親鸞750回忌
来年は親鸞聖人の750回忌にあたり、東本願寺、西本願寺のそれぞれの会派で、記念の
法要行事が始まっている。
また各地で親鸞展などが企画され一大イベントが行われようとしている。
親鸞聖人の関東での布教についてはまだ未知なことも多く、知られていない事も多い。
石岡にも親鸞聖人ゆかりの史跡や寺が多くある。
私もこの地に来るまで、親鸞の関東での布教活動などについて何も知らなかった。
もう少し声を大にしていろいろなところで宣伝がなされても良いように思う。
市としても親鸞展や旧跡を回る企画ツアーなどを是非やってほしいものだと
今年の春に市長さんあてのメールで提案したが、お返事すらいただけていない。
正岡子規の万屋跡の碑も提案して7カ月以上経ってしまった。
そしてとうとうNHKの「坂の上の雲」は2年目の幕が上がってしまった。
子規は病気で死んでしまう(1902年)ので時間がない。
日露戦争は1904年だから、この話は子規が無くなった後も続く。
来年も続くが子規はもういない。虚しさのみがこみ上げてくる。
大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の看板はいいですね。

この看板のおかげで、その内容を調べてさらに興味が深まります。
しかし、一般に観光客はお寺と、そこの京都桂離宮を模した庭園「裏見なしの庭」を巡って帰っていきます。
親鸞の時代は鎌倉幕府の始まりの頃です。
一時親鸞は架空の人物ではないかとの学会論争が起こったといいます。
それ程直筆の書物などが残っていないようです。
大覚寺のすぐ横の「弁円懺悔の地」や板敷峠の「弁円護摩壇跡」などを訪れる人はほとんどいないというのも不思議な気もします。
史跡としての整備がなされていないためかもしれません。
またこの「法難の遺跡」の看板だけでは人が理解できていないのかもしれませんね。
続きはまた明日とします。
今日は東京でまた大学時代の仲間と飲み会です。
仲間は6人程ですが、大会社の副社長や役員、また大学の教授などおり、私は全くの落ちこぼれ組。
でも必ず毎年参加しています。
これからの第2、第3の人生をどう生きるのかを少しですが考えていければ充実した日々が送れる
と思っています。
法要行事が始まっている。
また各地で親鸞展などが企画され一大イベントが行われようとしている。
親鸞聖人の関東での布教についてはまだ未知なことも多く、知られていない事も多い。
石岡にも親鸞聖人ゆかりの史跡や寺が多くある。
私もこの地に来るまで、親鸞の関東での布教活動などについて何も知らなかった。
もう少し声を大にしていろいろなところで宣伝がなされても良いように思う。
市としても親鸞展や旧跡を回る企画ツアーなどを是非やってほしいものだと
今年の春に市長さんあてのメールで提案したが、お返事すらいただけていない。
正岡子規の万屋跡の碑も提案して7カ月以上経ってしまった。
そしてとうとうNHKの「坂の上の雲」は2年目の幕が上がってしまった。
子規は病気で死んでしまう(1902年)ので時間がない。
日露戦争は1904年だから、この話は子規が無くなった後も続く。
来年も続くが子規はもういない。虚しさのみがこみ上げてくる。
大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の看板はいいですね。

この看板のおかげで、その内容を調べてさらに興味が深まります。
しかし、一般に観光客はお寺と、そこの京都桂離宮を模した庭園「裏見なしの庭」を巡って帰っていきます。
親鸞の時代は鎌倉幕府の始まりの頃です。
一時親鸞は架空の人物ではないかとの学会論争が起こったといいます。
それ程直筆の書物などが残っていないようです。
大覚寺のすぐ横の「弁円懺悔の地」や板敷峠の「弁円護摩壇跡」などを訪れる人はほとんどいないというのも不思議な気もします。
史跡としての整備がなされていないためかもしれません。
またこの「法難の遺跡」の看板だけでは人が理解できていないのかもしれませんね。
続きはまた明日とします。
今日は東京でまた大学時代の仲間と飲み会です。
仲間は6人程ですが、大会社の副社長や役員、また大学の教授などおり、私は全くの落ちこぼれ組。
でも必ず毎年参加しています。
これからの第2、第3の人生をどう生きるのかを少しですが考えていければ充実した日々が送れる
と思っています。
親鸞750回忌(2)
昨日は大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の立て札について書きだしたので、今日はその続きです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。
しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。
歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。
しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。
歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」
これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。
親鸞750回忌(3)
さて、今日は昨日の山伏弁円についてもう少し調べてみました。
弁円についても生まれなどはいくつかの説があるようです。
幼い時に三井寺(滋賀県大津市)にはいり播磨坊弁円と称したとされ、平清盛の孫で平家滅亡の時に四国伊予に落ち延びてとする説があるといいます。
はっきりしたことは不明ですが、この播磨坊弁円を常陸太田に居を構えていた佐竹秀義が招き、塔の尾(現在の常陸大宮市東野)に祈願所法徳院を構え、山伏など修験者約800人が集まっていたというからかなり大きな道場があったとされます。
弁円が親鸞を襲ったのは親鸞49歳、弁円42歳の時です。
弁円は親鸞の弟子となり「明法房」の名前をもらいます。
親鸞には24人の弟子がおり、24輩と呼ばれています。明法房は19番です。
嘉禄二年(1226)明法房は楢原山法徳院法専寺を創建し、建長三年(1251)73歳で往生して旧法徳院跡地に葬られました。現地には「明法房の塚」として碑が建っています。
明法房が読んだ歌として、昨日の懺悔の時の歌ともう一つが知られていますので載せておきます。
あだとなりし 弓矢も今は 引きかえて 西に入るさの 山の端の月
さて、明法房が創建した寺(第19番)は額田の上宮寺とされています。
上宮寺は明法房が69歳の時に建てたが、これを明教房に譲り、思い出の石岡の真家村に一宇を建て、明法房の明と弁円の円の字をとって「明円寺」としたとされる。

この明円寺は弁円の寺であるが、他の2つの寺に比べあまり知られていない。
市でももう少しPRした方が良いと思う。

真家のお盆祭りである「みたまおどり」は平安時代から伝わるもとして知られるようになってきたが、現在は8月15日の朝、この明円寺から始まる。
現在の明円寺は昔はもっと山の上の方にあったが、津波に流されて下の方に建て直され、また火災にもあったとされます。
また明法房が亡くなったことを聞いた親鸞は「かえすがえすもうれしそうろう」と手紙に残されたという。
親鸞の教えが少しわかるようなエピソードです。
弁円についても生まれなどはいくつかの説があるようです。
幼い時に三井寺(滋賀県大津市)にはいり播磨坊弁円と称したとされ、平清盛の孫で平家滅亡の時に四国伊予に落ち延びてとする説があるといいます。
はっきりしたことは不明ですが、この播磨坊弁円を常陸太田に居を構えていた佐竹秀義が招き、塔の尾(現在の常陸大宮市東野)に祈願所法徳院を構え、山伏など修験者約800人が集まっていたというからかなり大きな道場があったとされます。
弁円が親鸞を襲ったのは親鸞49歳、弁円42歳の時です。
弁円は親鸞の弟子となり「明法房」の名前をもらいます。
親鸞には24人の弟子がおり、24輩と呼ばれています。明法房は19番です。
嘉禄二年(1226)明法房は楢原山法徳院法専寺を創建し、建長三年(1251)73歳で往生して旧法徳院跡地に葬られました。現地には「明法房の塚」として碑が建っています。
明法房が読んだ歌として、昨日の懺悔の時の歌ともう一つが知られていますので載せておきます。
あだとなりし 弓矢も今は 引きかえて 西に入るさの 山の端の月
さて、明法房が創建した寺(第19番)は額田の上宮寺とされています。
上宮寺は明法房が69歳の時に建てたが、これを明教房に譲り、思い出の石岡の真家村に一宇を建て、明法房の明と弁円の円の字をとって「明円寺」としたとされる。

この明円寺は弁円の寺であるが、他の2つの寺に比べあまり知られていない。
市でももう少しPRした方が良いと思う。

真家のお盆祭りである「みたまおどり」は平安時代から伝わるもとして知られるようになってきたが、現在は8月15日の朝、この明円寺から始まる。
現在の明円寺は昔はもっと山の上の方にあったが、津波に流されて下の方に建て直され、また火災にもあったとされます。
また明法房が亡くなったことを聞いた親鸞は「かえすがえすもうれしそうろう」と手紙に残されたという。
親鸞の教えが少しわかるようなエピソードです。
親鸞750回忌(4)
さて、来年が親鸞の750回忌ということで、本願寺派などでは大々的な行事が行われようとしている。
今春(5~6月)に五木寛之氏の「親鸞(上巻)」が電子書籍として無料公開された。
電子書籍元年といわれるように話題もあってかなりのアクセスがあったという。
私も試してみた。上巻のみの公開であったので、比叡山を下りる時までを描いており、それなりに面白かった。
しかし、下巻は買わねばならず読んでいない。
上巻の流れは面白かったが、何か読んでいて物足りなかった。
親鸞を人間くさく描くとこうなってしまうのかもしれない。
今日は昨日の続きということで、親鸞のかかわったとされる話を2つ紹介します。
一つは石岡市高浜にある「爪書阿弥陀堂」である。

話は、親鸞が高浜の岸から霞ケ浦を舟に乗り、鹿島神宮へよく通っていた時の話です。
この地に「腫れもの」で悩む一人の男がおり、親鸞が介抱すると腫れものもなくなり、痛みも無くなってしまった。
感激した男が、親鸞に未来の禍いも取り除いてほしいと懇願すると、「庭の石には阿弥陀如来が宿っているので、それを信心するが良い」と言って去って行った。

男が庭石を調べてみると、うっすらと爪で書かれた阿弥陀如来の姿が浮き彫りになっていた。
これを、阿弥陀堂を建立して代々守ってきたというのである。
もう一つは小美玉市にある「喜八阿弥陀」と「経塚」である。

さて、こちらの話は与沢地区に住む豪族の長島喜八の妻が三人目の子をみごもった時、難産のために亡くなってしまったのです。
そしてその妻が夜な夜な枕元に現れ夜も寝れれなくなったという。
この時に近くを通りかかった親鸞上人をお招きして、亡き妻の霊を静めてもらった。
妻の霊を静めた場所が経塚として残され、長嶋家には親鸞の書いたとされる絵画が三幅残されている。

この絵画は県指定の有形文化財とされ、今でも長嶋家個人の所有となっている。
さて、真贋の程ははかりかねるのだが、ほんとうであれば、個人の所有は如何なものかと思いますね。
二つの話は似ているようだがかなり違う。高浜は「腫れもの」であり、キリスト教などにも出てくるライ病を連想させる。
腫れ物と言えば、小町伝説で、石岡の北向観音にお参りした時の病も腫れ物だったように思う。
一方喜八の方は妻の亡霊である。これは親鸞が幽霊を静めるのに長い間通い詰めたとされる鉾田市にある「無量寿寺」とも関係があるのかもしれない。
この寺には「幽霊図」があるという。
しかし、長嶋家はこの地の豪族であるというのも何か解せない。
ともかく、与沢は石岡と鹿島方面の海とを結ぶ街道の拠点であった。
塩が運ばれた道でもあったという。
このような見方をしてふるさとも見てみると違って見えてきます。
また参考までに脚本家白井啓治氏の「塩の道余話」を読んでみてください。
とても面白いです。ふるさとを見直してみたいですね。
この話に出てくる倉数の「潮宮神社」は与沢から少し行ったところにあります。
古木が根をむき出しにし、傾きながら聳えている姿はとても不思議な景色です。
一度見てみてください。このような場所を私は他には知りません。
今春(5~6月)に五木寛之氏の「親鸞(上巻)」が電子書籍として無料公開された。
電子書籍元年といわれるように話題もあってかなりのアクセスがあったという。
私も試してみた。上巻のみの公開であったので、比叡山を下りる時までを描いており、それなりに面白かった。
しかし、下巻は買わねばならず読んでいない。
上巻の流れは面白かったが、何か読んでいて物足りなかった。
親鸞を人間くさく描くとこうなってしまうのかもしれない。
今日は昨日の続きということで、親鸞のかかわったとされる話を2つ紹介します。
一つは石岡市高浜にある「爪書阿弥陀堂」である。

話は、親鸞が高浜の岸から霞ケ浦を舟に乗り、鹿島神宮へよく通っていた時の話です。
この地に「腫れもの」で悩む一人の男がおり、親鸞が介抱すると腫れものもなくなり、痛みも無くなってしまった。
感激した男が、親鸞に未来の禍いも取り除いてほしいと懇願すると、「庭の石には阿弥陀如来が宿っているので、それを信心するが良い」と言って去って行った。

男が庭石を調べてみると、うっすらと爪で書かれた阿弥陀如来の姿が浮き彫りになっていた。
これを、阿弥陀堂を建立して代々守ってきたというのである。
もう一つは小美玉市にある「喜八阿弥陀」と「経塚」である。

さて、こちらの話は与沢地区に住む豪族の長島喜八の妻が三人目の子をみごもった時、難産のために亡くなってしまったのです。
そしてその妻が夜な夜な枕元に現れ夜も寝れれなくなったという。
この時に近くを通りかかった親鸞上人をお招きして、亡き妻の霊を静めてもらった。
妻の霊を静めた場所が経塚として残され、長嶋家には親鸞の書いたとされる絵画が三幅残されている。

この絵画は県指定の有形文化財とされ、今でも長嶋家個人の所有となっている。
さて、真贋の程ははかりかねるのだが、ほんとうであれば、個人の所有は如何なものかと思いますね。
二つの話は似ているようだがかなり違う。高浜は「腫れもの」であり、キリスト教などにも出てくるライ病を連想させる。
腫れ物と言えば、小町伝説で、石岡の北向観音にお参りした時の病も腫れ物だったように思う。
一方喜八の方は妻の亡霊である。これは親鸞が幽霊を静めるのに長い間通い詰めたとされる鉾田市にある「無量寿寺」とも関係があるのかもしれない。
この寺には「幽霊図」があるという。
しかし、長嶋家はこの地の豪族であるというのも何か解せない。
ともかく、与沢は石岡と鹿島方面の海とを結ぶ街道の拠点であった。
塩が運ばれた道でもあったという。
このような見方をしてふるさとも見てみると違って見えてきます。
また参考までに脚本家白井啓治氏の「塩の道余話」を読んでみてください。
とても面白いです。ふるさとを見直してみたいですね。
この話に出てくる倉数の「潮宮神社」は与沢から少し行ったところにあります。
古木が根をむき出しにし、傾きながら聳えている姿はとても不思議な景色です。
一度見てみてください。このような場所を私は他には知りません。
親鸞750回忌(5)
さあ、親鸞聖人の750回忌が来年に迫っている。
これだけ続けて関連事を書けば少しは記憶の残るかもしれない。
関東には24輩という弟子が建てた寺があるが、天台宗などに比べどこも派手さはない。
今日は、このテーマを最後にするが、石岡にこの24輩の第四番 乗然房領海の建てた「如来寺」がある。
場所は柿岡の市内中心部に近い。

写真で見たとおり古ぼけた山門が残されている。
この如来寺には聖徳太子の浮足の像という木像が残されていて、親鸞は師としては法然と聖徳太子を崇拝していたという。
もともと自ら宗派を興すつもりもなかったというが、後に弟子たちが宗派を興し、またいろいろな会派が
できているという。
注目すべきは、この如来寺は元は霞ケ浦湖畔の美浦村木原にあったという。霞ケ浦からは光り輝く如来様などがみつかったという言い伝えなどがいくつか残されており、ここにも似た伝えがあるという。
美浦村木原は現在のテキサスインスツルメントがある場所に近い。
また、面白いことに石岡では「茨城」のなまえの起こりとなったとされる「黒坂命(くろさかのみこと)」が、北の方(十王町)まで攻めていき竪破山(たつわれさん)で亡くなり、黒前神社に祀られているが、「死んだら霞ケ浦の見える美浦の地へ葬ってほしい」と言い残していたため、遺体は「輪轜車」(霊柩車)で黒前山から美浦に運ばれたという。(美浦村に残された話)
葬送は赤や青などの旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼んだ。
後に美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったというのである。
黒坂命の墓とされる古墳が大塚地区にあり、弁天塚古墳と呼ばれる。
木原-大塚-陸平(貝塚)などと続いており、古代が意外な形でつながっていますね。
信太小太郎伝説なども残されています。
これには平将門の子供がここで生まれたとする話などが残っているのも面白いですね。
さて、親鸞の草庵は小島と稲田が有名ですが、もう少し北の方(城里)に「大山草庵」があったという。
あまり訪れる人は少ないようですが「阿波山上神社」の入口に碑が建っています。
城里の地には手前に悪路王(アテルイ)の面(首)が残されているという鹿島神社もあります。
これだけ続けて関連事を書けば少しは記憶の残るかもしれない。
関東には24輩という弟子が建てた寺があるが、天台宗などに比べどこも派手さはない。
今日は、このテーマを最後にするが、石岡にこの24輩の第四番 乗然房領海の建てた「如来寺」がある。
場所は柿岡の市内中心部に近い。

写真で見たとおり古ぼけた山門が残されている。
この如来寺には聖徳太子の浮足の像という木像が残されていて、親鸞は師としては法然と聖徳太子を崇拝していたという。
もともと自ら宗派を興すつもりもなかったというが、後に弟子たちが宗派を興し、またいろいろな会派が
できているという。
注目すべきは、この如来寺は元は霞ケ浦湖畔の美浦村木原にあったという。霞ケ浦からは光り輝く如来様などがみつかったという言い伝えなどがいくつか残されており、ここにも似た伝えがあるという。
美浦村木原は現在のテキサスインスツルメントがある場所に近い。
また、面白いことに石岡では「茨城」のなまえの起こりとなったとされる「黒坂命(くろさかのみこと)」が、北の方(十王町)まで攻めていき竪破山(たつわれさん)で亡くなり、黒前神社に祀られているが、「死んだら霞ケ浦の見える美浦の地へ葬ってほしい」と言い残していたため、遺体は「輪轜車」(霊柩車)で黒前山から美浦に運ばれたという。(美浦村に残された話)
葬送は赤や青などの旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼んだ。
後に美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったというのである。
黒坂命の墓とされる古墳が大塚地区にあり、弁天塚古墳と呼ばれる。
木原-大塚-陸平(貝塚)などと続いており、古代が意外な形でつながっていますね。
信太小太郎伝説なども残されています。
これには平将門の子供がここで生まれたとする話などが残っているのも面白いですね。
さて、親鸞の草庵は小島と稲田が有名ですが、もう少し北の方(城里)に「大山草庵」があったという。
あまり訪れる人は少ないようですが「阿波山上神社」の入口に碑が建っています。
城里の地には手前に悪路王(アテルイ)の面(首)が残されているという鹿島神社もあります。
西念寺(親鸞稲田草庵跡)
今年は親鸞聖人の750回忌で、昨年に石岡周辺を紹介(こちら)しましたが、肝心の浄土真宗発祥の地といわれる「稲田草庵跡」にいっておりませんでしたので、今回紹介します。

場所は笠間市稲田の西念寺です。山門には「浄土真宗別格本山」となっています。

なかなか趣のある山門です。


西念寺です。

稲田御幽楼

「幽楼」に書かれていた額。親鸞聖人がこの地に来た理由が書かれています。

「弁円回心の所」
山伏弁円が危害を加えようと待ち構えていた板敷山に親鸞は現れず、とうとうこの稲田の草庵に押しかけました。
しかし聖人の穏やかな態度にたちどころに回心した場所というわけです。
これは前に石岡の大覚寺の近くの「弁円懺悔の地」でも紹介しました。
弁円詠歌
「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」
「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」

銀杏の古木(親鸞が植えたといわれる「お葉つき銀杏」)が年月を物語っています。

「御杖杉」です。
「建暦二年の春 親鸞聖人越後の国府よりこの稲田に御来入あり。
南方に聳ゆる山々の景色を眺めさせられ、救世菩薩の夢告を受けたるはこの地なり。
草庵を結びて衆生化益の宿願を達せばやと 御杖杉を深く差し給いしところ 不思議にも根芽を生じ大木となれり。
明治4年 本堂焼失のとき類焼したるは惜しむべきことなり」
水戸光圀公詠歌
「老いの身のこれぞ力のしるしとぞ つきとめにけり庭の杖すぎ」
光顔院講師詠歌
「古の夢のゆかりを今此処に 思いつきたる杉の木の杖」
親鸞の関東布教の中心であったこの稲田草庵。
この地で浄土真宗の教本「教行信証」を作成したと言われています。
鎌倉前期。稲田九郎頼重の招きでこの地に来たと言われています。
稲田草庵はその後しばらく念仏道場となっていたが、数十年後に寺院となった。
また、宇都宮氏六代当主の宇都宮泰綱の遺命により西念寺と寺号を定めたといいます。
草庵はこの他に、小島草庵(下妻市)、大山草庵(城里町)があります。

場所は笠間市稲田の西念寺です。山門には「浄土真宗別格本山」となっています。

なかなか趣のある山門です。


西念寺です。

稲田御幽楼

「幽楼」に書かれていた額。親鸞聖人がこの地に来た理由が書かれています。

「弁円回心の所」
山伏弁円が危害を加えようと待ち構えていた板敷山に親鸞は現れず、とうとうこの稲田の草庵に押しかけました。
しかし聖人の穏やかな態度にたちどころに回心した場所というわけです。
これは前に石岡の大覚寺の近くの「弁円懺悔の地」でも紹介しました。
弁円詠歌
「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」
「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」

銀杏の古木(親鸞が植えたといわれる「お葉つき銀杏」)が年月を物語っています。

「御杖杉」です。
「建暦二年の春 親鸞聖人越後の国府よりこの稲田に御来入あり。
南方に聳ゆる山々の景色を眺めさせられ、救世菩薩の夢告を受けたるはこの地なり。
草庵を結びて衆生化益の宿願を達せばやと 御杖杉を深く差し給いしところ 不思議にも根芽を生じ大木となれり。
明治4年 本堂焼失のとき類焼したるは惜しむべきことなり」
水戸光圀公詠歌
「老いの身のこれぞ力のしるしとぞ つきとめにけり庭の杖すぎ」
光顔院講師詠歌
「古の夢のゆかりを今此処に 思いつきたる杉の木の杖」
親鸞の関東布教の中心であったこの稲田草庵。
この地で浄土真宗の教本「教行信証」を作成したと言われています。
鎌倉前期。稲田九郎頼重の招きでこの地に来たと言われています。
稲田草庵はその後しばらく念仏道場となっていたが、数十年後に寺院となった。
また、宇都宮氏六代当主の宇都宮泰綱の遺命により西念寺と寺号を定めたといいます。
草庵はこの他に、小島草庵(下妻市)、大山草庵(城里町)があります。
大覚寺(だいがくじ)-親鸞聖人法難の遺跡
親鸞聖人の稲田の草庵のあった場所(現:西念寺)を紹介しましたが、途中で同じく関連の石岡市にある「大覚寺(だいがくじ)」に立ち寄りましたので少し紹介します。
ここは前にも紹介しています。
ここの寺は、山伏弁円(後の明法房)が親鸞に危害を加えようとしたが、回心し弟子となったことを「法難」と呼び、その事実を残し伝えるためにこの地に建てられたものだと思います。

大覚寺の白壁と桜の古木。

大覚寺遠景。この寺は「板敷山」の麓に建てられた。この入口の遠景が好きだ。

外から見える寺の鐘楼(梵鐘)

入口の山門は「横 唐門?」良くわからないが、いい形をしている。

山門をくぐると右側に「親鸞聖人の説法石」と「天蓋樹とよばれたクスの古樹」がある。

この大覚寺手前の大増地区からは「加波山」「足尾山」の連山がきれいに見える。山の上に風力発電の風車が2基まわっている。
刈りとり寸前の稲穂がきれいだ。(9月14日撮影)
大覚寺の庭園は有名で、一度は訪れてほしいところですので、明日につづきをのせます。
ここは前にも紹介しています。
ここの寺は、山伏弁円(後の明法房)が親鸞に危害を加えようとしたが、回心し弟子となったことを「法難」と呼び、その事実を残し伝えるためにこの地に建てられたものだと思います。

大覚寺の白壁と桜の古木。

大覚寺遠景。この寺は「板敷山」の麓に建てられた。この入口の遠景が好きだ。

外から見える寺の鐘楼(梵鐘)

入口の山門は「横 唐門?」良くわからないが、いい形をしている。

山門をくぐると右側に「親鸞聖人の説法石」と「天蓋樹とよばれたクスの古樹」がある。

この大覚寺手前の大増地区からは「加波山」「足尾山」の連山がきれいに見える。山の上に風力発電の風車が2基まわっている。
刈りとり寸前の稲穂がきれいだ。(9月14日撮影)
大覚寺の庭園は有名で、一度は訪れてほしいところですので、明日につづきをのせます。
大覚寺(2)-庭園
今日は昨日の続きで、石岡市のはずれ親鸞ゆかりの大覚寺の庭園です。
この庭園は京都の桂離宮を模して造られたものです。
「裏見なしの庭」とよばれ、回遊式庭園の様式をとり、どの角度から見ても裏がなく、どこから見ても表ばかりだというわけです。

この庭園の特徴は一見すると純和風の庭園だと思いますが、まちがいです。

植えられている木が和風ばかりではなく、南国風の木が植えられていたりするのです。
それが見る角度で面白い趣があるのです。

当然池と草木のアレンジは和風庭園そのものなのですが、見る角度で南国風にもなるのです。


池の周りをグルリと一周する回遊路は苔むしていい感じです。

今の時期は萩の花が咲き始め、きれいに池などとマッチしています。

この辺りからの眺めは、手前は純和風、奥の方は南国風です。

池の入口木戸は針金を引っ掛けてるだけですので、そこを開けて入ってもよし、また建屋の方に回っていっても良いです。
この建屋の縁側に記帳用紙などがおかれています。
行かれた時はできるだけ記帳して下さいね。
この庭園は京都の桂離宮を模して造られたものです。
「裏見なしの庭」とよばれ、回遊式庭園の様式をとり、どの角度から見ても裏がなく、どこから見ても表ばかりだというわけです。

この庭園の特徴は一見すると純和風の庭園だと思いますが、まちがいです。

植えられている木が和風ばかりではなく、南国風の木が植えられていたりするのです。
それが見る角度で面白い趣があるのです。

当然池と草木のアレンジは和風庭園そのものなのですが、見る角度で南国風にもなるのです。


池の周りをグルリと一周する回遊路は苔むしていい感じです。

今の時期は萩の花が咲き始め、きれいに池などとマッチしています。

この辺りからの眺めは、手前は純和風、奥の方は南国風です。

池の入口木戸は針金を引っ掛けてるだけですので、そこを開けて入ってもよし、また建屋の方に回っていっても良いです。
この建屋の縁側に記帳用紙などがおかれています。
行かれた時はできるだけ記帳して下さいね。
無量寿寺(鉾田市)2
昨日の親鸞の寺「無量寿寺」の続きです。

親鸞像です。

この寺の造りは立派ですね。 前回のUPですが載せておきます。屋根の下は龍の彫り物です。

境内で写真を撮りながら歩いていると、高校生くらいの5~6人くらいが現れ、「こんにちは」と声をかけて行きました。
みなさん袴姿で、お寺で修行していたのでしょうか。
新しくできた鉄筋コンクリートの本堂?に入っていきました。
寺の入口には「11月11日、12日 報恩講(法要)」と書かれていました。
この「報恩講」は浄土真宗ではもっとも大事な行事だといいます。親鸞の教えを報恩するために行なわれる法要で、信者の方が親鸞の教えを授かる日です。
私が行った日は「11月12日(土)です。

さて、この無量寿寺のすぐ隣に、境界がない地続きの場所にもう一つお寺があります。
「教円寺」と書いてあります。
写真を撮ってから調べて見ると、同じ浄土真宗のお寺で、今はこの前の通りの反対側の丘の上に新しい「教円寺」が建てられているそうです。
そちらには寄りませんでしたので、この旧教円寺は使われていないのかもしれません。

まわりの生け垣などは手入れされてそれなりに趣のあるお寺でした。
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親鸞像です。

この寺の造りは立派ですね。 前回のUPですが載せておきます。屋根の下は龍の彫り物です。

境内で写真を撮りながら歩いていると、高校生くらいの5~6人くらいが現れ、「こんにちは」と声をかけて行きました。
みなさん袴姿で、お寺で修行していたのでしょうか。
新しくできた鉄筋コンクリートの本堂?に入っていきました。
寺の入口には「11月11日、12日 報恩講(法要)」と書かれていました。
この「報恩講」は浄土真宗ではもっとも大事な行事だといいます。親鸞の教えを報恩するために行なわれる法要で、信者の方が親鸞の教えを授かる日です。
私が行った日は「11月12日(土)です。

さて、この無量寿寺のすぐ隣に、境界がない地続きの場所にもう一つお寺があります。
「教円寺」と書いてあります。
写真を撮ってから調べて見ると、同じ浄土真宗のお寺で、今はこの前の通りの反対側の丘の上に新しい「教円寺」が建てられているそうです。
そちらには寄りませんでしたので、この旧教円寺は使われていないのかもしれません。

まわりの生け垣などは手入れされてそれなりに趣のあるお寺でした。


阿弥陀寺(額田)と親鸞大山草庵(1)
今日は強風で砂塵や土塵が舞上がり数十メートル先も霞んで見えないような天気でした。
気温も上がり、梅は満開で桜も今年は早く開花するという。
家の庭においていたバケツなどはコロコロと転がって垣根の方に飛んでしまい、時々地震かと思わせるように家が突風で音を立てます。
さて、越後に追放されていた親鸞は師と仰いでいた法然(讃岐に流罪)とともに許された後、都へは帰らず、関東での布教活動を行うために、常陸国(茨城)にやってきました。
まず下妻市の小島に建保2年(1214)草庵を結び、その2年後の建保4年(1216)に城里町(旧桂村)の大山に草庵を結んだと言われています。
笠間市の稲田に草庵(現西念寺)を結んだのも小島の草庵の少し後のこととされており、あまり詳しいことが分かっていない。
私のいる石岡も大覚寺や高浜の爪書き阿弥陀など関連しているが、これも稲田の草庵との関係が多く、大山草庵などは話題にも上らない。
しかし、石岡からまっすぐ北上して旧桂村にある桂中学校のすぐ脇に「阿波山上神社」があり、その脇に親鸞の大山草庵跡という碑が置かれている。
昔、この地に「阿弥陀寺」があり、この寺が那珂市額田(ぬかだ)に移ったと知って、先日この額田の地を訪れた。
額田も額田王(ぬかだのおおきみ)などとも関係があるかもしれないとされるかなり歴史を持った地であった。
この阿弥陀寺以外にも面白い発見がいくつかあった。
これはまた順に紹介していきたい。

親鸞の24人の弟子が建てたと言われる二十四輩のここ阿弥陀寺は第十四番である。

参道を少し行った先に古びた山門が立っている。
2階部分に鐘が置かれている。
この二十四輩の寺はどこも同じように質素な門を備えている。

しかし、この門の手前には大きなイチョウの木だろうか。
また門をくぐった境内には立派なしだれ桜が見事だ。

ここをただの親鸞の弟子が建てた寺だと思ったら、多分何も見えてこないかもしれない。
私は旧桂村の大山あたりを、とても興味深く思って、何度も訪れた。
もう少し調べてみてからこの続きを書いておきたいと思います。
気温も上がり、梅は満開で桜も今年は早く開花するという。
家の庭においていたバケツなどはコロコロと転がって垣根の方に飛んでしまい、時々地震かと思わせるように家が突風で音を立てます。
さて、越後に追放されていた親鸞は師と仰いでいた法然(讃岐に流罪)とともに許された後、都へは帰らず、関東での布教活動を行うために、常陸国(茨城)にやってきました。
まず下妻市の小島に建保2年(1214)草庵を結び、その2年後の建保4年(1216)に城里町(旧桂村)の大山に草庵を結んだと言われています。
笠間市の稲田に草庵(現西念寺)を結んだのも小島の草庵の少し後のこととされており、あまり詳しいことが分かっていない。
私のいる石岡も大覚寺や高浜の爪書き阿弥陀など関連しているが、これも稲田の草庵との関係が多く、大山草庵などは話題にも上らない。
しかし、石岡からまっすぐ北上して旧桂村にある桂中学校のすぐ脇に「阿波山上神社」があり、その脇に親鸞の大山草庵跡という碑が置かれている。
昔、この地に「阿弥陀寺」があり、この寺が那珂市額田(ぬかだ)に移ったと知って、先日この額田の地を訪れた。
額田も額田王(ぬかだのおおきみ)などとも関係があるかもしれないとされるかなり歴史を持った地であった。
この阿弥陀寺以外にも面白い発見がいくつかあった。
これはまた順に紹介していきたい。

親鸞の24人の弟子が建てたと言われる二十四輩のここ阿弥陀寺は第十四番である。

参道を少し行った先に古びた山門が立っている。
2階部分に鐘が置かれている。
この二十四輩の寺はどこも同じように質素な門を備えている。

しかし、この門の手前には大きなイチョウの木だろうか。
また門をくぐった境内には立派なしだれ桜が見事だ。

ここをただの親鸞の弟子が建てた寺だと思ったら、多分何も見えてこないかもしれない。
私は旧桂村の大山あたりを、とても興味深く思って、何度も訪れた。
もう少し調べてみてからこの続きを書いておきたいと思います。
阿弥陀寺(額田)と親鸞大山草庵(2)
今日はこれから出かけますので、記事を早めにUPします。
さて、那珂市額田の阿弥陀寺の寺の境内に置かれた案内板の内容を見てみましょう。

もう一方の城里町にある大山草庵跡に掲げられている説明内容を下記に示します。

大きな椿の下におかれた案内板はこのように日差しが強く読みづらくなってしまいました。
この写真を撮ったのはもう5年以上前のものです。
その頃読んでもわからなかったことが自然に理解できるようになりました。
親鸞は常陸国に来たのは1212年です。最初は下妻市小島の草庵におり、笠間市稲田の稲田九郎頼重に迎えられて稲田の草庵に1232年まで20年近く(60歳まで)妻と子供とで生活しています。
真宗教義の元となった「教行信証」は主にこの稲田で執筆したものと思われます。
この稲田から北西に15km離れた大山に別な草庵を建てたのは、この地に何かあるのではないかと考えていたのです。
書かれている説明を読んで、一応の流れは理解することができました。
整理すると、親鸞の師である法然が1212年に亡くなり、その年に法然の孫弟子である行観上人がこの地に浄土宗の阿弥陀寺を建てた。
そして、常陸国で布教活動をしていた親鸞をこの地に来てくれるように懇請し、それに応えて北部への布教の拠点としてこの1214年に阿弥陀寺境内に大山草庵を建てた。
この年(1214年)の11月8日に、この地で法然の三回忌法要を行い、親鸞直筆とされる三尊六高祖を安置した。
これによって浄土真宗が始まったといわれ、この大山の地が開宗宣言の地と言われる。
もっとも親鸞は新しい宗教を起こしたとは思っていなかったようで、あくまでも法然(浄土宗)を師と仰いでいたと言われます。
その後、ここには浄土宗の阿弥陀寺が存続しますが、七代目の明徳三年(1392)に額田(那珂市)の佐竹義重の子の義直がその100年ほど前に築城した額田城に入っていた小野崎氏の懇請を受け、額田城の守護寺として、現在地に移り、浄土真宗阿弥陀寺を建てた。
しかし大山には浄土宗の阿弥陀寺は残り、1842年に水戸の徳川斉昭公の寺院整理に伴って廃寺となったという。
ああなんとなく時系列的には整理できたが、親鸞がこの地を選んだのは別な意味があったのではないかという気がしてならない。もう少し調べたいが謎の多い親鸞であるのでこれは無理なように思う。

額田の阿弥陀寺には立派なしだれ桜の木がある。
もう少ししたら綺麗に花開くに違いない。
三春の滝桜も見たいが、この桜も見てみたい。



元々は中世の城「額田城」の一角にあった寺であり、全体に周りは広々としている。

「大山禅坊」と書かれているのが目に付いた。
城里町の大山草庵跡の写真を少し載せておきます。

正面に鳥居は「阿波山上神社」のもの。この神社もとても気になる場所です。
阿波山はこのあたりの地名にも使われているが、「粟」という地名もあり、水戸に注ぐ大きな那珂川が近くを流れます。
そして、常陸国風土記には那珂川は「粟川」と表記されています。
この阿波山上神社の御神木は「スクナヒコナ」神が降臨したとされて、特異な神社です。
右手が桂中学校で、その手前の道を入ったところが大山草庵跡です。


(サムネルです)
左が旧桂村の大山草庵跡、右が那珂市額田の阿弥陀寺。中間に瓜連(うりづら)があります。
大分長くなってしまいました。
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さて、那珂市額田の阿弥陀寺の寺の境内に置かれた案内板の内容を見てみましょう。

もう一方の城里町にある大山草庵跡に掲げられている説明内容を下記に示します。

大きな椿の下におかれた案内板はこのように日差しが強く読みづらくなってしまいました。
この写真を撮ったのはもう5年以上前のものです。
その頃読んでもわからなかったことが自然に理解できるようになりました。
親鸞は常陸国に来たのは1212年です。最初は下妻市小島の草庵におり、笠間市稲田の稲田九郎頼重に迎えられて稲田の草庵に1232年まで20年近く(60歳まで)妻と子供とで生活しています。
真宗教義の元となった「教行信証」は主にこの稲田で執筆したものと思われます。
この稲田から北西に15km離れた大山に別な草庵を建てたのは、この地に何かあるのではないかと考えていたのです。
書かれている説明を読んで、一応の流れは理解することができました。
整理すると、親鸞の師である法然が1212年に亡くなり、その年に法然の孫弟子である行観上人がこの地に浄土宗の阿弥陀寺を建てた。
そして、常陸国で布教活動をしていた親鸞をこの地に来てくれるように懇請し、それに応えて北部への布教の拠点としてこの1214年に阿弥陀寺境内に大山草庵を建てた。
この年(1214年)の11月8日に、この地で法然の三回忌法要を行い、親鸞直筆とされる三尊六高祖を安置した。
これによって浄土真宗が始まったといわれ、この大山の地が開宗宣言の地と言われる。
もっとも親鸞は新しい宗教を起こしたとは思っていなかったようで、あくまでも法然(浄土宗)を師と仰いでいたと言われます。
その後、ここには浄土宗の阿弥陀寺が存続しますが、七代目の明徳三年(1392)に額田(那珂市)の佐竹義重の子の義直がその100年ほど前に築城した額田城に入っていた小野崎氏の懇請を受け、額田城の守護寺として、現在地に移り、浄土真宗阿弥陀寺を建てた。
しかし大山には浄土宗の阿弥陀寺は残り、1842年に水戸の徳川斉昭公の寺院整理に伴って廃寺となったという。
ああなんとなく時系列的には整理できたが、親鸞がこの地を選んだのは別な意味があったのではないかという気がしてならない。もう少し調べたいが謎の多い親鸞であるのでこれは無理なように思う。

額田の阿弥陀寺には立派なしだれ桜の木がある。
もう少ししたら綺麗に花開くに違いない。
三春の滝桜も見たいが、この桜も見てみたい。



元々は中世の城「額田城」の一角にあった寺であり、全体に周りは広々としている。

「大山禅坊」と書かれているのが目に付いた。
城里町の大山草庵跡の写真を少し載せておきます。

正面に鳥居は「阿波山上神社」のもの。この神社もとても気になる場所です。
阿波山はこのあたりの地名にも使われているが、「粟」という地名もあり、水戸に注ぐ大きな那珂川が近くを流れます。
そして、常陸国風土記には那珂川は「粟川」と表記されています。
この阿波山上神社の御神木は「スクナヒコナ」神が降臨したとされて、特異な神社です。
右手が桂中学校で、その手前の道を入ったところが大山草庵跡です。


(サムネルです)
左が旧桂村の大山草庵跡、右が那珂市額田の阿弥陀寺。中間に瓜連(うりづら)があります。
大分長くなってしまいました。


とりのこみち(2)-善徳寺(1)
昨日紹介したトリノコ(鷲子)道の周辺では江戸時代には和紙造りが行われ、それに適した三椏(ミツマタ)などの木もたくさん植えられていたのかもしれない。
紙問屋も高部などの町にはあり、商人も行き来していたに違いない。
向け先は水戸の御城下で常陸太田などを通っていたものと思う。その時代の紙は貴重品であった。
さて、昔の街道と思われる横道沿いに「善徳寺」という寺があった。入口には昔風の白壁の蔵造りの建物があった。
額光山善徳寺:浄土真宗本願寺派の寺院である。

通りの入口。
この入口をはいって川を渡った先に寺がある。

親鸞の24人の弟子(二十四輩)により関東地方に建てられた寺である。
十二番「善念房」によりこの地より南の額田に近い南酒出に建立(建保三年(1215))された。

老松と山門がこの山間の寺の趣を感じさせてくれます。

山門をくぐると整えられた美しい庭の木々が目に飛び込んできます。

詳しい寺の説明は上記の看板に書かれていますので興味のある方は読んでください。
開祖は親鸞二十四輩の一人である「善念房」
この寺の説明によれば、善念房は久慈郡内田の領主「南酒出六郎義茂」となっており、この六郎義茂は佐竹昌義の孫であるという。
しかし、調べてみると二十四輩の善念房の寺はもう一つあって、水戸市酒門町に「善重寺」(遍照山光明院 浄土真宗大谷派)がある。
こちらの寺伝では善念房は相模国の三浦義重という武士であったという。
さて、どちらが正しいのかわからない。
しかし水戸の寺とこの鷲子(とりのこ)の寺を比べるのは本意ではない。
この山間の地に佇む寺を是非訪れてみていただきたい。
ここに来ると安らかな気持ちで落ち着く事が出来る様に思う。

寺の本堂。
南酒出より正和三年(1314)に鷲子に移り、延徳元年(1489)に火災に遭った。
その後、寛永七年(1630)に再建されたものである。本尊は阿弥陀如来像。



じっくりと眺めていたい落ち着いた寺であった。
明日に記事が少し続きます。
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紙問屋も高部などの町にはあり、商人も行き来していたに違いない。
向け先は水戸の御城下で常陸太田などを通っていたものと思う。その時代の紙は貴重品であった。
さて、昔の街道と思われる横道沿いに「善徳寺」という寺があった。入口には昔風の白壁の蔵造りの建物があった。
額光山善徳寺:浄土真宗本願寺派の寺院である。

通りの入口。
この入口をはいって川を渡った先に寺がある。

親鸞の24人の弟子(二十四輩)により関東地方に建てられた寺である。
十二番「善念房」によりこの地より南の額田に近い南酒出に建立(建保三年(1215))された。

老松と山門がこの山間の寺の趣を感じさせてくれます。

山門をくぐると整えられた美しい庭の木々が目に飛び込んできます。

詳しい寺の説明は上記の看板に書かれていますので興味のある方は読んでください。
開祖は親鸞二十四輩の一人である「善念房」
この寺の説明によれば、善念房は久慈郡内田の領主「南酒出六郎義茂」となっており、この六郎義茂は佐竹昌義の孫であるという。
しかし、調べてみると二十四輩の善念房の寺はもう一つあって、水戸市酒門町に「善重寺」(遍照山光明院 浄土真宗大谷派)がある。
こちらの寺伝では善念房は相模国の三浦義重という武士であったという。
さて、どちらが正しいのかわからない。
しかし水戸の寺とこの鷲子(とりのこ)の寺を比べるのは本意ではない。
この山間の地に佇む寺を是非訪れてみていただきたい。
ここに来ると安らかな気持ちで落ち着く事が出来る様に思う。

寺の本堂。
南酒出より正和三年(1314)に鷲子に移り、延徳元年(1489)に火災に遭った。
その後、寛永七年(1630)に再建されたものである。本尊は阿弥陀如来像。



じっくりと眺めていたい落ち着いた寺であった。
明日に記事が少し続きます。


とりのこみち(3)-善徳寺(2)
昨日の二十四輩第十二番善念房の寺「善徳寺」の紹介を続けます。
「道の駅みわ」などがある街道は観光バスもたくさん走っていますが、1本南側の旧道はバスが走るには狭すぎます。
私も広く開いた所に車を停車させて、てくてく歩いてみて回りました。

ネットでこの寺についても調べて見ていたのですがよくわかりません。
本願寺派と大谷派でそれぞれ善念房の寺が違うのはまだよいけれど、この善念房の正体もよくわからない。
水戸酒門町の善重寺の寺では相模国三浦義重という武士が鹿島神宮近くで親鸞聖人が川を渡るのに難儀しているのを負ぶって渡り、自身の悩みを親鸞聖人から教えをいただいた事になっており、三浦と言えばこの鷲子地区にある三浦杉の三浦大介義明(源頼朝を助け衣笠城で籠城討死)を思い出す。
三浦氏はついこの前まで書いていた「平良文」の一族になる。
こちらの善念房は佐竹氏の孫であり新羅三郎義光(八幡太郎の弟)の一族になる。

鷲子にある善徳寺の本堂の右手に聖徳太子を祀る「太子堂」がある。
こじんまりした建物だが時代はよくわからない。江戸時代後期のものか?
本堂と同時だとすると1630年頃と言うことになるが、それよりは新しそうだ。

太子堂入口の2本の柱を支えるのは木彫りの亀です。この亀も年季が入っています。支えるのは大変なのでしょう。
先の大地震では本堂などは大分修理が必要になったとか。
亀さんこれからもしっかり支えていってください。

右側が本堂で左側が太子堂です。
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「道の駅みわ」などがある街道は観光バスもたくさん走っていますが、1本南側の旧道はバスが走るには狭すぎます。
私も広く開いた所に車を停車させて、てくてく歩いてみて回りました。

ネットでこの寺についても調べて見ていたのですがよくわかりません。
本願寺派と大谷派でそれぞれ善念房の寺が違うのはまだよいけれど、この善念房の正体もよくわからない。
水戸酒門町の善重寺の寺では相模国三浦義重という武士が鹿島神宮近くで親鸞聖人が川を渡るのに難儀しているのを負ぶって渡り、自身の悩みを親鸞聖人から教えをいただいた事になっており、三浦と言えばこの鷲子地区にある三浦杉の三浦大介義明(源頼朝を助け衣笠城で籠城討死)を思い出す。
三浦氏はついこの前まで書いていた「平良文」の一族になる。
こちらの善念房は佐竹氏の孫であり新羅三郎義光(八幡太郎の弟)の一族になる。

鷲子にある善徳寺の本堂の右手に聖徳太子を祀る「太子堂」がある。
こじんまりした建物だが時代はよくわからない。江戸時代後期のものか?
本堂と同時だとすると1630年頃と言うことになるが、それよりは新しそうだ。

太子堂入口の2本の柱を支えるのは木彫りの亀です。この亀も年季が入っています。支えるのは大変なのでしょう。
先の大地震では本堂などは大分修理が必要になったとか。
亀さんこれからもしっかり支えていってください。

右側が本堂で左側が太子堂です。


とりのこみち(4)-照願寺(1)
親鸞の弟子二十四輩の寺として昨日まで紹介した十二番善念房の「善徳寺」を紹介しましたが、今日はそのすぐ近くにある「照願寺」を紹介します。
毘沙幢山無為院(びしゃどうざんむいいん)、二十四輩の十七番 念信房。
念信房は高沢伊加守氏信という高沢城主であった。
高沢城と言うのはこの鷲子(とりのこ)地区の栃木県との県境の山にあった城だという。「鳥の子館」ともいうそうだ。
新羅三郎義光の子、高沢伊賀守がこの城を築いたと言われるが、その子孫である高沢氏信は稲田の草庵に自ら親鸞を訪ね、教えを受け念信房勝渓という法名を賜った。
最初は那珂小舟の毘沙幢(びしゃどう)(旧緒川村小舟)に草庵を建てたが三世の1300年頃に春丸(同じ鷲子地区)に移り、第九世の時(1390年)に現在の鷲子の城崎に移っています。

この十七番の寺も2か所あり、江戸時代の元禄年代に分割されたようです。
もう一か所は千葉県いすみ市大原に本願寺派の寺院として同じ照願寺があります。
鷲子の照願寺の門のすぐ奥右側に古い桜の木があります。
この樹を「親鸞聖人 見返りの桜」と呼ばれています。(市指定文化財)
この地(最初に草庵を建てた小舟)を6度も訪れたという親鸞聖人。1228年に親鸞上人が訪れた時(56歳?)、来た時にはまだ桜も咲いていなかったのに翌日帰るときには時期が早いにもかかわらずこの桜が満開になったのだとか。
江戸時代に小舟からこの鷲子に移されたらしい。

山門には「毘沙幢山」と掲げられています。最初に建てられた小舟の毘沙幢の名前を使っています。


本堂。本尊の阿弥陀如来立像が置かれています。鎌倉時代後期から南北朝時代の作と考えられます。

親鸞聖人行脚像「倶会一処」(くえいっしょ)と書かれています。
明日に続きます。
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毘沙幢山無為院(びしゃどうざんむいいん)、二十四輩の十七番 念信房。
念信房は高沢伊加守氏信という高沢城主であった。
高沢城と言うのはこの鷲子(とりのこ)地区の栃木県との県境の山にあった城だという。「鳥の子館」ともいうそうだ。
新羅三郎義光の子、高沢伊賀守がこの城を築いたと言われるが、その子孫である高沢氏信は稲田の草庵に自ら親鸞を訪ね、教えを受け念信房勝渓という法名を賜った。
最初は那珂小舟の毘沙幢(びしゃどう)(旧緒川村小舟)に草庵を建てたが三世の1300年頃に春丸(同じ鷲子地区)に移り、第九世の時(1390年)に現在の鷲子の城崎に移っています。

この十七番の寺も2か所あり、江戸時代の元禄年代に分割されたようです。
もう一か所は千葉県いすみ市大原に本願寺派の寺院として同じ照願寺があります。
鷲子の照願寺の門のすぐ奥右側に古い桜の木があります。
この樹を「親鸞聖人 見返りの桜」と呼ばれています。(市指定文化財)
この地(最初に草庵を建てた小舟)を6度も訪れたという親鸞聖人。1228年に親鸞上人が訪れた時(56歳?)、来た時にはまだ桜も咲いていなかったのに翌日帰るときには時期が早いにもかかわらずこの桜が満開になったのだとか。
江戸時代に小舟からこの鷲子に移されたらしい。

山門には「毘沙幢山」と掲げられています。最初に建てられた小舟の毘沙幢の名前を使っています。


本堂。本尊の阿弥陀如来立像が置かれています。鎌倉時代後期から南北朝時代の作と考えられます。

親鸞聖人行脚像「倶会一処」(くえいっしょ)と書かれています。
明日に続きます。


とりのこみち(5)-照願寺(2)
親鸞証人の弟子二十四輩第十二番念信房の寺「照願寺」を紹介しています。
本堂には阿弥陀如来様を、そして太子堂には聖徳太子を御まつりしています。

太子堂です。聖徳太子立像が奉られています。こちらも鎌倉時代後期から南北朝時代の作と考えられます。
こちらの聖徳太子立像は県指定の有形文化財に指定されています。

太子堂はこじんまりしていますが堂々とした風格のお堂です。
この寺の敷地はすべて山の斜面にとりつくように造られています。
このため、この太子堂や鐘楼なども全て斜面を削ったところに建てられたようです。


鐘楼。「立教開宗750年 梵鐘並鐘楼復元記念 昭和47年1月」とあります。
そういえば昨年は親鸞聖人の750回忌。750年と言うのは特別な年と言うが、生誕750年は大正時代(12年)という。

山門をくぐって本堂に向かう石段の途中にこの「宗圓寺」がある。
同じ真宗の寺だが、徳川光圀の時に大子にあったこの寺をここに持って来たという。
この宗圓寺があった場所は大子町の初原村であったという。
初原村を調べると明治22年の合併で依上村となり、翌23年に佐原村となったと書かれていた。
今の大子町の北西部で栃木県との県境に近い山間部である。
この寺をこの地に移した時に山門と鐘楼を移したと書かれており、今の山門はこの時のものかもしれない。
また鐘楼も基になったのは宗圓寺のもので、昭和47年に改修されたのだろう。
大子町の奥の上金沢には親鸞の孫である如信上人終焉の地とされる「法龍寺」があり、光圀もこの寺の整備にも力を注いだとされる。
また宗圓寺はさらにこの北側にあった。
法龍寺も一度訪ねてみたい。
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本堂には阿弥陀如来様を、そして太子堂には聖徳太子を御まつりしています。

太子堂です。聖徳太子立像が奉られています。こちらも鎌倉時代後期から南北朝時代の作と考えられます。
こちらの聖徳太子立像は県指定の有形文化財に指定されています。

太子堂はこじんまりしていますが堂々とした風格のお堂です。
この寺の敷地はすべて山の斜面にとりつくように造られています。
このため、この太子堂や鐘楼なども全て斜面を削ったところに建てられたようです。


鐘楼。「立教開宗750年 梵鐘並鐘楼復元記念 昭和47年1月」とあります。
そういえば昨年は親鸞聖人の750回忌。750年と言うのは特別な年と言うが、生誕750年は大正時代(12年)という。

山門をくぐって本堂に向かう石段の途中にこの「宗圓寺」がある。
同じ真宗の寺だが、徳川光圀の時に大子にあったこの寺をここに持って来たという。
この宗圓寺があった場所は大子町の初原村であったという。
初原村を調べると明治22年の合併で依上村となり、翌23年に佐原村となったと書かれていた。
今の大子町の北西部で栃木県との県境に近い山間部である。
この寺をこの地に移した時に山門と鐘楼を移したと書かれており、今の山門はこの時のものかもしれない。
また鐘楼も基になったのは宗圓寺のもので、昭和47年に改修されたのだろう。
大子町の奥の上金沢には親鸞の孫である如信上人終焉の地とされる「法龍寺」があり、光圀もこの寺の整備にも力を注いだとされる。
また宗圓寺はさらにこの北側にあった。
法龍寺も一度訪ねてみたい。


二人の唯信房(1)-幡谷の唯信(1)
今日は土浦の県南生涯学習センターのアフターファイブサロンに出かけて今帰りました。
高浜の白菊酒造の広瀬専務さんのお話しでした。
テーマは「石岡の歴史と酒つくり?」
私の撮った写真と記事が一部使っていただいたので、楽しみに行ってきました。
専務さんはまだ若い。肌のつやも素晴らしい。
素敵な酒造りのDVDは良かったね。これからもがんばって下さいね。
あっ、それから石岡の歴史や府中六井の説明は中途半端でした。
まだ自分のものにこなされていません。
若いのでこれから益々良いお仕事を期待しています。
さて、親鸞聖人の二十四輩の寺を少し紹介してきたので、続けて他の寺も少しだけ紹介します。
親鸞聖人の弟子二十四輩の二十二番と二十三番は共に「唯信房」と言います。
二十二番は「戸森の唯信」で二十三番は「幡谷の唯信」と呼ばれています。
まずは二十三番の唯信房の寺である水戸の歴史観近くにある「信願寺」です。
この唯信は「幡谷(はたや)の唯信(ゆいしん)」です。
幡谷と言うのは石岡の近く小川町入口にある幡谷のことです。

水戸の歴史観のすぐ隣のようなところです。
この寺には、創建は貞永元年(1232)に幡谷に創建され、延宝9年(1681)に現在地に移ってきました。
本尊の鍍金仏は鎌倉時代に制作されたと推定される仏像で像高46.7㎝、銅造、鍍金、長野善光寺本尊を模した善光寺式像の中尊とされ昭和29年に茨城県指定重要文化財に指定されています。(茨城県水戸市観光・旅行見所ナビより)

ここにおかれている親鸞像は他のものと少し違います。
親鸞は罪人として流された越後国より、罪を許されたのちに常陸国にて布教活動を行いました。
この像は親鸞と妻の惠信尼、息子の信蓮房(明信)という家族の銅像です。
越後から常陸へと旅をして来た、親鸞一家の姿として描いています。

しかしこの像の下には次のように書かれた銅板が取り付けられています。
「むかし野に聖あり。公家をすてて仏道をもとめる。
山上に心月を仰がれずして、救いを慈悲の精舎に祈る。
生と死のいづべき道をききて、俗と僧をこえて凡人となる。
暴力には、慈悲の心をもて向う。
心暗きものに智恵の道を示す。
乏しきに交わりて心豊かに、力なき人民とともに生きる。
その心太陽のごとく、そのあたたかさ、母のごとし。
悪しき心の性を人に見づして、自からの暗の深きを恥じ入る。
その子に背かれ妻に別れ、市辺の一隅にあって真実を書く。
濁り多き世に生きる。
濁りなき世の来らん日のために、自ら燃えつくした人。
野の聖、親鸞という。
京都山科にて。高下恵証。」
親鸞は越後で妻「恵信尼(えしんに)」と結婚し、4男3女をもうけた。
息子信蓮房は越後で生まれ、常陸国に来た時は3歳くらいだっと思われます。
今日は時間がないので明日にもう少し続きます。
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高浜の白菊酒造の広瀬専務さんのお話しでした。
テーマは「石岡の歴史と酒つくり?」
私の撮った写真と記事が一部使っていただいたので、楽しみに行ってきました。
専務さんはまだ若い。肌のつやも素晴らしい。
素敵な酒造りのDVDは良かったね。これからもがんばって下さいね。
あっ、それから石岡の歴史や府中六井の説明は中途半端でした。
まだ自分のものにこなされていません。
若いのでこれから益々良いお仕事を期待しています。
さて、親鸞聖人の二十四輩の寺を少し紹介してきたので、続けて他の寺も少しだけ紹介します。
親鸞聖人の弟子二十四輩の二十二番と二十三番は共に「唯信房」と言います。
二十二番は「戸森の唯信」で二十三番は「幡谷の唯信」と呼ばれています。
まずは二十三番の唯信房の寺である水戸の歴史観近くにある「信願寺」です。
この唯信は「幡谷(はたや)の唯信(ゆいしん)」です。
幡谷と言うのは石岡の近く小川町入口にある幡谷のことです。

水戸の歴史観のすぐ隣のようなところです。
この寺には、創建は貞永元年(1232)に幡谷に創建され、延宝9年(1681)に現在地に移ってきました。
本尊の鍍金仏は鎌倉時代に制作されたと推定される仏像で像高46.7㎝、銅造、鍍金、長野善光寺本尊を模した善光寺式像の中尊とされ昭和29年に茨城県指定重要文化財に指定されています。(茨城県水戸市観光・旅行見所ナビより)

ここにおかれている親鸞像は他のものと少し違います。
親鸞は罪人として流された越後国より、罪を許されたのちに常陸国にて布教活動を行いました。
この像は親鸞と妻の惠信尼、息子の信蓮房(明信)という家族の銅像です。
越後から常陸へと旅をして来た、親鸞一家の姿として描いています。

しかしこの像の下には次のように書かれた銅板が取り付けられています。
「むかし野に聖あり。公家をすてて仏道をもとめる。
山上に心月を仰がれずして、救いを慈悲の精舎に祈る。
生と死のいづべき道をききて、俗と僧をこえて凡人となる。
暴力には、慈悲の心をもて向う。
心暗きものに智恵の道を示す。
乏しきに交わりて心豊かに、力なき人民とともに生きる。
その心太陽のごとく、そのあたたかさ、母のごとし。
悪しき心の性を人に見づして、自からの暗の深きを恥じ入る。
その子に背かれ妻に別れ、市辺の一隅にあって真実を書く。
濁り多き世に生きる。
濁りなき世の来らん日のために、自ら燃えつくした人。
野の聖、親鸞という。
京都山科にて。高下恵証。」
親鸞は越後で妻「恵信尼(えしんに)」と結婚し、4男3女をもうけた。
息子信蓮房は越後で生まれ、常陸国に来た時は3歳くらいだっと思われます。
今日は時間がないので明日にもう少し続きます。


二人の唯信房(2)-幡谷の唯信(2)
昨日の続きです。
今紹介している水戸の歴史館横にある「信願寺」を訪ねてみようと思ったのは、この寺の開祖が「幡谷の唯信」とされていて、この幡谷に興味を持ったこと、また昨日紹介した親鸞の家族を表した像があることを知ったからなのです。
親鸞は40歳で越後での法難から解放され、常陸にやってきたのは42歳の時だと言われています。
越後で妻を持ち、妻と幼子を連れて京には戻らず、常陸国に何を求めてやってきたのでしょうか。
師法然は親鸞より40歳も年上。
常陸国の布教の中心となったのは稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。(西念寺:以前の紹介記事はこちら)
この場所で浄土真宗の聖典になる「教行信証」を表したと言われており、弟子といわれる人も70人近くにのぼったそうです。
そして20年にわたる常陸国での布教活動を弟子たちにゆだね、京にもどったのは62歳の頃です。
しかし関東に残した弟子たちが流布する親鸞の教えが少しずつ自分の考えと離れ始めていきます。
そこで自分の長男の「善鸞」を遣わせて正しい道を伝えようとしますが、常陸国にやってきた善鸞は、なかなか言うことを聞いてくれないので親鸞からの全権をまかされたと流布します。
そこで、親鸞84歳?の時になくなく長男「善鸞」を義絶(親子の縁を切る)したのです。
親鸞は京での身の回りの事は一番下の娘が付き添っており、90歳で亡くなったとされていますが、この善鸞を義絶した事を知った弟子たちが親鸞の元に駆け付けます。
そして親鸞から関東での異説のどこがいけないのかの教えを受けます。
その弟子の中の一人唯円がこの親鸞の教えとして「歎異抄」を書いたのは親鸞没後30年くらい経った頃と言われています。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは昔、中学の頃「反語」が好きな若い国語の先生からたっぷりと聞かされました。
「0=∞(無限大)」などと言うのも良く言っていたのを思い出します。
この歎異抄の有名な文言は知っているが、この歎異抄が書かれた背景などはよく知らなかった。
「異説をなげく」と言うことなのですね。
こんなことを知ると、もう少し知りたくなってくる。 困ったものだな。

さて、この水戸の信願寺は幡谷(はたや)の唯信(ゆいしん)が旧小川町(現小美玉市)の幡谷に建てた後に、数か所を転々として現在地に1681年と言うので江戸の初期になります。
幡谷の唯信は鎌倉時代に幡谷城の城主であったのではないかという武士だったそうです。
名前は幡谷信勝。
現在水戸の「信願寺」以外に日立市金沢町にある「覚念寺」の2か所がこの唯信の寺だと言われています。
こちらの覚念寺に伝わる唯信は那珂郡小瀬(現常陸大宮市)に覚念寺を建て、1600年に日立市に移ったとされ、佐々木四郎高綱(宇多天皇から源氏姓をもらう)の三男、左衛門尉源高重という武士であったと伝えています。
所変われば内容も随分違います。
さて、話を戻して幡谷という名前が気になっています。
これは小川町の幡谷地区で、この近くには親鸞の通過した記録と言うようなものがたくさん残されています。
特に「喜八阿弥陀」(私のHPに書いたのはこちら)には親鸞直筆の絵画三幅が残されています。
前に記事を書いた時はこの絵も信憑性に疑問があると思いましたが、この時代にこの幡谷の唯信がこの地で布教し、親鸞も鉾田方面の幽霊図で有名な「無量寿寺(記事1、記事2)」にも何度も足を運んだことはわかっています。
その時にはこの道を何度も通ったのかもしれません。
この近くにこの喜八阿弥陀堂の「長島喜八」さんの奥さんが難産で死亡した時に怨念となって現われた幽霊を鎮めた経塚(こちら)も残っています。
親鸞が暮らした稲田の草庵(西念寺)(こちら)からこの地を通り鹿島などへ何度も通った道なのでしょう。

(クリックで拡大します)
これらの関係が今までわからなかったのですが、あまりにも知られていないのがとても不思議です。
幡谷というと今では茨城県信用金庫(けんしん)生みの親が幡谷氏であり、小川町の町長時代に百里基地を誘致し、いまはその半分が茨城空港ができています。
空港の一角にこの幡谷氏の銅像が建てられています。
また、幡谷城についてはまだよくわかっておらず、鎌倉時代に幡谷氏が治めていたが、小川城(園部氏)の支城となり、戦国末期には最初は味方であった石岡の大掾氏とも敵見方となり争い、天正18年(1590)に佐竹氏に皆滅ぼされたのだろう。
今紹介している水戸の歴史館横にある「信願寺」を訪ねてみようと思ったのは、この寺の開祖が「幡谷の唯信」とされていて、この幡谷に興味を持ったこと、また昨日紹介した親鸞の家族を表した像があることを知ったからなのです。
親鸞は40歳で越後での法難から解放され、常陸にやってきたのは42歳の時だと言われています。
越後で妻を持ち、妻と幼子を連れて京には戻らず、常陸国に何を求めてやってきたのでしょうか。
師法然は親鸞より40歳も年上。
常陸国の布教の中心となったのは稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。(西念寺:以前の紹介記事はこちら)
この場所で浄土真宗の聖典になる「教行信証」を表したと言われており、弟子といわれる人も70人近くにのぼったそうです。
そして20年にわたる常陸国での布教活動を弟子たちにゆだね、京にもどったのは62歳の頃です。
しかし関東に残した弟子たちが流布する親鸞の教えが少しずつ自分の考えと離れ始めていきます。
そこで自分の長男の「善鸞」を遣わせて正しい道を伝えようとしますが、常陸国にやってきた善鸞は、なかなか言うことを聞いてくれないので親鸞からの全権をまかされたと流布します。
そこで、親鸞84歳?の時になくなく長男「善鸞」を義絶(親子の縁を切る)したのです。
親鸞は京での身の回りの事は一番下の娘が付き添っており、90歳で亡くなったとされていますが、この善鸞を義絶した事を知った弟子たちが親鸞の元に駆け付けます。
そして親鸞から関東での異説のどこがいけないのかの教えを受けます。
その弟子の中の一人唯円がこの親鸞の教えとして「歎異抄」を書いたのは親鸞没後30年くらい経った頃と言われています。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは昔、中学の頃「反語」が好きな若い国語の先生からたっぷりと聞かされました。
「0=∞(無限大)」などと言うのも良く言っていたのを思い出します。
この歎異抄の有名な文言は知っているが、この歎異抄が書かれた背景などはよく知らなかった。
「異説をなげく」と言うことなのですね。
こんなことを知ると、もう少し知りたくなってくる。 困ったものだな。

さて、この水戸の信願寺は幡谷(はたや)の唯信(ゆいしん)が旧小川町(現小美玉市)の幡谷に建てた後に、数か所を転々として現在地に1681年と言うので江戸の初期になります。
幡谷の唯信は鎌倉時代に幡谷城の城主であったのではないかという武士だったそうです。
名前は幡谷信勝。
現在水戸の「信願寺」以外に日立市金沢町にある「覚念寺」の2か所がこの唯信の寺だと言われています。
こちらの覚念寺に伝わる唯信は那珂郡小瀬(現常陸大宮市)に覚念寺を建て、1600年に日立市に移ったとされ、佐々木四郎高綱(宇多天皇から源氏姓をもらう)の三男、左衛門尉源高重という武士であったと伝えています。
所変われば内容も随分違います。
さて、話を戻して幡谷という名前が気になっています。
これは小川町の幡谷地区で、この近くには親鸞の通過した記録と言うようなものがたくさん残されています。
特に「喜八阿弥陀」(私のHPに書いたのはこちら)には親鸞直筆の絵画三幅が残されています。
前に記事を書いた時はこの絵も信憑性に疑問があると思いましたが、この時代にこの幡谷の唯信がこの地で布教し、親鸞も鉾田方面の幽霊図で有名な「無量寿寺(記事1、記事2)」にも何度も足を運んだことはわかっています。
その時にはこの道を何度も通ったのかもしれません。
この近くにこの喜八阿弥陀堂の「長島喜八」さんの奥さんが難産で死亡した時に怨念となって現われた幽霊を鎮めた経塚(こちら)も残っています。
親鸞が暮らした稲田の草庵(西念寺)(こちら)からこの地を通り鹿島などへ何度も通った道なのでしょう。

(クリックで拡大します)
これらの関係が今までわからなかったのですが、あまりにも知られていないのがとても不思議です。
幡谷というと今では茨城県信用金庫(けんしん)生みの親が幡谷氏であり、小川町の町長時代に百里基地を誘致し、いまはその半分が茨城空港ができています。
空港の一角にこの幡谷氏の銅像が建てられています。
また、幡谷城についてはまだよくわかっておらず、鎌倉時代に幡谷氏が治めていたが、小川城(園部氏)の支城となり、戦国末期には最初は味方であった石岡の大掾氏とも敵見方となり争い、天正18年(1590)に佐竹氏に皆滅ぼされたのだろう。
二人の唯信房(3)-戸森の唯信(1)
親鸞聖人の弟子の唯信のもう一人は、二十四輩の第二十二番「戸森の唯信」と言います。
戸森とも外森または戸守などとも書くようです。
幡谷の唯信(二十三番)を紹介したので、もう一人の唯信に興味を持った。
この二十二番「戸森の唯信」が建てた寺と言うのが笠間市の宍戸駅近くにあった。
「外森山唯信寺」という。
この宍戸という土地は江戸時代には石岡と同じく松平氏の藩(1万石)があり、殿様は江戸にいてここには陣屋があった。
その前の時代を考えるにもこの戸森の唯信と言う存在を考えてみるのはとても面白い。
しかし、この宍戸駅周辺のエリアが国道50号線からも外れ、笠間や友部に行くにも通ることのないデルタ型のエリアになっており、石岡に住む私などは近いのに全く行ったことがない。
これから少しずつ調べていけたらいい。

場所は宍戸駅の北側で北山公園の南側である。
この唯信房は、宍戸の城主宍戸四郎知家の三男、山城守義治だという。
宍戸四郎知家というのは一般に言われている八田知家の事だと思う。
このあたりについては明日にでももう少し調べて書いてみたい。
宍戸の歴史が見えてきそうだ。

ここはしだれ桜も有名らしい。また春にでも来てみよう。
前にブロ友のtroyさんが書いていたのを思い出した。


ここにある親鸞像は「お旅立ちお姿」となっています。

この唯信寺は最初に奥州外森に建てられたというが、この場所が良くわからない。
この時代に奥州というのは東北地方ではなく、常陸国の北部であるようだ。
しかし久慈郡にはそれらしき地名が見当たらない。

少し調べてみると、やはり戸森の唯信などといわずに宍戸の唯信と言ってくれた方がわかりやすい。

寺に書かれていたものだが、もう少し知りたいので明日にまた続きを書きます。
戸森とも外森または戸守などとも書くようです。
幡谷の唯信(二十三番)を紹介したので、もう一人の唯信に興味を持った。
この二十二番「戸森の唯信」が建てた寺と言うのが笠間市の宍戸駅近くにあった。
「外森山唯信寺」という。
この宍戸という土地は江戸時代には石岡と同じく松平氏の藩(1万石)があり、殿様は江戸にいてここには陣屋があった。
その前の時代を考えるにもこの戸森の唯信と言う存在を考えてみるのはとても面白い。
しかし、この宍戸駅周辺のエリアが国道50号線からも外れ、笠間や友部に行くにも通ることのないデルタ型のエリアになっており、石岡に住む私などは近いのに全く行ったことがない。
これから少しずつ調べていけたらいい。

場所は宍戸駅の北側で北山公園の南側である。
この唯信房は、宍戸の城主宍戸四郎知家の三男、山城守義治だという。
宍戸四郎知家というのは一般に言われている八田知家の事だと思う。
このあたりについては明日にでももう少し調べて書いてみたい。
宍戸の歴史が見えてきそうだ。

ここはしだれ桜も有名らしい。また春にでも来てみよう。
前にブロ友のtroyさんが書いていたのを思い出した。


ここにある親鸞像は「お旅立ちお姿」となっています。

この唯信寺は最初に奥州外森に建てられたというが、この場所が良くわからない。
この時代に奥州というのは東北地方ではなく、常陸国の北部であるようだ。
しかし久慈郡にはそれらしき地名が見当たらない。

少し調べてみると、やはり戸森の唯信などといわずに宍戸の唯信と言ってくれた方がわかりやすい。

寺に書かれていたものだが、もう少し知りたいので明日にまた続きを書きます。
二人の唯信房(4)-戸森の唯信(2)
戸森の唯信(親鸞弟子二十四輩の二十二番)について調べた内容を書いています。
この唯信は、宍戸四郎知家の三男山城守義治だといいます。
前に小田城跡の小田氏・八田氏の事を書きました(こちら)
また北条散歩では八田氏(八田知家)の事も書きました(こちら)
この常陸国守護であった八田知家が宍戸に移って宍戸氏を名乗り宍戸氏が始まったのです。
富士の麓で繰り広げられた曽我兄弟の仇討事件。これにまつわり、源頼朝の重鎮でもあった八田知家が常陸大掾職(当時は今のつくば市北条の多気城に住んでいた多気(平)大掾こと多気太郎を陥れ、大掾氏(平・多気)氏が滅び、大掾職がこの小田氏系列の八田知家に渡っていたかもしれない状況だったのです。
実際は水戸の吉田氏(馬場氏)が大掾職に就きました。

この八田知家の三男がこの戸森の唯信だと言うのです。
この時代に若くして親鸞を訪ね、その教えに従っていつも付いて回っていたようです。
弟子となったのは22歳だというので、他のお弟子さんよりはかなり若いです。
そして、常陸国の北の奥の方まで布教に訪れます。(76歳で亡くなった)
そんな奥州の外森(戸森)に布教のための道場のようなこの唯信寺を建立したのです。
でもこの外森(戸森)が何処なのかは判明していないようです。

上の写真はスタジイの古木。推定樹齢500年です。
小田氏、八田氏、宍戸氏はみな同族ですが、新善光寺を信仰していました。
日本最古の仏像と言う長野の善光寺仏(三尊)を信仰していたと思われます。
石岡の善光寺のもうその屋根が崩れそうになった本堂の裏手に小田氏の五輪塔がずらりと並んでいます。
石岡ではこれをあまり大事にしません。
楼門のみが文化財として指定され、歴史が泣いているように思います。
宍戸にあった新善光寺は宍戸知家の子供が建立したとされ、この信仰がかなり厚かったが、宍戸氏が佐竹氏の傘下に組みせられて、海老ヶ島城(筑西市)に移されたときにこの新善光寺も移されています。
新善光寺信仰とこの親鸞の教えが当時どのような関係にあったかは知りませんが、興味を引きます。

鐘楼

さて、この唯信寺の隣に「光明寺」という浄土宗の寺がありました。
唯信寺とは隣り合っていて一帯のような感じです。
こちらの寺も入口にしだれ桜が植えられています。


この唯信は、宍戸四郎知家の三男山城守義治だといいます。
前に小田城跡の小田氏・八田氏の事を書きました(こちら)
また北条散歩では八田氏(八田知家)の事も書きました(こちら)
この常陸国守護であった八田知家が宍戸に移って宍戸氏を名乗り宍戸氏が始まったのです。
富士の麓で繰り広げられた曽我兄弟の仇討事件。これにまつわり、源頼朝の重鎮でもあった八田知家が常陸大掾職(当時は今のつくば市北条の多気城に住んでいた多気(平)大掾こと多気太郎を陥れ、大掾氏(平・多気)氏が滅び、大掾職がこの小田氏系列の八田知家に渡っていたかもしれない状況だったのです。
実際は水戸の吉田氏(馬場氏)が大掾職に就きました。

この八田知家の三男がこの戸森の唯信だと言うのです。
この時代に若くして親鸞を訪ね、その教えに従っていつも付いて回っていたようです。
弟子となったのは22歳だというので、他のお弟子さんよりはかなり若いです。
そして、常陸国の北の奥の方まで布教に訪れます。(76歳で亡くなった)
そんな奥州の外森(戸森)に布教のための道場のようなこの唯信寺を建立したのです。
でもこの外森(戸森)が何処なのかは判明していないようです。

上の写真はスタジイの古木。推定樹齢500年です。
小田氏、八田氏、宍戸氏はみな同族ですが、新善光寺を信仰していました。
日本最古の仏像と言う長野の善光寺仏(三尊)を信仰していたと思われます。
石岡の善光寺のもうその屋根が崩れそうになった本堂の裏手に小田氏の五輪塔がずらりと並んでいます。
石岡ではこれをあまり大事にしません。
楼門のみが文化財として指定され、歴史が泣いているように思います。
宍戸にあった新善光寺は宍戸知家の子供が建立したとされ、この信仰がかなり厚かったが、宍戸氏が佐竹氏の傘下に組みせられて、海老ヶ島城(筑西市)に移されたときにこの新善光寺も移されています。
新善光寺信仰とこの親鸞の教えが当時どのような関係にあったかは知りませんが、興味を引きます。

鐘楼

さて、この唯信寺の隣に「光明寺」という浄土宗の寺がありました。
唯信寺とは隣り合っていて一帯のような感じです。
こちらの寺も入口にしだれ桜が植えられています。


法龍寺-親鸞の孫「如信」が没した地
昨日紹介した旧上岡小学校から国道461号線(黒羽街道)を馬頭(那珂川町)や栃木県大田原市方面に1~2km程進んだところの旧道沿いに「法龍寺」がある。
この地が親鸞聖人の初孫である如信(にょしん)上人が入滅した場所だと知ってやってきました。
親鸞は1211年に越後での流罪から放免され、3年後の1214年に東国布教に旅立ちました。
善光寺や上野国などを経て、常陸国下妻市小島で草庵を結び、1216年には大山草庵、その後稲田の草庵で布教活動をしています。(親鸞と茨城の記事参照 → こちら)
そして約20年間の東国布教活動を弟子に任せて京に戻ったのは親鸞62~63歳頃だと言います。
しかし、東国では親鸞の教えが必ずしも正確には伝わらず、徐々にその考えから離れていきます。
これを嘆き、自分の直系である長男の善鸞と孫の如信を東国に派遣します。(1253年)
しかし、善鸞は親鸞の考えと違う東国の考え方に染まってしまい、とうとう親鸞は我が子である善鸞を絶縁し自分の正当な継承者から外してしまいました。(1256年)
(歎異抄は後に弟子が親鸞の教えをまとめた書物で、異教を嘆くという意味でしょう)
そのため孫の如信(当時如信はまだ21歳頃?)が親鸞の教えを正式に継承する事なりました。
この如信は常陸国よりさらに北へ布教を広げます。そして陸奥国大網(現、福島県石川郡古殿町)の草庵を拠点にかなり大きな布教集団を持つようになります。
この大網の草庵はその後「願入寺」となり茨城県の大洗に移っています。

この茨城県大子町上金沢の「法龍寺」は如信が布教の時にここに「太子堂」を建立しました。
その後を門弟の乗善房が引き継ぎ布教活動をしていました。

如信は親鸞の跡を継いだため、廟処である京都の吉水の北辺「大谷廟堂」(大谷本願寺跡)を継承していたがこちらは親鸞の末娘である覚信尼とその子覚恵に任せて、この北の地で布教活動を続けていました。
そして、この女性2人は何度も如信に京都に戻ってくれるように懇願していたと言います。
しかし、如信はこれを受け入れず、そのまま常陸国や陸奥国に残っていました。
そして年に1度の法要などで京に戻って来ていたようです。
そして1299年に報恩講のため如信は京都に戻る途中で乗善房にこわれて、この太子堂に立寄ります。
しばらく逗留して布教活動をしていたのですが翌年の1月4日に病のためこの地で急死してしまったのです。
年は66歳でした。

さて、親鸞の正当な継承者であった如信が急死したため、その跡を継ぐ人の指名がなされませんでした。
しかし、覚恵の子である覚如(かくにょ)が「大谷廟堂」を寺院化して「本願寺」(大谷本願寺)とし(1321年)、親鸞、如信、覚如と継承されていきます。
しかしこのあと東西に分裂してしまいます。
この(大谷)本願寺も1465年に比叡山の僧兵によって破却されてしまいます。

「榧(かや)」樹齢約720年。
如信がここに太子堂を建てた時(1289年)に自ら植えたものと言われているそうです。

こちらはカヤの隣にあるイチョウの木。
如信の13回忌法要の時に覚如が植えたものとのこと。


(銀杏の木)

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この地が親鸞聖人の初孫である如信(にょしん)上人が入滅した場所だと知ってやってきました。
親鸞は1211年に越後での流罪から放免され、3年後の1214年に東国布教に旅立ちました。
善光寺や上野国などを経て、常陸国下妻市小島で草庵を結び、1216年には大山草庵、その後稲田の草庵で布教活動をしています。(親鸞と茨城の記事参照 → こちら)
そして約20年間の東国布教活動を弟子に任せて京に戻ったのは親鸞62~63歳頃だと言います。
しかし、東国では親鸞の教えが必ずしも正確には伝わらず、徐々にその考えから離れていきます。
これを嘆き、自分の直系である長男の善鸞と孫の如信を東国に派遣します。(1253年)
しかし、善鸞は親鸞の考えと違う東国の考え方に染まってしまい、とうとう親鸞は我が子である善鸞を絶縁し自分の正当な継承者から外してしまいました。(1256年)
(歎異抄は後に弟子が親鸞の教えをまとめた書物で、異教を嘆くという意味でしょう)
そのため孫の如信(当時如信はまだ21歳頃?)が親鸞の教えを正式に継承する事なりました。
この如信は常陸国よりさらに北へ布教を広げます。そして陸奥国大網(現、福島県石川郡古殿町)の草庵を拠点にかなり大きな布教集団を持つようになります。
この大網の草庵はその後「願入寺」となり茨城県の大洗に移っています。

この茨城県大子町上金沢の「法龍寺」は如信が布教の時にここに「太子堂」を建立しました。
その後を門弟の乗善房が引き継ぎ布教活動をしていました。

如信は親鸞の跡を継いだため、廟処である京都の吉水の北辺「大谷廟堂」(大谷本願寺跡)を継承していたがこちらは親鸞の末娘である覚信尼とその子覚恵に任せて、この北の地で布教活動を続けていました。
そして、この女性2人は何度も如信に京都に戻ってくれるように懇願していたと言います。
しかし、如信はこれを受け入れず、そのまま常陸国や陸奥国に残っていました。
そして年に1度の法要などで京に戻って来ていたようです。
そして1299年に報恩講のため如信は京都に戻る途中で乗善房にこわれて、この太子堂に立寄ります。
しばらく逗留して布教活動をしていたのですが翌年の1月4日に病のためこの地で急死してしまったのです。
年は66歳でした。

さて、親鸞の正当な継承者であった如信が急死したため、その跡を継ぐ人の指名がなされませんでした。
しかし、覚恵の子である覚如(かくにょ)が「大谷廟堂」を寺院化して「本願寺」(大谷本願寺)とし(1321年)、親鸞、如信、覚如と継承されていきます。
しかしこのあと東西に分裂してしまいます。
この(大谷)本願寺も1465年に比叡山の僧兵によって破却されてしまいます。

「榧(かや)」樹齢約720年。
如信がここに太子堂を建てた時(1289年)に自ら植えたものと言われているそうです。

こちらはカヤの隣にあるイチョウの木。
如信の13回忌法要の時に覚如が植えたものとのこと。


(銀杏の木)


