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日本語と縄文語(1)

 今の日本語はどこから来たのか?

日本語の由来、語源などといわれる本などもあるが、ここには、ごく当たり前に呼んでいる個別の物を指す呼び名などの語源などは書かれていない。それはどこから来たのか?
また各地の地名なども地形を表すアイヌ語などが語源である場合が多いことも良く知られている。

ここでは縄文語を長年研究されてきた鈴木健さんのまとめた「日本語になった縄文語」という本から少しまとめていければと思う。
この本はあまり一般に売られている本ではないが、個人研究書と言ったもので、読み物としては一般受けしない。

手元に置いて気になる言語があった時にこの本を開いて調べてみることなどに活用させていただいている。

縄文語という言葉も定義があいまいだが、基本的には2~4万年も昔から日本列島に住んでいた原住民族(縄文人)が使っていた言葉とされ、弥生人により制圧された人々の言葉と解釈される。

これは今のアイヌ語とも少し違う。
鈴木健さんもこの本の冒頭に次のように書いています。

「アイヌ民族は縄文人の直系の子孫、本土人や琉球人は縄文人と渡来人の混血ということにはほとんど異論がなくなっています。
であれば、それは必ず言語面に反映されるはずで、アイヌ語は縄文語に遡り、日本語は縄文語にあとから渡来系言語が合流したものということになります。」

昔一時、アイヌ人は日本列島に住んでいた縄文人が弥生人(大和民族)により追いやられ、北海道に逃げ込んだというような解釈がされていました。
しかし、これは間違いで、日本列島にはたくさんの縄文人が1万年以上にわたり平和に暮らしており、そこに弥生人(渡来人)がやってきて一部は殺され、一部は苦役に追いやられ、また一部は弥生人と同化していって現在の日本人となった。
アイヌ人は蝦夷地としてこの弥生人の征圧進出が遅れ、現在も少数民族として生き延びているということではないでしょうか。

鈴木健さんはまた本書で、「アイヌ語は縄文語を受け継ぎ、日本語も縄文語を引き継いできた。ただ日本語の方が混血が進み、源流を見分けることが困難になってしまっている。」と述べています。

そのため、アイヌ語は昔の縄文語を紐解くヒントになるが、アイヌ語にも日本語から流入した言葉もあるのでこれを区別しながら地道に細かく分類し、日本語の源流を探っています。
これは相当根気のいる仕事だ。
この本に中も一人でこつこつと調べ、解釈を加えていった痕跡がにじみ出ている。

ただ、読み物として物語があるわけでもなく、言語を丹念に調べてメモのような形でまとめられた本であり、恐らく鈴木健さんの日本語の起源に対する自らの思いを、後の言語学者などが引き継いでほしいとの願いが込められているように思う。

私は現在の方言などもこの縄文語の解釈で意外にすっきりすることもあるのではないかと思っている。
東北地方と九州で同じ方言、呼び名があったり、日本海側と太平洋側での違いがどこから来るのかとか・・・・
すこしそこにヒントが隠されているかもしれないとも思うようになった。

民話なども日本各地に同じような話が少しずつその姿を変えて引き継がれていたりする。
縄文人が日本列島に住んで2万年以上? 弥生人がやってきて高々その10分の1の年月しかたっていない。

恐らくこの研究もこれから大分先に解明されていくのかもしれない。

まあ、このブログでこれから先、どこまで紹介できるかわからないし、内容が少しまとまらないと思うがのんびりと思いつくままに載せていければと思う。 間に別な記事を挟みながらの、とぎれとぎれの更新になると思いますが、左側のカテコリの下の方の「日本語と縄文語」をクリックしてもらえば最初から読めるようになると思う。






日本語と縄文語 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2020/05/02 06:45

日本語と縄文語(2) かめ(亀)

 さて、日本語と縄文語というタイトルで書き始めたのはいいのですが、最初から躓きました。
鈴木健さんのご本「日本語になった縄文語」は序説で
1)本書の構成
2)縄文語とその特徴
3)異言語の侵入と縄文語の変身
4)発音習慣の適応
5)語彙と文法
6)借用と偶然
7)ハ行音
などかなり具体的に今まで調べて得た知識を分類し、詳細に述べています。
そしてその後に日本語の転音の例を具体的に述べています。

転音というのは日本語にも同じ事をあらわす言葉があります。
自分を指す言葉に「わたし」と「あたし」がありますが、どちらが先にあった言葉かを見分けるのです。
この時は、どちらがより多くの地域で使われているかなどを考えて、 あたし(atasi) ⇒ わたし(watasi)、
あし(asi) ⇒ わし(wasi)などの ア行とワ行の転音がおこっていると見ていくようです。

もう私はここで先に進めないのです。
これが結構たくさん例を挙げて説明されています。
しかし並みの集中力ではついていけないのです。
でもここでギブアップしてはなりませんので、具体的な名前の例を見ていきます。

生き物の名前として まず「カメ」(亀)について述べています。

鈴木健さんがこの本の最初にこの「カメ」をとり上げたのにはきっとわけがありそうです。
自然界の生き物として、古来から北海道には「亀」が生息していないのです。
ですから北海道に暮らすアイヌの言葉には「亀」を指す固有名詞がないのです。
もしカメをあらわすことばから似たアイヌ語が見つかれば、縄文語が全国にあり、そこからアイヌ語が縄文人の子孫としてのこったということを言葉(日本語)から証明する事になるからです。

ではどんな風に書かれているのでしょうか。

かめ=ka (表面、・・・の上)+ma(泳ぐ)+i(もの)・・・kamai ⇒ kame(かめ)

アイヌ語で【ka】は「表面」「上面」「・・・の上」「・・・のほとり」などの意味があり、【kam】【kama】が水面を泳ぐという意味のアイヌ語で解釈できるという。
【i】は動詞や形容詞を名詞にする時に用いられる言葉で「物」と「時」「所」「事」などをいうという。
また【kamai が kame】となるのはアイヌ語の発音の「メ」が 「mai 」と類似しているからだという。

カメに同じような言葉として「かも」「かもめ」などががやはり「水の上」の言葉から来ている。
また「水すまし」などのことを 隠岐の島では「カメ」というのも同じとされる。

カメというといろいろ昔話があり、この話の分布などを調べていくと何か見つかるかもしれません。
もっとも有名な話は「浦島太郎」ですが、これも時代により話しの内容は変化しているようです。やはり北海道にはないのでしょうね。

鶴は千年、亀は万年とよく言われますが、亀の長生きの記録は250年くらいまでいろいろあるようですが、確認された記録では152年だそうです。その他100歳以上の記録はたくさんあるようです。
でもこの亀は遺伝子解読の結果、カメの祖先は約2億5000万年前の生物大量絶滅が発生した時期の前後にワニ、トリ、恐竜等のグループと分かれ独自の進化をしたと考えられています。まあ恐竜が絶滅した時に生き残って今の亀が誕生したなどと考えるとなにか亀を見る目も変ってきますね。

kame.jpg


(類題)

「カジカ」 (蛙の一種:河鹿、淡水魚のゴリ、ゴロの中間の魚:鰍(かじか))などがあり、これらはすべて目が頭の上についている。
アイヌ語では 【ka 上】【sik 目】【a 坐している】でカジカになるという。
しかしこのカジカも今のアイヌ語にはない。

従って、これも縄文語が本州で変化した言葉だろうという。



日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/03 10:33

日本語と縄文語(3) 「かぶれ」「かび」

 今回取り上げるのは【ka】がアイヌ語で「表面」とか「上」という言葉から、皮膚の表面にできた「カブレ」という言葉がやはり縄文語だろうということの検証です。

「かぶれ」は皮膚の表面にできた赤い疾患です。そこで、

かぶれ ⇒ 【ka (表面、上)】+【hure (赤い)】  で「かふれ」が「かぶれ」に変化した

このように解釈しないと日本語の「かぶれ」の言葉の語源がわからないのです。
更に検証して、

高知県幡多 で マンジュシャゲ(彼岸花)のことを「カブレ」と呼んでいる。
この彼岸花も南洋植物で北海道(アイヌ圏)にはないという。
という言葉は高知の方言がアイヌ語で理解出来るということになります。
高知県では明治期まで、彼岸花を毒抜きして食用にしていた地域の記録もあるという。

また皮膚に出来る「かぶれ」も宮城・新潟では「カビ」といい、岩手では「垢=あか」ともいうらしい。
これも恐らく「赤」のものを表わしているのだろう。

いっぽう一般につかわれる「カビ」も伊豆大島では「アカ」といい、

かび ⇒ 【ka 表面 mu ふさがる】(アイヌ語で kamu はかぶさるとか覆うという意味)+【i もの】

上の m が b に変化して 【kamui】 ⇒ 【kabui】 となり 「かび」となった。
また別に考えれば 【pi】 は「種子」という意味があり、こちらの p が b に変化したとも考えられる。

さて、「カメ」から検証が始まった生き物の縄文語検証になぜこんな「かぶれ」「かび」などという言葉を鈴木先生は選んだのでしょうか?
理解に苦しんでいると次に「牙(きば)」が出てるるのです。

はたまた?? です。

じっくり読み込んでいくと やっと少し納得できます。
とんでもないことを検証しています。

古事記などの表現で、日本の国の始まりで、まだ国土が整わない時、

葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あ)がる物に因(よ)りて成りませる神の名は・・・・

と出てきます。
これは、早春に氷がとけて、そこから葦(あし)の先がとがった角のような芽が突きだす様をあらわしています。

ashikabi1.jpg

葦牙(あしかび)は葦の芽ということで解釈は変わらないのですが、これを「あしかび」と読むことの意味が今も解釈ができていないのです。

その多くのところの説明では、「「かび」はカビ(黴)と同じ語源で、醗酵する、芽吹くといった意味で「葦の芽吹く力強さをその生命力の強さとして神格化した」というような説明になっています。

しかし何故「かび」が「芽」なのでしょうか?
「牙(きば)」が何故「草の牙=芽(め)」という言い方がうまれたのでしょうか?

確かに木や草の芽は先が尖り、牙(きば)と同じような形状です。
特に葦の芽吹きは春先の水辺で天に向かって力強く伸び、生命力を感じさせてくれます。

これを縄文語(主にアイヌ語)から解き明かそうというのでしょう。

牙(きば) ⇒ 【ki(葦)】+【pa(頭)】 で キバ=kibaとなり
i ⇔ a となり、【kiba=キバ ⇒ kabi=かび】となった。


(注: 葦=アシ という呼び名は 【as (立っている)】+【i (~のもの)】と解釈できる。)

これは足にもいえる。足(あし)が加えるという意味の時に 足す(たす)と読むのは何故か?
これもアイヌ語からわかるという。
もちろん 足(アシ) で 立つ(タツ)立ち(タチ)などとも関連し、地名や山の名前などを調べていくと分るという。

足(あし) ⇒ 【as (立つ)】+【i (もの)】 であり、

足す(たす) ⇒ 【tasu】 で s ⇒ t となり 【tatu 立つ】 となった。

こんな解釈をしていくと日本語の由来が見えてくるようです。

まあこれも日本語解明のアプローチの一つでしょう。
どこまでが真実に迫れているかは分りません。

これからのこのような研究が本格化すれば面白いと思います。

日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/04 10:00

日本語と縄文語(4) 神、熊

 さて、このシリーズも4回目ですが、どこまで内容が理解出来るのでしょうか。 今から心配です。

前回「かび」は【ka 表面 mu ふさがる】⇒ アイヌ語で kamu はかぶさるとか覆うという意味に +【i もの】をつけたものと説明しました。

皆さんもよく知っているアイヌ語にはカムイ=神がありますよね。
私もこれ位しかわかりません。

ではなぜカムイ=kamuyが神になるのでしょうか?
一般にアイヌ語では 【kamuy】は神格をもったいろいろなものに使われているようです。
時には人間であったり、獣や、生き物以外でも・・・・

これを縄文語(分解された言葉)で解釈し、今の日本語とも比べてみていくようです。

【kamuy】 ⇒ 【kami=神】となったのは、万葉かなのミの発音からもこの転化は読み取れるといいます。

【kamu かぶさる、覆う】は、天を覆って上から覆いかぶすことであり、上空に暗雲が立ち込め、そこには雷や魔が潜み、魔神の仕業と思ったのではないかという。

元々古くは kamuy は「魔」の意味だったといいます。

一方 「熊」は、立ち上がって人に覆いかぶさるもので、魔神のような存在だったのでしょう。

【kumuy】 ⇒ 【kuma 熊】 となったと考えられるというのです。

少し説明を加えると、「羆(ひぐま)」は平安時代の辞書である和名抄による読み方は、「之久萬」と書かれており、素直に読めば「しくま」となります。
これもアイヌ語で、【si 真の 本当の 大きな】熊となります。
このsがhに転化して「ひぐま」となったと考えられます。
本州には現在ツキノワグマしか生息していないが、昔(旧石器時代)は北海道以外にもヒグマは生息していたのです。

higuma.jpg


また、これに関して「かま」という言葉を調べてみましょう。

【ka 上】+【mu ふさがっている】+【a すわっている】⇒ 「kama かま」 
から考えられる方言などです。

1)山口大島では「巣籠り」することを 「かまる」といいます。これは「籠もる こもる」に通じます。
2)愛媛大三島、熊本、静岡では 「かま=穴」の事を指します。
3)秋田鹿角、茨城久慈、山梨、徳島祖谷、高知では 「かま=川底のえぐれ」をいいます。
4)三重、和歌山東牟婁(ひがしむろ)、宮崎都城、鹿児島、沖縄、千葉一宮では「がま=岩穴、洞窟、崖のえぐれているところなど」を言います。

また、噴火口の事を「おかま=お釜」というのは普通に使います。

このように【kamu かぶさる 覆う】から派生した日本各地の方言はたくさんありそうです。

どうですか? 少し理解できそうですか。
私はまだまだ理解はできていません。
ただこれを「こじ付け」だとか、「いいかげん」だなどとは思えません。

なぜなら今の日本語のルーツはまだ解明できていないからです。
この「日本語になった縄文語」という本が、そのルーツ(標準語、方言など)を解明する手がかりになるかもしれません。

ここに書かれているように元々あった縄文語が都合よく「転音」したり、「置換」されたりするかということがネックなのですが、これについても古書をあさり、方言を紐解き検証を重ねるのはかなりのご苦労があったと思います。
わたしがここで取り上げている内容も、あまり理解できていないところで書いていますので間違った表現も多々あると思います。

なにしろこの日本列島には1~2万年ものあいだ縄文人たちと呼ばれる人々が争いごともなく住んでいたのですから。
日本の歴史学で習うことは、その表面的に見つかった道具や骨などからしか推察していないのですから・・・・。

この先もう少し本を紐解いてみましょう。
鈴木健先生が書かれた本以外にも「縄文語」に関する本はあります。
恐らくそちらの方が読みやすいでしょう。

色々な言葉がこれから徐々に解明していくのでしょうが、現在もまだ言語学の立場からはこの縄文語は亜流としてしか見られていないと思います。

今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから



日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/05 05:58

日本語と縄文語(5) バッケ(フキノトウ)

 さて、今まで書いてきて、私もアイヌ語と縄文語がどうも混同しているようで、わかりにくくなっていました。
一般に、やはり分りづらいですね。

何と言っても私達日本語をしゃべる人でもアイヌ語を本当に理解している人はごく僅かでしょう。
ですから私の書いて来た内容もここまでどうも使い分けが上手くいっていなかった気がします。

今迄得た知識だけから判断すると、
アイヌ語からその単語を分解して、そこに共通の音を探り出し、共通する意味を探索していき、その先に現在の日本語の音を当てはめる。またそれが地域差(方言)があったり、昔の書物に残された言葉に隠れた解読のヒントがないかを探る・・・・といった事でしょうか。

そして「縄文語の発見」がなされたという事ではないかと思います。

縄文語としてはここまで

【ka】 ・・・ 表面、~の上、~のほとり
【mu】 ・・・ ふさがる
【kamu】(上記の組み合わせ) ・・・ かぶさる、覆う
【as】 ・・・立っている、立つ
【i、y】(語尾) ・・・ もの
【a】(語尾)・・・ 坐っている、すわる 

などが主なところでしょうか。


今回は、フキノトウのことを「バッケ」と呼ぶ地域がある事に注目してみます。
「バッケ味噌」などといって愛でているのは主に新潟から東北地方一体に広がっています。

この方言がアイヌ語からきているとか、「化ける」から変化したなどと一部で言われているようですが、これを明確に説明した資料は見かけません。

そこで、これが縄文語から派生し、アイヌにも伝えられたのだと解釈しています。
どんな事でしょう。

ここではバッケの語源を  【po 子】+【kay 背負う】 = 【pakkay】 ⇒ 【bakkay(バッカイ)】 にあるとしています。
その根拠として青森秋田・岩手・宮城登米ではフキノトウがまだ開ききらない姿が「子供を背負っているように見える」ことから来ているといわれているからです。

fukinotou.jpg


この【kay 背負う おんぶする】 (アイヌ語)というのも
九州では 「カイカイ」ともいい、カイカイといえば「かたつむり」の事を指す地域もたくさんありますね。
「カイカイツブリ」(富山)、「カイカイムシ」(三重度会)・・・ またカイマキなども元は赤子を背負う巻き布だったのかもしれません。

他に
【karu カルウ】背負う・・・九州・四国・石見・安芸・山口・愛媛・高知など
【karui カルイ】荷物を背負う職人・・・(山口豊浦)、背負梯子・・・(隠岐・大分・宮崎)
【kari カリ】背負梯子・・・鹿児島 (背負いかごは:カレコ)

など九州を中心に【kay】というアイヌ語と共通の言葉がたくさん派生しています。
これが何を意味するかはもう明白です。

縄文人の言葉が今の日本の地方などに方言として残され、地名などにもアイヌ語で解釈できる地名が沖縄から九州・・・関東・東北地方にまでたくさん残されています。これらは縄文人たちが使っていた言葉から派生し、アイヌ語にはその多くが少し変化して残っているが、他の日本列島にはその派生した言葉の意味がわからなくなっていると考えられるのです。
(これは鈴木健さんの本から読み取った私の考えですので、解釈が違っているかもしれません)

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/06 03:12

日本語と縄文語(6) カエル

前回は、フキノトウをバッケ という方言について縄文語から解説しましたが、今回は「カエル=蛙」についてです。
カエルの呼び名は地方でさまざまに呼ばれています。

 「方言の多様性から見る日本語の将来(木部暢子著)」(⇒ こちら ) から少し引用させていただきます。
ここにカエルの呼び名の分布図が書かれています。

kaeru.png

これによると本当にさまざまな呼び名で呼ばれている事がわかります。
カエル、ガエル、ギャワズ、ガワ、ゲッツ、ゲー、ゴット、ガット、ヒキ、ビキ、ビッキ、ビキタン、ビキタロー、ドンビキ、オンビキ、アタビチ、ドンタ、ドンコ、ワクド、バクド、アップ、タップ、アタラ、アンゴ、ベットー、ジョーコ、チロッコ、モッケ・・・・・・・など
(書かれているものも紹介の図がよく読み取れないので全部ではない)

しかし、これをグループ分けしている。
1) 「カエル、ガエル」グループ・・・ 下記をのぞく多くの地域
2) 「ヒキ」・・・ 四国、山口、広島西部など
3) 「ビキ、ビッキ、ビキタンなど」・・・ 九州南部(沖縄含む)、九州北部、和歌山東部、東北全般(秋田・青森一部を除く)
4) 「アンゴ」・・・ 千葉房総
5) 「ワクド、パクド」・・・福岡東部・大分東部
6) 「モッケ」・・・ 秋田、青森(下北はビッキグループ)
7) 「ゴト、ガット、ゴトビキ」・・・ 和歌山県

特にこの3)のビキ ビッキ、ビキタングループは九州と東北のともに広い範囲で使われている。

上に紹介した論文ではこれを
 (1)方言周圏論:中央部で変化が起きる。中央部ほど新しく、周辺部ほど古い。
 (2)孤立変遷論:周辺部で変化が起きる。中央部ほど古く、周辺部ほど新しい。
 (3)接触説:異なる方言(言語)が接触して、一方または双方に変化が起きる。
という3つの考え方で分類し、(1)方言周圏論と(2)孤立変遷論が融合したものなどで分類解釈をしようとしている。
また柳田國男が提唱した蝸牛(かたつむり)型の渦巻き型伝播なども論じておられます。
まあ、私には余り理解できませんが、言語学の世界はまだまだ未知のことが多そうです。
ただ言葉の伝播についての法則はあっても、なぜそのような言葉となったのかについては触れられていないようです。

ではこれを縄文語で解釈していきましょう。
(鈴木健「日本語になった縄文語」から)

1、 【ガマガエル】 : 【ガマ(穴)】 に 【カマ(コモ)る】 ⇒ 【ガマ】 

前回【ka 上 mu ふさがっている】 ⇒ 【kamu かぶさる 覆う】
となるから 【kama 穴、くぼみ、火山の噴火口】等も此の派生語と説明をしました。
また【kama ⇒ gama ガマ】も同じ穴などを表わす方言が各地にあります。
さらに【kama ⇒ komo ⇒ 籠もる】ともなったと考えられます。

2、【ヒキ】【ビキ】【オンビキ】【ビッキ】等 ⇒ 【pakko 老婆】が語源

 1) bakki バッキ : 宮崎椎葉 で伯母
 2) bakkui バックイ: 静岡川根 で大蛙
 3) bakkun バックン: 大分でガマ、ヒキガエル
 4) バク : 大分南海部でガマ
 5) bikki ビッキ: 東北、栃木塩原、新潟岩船、岐阜揖斐、滋賀東浅井、佐賀藤津 で 蛙
 6) biki ビキ: 盛岡、青森、岐阜揖斐、三重南牟婁、奈良吉野、和歌山東牟婁、徳島、愛媛、土佐、九州 で 蛙
 7) hiki ヒキ: 和歌山、大坂泉北、香川直島、広島安芸、島根鹿足、山口 で 蛙(ヒキガエル)
 8) onnbiki オンビキ: 土佐、奈良宇陀、和歌山、兵庫、広島、四国、大分 で 蛙(ヒキガエル)
 9) onnba オンバ : 愛媛温泉

などの語源を探していくと「ウバ 姥」になるという。
千葉県君津で オオバコのことを「オンバッパ」というが、これは昔、蛙釣りにオオバコの葉茎からとった筋の先に葉を小さく丸めて縛ったものを使ったという。
このため、カエルッパなどと野州、奥州などの幼児語でオオバコのことを呼ぶ。

また、大分北海部では蛙のことをウバとも呼ぶところがある

さて、アイヌ語で老婆のことはいろいろな呼び名があります。「アハチ」「フチ」「イコンホノ」・・・・
しかし、古くからのアイヌ語として残されている言葉もあり、【pakko パッコ 老婆】ともいいます。

この【pakko パッコ 老婆】が各地で、バックイ、バックン、バク、ビキ 等に変化し 【バク】【ビキ】 ⇒ 【バケ】 に転化した。

というのです。
「パッコ 老婆」と 「バク・バックイ: ガマ(カエル)」は発音が近いのと、どことなく動きや体つきなども似ていると思われたのかもしれません。

これは、昔話の「姥皮 ウバガワ ウハカワ」などではガマガエルの皮で作った頭巾をかぶると少女が老婆に変装するという話となったのではないか。
また「化けの皮」という言葉もここから生れたのかも知れないとしている。

姥皮についてはまた別途昔話などのところで紹介したいと思う。

また、昔のかえるの表現にはその鳴き声から呼ばれた言葉もあります。
万葉集の歌に見えるカエルの表現には「蟾蜍(たにぐく)」と出てきます。

・・・・・山のそき 野のそき見よと 伴とも の部へを 班あかち遣つかはし 山彦の 応へむ極きはみ たにぐくの さ渡る極きはみ 国状くにかたを 見めしたまひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く来まさね・・・・・
(高橋連虫麻呂 万葉集 巻六 九七一)

これは「カエルが歩き回る陸の限りまで・・」という意味です。

この「ぐく」というのは恐らくかえるの鳴き声から使われたものと思われます。今のアイヌ語でも「ケッケッ」というようです。
又食用で食べられるから 【kaket ケッケッと鳴く】+【chep 食べ物】 【kaketchep】 という言い方もされます。
【chep】 は鮭や魚などの好物の食べ物に使われています。
カエルは大昔の人々(縄文人)には大好物だったのかもしれません。

このカエルが縄文人の好物だということは、日本書紀にでてきます。

日本書紀の応神天皇 19年の条によれば、応神天皇が吉野宮に行幸した際,国樔(くず)が酒を献上にやってきた事が書かれており、「その人となり,甚だ淳朴なり,毎 (つね) に山の菓を取りて食う,また蝦蟆 (かえる) を煮て上味とす,名づけて毛瀰 (もみ) という」
とあります。 国樔(くず)は常陸風土記にも出てきますが、当時に日本に暮らしていた人々(縄文人)のことを指します。
ですから当時カエルのことを縄文人たちは「毛瀰 (もみ) 」といって好物として食べていたという事になります。

【mom 流れる、ただよう】+【i もの】⇒ 【momi モミ ヒキガエル(食用)】

ではなかろうかという。
今でも、奈良県吉野の浄見原(きよみはら)神社では旧暦1月14日にウグイ、にごり酒などと共に「毛瀰 (もみ) 」も奉納されるという。

またこの【momi モミ】については和名抄に 【ムササビ のことを 毛美 モミ 】と表示されている。
ムササビやモモンガ もまた羽を広げて飛行する姿から 【momi】 からそう呼ばれたのではないか。

またカエルのことを「モミ」といった事から、

【モミの手(蛙の手)】 ⇒ 「モミテ】 ⇒ 【モミチ】 となり 【蛙手】 ⇒ 【カヘテ】 )】
となったのではないかという。

もちろん「モミヂ」については、紅花を揉んで赤い色を出す事から「モミイヅ」となり、「モミヂ」となったとの説明がある事は承知の上だという。

さて、大分複雑になってきましたね。
いろいろな語源説明はありますが、この縄文語がもう少し国文学で体系的に県境がされれば、ここに書かれている事柄もきっと理解出来るのではないでしょうか。

ここまでは「カエル、カヘル」の言葉には触れていませんが、これも推論ですが、

【ka 上面 + para 広い =kapar 水中の平岩】 と姿が似ていることから連想されたのかもしれないという。
カヘル、カワヅなどに変化したのだろう。 
近代アイヌ語ではカエルは【terkep】という。
これも 【terke 跳ぶ】 + 【p もの】 とから来ている。

今までの「日本語と縄文語」を1から読みたい人は ⇒ こちらから

日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/07 05:41

日本語と縄文語(7)姥皮(うばかわ)と化けの皮

 日本語になった縄文語の説明を鈴木健さんのご本より入口部分のみ6回に亘って説明してきました。
でもまだまだ理解には達していません。

このまま続けても益々隘路にはまってしまうかもしれませんので、少し息抜きをしていきたいと思います。

前回、カエルの呼び方の話をしました。
地方によっては、「ビキ、ビッキ、ビキタン、バッケ・・・」などと呼ばれ 「ウバ」などと呼ばれる地域も存在するそうです。

また、「化けの皮」という言葉も気になります。どこから生まれた言葉なのか?

「化けの皮が剥がれる」「化けの皮を剥ぐ」などと使うが、表面的につくろっていた姿(皮をかぶっていた姿)から、その皮をはぎ取って本来の姿をあばく時などに使う。

どうもこれが昔話の「姥皮(ウバカワ)」と関係しているかもしれないというので、この昔話を調べてみました。

1)姥皮(ウバカワ)  山形県の昔話

日本昔話「姥皮」より YouTubeは ⇒ こちら

(あらすじ):<日本むかしばなしデータベースより抜粋>

ubakawa.jpg

 村に日照りが続き、水が枯れてしまった。

そこに男がやってきて、雨を降らせてやる代わりに娘を嫁によこせと言う。
村人は承諾し、雨が降った。しかし、男は大蛇の化身であった。

村人は困り果てるが三人娘の末娘が自分が嫁にいくと言う。
末娘は千のひょうたんと千の針を持ち、大蛇の住む淵へ向った。

淵につくとひょうたんをすべて淵に浮かべ、大蛇に沈めてみせろと言う。
大蛇は奮闘するものの沈められず、やがて力つきて岸にのびてしまった。
娘はそこを蛇の嫌う鉄気である千の針で刺し、大蛇は死んでしまった。

体よく大蛇は討ったものの、嫁に行くといった以上帰る訳にもいかず、しばし山中を行くと、一軒の家があった。
そこにすむ老婆に次第を話すと、老婆は自分は実は件の淵の大ガマで、蛇に追い出されていたのだと喜んだ。

老婆はこれを被っていれば難は降りかからないと自分の「姥皮」(かぶると老婆の姿になる)を娘に授け、道を行った先に優しいお大尽の屋敷があるからそこへ行く様に勧めた。

お屋敷では見た目は老婆の娘を雇ってくれ、娘もよく働いた。

しかしある日、屋敷の若旦那が姥皮を脱いで髪を梳いていた娘を見てしまい、恋の病に伏してしまう。
やがて実は老婆がその娘だったことが知れ、二人は夫婦になった。

(ポイント)
ここで、この話しの気になるポイントは
(1) ガマの皮を被ると醜い老婆に変身する。何故(ガマ)カエルなのか?
(2) 大蛇の嫁になるということ
(3) このブログで「昔話について」と題して最初に書いた「蟹の恩返し」(記事は ⇒ こちら)との関連

こちらの話は、東北文教大学短期大学部民話研究センターの民話アーカイブとして「佐藤家の昔話(一)」にもう少し詳しく収録されています (⇒ こちら)  こちらの方が元の話に近いと思われます。
 
2)姥つ皮(うばっかわ) 新潟県 (フジパン提供 ⇒ こちら) 

 むかし、あるところに、大層気だての良い娘がおったそうな。
 娘の家は大変な分限者(ぶげんしゃ)での、娘は器量も良かったし、まるでお姫様のようにしておった。
 じゃが、夢のような幸せも永くは続かないもんでのぉ、可哀そうに、母が、ふとした病で死んでしもうた。
 しばらくたって継母(ままはは)が来だがの、この継母には、みにくい娘がいたんじゃ。
 なもんで、継母は、器量の良い娘が憎(にく)くてたまらんようになった。
 事あるごとにいじめてばかり。
 父も、これを知っていたが、継母には何も言えんかった。 

 それで、可哀そうだが、この家においたんではこれからどうなるかも知れんと思ってな、お金を持たせて、家を出すことにしたんじゃ。
 乳母(うば)もな、 「あなたは器量もいいから、よっぽど用心しなければ危ないことに出逢うかも知れんから」
と、言って、姥(うば)っ皮(かわ)という物をくれた。 

 娘は、それを被って、年をとった婆様(ばあさま)の姿になって家を出た。
 こうして、娘はあちらこちらと歩いているうちに、ある商人の家の水くみ女に雇(やと)われることになったそうな。
 娘はいつも姥っ皮を被って働いた。
 風呂(ふろ)に入る時も、家中の者が入ったあとで入ることにしていたので、それを脱(ぬ)いでも誰にも見つけられんかった。

 ある晩のこと。
 娘がいつものように姥っ皮を脱いで風呂に入っていると、ふと若旦那が見つけてしまった。
 さあ、それ以来若旦那は、一目(ひとめ)見た美しい娘のことが忘れられん。とうとう病気になってしまった。医者でも治(なお)らんのだと。大旦那が心配して占師に占ってもらった。 

 すると占師は、 「家の内に気に入った娘があるすけ、その娘を嫁にしたら、この病気はすぐに治ってしまうがな」、と言う。
 大旦那はびっくりして家中の女という女を全部、若旦那の部屋へ行かせてみた。が、気に入った者はなかったんじゃと。
 最後に、大旦那はまさかと思いながら、水汲み婆さんを若旦那の部屋へ連れて行った。
 すると、若旦那はすぐに見破っての、姥っ皮をとってしまったんじゃ。
 中から、それは美しい娘が現われたもんで、家じゅう大嬉びでの、 娘は、その家の嫁になって、いつまでも幸せに暮らしたそうな。
 こんでちょっきり ひとむかし。

(ポイント)
(1) 姥(うば)と乳母(うば)が同じ発音なので、1)から変化した?
(2) 継母(ままはは)は乳母から連想されたものか? 
(3) 御伽草子にある「はちかつぎ姫」やグリム童話のシンデレラ(灰かぶり姫)の話と同じ継子いじめの要素が強くなっている。
 
3)姥皮(うはかわ) 御伽草子(平安時代)

 ⇒ こちら より

御伽草子の「うはかわ」は私が持っている岩波文庫の御伽草子には載っていない。
そこでネットで捜してみた。元はほとんどひらがなばかりの文のようだ。
いくつかのサイトでこれを載せて、漢字交じりに変換したりしておられたが、上のリンク先 ブログ「円環伝承」のブログ記事より取らせてもらった。

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応永の頃のことであるが、尾張の国岩倉の里に、成瀬左衛門清宗と申す人がいたが、長年連れ添った妻は亡くなり、忘れ形見の姫君が一人あった。

その後、そうあるべきことであれば、姫君が十一の年、清宗はまた妻を設けた。
まもなく清宗は都へ仕事で上ることになったが、北の方に向かって言うことには、
「まだ姫は幼いのだから、とにもかくにも良く気遣って育てておくれ」と細々と指示して、都へ上っていった。

その後、継母がこの姫を憎むことに限りはなかった。
姫君が心に思うことと言えば「父御前がここにいたら、こうはならないのに」ということばかりで、明ければ父恋し、暮れれば亡き母恋しと、涙の乾く暇もなかったのである。

このように嘆いていればますます憎み、食事さえも与えなかったので、十二になった春の頃、姫君は岩倉の里を夜の闇に紛れて忍び出て、行く先はないけれども足に任せてさ迷っているうちに、甚目寺の観音堂に辿り着いた。

姫君は「これこそ、母上が常々参っておられた御仏だわ。
朝晩足を運んでおられたのは、私の将来について祈っていたのだと聞いているわ。
どうせもはや悪意を受けている身。母上のおられるところにすぐに行ってしまおう」
と思って、内陣の縁の下に人目を忍んで潜り込んだ。

「本当にね、大慈大悲に御誓願すれば、現世安穏、後生善処して護ってくださると聞いているわ。
私は、この世の望みは今更ないわ。後生(死後、来世)を助けたまえ」と、常々母上が教えておいてくれた観音経を、少しも休まずに読んだ。

三晩こもった夜明け、戸口に金色の光を放って、もったいなくも観世音菩薩が姫の枕元に立った。

「汝の母は、いつもここに足を運んでは姫の行く末を案じて祈っていたのに、このように迷うとは哀れなことよ。
汝の姿は世に類ないほど美しいのだから、どこかで人に襲われるだろう。これを着なさい」と言って、木の皮のようなものをくれた。

「これは、姥皮というものだ。これを着て、我が教える場所へ行きなさい。近江の国、佐々木民部隆清門前に立ちなさい」
と教えて、かき消すようにいなくなった。

 さて姫君は、「それにしても有難いお告げだわ」と伏し拝んで、夜が明けると姥皮を着て縁の下から出た。
この様子を見た人は、「この婆さんは不気味な姿だな」と嘲笑った。

 こうして姫君は、教えに従って近江の国へ上った。
不気味な姥の姿なので、野に寝ようが山に寝ようが、目を止める人もいなかった。

 どうにか、さ迷ううちに佐々木民部隆清の家に着いて、門の側で休んで経文を唱えていた。
隆清の子に、佐々木十郎隆義といって、年は十九になる者がいたが、その時、門の辺りに佇んでいて、侍を呼んで言った。

「さても不思議なことがあるものよ。あの姥が経を読んでいるが、姿に似ずに声の美しさは迦陵頻(歌声が美しいとされる天上の半人半女)のようだ。中に呼び入れて、釜の火焚きをさせよ」

 侍は承知して、「どうした姥よ。この屋敷にこのまま留まって、釜の火を焚け」と言ったところ、姫君は中に入って釜の火を焚いた。

 そのうちに、頃は三月十日あまりになった。
南面の花園には様々な花が植えてある。散る桜があれば咲く花もあり、水際の柳は萌黄の糸を垂れ、夜更け頃に山の端に沈む月も、花の美しさと競い合っていた。

 さて姫君は、夜更け、人が寝静まると花園に出て、月や花を眺めて、過去を恋しく思って、

月花の 色は昔に変はらねど 我が身一つぞ衰えにける
(月や花の色は変わらないのに、我が身だけは落ちぶれてしまいました)

とこのように詠じて佇んでいた。

 一方、十郎隆義は詩歌・管弦の道にも明るく、優しい人であったので、沈む月を惜しんで花見の御所の御簾を高く巻き上げていたのだが、花園に怪しい人影があるのを見て太刀を押っ取り、忍び出てみると、火焚きの姥である。
「これは怪しいやつだ。どうしたことか」と思い、そっと窺った。
姫君は人が見ているとも知らないで、月の光に向かって、少し姥皮を脱いで、美しい顔だけを出して、またこのように

月一人 あはれとは見よ姥皮を いつの世にかは脱ぎて返さん
(月だけは哀れんで下さい、この『姥皮』に身をやつした私を。姥皮をいつの日にか脱いで返しましょう)

と詠むのを見ると、辺りも輝くほどの姫君である。

「これはどうしたことだ」と思い、もとより大剛の人であったので、持っている太刀の鍔を押し上げて、するすると近寄って、
「お前をこの間の火焚きの姥だと見ていたところ、そうではなく、美しい女房だ。
魔物であろう。逃がさんぞ」と怒鳴りつけた。

姫君は騒ぐ様子もなく、「お待ちを。落ち着いて下さい。私は魔物ではありません。
私の身の上をお話しいたします」とて、事の仔細をありのままに語った。
隆義はじっと聞いて、ならば観音の御利生であるなと手を合わせ、感動の涙を流した。

 もとより、隆義は未だに奥方も娶っていなかったので、寝所の傍らは寂しく、独りで寝起きしていたのだが、姫君の手を引いて花見の御所に上がり、姥皮を脱がせて、火を灯して眺めると、全く上界の天人が天下りしたかと思えるもので、世に例えられるものがない。辺りも輝くばかりである。

隆義が 「さては、噂に聞く成瀬左衛門清宗なるせのさえもんのきよむねの姫でありますか。
突然に申すことではありますが、あなたも今は何かと苦しんでいるはず。
今からは私と夫婦の契りを結んで下さい」と、行く末の事までも事細かに話せば、
姫君は
「私ごとき落ちぶれ者にお言葉をかければ、ご両親のお咎めはどれほどのものでしょう。
いつまでも屋敷に召し置いてくだされば、この姥の姿で釜の火を焚きます」と言う。
隆義は
「このように出逢ってしまったのです。たとえ父母の不興を買う身になろうとも、野の末・山の奥までも、片時もあなたから離れまい」と、姫君の側に寄り伏して嘆いたところ、姫君も断りきれず、身を任せた。

 かくして、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)の下で比翼の契りを結んだ。
その夜も次第に明けていくと、後朝(きぬぎぬ)の名残を惜しんで互いの涙は止まることがなかった。
既にもう夜は明け、下働きの者たちが起き出す音がするので、再び姥衣を引き被り、釜の火を焚きに出ようとしたが、隆義は姫の袖を引き止めて、このように詠んだ。

観音の 御置きたりし姥皮を 末頼もしく我や脱がせん
(観音様が置いていった姥皮を、末頼もしい思いで私は脱がせた)

 姫君、返歌。

憂きことを 重ねて着たる姥皮を 君世になくば誰が脱がせん
(憂いごとを重ねて着ていた姥皮を、あなたがいなければ誰が脱がせることが出来たでしょうか)

このように詠じて、火を焚きに出て行ったのは、哀れなことであった。 

 そのうちに、隆義の父母は、かねてより定めていた通りに都の今出川の左大将殿の姫君を嫁に迎えようと、乳母めのとの宰相を使いにして手紙を送ってきて、都へ上るように伝えたところ、隆義はとやかくは言わないで、「父母の仰せに背くのは恐れ多いことですが、私はただ出家したいと思っております。このようなことはできません」と言う。

 父母はこれを聞いて、「これはどうしたことか。とは言うものの、若い身の習いとて、想いを寄せる方がいるのかもしれない。詳しく訊ねよ」と、乳母の宰相に言った。

 宰相は隆義を訪ねて、「ご両親にご心配をおかけするのも罪です。
若い身の習いとて、お心を寄せる方があっても無理はありません。
貴人の身の習いとて、賎しかろうと心の優れた者を召し上げて、奥方にもします。
このようなことは世間にあることなのですから、父母様もさしてお恨みいたしません」と、丁寧に語ったところ、隆義は聞き入れて、「今は何を隠そう。誰もが驚くことだが、この屋敷にいる釜の火を焚く姥を召し上げたいのだ」と言った。

 宰相はこれを聞いて相当に呆れ果てて物も言わず、涙を流して走り帰り、父母にこのことを申したところ、「これは何としたことか。つまり我が子は気が狂ってしまったのか」とて、それぞれにうち伏して泣いたが、父、隆清はしばらくして「いやいやとにかく、火焚きの姥をこれからは嫁だと定めて、心を見よう」と言って、「然らば、明日は吉日なのだから、姥を召し上げて北の方に定めなさい」と使いを送ってきたので、隆義が狂喜することに限りはなかった。
急いで網代の輿を調えて、祝いの儀式は様々だった。
屋敷の人々は実に釈然としないことであったが、主命であるので、様々に準備を執り行った。 

 とうとうその日になれば、隆義は例の姥を召し上げて、自分の住んでいる所へ入れて、人に見せずに、二人一緒に着替えや化粧をした。
夜が明けると、被かずき衣を深々と被って、輿に乗って、母屋へと移った。
座敷まで輿で乗り付けて出てきたのを見れば、件くだんの姥のようではない。
これはどうしたことだと、見る人々も父母もポカンとした。

 舅の隆清が、側近くに来た嫁を見てみると、この世の人のようではない。
天人か、菩薩が天下ったのか。これほどに美しい人は昔話にも聞いたことがない。
年の頃は十三か十四ほどに見える。鮮やかなる顔かんばせ。姿を絵に描こうとしても筆が及ぶだろうか。
言葉には、よもや出来ない。隆清夫婦は彼女を見て、驚き喜ぶことに限りがなかった。
その日の引き出物として、隆清は代を息子に譲った。このことは天下に知れ渡った。

 帝がこれを聞いて、「さては観音のお引き合わせによって、隆義は妻を得たのだ。大変なことよ」とて、急いで隆義を召し上げて佐々木右兵衛督の位を与え、近江の国と越前の国を相添えて与えた。

その他にも所領を増やしていって、お目出度いことである。
その後、子供も沢山もうけて末長く繁栄した。 

 これは即ち、大慈大悲の御慈悲である。
この物語を読む人は、南無大悲観世音菩薩と、三遍唱えるようにすべし。
現世安穏、後生善処、疑いなし。

(ポイント)
(1) こちらの話は平安時代の仏教説話が元になっているように思われる。
(2) このころから「継母」にいじめられる話が入ってきたようだ。
(3) 姥皮はこの話しでは、カエルがかぶっているものではなく「木の皮のようなもの」となっている。

さて、姥皮(ウバカワ、ウバッカワ、ウハカワ)の話を3つ載せたが、それぞれ少しずつ違いがあるが、元の話はどこから来たものだろうか。

御伽草子は平安時代後半頃と思われるが、観音信仰がかなり色濃く出ている。


さて似た話しで「カエルの皮」(ガエルッカワ)という昔話が新潟にある。

4、カエルの皮(越後の昔話) ⇒ サイトはこちら

カエルの皮   ―高橋ハナ昔話集―

 あったてんがな。あるどこにおっとさんとお嬢さんがあったてんがの。おっとさんが
「きょうは天気もいいし、花見にいってこうかな」
とようてお嬢さんを連れて行ったと。ほうしたら、でっこいヘビがカエルを飲もうとしているんだんが、お嬢様が
「かわいげらねか。カエルがヘビに飲まれるが」
とようたれば、おっとさんが
「ヘッビ、ヘッビ、んな(おまえ)、そのカエルはなしてやれば、この娘を嫁にやるが」
といわしゃったと。ほうしると、ヘビは、くわえていたカエル放したと。かえるは、喜んでギクシャクしながら逃げていったと。
おっとさんは、
「はあてまあ、おら娘を嫁にくれるなんてようてしまったが、おおごとら」
ほうして、二、三日もめいたれば、いつかの男が来て、「おらこないだカエルを飲もうとした時のヘッビだが、お嬢さんを嫁にくれるとようたすけ、約束通り今日は、もらいにきた」
とようたと。おっとさんは困ってしもうて、
「娘、娘、おれがほんとうにようたがらすけ、仕方がない。ヘビのどこへ嫁にいってくれ」
とようたと。娘も承知して、おっとさんから針千本買ってもらって、男のあとへくっついていった。ほうして広い池へ出ると、男が
「おれここに先入るが、おまえ、おれの後からついて入ってこい」
というて飛び込んだと。その時娘は、針千本を池の中に投げ込んだ。ヘビはその針飲み込んで死んでしもうたと。
 ほうして、日もくれるし、家にも帰らんないし、困っていると、向こうから、年寄りのばさが来て
「お嬢様、お嬢様、私はおまえさんに助けられたカエルだ。今夜おらどこへ一晩、泊まっていってくれ」
とようて泊めてくれたと。
 翌朝になったら、ばさが
「おまえのようなきれいな子は、道中に悪者がいてあぶないすけ、おれがカエルの皮をやる。これを着れば、年寄りのきったねばさになる」
とようてカエルの皮をくれたと。お嬢様は、その皮を着てズンズン行くと、道端に山賊(さんぞく)がいて
「きったなげのばさがきた」
とようて、棒の先に引っかけて投げたら、ばさはだんな様の家の軒端に落ちたと。それをおんなごが見て、
「奥さん、奥さん、きったなげのばさが軒端にやってきました」
とようと、奥さんは、
「かわいそうだすけ、家に入れてやれ」
とようてその家で火たきばさに使ってやったと。
 ある日、若だんな様が、夜遊びにいって、帰っでくると、ばさの部屋で明りが見えるんだんが、
「ばさが何しているのだろう」
と思ってのぞいてみると、ばさは、カエルの皮を脱いできれいなあねさになって、ろうそくの灯で勉強しているてんがの。若だんな様は、それから病気になってしもうて寝ていたと。家のショが、あの医者、この医者とたのんでくるろも若だんなのあんばいはえーて(なかなか)治らんかったと。占いがきて
「これは若だんなに好きな女の人があって、それを嫁に欲しいがだすけに聞いてみるがよい」
とようたと。ほうしるんだんが、おっとさんもおっかさんも若だんなに
「だっか(だれか)嫁に欲しい人があるか」
と聞くろも、なんともいわんがだと。仕方がねい村中の年ごろの娘いんな寄せて、若だんなのとこへやってみようとようことになって、一人ずつ
「あん様、湯でも茶でもやろかい」
とようて行くども、布団にもぐって返事もしねいと。あとのこりは火たきばさばっかになってしもうたと。
「ほんね、もうひとり火たきばさが残っていらや」
とようでばさが行くことになったと。ばさは二階に上がって、カエルの皮を脱いで、きれいなお嬢さんになって降りてきて、
「あん様、湯でも茶でもやろうかい」
とようたれば、若だんながきて
「湯でも茶でもくれ」
とようて起きてきたてんがね。
 おっとさんもおっかさんも
「これが家の嫁だ」
と喜んだと。ほうして、お嬢さんを嫁にして一生仲良く暮らしたと。それでいきがきれた。

ここでは、「姥皮」という名称は無くなり、「カエルの皮」との表現に置き換わっている。


以上4つの話を紹介したが、これ以外に似た話は各地に多い。

福島県三島の昔話には「姥皮(おっぱの皮).」などと呼ばれている。

しかし、以前平安時代の仏教説話ばなしを見ると、日本霊異記(中)より、蟹の恩返しの話をした。(こちら

この中で、第十二 に「蟹と蛙を買い取って放してやり、この世で蟹に助けられた話」 というのがある。

捕まってかわいそうになった蟹と、蛇に飲まれそうになった蛙をそれぞれ別々に助けて逃がすのだが、この蛇をやっつけて恩を返すのは「蟹」の役目になっている。
蛙は何も恩を返していない。
確かに蟹ははさみを持っていて、蛇を切り刻むことができるが、蛙が恩を返す話が、この日本霊異記に見えない。
しかし、昔話を検索すると蛙が恩返しをする話もある。
その話しが大概この姥皮と関連しているような話になっている。

まあどこまで理解出来るかは知らないが、面白く感じたので、ここに記録として残しておきたいと思う。

最後に、日本霊異記の要素が加わった話をもう一つ載せて置きます。

5、姥皮  山形県置賜地方の昔話 サイトは ⇒ こちら

むかしあったけど。

御伊勢さま詣りに行って来たど。
そうすっど、蛇ぁ蛙(びっき)飲むどこだけど。そしたら蛇さ、
「おれぁ娘三人持ったから、どれでも呉れっから、蛙可哀いいから、離して呉ろ」 て言うたど。
そうしたら蛙が離さっだもんだから、喜んで喜んで、こんどはぁ、 ピンピンて行ったど。

そうすっど、その蛇だごで…。三人の娘いた、どれでも呉れっからて言うた。
そしてこんどはええ男になって蛇は来たなだど。親父は、
「おれはこういうことになっていたから、にしゃだ、蛇のどこさ嫁(い)って呉ねが」
て願ったどこだ、子どもらさ。そしたら姉さんから始まり、
「そだな、蛇のおかたになっていられめぇちゃえ」
て、言って親父をはじいたど。二番目さ言うても、またはじいだって。三番目さなったら、
「ほんじゃら、おれ嫁(い)んから心配しねで、おどっつぁ、御飯(おまま)あがれ」
て、こう言うたど。そうしたところぁ、「ええ男だら、おれも行きたがった。おらも行きたがった」
て、姉どら二人言うたど。

「嫁に行いんから、針千本用意して呉ろ」
て言わっで、嫁に行ったど。そして山さ入るどこに、川あって、渡っど思ったら橋ないもんだから、蛇が、
「おれ、橋になるから…」
て言うたので、そこさ針千本撒いたど。

そしたらば蛇の体さ皆刺さったど。そしてそこで蛇死んでしまったど。
そうすっど娘は出はって行って見たらば、暗くなるもんだから、山の中さ入って行って、木の上さ登ったど。

寝るに寝らんねし、山の中だし、下に居っど恐っかねがら、木の股さ寝っだど。
そして夜中過ぎっど明るいものポカーッと出てきたど。そしたところが、
「お前のお父っつぁんに助けらっだ。おれ、蛙だ」
て、そしてその蛙が出たんだってよ。

「明るくなってから行くじど、泥棒の恐っかない者ばり居っから、この姥皮というもの呉っから、この姥皮というものかぶって、お年寄になって、ここの山降(お)ちて通って行げ」
て、こういう風に教えらっじゃそうだ。

そして蛙に姥皮というもの貰って、そいつかぶって行ったば、案の如く泥棒みたいな町はずれさ行ったらいたけど。
「なんだ。どっから来あがった。こがえ婆ぁ」
て、はねらっでしまったど。ええ女になって行くじど、そこさ行っておさえられるから、姥皮かぶって行ったわけだ。
そこからずうっと行ってるうちに、ある旦那衆さ、御飯炊きに入ったんだど。

そして御飯炊きに入ったらば、昼間姥皮かぶっていっから、年寄で釜の火焚きなどばりしったんだど。
夜さなっじど、ちゃんと姥皮はずして、きれいになって寝っかったど。
そこば旦那衆の息子見つけたごんだど。そしてそいつを嫁にもらわんなねて言うたば、
「あがな年寄なだたて、嫁にもらう…」
て、親たちとても反対したんだって。

んだげんども、夜さなっど、きれいにええ女になっているもんだから、ほだから、息子惚れこんでしまったてよはぁ。そして息子は惚れこんで大病になったてよ。

大病になっどお医者さまに、
「ただの病気でない、恋のわずらいだから、この薬呑ませた者を嫁にすらっさい」
て、こう言わっだってよ。

まず纂(さん)置きにそう聞いたから、下女を蔵の中さ一人一人に、てんでに薬あずけてやったということだ。
そうすっど誰のでも、「飲まね、飲まね」て飲まねなだど。そして一番しまいに、
「ほら、ばばだ。こんどばば持って行け。誰も飲む人いね。こんどはばばだごで」
て言うて、ばばどさ、あずけてやったらば、ばばの薬、つるっと飲んだずも。
そうしたら、みんな手ンばたきぶって笑ったずも。んだごで。

そんなばばの薬飲んだて、手ンばたきして笑ったど。
御祝儀のとき、こんどちゃんと用意して出はって来たれば、すばらしいええ女であったど。
そしてそこの旦那衆のお嫁さまになって、そこで暮したど。

とーびんと。

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/08 05:01

日本語と縄文語(8) かっぱ(河童)

さて、今回は伝説の生き物「カッパ 河童」についてです。

各地の川や沼に棲む頭にお皿のあるカッパですが、最近は結構かわいらしい姿で描かれることが多いのですが、結構昔は怪物、妖怪と言った姿で描かれることも多くあったようです。

現在このカッパの語源については、古語辞典などに記載されており、

「河(かは)に棲む 童(わらは)」 で 【かはわらは:kahawaraha】が 【かわわっぱ】となり【kappa かっぱ】となった。
というように記載されています。
まあ、カッパを漢字で「河童」と書くことそのままですね。

でも「かはわらは」との言葉は言いにくいですね。 この伝説の妖怪に付けた呼び名としては少し変な気もします。

oouchi_kappa.jpg
(銚子 大内かっぱハウスより)

そこで、アイヌ語から推察してみます。

アイヌ語で【カワウソ】のことを地方によっていくつか呼び名があるようですが、【sapa-kapke-kur サパカプケクル】(sapa(頭)kapke(はげている)kur(神))と いうのがあります。これは少し馬鹿にしたときなどにも呼ぶようです。

【ka 上+pもの = kap 皮】であり、 日本語の皮(kaha)もこのアイヌ語から来ていると思われます。
また白樺(しらかば)の「樺(kaba)」もやはり「皮」を意味すると思われます。
地方によっては桜の木の皮を「カンバ」と呼ぶ地域があります。

いっぽうカッパは【kap 皮 + pa 頭】 で【kappa カッパ】となり、「カッパ頭」であり、上に書いた「カワウソ」と同じ意味になる。

昔、薄暗い時刻に川や沼で水面からツルツル頭のカワウソが頭をだし、またもぐったりしているのを見たことから伝説の「河童」が生まれたとしても何も不思議ではない。

対馬ではカワウソのことを「ガッパ」と呼ぶ。また岩手、宮城、茨城稲敷、新潟頚城、長野安曇ではハゲ頭を「ハンバ」という。

古語辞典には「かぶろ(禿)はカミ(髪)が ウロ(疎) であること」で 「カムロが転訛した」となっていますが、禿げ(ハゲ)の髪はまばらではなくツルツル状態ではないのか?

【kap 皮】+【ru 頭髪】 で髪がなく皮だけの頭ということと考えるとこの「カプロ」も説明が付くという。

ここではこんな考えもあるということ・・・・・・くらいに考えておきましょう。

実はカッパは昔話にはとても多く登場します。

また、呼び名も地方により異なります。

・ 九州では【セコ】とか【ヒョウスベ】、熊本では【ガワッパ】
・ 土佐(高知)では【エンコ】
・ 近畿・中部地方では【ガタロ】
・ 北陸では【ガメ】
・ 北東北では【メドチ】
など

アイヌ語にもいろいろな呼び名がありますが、ごく一般的な呼び名は【mintuci ミントゥチ】といいます。
北東北の「メドチ」と語源は共通のようです。
アイヌ語には他に「シリサマイヌ(山側の人)」とか「オソイネプ(他から来たもの)」という言葉もありますが、この【mintuci ミントゥチ】は意味を解することができないため、日本語のミヅチ、メドチなどからの借用語ではないかなどとも言われています。

また良く使われる神話などに登場する「みずち(古訓 みつち) 蛟」は竜や蛇の類に近い水に関する伝説上の水神と考えられています。

この蛟(みずち)は日本書紀にも登場します。(Wikipediaより抜粋します)

『日本書紀』の巻十一〈仁徳天皇紀〉の67年(西暦379年)
吉備の中つ国の川嶋河(一説に現今岡山県の高梁川の古名)の分岐点の淵に、大虬(ミツチ)が住みつき、毒を吐いて道行く人を毒気で侵したり殺したりしていた。
そこに県守(あがたもり)という名で、笠臣(かさのおみ、笠国造)の祖にあたる男が淵までやってきて、瓠(ヒサゴ)(瓢箪)を三つ浮かべ、大虬にむかって、そのヒサゴを沈めてみせよと挑戦し、もし出来れば撤退するが、出来ねば斬って成敗すると豪語した。
すると魔物は鹿に化けてヒサゴを沈めようとしたがかなわず、男はこれを切り捨てた。
さらに、淵の底の洞穴にひそむその類族を悉く斬りはらったので、淵は鮮血に染まり、以後、そこは「県守淵(あがたもりのふち)」と呼ばれるようになったという』

民俗学としても昔からいろいろ取り上げられています。
南方熊楠は、わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意〔こころ〕でミヅチと呼んだらしい(『十二支考・蛇』)としているそうです。

河童もこのあたりから変化して想像され、作り上げられたものかもしれません。

茨城県利根町には、蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)(みづちじんじゃ)があります。
私も5~6年前に訪れました。その時の記事は

1 )蛟蝄神社(門の宮) ⇒ こちら
2) 蛟蝄神社(奥の宮) ⇒ こちら

さて、話は変わりますが、簡単にできることを「屁の河童(へのかっぱ)」と言いますが、こちらの語源は
「木っ端の火(こっぱのひ)」が「河童の屁」となり、順番が入れ替わって「屁の河童」となったもののようです。
「木っ端(こっぱ)」は火をつける時などの最初に使う小さな木の端や削りカスのようなもので、火をつけるとすぐに燃えるものから簡単に火が付くことに由来した言葉です。

もう一つキュウリのことを「カッパ」といいますが、こちらは
「河童の好物が「キュウリ」だからとか、河童の総本家ともいう『水天宮』の紋章が河童の頭の形に似ており、これがキュウリの切り口と似ているから」などと言われていますが、どうでしょう。

また、雨具のカッパはポルトガル語の「capa」から来ているようです。


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日本語と縄文語(9) 紅(くれない)と鬼無里(きなさ)

今回はアイヌ語から縄文語を探してみたいと思います。

アイヌ語については「アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ(こちら)から探してみます。

ただし、こちらのアイヌ民族博物館(北海道白老町)は昨年秋にいったん閉園となりましたが、この5月末にアイヌ文化発信拠点として再オープン予定です。
アイヌ語の資料検索などのHPは現在も利用可能です。

では日本語で「赤い」と検索してみます。

 húre フレ 赤い
 húreno フレノ とても赤い、 まっ赤である
 etuhure あかはな(赤鼻)etu-hure〔e-tú-Fu-reエとぅフレ〕[etu(鼻)+hure(赤い)]

などと出てくる。

そこでこの 赤い=hure フレから思いつくのは「クレナイ=紅」である。

1、【紅(くれない)】 :  【hure 赤い 赤くなる】+【ay イラクサ、矢、トゲ】

クレアイ ⇒ クレナイ

benibana.jpg
(紅花=ベニバナ=末摘花=クレナイ=紅藍)

【kurenawi クレナヰ】 : 葉の先に強いトゲ(ay)がある植物で、夏にアザミに似た紅色の花が咲く。
それを摘んで染料とした。
万葉集には「末摘花(すえつむはな)」と呼び、源氏物語にも鼻の赤い鼻摘まみ女として出てくる。
しかし、この末摘花は一般に「紅花 べにばな」と呼ばれ、山形県の特産になっている。
山形県に紅花が入ってきたのは古く、エジプト・地中海からシルクロードを経て、飛鳥時代に山形へ渡ってきたと言われています。
また、朝鮮半島から紅染技術を伴って日本に伝来したとも言われています。

この紅花のことを「クレナイ」とも言っているのです。

この染料の出す紅色も「クレナイ」なのです。
そのクレナイの言葉がアイヌ語から理解できるのですから縄文語なのでしょう。

クレナイが 【hure 赤い 赤くなる】+【ay イラクサ、矢、トゲ】であるというのは、平安時代の辞書である和名抄には「紅藍」があり、紅藍(呉藍)の読みは「久礼之阿井 クレノアイ」となっています。

紅(べに)のことを「クレ」と読むのはこのように現在のアイヌ語の 【hure フレ 赤い】 から説明ができるのです。

その他に 【hure 赤い】が語源と思われる言葉には、【熟れる、熟して赤くなる】・・・ureる はhureのhがとれたものと考えれれます。
満州語で赤をfulaといい、ホウセンカ(鳳仙花)を福島、山口、九州では「ツマグレ」という。
これはホウセンカの赤い花びらで爪を紅く染めるためだ。
また、新潟古志郡、大分北海部では「ツマクレナイ」という。
黒く染めるのは島根鹿足、九州などでは「ツマグロ」という。

また各地の地名で「丹生(にう)」という地名があります。
この説明には紅い染料となった鉱物が採れた所とあります。
山形県丹生川の上流に「紅内(くれない)」という地名があり、これは

【hure 紅い】+【nay 川】で紅い川となり、丹生川の古名(縄文語)であった可能性があります。


さて、この「日本語になった縄文語」の本にもうひとつ面白いことが書かれていました。

それは、長野県戸隠の「鬼無里(キナサ)」の地名由来です。

水芭蕉の里として有名になっていますが、ここに謡曲や能の「紅葉狩」の話として伝わっています。

<紅葉伝説(もみじでんせつ)> wikipedia より

 937年(承平7年)のこと、 子供に恵まれなかった会津の夫婦(笹丸・菊世)が 第六天の魔王に祈った甲斐があり、 女児を得、呉葉(くれは)と名付けた。
才色兼備の呉葉は豪農の息子に強引に結婚を迫られた。
呉葉は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、 これを身代わりに結婚させた。

偽呉葉と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、 ある日偽呉葉は糸の雲に乗って消え、 その時既に呉葉の家族も逃亡していた。
呉葉と両親は京に上った。
ここでは呉葉(くれは)は紅葉(もみじ)と名乗り、 初め琴を教えていたが、源経基の目にとまり、 腰元となりやがて局となった。
紅葉は経基の子供を妊娠するが、 その頃御台所が懸かっていた病の原因が 紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、 結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。

956年(天暦10年)秋、まさに紅葉の時期に、 紅葉は水無瀬(鬼無里)に辿り着いた。
経基の子を宿し京の文物に通じ、 しかも美人である紅葉は村びと達に尊ばれはしたものの、 やはり恋しいのは都の暮らしである。
経基に因んで息子に経若丸と名付け、 また村びとも村の各所に京にゆかりの地名を付けた。
これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。

だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。
このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、 一党を率いて戸隠山に籠り、 夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。
この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。
ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、 笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、 紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあう。 かくなる上は神仏に縋る他なしと、観音に参る事17日、 ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。
今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、 流石の紅葉も敗れ、 維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。

呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。

この話しから「鬼のいない里=鬼無里(きなさ)」という地名になったというものだ。

ここで、注目すべきは紅葉(もみじ)=呉葉(くれは 幼少名)で、上に書いた「紅藍=呉藍(クレアイ、クレノアイ)」に通じるのだ。


また読みの【キナサ】 = 【kina 草】+【sar 湿原】ではないかというのだ。

また鬼無(キナシ)=【kina 草】+【us ~が群生する】+【i 所】 からこの字が充てられたのではないかという。

佐渡では草のことを「キナ」と呼ぶそうだ。

このキナというのは 良く焦げたときに「キナくさい」と使う。

現在の国語辞典などを引いても「きな=布」などの意味は出てくるが、「きな臭い」は「布や紙が燃える時の匂い」ではないかということも言われるようだが正確にはわかっていない。

もしこの語源が縄文語で「キナ=草」であるということも可能性があるだろう。

なかなか今まで地名の説明が良くできていないところを、かなり調べて解読されている。

これがすべて正解ともいえないが、言語学で解明できていない言葉の一つの解釈としては、この縄文語説もかなりユニークで説得力もあると思う。

mizubashou.png
奥裾花自然園の水芭蕉
(鬼無里観光振興会)

水芭蕉の白い根は熊の好物と言われている。

そのため、アイヌ語で【水芭蕉=iso・kina 熊の草】という。

現在一般的に使われる「紅葉狩り(もみじがり)」が、裏にこのような紅葉=鬼 を狩った話が潜んでいるとすれば少し怖い。

ただ一般的には 昔の貴族が鷹狩りなどで、動物を狩ったものから、次第に獲物を狩ることがなくなり、柿狩り、梨狩り、イチゴ狩りなどの果物を狩るようになったというのと同義で、紅葉を狩るわけではないが愛でて楽しむ意味で使われ出したというようだ。

ただそれまでもこの鬼女=紅葉 を狩るという「紅葉狩り」の言葉は歌舞伎などを通じて広まっており、言葉は人々の中に親しまれた言葉だったと思われる。

最近の若者世代の中に、紅葉狩りを紅葉の葉をたくさん採るような意味にとらえる人も出始めたそうだ。
これもまた怖い。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/10 05:23

日本語と縄文語(10) 「こおろぎ」「きりぎりす」に「ハッタギ」

 この縄文語の本を読みながら地方に存在する物を指す言葉(方言の違い)の分布を調べていくのも言語学研究では大切なことなのかもしれない。
調べてみると面白くなってはまっていきそうになる。
そして過去の有名な先生が提唱した理論に当てはめて考察をする。

しかし、これは少し危険ではないかと思う。
地名や方言などが伝播したととらえるのは少しばかり違和感もある。

今回は、昔、「こおろぎ」と「きりぎりす」が逆に呼ばれていたらしいということから始めよう。

枕草子:九月つどもり、十月ついたちのほどに、ただあるか なきかに聞きつけたる きりぎりす の声 ・・・・・

新古今集: きりぎりす 鳴くや霜夜のざむしろに衣か たしきひとりかも寝ん

このように昔の書物や和歌に「きりぎりす」の鳴く表現が出てくる。
しかも、秋や晩秋、冬の初めのころに鳴くというのだ。

この頃に鳴くのは「コオロギ」であって、「キリギリス」は鳴かない。

koorogi.png
(こおろぎ)

kirigirisu.jpg
(きりぎりす)

これは過去にも著名な国学者や言語学者が考察していたりするようで、どうも「コオロギ」と「キリギリス」がいつの間にか呼び名が入れ替わったとみられている。
また地方に伝わるこの二つの虫の呼び名も全国的に逆転した呼び名で呼ばれている地域もあるという。
いまでもコオロギをキリギリスと呼ぶ地域も各地にあるようです。

こうすると都から地方に言葉が伝播していくという考え方になるのでしょう。

では「日本語になった縄文語」の本の中には何と書かれているのでしょうか

【kirkir 擬音語】+【se という】+【i もの】
であり、
また、童謡唱歌「虫の声」の2番の歌詞に
「キリキリキリキリ こおろぎや ・・・」とある。

昔はコオロギの鳴音をキリキリ・・・と表現していたのが、次第に「コロコロ・・・・」名表現されるようになり、虫の名前も
「キリギリス」 ⇒ 「コオロギ」 となった。
また、キリギリスも別種名となった。

アイヌ語で虫を【kikir キキリ】と言う。 これも虫のなく音の擬音語から来ており、コオロギや今のキリギリスも同じ仲間であった。

こおろぎが「キリキリキリキリ と鳴くのか? 一般には「コロコロコロコロ」とか「チリチリチリチリ」とか表現される場合が多いのですが、羽根をこすり合わせてオスのコオロギがメスを引き寄せるために出す音ですから 「キリキリキリキリ」とも聞こえます。
夏の虫キリギリスも同じく羽根をこすり合わせて鳴きます。

鈴木健さんの本にも地方の方言としての虫の名前として、

コオロギのことをキリギリスというところ:盛岡、秋田、岩手、信濃、岐阜、埼玉、山梨など

また出羽ではコオロギを「キース」、静岡庵原でコオロギは「キーキ」、
神奈川津久井でキリギリスを「キーッチョ」

などというとある。

また「左利き」を「左ギッチョ」というのもこのあたりから来ているのではないかともいう。

まあ、私もこのブログで以前 イソップ童話の「アリとキリギリス」は 昔は「セミとアリ」のはなしだったと書いたことがあります。
(⇒ こちら

もう一つ、イナゴやバッタのことを「ハッタギ」と呼ぶ地区が東北を中心にたくさんあります。

仙台、会津、岩手、秋田・・・・・・・・

今は大分いなくなりイナゴを捕まえて佃煮にして食べるなどという習慣もほとんど見られなくなりましたが、年配の方にはこのイナゴ採りを「ハッタギとり(東北方面)」などと言っていた事を懐かしむ人もおられるでしょう。

inago.jpg
(いなご)

秋田大館市の扇田地区に伝わる盆踊り(扇田盆踊り)は、地元では「ハッタギ踊り」といいます。
これは踊る姿がとびはねるバッタやイナゴに似ているからだと言いわれています。
この扇田(おおぎだ)地区は戊辰戦争の激戦地(慶応4年の大館城攻城戦)でもありました。

この【ハッタギ】という言葉がどこから出てきた言葉なのか、今の日本の言語学でも良くわかっていないようです。

【patta パッと跳ねる】 ⇒ バッタ
【patta パッと跳ねる】+【ki 虫】 ⇒ ハッタギ


となります。

アイヌ語やこの縄文語を理解しないとこれらの言葉の解明は難しいと思います。

決して、都から伝播したものとも思われません。
奈良や京都などが都とになったより、もっとずっと前からこれらの言葉は使われていたのだと思います。

またアイヌ語であったとしても、アイヌから伝わったのではなく、昔の縄文人が使っていたものが、今ではアイヌ語にはかなり伝承されて、本土内などでは一部だけが残っているものでしょう。

これからは、テレビなどの影響で地方の方言は益々消えていくと思われます。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/11 06:04

日本語と縄文語(11) 鮎(アユ)

鮎(あゆ)と言う魚はかなり古くから食べられていたようです。

しかし漢字の「鮎」は中国では「なまず」のことだといいます。

日本でも漢字に現すと実にさまざまな字が使われています。

アユ : 
 鮎 ・中国語ではナマズ(粘りつく魚)の事。日本でアユの字に使われ始めた。
    ・日本では、神功皇后が筑紫・玉島の里の小河にて、アユを釣って、征韓の戦いの占いをした事(古事記記載)に由来し、鮎の字を使い始めた。
    (初めて使われたのが確認できるのは835年の類聚三代格という書物に地名として「鮎河」がある。)
 香魚 ・シャンユー 中国語でアユのこと、キュウリのような香りがする。
 年魚 ・一年魚のため。古事記(712年)にも日本書紀にもこの漢字が使われている。
 阿喩 ・日本書紀(720年)
 阿由 ・正倉院文書(721年)
 国栖魚 ・奈良県吉野山では国栖(くず)人がアユを天皇に献上した事に由来。(下記の能の演目「国栖」参照)
 細鱗魚 ・古事記に記載の神功皇后がアユを釣って占いをしたときにはこの鱗が細かい魚との表現が使われている。
 その他、王魚、安由、黄頬魚、銀口魚、氷魚、渓鰮魚 などさまざまな漢字がある。

ayu.jpg


そして言い方には「アユ」以外にいろいろな地方の呼び名があります。
関東地方・・・アイ
九州・・・アイのイオ
他にアイノユ、アイノヨ、アイノウオ、アイノイボ、アイナゴ、アイオ、エノヲ、エアノユ、エヤー、などとも呼ぶことから、この言葉の語源はアイヌ語でいう【ay アイ 矢】ではないかというのがほぼ定説になっています。
その他、各種辞書などにはいろいろな語源説が書かれてもいますが・・・・

【ay アイ】 ⇒ これは矢のことであり、トゲやイラクサなどにも使います。 ay ⇒ ya なんて文字をひっくり返しただけなので、いまの日本語の矢もこのアイヌ語由来なのでしょう。
しかし、かなり古くから使われているので、アイヌ語というよりは「縄文語」と言っていいでしょう。

アユという魚は矢のようにすばやく泳ぎまわるのでそのように呼ばれたものと思われます

「古事記」(712年)ではすでにアユ(年魚)と呼ばれていた様で、古くから鮎は天皇への献上品として使われていました。
今でも各地で皇居への「(天然)献上鮎」としている地域がいくつかあります。

また、能楽の演目に「国栖(くず)」と言うものがあります。(奈良県吉野山)

あらすじを能楽辞典より転載します。
「壬申の乱で大友皇子の襲撃を逃れて、天武天皇は供の者と奈良の吉野山へと分け入った。
そこで、川舟に乗る老夫婦と出会う。
夫婦は天皇を匿い、根芹と国栖魚(鮎)を献上します。
老人が天皇の食べ残した魚を川に放つと、不思議にも魚は生き返りました。
そこへ敵が迫りますが、夫婦は天皇を舟の下に隠し、敵を欺き追い返します。
夜になると天女が現れ舞を舞い、蔵王権現も出現して、御代の将来を祝福したのでした。」

さて、この国栖(くず)というのは大和民族が日本列島に進出してきたときに、昔からいた(土着していた)民族の呼び名です。
この能の演目は、実際にあった話から始まっていると思われます。
山の中で暮らしていた国栖(くず)が実際に朝廷にアユを献上していた? 
そのために、奈良県吉野ではアユのことを国栖魚と呼んでいるといいます。

また、日本書紀には
『 289年応神天皇が吉野に行幸されたとき、国栖人は酒を献上し、 歌舞を奏して歓迎した。
 その地は京より東南で、山を隔てて吉野川のほとりにある。
 峰は高く谷深く道は険しい。
人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の食物としている 』
とあり、
この 天皇に奉納された歌舞は、手で口を打って音を出しながら歌の拍子をとり
上を向いて笑う独特の舞いで、のちに「国栖奏」(くずそう)とよばれたといいます。


その他、関連する縄文ごと思われる言葉を幾つか紹介します。

アワビ : 【ay トゲ】+【pe あるもの】=【aype アワビ】
エビ : 【aype ⇒ aibe ehi エヒ】 
  平安時代に辞書である「和名抄」で、エビ(鰕)、エイ(鱏)はともに「衣比(エヒ)」
アヤメ :aype の p が m に変化して ayame アヤメ・・・葉の先が尖っているため
  和名抄ではおしべ・めしべがちょっとでるだけで花弁のない菖蒲をアヤメ、アヤメグサ(阿夜女久佐)と言った。



各地でトゲのある植物や虫などに「イラ」とつくものが多い。
イラ : 鹿児島でトゲ、大分・種子島でウロコ、静岡・志摩・壱岐・鹿児島でクラゲ、その他各地で毛虫、ダニなど
エラ : 魚の鰓(えら)
イガ : 栗のとげ
など
イライラ、チクチクなどもこのような言葉から派生した言葉と見る事ができる。

アイヌ語で【iri チクッとする】、【iriri チクチクする】であり、この頭の「i」は「われらを」という意味となる。

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/12 13:46

日本語と縄文語(12) 動物、鮭

 今回は、動物の名前を少し探っていきます。

サル(猿) : 【sara 地があらわれている + o 尻】 ⇒ 【saro 猿】 ⇒saru
  このsaraは日本語でも「サラけだす」というように使う。 尻が真っ赤なのが猿と言う事か?

saru2.jpg


イヌ(犬) : 【inun 漁のために水辺にいる + pe もの】が 【inume 犬メ】と変化したのか?

キツネ(狐) : 【ket 獣皮を干す枠 + ne である、になる + i もの】 か?
  アイヌ語では【chirinnup キツネ : chi われわれが + ronnu どっさりと狩猟する p もの】

ウサギ(兎) : アイヌ語で 【osike : asi 後を追う ke する】
  昔の東国地方の方言で「ヲサギ」「オサギ」とも言うので、オとウが転じたか?

シカ(鹿) : 【si 本当の + ipe 食べ物  siipe】
  一般に鹿(エゾシカ)はアイヌ語で【yuk ユク】というが、これは熊やタヌキなど食料として大切な動物全般に使われていた言葉。

カモシカ : 【kama カマ 岩】 + シカ(上記) 山羊(カマシシ) ?

ネコ(猫) : アイヌ語で【chape チャーとなく pe もの】
  青森・秋田・山形・・・チャペ、チャッペ
  千葉・・・チャンベ
  などという。  
まあ、おしゃべりな者をチャベ、ヤンチャ娘をチャンピー、おチャッピなどという地域があり、茨城のごヂャッペッパなどもこのあたりからの言葉か? チョッカイなどもネコに由来する言葉とも考えられる。)茨城県猫島にある小字名に「猫手=チョッケ」がある

オオカミ(狼) : 【wosekamuy = wo うおー se という kamuy 神】
  このように擬音の言葉との組み合わせには・・・
   をめく : 【wo+ mek 吠える】
   わめく : 【wa + mek 吠える】
   うめく : 【u + mek 吠える】

さて、まだまだあるが少し休憩に「サケ」と「スケ(介)」について・・・・

常陸国風土記に助川の地名由来として
「助川の駅家(うまや)あり、河に鮭を取るが為に、改めて助川と名づく。 俗(くにひと)の語(ことば)に、鮭の祖(おや)を謂ひて須介(すけ)と為す。」とある。

鮭の祖を「スケ」というと書かれている。
新潟では次のような昔話が伝わっている。

参考:鮭の大助(オオスケ) Wikipediaより

「その昔、信濃川近くにある大長者がいた。ある年の霜月(11月)15日。いつも川で漁をするはずの漁師たちが揃って仕事を休んでいることを不思議に思ったが、その日は鮭の大介・小介がのぼってくる日と気づいた。

日が経つにつれ、長者はたかが魚ごときになぜ漁を休まむのかと腹が立ってきた。そこで翌年のその日が近づいた頃、漁師たちに漁を行って大介・小介を捕えるよう告げた。漁師たちはみな川の王の祟りを恐れたが、長者が権力にものをいわせて脅すので、渋々承知した。

そして霜月15日。長者は大介・小介が捕まるところを見てやろうと上機嫌で川に出た。漁師たちが網を放ったが、なぜか大介・小介どころか、小魚すら網にかかることはない。長者は漁師たちにハッパをかけるが、魚は1匹も捕まらない。

やがて漁師たちは、長者より川の王の祟りを恐れて皆、引き上げてしまった。川辺には長者1人が残され、既に時は真夜中になってしまった。

気がつくと、目の前に銀髪を輝かせた1人の老婆がいて、長者に言った。

「今日はご苦労であった」

それを見た長者は次第に気が遠くなっていった。何かを言い返そうとしたが、既に言葉にならない。老婆が川へと歩いていくと、川辺に激しい水音がした。そして声が響いた。

「鮭の大介・小介、今のぼる」

大介・小介を先頭にして、月光の照らす中を鮭の群れが川をさかのぼって行った。

長者はすでに息絶えていた。」

アイヌ語では 【sipe サケ(鮭) : si 本当の、大きな、親の + ipe 食べ物、魚】 ⇒ シケ スケ ⇒ サケ・シャケ か?

suke.jpg
(マスのスケ)

北海道の知床や羅臼で採れるキングサーモンは「すけ」「ますのすけ」などと呼ばれ、脂がのって幻のキングサーモンなどと珍味とされている。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/13 05:49

日本語と縄文語(13) 月日など

 太陽や月は縄文人はどのように見ていたのだろうか?

アイヌ語で太陽を検索すると
 【tokapcup】 と出てくる。 【tokap = 昼の 明るいうちの】+【cup (chup) = 月】
である。
このchup(cup)は丸いものを指す言葉で、多くは月を指すが、太陽にもまたお腹(特に妊婦の)も指す言葉で使われる。
一方昼を表わす【tokap】は語尾に+ci で地名の十勝になる。
また【tokapmokor】で「昼寝をする」 となる。
一方夜は【kunne】といい、特定できる夜(何夜など)場合には【ancikar ( ancikari )】といった。単に【an】でも夜を意味した。

縄文人たちは恐らく 夜の月と昼間の太陽とを同じように見ていたと思われる。
そうすると「日」を「ニチ、ヒ、カ」などといういい方はどのようにして生まれたのだろう。

jyoumongo.jpg


鈴木健(たけし)さんの本には、次のように書いてある。

「縄文人は抽象的な概念や観念的な思考には縁がなかった。 円くアル(ナル)という抽象も具体で表現しなければ理解が困難であった。 円くあるもの ~太陽、円く(丸く)なるもの ~月、妊婦の腹。それらを 【chup 腹、日、月】といった。」
そして、縄文語から日本語になったとしたときの「月・日」の解釈に苦心のあとが読み取れる。

1)「月(ツキ)は【chup 月 ⇒ tuki (月)】に変化したと考え、
2)太陽は【her 光 ⇒ hi (日)】となった。
 【her ⇒ hiru 昼、hirameku 閃く、kira キラ 輝き、hikari 光】なども語の変化で発生した と見ている。

また、日にちを表わす「日」についてはアイヌ語の【ko 日】をあげ、 ここから 日読み(コヨミ) となり、日も「カ」「ケ」などの読みが生れたと解釈している。

もう少しアイヌ語で調べてみよう。

【ko】・・・ererko: (~で)三日    
     inererko: 四日
     rerko: 三日(三日間) <レレコと発音>
     tutko: 二日(二日間)
【to】・・・hampak to: 何日
     ineto: 四日
     iwanto: 六日
     kesto: 毎日
     reto: 三日(三日間)
     sineto: 1日
と、【ko】のほかに【~to】がある。この「to」は昼間を表わす語なので、いくつ昼間があるかという意味で使われている。
最初に出てきた『tocap」と同義である。

ここで面白いのが、ヤマトタケルの火焚き翁との問答(新治・筑波を過ぎて・・・)である。

鈴木健さんが、私たちの発行している「ふるさと風」の機関紙に2010年8月に投稿いただいた記事を、別紙で載せました。
(載せるのは少しためらいましたが、私たちの機関紙への投稿ですので、載せても問題ないでしょう)

  ふるさと”風” 機関紙 2010年8月、9月号 記事より  ⇒ こちら

また、この記事に対する茨城の歴史学者として名高い志田諄一 博士よりのご意見、またそれに対するふるさと風の会の主査で脚本家であった白井啓治氏の意見も合わせてここに掲載した。

三者三様で大変見事な主張がなされている。
この意見の違いはそれぞれの立場や、それぞれが違った分野での知識・経験からくるもので、このような意見が交わされたことは私たちの「ふるさと風の会」をこれからも守っていかねばならないとの意を強くするものだ。

志田諄一先生はこの文を掲載した翌年(2011年)末に82歳で亡くなられ、白井啓治先生も昨年(2019年)半ばに亡くなられた。
とても残念な事です。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/14 11:12

日本語と縄文語(14) 海(アトイ)と沼(トー)や岩

アイヌ語で海は【atuy アトイ】であり、沼や湖、沼は【to トー】という。

【atuy】 = 【a われわれの tu 古い、元の i 所】
・・・ 海を眺め、昔の故郷が海の向こうにあると感じた呼び名か?

万葉集 巻二 220 (讃岐國 狭岑(さみね)の島の石室の中に 死せる流刑囚を見て柿本朝臣人麻呂が作った歌) の中に
  跡位浪立(とゐ波立ち : とゐなみたち)
  邊見者(辺見れば : へみれば)
  白浪散動(白波騒く : しらなみさわく)
と出てくる。
意味とすれば、「沖に大波がうねり 岸辺に白波さわぐ 」という意味と解釈されている。
ただ、この「跡位」は「とゐ」と読ませているが「アトイ 海」のことだ。 そのため読みも「あとい(ゐ)」でよいという。

【atuy ⇒ atuwi アトヰ ⇒ 跡位】となったものだが、後からは意味が取れなくなっていたらしい。

「定本万葉集(佐々木信綱 武田祐吉)」には「古くはアトヰナミタチと読んでゐたものである」となっていたが、「アトヰ」の意味が不明のため「「トヰ とゐ」と読ませたものが今も使われてしまっている。

日本語の「うみ 海」ははっきりしないが 『oho 大』+『mi 水』 であろう。
沖縄の方言で 大きいは「うふ uhu」という これがoho に変わり 大(おほ)となったものではないか?
甑(こしき)島の方言で海をオーミといっており、これは「大きい水」からやはりきている呼び名に違いない。

また、福岡を中心とした古代海人族に『安曇(あづみ)族』がいるが、彼らは日本海の糸魚川より姫川を遡って信州の安曇野(あづみの)にも移り住んだ事で知られている.

この安曇(あづみ)もこの「アトー atuy 海」から派生した言葉ではないかという。
<日本語に「tu」の発音がなく、アツミ(atsumi)やアト(ato)に変化した?>

さて、もう一つアイヌ語で沼や湖を指す【to トー】も昔は海を指す言葉だったと考えられるという。
海辺で生活していた人々(縄文人)が野山に入っていって生活をするようになり、沼や湖を 海と同じく【to トー】というようになった。
沖縄では大海原を【ウフ(大) トー(海)】と呼んでいる。
海を意味すると思われる地名は
土佐 : 【to 海 + sa 浜】
富賀(とか)浜(三宅島) : 【to 海 + ka 岸】
利根川 : 【to 沼 + ne になる、のようである】
戸畑(福岡) : 【to 海の + pa ふちの + ta ところ】
能登(のと) : 【noto 良い、おだやかな + to 海】

沖縄で沖合いや海上を意味する言葉に「となか」があり、古事記には「となかのいくり」の表現がある。
『いくり ikuri】 は海中にある岩や石の事を指す。

また、アイヌ語で
 【suma スマ = 石、岩】 であるので【suma ⇒ sima 島 】?
  昔の人(縄文人)は海に突き出した岩を島といっていたと思われる。

 兵庫県明石市の須磨浦は源氏物語などに出てくるほどの白砂青松のきれいな海岸といわれていますが、すぐその山側にはダイナミックな岩場が連続して入り組んだ地形となっています。

umanose.jpg
(須磨アルプス 馬の背)

須磨観光協会のHPによれば、「須磨の語源は、畿内の平地の「すみ」というところから、「すみ」がなまって「すま」になったととか、諏訪(すわ)神社の「すわ」がなまって「すま」になったなどの説もあります。」となっています。

しかし、これが今のアイヌ語の【suma 岩、石】で理解出来るのですから、やはり古代の縄文語からできた言葉でしょう。

今ではこの岩場と海岸の岩礁との狭い地域にたくさんの住宅がびっしりと建っています。

また には別なアイヌ語もあり、
【sirar(岩、大きな石)、 cis(岩)、so(平岩)】の他に、【iwa いわ】がある。
この【iwa】は「岩、岩山、丘、岡、山地」などの意味で、【iwak (野良)仕事から戻る】などに使うので、仕事をする場所が山のほうにあったということだろう。これが今の日本語にそのまま伝わったものか?

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/15 11:34

日本語と縄文語(15) 峠

 この日本語と縄文語シリーズも新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が4月末から延長になった時から始めた。
毎日書き続けて昨日で2週間。
そして、ようやく宣言が解除となったのだからそろそろ終えても良いころかもしれない。

ステイホームといっても、定年後はいつも似たような生活をしているのだからそれほど変わらない。
しかし、それでもやはり気持ちが解放されないのは徐々に辛くなる。

解除とはなったがしばらくは用心しながら生活せざるを得ないだろう。うっかり油断はやはり禁物だろう。

昨日街中を車で通ったが、解除になった途端、いつも人のいない街中にもカメラを携えた観光客らしき人がチラホラ・・・・

ご夫婦で看板建築などを見物? まだ少し怖い気もする・・・

ただ、このシリーズももう少し続けたいと思う。
私の目的は、自分の理解と資料の整理で、後からきっとやった思い出が蘇るはず。

今回は、私は縄文語というのを最初に意識するようになった言葉を取り上げたい。
それは『峠(とうげ)』についてである。

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(道祖神峠 石岡市-笠間市)

この『峠』という漢字は日本で作られた漢字で、山の上と下だから峠(とうげ)とすぐ分る。平安時代頃(1484年初見)に作られたものだそうだ。
そのほかに茨城県には多い名字の「圷(あくつ)」も読み【アクツ】があり、山の下の低地を指しているので、塙(はなわ)に対して、この「圷」の漢字が作られたようだ。
まあアクツについては柳田國男の「地名の研究」に詳しく書かれている。

さて、峠の方だが、古語辞典や語源辞典などには『峠』の語源については

「峠の語源は「手向け(たむけ)」で、旅行者が安全を祈って道祖神に手向けた場所の意味と言われている。」

とほぼ、どの辞典も共通である。

山の鞍部は向こう側に越すところで、その峠を越えると別な世界(地域)への思いを新たにして、道祖神などを祀り、手を合わせた。 それが語源だということも理解はできる。
しかし、「とうげ」という言葉は、この漢字「峠」が作られた平安時代よりずっと前からあるのではないかということだろう。

鈴木健氏の『日本語になった縄文語』によると、

【taor 低い所(ra低い+or所の転)】が言葉のもとではないかという。

峠のことを「タオ」という所・・・鳥取岩美・島根・広島・山口・徳島・高知・宮崎椎葉・熊本球磨・肥後菊地
    「ター」という所・・・愛知県来た信楽(鞍部)
    「タワ」という所・・・佐渡・三河・岡山・鳥取・島根・徳島祖谷
  など

また、栃木と茨城の県境(県道205号線)に「関ノ田和(たわ)峠」という峠がある。
ただし、現在は車でこの峠を通る事はなく、下に「茶の里トンネル」というトンネルが完成している。

さらに、出雲の古事記伝には「峠を凡て多和(たわ)と云う」と書かれている。

多くの場所で峠は「タワ」「タオ」などと呼ばれていることがわかる。
そして、この呼び名はかなり広範囲に広がっている。

撓む(タワム)や果実の実などがたくさん実って、枝が「タワワ」に実るなどというのも同じ言葉の語源と考えられる。

さらに、古語辞典に「【たをり】・・・山の鞍部、鹿や猪などの山越えの通路」がある。
このタヲリもタワと同じような意味で使われており、これが「通り」というように変わったのではないかと考えられるという。

私は以前にも茨城県北部の美和から大子へ抜ける山越えの峠に「タバッコ峠」という変わった名前があり、これも「タワ」が語源ではないかと書いたことがあります。
地元の美和村史などではタバコの栽培も多く、昔親鸞上人の孫の「如信」がこの峠を越えた時に「タバコを一服して休憩した」などという説を紹介していた。

まあ地名なども謂れがわからないとまあいろいろな説を並べるものだが、その解釈の一つにこの縄文語を加える事も忘れないで欲しい。きっと目からウロコの名前も見つかるのではないだろうか?

ただ、この「タワ」「タオ」などがアイヌ語と考えられるかというとそうとは限らない
アイヌ語で「峠」を引くと【rucis】とある。 【ru 道、ちょっとした + cis 泣く】などと分解してみても解釈は分かれそうだ。
また、tao や tawa などを探してみてもそれらしき言葉は見つからない。

鈴木健さんの本では 【ra 低い or 所】から転じて【taor】となり、【tao】などに変化したという。
この語の変化については、いろいろな言葉の変換を研究されています。

私にはこの変化は良くわからないが、 撓む(タワム) や たわわに実る などと、いうイメージと、山の鞍部である峠のイメージがよく一致していることです。

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(献上柿の里 石岡市真家地区)

「手向ける」が語源だとすると「撓む」などの言葉はどこから発生したのでしょうか。

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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/16 11:05

日本語と縄文語(16) 東西南北、右左

縄文人たちは東西南北という方向表現はあまり発達していなかったようだ。
これは東西に長い日本列島で、その住む場所により方角が変わってくることによるのかもしれない。

アイヌ語では 東は【chupka】という 【chup 月、太陽 + ka 上】であり「日の出る方向」であろう。
(chupはcupという表現のアイヌ語辞典もある。 また、 Chupka(Cupka)は北海道の東にあるので千島列島の固有名詞でもある。
この千島列島は昔、アイヌ民族の土地であった。)

 前に書いたが 昼間に円く光るものが太陽であり、夜、円く空にあるのが月である。
 (chupはcupという表現のアイヌ語辞典もある)

hinode.jpg


一方 西は【chuppok (cuppok,cupok) = chup 太陽+ pok 下】 で、「日の沈む方向」となる。

これは沖縄(琉球)の言葉も同じで、『沖縄民俗辞典』『(渡邊 欣雄、吉川弘文館、2008年)によれば
  東は「アガリ」、 西は「イリ」で太陽の出と入りで表されたという
  (古くは「アガルヘ」「アガルイ」「イリヘ」「イルイ」と方向を指す「ヘ」や「イ」がついた(沖縄古語大辞典:角川書店))

一方南北表現はアイヌ語、琉球語共にあいまいで、

matnaw 北  matnawrera 北風
pitaka 南   pitakarera 南風

と風の方向的な表現が使われていて、はっきりと方角を指す表現が見つからない。

琉球語では
 北 : ニシ
 南 : ペー、フェー、ハヘ、ハイ
などといい、やはり風の方向性と関係しているようだ。

説明では
1)ニシ、ペー(フェー)は風の名称と同じであり、季節風の動きによって方位名が形成された
 ハイ(南)は西南日本に広く南風の風位語である
2)北をニシというのは「イニシ(去にし)が語源(説)
などとあるが、こちらもはっきりしない。

今では沖縄では北はニシといったというのが一般的な解釈になっている。
これは日本語の「西」が沖縄では「北」を指していると解釈されている。

ここで、鈴木健さんの日本語になった縄文語を見てみる。

まず「南北」については説明されていない。

東(ヒガシ)の語源はアイヌ語から【chupka 東】または【chupkasi 東】の言葉より
 【chup 日、月】⇒【tuki】 となり『月』となった。
 また、【her 光】⇒【hir ⇒hi】 で『日』となったとすれば、
 【chupkasi ⇒ higa+si 】 で『東』となったのではないかという。

また沖縄では東恩納:ヒジャウンナ、比嘉:ヒジャ、比謝:ヒジャと言っており、東をヒジャ といっていることから
【沖縄 ヒジャイ 左】から『左 ヒダリ』という言葉が生れたのではないかと推察しています。

琉球(沖縄)で、東を「あがり」と言っているが、これも【a われら+ka の上 + ri 高くなる +i もの】ではないかとも言う。

一方「西 にし」の語源だが、
【niusi 森】(ni 木 us ~が群生している i 所)から西 ニシ になったと推察している。

そうすると琉球(沖縄)で北を「ニシ」といっているのは、那覇周辺で考えると首里城の北側に大きな森や木が群生しており、これを「ニシ」と表現したものかもしれない。
「栖」という漢字も鳥の棲みかの意味からきており、西の方向に木の多い棲みかがあったことを示している。

沖縄・九州では「原」を「バル」と読む地名がたくさんあるが、首里城の北に「西原」があり、この西は北の琉球方言で、原は「ハラ」で「ニシハラ」と読ませている。しかしこの地名はけしって新しい言葉ではなく、古くから呼ばれていた地名です。

この「原」については明日にでも検証してみたいと思います。

さて、左(ヒダリ)については「ヒガシ」の語源説から説明していますが、右(ミギ)についても「ニシ」の語源説から説明されています。右を呼ぶ呼び名も各地の方言でさまざまあります。
・ニジリ・・・沖縄首里
・ニギリ・・・岩手九戸、秋田、山形、愛知海部、長野ニシ筑摩、石川
・ミギリ・・・奥羽、千葉印旛、中部、近畿、奄美大島
これらの語の変化が起こっていることを考えれば「niusi 森、林」が「ニシ(西)」へ変化し、「ミギ(右)」に変化したことも容易に想像できるという。

このことから推察すると、東海岸にすむ人たちが 東は海から太陽がのぼり、西に森はあり、日が沈み、鳥のねぐらがある方向と考えていたころの言葉が人々が移動しても同じように使っているのかもしれない。

東(アズマ)については 【atuy 海 + pa 頭、、先、かみて】が語源ではないかという。列島の太平洋岸で日の出る方向は、東にあり、そこにある土地(国)を「アヅマ」と呼び、東国での竪穴住居を四阿(アズマヤ)と呼んだのではないかと言う。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/17 11:12

日本語と縄文語(17) 原、開く(開墾)

九州や沖縄の地名には原を「バル」「ハル」と読む地名がたくさん存在している。
では、全国の郵便番号簿から「原」を「バル」と読む地名を検索してみよう。

・福岡県北九州市・・・中原(ナカバル)、黒原(クロバル)、道原(ドウバル)、夕原(ユウバル)
・福岡県福岡市・・・・下原(シモバル)、塩原(シオバル)、桧原(ヒバル)、屋形原(ヤカタバル)、北原(キタバル)、女原(ミョウバル)
・福岡県その他・・・大牟田市平原(ヒラバル)、久留米市城島町六町原ロクチョウバル)など38箇所
・佐賀県佐賀市・・・中原(ナカバル)、鎌原(カマバル)、藤原(フジバル)、八反原(はったばる)
、田原町・佐賀県その他・・・唐津市中原(ナカバル)など 14箇所
・長崎市佐世保市・・・上原(ウワバル)町、小佐々町田原(タバル)、平原(ヒラバル)、世知原(セチバル)町、田原(タバル)町、吉井町下原(シモバル)、田原(タバル)
・長崎市その他・・・長崎市小江原(コエバル)など11箇所
・熊本県・・・熊本市東区西原(ニシバル)など31箇所
・大分県・・・大分市机張原(キチョウバル)、大分市久原(クバル)など42箇所
・宮崎県・・・宮崎市糸原(イトバル)、柏原(カシワバル)など20箇所
・鹿児島県・・・桜島赤生原(アコウバル)町、鹿児島市紫原(ムラサキバル)など17箇所
・沖縄県・・・那覇市宇栄原(ウエバル)、那覇市首里桃原(トウバル)町、南風原(ハエバル)町など28箇所

また「ハル」と読む地名もほとんどが九州に存在し、北九州市八幡区の上の原(ウエノハル)、福岡市東区唐原(トウノハル)を始め、福岡県28箇所、佐賀県4箇所、長崎県5箇所、熊本県11箇所、大分県24箇所があった。
しかし、宮崎県は高原(タカハル)町1箇所、鹿児島県もいちき串木野市大原(オオハル)町の1箇所のみであった。
沖縄にはなかった。

これを見ると、原を「バル」「ハル」と読むところは沖縄のみならず、九州にも数多く存在し、本州にはほとんどなかった。

また「原」を普通に「ハラ」と読む地名も九州・沖縄にはたくさん存在していて、この区別にどのような意味があるのかは良く判断が出来なかった。

沖縄県の(中頭郡)西原(ニシハラ)町に焦点を当ててみたい。
地図を見ると那覇市首里城から見て東北方向にある。
市のHPやWikipediaによると、この名前のいわれとして

「沖縄方言でニシは「北」を意味する言葉であり、西原とは琉球王国の中心であった首里の北に位置することに由来する。
西原間切(ニシハラマギリ)と呼ばれていたときには、現在の那覇市泊、天久、末吉、石嶺も当間切に含まれており、かなり広い範囲を占めていたが、後に那覇市に編入され、1920年にはほぼ現在のような領域となった。 」と書かれています。

どの説明も「ニシ」=「北」であると説明されていますが、地図を見ても首里城から東北方面(但し昔の間切区分時は泊地区なども含まれていたというので北ともいえる)であり、前回書いた通り、北ではなくやはり、森や山のある方向を意味したのではないだろうか。
地形図を見ても首里城から北方面は平野が広がっており、この現在の西原(にしはら)方面には山(森)があります。

地名の「西原(ニシハラ)」はかなり古い言葉で、新しく付けられた名前ではありません。

従って、沖縄や九州では「原」を「バル」「ハラ」を使い分けているように感じてなりません。
同じ意味ではないとするとその違いはどこにあるのでしょうか?

kiri.jpg


アイヌ語(縄文語)から探ってみましょう。

  【para 広い・・・川下の低い場所 扇状地、沖積平野】⇒ 原(ハラ)

  【haru 自然からの食べ物の恵み、豊漁猟】⇒ 原(ハル、バル)、畑(ハタケ)

この2つの違いで意味が違っているのではないかと考える。

「原(ハラ)っぱ」は今の本州の文字通り広い場所を意味し、
「原(バル)」は【haru kamuy】を「恵みの神」というように穀物など収穫の取れる場所を意味したのだろう。

このことからも、沖縄では畑のことを「ハル」「バル」といい、広い広場などを「ハラ」と表現していたのではないかと思う。
まあ、これはあくまでも想像でしかないが・・・。

「新治」を「ニイハリ」と読む場所と「ニイハル」などと読む場所も日本列島の各地に混在している。
これもこの「ハラ」と「ハル」と似たような感覚の違いがあったのかもしれない。

paraパラ については ヒラ(平)、ヒロ(広)などに変化したと考えられ、
【para-ke-i 広く あらしめる 所】⇒【haraki ハラキ、バラキ  開墾する】 となったと推察される。

日本書紀に「開、此れを波羅企(ハラキ、バラキ)と云う」と出てくる。

茨城の県名についても「バラキであり、開墾する意味があったのだろうといえる。
石岡市に「茨城台」と書いて、「バラキダイ」と読む地名がある。
ここは昔、国分寺より古い「茨城廃寺(バラキハイジ)」があった場所でもある。

これ以上は書くつもりもないが、【ibaraki:イバラキ は 広く有らしめたところ=開拓地】を意味していた。
もっとも、茨城の名前は、石岡で始まったものではなく、涸沼川の上流の笠間市小原辺りが発祥だろうから、その昔はこのオバラ周辺が茨城で開拓地であったものと考えられる。


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/18 07:21

日本語と縄文語(18) ホラ吹き、ボロもうけ

 現在普通に使われている「ホラ吹き」や「ボロもうけ」などの言葉はどこから来たのでしょうか?
そんな事は知っていると言うかもしれませんね。

語源辞典などに載っている解釈を見てみましょう。

【ホラ吹き】

1) 法螺貝は、山伏が山中での連絡や獣除けに用いたり、軍陣が進退の合図に使用されたもので、見た目以上に大きな音が出る。 そこから、予想外に大儲けをすることを「ほら」と言うようになり、さらに大袈裟なことを言うことを「法螺を吹く」と言い、そのような人を「ほら吹き」と呼ぶようになった。(語源由来辞典)

2) 「ほら」は法螺貝が名の由来である。もともと法螺貝には、山谷の地中に棲み、精気を得て海に入り、その際に山が崩れ洪水が起こるという俗信があった。ここから近世初期には「ほら」が意外な大儲けをするという意味で用いられ、さらに法螺貝を吹くということも加わって大げさな嘘をつくという意味で「法螺を吹く」「ほら吹き」という言い方がされる (wikipedia)

【ボロもうけ】

1) 「ぼろ」は、形容詞の「ぼろい」から来ており、程度のはなはだしい様を表します。
また、「ぼろい」は韓国語の「ポル」「ポリダ」=「(お金を)儲ける、という言葉から来ていると言われています。

2) ボロには「ぼ・る」(ぼったくり)の意味もあります。
「ぼる」は「暴利」を動詞化させた比較的新しい言葉。


上の説明が現在の辞典などに載っている解釈です。
しかし、この言葉を縄文語ではないかと考えるとどのようになるのでしょうか?

ホラとボロの言葉からアイヌ語を探してみましょう。
このホラもボロもどちらも【poro 大きい】が語源とみることができそうです。

A、【縄文語(アイヌ語) poro 大きい、多い】 ⇒ 【hora ホラ】:高知高岡でホラは非常にたくさんのという方言

ほら貝・・・ 大きな貝 & 貝の形状が洞(ホラ)穴のよう ⇒ 法螺貝(吹螺、梭尾螺)
「ホラ」にはこのように大きいという意味があった。

B、【縄文語(アイヌ語) poro 大きい、多い】 ⇒ 【bora ボロ】  大もうけ ⇒ ボロもうけ となった。

朝鮮語の「ポル」「ポリダ」=「(お金を)儲ける」ことで、この言葉が上の古来の大きいという【poro】と合体した事も考えられる。

しかし、アイヌ語にはこの「ぼろ儲け」などを意味する言葉は見つからない。
単に「儲ける」などと探してみても、【pirka】などと出てくるが、これは

 【e-pirka 良くなる・儲ける(もうける)・得をする】
 【kewtum-pirka 心が美しい】
 【ramu-pirka 満足する】
 【sir-pirka よい天気】
 【uko-oske-pirka 仲が良い】
などとして使う。
昔の縄文人やアイヌ人は喧嘩や争いごとなどなく、仲良く暮らしていたようです。
今の日本人の「自分だけ儲かればいい」などという意識はどこからやってきたのでしょうか?

さて、縄文語(アイヌ語)にはもう一つ地形語としてよく使われる似た言葉があります。

【poru 岩窟】 、 【pira ヒラ 崖】 、 【pake ハケ 崖】 です。

 【poru ⇒ hora ホラ(洞)】 でこちらは洞穴(ほらあな)です。
でもこれは更に変化して【kura 蔵、倉】となったとも考えられます。

秋田の冬の風物詩でもある「カマクラ」の語源は 
 【kamu かぶさる、覆う + poru 洞】⇒ カマクラ (籠もることをカマルという方言もある)
と考えられます。

また、「ボンボリ(雪洞)」も
 【pon 小さい + poru 洞】 ⇒ ボンボリ(雪洞)】
であろうといいます。 
カマクラを土産物用に小さく作られた形は 雪洞という漢字が示すように「ボンボリ」と言ってもいいのではないだろうか。

また地形の「崖(がけ)」を表わす縄文語由来と考えられる言葉には2種類あり、

1、【pira ピラ ヒラ】はアイヌ語で草や木の生えていない崖や坂を表わします。
 これから派生したものとして
ヒラ(傾斜地)・・・青森、岩手、山形、新潟、伊豆大島、三宅島、広島安芸、大分、鹿児島肝属、沖縄
比良山(ヒラヤマ・滋賀)・・・東側が急な断崖となっている
武見坂(ブミビラ)/旧:女陰見坂(ホーミビラ・沖縄)
 (この坂は急坂で下から上をのぼっていく人の女陰(ホー:アイヌ語で尻とか女陰)が見えるなどという名前であったが、変更された。)
古事記に出てくる「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」の比良(日本書紀は平)も崖(急坂)の意味だろう

gake.jpg


2、もう一つ各地にある古語として「ハケ」「ホケ」「バッケ」「ボッケ」などはいずれも崖地などに付けられており、古代縄文語ではないかと見られている。
 「ハケの道」・・・国分寺崖線下の崖沿いの道
 「ホケ」・・・長野下伊那
 「ホキ」・・・筑紫、大分、嵯峨藤津、長崎高来、鹿児島
 「バッケ」・・・茨城久慈、千葉印旛
 「ボッケ」・・・徳島(大歩危・小歩危)
さて、この崖の基となるアイヌ語を探ると

【pake パケ 頭、岬の頭】⇒ハケ、バッケ、ボッケ がある。

日本の地名の場所を見るとどうやら川や海・湖などで浸食された崖地であるようだ。
こちらの用語は「出崎の突端(頭)」や「岡が切れるところ」を指す崖である事が推察される。

もう少し追加すると、
アイヌ語で 【kut】 は「帯(おび)」を意味するが、これは岩肌が帯状に現われている崖・断崖(絶壁)を指した言葉という。
また「のど」のことも表わし、【kut ⇒ kuta ⇒ 管 に変化】
さらに「キダ 段」キザ 段」「ヒダ(しわ)」「コシ 腰」などの派生語になった?

「九段下」のクダンも崖下の意味か?


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/19 06:08

日本語と縄文語(19) 猿田彦とは何者か?

 日本神話(古事記や日本書紀)の天孫降臨に登場する「猿田彦(サルタヒコ)」は神楽やお祭りの先頭を行く天狗のような長い鼻をした姿で描かれています。

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このサルタヒコは神話では、ニニギの命が高天原(天上の神のいる国)から葦原中国(あしはらのなかつくに=日本の本土 高千穂)までを案内する者として登場します。(天孫降臨)

鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿で、見た目は天狗そっくり。

神話では葦原中国への案内を終えると、案内に同伴した?天宇受売命(あめのうずめ)と一緒に(結婚して?)生まれ故郷である伊勢国の五十鈴川(いすずがわ)上流の地へ帰ったのです。
しかし、今の松坂市の海で比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死にます。

天宇受売命(あめのうずめ)は天照大御神が天岩戸に隠れてしまったときに、岩戸の前でストリップダンスのような踊りをしたとして知られていますね。

このサルタ(猿田)ヒコの名前を縄文語で考えてみましょう。

1) 【sar 葦原】+【ta にある】 ⇒ 葦原中国にいる ⇒ 元々この地にいた縄文人の首長】

2) 【sa 前】+【ru 道】+【ta にある】⇒ これから行く道にいる ⇒ 先導する者

また、古語琉球語で 『サダル』=先立る=先導する があり、これがサルタに変化したとする説
   (沖縄学の父とされる民俗学者・伊波普猷(いはふゆう)氏の説)

(「サダル」は「先立る」から来た言葉か?)

こちらは 【sa 前】+【ta にある】+【ru 道】 ⇒ サダル ⇒ サルタ ということか?


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日本語と縄文語 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/05/20 06:29

日本語と縄文語(20) 油置売(あぶらおきめ)は山姥か?

常陸國風土記の新治郡の記述に

『郡家より東五十里のところに、笠間の村がある。 村へ通ふには葦穂山を越えねばならない。
古老の言うには、葦穂山には昔、山賊がいて、名前を油置売(あぶらおきめ)命という。
今は森の中の社の石屋の中に眠っている。

こんな俗謡もある。

 < 言痛(こちた)けば をはつせ山の 石城にも 率て篭もらなむ な恋ひそ我妹わぎも > 

 (もし二人の仲を人に知られて辛くなれば、小初瀬山の石室に、あなたを連れて行って一緒に籠もりましょう。だからそんなに恋焦がれないでおくれ、私の恋人よ。) 』

この小初瀬山は、葦穂山であり、筑波山から加波山への尾根の途中にある、現在の足尾山です。
この足尾山に奈良朝の初めころに石室(岩窟?)があり、言い伝えでは、そこに昔、油置売(あぶらおきめ)という山賊が籠もっていたといわれていたようです。そして当時この石室がまだ残っていたようです。

まあ、命(みこと)でもあり、歌にまでうたわれるくらいですから、当時(奈良時代初期)もまだこの石室の中に眠っているといわれていたのかもしれません。

表現は山賊となっていますので、いわゆる現地人(縄文人)の長で、名前からすれば年をとったお婆さんでしょうか?

常陸風土記では茨城郡の所に

『古老のいへらく、昔、国巣(くず)、俗の語に都知久母(つちくも、土蜘蛛)、又、夜都賀波岐(やつかはぎ)という山の佐伯、野の佐伯ありき。 山野の賊を率ゐて自ら長となり、国中を盗みや殺しをして廻ってゐた』

とあります。
佐伯(さえき)というのは大和朝廷に逆らう(サエギル)現地人たちを指しており、土蜘蛛などと表現して野蛮人という表わし方もしています。
確かに大陸からある程度進歩した技術や文化を持った人達から見れば、縄文人たちは野蛮に見えたことでしょう。

この名前を縄文語として見たらどのようになるでしょうか?

 油置売(あぶらおきめ)=【a われらの】+【poru 岩窟の】+【ok 奥の】+【mat 女】

まさに岩窟の奥にいる女となります。

もっとも『置(おき)』=『熾(おき)』で、火守(焚)の巫女的な族長の女(いわゆる縄文人)ではないかという説もあります。

しかし、この話しがこの頃もお話として伝わっていたのでしょうから、想像すると『山姥(やまんば)』の話しになっていっても不思議ではありません。

山の奥の小屋(室)に山姥が住んでいて、捕まったら食べられるとか、鬼と一緒に住んでいるとか・・・・

昔話には良く登場する「山姥」。
「三枚のお札」などが有名ですね。

私も小さな子供の頃、田舎(新潟)の祖母によく読んでもらいました。

日本の昔話に登場する山姥は怖いものから優しいものまでさまざまです。
そのお話のルーツは、「楢山節考」に書かれているような「姥捨て伝説」(飢餓で口減らしのために山に捨てられた老婆などの伝承)が姿を変えたものととも言われていますが、この昔土蜘蛛などといわれ、平地から追い出されて、山に住むようになった昔の原住民(縄文人)であったのかもしれません。

山姥の話を調べていたら面白い話が出ていた。(少し怖いが)

img_01.jpg

踵太郎(あくとたろう)と山姥(やまんば) 青森県 ⇒ こちら

かかと(踵)をこの東北地方の方言で「あくと」というそうだ。

アクト、アクツについては各地に地名として残っており、柳田國男も「地名の研究」で書いている。
しかし「かかと」をこのようによぶのは東北地方だけのようだ。

アイヌ語を探してみてもわからなかった。

あくと太郎 ⇒ 悪太郎 、 悪路王(アテルイ?)  何かゴロが似ているな。

この日本語と縄文語シリーズも連続20日続いた。
また話も横道にそれてきた??

まあ、横道にそれた方が面白と思うけど・・・・  どこまで続くのか ?

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日本語と縄文語 | コメント(3) | トラックバック(0) | 2020/05/21 06:13
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