになった由来は諸説あり
(1)「毛」は食物、穀物の意味で、肥沃な土地であった・または「御食(みけ)」が地名に変化したという説
(2)昔、蝦夷人たちを「毛人」と呼んでいた。この蝦夷人たちの住む地であったので「毛の国」と呼ばれたという説
(3)豊城入彦命などの「紀の国」出身者がこの地を開拓し、移住をしたため「紀の国」の「きの」が転訛したという説
などが言われています。
私個人としては(2)の説に賛同しますね。でもいやだと思う人は(1)の説などを唱えるのでしょう。(3)も史実としては納得しますが「きの」が「けの」に転訛するというのは少し根拠に乏しい気がします。
2) 粗毛 【ほぼけ】 行方市
普通に「粗毛」は「あらげ」「そもう」などと読むと思いますが、この地名「粗毛」は「ほぼけ」と読みます。場所は霞ケ浦の北湖岸に沿った旧麻生町の麻生から少し潮来側に寄った場所にあります。
地名の由来についてはこのあたりの地形から「崩(ほう)ける」の言葉が元になっているといわれています。
近くの「麻生(あそう)」についても「麻が生い茂っていた」という説が強いようですが、こちらも「アゾ」という崖を意味する言葉が元であったのではないかという考え方もあります。
3) 奈良毛 【ならげ】 鹿嶋市
奈良毛(ならげ)は霞ケ浦の「北浦」東岸にあります。平成の大合併前は大野村でした。
この地にも古墳があり「奈良毛古墳群」と呼ばれています。
地名としては、南北朝時代に常陸国鹿島郡に「奈羅毛」と書かれていた記録があり(角川日本地名大辞典)、「奈羅毛津」、「ならけの津」と呼ばれ、港(津)が発達していたと考えられます。
奈良、奈羅の意味合いや由来についてはわかりませんが、ここに古くから人が住んでいたようです。
「奈羅」という字を調べると、「奈羅訳語氏(ならのおさし)」という古代氏族が出てきます。この「奈羅訳語氏」は朝鮮半島からやってきた秦氏の一族だといいます。
「訳語(おさ)」とは通訳のことで、奈羅訳語氏の祖と言われているのは、「己智(こち)」とい人物が百済から日本に渡ってきて、540年に日本に帰化して、奈羅訳語氏となったといいます。
遣隋使などに同行して中国に渡って、通訳などを務めたのでしょうか。
この「奈良毛」もこの一族と関係があるかもしれません。
4) 粕毛 【かすげ】 土浦市
「粕毛」(かすげ)は霞ケ浦へ注ぐ桜川の下流の右岸にあります。現在の上高津にあるイオンモールの少し上流側です。
江戸期から見える村名で、初期のうちは「信太郡(しだぐん)」でしたが、江戸後期の天保年間に「新治郡」に組み入れられました。
昔は「糟毛」と書いていたようです。
「粕毛」「糟毛」というのは「栗毛「黒毛」「鹿毛」などと同じように馬の毛色を表す言葉に使われています。
この粕毛の馬の毛色は「灰色に白い毛の混じったもの」です。
地名の由来は不明ですが、この色合いと関係しているのかもしれません。
5) 毛有 【けあり】 取手市
毛有とは変わった名前ですね。「毛無」というのは結構ある名前で、「毛無山」などがあります。
この「毛有(けあり)」地区は、旧藤代町にあります。
「角川日本地名大辞典(茨城県)」によれば、地名の由来は
「もともとこの地は低湿地地帯で、耕作には適さない地でした。それを江戸時代前期の寛永年間に開発され、穀倉地帯になったそうです。そのことから「不毛」⇒「毛有」となった」ということです。
作物が取れない頃は「毛無原」と呼ばれ、この地を開発したときは「毛無新田」と名付けられたそうですが、不毛の意味になってしまうというので後に、「毛有」に変更されたそうです。
参考までに北海道の駅名に面白い地名がありましたので紹介します。
・大楽毛(おたのしけ)駅・・・アイヌ語の「オタ・ノシケ(砂浜の中央)」に由来、
・増毛(ましけ)駅・・・アイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(カモメの多いところ)に由来
とされています。
茨城の難読地名(その16)-乙子、乙戸

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
乙子 【おとご】 守谷市
乙戸 【おっと】 土浦市
乙の付く地名を集めてみました。
上の2件が見つかりましたが、そのほかに阿見町の追原(おっぱら)は昔「乙原」と書いていたようです。
1)乙子【おとご】守谷市
この地名の由来については下記の2つが市の説明などに書かれています。
(1)平将門伝説で、将門がこの守谷の山にに城を築き、万が一の場合に備え、城から抜け穴を掘り、そこから逃げることにしました。その抜け穴の出口を落口(おとしぐち)といいました。それが乙口(おとぐち)に変わり、さらにそれがなまって乙子(おとご)に変化したとする説。
(2)万葉集の歌人の犬養浄人(いぬかいのきよひと)が、末っ子を非常にかわいがり、成人になっても心配なため、近くのこの地に家を建てて生活させたそうです。昔の人は末っ子を乙子とも言ったとのことで、後に当地区を乙子と呼んだとする説。
角川日本地名大辞典(茨城県)には、上の(1)の将門伝説の説明がそのまま地名の由来として載っています。
でもこれは少し納得いかないですね。
(2)の説も少し根拠に乏しい気がします。もう少し探してみましょう。
そこで、全国の乙子と名の付く地名を探してみました。
・島根県益田市乙子町 おとごちょう
・岡山県岡山市東区乙子 おとご
現在の郵便番号簿での地名としてはこれだけですが、いろいろ調べていくと熱田神宮の末社(6社)の中に「乙子社=乙子神社」があり、やはり「おとご」と読みます。
また、この乙子社を本社とする神社が各地にあるのです。
・新潟県新潟市中央区沼垂(ぬったり)東 乙子神社
・・・説明では、乙子神社の乙子とは「末子」という意味で、天照皇大神と彌彦神社の祭神・天香山命(あめのかごやまのみこと)の末っ子である建諸隅命(たけもろずみのみこと)を祀っているとあります。
・新潟県燕市国上 乙子神社・草庵
・・・ここの社務所に良寛が10年間住んだといわれています。
・岡山県岡山市東区乙子 乙子神社(乙子城山に鎮座)
・・・ここも祀られている柱の一つである若御毛沼命(わかみけぬのみこと)<後の神武天皇>が、五瀬命((いつせのみこと)=(安仁神社)の末弟であることから乙子=末っ子から来ていると説明されています。(長兄が五瀬命で末っ子が若御毛沼命)
しかし、地元の地名の説明には、「波風の静かな児島湾を湖に見立て、潮騒が聞こえる湖から音湖といい、乙子の字を当てた 」との説も書かれています。
でもどうやら熱田神宮の末社の「乙子社(おとごしゃ)」が名前の最初のような気がします。
この乙子社は熱田神宮の六末社の最北に建つ神社です。住所は愛知県あま市乙之子(おとのこ)にあります。
祭神は弟彦連(おとひこのむらじ)といい、尾張氏系図に14世孫として載っています。
これからみると「乙子(おとご)」は弟彦連(竟乎己連(おとごむらじ)ともいう)の「おとご」から来ているのではないかと感じます。もちろんこの人物も末っ子なのかもしれませんが・・・。
なお、この「乙子社」は貴船神社との関係が指摘されています。
1)乙戸【おっと】土浦市
土浦市に乙戸沼(おっとぬま)があり、その近くの地名が「乙戸」「乙戸南」となっています。
またこの沼から「乙戸川(おっとがわ)」が流れており、小野川と途中で一緒になり、稲敷(江戸崎)へ流、霞ケ浦に注いでいます。
「乙戸」の名前の由来としては、はっきりしませんが、昔は、沼の中央の形が「乙」の形であったからといわれています。
現在は乙戸沼公園となっており、卸売市場などの施設もあり、残念ながら形状が乙形かどうかはよくわかりません。
茨城の難読地名(その17)-小浮気

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
小浮気 【こぶけ】 取手市
旧藤代町の藤代駅から西へ少し行った6号バイパスと旧6号国道が合流するあたり「小浮気」という地名があります。
藤代駅近辺からこのあたりにかけては、小貝川が蛇行しており、一帯は湿地帯や沼地だったそうです。
また利根川も近くで2つの大きな川に挟まれた地域です。
過去には何度も水害で苦しめられてきたといいます。
地名の由来は「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、「地名の『ふけ』は、深田とか沼沢地の意」と書かれています。
日本全国で「浮気」という地名を調べてみると、滋賀県守山市に「浮気町(ふけちょう)」という地名があります。
この地名の由来については、『守山市誌 [第3巻]』に、「地名は水澤の池、水がふけるの意味で、野洲川の伏流水が至る所から湧き、泉や小川となって里中を流れ、常に水気が立ちこめる風景を呼ぶ名称です。」とあります。
浮気という字を当てた理由については、『守山往来』のむらのおこりの項目には、「浮気の村は、沼地のようでありました。ちょうど、浮いているような状態で、水面はいつも雲がたなびいているようでした。水が常に上昇して紫気天に浮かびて動かずという状態であったので、浮気の名があるといいます。」とあります。
アイヌ語などを見てみましたが、沼地に対するようなことばに「フケ」などという言葉は見つかりませんでした。
従って、従来からある古アイヌ語(縄文語)ではなく、奈良・平安頃から使われだしたことばなのかもしれません。
まあ本格的な「浮気(うわき)」はいけないけれど、小浮気くらいならいいのでしょうかね。
また、「浮気」と似た地名を探してみると、「浮田」(ウキタ、ウキ)という地名が青森、岩手、福島、京都、大坂、宮崎に見つかりました。
これも 「ふけ」= 布気、婦気、福家、更など が「泥深い田んぼ」も意味したことばとも言われ、「浮気」と「浮田」は同一の意味だとも書かれたものがありました。
「浮田」の地名から「宇喜多」氏の名前が生じたようです。
茨城の難読地名(その18)-天下野

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
天下野 【けがの】 常陸太田市
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、当地の獅子舞は徳川光圀に「天下一」と賞されたことから、江戸で「天下一」の標旗を掲げていたが、将軍に天下一の呼称は身分を越えたものとされ、光圀が「天下野村で一番の意である」と弁明したとことにより、天下野と称するようになったと伝える。また当地名は大阪の天下茶屋、美濃の天下原とともに日本の三地名の1つという(水府村史) と書かれている。
また、水府村史によると、元禄12年(1699年)に常陸国久慈郡の下高倉村が改称されて「天下野村(けがのむら)」となったと記されています。
徳川光圀が亡くなったのは1701年ですからその少し前です。
江戸期には「天下野村」「上高倉村」「下高倉村」の三村があり、明治22年に三村が合併して「天下野村」となりましたが、明治29年には再び天下野村と高倉村(旧上と下の両方が一体となった領域)に分離し、昭和31年にまとまって「水府村」になっています。
この天下野村(けがのむら)の領域は常陸太田市でも北部の山間の地域で、常陸大宮市との県境である阿武隈山系の麓の領域です。今では観光で有名になった「竜神橋(大吊橋)」があります。
地名の由来には上に書いた水戸黄門(光圀)の話が紹介されているだけで、それ以上細かな話は残されていません。
天下一と賞されたという獅子舞は地元の説明では「散々楽」(ささら)だといいます。ささら舞は獅子(鹿)の姿をした被り物を被って踊るものが東北地方では知られていますが、茨城県は主に「棒ささら」が多いようです。
三匹のささら(棒に獅子の人形を取り付けたもの)を下から人が操作して踊ります。
ささら舞を「散々楽」と書くのは、水戸の台渡里あたりのささらを呼んでいるようですが、この天下野のささらが今でも行われているのかどうかわかりませんでした。
光圀が地名を変えた話は各地にあり、「板久」を「潮来」(いたこ)に変えた話などが有名です。
ただ、この地を天下野と書くという前には恐らく別な漢字で「けがの」と呼ばれた地域がこのあたりにあったと考えられます。
それを探るために「けがの」という地名を探してみました。
和歌山県橋本市慶賀野(けがの) がありました。
この橋本市の慶賀野という場所は、地図でしらべると大阪から高野山に向かう参拝道である「高野街道(こうやかいどう)」沿いにある町で、大阪府側から和歌山県側に入るときに「紀見峠(標高400m)」を越えて、下った麓にある町です。高野山にはそこから橋本市の街中を通ってまた山に登ります。
地形を見ていると常陸太田市の天下野と少し似ているように思われます。
意味合いはよくわかりませんがこちらの天下野もその昔は「慶賀野」または何か別な漢字で書かれていたのかもしれません。
「毛野、毛ヶ野」または「穢野」なんて漢字で書かれていたのかもしれませんね。
茨城の難読地名(その19)-先後

シリーズ1回目からは ⇒ こちら
先後 【まつのち】 小美玉市
この先後の読み方ですが、現在の登録されている住所表記には「まつのち」となっていますが、地元では「まつのち」は言いづらく、昔から「まずのち」と呼ばれています。
通常の会話では、このあたりのことばとしては濁った発音で、「まんず」などとよく言いますよね。
また、「角川日本地名大辞典(茨城)」には、地名の読みは「まずのち」となっています。(旧美野里町)
平成の市町村合併前の美野里町の頃は「まずのち」と呼ばれていたようです。
それを濁らない「まつのち」に変えたのには何か理由があるのでしょうか?
地名の由来について、この地名大辞典では、
1) 伏見(京都府)・松崎(千葉県)と当村の3稲荷が京にのぼり位階を受ける時、伏見が最初に受け、そのあと当村の稲荷に勧めたところ、松崎を推し、私は「まずあとにしよう」といったので先後とした。
2) 松崎稲荷の分霊を祀ったので「マツザキ」に対して「マツノチ」とした。
などの伝承がある(美野里町史編集資料) となっています。
まあ伏見稲荷は有名ですので別格として、もう一つの松崎神社ですが、この神社は千葉県香取郡多古町にある坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけるよりも前の西暦772年創建が伝えられる古い神社で、「坂東稲荷本宮」などとも称していた神社です。
この1)の話は地元の神社などに掲げられた地名由来の話とほぼ同じです。
伏見稲荷と、松崎神社の2社に同列でこちらの神社の位を論じるのは少し不適切に感じます。
このため、上記の説では2)の方が可能性は高いかも知れませんね。
そうすれば「まず」ではなく「松=まつ」というのが正式名称というのはうなづけます。
さて、この場所は小美玉市(旧美野里町)の6号国道が隣の茨城町に入るすぐ手前の低地で、巴川上流左岸にあります。まわりは田んぼが広がっており、先後新田と呼ばれていますが、江戸後期の天保年間までは「前後新田」と記載されています。
また先後稲荷(まつのちいなり)は徳川光圀が、西郷地村(すぐ東となり)の刺賀飛護念(ひがひこね)の社(現石船神社)に合祀されたといわれます。(県神社誌)
全国に「先後」という地名は見つかりませんでしたが、「前後(ぜんご)」という地名はあります。
愛知県豊明市前後(ぜんご) これは名鉄名古屋線の駅名にも成っていますので、知っている方も多いのではないかと思います。
地名「前後」の由来としては
1) 昔、桶狭間の戦い(1560年)で織田信長が今川義元を破った時、この戦いで亡くなった兵士たちの首を「前後」に並べたところからつけられたとの伝承からついたという説。
2) 「前後村」という名前は、明治になってからつけられた名前で、それまでは「五軒家新田村」と言われていました。その「五軒家新田という名前も、その前をさかのぼると、江戸時代初期には「間米(まごめ)村」といわれ、中心となる「本郷」のほかに、17世紀に「五軒家」、「八ツ屋」、「三ツ谷」という3.つの集落ができました。これらの集落が本郷の南にあるため、「前郷(ぜんごう)」と呼ばれたのが、「前後」に変わったものという説。
3) 桶狭間のなまえの元になっているように、このあたりは狭い谷が迫っているところで、狭い所を意味する「せこ(狭処)」が変化して、「せんこ」になり、それが「ぜんご(前後)」に変わったものとの説。
などの説があります。
小美玉市の「先後」について、地形によりつけられたという話しは見つかりませんでしたが、何かありそうな気もします。