三味線で 鴫を立たせる 潮来かな
潮来の街中に西円寺とい寺がある。
ここに変わった石碑が置かれている。

小林一茶の句を夏目漱石が書を書いて、そこに小川芋銭がしゃれた絵を描いた「三愚集」から
「三味線で 鴫(しぎ)を立たせる 潮来かな」
の句をえらび、この石碑に写したものだ。
以前来たときにはこの石碑はかなり見づらくなっていたが、今回きれいに修復したようだ。
この三愚集はなかなか面白い。 土浦でつくられた本だ。
もっとも一茶はこの潮来に来ているが、句を作ったのは潮来ではなかったという。

デジタルアーカイブにデータがあったので全句を知ることができたので、自前用に復元してみたい。

この句の石碑が何故、この寺にあるのかというと、潮来は江戸時代は有名な遊郭があった。
その時代に亡くなった身寄りのない遊女も、この寺では丁寧に弔い墓を建てた。
その遊女の墓があるからだろう。

ここに変わった石碑が置かれている。

小林一茶の句を夏目漱石が書を書いて、そこに小川芋銭がしゃれた絵を描いた「三愚集」から
「三味線で 鴫(しぎ)を立たせる 潮来かな」
の句をえらび、この石碑に写したものだ。
以前来たときにはこの石碑はかなり見づらくなっていたが、今回きれいに修復したようだ。
この三愚集はなかなか面白い。 土浦でつくられた本だ。
もっとも一茶はこの潮来に来ているが、句を作ったのは潮来ではなかったという。

デジタルアーカイブにデータがあったので全句を知ることができたので、自前用に復元してみたい。

この句の石碑が何故、この寺にあるのかというと、潮来は江戸時代は有名な遊郭があった。
その時代に亡くなった身寄りのない遊女も、この寺では丁寧に弔い墓を建てた。
その遊女の墓があるからだろう。

キリギリス
先日、潮来の西円寺に置かれていた句碑を紹介した。
これは「三愚集」として大正九年に木版による画帖仕立ての俳画集として土浦の秋元梧樓氏によって非売品で製作されたもので、小林一茶の俳句27句を夏目漱石が書し、小川芋銭が俳画を描いたものです。
非売品のため何冊作られ他かもわかっていない。ただこの土浦の秋元家には版画の原画なども残され、復刻もされている。
その中に面白いのがあったので紹介しておきたい。

★ きり/\す今日や生れんすみれさく
これは一茶の七番日記に 「蛬けふや生れん菫さく」 という句がある。
この句に対して 芋銭が描いた絵は次の絵だ。

なかなかウィットに富んだ洒落た絵だ。
調べてみるとキリギリスの句は一茶の句にかなりあり、次のようなものがあった。
★ 小便の身ぶるひ笑えきりぎりす
★ 小便をするぞ退け退け蟋蟀(きりぎりす)
★ 涼風や力一ぱいきりぎりす
やはりこれらの句を意識して描かれた絵ですね。
これは「三愚集」として大正九年に木版による画帖仕立ての俳画集として土浦の秋元梧樓氏によって非売品で製作されたもので、小林一茶の俳句27句を夏目漱石が書し、小川芋銭が俳画を描いたものです。
非売品のため何冊作られ他かもわかっていない。ただこの土浦の秋元家には版画の原画なども残され、復刻もされている。
その中に面白いのがあったので紹介しておきたい。

★ きり/\す今日や生れんすみれさく
これは一茶の七番日記に 「蛬けふや生れん菫さく」 という句がある。
この句に対して 芋銭が描いた絵は次の絵だ。

なかなかウィットに富んだ洒落た絵だ。
調べてみるとキリギリスの句は一茶の句にかなりあり、次のようなものがあった。
★ 小便の身ぶるひ笑えきりぎりす
★ 小便をするぞ退け退け蟋蟀(きりぎりす)
★ 涼風や力一ぱいきりぎりす
やはりこれらの句を意識して描かれた絵ですね。
春雨の 大欠伸する 美人かな
小林一茶、夏目漱石、小川芋銭 の三愚集を紹介し始めましたので、このまま続けましょう。
今回は
「春雨の大欠伸する美人かな」
です。

一茶 七番日記には「春雨の大欠(あくび)する美人哉」とあります。

さて、大欠伸(おおあくび)する美人の絵を期待したのですが、芋銭はこんな絵を添えました。
これは何をモチーフにして書かれたのでしょうか?
枕草子の
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。・・・」
あたりから来ているのでしょうか?
または孟浩然の「春暁」
春 眠 不 覚 暁 春眠暁(あかつき)を覚えず
処 処 聞 啼 鳥 処処に啼鳥を聞く
夜 来 風 雨 声 夜来風雨の声
花 落 知 多 少 花落つること知んぬ多少ぞ
あたりから想像したのでしょうか。
春雨はしとしとと降り、その音を聞いていると誰でも眠くなる。 美人でもである。
想像すると少し楽しくなりますね。
一茶も好きな句だったようです。
今回は
「春雨の大欠伸する美人かな」
です。

一茶 七番日記には「春雨の大欠(あくび)する美人哉」とあります。

さて、大欠伸(おおあくび)する美人の絵を期待したのですが、芋銭はこんな絵を添えました。
これは何をモチーフにして書かれたのでしょうか?
枕草子の
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。・・・」
あたりから来ているのでしょうか?
または孟浩然の「春暁」
春 眠 不 覚 暁 春眠暁(あかつき)を覚えず
処 処 聞 啼 鳥 処処に啼鳥を聞く
夜 来 風 雨 声 夜来風雨の声
花 落 知 多 少 花落つること知んぬ多少ぞ
あたりから想像したのでしょうか。
春雨はしとしとと降り、その音を聞いていると誰でも眠くなる。 美人でもである。
想像すると少し楽しくなりますね。
一茶も好きな句だったようです。
瘠蛙まけるな一茶是にあり(4)
三愚集(小林一茶、夏目漱石、小川芋銭)の4句目です。
「瘠蛙まけるな一茶是にあり」
これは誰でも知っている一茶の有名な句ですね。
一茶の七番日記には 「瘠蛙(やせがへる)まけるな一茶是に有」とあります。

この蛙の相撲場面は、芋銭にしてみればやはり「カッパ」それもやせ河童で表したかったのでしょうか?

やせ河童の行司さんですね。
なかなか格好いい姿で、さすが河童の芋銭でしょうか。
「瘠蛙まけるな一茶是にあり」
これは誰でも知っている一茶の有名な句ですね。
一茶の七番日記には 「瘠蛙(やせがへる)まけるな一茶是に有」とあります。

この蛙の相撲場面は、芋銭にしてみればやはり「カッパ」それもやせ河童で表したかったのでしょうか?

やせ河童の行司さんですね。
なかなか格好いい姿で、さすが河童の芋銭でしょうか。
なんのその西方よりもさくら花(5)
≪三愚集≫No5 なんのその西方よりもさくら花
七番日記には、「ナンノソノ西方よりもさくら花」 とあります。

ここで「西方」とあるのは、西方浄土、すなわち極楽浄土の世界(死後の世界)ですよね。

琵琶を抱えた弁天さんにも見えますが・・・・・阿弥陀如来さんでしょうか?
極楽のあるといわれる西方浄土・・・「死んで花見がさくものか」と桜見物にに浮かれる人たちのことを詠った句でしょう。
桜見物の人々の生き生きした姿を感じたのだと思います。
一般に西方浄土には阿弥陀如来がいることになっていますね。
そして良い行いをして徳を摘んでいれば、来迎で迎えに来る。
でも桜見物はそんな死後の世界より今の花見が大事と、大いに楽しんでいるのを詠ったものなのでしょう。
一茶には次のような句もあります。
★ はな桜よくや欲のうきよの片隅に
★ 夕ざくらけふも昔に成にけり
★ よるとしや桜のさくも小うるさき
★ 散る花やすでに己も下坂
★ どん欲も連れて散れちれ山櫻
一茶は熱心な浄土真宗の信者だったようです。
七番日記には、「ナンノソノ西方よりもさくら花」 とあります。

ここで「西方」とあるのは、西方浄土、すなわち極楽浄土の世界(死後の世界)ですよね。

琵琶を抱えた弁天さんにも見えますが・・・・・阿弥陀如来さんでしょうか?
極楽のあるといわれる西方浄土・・・「死んで花見がさくものか」と桜見物にに浮かれる人たちのことを詠った句でしょう。
桜見物の人々の生き生きした姿を感じたのだと思います。
一般に西方浄土には阿弥陀如来がいることになっていますね。
そして良い行いをして徳を摘んでいれば、来迎で迎えに来る。
でも桜見物はそんな死後の世界より今の花見が大事と、大いに楽しんでいるのを詠ったものなのでしょう。
一茶には次のような句もあります。
★ はな桜よくや欲のうきよの片隅に
★ 夕ざくらけふも昔に成にけり
★ よるとしや桜のさくも小うるさき
★ 散る花やすでに己も下坂
★ どん欲も連れて散れちれ山櫻
一茶は熱心な浄土真宗の信者だったようです。
舞扇さるの涙のかゝるかな(6)
≪三愚集≫No6 舞扇さるの涙のかゝるかな(小林一茶)
七番日記には「舞扇猿の涙のかゝる哉」とある

(夏目漱石 書)
「猿廻し」も正月の大道演芸だったようだ。
一茶の眼にはどのように映っていたのだろうか。
可愛そうに感じたのか?

(小川芋銭 絵)
一茶の句にも「猿廻し」の句がたくさんある。新年の季語という。
江戸の街中では、新年に猿廻しの芸が結構行われていたようだ。
★ 舞猿も草臥顔はせざりけり
★ 我国は猿も烏帽子をかぶりけり
★ 我国は猿も祈祷をしたりけり
★ 御座敷や菓子を見い見い猿が舞
七番日記には「舞扇猿の涙のかゝる哉」とある

(夏目漱石 書)
「猿廻し」も正月の大道演芸だったようだ。
一茶の眼にはどのように映っていたのだろうか。
可愛そうに感じたのか?

(小川芋銭 絵)
一茶の句にも「猿廻し」の句がたくさんある。新年の季語という。
江戸の街中では、新年に猿廻しの芸が結構行われていたようだ。
★ 舞猿も草臥顔はせざりけり
★ 我国は猿も烏帽子をかぶりけり
★ 我国は猿も祈祷をしたりけり
★ 御座敷や菓子を見い見い猿が舞
門々の下駄の泥より春たちぬ(7)
≪三愚集≫No7
門々の下駄の泥より春たちぬ (小林一茶)
七番日記に「門/\の下駄の泥より春立ぬ」とある。
「春立つ」が季語ですね。
まあ「立春」というよりも少しニュアンスが違う気もしますが同じでしょう。
昔は道路が舗装されているわけではないので、春になると下駄に泥も付くのでしょう。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶の「立春」「春立つ」が季語の句
★ 初春のけ形りは我(と)雀かな
★ 春立といふばかりでも草木哉
★ 春立やよしのはおろか人の顔
★ ちぐはぐの下駄から春は立にけり
★ 沙汰なしに春は立けり草屋敷
★ 春立やかゝる小薮もうぐひすと
★ 春立といふより見ゆる壁の穴
門々の下駄の泥より春たちぬ (小林一茶)
七番日記に「門/\の下駄の泥より春立ぬ」とある。
「春立つ」が季語ですね。
まあ「立春」というよりも少しニュアンスが違う気もしますが同じでしょう。
昔は道路が舗装されているわけではないので、春になると下駄に泥も付くのでしょう。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶の「立春」「春立つ」が季語の句
★ 初春のけ形りは我(と)雀かな
★ 春立といふばかりでも草木哉
★ 春立やよしのはおろか人の顔
★ ちぐはぐの下駄から春は立にけり
★ 沙汰なしに春は立けり草屋敷
★ 春立やかゝる小薮もうぐひすと
★ 春立といふより見ゆる壁の穴
深山木の芽出しもあへず喰はれけり(8)
≪三愚集≫No.8 深山木の芽出しもあへず喰はれけり(小林一茶)
七番日記には 「深山木(みやまぎ)の芽出しもあへず喰れけり」とある。
山奥の木から芽が噴出したものを摘んでは申し訳ない気になったのでしょうね。
精進料理でもタラの芽などは食べたいでしょうが・・・・

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶の木の芽を詠った句
★ 木々おの ~ 名乗り出たる木の芽哉
★ びんずるを一なでなでゝ木の芽哉
★ 木目吹て古びるものは住居哉
★ 茨の目も皆 ~ 人に喰れけり
★ 山里は猫が木目もほけ立ぬ
★ 折 ~ に猫が顔かく木の目哉
★ 藪の目や人がしらねば鹿が喰ふ
★ たらの芽のとげだらけでも喰ひけり
七番日記には 「深山木(みやまぎ)の芽出しもあへず喰れけり」とある。
山奥の木から芽が噴出したものを摘んでは申し訳ない気になったのでしょうね。
精進料理でもタラの芽などは食べたいでしょうが・・・・

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶の木の芽を詠った句
★ 木々おの ~ 名乗り出たる木の芽哉
★ びんずるを一なでなでゝ木の芽哉
★ 木目吹て古びるものは住居哉
★ 茨の目も皆 ~ 人に喰れけり
★ 山里は猫が木目もほけ立ぬ
★ 折 ~ に猫が顔かく木の目哉
★ 藪の目や人がしらねば鹿が喰ふ
★ たらの芽のとげだらけでも喰ひけり
笋といふたかんなの闇夜哉(9)
≪三愚集≫No.9 笋といふたかんなの闇夜哉
笋(たかんな)といふ笋(たかんな)のやみよかな:七番日記
笋はタケノコのことで、「たかんな」という読みはタケノコの古名。
俳句では「たかんな」という名前は、俳句好きの人達には結構好きで使われているようだ。
この俳句はどのような意味なのだろうか?
タケノコ掘りは早朝のまだ暗いうちから、ほとんどが土に中に埋まって、ほんの少しの割れ目を見つけて筍を掘るからでしょうか。
たかんな(笋=筍=竹の子)の闇夜っていったい・・・・・・竹の子の身になってみると、暗い土の中で、やっと地表に割れ目を作った瞬間どんな思いなのでしょうか?
食べる側から見れば、それを見つけて早朝に掘りおこす。
何か少しタケノコが哀れに思えますね。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
タケノコを詠った句は多く、一茶もいくつも詠っている。
★ 笋を見つめてござる仏哉
★ 笋をにらんでおじやる仏哉
★ 竹の子の藪にらみたる仏哉
★ 笋や闇い所の行あたり
★ 誰が生て居るぞ笋竹の月
★ 笋にかゝれとてしもやみよ哉
★ 笋や痩山吹も夜の花
★ 笋の うんぷてんぷの 出所かな
笋(たかんな)といふ笋(たかんな)のやみよかな:七番日記
笋はタケノコのことで、「たかんな」という読みはタケノコの古名。
俳句では「たかんな」という名前は、俳句好きの人達には結構好きで使われているようだ。
この俳句はどのような意味なのだろうか?
タケノコ掘りは早朝のまだ暗いうちから、ほとんどが土に中に埋まって、ほんの少しの割れ目を見つけて筍を掘るからでしょうか。
たかんな(笋=筍=竹の子)の闇夜っていったい・・・・・・竹の子の身になってみると、暗い土の中で、やっと地表に割れ目を作った瞬間どんな思いなのでしょうか?
食べる側から見れば、それを見つけて早朝に掘りおこす。
何か少しタケノコが哀れに思えますね。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
タケノコを詠った句は多く、一茶もいくつも詠っている。
★ 笋を見つめてござる仏哉
★ 笋をにらんでおじやる仏哉
★ 竹の子の藪にらみたる仏哉
★ 笋や闇い所の行あたり
★ 誰が生て居るぞ笋竹の月
★ 笋にかゝれとてしもやみよ哉
★ 笋や痩山吹も夜の花
★ 笋の うんぷてんぷの 出所かな
ふや/\と餅につかるる草葉かな No10
≪三愚集≫No.10
ふや/\と餅につかるる草葉かな 小林一茶
七番日記:ふや/\の餅につかるヽ草葉哉
七番日記では「ふやふやの餅」となっているが、漱石の書では「ふやふやと」となっているように読める。
どちらが良いかは人によると思うが、少しニュアンスが違ってきそうだ。
草餅は昔、別名「母子餅(ほうこもち)」ともいった。
これは草餅に母子草=ごぎょう(春の七草のひとつ)を使っていたことが由来という。
この句では 草葉を餅に入れて突いてふやふやの美味しい餅ができる。
そんな突きたての餅の様子を思い浮かべる。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶の草餅(春の季語)の句
★ 草餅を先ず吹にけり筑波東風
★ 草餅や片手は犬を撫でながら
★ おらが世やそこらの草も餅になる
ふや/\と餅につかるる草葉かな 小林一茶
七番日記:ふや/\の餅につかるヽ草葉哉
七番日記では「ふやふやの餅」となっているが、漱石の書では「ふやふやと」となっているように読める。
どちらが良いかは人によると思うが、少しニュアンスが違ってきそうだ。
草餅は昔、別名「母子餅(ほうこもち)」ともいった。
これは草餅に母子草=ごぎょう(春の七草のひとつ)を使っていたことが由来という。
この句では 草葉を餅に入れて突いてふやふやの美味しい餅ができる。
そんな突きたての餅の様子を思い浮かべる。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶の草餅(春の季語)の句
★ 草餅を先ず吹にけり筑波東風
★ 草餅や片手は犬を撫でながら
★ おらが世やそこらの草も餅になる
下総の四國廻りや閑古鳥 No11
≪三愚集≫No.11
下総の四國廻りや閑古鳥(小林一茶)
七番日記には「下総の四國廻りやかんこ鳥」とある。
さて、この句はどのようなことを詠っているのでしょうか?
まず「下総(しもふさ=しもうさ)の四国巡り」をまず理解しなければなりません。
下総は今の千葉県の北西部(南東部は上総(かずさ))です。
江戸時代にこの下総に四国八十八箇所に相当する霊場が出来ました。
そして、この寺々を巡礼して廻るという「札所めぐり=弘法大師巡礼」がかなり流行したようです。
一茶の七番日記の文化7年4月の日記にこの句が書かれており、
「寅刻雨、巳刻ヨリ晴 大南吹、水戸候牛久ヨリ若柴通小金泊」
とあり、一茶は水戸から牛久宿、若柴宿(現在の龍ヶ崎市若柴)を通って小金(我孫子と松戸の間)に泊まっています。
この時に取手宿に近くの「長禅寺」に立ち寄っているのですが、ここがこの「下総新四 国相馬霊場八十八ケ所巡り」の総本山となっているのです。
現在この寺にこの一茶の句碑が置かれています。
長禅寺は取手駅のすぐ東側にあり、931年に平将門が祈願寺として建立したと伝わる古刹です。
ここには三世堂というお堂があり、これが現存する日本で5カ所しかない「さざえ堂」の一つです。
ただ、このお堂も内部は毎年4月1日だけの公開だそうです。
(平将門は下総相馬氏の祖とも言われています)
江戸時代の頃、四国のお遍路だけではなく、この下総八十八箇所巡礼(お遍路)が流行したといいます。
新四国相馬八十八カ所霊場は、現在の取手市〜我孫子市周辺に現在も多くが残されています。
この霊場は今から約250年前頃に、観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したといわれています。
この霊場巡りは利根川の両岸に沿って比較的狭い範囲に集中しており、徒歩と渡し舟で二泊三日をかけて廻ることができたそうです。このため、ミニお遍路として江戸でも人気になりました。
さて、一茶の句ですが「閑古鳥」とでてきますが、読みは「かんこどり」ですが、「カッコー」のことです。夏の季語になります。
今では暇なときは「かんこどりが鳴く」などといいますが、この句の意味は暇というわけではありません。
夏に、のどかな(長閑)な雰囲気がしたのでしょうね。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
下総の四國廻りや閑古鳥(小林一茶)
七番日記には「下総の四國廻りやかんこ鳥」とある。
さて、この句はどのようなことを詠っているのでしょうか?
まず「下総(しもふさ=しもうさ)の四国巡り」をまず理解しなければなりません。
下総は今の千葉県の北西部(南東部は上総(かずさ))です。
江戸時代にこの下総に四国八十八箇所に相当する霊場が出来ました。
そして、この寺々を巡礼して廻るという「札所めぐり=弘法大師巡礼」がかなり流行したようです。
一茶の七番日記の文化7年4月の日記にこの句が書かれており、
「寅刻雨、巳刻ヨリ晴 大南吹、水戸候牛久ヨリ若柴通小金泊」
とあり、一茶は水戸から牛久宿、若柴宿(現在の龍ヶ崎市若柴)を通って小金(我孫子と松戸の間)に泊まっています。
この時に取手宿に近くの「長禅寺」に立ち寄っているのですが、ここがこの「下総新四 国相馬霊場八十八ケ所巡り」の総本山となっているのです。
現在この寺にこの一茶の句碑が置かれています。
長禅寺は取手駅のすぐ東側にあり、931年に平将門が祈願寺として建立したと伝わる古刹です。
ここには三世堂というお堂があり、これが現存する日本で5カ所しかない「さざえ堂」の一つです。
ただ、このお堂も内部は毎年4月1日だけの公開だそうです。
(平将門は下総相馬氏の祖とも言われています)
江戸時代の頃、四国のお遍路だけではなく、この下総八十八箇所巡礼(お遍路)が流行したといいます。
新四国相馬八十八カ所霊場は、現在の取手市〜我孫子市周辺に現在も多くが残されています。
この霊場は今から約250年前頃に、観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したといわれています。
この霊場巡りは利根川の両岸に沿って比較的狭い範囲に集中しており、徒歩と渡し舟で二泊三日をかけて廻ることができたそうです。このため、ミニお遍路として江戸でも人気になりました。
さて、一茶の句ですが「閑古鳥」とでてきますが、読みは「かんこどり」ですが、「カッコー」のことです。夏の季語になります。
今では暇なときは「かんこどりが鳴く」などといいますが、この句の意味は暇というわけではありません。
夏に、のどかな(長閑)な雰囲気がしたのでしょうね。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
生きてゐるばかりぞ吾と芥子の花 No12
≪三愚集≫No.12 生きてゐるばかりぞ吾と芥子の花 (小林一茶)
七番日記には 「生て居るばかりぞ我とけしの花」 とある。
一茶の48歳の時の句であるが、芥子の花も自分も生きているばかりだという。
一茶は芥子の花に男気を感じていたという。
そんなけしの花と自分を比べている。
自分は芥子の花と同じ無用ものだろうか?
同じ年に
★ ちる花や已(すで)におのれも下り坂
★ 花さくや欲のうき世の片隅に
などという句も残している。 何か通じるものがある。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶63歳で次のような句もある。
★ けし提げて喧嘩の中を通りけり
自分の人生は芥子を提げて喧嘩の中を通るようなものだったなあと振り返っている。
そして65歳で亡くなった。
七番日記には 「生て居るばかりぞ我とけしの花」 とある。
一茶の48歳の時の句であるが、芥子の花も自分も生きているばかりだという。
一茶は芥子の花に男気を感じていたという。
そんなけしの花と自分を比べている。
自分は芥子の花と同じ無用ものだろうか?
同じ年に
★ ちる花や已(すで)におのれも下り坂
★ 花さくや欲のうき世の片隅に
などという句も残している。 何か通じるものがある。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一茶63歳で次のような句もある。
★ けし提げて喧嘩の中を通りけり
自分の人生は芥子を提げて喧嘩の中を通るようなものだったなあと振り返っている。
そして65歳で亡くなった。
撫子の一花さきぬ小夜きぬた No13
≪三愚集≫ No13 撫子の一花さきぬ小夜きぬた(小林一茶)
七番日記には 「なでしこの一花咲ぬ小夜ぎぬた」 とある。 撫子(なでしこ)は秋の七草で初秋の季語
夜ぎぬた=小夜砧=夜打つ砧(きぬた)
砧(きぬた)は、アイロンのない時代に、布をたたいて柔らかくした道具をいうという。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ お地蔵や 花なでしこの真ん中に
七番日記には 「なでしこの一花咲ぬ小夜ぎぬた」 とある。 撫子(なでしこ)は秋の七草で初秋の季語
夜ぎぬた=小夜砧=夜打つ砧(きぬた)
砧(きぬた)は、アイロンのない時代に、布をたたいて柔らかくした道具をいうという。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ お地蔵や 花なでしこの真ん中に
如意輪も目さまし玉へ郭公 No14
≪三愚集≫No.14 如意輪も目さまし玉へ郭公(一茶)
七番日記には 「如意輪も目覚し給へ時鳥(ほととぎす)」 とある。
この句は千葉県印西市の瀧水寺(りゅうすいじ)を訪れた時に詠んだ句とされ、この瀧水寺にこの一茶の句碑がある。
ホトトギスの鳴く声が聞こえ、寺の如意輪観音も目を覚ましたまえという句だ。
漱石が書した句には ホトトギス=郭公 と表示されており、一般には郭公=カッコウと読む場合が多いように思うが・・・

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一般に「かっこう」は「郭公」で、「ほととぎす」は「不如帰」「時鳥」「杜鵑」などと書くようだ。
しかし、「郭公」を昔の和歌などでは「ほととぎす」と読ませている。
古今和歌集などでもこの「郭公」が「ほとぎす」として扱われている。
季語としては夏だ。
この2つの鳥は似ているが、明らかに鳴き声は違う。でも同じ漢字が使われているのは何故なのだろう。
共に5月ごろ日本に渡ってくる渡り鳥で、自分の産んだ卵を、他の鳥に温めてもらうという托卵をする珍しい鳥だそうだ。
七番日記には 「如意輪も目覚し給へ時鳥(ほととぎす)」 とある。
この句は千葉県印西市の瀧水寺(りゅうすいじ)を訪れた時に詠んだ句とされ、この瀧水寺にこの一茶の句碑がある。
ホトトギスの鳴く声が聞こえ、寺の如意輪観音も目を覚ましたまえという句だ。
漱石が書した句には ホトトギス=郭公 と表示されており、一般には郭公=カッコウと読む場合が多いように思うが・・・

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
一般に「かっこう」は「郭公」で、「ほととぎす」は「不如帰」「時鳥」「杜鵑」などと書くようだ。
しかし、「郭公」を昔の和歌などでは「ほととぎす」と読ませている。
古今和歌集などでもこの「郭公」が「ほとぎす」として扱われている。
季語としては夏だ。
この2つの鳥は似ているが、明らかに鳴き声は違う。でも同じ漢字が使われているのは何故なのだろう。
共に5月ごろ日本に渡ってくる渡り鳥で、自分の産んだ卵を、他の鳥に温めてもらうという托卵をする珍しい鳥だそうだ。
更衣いてもの見せんと計りに No15
≪三愚集≫ No.15 更衣いてもの見せんと計りに(小林一茶)
七番日記には 「更衣(ころもがえ) いで物見せん とばかりに」とある
この衣更えの風習は何時頃から始まったのか、少し調べてみた。
辞書を引くと
更衣【ころもがえ】:
季節に応じて着物を改める日をいう。古く宮中では旧暦4月1日と10月1日を更衣の日とし,冬から夏に,夏から冬に,それぞれ衣装を替え調度類をも改めた。この風はのち民間にも浸透した。神もまた更衣するものとして更衣祭を行う神社も少なくない。
とある。
まあ確かに今日のような暑い日が旧暦の4月からあったのか・・・・・
それにしてもまだ5月だというのに今年はもう30度もある。本当に異常だ。
一茶も夏の装いに着替えたら、どこかに物見(見物)にでも行きたくなったのだろう。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
それにしてもこの芋銭の絵は印象的だ。
一茶の更衣(ころもがえ)の句 (季語:夏)
★ 曙の空色衣かへにけり
★ 江戸じまぬきのふしたはし更衣
★ 鶯の飯(時)ならん衣衣
★ 更衣朝から松につかはるゝ
★ 更衣此日も山と小藪かな
★ 更衣よしなき草を引ぬきぬ
★ 更衣よしなき草をむしりけり
★ 更衣よしなき虫を殺す也
など
七番日記には 「更衣(ころもがえ) いで物見せん とばかりに」とある
この衣更えの風習は何時頃から始まったのか、少し調べてみた。
辞書を引くと
更衣【ころもがえ】:
季節に応じて着物を改める日をいう。古く宮中では旧暦4月1日と10月1日を更衣の日とし,冬から夏に,夏から冬に,それぞれ衣装を替え調度類をも改めた。この風はのち民間にも浸透した。神もまた更衣するものとして更衣祭を行う神社も少なくない。
とある。
まあ確かに今日のような暑い日が旧暦の4月からあったのか・・・・・
それにしてもまだ5月だというのに今年はもう30度もある。本当に異常だ。
一茶も夏の装いに着替えたら、どこかに物見(見物)にでも行きたくなったのだろう。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
それにしてもこの芋銭の絵は印象的だ。
一茶の更衣(ころもがえ)の句 (季語:夏)
★ 曙の空色衣かへにけり
★ 江戸じまぬきのふしたはし更衣
★ 鶯の飯(時)ならん衣衣
★ 更衣朝から松につかはるゝ
★ 更衣此日も山と小藪かな
★ 更衣よしなき草を引ぬきぬ
★ 更衣よしなき草をむしりけり
★ 更衣よしなき虫を殺す也
など
下駄ころりからりきやつらが夕涼 No.16 & <三愚集について>
≪三愚集≫No.16 下駄ころりからりきやつらが夕涼(小林一茶)
七番日記に 「下駄からり/\夜永のやつら哉」 とある。
夕涼(ゆうすずみ)の季語は「晩夏」で、「夜長」は秋分を過ぎたと考えられ、秋の季語になる。
上の二つは同じ季節では無ようだが、意味合いは同じようなものなのだろう。
「きやつら」「やつら」とは誰なのか?
一茶もこの句をいろいろに変えて楽しんだのかもしれない。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
「三愚集」について少し説明をしておきます。
三愚集は大正7年(1918年)に流山市の実業家で俳人でもあった秋元梧樓(ごろう)が企画し、小林一茶の句を27句選択し、それを夏目漱石が書し(揮毫し)、そこに小川芋銭(うせん)がしゃれた絵をつけたものを 大倉半兵衛が木版におこして版画版として制作されたものです。
ただこれは非売品として配ったもののようで製作された部数もわかっていません。
流山市で醸造業で財をなし、みりんの開発者としても知られる秋元三左衛門(俳号:双樹)は一茶の親しい支援者として知られ、小林一茶は何度もこの秋元家を訪れています。
秋元梧樓(ごろう)はこの秋元家に養子に入り、漱石とは俳人高浜虚子を通じて知り合ったといわれています。
しかし、結構豪華な体裁(見開きで右に漱石の書、左に芋銭の絵)の書で、復刻版が平成4年と10年に限定出版されています。
書の序文にはやはり漱石の書で達筆のためよく読めませんが、以下のようなことが書かれています。
「句は一茶 畫は芋銭 書は漱石それ故に三愚集という 句を作りて後世に残せる一茶は気の知れぬ男なり。
その句を畫にする芋銭は入らざる男也 頼まれて不得已一茶の句を写せる漱石は三人のうちにて一番の大馬鹿也。
三愚を一堂に会して得意なる秋元梧樓に至つては賢か愚か、殆んど判じかたし。
四十五年五月 漱石」


最初に刊行されたのは大正3年7月ですので、昨年7月に100年を迎えました。
現在白黒版ですが国会図書館のデジタルコレクションとして公開されています。
(国立国会図書館デジタルコレクション三愚集 ⇒ こちら)
ここに載せている書と絵はこのデジタルコレクションのものです。
季節に添って27句が選ばれていますが、句が選ばれた背景や、芋銭(うせん)の絵との関係もよく見ていくととても奥が深そうです。ここでは少し調べて分かったことなどを記していますが、私にとっては結構難解です。
解釈が間違っているところも多々あると思いますが、気楽に楽しんでいただけたら嬉しく思います。
七番日記に 「下駄からり/\夜永のやつら哉」 とある。
夕涼(ゆうすずみ)の季語は「晩夏」で、「夜長」は秋分を過ぎたと考えられ、秋の季語になる。
上の二つは同じ季節では無ようだが、意味合いは同じようなものなのだろう。
「きやつら」「やつら」とは誰なのか?
一茶もこの句をいろいろに変えて楽しんだのかもしれない。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
「三愚集」について少し説明をしておきます。
三愚集は大正7年(1918年)に流山市の実業家で俳人でもあった秋元梧樓(ごろう)が企画し、小林一茶の句を27句選択し、それを夏目漱石が書し(揮毫し)、そこに小川芋銭(うせん)がしゃれた絵をつけたものを 大倉半兵衛が木版におこして版画版として制作されたものです。
ただこれは非売品として配ったもののようで製作された部数もわかっていません。
流山市で醸造業で財をなし、みりんの開発者としても知られる秋元三左衛門(俳号:双樹)は一茶の親しい支援者として知られ、小林一茶は何度もこの秋元家を訪れています。
秋元梧樓(ごろう)はこの秋元家に養子に入り、漱石とは俳人高浜虚子を通じて知り合ったといわれています。
しかし、結構豪華な体裁(見開きで右に漱石の書、左に芋銭の絵)の書で、復刻版が平成4年と10年に限定出版されています。
書の序文にはやはり漱石の書で達筆のためよく読めませんが、以下のようなことが書かれています。
「句は一茶 畫は芋銭 書は漱石それ故に三愚集という 句を作りて後世に残せる一茶は気の知れぬ男なり。
その句を畫にする芋銭は入らざる男也 頼まれて不得已一茶の句を写せる漱石は三人のうちにて一番の大馬鹿也。
三愚を一堂に会して得意なる秋元梧樓に至つては賢か愚か、殆んど判じかたし。
四十五年五月 漱石」


最初に刊行されたのは大正3年7月ですので、昨年7月に100年を迎えました。
現在白黒版ですが国会図書館のデジタルコレクションとして公開されています。
(国立国会図書館デジタルコレクション三愚集 ⇒ こちら)
ここに載せている書と絵はこのデジタルコレクションのものです。
季節に添って27句が選ばれていますが、句が選ばれた背景や、芋銭(うせん)の絵との関係もよく見ていくととても奥が深そうです。ここでは少し調べて分かったことなどを記していますが、私にとっては結構難解です。
解釈が間違っているところも多々あると思いますが、気楽に楽しんでいただけたら嬉しく思います。
露の世のつゆの身ながらさりながら No.17
≪三愚集≫ No.17 露の世のつゆの身ながらさりながら(小林一茶)
おらが春に 「露の世は露の世ながらさりながら」 とある。
この句は一茶の長女(さと)が疱瘡(天然痘、おこり)にかかり亡くなった時に詠んだ句といわれています。
この世は露のようにはかないものだと知ってはいても、それでもやはりあきらめきれない。
そんな気持ちを句にしたものでしょう。
長女さとは一茶が56歳の時に生まれた子供でした。
それが1年後に亡くなったのです。そしてこの間のさととの愛と死をテーマにまとめた句集が「おらが春」です。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 目出度さもちう位也おらが春
★ 雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
一茶の俳句の世界、いや確かに、難しい世界に足を踏み込んでしまったのかもしれない。
でも何かものの見方が変わってきそうな予感・・・・
おらが春に 「露の世は露の世ながらさりながら」 とある。
この句は一茶の長女(さと)が疱瘡(天然痘、おこり)にかかり亡くなった時に詠んだ句といわれています。
この世は露のようにはかないものだと知ってはいても、それでもやはりあきらめきれない。
そんな気持ちを句にしたものでしょう。
長女さとは一茶が56歳の時に生まれた子供でした。
それが1年後に亡くなったのです。そしてこの間のさととの愛と死をテーマにまとめた句集が「おらが春」です。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 目出度さもちう位也おらが春
★ 雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
一茶の俳句の世界、いや確かに、難しい世界に足を踏み込んでしまったのかもしれない。
でも何かものの見方が変わってきそうな予感・・・・
蝸牛壁をこはして遊ばせん No.18
≪三愚集≫No.18 蝸牛壁をこはして遊ばせん
七番日記に 「蝸牛(かたつむり)壁をこはして遊ばせん」 とある
昔子供のころジ-トかたつむりを観察していたら、こんな気持ちになったようなこともあった。
でもこの句の持つ意味はどこにあるのだろう。
壊しても良いような壁の家に住んでいるということなのだろうか。
埴生(はにゅう)の宿などという歌があったが、この埴生の宿は土壁の貧しい住処のことだという。
そんな意味合いがあるのだろう。
かたつむりは夏の季語(梅雨時)

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 夕月や 大肌ぬいで かたつむり
★ かたつむり そろそろ登れ 富士の山
★ 足元へ いつ来りしよ 蝸牛
★ 蝸牛 見よ見よおのが 影ぼふし
七番日記に 「蝸牛(かたつむり)壁をこはして遊ばせん」 とある
昔子供のころジ-トかたつむりを観察していたら、こんな気持ちになったようなこともあった。
でもこの句の持つ意味はどこにあるのだろう。
壊しても良いような壁の家に住んでいるということなのだろうか。
埴生(はにゅう)の宿などという歌があったが、この埴生の宿は土壁の貧しい住処のことだという。
そんな意味合いがあるのだろう。
かたつむりは夏の季語(梅雨時)

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
★ 夕月や 大肌ぬいで かたつむり
★ かたつむり そろそろ登れ 富士の山
★ 足元へ いつ来りしよ 蝸牛
★ 蝸牛 見よ見よおのが 影ぼふし
誰殿の星やら落る秋の風 No.19
≪三愚集≫No.19 誰殿の星やら落る秋の風 (小林一茶)
七番日記に 「誰(たが)どのゝ星やら落る秋の風」 とある。
秋の風がだれかの死の知らせを運んで来たのでしょうか?
千葉県富津に「織本花嬌(おりもとかきょう)」という女流俳人がおり、一茶はこの花嬌とかなり親しくしていたという。
しかし、織本は花嬌が嫁いだ先の名前で、夫は酒造業と金融業を営む豪商であった。
夫婦で一茶とは俳句で交流があったが、花嬌の夫は1794年に亡くなっている。
「名月や乳房くはえて指さして」などという俳句もある。 どのような俳人であったのか・・・・・ 年齢はわからないが一茶よりはかなり年上ではないかと見られている。この花嬌が文化7年(1810年)4月に死んでしまう。
この歌が詠まれたのはこの文化7年の7月。
一茶が親子ほど年の違う若い娘「菊」と結婚したのは1914年であるので、この4年後となる。
一茶は花嬌の百ヶ日忌(文化7年秋)に富津の花嬌の墓を訪れており、次のような句を残している。
★ 草花やいふもかたるも秋の風
★ 蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
小川芋銭の絵は戦いのときに「巨星落つ」とか「主君の戦死」などが風の便りに聞こえてきた時の様子なのか?
★ 誰どのやふる廻水の草の花
★ 秋風に何して暮す島の友
★ 我仏けふもいずくの草枕
七番日記に 「誰(たが)どのゝ星やら落る秋の風」 とある。
秋の風がだれかの死の知らせを運んで来たのでしょうか?
千葉県富津に「織本花嬌(おりもとかきょう)」という女流俳人がおり、一茶はこの花嬌とかなり親しくしていたという。
しかし、織本は花嬌が嫁いだ先の名前で、夫は酒造業と金融業を営む豪商であった。
夫婦で一茶とは俳句で交流があったが、花嬌の夫は1794年に亡くなっている。
「名月や乳房くはえて指さして」などという俳句もある。 どのような俳人であったのか・・・・・ 年齢はわからないが一茶よりはかなり年上ではないかと見られている。この花嬌が文化7年(1810年)4月に死んでしまう。
この歌が詠まれたのはこの文化7年の7月。
一茶が親子ほど年の違う若い娘「菊」と結婚したのは1914年であるので、この4年後となる。
一茶は花嬌の百ヶ日忌(文化7年秋)に富津の花嬌の墓を訪れており、次のような句を残している。
★ 草花やいふもかたるも秋の風
★ 蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
小川芋銭の絵は戦いのときに「巨星落つ」とか「主君の戦死」などが風の便りに聞こえてきた時の様子なのか?
★ 誰どのやふる廻水の草の花
★ 秋風に何して暮す島の友
★ 我仏けふもいずくの草枕
菊咲くや我にひとしき似せ隠者 No.20
≪三愚集≫No.20 菊咲くや我にひとしき似せ隠者 (小林一茶)
七番日記に 「菊さくや我に等しき似せ隠者(いんじゃ)」 とある。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
菊のことを「 陰君子(いんくんし)」とか、「隠逸花(いんついか)」などとも呼ぶそうだ。
「陰君子(いんくんし)」は、 隠遁する有徳の人のことをさし、「隠逸花(いんいつか)」の意味は「暗闇でも、清らかな香りでそこに菊があることが分かる」というところから呼ばれているようです。
中国(北宋時代)の周敦頤(しゅうとんい)が書した「愛蓮説」の中に、
予謂菊花之隠逸者也
と書かれた箇所があり、これが「菊の花=隠逸なる者(俗世間から逃れた者)」という意味をもって俳句などでも使われているようです。
七番日記に 「菊さくや我に等しき似せ隠者(いんじゃ)」 とある。

(夏目漱石 書)

(小川芋銭 絵)
菊のことを「 陰君子(いんくんし)」とか、「隠逸花(いんついか)」などとも呼ぶそうだ。
「陰君子(いんくんし)」は、 隠遁する有徳の人のことをさし、「隠逸花(いんいつか)」の意味は「暗闇でも、清らかな香りでそこに菊があることが分かる」というところから呼ばれているようです。
中国(北宋時代)の周敦頤(しゅうとんい)が書した「愛蓮説」の中に、
予謂菊花之隠逸者也
と書かれた箇所があり、これが「菊の花=隠逸なる者(俗世間から逃れた者)」という意味をもって俳句などでも使われているようです。