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茨城の難読地名(その1)-随分附(笠間市)

 本ブログでも時々、気になる地名などがあると、それを考察したりして書いてきましたが、少しまとめておきたくなりました。
今回新たにカテゴリに「茨城の難読地名」を追加して時々書いていきたいと思います。
更新の頻度はまだ未定ですが、これを完成するのはかなり大変そうですのでのんびりいきましょう。

まず、第1回目は「随分附」です。

随分附 【なむさんづけ】 笠間市(旧友部町)

この漢字はなかなか読めないですね。
いったいどんなところから名前がつかられているのでしょうか?
これがさっぱり判らないという代表的な地名かもしれません。

<角川日本地名大辞典>
地名の由来については、目下の者に自分の身分に随って、そのつとめを果たすように申し付けるという意味で、「なふさつ」が転訛したもの(新編常陸国誌)

と説明にはあり、これが現在の正式な見解のようです。

新編常陸国誌というのは、江戸時代の初めに徳川光圀(黄門さん)がまとめた『古今類聚常陸国誌』をもとにして、これを補うために江戸時代の後期の国学者「中山信名(なかやま・のぶな)」がまとめた歴史書ですが、中山信名の死後に、土浦の学者「色川三中(いろかわみなか)」などが追加や訂正などをして完成しています。

しかし、笠間市でもこの説明だけではよく理解できず、「アイヌ語説」「仏教語説」などもあるという言い方をしています。

「随分」とは「ずいぶん」と読みますよね。
この現在使われている意味は「はなはだ」「非常に」など限度を超えていることの表現に使われます。

しかし、本来の意味は「分(ぶん)に随う(したがう)」という意味で、身分相応という意味でしたが、これが、「身分や自分の出来る範囲で十分に」などの意味となって、現在の意味になったと考えられています。

この意味がわかると、新編常陸国誌などに書かれた意味もなんとなくわかってきます。
でもまだスッキリしませんね。それはこの身分に応じてというけれど、「何故この場所にそんなことばが発生したのか?」ということがまったく説明に無いためです。

でも、江戸時代の学者先生もたぶんわかっていれば書いていたでしょうから、きっとよくわからないでいたのでしょう。

では、私がこれを判るかといえば、これはとてもわかりません。
ただ「随分」が現在の意味に成ったのは鎌倉時代頃のようですので、それ以前の奈良、室町時代の頃、またはその前から使われていた地名なのでしょう。
その時代にこの地にどのような身分の人が住んでいたかがわかれば、きっとこの意味も理解できるような気がします。

少し視点を変えて、まわりの地形やその他の地名などに何かヒントは無いでしょうか?
「随分附」の場所を地図で眺めてみました。場所は常磐高速道と北関東道とが交差する「友部ジャンクション」の少し北側です。

近くを涸沼川(ひぬまがわ)の支流である「枝折川」が流れており、この川沿いの低地が広がる肥沃そうな場所一帯が「随分附」と呼ばれている地域です。
この「枝折川」は一級河川で「しおりがわ」と読みます。
Webの辞書では「えだおれがわ」と呼び名が書かれていますが、これはおかしいと思われます。

昔、道の別れ道などに折った枝を置いて、帰るときの道しるべなどにしていました。
これが「枝折」で、本にはさむ「しおり(栞)」の語源と成っています。
新潟の只見湖ちかくにある「枝折峠」は「しおりとうげ」と読みます。
その他にも「枝折山」などの名前も各地にあり、ほとんどが「しおり」と読ませています。

さて、じっくりと地図を見ていると気になる地名が近くにたくさん散見されます。
この涸沼川と枝折川」が合流するあたりに「長菟路(ながとろ)」「仁古田(にこだ)」「土師(はじ)」「安居(あご)」「押辺(おしのべ)」などです。

この「安居(あご)」には古代の官道の駅家(うまや)が置かれていました。
石岡(常陸国府)の鹿の子(かのこ)遺跡の場所から、水戸市の那珂川沿いにある「渡里(わたり)、長者山(ちょうじゃやま)」まで古代の官道がまっすぐにつながっていました。この途中にある馬を常時置いていた駅家(うまや)が恐らく涸沼川の川近くにあったと考えられています。

また水戸から筑波山への参拝街道として「瀬戸井街道」が知られていますが、この道は現在の県道30号線(岩間街道)のルートとほぼ同じ処を通っており、この随分附にも宿場がありました。
この随分附と岩間との間に「土師(はじ)」という地名があるのですが、これが何か「随分附(なむさんづけ)」にかかわっているような気がします。

「土師器(はじき)」ということばがあるように、これは昔の素焼きの土器で、この土器を焼く人たちのことを一般に「土師」と表記していたと考えられます。
でも「土師」は元を辿れば、古代豪族の名前で、古墳時代(4世紀末~6世紀始め頃)に古墳を築造したり、この古墳に入れる装飾品をつくる身分の氏族に与えられた名前です。

また、この土師器が作られていたのは、古墳時代から鎌倉時代の前、すなわち平安時代頃までだったようです。
これは「随分(なふさ:なむさん)」が「身分に随って」というような意味に使われていた時代に近いように思います。

古墳時代には近くに「ナムサン付遺跡」があります。

さて、近くの地名の「仁古田(にこだ)」ですが、参考になるのが、東京の西武池袋線に「江古田(えこだ)駅」があり、すぐ近くの中野区側の「江古田(えごた)」という地名です。
「えごだ」という響きが古臭いので、駅名は「えこだ」に変えたものと思いますが、この名前は、おそらく川の上流や中流で、あまり流れがなく湿地帯になっている場所についた名前だと感じています。

かすみがうら市の神立には「江後田(えごた)」という地名もあり、ここは霞ヶ浦に注ぐ「菱木川」の最上流の場所です。

また、もう一つの「長菟路(ながとろ)」地名ですが、土浦の高津貝塚遺跡で説明を受けた時に頂いた「古代の道」という冊子では、この「長菟路」は、この古代官道にちなんだ名前と書かれており、石岡の小目井跡に近い場所に同じような名前を見つけて古道を推論されていましたが、こちらは、「長瀞、長戸呂、長土呂、長渡呂、長淀、長外路、長戸路・・・」などと漢字が違うが同じ読みの地名がたくさんあり、私としては、この名前は、川の流れが緩やかになり材木などを流した時のたまり場所になったところと解釈しています。

秩父の長瀞などは観光名所で渓谷美と急流を下るライン下りの場所を思い浮かべますが、多分その途中の流れが穏やかになって広くなったところを示す言葉だと思っています。

また「押辺(おしのべ)」だが、これは「押戸」などと同じで川に舟を押し出す場所という意味ではないかと考えています。

これもあくまで私の推論を含めた参考にしか過ぎません。

(関連地名)
・長菟路(ながとろ)
・仁古田(にこだ)
・安居(あご)
・土師(はじ)
・押辺(おしのべ)

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/06/28 11:18

茨城の難読地名(その2)-木葉下(水戸市)

難読地名 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

木葉下 【あぼっけ】 水戸市

 「木葉下」は茨城の難読地名で最も有名なものの1つです。
「あぼっけ」と読むのですが、この謂れについてはかなりいろいろな説があります。

1、「角川日本地名大辞典」(茨城県)によるといくつかの説を列挙している。
(1)鎮守香取神社を下総国香取神宮から勧請(かんじょう)して遷座する際に榊葉の裏に御影を顕したということによるという説
(2)山肌の崩れた所を「ばっけ」、赤土が露出した崖地を「あかばっけ」などといいそれが転訛したという説。(新編常陸国誌)
 また、木葉下の字は当地に大樹の美蔭があったことによるという説。
を挙げています。また縄文時代の小鍋遺跡、古墳時代の大鍋遺跡がある。 と書かれています。

2、「今昔 水戸の地名」(堀口友一著)には、「慶長三年(1598)の検地帳(佐竹氏が行った検地)にはアホツケ村とある。高田与清氏によれば、ホケはハケまたはカケで、山の岨(そま)などの土のかけやすいことから起こった語であるという。木葉下とはそのような場所の大樹の陰の意味であるといわれる。西端に水戸市で最も高い朝房山がある。この朝房の下にあることからアボ下の地名が起こったとも考えられる。」
と書かれています。これは上の(2)とほぼ同じです。

3、「常陸国風土記と古代地名」(鈴木健著)には、「この山(朝房山)の直下に水戸市大字木葉下(アボッケ)という珍しい地名があり、そこに朝房下という小字がある。もし他にアサ○○のサが脱落してア○○となるような類例があれば、朝房下は、アサボウイシタ⇒アボウシタ⇒アボウケ⇒アボッケとなり得る。・・・・・・・・
また「もしこの山が人が寝ているように見えたとすると、[a-ア・一般称。人にあたる言葉]、{hotke ほッケ・寝る} アイヌ語ではp・t・kが隣にあった場合、前のものが後のものに同化するので、hotke は hokke となるからアホッケ。古くからこの山をアボッケ(ヤマ)=人が寝ている(山)と呼んでいたことはなかっただろうか。やがてそこから、朝寝坊という連想が生まれ、アボッケのアボと朝寝坊が重なり、アサボウ山と呼ばれ、アボッケの方はケが下ということで、山下の地の名前に変わったのではないだろうかと考えてみたこともあった。・・・・・
これはアボッケを朝房山や朝寝坊伝説と関連づけた話しであり、地形から見ると、[pokぽク・下]・{pa-keぱケ・出崎の突端の崖}=下の崖ふち がある。その発音に木葉下(ボク・バ・ケ)が当てられ、山茶花(サン・サ・カ)の発音が(サザンカ)と逆転したようにハバッケとなった。あるいは、そのpakeの転と思われrが、関東で崖をカケとかバッケと言うので、崖下をハケシタとかバッケシタと言ったことが考えられる。・・・・・などと書いています。
鈴木健さんはアイヌ語というより「縄文語」を研究されている方です。

確かに東京小金井市の駅の南側の一段下がった崖(国分寺崖線)の下に続く道は「はけの道」と呼ばれています。
ここでは「ハケ=崖下」の意味に使われていますね。
その他四国の「大歩危(オオボケ)・小歩危(コボケ)」などのボケもおなじような崖地を表す言葉かもしれません。

でもこの木葉下(アボッケ)を私は何度も訪れているのですが、どうもこの崖下というイメージがわいてこないのです。

水戸の市内から来ると確かに山間の薄暗い場所で起伏もあります。また近くにたくさん古墳があり、大きな古墳公園もあります。

しかし、アボッケが崖地についた名前でしたら、他にも候補は山ほどあり、わざわざこんな場所にはつけないのではないかと思うのです。

昔の地形はよくわかりませんが、今から想像すると「崖」というのは少しイメージが違います。

そこでもう一つ別な解釈をネットで探してみました。

4、アボッケは古朝鮮語で「焼き物を焼く里」で、粘土などの意味もある・・・ということを書いている人がいました。
 
根拠があいまいなのですが、この説明があっているとすればイメージ的にはとてもよく合います。

この近く(木葉下三ケ野地区)には奈良時代の須恵器を焼いた窯跡があり、約40基の登り窯があったことが確認されていて、「木葉下遺跡」と呼ばれています。 
ここから出土した瓦は、いわゆる台渡里廃寺「徳輪寺」の後期の造営に用いられたものということがわかっています。

何かこちらの関係が強いのではないかと私には思われます。

(関連地名)
・大足 【おおだら】
・全隈 【またくま、またぐま】



茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/06/28 19:54

茨城の難読地名(その3)-月出里(稲敷市)

難読地名2
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

月出里 【すだち】 稲敷市

 「月出里」を「すだち」と読むのですが、これもなかなか読めないですね。
この謂れについてもかなりいろいろな説があります。

1、「角川日本地名大辞典」(茨城県)によると、江戸の元禄郷帳や天保郷帳などに記載されている村名は「月出村」とあり、これで「すだちむら」と読まれていた。これが「月出里村」と「里の字を入れて「すだちむら」なったのは江戸末期頃からで、明治22年に村の合併などの変更により村名が消え、「月出里」(すだち)という大字(おおあざ)となったという。

名前の由来については
(1)地内に大清水という字があり、清水の湧き出る地に由来するという説
(2)地内に上谷原という字があり洲がたっている地に由来するという説
(3)「新編常陸国誌」によると、「出をタチと読めるは、めでたし。月出をツイタチと読めるタチと一つなり。また按ずるに、ツイ(月)の反音チなり」として【チタチ】の音が【スタチ】に転訛した。

2、「筑波地方の地名の由来」(中山満葉著)によると、 
 「月出里の「月出」は「朏(ひ)」のことで、「三日月」。やっと新月が現れ光彩が放たれ始めたさまで、月出里はこういう月を由縁にしている地名であれば、月讀命神を祀っているのではと思われる。その祭神をもって地名にしたのだと思うが、つくば市吉瀬の三日月神社が祀っているのもやはりこの月讀命である。三日月神社は言いかえれば朏神社であり、この月出里も書きかえれば三日月の里、朏の里、朏里(ひり)である。」と三日月説が書かれています。

3、地元(旧江戸崎町)の説明には「月の出る夜に、鳥が一斉に飛び立つ里」の意味だと書かれていた(以前)。

まあ難読地名としての面白みはあるが、どうみてもこの場所が渡り鳥が一斉に飛び立つ場所とも思われない。
湖があるわけでもなく、夜になれば辺りは暗く特に鳥の飛び立つイメージは湧かない。
大昔に小野川などがもっと幅が広かったはずですが、結構川からも離れています。

「すだち」というと徳島名産の「スダチ=酢橘」との関連はないのかなどとも疑ってみたのですが、地元で「すだち神社」と呼ばれている鹿島神社(八坂神社も併設)にもそれにまつわる話もないようだ。

ただ、地図を眺めていると古代の「信太郡」の郡衙があったとされる小野川沿いの「下君山」から、この月出里を結ぶ道路が直線的にのびており、それが昔の官道の遺構ではないかと一時騒がれていたことがあった。

これもまだ、古代の官道跡も見つかっていないし、下君山に信太郡の郡衙(ぐんが)があったかどうかもまだ確認されていない。
この信太郡もかなり古いので、郡衙も初期には阿見町の竹来(高来)あたりにあり、その後美浦村の信太地区に移転し、最後にこの下君山になったのではないかと個人的には思っています。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/06/30 06:30

茨城の難読地名(その4)-古渡

難読地名2
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

古渡 【ふっと】 稲敷市

古渡は名古屋市にある地名のように、一般には「ふるわたり」「こわたり」「こと」などと読まれ、古に外国から渡ってきた物などを指す言葉のようですが、ここでは「ふっと」と読みます。
稲敷市の小野川が霞ケ浦にそそぐ出口の場所につけられた地名です。

国道125号線で戸崎から浮島に渡るときに通る橋が「古渡橋(ふっとばし)」で橋の手前の旧江戸崎町側が「信太古渡(しだふっと)」、渡った先の旧桜川村側が「古渡(ふっと)」または「東条古渡(とうじょうふっと)」といいます。


1、「角川日本地名辞典(茨城県)」によれば、旧江戸崎町の古渡(ふっと)の説明として、古戸とも書き、小野川が江戸崎付近で広がり、狭水道となり当地に入る地形から女性?の古語であるホト(保戸・保渡)に由来するという説があると紹介されています。

ちょっとこれでは今の時代に一般への説明に窮しますね。

なお、古渡村という地名は南北朝~室町期に見える村名で、応安年間(1368~1374年)頃と推定される海夫注文に「ふつとの津(古渡津、福戸津)」と見えるとあります。

また、旧桜川村の古渡の説明には、新編常陸国誌には「東条古渡」ともいう。南北朝には神宮寺城に拠って北畠親房を助けた近在の名主13名が処刑された(地元に十三塚の名前の謂われとして残されている)が、不在で難を逃れた阿波崎村の名主六左衛門は帰宅後敵将を追い、小野川畔に自ら進んで殺されたと伝える。これを弔ったのが著名なホイホイ地蔵。と書かれている。

確かにこの東側の阿波(あば)手前にある「神宮寺」信号近くには、南北朝時代に北畠親房が上陸して一時いた城跡などもあり、当時から古渡(ふっと)と呼ばれていたことは間違いないが、それ以前の地名の由来は明確ではありません。

2、「古渡」(ふっと)のアイヌ語説: アイヌ語で「プット(putu)」に由来し、(川の)出口を指す言葉ではないかという説。

地形をみてみると、小野川が霞ヶ浦に注いでいる場所です。流れの出口となっています。
現在も、古渡の入り江は水路のように長く、景観がとても美しい場所で、霞ケ浦湖岸でも一二を争うくらい美しい場所です。
茨城百景の中で「古渡の湖畔」が選ばれています。

3、昔、大和朝廷から派遣された武将たち(建借間命?)が、この地から潮来の方に渡り、賊(原住民)を殺したと伝わっており、それと同じく、この地でもこの地に住んでいた賊(原住民)たちの首を「フットフット」と刎ねたという言い伝えから名前が付けられたとする説。

この話は常陸国風土記に記載されている「潮来の名前の由来」にもある話に似ています。

(関連地名)
・阿波 【あば】
・潮来 【いたこ】

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/06/30 13:44

茨城の難読地名(その5)-鷲子

難読地名2
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

鷲子 【とりのこ】 常陸大宮市

茨城県の北西部、栃木県との県境に近い旧美和村の「道の駅みわ」に近いところに鷲子(とりのこ)という信号があります。
また近くには茨城県と栃木県にまたがるところに最近は「ふくろう神社」として知られる「鷲子山上神社(とりのこさんじょうじんじゃ)」という古い神社があります。

この2つの県にまたがるという県境なのですが、栃木県側の旧馬頭町(現那珂川町)とは、江戸時代は同じ水戸藩の領地でした。
このため、江戸時代までは県境というような意識はなかったのです。

また、この鷲子山上神社(とりのこさんじょうじんじゃ)ですが、807年に馬頭の僧で「大蔵坊宝珠上人」が四国の阿波国より製紙技術を得て、阿波忌部氏の祖神である「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」を祀った「鷲権現」という社を作ったことに始まるとされています。年代的には多くの神社が建てられた大同年間のことであり、どこまでが正確かはわかりません。

日本の神話を御存じの方はこの「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」がどういう神様かを御存じだと思いますが、天照大神が天岩戸(あまのいわと)の中に隠れてしまって、この世が真っ暗になった時に、岩戸の前で楽器を演奏していたその弦に鷲(わし)が飛んできてとまったという。そのためこの神は「天日鷲命」と呼ばれるようになりました。

それが四国の阿波国を作ったとされる阿波忌部(いんべ)氏になります。

その阿波忌部氏が黒潮に乗って舟で北上して千葉県に上陸し、安房国が誕生し、また総の国ができました。

そしてそこから北上し、この「天日鷲命(あめのひめわしのみこと)」を祭る神社が東国にたくさんできます。
そしてその神社の多くが、「鷲神社」「大鷲神社」などと書いて「とりじんじゃ」「おおとりじんじゃ」などと呼ばれています。

ですから鷲(わし)を「とり」と読むのはあまり不思議ではありません。

地名としての「鷲子(とりのこ)」については、「角川日本地名辞典(茨城)」によると、古くは鳥子と書き、元禄16年鷲子と改められた(水府志料) となっており、元禄郷帳では「鳥子村」とあり、天保郷帳では、古くは鳥子村とあるといいます。

県境の山「鷲子山(とりのこやま)」についても、奈良時代初期に書かれた「常陸国風土記」の那賀郡の条に「西は新治の郡と下野の国との境なる大き山」とあり、当時はまだ名前がなかったと思われる(新編常陸国誌) とあります。

この地にある「道の駅みわ」の入り口に地元名産のキノコのオブジェと共に大きな石碑が置かれています。
そこには「「はとうからすやまとりのこみち」と書かれています。

江戸時代にこのあたりは結構辺鄙なところで、道案内に上の様にひらがなで書かれていたのを、旅人は
「鳩、カラス、山鳥の小路」と読んで、この道は人間が通るところではないと引き返したのだという笑い話があるそうです。

元々は、「馬頭・烏山・鷲子 道」を意味していたのです。

またこの鷲子(とりのこ)地方は和紙の生産が盛んでした。

この鷲子(トリノコ)から美和を経由して常陸大宮を通って常陸太田へ出る国道293号線は江戸時代には「紙街道」とも呼ばれた道でした。

それは、この鷲子地方から小瀬地方が良質の紙(和紙)の生産地として非常に栄えていたのです。
和紙はまた久慈川をさかのぼった方でも盛んに紙漉き場があったようです。

ところで、トリノコ紙(かみ)って聞いたことがありますか?
調べてみるととても面白いですね。

鳥の子紙は雁皮(ガンピ)、コウズ、三椏(ミツマタ)などを原料にして作られた高質な和紙の呼び名で名前の由来としては、

文安元年(1444年)成立の『下学集』では、「紙の色 鳥の卵の如し 故に鳥の子というなり」と説明しされており、また『撮壌集』には、「卵紙」と表記している。 と書かれています。

一方トリノコ用紙と引くと「模造紙」のことで、愛媛県や香川県などで主にそう呼ばれているそうです。
またその他の地方でも模造紙といわずに、サイズから「B紙」、材料から「ガンピ」などと呼んでいる所もあるそうです。

ではこの模造紙ですが、これは和紙ではなく洋紙で、日本の「トリノコ和紙」を模造して造ったので模造紙といわれているそうです。

紙の歴史をたどると、エジプトで発明されたパピルスがもっとも古いとされていますが、現在のように植物繊維を水に溶いて漉く方式の紙は中国で約2000年前に発明されたものです。
日本に入ってきたのは西暦610年頃に高句麗の僧、曇徴によって製紙法が伝達され広まったと伝えられています。

今から1400年くらい前です。

鷲子山上神社の創建が9世紀初めのころとすると、1400年前に伝わった紙漉き(かみすき)の技術が、四国阿波地方で広がり、それが1200年ほど前にこの地に伝わったということになります。

そして、この地で製紙産業が盛んになり、紙を水戸や江戸に運ぶ道として現国道293号線は栄えたのです。

この鷲子の和紙は質が良く、明治の選挙の時の投票用紙にも選ばれたそうです。

和紙と鷲なんていうのもダジャレではないですが意味があるのかもしれません。

鳥の子紙は上質の和紙の代名詞となり、その技術が高く評価され、日本政府が1867年のパリと1873年のウィーン万博にこの手漉きの和紙を出品して日本の優れた技術が世界に知られるようになりました。
特に絵を描いたり、壁紙とするのにとても良かったといいます。

その日本の「鳥の子紙」を真似てオーストリアで模造紙が造られ、今では洋紙が主流になってしまったのです。

ここ鷲子山上神社のある地方が「トリノコ紙」の名前の由来になったとの確証はありませんが、逆にトリノコの名前が先にあって、この地に伝わって地名になったのかもしれません。


(関連地名)
・高部 【たかぶ】
・タバッコ峠



茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/06/30 17:17

茨城の難読地名(その6)-河内

難読地名2
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

中河内 【なかがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 水戸市
上河内 【かみがち】 那珂市
東河内 【ひがしごうど】 日立市
西河内 【にしごうど】 常陸太田市
油河内 【ゆごうと】 常陸大宮市

もともと「河内」は 【かわのうち(川の内)】が ⇒ 【かわうち】 ⇒ 【かわち】(一部ではコウチ)となったものでしょう。

いっぽう、茨城県の県北地方に「がち」「ごうど」なたは「ごうと」と読ませる地名も存在します。
その成り立ちを少し調べてみましょう。

まず水戸市にある「中河内町=なかがちちょう」、「上河内町=かみがちちょう」ですが、この場所は古代官道が常陸国国府の石岡から台渡里(渡里町)まで真っ直ぐにひかれていましたが、この台渡里に馬を常駐させる駅家(うまや)がありました。
そして那珂川(古代は粟川)を挟んで対岸側がこの「河内」地区です。

ここにも馬を常駐させておく駅家(うまや)があり、河内駅家(かわちのうまや)が置かれていました。
そして何時頃からかこの地は「河内村」と呼ばれていました。

「今昔水戸の地名」(堀口友一著)によると、この「河内村」は「カチ」と呼ばれており、これは「カワチ」の急呼だといいます。
カワチをせっかちな水戸っぽが呼んで「カチ」となったのでしょう。

そしてそれが上、中、下などとわかれ、「上河内=カミガチ」「中河内=ナカガチ」となったものと思われます。
この上河内町ですが、水戸市にある町ですが、一部が隣の那珂市にもまたがっているところがあるようです。

一方やはり里川の少し上流地域にも「河内」という地名があり、東側は日立市で「東河内(ひがしごうど)」、西側は常陸太田市で「西河内(にしごうど)」と呼んでいました。

しかし現在は常陸太田市の西河内(にしごうど)との呼称は「西河内(にしごうど)上町」「西河内(にしごうど)中町」「西河内(にしごうど)下町」などと分かれ、一部が市町村合併が繰り返されたため、旧水府村の領域に入っていた 「西河内上」は合併で「河内西(かわちにし)町」と変更になりました。

また常陸大宮市の国道293号線を常陸大宮から北上し、「道の駅みわ」の手前の小舟地区から「やすらぎの里公園」方面に進み、すぐに「油河内川(ゆごうとがわ)」という小舟川の支流があります。この川を西にさかのぼった先に「油河内」と書いて「ゆごうと」という地名があります。

「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、河内とは川を中心とした狭い平地を意味し、沢に温湯の湧く所があり、湯河内と名付けられ、後に油河内に改められた。(水府志料) と書かれています。
しかし、現在温泉のような施設も見当たりません。

河内を「ごうど」「ごうと」と読む由来についてはあまりはっきりしません。
ただ「河」は「こう」「ごう」とも読み、「内」も音読みでは「ない」「だい」「どう」ともよむため、「ごうどう」などとなり、「ごうど」とつまってなったものと考えられます。

しかし奈良時代に書かれた常陸国風土記の久慈郡には、「郡家(旧水府村付近)の西北二十里のところに、河内の里あり、もとは古々の村といった。(「ここ」は猿の鳴声からきたといふ。)里の東の山に石の鏡があり、昔、鬼が集まって鏡をもて遊んでゐるうちに、鬼は消えてしまった。「恐ろしい鬼も鏡を覗けばおのれを滅ぼす」といふ。そこの土は、青い色をしてゐて、良質の絵具として使へる。「あをに」とも「かきつに」ともいふ。朝廷の仰せで、都に献上しゐる。この里は、久慈河の源にあたる。」(口訳・常陸風土記)

とあり、猿の泣き声から「ここ」といい、「古々」となり、それが「河内」変わったと書かれています。

また参考までに、兵庫県には「染河内(そめごうち)」などと呼ばれる地名もあります。

その他茨城県にも「河内村(かわちむら)」などと呼ばれたところは数多くあるようです。
いまでも南部には稲敷郡「河内町(かわちまち)」がありますし、昔の真壁郡に「河内村(かわちむら)」(「かっちむら」とも呼ばれる)が存在していました。いまは関城町に組み入れられ、筑西市となり村名は無くなっています。

(関連地名)
・入四間 【いりしけん】

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/01 07:55

茨城の難読地名(その7)-廻戸

難読地名07

 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

廻戸 【はさまど】 阿見町

「廻戸」と書く地名は東北の方には結構あるようです。
福島県では、喜多方市に「東廻戸=ひがしまわりと」、南会津町に「糸沢廻戸=いとざわまわりつと」「川島廻戸=かわしままわりつと)」、昭和村に「野尻廻戸=のじりまわりと」、二本松市に小字で「廻戸=まわりと」などがあり、宮城県にも丸森町に「峠廻戸=とうげまがりど」、岩手県にも西和賀町川尻に「廻戸=まっと」などがあります。
しかしこれらはいずれも「まわりど」が語源の基であり、「まっと」などというのも言葉が詰まったことでそのようになったものと考えられます。

こちらの阿見町の「廻戸」は【はさまど】と読みます。

「角川日本地名辞典(茨城)」によれば、「迫戸とも書いた。霞ケ浦の南西岸に位置する。地名は海に挟まれた土地に由来するという(阿見町の生い立ち)。縄文時代の廻戸貝塚がある。」と書かれています。
また、江戸時代初めの慶長11年(1606)「常州知行目録」では「波佐間戸」との記載があり、江戸時代末期の「天保郷帳」には「波佐間戸村」とあり、古は廻戸村とあります。

ところが、阿見町教育委員会のまとめた「阿見の昔ばなし その6」によると、
慶長7年(1602)の検地帳には「廻戸村」とでてきており、それ以前は「波佐間戸」と書かれたり読まれたりしていたとなっています。

どうも大昔は「波佐間戸=はさまど」で、江戸の初め頃から「廻戸=はさまど」に変わったのでしょう。
でも江戸時代には「波佐間戸」も「廻戸」もどちらも使われていたのかもしれません。

また、阿見の昔ばなしの説明では、旧道をたどってみると谷津をはさむ坂道など曲がりくねった細い道だったことがわかるため、
廻戸の「廻」は、あたりをぐるぐるめぐる、まわるという意味があり、このようなところからとったのかもしれません。
また、「戸」は、霞ケ浦沿岸、利根川、その他の沼や川の近くの入りくんだ所に「戸」のついた地名を見つけることができます。
廻戸と向かい合う霞ケ浦対岸に「折戸」という所がありますが、「戸」は、昔入りくんだ地で河岸のあった所が多く、廻戸も河岸があったとされていますので、舟のつく所からきているのではないでしょうか。

と書かれています。

実際に行ってみました。この場所は国道125号線沿いに予科練平和記念館があり、その反対側の高台になっている場所です。
登ってみると高台と低地が入り混じった地域といえます。

坂道に沿うように住宅が並んでいて、裏手の山が中世に「廻戸城」があったという高台になっています。
上の台地の一角に「まほろば」という施設があり、そこから霞ケ浦が良く見渡せます。
また、この施設の入り口横に「廻戸貝塚」の説明看板がおかれていました。

この山一帯が中世の廻戸城の跡で、城の城主は土岐大善太夫(江戸崎の城主)の家臣「高野次郎八郎」という。

さてざっと見てきて「廻戸=はざまど」の名前の持つ意味を考えてみた。

霞ケ浦がまだ海だったころを想像してみるとこのあたりの地形はどんな様子だったのでしょうか。
恐らく、このあたりも入り江が入り込んだ地形で、一部は島のようになっていたのかもしれません。

入り江に舟着き場があって、ここから漁に舟が出て、島を廻っていたのではないでしょうか。
戸は江戸などと同じ戸口(河口)と思われます。

地形的にはこのような名前なのだと思います。

(関連地名)
・十三間戸 【じゅうさんまど】

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/01 12:34

茨城の難読地名(その8)-七五三場

難読地名08
 
シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

七五三場 【しめば】 結城市

この七五三は人のお名前(苗字)にも使われており、知っておられる方も多いかもしれません。
「しちごさん」ではなく「しめ」と読みます。

しめ縄(注連縄)の「しめ」です。
昔、しめ縄には三本、五本、七本というように紐をぶらさげたため、しめ縄のことを「七五三縄」とも書いていました。

この地が何故この名前になったのでしょう。
「角川日本地名大辞典(茨城)」によると、鎌倉時代ころに毛呂(もろ)郷の南域に「志目波(しめは)郷」という郷名があったという。
また、戦国末期の秀吉が山川晴重に与えた知行目録には「志めは」と見えるとあります。

このため七五三場村(しめばむら)という名前は江戸時代初め頃から使われだしたようです。

「志目波」が「七五三場」に変わったいきさつが書かれたものは見つかりませんが、縁起の良い名前にしようとして変えたものと推察されます。

この地名が直接神社に結び付く記録は見つかりません。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/01 19:38

茨城の難読地名(その9)-大角豆

難読地名09 

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

大角豆 【ささぎ】 つくば市

車で国道125号(354号)線を走っていると「桜土浦IC」の近くに「大角豆」という比較的大きな交差点がある。
茨城に来て頃に、最初に何て読むんだろうと気になった場所の一つだ。

「ささぎ」と読むのですが、これは赤飯に使う「小豆(あずき)」に似た「ささげ」のことだ。
漢字で書くと「大角豆」となる。

私など赤飯もほとんど小豆だと思っていたので、ササゲそのものを知らなかった。
見た目の区別もあまりできない。

茨城地方は赤飯には「ササゲ」を使うようだ。
これは地方によっても違うという。ササゲをほとんど使わない地方もあるそうだ。

区別は小豆に比べて豆が少し黒っぽく、芽のところが小豆は白いのに対して、ササゲは白い周りに黒い縁取りがある。

あまり煮崩れしないので祝い事の赤飯には多く使われる。

「ササゲ」を「ささぎ」となったのは、方言的な要素だといっても良いだろう。今でも各地で両方使われているようだ。

でもなぜこの場所が「大角豆=ささぎ=ささげ」なのだろうか?

角川日本地名大辞典(茨城)によると、初めのころは「大角豆房村」と言っていたが、寛文年間~元禄年間に「大角豆村」に改称されたという。寛文年間の時は麻生藩で、元禄年間からは常陸府中藩(石岡)の領地であったという。

したがって、この大角豆は大角豆房が最初に名前についていたというので、小豆のようなイメージの「ささげ」ではなく、「いんげん」と同じような(房)形をした「ささげ」のことだったようです。

では「ささげ=大角豆」はいつごろから日本にあるのでしょうか?
Wikipediaによれば、平安時代に「大角豆」という記述が残されており、江戸時代の『農業全書』には「豇豆」という名前で書かれているという。
また、アズキは煮ると皮が破れやすい(腹が切れる=切腹に通じる)のに対し、ササゲは煮ても皮が破れないことから、江戸の武士の間では赤飯にアズキの代わりに使われるようになった。という。

では、戦国時代または江戸初期に、この地方で、いち早く、この大角豆(ささげ)が栽培され始めたのかもしれない。
また、大角豆の房のように土地がデコボコしていたからではないかという説もあるという。


茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/02 07:32

茨城の難読地名(その10)-赤法花

難読地名10

シリーズ1回目からは ⇒ こちら 

赤法花 【あかぼっけ】 守谷市

守谷市は平将門(10世紀前半)がここに城を築いたという伝説が語られていて、それにまつわる伝説がとても多い土地です。

この将門の城といわれる場所は、守谷駅のすぐ東側の「ひがし野」地区にある通称「平台山」と呼ばれる丘の上です。
ここに中世の土塁や堀の跡が残されており、「本守谷城址」または「守谷館跡」などと呼ばれています。

この「赤法花(あかぼっけ)」という場所は、この城跡から少し東の小貝川に沿った地域につけられた地名で、守谷市のホームページなどでは将門伝説の一つとしてこの名前の由来が書かれています。

それによると、「平将門が城内からあたりを見渡したところ、沼の向こう側にある壁が、唐土(もろこし:中国)の赤壁に似ていることから、「あかぼっけ」と呼ばれるようになった」とされています。

しかし、平将門がこの守谷(森屋)城を築いたという確証はなく、実際には将門の子孫を名乗る「相馬氏」の城であったと考えられています。

歴史を紐解いていくと、平安時代後期に実質的な千葉氏の祖といわれる「千葉常重」が上総氏(平常晴)からの相馬郡を譲られ、千葉氏を名乗りました。
そして、北相馬郡のあたりの土地一帯を伊勢神宮の領地として寄進し、「相馬御厨(そうまみくりや)」と呼ばれていた荘園(しょうえん)があったようです。
ただ、この後も源平の対立などもあり、この荘園の所領についてももめたようです。
その後、鎌倉時代になり、源頼朝の有力な家人であった千葉常胤の次男・千葉師常(もろつね)が相馬氏を名乗りこの地を領しました。そして、この守谷城を築いたと言われています。

この相馬氏は、自らを平将門の子孫であると述べており、この城も後世に「将門の城」といわれたことから、「相馬内裏」または「相馬偽宮」と大いに喧伝されましたようです。

「角川日本地名大辞典」でもこの伝承を載せているだけで、地名のその他の由来は書かれていません。

では、将門伝説ではない地名の由来を見ていきましょう。

「赤法花」と今は漢字で書きますが、昭和21年の当用漢字が定められる前は「赤法華」と書かれていました。

この「あかぼっけ」と呼ばれる地名は結構各地に存在します。

・福島県桧枝岐村 赤法華 【あかぼっけ】、赤法華沢【あかぼっけざわ】 (燧ケ岳、桧枝岐川=実川の谷間)
・栃木県下都賀郡壬生(みぶ)町 赤仏 【あかぼっけ】(姿川の最上流部にある窪地)
・茨城県守谷市 赤法花 【あかぼっけ】(小貝川の右岸段丘)(今回の地名対象)
・茨城県筑西市 赤法花 【あかぼっけ】(小貝川の左岸大沖積地)
・茨城県猿島郡五霞町小手指(こてさし) 赤法花 【あかぼっけ】(利根川の右岸大沖積地)

などです。茨城県にも結構ありますね。

一般にはこれらの地名の由来は古アイヌ語(縄文語)ではないかと言われています。

「ボッケ」「ホッケ」「ポッケ」「ハケ」などが、pokであり、崖とか崖下を意味するとするいわれており、「アカ」については、「aka」で、魚の背の線を指す言葉で、地形に使われる時は「山の尾根(稜線)」を指すとされています。

「日本語になった縄文語」(鈴木健著)によると、この「アカ」とつく地名は南は沖縄から北は北海道までたくさんあるとされ、沖縄の久米島に「阿嘉:アカ」、慶良間(けらま)島にも「阿嘉:アカ」があり、土地の形状からしても「断崖」を意味すると考えられ、アイヌ語でも【aka地形では尾根(山稜)を指す。北千島にもある語で崖または岬を指す。】とあり、絶壁の下に住む集落民からの発想で、a われわれの ka 上方 というのが語源であろう となっています。
また赤薙山(あかなぎさん:栃木県)、赤城山(あかぎさん:群馬県)、赤倉山(栃木県)などの「赤:アカ」も崖地などを指している言葉ではないかとしています。

ただ、今の地形から考えても崖地というには少し異なる場所も散見されるため、もっと別の意味があるのかもしれません。
waka (わっか:水)から w が抜けて aka アカとなったことも考えられ、水に関した地名の可能性もあるようです。

その他
・宮城県栗原市 石法花 【いしぼっけ】
・栃木県下都賀郡岩舟町 法花 【ほっけ】
・愛知県岡崎市 法花 【ほっけ】
などという地名もあります。

なお、茨城県の石岡市鯨岡の小字名に「赤法ケ」という地名があります。地元の地名由来によると赤は土の色の赤茶色をした痩せた地土を意味し、「ボック・ホック」は茨城方言で、畑地の間に掘り下げた小さな水田をいう。と書かれています。

もうすでにこのブログでも採りあげていますが、水戸の「木葉下=アボッケ」地名などもこのアカボッケと発音は似ていますね。
関連もあるようですが、詳細はわかりません。

茨城の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/07/02 16:58
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