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常陸国風土記と地名(1)-常陸

風土記地名01

 西暦713年から721年にかけて編纂された常陸国風土記は藤原不比等の三男の藤原宇合(うまかい)が常陸国国守であった時に、部下の高橋虫麻呂と共に取りまとめたといわれています。

そこには当時の古老から聞き取った話や、地名由来が書かれており、時の権力者の考え方も見てとれます。

奈良時代の初めに書かれたこの地誌には、当時の伝承などが多く書かれています。
しかし、その数百年も前からあると思われる地名については必ずしも真実とはとても思われない内容も多く含まれています。

それをどのように読み解くかは、専門家でもかなり難しいでしょう。

ここでは茨城県の難読地名を少し取り上げてきましたので、その理解するヒントになるのではないかと考え、この常陸国風土記に書かれている内容を書きだしてみたいと思います。
また地名の由来については、この風土記に書かれている内容を紹介するにとどめ、あまり深堀りするのは避けたいと思います。

まずは「常陸」(ひたち)の名前です。

昔は、相模の国の足柄の坂より東はすべて、「吾妻の国」といい、新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(く じ)・多珂(た か)の小国には、朝廷より造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されていた。まだ常陸という国はなかった。

後に、孝徳天皇の時代に足柄の坂より東を八国に分け、その一つが常陸の国となった。

「常陸」の名前の由来は

1)、行き来するのに、湖を渡ることもなく、また郷々の境界の道も、山川の形に沿って続いているので、まっすぐ行ける道、つまり「直通(ひたみち)」といふことから、「ひたち」の名がついた。

2)、倭武の天皇(やまとたける)が、東の夷の国を巡ったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水を褒め、手を洗おうとすると、衣の袖が垂れて泉に浸った。
袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となった。

と2つの名前の伝承が書かれています。

2)についてはあくまでも伝承であり、本当とは思われませんが、1)の説を歴史書や各種書物などでは本当であるかのように書かれているものを多く拝見します。 しかし、他の解釈もたくさん存在しています。

1)の解釈として まだ大和朝廷による律令制が行われていた時は、その勢力範囲はこの常陸国が最北で、その先の東北地方はまだ蝦夷地でした。
この東北地方と接する常陸国は、東北地方を「道奥(みちのおく)の国」と言っていたときは、常陸国までが中央朝廷にとって道が続いていたところであり、直道(ひたみち)と書いていたが、東北地方を「陸奥(みちのく)(むつ)」と書くようになって、直道⇒常陸となったというような解釈がされています。

確かに、この常陸国は平野が続き広々と、ここに入るまでは湖や山もありますが、この国に入ると真っ直ぐ道が続いているといってよいでしょう。

ここではこの風土記の記述を調べるだけでとどめたいと思います。

常陸国風土記と地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/09/10 08:28

常陸国風土記と地名(2)-新治

風土記地名02

常陸国風土記の「新治郡」に 郡衙は旧協和町あたり。(現筑西市古郡〈ふるごおり〉)

新治(にいはり):
新治の国造の祖先となったひならすの命を遣はした。
ひならすの命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。新しい井を治(は)ったことから、新治の名がついた。
(これは常陸の名前の一説としても書かれている)

笠間(かさま):
郡家より東五十里のところに、笠間の村がある。

葦穂山(あしほやま):
郡家より笠間に行くときに越える。 昔は「小初瀬山(おはっせやま)」と言った。
・・・平安時代の10世紀初めに醍醐天皇が足尾神社を置き、足尾山に変更された。

新治の名前の読みについても「ニイハリ」「ニイバリ」の2つがある。

平安時代の辞書『和名類聚抄』には「爾比波里(にひはり)」とあり、

『古事記』にある倭建命(やまとたけるのみこと)の歌に邇比婆利(にひばり)とある。

・・・・新治(にひばり)筑波(つくは)を過ぎて幾夜か寝つる
   (原文:邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流)

参考:

茨城県筑西市新治      にいはり
茨城県かすみがうら市新治 にいはり
神奈川県横浜市緑区新治町 にいはるちょう
滋賀県甲賀市甲南町新治 しんじ
京都府京丹後市峰山町新治 にいばり
福岡県うきは市吉井町新治 にいはる
大分県日田市新治町     にいばるまち
群馬県には新治(ニイハル)村(現 みなかみ町)があった

古代の新治郡と現在の新治地名には場所がかなり移り変わっています。
それについては7年ほど前に書いた記事(茨城の県名(5)-地名の変化:⇒ こちら)を参照ください。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/11 06:37

常陸国風土記と地名(7)-香島

 香島郡については、常陸国風土記の記述だけが「香島」であり、他の書物などではは「鹿島」が使われています。
香島郡の成立については、風土記に「大化五年(649年)に、下総の海上国(うなかみのくに)の軽野(かるの)より南の一里と、那賀国の寒田(さむた)より北の五里とを合併し、新たに神の郡を置いた。」と書かれていますが、香島の名前の由来は「香島の天の大神」とあるだけで、特に書かれてはいません。

・軽野:現在の神栖市軽野あたり
・寒田:この場所は特定されていないが、香島郡ができる前は那賀の国の南端であるので、軽野の少し北側であろう。
どこまでが香島郡になったのかというと、昔は涸沼がもっと大きな内海であったからこのあたりまでだと考えられます。
この内海は「阿多可奈湖(あたかなのみなと)」と呼ばれていたようです。この沼を寒田と呼んでいたのかもしれません。

風土記地名07

香島の天の大神:
 高天原より天降って来た大神の名を「香島の天の大神」という。(中略)神の宮を造らせ、式年に改修されている。 毎年七月に、舟を造って、津の宮に奉納している。
 社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。この沼で採れる蓮根は、他では味はへない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食ふと、たちどころに癒えるという。鮒や鯉も多い。ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。
・・・現在「鹿島神宮本宮・沼尾神社と坂戸神社」の三社をもって「 香島天大神」と称しています。

高松の浜:
 郡家の東二、三里のところに高松の浜がある。むかし東の大海から流れくる砂や貝が積もって、小高い丘ができた。やがて松の林が繁り、椎や柴も入り混じって、今ではもうすっかり山野のようである。
・・・現在の鹿嶋市平井付近か、高松緑地公園がある。

若松の浜:
 ここ( 高松の浜)から南の軽野の里の若松の浜までの三十里あまり一帯に、松の山がつづき、マツホド、ネアルマツホドなどの薬草も毎年採れる。この若松の浦は、常陸と下総の国堺の安是の湊(現、利根川河口付近)の近くである。剣を作るのに砂鉄を使うのはよいが、香島の神山なので、みだりに入りこんで松を伐ったり砂を掘ったりすることはできない。
・・・この若松の浜は常陸国の南端で、下総国に近い鹿島神宮領域であり、鹿島灘の南部(日川付近)をそう呼んでいたのかもしれません。ここで砂鉄による剣づくりが行われていたことを示していることは大変重要です。

童子女(うない)の松原:
 常陸国風土記には鹿島郡は2つの国から少し土地を分けてもらって香島の大神の国を作ったとあり、この2つ(軽野と寒田)の場所にいた男女の恋の話が載せられている。2つの国の少年・少女(「いらっこ」と「いらつめ」)が歌垣に集い、恋におち朝が来るのも忘れて松林の陰で語り明かした。気が付いたら朝になり2人は恥ずかしくなって、「奈美松」と「古津松」という松の木となってしまった。 古津松神、古津松神となり、現在の手子后(てごさき)神社などに祀られています。また童子女は神に仕える男女ということで髪の毛を後ろに束ねて縛った形「うない」と読むようですが、神栖市の「童子女の松原公園」は「おとめ」と読ませています。

白鳥の里: 郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しずつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。そして天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。・・・現在の鉾田市中居にある白鳥山大光寺 照明院や、鉾田市札にある普門寺あたり

角折の浜: 以下の2つの伝承が書かれている。
(1)大きな蛇がいて、東の海に出ようと浜に穴を掘った時に、蛇の角が折れてしまったため。
(2)倭武の天皇(ヤマトタケル)がこの浜辺に宿ったとき、御饌を供へるに水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまったため。
さて、角のある蛇がいるかどうかはよくわからないが、行方郡のところでも「夜刀の神」のことが書かれており、これには蛇で角があるとされています。もっともこれは逸話として書かれたようで現地人のことかもしれません。 ・・・現在の鹿嶋市角折

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/12 06:03

常陸国風土記と地名(3)-筑波

風土記地名03

常陸国風土記の筑波郡の記述には、

「筑波の県は、昔、紀(き)の国といった。
美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に、采女臣の一族が、筑箪命(つくはのみこと)を、この紀国の国造として派遣した。
筑箪命は「自分の名を国の名に付けて、後の世に伝へたい」といって、旧名の紀国を筑箪国と改め、さらに文字を「筑波」とした。」

とあります。

これによると 筑波は「紀の国」といったが、遣わされた国造の筑箪命が自分の名前を残したくて「筑箪」とし、文字を変えて「筑波」としたということになる。
筑箪を「つくは」と読むかどうかは怪しいが、「箪」は箪笥(たんす)のタンであり、訓読みなら「ハコ」だろう。

また国造(くにのみやっこ) として派遣されたとされる「筑箪命」は、3~4世紀初め頃の崇神天皇の時代に派遣された人物ではないかと考えられています。
さらに「紀の国」というと紀州和歌山を思い浮かべますが、「紀」は、柵または城に由来することばで、大和朝廷が対蝦夷を攻めていたときにその最前線に置かれた軍事基地を意味するものと考えられます。

この風土記に書かれている筑波の地名由来も、地名が先にあって、あとから考えたものかもしれません。
実際に、筑波の地名由来はいろいろな説があります。
しかしここではその先には深入りしないでおきましょう。

昔から人の名前はその人が住んでいた地名から呼ばれる場合がほとんどで、人の名前から地名になるものは少ないと思われます。もちろんある所に住んでいた豪族がその土地の名前で呼ばれていて、その部族が別な地に移って名前を変えずに、その新たに開拓した地がその人の名前と同じになるということはいくつか例があります。

さて、筑波山ですが、当時は
「西の頂は、高く険しく、雄をの神(男体山)といって登ることは出来ない。
東の頂(女体山)は、四方が岩山で昇り降りはやはり険しいが、道の傍らには泉が多く、夏冬絶えず湧き出てゐる。」
とされ、女体山では男女が山に登り、歌垣で歌を詠み楽しんでいたことが書かれています。

現在の「つくば市」周辺は「河内郡」ですが、風土記には「河内郡」の記載はありません。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/12 06:10

常陸国風土記と地名(4)-信太

 信太(しだ)郡の名前の由来は風土記本文には残されておらず、逸文にあります。

風土記地名04


白雉4年(653年)に小山上物部河内・大乙上物部会津らが惣領高向の大夫らに要請し、筑波・茨城郡の700戸をもって信太の郡を設置したと書かれています。

黒坂命(くろさかのみこと)が蝦夷の征討へ赴いた。
勝利して凱旋の途上、多歌(多珂)郡の角枯之山に至ったところで、病にかかり亡くなった。
それゆえ、“角枯山”を改めて“黒前山”と名付けた。

黒坂命の棺を乗せた車は黒前山を発ち日高見国(美浦村)へ向かったが、葬列の飾り物は、赤い旗や青い旗がとりどりに翻り、雲の如く虹の如くに野を照らして、行く先々の道を輝かせたものである。
それを見た人々は「赤幡垂る国」と言い、後に改めて信太国という。

この中にでてくる黒坂命は多氏の一族といわれる武人ですが、この常陸国風土記にしかこの名前は登場しません。
現在の美浦村から霞ヶ浦を渡って石岡方面に進み、蝦夷を成敗しながら北へ進み、日立市の十王町の山までを征服していった人物と考えられます。

黒前山(くろさきのやま)は現在日立市十王町黒坂にある「竪破山(たつわれさん)」のことです。
「竪破山」というの名は、山頂に真っ二つに割れた巨石があるところから名づけられたといわれています。

この竪破山で亡くなった黒坂命の葬儀の列が向かったのが「日高見国」で、この地は現在の美浦村あたりといわれており、この黒坂命の墓として色川三中は「大塚古墳(1号)」をあげています。

また、当時はこの霞ヶ浦の手前の地である美浦村周辺が「日高見国(ひたかみのくに)」でした。
その後、蝦夷征伐が進むと「日高見国」は徐々に北へ移動して、岩手県の北上川流域になり、北海道の日高地方に移って言ったのではないかとも言われています。

その他に信太郡の所に書かれている地名を挙げておきます。

1)雄栗(をぐり)の村:「郡より北十里のところに、碓氷(うすい=碓井)がある。」・・・景行天皇が飲み水に困って井戸を掘らせた場所でこの井戸が「今でも雄栗(をぐり)の村にある」と書かれています。現在の陸平貝塚(おかだいらかいづか)にある「ぶくぶく」井戸の辺りではないかと見られています。

2)高来(たかく)の里:碓氷から西に行くと高来の里がある。・・・ここで普都(ふ つ)の大神が荒ぶる神たちを和めた後で、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けていた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行ったとなっています。
そのたてなどを脱ぎ去った場所が、楯縫神社や阿彌神社となっています。
高来の里は現在の阿見町竹来(たかく)のあたりだと見られています。

3)榎浦(えのうら)の津:東海道常陸路の入り口で、駅家(うまや)が置かれている。とあり、常陸国にはいるにはここで口と手を洗い、香島の大神(現在の鹿島神宮の神)を遥拝してから常陸国にはいるのが許されたと書かれています。
しかし、この「榎浦の津」がどこに当たるのかはいくつかの説があり判断も分かれています。津というので船着場の名前ですから、候補地は稲敷市の「江戸崎」「羽賀浦」「柴崎」などの地名が候補に挙がっています。しかし当時は現在の利根川も大分様子が違っており、大きな内海(香取の海など)が広がっていましたのではっきりとしないようです。

4)飯名(いひな)の社:筑波の山の飯名の神(つくば市臼井の飯名神社)を分祀したもので、現在の稲敷の地名の由来と見られています。ただ、この飯名の社がどこにあったのかは明確ではありません。候補としては龍ヶ崎市八代稲塚にある「稲敷神社」などが候補にあがっています。

5)乗浜(のりはま):倭武の天皇(やまとたける)が海辺を巡幸して、浜にはたくさんの海苔が干してあったので、「のりはまの村」と名付けられた。となっています。
和名類聚抄の郷名に「信太郡乗浜郷」があり、旧桜川村から東村の阿波崎あたりだと思われます。

6)浮島の村:乗浜の里から東に行くと、浮島の村がある。霞ケ浦に浮かぶ島で、山が多く人家はわづか十五軒。七、八町余の田があるのみで、住民は製塩を営んでいる。また九つの社があり、口も行ひもつつしんで暮らしている。となっています。
現在の浮島地区で、今は陸続きですが昔は島でした。


常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/13 06:07

常陸国風土記と地名(5)-茨城

風土記地名05


茨城の名前について風土記には2つの説が紹介されています。

1、昔、山の佐伯(さへき)、野の佐伯といふ国巣(くず)がいた。普段は穴を掘ってそこに住み、人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでいた。・・・(中略)・・・あるとき、大の臣の一族の黒坂命(くろさかのみこと)が、あらかじめ彼らの住む穴に茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。佐伯たちは、あわてて穴に逃げ帰ったが、仕掛けられた茨の刺がからだ中に突き刺さり、あへなく皆死んでしまった。このときの茨から、茨城の名となった。
(佐伯とか国巣というのは原住民のことで、ヤマト朝廷は彼らを征圧した)

2、別の話では、山の佐伯、野の佐伯は、山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻っていた。彼らと戦うために、黒坂命は、茨をもって城を造った。その土地の名を茨城というようになった。

と書かれていますが、これはどちらも先にあった地名に対して後から考えた伝承といっていいでしょう。

その他の書かれている地名について載せておきましょう。

1)信筑(しづくの)川:現在の恋瀬川です。信筑は現在のかすみがうら市の志筑のことで、この地を流れる川からついたものでしょう。

2)高浜:信筑川が海(現在の霞ヶ浦)に注いでいるところですから、今の石岡市高浜です。
この地は、花香る春に、また落葉散る秋に、乗り物を走らせ、舟を漕いで出かけるとすばらしい場所だと書かれています。

3)桑原(くわはら)の岡:郡より東十里のところに、桑原の岡がある。・・・旧玉里村の大宮神社あたりだと思われます。

4)田餘(たまり):昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が桑原の岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘といふやうになった。この井戸の跡地とされる場所は現在の大宮神社の裏手にあります。
現在の小美玉市の玉里地区の旧玉里村は、1955年に「田余村」と「玉川村」が合併した時に「玉里村」となったものです。

茨城の名前については以前ブログで茨城の県名について数回にわたって書いています。(参考まで)
 ⇒ こちら



常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/14 07:07

常陸国風土記と地名(6)-行方

白雉四年(653年)に、(中略) 茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて、行方郡とした。

風土記地名06

行方郡の読み方は茨城の人以外はあまり読めない地名かもしれません。「ナメカタ」(現在の地名読みは:ナメガタ)と読みます。

常陸国風土記の地名由来説明は、

「昔、倭武の天皇(ヤマトタケル)が、車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねっている。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられていて、繊細な美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)というようになった。」

と述べていますが、これも伝承であり解釈は分かれます。

この郡家の場所は玉造の南部であり、現在明確にはされていません。

行方は、ヤマトタケル伝説がとても多いところです。
これはこの地が、周りの土地に比べ、大和朝廷の支配が少し遅れたと思われることに関係がありそうです。
この行方郡が置かれた西暦653年頃まで大和朝廷に抵抗する部族(風土記の中では佐伯、土蜘蛛などと呼ばれている)がいたのだと思われます。そのような背景を知ってからこの常陸国風土記を読むと内容も理解しやすいようです。

また古代陸奥国(現福島県)にも奥州行方郡(なめかたぐん)がありました。同じ呼び名であり関連性もありそうです。

では風土記の行方郡に書かれている主な地名とその由来伝承を拾い集めてみましょう。

1)玉清井(たまきよい):倭武の天皇(ヤマトタケル)が、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といわれ、今も行方の里にある。
・・・この玉清井は現在も残されています。 またこの説明が「行方」の名前由来説明の直前に書かれており、行方の名前との関連を指摘する意見もあります。

2)現原(あらはら)の丘: 倭武の天皇(ヤマトタケル)が登ってこの地を眺めた丘で、周囲から一際高く顕はれて見える丘なので、現原と名付けられたとなっています。

3)無梶河(かじなしがわ): 倭武の天皇(ヤマトタケル)が大益河(おほやがわ)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。とあり、元は大益河と言ったことも記されています。・・・現在の梶無川

4)鴨野(かもの): 無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡ろうとしていた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野という。となっています。この鴨野という地名は現在の「加茂」ではないかと考えられていますが、この玉造保育園に近い場曾にある「鴨の宮」は、昭和2年に玉造郷校跡の少し離れた山の端の方から移転されたものです。
これは元あった鴨の宮の場所が鹿島鉄道の線路がこの近くを通ることになったためです。

5)香取の神の分祀された社:枡(ます)の池の北には、香取の神を分祀した社がある。・・・現在の側鷹【そばたか】神社 

6)提賀(てが)の里:この地に住んでいた手鹿といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。・・・現在の行方市手賀
佐伯というのは大和朝廷に抵抗していた原住民たちのことです。(サエキ=さえぎる) 

7)曾尼(そね)の村:この地に住んでいた疎禰毘古(そねびこ)という佐伯の名から名付けられた。今は駅家(うまや)が置かれ、曾尼の駅と呼ばれる。・・・椎井池の近くの国道50号線の方に駅家跡の碑が置かれているが確定はされていない。

8)椎井(しい)の池:身の形は蛇であるが、頭に角があるという「夜刀(やつ、やと)の神」がいて、椎井の池の先の山に棲んでいた。この地が夜刀の神との境界で、この近くには香島(鹿島神宮)への陸路の駅道となっていた。・・・行方市玉造甲の愛宕神社付近

9)男高(をだか)の里:この地に住んでいた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた・・・現在の行方市小高

10)鯨岡:昔、鯨がここまではらばって来てそのまま伏せって息絶えた場所・・・現在の行方市鯨岡

11)麻生の里:昔、沢の水際に麻が生えていた。その麻は竹のように太く、長さ一丈に余りあるほどだった。・・・現在の行方市麻生

12)香澄(かすみ)の里:古い伝へに、大足日子の天皇(景行天皇)が、下総の国の印波(いなみ)の鳥見(とりみ)の丘に登られたとき、国を望み、東を振り向いて「海にただよふ青い波と、陸にたなびく赤い霞の中から湧き上がるようにこの国は見えることだ」とおっしゃった。この時から、人は、「霞の郷」と呼ぶようになった・・・現在の潮来市永山付近

13)新治の洲:香澄の里より西の海にある洲は、新治の洲といふ。洲の上に立って北を遥かに望めば、新治の国の小筑波の山が見えることから、名付けられた・・・現在の行方市麻生の天王崎あたり

14)板来(いたく)の村:香澄の里より南十里のところに、板来の村がある。近くの海辺の渡し場に駅家が置かれ、板来の駅家という。また名前の由来については、建借間(たけかしま)命がやってきて穴に隠れた賊を戦略を持っておびき出し皆殺しにした話と関連づけて、以下の4つの名前が書かれています。
・伊多久(板来)の郷:痛く討つ言った所・・・現在の「潮来」(いたこ)
・布都奈(ふつなの)村:ふつに斬ると言った所・・・現在の潮来市「古高」(ふったか)
・安伐(やすきりの)里:安く斬ると言った所・・・現在の潮来市古高にある「安波台」
・吉前(えさきの)邑:吉(よく)斬ると言った所・・・現在の潮来市(旧延方村)の「江崎」

15)当麻(たぎま)の郷:鳥日子(とりひこ)といふ名の佐伯が命に反逆したので、これを討った。車駕の行く道は狭く、たぎたぎしく、悪路であったことから名付けられた・・・現在の鉾田市当間(とうま)

16)芸都(きつ)の里:昔、寸津比古(きつひこ)、寸津比売(きつひめ)といふ二人の国栖(くず)がいた。寸津比古は、はなはだ無礼な振る舞いをしたので、一太刀で討たれてしまった。寸津比売は白旗をかかげて道端にひれ伏し、天皇を迎えたため、天皇は許した。小抜野(おぬきの)の仮宮に行くときに寸津比売は姉妹をともに引き連れ、真の心を尽くして仕へたため、天皇はそれを愛しく思い、この野を「うるはしの小野」というようになった・・・現在の行方市内宿にある化蘇沼稲荷神社あたり。

17)田の里:この地の古都比古(こつひこ)といふ人物が三度韓国に遣はされ、その功労に対し、田を賜ったことからその名となった。(古事記や日本書紀に書かれている「三韓征伐」伝承と一致する)・・・場所は未特定だが現在の行方市繁昌付近か。

18)波須武(はずむ)の野:倭武の天皇の仮宮を構へ、弓筈(ゆはず)をつくろったことから、名づけられた。・・・現在の行方市(旧麻生町)小牧付近

19)相鹿(あふか):倭武の天皇の后の大橘比売(おほたちばなひめ)の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢いになったことから、安布賀(あふか)の邑という(東京湾で入水して死んだ弟橘姫にこの地で再会した)・・・現在の相賀(あいが)山寿福寺跡あたり(行方市岡)

20)大生(おほふ)の里:倭武の天皇が、相鹿の丘前(おかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生と名付けた。・・・現在の潮来市大生(大生神社)

(注)風土記に登場する地名の現在地は明らかになっていないところも多くあり、ここに書いた場所は現在推察されている地名を上げています。

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/15 05:50

常陸国風土記と地名(8)-那賀

 那賀(なか)郡の那賀についての由来は書かれたものが見つかっていない。

風土記地名08

平津の駅家(ひらつのうまや): 古代の官道駅家があった場所で現在の水戸市平戸町あたり

大櫛(おおぐし)の岡: 
 平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛といふ名の岡がある。昔、大男がいて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂浜の大蛤をほじって食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の足跡は、長さ四十歩以上、幅二十歩以上で、小便の跡の穴は、直径二十歩以上ある。
・・・大男のダイダラボッチ伝説である。現在国道51号線近くに「大串貝塚ふれあい公園」があり、ダイダラボッチ大男の巨大なモニュメントがある。

晡時臥(くれふし)山:
 茨城の里は、北に高い丘があり、晡時臥の山という。
 ・・・水戸市木葉下町(あぼっけちょう)にある朝房山(あさぼうやま)とみられている

 この後に次の話がのっている。
 「この里に、昔、努賀毗古(ヌカヒコ)・努賀毗咩(ヌカヒメ)といふ兄妹がいた。ある夜、ヌカヒメが寝床にいると、名も知らぬ男がいて求婚し、朝帰っていった。一晩で夫婦となり、やがて子ができたが、生まれた子は小さな蛇だった。
 蛇の子は、昼は押し黙ったままで、夜になるとヌカヒメに語りかけた。ヌカヒメと兄は、神の子ではないかと驚き、清めた杯に蛇を寝かせて、土の祭壇の上に安置した。ところが、次の夜には、杯からはみ出すほどの大きさになっていた。そこで、もっと大きな平瓮に移しかえたが、次の夜には更に大きくなっていた。こんなことを何度も繰り返しているうちに、家にあるどの器も合わなくなってしまった。  ヌカヒメは、「あなたの不思議な力を見ていると神の子なのだということがよくわかります。わたしたちの力では育てきれません。どうか父の神のところにお行きなさい。」と蛇の子にいうと、蛇の子は悲しんで泣いて、涙を拭いながら「おっしゃるとおりですので、お言葉にしたがいます。けれど一人で旅をするのはかなわぬことですから、できればもう一人の子どもとともに行かせてください。」といった。ヌカヒメが「わたしの家には、わたしと兄しかいません。見ればわかるでしょう。あいにく誰も一緒には行けません。」というと、蛇の子はうらめしそうに口をつぐんだ。
 別れのときになって、蛇の子は怒りを押さえきれず、雷の姿になって、伯父のヌカヒコを殺し、そのまま天に昇らうとしたが、これに驚き怒った母が、平瓮を投げ当てると、平瓮の呪力で蛇は昇ることができず、そのままくれふしの山の峯にとどまることになった。蛇の子が眠った器は、今も片岡の村にある。兄妹の子孫は、社を立てて蛇を祭ったので、家が絶えてしまふことはなかった。」

粟川、河内
郡家より東北の粟川の両岸に、駅家が置かれた。駅家の周りを河がめぐっていたので、「河内の駅家」の名がついた。
・・・粟川 : 現那珂川
・・・河内の駅家 ; 現水戸市上河内町(かみがちちょう)、中河内町(なかがちちょう)あたり

曝井(さらしい):
 駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井(さらしい)といい、付近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って、日に曝して乾す。・・・現水戸市愛宕町の「萬葉曝井の森」という公園あたり

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/17 06:11

常陸国風土記と地名(9)-久慈

 久慈(くじ)郡の名前の由来は「郡家の南近くに小さな丘があり、そのかたちが鯨に似ていたことから倭武の天皇(ヤマトタケル)が久慈と名付けた」と書かれています。

風土記地名09

1)谷合山:切り立ったこの山の絶壁は、一枚岩のようで、そこに大きな穴があいており、そこにサルが群がって生活している。
 ・・・現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山ということで奥久慈の大子町南にある男体山あたりか。 また竜神吊り橋のある武生山(たきゅうさん)あたりも気になる

2)河内の里: ここは昔「古々(ここ)の村」といったが、これは猿の鳴声(ここ)からきたという。
 ・・・旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった

3)静織の里:ここで初めて倭文を織る機が使われたことから名付けられた。
 ・・・現在の静神社付近

4)玉川:この小川は青色の瑪瑙(メノウ)がとれ、良い火打石になるために玉川と名付けられた。
 ・・・現在も玉川という。水郡線の常陸大宮から玉川村駅にかけてのあたり。

5)山田の里: 新しい田が多いことから名がついた。里の清き河(現山田川)は、北の山から流れ出て久慈河にそそいでいる。大きな鮎(あゆ)がとれる。清き泉がここにそそいでいて、夏にはあちこちの村里から暑さをのがれて、手をとりあって集まってきてここで筑波山のような歌垣が行われていた。
 ・・・現常陸太田市和田町、松平町あたり、旧山田村

6)大伴の村:この村の河の崖には鳥が群らがり黄色の土をついばんで食べる。
 ・・・現常陸太田市

7)太田の郷: この郷には長幡部の社がある。ここの織物は、裁つことも縫うこともなくそのまま着ることができ「全服(うつはた)」という。別の言い伝えでは、太絹を織るのに人目を隠れ家の戸を閉めて暗いところで織ったことから「烏織」というとも。力自慢の軍人の剣でもこれを裁ち切ることはできない。
 ・・・現常陸太田長幡部神社

8)薩都(さつ)の里:昔、土蜘蛛いう名の国栖がいて、兎上の命の軍に滅ぼされたときに「幸なるかも」と言ったことから、佐都と名付けた。
 ・・・現在の薩都神社(さとじんじゃ:常陸太田市里野宮町)あたりが中心で、この薩都(さつ、さと)の名前は「里川」「常陸太田市里美」「里野宮」などの地名として残っている。

・薩都河(さとがわ):源は北の山に起こり、南に流れて久慈河に合流する。 ・・・現在の里川

9)賀毗禮(かびれ)の高峯:この里の東に大きな山があり賀毗禮の高峯という。
昔、立速男の命が天より降り来てこの地に留まった。この場所に向かって人が大小便でもしようものなら、たちまちこの神の祟りにふれて病にかかった。このためこの里には病人が増え続けてしまい、困って朝廷に報告して、片岡の大連を遣はしてもらった。そしてこの地に神を祭り、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでいるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ」と申し上げたところ、神はこれをお聞きになって、賀毗禮の峯にお登りになった。
 ・・・現在日立市の御岩神社奥宮のある御岩山がこの賀毗禮の高峯だと考えられている。

10)密筑(みつき)の里: この村に大井という泉(現水木町の泉)があり、その水は、夏冷たく冬温かい。・・・現日立市水木町付近

11)高市(たけち):、高市から東北へ二里のところに密筑(みつき)の里がある 
  高市(たけち)・・・現大甕駅の西南側の日立市石名坂町から南高野町付近
  密筑(みつき)の里・・・ 現日立市水木町に「泉が森」という県指定史跡の池がある

12)助川(すけがわ):ここは、むかし倭建の天皇(ヤマトタケル)がここで皇后様(弟橘姫)と行き逢うことができたので遇鹿(あひか)といっていた。このあたりで鮭が採れた。俗に鮭の祖を「すけ」というので「助川」というようになった。ここには助川の駅がある。
・・・現在の日立市助川付近

常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/18 07:01

常陸国風土記と地名(10)-多珂

風土記地名10

多珂(たか)国の由来: 建御狭日命(多珂の国造:出雲族)が国を巡り山が険しく高いので「多珂(たか)国」と名づけた。

(郡の境界は南を久慈郡の助川(現日立市助川)、北を陸奥国石城郡苦麻之村(現福島県大熊町)までとした。
しかし、この範囲は広すぎるために7世紀前半の孝徳天皇の御世に、多珂(たか)と石城(いわき)の二つの郡に分割され、石城郡は陸奥国になった。)

飽田の村:
 倭建の天皇(ヤマトタケル)が東国を巡ったときにこの野で宿をとった。
野には鹿が群れ、海には八尺の鰒(あわび)がいて、鯉もいる。天皇は野に出て、妻の橘皇后は海に出て、野と海で獲物の幸を競うことになった。野の狩りは何も獲れなかったが、海では大漁だったため、天皇は「野のものは得ずとも、海のものは飽きるほどだ」といったのでこの地を後に「飽田村」と名づけられた。
・・・現日立市相田町あたり

仏浜:
 海辺の岩壁に観世音菩薩の像を作ったため、ここを「仏浜」という。
・・・現日立市田尻町度志前の「佛ヶ浜」 この佛ヶ浜の名前は風土記の内容とここに度志観音があるために、後で名付けられたもので、小木津浜の磨崖仏などの地もこの候補に挙がっている。

藻嶋(めじま):
 倭建の天皇(ヤマトタケル)が船で島の磯廻をした時に、「種々の海藻が多いところだ」といったので「藻嶋」の名が付いた。
・・・現日立市十王町伊師付近

ここには「藻嶋の駅」があり、東南の浜に常陸国では最も美しい玉のような碁石がある。
 ・藻嶋の駅 ・・・現日立市十王町伊師の愛宕神社あたり
 ・碁石の取れる浜 ・・・現日立市小貝浜(川尻海岸)

 (常陸国風土記と地名シリーズは今回で終わりです)


常陸国風土記と地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/09/19 05:26
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