常行三昧会(1)
9月24日から30日までの7日間、行方市の西蓮寺で毎年、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。
今日はその中日で、籠行列も行われると聞いてやってきました。
一般に伝えられているところによると、常行(三昧)堂は、阿弥陀如来を祀り、その廻りを門徒僧侶たちが何日間も読経して廻るという修行のことで、天台宗では本来は阿弥陀如来の後ろに「摩多羅神(またらじん)」(後戸の神)が置かれていて、これが翁などの能楽の基になったと言われています。
そして、この摩多羅神は秘仏のため姿を公開されることがほとんどないと言われるのです。
この摩多羅神に興味があったため、ここの常行堂の三昧会がどのようなものかを確認しに出かけたのです。
しかし、この常行堂には摩多羅神は置かれていないようです。
これから2~3回に分けて、写真を見ながら少しずつ調べ物をして、記事をまとめていきたいと思います。

西蓮寺入口の山門(仁王門)です。これは昔、石岡市太田の善光寺楼門とほぼ同じ造りだと書いたものです。(こちら)

この祭りもかなり盛大なもので、車も山百合祭り(去年の記事1、記事2)の時の半分くらい来ていました。

さて、西蓮寺の常行堂の中に、「びんづるさま」が置かれていました。
どこか悪いところがあれば、その部分をなぜると治ると言われているものです。
一般にはインドの仏教で賓頭盧(びんづる)尊者といわれる仏陀の弟子(十六羅漢の第一位)で、日本の各地でも「びんづるさま」として親しまれているものです。
でも、ここでは少し違った解釈がされています。なにしろ「びんづるおばあちゃん」というのですから驚きです。
これはまた後でお話ししましょう。

この常行堂の裏に廻って見ました。
僧侶の方はこちらから出這入りするようです。
そしてここに張られた紙を見ると、2時間置きに僧侶たちは入れ替わっているようです。(実態は知りません)

さて、この常行堂の御本尊の薬師如来像はどれでしょうか?
正面に3体の阿弥陀如来像、左側に1体の阿弥陀如来像(上の写真)、裏にも1体、右手は確認できませんでしたが置かれていたかもしれません。

近隣のたくさんの信者の方などが来られていました。数千円で記帳して蝋燭とお札をもらい、名前を書いた紙が後に張られます。
年配の女性の方も杖をつきながら、たくさん来ておられました。

この金網の向こうに如来三尊が置かれ、その前を読経しながら僧侶が一人ずつまわります。
観音像の前で一礼していきます。
これを延々と続けていきます。


堂の中には武者絵が奉納されていました。

こちらが如来三尊です。真ん中の像も立像です。
この西蓮寺の本尊は薬師如来座像で、これは別に薬師堂裏の立派な収納庫に保管されています。
でも私には薬師如来と阿弥陀如来の区別があまりよくわかっていません。

こちらが常行堂の後ろの入口です。

この後ろ側の入口正面にも如来像が祀られていました。
さて、行方市などで紹介している資料によると、この寺は、
「寛治年間(1087~94)に地元の長者が比叡山より移したものとされ、西蓮寺の末寺、門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日の7日7夜にわたって堂内を廻りながら独特の節回しで立行誦経する大法要です。」
となっています。この辺りはまたもう少し掘り下げて見たいと思います。
この長者にまつわる話が何故ここに伝わってきたのか?
話しの内容は次回にします。
常行三昧会(2)へ
常行三昧会(3)へ
← よろしければクリックお願いします。
今日はその中日で、籠行列も行われると聞いてやってきました。
一般に伝えられているところによると、常行(三昧)堂は、阿弥陀如来を祀り、その廻りを門徒僧侶たちが何日間も読経して廻るという修行のことで、天台宗では本来は阿弥陀如来の後ろに「摩多羅神(またらじん)」(後戸の神)が置かれていて、これが翁などの能楽の基になったと言われています。
そして、この摩多羅神は秘仏のため姿を公開されることがほとんどないと言われるのです。
この摩多羅神に興味があったため、ここの常行堂の三昧会がどのようなものかを確認しに出かけたのです。
しかし、この常行堂には摩多羅神は置かれていないようです。
これから2~3回に分けて、写真を見ながら少しずつ調べ物をして、記事をまとめていきたいと思います。

西蓮寺入口の山門(仁王門)です。これは昔、石岡市太田の善光寺楼門とほぼ同じ造りだと書いたものです。(こちら)

この祭りもかなり盛大なもので、車も山百合祭り(去年の記事1、記事2)の時の半分くらい来ていました。

さて、西蓮寺の常行堂の中に、「びんづるさま」が置かれていました。
どこか悪いところがあれば、その部分をなぜると治ると言われているものです。
一般にはインドの仏教で賓頭盧(びんづる)尊者といわれる仏陀の弟子(十六羅漢の第一位)で、日本の各地でも「びんづるさま」として親しまれているものです。
でも、ここでは少し違った解釈がされています。なにしろ「びんづるおばあちゃん」というのですから驚きです。
これはまた後でお話ししましょう。

この常行堂の裏に廻って見ました。
僧侶の方はこちらから出這入りするようです。
そしてここに張られた紙を見ると、2時間置きに僧侶たちは入れ替わっているようです。(実態は知りません)

さて、この常行堂の御本尊の薬師如来像はどれでしょうか?
正面に3体の阿弥陀如来像、左側に1体の阿弥陀如来像(上の写真)、裏にも1体、右手は確認できませんでしたが置かれていたかもしれません。

近隣のたくさんの信者の方などが来られていました。数千円で記帳して蝋燭とお札をもらい、名前を書いた紙が後に張られます。
年配の女性の方も杖をつきながら、たくさん来ておられました。

この金網の向こうに如来三尊が置かれ、その前を読経しながら僧侶が一人ずつまわります。
観音像の前で一礼していきます。
これを延々と続けていきます。


堂の中には武者絵が奉納されていました。

こちらが如来三尊です。真ん中の像も立像です。
この西蓮寺の本尊は薬師如来座像で、これは別に薬師堂裏の立派な収納庫に保管されています。
でも私には薬師如来と阿弥陀如来の区別があまりよくわかっていません。

こちらが常行堂の後ろの入口です。

この後ろ側の入口正面にも如来像が祀られていました。
さて、行方市などで紹介している資料によると、この寺は、
「寛治年間(1087~94)に地元の長者が比叡山より移したものとされ、西蓮寺の末寺、門徒寺の僧侶が常行堂に集まり、9月24日~30日の7日7夜にわたって堂内を廻りながら独特の節回しで立行誦経する大法要です。」
となっています。この辺りはまたもう少し掘り下げて見たいと思います。
この長者にまつわる話が何故ここに伝わってきたのか?
話しの内容は次回にします。
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常行三昧会(2)
昨日の西蓮寺の常行三昧会の様子の続きです。
ここの天台宗の西蓮寺(さいれんじ)の阿弥陀如来を祀る「常行堂」では、毎年9月24日~30日の7日間に亘って、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。
これは近隣の寺からもたくさんの僧侶が参加して、数体の阿弥陀如来像が祀られている廻りを読経して休みなくぐるぐる回る修行の場ですが、同時に近隣からたくさんの信者の方が訪れて、「仏立て(ほとけだて)」という行事も行われます。
普段は開放されないこれらのお堂の仏像も開帳されます。
常行三昧堂は天台宗の中心である比叡山延暦寺などの修行の中心となる寺院に造られています。
この修行が通常は90日間も行う厳しいものだったようですが、ここでは現在は7日間だけ行われています。
(この西蓮寺が昔は90日も行っていたのかについては良くわかりませんが、そういう時代もあったのではないかと思っています)
そして、この常行三昧堂の阿弥陀如来の後ろに「後戸の神」といわれる「摩多羅神(まだらじん)」(能楽の神?)が中世には置かれていたのではないかとも思うのですが、いろいろこの寺について書かれたものを見てもその記述はありません。
それこそ翁の面をかぶった神楽のような舞でもあればその存在を考えるのですが、まったくその気配はありません。
7日間の三昧会の初日・中日・最終日の3回に昼の12時から平安時代を思わせる駕籠行列が行われます。
中日である昨日(9/27)に見たので紹介します。

十二時近くなり、常行堂と境内の反対側にある「客殿」前に駕籠が準備され、僧侶が法螺貝などを手にして整列を始めました。

奥が客殿です。ここから真直ぐ前の常行堂に向かって行列が始まります。

先頭は拍子木を鳴らして進みます。

(クリックすると大きな写真となります)
その後ろを法螺貝を吹く僧侶も続きます。

(クリックすると大きな写真となります)

(クリックすると大きな写真となります)
最後に4人に担がれた駕籠が、赤い傘が印象的です。
この駕籠には大僧正?様が乗っています。

(クリックすると大きな写真となります)
弘安の役(元寇)の戦勝を記念して1287年(弘安10)に建立したと伝えられる相輪と樹齢約1000年以上といわれるイチョウの大木の間を通ります。

(クリックすると大きな写真となります)
行列は常行堂の正面から外側を廻って裏の入口へ到着しました。
ここから中に入ります。

(クリックすると大きな写真となります)
駕籠がこの裏の入口に横付けされました。
結構重たいのでよろよろしながら無事到着しました。
それにしてももう少し若い人が担いだ方が良いのでは?
私より年配の方ばかりのように見えました。

駕籠から大僧正が下りてきました。

階段を上り、常行堂の中に入って行きました。

そして、お堂の中ではまた読経が続けられます。

阿弥陀如来の像の前でお経を唱えて廻ります。

堂の正面には阿弥陀三尊がありますが、その左手にこの阿弥陀如来様があります。

(クリックすると大きな写真となります)
恐らく昔はこんな行列での行事はなかったのでしょうが、いつから始まったものなのかはよくわかりませんでした。
僧侶と平安衣装に法螺貝。どのような意味合いが含まれているのか。
なかなか考えはまとまりません。
明日、もう少し続きます。
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ここの天台宗の西蓮寺(さいれんじ)の阿弥陀如来を祀る「常行堂」では、毎年9月24日~30日の7日間に亘って、常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)が行われています。
これは近隣の寺からもたくさんの僧侶が参加して、数体の阿弥陀如来像が祀られている廻りを読経して休みなくぐるぐる回る修行の場ですが、同時に近隣からたくさんの信者の方が訪れて、「仏立て(ほとけだて)」という行事も行われます。
普段は開放されないこれらのお堂の仏像も開帳されます。
常行三昧堂は天台宗の中心である比叡山延暦寺などの修行の中心となる寺院に造られています。
この修行が通常は90日間も行う厳しいものだったようですが、ここでは現在は7日間だけ行われています。
(この西蓮寺が昔は90日も行っていたのかについては良くわかりませんが、そういう時代もあったのではないかと思っています)
そして、この常行三昧堂の阿弥陀如来の後ろに「後戸の神」といわれる「摩多羅神(まだらじん)」(能楽の神?)が中世には置かれていたのではないかとも思うのですが、いろいろこの寺について書かれたものを見てもその記述はありません。
それこそ翁の面をかぶった神楽のような舞でもあればその存在を考えるのですが、まったくその気配はありません。
7日間の三昧会の初日・中日・最終日の3回に昼の12時から平安時代を思わせる駕籠行列が行われます。
中日である昨日(9/27)に見たので紹介します。

十二時近くなり、常行堂と境内の反対側にある「客殿」前に駕籠が準備され、僧侶が法螺貝などを手にして整列を始めました。

奥が客殿です。ここから真直ぐ前の常行堂に向かって行列が始まります。

先頭は拍子木を鳴らして進みます。

(クリックすると大きな写真となります)
その後ろを法螺貝を吹く僧侶も続きます。

(クリックすると大きな写真となります)

(クリックすると大きな写真となります)
最後に4人に担がれた駕籠が、赤い傘が印象的です。
この駕籠には大僧正?様が乗っています。

(クリックすると大きな写真となります)
弘安の役(元寇)の戦勝を記念して1287年(弘安10)に建立したと伝えられる相輪と樹齢約1000年以上といわれるイチョウの大木の間を通ります。

(クリックすると大きな写真となります)
行列は常行堂の正面から外側を廻って裏の入口へ到着しました。
ここから中に入ります。

(クリックすると大きな写真となります)
駕籠がこの裏の入口に横付けされました。
結構重たいのでよろよろしながら無事到着しました。
それにしてももう少し若い人が担いだ方が良いのでは?
私より年配の方ばかりのように見えました。

駕籠から大僧正が下りてきました。

階段を上り、常行堂の中に入って行きました。

そして、お堂の中ではまた読経が続けられます。

阿弥陀如来の像の前でお経を唱えて廻ります。

堂の正面には阿弥陀三尊がありますが、その左手にこの阿弥陀如来様があります。

(クリックすると大きな写真となります)
恐らく昔はこんな行列での行事はなかったのでしょうが、いつから始まったものなのかはよくわかりませんでした。
僧侶と平安衣装に法螺貝。どのような意味合いが含まれているのか。
なかなか考えはまとまりません。
明日、もう少し続きます。
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常行三昧会(3)
行方(なめがた)市の常陸高野こと西連寺の常行三昧会(じょうぎょうざんまいえ)に関して紹介しています。
この(尸羅慶台上山)西蓮寺(天台宗)の創建はかなり古く、782年(延暦元年)に桓武天皇の勅命によって最仙によって創建されたと伝えられています。
最仙上人は最澄(伝教大師)の弟子といわれる僧侶で、常陸国の関城(真壁郡)に生まれ、最初は徳一法師と同じ法相宗に属していたとされます。
そして、常陸国分寺、国分尼寺の僧尼などに経典を講義する講師(こうじ)に任ぜられた人物です。
常陸国ではこの西蓮寺の他、筑波四面薬師と言われる「東城寺」「椎尾薬師」なども創建したと伝わっています。
また、ここの西蓮寺は曼珠院の院号を持っており、鎌倉時代の中頃、比叡山の無動寺から慶弁阿闍梨(けいべんあじゃり)が来て七堂伽藍を造営し、京都の曼殊院(まんじゅいん)の門跡忠尋大僧正が、乱をのがれてこの寺に来てとどまり、曼殊院の額を山門にかかげたと伝えられています。
私も中学時代の京都修学旅行の自由時間にこの曼殊院を訪れたことがあります。修学院離宮の近くにひっそりと有りましたが、庭園も素晴らしく、戸や襖の取っ手模様まで大変凝った造りで印象深く思いだされます。
このように歴史ある寺であり、常陸国の天台宗では中心となる寺名のですが、この有名な常行三昧会(仏立て)の行事の始まりとして少し変わった内容が伝わっています。
それは、源氏の元となる八幡太郎義家が後三年の役(1083~1087)の蝦夷征伐時に鹿島神宮に戦勝を祈願するためにこの地を訪れます。
そしてこの土地の長者(唐ケ崎長者)の家で食事をふるまってほしいと頼んだそうだ。しかし、口に合うようなものが用意できないと丁重にお断りした所、粗末なものでもよいのでといわれ、出されたのがたいそう豪華な食事だったそうだ。
こんな金持ちの長者を生かしておいたら大変だと義家は一家を皆殺しにしてしまった。
ところが娘が一人だけ生き残り、この西蓮寺に預けられ、この娘が両親の供養のために、比叡山から常行三昧会をこの寺に移して始まったというのである。
これはいろいろな話がごっちゃになっているような思いに駆られる。
そのまま信じるには少しばかりおかしい。
何故、長者、またはその娘が比叡山からこのような行事を移すことができたのか?
長者は何故八幡太郎義家に殺されたのか? これは何故、水戸の渡里町に残された渡里長者伝説とそっくりなのか?
義家は本当にこの地を訪れたことがあるのか?
この寺は薬師如来が本尊だが、常行堂に祀られているのは「阿弥陀如来」であり、天台宗の寺であるのにこの仏立て行事は宗派を問わないのは何故なのか?
まあ、あまり考えても真実は出てこないと思うが、少しおかしいと思うのは私だけなのかな?
びんづる尊者像も「この長者の娘で、びんづるおばあちゃん」と言うのもなんだかおかしいよね。

この西蓮寺の本尊は薬師如来で、常行堂の西側にある薬師堂の後ろにあるコンクリートの収納庫に保存されている。
この薬師如来座像は、開基した最仙上人自らが彫ったものとされ、一木背刳(せぐり)造りである。

この日は何時も閉じられている薬師堂も開放され、入口で役員が受付していた。

少し遠くから写真を撮ったが中が暗くて本尊が撮れているのかもよくわからない。

この日は行列を見ようと地元の保育園(幼稚園)生か小学生?見物に来ていました。
みんなお行儀よく座って行列の来るのを待っていました。

みんな今か今かと待っています。
しかし、私を含めアマチュアカメラマンもたくさん来ていました。
これがあまりマナーが良くないんです。
私がカメラを構えたすぐ前にやって来て頭が邪魔でなかなか撮れません。
本当にイライラします。
でも、「他人の振り見て我が振り直せ」ですね。
自分も邪魔になっているかとも思いましたね・・・・・。

1000年以上にもなると言うイチョウの木は本当に見事です。子供達も不思議そうに見上げていました。



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この(尸羅慶台上山)西蓮寺(天台宗)の創建はかなり古く、782年(延暦元年)に桓武天皇の勅命によって最仙によって創建されたと伝えられています。
最仙上人は最澄(伝教大師)の弟子といわれる僧侶で、常陸国の関城(真壁郡)に生まれ、最初は徳一法師と同じ法相宗に属していたとされます。
そして、常陸国分寺、国分尼寺の僧尼などに経典を講義する講師(こうじ)に任ぜられた人物です。
常陸国ではこの西蓮寺の他、筑波四面薬師と言われる「東城寺」「椎尾薬師」なども創建したと伝わっています。
また、ここの西蓮寺は曼珠院の院号を持っており、鎌倉時代の中頃、比叡山の無動寺から慶弁阿闍梨(けいべんあじゃり)が来て七堂伽藍を造営し、京都の曼殊院(まんじゅいん)の門跡忠尋大僧正が、乱をのがれてこの寺に来てとどまり、曼殊院の額を山門にかかげたと伝えられています。
私も中学時代の京都修学旅行の自由時間にこの曼殊院を訪れたことがあります。修学院離宮の近くにひっそりと有りましたが、庭園も素晴らしく、戸や襖の取っ手模様まで大変凝った造りで印象深く思いだされます。
このように歴史ある寺であり、常陸国の天台宗では中心となる寺名のですが、この有名な常行三昧会(仏立て)の行事の始まりとして少し変わった内容が伝わっています。
それは、源氏の元となる八幡太郎義家が後三年の役(1083~1087)の蝦夷征伐時に鹿島神宮に戦勝を祈願するためにこの地を訪れます。
そしてこの土地の長者(唐ケ崎長者)の家で食事をふるまってほしいと頼んだそうだ。しかし、口に合うようなものが用意できないと丁重にお断りした所、粗末なものでもよいのでといわれ、出されたのがたいそう豪華な食事だったそうだ。
こんな金持ちの長者を生かしておいたら大変だと義家は一家を皆殺しにしてしまった。
ところが娘が一人だけ生き残り、この西蓮寺に預けられ、この娘が両親の供養のために、比叡山から常行三昧会をこの寺に移して始まったというのである。
これはいろいろな話がごっちゃになっているような思いに駆られる。
そのまま信じるには少しばかりおかしい。
何故、長者、またはその娘が比叡山からこのような行事を移すことができたのか?
長者は何故八幡太郎義家に殺されたのか? これは何故、水戸の渡里町に残された渡里長者伝説とそっくりなのか?
義家は本当にこの地を訪れたことがあるのか?
この寺は薬師如来が本尊だが、常行堂に祀られているのは「阿弥陀如来」であり、天台宗の寺であるのにこの仏立て行事は宗派を問わないのは何故なのか?
まあ、あまり考えても真実は出てこないと思うが、少しおかしいと思うのは私だけなのかな?
びんづる尊者像も「この長者の娘で、びんづるおばあちゃん」と言うのもなんだかおかしいよね。

この西蓮寺の本尊は薬師如来で、常行堂の西側にある薬師堂の後ろにあるコンクリートの収納庫に保存されている。
この薬師如来座像は、開基した最仙上人自らが彫ったものとされ、一木背刳(せぐり)造りである。

この日は何時も閉じられている薬師堂も開放され、入口で役員が受付していた。

少し遠くから写真を撮ったが中が暗くて本尊が撮れているのかもよくわからない。

この日は行列を見ようと地元の保育園(幼稚園)生か小学生?見物に来ていました。
みんなお行儀よく座って行列の来るのを待っていました。

みんな今か今かと待っています。
しかし、私を含めアマチュアカメラマンもたくさん来ていました。
これがあまりマナーが良くないんです。
私がカメラを構えたすぐ前にやって来て頭が邪魔でなかなか撮れません。
本当にイライラします。
でも、「他人の振り見て我が振り直せ」ですね。
自分も邪魔になっているかとも思いましたね・・・・・。

1000年以上にもなると言うイチョウの木は本当に見事です。子供達も不思議そうに見上げていました。



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