マダラ鬼神祭(1)
今日桜川市の雨引観音で「マダラ鬼神祭」が行なわれました。
前から一度見て見たいと思っていたのですがようやく行ってきました。
朝11時からというので駐車場などの混雑を考慮して10時前に到着しました。
上の駐車場もまだ余裕があり正解でした。
帰り際に確認したら下の方までいっぱいになっていました。

薬医門からこの石段を上り、仁王門をくぐってその先の石段を登ってまず本殿にお参りしました。
昨年次女の安産祈願を家内がしてくれています。
来月が予定日なので安産を願ってきました。
たくさん子供連れも、生まれてすぐの赤ちゃんのお宮参りと思われる人たちもたくさん来ていました。
そして境内の桜などを楽しんでからこの石段脇に陣取って祭りの始まるのを待ちました。

11時をすぎた頃花火の合図で、鬼の面をかぶったマダラ神が白馬に載って一気にこの石段をかけのぼります。

この鬼の面は前があまり良く見えません。
馬の足元を確認できないのですが、馬がもう慣れたように登っていきます。

桜の花びらが降り注ぐ中を仁王門に向かいます。
この門をくぐると急な石の階段があります。
数十段の階段ですが、馬はここで途中で止まると危険なので下から一気に駆け上るのだそうです。

マダラ神の後は寺の僧侶が、ホラ貝を吹きならしながら登ってきました。

ホラ貝も難しいのでしょうが、いい音を響かせていました。

その後ろから5匹の鬼がたいまつをかざしてやってきます。

皆鬼の顔の色は違います。
祭りの謂れなどはまた後で書きます。

のぼり旗に描かれた絵も面白そうです。


のぼり旗の後ろから稚児行列が続きます。
この稚児や親たちも募集に応募した人たちのようです。




稚児たちの後ろを赤い傘をさした僧侶が登ります。

その後ろを駕籠を4人でかついで登っていきますが、中に大僧正が載っているかどうかはわかりません。
でも前を歩いている方がそうかもしれません。


一番最後に裃を着た檀家や関係者が登って行きました。


この楼門(仁王門)は綺麗ですね。

仁王門からその先に見えるピンクのしだれ桜がまぶしく輝いていました。
とてもきれいです。


明日は境内で行われた祭りの様子を紹介します。
マダラ神についても後で紹介したいと思います。
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
前から一度見て見たいと思っていたのですがようやく行ってきました。
朝11時からというので駐車場などの混雑を考慮して10時前に到着しました。
上の駐車場もまだ余裕があり正解でした。
帰り際に確認したら下の方までいっぱいになっていました。

薬医門からこの石段を上り、仁王門をくぐってその先の石段を登ってまず本殿にお参りしました。
昨年次女の安産祈願を家内がしてくれています。
来月が予定日なので安産を願ってきました。
たくさん子供連れも、生まれてすぐの赤ちゃんのお宮参りと思われる人たちもたくさん来ていました。
そして境内の桜などを楽しんでからこの石段脇に陣取って祭りの始まるのを待ちました。

11時をすぎた頃花火の合図で、鬼の面をかぶったマダラ神が白馬に載って一気にこの石段をかけのぼります。

この鬼の面は前があまり良く見えません。
馬の足元を確認できないのですが、馬がもう慣れたように登っていきます。

桜の花びらが降り注ぐ中を仁王門に向かいます。
この門をくぐると急な石の階段があります。
数十段の階段ですが、馬はここで途中で止まると危険なので下から一気に駆け上るのだそうです。

マダラ神の後は寺の僧侶が、ホラ貝を吹きならしながら登ってきました。

ホラ貝も難しいのでしょうが、いい音を響かせていました。

その後ろから5匹の鬼がたいまつをかざしてやってきます。

皆鬼の顔の色は違います。
祭りの謂れなどはまた後で書きます。

のぼり旗に描かれた絵も面白そうです。


のぼり旗の後ろから稚児行列が続きます。
この稚児や親たちも募集に応募した人たちのようです。




稚児たちの後ろを赤い傘をさした僧侶が登ります。

その後ろを駕籠を4人でかついで登っていきますが、中に大僧正が載っているかどうかはわかりません。
でも前を歩いている方がそうかもしれません。


一番最後に裃を着た檀家や関係者が登って行きました。


この楼門(仁王門)は綺麗ですね。

仁王門からその先に見えるピンクのしだれ桜がまぶしく輝いていました。
とてもきれいです。


明日は境内で行われた祭りの様子を紹介します。
マダラ神についても後で紹介したいと思います。
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
マダラ鬼神祭(2)
昨日の雨引観音のマダラ鬼神祭の続きです。
このマダラ鬼神祭の由来などは後から説明することとして、祭りとしてどのようなことをやっているかを見て見ましょう。
入口の薬医門から続く石段を鬼たちは登り、仁王門をくぐって急な石段をかけのぼって本殿に入ります。
この雨引観音は真中の多宝塔と本殿の間に入口があります。

祭りは多宝塔の前の境内空地に竹で組んだ竹矢来(たけやらい)で祭りが行なわれます。
後から行くとすでに人の山。

写真を撮るために前に割り込む人や用意した脚立を建てる人などいろいろです。
あまり出しゃばれないので人の後ろから邪魔な頭を避けて何とか撮りました。

開始の案内の後に祝詞が読み上げられ、僧侶が日本刀をかかげて修抜(しゅうばつ)=お祓いが行なわれました。

そののちに由緒などを含めた祝詞が読み上げられたようですがよく聞きとれませんでした。

正面の多宝塔の回廊にはこの日稚児行列に参加した子供たちと太鼓のたたく子供たちが並んでいます。

その後、たいまつを手に持ったマダラ鬼神と白装束の6人の鬼神(白、赤、緑・・・)が鬼踊りを披露します。

その中を僧侶が真中に積まれた焚き木に火をつけます。


火が勢いよく燃えてくると、鬼たちが手にした松明に点火して威勢の良い踊りを披露します。






一通り鬼踊りが終わると鬼たちが引き上げ、松明が消され、そののちに焚火の消火が行なわれます。
消火と整理に時間がかかるのでこの後は早めに下山することにしました。
この祭りはこの後鬼たちが背にしていた49本の破魔矢を天に向けて放ち、これを観客が取りあいます。
また餅がまかれます。
この破魔矢や餅を手に入れると御利益があるそうです。
さて、地元ではこの祭りを日本で二つしかない鬼の祭りだと言っていました。
もう一つは京都太秦にある広隆寺(半跏思惟像の弥勒菩薩が有名)で行なわれる祭りです。
時間が無いので明日にもう少しまとめて見たい。
今日はここ雨引山の祭りの起源とされる話だけを記載する。
時は室町時代、文明3年(1471)に上杉氏憲 (禅秀) が鎌倉方(足利勢)に対しておこした反乱に起因する。
上杉方の武将長尾景信により足利方の古河城が奪われる。
千葉まで逃れた足利勢が千葉氏などの仲間をひきつれて古河城を奪還、城を追われた長尾勢はこの雨引山に逃げ込んだ。
そして雨引山を囲んだ足利勢が麓から火を放ち、この楽法寺(雨引観音)は炎上してしまう。
本尊の薬師如来は自ら古木の陰に隠れて難を逃れたが、寺の堂宇は焼失してしまった。
しかし、その後どこからともなく、夜毎覆面をした職人が現れ、それを指揮した白馬に乗った鬼面をかぶった神がいた。
寺の本堂はわずか7日で再興され、この指揮をとっていたのがマダラ神であったという話が広まった。
この伝説が元になりこの祭りが始まったと伝えられる。
このマダラ神=摩多羅神というのはとても興味深いのだが、調べだすと奥がどんどん深くなる。
そして良くわからなくなる。
これをもう少し調べてみたい。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
このマダラ鬼神祭の由来などは後から説明することとして、祭りとしてどのようなことをやっているかを見て見ましょう。
入口の薬医門から続く石段を鬼たちは登り、仁王門をくぐって急な石段をかけのぼって本殿に入ります。
この雨引観音は真中の多宝塔と本殿の間に入口があります。

祭りは多宝塔の前の境内空地に竹で組んだ竹矢来(たけやらい)で祭りが行なわれます。
後から行くとすでに人の山。

写真を撮るために前に割り込む人や用意した脚立を建てる人などいろいろです。
あまり出しゃばれないので人の後ろから邪魔な頭を避けて何とか撮りました。

開始の案内の後に祝詞が読み上げられ、僧侶が日本刀をかかげて修抜(しゅうばつ)=お祓いが行なわれました。

そののちに由緒などを含めた祝詞が読み上げられたようですがよく聞きとれませんでした。

正面の多宝塔の回廊にはこの日稚児行列に参加した子供たちと太鼓のたたく子供たちが並んでいます。

その後、たいまつを手に持ったマダラ鬼神と白装束の6人の鬼神(白、赤、緑・・・)が鬼踊りを披露します。

その中を僧侶が真中に積まれた焚き木に火をつけます。


火が勢いよく燃えてくると、鬼たちが手にした松明に点火して威勢の良い踊りを披露します。






一通り鬼踊りが終わると鬼たちが引き上げ、松明が消され、そののちに焚火の消火が行なわれます。
消火と整理に時間がかかるのでこの後は早めに下山することにしました。
この祭りはこの後鬼たちが背にしていた49本の破魔矢を天に向けて放ち、これを観客が取りあいます。
また餅がまかれます。
この破魔矢や餅を手に入れると御利益があるそうです。
さて、地元ではこの祭りを日本で二つしかない鬼の祭りだと言っていました。
もう一つは京都太秦にある広隆寺(半跏思惟像の弥勒菩薩が有名)で行なわれる祭りです。
時間が無いので明日にもう少しまとめて見たい。
今日はここ雨引山の祭りの起源とされる話だけを記載する。
時は室町時代、文明3年(1471)に上杉氏憲 (禅秀) が鎌倉方(足利勢)に対しておこした反乱に起因する。
上杉方の武将長尾景信により足利方の古河城が奪われる。
千葉まで逃れた足利勢が千葉氏などの仲間をひきつれて古河城を奪還、城を追われた長尾勢はこの雨引山に逃げ込んだ。
そして雨引山を囲んだ足利勢が麓から火を放ち、この楽法寺(雨引観音)は炎上してしまう。
本尊の薬師如来は自ら古木の陰に隠れて難を逃れたが、寺の堂宇は焼失してしまった。
しかし、その後どこからともなく、夜毎覆面をした職人が現れ、それを指揮した白馬に乗った鬼面をかぶった神がいた。
寺の本堂はわずか7日で再興され、この指揮をとっていたのがマダラ神であったという話が広まった。
この伝説が元になりこの祭りが始まったと伝えられる。
このマダラ神=摩多羅神というのはとても興味深いのだが、調べだすと奥がどんどん深くなる。
そして良くわからなくなる。
これをもう少し調べてみたい。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
マダラ鬼神祭(3)
前からマダラ神(摩多羅神)が何故ここでは鬼の姿になったのかを考えていた。
しかしよくわからずに時間ばかりが過ぎていく。
まあもう少しこの問題はじっくり考えていこうと思う。
昼間仕事をしていたのでやはり調べたりするには時間の制約が多すぎる。
雨引観音にも時々行ってはいるが春の桜がこのように美しい時に来たのは初めてだ。
紫陽花も有名だし、秋の黄葉時期も美しい。
坂東33観音の24番札所だ。
25番は筑波山大御堂、26番が土浦市小町の里に近い清瀧寺で、27番はずっと離れて銚子の飯沼観音だ。
どこも美しい寺ばかりだ。
100観音巡り(西国33、坂東33、秩父34)などをされる方の気持ちもわかる気がする。

この石段周りは紫陽花の花が咲くとまた美しくなる。





向こうに見えるのは筑波山。


楼門(仁王門)の朱色と桜の花が同色系であっても意外にコントラクトが効いている。


鬼踊りに使われる前の松明。



鐘楼堂と桜

本堂(観音堂)と桜

仁王門としだれ桜

桜と筑波山。
今日は桜の写真で終わってしまいました。
もう少し書きたいことがあるのですが書こうとしてもまとまりません。
明日にでも時間があれば少しだけ書いておきたいと思います。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
しかしよくわからずに時間ばかりが過ぎていく。
まあもう少しこの問題はじっくり考えていこうと思う。
昼間仕事をしていたのでやはり調べたりするには時間の制約が多すぎる。
雨引観音にも時々行ってはいるが春の桜がこのように美しい時に来たのは初めてだ。
紫陽花も有名だし、秋の黄葉時期も美しい。
坂東33観音の24番札所だ。
25番は筑波山大御堂、26番が土浦市小町の里に近い清瀧寺で、27番はずっと離れて銚子の飯沼観音だ。
どこも美しい寺ばかりだ。
100観音巡り(西国33、坂東33、秩父34)などをされる方の気持ちもわかる気がする。

この石段周りは紫陽花の花が咲くとまた美しくなる。





向こうに見えるのは筑波山。


楼門(仁王門)の朱色と桜の花が同色系であっても意外にコントラクトが効いている。


鬼踊りに使われる前の松明。



鐘楼堂と桜

本堂(観音堂)と桜

仁王門としだれ桜

桜と筑波山。
今日は桜の写真で終わってしまいました。
もう少し書きたいことがあるのですが書こうとしてもまとまりません。
明日にでも時間があれば少しだけ書いておきたいと思います。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(4)へ
マダラ鬼神祭(4)
私がマダラ神(摩多羅神)のことを知ったのは、2年前に島根県安来の清水寺常行堂に秘仏として納められていた摩多羅神座像が公開された時だった。
それがリンク先のブログ記事で知った。
そして公開された摩多羅神座像は無断で写真を転載できないので朝日新聞デジタルの写真を参照してほしい(こちら)
そしてこの少し薄笑いを浮かべたような不思議な像は秘仏としてどこもが公開していないという。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。
この摩多羅神に興味をもったので次のような本を買った。

この本の表紙に不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
これは丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」の二童子だとされ、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに、
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
さて、桜川市雨引観音のマダラ鬼神祭では、日本で2か所だけの鬼祭りだと聞いた。
しかし、このブログへの投稿で国東半島にも鬼の祭りはあるというので、正確には摩多羅神の祭りとして鬼に関する祭りとしては日本で2か所だけだということなのかも知れない。
もう一か所は京都太秦(うずまさ)にある広隆寺だという。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
この半跏思惟像は言わずとも良く知れた素晴らしい仏像でもっとも古いものの一つとされている。
この広隆寺で10月12日に不定期で行なわれている「牛祭り」がこの摩多羅神のまつりで、正式には広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして行なわれてきたそうだ。

(出典:日文研データベース http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/gyouji/gyouji_86.html)
この上の写真はお借りしたもので実際の祭りは夜行なわれておりあまり写真もない。
しかし牛祭りの名前のごとく摩多羅神は馬ではなく牛に乗って表れる。
祭りの起源も平安時代に遡るようなので牛が移動手段に使われていた時代である。
そして自らは鬼の面ではなく摩多羅神の面(紙)をかぶり鬼を従えている。
この摩多羅神は変わった祭文(国家安穏・五穀豊穣・悪病退散)を独特の調子で述べ、参拝者はそれに向かって野次を飛ばす。
読み終わると摩多羅神は四天王とともに薬師堂内に逃げ込むが、群集が追いかけてその面を取り上げるという。
面を取りあげることで厄祓いがなされると解釈されたという。(現在も行なわれているかは不明)
1790年にこの牛祭りを描いた絵がある。

『都名所図会』(1790年)より「太秦牛祭図絵」
またYouTubeで探してみると1982年に撮影された貴重なスライドがUPされていた。
最近は牛の調達が困難になり祭りもあまり行われていないようだ。
さて、この広隆寺は京都に都ができる前からあるといわれる古寺で、秦河勝が創建したという。
この秦氏は渡来人集団といわれ、朝鮮半島を経由してインド近くから日本にやってきたといわれる。
また秦の始皇帝の子孫であるとして秦(しん=はた)とよばれた。
当時の中国などとも往来して数々の技術なども日本にもたらした。
特に機織り技術は特筆したもので、各地に「秦」という字のついた地名がたくさん残された。
広隆寺のある太秦(うずまさ)は特にこの河勝が住んだと伝わっている。神奈川県の秦野市なども昔には秦氏が住んだとも伝えられている。
茨城でも前に養蚕・織物を調べていて常陸太田市の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」ではこの秦氏との関係が気になった(記事→こちら)
さて、このブログも常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)を何箇所か見たが後戸の神である摩多羅神は見たことがなく、その存在もはっきりしない。
一つは行方市西蓮寺の常行堂だが、ここでは毎年9月に常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行こなわれる。
(前に書いた記事を参照 → こちら)
またもう一つは、小美玉市の円妙寺にある常行堂だ(記事は → こちら)
また、いくつかの神社には伊勢神宮などから伝わったとされる神楽が奉納されているところがある。
この中で翁(おきな)の舞いが田楽や申楽と関係が深いと考えています。

(石岡市柿岡八幡宮太々神楽(じゃかもこじゃん)の翁の舞)
例えば、この「じゃかもこじゃん」と呼ばれる祭りには、翁の舞いがありますが、これが宿神(しゅくじん、じゃくじん)などと呼ばれることからこのような呼び名になったものと推論をしています。
また土浦の鷲神社で行われていた祭りも「じゃかもこじゃん」と言われており、これは踊りではなく串に刺したおでんを味噌をつけて食べるんだという
おでんのもとになったのが「でんがく」=田楽であったことに由来するからじゃかもこじゃんは田楽のことを指すのだと考えてよさそうです。
しかし、この祭りも今年から中止(2月)になってしまったそうです。
とても残念です。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
それがリンク先のブログ記事で知った。
そして公開された摩多羅神座像は無断で写真を転載できないので朝日新聞デジタルの写真を参照してほしい(こちら)
そしてこの少し薄笑いを浮かべたような不思議な像は秘仏としてどこもが公開していないという。
摩多羅神についてWikipediaから少し転載させていただこう。
「摩多羅神(またらじんは、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる」
「天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた」
と書かれている。
後戸の神というのは本尊の裏でこっそりとそれを支えているような神様で、これは隠されて見えないようになっている。
この摩多羅神に興味をもったので次のような本を買った。

この本の表紙に不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子の絵がある。
これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵である。
これは丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」の二童子だとされ、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるという。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったといわれている。
世阿弥の「風姿花伝」に能の歴史が第四のところに、
「 一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。 ・・・・・・・。 」
と書かれている。
さて、桜川市雨引観音のマダラ鬼神祭では、日本で2か所だけの鬼祭りだと聞いた。
しかし、このブログへの投稿で国東半島にも鬼の祭りはあるというので、正確には摩多羅神の祭りとして鬼に関する祭りとしては日本で2か所だけだということなのかも知れない。
もう一か所は京都太秦(うずまさ)にある広隆寺だという。
広隆寺は秦河勝が聖徳太子から賜った半跏思惟像の弥勒菩薩を本尊として建立した寺だと伝わっている。
この半跏思惟像は言わずとも良く知れた素晴らしい仏像でもっとも古いものの一つとされている。
この広隆寺で10月12日に不定期で行なわれている「牛祭り」がこの摩多羅神のまつりで、正式には広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして行なわれてきたそうだ。

(出典:日文研データベース http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/gyouji/gyouji_86.html)
この上の写真はお借りしたもので実際の祭りは夜行なわれておりあまり写真もない。
しかし牛祭りの名前のごとく摩多羅神は馬ではなく牛に乗って表れる。
祭りの起源も平安時代に遡るようなので牛が移動手段に使われていた時代である。
そして自らは鬼の面ではなく摩多羅神の面(紙)をかぶり鬼を従えている。
この摩多羅神は変わった祭文(国家安穏・五穀豊穣・悪病退散)を独特の調子で述べ、参拝者はそれに向かって野次を飛ばす。
読み終わると摩多羅神は四天王とともに薬師堂内に逃げ込むが、群集が追いかけてその面を取り上げるという。
面を取りあげることで厄祓いがなされると解釈されたという。(現在も行なわれているかは不明)
1790年にこの牛祭りを描いた絵がある。

『都名所図会』(1790年)より「太秦牛祭図絵」
またYouTubeで探してみると1982年に撮影された貴重なスライドがUPされていた。
最近は牛の調達が困難になり祭りもあまり行われていないようだ。
さて、この広隆寺は京都に都ができる前からあるといわれる古寺で、秦河勝が創建したという。
この秦氏は渡来人集団といわれ、朝鮮半島を経由してインド近くから日本にやってきたといわれる。
また秦の始皇帝の子孫であるとして秦(しん=はた)とよばれた。
当時の中国などとも往来して数々の技術なども日本にもたらした。
特に機織り技術は特筆したもので、各地に「秦」という字のついた地名がたくさん残された。
広隆寺のある太秦(うずまさ)は特にこの河勝が住んだと伝わっている。神奈川県の秦野市なども昔には秦氏が住んだとも伝えられている。
茨城でも前に養蚕・織物を調べていて常陸太田市の長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」ではこの秦氏との関係が気になった(記事→こちら)
さて、このブログも常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)を何箇所か見たが後戸の神である摩多羅神は見たことがなく、その存在もはっきりしない。
一つは行方市西蓮寺の常行堂だが、ここでは毎年9月に常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行こなわれる。
(前に書いた記事を参照 → こちら)
またもう一つは、小美玉市の円妙寺にある常行堂だ(記事は → こちら)
また、いくつかの神社には伊勢神宮などから伝わったとされる神楽が奉納されているところがある。
この中で翁(おきな)の舞いが田楽や申楽と関係が深いと考えています。

(石岡市柿岡八幡宮太々神楽(じゃかもこじゃん)の翁の舞)
例えば、この「じゃかもこじゃん」と呼ばれる祭りには、翁の舞いがありますが、これが宿神(しゅくじん、じゃくじん)などと呼ばれることからこのような呼び名になったものと推論をしています。
また土浦の鷲神社で行われていた祭りも「じゃかもこじゃん」と言われており、これは踊りではなく串に刺したおでんを味噌をつけて食べるんだという
おでんのもとになったのが「でんがく」=田楽であったことに由来するからじゃかもこじゃんは田楽のことを指すのだと考えてよさそうです。
しかし、この祭りも今年から中止(2月)になってしまったそうです。
とても残念です。
マダラ鬼神祭(1)へ
マダラ鬼神祭(2)へ
マダラ鬼神祭(3)へ
| HOME |