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歴史上の気になる人物(1)- 役小角(えんのおづぬ)

役小角(えんのおづぬ)=役行者(えんのぎょうじゃ)

 役小角(えんのおづぬ)は役公小角(えだちのきみおづぬ)といい、奈良時代の前の飛鳥時代の人物で、西暦634年~701年7月16日に実在した修験道の祖とされる人物です。役行者(えんのぎょうじゃ)と一般には呼ばれています。

時代背景としては大化の改新(646年)、白江村の敗北(663年)、天智天皇即位(688年)、天武天皇即位(673年)、持統天皇遷都(694年)、大宝律令(701年)などの時代である。

中国(唐)では三蔵法師(玄奘三蔵)が16~17年の西域・インドへの長旅を終えて仏教の経典を長安に持ち帰ったのが645年です。ただ仏教が日本に伝わったのはそれより100年ほど前です(元興寺縁起では仏教の伝来は西暦538年)。

修験道は日本古来の神道と仏教が融合した日本独自の蔵王権現を祀る宗教です。しかし、明治初期の神仏分離(廃仏稀釈)により壊滅的な打撃を受けました。

しかし、最近はこれを見直す動きも大分出てきています。
ここではこの修験道の祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)こと役小角(えんのおづぬ)について調べた内容をまとめておきたいと思います。

1、小角の出生について

役小角の生まれは現在の奈良県御所市茅原(大和国葛上郡茅原郷)で、西には葛城山(標高959.2m)、金剛山(標高1125m)の金剛山地尾根が続いている場所です。
現在この生まれたとされる場所には役小角が開祖といわれる吉祥草寺(本山修験宗大本山・茅原山・金剛寿院)が建っています。吉祥草は葛城山でめでたい時にしか咲かないと言われる蘭に似た花を持つユリ科の植物で小角が生まれた時に咲き乱れていたということから名づけられた。

また金剛山の最高地点(1125m)は葛木岳(かつらぎたけ)といい、葛木神社の本殿の裏となっていて、立ち入り禁止の神域です。
小角(おづぬ)の父親は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかものあそん)とか、加茂氏(三輪氏族)から出た氏加茂役君(かものえだちのきみ)といい、またの名を大角(おおづぬ)という。母親は白専女(しらとうめ)、又は刀自女(とらめ)といいます。

神道の成人女性の墓碑には「刀自(とじ)」「刀自命(とじのみこと)」とつけられる場合が多いですが、刀自とは戸口を守るという意味があるといいます。また専女(とうめ)は狐のことを呼ぶとも言うようです。この母親の出についても第25代武烈天皇(6世紀初期)の時代に大伴金村によって攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘とも言われています。親系列は出雲族、物部族系といえるようです。

高鴨神については奈良県御所市には高鴨神社があり、全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社とも言われています。
また小角の出生についても次のような伝説が残されています。

母親であるある白専女は、ある夜に一つの独鈷杵(どっこしょ:仏具)が天降りきて口から胎内に入った夢(別な話しによれば熊野に参詣した際に月を飲み込んだ夢)を見て懐妊したという。
生まれた子は男の子で、額に小さな角があり、幼名を小角と言った。

その他、帝が狩りにきて、雨が降ったので行者の家で雨宿りをした。その時に行者の母があまりにも美しく、近くにお召しになり子供が出来たという伝承などもある。

2、小角の幼少期
 

小角は幼少のころから聡明叡智で、歩いていても虫は踏まず、華を摘み、果物を拾って仏に供養し、常に清浄の地を選んで竹で柵を作りその中で土から仏を造ったりしていたと言う。
また7歳頃から仏教を志し、9歳で出家して「役優婆塞」と名乗ったという。

3、小角の修行

17歳頃に元興寺(現:奈良市の元興寺及び飛鳥寺の2つ)で孔雀明王の呪術で習い、葛城山(現:金剛山)の岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得したという。
孔雀明王は毒蛇を食べる孔雀(クジャク)を神格化した仏のことで、その呪術は、呪文を唱えては数々の奇跡を起こすことが出来たという。額の角は帽子で隠しておりこの帽子を角帽子(つのぼうし)というようになったとも言われる。

葛城山での修行については、司馬遼太郎が書した「吉野風土記」の中で、650年の冬に小角は葛城山に入り、まず飛行術の修行をしたとし、山並みのコゴセ山からフタガミ山の間の尾根道(約5里)を毎日10回、飼いならした鹿10頭と一緒に一本歯の高下駄をはいて走ったという。
1年もすると次第に小角は谷間を飛び越えられるようになり、あまりにも早くなって鹿も一緒に走るのをやめた。
そして小角は飛行術を会得していったと書いています。
まさに天狗ですね。また、小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛ぶことができたともいう。

また、奈良の蛇穴村(現:御所市蛇穴(さらぎ))にある野口神社に残された話しでは、茅原郷から葛城山の櫛羅(くじら)の滝や行者の滝へ毎日通う役小角の姿をよく見かけたとされ、この神社の茨田(まんだ)の長者の娘が役小角を見初めて恋に落ちたが、小角は修行中で目もかけなかったため、遂に娘は大蛇に変身して火を吐きながら小角を呑み込もうと穴に隠れて待っていた。

そこに村人が通りかかり、驚いた村人は火を吹く大蛇に持っていた味噌汁をぶっかけたそうな。
そして、村へ逃げ帰り、人を呼んできて見ると、大蛇は井の中に静かに入ったため、その井戸の上を岩で塞ぎ閉じ込めたという話しが残されています。

このため、野口神社では毎年5月5日にこの蛇となった娘の供養に三斗三升三合の味噌でワカメ汁を作って参詣者に掛け、厄除けをする「汁掛祭」、全長14mの大蛇を模した蛇綱で、各家の邪気を払う「蛇綱引き」が行われています。

また、箕面の滝本に一千日こもった後、生駒山の麓の「平群の里」に行くと、清い水が勢いよく流れていたので、何処から流れて来るのかと山中に分け入った。
すると、その流れの元に滝があり、そこに長さ三丈(約9m)もあり、口から火の様な赤い舌を出した大蛇がいた。 そして大蛇は役行者に襲いかかってきた。
岩上に立った役行者は右手に錫杖、左手に念珠を持ち、孔雀明王の真言を唱えると大蛇は一瞬怯えたが、また襲いかかってきた。役行者は大蛇の脳天に錫杖で一撃を加えると、大蛇は消え、白髪の老人が現れ「この地は仏の住まう霊地である。 そなたはここで修業なさるがよい」と告げ、忽然と姿を消したという。

この元山上の千光寺「行者堂」には行者が退治した大蛇の骨が安置され、この千光寺から鳴川沿いに下った清滝には大蛇が変身したとされる八尺地蔵が立っています。

4、中臣鎌足の病気平癒

 小角が20代のころ中臣鎌足(後の藤原鎌足)が難治の病に係り、評判を聞いて茅原の里に使いを出た。 行者はこれに霊薬を持たせ、更に祈念して念ずると徐々に快方に向かい、37日で全快となったという。

5、行者金剛山(葛木山)に登る

 行者は霊薬などの処方で多くの人を救ってきたが、深山幽谷での修行を望み、32歳の頃の深夜に自分を模した木造を彫って母親に残し、金剛山に向かったという。
明るくなって母親はこの像に話しかけたが返事がなく、木像だと気がついたという。
しかし、当時すでに行者の名は帝にまで知られており、修行でいなくなったのであればということで、帝より茅原の里に一宇の堂を建立せよとの命が下され、吉祥草寺(俗称:茅原寺(ちはらでら))が建てられた。
この本堂には五大尊を安置し、行者堂にはこの32歳の行者木像が安置されたという。

6、前鬼・後鬼を従える

 生駒山には前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)という夫婦の鬼が住んでおり、村人に悪さをしたり子供たちを捕まえたりして多くの村人を苦しめていた。
またこの鬼は小角の修行の邪魔をするため、言うことを聞かない時には不動明王の秘法ですぐに捕縛されたため、すぐに行者の言うことを聞くようになった。
あるいは、鬼の5人の子供の末子を捕まえて、鉄釜に閉じ込めて隠して、村の子供を殺された村人の悲しみや怒りを鬼どもにわからせて改心させ、行者の弟子となった。

弟子となった2匹の鬼は、行者より名前を付けられ、夫の前鬼は義覚または義学(ぎがく)、妻の後鬼は義玄(ぎげん)と呼ばれ、行者の五大弟子(五鬼)となった。

この前鬼(ぜんき)は後に天狗となり、大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)となったとの伝承がある。

この鬼退治をした場所は鬼取山(生駒市鬼取町)とよばれ、山頂には役行者が707年に開山したとされる「鶴林寺(現:寳山寺(ほうざんじ)」が建っていましたが、712年に行基が薬師如来を本尊として場所を移し、その後平安時代に用水の確保のためにまた移築され、現在の鬼取山鶴林寺となっている。

小角

(奈良大峯山の役行者椅像と前鬼・後鬼坐像:1426年繁田三位法橋作)

7、金峯山(吉野山)で金剛蔵王大権現を感得

 桜で有名な吉野山の象徴ともいわれる金峯山寺(きんぷせんじ)は、この役小角が7世紀後半に金峯山で仏の出現を強く祈った時に(金剛)蔵王権現の姿を感じて、これを本尊として祀ったのが寺の創建とされ、修験道の本山といわれています。

この蔵王権現は、仏教の仏と神道の神ともどちらでもない独特の尊格で、金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で表わされています。 その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものです。
寺伝では中尊が釈迦如来、向かって右の像が千手観音、左の像が弥勒菩薩を本地(本来の姿)としており、それぞれ過去・現世・来世を象徴しているといわれています。
この「権現」は仏が姿を変えて現れたものというものです。
これらの像は長い間秘仏で公開されることはめったにありませんでしたが、吉野山が2004年7月に世界遺産(紀伊山地の霊場と参詣道)に登録されたのを機に1年間に亘って開帳されました。
また、最近は、毎年11月に約1ヶ月にわたって特別公開が実施されています。
これは世界遺産に登録された仁王門の修理費をまかなうため(2012年から10年間)ですので、門の修理が終りましたらまた完全秘仏に戻るかもしれません。

権現1

(内陣の厨子の扉が開かれた5~7mもある巨大な蔵王権現像:1590年制作)

権現2

これが山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の始まりであるとも伝えられています。
この修験道はインドや中国から伝わってきたものではなく日本独自の信仰です。
そこに祀られる「蔵王権現」もインドや中国の起源にはないもので、神道の神でもなく、仏教の仏でもない両方を併せ持った神とされています。

 2000年に修験道の三派(聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗)が合同で大規模な法要(御遠忌(ごおんき))が開かれた。

8、小角伊豆に流罪される

文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。
「日本霊異記」などによると、葛城山系の岩橋山(標高659m)から吉野の金峯山の金剛蔵王権現に教えを受けに行くため、この間に石橋を架けるように葛城神社の祭神である「一言主命」に命じました。
しかし、一言主は顔が余りにも醜く、暗い夜しか働かないので、行者は怒って一言主を呪縛して深谷に押籠めてしまいました。
すると一言主は行者の弟子であった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)を使って、朝廷に換言「役行者は世の人々を惑わし、謀反を企てている」と告げさせたのです。
また人々にも小角が鬼神を使役して水を汲ませ、薪を採らせていると噂を流しました。
(弟子の韓国連広足の換言については、韓国連広足が小角の能力を妬まれたためだとする話もあります)

そこで、文武天皇が役行者の母を人質に取ると、孝心の深い役行者は自分から出て来て捕縛され、伊豆に配流されました。
伊豆に流された小角ですが、毎日夜になると島から抜け出して富士山に登って修行したなどとの話しもあります。

9、小角の大赦

 2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、老母の待つ芽原の郷に帰りますが、すぐに父母のご恩に報いるために大峰山に入り一千の塔婆を立てて供養をしたとの話もあります。

また、一言主が、小角が流布されただけではまだ身の危険を感じ、小角を処刑するように託宣した。
そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとしたのですが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、赦免したという話も伝わっています。

その後、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院の天上ヶ岳にて入寂したと伝わります(享年68)。
山頂には廟が建てられています。

別な説では、同じ6月7日に、 役行者は老母を連れ天上ヶ岳へ登り、「本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり」との遺偈を残し、五色の雲に乗って母とともに天上に登っていったとか、唐の国に渡ったなどとも伝えられています。

また、一言主明神については唐へ飛び去る前に呪縛していったなどとも言われています。


10、各地に残された役行者の伝承

(1)、室生寺

 女人高野として名高い奈良の室生寺は西暦680年にこの地に役小角が草庵を結んだのが始まりだと伝えられています。
ただ文献でわかるのは奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)に、東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のためにこの地で病気平癒・延寿の法を行ったところ「竜神」の力で回復したので、興福寺の僧・賢憬(けんけい)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
現在の室生寺の東方、室生川に沿って1kmほど上流に竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があり、この神社が室生寺の竜神伝承に関係していると思われます。
この竜穴神社の創建の方が室生寺よりも古いとされ、室生寺は、この竜穴神社の神宮寺だという説もあります。このため、役行者の開山説は資料としてははっきりしていません。

(2)、鳥取県三仏寺(投入堂)と四国石鎚山

投入堂

投入堂は、三徳山三仏寺の奥院の別名で、山の北側にそびえる断崖絶壁の岩場にしがみつくように建てられています。
本当にどうしてあんな場所に建てることが出来たのかとても不思議です。
三仏寺の本堂は山の麓にあり、そこまでは誰でもお参りすることはできます。
しかし、その上に立つこの投入堂はじめ、文殊堂と地蔵堂などは厳しい岩場を登らなければ近づくことが出来ません。
でも今ではある程度健脚の方なら服装や靴の準備さえしておけば然程難しいこともありません。

三仏寺の創建については、役小角が三枚の蓮の花びらを散らしたところ、それらの花びらの一つがここ伯耆(ほうき)国三徳山(標高899.9m)に落ちたため、706年にこの山を修験道の場として開き、この山に蔵王権現を祀ったとされています。

また他の蓮の花びらが落ちたとされる場所は吉野山と四国の石鎚山だとされ、共に蔵王権現が祀られており、石鎚山は山そのものが石鎚蔵王権現といわれています。

蔵王権現

(蔵王権現立像 7躯)
上記の像は投入堂内に安置されていたものですが、現在は本堂近くに作られた宝物殿に安置されています。1168年の銘のあるものや、年輪年代推定で1025年といわれる像もあり、大変貴重なものといわれています。

(3)、大坂府高槻市の神峯山寺(かぶさんじ)

 神峯山寺は日本で最初に毘沙門天が安置された霊場といわれており、本尊は秘仏の毘沙門天、双身毘沙門天(そうじんびしゃもんてん)、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)です。

「神峯山寺秘密縁起」によれば、697年に役小角が葛城山(金剛山)で修行をしていた時に、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、この地にやってきた。
そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角が伽藍を建立し毘沙門天を祀ったことが起源とされています。
また刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区の鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町の信貴山に安置されたと伝わっています。

その後、神峯山寺は修験霊場として栄え、比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされています。

(4)、愛知県岡崎市の滝山寺(たきさんじ)

 滝山寺は鎌倉幕府ゆかりの寺で、運慶仏があることで知られ、1月7日頃に行われる奇祭として有名な鬼祭りがあります。
この寺も伝承(岡崎市史)によれば、役小角(えんのおづの)が、修行の為にこの近くを流れる青木川に入ったところ、瀧があり、その滝つぼに大きな龍が金色の仏像を守護していた。
行者はその仏像を袈裟に包んで引き上げたところ、金の薬師如来であった。
行者は時の朝廷に報告すると「鎮護国家の霊場を建てよ」と勅命が下り、自ら薬師如来をきざみ、その仏神に金色の薬師如来を納め、堂に安置したと書かれています。

この堂がこの滝山寺の前身であるという吉祥寺の始まりといわれています。

(5)、大坂の観心寺

観心寺には、日本の三大如意輪観音(観心寺、室生寺、神呪寺)の一つとされる国宝「如意輪観音菩薩像」が安置されています。
701年に役小角がここに「雲心寺」を建て、その後、平安時代の808年に空海(弘法大師)がこの寺に北斗七星を祀り、815年に自ら彫った如意輪観音像をこの寺に安置して寺の名前も、雲心寺から観心寺に改めたと伝えられている。 
北斗七星を祀る寺は日本にはここしかなく、現在も7つの星塚が境内にある。

(6)、伊賀の里「赤目四十八滝」のいわれ

 伊賀忍者がこの滝などで修業していたといわれ、現在「忍者修業の里」ともよばれており、忍者体験ができる「忍者の森」という施設なども存在します。
役行者(役小角)がこの滝で修業し、修行中に赤い眼の牛に乗った不動明王と出会ったという言い伝えがあり、「赤目」の名前の由来とも言われています。近くの弥勒寺に役行者の像が置かれています。


(7)役行者霊蹟(れいせき)札所

役小角(役行者)ゆかりの霊場巡礼36か寺
2001年の役行者1300年遠忌を機にして設立されました。
36寺は以下の通り。

吉野山:金峯山寺、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、善福寺、大日寺、東南院

その他吉野郡:大峯山寺、龍泉寺、菅生寺

奈良県御所市:吉祥草寺、転法輪寺(金剛山)

その他奈良県:千光寺(駒郡平群町)、宝山寺(生駒市)、霊山寺(奈良市)、松尾寺(大和郡山市山田町)、朝護孫子寺(生駒郡平群町)、室生寺(宇陀市)、大野寺(宇陀市)

大坂府:本山寺(高槻市)、神峯山寺(高槻市)、法楽寺(大阪市)、松尾寺(和泉市)、七宝瀧寺(泉佐野市)、弘川寺(河南町)、観心寺(河内長野市)、千手寺(東大阪市)、天龍院(東大阪市)、興法寺(東大阪市)

京都府:聖護院(京都市左京区)、醍醐寺(京都市伏見区)

その他:根来寺(和歌山県岩出市)、清荒神清澄寺(兵庫県宝塚市)、須磨寺(兵庫県神戸市、伊吹山寺(滋賀県米原市)


(8)東北地方の関係寺院

早池峰山・太平山・鳥海山・出羽三山・蔵王など数多くの山岳信仰の山に役小角の名前が出てきます。

歴史上の気になる人物 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/09/03 17:52

歴史上の気になる人物(2)- 秦河勝(はたのかわかつ)

秦河勝は朝鮮半島より渡来した最大の渡来集団であるとされる秦氏(はたうじ)の出身とされ、飛鳥時代に聖徳太子の側近として京都太秦(うずまさ)に現在の広隆寺を建てた人物として知られますが、神楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の元を創った人物とも言われています。ここでは数々の逸話などを含め今後の考察に必要な情報を集めてみました。

1、出生について
山背国(山城国)葛野(かどの)(現,京都市西部 太秦近郊)の秦氏の族長的地位にあったとされる秦丹照または秦国勝(丹照の弟)の子供とされています。 
ただしこれらの系図は古いためあまり正確とは言えないようです。
河勝は秦氏の軍事力や経済力を背景にはやくから厩戸皇子(聖徳太子)の側近として活躍していったようです。

2、出生と名前の伝承

ある日、天皇(欽明天皇)は「私は秦の始皇帝の再誕である。
縁あって この国に生まれた」と名乗る子供と出会う夢を見た。
そしてその後で、初瀬川が氾濫した時に三輪大神(神社)の前に壺に入った一人の童子が流れ着いて、自ら「私は秦の始皇帝のうまれかわりである」と名乗ったという。
そこで、この童子を殿上に召しかかえ、童子に「秦」の姓(かばね)を与え、川の氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされています。
ハタというのは古代朝鮮語で「大(おお)」とか「多(おお)」と同じ意味を持ち、古代日本の種族とされる大氏、多氏(オオ氏、オホ氏)などと通じるものがあります。

3、秦氏のルーツ

 応神天皇の頃(5世紀前半?)に秦の始皇帝の子孫という「弓月君(ゆづきのきみ)」が朝鮮半島(百済)より渡来して日本に援軍を求めたという。
弓月君の仲間の多くがまだ朝鮮半島の加羅(から:古代朝鮮南部の国、日本では「韓」を「カラ」と呼び、朝鮮全体をさし、「唐」を「カラ」と呼んで中国全体を指すようになったとされる)に取り残されているという。
天皇は部下を派遣し、3年後にこれらの多くの人々(数千人)を日本に連れ帰ったと言われています。
そしてこの一族は朝廷につかえ、養蚕や、機織り、酒造り、土木の技術などを日本にもたらしました。
これが日本の秦氏のルーツとされています。
河勝は秦氏の族長的人物であったとみられています。

4、丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋を討つ

 用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱(仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋の争い)では厩戸皇子(聖徳太子)に従って、物部守屋(もののべのもりや)の追討戦に従軍し、守屋の首を斬ったという。
この戦いにより物部は衰退し、仏教が国内に浸透していったとされます。

厩戸皇子(聖徳太子)はこの戦いの時はまだ14才で、蘇我軍の後方にいた。
そして白膠木(ぬるで)の木で四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺を建てる」と願掛けしたとされています。
そして戦いに勝ったため、大坂(摂津国)に四天王寺を建立(593年に建設開始)したとされています。
蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を始めたのはそれより少し前の588年頃と言われていますので、日本で最も古い寺院としては法興寺(飛鳥寺)だと言われます。

5、聖徳太子より仏像を賜る(広隆寺の建立)
 推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像(現・国宝第一号、通称:宝冠弥勒(ほうかんみろく)))を賜り、京都市北区付近に、蜂岡寺(はちおかでら)を建てそれを安置した(安置したのはもう少し後か?)と言われています。
蜂岡寺は現在の広隆寺で、その他に秦氏の氏寺であることから、秦寺(はたのでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)、太秦寺(うずまさでら)などとも呼ばれてきました。
現存する伽藍は平安末期以降の再建です。また現在の太秦に移ったのは794年の平安遷都の頃とも考えられていますが、記録は焼失(818年)していてわかりません。
太秦(うずまさ)の地名は「聖徳太子の太」と、「秦氏の秦」からとったものとも言われます。

広隆寺弥勒

広隆寺 国宝 弥勒菩薩像(半跏思惟像)

6、新羅からの使節を迎える

推古天皇18年(610年)新羅の使節を迎える導者の任に土部連菟(はじのむらじうさぎ)と共に当る。

7、常世の神を打ち負かす

皇極天皇3年(644年)7月に駿河国不尽河(富士川)のあたりで、大生部多(おおうべのおおし)という者が、長さ4寸(約12cm)ほどの虫(蚕と似ている)を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、また巫女たちも神のお告げとして「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といったという。
そしてこの常世の神信仰が広まっていた。しかし、この虫を得ても何も利益は生まれず、損失を被る人々が増えていった。
そのため、秦河勝が大生部多を捕えて懲らしめると、巫女も恐れてこの祭りや騒ぎを勧めなくなった。
そして当時の歌に「太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも(常世の神を打ち負かしたのだから、太秦は神の中の神だ)」とうたわれたという。

8、河勝の最後

大避神社縁起によれば、皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の迫害を逃れて摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した。
河勝はこの地(赤穂)で千種川の開拓を進め、大化3年(647年)に亡くなったとされる。
そして、この大避神社に大避大明神として祀られている。(兵庫県赤穂市坂越で死亡説)
神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓(古墳)がある。また、大阪府寝屋川市にも秦河勝の墓と伝えられる五輪塔があるという。
その他に、京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、「秦河勝終焉之地」の碑があるそうです。

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(大避神社の河勝の姿を模したともいわれる能楽面:鼻が高く西洋人顔といわれる)

9、申楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の祖

世阿弥の『風姿花伝』に申楽(猿楽)の起源がかかれており、「上宮太子(聖徳太子)、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。
是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。
これは聖徳太子が天下泰平のために、神代や天竺の吉例に倣って六十六番の物真似を河勝に仰せられ、六十六番の御作の面を河勝に与えた。
そして紫宸殿(明日香の橘の内裏)で翁の舞いを舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えています。(金春禅竹(こんぱるぜんちく)の著『明宿(めいしゅく)集』)

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(翁の舞 茨城県石岡市のじゃかもこじゃん)

広隆寺では10月には京都三大奇祭の一つという「太秦の牛祭り」が行われています。
三大奇祭はその他に「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」が挙げられています。
この牛祭りは現在、毎年ではなく不定期に開催されています

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この祭りは、夜暗くなってから、白い仮面をつけ牛にまたがった摩多羅神(まだらじん)が、同じく仮面をつけ松明を掲げた四天王(赤鬼・青鬼)を従えて境内を一周し、祖師堂(薬師堂)前で変わった口調で祭文を読み上げ、終わると同時に堂内に逃げ込んで祭りが終わりとなります。

摩多神

摩多羅神は天台宗の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の裏にひっそりと祭られている神様でほとんど公開されることはありません。
しかし能楽などの芸能の神様としても崇拝されています
上の写真の本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙ですが、これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵です。
不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子が描かれています。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるといわれます。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったともいわれているのです。

10、キリスト教との関係
秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族(イスラエルの失われた10氏族の子孫)であったとする説があります。

11、稲荷社との関係

 全国に稲荷神社は多数ありますが、その総本山となるのが伏見稲荷(大社)です。
この社の創建に渡来人の秦氏族がかかわっているといわれているようです。

伏見稲荷大社のHPの「伊奈利社創祀前史」に書かれている内容をまとめると、

(1)欽明天皇が幼少のころ「秦の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみた。 
早速方々へ使者を遣わされて探すと、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父という人物がいた。

そこで、この大津父を宮廷に呼んで話しを聞くと次のような話をした。
「伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」
この話を聞いた天皇は夢に見た人だと確信して天皇に即位したときに、この秦の大津父を重責に登用した。

(2)稲荷大神の鎮座は、秦の伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日になったと伝えられている。
この秦の大津父との関係は?

歴史上の気になる人物 | コメント(6) | トラックバック(0) | 2019/09/05 18:03

歴史上の気になる人物(3)-泰澄(たいちょう)

泰澄(たいちょう)と十一面観音像

泰澄は、奈良時代の山岳修験僧で、加賀国(当時は越前国)の白山を開山した(白山信仰の祖)として知られ、越(こし)の大徳とよばれている人物です。
でも私はあまりよくこの人の生い立ちや何故白山を開山したのかなどが理解できていませんので、ここに調べてみたいと思います。 これはあくまでも私の私的な調べ物を参考のために残しておくものです。

泰澄の伝記や伝聞などを書いたものは多く存在しますが、泰澄が実在したかどうかについてもまだ確定されていないようです。

(生誕とその時代背景) 

 682年(または691年)に越前国の麻生津(あそうず)(現:福井市麻生津)にて三十八社町の役人(川守との説あり)の三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれる。父の三神安角は高句麗からきた渡来人で、母は白山の麓の勝山市の出身と言われています。

高句麗からの渡来人家系というのですが、当時越前には高句麗からの渡来人が多く来ていたのでしょうか。 
歴史的な記述を見ると和紙の製法技術も中国で始まり朝鮮半島を経て日本に伝わったと言われており、日本書紀には推古天皇18年(610年)に高句麗の僧・曇徴が日本に伝えたと記されています。
しかしそれより前の6世紀初めに福井県今立町では和紙製作が行われていたとも言います。
現在でもこの地域は和紙の生産量は全国1位です。
この頃から越前地方と高句麗は人の往来があったのかもしれません。
また後に泰澄の弟子となった浄定(きよさだ)は出羽から船で米を運んでいた船頭であったと言われ、このころすでに日本海沿岸では船で農産物などが運ばれていたようです。

 その当時の朝鮮半島の歴史を調べてみましょう。朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国時代がしばらく続きましたが、西暦660年にまず百済が唐に滅ぼされました。
しかし百済は建てなおそうと日本にも支援を要請。
663年に日本・百済連合軍が白村江で唐と戦いますが破れてしまいました。
そして、大量の百済の人々(位の高い人)が日本にやってきました。
その後、唐は新羅と組んで高句麗を攻め、高句麗も668年に滅亡し、こちらも日本に逃れてきた人が多くいました。
朝鮮半島ではこの後、新羅が半島を統一して西暦900年まで続きました。
また、泰澄が682年の生まれとすると、奈良の行基(ぎょうき)より14歳年下となります。

(14歳で越知山に登り修業を始める)

 14歳の頃から、夢のお告げを受け、夜中に起きて越知山(おちさん:612.8m)の洞窟へと行くようになり、次第に山に籠るようになりました。
山では十一面観音を念じて修業を続けたとされます。
越智山は福井県の海側に近い山ですが、古くから白山、日野山、文殊山、蔵王山とともに越前五山の一つに数えられ、泰澄が修業した場所であることから北陸最古の修験霊場(神仏混合の山岳霊場)といわれ、現在山頂付近には越知大権現(明治以降は越知神社)があります。
この社は718年に泰澄が仏像を作り、越知山頂に社堂を建て「越知山三所大権現(十一面観音菩薩・阿弥陀如来・聖観音菩薩)」を祀ったのが始まりと言われています。

(702年21歳 文武(もんむ)天皇から法師に任じられ、豊原寺を建立する)

 大宝二年(702)に越知山の泰澄のもとに、文武天皇より勅旨として大伴安麻呂(やすまろ)が遣わされ「越の大徳」鎮護国家法師に任命されました。
泰澄は越知山から弟子の能登七尾生まれの行者「臥行者(ふせりのぎょうじゃ)」(小沙弥)を伴って豊原(福井県丸岡)へ移り豊原寺(とよはらじ)を建立し、自ら刻んだ十一面観音を刻んで本尊とし、その後、白山三所権現なども祀って、「豊原八社権現」といわれるようになった。豊原寺はその後白山信仰の拠点の寺の一つとして室町時代に栄え、豊原三千坊と言われるほどの僧兵を擁する寺となりました。
しかし、戦国時代末期には一向一揆などの襲撃(1531年)もあり、1575年に織田信長によりほとんどすべてが焼き払われてしまいました。
江戸時代には家康の傍にいた天海大僧正(天台宗)により擁護され復興しますが、明治維新になり廃仏毀釈で寺は無くなってしまいました。
山の上にあった仏像などは山を下り、麓で何とか保護され一部が残されています。

(717年 白山に登り妙理大菩薩(十一面観音)を感得し、平泉寺を建立する)

 養老元年(717)4月1日、母のゆかりの地である白山の麓の大野隈、苔川東の伊野原に行き、そこで白山神と見られる女神から東の林泉に来るように夢のお告げがあった。そしてそれに従い、林泉に来て祈念しているとその女神が現れ、自分は伊弉諾尊(いざなみのみこと)の化身で妙理大権現であると言った。
さらに白山の頂上に登ると、緑碧池(翠ヶ池)のそばに九頭龍王が表れ、続いて白山神の本地仏である十一面観音が現れた。
また左弧峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右弧峰で阿弥陀の現身である大己貴を感得したという。

 <白山三社権現>
 ・白山妙理権現 【十一面観音菩薩】
 ・大行事権現(菊理媛神(くすりひめのかみ)【聖観音菩薩】
  (別名 白山比咩神:しらやまひめのかみ)
 ・大汝権現(大己貴命:おおなむち)【阿弥陀如来】
  【 】内は本地垂迹思想によるもので、日本の神々は仏が化身して現れたもの(権現)とされる。

 白山を開いてからは越前国を離れ、日本各地をまわり、仏教の布教活動を行っていきます。

(722年41歳 元正天皇の病気を祈祷で平癒する)

養老6年(722年)に元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った。

(725年44歳 行基と白山で出会う)

 7月に白山妙理大権現に参詣した行基と出会い極楽での再会を誓ったという伝承がある。

(736年55歳 唐から帰国した僧・玄肪より「十一面神呪心経」を伝授される)

 「十一面神呪心経」は玄奘三蔵が訳し、それを玄肪が日本に持ち帰ったもの。

(737年56歳 疱瘡(ほうそう)の流行を収束させる)

 天平9年(737年)に当時流行して大変困っていた疱瘡(ほうそう)の流行を収束させたことから、聖武天皇より「大和尚」の位を受け、「泰證」という名前を賜わりますが、この名前を、父を慕い「泰澄」と改めたいと申し出て許可されました。
この時から「泰澄」の名となりました。

(758年77歳 越知山に帰り山に籠る)

 泰澄は隠居を決め、越知山に帰り大谷仙窟に篭る。

(767年86歳 死去)

 一万基の三重木塔を勧進造立し(人々に与え)、3月18日に結跏趺坐し、大日の定印を結んで入定遷化した。


泰澄の伝記について細かく書かれたのは泰澄の死後200年ほど後の事です。
そのため、どこまでが事実であるかはよくわかりません。
室町時代になり、観音信仰や白山信仰が広まり、泰澄についてもいろいろな伝説が作られたとも考えられます。

<比叡山と白山>

 泰澄は飛鳥時代に生れ、奈良時代に活躍した人ですが、修験道の祖といわれる役小角(えんのおづぬ)は亡くなったのが701年と言われていますので飛鳥時代に活躍した人物です。
役小角が亡くなったのは泰澄がまだ20歳くらいでした。
役小角が開いたのは主に奈良県吉野山であり、山岳信仰と仏教を融合させた日本における修験道の神として「蔵王権現」を祀りました。一方こちらの泰澄(たいちょう)は備前の白山にて白山三社権現を祀っています。
その中心となるのが十一面観音の化身とされる「白山妙理権現」です。
何故奈良の都から遠い白山なのでしょうか?

私が泰澄を調べ始めるきっかけとなったのは、琵琶湖の北東にある木ノ本駅周辺の十一面観音像の存在でした。
ここは「長浜観音の里」として知られる地で、現在も地元の方々によって十一面観音像が多く保存され、観音信仰が今も続いています。
この地には標高923mの己高山(こだかみやま)があり、ここには昔から多くの寺が点在していました。
ここに残された石道寺(しゃくどうじ)や鶏足寺(けいそくじ)の収納庫である己高閣・世代閣(ここうかく・よしろかく)などにたくさんの観音像が残されているのですが、この地の歴史をひも解いてみると、己高山(こだかみやま)に726年頃に行基(ぎょうき)僧正や泰澄(たいちょう)大師によって、たくさんのお堂や修験者の道場が建てられたといわれています。

これを805年に比叡山天台宗の祖といわれる最澄(さいちょう)が寺の建物などを再興して、ここに一大山岳仏教圏が形成され、観音寺・法華寺・石道寺・満願寺・安楽寺・松尾寺・円満寺の己高山七寺及び、観音寺の別院として飯福寺、鶏足寺、などがあったとされています。

白山2


 この己高山と白山を繋ぐ直線を引いてみるとこの線上に天台宗の総本山のある比叡山や京都御所があり、さらに延長すると長岡京跡を通ります。
長岡京には平安遷都前の784年~794年に都が一時置かれたと見られています。
京都方面からみて、比叡山、己高山、白山は皆、東北にあたり、鬼門の方向なのです。

これが白山に霊場が開かれた理由なのでしょうか。
そして十一面観音が祀られた理由なのかもしれません。
泰澄などの山岳修行僧が唱えた思想は、当時病気に苦しんでいた人々を救うといった現世のご利益などを願ったものでした。
その観音信仰が都を中心に全国に広まって行ったのは奈良時代の中ごろからだと思われます。
そして平安時代になると浄土思想が入り、次第に来世のご利益を願うようになったものなのだと思われます。
比叡山延暦寺を開いたのは806年に唐から帰国した最澄です。
また比叡山の日吉山王神社に祀られる神(七社)の一つに白山社が加わったのは真言密教の宗叡(しゅうえい)により858年に移されました。
宗叡はその後862年~865年唐に渡っています。
そして白山寺白山本宮(加賀)、長滝寺白山中宮(美濃)、平泉寺白山中宮(越前)など白山の社寺が比叡山の末社となったのが1147年です。

このように比叡山と白山の関係は古くから続いて来たようです。

<十一面観音像>

 頭に11個の顔を持つ十一面観音ですが、千手観音などと同じく顔が周りをぐるっと見渡すことができるので、多くの人を救うことができると言われています。
十一面は一般的には、東・西・南・北と東南・南西・西北・北東の四方八方に、天・地の二方を加えた十方と本面を加えて十一面(全宇宙を見渡せる)ですが、一段高くなったところに如来面がありますので十二面あります。

十一面図


わが国で最も古いと言われるこの種の観音像は、養老三年(719)年頃に唐から請来した奈良法隆寺にある「九面観音菩薩像」(国宝)でしょう。
この像の製作年代はわかっていませんが、一説では5世紀半ば~後半頃とも言われています。

kumenn.png
(法隆寺九面観音菩薩像 国宝 像高:38cm、白檀の一木造り)

 十一面観音像として有名なのは奈良聖林寺と法華寺の像ではないでしょうか。
和辻哲郎が「古寺巡礼」の本の中で絶賛していたのを読んで、聖林寺を訪れたのはもう50年も前です。参拝者一人の私のためにコンクリートの収納庫の扉を開けてくださいました。

聖林寺 十一面観音正面

聖林寺02

この聖林寺の十一面観音像は奈良時代の中ごろに三輪山の神宮寺・大御輪寺の本尊として祀られていた像であったと言われ、明治の廃仏毀釈で野に打ち捨てられていたのをこの聖林寺で拾い上げられて保存されるようになったなどと言われてきました。
しかし、打ち捨てられたというのは少し違っていたようで、廃仏毀釈の際にこちらに移されたというのが正解のようです。

さてもう一つの法華寺の像はこの寺を建立した光明皇后の姿を模したとも言われており、女性的だ。

法華寺01

法華寺02

 制作されたのは平安時代の9世紀前半と見られています。

さて、平安時代に多くの十一面観音像が制作され、現在も地元の方々により信仰され、大切に保存されている地域がある。
それが、比叡山と白山の中間にあたる琵琶湖の北東湖岸近くにある「己高山(こだかみやま)」周辺の長浜地区です。

「長浜観音の里」として注目を浴びているが、ここを代表する十一面観音像を少し紹介したい。
先ずは、渡岸寺観音堂(向源寺)の像を紹介しよう。
この像を見ると少し十一面観音像の持つイメージが変わるように思う。

渡岸寺01

この像は平安時代末期の12世紀頃の制作と見られ、どこかエキゾチックな顔立ちで正面から見ると素晴らしい慈悲深い観音様像と思われます。

しかし、背面の首の後ろ辺りに背後を向いた「暴悪大笑相」の顔は何とも不気味です。
一般の十一面観音にもこの暴悪大笑相像はあるのですが、拝観できるところは少なく、また隠れたりして良く見られない場合が多いのです。
それが、この渡岸寺観音堂では後ろ側も良く拝観できます。

渡岸寺02

どこか不気味な笑みを浮かべた顔です。
都から見て鬼門の方向(東北)を向いて都を守る(護国の)役割を担っていたでしょうか。

 その他、ここ長浜観音の里には興味深い像がたくさんあります。

井上靖が小説「星と祭」(1972発売)にこの地域の十一面観音めぐりが紹介されています。
大雑把なあらすじは、「貿易会社社長の架山はある日、愛していた17歳の娘の突然の悲報に接します。
娘は年上の青年と二人で琵琶湖に漕ぎ出したボートが転覆し遭難してしまったのです。
しかも2人とも死体は見つからず行方不明のままのため、架山は娘の葬儀もできず、死を受け入れる気持ちにもなれませんでした。
そうした中、娘の死んだ琵琶湖には近づくことが出来ずに7年が経過しました。
そして同じボートに乗って遭難した青年の父親から琵琶湖周辺の十一面観音めぐりに誘われ、これに参加してみたのです。
そしてこの地方に安置されている十一面観音像に触れていくうちに、次第にこの仏像たちがいままで置かれてきた環境や、これらをずっと守り続けている村人たちの想いが胸にこみ上げるようになってきます。
しかし、まだ娘の死を心の奥底では受け入れられませんでした。
そうした中、友人からヒマラヤの麓「タンボチェ」への旅とそこに浮かぶ月を見る旅に誘われ、ヒマラヤを訪れました。ヒマラヤの過酷な環境で生活する人々の暮らしに接し、人の一生の暮らしをこえた人々の生き様に、ようやく娘の死を自分の心の中で受け入れられてきました。
日本に戻った架山は一緒になくなった青年の父親と満月の夜に琵琶湖に浮かぶ船の中で、娘とその青年のお別れの葬儀を行うのです。」

この小説の中で、この己高山近辺の石道寺(しゃくどうじ)を主人公が訪れます。
そしてそこで接した十一面観音像について、「うっすらと紅をさしたような観音さまの唇、優しいまなざしなどを見て、この像は素朴で優しくて、惚れ惚れするような魅力をもっておられる。野の匂いがぷんぷんするような・・・・。この十一面観音様は、村の娘さんの姿をお借りになってここに立っている・・・」と書いています。

石道寺

石道寺 十一面観音立像【重文】(平安後期11世紀頃の作 像高173.2cm)

 石道寺は川沿いにあり小さなお堂が一つあるだけの寺(無住)です。このお堂の中の厨子に三体の仏像(十一面観音像)と厨子の外側に多聞天と持国天の2体の像が安置されています。この中心の十一面観音像が井上靖の書いた村娘を想ったという像です。
唇に残されたひとすじの紅がとても印象的で、ふくよかな顔つきは、いかにも若い娘の素朴さを感じる観音様です。
応永14年(1407)、天台宗の法眼春全によって記された『己高山縁起』(鶏足寺蔵)によると、「この山は近江国の鬼門にあたり、いにしえより修行場であった。そこへ行基(668~749 )が訪れて仏像を刻んで寺を建て、また泰澄(682~767 )が修行場としたといい、のちに最澄(766~822)が訪れ”白山白翁”と名乗る老人の勧めによって再興した。」とあります。古代より霊山と崇められてきた己高山は、交通の要衡にもあたることから、奈良時代には中央仏教と並んで北陸白山十一面観音信仰の流入があり、さらに平安期に至っては比叡山天台勢力の影響を強く受け、これらの習合文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文化が構築されたのです。

 明治維新となり廃仏毀釈の嵐により、神仏習合の山岳信仰は大きな変革を迫られました。寺としての建物・仏像などが壊されてしまったのです。
白山においても同様でした。寺の要素が廃され、山上の社にあった多くの仏像は廃棄・破壊されたのです。しかしなんとか一部の仏像が山の下に運び出されました。
それが白山下山仏です。麓の白山市林西寺にはこれらの仏像が残され、下山仏として安置され拝観することができます。

下山仏1 下山仏2

 


歴史上の気になる人物 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2019/09/14 16:17

歴史上の気になる人物(4)- 藤原秀郷

 このブログで昨年「歴史上の気になる人物」として、役小角、秦河勝、泰澄と3人を取り上げたが、少しずつ人物を調べながら追加していきたいと思っている。

今回は少し前から気になっていた「藤原秀郷(ひでさと)」を紹介したいと思います。
さて、この藤原秀郷の名を知っておられる方はどれくらいいるのでしょうか?

大ムカデ退治の俵藤太(たわらのとうた)のことだといえば少し子供の頃に日本昔話的な歴史本には必ず登場していたので思い出される人もおられるかもしれません。

また、平将門を退治した人物で、関東の源氏、平氏と肩を並べる関東武士団の藤原流の祖であり、奥州藤原氏の祖でもあるといえばもう少し理解は広がるかもしれません。

私がここでとり上げてみようと思ったのは、この大ムカデ退治の伝説が何処から生まれたのか、その背景を知りたいと思ったからです。

その参考には、栃木県立博物館が2018年秋に実施した企画展「藤原秀郷-源平と並ぶ名門武士団の成立」(第122回企画展)で作成された冊子の内容を使わせていただきたいと思います。

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まず、関東などの東国に、源氏、平氏などが武士の基盤を作って行きましたが、話せば長くなってしまいますので、以前書いたエッセイ記事を興味があれば読んでください。

1) 関東における平氏について-平氏のおこり ⇒ こちら
2) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-甲斐武田氏 ⇒ こちら
3) 茨城(常陸国)にまつわる源氏の一族-秋田佐竹氏 ⇒ こちら

ただ、これらの記事も今から15年近くも前の記事ですから、内容も違っているかもしれません。
読むにしても一つの参考程度です。

さて、今回とり上げた藤原秀郷は、今から1000年以上も前に起きた平将門の乱を鎮めた立役者として、名を馳せ、その後関東北部へ勢力を拡大していきました。

その中心は栃木県などが主流ですが、私の住む茨城県でも少し北へ行くとこの藤原秀郷子孫が活躍しています。
那珂氏や、その後に出た常陸江戸氏などがそうです。

常陸国風土記に「粟川」として登場してくる那珂川は常陸国の重要な大きな川ですが、この那珂川の名前の由来についてもおそらく、この那珂氏が住んだ地名「那珂」があり、それが川の名前になって行ったと考えることも出来るでしょう。
勿論、地名の「那珂」が先にあり、その名前にはおそらく別な意味が含まれていると思われますが。

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今回はこの関東北部の武士団(藤原氏)の祖としての藤原秀郷はまた別の機会にするとして、藤原秀郷にまつわる物語「俵藤太物語」を検証していきたいと思います。

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御伽草子に記載されています(詳細は⇒こちら にあります)が、内容も長くなりますので、博物館の冊子などに少し手を加えてここに記載させていただきます。

上【大ムカデ退治の話】

 朱雀天皇の時、従五位上村雄朝臣(むらおあそん)の嫡男で田原(たわら)の里に住み、田原藤太秀郷と呼ばれる勇士がいた。
 そのころ、近江国(現:滋賀県)の勢田の橋(瀬田の唐橋)に大蛇が横たわって人々の通行を妨げることがあった。
しかし、そこを通りかかった秀郷は、臆することなく大蛇を踏みつけて平然と渡って行った。
その夜、美しい娘が秀郷を訪ねてきた。この娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものだったのです。
娘は、秀郷が勇猛な人物と見込んで、次のような頼みごとを秀郷にしました。
「私は、この近くの三上山(みかみやま)にいる龍神一族ですが、ここに大ムカデが住みついて、大変苦しめられています。こうして姿を変えて勇気のある者を探していました。貴方様の勇猛さを見込んで、是非、この大ムカデを退治して欲しいのです」と懇願したのです。
秀郷はこの願いを引き受け、先祖より伝来の太刀と弓に三本の矢を持って三上山に向かいました。
するとそこには、山を七巻半する大ムカデが現れたのです。(この七巻半は鉢(八)巻きに届かないとの意味がある)
秀郷は得意の矢を、1本、2本と射たがすべて大ムカデには通じず、はね返されてしまいました。
とうとう最後の一本の矢になった時、ムカデは唾(つば)に弱いことを思い出し、矢の先(鏃)に自分の唾をつけ、南無八幡神大菩薩と唱えて、願いを込めて矢を射ると、矢は大ムカデに見事命中して、ようやく射止めることができたのです。
翌朝再び娘が現れ、大ムカデ退治の礼として、巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を秀郷に贈りました。
俵は米を取り出しても尽きることがない不思議なもので、このことから秀郷は「俵藤太(田原藤太)、たわらのとうた」と呼ばれるようになりました。
また、湖水の主の龍王は「御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」といって、黄金づくりの鎧と太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼして将軍に任ずるように」といい、さらに、「日本国の宝になし給え」と釣鐘を与えたのです。
秀郷は、この鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は三井寺(滋賀県大津市)に寄進したのです。

下【平将門の乱の平定】

 やがて、下総国の平将門が新皇を称して反乱を起こした。
藤太(秀郷)は、最初、将門に同心して、日本国を半分得ようと将門に近づきましたが、将門の軽率な言動に落胆して、すぐに京に行き天皇より将門追討の宣旨を受けたのです。
その後、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して再び東国に向かいました。
藤太は京から将門追討で出発した平貞盛の軍と合流して将門と戦いましたが、あまりにも将門が超人的であったため、戦に敗れ、正面から戦っても勝てないと悟ったのです。

そこで宇都宮大明神(二荒山神社)に祈願し霊剣を賜り、将門にへつらって館に移り住み、そこにいた将門の妾の女性と契りを結び、そこで、将門の弱点を聞きだしたのです。
それは、将門の姿は七体に見えているが、その本体には影があること、また「こめかみ」が将門の急所であることでした。
そして、得意の弓矢でこの急所を射る事が出来、ついに将門を討ち果たすことができたのです。
そして、将門の首を持って京に戻った藤太(秀郷)は、恩賞として従四位下に叙されて武蔵・下野両国を賜り国司となり、京より東国へ下ったのです。

そして、蒲生氏、小山氏、宇都宮氏、足利氏、結城氏、長沼氏、皆川氏、佐野氏、小野寺氏、蒲生氏、那須氏、奥州藤原氏 ・・・などへ発展した。

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さて、この物語はこの藤原秀郷の武勇伝を誇張しながら、作られた話であるとは思われますが、その背景にはどのようなことが意図されていたのでしょうか?

まず、この博物館の冊子には、この伝説と関係すると思われる「日光山縁起絵巻」が紹介されています。

すこし、紹介します。

「日光山縁起絵巻(上下二巻)は、古代より山岳信仰の霊地として栄えた日光山の縁起物語を描く。日光山の縁起であると同時に、宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)の縁起も説いている。・・・・・・・・・・

日光戦場ヶ原の地名の由来になった、大ムカデと大蛇の戦いと猿丸による大ムカデ退治の神戦譚には、龍神に依頼され大ムカデを退治した俵藤太伝説と共通するものがある。すなわち、人間が神の依頼を受けて神戦に参加し、一方の神を助けて勝利をもたらすと、神は助力を感謝して特別の恩恵を施すという構図である。
俵藤太が龍神の庇護によって将門を倒したというのも、この構図に当てはまると考えられる。

ただ、この日光山縁起絵巻が何時成立したのかは古い版が逸失していて明らかではなく、南北朝時代にはすでに存在していたのではないかと見られるとしている。
俵藤太伝説はこの日光山縁起から派生して成立したのではないかと考えると、秀郷は新皇となった平将門(=大ムカデ)から天皇(=龍神)を助けた英雄として捉えることが出来る。

舞台が近江であり、秀郷はここに行った形跡が無いが、近江が都の境界であり、この都の番人として秀郷を考えたこと、また都でこの秀郷流藤原氏が活躍していたことなどが関係しているのではないかという。

まあ、今回はこの程度にして、関東の三大武士団といわれる藤原秀郷流の位置づけなどを今後考えるためのヒントとして残しておきたいと思います。


歴史上の気になる人物 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2021/04/16 13:43
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