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石岡地方のよもやま話-はじめに

 茨城の難読地名として6月末から2ヶ月間に67件ほどの記事を書いてきたが、これをまとめて索引をつけたり編集しなおしたりして本の形にまとめた。約250ページほどになってしまった。
今月中に表紙を作って、完成させたいと考えているが自作本などで、全て自分でやるとなると手間がかかってしまい、まったく趣味の世界といってよいだろう。
でもこれはきっとこれからも、ある程度地域に残されていくのではないかと思っている。

そこで次なる目標だが、タイトルにある地元の歴史的な出来事などをかいつまんで「よもやま話」として短くまとめてみたいと考えている。

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(風のことば絵 : 兼平智恵子作)


 先日「信州夜這い秘話」と「信濃よもやま100話」という本を貸していただいて読んだ。
どちらも「郷土出版」という出版社から出版されているが、このように土臭くてほのぼのとしたような話が後世に残されていくということに興味をおぼえた。

まあ夜這いの話は、よくこの本が出版されたと思うが、今のエロ本などとはまったく別物で、民族学的な郷土の風習を残す上で大変貴重なものだと感じた。
1988年出版というのではそれほど古いものではないが、私などよりは更に1世代は前の話であり、都会ではなく田舎の閉鎖的な空間でのこのような話はとても興味深いものであった。

江戸時代における「お伊勢参り」や「観音札所めぐり」など宗教的な信心ばかりのように感じていたが、庶民の娯楽などがあまりない時代に何日もかけてお寺などを巡ったのも信心ばかりではなったようだ。

信心:1~2割、遊び:8~9割などと見た方がよいのではないかとも思われる。
観音札所の裏は歓楽街であったり、途中の宿場にもいろいろな遊びの要素がふんだんにあった。

どうもまじめに物事を考えすぎるのかもしれない。

そこで、自分のすんでいる地方のこれから先の人達に何かを書き残すのも悪いことではないと思い、今まで埋もれた歴史などと称した記事の中にもたくさんのよもやま話が眠っているように思えてきた。

地元の方とお話してみても驚くほどご存じないことが結構ある。
そんなお話を少ししてみると意外なほど喜んでいただけたりする。
講演にして話をするなんてこともできないし、書き物にしておけば何かの役に立つこともあるかもしれない。

そこで、たわいもない話でもすこしでも残しておきたい話を出来るだけ短く抜き出してまとめておきたいと思う。

そして、そのうちに「よもやま話100」とか「よもやま話200」とかにまとめてみるときっと意味があるものになりそうに思う。

まあ何時まで続くかはわからないが、まあ途中で途切れたらそれでおしまいということにしたい。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/20 09:50

石岡地方のよもやま話(その1)-古東海道の終点

 石岡地方のよもやま話の第1回目は「石岡は古東海道の終点都市」です。

これは私がこの石岡に住み(2006年)、地域紹介などのHP「1300年の歴史の里 石岡ロマン紀行」やブログ「まほらにふく風に乗って」を書くきっかけになった話でもあります。

常陸国は大和朝廷の東国進出に伴い、大化の改新(645年)の直後、またはもう少し後の7世紀後半頃に成立した国と考えられています。
そして大和朝廷は大和の五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)から七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)という大和朝廷の勢力範囲にあった国々を結ぶ街道を整備しました。この街道はそれぞれの国の国府をつなぐものとなっていました。
常陸国はこの中の東海道(江戸時代の東海道と区別するために古東海道と呼びます)の国となり、現在の石岡が常陸国国府であったため、石岡(常陸国府)は古東海道の終点都市となりました。

古東海道の国とその国府は、伊賀国(伊賀市上野)、伊勢(三重県鈴鹿市広瀬町長者屋敷)、志摩(三重県阿児町)、尾張(愛知県稲沢市)、三河(愛知県豊川市)、遠江(静岡県磐田市)、駿河(静岡市)、伊豆(三島市)、相模(海老名市)、甲斐(笛吹市春日居町または三坂町)、武蔵(東京都府中市)、安房(千葉県南房総市(旧三芳村)府中)、上総(千葉県市原市)、下総(千葉県市川市)、常陸(茨城県石岡市)となります。

江戸時代の東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までですから中間部を除くとかなり違いがあります。
また大きな違いは東京湾を船で渡っていたことや、富士山の噴火で一時ルートがかわったこと、また武蔵国は最初は東山道に属していましたが、行き来に不便であることなどから東海道に組み入れらえました。

東京湾は横須賀市の走水から千葉県の富津岬、木更津あたりに渡っていたようです。このため奈良などの都に近い側が上(かみ)となり上総国となり遠い側が下総国となりました。

これらのルートは大化の改新(645年)より前の4~5世紀頃から徐々に固定されていったようです。

こうした事実を知っていくと今の歴史の見方が変わってきますので面白いですね。
これが歴史嫌いの筆者が、「埋もれた歴史」などを探る原点だと考えています。

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(風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/21 10:24

石岡地方のよもやま話(その2)-石岡と正岡子規

 俳人正岡子規は大学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。
当時水戸までは小山経由で鉄道で行けましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。
本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
しかし、夜は寒くて早く、宿の待遇もあまりよくなく、枕が堅く寝心地も悪かったと書かれています。

翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。
雨で寒くて気分も滅入っていたのですがこちらの宿は前の晩に比べて待遇がよく、大いに喜んでいます。

この様子は東京に戻ってから書いた「水戸紀行」の中に詳しく書かれており、当時の石岡の様子がよくわかります。

「・・・ 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・」

当時、まだ常磐線は通っておらず、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。

当時の萬屋(よろずや)旅館は水戸街道沿いにありました。今の石岡駅前の大通り(御幸通り)の突き当たりにあるカギヤ楽器さんです。
明治34年に発行された「石岡繁昌記」(平野松次郎著)には「旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」と書かれていて、この本店が子規が泊まった場所です。
支店は石岡駅ができて(明治28年)、駅前に支店を作ったと思われます。

しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、この萬屋旅館も止めてしまい、鍵屋玩具店さんとなり、現在のカギヤ楽器とピノキオトーイというおもちゃ屋さんとに分かれました。

正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出て行ってしまったために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っていますが、元来体の弱い子規は帰京一ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。

子規は石岡の宿を出立した時は天気は回復して筑波山を左手に見ながら水戸へむかい、次の歌を残しています。

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
  (歌碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります)

・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體

水戸の学友菊池謙二郎さんは正岡子規の学生時代の数少ない親友の一人で、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、後に旧制水戸中学校(現水戸第一高校)校長をつとめました。
学生たちには大変親しまれていましたが、当時の天皇中心や家長制度などによらずに個人の独立を説いた思想が上層部に反感を買い学長を辞しています。

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 (風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/22 10:46

石岡地方のよもやま話(その3)-石岡と徳富蘇峰

 石岡駅も橋上駅となりすっかり様変わりしたが、駅の改札の上には昔からあった「驛岡石」とかかれた古めかしい扁額が掲げられている。
以前の駅にも改札のすぐ上に置かれていたが、黒っぽくて目立たないのであまり印象には残っていない。

この扁額を新駅舎でも残してほしいとの要望も結構あったようだ。

石岡駅01


この扁額は「徳富蘇峰」の書から起こされたものである。

今度の新駅にはこの額の説明がかかれたプレートが改札口通路の壁に架けられている。内容は、

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。
1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。
彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。
当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
 徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
 なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。
これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。
この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。
原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
とある。

徳富蘇峰は、徳富蘆花の兄で当時のジャーナリストとしてはかなりの重鎮で影響力もあった。
その蘇峰の書いた駅名扁額が茨城県に2箇所あるという。石岡駅と常陸太田駅だ。
この両駅の駅長をしていた「笹谷和三郎」氏が蘇峰にたのんで実現したらしい。

常陸太田駅の駅名看板は下記だ。

常陸太田駅01

さて、どちらかというとこちらのほうが近代的で、石岡駅の方が古臭い。
でもこれが書かれたのは、石岡駅が昭和26年で、常陸太田駅が昭和23年だという。
笹谷和三郎氏は常陸太田の駅長から石岡駅長に移ってきたという。

常陸太田駅は左から右に書かれ、石岡の方が逆向きの右から左になっている。

どうして漢字の横書きの文字方向が違うのでしょうか。
現在は皆左から右に書いているので、右から左は古い時代の表示だと思ってしまうが、どうも少し違うようだ。

調べてみると、そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかった。
鉄道関係でも、切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったという。

1942年(昭和17年)に文部省通達では今と同じ左から右に書くように指導があったというが、当時は戦争がはじまり、敵国のアメリカやイギリスの表示を使うことを避けるため逆に右から左の逆向きの書き方が広がたという。

戦後すぐの頃はまだ混乱しており、新聞が現在の左から右にかくようになったのは讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から現在の様式に完全統一したのが最初でした。

でも古いほうがよいというような風潮もありましたので、石岡駅は戦時中に書かれていた右から左の漢字横書きとなったのでしょう。


石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/23 16:47

石岡地方のよもやま話(その4)-陸前浜街道と杉並木

 江戸時代の石岡は江戸と水戸をつなぐ江戸街道=水戸街道の府中宿場でした。
しかし水戸から先も海寄りに宮城県岩沼市まで街道(岩城相馬街道)が続いており、全体として陸前浜街道と呼ばれていました。
江戸--水戸間の宿場町は「江戸-千住-新宿-松戸-小金-安彦-鳥手-藤代-若柴-牛久-荒川-中村-土浦-中貫-稲吉-府中(石岡)-竹原-片倉-小幡-長岡-水戸」となっていた。

府中(石岡)は水戸藩主たちが江戸との往来時に泊まった宿場で現在の中町にあるパン屋「ヴィオレ」の場所付近に谷口本陣と天王社(明治になり八坂神社となり、その後総社宮に合祀された)があった。

街道は現在の石岡の中町・香丸通りを通り、「国分寺府中3」信号を右に曲がって泉町を通り、常磐線の線路の上を通ってそのまま杉並の方に曲がっていた。

この杉並の入り口に「石岡の一里塚」が残されており、その先に昭和30年頃まで日光杉並木のような樹齢250年ほどの大きな杉の並木道が約2kmにわたって続いていた。

江戸時代はあまり杉並木を作ることが許可されず、松並木などが多いが、ここ府中は松平2万石であり、水戸(徳川)藩とは親戚関係があるので杉並木が許されたという。

鉄道で水戸方面からくると、石岡駅手前に遠くからもこの杉並木が良く見えたといい、石岡の人は石岡に帰ってきたとの思いが沸いてきたという。

しかし、この杉の木も手入れは結構大変で、町の発展に邪魔だと切り倒されてしまった。
まあ追剥が出るなどとの話もあり、あまり町の人には歓迎されなかったようだ。

江戸時代は水戸から藩主などが府中に来るときはこの杉並木の水戸寄りの入り口付近に「茶屋場」を設けてここまで出迎えて茶を出したりの接待をしたといわれている。

現在「茶屋場住宅前」信号から少し水戸側から来て少し左に入ったあたりにあり、面積は200坪ほどだったという。
昔は大きな松の老木(延齢の松)があり趣を残していたが、今は何も残されていない。

杉並木のあったところは地名として「杉並」となっていて残っている。この杉並木は両側が高く土盛りされていたという。
今でも一里塚の榎の根元が盛り上げられていて、その面影は少しだが残っている。

また、若松町の方から鹿の子を通り、柿岡まで続く柿岡街道があるが、こちらは鹿の子の先に松並木が続いていたという。

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(風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/24 16:32

石岡地方のよもやま話(その5)-昭和の大火

石岡の街も歴史に残る大火はいくつもある。
939年の平将門の国府襲撃で多くの神社や300戸ほどの家屋や焼かれたという。
また1590年には佐竹氏などによる府中城攻略で街中も含め町中が焼けたといわれている。この時の街の再建は1597年から佐竹氏の手で行われた。
江戸時代になり、1727年におきた大火は守木町から起こり、中町・金丸・守横・富田・幸町・香丸・仲之内・泉町を延焼し、547軒が焼けた。戦さ以外での一番の大火となった。

江戸時代にも100軒を超える火事が数回あり、災があったが、幕末の天狗党による焼き討ちでは約160軒ほどが焼けた。

明治以降も明治3年の長法寺(若松町)の大火、明治41年の国分寺の大火などがあったが、なんといっても
昭和4年の石岡市街でおきた大火は市街の1/3が焼失するという大きな被害を出した。
被災した家屋は約2000棟、被災者役3000人と言われている。
被災した主な建物は、金力比羅神社・常磐銀行・高喜呉服店・国分館・西之宮醤油店・常光院・華園寺・石岡劇場・村上裁縫女学校・家政女学校・明愛貯蓄銀行・松の湯・商華会館などが炎上した。

1年後に今泉哲太郎・義文兄弟により「あゝ石岡大火災」として記録にまとめられ出版された。

一部を抜粋しておこう。
「忘れんとして忘れる事の出来ぬ昭和4年3月14日!・・・朝から吹きつけた西北の風は、午後になってますます勢いを加え、石岡の空は、もうもうと巻き上がる砂塵の煙におおわれて、太陽の光も陰惨な色に曇っていた。ちょうどこの日は、旧暦2月4日の初午にあたり”初午が早い年は火早い”という俗説をなす者もあって、各町内は稲荷祭りの社にさえ灯明を点さず、商家はもちろん、工場、浴場に至るまで1年1度の今日の日に限って焚き物を禁じ、全町はほとんど因襲的に火の戒厳令がしかれた日である。・・・・各戸はようやく夕飯を済ました7時30分ごろ、突然!電線を渡る風の響き?! そは何ぞ図らん。石岡町の心臓-中町の一角にあたって鮮血のような炎が天に向かってほとばしり出んとは。」(あゝ石岡大火災より)

当時、中町のお店の裏手から出火したことはわかったが、出火原因は特定されませんでした。
折からのの風速15mの烈風に煽られて火は瞬く間に拡がって中町にあった細谷商店(油屋)の大きなドラム缶が爆発で中天高く舞い上がり、その油で一気にもえひろがってしまったのです。
消防ポンプの放水の消火では間に合いません。
消防本部も周りの家屋数棟を取り壊し延焼を防ぐのがやっとでした。
結局606戸、1700棟を焼失して鎮火したのです。
中町では丁子屋染物店の土蔵と神社の大鳥居のみが焼けずに残り、通りの前の高喜呉服店の土蔵は無残な姿となっていたとのことです。

下の地図は今の石岡中町付近の地図に火災被害のあった場所を大雑把に記載したものだが、富田町では府中酒造と隣りの北向観音は風向きが幸いし難をどうにかのがれたが、ここから貝地町方面に火が走ったのが見て取れます。

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この火災の後に建てられたのが現在国の登録文化財に指定されている「看板建築」の建物です。
しかし最近まで店の前の歩道の上にアーケード屋根が置かれていましたので壁面の看板などは見ることができず、十年程前にこのアーケードが取り除ぞかれ、現在の街の景観が見られるようになりました。

また昭和4年は昭和天皇が志筑の上の山(御野立所)で軍事演習を見学し、その足で石岡の街の見舞いに来ています。
石岡では3月に大火で町の多くが焼けましたが今の駅前通りの八間道路はその前に申請がなされ、完成したのは昭和4年の10月21日でした。昭和天皇がこの通りの完成直後に石岡に来られ、この道路は「御幸通り」と呼ばれるようになりました。

街中には大火から半年後でしたので、街中にはまだ火災の爪痕が各所に残されていました。
しかし、通りから見えるところには急いで布をかぶせ焼け跡を隠したともいわれています。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/25 06:40

石岡地方のよもやま話(その6)-府中六井

 常陸府中(石岡)は酒の名所でもありました。 そこには街を潤す豊富で良質な湧き水があったのです。
そんな街中に昔から府中六井といわれる名井があり、それらを農薬の制限をしたり、眼の病に効くとしての信仰などで昔から大切にしてきました。

石岡には関東養老の泉といわれる「親は諸白、子は清水」という伝説が残されています。
かつて、常陸府中(石岡)の町は清酒どころとしても昔から名高いところでした。
清酒造りには良い水が必要で、湧水は大変貴重なものだったのです。
鉄分も少なく、酒造りに適していたと言われています。

しかし、その泉や湧き水も、今では水量が大幅に減ったり、枯れてしまったりして面影も薄れてしまい、その場所もはっきりしないものもあります。

また、これらの井戸(六井)も必ずしも六ヶ所とは限らなかったようですが、かつて栄えた府中(石岡)の泉を紹介しておきましょう。

定説となっている六個の井戸は下記の6つです。

<石井の泉>
涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに
 ・・・石井の泉は若宮八幡宮の少し先を左に曲がった通り沿いに案内矢印があり、先に進むと住宅の裏側にある階段を下に降りた窪地に石の地蔵と看板が置かれている。水は申し訳程度に流れているが、苔むした淀んだ水できれいとは言えない。
昔は、目の治療にも効く清らかな水で、農薬が出回り始めた時は、この泉の周りは農薬が禁止されたという。

石井の泉

<室ケ井>
びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ
 ・・・この室ヶ井(室貝)のあった場所は6号国道の建設で道路の下に消えてしまいました。歌にあるようにこの湧き水のまわりがツルツル光ったような土の窪地であったという。石岡駅側から細い道を現在の6号を通り越して「平等寺」の方に行く途中にあり、写真集「いしおか昭和の肖像」には、昭和30年12月18日にこの室ヶ井の井戸供養が行なわれた写真が残されている。
6号国道バイパスが昭和36年に完成し、井戸は無くなってしまった。昔は、一日に七へん色が変わるほどの清井であったという。
また、この室ヶ井には景清(平家の猛者として歌舞伎でも有名です)がこの地で生まれ、この水を産水としたとの伝説が残されています。現在の貝地にある「平等寺」があった場所には昔、「国掌屋敷」という屋敷があり、近衛景清(藤原景清、平景清)がこの屋敷で生まれたとする話も伝わっています。

<野々井>
故郷の野中の清水ぬるければ 物の心を知る人ぞ汲む
 ・・・国分寺町から笠間へ向かう通称「笠間街道」(旧355号線)が山王川を渡ったすぐ左側あたりにあったといいます。ここを流れる山王川は今では細い排水路のようになってしまいましたが、昔は川遊びなどができたという。
湧き水は、昭和50年に建てられた住宅の床下から湧き出していたといいます。北の谷のホチ水などといわれた井戸と同じかもしれませんが、野の井戸という名前から他の場所も候補に上がっています。

<小目井>
見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末
 ・・・昔、外城といわれた城があった岡田神社が立つ台地(舌状台地)の先端の裾野の方に石碑が置かれている。
この水は眼病に効くと言われ、近隣から、また遠くからも参拝者がたくさんいたという。
昭和30年頃に六井も姿を消していく中で、この小目井も荒れ果てていましたが、これを有志で復活させてH21年4月に井戸(形だけで水はありません)と碑が立てられました。

<鈴負井>
宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水
 ・・・場所は宮部下の先の田圃の中(355線バイパス(旧石岡有料道路)の旧料金所の近く)だ。
ただこのあたりは今でも湧き水が数カ所あり、一か所に特定はされていない。また「鈴負井」は「鈴緒井」とも書いた。
この場所は、大変豊かな田圃があるが、石岡地区では海抜が一番低い低地で、この西側には恋瀬川が流れている。
恋瀬川の向こう側はかすみがうら市の志筑で、こちらには万葉集に歌われた「師付の田井」があります。
こちらの井戸も歴史は古く今でもコンコンと水が流れ出ている。

<杉の井>
今の世に塵もとどめぬ杉の井の 清きをおのがこころもとがな
 ・・・泉町の裏通り(ガラミドウ)から杉並の方に行く途中、常磐線の踏切を越えて、更に柏原池から流れてくる山王川を渡ったところに石碑が残されています。今では井戸は枯れてしまいましたが、江戸時代に水戸の殿様が江戸の行き来の時に、水戸街道沿いの杉並木の先にあった「茶屋場」でお茶をたしなむのに、この水が使われたといわれ、奥の小さな祠に「弘法大師」が祀られている。

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/28 06:56

石岡地方のよもやま話(その7)-明治期の産業

 石岡市街地の明治期の主な産業は次の3つ。

1)醤油醸造
2)酒醸造
3)製糸産業

明治22年に正岡子規が水戸の友人の処へ行く途中で石岡に宿泊している。
そこで当時の石岡の印象を子規は「石岡は醤油の名處也」と書いている。
醤油や酒の醸造所が高浜を含む市内にはたくさんあって、そこには大きな高い煙突(多くが赤レンガ造りだった)がそびえていた。
この明治22年はまだ常磐線が開通しておらず、鉄道が開通したのは明治28年だった。
その当時の様子を知るには、明治34年に書かれた平野松次郎氏の「石岡繁昌記」がある。
ここに少し面白い内容があるので紹介しておこう。
それは町の財政の話だ。
ただし、高浜が村から町になったのが明治22年で、石岡町に編入されたのは昭和28年であるので下記数値には高浜は含まれていないと思われます。

・酒醸造:税金145,310円 石高12,102石
・醤油醸造:税金22,312円 石高11,156石
・蚕絲業:税金167,350円 従業者157名
・地祖:7,901円
・所得税:2,078円
・営業税:2,378円
・人口:男 6,997人 女 6,718人 戸数: 2,493戸

どうですか? 諸税合算で34~35万円程度であるが、現在の価格にすれば60~70億円程度だろう。
かけ蕎麦などの価格が2銭程度であった時代だ。当時の1円は今の2万円ほどの価値があった。
酒・醤油の醸造関係と製糸産業で町の財政の90%程度をまかなっていた。
しかし、酒の醸造はまだ府中誉、石岡酒造、白菊(廣瀬)酒造、藤田酒造などで続けられてはいるが、他の2つの産業はほとんど消滅してしまった。

そんな跡をたどっていくとこの町の明治期以降の繁栄・衰退などが見えてくる。

明治38年の石岡駅の時刻表によると上下各6本で、上野-石岡間(蒸気機関車)は約3時間でした。

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参考までに、明治42年の「茨城県統計書」に掲載された郡別の醤油生産高を載せておきます。
新治郡: 製造所数 49 、生産高 17,458 石 (茨城県全体の20%)
 (新治郡の内訳)
  ・土浦 製造所数  9、生産高 1,728 石
  ・石岡 製造所数 16、生産高 7,639 石(高浜を含む)
と圧倒的に石岡の方が多いのです。


石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/29 08:15

石岡地方のよもやま話(その8)-白鹿

 現在石岡市内には「府中誉」さん、東大橋に「石岡酒造」さん、高浜に「白菊(廣瀬商店)」さんが比較的大きく酒造りをしています。
この酒造りの歴史は結構古く、江戸時代から続いています。

この歴史を証明するような出来事が昭和の裁判にありました。

現在の「石岡酒造」さんは、ここ府中(石岡)で200年~300年前から酒造りを行なってきた蔵元4社(白鹿、冷水、しばのや、大徳」が合併して昭和47年に創業されました。そして、その中心銘柄は「白鹿」でした。

この「白鹿」という名前は灘の酒が有名ですね。
実は、この灘の酒造会社(辰馬本家酒造)から「白鹿」の名前を使うことを差し止める訴訟が昭和29におこされました。
まだ石岡の酒造会社4社が合併する前です。
灘の会社に比べれば石岡の白鹿などかなり小さい会社だったのです。

この裁判の焦点は「どちらが先にこの名前を使い始めたかという酒造りの創業の歴史」でした。 
しかしこの決着はなかなかつかず、裁判は約15年間続きました。

その裁判の決着はほぼ石岡の白鹿に軍配が上がったと言ってよいでしょう。

その内容は、歴史的にはどちらも古く、どちらが先かを判断できないため、ラベルとして区別するために 石岡の白鹿は横書き「白鹿」、灘の白鹿は縦書きで「黒松白鹿」にするというものでした。

今でも石岡の白鹿は作られていますが、かわいい子鹿のマークとともに横文字の白鹿が入れれています。
白鹿は大衆酒の分類でしたので、今の石岡酒造さんでは山田錦などの酒米を使った大吟醸「筑波」などのブランド酒が中心となっています。

白鹿

ではそれぞれの白鹿の名前の由来を見てみましょう。

1)灘の白鹿(辰馬本家酒造)
 「中国の唐の時代(617-917年)、玄宗皇帝の宮中に白鹿が迷い込み、仙人によりこの白鹿が千年前から生きている鹿であると看過されました。またこの鹿から1000年以上前の漢の武帝時代の銅牌が発見され、それ以降白鹿が大変愛養されたとの故事により命名されました」(辰馬本家酒造ホームページより抜粋)

2)石岡の白鹿
 「元禄年間創業の白鹿醸造本店の先祖が鹿島神社に詣でた際、白い鹿に乗った神人が夢枕に現れて酒の製法を伝授したという言い伝えによっています」

この鹿島神宮の鹿ですが、奈良公園の鹿ととても縁があるのです。

もともと奈良の地には自然の日本鹿が多くいたとも言われておりますが、白鹿は神の使いとみなされており、各地でさまざまな伝説が伝わっています。
奈良の春日大社は藤原氏が建てた神社ですが、神社の創建は、鹿島神宮の神である武甕槌命が白鹿に乗って降臨した(768年)とされています。
奈良に鹿が多くいたことは7世紀後半から8世紀後半に詠まれた歌集「万葉集」にも鹿の啼く様子が、詠まれていることから推察できますが、鹿島神宮での鹿の歴史も古く、現在30数頭の日本鹿が飼われている神宮境内にある「鹿園(ろくえん)」の説明書きによると、出雲の国譲りの際に、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿が神の使いとされているとのことです。
また、「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。
この鹿の移動は陸路で送られたようで、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っているとされているといわれています。
そのため奈良地方にも元々鹿は棲んでいたが、少なくとも春日大社には鹿島神宮の鹿が渡ったと考えても良いのではないかと考えられます。
また、鹿島(香島)神宮も常陸風土記では「香」が使われていますが、他の古い文書などではすべて「鹿」の字が使われています。
この歴史も古く、養老7年(723年)頃といわれています。

鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると現地の説明板には書かれています。
また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。

石岡地方のよもやま話 | コメント(4) | トラックバック(0) | 2018/12/01 07:13

石岡地方のよもやま話(その9)-頼朝が石岡に来て歴史が変わった?

 よもやま話のタイトルとしては大げさだが、源頼朝が常陸国国府(石岡)にやってきたことが鎌倉時代の吾妻鏡に記されている。
来たのは1180年11月始め。

源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となったのは1160年の3月、まだ14歳くらいの時だ。
そして1180年の4月に後白河法皇の皇子「以仁王」が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。
しばらく静観していた頼朝が兵を挙げたのが、同年8月であった。

しかし石橋山の戦いに敗れ安房国(千葉県東部)へ船で逃れることになる。

この安房国で勢力を立て直そうと上総・下総で権力を持っていた「上総介広常」と「千葉常胤(つねたね)」に援護を要請します。
この両名の援護を受けて、下総国国府(市川市)に入り、坂東平氏を見方につけて10月6日に鎌倉に入ります。
都の平家から差し向けられた平維盛の軍を10月20日に打ち負かしました。
そして、そのまま京の都に攻め入るのではないかと思えたときに、この上総介広常と千葉常胤は後方の常陸国にまだ源氏に従わない武将がいるので、この憂いを絶つべきだと進言したのです。

この憂いとなっていたのが常陸国の北部を支配していた佐竹氏です。 佐竹氏は現常陸太田に居を構え、奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。

1180年11月4日、源頼朝はこの進言を受け入れて、佐竹氏追討のため常陸国府(石岡)にやって来ました。
佐竹氏には頼朝への帰順勧告が届けられておりましたが、佐竹氏は当時、都の平家とは仲が良く態度が明確ではなかったのです。

当時、太田の城の城主は佐竹隆義(佐竹氏2代当主)でしたが、隆義は京にいて留守でした。 そして常陸の城は2人の息子にまかせていたのです。
常陸国府(石岡)にやってきた上総介広常はこの2人の息子(義政・秀義)に会見を申し入れました。

佐竹隆義の長男義政は上総介広常が縁筋にもあたるため、誘いをむげに断ることも出来ずに部下をつれて常陸国府に向かいました。
一方弟の佐竹秀義は危険を察知して、山城である「金砂城」に立て籠もりました。

さあ、常陸国府に向かった佐竹義政は国府の入り口である園部川に架かる「大矢橋」までやって来ました。
一方これを出迎えに上総介広常もこの大矢橋に部下を引き連れてやってきました。

大矢橋をはさんで両軍勢は向かい合います。そして互いに1対1で橋の上で会うこととなり、上総介広常と佐竹義政は大矢橋の半ばに駒を進めました。
そしてその出会いざまに広常は義政を切り殺してしまったのです。

橋の向こう側で待機していた佐竹の部下たちはこれを見て、一斉に逃げ帰ってしまったのです。

現在この大矢橋の麓に「佐竹義政の首塚」が残されており、看板が建っています。義政の胴も川の下流の行里川(なめりがわ)の付近まで流され、そこに胴塚が築かれたといいます。

またこの大矢橋は道路のバイパス工事などで新しく移動し、常磐自動車道の「石岡・小美玉スマートインター」が目の前に出来ました。現在はこのインターから茨城空港までの道路新設工事も急ピッチに進められています。

園部川も大きな川ではなく、当時の大矢橋もそれほど大きな橋ではなかったと思われます。

歴史はここで大きく動いていきます。

金砂城に立て籠もった弟の佐竹秀義を頼朝・広常軍が攻め、秀義は更に山奥に敗走させ、関東には反対勢力はなくなったとして頼朝は京の平家を討伐に向かったのです。

この大矢橋事件が無ければ、鎌倉幕府は成立しなかったかもしれません。

でも何か腑に落ちない気もします。

それは「上総介広常」、「千葉常胤」「常陸大掾(だいじょう)」ともにすんなりと源氏の「頼朝」の見方となっていますが、かれらは坂東平氏、常陸平氏といわれる桓武平氏の系列で、伊勢平氏といわれる平清盛などの平家とは同属なのです。
一方の佐竹氏は源氏の系列です。

頼朝が八幡太郎源義家の直系なら、佐竹氏は甲斐の武田氏と同じ八幡太郎の弟の新羅三郎(しんらさぶろう)義光の直系です。
佐竹氏は義光の長男、甲斐武田氏は義光の次男が興しています。

この事件の430年後に、この佐竹氏によって常陸大掾氏も滅ぼされることになるのですからおかしなものですね。

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(佐竹義政の首塚)
上記写真の大矢橋は、石岡・小美玉スマートインターが完成する前ですが、すでに新しい道路が出来て架け替ええられたものです。この写真の右下にその前にかかっていた小さな大矢橋がありましたが、これは現在取り外されています。

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/03 11:34

石岡地方のよもやま話(その10)-八郷盆地

八郷地区はこのあたりでは珍しい山に囲まれた盆地のような地形をしています。

昔は山根地区と言っていました。

最近つくば山系のジオパーク登録によってこの地域の地図が国土地理院から発売されました。
鳥瞰図的な地図で、この地域の特徴がよくあらわされています。

まるで火山の火口のカルデラ湖のようなです。

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いったいこの地形はどのようにしてできたのでしょうか。

ジオパークの説明では
八溝山地の南端部をなす筑波山地は深成岩体が地の変動によって隆起し、深成岩の上の地層もそのまま一緒に隆起し、その隆起の後に、この地形が河川によって浸食されたものだそうです。

八郷盆地は大きく分けて3段の高さに分かれています。
標高50~70mの上層部、27~45mの中層部、12~28mの低層部です。この下層部は恋瀬川の沖積低地です。
大昔は竜神山や富士山などの岩石は筑波山系の岩石と同じかなり古い岩石で、このあたりに海が入り込んでいた時代にはこの竜神山や富士山は島だったと考えられています。

そして、柿岡地区には昔大きな湖(柿岡湖)があったといわれています。
そして恋瀬川の柿岡湖の出口には滝があり、その滝が崩れて現在の平野になったとも言われています。

ただこれも何時頃のことかはっきりしませんが、このようなことを考えて、この地形図をながめてみるのも良いでしょう。

八郷盆地の山の麓は良く朝霧が発生します。
幻想的な風景が今も見られるのはこのような特異な地形が関係しているのでしょう。

八郷盆地では、放射冷却により発生した冷気が滞留し,霧が発生し、その霧が筑波山に添って流れていきます。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/04 20:43

石岡地方のよもやま話(その11)-太田三楽斎、秀吉を怒らせる。

 太田三楽斎(資正:すけまさ)は戦国末期に石岡の片野・根小屋地区にある「片野城」の城主であった。
いまでもこの地にて行われている「排禍ばやし」という祭りは、この三楽斎が禍を取り払うために始めたという。

しかし、この戦国武将のことは、石岡や八郷地区の地元の人々の間であまり話題にならない。

戦国武将としては大きな城は取れなかったし、攻め取った埼玉県の岩付城も息子に裏切られて城から追い出されてしまった武将である。

しかし、これも義に篤く、越後の上杉氏、直江兼続などとの信を貫き、北条氏と対抗したことによる。

行き場を失った山楽斎を北条氏と対抗していた佐竹氏が拾い上げて、常陸で勢力争いをしていた小田氏と対抗するための要所となった片野城へ入れた。

そして見事に手這坂で小田軍を打ち負かす大活躍をした。
この戦いで小田氏は小田城をも攻略され、佐竹氏に奪われてしまった。

やはり、北条氏との覇権争いで、味方となる兵を大勢集めて大軍で小田原城攻めを行っていた豊臣秀吉に呼ばれて、三楽斎は秀吉に会いに行った。

秀吉に接見した時の話は、元禄年間に書かれた軍記物「奥羽永慶軍記」に詳しく書かれている。

秀吉はこの常州片野の住太田三楽斎について、東国に隠れなき武勇の老武者であり、天下広しと言えどもいまだに城が採れていないのは不思議だと言った。

そして、今の小田原城攻めのことを聞かれて、三楽斎は天下人の秀吉に対し、臆することなく自分の考えを次のように言った。

「この小田原城は一方を荒海に面し、三方は山に囲まれており攻めるには困難な名城である。またこの城を築いた北条氏康も地の利を得ており、氏康・氏政親子二代の間に関八州の内の5か国を味方につけている。この城に立て籠もって、中の軍勢が5~6万にいてもこれから先10年は困らないくらいの兵糧を貯めているだろう。
今のような多勢での力攻めでは、この城を攻略することは到底かなわない。 ここは計略をもって、攻め取るのがよろしい。」
と今の城攻めに注文を付けたのです。

すると、秀吉は途端に機嫌が悪くなり、「三楽斎はこの数年北条と戦い、負け続けた。その時から臆病神に取り付かれてしまったようだ」といい、三楽斎はその場を去り、隣りの陣にいた石田三成、増田長盛にむかって次のように言った。

「今殿下に小田原攻めについて尋ねられたので、愚案を申し上げたところだ。 この三楽は確かにここ数年北条と相戦ってきたが、その武功は他の者たちと比べて決して劣ることなどない。この小田原城を計略なくしてして攻め落とすことができたならこの入道(三楽斎)の命を懸けても良い。 今私の評判がこのように損ねているようだが、これも卑怯なことは何一つしていない。天運が尽き、敵に領土を奪われて、今かかる不詳の身となってしまったのは面目ないことだ」

この小田原城攻めは、その後三楽斎の言うとおり計略で落ちた。 

軍記にはこのようなことが記されていますが、この三楽斎がこの時に片野の小さな城にいたのです。
これだけの知将と言われていますが、自身でいったように義に篤く、上杉家との恩を最後まで裏切ることはなかったといわれています。

大掾(だいじょう)氏の本拠城である府中城が佐竹氏によって攻め落とされたとき(1590年)、この三楽斎はこの片野城にいました。
しかし、その前に、この大掾氏との間でも血縁関係もありあまり目立つ戦いは仕掛けていません。

府中城が落ちた後、佐竹氏はこの城を三楽斎に預けようとしたといいます。
しかし、三楽斎はもう老骨の出る幕ではないとしてこれを固辞したのです。
結果、府中城は佐竹義重の弟の佐竹義尚(よしひさ)に預けられました。
三楽斎はこの翌年静かにこの片野で亡くなりました。

太田三楽斎(資正)は太田道灌の曾孫といわれています。
また日本で初めて軍用犬と呼ばれる「三楽犬」を使った事でも知られます。

いまでも片野地区の山の中に片野城の跡とこの三楽斎の墓と言われる五輪塔が眠ったようにあります。

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石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/07 09:01

石岡地方のよもやま話(その12)-柿岡サーカス

 柿岡曲馬団というサーカス団が昔あった。
名前の通り馬などをつかって曲芸をしたりするサーカス団で人気を博していた。

そのサーカスの団長であった柿岡春二郎の墓が石岡市柿岡の善慶寺(曹洞宗 禅寺)にある。

昔、テレビなどなかった時代にはサーカスの興業が地方でも数多く行われ活況を呈した。
木下サーカスやキグレサーカスや、モスクワのボリショイサーカスなどが年配者には懐かしく思われるだろうと思う。

 その中でこの柿岡曲馬団は明治時代後期から昭和初期まで人気の大きなサーカス団でした。

柿岡と名前がついていますが、本名は荒川春二郎です。
この柿岡の地にお墓があるので、この地の人かと思うと、これは少し違うようです。

春二郎は青森県八戸に明治4年に生まれます。
一家は祖父が会津戦争で戦死し、青森にやって来ました。 当時多くの会津人が青森に逃れてきたといいます。
一家は貧しく、春二郎は、若い時に横浜に出て小さなサーカス小屋の番頭となりいくつかの小屋を渡り歩きます。

そして明治39年に柿岡一座(柿岡興業部)を興し、明治42年に大阪で喝さいを浴びて東京両国や浅草で興行を行って人気の一座になりました。

 大正時代には大変な人気で、団員は150名以上。当時はサーカス(曲馬団)がいくつもあり、その中でも一番の人気で二番目が木下大曲馬(後の木下大サーカス)だというのですから、人気の程がわかります。

出し物は、「大曲馬曲乗」「猛獣曲芸(熊)」「自転車曲乗」などです。
当時の写真絵葉書などに「2頭の馬の背に3人の少女が乗って曲芸」「男性がバランス棒のようなもので片手倒立し、もう一方の手で2枚の皿回し」などのものがあります。

大正12年の関東大震災の時には、いち早く罹災者を慰安するためにチャリティ(2日間無料)で公演を行なっています。
その時の興業には「柿岡曲馬」「木下曲馬」「宮田洋行」「矢野曲馬団」「有田洋行会」「柴田曲馬団」「麻田洋行」などの名前がつづられています。そのトップが柿岡曲馬の名前となっています。

 柿岡春二郎は大正三年に分家して、現石岡市の柿岡に戸籍を移します。
柿岡曲馬団という名前は前から使っていましたので、同じ地名のこの地に縁を感じていたのかもしれません。

しかし主に住んでいたのは宇都宮だったといいます。
ただ、吉生(よしう)から養女をもらい、一座はほぼ活動は終わっていた戦後になってこの柿岡に移ってきました。

昭和29年に柿岡で死去。84歳でした。墓は柿岡の善慶寺にあり、亀の背に乗った墓石です。

この善慶寺は柿岡城跡に建つ柿岡小学校のすぐ隣にあります。
このお寺は、1590年に佐竹氏族の長倉氏(長倉義興)が、常陸大宮市の長倉城から柿岡城に移ってきたときに、やはり長倉にあった善慶寺がこちらに移ってきたといわれています。
現在長倉(御前山と那珂川を挟んで反対側)のその寺のあった場所には「蒼泉寺」というお寺が建っています。

しかし、この長倉義興(よしおき)は些細なことで佐竹義宣に逆らい、慶長4年(1599)常陸太田の正宗寺に幽閉され、1600年4月に死んだが、その死因は毒殺された可能性があるとされます。

これにより柿岡の長倉氏は滅んでしまいましたが、同じ年に、佐竹義宣も家康により出羽石(秋田)へ転封になってしまいました。

このように柿岡も佐竹氏系の長倉氏が治めていた期間は短い(10年)のですが、現在の柿岡のお祭「八坂神社の祇園祭」はこの長倉義興が始めたものだといわれています。

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(サーカス集団「柿岡曲馬団」の柿岡春二郎の墓:亀の背に乗っている)

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(善慶寺)



石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/09 05:07

石岡地方のよもやま話(その13)-府中の祇園まつり

 石岡のおまつりは常陸国総社宮の例大祭の行事であるという。

しかし、江戸時代には総社宮でこのような祭りは行われていなかった。
この話はまた別な機会とするが、今回は旧石岡の市街地(府中)にて行われていた祇園まつりについて記録を調べて残しておきたいと思います。

江戸時代には各地に天王社と呼ばれる社が数多く存在しました。
この社ではインドの祇園精舎の守護神といわれている牛頭天王(ごずてんのう)を祀っています。
また、インドの神ですので神社でなくお寺に分類されていました。

このインドの神は朝鮮半島から対馬を経由して日本にはいってきたのですが、愛知県津島市に総本山(天王社、現在の津島神社)ができ、現在も全国に3000社も分社があるのです。

当然牛頭天皇はインドの祇園精舎の守護神ですから、この天王社の祭りは「祇園まつり」と呼ばれています。
京都の八坂神社の祇園まつりも、神社の祭神がスサノオノミコトとなってはいますがルーツは同じです。

江戸時代に東国ではこの天王社の夏のお祭り(祇園まつり)が各地の庶民の間で争うように行われてきました。

ここ府中でもこの天王社が中町の矢口本陣の近くにありました。
この祭りも宝暦から明和期(1751年~1772年)の江戸中期の頃がもっとも盛んであったようで、府中の町の各町が出し物を出して、町を練り歩いたといわれています。

この祭りは旧暦6月14日に行われていました。出し物は、

一番 冨田のささら
二番 中町のやたいおどり
三番 香丸の子供おどり
四番 守木の子供おどり
五番 木之地のみろく(弥勒人形)
六番 泉町のふし
七番 幸町の田打おどり
八番 青木町のほうさい(泡斉:念仏踊り、ちんちんちん 人形)
九番 若松町のかたかた
十番 中之内のほろ
十一番 金丸の人ささら
(石岡市史 下巻より)

となっていたと記録にはありますが、実際にどのようなものだったのかは多くのところが踏襲されていないためにわからなくなっています。
冨田のささらは今の祭りでも先頭で、これを明治35年に総社の祭りとして復活させたのが今の「石岡のおまつり」です。

もともと総社宮では例大祭と相撲などが行われていただけで、祇園祭などは行われていませんでしたので、この祭りが八坂神社などで行われている「祇園祭」と同じだというと少しおかしく感じるかもしれませんね。

また、この天王社の祇園祭に加えて、木之地町の愛宕神社のお祭りが7月2日に行われていました。
この2つの祭りも続くために財政的は各町が厳しくなり、江戸の終わり頃には隔年でやったりしていたようです。

明治になり廃仏毀釈で天王社は八坂神社に名称を変え、存続していましたが、天狗党の乱、明治維新の混乱期で祭りは立ち消え、神社もいつの間にか姿を消し、この八坂神社(天王社)は総社宮に合祀されました。

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(木之地のみろく:わずかに残された人形から復活したもの)

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(冨田のささら:三匹の獅子人形 棒を操って踊る。棒ささら) (人がかぶって踊るのが人ささらだがこの獅子は棒ささらである。ヤタガラスのマークをつけていて、行列を先導する)



石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/14 20:19

石岡地方のよもやまばなし(その14)-お祭り起源

 「石岡のおまつり」の起源についてはさまざまな話が飛び回っています。
でも、この祭りは明治35年から始まったものです。
そう、それも山車はそろわないし、人形などもまだまだバラバラ。
特にお囃子が石岡にはなかった。
三村や染谷に伝っていた囃子を祭りのときだけ人ごと借りてきてやった。
この調整が一番のネックだったという。

明治33年に常陸国総社宮が郷社から県社に昇格した。
それまで総社では9月9日の重陽の節句に例大祭が行われていました。
これは長いこと続いてきた神社の儀式(氏子たちのお払い)と江戸時代から始まった角力(相撲)が行われてきていた。

この相撲も毎年行うといっても江戸時代には街の中に別な賑やかな行事があった時は、観客が一人もいなかったなどという記録もあったと言われている。

この例大祭の時に氏子たちが中心となって何とか他の府中(国府)などで行われている祭りを見返してやれるような祭りを作りたいと願った。
当時、石岡は鉄道と汽船が運行されており、醸造と製糸産業で工場や問屋商人たちで街はにぎやかだった。
元気一杯、活気があったのです。

そして各町で知恵を出し合い、この町にふさわしい祭りを1年かけて練ったといいます。
そして今の祭りの原型ができた。

この時に昔行われていた中町の天王社(後に八坂神社)の祭りを基準に出し物を復活させようと考えたのでしょう。
でもこれは祇園祭だ基調だ。総社のお祭りにするためにいろいろ工夫したようだ。

またその前に石岡に伝わっていた獅子頭、獅子舞なども取り入れ、江戸で使われなくなった山車を買い付け、そこに載せる人形も江戸の人形師の処へ出向いて調達した。
何の人形を選ぶかは、まあ金のあるところから早い者勝ちだ。

そして、祭りを行うには財政的な面や負担が集中しないように年番を決めて行うこととしました。

明治35年8月29日に当時、元真地にあった町役場の2階で区長さんが集まって年番の順番を決めるくじ引きを行うことになりった。

くじの順番を決める本数は16本でした。 最初16の町(区)の予定でしたが、ところがこの日集まったのは17区の区長さんでした。

くじが1本足りなくなってしまったのですが、貝地町に外れてもらい順番は最後にするからと口約束して、残りの16町でくじを引いた。

森木(守木)町/大小路/土橋町/金丸町/守横町/富田町/仲之内町/宮下町/青木町/幸町/国分町/中町/若松町/泉町/香丸町/木之地町 の16町です。

そして始まった祭りだが、16年経って一回りして貝地に次ぎ回るはずが、口約束だったので忘れられて最初に戻ってしまった。

最初はこの祭りもなかなか人を集めたりするのも大変だったが、そこは祭り好きが集まって年々賑やかになっていった。

関東三大祭などというキャッチフレーズも板についてきた。
もともと三大祭などというのは決まりはなく、行ったもの勝ちで、世間に認められなければ単なる地元のたわごとで終わってしまうのだが、これも徐々に定着していった。

三大祭とはどこなのかなどとよく聞かれる。
定義などない。 石岡市史、石岡の歴史などの市で発行している本には「佐原ばやし(千葉)」「府中の暗闇祭(東京)」という。
しかし、佐原(現香取市)にいってみるとここは「江戸優り」を合言葉にして「関東三大山車祭」だという。
東京府中の暗闇祭はそれほど盛大な祭りではなく、夜に行われるので「関東三大奇祭」の一つだという。

今の石岡の祭りを見ているとこれは「関東三大古式江戸山車祭」というのが似合っているように思う。
残り「川越祭り」、「佐原の大祭」といったところだろうか。

これらの祭りの利点。弱点などを比較して石岡の立ち居地を固めると特徴あるものになるだろう。

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石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/12/19 17:11

石岡地方のよもやまばなし(その15)-府中経塚

 石岡地方のよもやま話などとして前回書いてから1か月近くにもなってしまいました。
この調子ではいつ終わるかもしれません。

先日は「千葉県の難読地名を今年は書く」などと宣言して、調べ始めたら、これがまた大変そうで・・・・ どうしよう??

でもあまり間をあけては忘れられそうなのでこちらの「よもやまばなし」すこしずつ書いていきたいと思います。
今迄にも書いた内容なのですが、今もあまり知られていないことを少し書いておきます。

今日は府中経塚(きょうづか)です。
経塚(きょうづか)というと、末法思想が平安時代後半から鎌倉時代に流行り、浄土教(浄土宗や浄土真宗)の教えが広がり、阿弥陀如来さまにすがって死んだら浄土世界に連れて行ってもらう・・・などとなりました。
末法思想は仏様(釈迦)が入滅後2000年で真の仏法が衰えてしまい、世が乱れてしまうとされていて、それが平安時代末期の1052年から始まるといわれていたのです。

このため、お寺などでは経文を金属製や陶器製の筒などに入れて土の中に埋めて、1000年先の世の中が安定するまで仏法の経典を残そうとしたのです。いわゆるタイムカプセルのようなものです。
石岡にもギター文化館のすぐ前の畑のところに「経筒(石櫃付き)」出土地」の看板があり、もう一か所「北谷経塚」というものが確認されています。

でも今回の話はこの経塚とは少し違い、一字一石経といわれるものです。

平べったい小石に「阿弥陀経・無量寿経・観無量寿経」の全二万六千六百字あまりを一石に一文字ずつ書いて埋めるのです。
これは怨霊などで苦しむ場合に、その霊を鎮めるために行われていたものです。

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(この石は、このようなものです。)

ではここから府中経塚のお話です。

「その昔、文字の書かれた小石がザクザクと出てくる畑があり、「府中経塚」と呼ばれていました。
その場所は、石岡市の小目代で、ここに親鸞聖人の伝説が残されていたのです。

 その昔この近くに農家があり、そこの嫁さんが親鸞聖人の教えを受けて、毎晩講中に出かけていました。あまりにも続くので、そこの舅は嫁に男ができたものと早合点して、ついには言い争いになり、挙句の果てには、刀で嫁を袈裟がけに切りつけました。
からくも一命を取り留めましたが、その傷がもとで後に亡くなりました。

その後、不吉なことがいくつも続くようになり、ある時に嫁が信仰していた名号「南無不可思議光如来」の掛け軸を開いてみると、掛け軸は見事に袈裟がけに切れていたといいます。
それが今、本浄寺の寺宝として伝わる掛け軸「袈裟懸け名号」です。

また、江戸時代後期、春の日に巡礼がやって来て、経塚から経石を掘り出し持ち帰りました。

それを知った農夫たちも石を掘るようになりました。
領主がそれを聞き、みだりに掘ることを禁じました。

大正時代になり、街道の道路改修工事が行われ、この経塚が道路にかかることが分かり、この遺跡を新道の脇に移すこととなり、「親鸞聖人御旧蹟」と刻まれた大きな石碑が建てられました。

右には「聖跡御経塚」、左には「聖徳太子尊」、中央の前には小さな石が置かれ、仏説無量寿経が記されています。
建設には、本浄寺のほか9ヵ寺、400名近くの信徒たちが名を連ね、大正14年2月1日の完成だといいます。」
(茨石通信「わくわく通信」2010年12月号記事より)

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(高浜街道 貝地にある親鸞聖人旧跡碑)

どこまでが真実なのかはわかりませんが、親鸞聖人は越後での流罪が解けた後、常陸国にやってきて布教に努めました。
そして稲田(笠間市)に草庵を構えて、この石岡地方にもたびたびやってきました。
稲田から板敷峠を越え、高浜から舟で鹿島神宮へよく通っていたといわれています。

さて、この話に出てくる「袈裟懸け名号」の掛け軸の話ですが、これは水戸市河和田にある(歎異抄を書いたといわれる)唯円が開いたといわれる「報仏寺」の話とそっくりです。
こちらは「血染めの御名号」と呼ばれています。

こちらの話の概略は、河和田に平次郎という男が住んでいた。大酒のみで仕事もろくにしないどうしようもない男であった。
しかし、彼の妻は信心深く夫の目を盗んでは稲田の親鸞聖人の話を聞きに出かけてたのです。
あるとき、夫の平次郎は妻がこっそりと隠し持っていた御名号を見つけ、よからぬものを持っていて、浮気しているのではないかなどと疑い、とうとう刀で妻の肩から切りつけて殺してしまったのです。

妻の死体を裏の竹林に埋めて、家に戻るとそこには殺したはずの妻がいました。
驚いて、遺体を埋めたはずの土を掘り返すと、そこには死体ではなく「帰命尽十方無碍光如来」と書かれた御名号が出てきました。
しかも「帰命」のところから袈裟懸けに切れ、しかも血で染まっていました。

平次郎はそれから先、心を改め、親鸞聖人の弟子となり「唯円房」となったのです。

親鸞は長いこと常陸国で布教や経典のまとめに時間を費やしてきましたが、後を息子の善鸞に任せて、京に戻りました。
しかし、善鸞が自分の教えとは異なる考え方に染まっていってしまい、破門してしまいます。
そしてその時に、そばの弟子たちに説いて話した内容を書きまとめたのが「歎異抄」(異端の考え方を嘆く)です。
この歎異抄を書いた人物が唯円(ゆいえん)だといわれています。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

有名な一説ですね。私の中学の国語の先生もこの表現法が好きでした。
「0=∞ ゼロイコール無限大」などとよくわからないことを言っていました。





石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/01/15 07:43

石岡地方のよもやまばなし(その16)-弁円懺悔の地

 親鸞は越後での流罪が許されたのち、師・法然の提唱した浄土教(浄土往生)の布教のために常陸国にやってきました。
そして小島草庵(下妻市)をへて、稲田草庵(現笠間市稲田 西念寺)で、常陸国各地の布教や、親鸞自らの経典『教行信証』をまとめたといわれています。

1214年から1235年頃までの約20年間、常陸国に暮らしたとされていますが、その多くがこの稲田草庵でした。
当時(鎌倉時代初期)、東国では山伏などの修行念仏僧などによる布教が各地で行われていました。

また当時、仏教の経典などはこのあたりでは「鹿島神宮」に多くが集まっていました。
このため、稲田から鹿島神宮などには頻繁に通っていたのです。

稲田から鹿島神宮に行くには、板敷峠を越えて府中(石岡)を通り、高浜から舟に乗っていくのが最短ルートです。

もちろん陸路(霞ケ浦の北岸など)も通っていました。

親鸞はまた村々の辻などでも教えを伝えていて、徐々にその教えに信者が増えていきました。
そして親鸞の評判がいろいろなところで聞かれるようになったのです。

これが面白くなかったのは、今までこの地で布教活動や講を行って、信者を獲得していた山伏たちです。

その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、いつもの通り道である板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて、親鸞を呪い殺そうとします。
またもしこの道を親鸞が通ったら襲って殺そうと待ち伏せしました。

しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけましたのです。

殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。
東国における親鸞の弟子は24人で、二十四輩と言われており、弁円はその中の「明法房」です。

親鸞の弟子になった弁円(明法房)は親鸞について歩き、布教の手伝いや、各地をで自ら親鸞の教えを広めるために活動しました。

そしてしばらくたったある日、弁円は親鸞聖人と板敷峠を越えて現在の大覚寺のあるところへ降りてきたのです。
久し振りに板敷峠を通った弁円は、かつてここで親鸞を襲おうと待っていたことを思いだし、ハラハラと涙をこぼしたといわれています。
そして詠んだ歌が、

歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」

です。

この地に「「山伏弁円懺悔の地」と彫られた石碑にこの歌が彫られています。

この場所は昔の板敷峠越えの道のため、現在は通る人も少なく、草が生い茂ったりしていますが、石岡では忘れてほしくない場所です。

itashiki02.jpg

また、稲田の草庵と言われたところには「西念寺」という寺が残されておりますが、この寺にも弁円の歌が書かれた碑があります。

そこには、弁円詠歌 として

 「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」

 「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」

の2つの歌が載っています。


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また板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/01/16 19:35
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