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カニの恩返し

 「今はむかし・・・」で始まる今昔物語や、御伽草子には私たちが知っているお話がたくさん載っています。

今昔物語は平安時代末期に成立したとみられ、全31巻(うち3つは欠)あるそうです。
また御伽草子は鎌倉時代末期頃に書かれ、一寸法師や浦島太郎に酒呑童子などお馴染みの話が載っています。

また、この話が基になったとおもわれる地方に伝わる民話や昔話がたくさんあります。

最近もっと前の平安時代初期の「日本霊異記」の一部を読んでみました。

これらは皆、仏教的な「説話集」といえそうです。

地方のふるさと昔話などについて書いたりしましたが、どうもこれらの話や、中国の話などを調べてみればかなり共通した話が時代などや、その地方などでいろいろに姿を変えていそうに思います。

地方に伝わり、その地方の言葉で語られたものは、その地方でしか表せない独特の響きや、そこに根付いている生活が伝わってきますね。 でもその話の元の話も知っておいて悪いことはないでしょう。

そんな点で、気がついたことをこの場に少しずつ残しておきたいと思います。
後から何かに思い当たることもありそうですので。
興味のない方は読み飛ばしてください。

最初は「カニの恩返し」です。

では、地方に残る昔話をネットで探してみましょう。

① 山形県の民話(元記事:フジパン提供⇒こちら
 『蟹の恩返し』
 昔、あるところに一人の爺様(じさま)がおって、前千刈(まえせんか)り、裏千刈(うらせんか)りの田地(でんち)を持っておったと。
 その爺さまに一人の気だてのいい娘がいたと。
 娘は毎日、鍋釜(なべかま)を井戸で洗うのだが、そのたびに、井戸に住みついた沢蟹に、洗い落としたご飯粒を与えて可愛がっていたと。
 ある春のこと。 娘の家では大勢の田植え人を頼んで、田植をしたと。
 娘は田植の小昼飯(こびるめし)に、黄な粉をまぶした握り飯を作ったと。稲の穂が黄な粉みたいに黄金色に稔るように願ってだと。
 その握り飯をひとつ、井戸の蟹へ呉れてから田んぼへ持って行ったと。
 そしたら、田の中道(なかみち)で、大っきな蛇が通せんぼしたと。そして、 「オレの嫁になんねえと、田に水をかけてやんねぇぞぉ」というのだと。
 娘はびっくりして、 「おっかねちゃぁ、誰か助けろやぁい」と叫んだと。が、誰も来ない。
 しかたない、握り飯を投げつけて逃げ帰ったと。

 大蛇は、その握り飯をストンストン、みんな呑み込んでから、 「今度(こんだ)ぁ、あの娘ば呑む番だ。待で、待でぇ」
といって追っかけて来たと。
 爺様、娘の語る訳聞(わけき)いて、すぐ、蔵の中の石の唐櫃へ、娘をわらわら隠したと。
 追っかけて来た大蛇は、火ィみたいな赤い舌をペロラペロラ吐いて、 「やい爺様、ここさ娘が逃げて来たべ。隠したて、だめだ。オラすっかり分ってんだ」
といって、すぐに蔵の中の唐櫃を見つけて、グルリ、グルリ七周り半も巻きつけたと。
 石の唐櫃が熱(ねつ)もって来て、中から、 「あついっちゃ、あついっちゃ。助けてけろやーい」
と、娘の叫けぶ細い声が聞こえたと、爺様が、 「やめれ、やめれ」
と、おろおろしてたら、井戸から、大っきな蟹が出て来て、ガサラ、ガサラ蔵の中へ入って行ったと。
 そして、大っきなハサミで、大蛇をバッキン、バッキン切りにかかったと。
 大蛇も蟹にからみついて、ギリギリ締める。
 バッキン、ギリギリ。ギリギリ、バッキン。
 大っきな蟹と、大っきな蛇が、全力かけて戦ったと。

そのすきに、爺様は娘を石の唐櫃から出して、逃げたと。
 戦いは蛇が負けて蟹が勝ったと。
 したが、蟹もくたびれ切ってハァ、ついに死んでしまったと。
 爺様と娘は、「カニ観音」をつくって、その蟹を祀(まつ)ったと。
 こんなことがあるから、弱い生き物をも大事にしなければならないもんだと。
 「情けは人のためならず」 ってな。
 ドンピン、サンスケ、猿の尻(けつ)。

② 福岡県 (フジパン提供 ⇒ こちら

 昔、筑後(ちくご)の国は三池(みいけ)の里に、今山(いまやま)というところがあって、殿さんの大きなお屋敷があったんやと。
 その殿さんには大層(たいそう)かわいらしい姫さんがおらっしゃった。
 あるとき、姫さんがお屋敷内(おやしきうち)の大きな池のほとりで遊んでござらっしゃると、なにやら、ムザリ、ムザリ動くもんがある。
 「あれぇ、ちいっちゃいカニじゃ。手足もこんなにやせてぇ、たよりなげやなぁ」
と言って、お供の者に頼んで、そのカニにごちそうをやんなさったと。 
 カニは、それから毎日、姫さんが池のほとりに来るのを待っとって、ごちそうをもろうておったもんだから、一日、一日大きゅうなっていったんやと。
 あるとき、お屋敷中のみんなで今山の花見に出掛けなはったと。
 殿さんも家来(けらい)たちも、花や酒に酔って浮かれて、そりゃあもう、にぎやかなこつさわぎまくっておんなさったと。
 そんなすきに、姫さんな、ひとり、ふらふらと離れて小川の淵までやって来なはったんじゃと。
 淵に寝ころび、足を流れにつけて、チャップリ、チャップリ遊んでおらっしゃった。
 そんとき、一匹の大蛇(だいじゃ)が、草にまぎれて姫さんに近づいてきよった。
 姫さんな、むじゃきにしよって気ぃ付かないんやと。
 すぐきわまで近づいた大蛇が、カマ首を持たげて、そろそろ姫さんの首へ咬(か)みつこうかというときじゃった。
 えらい大きなカニを先頭に、たぁくさんのカニたちが、どこからともなくあらわれて、大蛇めがけて飛びついて行った。  
 さぁ、姫さんな、びっくりしなはったわ。見れば、おっそろしか大蛇じゃもん。それに何万匹というカニたちが、まるで阿修羅(あしゅら)のごと、戦っとるんじゃもん。
 けんど、ほどなくして、大蛇が三つに切りとられて、はげしゅうのたうちまった。
 三つの身ィそれぞれが、真っ赤な血ば吹き出しながら土の中にのめりこみ、みるみるうちに血の池を三つこさえたと。
 大っきなカニは、姫さんがごちそうをやっとったカニじゃったと。
 こんなことがあってからというもの、今山の衆は、どげなことがあっても、清水(しみず)のカニだけには手もふれず、食べもしないで大事にするようになったんやと。
 それぎんのとん。 

③ 今昔物語 【蟹満寺縁起】(蛇婿入りー蟹報恩の物語)
(今昔物語集巻十六・山城国女人依観音助遁蛇難語第十六より)

 今は昔、山城の国久世の郡に住む者があり娘がありました。
娘は七才の頃より観音経を習い読誦し、毎月十八日には身を清め観音菩薩を念じ拝みました。
十二歳になる頃、ついに法華経一部を習い覚えました。幼い心ではありましたが、慈悲深く人を想い、悪い心など起こす事もありませんでした。
娘はある時、道端で蟹を荒縄で縛り歩いて行く男と出会いました。
蟹は足を縛られ、苦しそうに泡をブクブク出していたのです。
娘はその男にその蟹をどうするのか尋ねると「帰って食べる」といいました。
娘は悲しくなり、家にはたくさん魚(死んだ)がありから、その魚と交換してほしいと頼みました。
男は承知して蟹を娘に渡しました。
娘は家から魚を持ってくると魚と蟹を交換し、蟹を川へ放してやったのです。
 それと同じ頃、この娘の父親が田んぼで作業をしていると、あぜ道で大きな毒蛇が大きな蛙を飲もうとしていました。父親は慌てて止め、毒蛇に向かって「待ってくれ。 その蛙を放してやってくれんか?」といいました。
しかし、毒蛇は言うことを聞かずに更に蛙を奥まで飲み込もうとしたのです。
父親はあわてて、「もし蛙を放してくれるなら、私の娘と結婚させて私の婿にしてやる」といってしまったのです。
すると大きな毒蛇は蛙をはなし、薮の中へと消えていったのです。
父親は「わしはなんと言う事を言ってしまったのじゃ」と後悔し、家に帰っても食事ものどを通らず打ちひしがれていました。娘はこんな父の様子を心配して父に尋ねると、父親はようやく重い口を開いて毒蛇との約束の話を娘にしたのです。
それを聞いた娘は、「心配しないで、何とかなります。」と気丈にいい、何事もなかったようにしていました。
 するとその夜、午後十時頃になり、家の門をたたく音がしました。娘は父に、「あの毒蛇が来たら婚姻の支度に時間がかかりますので、もう三日待って下さい」と伝えさせたのです。
毒蛇そのことを伝えると、三日後にまた来ることを言い残してその日は帰って行きました。

 その後、娘は家の中に頑丈な板で蔵をつくらせ、三日目の夕方にその蔵の中に入り、観音様にご加護を祈っていました。すると夜になって約束通りに毒蛇がやって来ました。
毒蛇は娘がだましたと知って、蔵に巻きつくき、しっぽで戸をバンバンとたたきはじめました。
蛇の胴は蔵を締めつけ、ギュウギュウに締め上げてきました。
蔵の中では恐ろしさに震えながら娘は法華経を唱え、観音様を念じて一晩を過ごしました。
そして夜がもう明けようとする頃に娘の前に一人の僧が現れ娘に次のように告げたのです。
「娘よ、恐れる事は無い。いかな蛇、マムシ、とかげ、さそりの煙火のような毒であろうとも、観音の力を念ずれば、その声とともにたちまち逃げ去るであろう。」

するとそのすぐ後に、蔵の廻りからザワザワと何か別のものが沢山寄ってくる音が聞こえました。そして、その後、蛇の身をよじる音が聞こえ、蛇の姫異なよう直人が聞こえてきて、やがて静かになりました。

 すっかり夜が明け、娘は蔵の戸をそっと開けて外に出ると、そこには何万匹もの蟹がいたのです。
そして大きな蟹があの毒蛇の頭をはさみで押さえ込み、無数の蟹が蛇の体にまとわりついて毒蛇をはさみ殺していたのです。
大きな蟹は娘の姿を見ると蛇の頭を放し沢山の蟹を引きつれ静かに去って行きました。

 娘と両親は蛇の遺骸を埋め塚とし、その上にお寺を建てました。
蛇の苦を救い、多くの蟹の殺生の罪を償うため、仏像を造り経典を写し供養したのです。
その寺は今も残っており、もとは蟹満多寺(かにまたでら)と言いましたが、人々はその由来を忘れたのか、今は紙幡寺(かみはたでら)と呼ばれています。

蟹満寺

この今昔物語は平安時代後期の1130年頃にまとめられたものといわれています。

④ 日本霊異記(平安時代前半:800年頃)・・・霊異的な仏教説話
 <講談社文庫の日本霊異記(中)(中田祝夫 訳)より>

「蟹と蛙との命を買って放生し、現報を得し縁」(第八)

 置染臣鯛女(たいめ)は奈良の都にある富の尼寺の上席の尼、法邇(ほうに)の娘であった。
鯛女は仏道を修行しようとする心が非常に堅固で、まだ一度も男との交渉はなかった。
そして、行基菩薩に捧げる野の菜をいつも心をこめて採り、一日もかかさず師に奉仕していた。
 鯛女は山に入って菜を採っていた。見ると大きな蛇が大きな蛙を飲みかけていた。
そこで大蛇に頼んで、「蛙を許してやってくだし」といった。
大蛇は聞き入れずに飲み続けた。そこでもう一度お願いして、
「わたしはあなたの妻となりましょう。わたしに免じて許していただければありがたい」
といった。大蛇はこれを聞き、頭を高くもたげて鯛女の顔を見つめ、蛙を吐き出した。鯛女は大蛇と約束して、
「今日から7日たったら来なさい」
といった。そして約束の日が来たので、戸を閉め、開いている穴をふさぎ、鯛女は身を引き締めて部屋に籠っていると、ほんとうに大蛇は約束どおりに来て、壁をたたいた。
 鯛女はすっかり恐ろしくなり、次の日、行基菩薩にこのことを申し上げた。行基菩薩は生駒山に住んでおられた。
「お前は逃れることはできないだろう。ただただ仏の戒めを守っているがよい」といわれた。
そこで仏・法・僧の三宝をあつく信じ、五つの戒律を受けて帰ってきた。
と、道に見知らぬ老人が大きな蟹(かに)を持っているのに会った。
「どこのお爺さんですか。どうぞわたしにその蟹を譲ってください」と頼んだ。老人は
「わたしは、摂津国兎原郡の者で、画問邇麻呂(えどいのにまろ)というものである。
年は78歳になるが、子もなく孫もなく、生きていくにも方法がない。
難波に行って偶然この蟹を手に入れた。だが約束した者がいるので、お前さんにやるわけにはいかない」といった。
鯛女は上衣を脱いで代金としたが、やはり聞き入れない。次に裳(も)を脱いでこれを加えて買おうとすると、老人は承諾した。
そこで蟹を受け取り、ふたたび生駒山に帰り、行基菩薩にお願いし、呪文を唱え、祈願をこめて放してやった。行基菩薩は、
「尊いことだ。善いことだ」と感嘆された。
8日目の夜、ふたたび大蛇が来て、屋根に登り、屋根のかやを抜いて入ってきた。
鯛女は恐ろしさにぶるぶる震えていた。そのとき、ただ床の前で跳ね上がり、どたばたと大きな音を聞いた。
明くる日見ると一匹の大きな蟹がいた。しかも大蛇はずたずたに切られていたのであった。
 そこで、これは鯛女が買い取って放してやった蟹が、鯛女の恩に報いたのだとわかった。
しかし、また、これは戒律を受け守ったためでもあったのだ。
 この話の真偽を確かめようと思い、さきの老人の姓名を尋ねたが、その老人にはついぞ会えなかった。
ここではっきりとわかった。
老人は聖者がかりにこの世に人間の姿をして現れ出たのであったということが。
まことに不思議な話である。


日本霊異記にはもう一つ、「蟹と蛙の命を買い取って放し、現世で蟹に助けられた話 第十二話」の話が載っていて、ここには、娘が8匹の蟹と大きな蛙を助け、8匹の蟹が蛇をずたずたに切った、という話が書かれていて、今昔物語の話はこちらの話に近いかもしれません。

さて、奈良県木津川市にある「蟹満寺(かにまんじ)は今昔物語にその寺の名前が出る古いお寺で、この今昔物語が寺の縁起となっています。奈良県ですが京都府との境に近く、奈良から京都に行く中間地点にあります。
この寺では、現在、毎年4月に蟹供養がおこなわれています。

蟹満寺は1990年に発掘調査が行われ、飛鳥時代の後期(7世紀末)頃に創建された寺院であったと推察されています。
発掘調査の結果、ここには大規模な寺院建築の跡が発掘され、その規模としては、本堂が奈良の薬師寺の金堂とほぼ同じくらいの大きさの建物であったと見られています。
今まで平安時代の創建と思われていたこの寺でしたが、この発掘調査により、出土瓦の同笵瓦との比較から、創建時期は、高麗寺瓦よりも古く白鳳期である680~690年前後ではないかと推定されたのです。  
また寺の創建には朝鮮半島からの渡来人集団である秦(はた)氏一族が係わっていたと考えられていますが、正確な記録はなく明確ではありません。
秦氏といえば、聖徳太子に仕え京都太秦(うずまさ)にある広隆寺を創建した秦河勝(はたのかわかつ)が有名ですが、中国の「秦の始皇帝」の末裔を自認していたといわれています。

 この今昔物語に書かれている寺の名前については、「その寺は今も残っています。もとは蟹満多寺(かにまたでら)と言いましたが、人々はその由来を忘れたのか、今は紙幡寺(かみはたでら)と呼ばれています。」とあります。
これから昔は「紙幡寺(かみはたでら)」「加波多寺(かばたでら)」などとも言われており、「蟹満多寺(かにまたでら)」などと呼ばれていたことがわかります。
現在の寺のある場所の地名は「綺田(かばた)」といいます。この読み方は「カニハタ」「カムハタ」と発音されていたようです。
そしてそれが、「蟹幡」「加波多」などと表記されていました。
そして奈良時代、平安時代などより伝わる仏教説話の中に登場する蟹の恩返しの説話が今昔物語などのお話となり、この寺の名前の「カニ」という名前に結びついて語られるようになったと考えられます。

また地名由来から考えると、この地は「神(カム)」と織物を意味する「幡(ハタ)」から「蟹幡(かむはた)郷」となったと考えられ、これからも古代に、渡来系民族で織物にたずさわる人が多く住んでいたのではないかと推察されます。
平安時代以降は、今昔物語集に出てくる「蟹の恩返し」縁起の寺として有名になりましたが、あまり資料が残されていないために詳細は不明です。
しかし、江戸時代の1711年に真言宗知山派総本山である「智積院(ちしゃくいん)」の僧・亮範(りょうはん)が再興しましたことが記されています。
この亮範は越前(現福井県)出身の僧ですが、京都東山の智積院から江戸へ出て、将軍徳川綱吉の帰依を受けて江戸に智宝寺を開き、この蟹満寺を再興して智積院の15世となっています。

創建当時の本尊は山号の普門山などからも「観音菩薩」であったと考えられますが、現在の本尊は国宝の白鳳仏である(銅造)釈迦如来坐像です。素晴らしい仏像で、なぜこの寺に残されているのかが良くわかっていないのです。
ただ、この釈迦如来像(国宝)はかなり前よりここに安置されていたのはたしかであり、発掘調査では台座の位置から像の制作時から現在の場所に安置されていたと考えられています。
しかし寺伝では本像は綺田の東方山中にあった浄土宗の大寺院・光明山寺から移されたものともいわれています。 

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どうでしょう。色々な話が伝わっていて面白いですね。

仏教説話と考えると、観音信仰が民衆へ広がりだし、このような説話が語られ、少し一般向けの話としてアレンジされて広がっていったものなのでしょう。
蛇が悪者で蟹や蛙が善であるというのも何時ごろからの信仰なのでしょうか。

また、古事記などには、三輪山伝説などといわれる蛇や龍が美男子に化けて娘と結婚して子供が出来るという話しがあり、日本全国に、その話がいろいろな変形話しとして伝わっています。これらの話では蛇や龍は神様とされています。
蛇は善者なのか悪者なのか、皆さんもいろいろ想像して楽しんでみてくださいね。

また地方に伝わっている昔話は、その地方の言葉で語られますのでそこに独特の味が出てきますね。
話しのルーツを知ることも大切ですが、その地方の言葉も大切に残して行きたいですね。

中国の話はまだ調べていませんが、同じような話もありそうですね。

昔話について | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/02/09 19:38

蜘蛛の糸

 「昔話について」 前回のカニの恩返しに引き続き、残しておきたいと思った話の第2弾は、あの有名な芥川龍之介の「蜘蛛の糸」です。

学校の教科書にも大概載っていたと思いますので、知らない人もほとんどいないお話です。

小説家芥川龍之介が始めて書いた児童向けの小説です。
大正7年(1918)に鈴木三重吉がはじめた『赤い鳥』の創刊号に発表されたものです。

内容をWikipediaに書かれた内容から書き写してみよう。

「釈迦はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。
罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。
カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。
それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。
それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。
このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって「この糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。
すると蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。」

このようにあらすじだけ書くと、この小説のよさが何も伝わらない。
しかし、全文は載せられない。 (青空文庫で呼んでみたい方は → こちら

ただ最後の部分だけをここに載せておきましょう。

「御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカン陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとするカン陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂が、絶間(たえま)なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう」

やはり小説家の文章は違いますね。

ではこの話はどこから思いついたのでしょう。

<1> もっとも有力視されているのが、宗教家ポール・ケーラスが1894年に書いた『カルマ』を、日本の禅の大家である鈴木大拙が翻訳して出版した『因果の小車(いんがのおぐるま)』であるといわれています。
この話は、やはり蜘蛛の糸が題材に使われているのですが、内容が難しすぎて全部を読むのは大変です。
(国会図書館デジタルコレクションより → こちら

これが発表されたのが明治31年9月。
この蜘蛛の糸に引用されたものはごく一部で、
「慈悲深い僧侶が、懺悔する悪人・マハードータ(摩訶童多)に諭す時に、この話をひとつの例として聞かせているのです。
それによると、昔、カンダタという悪人が地獄で苦しんでると、仏陀が現れ、まったく話のスーリーは芥川の蜘蛛の糸とほぼ一緒になるのです。
そして、最後に、僧侶は次のように諭すのです。
「ひたすら上を目指せばカンダタは救われたし、実は大勢で上る方が容易なのだ。
にも関わらず、彼は我執にとらわれて、下に心をとらわれてしまった。
我執こそ地獄、正道こそ涅槃だ」と。
これを聞いたマハードータは「私に蜘蛛の糸を上らせてください。地獄から抜け出せるよう努力します」と。

元の話は禅の思想を示す話ですが、芥川の話にはこの話は省略されています。余分なものは書かない方がいいのです。
また、

<2>スペイン、イギリス、スウェーデンなどに伝わる話。
 こちらはキリスト教の伝説的な話になっていて、地獄にいる母親を引き上げようとしたが、後ろからしがみつく魂や人々に悪態を付いたため、地獄にまた落ちてしまう話となっています。

<3> ドフトエフスキーのカラマーゾフの兄弟・・・1本の葱(ネギ)

この長編小説の中にたとえ話として乗っている話があります。
 「昔むかしあるところに、それはそれは意地の悪いひとりのお婆さんがいて死んだの。
そのお婆さんは生きているうちにひとつもいいことをしなかったので、悪魔たちに捕まって、火の海へ投げ込まれたの。
お婆さんの守護天使は、何か神様に申し上げるような良い行いが思い出せないものかと、じっと立って考えているうちに、ふと思い出して、そのお婆さんが野菜畑からねぎを一本抜いて乞食にやったことがあるのを神様に申し上げたの。
すると神様はこうお答えになった。
それではその一本のねぎを取って来て、火の海にいるお婆さんに差し伸べてやり、それにつかまらせてたぐり寄せるがいい。
もし火の海から引きあげることができたら、天国に行かせよう。
でも途中で千切れたら、お婆さんは今いる場所にとどまるのだと。
天使はお婆さんのところに走って行ってねぎを差し伸べ、さあお婆さん、これにつかまってあがって来なさい、こう言って、そろそろと引きあげにかかったの。
すると、もうひと息で引きあげられるという時に、火の海にいた他の罪人たちが、お婆さんが引きあげられているのを見て、一緒に引きあげてもらおうと、我も我もとお婆さんにつかまりだしたの。
お婆さんはそれはそれは意地悪だったので、みんなを足で蹴散らしながら、『引きあげてもらっているのはあたしで、お前さんたちじゃないよ、あたしのねぎで、お前さんたちのねぎじゃないよ』と言ったの。
お婆さんはこう言うやいなや、ねぎはぷつりと千切れてしまい、お婆さんは火の海に落ちて、今だにずっと燃えているの。
天使は泣く泣く帰って行った。」

こんなお話です。スウェーデンの民話に近い話になっています。ただここでは糸ではなくネギが出てきます。

<4> 日本の民話 :山形県、福島県、愛媛県などに伝わる民話「地獄の人参」「腐った人参」

 ここでは、まんが日本昔ばなしで紹介された「地獄の人参」のあらすじを載せて起きます。

「昔、悪たれ婆さんが死に、生きている間にあくどく貯めた金を握りしめて、地獄に落ちた。
婆さんは、全てのお金をえんま大王に差し出し、極楽に行かせてもらえるように頼んだ。するとえんま大王は「ばかもの。極楽に行かせてもらうには、良いことをしたことのある者でなければならぬ。」と言った。

婆さんは「わしは一度だけ良いことをした。旅の乞食坊主に腐った人参を渡した事がある」と言い、しばらく考えていたえんま大王は「たとえ腐ったニンジンにせよ、人に施(ほどこ)し物をするという心があったならば、極楽に行かせてやろう。血の池に浮かぶ人参にすがれ。」と、婆さんに言った。

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(まんが日本昔ばなし より)

婆さんは「これで極楽に行ける」と大喜びし、血の池に浮かんでいた人参を手にした。人参は婆さんと一緒にするすると極楽に向かって高く高く登りはじめたが、この様子を見た他の亡者たちは次々に婆さんの足につかまった。 
焦った婆さんは「大勢の人が捕まったら、その重みで人参が崩れてしまう」と、足につかまる他の亡者たちを足でけり落とした。と同時に、婆さんの持っていた人参はホロリと崩れ、婆さんは再び地獄に落とされた。

自分さえ良かったら他人はどうでもいい、という卑しい根性だった婆さんは、結局極楽へは行けなかった。この様子を見ていたえんま大王は「やっぱり悪人は悪人だったな」と言い、極楽の仏様は小さくため息をついた。」

この民話が何時作られたものかは不明で、意外に新しいのかもしれません。
でもキリスト教の民話では「ネギ」であったのに、ここでは「人参」しかも「腐った人参」になったのでしょうか。

でも人参は人参でも「朝鮮人参」だったらどうでしょう。
ヒゲの長い人参を思い浮かべると、少し見える景色が違います。
髭人参などという高級な薬草になる人参があります。

Ginseng_in_Korea.jpg
(Wikipedia より)

でも欲の多い婆さんがケチでお金を溜め込んで死んでも、ろくな事にならないというたとえなのでしょうか。
今でもいかにもそんな金持ち婆さんがいそうですね。

このあたりの金持ちは貧乏人から搾取して、自分は何もしないなどという話も聞こえてきます。

自分が損をするなんて、とんでもない。
以前この地に来たばかりの頃、「だってこっちが損してしまう」なんて言葉を言われて愕然としたことがありました。

何も自分はしていないのに、隣の人に何かお金が入るだけで、自分が損をしたと思うらしいです。
隣の人が宝くじを当てたらどんなことになるのでしょうね。

「情けは人のためならず」なんて言うことわざも、きっと間違って理解しているのでしょうね。

昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/11 10:06

百合の精

 可憐な花の精が人(女性)に姿を代えたり、女性が実は花の精であったというような話を題材にした話も昔からいくつも伝わっています。そんな中で特に「百合」がテーマとなった話をまとめてみました。

≪1 夏目漱石 夢十夜: 第一夜≫

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐わっていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。
真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。
しかし女は静かな声で、もう死にますと判然り云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。
そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。
死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。
大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。
その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮かに浮かんでいる。

 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。
それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。

 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。

 しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋うめて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」

 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

 自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮かに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。

 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。
土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。
女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。

 それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。
長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。
抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。

 自分は苔の上に坐った。
これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。
赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。

 しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
 自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。
勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。
しまいには、苔の生はえた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。

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 すると石の下から斜すに自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。
と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾ぶけていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。
真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
自分は首を前へ出して冷たい露の滴たる、白い花弁に接吻した。
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁きの星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

≪2 白百合の精 唐「集異記」≫

 兗州の徂徠山に光化寺という寺がある。この寺の一室を借りて、読書に専心している青年がいた。
 夏のある日、疲れた眼をやすませようと、廊下へでて壁画をながめていると、どこからともなく、白衣に身をつつんだ美人があらわれた。年のころは十五、六。書生は今までにこれほど美しい娘をみたことはなかった。
「どこからおいでになったのです」
ときくと、娘は笑いながら、「この山のふもとに家がございます」といった。
書生はほれぼれと娘を見つめ、部屋へ誘い込んで、ちぎりを結んだ。そのあとで娘はいった。
「田舎娘とお見捨てにならず、これからもお情けをかけてくださいませ。今日はこれで帰らなければなりませんけれど、近いうちにまたまいります」

 書生は何とかして引きとめようとしたが、娘はどうしても今日は帰らなければならないといって、きかない。
そこで書生は、日ごろ大切にしている白玉の指輪を娘にわたして、「これをあげる。これを見たらわたしのことを思って、早くまたきておくれ」といい、娘を送って行った。すると娘は、
「家の者が迎えに出ているかもしれませんので、ここでもうお帰りになってください。」
といってことわった。
書生は娘と別れるとすぐ山門の上へのぼり、柱のかげに身をかくして見ていると、娘の姿は百歩ばかり行ったところで、かき消えるように見えなくなってしまった。

 書生はその場所をおぼえておいて、すぐそこへ行ってみたが、小さい木や草が繁っている原っぱで、かくれるような場所などないのに、娘はどこへ行ってしまったのか、わからなかった。
やがて日が暮れてきたので帰ろうとして、ふと見ると、一本の百合が眼についた。綺麗な白い花をつけている。
書生がその根を掘りおこしてみると、根は両手ではさまなければ持てないほどもあって、普通の百合の根よりも何倍か大きかった。

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 寺へ帰ってから書生は、その大きな球根の皮を一枚ずつはがしてみた。
百枚近くもある皮をすっかりはがしたとき、娘にわたした白玉の指輪が出た。
書生はびっくりし、百合の根を掘りおこしたことを後悔したが、皮をみなはいでしまった今となっては、もうどうすることもできない。
書生は後悔のあまり病気になり、十日たつと死んでしまった。    唐「集異記」

≪3 川端康成 「百合」≫(掌の小説:122編のもっとも短い短編) 1927年5月に百合の花と題して発表

 百合子は小学校の時、「梅子さんは何て可哀想なんだろう。
親指より小さい鉛筆を使って、兄さんの古カバンを提げて。」と思った。
 そして、一番好きなお友だちと同じものを持つために、小刀に附いた小さい鋸で長い鉛筆を幾つにも切り、兄のない彼女は男の子のカバンを泣いて買って貰った。

  女学校の時、「松子さんは何て美しいんだろう。耳朶や手の指が霜焼でちょっぴり紅くなっている可愛さったら。」と思った。
そして、一番好きなお友だちと同じようになるために、洗面器の冷たい水に長いこと手を漬けていたり、耳を水に濡らしたまま朝風に吹かれて学校へ行ったりした。

  女学校を出て結婚すると、言うまでもなく百合子は溺れるように夫を愛した。そ
して一番好きな人に倣い、彼の通りにするために、髪を切り、強度の近眼眼鏡を掛け、髭を生やし、マドロスパイプを銜え、夫を「おい。」と呼び、活発に歩いて陸軍に志願しようとした。

 ところが驚いたことには、そのどれ一つとして夫は許してくれなかった。夫と同じ肌襦袢を着ることにさえ文句を言った。
夫と同じように紅白粉を附けないことにさえ厭な顏をした。
だから彼女の愛は手足を縛られた不自由さで、芽を切り取られたようにだんだん衰えて行った。

 「何て厭な人なんだろう。どうして私を同じようにさせてくれないのだろう。愛する人と私が違っているなんて、あんまり寂しいもの。」

 そして、百合子は神様を愛するようになった。
彼女は祈った。「神様、どうぞお姿をお見せ下さいまし。どうかして見せて下さいまし。
私は愛する神様と同じ姿になり、同じことをしたいのでございます。」

 神様の御声が空から爽かに響き渡って来た。
「汝百合の花となるべし。百合の花の如く何ものをも愛するなかれ。百合の花の如く総てのものを愛すべし。」

 「はい。」と素直に答えて、百合子は一輪の百合の花になった。

≪4 あかりの花・中国苗族民話≫

むかし、都林(トーリン)という若者が、夏の暑い日に、山の畑で汗にまみれながら働いておりました。
体からは豆粒のような汗が次から次へと流れ落ち、それが石の窪みに落ちました。
するとその岩のくぼみから緑の茎が伸び、まっ白い百合の花がひとつ咲きました。
花は太陽に照らされてきらきら輝き、風にゆらゆら揺れながら、歌声を発しました。
それから毎日、都林は百合の花の歌声を聴きながら、一生懸命畑を耕しました。

 山へいくのが楽しみになった都林は、ある日そのユリの花が獣によって踏み倒されているのをみて、急いで百合を抱き起こし、そのユリの花を丁寧にうちへ持ち帰り、石うすのなかに植え、窓辺に置きました。
するとユリはまた毎日美しい歌を聞かせてくれました。
都林は夜あかりの下で竹かごを編みながら、百合の花の歌声に微笑みを浮かべました。

 十五夜の晩のことです。都林があかりの下で竹かごを編んでいると、突然、灯心が揺れて大きな赤い花が咲きました。
その花の中から白い服を着た美しい娘が現れて、歌をうたいます。そしていつの間にか窓辺の百合の花は消えていました。

 その日から二人は、昼は山の畑で仲良く働きました。そして夜は、都林は竹かごをあみ、娘は美しい刺繍をした布をつくりました。
市の立つ日には畑の作物とその布を一緒に売り、帰りはくわや糸を買って帰る生活をおくって、二人は幸せに過ごしました。
 
 そうして2年後、都林は立派な家を建て、倉には食べ物を、納屋には牛や羊をたくさん持つようになりました。

すると都林は働かなくなり、毎日遊び歩くようになりました。市で物を売っても、帰りに酒や肉を買って飲み食いしてしまい、畑や夜なべ仕事も、あれこれ言い訳をしてしませんでした。
娘に忠告されても、一向に働こうとしませんでした。

 そして、とうとうある十五夜の満月の夜に、娘があかりの下で、刺繍をしていると、突然、灯心が揺れて大きな赤い花が咲きました。
赤い花の中から美しい孔雀(金鶏鳥)が現れて歌をうたいました。・・・私と一緒に天へ行こう・・・・・・と歌います。

そして、孔雀は(金鶏鳥)は花から飛び降りると、娘を背に乗せ、窓から飛び立ちました。
都林は慌てて孔雀は(金鶏鳥)を捕まえようとしましたが、黄金の羽を一枚だけ引き抜いただけでした。

そして孔雀(金鶏鳥)に乗って娘は満月の中へ消えて行きました。

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(藤城清治作 「あかりの花」 より)

 残された都林はさらに怠け者になり、着るものも食べるものもなくなり、床に敷いたたった一枚のむしろも売ろうとしました。
するとそこから、刺繍をした綺麗な布が二枚出てきました。
その刺繍に描かれていたのは、1枚は都林と娘がたのしげに畑で採りいれものであり、もう1枚は二人がむつまじく夜なべをしているものでした。

 これをみた都林は、昔、貧しくても充実したころのことを思い出しました。
そして、また昼も夜も一生懸命働くようになりました。

***********
 これは中国の苗族という部族に伝わる話です。
一般にはミャオ族というようですが、日本人の習慣と似たところがあり、日本人のルーツとも言われる民族だそうです。

昔、紀元前770~紀元前400年の春秋戦国時代には楚(~BC223)の文化を築きますが、秦の始皇帝の統一により部族は奥地に追いやられ、中国西南部の山の中、現 貴州省に住みつくようになったといいます。
人口約750万人。また中国以外にもベトナムやラオス、タイなどにも広く住んでいます。
そして民族衣装は有名で、素晴らしい刺繍が施されています。

363px-Hmong_women_at_Coc_Ly_market,_Sapa,_Vietnam

         (あかりの花・中国苗族民話・/肖甘牛 採話 君島久子 再話 赤羽末吉 画/福音館書店/1985年初版)

≪5 その他の話≫

 百合の精に関してはその他、ヨーロッパなどでキリスト教とのかかわりでも多くの話があります。

1)ドイツの民話 :ラウエンブルグの夜のユリ

 昔のこと、ハルツという山あいにアルスという美しい娘が母親と住んでいた、ある時ラウエンブルグ公が乗馬をしていたいて偶然にもアルスと出会うのだが、公は一目惚れらしい、無理矢理アルスを自分の城へ連れて行こうとするのだが、ちょっとのすきにアルスの姿が見えないのだ、そしてその場所には「シラユリ」が生えて来たという。

2) 旧約聖書より

 アダムの妻イヴが禁断の実を食べてエデンの楽園を追われたとき、自ら懐妊に事実を知る。
そんなイヴの流した涙が地上に落ちて白いユリの花になったという。

3) 古事記より

 日本最古の神話である古事記の中で、百合は「狭伊(さい)」の名で登場します。
古事記中巻に、初代神武天皇が、大和の豪族・大物主神の娘・伊須気余理(いすけより)姫を皇后に娶る話が載っています。
それによると、姫は山百合が繁る狭伊川の辺りに住んでいて、その川の名が、当時の山百合であったといいます。
百合の名前が使われ始めたのは飛鳥時代で、「狭伊」の名は「百合(ゆり)」に変わりました。
この名前(中国から伝わった漢名)の由来は、地下の球根が多数の鱗片の塊で出来ていることに由来するといいます。

まあいろいろお話しはありそうですが、「白百合」はどうも女性そのものをさしているようにも思えます。

昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/13 14:51

怪談話「こんな晩」「六部殺し」など(その一)

 先日の「百合の精」で、夏目漱石の夢十夜、第一夜を取り上げました。
もう一つ気になる話として、第三夜のすこし怖い話があります。
この話に関係しそうな昔話などを少し集めてみました。

まずは、夏目漱石の小説からです。

(1) 夏目漱石 夢十夜の第三夜

 六つになる子供を負ってる。慥(たしか)に自分の子である。
ただ不思議な事には何時の間にか眼が潰れて、青坊主になっている。
自分が御前の眼は何時潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。
声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。
 左右は青田である。路(みち)は細い。鷺(さぎ)の影が時々闇(やみ)に差す。
「田圃(たんぼ)へ掛(かか)ったね」と脊中(せなか)でいった。
「どうして解(わか)る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺(さぎ)が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺が果(はた)して二声(ふたこえ)ほど鳴いた。
 自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを脊負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。
どこか打遣(うっち)ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。
あすこならばと考え出す途端に、脊中で、「ふふん」という声がした。
「何を笑うんだ」 子供は返事をしなかった。
ただ 「御父(おとっ)さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると 「今に重くなるよ」といった。

 自分は黙って森を目標(めじるし)にあるいて行った。
田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。
しばらくすると二股(ふたまた)になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧がいった。
なるほど八寸角(すんかく)の石が腰ほどの高さに立っている。
表(おもて)には左り日ケ窪(ひがくぼ)、右堀田原(ほったはら)とある。
闇だのに赤い字が明かに見えた。赤い字は井守(いもり)の腹のような色であった。
 「左が好(い)いだろう」と小僧が命令した。
左を見ると最先(さっき)の森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけていた。
自分はちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。

 「遠慮しないでもいい」と小僧がまたいった。
自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。
腹の中では、よく盲目(めくら)のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道(ひとすじみち)を森へ近づいてくると、脊中で、「どうも盲目は不自由で不可(いけな)いね」といった。
「だから負(おぶ)ってやるから可(い)いじゃないか」
「負ぶってもらって済まないが、どうも人に馬鹿にされて不可い。親にまで馬鹿にされるから不可い」
「何だか厭(いや)になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――丁度こんな晩だったな」と脊中で独言(ひとりごと)のようにいっている。

 「何が」と際(きわ)どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲(あざ)けるように答えた。
すると何(なん)だか知ってるような気がし出した。
けれども判然(はっきり)とは分らない。
ただこんな晩であったように思える。
そうしてもう少し行けば分るように思える。
分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。
自分は益々(ますます)足を早めた。

 雨は最先(さっき)から降っている。
路はだんだん暗くなる。殆(ほと)んど夢中である。
ただ脊中に小さい小僧が食付(くっつ)いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉(ことごと)く照(てら)して、寸分の事実も洩(も)らさない鏡のように光っている。
しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分は堪(たま)らなくなった。

 「此処(ここ)だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」

 雨の中で小僧の声は判然聞えた。
自分は覚えず留(とま)った。何時(いつ)しか森の中へ這入っていた。
一間(けん)ばかり先にある黒いものは慥(たしか)に小僧のいう通り杉の木と見えた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化(ぶんか)五年辰年(たつどし)だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。

「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」

自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したという自覚が、忽然(こつぜん)として頭の中に起った。
おれは人殺(ひとごろし)であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった。

*********
ここでは、背中に背負っている子供が急に「丁度こんな晩だったな」といって、昔の人を殺した思いが蘇ってくるというものです。
当然これは物語であり、漱石も100年前というので、前世に背負った出来事のように書いています。
また、この100年というのも第一夜と同じであり、何か意味を持っているのかもしれません。
中国では100年というのを無限大という意味を持たせているようです。契約でも100年後の契約は意味が無いので99年というのが最大の区切りとの解釈があるようです。

この話を読むと、知っておられる方は「こんな晩」とか「六部殺し」という昔話を思い出すと思います。
この後に、地方に残された「こんな晩」という昔話を2点紹介します。

(2) 日本の民話「こんな晩」 青森県 フジパン
 
 むかし、一人の六部(ろくぶ)が旅をしておった。
 六部というのは、全国六十六ヶ所の有名なお寺を廻っておまいりをする人のことだ。
六部たちは、夜になると親切な家で一晩泊めてもらっては旅を続けていた。
その六部がある村に着いたとき、日も暮れてきたので、村はずれの一軒の家に泊めてもらうことになった。
夕食を食べ終えた六部は、「大分歩いてつかれましたから、今夜はこれで休ませていただきます」
と言うと、奥の寝部屋(ねべや)へ入った。

 ところが、夜遅くなっても、六部の部屋のあかりがついている。
何をしているのだろうと、家の主人が戸のすき間からこっそりのぞくと、部屋の中では六部が金を数えていた。
 『ほほう、たんまり持っているな、あれだけあれば一生楽に暮らせる。ようし、あの六部を殺して金を奪(と)ってやろう』
そう思った主人は、大きな声で、「六部さん、起きてるかい。いい月だから外へ出てみなされ」
と言って、うまく六部を外へ連れ出した。
六部が、「月はどこにも見えないが」と、振り向いたところ、主人はいきなり隠していたナタを振り上げ、六部を殺してしもうた。

 主人は、六部から奪った金で商(あきな)いをして、またたく間に金持ちになった。
やがて、この家に子供も生まれた。
長い間子供が出来なかっただけに、主人は喜んで喜んで、たいへんな可愛いがりようだった。
ところが、その子は泣き声もたてないし、二つになっても、三つになっても一言もしゃべらなかった。
子供が五つになったある晩のこと、寝床(ねどこ)の中でむずかった。
主人は、きっと小便だろうと思って、子供を抱いて外へ出た。
月の出ていない晩だった。
「早く小便をせいや」と、主人がいうと、今まで一言もしゃべらなかった子供が、突然、
「こんな晩だなあ」と言った。
主人はびっくりして、とっさに、 「何が」 と聞くと、
「六部を殺した晩よ」と、子供が言った。

 いつの間にか、子供の顔は殺した六部の顔になって、主人をにらみつけていた。

 主人はおそろしさのあまり、気を失い、そのまま死んでしまったという。

(3) こんな晩 新潟県十日町市
 
むこんしょ(むかい:、地名)にゃ、
ここらあたりにはいないような旦那さまがいた。 
その旦那さまというのは、 昔からの旦那さまではなかった。
つい10年ほど前までは、貧乏で貧乏で、食べる米もままならないし、借金はあるし、
そういう旦那さまが 急にムキムキ、ムキムキと、 身上(しんしょう)がよくなったんだと。 
何がもとで、そんなに身上があがったのかな? そしたら、深い訳があったと。

ある秋の寒い日、その日は朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
夕暮れになって、 六部が泊まるところがなくて困っていた。
( 六部:行脚僧。書写した法華経を66カ所の寺院に納経しながら巡礼の旅をした僧侶)

「ここん衆[しゅ]、一つ泊めてくんなかい?」と言って、来たんだと。 
その家では、「おら、貧乏で貧乏でおまえが泊まったとて、もてなしは何も出来ねスケ、だめだ」
と断わった。
「かまわねえ。何でもいいスケ、
この雨サ当たらなければ何でもいいスケ、泊めてくんなかい」
と六部は頼み込んだ。
そんなのでもよかったら、と、六部は泊まることになった。 
そこのトトは、真夜中に小便に起きて、ふと脇をみた。
六部の寝ている座敷の方から、チャリーン、チャリーンと銭(ぜに)の音が・・・ 
六部の寝ている部屋にコソン、コソンと近寄って、 障子の破れ目から、こ~う覗いてみた。
・・・そうしたら、銭勘定していたんだと。 
六部っていうのは、 笈[おい]という箱のようなのをしょっている。
その中の竹の筒に金を入れて置くんだと。

それを見たトトは、 金が欲しくて欲しくてたまらなくなった。
・・・おらは、貧乏で金など拝んだこともない。いつも借金で首が回らない。
ああ、すぐ目の前に金がうなっている!
・・・これだけの金があれば、一生、楽に暮らせる!
心の闇が一瞬にトトを覆った。
悪いこころがトトにささやいて、金を盗むようにけしかけた。

外は秋雨が降る丑満時。 六部を殺したトトは、屋敷の隅に六部を埋めた。
冷たい雨が容赦なくトトに降り掛かっても、 金の妄執に取り付かれたトトは 人間のこころに戻らなかった。
誰も見ていないんだもの、構うもんか!

六部が持っていた金を盗んで元手にして、 金貸しを始めた。
人に金を貸しては利息で儲け、また人に貸し・・・ 田畑や山を売りたい人がいると、どんどん買った。
そうこうするうちに、ムキムキ、ムキムキと身上があがったんだと。
金もあり、地所もあり 何もいうことがなかった。
ただ一つ張合いのないことは、子どもの無いことだった。
そこらの人が子どもと手をつないだり、遊んでいたりするのをみると「子どもが欲しいなあ~」と、どうしようもない。
毎日、欲しいなあと思い暮らしていると、 何と、子どもが出来たんだ。
子どもは、それも男の子だった。

ようやく出来た子どもをめじょがって(可愛がって)、それはそれは大事に育てた。
ところが、その子は3つになっても4つになっても、モノを言わない。
立つことも出来ない。 腰がフラフラして立てない子どもだった。
旦那さまはそれでもその子をめじょがって育てたんだと。

その日は、やっぱり朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。
晩がたになったら、もう滝のように降り出した。
暗い闇夜で、 鼻を撫でられても分からないくらいの闇夜だった。
・・・こういう晩は、早く子どもを寝かそう。
寝る前に小便をさせようと、 息子(アニ)を抱いて外に出た。 
雨はバシャバシャ、バシャバシャ降る、真っ暗な夜。
トトが、思わず
「馬鹿げに雨は降るし、暗えなあ」 とつぶやいた。
その時だった。
今まで一言もモノを言わなかった息子(アニ)が、 口を開いた。 
「あの晩にそっくりだのし」
真っ暗の中で息子(アニ)の面(つら)だけが青くひかり、トトを見てニタニタニタと笑ったと。 
さあ、トトは驚いたの何の。
・・・この野郎は、おれが殺した六部が生まれ変わったんだな。
・・・仇打ちに来たんだな。このままじゃ置かねえ。

めじょがっていた息子を殺して、畑に埋めたと。
それだすけ、いくらかたき打ちで産まれて来たのでも親にはかなわない。
親に返り打ちになったってがんだ。
その旦那さまの屋敷は、 今でも雨の降る暗い晩には、青い炎(ひ)が、トコトコ、トコトコと燃えていると。

いちげざっくり

***************
以上の他にいろいろなパターンで各地に同じような話がたくさん存在します。
そのほとんどが六部の殺される話で、その奪った金で長者になり、そのうちに長者の家が没落する。
そんな長者伝説はこの六部殺しとはまた別に、八幡太郎や平将門伝説などと組み合わせてのパターンなどいろいろな話しがあります。

さて、一般的な六部殺しの話をWikipediaから紹介しましょう。

(4) 六部殺し (Wikipedia)

 六部とは、六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のこと。六部ではなく修験者や托鉢僧や座頭や遍路、あるいは行商人や単なる旅人とされている場合もある。ストーリーには様々なバリエーションが存在するが、広く知られている内容は概ね以下のとおりである。

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 ある村の貧しい百姓家に六部がやって来て一夜の宿を請う。
その家の夫婦は親切に六部を迎え入れ、もてなした。
その夜、六部の荷物の中に大金の路銀が入っているのを目撃した百姓は、どうしてもその金が欲しくてたまらなくなる。
そして、とうとう六部を謀殺して亡骸を処分し、金を奪った。

その後、百姓は奪った金を元手に商売を始める・田畑を担保に取って高利貸しをする等、何らかの方法で急速に裕福になる。
夫婦の間に子供も生まれた。ところが、生まれた子供はいくつになっても口が利けなかった。
そんなある日、夜中に子供が目を覚まし、むずがっていた。小便がしたいのかと思った父親は便所へ連れて行く。
きれいな月夜、もしくは月の出ない晩、あるいは雨降りの夜など、ちょうどかつて六部を殺した時と同じような天候だった。
すると突然、子供が初めて口を開き、「お前に殺されたのもこんな晩だったな」と言ってあの六部の顔つきに変わっていた。

ここまでで終わる場合もあれば、驚いた男が頓死する、繁栄していた家が再び没落する、といった後日談が加わる場合もある。

**********
 さて、各地のお寺や神社を廻ってみると、江戸時代ころに建てられた「六部回国記念碑」を見かけることがある。
六部(六十六部)の発祥は、奈良時代頃までさかのぼるとともいわれ、かなり古いと見られますが、どうも実態は不明で、鎌倉時代末期頃に各地で修行僧によって行われだして、江戸時代にはかなり一般人もこれを行うものが出てきたようです。
鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼したといわれており、この姿は諸国を巡礼した空也上人や一遍上人などの念仏踊りにも近いものを感じます。
そして、一般の篤志家が全国66箇所を廻ることができると、その記念碑が地元に建てられたのでしょう。

ではもう少し違った観点の話しも探ってみましょう。

長くなりましたのでこの続きは <その二>で ⇒ こちら

昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/16 17:52

怪談話「こんな晩」「六部殺し」など(その二)

ではもう少し違った観点の話しも探ってみましょう。

怪談話「こんな晩」「六部殺し」などの<その一>は ⇒ こちら

(5) 小泉八雲「持田の百姓」 (出雲の昔話)

 昔、出雲の持田浦という村に貧乏な百姓がいた。
子供が次々と生まれたが、育てられる余裕がないので、夜に、こっそりと川に流して殺した。
こうして6人の子供を殺した。やがて、百姓は少し暮らしが楽になった。
そこで、7人目に生まれた男の子は育てることにした。
子供はすくすく育ち、百姓はこの子をとても可愛いと思った。
ある夏の夜、百姓は5ヶ月になる息子を腕に抱いて庭へ散歩に出た。
大きな月が出て、美しい夜だった。
百姓は「ああ、今夜めずらしい、ええ夜だ」と言った。
するとその子が、父親の顔を見上げて、急に大人の口調で言った。
「御父つぁん、わしを仕舞いに捨てさした夜も、ちょうど今夜の様な月夜だたね」そう言って、また元のような赤ん坊に戻った。
…百姓は出家して僧になった。

********
この話は六部ではなく、貧しくてわが子を処分してしまった話です。
小泉八雲(ラフカディオハーン)が出雲地方の昔話として書いています。恐らく日本で結婚した妻から聞いた話なのでしょう。

次は落語から一つ紹介します。

(6) 落語「もう半分」 (三遊亭圓朝作の怪談噺 5代目古今亭志ん生などの演目)

千住小塚っ原に、夫婦二人きりの小さな酒屋があった。
こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。

その夜も、このところやって来る棒手振り(ぼてふり)の八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていく。

この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。
薄気味悪いが、お得意のことだから、夫婦とも何かと接客してやっている。

爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、五十両入りの包みが置き忘れてある。

「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。

「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。
ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。
爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。
あたしにまかせておおきよ」

女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、自分に働きがないだけに、文句が言えない。

そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んでくる。

女房が気強く「金の包みなんてそんなものはなかったよ」と言っても、爺さんはあきらめない。

「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。
あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」
と泣いて頼んでも、女房は聞く耳持たず追い返してしまった。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、すでに遅く、
千住大橋からドボーン。
身を投げてしまった。

その時、篠つくような大雨がザザーッ。

「しまった、悪いことをしたッ」と思っても、後の祭り。

いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。

顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。

それがギョロっとにらんだから、女房は「ギャーッ」と叫んで、それっきりになってしまった。

泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、
奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つかない。

何人目かに、ようようわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯(あんどん)の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」と言う。

さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、
丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、行灯から油皿をペロペロ。

思わず「こんちくしょうめッ」と飛び出すと、
赤ん坊がこっちを見て

「もう半分」

****************
こんな話です。金は娘が身を売ってこさえた金という。

まあいずれにしても西洋では死んだ人の霊が乗り移るとされる話はたくさんありますが、仏教ではどうも生れ変わり思想が強いようです。
少し話のルーツを探るために、もう少し古い話を調べてみましょう。
奈良時代の説話から一つ

(7) 日本霊異記(中) 中田祝夫 
   第30 行基大徳、子を携ふる女人の過去の怨みを視て、淵に投げしめ、異(めづら)しき表(しるし)を示しし縁

 (現代語訳より)
 行基(大徳)は、難波の江を掘り広げて船津(船着場)を造り、仏法を説いて人々を教え導いていた。そこには、道俗貴賎(僧、俗人、高貴人、貧しいもの)を問わず、みな集まって来て法を聞いた。
 そのころ、河内国若江郡の川派(かわまた)の里に、一人の女人がいた。子をつれて法会に出席し、法を聞いていた。子供は泣きわめいて母親は法を聞くことができないでいた。またその子は10歳を過ぎていたがまだ歩くことが出来ず、絶え間なく泣いて、乳を飲み、ものを食べていた。
すると、行基(大徳)は「やあ、女人よ。そなたの子を連れ出して淵に捨てよ」とおっしゃった。
これを聞いた回りの人々は「慈悲深い聖人様が、どんな訳があってこんな無慈悲なことをおっしゃるのだろうか」とぶつぶつ不満をささやきあった。そしてその女人もわが子かわいさで、子を捨てに行くことができず、説法を聞いていた。
 あくる日もまた子供をつれて来て説法を聞いていた。子供はまた泣きわめいて、説法を聞くことが出来なかった。
するとふたたび、行基は女を責めて、「その子を淵に投げ捨てて来なさい」といった。
その母親は、聖人の言葉を不思議に思いながらも、子供を淵に投げ捨てに行った。
淵に投げ込まれた子供は、流れの上に浮き上がり、足をばたつかせて、目を大きく見開いて悔しがり、
「残念だ。もう三年間、お前から取り立て、食ってやろうと思っていたのに」と叫んだ。
そして、法会に戻ると、行基聖人は「子は投げ捨てたか」と聞いた。そこで、女人は詳しくいきさつを話した。
行基聖人は
「そなたは前世で、あの者に、なにか物を借りて返さなかったために、この世で貸主が子供の姿となり、その負債を取り立てて食っていたのです。」と教えられた。
 ああ恥ずかしいことよ。人から借りたものを返さないで、死ぬことなど出来ない。後の世で必ずその報いを受けるだろう。
そのような訳だから、「出曜経」に、「他人から銭一文の塩を借りたままにしたので、その後世では、牛に生れ変わり、塩を背負って使われて、貸主に支払った」と書かれているのは、まさにこのようなことをいうのである。

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*******
ここでは仏教説話ですから行基菩薩の話となっていますが、この中に「出曜経(しゅつようぎょう)」の話が出てきます。
この出曜経はインドの経典を4世紀末頃に中国語に翻訳されて伝わったようで、かなり古いものといえます。
そんな中に因果応報(いんがおうほう)の話としていくつも語られてきたようです。

こちらの話は、一般には金を奪われたり、借金を踏み倒されたりした者が、その相手の子供に転生して、奪われたり、踏み倒されたりした金額だけ蕩尽したところで早死にするという話です。少し霊として乗り移ることと似ていますね。
「討債鬼故事」として中国の古典などにもいくつか話があるそうです。

(参照:福田素子 討債鬼故事の成立と展開―我が子が債鬼であることの発見―) ⇒ こちらに文献(Pdf)あり

まあざっと調べただけですが、いろいろな話につながりますね。

昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/02/17 14:22

餅を買う女

 最近「飴買い幽霊」の話しがFBで出てきた。
勿論常陸国でも頭白上人伝説が伝えられているが、この似た話は中国にもあった。
昔読んだ記憶を頼りに手元にある駒田信二さんの「中国奇怪物語(幽霊編)」を見てみた。

やはりあった。

参考になると思うので、そのまま載せて置きたい。

「餅を買う女」

 安徽(あんき)の宣城は、兵乱があってから住民は四方へ離散してしまってさびれ、城外も· 蕭条(しょうじょう)たる草原になっていた。
 そのころのことである。城外の村の農夫の妻が妊娠したまま死んだ。夫はその遺骸を村の古廟のうしろに葬ったが、その後、廟の近くに住んでいる人々は、夜になると草むらの中にともしびが見えかくれするのを、しばしば見るようになった。ときには赤ん坊の泣き声に似た声がきこえてくることもあるという。
 宣城の城門の近くに餅屋があったが、毎日、日暮れどきになって店を閉めようとするころになると、赤ん坊を抱いた女が餅を買いにきた。毎日欠かさず、きまった時刻にやってくるので、餅屋は不審に思うようになり、あるとき、そっと女のあとをつけて行ってみた。すると女の姿は古廟のあたりで見えなくなってしまった。
 餅屋はいよいよ不審に思い、翌日女がきたとき何気ないふうに話しかけながら、すきを見て女の裾に赤い長い糸を縫いつけておき、女が帰ってから、またそっとその後をつけて行った。女はつけられていることをさとったらしく、いつのまにか姿を消していたが、その翌日、姿の見えなくなった古廟のまわりをさがしてみたところ、裏の草むらの中に糸が落ちているのを見つけた。あたりを見まわすと、糸の落ちていたすぐ近くに、新しい塚があった。餅屋は廟の近くの民家へ行って、だれの塚かたずね、女の夫の家へ行ってわけを話した。
 夫はおどろき、近所の人々にたのんで、いっしょに塚へ行ってもらった。見れば塚はどこにもくずれたところはなかったが、掘りかえして棺をあけてみると、中に赤ん坊が生きていた。女の顔色もまだ生きているように見えたが、もちろん、生きてはおらず、妊娠していた胎児が死後に産み出されたものとわかった。
 夫の家では、あらためて妻を火葬にし、その赤ん坊を養い育てたという。
   宋「夷堅志」

注:『夷堅志』(いけんし)は、中国南宋の洪邁(1123年 - 1202年)が編纂した志怪小説集である。1198年(慶元4年)頃の成立、206巻。(Wiki. より)

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昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/05/18 12:41

一打ちで七匹

 5月の末の夏日。
やけに暑くて、机に向かってるのも疲れてきていた。
すると、一匹のハエが目の前に飛んできた。

今年のハエも早いな~。 などとまあのんきに・・・
まずはこの目障りなハエを追い払ってと手で追い払うが、又すぐにやってくる・・・・

今年の梅雨は何時になるのか・・・こんな晴れたり大雨となったり、シトシトと降ったり・・・・

まあ、ハエもうるさい物の代表のようなものだろう。
うるさい=五月蝿 と書くくらいだから、旧暦とはいえ5月(梅雨)のハエも昔からいなくならないものらしい。

そんなくだらないことを考えていたら、昔読んで気になっていた話を思い出した。
小学校高学年か、中学の始めのころだと思うが、誰かに図書カードのようなものをお祝いか何かで頂いたのだと思うが、新宿の紀伊国屋書店に行った。
当時は東京郊外の小さな都営の住宅にくらしていた。

確かシートン動物記だったか記憶がはっきりしないが、(文庫文)セットで全巻購入したように記憶している。
そのときに、もう少し買えたので、書店内をうろうろして1冊の子供向け童話の本を買った。

この本はタイトルも覚えておらず、たくさんの冒険もののお話が書かれていた。

その1つの話しに、「一打ちで七匹」だったか、タイトルも忘れてしまったが、ちびの仕立て屋さんが食べ物にハエがたくさんたかったのを布か何かで一打ちしたら、ハエが七匹死んでいた。

これは素晴らしい、おれ様がこんなに凄いことを皆に教えなければいけないと、帯に「一打ち七つ」と大きく書いて体に巻いて冒険の旅に出るという話しである。
そして、いろいろな力の強い相手も知恵と勇気で皆乗り越えて、最後はある国のお姫様と結婚して国王になるというものだ。

もう60年ほど前なので、この話の出所がわからなかった。
まあ団塊世代の真っ只中でうまれ、そのままこの塊が小さくなることは無く、何時になっても受験競争ばかりが目の前に広がっていた。
成績が上っただの下がっただの、今思えばもう少し違った生き方も出来たのではないか?

こんな話しに興味を持ったのも、きっと、そんな夢を見る気持を少し後押ししてくれた話だったのかもしれない。

最近はネットでの検索が容易になり、このハエを見て、この話を検索してみた。
するとたくさんのコメントや話しの紹介も出てきた。
グリム童話の一つで、あまり紹介されていなかった話だそうで、30年ほど前にテレビアニメで新グリム名作劇場? で日本にも広まったらしい。

私が最初に読んだのはもう60年も前だったから、それから数年後くらいに、もう一度読みたいと思ったことがあって本屋を捜したけれどわからなかった記憶がある。

タイトルは「勇ましいちびの仕立て屋」というのだそうだ。
今はネットでこうして見つかるので、楽はらくだが・・・・ その時にすぐに見つかっていたら、今ほど、この本への思い入れないのだろうな。

ネットは楽だし、知識はたくさん広がる。
でも私も、企業でもデジタル化を推進してきた人間の端くれだが、探し回ってもなくて・・・ でもどこか心にその捜したという記憶が残り・・・なんていうのも良いことだと思う。

先日書いた「万緑叢中 紅一点」でザクロの赤と緑の草の対比などの言葉を知ったのも家にあった「漢和辞典」であった。
漢和辞典にはこのような漢字を使う例文が満載だった。こんなのを見つけて喜んだのも、また懐かしい。

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昔話について | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/06/05 10:04
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