天狗の話 - 猿田彦

 さお今年も3日目、地域・歴史ネタのスタートです。

最初は「天狗の話」から数回にわたって知っていることを紹介します。

今日は天狗の姿の原型と言われている「猿田彦」のお話です。

猿田彦は日本書紀などの神話に出てくる神様で、神が高天原に降り立つ時に、下りる場所から葦原中国(あしはらのなかつくに)までの道案内の神として登場します。
神が降りたのは宮崎県高千穂、そして葦原中国は出雲あたりを指すと思われていますが、神話ですから諸説あり、神の国から日本の本土への道案内との解釈もあるようです。

今日は天狗の話ですから、この神話はさておいて、猿田彦命の姿が、天狗そっくりなのです。

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上の写真は石岡のお祭りの祭礼に出てくる行列の先頭を行く猿田彦です。
まさに天狗ですね。
もっとも、お祭りの時はこの前に「富田のささら」という変わった三匹の獅子が露払いをします。

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上の写真は「染谷十二座神楽」に登場する猿田彦です。これも神楽の最初に登場します。

神話に出てくる猿田彦は「鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のようだ」とあります。
「咫(あた)」は長さの単位で、直径1尺の円周の長さを4咫としたという。
1咫≒0.8尺という。
中国後漢時代の1尺は約23cmほどだというので、背の高さは約161cm、鼻長は129cmとばかに鼻が長い。
もっとも長いことを誇張したものと思われるし、目にいたっては八咫鏡というので直径が50cm近い円になってしまう。
もっともこの八咫というのは単に大きいというように使われているそうで、大きさをまともに考えてもしょうがない。

私も、少し興味を持ってこの猿田彦を調べてみた。
そうすると、面白いことが判ってきた。何事も知らないことが多いですね。

それは、猿田彦が天照大神の命により地上に降り立った神(邇邇芸尊)の道案内を終えると、天宇受売命(あめのうずめ)が猿田彦の生まれ故郷である伊勢国の五十鈴川の川上について行くのです。
そして名前を「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになるのですが、どうもこの女性の姿がエロっぽく書かれてもおり、二人は結婚したと考えられています。

猿田彦は伊勢の海でおぼれ死んでしまいますが、日本の神話は単純なようでわかりにくいですね。

さて、猿田彦はこのように伊勢より南側の行動しかないのですが、ここ常陸にも祀られたところが多く存在します。またこのようにお祭りなどで登場します。

石岡の大覚寺の少し先を羽黒の方に進んだところに桜川市「猿田」という地名があります。
下の写真はそこの小学校です。
全校生徒54人です。1学年10人前後しか生徒がいません。きっとのびのびと育っているのでしょうね。

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猿田と言う地名は実は銚子にもあります。
銚子にも時々出かけていますが通る時に見かけてやはり気になりました。

もっとも、私の娘にいわせれば「こんな名前の小学校ではかわいそう」とも言っていました。
何時の間に猿が嫌われてしまったのでしょうか?

猿田彦は道案内の神であるので「道祖神」として考えられたり江戸時代の庚申講との関係もいわれてきています。

ところで、常陸には「猿田」さんという名字が多いそうです。常陸大宮周辺に多いと聞きます。

昔の名前などを考えるときに漢字から考えるとわからないことが良くあります。
発音などを調べてみるのも良いのかもしれません。
「去る」「佐瑠」「佐太」「戯人」や琉球語?縄文語?などとの関連も面白そうですね。

どちらにしろ、私には詳しくはわかりません。
知っているのは猿田彦が天狗の顔のようだということだけです。

ではまた続きは明日へ。
 
 

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/03 16:39

天狗の話 - 長楽寺の天狗

 さて、今日は天狗の話の第2話です。
石岡市龍明というところにある「長楽寺」という寺にまつわるお話です。
もともと龍明という地名ではなく「狢内(むじなうち)」という地名でした。
名前のように昔は狢がたくさん住んでいるといわれたような場所ではなかったかと思います。

この寺を有名にしたのは映画やテレビのロケ地として売り込まれたためです。
御覧のように、まわりに電線や電柱などがありません。時代劇の撮影にはもってこいですね。

映画「座頭市」やNHKテレビ「篤姫」の撮影にも使われました。

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この場所に最初に行った時は、道が判らないであきらめ、二度目は入り口がわからず、前を素通り。
今は少し入口の道路を整備していますが、最初の方には判りずらいところです。

私のHPにも場所を書いていますので参考にしていただければと思います。

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どうですか、すてきな感じでしょ?

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この寺の歴史などはゆっくり調べることにして、今日のテーマは天狗です。
この長楽寺の住職が天狗になった話なのです。

昔、筑波山、加波山、難台山、愛宕山などに、多くの天狗が住み、修業を行なっていました。
ある時、この長楽寺には年とった母が一緒に暮らしており、この母の願いである「津島の祇園」を見たいというので親孝行の長楽寺は岩間山(今の愛宕山)の天狗にお願いして、毎日天狗の修業をしてとうとう天狗になることができたのです。

詳しくはこちらのお話を読んでください。

ここでは詳しくは書けませんが、興味もわきましたか?

面白いと思ったのは私だけかもしれませんが、まあお付き合いください。

この長楽寺の庭にはたくさんの石碑が置かれています。

一つ一つ見ていくと面白いものもあります。

諸国をまわったという六部などの碑もあります。六部については数日中にまた紹介します。

天狗の腰掛石などというのもあるといいますが、どれだか?

今度行ったらもう少しじっくり見てみたいと思います。

どうしても、映画やテレビなどのシーンが浮かんできてしまいそれ以上に思考が進みません。

岩間(愛宕)山の天狗の話はまた明日にします。
 

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/05 18:52

天狗の話 - 愛宕山の天狗

 天狗の話も3回目です。
今日は岩間にある愛宕山の十三天狗の話です。

この山は昔は岩間山と呼ばれ、場所も常磐線の岩間駅にも近い場所ですが、石岡市とは隣接しており山の反対側は石岡市の真家地区になります。

この山を私はずっと桜の名所としてしか見てきませんでした。
少し遅めに満開を迎え、下から上にある神社に向かって桜並木が続きます。
上の神社の少し手前まで車で登れ、そこからの眺めがとても素晴らしいところです。

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しかし、ここは十三天狗が修業していた所としても有名なのです。
今は笠間市になっていますが、現地に行っても「あたご天狗の森」などと名前を付けてPRしています。

何故、ここを紹介するかと言うと、昨日話した映画撮影などに使われている「長楽寺」の天狗になった和尚が、ここにいた十二天狗の仲間に加わって、十三番目の天狗になったと伝えられているのです。

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愛宕神社は徳一法師が創建されたという古く謂れのある神社で、防火の神をお祀りしている珍しい神社で消防団の方などがよくお参りされているようですが、是非いかれた時はその裏手にある「飯綱神社」へ行ってください。

この飯綱神社の本尊はその裏に回ると見られますが、六角形をした金属製の塔で「六角殿」と言います。
この六角殿はまた六角形の石の上に建てられ、この石は手足などをかたどった亀だといいます。
この六角殿を背後から守って取り囲むように十三の祠が置かれています。
これが十三天狗の祠です。

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さて、長楽寺は寺の名前ですが、天狗の仲間となった時に、この天狗は長楽寺と呼ばれていました。
そして、最後に加わったので、面白い言い伝えが残っています。

人が集まる席に誰か一人が来ていないと「長楽寺はまだ来ていないのか?」「来るまで待とう」などと言うようになったそうです。

さて、最後に、毎年12月にこの天狗の祠にまつわる「悪態祭り」という変わった祭りがあります。
悪態を言い合うとても変わったお祭りだというのですが、まだいったことはありません。
こんど機会があったら行ってみたいと思います。
 

天狗の話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2011/01/06 18:12

天狗の話 - 天狗小僧寅吉

 今日も天狗の話の続きです。
昨日書いた愛宕山(旧岩間山)の十三天狗の話は、江戸時代後期の国学者「平田篤胤」が書いた「仙境異聞」によるものだ。
これによると、当時、江戸の町で天狗にさらわれてまた戻ってきたという寅吉という少年が評判となった。
そこで、この平田先生が、自宅に連れてきたりして、この寅吉の語った内容をそのまま書いたという形式の書物である。

平田篤胤は本居宣長の後を引き継ぐ学者として有名な人で、けして作り話を書くような人ではないのだが・・。

当時、平田篤胤は、神や異界の存在、さらには死後の世界に大きな興味をいだいていたといいます。

天狗に連れられて天狗の世界を見てきた寅吉の話を要約すると、

・最初に連れてこられたのは獅子ガ鼻岩という岩が突き出ていることで知られる南台丈という山であったが、いつの間にか岩間山になっていた。

・岩間山には十三天狗がいて、その首領の「杉山僧正(そうしょう)」が寅吉の師匠である。

・岩間山には最初十二天狗であったが、途中で長楽寺が加わって十三天狗になった。

・人間から天狗になったのは長楽寺だけで、その他は鳥や獣などが形を変えたのだという。

・長楽寺はその十三天狗の首領となった。

となっています。そうすると、長楽寺は杉山僧正と同一とも受け取れます。
しかし、笠間市のHPや愛宕山に記載されている表現は違っています。
最初に杉山僧正を首領とする十二の天狗がいた。そこに長楽寺が加わって十三の天狗になった。

どちらが本当でもよいのですが、平田篤胤は山神として天狗の存在を真面目に信じ、研究をしています。
そして、その姿を絵師に書かせ、宝物にしています。

この神の姿はあまり今の天狗のイメージとは違います。
学研の「神仙道の本」表紙などに使われています。

この絵にも下の方に白鹿が描かれています。

また寅吉が、最初に降り立った山「南台丈」は、南北朝時代に合戦が行われた悲劇の山「難台山」のことですね。
天狗の鼻のように突き出した岩(獅子ガ鼻岩)があります。
 

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/07 18:50

天狗の話-烏天狗

さて、天狗の話の5回目です。今回はカラス天狗の話です。

長楽寺の和尚が天狗になった時、その他の十二天狗は鳥や獣が修業して天狗となったと書かれていますが、天狗は大きな羽根を背中から広げて空を飛ぶとされていました。

そして、天狗の姿を現した中に口がとがったカラス天狗の話があります。
物語にも良く出てきます。
鞍馬山で牛若丸の剣術の修業をしたのはこの烏天狗だというものです。

カラスが天狗になったというものと思いますが、どうも各地に伝わる河童伝説にもこの烏天狗が関係しているようなのが興味をひきます。

大昔、インドあたりから伝わった時には天狗は流れ星のことを指したと書かれているのを読んだことがあります。
それが何時の間にか、カラスなどと人間が合体したような天狗が現れ、その後、猿田彦のような鼻の長い天狗が出現します。

東京の西端に位置する高尾山は天狗の伝説でも知られたところです。
私も子供の頃から中学生ころまで良く登りました。
ケーブルで登って向こう側の相模湖側へ下るハイキングコースなどは吊り橋などもあり楽しんだものです。

最近は外人にも人気があるといわれています。

この山の上に高尾山薬王院がありますが、ここに天狗の像があります。
右が鼻の高い大天狗、左が烏天狗の小天狗の像だといいます。

どうも烏天狗は鼻の長い天狗の子分のようですね。

そして大天狗は団扇を持ち、小天狗は剣をかかげています。
どのようないわれがあるのでしょうか。
天狗が団扇を振ると大風が吹いたり、雷が鳴るのでしょうか。

自然現象も山の神・天狗や鬼の仕業であるというおとぎ話は沢山ありますね。

山には龍神が祀られ、雨などを祈願したりもしたのでしょう。

天狗の話ではありませんが、最初に書いた「猿田彦」と共に故郷伊勢に連れて帰った「猿女君(さるめのきみ)」こと、天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、太陽神をあらわす天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸に隠れてしまい、この世が真っ暗になった時に、この岩戸の前で踊って桶を打ち鳴らし、岩戸を少し開けさせるのに成功したとされる神です。

この話は、子供の時に読んだ昔話に出てきましたが、この踊りの姿は、私が昔読んだ内容とは大分違うようです。

宇受(うずめ)は「かんざし」のことで、この神は、今の巫女をさし、踊りは神楽であるというような表現がされています。

しかし、古事記などの表現では胸を露わにしたトップレスで、腰の紐を下まで下ろした姿で踊っています。

このような姿の踊りを連想すると、ブラジルの「リオのカーニバル」のサンバやエジプトナイル川の船の上で踊られている「ベリーダンス」などを思い浮かべてしまいます。

どう見ても、今の優雅な巫女踊りからは想像ができませんね。

この「天宇受売命」が「おかめ」面のモデルのようです。

話題がそれますが、この「おかめ」(天宇受売命)と天狗(猿田彦)は夫婦になったと解釈されています。

これは、どうも違う民族の男と女が融合することを意味しているとも解釈されているようです。

アダムとイブの話とはまた少し違うようですね。
  

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/08 16:52

天狗の話 - 大杉神社

 土浦の方から125号線で銚子の方に向かうと、途中の美浦村を過ぎ、稲敷市に入る。
そこに「阿波」という地名がある。
読み方は「アワ」ではなく「アバ」である。
この阿波に「大杉神社」という神社がある。通称「あんばさま」と言うそうだ。
古そうだがカラフルな中国風の派手な色彩の神社である。
社殿の彫刻などがかなりこっている。
この大杉神社は名前の通り御神木が大杉なのだが、美浦のトレセン(競馬)の守り神ともいわれ、騎手など競馬関係者が良くお参りしているところだという。

なぜ、今回この神社を取り上げたかと言うと、この神社の祭神が天狗だと言うのだ。
この地の地名が稲敷市阿波(あば)という。
どうみても徳島阿波の関係を思ってしまうのだが、そこが良くわからない。
神社のHPも派手だ。
この大杉神社が関東から東北地方にある大杉神社の総本山だそうだ。

その歴史については、上記神社のHPを見ていただければ良いと思うのだが、とても興味深い記事が書かれていたので少しかいつまんで紹介しましょう。
1)大杉神社の場所が昔の今の霞ケ浦がまだ内海(香取の海)であった時に、その海に突き出した半島で、島のような形をしていたので、『常陸風土記』には安婆嶋と呼称された。
2)この一帯にはかつて菟上之国という小国があった。菟上国は海運で成立した小国であった。この時に神社の大杉は「あんばさま」と呼ばれ、信仰の対象でもあり、交通の目印の役割を果たしていた。
3)その後、北方の仲国から南下してきた一族が鹿嶋、香取の両神社を築き、東岸域を支配したため、交易権や、支配権が移ったが、一般民衆の間では海河守護の神様として信仰が続いた。
4)大杉大明神として御神木の大杉があるが、これが天狗の木と解釈されているようである。鳥居の左右に天狗の石像がおかれており、鼻長の大天狗ともう一つはあきらかに烏(からす)天狗である。
天狗の言われは、この寺にいた常陸坊海存(海尊)と言う僧が、数々の奇跡をおこして信仰を集めたが、ある時(1189年)すがたをくらませてしまった。
この海存の姿かたちが天狗のような風体であったらしく、この僧を天狗として祀ったのが始まりという。

しかし、常陸坊海尊は弁慶と同じく、源義経の部下と言われる伝説の人物で、数百年も生きていたという不死身伝説も伝わるなぞの人物である。こんな所にも伝説があるのかと驚いてしまう。

埼玉県の川越に近いふじみ野市にも舟運の守り神の神社として大杉神社があるそうだが、祭神の使いとしての天狗が祀られているという。

 それにしても解らない事だらけである。
この神社は、「夢むすび」の神社だといっている。またそれは日本では唯一だそうだ。
夢は縁結びでも、宝くじでも、競馬でも、受験でもなんでも良いらしい。

でもどうして阿波(あば)なのか?
もし四国阿波(あわ)に関係がなければ、昔この地にいたと思う縄文人の言葉かもしれない。

鈴木健さんの書かれた「日本語になった縄文語」によると、母のことをさす言葉に「アボ」「アバ」「アッバ」などと沖縄・青森・新潟・鹿児島などに残されているという。
しかし、この言葉の元は「乳首」のことだといいます。乳児が最初に発音する「パアパパ」などがその更に元になっているようです。
そうすると、この場所が昔半島でつながっていたが、島のように見えたと書かれていますので、どこか乳首を連想させた景観であったのかもしれません。
「アバ」「アンバ」の元が乳首や母のことを指していたとすれば面白いですね。

霞ケ浦周囲には縄文時代の貝塚がたくさんあります。縄文人が何千年も生活していたのです。
美浦村の陸平(おかだいら)貝塚はその保全に村が一体になって活動しています。

また、縄文語の本を見ていたら天狗の話の最初に書いた「猿田彦」の「サルタ」は琉球語の「サダル」がサルタに転じた語で、意味は「先導」だというようなことが書かれていました。
縄文語(アイヌ語)では「サ:前」「タ:にある」というので「佐多岬などがこの言葉に合致しているといいます。
「猿田」さんや「猿田」小学校など、漢字で猿と書くのでわからなくなってしまうのかもしれませんね。
 
結構奥が深そうです。
 

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/01/15 17:26

天狗の話 - 常陸坊海尊

 今日は大分暖かかったですね。今晩雨の予報だが、今は少し曇った空には真ん丸の月がボーと街を照らしている。

 今年早々に天狗の話題を数回にわたってこのブログに書いてきました。
そして、その最後に稲敷市阿波にある「大杉神社」を取り上げたのですが、そこにある天狗のモデルはこの寺に昔いた「常陸坊海尊(存)」だというので、この人物を調べて見たら結構面白いことがわかってきました。

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阿波(あば)神社の派手さに比べるとその隣接する安穏寺(天台宗)は華やかさはなくひっそりとしています。私が訪れた日も大杉神社は大勢の人が訪れていましたが、寺の方はひっそりでした。

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上の写真の右側の色彩豊かな彫刻が施されたところが大杉神社です。正面の奥に見える杉が大杉神社の御神木の大杉です。

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安穏寺の入口階段左側に「安穏寺」の石柱があり、右側には「常陸坊海存」の石柱が建てられています。

この安穏寺は大杉神社の守護するために延暦24年(805年)開基され、明治になるまで大杉神社は安穏寺が管理していたといいます。
さて、入口の常陸坊海存というのは、武蔵坊弁慶と同様に源義経の郎党と言われる謎に満ちた人物で、数々の伝説が伝わっている人物です。
義経が奥羽平泉で追手と僅かな兵で戦っていた時、仲間の十一人の者が戦に加わらず近くの山寺に行っていたと伝わっており、この中の一人がこの常陸坊海存であり、名前が記録されているただ一人の人物である。他の者は名前も伝わっていないが、海存一人がどういう訳か後世に名前が伝わり400年も生きていたとかの伝説まで生まれてしまったのである。

義経の逃避行で案内役をしているようなのだが詳細が全く不明で、肝心な時には何時もどこかに身を隠してしまうという。
そういうところがこのような伝説を生むのかもしれない。
特に会津の実相寺の禅僧に残夢(ざんむ)という人物がいて、源平合戦の話をまるでそこにいた人のように鮮明に話したため、この人物が海存ではないかと言われるようになったというのだ。これに伴って江戸時代の1500年半ばまで生きていたかのようなうわさが広がったともいわれています。
なにしろ天狗ならこれくらい長生きしてもおかしくないと当時思われていたのかもしれません。

さて、この大杉神社、安穏寺に伝わる話はこうだ。(大杉神社HPより)

「文治年間にはその容貌が巨体、紫髭、碧眼、鼻高であった常陸坊海存(海尊)が大杉大明神の御神徳によって、数々の奇跡を示したことから、海存は大杉大明神の眷属で、天狗であるとの信仰へと発展いたしました。当初は烏天狗を御眷属としておりましたが、後に陰陽一対として鼻高天狗、烏天狗の両天狗を御眷属とすることとなりました。現在ではいかなる願いも叶えて下さったと伝えられる海存の奇跡に由来して、大杉神社を日本で唯一の「夢むすび大明神」と称し、鼻高天狗は「ねがい天狗」、烏天狗は「かない天狗」と呼ばれるようになりました。」

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形相を真似て作ったら天狗の形相になったというもので、大杉神社の入り口にも二つの天狗の像がありました。向かって左側が鼻高天狗、右側には烏天狗です。

 さて、この海存を調べると何かもっと面白いこともわかってくるのですが、時間もないのでまたの機会に譲ることにしましょう。

さらに、この大杉神社のHPには
「時代は下って、江戸時代初頭には当時江戸崎不動院(稲敷市江戸崎)にあった天海に雨をもたらす奇跡を与えた神社として知られ、以降天海は安穏寺の住職となり大杉大明神に仕えました。このため安穏寺および大杉神社は天海が住職を務める、上野寛永寺や日光輪王寺の直兼帯となり、明治になるまで輪王寺宮の兼帯するところとなりました。」
と書かれています。

徳川家康が江戸の町造りや、家康の墓所を日光に選定するのに絶大な力を発揮したといわれる「天海」という僧侶が出てくるのです。
この地も江戸時代になり利根川の流れを家康の命令で銚子の方に変えたためにいろいろと影響があったものと考えます。
私は歴史の教科書やこのような資料に書かれていることを全部信用することもありませんが、このような事実または風聞などが生まれるには、そこに隠れた当時の人々の考え方や生活があるのでとても興味がありますね。

さて「海存」伝説を石岡と真壁の市境の山「足尾山」にも見ることができるので、それはまた明日にでも調べて書きたいと思います。
 

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/17 19:17

足尾山と常陸坊海存

 さて、大杉神社の常陸坊海存が天狗と考えられたのはその風貌からと言われていますが、この筑波山に連なる足尾山に伝わる海存の話を紐解くと何かが見えてきそうです。
足尾山は常陸風土記や万葉集などで「葦穂山」「安之保山」「小初瀬山(おはつせやま)」と記されています。

さて、万葉集が詠まれた頃の「新治郡」は常陸国の西部にあって、現在の桜川市、筑西市などの領域です。
この新治郡衙跡が筑西市古郡(ふるごおり)地内(協和台地)に発見され、昭和43年に国の史跡として登録されています。
この新治郡から常陸国国府(石岡)にいくにはこの足尾山(小初瀬山)(安之保山)を越えて(実際は上曽峠を越えて)行ったものと考えられます。自然にいろいろな伝説が生まれるべきものがあったのでしょう。

足尾山の山頂近くに足尾神社(石岡市小屋字足尾山)の拝殿があり、山頂に本殿の祠があります。
前に書いた通り足の病にご利益がある神社として信仰を深めていきますが、常陸風土記に出てくる「油置売命(あぶらおきめのみこと)」がこの山の石城(いわき)に眠っていたと伝えられます。
油置売命というのは眠れる森の女神なのか?誰が歌った歌なのか?不思議です。

「言痛(こちた)けば をはつせ山の 石城(いわき)にも 率(い)て篭もらなむ な恋ひそ我妹(わぎも)」

何故、このような歌を常陸風土記は紹介しているのでしょうか?
奥に隠されたものがありそうです。

山の峠を越えて行くのにはいろいろなことがあったのでしょう。女神であったのか山姥であったのか、それとも若い男が姿を消してしまったのか?
もちろんまだ大和朝廷に組みしない人々が山の中に住んでいたのかもしれません。

筑波山の男体、女体の山の隣りでそっぽを向いたように(葦穂のように)反り返っていた足尾山は数々の歌に詠まれていました。

醍醐天皇が足の病が治る霊験あらたかな神社として日本の国家を建てた柱の神「国常立尊」(くにとこたちのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)を祀り、信仰を集めるためにこの修験者のいる山を選んだのかもしれません。

さて、この山と「常陸坊海存」との関係ですが、文治年間(1185~1189)に常陸坊海尊(存)がこの足尾山に籠り、杉室に修行したという伝説が残されています。
現在も杉室に神窟があり、小さな祠が祀られています。この海存をこの山の修験者として「足尾権現」の流布・宣伝することで、北陸方面へ足尾信仰を広め天狗伝説も伝わっていったものと考えられるのではないでしょうか。

阿波大杉神社は別名「杉室神社」とも言われているそうです。

現在大杉神社の華麗な「麒麟門」が修理中です。3月末頃には新しくなるらしいのでその時に訪ねてみます。日光の「陽明門」を少し彷彿させるような彫刻が見ものとなりそうです。
 

天狗の話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2011/02/19 18:37

天狗と津島の祇園

 だいぶ前に天狗に関する話をいくつかシリーズでお話しました。(こちら

先日書いていた穢跡金剛尊堂のところで、茨城町下土師にある慈雲寺を調べていたら、ここの和尚が天狗和尚だという昔話を見つけました(こちら)。

これは先日書いたことですが、この天狗の話と石岡市龍名(旧狢内)にある長樂寺の天狗の話がどうもダブってきて気になっています。

概略を書くと

長樂寺の天狗(詳細は私のHP→こちらを見てください)は愛宕山(旧岩間山)で修行していた13天狗の最後(13番目)に加わった天狗と言われています。

この長樂寺(寺の名前でもあり人の名前でもある)が、寺で老母と一緒に住んでいた。
ある日、この母が「遠くてとても行けるところではないけど、一度でいいから、日本一という津島の祇園を見てみたいものだ」といっているのを聞いて、この長楽寺は老母を目隠しをして背負うと夜明けには津島についていた。
この祇園が浜辺で海には何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと・・・・・
と出てくる。

もう一つの慈雲寺の和尚の方は、茨城いすゞの「いばらきの昔ばなし」に出てくるのだが、こちらは気ままな一人暮らしで、兄寺の旧小川町の天聖寺(12km位離れている)まで行ったと思ったらすぐに帰ってくるまるで天狗のようだと言われていました。

ある日、村の子どもを連れて、尾張国の津島の祇園祭を見物に行き、一晩で帰ってきたという。
子どもは背中におんぶして目を開けてはいけないと言われて目を開けたら向こうについていた。
というのです。

さて、長楽寺の方は地元の八郷町誌に載っている内容で、それぞれ津島の祇園祭りの説明がされている。
ほとんど同じ説明がされています。

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津島の祇園祭 祇園祭とは祇園会のことで京都の八坂神社の祭礼を指す。
現在、津島市には祇園祭と呼ばれる祭礼はない。
津島市を代表するお祭りに、「尾張津島天王祭」(津島神社の祭礼として500年の伝統を誇る夏祭りで日本三大川まつりのひとつ。
現在は7月第4土曜と翌日の日曜)と「尾張津島秋まつり」(こちらも300年近い歴史のあるお祭りで絢爛豪華な山車が練り歩く。
現在は10月の第1日曜と前日の土曜)がある。このいずれかにあたるのではないかと推測されるが、確かなことは不明。(茨城いすゞHP)
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と書かれている。

一般には確かに祇園祭は京都の八坂神社のお祭りだとされていますね。
私もそうだと信じていました。

しかし、調べてみるととても面白いことに気がつきました。

津島の祇園というのは、現在の愛知県の津島神社の祭礼のことで、この神社は江戸時代までは「津島牛頭天王社」と称しており、東海地方を中心にした全国に3000社あるという天王社の総本山だそうです。

この神社の成り立ちが実に面白いのです。石岡にも中町に天王社という神社が中心地にありました。
ここで江戸時代に祭礼がありやはり祇園祭です。

今の石岡の祭りを祇園祭というと「そんなことはない」という声がきっと聞こえてくるでしょうが、これは祇園祭または牛頭天王の天王祭り=祇園祭だと思っています。

この津島神社は当然スサノオノミコトを祀っているのですが、神社のWikipediaを見てみると面白いことが書かれていました。

抜粋します。

「社伝によれば、建速須佐之男命が朝鮮半島から日本に渡ったときに荒魂は出雲国に鎮まったが、和魂は孝霊天皇45年(紀元前245年)に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、欽明天皇元年(540年)旧暦6月1日、現在地近くに移り鎮まったと伝える。弘仁9年(810年)に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、正暦年間(990年~994年)には一条天皇より「天王社」の号を贈られたと伝えられる」

ここにはスサノオは朝鮮半島から渡ってきたとなっています。
年代はここに書かれているよりは後で新羅・百済・高句麗の三国時代でしょう。

スサノオは大国主の先祖ですから出雲や諏訪神社の基になりますね。
そうするとこれらの地方は朝鮮半島からやってきた人々が支配していた場所になるようです。

朝鮮半島から日本に渡ってくるときは「対馬」を通ります。
「対馬」→「津島」となっていったものと考えられますね。

津島神社の祇園祭は船がたくさん出てたいそう賑やかなものだったそうです。
歴史も500年以上続いていると言われています。

明治時代になって政府の指示(廃仏毀釈)で神社の名前もたくさん変わりました。

○「津島牛頭天王社」 → 「津島神社」 (愛知)

○「祇園神社」「祇園社」 → 「八坂神社」(京都)

この京都の八坂神社の主神は「スサノオ命」ですが、この祇園社の時は「牛頭天王」だったといいます。

いつの間にかインドの祇園精舎の守護神「牛頭天王」は明治になると「スサノオ」に変わってしまったようです。

牛頭天王の子どもの総称を「八王子」というそうです。
東京八王子はこの八王子社があったところのようです。

この八王子を祀っていた神はいつの間にか「櫛稲田姫」(スサノオのヤマタノオロチ退治で櫛に変えて髪にさし、大蛇を退治して結婚した、その妻です)に変わっています。

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石岡市龍明の「長樂寺」 この寺の和尚が修行をして岩間山(現愛宕山)の13番目の天狗になった。

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岩間山(愛宕山)の愛宕神社裏にある飯綱神社の六角殿(本殿)と13天狗の祠。
江戸時代の平田篤胤の「仙境異聞」に出てくる天狗の修行場所だ。

その書物によれば、1820年に江戸の町に天狗小僧「寅吉」があらわれ、この子供の話として天狗の中で長楽寺だけが人間からなったが天狗で、三十歳くらいの山伏の姿だという。
また長楽寺が天狗になったのはそれより40~50年くらい前だと書かれている。

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こちらは茨城町下土師の慈雲寺にある穢跡金剛堂。
ここの和尚が天狗和尚と呼ばれたとある。
岩間山の奉納相撲大会で大男を投げ飛ばして十人抜きをして姿を消した和尚もこの和尚だとされる。

平田篤胤の本では長楽寺は真言僧となっている。 こちらの慈雲寺は禅寺で曹洞宗だ。

後でまた調べてみたい。

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天狗の話 | コメント(4) | トラックバック(1) | 2012/06/20 20:00

平田篤胤が江戸で見ていた常陸の天狗世界

 江戸時代後期の本居宣長の後を継ぐ国学者として知られる「平田篤胤」は、神や異界の世界に独自の思想を大成し、復古神道を集大成した。

この平田篤胤が異界の世界に大変興味を抱いていた文政3年(1820年)、江戸の浅草観音堂の前に少年寅吉があらわれます。

寅吉は幼い7歳のころに山人(天狗)に連れ去られ,7年間を山人(天狗)のもとで生活・修行していたというので、江戸の町はこの話でもちきりになりました。

この話を聞きつけた篤胤先生はこの異界からの帰還者の少年の話を聞くために自分の家に住まわせたりして、その天狗の世界の話を聞き取りました。
そして寅吉少年が師匠「杉山僧正」(13天狗の首領)の元に帰る際には手紙を書いて寅吉に預けているのです。

そしてこの時の話をまとめたのが「仙境異聞」(全5巻)という本です。

その中の一部を現代語に訳して下記に示します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平田篤胤先生が江戸の町で「天狗にさらわれて帰ってきたと評判になった寅吉少年」に訪ねた。

「岩間山というのは常陸国の何郡に在る山か」

寅吉少年が答えて、

「筑波山より北方へ四里ばかりいったところで、山の上に愛宕宮があります。
足尾山、加波山、吾国山などが連なっていて、笠間の近所です。
また竜神山という山もあって、この山は私の師匠が雨を降らせるために祈る場所です。

岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗、日光山には数万の天狗がいると言います。

岩間山の天狗は、最初は十二天狗だったが、4~50年ほど前に筑波山の麓にある狢打村の長楽寺といふ真言僧がいて、空に向かって、常に仏道を思いはからっていた。

そしてある日釈迦如来があらわれて、これに導かれて岩間山にやってきた。

しかしこの釈迦如来は岩間山の天狗が化けたものであった。

それからこの長楽寺も愛宕山の天狗に加えて十三天狗となったものです。

私の天狗の師匠は杉山僧正といいます。」

十三天狗
(石岡の八郷地区はこの天狗が修業していたという筑波山から愛宕山などの山並みに囲まれています)


愛宕山(昔は岩間山)には12天狗がいて、最後に狢内の長楽寺という真言僧が加わって13天狗になったと。
仙境異聞から読み解くと、この長楽寺が加わったのは1750~60年頃ということになります。

津島の祇園祭は600年ほどの歴史があるということのようですのでその頃にも盛大に行われていたのでしょう。

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(石岡市龍明(狢内)の古刹長楽寺)

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岩間山(愛宕山)飯綱神社の十三天狗の6角形の本殿

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本殿を囲う十三天狗の祠


天狗の話 | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/07/25 23:16
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