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天狗湯を探せ!(その一)

 天狗湯を探せ! っていったい何? と思いますよね。

実は今回から数回に亘って千葉県銚子市で、「天狗湯」というもう大昔に無くなってしまった銭湯を探した探訪記を載せようと思います。
これは、私の記録的な内容ですので興味のある方はお付き合いください。

<プロローグ>

 江戸時代の終わり頃(文政3年:1820年)、江戸の街中に天狗に攫(さら)われて数年して戻ってきたという少年が現れた。
少年の名は「寅吉」といい、戻ってきたときは15歳であった。

当時、神道思想の研究をしていた国学者の「平田篤胤(あつたね)」はこれを知って、すぐにこの少年を家に招いた。
そして少年の話す天狗の世界の体験談を聞き取り、これを『仙境異聞』という書物にまとめたのだ。

寅吉少年の話によると、寅吉は江戸下谷池の端七軒町のたばこ売り越中屋與惣次郎の子であり、7歳の時に上野池の端の五条天神前で遊んでいると、そこで不思議な男が毎日のように丸薬を売っていた。この男は仕事が終わると小さな壺に道具と共に自分も入って、その壺ごと、どこかに飛んで行ってしまった。
あまりの不思議さに、この術を知りたくなった寅吉は、数日後また薬売りにやってきていたこの男に話しかけ、誘われるままにこの男と、この小さな壷に入ってしまった。
そしてたどり着いた場所が、茨城県の南台丈(現難台山)で、その後に近くの岩間山(現:愛宕山)に連れて行かれた。
そして、ここには13人(疋)の天狗が暮らしており、この男はその13天狗の首領で「杉山僧正」といった。

そして、この岩間山で天狗と共に約8年間過ごし、この間に、この杉山僧正から天狗界(神仙界)の話を聞き、天狗の修行もし、また天狗に背負われて世界各地の見物をしたという。そして、15歳に時に浅草観音堂前にもどされたという。

戻ってきた寅吉少年の話を聞き取ってそれをそのまままとめたかたちで書かれている仙境異聞(1822年刊行)だが、寅吉少年は、それからもちょくちょく岩間山にも戻っていたらしく、この本には篤胤が、この杉山僧正宛てに手紙を書き、それを寅吉少年に託したという手紙も含まれている。

平田篤胤は、この約20年後の1843年に他界しているが、この寅吉少年がその後どうなったかということを調べた人がいる。

心霊研究で知られる浅野和三郎氏だ。
浅野氏は明治7年に利根川下流の現茨城県河内町の医者の家に生まれ、東京帝国大学英文学科を卒業後海軍学校の英語教師をしていた。
しかし、大正4年に三男が原因不明の熱病になり、多くの医者にかかっても治らず、三峰山の女行者の言葉により快癒した事から熱心に心霊研究をするようになったといわれています。

この浅野和三郎氏がこの寅吉少年のその後を調べ、さらに門下の河目妻蔵氏によって追跡調査がなされ、大正14年10月の「心霊と人生」誌(10号)に「寅吉の晩年」と題して発表された。

それによると、寅吉は天狗の首領である杉山僧正からもらった名前「嘉津間」を名乗り(石井嘉津間)、平田篤胤の弟子のひとりの五十嵐という神職を兼ねた医者からの要請で、千葉県笹河村の諏訪神社(香取市笹川の諏訪大神)で神職をしながら、天狗直伝の法術で病気治しを行っていたのだそうです。

これが近隣はもとより遠方まで評判を呼んでいたといいます。

そして53歳の時に奉公していた女中しほとの間に男の子が生まれ、「嘉津平」と名付けました。

この後、寅吉は安政6年(1859年)12月に「僧正からの急なお召だ」と言いながら死去したそうです。
その際に、天狗秘伝の薬の処方箋とともに薬湯をはじめよとの遺言を残し、子孫は銚子で二神湯(通称:天狗湯)という銭湯を始めました。

そしてこの湯は皮膚病や火傷、冷え性に薬効があると評判になり昭和30年代頃まであったそうです。

では、この「天狗湯」がどのような場所で営業されていたのか、調べてみようというのがこの「天狗湯をさがせ!」のテーマです。
なんだか頼りない情報ですが、銚子には毎月3回ほど通っています。

午後一番からは仕事の打ち合わせで、この湯の探索は昼飯を含めた1回午前中1時間ほどの時間しかありません。
しかし、調べていくうちに銚子の歴史の足跡を追いかけているような不思議な気持ちになりました。
もう、天狗湯にあまりこだわるのではなく、そこに生活をしている方達との会話などの方がとても気持ちよく感じました。

ここからは、あまり知られていない銚子の歴史などにも触れた記録を残して行きたいと思います。
単なる紀行文としての面白さが表現できるようになるといいのですが。

次回から数回に分けて書いていきます。

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(岩間山の飯綱神社裏手の十三天狗を祀った祠と六角殿)

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岩間山の13天狗の民話については以下のサイトなどを参照ください。

茨城の民話Webアーカイブ:http://bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0801200005
笠間市(『いわまの伝え話』岩間町教育委員会):https://www.city.kasama.lg.jp/page/page000170.html
愛宕神社(岩間)-十三天狗の杜:http://www.rekishinosato.com/iwamaatago.htm
長楽寺の天狗: http://www.rekishinosato.com/essayW_16.htm


<天狗湯を探せ!> シリーズ全体は ⇒ こちら から


天狗湯を探せ | コメント(1) | トラックバック(0) | 2019/07/20 15:15

天狗湯を探せ!(その二)

<西広(にしびろ)家>

 さて、寅吉の遺言で天狗直伝の薬草とその製法を子孫に伝え、薬湯の銭湯を始めることになった寅吉の息子(嘉津平)ですが、何故その銭湯が銚子に作られたのでしょうか?

その理由は、笹川で神職につきながら、この天狗秘伝の医術でいろいろな難病の回復があったとされ、その中に銚子の富豪の子供の眼病を治したという。
この富豪が「西広重源」という方だそうで、この人のお世話により銚子の風光明媚な場所にその薬湯銭湯「天狗湯」ができたとされています。

また、場所としては港町の東部本銚子町の中央、松林の別荘帯に位置して常陸の鹿島に面し、利根川河口をのぞむ風光絶佳の地」と書かれていました。

さて、これだけ情報があれば50年以上前にすでに廃業となっていてもすぐにわかるだろうとたかをくくっていたのです。
しかし、実際は場所が特定されるまで4~5回も足を運んでしまいました。

そして思わぬことにそれがとても面白く、探すことの楽しさを味わうことになりました。

その顛末を数回に分けて書いてみたいと思います。

まずは「西広重源」なる富豪ですが、合致する方はわかりませんでした。しかし「重源(ちょうげん?)」という名前は奈良の東大寺を再興した僧の名前と同じであり、法名のようなものかもしれません。となると「西広」という名前を頼りに調べてみました。
西広という名前は全国にあまりおらず、銚子を中心とした千葉県と広島県にほとんどの方が集中している事がわかりました。

また銚子の中を調べていると銚子市川口町にある「西廣(にしびろ)家住宅」が国の登録文化財に指定されていることが判明しました。
その文化財登録の名称は日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」となっています。

登録の説明には、
 『西廣家は江戸時代末期に紀州(和歌山県)から移住し、銚子の漁業を支えた代表的な漁家のひとつ。かつお節や缶詰などの加工品の生産に乗り出したことでも知られる。』 とあり、

また、『西廣家は銚子市を代表する船主で、江戸時代末期に紀州から移り住み、初代が質屋を営みながら質種として土地を取得し大地主となりました。そして、2代目治郎吉(じろきち)氏が漁業を始めました。
  船名は信仰していた長野県の御嶽山からとった「御嶽丸(おんたけまる)」で、屋号は漁業を始めた2代目の名前をとり、「治郎吉」になります。現在でも主屋の玄関上部にその表記が見られます。
1877年(明治10)に建てられた木造平屋桟瓦葺、寄棟造の本館と1937年(昭和12)に総檜、洋館が建てられました。豪壮な本館と、付書院に犬吠埼の風景をあしらうなど細部意匠をこらす増築部分が対照的です。
昭和初期に、痛みの早い鰯を保存することを目的として、水産缶詰工場が稼働を開始しました。木造2階建て部分と洋小屋組木造トラス(一部鉄骨) の工場部分が連結する形になっています。 木造2階建ての部分の一階は土間で工場と連続し、2階部分は地方からやってきた従業員の居住スペース確保するために1935年(昭和10)に建てられました。 元の平家部分の南側には、獲れた魚の鮮度を保つため氷漬けにするためのコンクリート造りの水槽が置いてありました。』 と書かれています。

また、歴史的には、銚子の街は太平洋戦争で大きな被害を受け、飯沼観音も焼け、街中の主要な建物が焼失してしまいました。
しかし、この街のはずれにあった西広家の建物は幸いにも空襲で焼けずに残った貴重な建物だったようです。

要約すれば、銚子は驚くほど和歌山出身者が多く、西広氏も和歌山から江戸時代末期にやってきて、質屋で財をなし、多くの土地を手に入れた。そして2代目「治郎吉」が漁業をはじめ、船主となったが、痛みの早いイワシを新鮮なうちに加工してしまおうと缶詰工場を建てた。これが成功して大きくなった。ということでしょうか。

ではまずはこの西広家住宅を見ることから始めましょう。

場所は銚子第二漁港(川口漁港)の海寄りの道から少し入った旧道の五叉路の直ぐ北側です。
この五叉路というだけで、地元民には比較的によくわかるようです。

「こころ」という料理屋がある近くで、ここにはこれまで何回かお邪魔しています。
ではまず手はじめに西広家住宅と「こころ」のランチを目指してみることにしました。

西広(にしびろ)家住宅は、登録文化財に指定されていても現地には何も説明看板はなく、個人宅のため公開もされていません。
ただ、現地の工場や倉庫跡は出入りは出来ました。
古びた木造建築の建物が数棟ならんでいます。

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昭和13年に建てられた木造の缶詰工場(入口シャターは昭和30年にとりつけられたもの)で、この洋風2階建ての建物は地方からやってきた従業員の居住スペースです。工場はこの建物の裏手につながっていました。

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この工場と母屋の道路側はこのような赤レンガの塀で囲まれています。
これも登録文化財の一つで、大正末期から昭和の初め頃に造られたものだそうです。
大谷石と銚子石(砂岩)製の石積基礎上、上部に煉瓦をイギリス積されています。


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こちらは比較的新しい治郎吉倉庫です。現在も使っている?


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1段高くなっているところに登録文化財の倉庫(北倉・南倉)があります。
江戸末期の慶応年間(1865年~1868年)に漁網の保管場所として建てられた木造瓦葺の建物です。
その後は貯蔵庫として使われていました。

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現在では漁網の他、船舶を補修するための器具や、建具や高膳などが置かれる物置となっています。
中心部が2階建てになっており、中心をコの字型に囲む造りになっています。

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この倉の直ぐ横に大きな鳥居があります。
倉庫の敷地はこの手前で区切られています。

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さて、江戸末期の倉庫のすぐ横にあった大きな鳥居が気になり敷地を出て、廻っていってみました。

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この鳥居はどちらを向いているのでしょうか?
この北側に「西宮神社」という社があります。
そのいりぐちからこの鳥居まで参道の様につながっています。
この配置からすると、鳥居はこの西広家を祀るために置かれていると言えるでしょう。

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このすぐ横に「西宮神社」がありました。
そしてこの神社の裏手が森になっていて、遊歩道が造られています。
名称は「東部不動ヶ丘公園」でした。
地図を見ると南側の「和田山不動堂」の森につながっているようです。

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後に知ることになるのですが、ここは川口神社(白紙神社、歯櫛神社)から御嶽神社を経て、お不動様(和田山不動堂)の森をつなぐ場所でした。

銚子の安倍晴明伝説をたどると出てくる場所でした。 こちらはまた後ほど機会があれば載せます。

さて、西広住宅(治郎吉漁業倉庫)を後にして、本日のランチはいままでに数回お邪魔している「こころ」さんでランチと情報収集です。

「こころ」さんは知る人ぞ知る銚子の隠れ料理屋さんですが、つい先日テレビ東京の昼メシ旅で紹介され、この日は結構混んでいました。
次の仕事の都合もあり心配しましたが、何とか1人前だけ先に受けてくれました。
おまかせ定食1000円です。

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今回は混んでいたので女将さんも一人で料理作っていますので手が回りません。
でも、天狗湯の情報を探るべく早速聞いてみました。

「そう、この近くには確か3軒ほど銭湯があったのだけれど、みんな昔にやめてしまったの。
この東側に1軒、そこの五叉路の西側にたしか2軒あったはず。
西側の二股に分かれた道路の左手の大きな不動の入り口に1軒あり、もう1軒は右側に行った方だった。
不動に入口はたしか「滝の湯」という名前だったようだけれど、天狗湯はそのことかな?
もう一つの右側の湯はあまり記憶になくはっきりしないわね」
とのこと。

仕事に間に合わなくなるので、散策の続きは次回にして、美味しい料理を食べてこの港町を後にしました。
でもここのお刺身などはおいしいです。
建物は昔のスナックをそのまま使っているようですが、混んでいなければ、いろいろ要望も聞いてくれるし、魚も目の前でさばいてくれます。

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(2019年5月27日)

天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/07/20 23:33

天狗湯を探せ!(その三)

<庚申様>

前回の銚子訪問から1週間後にまた銚子にやってきました。

しかし、生憎の梅雨模様であまり天気も良くありません。
散策には不向きでした。
まあ少しの情報を追加しておこうと前回の五叉路の西側の2本の道を右(海寄り)を少し散策してみることにしました。

 前回、西広家住宅を見学後に訪れた「こころ」での情報から、川口の五叉路を右側(銚子駅側)に2つの銭湯があったと聞いていたからです。
また別の方よりも同じような情報を得ていました。

右側の2本の道の左側には滝の湯という銭湯があったことはほぼ間違いなさそうなのでもう1本の道を探索してみることにしました。

こちらの道はすぐに「通町(とおりちょう)」となり、そのまま進むと飯沼観音の南側のロータリーに出る道で、今は海(利根川)に沿った道がメインですが、昔はこちらの通町の通りが銚子の商店街にもつながっていました。

別なところで聞いた話で、この道を少し行った床屋さんの近くに昔銭湯があったようだとの情報もあったので床屋さんを探して行きました。

しかし、この通りも昔の面影はなく、かなりさびしい道となってしまっていました。
昭和30年頃というと、もう60年以上も前ですよね。
天狗湯を知っている方も70歳以上ではないでしょうか?

私も小学校の前半は家に内風呂がなく、銭湯に通っていました。
その銭湯も結構遠く、家から1駅離れた所で、母親と歩いて通っていたと思うのですが、その場所を聞かれたら大体の場所はわかりますが、そんな細かな場所までとても覚えていません。
やはり銭湯の近くに住んでおられた方に聞かなくてはダメだと思います。

まずは大雑把でも覚えている方を探さねばなりません。
名前を憶えている方は何人かわかったのですが、あの辺だとか、この辺だとか大雑把で意外に特定できなかったのです。

それで、その候補地の1つがこの通町の方でした。

でも、開いているお店も少なく、天候が良くないと歩いている方もあまりおりません。

そんな中少し変わったお宮を見つけました。
「庚申(こうしん)様」と鳥居の額に書かれたお宮です。
地図では旧道と港沿いの道が最も接近した場所です。

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銚子には各地に「庚申様」を祀った神社やお宮、石塔が数多く残されているようです。

庚申塚などは道教信仰の一つとされているようで、各地で道祖神などと同じように祀られています。

茨城の方でも庚申塚とか庚申塔といったものは結構ありますが、このようにお宮として祀られたものはあまり見かけません。

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中に祀られていたのはこの庚申塔です。
見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の上に青面金剛?が置かれています。
江戸時代には結構各地で流行ったようです。
60日おきにやってくる庚申の日に、体の中に棲む虫が天帝様に自分の悪事を夜中に知らせに行かれないように眠らずに番をするのだそうです。

これも夜中に飲食をするのも目的になったのでしょうか。二十三夜塔などの似たようなものでしょうか。


この庚申様のある場所から少し狭くなった旧道(横道)があり、何か由緒ありげな建物が残されています。
これが天狗湯の跡などと言われたら、そう思い込みそうです。
近くを通る人も見つからないのでとりあえず今回は散策だけで戻ります。

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苔むした廃墟のような建物。 
壁からは何本もの小さなボイラー用煙突が出ており、もしかしたらなんて思いましたが違っているようです。
その前は地図には「クレープ屋」の文字があるのですが、店はやっていないようです。

こうして歩いてみるとこのあたりの家も空き家が結構ありますね。
もうだいぶ前から空き家となっていると壁が壊れたり、草木が生い茂ったり、蔦で覆われていたりしています。

昔こちらは本銚子町(もとちょうしまち)となっており、銚子町に組み込まれて一緒になったのは1933年(昭和8年)だそうです。
この頃の地図ではまだ港沿いの道路は無かったようです。

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ここは川口漁港まですぐです。
銚子第一漁港と違って少し大型の舟が多く停泊していました。

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通町の道を銚子駅方面に進み、飯沼観音横へ出ました。
ランチは入梅イワシを食べたくなり観音食堂「丼屋七兵衛」さんにお邪魔しました。

「真イワシの漬丼(単品)」800円でした。
漬丼ならここが一番おいしいです。
銚子を活性化したいと始めたお店です。

冬場なら鯖が美味しいですよ。

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(2019年6月3日)


天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/21 11:49

天狗湯を探せ!(その四)

<和田山不動堂と滝の湯>

 天狗湯の近くにもう一つあったという「滝の湯」の場所はすぐに分かったので今回はまずこちらへ行ってみることにした。
川口に五叉路を西に行く左側の道方向にあるという。
それも道路が坂を登る直ぐ近くで、その近くに大きなお宮があるという。

少し車を走らせると右は次第に左にカーブし、登り坂となった。
ここに地図では「不動堂」と書かれた場所があるはずだが、郵便局と小学校がすぐに表れて、その手前にあるはずの大きな不動堂への入り口がない。

また戻ってみると、少し手前に斜めに入る道があった。

入口に大きな石灯篭がありました。

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入口が通りから入りにくくなっていて、最初に入口がわかりませんでしたが、入口に入ってみるとなかなか大きなお不動さんのようです。

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この階段を上った先に不動堂があり、森が広がっています。
しかしこの上には小学校や団地もできています。
昔はこの森が川口神社の方まで続いていて、次第に上の方が開発されて小学校(明神小学校)、中学校(第一中)や団地(植松町市営住宅)ができたようです。

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この石段の入り口に石橋が架けられており、下には水が溜まっています。

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 右手に刀に巻き付いた蛇の像があり、その上の方に水が落ちる口のようなものが見えます。
しかし、今はここから水は落ちていないようで、これが昔(江戸時代?)人口でつくられた滝だということがわかりました。
この滝があったので、近くにできた銭湯が「滝の湯」という名前であることに納得しました。

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波切不動尊です。 
波の荒い海岸近くによくみかけます。

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この不動堂をかなりのパワースポットという雰囲気がします。
色々な石仏などが所狭しと道沿いに並んでいます。

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ここが不動堂の本堂のようです。立派な建物があります。

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入口に置かれた狛犬もなかなか面白い表情です。

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首が落とされた石仏がいくつもありました。
廃仏稀釈で壊されて物でしょう。

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虚空蔵

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ここも新四国霊場の一つなのでしょうか

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この不動堂から遊歩道のように森の中に整備された道が続いています。
ここがこのまま西広家の方の西宮神社へつながっているのでしょうか。

夏場にはこの不動堂のまわりでお祭りが開かれているといいます。

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では滝の湯の場所を近くの食堂に入って確かめることにしました。
地図を調べても食堂はこの1軒だけです。もう50年ほどはやっているらしい。

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親子丼(700円)をいただきました。
まあ昔ながらの味でしょうか。

早速、女将さんに聞いてみました。
「この近くに昔 滝の湯 という銭湯があったと聞いていますが、ご存知ですか?」
「はい知ってますよ」
「場所はどのあたりですか?」
この通りの左へ坂を下りたところに魚屋さんがあるけど、その前にあったですよ。」
「いつごろまであったの?」
「そうね。もうずっと前に辞めてしまったから・・  ・40年くらい前かしら?」

「今は何か残っていますか?」
「いや何も残っていないね」

「もう一つ天狗湯というのがあったと聞いているのだけれど ご存じありませんか?」
「そうね。 ねえ!(常連の年配のおじさんに) 知ってる?」

年配のおじさん:「ああ知ってるよ!」
「え! どこにあったのですか?」
「この店を出て右に少し上ったところの交差点を右に行ったところにあったよ。」
「え! 通町の方ではないのですか?」

「いや、全然違うよ。 駅の方にその道を行って右側だよ。今も建物が残っているよ。」
「え! 本当に。 ありがとうございます。探して行ってみます。」

その道は、清水坂上から御飯町を通って銚子の街に至る道です。

さて、食事が終わったので、まずは滝の湯の跡を見てきましょう。

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少し左に戻って坂を下ったところに魚屋さんがありました。

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この前にあったというのですが、今は一般の住宅が建っています。
写真に見える奥の森が 和田山不動堂の森です。

滝の湯

下谷(したや)食堂で有力情報をゲットしましたので 調べに行きたいのですが、今日の時間はあまりなくなってしまいました。

長くなってしまいましたのでこの先は次回に回しましょう。

(2019年6月11日)


天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/07/24 07:55

天狗湯を探せ!(その五)

<清水町>

 前回の和田山不動堂近くにあった「下谷食堂」にいたお客さんより得た天狗湯の情報は、その前に数人に聞いていた情報とは違う場所の方向でした。

でも半信半疑で言われた方向を探してみることにしました。
食堂前の道を港とは逆方向に上るとすぐに少し広い道と交差します。
そこを右に行った右側だといわれましたので早速行ってみましょう。

すぐに「清水坂上」という信号になり、その少し先に「清水坂下」という信号のある比較的交通量のある道です。
この道は銚子駅の南を走る香取(佐原)方面から利根川沿いを通っている国道をそのまま東に進んだ道です。
国道は飯沼観音を過ぎて「御飯町」信号で2つに分かれます。
右に行くと銚子電鉄の線路を越えて、犬吠埼方面に行きます。
ここを曲がらずに真っ直ぐ進むと,道幅が少し狭くなって坂を登るような感じでこの道に出ます。

そして黒生(くろはえ)海岸へと続く道なのです。
この御飯町から少し上りとなり崖の中腹に添うように走る道です。
昔からある道のような気がしません。

また、天狗湯のあったらしき場所とみられる清水坂上から清水坂下信号間の海寄りは崖のようになっていてあまり家はありません。

でも、教えていただいたので半信半疑でそれらしき建物や空き地を探してみました。

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通り沿いにある古びた建物を探していると見つけたのはこんな廃墟。
車を近くに停めて中を覗き込むとここにはカラオケスナックのような施設があったことがわかりました。
この飯沼観音(坂東33観音霊場、飯沼は銚子にあった陣屋の名前)は江戸時代から非常に参拝客が多く、一つ手前の霊場札所が、土浦の清滝観音ですからかなり離れており、宿泊客も多かったようです。
そのため、昔から呑み屋さんの数は多かったようです。

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高台のため、このあたりからは湊の街並みが良く見渡せます。
天狗湯の場所も「利根川の向こう岸も良く見渡せる風光明媚なところ」とありましたからイメージにはよく合います。

さて、この日はもう時間がないので探すのは次回以降にすることにしました。
通りの右側にそれらしき建物や銭湯をやっていたらしき面影の場所があまりないのです。
何しろすぐ崖が迫っていて、下へ降りる舗装階段もいくつかりますので、この階段を下りるのかもしれません。

また、何せ、もう60年も前に廃業したらしい銭湯がまだ建物が残っているというのもあまり信用できそうにないんです。
もう少し周りを固める必要がありそうです。

また、この先御飯町から犬吠埼に向かう街道沿いの右側にも銭湯があり、こちらは一昨年の年末まで営業していたので、それと勘違いしているということも考えられそうに思えたのです。

少し自信がなくなりましたので、ある程度地形を頭に入れて後日また訪れました。

もう一度庚申様1のある港近くにやって来ました。
すると一軒の食堂が目に入りました。
地図を見て来ていたのですが、地図にも載っていない食堂です。
看板もなく、入口の暖簾が風にはためいて店の名前もわかりません。

入口の戸を開けると年配のご夫婦が迎えてくれました。

「やっていますか?」
「はいよ!」というわけで土間のテーブル席の椅子に腰かけました。
座敷にはテレビが点いており、マンガ本が無造作に積んであります。
いかにも港町の漁船に乗り込んで作業をしているあんちゃんたちが使っていそうなお店です。

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ちょっと通っただけではわからなかった食堂です。
すぐこの先が銚子の第二漁港(川口漁港)です。
源長食堂と言います。 上の写真の手前右側です。
の線だけがわずかに食堂で営業中ということがわかります。

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一般的な中華屋さんといったメニューです。

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肉ソバ(600円)を注文しました。

「ここ昔からやっているのですか?」

「はいもうだいぶなりますね」

「大昔に近くでやっていたという”天狗湯”というのを探しているのですがご存じありませんか?」

「ああ、知ってるよ。たしかにあったね。」
「え! どのあたりですか?」

「この先駅の方に向かって行って、最初の信号を左に曲がる。すると正面突き当りに信号があり、そこを左に行って100m位のところだ」
「まだ建物はあるんですか?」
「いや、もうだいぶ昔だから残っていないんじゃないかな」

またまた貴重な情報をゲット。やはりご年配のご主人と奥さまに感謝!

この言われたところはまさに前の時に聞いた場所と同じです。
突き当りの信号というのが「清水坂下」信号です。この左側だそうです。
じゃあヤッパリあの崖っぷちにあったのだろうか。

そこでまたその場所へ行ってみました。

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清水坂下と清水坂上の中間あたりのようです。
ここには割烹いとうという料理屋さんがあります。このあたりなのでしょうか。
割烹と聞くと昼時に一人で入るのは少し気が引けます。
(後で調べるとそうでもなさそうだし、評判も良いようですが入りませんでした)

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(割烹いとう:魚料理がおいしいらしい)

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割烹料理屋さんの駐車場からの眺め 天気が良ければ波崎の方までよく見渡せそうだ。

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少し先に行くと道が二股の分かれており分かれ道の角にお宮があった。

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お宮の中には邪気を踏みつけた金剛像のような石像が2体。
これもやはり道祖神や庚申塔などと同じなのか。
地図にはやはり庚申様となっていました。

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わかれ道ということで石の大きな追分が置かれていた。
「左 ふとう 川口明神」?? と書かれているのか?
もう一つの面には「四国同行」と彫られていた。
ということは結構昔からこの道もあったのか?

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また何本かこのように坂を下りていく道もあります。
この少し下りたあたりなのかもしれません。

また、この通りから少し下がったところに数軒の木造の気になる建物がありました。

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この気になる門の建物は結構古そうです。
昔の誰れかの別荘のような気もします。
今は誰もおらず、草ぼうぼうで、よく見ると昔塾をやっていたような貼り板があります。

聞くところによるとこの塾の建物は昔文化財に登録する動きもあったらしいが、そのままとなり今では結構あれてしまったとのこと。
でもほかにはそれらしき建物がない。

やはり昔この湯に通ったらしい近くの人を探すのが一番だろう。

ところで、「清水町」という名前は昔は泉がわきだしていたところだという。
海寄りに真水の泉がわきだすところはかなり貴重だったはずで、この泉があったから天狗湯もここにできたのだろうことは容易に推察できる。

もう次回は少し周りも固めておこう。

(2019年6月24日)

さて、このブログの目的は、只、昔懐かしい天狗湯の場所を足しかけて終わりなのでしょうか。
どうもこの天狗湯探しをしているうちに目的も少し変わってきたように感じます。
あまりすぐ見つかっては面白くないと思えてきたのです。
見つかってしまえばこのような場所に足を運ぶことはもうないかもしれません。
何かもったいないんですよね。
埋もれた歴史の小さな跡などを掘り起こすのが本来の私のブログテーマだったはずです。

探して行くうちにそこに眠った昔話なども見つけてみたいですよね。
ではもう少し続きます。

本日(7/25)はまた銚子に出かけます。
でも仕事だし、記事書いていると仕事の宿題(プログラミング)が終わりません。

また帰ってきたら続きを書きます。


天狗湯を探せ | コメント(1) | トラックバック(0) | 2019/07/25 07:58

天狗湯を探せ!(その六)

 <地図>

 そろそろ探し当てなければならないですね。
ネットを検索していたら、昭和5年(1930年)7月に東京交通社発行の『日本商工地図集成』です。
今では図書館のデジタルアーカイブにあるらしい。ネットから少し借用します。

昭和5年商工会地図

この左側に印をつけたところに「天狗湯」とあります。
ただ、この地図は当時のお店を載せることに主眼が置かれていて、実際の地図の縮尺などは全く無視されています。
これによると飯沼観音のところから銚子電鉄の線路側に沿って東(地図では下)に道を行くと、右に線路を超える道(犬吠埼の方向)への道を分けてすぐ、真っ直ぐの道の右側に書かれています。また、「本銚子駅」に近い場所になります。

この昭和5年のころとはどうも現在の道路がかなり違ってきているようです。
線路を越えて犬吠埼の方に行く分かれ道も現在のところではなく、清水坂下信号近くから右に上る道のようです。
ここには海静寺という浄土宗のお寺があります。
この寺は大正7年にこの地で亡くなった歴史家吉田東吾博士終焉の地という大きな石碑があります。
ここにも後ほど行ってきましたので別な機会に紹介します。

すると、天狗湯のある道は現在の清水坂下信号から斜め下の方に真っ直ぐに進む道のように思われます。
天狗湯はこちらの下の道の右側、上の広い道の左側になるようです。

もう少し情報を得るために、こちらの道を進んだところにある「そば処桶文(おけぶん)」さんを見つけましたのでランチに訪れました。

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この蕎麦屋さんは食べログなどにも載っていて人気もあるようですが、場所はあまり多くの人が通るところではありません。
やはり昔はそれなりに人の通りもあったのでしょうが、両脇を走る街道に挟まれたエリアですので地元の方がお客さんの主体です。

地図を見て、このお店を見つけ、メニューなどを調べていて気になるものを発見していました。
早々と開店時間の午前11時にお店に到着しました。
営業の暖簾がかかっていたので思い切ってドアを開けました。

「いらっしゃい」 店の清掃などの準備が終えたばかりのようでしたが、明るい感じのご夫婦が迎えてくれました。
一人で知らない地方のお店に入るときには少し気後れしませんか?
私も最近はだいぶ慣れましたが、2人なら気が楽でも1人だと少し気になるんです。
ましてやあまり観光客などが行かない常連さんを相手にしているお店は結構気になります。

私の地元(石岡)でももう10年以上ここに住んでいるのですが、地元相手のお店は入りずらいですね。
1人でドアを開けると怪訝そうな顔をされたことが何度かあります。

やはりドアを開けた時の対応が笑顔で接してくれると、こちらも気が楽になっていろいろ話などもできますね。

まだ誰もいないお店のテーブル席に座り、「”ちょうちん”ありますか?」とすぐに聞きました。
「はい、ございますよ」というので、何とも変わった名前のメニューを注文しました。

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こちらがこのお店オリジナルという「蕎麦ちょうちん」(750円)です。

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朱色の塗の容器が2段重ねになっていて上に蓋がついています。
蓋をあけると、上段が焼肉弁当風(豚の焼肉に、ポテトサラダや卵焼きなどが入っています)、下の段が冷やしタヌキそば風
これは暖かいのもあるそうです。

とてもおいしかったです。

食べた所で別なお客さんも来ていましたが、厨房にいた旦那さんとそのお母さん?も含めて天狗湯を知らないか尋ねてみました。
ご主人と奥さんはご存じなかったようで、80歳近いでしょうか、そのお母さんはご存知でした。

「はい確かにありましたよ。」
「どのあたりですか?」
「この店の前の通りを右に少し行って向こうの四つ角まで行かないところを左に入ったあたりでした」
「今でも建物が残っていますか」
「だいぶ昔なので残っていないのではないかしら」
「左奥には崖がありますが、その崖の手前ですか?」
「そうたしかそのあたりだった気がするのだけれど・・・」

ということで、食事後に、上に載せた地図の赤い矢印あたりを少し散策してみました。
しかし、このあたりもきれいな新築の家もあるのですが、廃墟となって荒れた家や、人が住んでいないと思われる空家も結構多いのです。
何処もそうですが、東京への一極集中で、地方はますます疲弊しているように見えますね。
天狗湯探しですが、銚子の街の衰退も少し気になるところです。 
銚子は千葉県で千葉市に続いて2番目に市制が始まった都市だそうです。

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蕎麦処より戻って、最初の赤い矢印を記した通りはこんな感じです。
奥に上の通りからの崖(森)に突き当たります。

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まわりにはどうも人が住んでいそうもない家がかなり多くあります。

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このあたりも昔は港町で賑わったのでしょうね。
家はたくさんあり住んでおられる方もまだたくさんおられるようですが、やはり寂しさもありますね

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丁度上の通りの「割烹いとう」さんの真下あたりにお宮がありました。
この崖に所から上の方が清水町で、この下のあたりは幸町というようです。
崖の下の方は清水町と名前が付けられたように清水がわき出ていた場所なのでしょう。
今でも少しジメジメしています。

天狗湯はこの湧き水が豊富だった場所に銭湯を建てたのでしょう。

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通りの反対側に苔むした大きな煙突を見つけましたが、これは何かの工場の煙突だったようです。

(2019年7月5日 記)

さて、このブログもいつまでも天狗湯探しで引っ張っていくわけにもいきませんので次回は場所を特定しましょう。
次回をお楽しみに。

余禄として近くにあった「清水観世音」を紹介します。

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ここにはこんなお話が残されています。

<清水庵の白蛇>
昔、清水庵(清水の観音様)の近所の人がお伊勢参りに行きました。
とちゅうで女の人と出合ったところ、その人が、
「これを銚子の清水庵へ届けてください。しかし、とちゅうでは絶対に見ないでください。」
といって、紙包みを渡しました。

その人は、不思議に思いましたが、約束を守って、清水庵まで持ち帰りました。
お堂の中で、その紙包みをそっと開けてみました。
すると、その中から白蛇の子が出てきて、すーっとお堂の奥の方へ消えていきました。

その夜、その人が眠っていると、いつかお伊勢参りのとちゅうで会った女の人が夢まくらに立って、ていねいにお礼をいいました。
その後、だれいうとなく「清水の観音様」には、白蛇のヌシがいるといううわさがたちました。

(銚子市教育委員会『銚子の民話』より)

天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/07/26 12:02

天狗湯を探せ!(その七)

<いよいよ天狗湯の場所判明>

 前回からまた1週間以上たちました。
天狗湯の大まかな場所はわかったので、そろそろ具体的な場所の特定をしたいと思います。

その前にすぐ近くの銚子電鉄の「本銚子(もとちょうし)駅」に行ってみることにしました。
ここは一昨年(2017年)夏の24時間テレビで地元の小学生からの希望で、ヒロミが駅舎をリニューアルしていた場所ですので覚えている方も多いのではないかと思います。

銚子電鉄はぬれせんべいでも有名になりましたが、銚子から外川までの短い区間を運航している路線で、ほとんどの駅が無人駅です。

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ここ本銚子駅も無人駅で駅前広場なるものはありません。
山の上を切り開いた切通しの中に、1923年(大正12年)に線路が敷かれ駅舎もその時に建てられたという。

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これが24時間テレビで新しくリニューアルされた駅舎。
何ともかわいらしい。
地元ではきれいになってよかったという声が多いようだが、大正末期の駅舎の雰囲気が損なわれたと嘆く鉄道ファンもいるという。

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駅内部の待合室。

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タイルと子供たちが製作したステンドグラスが飾られていた。

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外壁は赤レンガで、結構大正ロマン風に工夫されていた。
これはこれでいいんじゃないかな。

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跨線歩道橋「清愛橋」上からは眺めた駅舎と線路
もちろん単線です。

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銚子電鉄の駅は赤字解消のため、駅名をネーミングライツで募集し、いろいろ変わった名前がついている。
ここも時々変わりますが、現在は「上り調子 本調子 京葉東亜薬品」となっていました。

ちなみに隣の「笠上黒生(かさがみくろはえ)駅」は「髪毛黒生」となっています。
ちょこっと笑ってしまいますね。

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ここから次の笠上黒生駅までは切通しで紫陽花が目を楽しませてくれるという。

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直ぐ駅の横にある市立清水小学校です。
駅前で少し広々しているかとも思いましたが、広場もなく狭い道でした。

さて、本題に戻って、やはり年配の近くに住む人を見つけて訪ねてみようと思い、清水坂下信号から一方通行を下りたあたりで聞いてみることにしました。
それにしてもあまり聞けそうなお店もなく、歩いている方もほとんどいません。
たまに軽トラに乗ったおじさんが通るくらいです。

そんな中ふと見ると魚の卸か何かをやっている店の中で年配のお年寄り(女性)が一人で作業しているのが目にとまりました。
なかなか声をかけづらいのですが、思い切って声をかけてみました。

「すみません。 昔このあたりにあったといわれている天狗湯という銭湯を探しているのですがご存じありませんか?」
「はいはい よく知っていますよ! 車ですか?」
「車は少し離れたこの先の空き地に停めて、歩いてきています。」
「じゃあ 案内しますよ。」
「え! 本当ですか?ありがとうございます。」

そのおばあさん腰もしゃんとして、家から出てきてすたすたと歩いて道案内してくれました。
結構お歳も召されていると思うのですが、軽い足取りで前を歩いていきます。

店から出てすぐに細い道を曲がって、この先きだというのです。
そして上の通りに出る上り階段をそのまま登っていくではありませんか。

そう、ここは前に上から見ていたお屋敷のところです。
そして、上の通りまで上がる前に、「ここから入ったんですよ」と門を指さしてくれました。

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竹で組んだ塀に門も趣があります。
そして中はシダのような草が生い茂っています。
門の扉につけられたマークもとても印象的です。

このあたりの家やお店などでも同じような家紋?をよく見かけます。
丸に木瓜紋(もっこうもん)?ではないかと思います。
またもしかしたら天狗小僧寅吉が異界において見聞した七生舞(御柱舞)の図を表現したものかも・・・・

「あっ! ここは塾の貼り紙がしてある家ですね。」
「そう、前に若いお兄ちゃんが塾をやっていたの。 もうやめちゃったのかしら・・・」

それからこの手前の家も確か後から別な方が建てて、今は住んでいないのだけれど、近くにいますよ。
しかしこちらの天狗湯の方は今はどこに関係した方がおられるかは知らないようでした。

おばあさんにここまで上がってきてもらい大変感謝してお礼を言い、分かれた後写真撮ってきました。

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屋敷内には古木や竹林があり、かなり昔裕福な方がいた別荘と言った雰囲気です。

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屋敷のまわりは竹の垣根で仕切られており、いい雰囲気です。通りからは見下ろすような感じです。

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上の街道からは別に門があり、屋敷にはこのように下へ降りるようになっています。
通りからは見下ろすような感じです。

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この感じだとつい数年前まではここで塾を開いていたのではないかとさえ思えます。
でもこの塾は2000年の電話帳には載っていましたが、2007年の電話帳には記載されていませんでした。
ということは辞めてから10年以上経つのかな・・・・

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門扉は簡単に開け閉めできそうなので、せっかく来たのだから少し下に降りてみましょう。

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郵便ポストも残されていました。最近まで使っていたかのようです。

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屋敷にはクーラー(屋外機)が設置され、「伸学セミナー教室」という貼り紙がまだ残っています。

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裏には竹林がありちょっとした趣のある家です。

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しかし、建物の裏側に廻ってみると、残念ながらかなり破損していました。
もったいないですね。
銚子市でも残してほしい建物だと思います。

また、銭湯をしていた建物はこの建物の横にあったのかもしれません。
少し草に埋もれた建物の跡もあるように見えました。

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この上の通りから下の街を眺めたところです。
天気があまりよくなかったので常陸の方は良く見えませんでした。
きっと昔は風光明美な場所だったのでしょう。

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(住所は銚子市清水町2726です)

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それにしても元気なおばあちゃん(丸亀鮮魚店さん)ありがとうございました。

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(2019年7月16日)


<エピローグ>

7回にも分けてこの天狗湯探しのお話を書いてきましたが、このあたりで終わりにしましょう。

最初は常陸国の岩間山に伝わる13天狗の話からこの天狗小僧の子孫が銚子で銭湯をやっていたという情報を頼りに、ちょこちょことゆる~く探す紀行文を書いてきたのですが、途中からゆる~くしすぎて締まりのない文章になってしまいました。
でも私のブログの多くがこんな調子で、行く先々で気になったところを掘り返し(調べ)、そこで過ごしてきた昔の人たちの気持ちや生活を想像することによって「本当の姿や小さな歴史を見る」ということにあります。

現代社会は一見便利にはなりましたが、機械的に作られたような世界で、あまり面白みがないんです。
そして歴史的には嘘も多く、それがまた本当のことのように語られていたりします。
明治維新以降はこの国の歴史が大きく変えられてしまいました。廃仏稀釈がそのよい例です。

でもやはり昔の姿を見ることができないのですから、このように歩き回ることで何かの真実らしきものに行き当たります。
今回の真実は何か?

それは人それぞれで、この先を知りたければ自分の足で調べるのがいいでしょう。
図書館でも、住所登録の台帳でも、知っている人を探すでもいろいろな方法はあります。
これはほんの入り口を示しただけです。

各地域に埋もれた歴史が隠されています。そんなものをこれからも探して行きたいと思います。

最後に近くにあった「割烹いとう」さんにランチでお邪魔しましたので紹介しておきましょう。

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この割烹とある料理屋さんは地元の漁師との間で魚を仕入れているようですので魚が新鮮なのが売りです。
場所は天狗湯の直ぐよこなのです。
店ののれんにつけられた紋も天狗湯跡の扉の紋と同じようです。
これは丸に木瓜紋(もっこうもん)でしょう。
気になってからはこのあたりの家などにも同じ家紋がつけられた家が多数ありました。

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比較的昼には早い時間でしたが、女性のおばさんたちの4人組がにぎやかにおしゃべりしていました。
正面のテーブル席に案内されましたが、そこから港や波崎の方が良く見渡せます。

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窓側におすすめメニューが書かれていました。
やはり割烹料理屋さんですからランチメニューはありません。

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すぐにお茶とおしぼりに一般のメニュー表を持ってきてくれました。
まあそれほど高くはないですね。
比較的リーズナブルでしょう。

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刺身定食(1200円)をいただきました。

やはり魚は美味しいですね。
地元で40年以上魚料理の店を続けているそうです。

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となりのご婦人たちが出された料理に感嘆の声を上げていました。
でもどんな料理が出されたのかは知りません。

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この店からの眺めはいいです。
天狗湯も昔はこのような眺めが見られたのかもしれません。
この日は天気も良くなり、利根川の向こう岸の常陸国(波崎)の風車もよく見えました。
隣りにあった天狗湯さんのことも訪ねてみましたが、名前は聞いて知っているそうですが、あまり詳しいことはご存じないとのことでした。このお店も40年ほど前からやっているそうです。

天狗湯の深探記はひとまずこれで終わりです。

天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/07/27 06:39

銚子の晴明伝説

 千葉県銚子市で「天狗湯」なる銭湯のあった場所を探し、銚子駅の東側を細かく散策してきました。
そして、この銚子に伝わる一つの伝説に何故だか興味がそそられてきました。

銚子に伝わる伝説といえば犬吠崎や犬岩などに残された「源義経伝説」がありますが、これはこの銚子市の中でも一部の海岸などに伝わっているものです。
しかし、陰陽師安倍晴明伝説は銚子市の西北端から東南端まで幅広く晴明が動き回っているのです。

では、この晴明伝説を紹介しましょう。

 千葉県の銚子の一つ手前「松岸駅」に近い垣根町の海上小学校のとなりに「長者山仁王尊阿弥陀院(根本寺)」というお寺があります。
入り口の門柱にも「長者山」と書かれています。
ここ長者山と名が付いたのは、この場所に昔の海上郡で一番の長者が住んでいたことによります。
この長者にまつわるお話です。
この長者屋敷は「垣根の長者屋敷」と呼ばれていました。
長者の名前は「根本右兵衛義貞」といいました。
垣根の長者、海上郡随一の金満家であった根本右兵衛義貞には一人娘「延命姫」がおりました。

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(垣根町にある長者屋敷跡に建つ 長者山仁王尊阿弥陀院 仁王門)

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(阿弥陀院の阿弥陀堂)

平将門の乱討伐のために筑波に足を運んでいた右大臣藤原師輔に見いだされた安倍晴明は、時の天皇に寵愛され才能を発揮します。
しかし、天皇を取り巻く政争にまきこまれ、 身の危険を感じた阿倍晴明は都を脱出し 故郷の筑波山麓にもどっていました。

西暦986年 、筑波に戻っていた阿倍晴明はさらにこの銚子に逃れてきてこの長者屋敷に泊まりました。
そこで垣根の長者の延命姫と出会い、姫が晴明に一目惚れしてしまったのです。

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(阿弥陀院境内に立つ 延命姫供養塔 隣りに長者供養塔もある)

しかし延命姫は、生まれながらにして顔の左ほほ全面にアザがあったのです。
父の義貞は、裕福な資産家であり、娘のために安倍晴明に自分の財産を全て提供し、娘との結婚を願い出ました。
都から逃れてきていた安倍晴明は、最初はしぶしぶ延命姫との婚姻を約束するも、やはり次第に後悔しはじめ、延命姫のもとから逃げ出してしまいました。

晴明は、垣根屋敷から利根川に添って少し下流の「今宮」にやってきました。
そして、そこから対岸の波崎にわたろうとしましたが、海(川)が荒れていて渡れません。
そのため、晴明は飯沼観音へ逃げて、更に東の和田不動尊(和田山不動堂)に晴明は駆け込んだのです。

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(飯沼観音)

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(和田山不動尊入口)

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(和田山不動堂)

それでも姫は晴明を諦めきれずに必死にその後を追いかけました。
姫は常世田薬師堂(常灯寺)に 三日三晩 籠もり、晴明がいる場所を知らせてほしいと願掛けをしたのです。

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(常世田薬師堂 比較的最近まで茅葺屋根の立派なお堂でしたが銅版葺き屋根に改修されました。)

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(薬師堂の横の土壁には奥へ続く洞窟があります。その側壁にはたくさんの薬師様が祀られています。)

晴明は、逃げても逃げても延命姫が追ってくるので、ついに屏風ヶ浦の小浜の地(現在の銚子市と旭市との市境に近い海岸)まで逃げたところで一計を案じたのです。 
自分が死んだように見せかければ姫もきっとあきらめると考えたのです。

屏風ヶ浦の「通漣坊(つうれんぼう)」に着物と履き物を脱ぎ捨てて、断崖絶壁の崖の上から海に飛び込んだように見せかけ、自身は近くの新田の明王山真福寺に身を隠しました。

追ってきた延命姫は、通漣坊にぬぎすてられた着物と履き物をみて、晴明が身を投げたものと思いこみ、自らもそのあとを追って身を投げてしまったのです。

この真福寺には、晴明が隠れたといわれる小さなお堂(晴明堂)が遺されています。(お堂はあとから建て直されたものでしょう)
また、姫が海に飛び込んだことを知った晴明が罪滅ぼしのためにここで荒行をしたといわれています。

また延命姫が身を投げた「通漣坊」は、 千葉縣海上郡誌に「潮漣洞」として下記のように紹介されています。
「豊岡小浜磯見川の河口にあり、潮汐 沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
一洞崩壊すれば、随って一洞を生ず。  世俗之を「延命淵」と称す。
数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出するが如く、実に奇観なり。
遠近伝えて奇異の顕象となし、夏季観客常に絶えずという。」」

 また、ここの名前の「延命が淵」については、この安倍清明伝説をそのまま紹介して、この空洞はこの延命姫が身を投げたときにできたものだとの伝説を紹介しています。
 
 この「通蓮洞」は、「旭市」との市境にあり、銚子市小浜側の「男竃」は「小浜通蓮洞」、旭市上永井側の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていたそうですが、「男竃」は侵食により明治30年代に消滅し、「女竃」も昭和30年代まで一部が残っていたそうですが今は見ることが出来ません。
また岩が潮を噴き上げる壮観な景観の場所であり、素晴らしい風光明媚な場所であったそうです。
現在も歩いてこの海岸淵に下りられますが、昔の洞窟などはなくなってしまっているようです。

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(飯岡灯台:刑部岬)

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(東洋のドーハー:屏風岩)

 さて、海に身を投げた延命姫の髪の毛は銚子川口の岩(千人塚の付近)にからみつき、歯と櫛が川口の地に打ち上げられたのです。
そして、その歯と櫛を川口の丘に埋めて祀られました。これが現在の川口神社です。
この川口神社は伝承によれば最初「歯櫛明神」とよばれ、それがいつしか「白紙明神」と名が変わり、明治3年には現在の「川口神社」に改名されたといいます。

この延命姫は顔にアザがあったのですが、この川口神社に櫛や鏡などを納めて祈願すれば、女性は美しくなり、神社にある「白」をつけるとアザがきえると信仰されてきたそうです。

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(川口神社:白神明神)

さて、安倍晴明は平安時代の陰陽師としてその名を知られていますが、出生についてはいろいろな説があります。
大阪の安倍晴明神社のある阿倍野区というのが有力とされているのですが、茨城県の筑波山の麓である旧明野町猫島(現筑西市猫島)で生まれたとする説もかなり有力なのです。
晴明のことが書かれている最も古い歴史的文献「ほき抄」がその証拠と言われています。
平将門がいたのもこの近くです。

この海上国が常陸の筑波山の麓地方と関係があったことを伺わせる話であることが興味をそそります。

坂東三十三観音の霊場は、
第25番 筑波山 大御堂(つくば市)
第26番 南明山 清瀧寺(土浦市)
第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)(銚子市)
と土浦市の筑波山の麓よりこの銚子の飯沼観音へと続いており、昔は水路で人の流れもつながっていたように思われます。

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天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/08/01 18:43

平田篤胤と銚子

 天狗小僧の子孫が天狗湯を始めたのが千葉県の東端の銚子。

銚子の名前は酒を注ぐ銚子口に利根川河口の形状が似ているからだという嘘のような本当の話だ。
もっとも銚子の名前が使われだしたのは江戸時代のことなのでそれほど古い話ではない。

さて、この銚子周辺を今までに何回も歩き回っていると、天狗小僧寅吉の話(仙境異聞)を書いた国文学者の平田篤胤の名前を見ることがあった。
やはり何か関係があるのか?

私はあまりこの平田篤胤のことは知らない。
本居宣長の後継者的国文学者で復古神道の確立者といった事くらいがぼんやりと浮かぶくらいだ。

さて少し調べてみよう。

Wikipediaによれば、生まれたのは、秋田(出羽)の久保田藩の大番組頭(大和田清兵衛祚胤)の四男だというので、これは茨城(常陸国)とは関係が深い。
秋田の久保田藩は常陸国を制した佐竹氏が移った土地であり、代わりにそれまでの秋田氏などは常陸国にやってきた。
秋田の美人は皆茨城県から連れて行ったなどとのつまらぬ噂も広まった。

篤胤は秋田では養子に出され、父母の手で育てられず苦労して20歳になると、脱藩・出奔して国もとを飛び出し江戸にやって来た。
江戸でも苦学の連続だったようだが、25歳の時に備中松山藩士で山鹿流兵学者の平田藤兵衛篤穏(あつやす)に認められて養子となったとある。
26歳で結婚し、本居宣長の死後初めて国学を知り、国学の勉強を始めたというからかなり遅いスタートだ。
ただ、すぐに本居宣長の門人と自称したというからかなりの才覚の持ち主だったのだろう。

文化9年(1812年)37歳で愛妻を亡くし、幽界研究に興味をもち、復古神道研究に没頭していったようだ。
やはり愛するものを失ったことが霊界を信じる入口になったようだ。

篤胤は江戸での私塾だけでは物足りなく、その門人を広げる思いもあり、文化13年(1816年)に下総・上総を巡っている。
まず、船橋から神崎神社を廻り、東国三社(香取神宮・鹿島神宮・息栖神社)を訪れた。
そこから銚子・飯岡を廻って、天之石笛(あまのいわぶえ、いしぶえ)を手に入れて持ち帰り、これが現在代々木の平田神社に保存されている。

石笛

長さが50cmほどの石笛で石に空洞が空いて笛のように左右に穴がある。風が吹くと笛のように鳴るらしい。

ただこれは本当に笛のような形だが、この地方で見つかっている石笛はこのような形の物は少ないようだ。

銚子の少し南の玉崎神社はこの平田篤胤も神社裏に祀られているが、旭市の天然記念物として神社に置かれている「天の石笛」は次のようなものであった。

石笛02

平田神社に大切に保管されている「天之石笛」については、篤胤の弟子が著した 「天石笛之記」にこれを取得したいきさつが書いてあるという。

要約すると、篤胤が不思議な笛を手に入れる夢を見たという。
そして東国三社(香取・鹿嶋・息栖)参りの旅に出て、その足で銚子にやってきたときに、神社で夢に見たのとそっくりな石を見つけた。それは、神社に近所の海岸で見つけた村人たちが奉納したものだった。
それがほしくてたまらなくなった篤胤は神主に何度も頼み込んで譲ってもらったものだという。
そして、江戸にもどった篤胤は、屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したという。

「天の石笛」については飯岡などで昔話として語り続いている話がある。日本昔ばなしに収録された話が以下のサイトにある。

日本昔ばなしデータベース:天の石笛(あまのいしぶえ) 

時化の時にそれを知らせてくれた石笛だという。
自然にできた穴に大風が吹き始めるとそれが笛のように鳴ったという。

篤胤はこの三社めぐりの翌年も下総などの旅をしている。
天狗小僧寅吉にあったのは三社めぐりの翌々年であった。

篤胤が江戸で屋号を「伊吹乃屋(気吹舎)」に改名したというのがこの笛を得たことだというが、息栖神社境内に置かれた芭蕉の俳句もきっと頭にあったことだろう。

 『 この里は 気吹戸主(いぶきとぬし)の 風寒し 』 (芭蕉)

この気吹戸主は江戸時代はこの息栖神社の祭神で 黄泉の国から逃げ帰ったイサナギが汚れを水の流れで洗い流した時に、その流れから生まれた神という。

息栖神社はこのように汚れた土地を清浄化して蘇生回復の力があるのだという。

東国三社は直角三角形の頂点に配置された神社で、鹿島・香取の両神宮を弓の弦として息栖神社から矢を射ると石岡、筑波、岩間方面に矢は飛んでいく。
岩間山の十三天狗が活動していたあたりに行く。 これも何かの関係がないとは言い切れない。

もっともこの直角三角形に配置したのは息栖神社を大同2年(807年)に少し移動したからで、人工的に配置されたものだ。

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このあたりのことは昔書いた下記の記事などを参照ください。(まあ大昔の記事で内容も恥ずかしいが)

常陸から見た日本の夜明け: 


天狗湯を探せ | コメント(3) | トラックバック(0) | 2019/08/03 06:05

笹川の諏訪大神

 銚子での天狗湯を探せの関連で少し記事を追加しています。
昨日銚子に出かける途中で、東庄町(とうのしょうまち)にある「諏訪大神」に立ち寄ることにしました。

天狗小僧寅吉が後にここで神社の神職をしながら妙薬による治療などもしていたと書かれていたので、数年前に何度か訪れたことがあるのですが、改めて立ち寄ることにしたのです。

「大神」とありますが、この地方は大きな神社は皆「大神」と表記されています。

銚子に行くときに最近は神栖の先端 波崎から銚子大橋を渡ることが多いのですが、今回は潮来の手前から国道51号線で利根川を渡り、佐原(香取)から利根川沿いに千葉県側を走りました。

佐原、小見川(共に現在は香取市)を過ぎ、東庄町(とうのしょうまち)に入り、成田線を横切る手前に「わが町に 相撲がある」という看板が目にとまります。

東庄町は平成の大合併では合併せず、香取市と銚子市に挟まれた場所に位置しています。
もともと中世に東の荘園があったようですが、千葉氏の一族「東氏(とうし)」がこの地を治めていました。
そしてここの少し内陸にある「東大神・東大社(とうだいしゃ)」がこの町の中心の神社です。

この東大社と銚子の雷神社、 香取市(旧小見川町)の豊玉姫神社の三社の間で20年に1度の式年三社神輿渡御が行われています。

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東庄町の諏訪大神は国道356線(利根水郷ライン)沿いの笹川の中心地にあります。
かなり大きな神社です。
前に訪れた時に比べ駐車場も最近きれいに整備されています。

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広い境内の奥に拝殿が見えます。
辺りは静かで近くの木々から盛んにミンミンゼミの鳴声が聞こえてきました。

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拝殿の裏手が本殿ですが、かなり大きな本殿です。

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やはり諏訪大神の名前の通り、長野県の諏訪大社の系列でしょうから出雲系なのでしょう。
香取神宮にも近い場所ですが、結構、ここのほかにも近くに諏訪神社があります。

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拝殿の入り口横には「澪つくし(みおつくし)」の醤油が奉納として置かれていました。
普通はお酒が多いですが、これはNHKの朝ドラ「澪つくし」の撮影場所となった醤油場(江戸時代から続く)が近くにあるのです。

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そして左手には「神楽殿」があり、その奥に立派な土俵が見えます。
これが「わが町の相撲場」です。

出羽海部屋の夏合宿がここで行われます。

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夏合宿(稽古)の予定は8月10日~22日の朝です。御嶽海が最後の2日間参加するようです。
チラシは下記をご覧ください。
土俵のまわりにはテントなどが張られていました。

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神社では昔は相撲が奉納されていた歴史がありますが、ここの相撲も歴史が長いようです。
テントに隠れるようになっていましたが、相撲の始祖といわれる野見宿禰の石碑が置かれています。

この碑を設置したのがここ笹川の親分「笹川繁蔵」のようです。
大利根河原で銚子の隣りの飯岡の助五郎との決闘は浪曲や三波春夫の詩でも大昔に流行ったので年配の方はご存じでしょう。

三波春夫など前回の東京オリンピックのテーマ曲が有名なくらいですからもうだいぶ昔ですね。

ここでは「天保水滸伝」として語り継がれています。

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神社境内には「天保水滸伝伝承館」が置かれています。

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天保水滸伝については ⇒ こちら を参照してください。
昔歩き回って調べたことがあります。

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笹川繁蔵がこの神社の境内で日本の大親分(清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎など)たちを集めて大花会を開いたという。
これも、天保の大飢饉で財政的にも困っていた人たちを救うための資金集めだったようです。

天狗小僧寅吉がここにいたかどうかはよくわかりませんが、平田篤胤は東国三社(香取・鹿嶋・息栖)めぐりの時にここにも来ているようです。
地元の有力者などを集めて学問を教えているようです。

1816年:平田篤胤、東総をめぐる
1818年:江戸に天狗小僧が現る
1838年:大原幽学(おおはらゆうがく)が農協を世界で初めて創設(平田篤胤の教えた人もこれに参加していたという)
1844年:大利根河原の決闘(飯岡助五郎勢を打ち破るが、助五郎は十手を預かる身で、繁蔵は笹川を離れる)
1847年:笹川に戻った笹川繁蔵が助五郎一味に暗殺される

この諏訪大神のすぐ横に「延命寺」というお寺があり、ここに笹川繁蔵の供養塔があり、両脇に子分・勢力富五郎の供養碑と大利根河原の決闘で死去した平手造酒の墓があります。

繁蔵も暗殺されたときに死体はなく持ちされれていました。当時は仕方なく土を持ち帰り供養塔を建てたのですが、最近になり銚子や飯岡で首や胴が埋葬されていたことが判明し、こちらに遺骨を返却したようです。

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延命寺にある笹岡繁蔵の碑

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延命寺は諏訪大神のすぐ隣ですが、あまり目印もなく小さなお寺です。

寺の裏手は神社と繋がっています。


天狗湯を探せ | コメント(2) | トラックバック(0) | 2019/08/07 08:05

ウミガメと神社

 銚子の屏風岩の南側の海岸などでもウミガメの産卵する砂浜があるという。
四国の日和佐海岸のようにたくさんのウミガメが産卵するほどでは無いようだが、毎年のようにあまり人のいかない同じ浜で卵を産むようだ。

また銚子の漁師の間では昔からウミガメに遭遇すると大変縁起が良いとされ、こんな話が伝わっている。

<亀のまくら>
漁師が船を出しているとたまに沖に浮かんでいる浮き木にウミガメがつかまって休んでいることがあるとという。
これは大変縁起が良い流木とされ、船には別な木をいつも積んでいて、亀の休んでいた流木を回収し、代わりに持ってきた木と交換するという。

この流木を「亀のまくら」と呼び、亀のように長生きができ、子孫繁栄を願って神社に奉納するという。

またウミガメが死んで浜に流されてきたときには、丁寧に神社に墓を掘って埋めて供養するという。

さて、私がこの話に興味を持ったのは、銚子で天狗湯の跡地を探していたときに見つけた一つの神社を後から調べていて初めて知った。

それは川口神社と和田山不動尊のちょうど中間くらいの山の中にポツンと建てられていた「御嶽神社」という神社です。

この神社はどうやら「御嶽丸」という船の持ち主である「西広家」が建立したものらしい。
西広家は和歌山から出てきて、金貸しで土地を手に入れ、この御嶽山を信奉していたため、持ち船の名前も「御嶽丸」と名付け、「治郎吉」の屋号で船主、およびイワシの缶詰工場で戦前には大きくなっていったようだ。

この御嶽神社にもう数か月前に立ち寄っていたのだが、簡単に立ち寄った程度で調べてから先日また行きたくなり立ち寄った。

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西広家の裏山の奥、住宅街から竹藪を切り開いたように神社への参道続いている。
しばらく前まではこのような舗装はされていなかったようだが、今はきれいになっていた。

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鳥居の奥にお宮が一つポツンとある。

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お宮の手前には治郎吉漁業の西広秀行 (御嶽丸)の施工主名碑が置かれている。
ただこの石碑は比較的新しそうだ。

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神社名は「御嶽山」

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祭られているのは、国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱であるが、元々御嶽神社は山岳信仰(修験道)の神である「蔵王権現」がこれらの日本古来の神と習合したものである。

明治維新後は蔵王権現が表面から消えてしまったものと理解している。

西広家は天狗少年寅吉とのかかわりなどもあり、やはりこの修験道信仰があったように感じる。
この大きな石碑は明治三年のもので、ちょうどそんな時期とダブるようだ。

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裏には「御神歌」が彫られ、西広治郎吉の銘がある。

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さて、この神社の参道横の竹やぶの中に大きな石碑がいくつか置かれている。
これはすべてウミガメの墓である。

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「海神亀之霊 御嶽丸」  船主や、乗組員の名前も彫られている

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「神愛亀之霊 (大正三年)」

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「大海亀之霊」

やはりかなりの海亀信仰が続いているようだ。

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/10/02 23:04

高橋協子さんの妖怪作陶展へ

 笠間芸術の森のギャラリー門で、昨日から始まった彫刻家の高橋協子さんの作品展示会に出かけた。
今回は高橋さんの新境地が結集したような息吹を感じる展示かとなっていた。


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どの妖怪たちも皆愉快で、人間世界にいても全く楽しそうな顔ばかり。

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これらの妖怪たちは、どれも一緒に踊り出したくなるような表情に、仕草をしている。
何処にも怖さなどない。

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妖怪も人間も仲良く手を取り合って月夜の晩に踊っていそうである。

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昔話の世界にはいろいろな妖怪が出てくる。
でも、きっとそれはそれを見た人の心の中に灯がともって、いろいろな思いがそこに集まって来るのだろう。

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全く不思議な世界だ。
色々なものにチャレンジして、この領域に到達した。
これからどんな世界が開けるのか。

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狐も天狗も皆神仏の入り混じった天界にすむ。
今はなぜか懐かしさもある。
きっと人とも楽しく生きていきたいに違いない。

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"高橋 協子 作陶展" 回廊ギャラリー門
2020.10.24(土)〜11.6(金)
作品数:186点

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/25 17:58

本当にあった天狗伝説2

 昨日は笠間市岩間にある小学校の跡地を利用した『岩間体験学習館「分校」』において、待ちに待ったアニメの第2弾の発表会が行われました。

午後1時半開場、2時開演となっていましたが、30分時間を間違えて早く到着してしまいました。
1時半開始と勘違いして、昼飯をあわててかけこんで・・・・・・。

開場に一番乗りで座って窓から外を眺めると、昔の学校の校舎の窓からグランドとその先の山が美しく、こせこせした気持もゆったりしてきます。

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今回は江戸時代に平田篤胤が書いた「仙境異聞」の話の続きです。
前回寅吉少年が岩間山にやって来て13天狗とともに訓練をして江戸に戻るまででしたが、今回はその続きで、全3部作となる予定の中間第2部でした。

最初に光野志のぶさんの歴史講和「愛宕山の火災の歴史」でした。
とても深く興味深く聞かせていただきました。

そして、次に陶芸家の高橋協子さんのパワーポイントを使った、前回と今回のあらすじや仙境異聞の世界の詳細な話。
実によかった。大したものだ・・・
今回始めてパワーポイントを使ったそうだが、毎日忙しく渡り歩いている彼女にそんな時間もないはずなのに。
私自身は企業ではプレゼンや論文の発表などでは使う事は当たり前だが、企業をリタイヤしてしまえばあまり使うチャンスもない。

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 ここの13天狗は人間以外にもタヌキや鳥など修行して天狗にもなっているそうな。
 また、鼻の長い天狗の姿ではないらしい。

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寅吉少年も、次第に天狗の容姿に近づき、顔つきも変わって・・・

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1回目の話を要約して今回から聞く人のために説明もパワポで・・・

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最後に仙境異聞に書かれている「七生舞の図」・・・人間も鳥も魚もすべてが喜び舞う。
篤胤は、異界での話を文章だけでは物足りず、絵師を呼んで神仙界の「七生舞」を絵画で表現したという。
この岩間にもこの舞いの舞台となった池があったのではと・・・・

この説明の後に 吉成智枝子さんの民話語り「寅吉少年のおはなし」を楽しく聞きました。
民話の語りもいいな。

最後は、ギター奏者の大柴拓さんの<音楽劇「ホントにあった天狗のはなし 寅吉物語」2>が上映されました。

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1回目よりも更に面白く、動きも音楽を上手く入れながら聞く者の心をつかんではなしません。

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時々笑いも誘いながら素晴らしい作品となっていました。

さて、この先の3部目は・・・
気になる所ですが・・・

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文献調査の調査協力者に私の名前も入っていました。
あまり何もしていないのだけれど・・・・
まだ調査は未完成だしどうなりますか。

岩山の天狗の話しはNHKのキタカン+ という北関東(茨城・群馬・栃木)のローカル放送があります。
11月19日(金)19時30分に放送予定です。

「北関東 天狗夜噺(てんぐよばなし)」
初回放送日: 2021年11月19日

「てんぐ伝説」の宝庫、北関東。コロナ禍の疫病退散の願いや「鬼滅の刃」のヒットを受け、熱い視線を集めるスポットを徹底紹介。NHK前橋・宇都宮・水戸の3局共同制作。

 NHK前橋・宇都宮・水戸放送局の3局が北関東の魅力を再発見する番組「キタカン+」。今回のテーマは「てんぐ」。コロナ禍の疫病退散の願いや「鬼滅の刃」のヒットを受け、いま熱い視線を集める。珍しい「てんぐの御朱印」人気で行列ができる神社、江戸の文献にも残る不思議な「てんぐ少年」伝説、人々の思いが込められた「てんぐのお面」、北関東のてんぐスポットを徹底紹介。ナビゲーターは、群馬出身の落語家・林家つる子さん 

  詳細は ⇒ こちら

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ご出演の皆様。こんかいも大いに楽しませていただき有難うございました。




天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/11/14 11:31

岩間山の天狗伝説3

 岩間山(愛宕山)に伝わる寅吉少年の天狗伝説。
江戸時代に平田篤胤が書いた「仙境異聞」に載っている。

この少年の晩年は子孫が、銚子で薬草湯の銭湯を開いたと伝えられ、この銭湯の場所を3年半前に調べ、紀行文を書いた。
 「天狗湯を探せ」 ⇒ こちら

このときはこんな素敵な話しに仕上るとは思っていなかった。
まったく緩やかな天狗湯探しで、銚子の町を理解する大きな助けともなった。
それから3年、これが音楽アニメとなって1話、2話とでき、とうとう3話が完成となったという。

その発表会が昨日(9/24)岩間の「体験学習館」という分校跡で開かれ、聞きに行って来ました。

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今回は平田篤胤が書いた話しの続きで、実際に寅吉とその子孫がどのように暮らしていたのかを調査した内容となっています。
千葉県笹川(東庄町)で、薬草を使って病気治療や、諏訪大神で神職などもしていたという寅吉(後の名前を石井嘉津間)は、銚子の富豪西広重源さんの娘の病気を治したことから、銚子に移ることとなり、銚子で「天狗湯(二神湯)という薬草の銭湯を開いたという。
詳細は天狗湯を探せの記事を読めば分ります。

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江戸末期の1859年銚子で嘉津間(寅吉)は妻や息子に銭湯をして行く事を伝え、天狗界へ旅立ちました。
今も天狗界で修行を続け、200年後に大天狗になって姿を表わすかもしれませんね。

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今回のアニメやお話しに参加してくださった皆さんです。
いろいろ有難うございました。
これが更に大きな話題となって広がってくれたら嬉しいですね。

本日9/25(日)夜6:00から友部のトモアで講演があります。
もし参加してみたい方はトモア(0296-71-6637)へ連絡してみてください。

なお、1回目、2回目のアニメは
ホントにあった天狗のはなし1~寅吉物語~ YouTube ⇒ こちら
ホントにあった天狗のはなし2 ⇒ こちら

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天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/09/25 13:21

玄蕃山(その1)

 今から3年ほど前に「天狗湯を探せ」として、千葉県・銚子にあった天狗湯の場所を訪ね歩いた記録を書きました。
これは江戸時代後期に儒学者平田篤胤の書いた「仙境異聞」に出てくる「天狗小僧寅吉」の晩年に子孫が開いた薬草湯「天狗湯」の場所を探した時に記したものです。(詳細は ⇒ こちら

そして、その後この寅吉が天狗修行した茨城県笠間市(岩間山)に縁のあった陶芸家の高橋協子さん、ピアニストの小林萌里さん、ギタリストの大柴拓さんなどによりアニメ化され、今年3部作が完成しました。


ホントにあった天狗のはなし1~寅吉物語~ YouTube ⇒ こちら
ホントにあった天狗のはなし2~ YouTube ⇒ こちら
ホントにあった天狗のはなし3 ⇒ 岩間山の天狗伝説3(こちら) ~ YouTubeは今後

さて、今回は寅吉の晩年に子孫が銚子に「天狗湯」という薬草の銭湯を始めたということで、何故のこの場所が選ばれたのかを少し考え始めています。

一般には笹川の諏訪神社の神職をしながら病気治療も行っており、その時に銚子の富豪であった西広重源さんという人の娘さんの眼病を治したために、西広家の近くの場所を提供されて銭湯を始めたと伝えられています。
ただそれだけなのでしょうか?
天狗は当時どのような存在と考えられていたのでしょう。
この山岳信仰との関連も気になりますね。

先日、銚子へ又行って来ましたので、少し散策して来ました。
昼食は久しぶりに飯沼観音門前の「観音食堂・丼屋七兵衛」さんでとりました。
この食堂の店内に江戸時代末期(安政2年:)に赤松宗旦が書いた利根川図志に載っているここ銚子の町の絵図が壁板に大きく書かれているのです。

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観音界隈の図となっています。
中心は飯沼観音で、そこにはもう一つ「竜蔵権現」という表記も見られます。
江戸時代、ここ銚子は現群馬県の高崎藩の陣屋(飯沼陣屋)があり、遠い高崎藩と関係がありました。
東側(右側)にある陣屋というのが当時の高崎藩の陣屋跡です。
現在の町名も陣屋町となっています。

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飯沼観音は坂東三十三観音の札所の一つで、一つ前の札所は現茨城県土浦市の小町の里近くにある「清滝寺」です。
飯沼観音、竜蔵権現の少し北東側に「大仏」とあります。
現在こちら側には「飯沼山 圓福寺」という寺があり、飯沼観音の管理もこちら側でやっていますので、昔は神仏混合の施設となっていたのだと思われます。寺の説明では奈良時代から法灯が受継がれてきた真言密宗の古刹と表現されています。

ただ、太平洋戦争末期の昭和20年7月に銚子の町はB29による空襲で火の海となり、このお寺などの施設の多くが灰となってしまいました。現在は大仏や三重塔、仁王門などが再建され、銚子の町のシンボルにもなっています。

genba山2

上の写真地図はGoogle Mapsのこの地方の航空写真地図です。
右側上部に赤丸で囲った「飯沼観音」があり、その左手に「丼屋七兵衛」さんが記入されています。
そして、その少し南側(下側)に円福寺があります。
きっと昔は、この観音もお寺もほぼ一体だったのでしょう。
今は銚子電鉄(銚子~外川)が走っていますが、当然江戸時代はありません。

また、地図の右上側に「天狗湯跡」との記載があります。
三年前に天狗湯探しをしていた頃は場所がわからずにうろうろしましたが、驚いた事に今ではこのような表記が地図に載っていました。
何か責任を感じてしまいますが、この表記については私は何もかかわっていません。
ブログに書いたら勝手に記入されてしまったのでしょうか?

天狗湯のあった位置から南西側に黄色い線を引いていますが、この線上に少し気になる箇所があったので、現在少し散策してみました。
あまり成果はないのですが、利根川図志の地図に「センゲン」と「アタゴ」との表示がされている場所と天狗湯跡を繋いだ線です。

現在、センゲンと書かれた場所はこの山の上に神社があり、扁額には「浅間神社・愛宕神社」が併記されています。

浅間愛宕
(浅間山の上には二つの神社が同じ拝殿に祀られている。また隣に小さな祠があり、天満宮も祀られている)

そして、利根川図志の「アタゴ」のあたりは「玄蕃山(ゲンバヤマ)」があります。
最近はあまりこの玄蕃山については地元の若い方もご存じない方も多いようで、私も知りませんでした。

昔は「観音さま と 玄蕃(げんば)さま」と言われていたのだとか・・・・
ヒゲタ醤油の創始者の名前がこの玄蕃山に屋敷を持っていた「田中玄蕃」という人物で、玄蕃様と呼ばれていたそうです。
この名前は代々世襲されて使われていたそうです。
ただ、この名前についても、もう少し調べて見ないと良くわかりません。
少し調べてから続きを書きます。

     (その2へ続く)

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/10/16 17:34

玄蕃山(その2)

先日「天狗湯」関連で、ブログに読者からコメントをいただき、銚子の玄蕃(ゲンバ)山という場所に何かがありそうだと散策をしてみようと思い立ったのですが・・・・

これが思ったより難題を与えられたようで、奥が深そうです。わたしの手に負えるかどうか・・・・。

一般的な地図にはこの玄蕃山の表記がなく、これまでこの名前を聞いても場所が良くわからなかったのですが、国道を銚子電鉄に沿って東に進むと、飯沼観音のあるところの信号を過ぎて、犬吠崎方面に向かうと、銚子電鉄の踏切を渡ります。

この踏切の手前の左側が浅間山で、これは前回書いたように3つの神社(浅間神社・愛宕神社・天満宮)が一緒に祀られています。
さて、玄蕃山というのは、この踏切を渡る手前の右手側、手前に公園があり、その奥の林(小山)です。
そしてその奥に「飯沼小学校」があります。

まあ何ということもない荒れた林のような山です。
でも、銚子電鉄が出来る前は、たぶんこちら側の浅間山と続いていた小山で、こちら側には「アタゴ」があったのだと思われる雰囲気です。
まあ、今も先ほど書いた踏切を渡って、直ぐ右手の上には「愛宕神社」が祀られています。
ただ、後ほど紹介しますが、この銚子電鉄が施工された後に後から建てらえたのではないかと思われます。
なにしろこの線路の南側は結構広い範囲で住所は「愛宕町」となっている地域なのです。
天狗湯は愛宕町より北側ですが、寅吉たちは、恐らくこの南東側のこんもりした森を愛宕山と理解していたようなのです。

ここで少し愛宕神社に付いて考えて見たいと思います。

愛宕さんといえば、京都の愛宕山ですよね。この位置を地図で見てみましょう

京都2

京都の人は西の愛宕山、東の比叡山と二つの山を特に意識して眺めているようです。
この2つの山はほとんど同じ高さなのです。(愛宕山:924m、比叡山:848m)
京都の町から北東(鬼門の方向)に、比叡山があり、この方向を延ばしていくと、琵琶湖北岸の長浜に多くの寺院跡が残されている己高山があり、その先に山岳信仰の霊地「白山」があります。

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この白山信仰を広めたのは泰澄といわれています。

 歴史上の気になる人物(3)-泰澄(たいちょう) ⇒ こちら

また、こちらも関係しているかもしれないので
歴史上の気になる人物(1)- 役小角(えんのおづぬ) ⇒ こちら

でも、天狗といえば愛宕山なのです。嵐山の渡月橋から西北に見える山です。
この京都の愛宕山には一番天狗?の「太郎坊」天狗がいるといわれています。

京都の愛宕神社HPを除いてみましょう。神社の由緒によると
「その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。
 その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられます。早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられました。神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していましたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。」
と書かれていました。

まあ、この内容については縁起ですので、何処まで信憑性があるかはわかりません。今はこのように書かれているという事にしておきます。

私が京都の愛宕山と聞いて、頭に浮かぶのは平家物語に出てくる「一条戻橋の鬼女」の話です。
この話しは後に能の演目になった「羅城門(羅生門)」の話しの元になったといわれるものです。
(参考文献:福娘童話集 > 日本のこわい話(百物語) 百物語 第82話 ⇒ こちら

ただし、上記の参考文献は途中で終わっていますが、その後陰陽師の安倍晴明もでてきますので、興味のある方は検索して探してみてください)

ただ、ここでは鬼女が渡辺綱を愛宕山に連れて行こうとしています。鬼女は愛宕山に住んでいたことになります。
後の能の演目「羅城門」では羅城門(羅生門)に鬼が住んでいたとなっています。

当時の愛宕山は今と同じようにその近隣の町の「火防」として祀られているのは同じなのですが、鬼(一部で土蜘蛛)が住んでいたり、天狗が飛び回っていたりしていたようです。
もっとも天狗が火を消すという話と、火事の火の中で天狗が走り回っていたり、いろいろな話がありますね。

(参考:甲子夜話 三篇 巻之67 〔10〕  天狗が走りて火を引く、妖魔を見た者語る ⇒ こちら

さて、銚子の玄蕃山ですが、地元でも今の若い方はあまりご存じないようですが、ある程度年配の方はこの一帯を「田中玄蕃」という方の住んでおられた場所で、銚子で最初に醤油製造を始めた「ヒゲタ醤油」の創業者がいたところだと知っておられるようです。
だから「玄蕃さま」といえばこの田中玄蕃とすぐに頭に浮かぶようです。

ここで、ヒゲタ醤油のHPを見てみましょう。
○ 創業:1616(元和2年)第三代田中玄蕃が、銚子でたまりしょうゆの製造販売を開始(ヒゲタ醤油の創業)
○ 玄蕃蔵物語:ヒゲタしょうゆの醸造を、下総銚子の地で始めたのは田中玄蕃(げんば)という人である。
 元和2年(1616年)、・・・・土地の有力者であった田中玄蕃は、西の宮の真宣九郎右衛門(さなぎくろうえもん)という人にすすめられて醤油を醸造するようになったと伝えられている。
はじめは、大豆を主原料とした、「大極上々溜醤油」と称していたが、元禄時代に、第五代田中玄蕃が江戸の食味に合うように醸造法を改良(小麦の活用、米麹の利用など)して、現在の関東濃口しょうゆの基礎が出来上り、江戸庶民の食生活にヒゲタしょうゆが愛用されるようになった。銚子を母に江戸を父に育てられた関東最古の醤油蔵として、しょうゆ造りの原点にたち帰ると共に、ヒゲタの創始者に感謝し、その名を後世に伝えてゆくために、・・・第十二代濱口吉右衞門社長の提案のもとに、関連部門の担当者が集まり検討を開始したのは、平成元年(1989年)の秋であった。 製品のコンセプトは、往時の「造り」を現代の技術と設備で再現してみるということにした。(玄番蔵は毎年九月九日の重陽の節句に蔵出しされる)
と書かれていた。

ところで、この会社のHPでは第3代田中玄蕃が創業者と書かれているが、デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク によれば、田中玄蕃(初代)のページには次のように書かれている。
「江戸時代前期の醤油(しょうゆ)醸造家。
下総(しもうさ)海上郡飯沼村(千葉県銚子市)の名主。摂津西宮(兵庫県)出身の酒造家真宜(さなぎ)九郎右衛門から関西の溜(たまり)醤油の製法を伝授され,元和(げんな)2年(1616)醸造を開始。江戸本船町の真宜の支店で販売,現在のヒゲタ醤油の始祖となる。石橋源右衛門と名のっていたが,承応(じょうおう)4年(1655)田中玄蕃と改名。」

さて、これによれば石橋源右衛門という銚子の名主が醤油つくりをはじめ、1655年に「田中玄蕃」と改名したとなっている。
という事は、江戸?で田中玄蕃という名士がいて、その名前を受け継いで3代目となったのかもしれません。

戦国時代から江戸時代は、いわゆる役職をその人の名前のように呼ぶことが一般的になっていました。
たとえば吉良上野介は義央(よしひさ?)という名前であったが、一般には「上野介(こうずけのすけ)」で呼ばれ、そちらが正式な名前のようになっていたのです。
私の住んでいる茨城県石岡市は、もと常陸府中藩で、藩主は江戸の小石川にいた。水戸の松平家(徳川家)の親戚であるので常陸の領地には殆んど来ない。小石川の地元では播磨守であるので「播磨(はりま)様」と呼ばれていた。
この場所は今は「播磨坂」と呼ばれる桜の名所になっています。

このように正式に役職を任命されて、その名をつけていた人物以外にも結構昔の官職を自分の名前につけていた人々がいたらしい。
特に官職でも下部組織の役職はそのうちに任命もされないから勝手に名乗ってものあまり問題とはならなかったようだ。
さて、「玄蕃(げんば)」というのは、実は昔の役職名で 「玄」は僧侶、「蕃」は海外からの人をもてなす職をさし、遣唐使などの時代には唐からの人をもてなす役職で、当然言語は漢字文化であり、理解出来るのは僧侶に限られたのであろう。

石橋を田中としたのには、別に何か理由があったものと思うが、今のところ良くわからない。
今は分からないが、メモとして残しておけば、其の内情報も入るかもしれない。

また、天狗湯の場所を提供した「西広重源」という人物と聞いているのだが、こちらも記録では分らない。
ただ、西広家は和歌山からやって来て、銚子で金貸しから敷地を広げ、船の網元からイワシ漁、缶詰加工などで財を成して行った西広家の人物の一人ではないかと考えられます。また重源は奈良東大寺を再興した「重源(ちょうげん)上人」と同じ名前であり、これも僧侶の名前であったのかもしれません。

また長くなってしまいましたのでこの玄蕃山を少し散策した記事は次に書きます。

玄蕃山(その1)は ⇒ こちら

天狗湯を探せ | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/10/18 12:41

玄蕃山(その3)

 この記事は平田篤胤が江戸時代に書いた「仙境異聞」に出てくる天狗小僧寅吉のその後を追いかけ、子孫が千葉県銚子で薬草湯の銭湯をやっていたという実話により、3年前に書いた「天狗湯を探せ」というブログの追加記事として書いています。

 天狗湯を探せ ⇒ こちら
 玄蕃山(その1) ⇒ こちら
 玄蕃山(その2) ⇒ こちら

さて、銚子の飯沼観音を見下ろせる少し高台の小山が玄蕃山と呼ばれていますが、この場所は銚子でいち早く(江戸の初期の1616年)醤油醸造を始めた田中玄蕃という人が領していた場所と言われ、ヒゲタ醤油を始めた所とみられています。

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ではここで、銚子と常陸国岩間(現笠間市)の愛宕神社との位置関係を見てみましょう。
寅吉が天狗修行をした岩間山(現愛宕山)は銚子の北西方向(戌亥=乾いぬい)にあります。
この線をさらに先へたどっていくと日光となります。ここも天狗の聖地です。

もう1カ所天狗の神社としても知られる「大杉神社」の総本山の場所を赤まるで示しています。
ここも忘れてはいけないように思います。「茨城の日光東照宮」とも呼ばれるほど凝った作りの神社です。

ヒゲタ醤油の創始者である「田中玄蕃」は江戸初期に醤油を始めるにあたってこの大杉神社を訪れたといわれています。

さて、では銚子の玄蕃山を見てみましょう。
銚子北側の国道を銚子電鉄に沿って東に進むと飯沼観音のある交差点に出ます。
ここを右に(南へ)曲がると、銚子電鉄の「観音駅」があり、この踏切を越えてすぐ「飯沼小坂下」信号があります。
ここを左に少し狭い道を曲がって、2手に道が分かれますが、右に坂を上ると左手の森が玄蕃山で右手に飯沼小学校があります。

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上の写真のような坂道の右手に飯沼小学校があり、左手には古木の生い茂った森があり、この森が玄蕃山と呼ばれていまし。
ただ昔はこの小学校辺りも玄蕃山と言われていたのではないかと思います。

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この森は結構木や草に覆われていて、中に入っていけません。
少し先へ行った辺りで入れそうな場所もありますが、藪をかき分けねばなりません。

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右手には飯沼小学校があります。
小学校からはこの森がすぐ手前で、そのすぐ北側を銚子電鉄の線路があり、線路の北側には住宅も広がっています。

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小学校の東端あたりから森へ続きそうな道があったので入ってみました。

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その入り口には福寿院と書かれた百度石(お百度詣りの標識となる石)などがありました。
これはここからどこにお参りしていたのでしょうか。
ここにお寺があったようなのですが、今は寺院というより普通の住宅と言った家が建っています。
ただここから坂を下って浅間山の方に道が続いています。

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そして、その先は森の中の道へ、線路に向かって下っていきます。

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そして、線路には小さな踏切があり、渡れるようですが、少し危険ですね。
ただこの先は住宅地で、その先に浅間山(浅間神社、愛宕神社)へ続いています。
Googleの地図には、この手前左側の森の中に「玄蕃井戸」のマークが書かれているのですが、どこから行けば・・・・・

仕方がないので、最初の方に戻って、飯沼小坂下を入って小学校への坂を上らずに、左側の住宅などの方向へ行ってみました。
ここはこの森の下側になり、少し家がありますが道も途中で途切れてしまいます。
ただ、雨の後でもありましたが、結構水が溜まりじめじめしています。
また山側の崖にはいくつもの横穴が開いています。

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このように金網でふさがれたものもありますが、草で覆われてよくわからなところも含めると7~8個くらいはあります。
後から聞いてみたところ、これらは戦時中の防空壕の跡で、線路の反対側の公園側にも昔はあったとのこと。
また、昭和20年7月の空襲の時は、皆この穴の中に逃げ込んだそうです。

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玄蕃井戸と呼ばれる遺跡はこの先にありそうなのだが、余り汚れてまで探す元気はなく引き返した。
玄蕃井戸(別名:竜の井)はヒゲタ醤油つくりに使われた水をこちらの湧水をためておき、ここから引いて使ったというレンガつくりの遺跡です。
まあ、それほど見たいわけでもないが、又暇なら探してみましょう。

浅間山のところの踏切を犬吠埼方面に渡ったすぐ先の右側に「愛宕神社」があるので、そこにも行ってみました。

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コンクリ造りの神社拝殿と、右側に小屋があります。

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神社の鳥居は拝殿の正面ではなく左側にあります。

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右側の小屋の中には神輿がしゅうのうされており、奥の壁には寄付者などのお名前の書かれた木札がびっしりと並べられていました。

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神社の神紋は三つ葉葵の徳川家のご紋でした。

こちら側の愛宕町の守り神としてあった愛宕神社を復活させて建立したのかもしれません。
ただ、これも勝手な解釈で、もう少し地元などで聞いてみなければよくわかりません。
今はただメモとして残しておくことにします。

天狗湯を探せ | コメント(3) | トラックバック(0) | 2022/10/19 11:45
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