親鸞750回忌

 来年は親鸞聖人の750回忌にあたり、東本願寺、西本願寺のそれぞれの会派で、記念の
法要行事が始まっている。
また各地で親鸞展などが企画され一大イベントが行われようとしている。
親鸞聖人の関東での布教についてはまだ未知なことも多く、知られていない事も多い。
石岡にも親鸞聖人ゆかりの史跡や寺が多くある。
私もこの地に来るまで、親鸞の関東での布教活動などについて何も知らなかった。
もう少し声を大にしていろいろなところで宣伝がなされても良いように思う。

市としても親鸞展や旧跡を回る企画ツアーなどを是非やってほしいものだと
今年の春に市長さんあてのメールで提案したが、お返事すらいただけていない。
正岡子規の万屋跡の碑も提案して7カ月以上経ってしまった。
そしてとうとうNHKの「坂の上の雲」は2年目の幕が上がってしまった。
子規は病気で死んでしまう(1902年)ので時間がない。
日露戦争は1904年だから、この話は子規が無くなった後も続く。
来年も続くが子規はもういない。虚しさのみがこみ上げてくる。

大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の看板はいいですね。

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この看板のおかげで、その内容を調べてさらに興味が深まります。
しかし、一般に観光客はお寺と、そこの京都桂離宮を模した庭園「裏見なしの庭」を巡って帰っていきます。
親鸞の時代は鎌倉幕府の始まりの頃です。
一時親鸞は架空の人物ではないかとの学会論争が起こったといいます。
それ程直筆の書物などが残っていないようです。

大覚寺のすぐ横の「弁円懺悔の地」や板敷峠の「弁円護摩壇跡」などを訪れる人はほとんどいないというのも不思議な気もします。
史跡としての整備がなされていないためかもしれません。
またこの「法難の遺跡」の看板だけでは人が理解できていないのかもしれませんね。
続きはまた明日とします。
今日は東京でまた大学時代の仲間と飲み会です。
仲間は6人程ですが、大会社の副社長や役員、また大学の教授などおり、私は全くの落ちこぼれ組。
でも必ず毎年参加しています。
これからの第2、第3の人生をどう生きるのかを少しですが考えていければ充実した日々が送れる
と思っています。
 

親鸞と茨城 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2010/12/04 15:30

親鸞750回忌(2)

 昨日は大覚寺の「親鸞聖人法難の遺跡」の立て札について書きだしたので、今日はその続きです。
親鸞は師法然と共に都での布教が危険とみなされ都を追放となり、法然は四国、親鸞は越後で流人生活をおくり、やっと都へ戻ることが許されたのですが、親鸞はすぐには戻らず、関東での布教活動を行いました。
その拠点となったのが稲田(現笠間市稲田)の草庵でした。

 しかしこの地方には山にこもって修業をして信者を集めていた山伏達がいたのです。
その山伏の長であった弁円は日増しに名声が高まっていく親鸞を妬ましく思い、板敷峠のすぐ上に「護摩壇」を焚いて呪い殺そうとします。そして、この峠を越えて府中(石岡)から鹿島神宮の方によく親鸞が通っていたのを待ち伏せしました。
しかし、待てど暮らせど親鸞がやってこないので、仲間を集めて稲田の草庵へ押しかけました。
殺そうと思ってやってきた弁円を優しく諭した親鸞のその教えと人柄に弁円は会心し、親鸞の弟子となります。この事件が法難です。

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大覚寺の門をくぐると右側に大きな石岡市指定保存樹「ヤブツバキ」と説明看板があります。
そのすぐ左に石で組まれた囲いとすぐ近くに古木が天板を置いた状態で保存されています。
そこには「親鸞聖人説法石、天蓋樹」の石碑が置かれています。
親鸞上人はこの石に腰かけて、辻説法などをしていたのでしょうか。説明はなにもありません。

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ここ大覚寺を過ぎて車の通る街道を少し登ったところに「史跡板敷山」の看板です。この看板は茨城県教育長の銘が入っています。
この看板のある手前を右に山へ入る道があります。
これが昔の板敷峠を越える道でした。しかし、この道は整備が不備で藪を漕がねば進めません。
しかし入口の横から左の山の中に入れば道は比較的整備され、板敷山の頂上へ続いています。

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先ほどの旧道を少し進むと1分ほどで開けた広場のようなところにでます。
この広場には「山伏弁円懺悔の地」の石碑が建っています。

歌:「山も山 道も昔にかわらねど 変わり果てたるわが心かな」

これは弁円が親鸞の弟子となり、各地を布教して歩いていて、この場所を通った時、昔ここで師と仰ぐ親鸞に危害を加えようとしたことを悔い、懺悔をしたといわれています。

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板敷山にはこの弁円の「護摩壇跡」が残されています。
ここには下から登ることもできますが、現国道の峠を越えた所から右側に山へ上る道があります。
車も入ることができますので一度訪れてみてください。旧道には大きな「板敷峠」の碑もあり、わかりやすいと思います。またそこから山の尾根へ続く道にでれますので登ると八郷の町や加波山の山並みなどが素晴らしい景色が広がります。
この道はハングライダーの車が結構とおりますので、ライダーの人だけに景色を占領されるのももったいないほどです。

親鸞と茨城 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2010/12/05 18:24

親鸞750回忌(3)

 さて、今日は昨日の山伏弁円についてもう少し調べてみました。
弁円についても生まれなどはいくつかの説があるようです。
幼い時に三井寺(滋賀県大津市)にはいり播磨坊弁円と称したとされ、平清盛の孫で平家滅亡の時に四国伊予に落ち延びてとする説があるといいます。
はっきりしたことは不明ですが、この播磨坊弁円を常陸太田に居を構えていた佐竹秀義が招き、塔の尾(現在の常陸大宮市東野)に祈願所法徳院を構え、山伏など修験者約800人が集まっていたというからかなり大きな道場があったとされます。
弁円が親鸞を襲ったのは親鸞49歳、弁円42歳の時です。
 弁円は親鸞の弟子となり「明法房」の名前をもらいます。
親鸞には24人の弟子がおり、24輩と呼ばれています。明法房は19番です。
嘉禄二年(1226)明法房は楢原山法徳院法専寺を創建し、建長三年(1251)73歳で往生して旧法徳院跡地に葬られました。現地には「明法房の塚」として碑が建っています。

明法房が読んだ歌として、昨日の懺悔の時の歌ともう一つが知られていますので載せておきます。
  
   あだとなりし 弓矢も今は 引きかえて 西に入るさの 山の端の月

さて、明法房が創建した寺(第19番)は額田の上宮寺とされています。
上宮寺は明法房が69歳の時に建てたが、これを明教房に譲り、思い出の石岡の真家村に一宇を建て、明法房の明と弁円の円の字をとって「明円寺」としたとされる。

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この明円寺は弁円の寺であるが、他の2つの寺に比べあまり知られていない。
市でももう少しPRした方が良いと思う。

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真家のお盆祭りである「みたまおどり」は平安時代から伝わるもとして知られるようになってきたが、現在は8月15日の朝、この明円寺から始まる。
現在の明円寺は昔はもっと山の上の方にあったが、津波に流されて下の方に建て直され、また火災にもあったとされます。

また明法房が亡くなったことを聞いた親鸞は「かえすがえすもうれしそうろう」と手紙に残されたという。
親鸞の教えが少しわかるようなエピソードです。
 

親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/06 21:45

親鸞750回忌(4)

 さて、来年が親鸞の750回忌ということで、本願寺派などでは大々的な行事が行われようとしている。
今春(5~6月)に五木寛之氏の「親鸞(上巻)」が電子書籍として無料公開された。
電子書籍元年といわれるように話題もあってかなりのアクセスがあったという。
私も試してみた。上巻のみの公開であったので、比叡山を下りる時までを描いており、それなりに面白かった。
しかし、下巻は買わねばならず読んでいない。
上巻の流れは面白かったが、何か読んでいて物足りなかった。
親鸞を人間くさく描くとこうなってしまうのかもしれない。

 今日は昨日の続きということで、親鸞のかかわったとされる話を2つ紹介します。
一つは石岡市高浜にある「爪書阿弥陀堂」である。

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話は、親鸞が高浜の岸から霞ケ浦を舟に乗り、鹿島神宮へよく通っていた時の話です。
この地に「腫れもの」で悩む一人の男がおり、親鸞が介抱すると腫れものもなくなり、痛みも無くなってしまった。
感激した男が、親鸞に未来の禍いも取り除いてほしいと懇願すると、「庭の石には阿弥陀如来が宿っているので、それを信心するが良い」と言って去って行った。

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男が庭石を調べてみると、うっすらと爪で書かれた阿弥陀如来の姿が浮き彫りになっていた。
これを、阿弥陀堂を建立して代々守ってきたというのである。

もう一つは小美玉市にある「喜八阿弥陀」と「経塚」である。

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さて、こちらの話は与沢地区に住む豪族の長島喜八の妻が三人目の子をみごもった時、難産のために亡くなってしまったのです。
そしてその妻が夜な夜な枕元に現れ夜も寝れれなくなったという。
この時に近くを通りかかった親鸞上人をお招きして、亡き妻の霊を静めてもらった。
妻の霊を静めた場所が経塚として残され、長嶋家には親鸞の書いたとされる絵画が三幅残されている。

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この絵画は県指定の有形文化財とされ、今でも長嶋家個人の所有となっている。
さて、真贋の程ははかりかねるのだが、ほんとうであれば、個人の所有は如何なものかと思いますね。

二つの話は似ているようだがかなり違う。高浜は「腫れもの」であり、キリスト教などにも出てくるライ病を連想させる。
腫れ物と言えば、小町伝説で、石岡の北向観音にお参りした時の病も腫れ物だったように思う。
一方喜八の方は妻の亡霊である。これは親鸞が幽霊を静めるのに長い間通い詰めたとされる鉾田市にある「無量寿寺」とも関係があるのかもしれない。
この寺には「幽霊図」があるという。
しかし、長嶋家はこの地の豪族であるというのも何か解せない。

ともかく、与沢は石岡と鹿島方面の海とを結ぶ街道の拠点であった。
塩が運ばれた道でもあったという。
このような見方をしてふるさとも見てみると違って見えてきます。
また参考までに脚本家白井啓治氏の「塩の道余話」を読んでみてください。
とても面白いです。ふるさとを見直してみたいですね。
この話に出てくる倉数の「潮宮神社」は与沢から少し行ったところにあります。
古木が根をむき出しにし、傾きながら聳えている姿はとても不思議な景色です。
一度見てみてください。このような場所を私は他には知りません。

 

親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2010/12/07 20:19

親鸞750回忌(5)

 さあ、親鸞聖人の750回忌が来年に迫っている。
これだけ続けて関連事を書けば少しは記憶の残るかもしれない。
関東には24輩という弟子が建てた寺があるが、天台宗などに比べどこも派手さはない。
今日は、このテーマを最後にするが、石岡にこの24輩の第四番 乗然房領海の建てた「如来寺」がある。
場所は柿岡の市内中心部に近い。

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写真で見たとおり古ぼけた山門が残されている。
この如来寺には聖徳太子の浮足の像という木像が残されていて、親鸞は師としては法然と聖徳太子を崇拝していたという。
もともと自ら宗派を興すつもりもなかったというが、後に弟子たちが宗派を興し、またいろいろな会派が
できているという。

注目すべきは、この如来寺は元は霞ケ浦湖畔の美浦村木原にあったという。霞ケ浦からは光り輝く如来様などがみつかったという言い伝えなどがいくつか残されており、ここにも似た伝えがあるという。
美浦村木原は現在のテキサスインスツルメントがある場所に近い。
また、面白いことに石岡では「茨城」のなまえの起こりとなったとされる「黒坂命(くろさかのみこと)」が、北の方(十王町)まで攻めていき竪破山(たつわれさん)で亡くなり、黒前神社に祀られているが、「死んだら霞ケ浦の見える美浦の地へ葬ってほしい」と言い残していたため、遺体は「輪轜車」(霊柩車)で黒前山から美浦に運ばれたという。(美浦村に残された話)
葬送は赤や青などの旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼んだ。
後に美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったというのである。
黒坂命の墓とされる古墳が大塚地区にあり、弁天塚古墳と呼ばれる。

木原-大塚-陸平(貝塚)などと続いており、古代が意外な形でつながっていますね。
信太小太郎伝説なども残されています。
これには平将門の子供がここで生まれたとする話などが残っているのも面白いですね。

さて、親鸞の草庵は小島と稲田が有名ですが、もう少し北の方(城里)に「大山草庵」があったという。
あまり訪れる人は少ないようですが「阿波山上神社」の入口に碑が建っています。
 
城里の地には手前に悪路王(アテルイ)の面(首)が残されているという鹿島神社もあります。
 

親鸞と茨城 | コメント(1) | トラックバック(0) | 2010/12/08 20:06

西念寺(親鸞稲田草庵跡)

 今年は親鸞聖人の750回忌で、昨年に石岡周辺を紹介(こちら)しましたが、肝心の浄土真宗発祥の地といわれる「稲田草庵跡」にいっておりませんでしたので、今回紹介します。

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場所は笠間市稲田の西念寺です。山門には「浄土真宗別格本山」となっています。

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なかなか趣のある山門です。

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西念寺です。

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稲田御幽楼

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「幽楼」に書かれていた額。親鸞聖人がこの地に来た理由が書かれています。

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「弁円回心の所」

山伏弁円が危害を加えようと待ち構えていた板敷山に親鸞は現れず、とうとうこの稲田の草庵に押しかけました。
しかし聖人の穏やかな態度にたちどころに回心した場所というわけです。
これは前に石岡の大覚寺の近くの「弁円懺悔の地」でも紹介しました。

弁円詠歌

 「あだとなりし弓矢も今は投げ捨てて 西に入るさの山の端の月」

 「山もやま道も昔に変らねど 変わりはてたるわがこころかな」

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銀杏の古木(親鸞が植えたといわれる「お葉つき銀杏」)が年月を物語っています。

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「御杖杉」です。

「建暦二年の春 親鸞聖人越後の国府よりこの稲田に御来入あり。
南方に聳ゆる山々の景色を眺めさせられ、救世菩薩の夢告を受けたるはこの地なり。
草庵を結びて衆生化益の宿願を達せばやと 御杖杉を深く差し給いしところ 不思議にも根芽を生じ大木となれり。
明治4年 本堂焼失のとき類焼したるは惜しむべきことなり」

水戸光圀公詠歌

 「老いの身のこれぞ力のしるしとぞ つきとめにけり庭の杖すぎ」

光顔院講師詠歌

 「古の夢のゆかりを今此処に 思いつきたる杉の木の杖」

親鸞の関東布教の中心であったこの稲田草庵。
この地で浄土真宗の教本「教行信証」を作成したと言われています。
鎌倉前期。稲田九郎頼重の招きでこの地に来たと言われています。
稲田草庵はその後しばらく念仏道場となっていたが、数十年後に寺院となった。
また、宇都宮氏六代当主の宇都宮泰綱の遺命により西念寺と寺号を定めたといいます。

草庵はこの他に、小島草庵(下妻市)、大山草庵(城里町)があります。


 

親鸞と茨城 | コメント(16) | トラックバック(0) | 2011/09/20 06:48

大覚寺(だいがくじ)-親鸞聖人法難の遺跡

 親鸞聖人の稲田の草庵のあった場所(現:西念寺)を紹介しましたが、途中で同じく関連の石岡市にある「大覚寺(だいがくじ)」に立ち寄りましたので少し紹介します。
ここは前にも紹介しています。

ここの寺は、山伏弁円(後の明法房)が親鸞に危害を加えようとしたが、回心し弟子となったことを「法難」と呼び、その事実を残し伝えるためにこの地に建てられたものだと思います。

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大覚寺の白壁と桜の古木。

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大覚寺遠景。この寺は「板敷山」の麓に建てられた。この入口の遠景が好きだ。

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外から見える寺の鐘楼(梵鐘)

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入口の山門は「横 唐門?」良くわからないが、いい形をしている。

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山門をくぐると右側に「親鸞聖人の説法石」と「天蓋樹とよばれたクスの古樹」がある。

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この大覚寺手前の大増地区からは「加波山」「足尾山」の連山がきれいに見える。山の上に風力発電の風車が2基まわっている。
刈りとり寸前の稲穂がきれいだ。(9月14日撮影)

大覚寺の庭園は有名で、一度は訪れてほしいところですので、明日につづきをのせます。
 
 

親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/09/20 19:26

大覚寺(2)-庭園

 今日は昨日の続きで、石岡市のはずれ親鸞ゆかりの大覚寺の庭園です。
この庭園は京都の桂離宮を模して造られたものです。
「裏見なしの庭」とよばれ、回遊式庭園の様式をとり、どの角度から見ても裏がなく、どこから見ても表ばかりだというわけです。

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この庭園の特徴は一見すると純和風の庭園だと思いますが、まちがいです。

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植えられている木が和風ばかりではなく、南国風の木が植えられていたりするのです。
それが見る角度で面白い趣があるのです。

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当然池と草木のアレンジは和風庭園そのものなのですが、見る角度で南国風にもなるのです。

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池の周りをグルリと一周する回遊路は苔むしていい感じです。

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今の時期は萩の花が咲き始め、きれいに池などとマッチしています。

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この辺りからの眺めは、手前は純和風、奥の方は南国風です。

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池の入口木戸は針金を引っ掛けてるだけですので、そこを開けて入ってもよし、また建屋の方に回っていっても良いです。
この建屋の縁側に記帳用紙などがおかれています。
行かれた時はできるだけ記帳して下さいね。


 
 

親鸞と茨城 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/09/21 06:53

無量寿寺(鉾田市)2

 昨日の親鸞の寺「無量寿寺」の続きです。

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親鸞像です。

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この寺の造りは立派ですね。 前回のUPですが載せておきます。屋根の下は龍の彫り物です。

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境内で写真を撮りながら歩いていると、高校生くらいの5~6人くらいが現れ、「こんにちは」と声をかけて行きました。
みなさん袴姿で、お寺で修行していたのでしょうか。
新しくできた鉄筋コンクリートの本堂?に入っていきました。
寺の入口には「11月11日、12日 報恩講(法要)」と書かれていました。
この「報恩講」は浄土真宗ではもっとも大事な行事だといいます。親鸞の教えを報恩するために行なわれる法要で、信者の方が親鸞の教えを授かる日です。
私が行った日は「11月12日(土)です。

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さて、この無量寿寺のすぐ隣に、境界がない地続きの場所にもう一つお寺があります。
「教円寺」と書いてあります。
写真を撮ってから調べて見ると、同じ浄土真宗のお寺で、今はこの前の通りの反対側の丘の上に新しい「教円寺」が建てられているそうです。
そちらには寄りませんでしたので、この旧教円寺は使われていないのかもしれません。

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まわりの生け垣などは手入れされてそれなりに趣のあるお寺でした。

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親鸞と茨城 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/11/19 07:13

阿弥陀寺(額田)と親鸞大山草庵(1)

今日は強風で砂塵や土塵が舞上がり数十メートル先も霞んで見えないような天気でした。
気温も上がり、梅は満開で桜も今年は早く開花するという。

家の庭においていたバケツなどはコロコロと転がって垣根の方に飛んでしまい、時々地震かと思わせるように家が突風で音を立てます。



 さて、越後に追放されていた親鸞は師と仰いでいた法然(讃岐に流罪)とともに許された後、都へは帰らず、関東での布教活動を行うために、常陸国(茨城)にやってきました。

まず下妻市の小島に建保2年(1214)草庵を結び、その2年後の建保4年(1216)に城里町(旧桂村)の大山に草庵を結んだと言われています。

笠間市の稲田に草庵(現西念寺)を結んだのも小島の草庵の少し後のこととされており、あまり詳しいことが分かっていない。

私のいる石岡も大覚寺や高浜の爪書き阿弥陀など関連しているが、これも稲田の草庵との関係が多く、大山草庵などは話題にも上らない。

しかし、石岡からまっすぐ北上して旧桂村にある桂中学校のすぐ脇に「阿波山上神社」があり、その脇に親鸞の大山草庵跡という碑が置かれている。

昔、この地に「阿弥陀寺」があり、この寺が那珂市額田(ぬかだ)に移ったと知って、先日この額田の地を訪れた。

額田も額田王(ぬかだのおおきみ)などとも関係があるかもしれないとされるかなり歴史を持った地であった。
この阿弥陀寺以外にも面白い発見がいくつかあった。
これはまた順に紹介していきたい。

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親鸞の24人の弟子が建てたと言われる二十四輩のここ阿弥陀寺は第十四番である。

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参道を少し行った先に古びた山門が立っている。
2階部分に鐘が置かれている。 

この二十四輩の寺はどこも同じように質素な門を備えている。

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しかし、この門の手前には大きなイチョウの木だろうか。
また門をくぐった境内には立派なしだれ桜が見事だ。

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ここをただの親鸞の弟子が建てた寺だと思ったら、多分何も見えてこないかもしれない。
私は旧桂村の大山あたりを、とても興味深く思って、何度も訪れた。
もう少し調べてみてからこの続きを書いておきたいと思います。


親鸞と茨城 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2013/03/13 21:14
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