fc2ブログ

千葉県の難読地名(1)

 茨城県の難読地名を調査し、調べ上げて1冊の冊子を昨年作成した。
次はこのシリーズはやらないつもり(やれない)であったが、今年になって隣の千葉県に興味が移ってしまった。

茨城は常陸国と言われるが、南西部は下総国でもあった。
また常陸平氏の流れは九十九里浜側からの流れがあり、これらが地名にどのようにかかわっているかを知りたくなった。

そこでどうしても手元に置いておかねばならない角川と平凡社の地名辞書本を手に入れた。

P1060002s.jpg

角川書店本は茨城県、千葉県はほぼ同じ分量で価格も一緒。
それに対し、平凡社(日本歴史地名大系)本は千葉県の方がかなり分量が多い。
また価格も2倍近い。

P1070004s.jpg

茨城県の場合は水戸の地名や地元石岡の地名などの本をかなり調べたりしたが、千葉県はそれはあまりできそうにない。
書いているうちに疑問となったものを後から調べるしかないだろう。
でもこの分量の違いが気になる。

郵便番号簿住所を調べても
茨城県:2849件
千葉県:3587件
と約26%多い

さてどうなりますか。
今年中に終わるでしょうか?
暇にまかせて少しずつやっていきましょう。

こうして正月に目標ができれば今年1年を無事に過ごすことができるでしょう。
それにしても結構高い本だね。もちろん中古ですが・・・・

今はデジタル版アーカイブもあるのだけれど毎月の会費もバカにならない。

千葉の難読地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/01/09 06:45

千葉の難読地名(2) 匝瑳

 茨城の難読地名シリーズが終了して、今年は千葉県をとり上げると正月に宣言したのですが、まだ少しも先に進んでいませんでした。
日本語と縄文語も終りましたので、いよいよ着手してみたいと思います。
郵便番号簿で千葉県の気になる地名を拾い集めたら400ヶ所位になりました。
この中をこれから少しずつピックアップして全国の似た地名も調べながら、纏めて行きたいと思います。
目標は100回くらいになると思いますが、今年中に終るでしょうか?

当然途中でかけなくなることもあると思いますが、もしご興味ありましたら読んでいただければ嬉しく思います。

最初は
「匝瑳」<そうさ> 

千葉難読地名2

まあ読める人にとっては容易いのですが、何の縁もない地方の人にとっては読めない地名の代表でもあります。
銚子市より少し南側に隣接する「匝瑳市」です。
なぜこのような地名になったのでしょうか。

現在の匝瑳市は平成の大合併時に八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併してこの市名になりましたが、元々「匝瑳郡(そうさぐん)」という郡名が平安時代中期の辞書「倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)」(和名抄)の下総国に記載されています。
ただ読み仮名(漢字)はなく、そうの字も少し違います。「迊瑳郡」と書かれています。

市のHPから「匝瑳」地名の謂れを載せて置きます。

「匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調(ようちょう:朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。

匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀(しょくにほんこうき) 」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事(もののべのおごと)という人物が、坂東(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡(さふさごおり)とし、小事の子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられています。
匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。
なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝めぐる”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳あざやか”あるいは“瑳みがく”と読み、あざやかで美しいという意味があります。」

となっています。

また、平安時代の匝瑳郡は、栗山川以北の九十九里浜沿いの平野部一帯で、匝瑳郡の中に18郷があり、その中の「匝瑳郷」が現在の匝瑳市や多古町、栗源町あたりまで含んだ地域であったと思われます。
延喜式に記載された神社名に「老尾神社(おいおじんじゃ)」があります。

また香取神宮の境内には「匝瑳神社」がおかれています。

この香取神宮境内に鎮座している「匝瑳神社」から匝瑳郡匝瑳村大字生尾の老尾神社(別名:匝瑳神社・祭神:阿佐比古命)に分祀されたと伝承されているようです。
また、老尾(おいお)神社の祭神である阿佐比古命は香取神宮の祭神「経津主命」の御子神ともいわれています。

匝瑳神社


また角川の日本地名大辞典には、

・「坂上系図」によれば坂上田村麻呂の子高雄は匝瑳九郎と称した。
・千葉大系図」によれば、千葉常広は匝瑳八郎と称して、下総国匝瑳郡に居住し、その多くの子孫は「匝瑳党」と称した。

という事が書かれています。


千葉の難読地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから


千葉の難読地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/06/05 13:28

千葉の難読地名(3) 黒生

黒生 (銚子市)

地名は 黒生町(くろはいちょう)
海岸は黒生海岸(くろはえかいがん)
駅名:笠上黒生(かさがみくろはえ)

銚子電鉄の駅「笠上黒生」は笠上(かさがみ)町にあるが、その海寄り地域が黒生(くろはい)町であるので、両方の名前を合わせた。

千葉難読地名3

黒生町は、もとは飯沼村の一部であったが、海岸部は昔から黒生(くろはえ)海岸と呼ばれていた。
そして、昭和9年(1934)に銚子市の地域町名となった。
町名の読み方は「くろはい」であり、海岸などで呼ばれていた「くろはえ」と、「い」と「え」が食い違っているが、元々関東地方北部から東北地方および新潟などでは「い」と「え」の発音区別がなく、中間的な「え」であるので、どちらでもあまり区別は出来ないためだろう。特に海寄り地域ではこの傾向は強いようだ。

銚子電鉄の笠上黒生(かさがみくろはえ)駅は、 企業にネーミングライツ権を譲渡し、スカルプで知られた企業に譲渡され、2015年12月~2018年までに「髪毛黒生駅(かみのけくろはええき)」となった。

場所は銚子市の東端の海岸沿線エリアで、その南側に「海鹿島(あしかじま)」がある。
観光地や避暑地として知られた海鹿島は昭和半ばまではアシカが生息していた。

この海岸近くには「一山いけす」という魚料理屋さんがあり、地元の人には良く知られた場所だ。
ここから君ヶ浜へ続く海岸沿いは岩がゴロゴロして、白波が打ち付ける豪快な海岸が魅力でもある。

この海岸沖は昔から船の遭難が多い場所で、この一山いけすの店の近くにこの銚子黒生海岸沖で遭難した美加保丸の碑が立っている。

この碑には、「慶応4年(1868年)8月に、戌辰戦争の過程で幕府の海軍の副総裁・榎本武揚の指揮のもとに北海道へ逃亡を企てた幕府軍艦8隻は銚子沖で暴風雨に遭い、その中で美加保丸が黒生海岸で沈没しました。死者は13人に上り漂着の場に葬られました。その後、明治15年(1882年)に、美加保丸の遭難碑が地元民の手で建立されました。目の前には太平洋の素晴らしい景色が広がります。」と書かれています。

黒生海岸

この「黒生(くろはい、くろはえ)」地名の由来を探ってみたのですが、あまりはっきりしたことは何処にも書かれていません。
また全国に「黒」がつく地名は実に沢山存在し、その多くが「黒色」に関係するかどうかも良くわかりません。

ただ、この銚子の地はジオパークに登録され、ここ黒生から長崎鼻にかけて、1億3000万年前から1億年前の恐竜時代の地層が見る事ができるのです。
特にこの黒生(くろはえ)漁港付近の地層は古く、ジュラ期の非常に硬い岩石(チャート)があり、黒生チャートと呼ばれる小さな露頭が地表に出てきています。細長い崖として続いていた薄緑色のチャートは漁港施設工事で失われてしまいました。

また、江戸時代末期に、福井県から移住した柳屋がここ黒生から産出する黒色の粘土を利用し、「黒生瓦」作りを始め、これが評判で、当時は三州瓦に匹敵するとの評判でした。
しかし、現在はセメント瓦に取って代わられ、生産はされていませんが、市内にはこの黒生瓦を葺いた住宅が残っています。

tsumugu_hudochinori13.jpg
(外川地区の黒生瓦の住宅)

このように特殊な地層の岩石が風化して独特の黒色粘土が産出した地域であるため、黒色粘土が採れる地という意味から「黒生」となったというのが最も考えられると思われます。

元々「埴生」「丹生」など、粘土や特殊の色の鉱石が取れる地区につけられた「生」という字は各地に沢山存在します。
この地も昔からつやのある「黒岩」が多数存在し、「黒生浦」と呼ばれていました。

ただ、この地には、海岸沿いの高台に「黒生大神宮」という神社があります。
これは、紀州(和歌山)の北川治郎右衛門が、江戸時代中期の宝永年間(1704年~11年)に、この地に移り住み、ここ黒生漁港を開発したといわれており、その際、伊勢皇大神宮(内宮)より祭神は、天照坐皇大御神(天照大御神)を勧請(かんじょう)して祀ったとされています。この伊勢や和歌山との関係が別にある可能性も有ります。

「生」という地名で「ハイ」または「ハエ」と読む地名を探してみた。
(ハイとよむ地名)
千葉県銚子市黒生町(くろはいちょう)
愛知県江南市宮田町生原(はいばら)
愛知県稲沢市生出(はいで)
(ハエとよむ地名)
石川県輪島市門前町大生(おはえ)
愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間(生山) (はえやま)
愛知県半田市生見町(はえみちょう)
熊本県上益城郡御船町七滝(松ノ生)(まつのはえ)


千葉の難読地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/06 17:15

千葉の難読地名(4) 白渚、横渚、貝渚

 横渚 よこすか    鴨川市  
 貝渚 かいすか   鴨川市
 白渚 しらすか    南房総市和田町  

千葉難読地名4

この「渚(なぎさ)」と書いて「すか」と読ませるのは全国的に見てもあまりなく、千葉県に3箇所ある。

一般には横須賀(よこすか)とかかれる地名が同じ意味だと考えられる。

千葉県にはこの横須賀(よこすか)地名も多い。
松戸市横須賀
匝瑳市横須賀

この「スカ」地名は『海岸に近い洲』に由来する地名といわれ、神奈川県の横須賀も横に細長い砂州を意味する言葉とされています。

一方、柳田國男は「地名の研究」の中で、新潟とこの横須賀を比較しており、「潟」のつく地名は日本海側に集中しており、北は津軽の十三潟、秋田の八郎潟から、南は筑紫の香椎(かしい)潟、宗像(むなかた)まで、たくさん地名として残っている。
これは、汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、風の影響で砂が運ばれ、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち「潟」であるという。
これは日本海側の特徴なのだろう。
東方の海岸にこの種の潟は出来ず、逆に「横須賀」などに示すように「須加」「須戸」などという砂浜が出来るのだという。

さて、この「渚」を「すか」と読ませる地名だが、地名としては「渚」も「須賀」の字も戦国時代頃から記録にはあるが、江戸時代初期の検地高目録では「貝須賀村」との記載もある。

もっとも「鴨川」という名前はかなり新しく、明治22年に長狭郡鴨川町として発足した。域内を流れる「加茂川」にちなんで別な字を当てて作られたもの。 
この川の名前は、平安時代の辞書「倭名類聚抄」に長狭郡の中に「加茂郷」があり、この名前から加茂川となったという。
この加茂川が京都の鴨川に似ているので町名制定でこの「鴨川」を当てたものだそうだ。

鎌倉幕府成立前、伊豆で挙兵した源頼朝が石橋山の戦いに破れ、この安房国へ逃走します。
この時に乗っていた船がたどり着いたのがこの鴨川市貝渚付近の島であり、地元の長狭六郎常伴と一戦場(鴨川市貝渚).において戦闘が行われたといわれています。

いろいろ歴史も知らない事が多い。


千葉の難読地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/07 12:28

千葉の難読地名(5) 新生、荒生

 ≪新生≫ (あらおい)     市原市    
 ≪新生町≫(あらおいちょう) 銚子市 
 ≪荒生≫ (あらおい)     東金市 
 ≪荒生≫ (あらおい)     九十九里町 

千葉難読地名5

千葉県には「生」とつく地名が多いようだ。
「黒生(くろはい)」を先に紹介したが、今回は2つの「あらおい」地名について紹介しよう。

これはどちらも「新しく開発された土地」の意味だろうという。
漢字では「新しい」とか、「荒れた」とか意味が違いそうだが元の意味は同じだったと思われる。
ただ、九十九里町の「荒生」地名は、東金市の飛び地と考えられている。

全国に「新生 あらおい」という姓の名前があるようだが、人名のリストからはこの市原市の「新生」が名前の起こりだろうと書かれていた。
文禄3年(1594)の検地表には「海保郡新生之郷」と見える。

一方「荒生」の地名は文禄3年(1594)の上総国村高帳に村名が記載されており、その後の寛政5年の上総国村高帳には「荒笈村」と記載されているという。

また、同じ寛政5年の上総国村高帳には「新笈村」という村名もあるという。

その他、千葉県の「生=オイ」の地名を拾ってみると

・千葉市若葉区愛生町(あいおいちょう)
・旭市高生(たかおい)
・匝瑳市生尾(おいお)


<愛生> ・・・・ 元は千葉市源町の一部で、開発により昭和26年に成立した新しい町名
<高生> ・・・・ 江戸時代に椿海を干拓して成立した新田18か村の一つ
<生尾> ・・・・ 延喜式式内社に「生尾神社」の名前がある。(旧八日市場市)
伝承としては、当地を訪れた某が尻尾のない白馬に乗って通りかかった際、一夜のうちに尾が生えたので、「生尾」と名付けたという。(角川 大日本地名辞典) まあいかにも後から考えられた地名伝説と言ったところだろう。
ただ、この「生尾神社(おいおじんじゃ)」は現地では「老尾神社」と扁額などには書かれている。
香取神宮などとも関係が深かったようだが、名前の詳細はわからない。

がある。


千葉の難読地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから


千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/08 09:24

千葉の難読地名(6) 生実

 ≪生実≫ おゆみ  千葉市中央区

中世より、生実郷、小弓、北生実村、南生実村、北小弓村、南小弓といずれも同じように用いられてきた。


千葉難読地名6

地名の由来は
(1) 古代に麻績連(おみのむらじ)が管掌していたことによる。
(2) 源頼光が寛弘年間に八剣神社へ大弓を奉納したという伝承による。
などがある。(角川 大日本地名辞典)

この(2) の話しは「小弓」と書かれていた時代に創造された地名伝説であろう。

 ただ、この「麻績連(おみのむらじ)」についてはあまりよくしられておらず、謎に包まれたままである。
霞ヶ浦周辺に進出してきたいわゆる海人(縄文人子孫?)族の一派だとは思うが、出雲国の国譲りでこの地に流されてきたのかもしれない。
この麻績連(おみのむらじ)は、利根川よりの旧小見川町(現香取市)の名前の由来にもなっている。
この小見川地区は古代は「麻続郷」とあり、平安末期からは「小見郷」になった。
この一帯は香取の海といわれた内海時代には「麻績千丈ヶ谷」といわれた低地で、開発により田畑が開けた土地だ。
名前の通り「麻織物」生産にかかわった集団だったと思う。
このように地名から古代の歴史を探っていくとかなり面白い実像が見えてくる。
なかなか止められない。

その他「生」が地名の頭や真中につく千葉県の地名をさがしてみると、

 ≪生谷≫ おぶかい  佐倉市
・・・・「うぶかい」ともいう。江戸期以降に「生ケ谷村」「生谷村」などとも書かれている。

全国に「生谷」とつく地名を探してみたが、下記に示すように「○○生谷」と何かが採れる場所の谷といった意味合いが多かった。

千葉県佐倉市生谷 チバケンサクラシオブカイ
富山県高岡市麻生谷 トヤマケンタカオカシアソウヤ
富山県黒部市内生谷 トヤマケンクロベシウチュウダニ
石川県加賀市山中温泉菅生谷町 イシカワケンカガシヤマナカオンセンスゴウダニマチ
福井県鯖江市石生谷町 フクイケンサバエシイショウダニチョウ
岐阜県高山市朝日町黍生谷 ギフケンタカヤマシアサヒチョウキビュウダニ
大阪府南河内郡河南町芹生谷 オオサカフミナミカワチグンカナンチョウセリュウタニ
兵庫県赤穂市木生谷 ヒョウゴケンアコウシキュウノタニ
兵庫県宍粟市山崎町生谷 ヒョウゴケンシソウシヤマサキチョウイギダニ
奈良県高市郡高取町丹生谷 ナラケンタカイチグンタカトリチョウニウダニ
和歌山県紀の川市上丹生谷 ワカヤマケンキノカワシカミニュウヤ
和歌山県紀の川市下丹生谷 ワカヤマケンキノカワシシモニュウヤ
和歌山県海草郡紀美野町初生谷 ワカヤマケンカイソウグンキミノチョウウイタニ

また「オブカイ」という名前の地名は他には存在しなかった(現在の郵便番号住所の中)

 ≪小生田≫ おぶた  長生郡長南町
・・・・ 和名抄に「小田郷」があり、この小田郷が転訛したという。 また中世(南北朝~室町時代)には「小蓋村」としの記述がある。(角川 大日本地名辞典)



千葉の難読地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから


千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/09 05:25

千葉の難読地名(7) 粟生

≪粟生≫  あお    九十九里町、東金市(飛び地)
≪粟生野≫ あおの   茂原市

千葉難読地名7

地名の由来は
(1) 湿地の意味
(2) 粟(あわ)生育の適地の意味
などがある。

平安期は禾生(あお)郷(和名抄)、室町期は粟宇郷、江戸期は粟生村とある。(角川 大日本地名辞典)

まあ「禾」はノギヘンにもなっている漢字で単独では「カ」とか「ワ」と読むようだが、意味は「稲(いね)」「粟(あわ)」と同じ穀物を指す。
古代から各地に「粟」は栽培され、地名にも「粟」の字が多く使われたが、徳島県が「粟」から「阿波」に2文字に替えたころから各地の地名も変化しているようだ。千葉県房総半島側は「安房」になっている。

また(1)の湿地というのも地名辞典にはかかれたものもあるようだが、「あお」にはそのような意味はないのではにだろうか。
まあ「青」と書く地名は日本海側などに多く、どうも暗いイメージがあるようだが・・・・。


全国の「粟生」地名を検索すると
・茨城県鹿嶋市粟生 (あおう)
・埼玉県坂戸市粟生田 (あおた)
・千葉県茂原市粟生野 (あおの)
・千葉県東金市粟生飛地 (あおとびち)
・千葉県山武郡九十九里町粟生 (あお)
・新潟県燕市粟生津 (あおづ)
・石川県羽咋市粟生町 (あおまち)
・石川県能美市粟生町 (あおまち)
・山梨県甲州市塩山上粟生野 (かみあおの)
・山梨県甲州市塩山下粟生野 (しもあおの)
・三重県多気郡大台町粟生 (あお)
・京都府長岡京市粟生 (あお)
・大阪府茨木市粟生岩阪 (あおいわさか)
・大阪府箕面市粟生外院 (あおげいん)
・大阪府箕面市粟生新家 (あおしんけ)
・大阪府箕面市粟生間谷 (あおまたに)
・兵庫県小野市粟生町 (あおちょう)
・和歌山県有田郡有田川町粟生 (あお)
・高知県長岡郡大豊町粟生 (あおう)

千葉の難読地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/10 05:09

千葉の難読地名(8) 虫生

 ≪虫生≫ むしょう 横芝光町

千葉難読地名8


文禄3年(1594)の検地帳に「佐倉領之内虫生」とある。(平凡社 郷土歴史辞典)

この少し変った地名「虫生」(むしょう)というのは結構全国にあります。
読み方は「むしょう」むしゅう」「むしう」などです。

・新潟県上越市虫生岩戸 むしょういわと
 (江戸時代中頃までは、虫生村と岩戸村に分かれていた)
・長野県下高井郡野沢温泉村虫生  むしう

・静岡県磐田市虫生            むしゅう
  (古代には「蒸湯(ムシユ)」と呼称していたとも伝わる)
・滋賀県甲賀市水口町虫生野     むしょうの

・滋賀県野洲市虫生            むしゅう

・兵庫県豊岡市但東町虫生     むしゅう

・兵庫県川西市虫生            むしゅう

・福岡県遠賀郡遠賀町虫生津     むしょうづ

(その他)

千葉県山武市武勝  むしょう

福井県三方上中郡若狭町武生  むしゅう
   (地名は「虫生」、「虫尾」とも表記したという)

この地名由来はどこにもはっきりした事はかかれていませんが、恐らく麻糸原料の草「苧麻(からむし)」が繁茂する土地という意味だと思われます。

衣料品に主に使われている麻の繊維は、亜麻(リネン)、苧麻(ラミー)、大麻( ヘンプ)の三つがありますが、苧麻(カラムシ)(別名、マオ・チョマ)はどこにでも生えている多年草の草です。
それぞれの植物の茎のじん皮部から採取される植物繊維を使うのですが、苧麻は昔から日本にも自生していた植物だと言われています。
大変強く繊維としての価値は非常に高かったようです、現在は福島県会津と沖縄県くらいでしか生産されていません。
この会津(昭和村)の苧麻から作られた糸が新潟県小千谷市で有名な「小千谷縮み」に使われています。

苧麻の呼び名は、昔からちょま、まお、からそなどと呼ばれてきましたが、中国から品種改良された品種が入ってきて「からむし」と呼ばれるようになったのではないかと思われます。
そのため、古来からある草でしたが、外国から渡って来た意味で「から(唐)」がついたのではないでしょうか。
現在は一般的には麻製品としては、苧麻は「ラミー」と呼ばれ、「リネン(亜麻)」と並んでアパレル界の麻繊維の代名詞になっています。

また、虫(むし)とつくのは、蚕の絹とどこかでイメージがつながって呼ばれたか。または途中に「蒸す」工程があることも呼び名に影響があったかもしれません。

この麻糸を作るための集団が前回の地名(生実)に出てきた「麻績部(おみべ、おみのむらじ)」といわれています。

千葉県の「生」の字が使われている地名を紹介してきましたが、とりあえず今回でこの「生」は終わりにします。
残された名前には次のものがあります。

<ウ>地名:植物や穀物などの採れた場所?
千葉県南房総市富浦町丹生 にゅう
千葉県印旛郡栄町麻生 あそう
千葉県山武市麻生新田 あそうしんでん
千葉県市原市朝生原        あそうばら
千葉県千葉市稲毛区園生町 そのうちょう
千葉県成田市大生    おおう
千葉県富津市萩生    はぎう
千葉県君津市釜生    かもう
<その他>
千葉県千葉市若葉区愛生町 あいおいちょう
千葉県木更津市菅生    すごう
千葉県野田市座生    ざおう
千葉県香取市神生    かんのう
千葉県千葉市稲毛区弥生町 やよいちょう
千葉県柏市弥生町    やよいちょう

また、山武市松尾町八田の小字名に「生子宿」という地名があります。
読み方は「はだかじゅく」です。
現在は総武線の松尾~横芝間に「生子宿踏切」という名前が残されています。

最後にこの横芝光町の「虫生の里」につたわる<鬼来迎>の昔話を紹介します。

<鬼来迎>は鬼舞とも呼ばれ、地獄を再現した劇で、仏教の因果応報の理法を説いた大変珍しい仏教劇である。

 この由来は、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の時代に遡る。薩摩の国の禅僧石屋が、衆生済度のため諸国を遊行の途中、虫生の里に立ち寄り、この地の辻堂を仮寝の宿としたとき、妙西信女という十七歳の新霊が鬼どもに責められている様を見た。翌日、墓参に来た妙西の父・椎名安芸守と、妻・顔世と言葉をかわすことになったが、新霊は、この地の領主・安芸守の一人娘とわかった。請われるままに真夜中に見た地獄絵さながらの様子を話すと、安芸守は自分の悪行を悔い、娘の法名、妙西を広西と改め、彼女の墓堤を弔うために建久七年(1196年)仲夏、慈士山地蔵院広西寺を建立し、その開山となった。

 ところが、その年の仲夏六日、虫生の里に突然雷雨が起こり、寺の庭に青・黒・赤・白の鬼面と、祖老母の面等が天降ってきた。不思議に思った石屋は、これを寺内にとどめておいた。

 一方、当時鎌倉に居住していた運慶・湛慶・安阿弥の三人の彫刻師が、ある時偶然に、石屋と安芸守夫婦が亡き娘の卒塔婆をたてて、菩薩に済度されたという情景を夢に見て感動し、はるばる虫生の里を訪ねて石屋に逢った。石屋は三人にかつて辻堂で見た地獄の呵責のの様子と、それを救われた菩薩の大悲のありさまを詳しく話し、その姿を来世に残して、大衆の教化をはかりたい意向をのべたので、三人は早速、閻魔大王、倶生神、祖老母、黒鬼、赤鬼等の面象を彫刻し、出来上がった面をそれぞれ顔に当て、石屋もまた僧徒を集めて鬼に扮して、八月十六日に演じてみせた。そしてその後も、地獄の相・菩薩の威力を示す「鬼来迎」は、毎年八月十六日に行われるようになったといわれている。(横芝光町商工会HP)



千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/10 08:53

千葉の難読地名(9) 奉免、法目

≪奉免(法免)≫ ほうめ  市川市 市原市
≪奉目新田≫ ほうめしんでん 野田市
≪法目≫ ほうめ  茂原市
≪法目村≫ ほうめむら 白井町  明治7年まであった


千葉難読地名9


奉免の地名は中世に神社領などに租税を免除したことに由来するという。
野田市の奉目新田は、貢租免除地の奉免による(東葛飾郡誌)野田七か新田の一つで、もとは馬の放牧地だったという。

また平安時代に各地で作られた荘園(しょうえん)では、年貢を有力な寺院などに寄付して、朝廷への納税義務を免れる有力者が多く出てきました。
これらの租税をまぬかれた土地には「保免(ほうめん)、奉免(ほうめ)」などと呼ばれ、地名として残ったと思われます。

茨城県石岡市の「仏生(ぶっしょう)」などという地名も寺に奉納する穀物を作る田の免税田として、付けられた名前だと考えられます。
また国府田(こうだ)なども、その国府に奉納する米の耕作地であり、税が免除されたところなのでしょう。

ただ、これらの地名にはまた別な昔話も付いて来るようで、

1)茂原市の「法目」については日本武尊が当地に船具の帆を埋めたことから「帆埋」となり、転じて「法目」となった(長生郡郷土誌)
2)市川市の「奉免」には、後深草天皇の姫が難病に罹って都からこの地にたどり着いた際、里人の願いで鎌倉幕府は租税を免じ奉って姫の御料にあてさせたことによる。
との説明もありました。
また、この姫は後に若宮中山法華経寺の日蓮の説教に接し、病が治ったあともこれに帰依すること篤く、やがて日蓮宗門で最初となる尼寺「奉免山安楽寺」を開山するに至ったという。

同じ意味の地名として 愛媛県松山市に ≪保免 ほうめん≫という地名があります。

その他、「ほうめ」と読む地名を千葉県内で探してみると

・ ≪堀籠≫ ほうめ 成田市  ・・・南北朝期からある村名。
・ ≪宝米≫ ほうめ  横芝光町  (「ほうめい」 ともいう)・・・江戸期からある村名。古い板碑が存在する

があります。こちらの由来についてははっきりしませんが、「奉免」と同様の流れかもしれません。

その他、「法」のつく地名を下記します。

・ ≪法花≫  ほうげ  勝浦市
 古くは法華と書いた。「生(は)う華」または雑草蔓延の意の「生うけ」に由来すると伝える(角川 日本地名大辞典)
 法華(ほっけ)などと読むなら崖地などに付けられた可能性が高いが・・・・

・ ≪法木≫  ほうぎ  君津市

・ ≪法木作≫  ほうぎさく  君津市
 古くは法木とも称した。箒木(ほうき)の谷という地勢に由来するとか、ほう(朴)の木が存在したからなどの説がある。(角川 日本地名大辞典)


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2020/06/11 06:38

千葉の難読地名(10) 十余一、二、三

≪十余一≫ とよいち  白井市
≪十余二≫ とよふた  柏市
≪十余三≫ とよみ  成田市、多古町


千葉難読地名10

実は、江戸期に設置していた馬牧地(旧小金・佐倉牧)を、職を失った武士たちに与えるために明治2年から開墾が始まりました。
そのときに、着手順序を基に開拓地名の字を付けることが取り決められて1から13までの番号がふられました。

1、初富 はつとみ (鎌ヶ谷市)、
2、二和 ふたわ (船橋市)、
3、三咲 みさき (船橋市)、
4、豊四季 とよしき (柏市)、
5、五香  ごこう (松戸市)、
6、六実  むつみ (松戸市)、
7、七栄  ななえ (富里市)、
8、八街  やちまた (八街市)、
9、九美上  くみあげ (香取市)、
10、十倉  とくら (富里市)、
11、十余一  とよいち (白井市)、
12、十余二  とよふた (柏市)、
13、十余三  とよみ (成田市)(多古町)

の字名が生まれました。

今ではそれぞれ住宅地などとなり昔の面影は少なくなってしまいました。
でも名前を見て思い出すのも良いですね。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/11 21:39

千葉の難読地名(11) 鬼泪山、鬼越

≪鬼泪山≫ きなだやま  富津市桜井
≪鬼越≫ おにごえ  市川市
≪鬼高≫ おにたか  市川市
≪鬼ケ崎≫ おにがさき  鋸南町


千葉県の「鬼」のつく地名を集めてみました。

千葉難読地名11

「鬼泪山(きなだやま)」はマザー牧場がこの山の上にありますので、よく知られた場所なのですが、地名はあまり知られていません。
「鬼泪(きなだ)」という大字名も昭和の始め頃までありましたが、これは山の名前が先にあって地名に付けられたものです。
当然この名前には昔からの口伝があります。

「日本武尊が東征の時に、ここで鬼のような賊を追い詰め、鬼は泪(なみだ)を流してあやまった」といわれています。
また。鬼の流した血で近くの川が染まり「染川(そめがわ)」という川の名前になったという。

当然この話は現地に昔から住んでいた蝦夷(縄文人)一族を「鬼」と表現した話しで、各地に似た話しが散見されます。
近くに比較的有名な「鹿野山(かのうざん)」があります。
ここには「阿久留(アクル)王」と呼ばれる悪鬼が棲(す)んでいて、上総一帯を支配していたといわれています。
大和朝廷の東征隊は、この阿久留王と戦い、この鬼泪山に追い詰め、滅ぼしたという事のようです。

一方鹿野山は、白鳥峰(東峰、379m)・熊野峰(中央峰、376m)・春日峰(西峰、352.4m)の3峰の総称で、それぞれの山頂に白鳥神社・熊野神社・春日神社が祀られたことにより名付けられましたとありますので、「鬼泪山」も意外にもこの鬼退治伝承が元になっているのかもしれません。

鹿野山(かのうざん)の地名由来は(聖徳太子が)のちにここに「神野寺(じんやじ)」を建立した。そのときにたくさんの鹿が手伝ったため鹿野山と呼ばれるようになったという言い伝えがある。

しかし、基本的には鹿は「鉄」につながる言葉(製鉄信仰)だと思われる。

関東最古の寺ともいわれる「神野寺」の本尊は「薬師如来・軍荼利明王」の2尊ですが、その「軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)」は製鉄職能民からの信仰が篤い神といわれています。


市川市の「鬼越(おにごえ)」については、江戸初期には「鬼越村」という村名の記載がある。
地名由来としては、伝承として、「鬼が出没するので鬼子居(おにごい)と呼ばれていたため」とあります。

しかし、全国にこの「鬼越」地名は散見されます。

福島県白河市鬼越 おにごえ
山形県山形市菅沢(字)鬼越  おにごえ
岩手県滝沢市鵜飼(字)鬼越  おにごえ
宮城県栗原市一迫真坂清水(字)鬼越  おにごえ

その他、
秋田県     鬼越峠  おにごえとうげ
茨城県石岡市 鬼越峠  おにごえとうげ

 この石岡の龍神山付近にある「鬼越峠(おにこしとうげ)」には茨城童子という鬼が源頼光が来ると聞いてこの峠を越えて逃げたという話が伝わっていますが、市誌などでは「荷物をもってやっと超えられる峠」「お荷越え峠」ではないかと書いています。

市川市にあるもう一方の「鬼高」地名は、「鬼越村」に隣の「高石神村」の飛地が混在していたために、対象8年に区画整理して「鬼高村」を作ったものです。

「高石神(たかいしがみ)」という名前は、石器時代の遺物・石棒を祭っている高石神社に由来しています。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/12 06:00

千葉の難読地名(12) 江弁須(成田市)、安須(市原市)

≪江弁須≫  えべす  成田市
≪安須≫   あず   市原市


少し変った「○○須」がつく地名を探してみました。

千葉難読地名12


<江弁須(えべす)村>は印旛沼のほとりにあった大きな村の「公津(こうづ)村」が、承応2年(1653)に分村(台方村・下方村・大袋村・飯仲村・江弁須村の5村)となり誕生した。
この公津(こうづ)という地名は、印旛沼の農地開拓に当たって農耕の神を祀ったといわれる式内社の「麻賀多(まかた)神社」のための港=神の湊(津)から名付けられたものといわれている。

一方「江弁須(えべす)」については、元は佐倉牧の内野牧があり、開発されて「公津新田村」となり、1653年の公津村の分村時に「江弁須(えべす)村」として誕生した。

名前の謂れについては

(1)大和朝廷の東征にあたり、夷(えみし)を収容する所を「エビス」といっていたことからこの地の名前となった。

(2)印旛沼の漁業信仰で「恵比寿神」を祀ったところからこの名前になった。

などの説があります。

また、中世の千葉氏方の馬場氏代々の居城と見られる「江弁須(えべす)城」の跡があり、正蔵院境内にある虚空蔵堂には行基菩薩の作ともいわれる虚空蔵菩薩が安置されていて、江弁須の虚空蔵様として知られています。

一方、<安須(あず)村>は1594年の上総国村高帳に村名でみえます。
地名の由来は
・崖の多い地形による(角川 日本地名大辞典)
と書かれています。

「地名用語語源辞典 東京堂出版」によれば、
あず=安須、安須、小豆は
①崩崖。坍、「崩崖也  久豆礼(くずれ)、又阿須」(平安時代の辞書『新撰字鏡』))
②山や畑の境界
となっています。

また、『日本国語大辞典』(小学館)には、
「あず」【坍】「くずれた岸。がけ。がけのくずれてあぶないところ。」とあります。

また万葉集(巻14東歌3539)にも、

 「安受乃宇敝尓  古馬乎都奈伎弖  安夜抱可等  比等豆麻古呂乎  伊吉尓和我須流」
 <あずの上に 駒を繋ぎて 危(あや)ほかど 人妻子(ひとづまこ)ろを 息に吾がする>

 意味: 崩れた崖の上に馬をつなぐと危ないように、私も人妻のあの子を命がけで思うのだ

とあるそうです。(飯能市HP)

他の「あず」地名を捜してみると

・埼玉県飯能市阿須       あず
・島根県邑智郡邑南町阿須那  あずな
・和歌山県新宮市阿須賀     あすか

がありました。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/13 06:09

千葉県の難読地名(13)土気、小食土、土宇など

 <土>がつく千葉県の地名(その一)

土気町  とけちょう 千葉市緑区
小食土町  やさしどちょう  千葉市緑区
五十土町 いかづちちょう  千葉市若葉区
土宇  つちう  市原市


さあ いくつ読めましたか?

千葉難読地名13

意外に「土(つち)」という字がつく地名も複雑です。次回にも続きます。

土気町(とけちょう)、小食土町(やさしどちょう)も今はニュータウンで一部名前の変った場所もあります。
新しい名前は「あすみが丘」などとなりこれでは昔の地名のイメージはつかめませんね。

≪土気(とけ)≫

 上総国山辺郡に属した。内房と外房のほぼ中央に位置し、土気往還により結ばれる。中世には土気城を拠点とした酒井氏がおり、本寿寺などの顕本法華宗の中心となった。ここには土気宿ができ、土気往還の継場で伝馬役をつとめるとともに、九十九里浜から商荷物の輸送が多く、それを巡る争いが繰り返された。(平凡社 千葉県の地名)

地名由来(戦国時代には現在の地名があったと見られている)についてははっきりしないが、次のような説がある

・鐘を打って時を知らせたので、 時計という意味合いからトケの名がついた(『上総国志』)
・大網からの長い峠(とうげ)の「とうけ」が「とけ」となった。(『土気古城再興伝来記』 土気城史保存会編)
(高嶺の中略にして山頂最も高き所をトウケトというが、関東人は略してトウケといい、それがトケになった)
・土気城跡付近は崖や起伏にとんだ地形で、天検要害の地形となっている。これは昔から「峠の庄」と呼ばれており、この言葉が「とけ」なる地名の起こりとなった。(トウゲの庄 → トケの庄)
・周辺には水溶性ガス田があり、天然ガスが湧出する気配のある土地を「土気」と呼んだ。
・鴇(とき)が多かったから
・険しい坂道=嶝嶮(とうけん)から言葉が変化した

などさまざまな説が言われています。でもこの中では「峠」説が一番有力と思われているようです。
ただ漢字表記も「土気」以外に「戸気」「度解」などと表記されることも昔はあったとのこと。

≪小食土(やさしど)≫

「矢指土」「矢指渡」などと表記されたこともあるようだ。

地名由来も諸説あり
・もとは「矢指渡」「矢指土」などの字を使っていたが、海上(うなかみ)郡に同じ「矢指」という村(現旭(あさひ)市)があったため、当時村に住んでいた漢学者の所に相談し、大食の者は蛮カラだが、小食の者は心が優しいから「矢指」を「小食」の字に変えたらどうかと言われて変えた。
・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国に向かう途中、当地で休息をした。その時村人が献上した間食を尊が召し上がり、この故事により当地を小食土というようになった。(御霊(ごりょう)神社の碑文)
・「や(谷津)・さらし(曝し)・ど(処)」の転訛で湿地のある崩壊地形という意味

などがあります。
最初は「矢指土」「矢指渡」などと書いていたことは間違いなようで、現在の「小食土」と書くことになった経緯はあまり性格とは言えないのでしょう。

全国の「やさし」地名を検索してみました

茨城県北茨城市中郷町小野矢指 イバラキケンキタイバラキシナカゴウチョウオノヤサシ
千葉県千葉市緑区小食土町 チバケンチバシミドリクヤサシドチョウ
神奈川県横浜市旭区矢指町 カナガワケンヨコハマシアサヒクヤサシチョウ


≪五十土 いかづち≫

地名の由来は、
・雷神を祀る鎮守雷(いかづち)神社と関係があると思われる(角川 日本地名大辞典、千葉市の町名考)
 (新潟県魚沼市にも、雷神を祀る神社があり、はじめ雷公村と称したが、のち五十土村・雷土村などと変化したという)
・「いか(厳)・と(処)」の転訛で険しい崖に囲まれた地
などです。

いかづち=雷(かみなり)ですから、この雷神社の存在が大きいようです。
まあ読み方は「イカヅチ神社」でも「ライ神社」でも各地でたくさん使われています。

 他の全国にある「いかづち」地名を拾ってみました。
秋田県由利本荘市五十土 (いかづち)
新潟県柏崎市五十土 (いかづち)
新潟県村上市雷 (いかづち)
新潟県南魚沼市雷土 (いかづち)
などがありました。
ここ千葉県以外に同じ「五十土=いかづち)」が2か所もありました。

≪土宇 (つちう)≫

養老川左岸にあり、地元では「ちちゅう」とも呼び中世には「土宇郷」がありました。
にこの地には、戦国期に大城(おおじろ)がありましたが、この城は古くは「鵜城」とも呼ばれていたそうです。

平安時代の辞書である和名抄に記載されている「土宇郷」地名が最も古いようなので、和名抄に記載の似た地名(郡、郷名)を探してみましょう。

出雲国意宇郡(おうぐん)
備中国都宇郡(つうぐん)
近江国浅井郡津宇郷(つうごう)
安芸国沼田郡都宇郷(つうごう)
備後国沼隈郡津宇郷(つうごう)
周防国玖珂郡由宇郷(ゆうごう)

上に記載のある「津宇郷」については「津之郷」などとの記載もあり、「「宇(う)」は「之(の)」と同義と思われます。
この「之」は場所を示す程度の意味でしょう。
または地名を好字2文字にするようにお達しがあった時に一字であった地名に追加したものか。

津宇郷: 津(つ)は湊を意味する言葉であるから 湊のある郷の意か。
由宇郷: 温泉地であり、湯の郷 の意か。
都宇郡、都宇郷: これも津(湊)に関すると思われる。ただそれも中心的な大きな湊を表したものかもしれません。
意宇郡: 『出雲国風土記』が伝えるところによれば、「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」が国引きの大仕事を終えた際に「国引きを意恵(「おえ」、終わるの意味)」と言ったことから「意恵郡」のち「意宇郡」と呼ぶようになったという(Wikipedia)

では「土宇=土之」とはどんな意味でしょうか? 
これは良くわかりません。
でも考えているとわかるのかもしれませんね。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/06/14 05:24

千葉の難読地名(14) 奈土、江場土、小土呂

 <土>がつく千葉県の地名(その二)

奈土  など   成田市
土浮  つちうき  佐倉市
江場土  えばど  いすみ市岬町
七井土  なないど  長生郡長生村
小土呂  おどろ  大多喜町


さあ いくつ読めましたか?

その他、成田市土室 (つちむろ)、成田市土屋 (つちや)があります。

千葉難読地名14

≪奈土(など)≫

ここは成田市でも、旧大栄町です。
1371年の寄進状に「奈土郷」地名が見られます。
古くは「奈戸」とも書いていました。
ここにある磐裂(いわさく)神社はもと虚空蔵菩薩を本地とする明星尊天を祭神とし、うなぎ禁忌の慣行があったそうです。
この神社では「奈土のおびしゃ(御武射)」という変わった行事(儀式)があります。町中の路上で新官主と旧官主が盃を交わし、神様の受け渡しの儀式が行われ、秋の収穫の豊作を祈るための儀式なども行われます。

地名由来は「なだ(浸食地)」の転訛で浸食地を指したものという。

似た地名を検索すると、
・ 茨城県龍ケ崎市奈戸岡 (などおか)
・ 千葉県柏市名戸ケ谷 (などがや)
がありました。

≪土浮 つちうき≫ 佐倉市

地元では「チュッチェキ」ともいう。印旛沼の南岸にあり、対岸の印西市方面への渡し場があった。

地名の由来には
「松虫姫が京から下総に下り、印旛沼の上面に土が浮いていて難なく渡れた」という伝承があります。

松虫姫の話は「松虫寺」に伝わる話でこのあたりでは有名です。

「不破内親王は幼名を松虫姫といったが、不幸にして癩(らい)を患い、手の施しようがなかったが、夢に、下総国に効験あらたかな薬師如来が鎮座するとの託宣があった。姫がこれを信じて東国に下ったところ、下総国印旛郡の萩原郷にはたして夢に見た薬師堂があり、かの地に庵を結んで一心に平癒を祈り、ついに全快することを得た。聖武天皇はこれを喜び、行基に命じて一寺を建立させ「松虫寺」と称したという物語である。
また、不破内親王は死に臨んで松虫寺に分骨されることを望み、かなえられて松虫寺に分骨塚が築かれたという。現在も松虫寺には「松虫姫御廟」と呼ばれる堂がある。 」(Wikipediaより)

似た名前の地名を探してみました、

宮城県刈田郡蔵王町円田 土浮谷地 (どぶやち)
                  土浮山 (ドブヤマ)
茨城県常総市に「土浮(つちうき)」姓の名前の方が10人ほどおられるそうです。

≪江場土  えばど≫  いすみ市岬町

古くは江波土、江波戸と書いたが、元禄16年(1703)の地震による大津波による大被害を受けて波の字を「場」に改称したと伝えられる。(角川 日本地名大辞典)
文禄3年(1594)の上総国村高帳には「江波戸村」とある。また、「江はとのせき」との記載もある(平凡社 千葉県の地名)
「えはと」地名は「え(川)・はた(端)」の転訛で夷隅川のすみという意味とされる。

源頼朝がこの地に来り、松の木の枝に兜を掛け休憩したとの伝承があり、この松を兜松と呼んでいたが、現在は枯れてないという。


≪七井土  なないど≫  長生郡長生村

七井戸とも書いていたというので、七つの井戸があったことからついた名前かもしれない。。


≪小土呂  おどろ≫  大多喜町

夷隅川中流北方の丘陵部に位置する。
地名は、荊の茂った藪の意(夷隅風土記)と角川の日本地名大辞典には記載がある。
しかし、「おどろ」「とどろ」などと読む地名は大概が擬声音から出た地名で、大久保川も流れ、急坂もあるので、滝や川の流れの音、波の音などを地名にしたところが多い。

旧東海道の川崎宿近くに小土呂町という地区があり、「小土呂橋」という橋がありました。
ここもおそらく滝の音などでつけられたものではないかと思われます。

「オドロ」という地名を検索すると、

山形県西置賜郡小国町驚 (おどろく)
千葉県長生郡長生村驚 (おどろき)
千葉県長生郡白子町驚 (おどろき)
千葉県夷隅郡大多喜町小土呂 (おどろ)
福井県福井市大土呂町 (おおどろちょう)
京都府京都市西京区山田御道路町 (おどろちょう)

がありました。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/15 05:13

千葉の難読地名(15) 名都借 (流山市)

≪名都借 なずかり≫ 流山市
「なずかり」「なづかり」などとどちらの表現もあるが、郵便住所は「なずかり」である。

千葉難読地名15


室町期からある地名で「名都狩」と書いていた。
読みとしては「ナトカリ」と書かれたものが多い。

中世の城跡「名都借城跡」がある。
この城は、古河公方足利高基に敵対する弟足利義明の属城であったといわれている。

また元禄郷帳では「ナトガシ」と訓が付されているという。

地名由来としては
地元では、「天武天皇の皇子の末裔が関東に下り、現在地に借りの都を置くとした事から名都借(なづかり)と言われた」となっている。
まあ、この説は諏訪神社付近で昔の製鉄跡が見つかっていることなどでいろいろ考えだされているようですが、歴史的な裏付けや昔呼ばれていたときの呼び名からすると、あまりあてにはならないでしょう。

そのほかには
・なづ(泥、水に浸かっている田)・かり(切り取られたような崖、崩壊地形)」で地辷り地という意
・「夏刈り」が転じた
などがありました。

ではこれ以外にはどのような由来が考えられるのでしょうか? 謎があると考えるのも楽しいものです。

1)まず、一般に「狩」とか「借」など「カリ」と付く地名の多くは「刈り払われたような急斜面」に付く地名とされています。
 これは以前茨城の地名にあった「借宿(かりやど)」地名を調べて、全国にたくさん「狩宿」「借宿」「刈宿」「苅宿」などの地名がありました。この時の宿(やど)も宿場の意味ではなく、谷戸などと同じ湿地地形を表わしていると考えられるものでした。
2)「名都」はどのような言葉から来たのでしょう。
 そのヒントは前回の成田市にある「奈土(など)」地名にあるように思います。
 そこには「なだ(浸食地)」の転訛で浸食地を指すとありました。
 この流山市の隣りの柏市には「名戸ケ谷(などがや)」があり、近くの茨城県龍ヶ崎市のは「奈戸岡(などおか)」があります。

やはり、上記の地形を表した言葉が地名になったと考えるのがもっとも説得力があります。

【など】 ⇒ 【名都】 ⇒ 【なづ】 (なず)

また「流山」の地名の由来(赤城山の方から山が流れてきた?)もどこかで関係しているかもしれません。

千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/16 05:29

千葉の難読地名(16) 神余、神々廻

「神」と付く地名 その一

≪神余  かなまり≫ 館山市
≪神々廻  ししば≫ 白井市
≪神門  ごうど≫ 佐倉市
≪神代  かじろ≫ 市原市


「神」のつく地名の中から気になる地名を集めてみました。(次回にも続く)
読み方もそれぞれ違っていて難しいですが、いくつ読めましたか?

千葉難読地名16


1、≪神余  かなまり≫ 館山市

戦国期にすでに「神余郷(かんのあまりごう)」が存在していた。
巴川上流域に位置し、弘法大師廻国説話に係わる塩井戸がある。(角川 日本地名大辞典)

地名の由来は、大日本地名辞典などでは、安房坐(あわにます)神社の封戸神戸(かんべ)郷の余戸として別置したものと見ている。また、この地は巴川の上流域で、古墳時代後期の相ノ沢三ツ塚古墳や栗ノ前横穴古墳群のほか、神割遺跡・山口遺跡など古墳時代から奈良・平安時代の遺跡があり、下流域に神戸郷が比定されるなど、・・・・(平凡社 千葉県の地名)

(神余の弘法井戸)
その昔、土地の女性が1人の旅僧に小豆粥をもてなしたところ、その粥に塩気がないのを不思議に感じて僧がたずねると、貧しくて塩が買えないと答えた。すると、僧は川に降り、手に持った錫杖を地面に突き刺し、祈祷したのち引き抜くと、たちまち塩辛い水が噴出したとされている。以来、そのおかげで塩を手に入れることができるようになったという。その後、その僧は弘法大師だということがわかったそうである。巴川の川のなかに、やや黄色をおびた塩水が湧出しているところがある。地元ではこれを弘法井戸とも、塩井戸とも呼んでいる。この種の伝説は、「弘法清水」「弘法井戸」などというが、全国各地で、その土地の人々の真心に大師が報いたという形式の物語が発達しており、かつて、それを説いてまわった修験者など、密教系の宗教者の存在があったとみられている。(千葉県HP 教育委員会より)

2、≪神々廻  ししば≫ 白井市

神埼川の左岸に位置し、木下(きおろし)道が通る。
江戸時代始め頃にはこの地名はあり、「神々迫」とかかれているものもあるという。
読みも「シシバサマ」などと振られたものもあるという。(平凡社 千葉県の地名)
域内の花掘込には中世の神々廻城跡がある。(角川 日本地名大辞典)

地名の由来については
「17紀以前のこの地域の村名を示した古文書に「志しはざま」という表記があり、東西南北の四方向、四至(しいし/しし)に細長い谷津の狭間がある環境を表現したものだろう」と白井市の生涯学習課の方の見方がありました。
その他、鹿(しし)の狩り場であったなどの見方もあるようです。

3、≪神門 ごうど≫ 佐倉市

印旛沼南部の丘陵地帯に位置し、中世以来香取への交通の要衝で、中心部は十字路になっている。(角川 千葉県の地名)

地名の由来としては、
1.この地が香取神宮への要衝の地で、神の門への入口とみられていたことに由来する。
  または、ここから東方にあった宮本の山王神社への入口を意味したことによる。
2.ゴロゴロとした石が多い土地という意味。
3.「たき(高)と(処)」の転訛で急傾斜地という意味。
などがありました。

同じ千葉県内の「ごうど」「ごうと」地名には
・合戸(どうど) 富山町・・・護法戸村、御法土村などの表記も江戸時代初期にされていた。
・郷渡村(ごうとむら) 勝浦市
があります。それぞり地名由来ははっきりしません。

4、≪神代 かじろ≫ 市原市

戦国時代に「梶路郷」と見え、村上民部大輔の所望に任せて守護不入の地に定められている。(角川 日本地名大辞典)
中世の城跡(神代城跡)があり、村内に日本武尊の東征時に創建されたともいわれる神代神社がある。三大実録に記載された「神代神」はこの神社のこととされる(平凡社 千葉県の地名)

東庄町と干潟町には「上代」と書いて(かじろ)と読む地名があり、神代とも書いていた。
平安期の和名抄の下総国海上郡に「神代郷」という郷名がある。
この「神代」の意味は「神稲代」の略で、神に供する稲田の地で香取神宮の邑であったとされています。(角川 日本地名大辞典)

このため、この市原氏の神代(かじろ)も同じ「神稲代」の意だったのかもしれません。

ただ、「梶路」地名については和歌山県と大阪府の県境付近に「梶路」で「かじ」と読む場所があり、梶路峠、梶路谷などの地名がありました。こちらは少し意味合いが違いそうです。

その他の「神代」とつく全国の地名を探してみました。
北海道室蘭市神代町 (かみしろちょう)
秋田県仙北市田沢湖神代 (じんだい)
千葉県市原市神代 (かじろ)
富山県氷見市神代 (こうじろ)
石川県羽咋郡志賀町神代 (かくみ)
愛知県半田市神代町 (かみしろちょう)
兵庫県南あわじ市神代 (じんだい)
島根県雲南市三刀屋町神代 (こうじろ)
岡山県津山市神代 (こうじろ)
岡山県井原市神代町 (こうじろちょう)
岡山県新見市神郷下神代 (こうじろ)
岡山県新見市哲西町上神代 (こうじろ)
岡山県真庭市神代 (こうじろ)
山口県柳井市神代 (こうじろ)
福岡県久留米市山川神代 (くましろ)
長崎県雲仙市国見町神代 (こうじろ)

このように「こうじろ」と読む地名が多くありました。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/06/16 21:35

千葉の難読地名(17) 神納、御子神、神久保

「神」と付く地名 その二

≪神納 かんのう≫ 袖ヶ浦市
≪御子神 みこがみ≫ 南房総市
≪神久保 いものくぼ≫ 八千代市
≪榎神房 えのきかんぼう≫ 茂原市


千葉難読地名17

5、≪神納 かんのう≫ 袖ヶ浦市

貞治元年(1362)の寄進状に「加納郷」と見える。また文禄3年(1594)に神納村との村名が記載されている。(平凡社 千葉県の地名)

地名は、
1)飯富の式内社飯富神社の加納田があった事に由来する
2)率土神社に神鏡(八咫鏡)を収めたため「神納」と称したことに由来する(率土神社縁起)
などあるが、地形語で「浸食された山麓沿いの傾斜地」などという説もある。

口碑によれば、源平の乱で、宇治川の戦いに敗れた摂津源氏の一党6名がここに逃れてきて帰農したのが草分けだという。
(角川 日本地名大辞典)

<神生 かんのう> 旧山田町(香取市)
 神尾とも書き、加納または神野が転訛したものと言われる。

<桑納 かんのう> 八千代市
 官能村などとも昔は書かれていた。
 神生、神納、神尾、神呪など皆「カンノウ」と読み各地に散見される。
 これらはほぼ同じ崖地などの地形語と考えられる。

<観音 かんのう> 佐原市
 地名は聖観世音を本尊とする真言宗観音院(廃寺、現在観音堂)の所在によるものか。(角川 日本地名大辞典)
 この地名も上の神納などと同じく地形語であったものが、地元に観音院があったために「観音」と書かれるようになったのではないか。

6、≪御子神 みこがみ≫ 南房総市(丸山町)

慶長2年(1597)に村名が見える。
古来から神社本宮の主神からその子供を神として分けて祀ることも行われてきた。
子神などを祀った所を「若宮」または「御子神(みこがみ)」と呼んでいるので、この地名もその流れでしょう。
御子神地区には「王子神社」が安置されていますのでこれに 因むものと考えてもよさそうです。

7、≪神久保 いものくぼ≫ 八千代市

古くは芋窪・神窪・伊毛窪とも書いた。室町期は伊毛窪村、江戸期は神窪村。
神久保地名になったのは明治22年

地名の由来としては
「いも(傾斜地の滑落土が堆積した)・の(接続詞)・くぼ(窪み)」=「いものくぼ」から変化したと考えられます。

8、≪榎神房 えのきかんぼう≫ 茂原市

元は「神房村(かんぼうむら)」といった。
地名の由来は、地元では日本武尊が子ノ神社に住んだことにちなんだとされている。(角川 日本地名大辞典)
また、神房村は桂村(桂郷)に含まれていたが、寛文10年(1670)に分村して誕生したという。
明治9年(1876)以前に「榎神房村」に改称した。(平凡社 千葉県の地名)

神房(かんぼう)もやはり崖の地形語からだとされています。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/17 07:00

千葉の難読地名(18) 三ケ月

 ≪三ケ月  みこぜ≫ 松戸市

千葉難読地名18


その他月のつく地名
 ≪月出  つきで≫ 市原市
 ≪坂月  さかづき≫ 千葉市若葉区
 ≪月崎  つきざき≫ 市原市
 ≪江月  えづき≫ 安房郡鋸南町
 ≪月毛村 つきげむら≫ 君津市)

 (月毛村は、江戸期からあり、寛文5年(1665)の神社棟札に村名がある。明治10年に川俣村に吸収され消滅)

幾つかヒットしたのですが、読みとして難しいのは「三ケ月(みこぜ)」くらいでしょうか。


 ≪三ケ月  みこぜ≫ 松戸市

この「三ケ月」地名の由来はどこを調べてもほぼ一致しています。

この総国で勢力をふるった「千葉氏の家紋(定紋)である月星のマークから採られた」と書かれています。

千葉氏_紋

この三日月と星をあしらった家紋、それも定紋から三日月を地名にしたというのです。

さて、本当にそうでしょうか? 私はとても不思議に思われます。

歴史を振り返ってみると、桓武天皇の祖孫である高望王が平氏の名を戴き皇室を離れて、東国に3人の子供(国香、良兼、良将)をつれてやってきました。
そして、土地の豪族と姻戚関係などを築きながら上総・下総・常陸の国を開拓して、その子供たちはそれぞれの開拓地に土着していきました。
長男国香が常陸国へ進出し、常陸大掾氏となっていきますが、三男の良将の子供の将門(まさかど)が起こした乱により争いが起こります。これにより良将派は消滅しました。
次男の良兼も上総・下総に勢力を延ばしていましたが、この将門との争いで衰退し病死してしまいます。
国香も将門に破れ死去しますが、その子供により将門は滅ぼされ、常陸国の大掾(だいじょう)氏が続きます。

さて、千葉氏ですが、この素性が良くわかりません。
一般には高望王の5番目の子供の「良文」(側室の子)が、将門の争いに巻き込まれず、遅れて東国にやって来て、埼玉県熊谷市の村岡に住して「村岡五郎」と名乗ります。
その後、神奈川県藤沢や、千葉県東庄町などに移り、最後は阿玉郡などに住して千葉氏の祖となったといわれています。

この千葉氏の子孫が各地に城を築き、勢力を拡大していきますが、多くは鎌倉時代以降に大きな勢力となったようで、詳しく見ていくとどうも香取神宮の祭神「フツヌシ=物部氏」の血筋がつながっているように感じます。

千葉氏の城の中や近くに「側高(そばたか)神社、(他、蘇羽鷹神社など千葉県内にたくさんある)」が祀られていますが、この祭神は「側高神」といわれ、この神の系統がまったく秘密にされ、全く素性が分りません。
不思議な神社です。
この松戸にも「蘇羽鷹神社」があり、松戸市の小金地区には、中世の下総国一帯を支配した千葉氏の家臣で、東葛地域を治めた高城氏の城があったという。
また、小金地区二ッ木台には、鎌倉時代末期から千葉頼胤(よりたね)の城館があったともいわれている。
この千葉氏の家紋の月星から「三ケ月」となり、「みこつき」・「みかつき」とも呼ばれ、後に訛って「みこぜ」と変化したと云うのが定説のようです。

でもなにか不思議な気がしませんか?
そこを治めた一族の家紋から名前がつくというのがどうも納得できません。
なぜなら家紋の始まりは関東の武士団としては戦国時代ですよね。
(貴族にはそれ以前に家紋を使っている例もあるようですが)
争うときに自分たちの旗頭を決めないといけなくなったということです。

地名と家紋の歴史の前後はどちらが先なのでしょうか?
この千葉氏の定紋は少し格好が良すぎのように思います。比較的後から定められたのではないでしょうか?
どなたか詳しい方はお教えください。

この初期の呼び名「みこつき」は室町時代には存在していました。
本土寺過去帳の15世紀前半(1440年ころ)に「ミコツイ」「ミコツキ」地名があり、これが今の「みこぜ=三ケ月」地区を示しているといわれます。

千葉氏の家紋(月星)がいつ頃から使われ始めたのか分りませんが、おそらく地名の「ミコツイ」や「ミコツキ」というのが最初に呼ばれていた地名で、後から「三ケ月」と書くようになったものと見るのが自然です。
ただ、この「ミコツイ」がどのような意味を持つかは分りません。

木枯らし紋次郎の生れ故郷は上州新田郡三日月村(みかづきむら)といわれています。

≪月出  つきで≫  市原市

 これは難読でもなく普通の読み方ですね。
でも少しここに取り上げたくなりました。
それは茨城県稲敷市に「月出里」と書いて「すだち」と読む地名があるからです。
その昔は「月出村」と書いて「すだちむら」でした。

月と出を一緒にした漢字「朏(ひ、みかづき)」は「三日月」特に、明け方の出たばかりの薄暗い月を示す漢字だそうです。
空に出たばかりの三日月、新月を「ついたち」といいこれが「すだち」となったと見られています。

こんな「みかつき」がミコツイとかミコツキとか呼ばれて地名になるのも悪い事ではないと思います。


≪坂月  さがづき≫  千葉市若葉区千城台
 地名の由来は「歌枕藻塩草」の「盃井というを挙げて下総とす。坂月村のことにや、東路にさしてこんとは思はねど盃の井に影をうつして」によるという。)(角川 日本地名大辞典)
この坂月には縄文時代の遺跡や貝塚が発見されています。

≪月崎  つきざき≫ 市原市
 文禄3年(1594)に月崎村の村名記録がある。

≪江月  えづき≫ 安房郡鋸南町
地名の由来は「入海に接する地域」の意とある(角川 日本地名大辞典)

≪月毛村 つきげむら≫ 君津市
 月毛村は、江戸期からあり、寛文5年(1665)の神社棟札に村名がある。
明治10年に川俣村に吸収され消滅。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから

千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/18 05:08

千葉の難読地名(19) 日在、日秀、日当

≪日在  ひあり≫ いすみ市
≪日秀  ひびり≫ 我孫子市
≪日当  ひなた≫ 長生郡白子町(南・北)


千葉難読地名19


千葉県内の「日(ひ)」から始まる地名を探してみました。

≪日在  ひあり≫ いすみ市

ここは「日在海岸」としてむかしから有名で、多くの著名人も訪れています。
・山本有三 ・・・ 「真実一路」を近くの旅館に宿泊して書いた。
・林芙美子 ・・・ 「放浪記」の中で、日在海岸の情景を記している
・森鴎外 ・・・ 日在地区内に別荘を建て、小説「妄想」に近くの光景を描写
    その他、有名人の別荘も沢山あった。(平凡社 千葉県の地名)

 ここは、元大原町で、戦国期に「ヒヤリ」の地名があった。「ヒヤリノ円明寺」などと書かれている(平凡社 千葉県の地名)
江戸期は「日在村」とか「日有村」などと記載がある。
地名由来としては
・紀伊国日高の字体くずれで、紀伊・和泉などの上方漁民の移住を裏付けるもの(夷隅風土記)
・昔貴人がこの地を通った時、まだ太陽が在ると言った
・「ひび(皹)・あり(有)」で亀裂(浸食による谷)のある土地という意味
などの説がある。

(ヒアリ、ヒヤリ 地名)
・静岡県浜松市天竜区日明 (ひあり)
・埼玉県加須市上樋遣川 (ひやりかわ) 樋遣川村(ひやりかわむら)があった。
・兵庫県淡路市ヒヤリ峠        (ひやりとうげ)

地名を漢字で考えてしまうと意味が不明な事が多いので、ヒアリ、ヒヤリで検索してみました。
意味はやはり不明でしたが、ヒヤリ ⇒ ヒアリ の流れだと思われます。

≪日秀  ひびり≫ 我孫子市

下総国相馬郡のうちにあり、古くは「日出村」と称し、元禄5年(1692)新木村から分村し「日秀村」と改称した。(角川 日本地名大辞典)
日秀村の南、手賀沼の北に「日秀新田」があるが、ここは江戸期からの手賀沼開発によって成立した新田村と思われる。(角川 日本地名大辞典)

調べてみると、日秀(ヒビリ)地区には「将門神社」があり、多くの "平将門"伝説があります。このため地名由来のもこの将門に関するものがあります。

1) 手賀沼を臨む台地から日の出を拝んだことに由来
2) 古くは「日出(ひいで)」と呼ばれ、それが「ひいび」と転訛し、 「日秀」の文字があてがわれ「ひびり」となった
将門伝承では
3) 天慶三年(940)に将門が戦没するや、その霊が対岸の手賀沼村明神下より沼を騎馬にて乗り切り、湖畔の岡陵に登り朝日の昇天するを拝したことによる
4) 将門の遺臣である日出弾正なる者がこの地に隠栖(いんせい)したことから、日出(ひいで)村と呼ぶようになった
などとも言う。

ただ、日出村(ひいでむら)の表記は元禄15年(1702)の水神社の石祠にも記されているが、それより前の寛文12年(1672)の庚申塔には「日秀村」と刻まれているとある。
角川の地名辞典には「旧高旧領」に「日秀村新田」と記載があるが、誤記か。などと書かれている。
恐らく1702年に誕生した「日秀村(ひびりむら)」よりも以前から「日出」「日秀」の両方が使われていたのではないかと思われる。

将門神社の西にある「日秀西遺跡」(県立湖北高校用地近辺)が学校建設時に発掘調査ガ行われ、縄文時代から平安期の遺稿が見つかっています。この中に官衙の建造物の跡が見つかり、8~9世紀の古代郡衙(ぐんが)跡と考えられています。
千葉県内初の「和同開珎」の銀銭が見つかっています。(角川日本地名大辞典)

≪来秀  らいしゅう≫ 鴨川市

「日秀」と似た地名「来秀」がありましたので、紹介しておきます。
読みからは普通の音読みで「らいしゅう」です。
江戸時代初期は「太尾(ふとお)村」に含まれていましたが、元禄6年(1693)に分村して「来秀村」が誕生しました。(平凡社 千葉県の地名)
地名の由来としては「くり(抉)・ほ(山頂)」の転訛で山頂付近が崩れたことを指したものか」との説がありました。

≪日当  ひなた≫ 長生郡白子町(南・北)

 文禄3年(1594)の上総国村高帳に「南日当村」「北日当村」の記載がある。
周辺の低湿地の開発は天文期(1532~55)に行われたが、水害被害も多く、土地が砂地のため悪米の場所であった。

地名も恐らく日当たりの良い場所への願いが込められたものか?

その他、「日」のつく地名として以下のものがあります。

・千葉県山武市日向台 (ひゅうがだい)
・千葉県松戸市日暮 (ひぐらし)


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから




千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/19 04:58

千葉の難読地名(20) 廿五里、十三間戸

≪廿五里  ついへいじ≫  市原市

千葉難読地名20


千葉県には数値の入った地名がたくさんありますが、今回はその中で少し大きな数値の地名を拾ってみました。

1) >≪廿五里  ついへいじ≫  市原市

  戦国期には津比地(つひじ)と見え、江戸期には津以比地(ついひじ)、二十五里とも見え、また露乾地(つゆひじ)とも書いたと伝える。(角川 日本地名大辞典)
地名の由来は、鎌倉から25里の里程にあったことによるという伝承があるが未詳(角川 日本地名大辞典)

場所は養老川に面する低平地のため、しばしば洪水の被害を受けた。
この場所は川の渡し場があり、津比地(つひじ)郷と記録されており、地名の名は元は「築地(つきじ)」と同じ埋立地、それも津(湊)を作るために埋め立てた場所ではないかと思います。
その他、
・ 「す(洲)・ひじ(泥地)」の転訛で養老川の運んできた土砂の堆積地で泥湿地
ともありました。

この【つひじ】が何故江戸時代になって「廿五里=二十五里」と書くようになったのか。
・ 石が多く混じるゴリゴリした土地であったことから五里×五里=二十五里 ⇒ 廿五里 と変化したという説
・ 昔当地の東泉寺にあった繍仏(刺繍の仏像)が霊異を起こし、これを崇敬した源頼朝が毎月焼香の使いをよこした。その距離が25里であったという説
などがありました。
25里=約100kmほどですから、鎌倉までの距離も、古東海道のように東京湾を船でわたれば30kmほどしかはなれていませんが、陸路を行けば100km以上はありそうです。

2) ≪十三間戸  じゅうさんまど≫  神崎町

 ここは茨城県稲敷市(旧河内町)にある十三間戸  昭和41年(1966)に起立。もとは現茨城県稲敷郡河内町十三間戸字元野。地名は「じゅうさん(十三)・ま(間)・ど(処)」で長さの単位で何かが十三間(一間は約180センチなので約2340センチ)ある所という意味。

鎌倉時代に奈良に忍性が「北山十八間戸(けんと)」というハンセン病の保護施設を建てましたが、これは1間一部屋で18部屋の長屋敷の施設でした。

また我孫子の小字名ですが、「四間戸(しまど)」「十二間戸(じゅうにまど)」という地名があります。
この間戸(まど)はおそらく竈(かまど)の意味だろうといわれています。
その地区に生活する人々の所有していた竈の数=家の数 を表していたのでしょうか。

ただ、日本語の「窓(まど)」は昔は「間戸」と書いていました。
英語では風が通るところとの意味合いがありますが、日本の「間戸」はそこから庭や景色をながめるところという意味合いがあるように思います。

3) ≪十五沢  じゅうごさわ≫ 市原市
  文禄年間以降(1592~1596)に新生村から分村して十五沢村が成立。
地名は「もち(傾斜地)・さわ(沢)」の変化したもの。
満月=望月=もち=十五日であることから「十五」=「もち」は傾斜地を指す。

4) ≪十太夫  じゅうごだゆう≫ 流山市
  江戸期は十太夫新田。小金牧のうち上野牧の一部を慶安2年(1649)に新田開発して成立。
  地名は新田開発者名を採ったもの。
  現在はおおたかの森といった方が場所は分りやすくなったが、旧地名を残そうとしているようだ。

5) ≪五十蔵  ごじゅうくら≫ 南房総市和田町
 慶長年(1597)の検地帳では「五十倉村」とあり、正保郷帳には「五十(いそ)蔵村」とある。
全国に「五十」とつく地名はかなり多く、五十鈴、五十川、五十人、五十石などたくさん出てくる。
一般には五十は数値の中では大きな数値で、「たくさん」という意味で使われているようだ。

6) ≪九十根  くじゅうね≫ 大網白里市
 地名は砂丘・小丘などの連なった土地の意か。(角川 日本地名大辞典)

7) ≪万石  まんごく≫ 木更津市
 南北朝期~室町期は万石郷とみえる。また万国郷・万石村などともある。
江戸期は万石村と記している。
地名は小櫃川最下流域にあり、「はし(端)」の転訛での土地を指したものか。

<その他の各地の万石地名>(五万石、百万石などは除く)
宮城県石巻市万石町 (まんごくちょう)
秋田県湯沢市万石 (まんごく)
岐阜県大垣市万石 (まんごく)
岐阜県高山市朝日町万石 (まんごく)
京都府京都市西京区松尾万石町 (まんごくちょう)
熊本県熊本市北区清水万石 (まんごく)


8) ≪万木  まんぎ≫ いすみ市 
戦国期に万喜とあり、万騎とも書かれている。
江戸期は万木村、万喜村と両方の地名表現がある。
場所は夷隅川の中流に位置し、川が蛇行する様を「まき(巻き)」と表現したものか。

9) ≪萬歳  まんざい≫ ≪萬力  まんりき≫ 旭市
  萬歳、萬力ともに、椿海(つばきのうみ)を寛文年間(1661~1673)から新田開発したことで、新たに成立した村である。
地名に佳字を充てたものである。
開拓者の人々の思いが地名に込められている。

その他「五十土(いかづち)」(千葉市若葉区)は、No.13の「土」のつく地名でとり上げた。


千葉の地名シリーズ最初から読むには ⇒ こちらから


千葉の難読地名 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/06/20 05:13
 | HOME | Next »