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石岡地方のよもやま話-はじめに

 茨城の難読地名として6月末から2ヶ月間に67件ほどの記事を書いてきたが、これをまとめて索引をつけたり編集しなおしたりして本の形にまとめた。約250ページほどになってしまった。
今月中に表紙を作って、完成させたいと考えているが自作本などで、全て自分でやるとなると手間がかかってしまい、まったく趣味の世界といってよいだろう。
でもこれはきっとこれからも、ある程度地域に残されていくのではないかと思っている。

そこで次なる目標だが、タイトルにある地元の歴史的な出来事などをかいつまんで「よもやま話」として短くまとめてみたいと考えている。

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(風のことば絵 : 兼平智恵子作)


 先日「信州夜這い秘話」と「信濃よもやま100話」という本を貸していただいて読んだ。
どちらも「郷土出版」という出版社から出版されているが、このように土臭くてほのぼのとしたような話が後世に残されていくということに興味をおぼえた。

まあ夜這いの話は、よくこの本が出版されたと思うが、今のエロ本などとはまったく別物で、民族学的な郷土の風習を残す上で大変貴重なものだと感じた。
1988年出版というのではそれほど古いものではないが、私などよりは更に1世代は前の話であり、都会ではなく田舎の閉鎖的な空間でのこのような話はとても興味深いものであった。

江戸時代における「お伊勢参り」や「観音札所めぐり」など宗教的な信心ばかりのように感じていたが、庶民の娯楽などがあまりない時代に何日もかけてお寺などを巡ったのも信心ばかりではなったようだ。

信心:1~2割、遊び:8~9割などと見た方がよいのではないかとも思われる。
観音札所の裏は歓楽街であったり、途中の宿場にもいろいろな遊びの要素がふんだんにあった。

どうもまじめに物事を考えすぎるのかもしれない。

そこで、自分のすんでいる地方のこれから先の人達に何かを書き残すのも悪いことではないと思い、今まで埋もれた歴史などと称した記事の中にもたくさんのよもやま話が眠っているように思えてきた。

地元の方とお話してみても驚くほどご存じないことが結構ある。
そんなお話を少ししてみると意外なほど喜んでいただけたりする。
講演にして話をするなんてこともできないし、書き物にしておけば何かの役に立つこともあるかもしれない。

そこで、たわいもない話でもすこしでも残しておきたい話を出来るだけ短く抜き出してまとめておきたいと思う。

そして、そのうちに「よもやま話100」とか「よもやま話200」とかにまとめてみるときっと意味があるものになりそうに思う。

まあ何時まで続くかはわからないが、まあ途中で途切れたらそれでおしまいということにしたい。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/20 09:50

石岡地方のよもやま話(その1)-古東海道の終点

 石岡地方のよもやま話の第1回目は「石岡は古東海道の終点都市」です。

これは私がこの石岡に住み(2006年)、地域紹介などのHP「1300年の歴史の里 石岡ロマン紀行」やブログ「まほらにふく風に乗って」を書くきっかけになった話でもあります。

常陸国は大和朝廷の東国進出に伴い、大化の改新(645年)の直後、またはもう少し後の7世紀後半頃に成立した国と考えられています。
そして大和朝廷は大和の五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)から七街道(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道)という大和朝廷の勢力範囲にあった国々を結ぶ街道を整備しました。この街道はそれぞれの国の国府をつなぐものとなっていました。
常陸国はこの中の東海道(江戸時代の東海道と区別するために古東海道と呼びます)の国となり、現在の石岡が常陸国国府であったため、石岡(常陸国府)は古東海道の終点都市となりました。

古東海道の国とその国府は、伊賀国(伊賀市上野)、伊勢(三重県鈴鹿市広瀬町長者屋敷)、志摩(三重県阿児町)、尾張(愛知県稲沢市)、三河(愛知県豊川市)、遠江(静岡県磐田市)、駿河(静岡市)、伊豆(三島市)、相模(海老名市)、甲斐(笛吹市春日居町または三坂町)、武蔵(東京都府中市)、安房(千葉県南房総市(旧三芳村)府中)、上総(千葉県市原市)、下総(千葉県市川市)、常陸(茨城県石岡市)となります。

江戸時代の東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までですから中間部を除くとかなり違いがあります。
また大きな違いは東京湾を船で渡っていたことや、富士山の噴火で一時ルートがかわったこと、また武蔵国は最初は東山道に属していましたが、行き来に不便であることなどから東海道に組み入れらえました。

東京湾は横須賀市の走水から千葉県の富津岬、木更津あたりに渡っていたようです。このため奈良などの都に近い側が上(かみ)となり上総国となり遠い側が下総国となりました。

これらのルートは大化の改新(645年)より前の4~5世紀頃から徐々に固定されていったようです。

こうした事実を知っていくと今の歴史の見方が変わってきますので面白いですね。
これが歴史嫌いの筆者が、「埋もれた歴史」などを探る原点だと考えています。

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(風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/21 10:24

石岡地方のよもやま話(その2)-石岡と正岡子規

 俳人正岡子規は大学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。
当時水戸までは小山経由で鉄道で行けましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。
本郷から千住-松戸-我孫子を通って藤代の2軒しかない旅籠の1軒である銚子屋という宿に1泊しました。
しかし、夜は寒くて早く、宿の待遇もあまりよくなく、枕が堅く寝心地も悪かったと書かれています。

翌日は小雨で傘をさして牛久-土浦-中貫-稲吉を通って石岡の萬屋(よろずや)に泊まりました。
雨で寒くて気分も滅入っていたのですがこちらの宿は前の晩に比べて待遇がよく、大いに喜んでいます。

この様子は東京に戻ってから書いた「水戸紀行」の中に詳しく書かれており、当時の石岡の様子がよくわかります。

「・・・ 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす  ・・・・」

当時、まだ常磐線は通っておらず、石岡の町は高浜から霞ヶ浦を経由して東京まで汽船(高浜汽船)が周航していました。このため、多くの商人たちも石岡の宿に宿泊し、街には醤油工場や酒造所の大きな煙突が何本も聳え立っていました。

当時の萬屋(よろずや)旅館は水戸街道沿いにありました。今の石岡駅前の大通り(御幸通り)の突き当たりにあるカギヤ楽器さんです。
明治34年に発行された「石岡繁昌記」(平野松次郎著)には「旅館 萬屋増三・・・四方御客様益々御機嫌克奉欣賀候、御休泊共鄭重懇篤に御取扱申べく候(本店:香丸町、支店:停車場前)」と書かれていて、この本店が子規が泊まった場所です。
支店は石岡駅ができて(明治28年)、駅前に支店を作ったと思われます。

しかし、時代が流れ、鉄道が運行されるとしだいに人や物の流れも代わり、汽船が廃れ、この萬屋旅館も止めてしまい、鍵屋玩具店さんとなり、現在のカギヤ楽器とピノキオトーイというおもちゃ屋さんとに分かれました。

正岡子規は水戸では親友の菊池謙二郎氏が入れ違いで東京に出て行ってしまったために会えずに舟遊びなどをして帰路は水戸線経由で上野まで列車に乗っていますが、元来体の弱い子規は帰京一ヶ月後の5月9日に喀血しこれが後の病に伏せる原因に成ったとも言われています。

子規は石岡の宿を出立した時は天気は回復して筑波山を左手に見ながら水戸へむかい、次の歌を残しています。

・二日路は筑波にそふて日ぞ長き
  (歌碑が中町通りの金刀比羅神社境内にあります)

・白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體

水戸の学友菊池謙二郎さんは正岡子規の学生時代の数少ない親友の一人で、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、後に旧制水戸中学校(現水戸第一高校)校長をつとめました。
学生たちには大変親しまれていましたが、当時の天皇中心や家長制度などによらずに個人の独立を説いた思想が上層部に反感を買い学長を辞しています。

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 (風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/22 10:46

石岡地方のよもやま話(その3)-石岡と徳富蘇峰

 石岡駅も橋上駅となりすっかり様変わりしたが、駅の改札の上には昔からあった「驛岡石」とかかれた古めかしい扁額が掲げられている。
以前の駅にも改札のすぐ上に置かれていたが、黒っぽくて目立たないのであまり印象には残っていない。

この扁額を新駅舎でも残してほしいとの要望も結構あったようだ。

石岡駅01


この扁額は「徳富蘇峰」の書から起こされたものである。

今度の新駅にはこの額の説明がかかれたプレートが改札口通路の壁に架けられている。内容は、

「石岡駅改札上部にある木製の駅名標は、駅舎橋上化工事に合わせて、旧駅舎より移設した。
これは、徳富蘇峰が書したものを彫刻したものである。
1951年(昭和26年)、当時の石岡駅長(笹谷和三郎)や石岡市の窪田婦久の要望により、蘇峰が89歳の時に書した。
彫刻は、蘇峰の秘書、塩崎彦市が行った。
当時、駅長から蘇峰に送った手紙が、神奈川県にある徳富蘇峰記念館で確認できる。
 徳富蘇峰は、1863年3月熊本県に生まれ、ジャーナリスト、歴史家、評論家、政治家として活躍し、1957年11月に94歳でその生涯を閉じた。
 なお、茨城県内に蘇峰が書した駅名標は、水郡線常陸太田駅にも掲示されている。
これは1948年(昭和23年)、蘇峰が85歳の時に書したものである。
この時の常陸太田駅長も笹谷和三郎であり、駅長の要望から当時の衆議院議員山崎猛の尽力により実現した。
原書は、常陸太田市郷土資料館に保存されている。」
とある。

徳富蘇峰は、徳富蘆花の兄で当時のジャーナリストとしてはかなりの重鎮で影響力もあった。
その蘇峰の書いた駅名扁額が茨城県に2箇所あるという。石岡駅と常陸太田駅だ。
この両駅の駅長をしていた「笹谷和三郎」氏が蘇峰にたのんで実現したらしい。

常陸太田駅の駅名看板は下記だ。

常陸太田駅01

さて、どちらかというとこちらのほうが近代的で、石岡駅の方が古臭い。
でもこれが書かれたのは、石岡駅が昭和26年で、常陸太田駅が昭和23年だという。
笹谷和三郎氏は常陸太田の駅長から石岡駅長に移ってきたという。

常陸太田駅は左から右に書かれ、石岡の方が逆向きの右から左になっている。

どうして漢字の横書きの文字方向が違うのでしょうか。
現在は皆左から右に書いているので、右から左は古い時代の表示だと思ってしまうが、どうも少し違うようだ。

調べてみると、そもそも日本語は縦書きと決まっていたのを横書きが始まった時にはどうも方向は決まっていなかった。
鉄道関係でも、切符が左から右、出札口の表示が右から左、寝台車などの表記は左から右、汽車の行先表示は右から左などとかなりバラバラだったという。

1942年(昭和17年)に文部省通達では今と同じ左から右に書くように指導があったというが、当時は戦争がはじまり、敵国のアメリカやイギリスの表示を使うことを避けるため逆に右から左の逆向きの書き方が広がたという。

戦後すぐの頃はまだ混乱しており、新聞が現在の左から右にかくようになったのは讀賣新聞社の「讀賣報知」が終戦後の1946年(昭和21年)1月1日から現在の様式に完全統一したのが最初でした。

でも古いほうがよいというような風潮もありましたので、石岡駅は戦時中に書かれていた右から左の漢字横書きとなったのでしょう。


石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/23 16:47

石岡地方のよもやま話(その4)-陸前浜街道と杉並木

 江戸時代の石岡は江戸と水戸をつなぐ江戸街道=水戸街道の府中宿場でした。
しかし水戸から先も海寄りに宮城県岩沼市まで街道(岩城相馬街道)が続いており、全体として陸前浜街道と呼ばれていました。
江戸--水戸間の宿場町は「江戸-千住-新宿-松戸-小金-安彦-鳥手-藤代-若柴-牛久-荒川-中村-土浦-中貫-稲吉-府中(石岡)-竹原-片倉-小幡-長岡-水戸」となっていた。

府中(石岡)は水戸藩主たちが江戸との往来時に泊まった宿場で現在の中町にあるパン屋「ヴィオレ」の場所付近に谷口本陣と天王社(明治になり八坂神社となり、その後総社宮に合祀された)があった。

街道は現在の石岡の中町・香丸通りを通り、「国分寺府中3」信号を右に曲がって泉町を通り、常磐線の線路の上を通ってそのまま杉並の方に曲がっていた。

この杉並の入り口に「石岡の一里塚」が残されており、その先に昭和30年頃まで日光杉並木のような樹齢250年ほどの大きな杉の並木道が約2kmにわたって続いていた。

江戸時代はあまり杉並木を作ることが許可されず、松並木などが多いが、ここ府中は松平2万石であり、水戸(徳川)藩とは親戚関係があるので杉並木が許されたという。

鉄道で水戸方面からくると、石岡駅手前に遠くからもこの杉並木が良く見えたといい、石岡の人は石岡に帰ってきたとの思いが沸いてきたという。

しかし、この杉の木も手入れは結構大変で、町の発展に邪魔だと切り倒されてしまった。
まあ追剥が出るなどとの話もあり、あまり町の人には歓迎されなかったようだ。

江戸時代は水戸から藩主などが府中に来るときはこの杉並木の水戸寄りの入り口付近に「茶屋場」を設けてここまで出迎えて茶を出したりの接待をしたといわれている。

現在「茶屋場住宅前」信号から少し水戸側から来て少し左に入ったあたりにあり、面積は200坪ほどだったという。
昔は大きな松の老木(延齢の松)があり趣を残していたが、今は何も残されていない。

杉並木のあったところは地名として「杉並」となっていて残っている。この杉並木は両側が高く土盛りされていたという。
今でも一里塚の榎の根元が盛り上げられていて、その面影は少しだが残っている。

また、若松町の方から鹿の子を通り、柿岡まで続く柿岡街道があるが、こちらは鹿の子の先に松並木が続いていたという。

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(風のことば絵 兼平智恵子 作)

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/24 16:32

石岡地方のよもやま話(その5)-昭和の大火

石岡の街も歴史に残る大火はいくつもある。
939年の平将門の国府襲撃で多くの神社や300戸ほどの家屋や焼かれたという。
また1590年には佐竹氏などによる府中城攻略で街中も含め町中が焼けたといわれている。この時の街の再建は1597年から佐竹氏の手で行われた。
江戸時代になり、1727年におきた大火は守木町から起こり、中町・金丸・守横・富田・幸町・香丸・仲之内・泉町を延焼し、547軒が焼けた。戦さ以外での一番の大火となった。

江戸時代にも100軒を超える火事が数回あり、災があったが、幕末の天狗党による焼き討ちでは約160軒ほどが焼けた。

明治以降も明治3年の長法寺(若松町)の大火、明治41年の国分寺の大火などがあったが、なんといっても
昭和4年の石岡市街でおきた大火は市街の1/3が焼失するという大きな被害を出した。
被災した家屋は約2000棟、被災者役3000人と言われている。
被災した主な建物は、金力比羅神社・常磐銀行・高喜呉服店・国分館・西之宮醤油店・常光院・華園寺・石岡劇場・村上裁縫女学校・家政女学校・明愛貯蓄銀行・松の湯・商華会館などが炎上した。

1年後に今泉哲太郎・義文兄弟により「あゝ石岡大火災」として記録にまとめられ出版された。

一部を抜粋しておこう。
「忘れんとして忘れる事の出来ぬ昭和4年3月14日!・・・朝から吹きつけた西北の風は、午後になってますます勢いを加え、石岡の空は、もうもうと巻き上がる砂塵の煙におおわれて、太陽の光も陰惨な色に曇っていた。ちょうどこの日は、旧暦2月4日の初午にあたり”初午が早い年は火早い”という俗説をなす者もあって、各町内は稲荷祭りの社にさえ灯明を点さず、商家はもちろん、工場、浴場に至るまで1年1度の今日の日に限って焚き物を禁じ、全町はほとんど因襲的に火の戒厳令がしかれた日である。・・・・各戸はようやく夕飯を済ました7時30分ごろ、突然!電線を渡る風の響き?! そは何ぞ図らん。石岡町の心臓-中町の一角にあたって鮮血のような炎が天に向かってほとばしり出んとは。」(あゝ石岡大火災より)

当時、中町のお店の裏手から出火したことはわかったが、出火原因は特定されませんでした。
折からのの風速15mの烈風に煽られて火は瞬く間に拡がって中町にあった細谷商店(油屋)の大きなドラム缶が爆発で中天高く舞い上がり、その油で一気にもえひろがってしまったのです。
消防ポンプの放水の消火では間に合いません。
消防本部も周りの家屋数棟を取り壊し延焼を防ぐのがやっとでした。
結局606戸、1700棟を焼失して鎮火したのです。
中町では丁子屋染物店の土蔵と神社の大鳥居のみが焼けずに残り、通りの前の高喜呉服店の土蔵は無残な姿となっていたとのことです。

下の地図は今の石岡中町付近の地図に火災被害のあった場所を大雑把に記載したものだが、富田町では府中酒造と隣りの北向観音は風向きが幸いし難をどうにかのがれたが、ここから貝地町方面に火が走ったのが見て取れます。

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この火災の後に建てられたのが現在国の登録文化財に指定されている「看板建築」の建物です。
しかし最近まで店の前の歩道の上にアーケード屋根が置かれていましたので壁面の看板などは見ることができず、十年程前にこのアーケードが取り除ぞかれ、現在の街の景観が見られるようになりました。

また昭和4年は昭和天皇が志筑の上の山(御野立所)で軍事演習を見学し、その足で石岡の街の見舞いに来ています。
石岡では3月に大火で町の多くが焼けましたが今の駅前通りの八間道路はその前に申請がなされ、完成したのは昭和4年の10月21日でした。昭和天皇がこの通りの完成直後に石岡に来られ、この道路は「御幸通り」と呼ばれるようになりました。

街中には大火から半年後でしたので、街中にはまだ火災の爪痕が各所に残されていました。
しかし、通りから見えるところには急いで布をかぶせ焼け跡を隠したともいわれています。


石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/25 06:40

石岡地方のよもやま話(その6)-府中六井

 常陸府中(石岡)は酒の名所でもありました。 そこには街を潤す豊富で良質な湧き水があったのです。
そんな街中に昔から府中六井といわれる名井があり、それらを農薬の制限をしたり、眼の病に効くとしての信仰などで昔から大切にしてきました。

石岡には関東養老の泉といわれる「親は諸白、子は清水」という伝説が残されています。
かつて、常陸府中(石岡)の町は清酒どころとしても昔から名高いところでした。
清酒造りには良い水が必要で、湧水は大変貴重なものだったのです。
鉄分も少なく、酒造りに適していたと言われています。

しかし、その泉や湧き水も、今では水量が大幅に減ったり、枯れてしまったりして面影も薄れてしまい、その場所もはっきりしないものもあります。

また、これらの井戸(六井)も必ずしも六ヶ所とは限らなかったようですが、かつて栄えた府中(石岡)の泉を紹介しておきましょう。

定説となっている六個の井戸は下記の6つです。

<石井の泉>
涼しさに千歳をかけて契るかな 石井の水の清き流れに
 ・・・石井の泉は若宮八幡宮の少し先を左に曲がった通り沿いに案内矢印があり、先に進むと住宅の裏側にある階段を下に降りた窪地に石の地蔵と看板が置かれている。水は申し訳程度に流れているが、苔むした淀んだ水できれいとは言えない。
昔は、目の治療にも効く清らかな水で、農薬が出回り始めた時は、この泉の周りは農薬が禁止されたという。

石井の泉

<室ケ井>
びんずるの谷津に月さす室ケ井の 湧き出づる水の流れ清けれ
 ・・・この室ヶ井(室貝)のあった場所は6号国道の建設で道路の下に消えてしまいました。歌にあるようにこの湧き水のまわりがツルツル光ったような土の窪地であったという。石岡駅側から細い道を現在の6号を通り越して「平等寺」の方に行く途中にあり、写真集「いしおか昭和の肖像」には、昭和30年12月18日にこの室ヶ井の井戸供養が行なわれた写真が残されている。
6号国道バイパスが昭和36年に完成し、井戸は無くなってしまった。昔は、一日に七へん色が変わるほどの清井であったという。
また、この室ヶ井には景清(平家の猛者として歌舞伎でも有名です)がこの地で生まれ、この水を産水としたとの伝説が残されています。現在の貝地にある「平等寺」があった場所には昔、「国掌屋敷」という屋敷があり、近衛景清(藤原景清、平景清)がこの屋敷で生まれたとする話も伝わっています。

<野々井>
故郷の野中の清水ぬるければ 物の心を知る人ぞ汲む
 ・・・国分寺町から笠間へ向かう通称「笠間街道」(旧355号線)が山王川を渡ったすぐ左側あたりにあったといいます。ここを流れる山王川は今では細い排水路のようになってしまいましたが、昔は川遊びなどができたという。
湧き水は、昭和50年に建てられた住宅の床下から湧き出していたといいます。北の谷のホチ水などといわれた井戸と同じかもしれませんが、野の井戸という名前から他の場所も候補に上がっています。

<小目井>
見ぬ人は汲みて知るらん小目井の 清き流れの千代の行く末
 ・・・昔、外城といわれた城があった岡田神社が立つ台地(舌状台地)の先端の裾野の方に石碑が置かれている。
この水は眼病に効くと言われ、近隣から、また遠くからも参拝者がたくさんいたという。
昭和30年頃に六井も姿を消していく中で、この小目井も荒れ果てていましたが、これを有志で復活させてH21年4月に井戸(形だけで水はありません)と碑が立てられました。

<鈴負井>
宮部なる瑠璃の光の薬とて 口にくくめる鈴負井の水
 ・・・場所は宮部下の先の田圃の中(355線バイパス(旧石岡有料道路)の旧料金所の近く)だ。
ただこのあたりは今でも湧き水が数カ所あり、一か所に特定はされていない。また「鈴負井」は「鈴緒井」とも書いた。
この場所は、大変豊かな田圃があるが、石岡地区では海抜が一番低い低地で、この西側には恋瀬川が流れている。
恋瀬川の向こう側はかすみがうら市の志筑で、こちらには万葉集に歌われた「師付の田井」があります。
こちらの井戸も歴史は古く今でもコンコンと水が流れ出ている。

<杉の井>
今の世に塵もとどめぬ杉の井の 清きをおのがこころもとがな
 ・・・泉町の裏通り(ガラミドウ)から杉並の方に行く途中、常磐線の踏切を越えて、更に柏原池から流れてくる山王川を渡ったところに石碑が残されています。今では井戸は枯れてしまいましたが、江戸時代に水戸の殿様が江戸の行き来の時に、水戸街道沿いの杉並木の先にあった「茶屋場」でお茶をたしなむのに、この水が使われたといわれ、奥の小さな祠に「弘法大師」が祀られている。

石岡地方のよもやま話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2018/11/28 06:56

石岡地方のよもやま話(その7)-明治期の産業

 石岡市街地の明治期の主な産業は次の3つ。

1)醤油醸造
2)酒醸造
3)製糸産業

明治22年に正岡子規が水戸の友人の処へ行く途中で石岡に宿泊している。
そこで当時の石岡の印象を子規は「石岡は醤油の名處也」と書いている。
醤油や酒の醸造所が高浜を含む市内にはたくさんあって、そこには大きな高い煙突(多くが赤レンガ造りだった)がそびえていた。
この明治22年はまだ常磐線が開通しておらず、鉄道が開通したのは明治28年だった。
その当時の様子を知るには、明治34年に書かれた平野松次郎氏の「石岡繁昌記」がある。
ここに少し面白い内容があるので紹介しておこう。
それは町の財政の話だ。
ただし、高浜が村から町になったのが明治22年で、石岡町に編入されたのは昭和28年であるので下記数値には高浜は含まれていないと思われます。

・酒醸造:税金145,310円 石高12,102石
・醤油醸造:税金22,312円 石高11,156石
・蚕絲業:税金167,350円 従業者157名
・地祖:7,901円
・所得税:2,078円
・営業税:2,378円
・人口:男 6,997人 女 6,718人 戸数: 2,493戸

どうですか? 諸税合算で34~35万円程度であるが、現在の価格にすれば60~70億円程度だろう。
かけ蕎麦などの価格が2銭程度であった時代だ。当時の1円は今の2万円ほどの価値があった。
酒・醤油の醸造関係と製糸産業で町の財政の90%程度をまかなっていた。
しかし、酒の醸造はまだ府中誉、石岡酒造、白菊(廣瀬)酒造、藤田酒造などで続けられてはいるが、他の2つの産業はほとんど消滅してしまった。

そんな跡をたどっていくとこの町の明治期以降の繁栄・衰退などが見えてくる。

明治38年の石岡駅の時刻表によると上下各6本で、上野-石岡間(蒸気機関車)は約3時間でした。

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参考までに、明治42年の「茨城県統計書」に掲載された郡別の醤油生産高を載せておきます。
新治郡: 製造所数 49 、生産高 17,458 石 (茨城県全体の20%)
 (新治郡の内訳)
  ・土浦 製造所数  9、生産高 1,728 石
  ・石岡 製造所数 16、生産高 7,639 石(高浜を含む)
と圧倒的に石岡の方が多いのです。


石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/11/29 08:15

石岡地方のよもやま話(その8)-白鹿

 現在石岡市内には「府中誉」さん、東大橋に「石岡酒造」さん、高浜に「白菊(廣瀬商店)」さんが比較的大きく酒造りをしています。
この酒造りの歴史は結構古く、江戸時代から続いています。

この歴史を証明するような出来事が昭和の裁判にありました。

現在の「石岡酒造」さんは、ここ府中(石岡)で200年~300年前から酒造りを行なってきた蔵元4社(白鹿、冷水、しばのや、大徳」が合併して昭和47年に創業されました。そして、その中心銘柄は「白鹿」でした。

この「白鹿」という名前は灘の酒が有名ですね。
実は、この灘の酒造会社(辰馬本家酒造)から「白鹿」の名前を使うことを差し止める訴訟が昭和29におこされました。
まだ石岡の酒造会社4社が合併する前です。
灘の会社に比べれば石岡の白鹿などかなり小さい会社だったのです。

この裁判の焦点は「どちらが先にこの名前を使い始めたかという酒造りの創業の歴史」でした。 
しかしこの決着はなかなかつかず、裁判は約15年間続きました。

その裁判の決着はほぼ石岡の白鹿に軍配が上がったと言ってよいでしょう。

その内容は、歴史的にはどちらも古く、どちらが先かを判断できないため、ラベルとして区別するために 石岡の白鹿は横書き「白鹿」、灘の白鹿は縦書きで「黒松白鹿」にするというものでした。

今でも石岡の白鹿は作られていますが、かわいい子鹿のマークとともに横文字の白鹿が入れれています。
白鹿は大衆酒の分類でしたので、今の石岡酒造さんでは山田錦などの酒米を使った大吟醸「筑波」などのブランド酒が中心となっています。

白鹿

ではそれぞれの白鹿の名前の由来を見てみましょう。

1)灘の白鹿(辰馬本家酒造)
 「中国の唐の時代(617-917年)、玄宗皇帝の宮中に白鹿が迷い込み、仙人によりこの白鹿が千年前から生きている鹿であると看過されました。またこの鹿から1000年以上前の漢の武帝時代の銅牌が発見され、それ以降白鹿が大変愛養されたとの故事により命名されました」(辰馬本家酒造ホームページより抜粋)

2)石岡の白鹿
 「元禄年間創業の白鹿醸造本店の先祖が鹿島神社に詣でた際、白い鹿に乗った神人が夢枕に現れて酒の製法を伝授したという言い伝えによっています」

この鹿島神宮の鹿ですが、奈良公園の鹿ととても縁があるのです。

もともと奈良の地には自然の日本鹿が多くいたとも言われておりますが、白鹿は神の使いとみなされており、各地でさまざまな伝説が伝わっています。
奈良の春日大社は藤原氏が建てた神社ですが、神社の創建は、鹿島神宮の神である武甕槌命が白鹿に乗って降臨した(768年)とされています。
奈良に鹿が多くいたことは7世紀後半から8世紀後半に詠まれた歌集「万葉集」にも鹿の啼く様子が、詠まれていることから推察できますが、鹿島神宮での鹿の歴史も古く、現在30数頭の日本鹿が飼われている神宮境内にある「鹿園(ろくえん)」の説明書きによると、出雲の国譲りの際に、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿が神の使いとされているとのことです。
また、「春日大社の創建」の時(767年)には、白い神鹿(しんろく)の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行った伝えられています。
この鹿の移動は陸路で送られたようで、鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っているとされているといわれています。
そのため奈良地方にも元々鹿は棲んでいたが、少なくとも春日大社には鹿島神宮の鹿が渡ったと考えても良いのではないかと考えられます。
また、鹿島(香島)神宮も常陸風土記では「香」が使われていますが、他の古い文書などではすべて「鹿」の字が使われています。
この歴史も古く、養老7年(723年)頃といわれています。

鹿島の神鹿は長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の神鹿の系統を受けていると現地の説明板には書かれています。
また、春日大社側の記録によると、948年に常陸国府(現石岡市)より鹿7頭が春日大社へ送られています。春日大社の鹿も長い年月の間に絶滅の危機もありましたが、その時代ごとに、鹿の保護に力が入れられてきました。しかし、鹿島の鹿は絶滅の危機が訪れ、春日大社の鹿を譲り受けて現在に至ったようです。

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/01 07:13

石岡地方のよもやま話(その9)-頼朝が石岡に来て歴史が変わった?

 よもやま話のタイトルとしては大げさだが、源頼朝が常陸国国府(石岡)にやってきたことが鎌倉時代の吾妻鏡に記されている。
来たのは1180年11月始め。

源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流刑となったのは1160年の3月、まだ14歳くらいの時だ。
そして1180年の4月に後白河法皇の皇子「以仁王」が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。
しばらく静観していた頼朝が兵を挙げたのが、同年8月であった。

しかし石橋山の戦いに敗れ安房国(千葉県東部)へ船で逃れることになる。

この安房国で勢力を立て直そうと上総・下総で権力を持っていた「上総介広常」と「千葉常胤(つねたね)」に援護を要請します。
この両名の援護を受けて、下総国国府(市川市)に入り、坂東平氏を見方につけて10月6日に鎌倉に入ります。
都の平家から差し向けられた平維盛の軍を10月20日に打ち負かしました。
そして、そのまま京の都に攻め入るのではないかと思えたときに、この上総介広常と千葉常胤は後方の常陸国にまだ源氏に従わない武将がいるので、この憂いを絶つべきだと進言したのです。

この憂いとなっていたのが常陸国の北部を支配していた佐竹氏です。 佐竹氏は現常陸太田に居を構え、奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。

1180年11月4日、源頼朝はこの進言を受け入れて、佐竹氏追討のため常陸国府(石岡)にやって来ました。
佐竹氏には頼朝への帰順勧告が届けられておりましたが、佐竹氏は当時、都の平家とは仲が良く態度が明確ではなかったのです。

当時、太田の城の城主は佐竹隆義(佐竹氏2代当主)でしたが、隆義は京にいて留守でした。 そして常陸の城は2人の息子にまかせていたのです。
常陸国府(石岡)にやってきた上総介広常はこの2人の息子(義政・秀義)に会見を申し入れました。

佐竹隆義の長男義政は上総介広常が縁筋にもあたるため、誘いをむげに断ることも出来ずに部下をつれて常陸国府に向かいました。
一方弟の佐竹秀義は危険を察知して、山城である「金砂城」に立て籠もりました。

さあ、常陸国府に向かった佐竹義政は国府の入り口である園部川に架かる「大矢橋」までやって来ました。
一方これを出迎えに上総介広常もこの大矢橋に部下を引き連れてやってきました。

大矢橋をはさんで両軍勢は向かい合います。そして互いに1対1で橋の上で会うこととなり、上総介広常と佐竹義政は大矢橋の半ばに駒を進めました。
そしてその出会いざまに広常は義政を切り殺してしまったのです。

橋の向こう側で待機していた佐竹の部下たちはこれを見て、一斉に逃げ帰ってしまったのです。

現在この大矢橋の麓に「佐竹義政の首塚」が残されており、看板が建っています。義政の胴も川の下流の行里川(なめりがわ)の付近まで流され、そこに胴塚が築かれたといいます。

またこの大矢橋は道路のバイパス工事などで新しく移動し、常磐自動車道の「石岡・小美玉スマートインター」が目の前に出来ました。現在はこのインターから茨城空港までの道路新設工事も急ピッチに進められています。

園部川も大きな川ではなく、当時の大矢橋もそれほど大きな橋ではなかったと思われます。

歴史はここで大きく動いていきます。

金砂城に立て籠もった弟の佐竹秀義を頼朝・広常軍が攻め、秀義は更に山奥に敗走させ、関東には反対勢力はなくなったとして頼朝は京の平家を討伐に向かったのです。

この大矢橋事件が無ければ、鎌倉幕府は成立しなかったかもしれません。

でも何か腑に落ちない気もします。

それは「上総介広常」、「千葉常胤」「常陸大掾(だいじょう)」ともにすんなりと源氏の「頼朝」の見方となっていますが、かれらは坂東平氏、常陸平氏といわれる桓武平氏の系列で、伊勢平氏といわれる平清盛などの平家とは同属なのです。
一方の佐竹氏は源氏の系列です。

頼朝が八幡太郎源義家の直系なら、佐竹氏は甲斐の武田氏と同じ八幡太郎の弟の新羅三郎(しんらさぶろう)義光の直系です。
佐竹氏は義光の長男、甲斐武田氏は義光の次男が興しています。

この事件の430年後に、この佐竹氏によって常陸大掾氏も滅ぼされることになるのですからおかしなものですね。

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(佐竹義政の首塚)
上記写真の大矢橋は、石岡・小美玉スマートインターが完成する前ですが、すでに新しい道路が出来て架け替ええられたものです。この写真の右下にその前にかかっていた小さな大矢橋がありましたが、これは現在取り外されています。

石岡地方のよもやま話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2018/12/03 11:34
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