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手奪橋(その1)

 行方市を流れる梶無川に架かる橋に「手奪橋」がある。
場所は玉造から県道116号(鹿田玉造線)を北に進んだ芹沢地区に架かる橋で、それほど大きな橋ではない。

また、常陸国風土記に出てくるヤマトタケルが登ったと言う「現原(あらはら)の丘」の近くである。

この橋の欄干の左右4箇所に河童のモニュメントが飾られている。

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その橋の脇にこの橋の名前の由来(玉造の民話)が書かれています。

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河童の恩返し
昔むかし、現原の殿様が領地の見まわりを終えて、梶無川の橋を渡っていると子どもくらいの怪物が、馬のしっぽをつかんで川にひっぱり込もうとしているではありませんか。殿様は「村人を困らせている河童だな。こらしめてやろう」と刀で斬りつけました。河童は悲鳴を上げて川の中に姿を消しました。
お屋敷に戻ると馬のしっぽには河童の手がぶら下がったままでした。
その晩のこと、河童がしょんぼりとやって来て、「私は梶無川の河童です。腕がないと泳げないし魚もとれません。
どうぞ腕を返してください。」と頼むのです。

かわいそうに思った殿様が返してやりますと、「私どもには妙薬があり腕をつなぐくらいわけありません」と言って、薬を傷口にぬり、ひょいと腕をくっつけました。
殿様が驚いていると「お礼にこの薬の作り方を教えます。
それにこれから毎日魚を差し上げます。
もし魚が届かぬ時は、私が死んだと思ってください」と言って帰っていきました。

 次の日から毎日、お屋敷の前の梅の木に、魚が2匹ずつぶら下げてあるようになりました。
 ある朝、いつもの梅の枝に魚がなく、殿様は河童のことが心配で川を探させたところ、かなり上流の与沢で腕に傷跡のある年老いた河童のしかばねが見つかりました。
恩を忘れなかった河童に感動した殿様は祠を建ててその霊をまつりました。

 芹沢と捻木あたりを梶無川と言います。河童から教わった傷薬は、芹沢家に代々伝わり、多くの人たちが救われました。
諸国の大名から届いたお礼の書状が、今でも芹沢家に残されています。

物語は上に書かれたとおりですが、実はこの橋の袂にもう一つ古い看板が置かれています。

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こちらは橋が建て替えられる前に設置されていたもののようです。
馬のしっぽをつかむ河童がかわいらしく書かれています。
そしてやはり河童の話が書かれており、手奪橋(てばいばし)と読ませています。

しかし、新しくした橋の橋名板には「手奪橋」「てうばいはし」となっています。

手奪橋

立派な橋名盤(板)ですが、片側には漢字で「手奪橋」 もう片側にはひらがなで「てうばいはし」となっています。

さて正式にはどうなんだという事になるのですが、この写真を撮ったのはもうかなり前で、東日本大震災でこの川沿いもかなり被害が出ました。その後そんなに経たない時ですので、今から8~9年ほど前です。

しかし、今年の秋に訪れた時にはこの橋名板が4枚(4隅)ともにありませんでした。
名前が間違っていたから外したのであれば、漢字の名板まで取り外す必要がありませんので、どうやら各地で被害の出ている金属泥棒の仕業でしょう。

近くの神社(橘郷造神社)入口に置かれていた、彫刻家の宮路久子さんの作られた「弟橘姫の像」も何者かによって盗まれましたので、これも同じような犯行グループなどによるものかもしれません。
本当に切なくなります。
宮路さんとは以前お手紙などを頂戴し、電話なども数回頂戴したことがあります。
頑張って製作された像が盗まれてさぞがっかりされていると思います。

それはさておき、今回はこの「手奪橋」が「てばいばし」か、「てうばいばし」と読むのかを考えていて、何かどこかでおかしくなってしまったかが気になり少し掘り下げてみたい・・・・   と。

まあ何のことは無いのだけれど、気になり始めるとやはりいろいろと背景なども調べたくなるというのが、まあ性の無いところです。

調べながら少しずつ書いていこうと思っていますが、最近記事の書くスピードがかなり遅くなったようにも感じています。
そんな具合ですから3~4回になるかもしれませんが、のんびりやっていこうと思っています。

気になっていることは、
1) この話の元はいつ頃?
2) 芹沢氏の歴史? 何故戦国末期に佐竹氏に潰されなかったのか? 芹沢鴨は?
3) 腕を切り、また元に接ぐという羅生門の鬼伝説との関係は?
4) テバイ:手奪、手這、手倍、手葉井 などという言葉に共通するのは何か?

などなのですが、まだこの答えは霧の中です。
すこし調べてわかったことを、その都度、すこしずつ下書き程度に書いてみたいと思います。

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/07 11:55

手奪橋(その2)

昨日の続きです。

 さて、この河童の民話に登場する殿様は、新撰組で活躍した芹沢鴨の血筋で、芹沢家の先祖です。
橋の名前は「てうばいばし」となっていますが、この川はむかし「てばいがわ」とも呼ばれていた時もあると聞いていますので、言葉の発音から話が作られたかもしれません。

まずは、この民話の続きとなった神社の紹介をしておきましょう。

<手接神社>(小美玉市)

 さて、この民話では、腕を切られた河童が手を返してもらい、不思議な薬で手を継いで、お礼にこの薬を芹沢家が貰うことになるのですが、
やがてこの河童が芹沢から川の上流の(小美玉市)与沢の地で発見された(一部では近くで発見されたが、祈ったらその上流の与沢に運ばれた)となっています。

そしてそこに手接(てつぎ)神社がありますので、行ってみました。

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場所は茨城空港の近くです。このすぐ近くに親鸞が鹿島神宮に行く途中で通っていたと言われた遺跡(喜八阿弥陀、経塚など)が残されています。

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通り沿いの神社入り口には
「 日本に一社
  かっぱの神様
手接神社
手の病い、お子さんの成長、進学、就職、技倆上達
ご家庭の健康祈願は七郎かっぱを奉る手接大明神にご参詣を!!」
と書かれています。

ここでは河童の名前があります。「七郎河童」です。

神社の祭神は、罔象女命(みずはのめのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三柱です。
罔象女命は「日本書紀」に出てくる神様で、古事記では弥都波能売神(みづはのめのかみ)と出てきます。
また、イザナミが産んだ水の神様として知られ、神社などでは「水波能売命」などとも表記されます。

また、大巳貴命は、いわゆる大黒様(大国主神)が一般的で、少彦名命と共にこの国の国造りをした神様です。
まあ河童が神様とはなっていないようです。

神社の創建は1507年とされており、その前に芹沢氏の館に1481年に最初に建てられたものがこちらに移されたとされています。
ただこれも歴史的には少し年代としてはわからないところがあります。
もう少し検証したいところです。

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この神社は元は、芹沢家の屋敷近くにあった神社をここに移したものと推測されます。

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神社に奉納されるものも手形や手袋など手に関するものばかりです。
手袋などを奉納すると、その手の痛みなどが治ると言われています。

またこの神社には、おみくじなどと同じように「きりすね」というもめんの糸をよった物が置かれています。
これを痛い手に巻いておくと、この糸が切れる頃には治ると言われているものです。

手の痛い人が頂いて帰るのだと言います。

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この芹沢家は、代々医者の家系として続いており、現在も石岡で開業しています。

そして、河童にもらったともいわれるこの家伝の秘薬(膏薬)「筋渡し」は今も使われているとの話もあります。

<手接明神(芹沢家生家跡)>

 行方市では「新選組を創った男」とのキャッチフレーズで新選組局長・芹澤鴨を売り出しています。
そしてこの芹澤鴨の生家跡があると言う場所があります。

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芹沢鴨(本名:下村嗣次)の生家がここであったかについては諸説ありますので、また別途説明します。
写真のように芹沢家の敷地脇に「芹沢鴨の生家」と書かれた看板が掲げられています。
そしてこのすぐ近くに、手接明神の石柱がありました。

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ここにあった手接明神が与沢に移って手接神社となったようです。

(続く)

手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/10 16:19

手奪橋(その3)

【手奪橋(その3)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は3回目です。

<腕を切り落とす・元に戻す  伝承は何処から来たのか?>

 私たちが最も良く知っているのは、羅生門の鬼の話しだと思います。
そこでいくつかネットで検索して記載されている内容を見てみましょう。

☆ (羅城門の鬼・羅生門の鬼) Wikipedia 概要

 源頼光が酒呑童子を討伐した後、自分の屋敷で頼光四天王と平井保昌とともに宴を催していたところ、平井(または四天王の1人・卜部季武)が、羅城門に鬼がいると言い出した。
四天王の1人・渡辺綱は、王地の総門に鬼が住む謂れはないと言い、確かめるために鎧兜と先祖伝来の太刀で武装して馬に乗り、従者も従えずに1人で羅城門へ向かった。
九条通に出て羅城門が正面に見えてきた頃、急に激しい風に見舞われ、馬が動かなくなった。
綱が馬から降りて羅城門へ向かうと、背後から現れた鬼に兜をつかまれた。
すかさず綱が太刀で斬りつけたが、逆に兜を奪われた。綱の太刀と鬼の鉄杖が激しくぶつかり合った末、綱はついに鬼の片腕を斬り落とした。
鬼は「時節を待ちて、取り返すべし」と叫んで、空を覆う黒雲の彼方へ消えて行ったという。

『平家物語』剣の巻にある一条戻橋の鬼の話では、綱が鬼の腕を斬り落とす場面の舞台は一条戻橋であり、この後に鬼が綱の乳母に化けて腕を奪い去るとある。
謡曲『羅生門』は『平家物語』で綱と鬼との戦いまでの話をもとに、舞台を一条戻橋から羅城門に変えて創作されたものとされ、その後の鬼の報復の話は謡曲では『羅生門』とは別作品の『茨木』になっている。
このことから、別々の鬼である羅城門の鬼と茨木童子がしばしば同一視される。


☆ 平家物語「剣巻」(屋代本)の波辺綱の鬼の腕切り

 「渡辺綱が一条戻橋で出会った艶なる女を求められるままに掻き抱き女を五条の津に送ると、女は、実は行き先は五条ではなく愛宕山だと言い出し、綱の髷をつかんで乾の方角に連れて行こうとする。
そこで、綱は少しも騒がず持っていた剣をさっと抜いて、空様に鬼の手を切る。
そして、綱は北野の社の廻廊の上に落とされた。
一方鬼は手を覆い隠して愛宕山へ向かって飛んで逃げ去った。
綱は安部清明に七日の護慎を申しつけられる。
謹慎して六日が過ぎた最後の晩に急に養母が訪ねてきたことに対して綱は明日まで待つよう
頼んだものの、鬼である養母は、切々と綱の不孝を訴え、その日のうちに腕を取り返す。」

ここでは、場所が羅生門ではなく、一条戻橋と川沿いに舞台が変わり、鬼の棲家も愛宕山となっている。

☆ 京都の民話集から

 平安時代中期のまだ魑魅魍魎が都に現れていた時代のお話です。
大江山に、酒呑童子という山を動かすほどの怪力を持ち、空を稲妻のように翔け、多くの鬼神を従え狼藉の限りを尽くしている鬼の大将がおりました。

そこで源頼光と頼光四天王(渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、坂田金時)は、山伏に扮して鬼どもを退治しついには大将の酒呑童子を成敗しました。

しかしこの時、茨木童子という鬼を取り逃がしてしまったのです・・・
兎にも角にも酒呑童子を退治した源頼光一行は都に戻りました。

それから幾日か経った夜、源頼光は平井保昌と頼光四天王を集めて宴会を開いておりました。
春の雨のしとしと降る中で6人は酒を酌み交わし、話に花を咲かせます。

平井保昌がふっと
「近頃、羅生門に鬼が出るようだぞ」と言いました。
それを聞いた碓井貞光も
「私も噂を聞いた。酒呑童子を征伐した時に取り逃がした鬼のこともあり気にかかっておったのだ。」

卜部季武、坂田金時はうなずきましたが、四天王の中で最も若い渡辺綱は鼻で笑いながら言いました。
「そうそう鬼なんて出てたまるか!それに大江山で取り逃がした鬼も我々に怯え都には近づけんだろう」

碓井貞光は眼光鋭く渡辺綱に言いました。
「では、鬼が出たらどうするのだ?」
渡辺綱は言います。
「私が退治してみせよう!」

それを聞いた坂田金時は言いました。
「ならば、今直ぐ羅生門に行き確かめて来い。鬼が出るようなことがあれば退治してみせろ」
平井保昌は笑っていましたが渡辺綱は刀を持ち武具を付けて準備を始めました。

平井保昌はニヤニヤと笑いながら言いました。
「ただ、行くだけではわからんではないか。何か証を立てなければな!いいか。本当に羅生門へいったかどうか、証拠に高札を立ててこい」

渡辺綱は馬に乗り、従者も従えずに1人で羅生門へ向かいました。

しとしとと降り続く雨の中、渡辺綱は高札を立ててしばらくの間鬼を待ちましたが一向に現れません。
「全くつまらぬ」というと渡辺綱は馬に跨がりました。

すると、急に雨風が強くなり木々が揺れ始めました。
羅生門の影に何やら気配を感じた渡辺綱は刀に手をかけます。

しかし、羅生門の影から現れたのはうら若い姫でした。
渡辺綱が、なぜこのような時刻に出歩いているのか?と尋ねると姫は
「私は五条の父のところへ行かなければなりません。けれども、雨はふるわ、道はぬかるわで、困っております。」

渡辺綱は姫の手を取り言いました。
「五条ならば私も戻るところ故、馬でお送りしましょう」

その時です。
姫は女の鬼に姿を変えて言いました。
「あたしは愛宕山の茨木童子。ここで毎夜人をとって喰ろうておるのだ。」

鬼は渡辺綱の兜を持って天高く引き上げました。
渡辺綱は刀を抜き放ち腕を斬りつけましたが、逆に兜を奪われ羅生門の屋根に落ちてしまいます。

それでも怯まずに鬼を斬りつけると、鬼の腕が見事に斬り飛ばされました。
鬼は人の声では表せないようなうめき声をあげると黒雲を呼び乗り込みました。

「その腕は7日間預ける。その内に必ず取り戻すから覚えておきな!」
というと鬼は雷鳴と共に消えてしまいました。

鬼の腕を手土産に源頼光の屋敷にもどった渡辺綱はみんなに鬼の腕を見せました。
針金のような太い腕で、針のような毛が一面にはえています。

その後、皆は渡辺綱の武勇を讃えて飲み直しました。

源頼光の屋敷から帰った渡辺綱は、鬼の腕を頑丈な箱に入れ屋敷の門に「ものいみ」という札を出してお経を唱えて過ごしていました。
それから6日経った7日目の夜の事です。渡辺綱邸の門前に一人の老婆が立っていました。

警護の者が事情を聞くと、摂津国から来た渡辺綱のおばだと言うのです。
警護の者は
「それはあいにくでございました。主人はものいみでございまして、今晩一晩立たつまでは、どなたにもお会いになりません。」

老婆悲しい声を出して言いました
「小さい頃に親をと別れた綱を母代わりに育てたのです。その子が今や立派な武士となり鬼を退治するまでになったと聞いて一目会いたいと駆けつけたのです。今晩出会えないとなれば今度はいつ会えるか・・・私も年老いて次はないかもしれませぬ・・・残念なことです。」

すると、渡辺綱が屋敷から出てきて老婆を屋敷の中へ通しました。

老婆は嬉しそうに屋敷に入ると渡辺綱に訪ねました。
「ものいみとはどうしたんだね?」

渡辺綱は羅生門の鬼の話を老婆に聞かせました。
老婆が「立派になって・・・」っというと渡辺綱は少し気持ちが良くなって来ました。

渡辺綱の話が終わると老婆が言いました。
「不思議なこともあるものだねぇ。あの綱がこんな立派な武功を立てるなんてねぇ。私までうれしく思うよ。その鬼の腕を是非見てみたいものだねぇ」

渡辺綱は
「まだ、鬼との約束の日は明けておりませぬ故見せることはできませぬ。」と断りました。

老婆は
「残念なことだねぇ。老い先の短い私に綱の有志を見せて欲しかったのだけど縁が無かったのかねぇ」
と言います。

渡辺綱は老婆のことが不憫に思い、どうしても鬼の腕を見せなければならないような気になってしまいました。
「仕方がございませぬ。少しだけお目にかけましょう」
そういうと鬼の腕が入った箱を開けて老婆に見せました。

老婆は
「まぁまぁこれが鬼の腕かい・・・」
というと鬼の腕を手に取ります。

すると渡辺綱がはっと思う間に、老婆はみるみる鬼に姿を変えて黒雲を呼び寄せました。

「たばかったな!!」
と悔しがる渡辺綱をあざ笑うかのように鬼は言います。

「綱よ、よいか!7日目の夜、この腕、しかと取り戻したぞ!!」
渡辺綱は刀を抜き追いかけましたが既に遅く鬼は空高く消えてしまいました。

その後、都に鬼は現れませんでした。
しかし、摂津国で茨木童子を見たという人がいたそうです。

どうですか? 
この話はその前に書いた「平家物語」の内容が少しアレンジを変え、詳細に物語りに置き換えられたといえるでしょう。

酒天童子が滅ぼされ、弟子の茨木童子がこの鬼という話です。
茨木童子のはなしはまた各地にあり、新潟県長岡市と大坂府茨木市の出生説が有名ですが、ここ地元の茨城県石岡市にも「茨城童子」として昔話に登場します。

石岡の話しは酒天童子が渡辺綱などにより都で退治され、また茨城童子も退治にこっちにやってくるという話を聞いて、龍神山から鬼越峠を越えて逃げ出したというように、どうもあまり強くありません。

さて、この羅生門(らしょうもん)は、正確には「羅城門(らじょうもん)」といって、都を守る入口に作られたとされます。
そのため、奈良の都にも、京都に遷都したときもつくられましたが、この鬼の話しは京都の都(平安京)に建てられた門です。

平安京に建てられた平安時代末期には本当に鬼が住むくらい荒れ果てていたといわれていたようです。

羅城門の上には中央アジアのトルファンに突如現われて、都を護ったと言い伝えられている「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の像が置かれていました。

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しかし、平安時代の末期にこの羅城門は倒壊し、この兜跋毘沙門天像は近くの東寺(教王護国寺)に移 され、現在も国宝として保存されています。

この鬼の話しは平安時代の末期にまとめられた「今昔物語」に書かれた話が基となり、謡曲「羅生門」や平家物語などいろいろなものに取り上げられています。
また各地の民話としてもその姿を少し変えて語り継がれています。

また、芥川龍之介が書いた「羅生門」は黒澤明の映画にもなり、一般に良く知られたものになりました。

平安末期頃につられた話が、鎌倉時代以降にいろいろパターンを変えて広まったといっていいでしょう。

☆ 鬼はどこから

 さて、酒天童子の鬼伝説は奈良時代頃にはまだ、山の奥などに鬼が住むといわれ、大和民族とは違った所謂「原住民」の部族がいたのでしょう。
それらを「鬼」としてあらわし、それを退治した武将が英雄として祭られていた時代だったのかもしれません。
桃太郎伝説などでよく言われているように 鬼がトラ柄のパンツを履き、牛の角を持つ姿は「丑寅=ウシトラ=鬼門」として恐れら絵ていました。

千葉県の難読地名を纏めたときには「鬼泪山=きなだやま」などの地名由来も書きました。
  (記事は ⇒ こちら

どうやら西暦800年頃に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で功績を挙げたころから、少し変わりだしたのかもしれません。
日本各地に多くの神社が建てられていったのはこの頃でしょう。

鬼が河童に替わって腕を切られる話が、鬼から河童に替わったのだとしたら・・・・・・・・・

それでは、この行方市の「手奪橋」の河童伝説はいつ頃から伝わっているのでしょうか?

調べてみると江戸後期の文化7年(1807)に書かれた水府志料の行方郡「手奪川」の項に記載されているのが、残されているものとしては最古かもしれません。

その内容を纏めると、
「芹澤隠岐守俊幹が野田村、鷺沼村から芹澤、捻木両村の問を流れる手奪川にかかる橋を波るとき馬の尾に何物かがとりついたので切り落とすとそれは河童の腕であった。
その夜俊幹の枕元に河童が来て、腕を返せば、代わりに金瘡骨妙薬を渡すという。
河童の腕を返した芹澤家には代々金瘡家伝の妙法が伝わった。
河童の死後、その体が手奪川の流れを逆流し、與澤の池にとどまったことから、祠を建て手接明神として祀り、水旱や疫疾に効があったという。」

まあ、鬼が河童に替わり、凄みがかった鬼も、少しいたずら好きな河童に替わっていったとしたら少し世の中が平和になったことなのかもしれません。

☆ 牛鬼の手

さて、この話を検証するのは少し大変そうですが、福岡県久留米市田主丸町に石垣山観音寺という673年創建と伝えられる古刹があります。
この寺に「牛鬼の手」というものが残されています。 寺のHPより内容を紹介します。

 『1062年(康平5年)晩秋のことです。真夜中に「ゴーン、ゴーン」と鳴る鐘の音に住職は驚いて目が覚めました。

「誰がつくのだろう」ほの白く沈んだ闇がむなしく、ほかには何も見えませんでした。この不思議な出来事は来る夜も来る夜も起こりました。

そして、鐘の音の後、牛や馬が煙のように消えて、村の娘や子供までいなくなり、村人の不安は募るばかりでした。観音寺の住職は、ある晩宝剣を持ち、意を決して鐘つき堂に隠れ、夜中に鐘をつくものの正体をつきとめることにしました。

夜がふけ、雷雨と暗闇がすべて覆い尽くすと一陣の風と共に現れたのは、頭は牛、体つきは鬼というものすごい怪物だったのです。

住職は修行を積んだ高僧でしたが、この時ばかりは全身に鳥肌が立ち足の震えをどうすることもできませんでした。
この怪物「牛鬼(うしおに)」も住職に気づき、真っ赤な口を開けて今にも飛び掛からんばかりでした。
思わず、住職はお経を唱え始めました。

するとどうでしょう。牛鬼は急に苦しみだし、住職の読経と宝剣により神通力も失い、とうとう鐘つき堂で死に絶えてしまったのです。

あくる朝、知らせを聞いた村人たちは牛鬼の首を京へ送り、手は観音寺に保存しました。
また、この時に牛鬼の耳を付近の山に納めました。
それからこの山を誰言うことなく「耳納山(みのうやま)」と呼ぶようになったそうです。』

この「牛鬼」退治を行なった住職が、観音寺中興の祖である「金光房然廓上人(こんこうぼうねんかくしょうにん)」という人物といわれています。
金光房然廓上人は、法然上人の弟子だった僧侶といわれており、親鸞聖人などと同じ時代の人のようです。恐らくこの話も鎌倉時代始めの頃でしょう。

この「牛鬼の手」が、後世では各地で「河童の手」が保存されている話しなどへ変化していったようです。
近くでは土浦市佐野子の満蔵寺に「河童の手のミイラ」が残されており、時々特別公開されています。
このミイラも伝承では室町時代から残され、保管されてきたものといわれています。
(大きさは人間なら幼児くらいの大きさ)

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(土浦市 満蔵寺の河童の手:妖怪レポートより借用)

あまりまとまりがなく、多くが抜粋などでしたが、河童の腕を切るという話しの元を辿ろうとしたのですが、これもこの先に何かのヒントになると思います。長くなってしまいましたが今回はここまで。

(続く)

手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/11 16:41

手奪橋(その4)

【手奪橋(その4)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は4回目です。

<常陸国風土記と行方地方>

 物語の背景を理解するために、8世紀の前半に纏められたという常陸国風土記に書かれている行方郡について調べておきます。

常陸国風土記は天智天皇の皇女である元明天皇が藤原京から平城京に遷都を行い、全国に『風土記』編纂の詔勅を出した事により、各地で編纂されたものです。

その中で、出雲国と常陸国の風土記が比較的欠落が少なく、内容もすぐれているとされています。
常陸国風土記は藤原不比等の三男であり常陸国守であった藤原宇合(うまかい)と万葉集などにも多くの歌が残されている高橋虫麻呂の二人によって713年に編纂され、721年に成立したと考えられています。

内容は、当時の古老などから聴取したことをまとめたもので、地名のいわれなども、必ずしも真実という事ではなく、当時言い伝えられていた事などをそのまま書いたとされています。(多少は大和朝廷の意向を反映している箇所もありますが・・・)

行方(なめかた)郡についての記述から関係しそうな事を抜粋します。
また、以下の内容は「神話の森、口訳・常陸国風土記」の訳を使わせていただきました。

1) 白雉四年(653年)に、茨城と那珂の郡からそれぞれ八里と七里(面積)、合計十五里(七百余戸)の土地を提供して、郡家を置いて、行方郡とした。

2) 昔、倭武の天皇(ヤマトタケルのこと)が、霞ケ浦より北を言向けられたとき、槻野の清泉(いづみ)に出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。
 ⇒現在も玉清井(泉+神社)としてある

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(現在も国道355線近くの田んぼに囲まれて、池と神社がこんもりとした木々に覆われている)

3) (倭武の天皇は)車駕で国を巡り、現原(あらはら)の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細(なめくはし)と呼ばう」。行細の名は、後には、行方(なめかた)といふやうになった。
この丘は、周囲からひときは高く顕はれて見える丘なので、現原と名付けられた。
 ⇒ここでは行方(なめかた)という名前の由来と、現原(あらはら)の丘の名前由来が書かれている。
この現原(あらはら)の丘の場所は、この手奪橋のすぐ上である。

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(現原小学校をめざして、芹沢地区で梶無川を渡るとすぐ右に入る案内板がある。少し下ってからゴルフ場の間を抜けるように道が続いており、少し登って開けた田圃が出る。そこにこの看板がある。今は木々が邪魔して周りを眺める事ができない。)

4) この丘(現原)を下り、大益河(おほや がは)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河(かぢなしがは)といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。
 ⇒この手奪橋の下を流れる川が梶無川(かじなしがわ)である。
梶無川(かじなしがわ)はこの手奪橋から下流(南)へ4~5kmで霞ヶ浦に注ぎます。また上流は小美玉市の旧美野里地区の石岡ゴルフクラブの方から流れてきています。

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(国道355号線の橋近くに設置された川名板)

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(霞ヶ浦から白鳥がよくこちらに来て泳いでいます。また、この近くに昔の鹿島参宮鉄道(後の鹿島鉄道、現在廃線)の玉造駅ができました。この川沿いに桟橋が出来、ここから鹿島神宮に参拝するための船が出たのです。)

5) 無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。
⇒ 鴨が落ちた場所に祠が建てられ、

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現在の「鴨の宮」は、旧玉造駅側から県道116号線を北の方に進み、玉造第一保育園の少し先を右に入ってすぐこの標識が見える。

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この神社がここに建てられたのは昭和50年のこと。
その前にあった場所は、大山守をしていた「大塲家(おおばけ)」屋敷の隣の裏山に残されているの玉造郷校跡から200mほど離れた山の端の方です。

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 この場所に、昭和2年に鹿島鉄道が玉造から鉾田へ路線を広げた為、この敷地の山の一部が掘削されてしまいました。
そして、その場所に「鴨の宮再建」という碑が立てられていたという。
そしてやっと昭和50年になって現在の鴨の宮が建てられたようです。
玉造郷校は天狗党の乱のときに焼けてしまったようです。

どうでしょう。少し背景が見えてきたでしょうか?

これによれば、この川の名前は「大益河」(おおやがわ)と昔は呼ばれていたらしく、その後、梶無川(かじなしがわ)と呼ばれていて、この名前の由来が、ヤマトタケルの話として書かれている。

また、この行方地方にヤマトタケル(風土記では倭武の天皇と記載)が多く登場しているが、これは行方郡が、その廻りの茨城郡や鹿島(香島)郡、那珂郡などへの大和朝廷の進出に比べて、少し遅れてから征圧が始まったと考えてもよさそうだです。
そのため、地名にも佐伯の部族の名前などとの表現が各所に見られます。

では次回は芹澤氏について少し調べてみましょう。

手奪橋の最初から読むには → こちらから

てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/13 10:18

手奪橋(その5)

【手奪橋(その5)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は5回目です。

<芹澤氏のルーツ>

 手奪川にまつわる河童伝説で登場するのは「芹澤の殿様」です。
この橋のすぐ近くに中世から江戸時代にかけて武家としての芹澤氏がいました。
そして、巷では新撰組をつくった男「芹沢鴨」がこの芹澤氏の出だといわれています。

では、少しこのあたりを歴史をさかのぼって検証していきたいと思います。

まず、関東に進出した平氏の流れを理解しておく必要があります。
話の流れを少し知らない方のために大雑把にまとめておきます。

1) 平安時代の890年頃、皇族も抱える人数が多くなり、食わせていくことに限界があるため、一部を民間に身分を与えて下らせる必要が出てきました。また平城京から長岡京、平安京と遷都で莫大な経費がかかって財政難となっていたともいわれています。

2) 西暦889年頃に、桓武天皇の孫(または曾孫)の高望王(たかもちおう)を平(たいら)姓を与えて、民間に下らせ、898年には高望は上総介となりました。これが後の平家で活躍する平清盛などの祖(桓武平氏)が誕生したのです。

3) 当時、上総や常陸などの遠方には介となっても都に残ったままという事が多かったようですが、上総介となった平高望(たいらのたかもち)は他にも多くの子供がいましたが、上の3人の息子だけを連れて関東(上総国)にやって来ました。上総国ですから今の千葉県の房総半島側です。 何処を通ってやってきたかはよくわかっていませんが、舟で九十九里浜の横芝光町の屋形あたりだったのかもしれません。ただ玉望が住したのは上総国国府である「菊間」(現在の千葉県市原市菊間あたり?)ではないかとも言われています。連れてきた子供の名は、国香(長男)・良兼(次男)・良将(三男)です。

4) 上総から、下総、常陸へと土地を開拓したり、豪族と手を結んだりして領地を拡大していきました。平高望は上総介としての任期が終わり、902年に西海道の国司となったことから、九州の大宰府へ移りました。
菅原道真が大宰府に左遷となったのは901年。大宰府でなくなったのは903年ですから時期は丁度重なります。

5) しかし、三人の息子たちは現地に残り、平国香(くにか)は常陸大掾であった源護(みなもとのまもる)の娘と結婚するなどして「常陸大掾(だいじょう)」となって茨城県真壁郡石田(現・茨城県筑西市)に住しました。
次男平良兼(よしかね)は父の後を継ぎ「下総介」となり、上総・下総などにその領地を拡大して行きました。真壁郡羽鳥に住したともいわれています。
また三男の良将(よしまさ・よしもち)は佐倉郷に住し、その後鎮守府将軍になり、後に下総国・豊田郡に住したとされています。
この子息が平将門で将門の乱で国香・良兼などと争い、この争いの中、国香は戦死、良兼は病死したといわれています。

6) 国香の息子の平貞盛や藤原秀郷(俵藤太)らの活躍で将門を破ったのち、常陸大掾職(大掾:だいじょう は介の下の官職だが、現地ではもっとも力のある職でもあった)は国香の一族で継承されていきますので、職名の大掾がその後の常陸平氏の名前となって呼ばれるようになります。

7) 将門の乱以降の常陸大掾は、国香-貞盛(つくば市水守)-維幹(養子:水守からつくば市北条の多気山へ移る)-為幹-繁幹-致幹-直幹-義幹と鎌倉時代初期まで大掾職を継承していきます。維幹から現つくば市北条の多気山に城を築いていますので、多気大掾と呼ばれています。

8) 鎌倉時代に北条近くの小田にいた関東守護であった「八田氏=小田氏」は、北条の街に実際は生活のための水路工事でしたが、城造りをして人を集めているとか多気山に兵をあつめているなどと、鎌倉の頼朝に多気大掾氏が謀反を企ていると換言しました。
それにより多気太郎こと平義幹(よしもと)は鎌倉に呼び出され、大掾の領地(筑波・北・南三郡)は没収され、駿河国の岡部泰綱に預けられました。
この平義幹の次男の「平茂幹」が、ここの芹澤氏の祖となります。
やっと名前が出てきました。

つくば市北条にはこの平義幹(多気太郎)の五輪塔が残されており、8月に万灯祭が行われています。
地元の人も多気太郎がこの芹澤氏に関係していると気がついていないのではないでしょうか。

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(つくば市北条に残された多気太郎:平義幹の五輪塔)

常陸大掾氏はここで一旦途切れますが、数年後にやはり多気大掾氏から別れ、水戸にいた吉田氏(馬場氏)に引き継がれました。

ここからは芹澤氏の経歴を見て行きます。

9) 駿河国の岡部泰綱に預けられた平義幹ですが、このとき次男の茂幹まだ幼く、母方の狩野(かのう)氏(伊豆国?)にて養育された。

10) 常陸大掾を継いだ吉田(馬場)資幹が、この茂幹の境遇を憐れみ、謹慎解除を願い出て、謹慎が解除され、ふたたび常陸国にやって来ました。茨城郡坂戸に住んだとなっていますが、現在のどのあたりであるかは不明(水戸に近いところか?)。
その後、常陸大掾との婚姻などで、親交を深めています。

11) 鎌倉幕府滅亡により、足利氏へ手元で養育していた多気種幹(多気義幹の三代後)の遺子「竜太(後の幹文)」を人質に出します。
ただ、記録はわずかで、この頃の事はよくわかっていません。

12) その後、14世紀半ばの記録では、この竜太(幹文)が相模国高座郡村岡郷の芹沢に所領を与えられ、芹沢氏を名乗っています。そして鎌倉の配下としてくらしていきます。
幹文(村岡)-良幹-高幹-望幹と続き、この良幹は、分筆や書画をよくし、のちに医業を志したといいます。このころから家系として医業も行われていたのかもしれません。

13) 一方常陸大掾氏(大掾詮国:あきくに)は常陸府中(現:石岡)に府中城を築き、周りの勢力と対峙していたが、病弱で、嫡男の満幹が後を継いだが、まだ幼かったため、この満幹を補佐するため、鎌倉の芹沢家に支援を要請した。

14) 要請に応じて、芹沢良忠が1385年に常陸国へやってきた。そして詮国の娘を妻に迎えた。
一方相模国内の芹沢氏の所領は、子の光尊に譲られ、芹沢氏は常陸と相模とに分かれた。

15) 当時、常陸大掾氏は水戸城とこちらの府中城の2箇所を領していたが、芹沢良忠は府中城に常置していたという。
そして、行方郡荒原郷内の土地をもらい、そこに住んで「芹沢」と地名も呼ばれるようになった。

16) 上杉禅秀の乱(1416年)や結城合戦(1440年)などで、東国では戦乱が続き、芹沢氏も翻弄されていきますが、芹沢氏も周りの大掾氏の関係氏族を始め、江戸氏、佐竹氏などと婚姻などで関係を深めて、その所領の維持・確保に努めていきます。

17) 戦国末期の天正18年(1590)、佐竹義宣は秀吉から常陸国の所領を任され、水戸城から江戸氏を追放し、府中城を攻め、大掾氏は自害した。そして、鹿島・行方などの常陸大掾系の一族(南方三十三館)の城主や武将たちを太田城に招き、その全てを謀殺した。
しかし、この芹沢城にいた芹沢国幹は病気と偽って招きに応じなかった。
これにより命拾いとなるのだが、城主らを殺された三十三館の勢力は、佐竹氏に滅ぼされたり、自ら城を明け渡して民に下ったり、大きな憂き目を見ることになるが、どうもこの芹沢氏は佐竹氏とはかねてからの関係が良かったようで、大きく攻められることはなかったようだ。
また佐竹氏はこの南郡の勢力の押さえにこの芹沢氏を利用したとも考えられます。

この南部の常陸大掾系諸氏の家臣たちは、芹沢城に逃げ込み佐竹氏に抵抗したため、ついに芹沢国幹も城を出て、下総古河に移り、のちに下野国喜連川の那須資家の館に身を寄せたという。
国幹の子通幹もまた、縁故の秋田城之介を頼って出羽国に移住した。
しかし、佐竹氏の秋田転封により秋田氏も国替えとなり秋田から常陸国の宍戸に移りました。このとき芹沢氏も常陸国に戻り、1604年に内原あたりの土地100石を与えられ、1606年に家康から行方郡富田の地に百石を与えられ故郷芹沢に戻ってきました。
その後は水戸藩の郷士となり、幕末まで続いていきました。

ようやく芹沢氏が佐竹氏の呼び出しに応じず、その後の難も逃れた背景も少しですが見えてきたようです。
また、医者の家系であったことも結構昔から続いていたのかもしれません。

芹沢氏は多気太郎の子孫であった。 という事でしょうか。

また長くなってしまいました。
この先どうやってまとめていこうか・・・・・ さて見えない!

まあ、手奪川から調べていくと、いろいろな事が見えてきますね。

さて、この河童伝説に登場する「芹沢の殿様」は<芹沢隠岐守俊幹>といわれています。

芹沢氏の系図
 (多気)義幹ー茂幹ー兼幹ー種幹ー(村岡)幹文ー良幹ー高幹ー望幹ー讃岐守良忠(常陸国へ、芹沢城築城)ー(相模国に残る)光尊ー土佐守幹兼ー(芹沢)讃岐守俊幹ー土佐守秀幹ー土佐守定幹ー土佐守国幹ー通幹ー将幹、高幹

などとなっている。
この河童の話しに出てくる讃岐守俊幹だが、相模国に残った芹沢氏は光尊、幹兼、この俊幹と三代がまだ生きて残っていたが、永亨の乱や結城合戦で、この相模の領地を失い、三代が離散となったのだ。
幹兼は会津の葦名氏を頼って会津に渡ったが、結城合戦で結城氏に味方するために駆けつけ、結城城で討ち死にしています。
一方当時まだ若かった俊幹は大掾頼幹に預けられた。
結城決戦の後、鎌倉公方となった足利成氏は、俊幹を元服させ、この行方郡荒原郷朝日岡に居を構え、地名をとって改めて芹沢氏を称したという。
俊幹は芹沢城築城の良忠の曾孫となる。この間この芹沢城がどのようになっていたのかはよくわからない。

俊幹はこの地の安定と、周りの氏族との関係を深め、芹沢氏の反映と安泰を図っていきました。
こんな中にこの河童伝説が秘められているのですが、作られたのがいつなのかはよくわかりません。
河童の薬で傷が治ったり、痛いところがおさまったりする・・・
単に、そんな話を広げたいからこの話を創ったといえるのでしょうか。
どうももう少し意味合いが深いように思われます。

次回は芹沢鴨について少しだけふれておきます。


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てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/14 15:29

手奪橋(その6)

【手奪橋(その6)】

茨城県行方市の梶無川に架かる河童伝説の残された「手奪橋」を少し調べています。
わかったことなどを少しずつ書いていきます。今回は6回目です。
あまり結論が見えないまま、手奪橋と河童伝説から何か見えてこないかと勝手に書き始めたのですが、ますます結論は遠ざかっているようです。
まあ、読んでいただいている方には申し訳ないのですが、恐らく何も結果はもたらさないかもしれません。
でも結論も何も見えずに公開して書くということは、結構勇気が要りますよ。
今回は全く横道にそれてしまうのですが、芹沢鴨という人物を簡単に調べておきたいと思います。

<芹澤鴨は果たしてこの芹沢家?>

 新選組を創った男などといわれる「芹沢鴨」ははたして、この関東平氏の流れをくむ芹沢家の子孫か?
芹沢鴨については、その出生については現在もよくわかっていない。

成人になるまでは下村嗣次(しもむらつぐじ)を名乗っており、この名前から松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官下村祐の子供(実子)、または(芹沢家からの)婿養子ではないかとも言われている。(これもはっきりしない)
そのほかにも芹沢家の一派分家の出などとも言われ、いまだにいろいろな説があり、生れた年についても確定していない。

数年前までは、この下村嗣次は芹沢家の当主・芹沢外記(貞幹)の三男であり、文政9年(1826年)の生まれで、幼名は玄太であるというのが一般的な説明だった。
しかし、その後芹沢外記の四男で文政7年(1824年)もしくは文政9年(1826年)生れの長谷川庄七という人物がいることが判明した。長谷川庄七は江戸護衛組織の新徴組から天狗党に加わり、元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した記録が見つかった。そのため、芹沢外記の三男と四男とで年代にも矛盾が生じてきた。

この芹澤外記貞幹の三男の「玄太」とあるが、これは法眼寺の過去帳の記録を読み間違っていたことが判明し、芹沢玄太は芹沢兵太の間違いであったという。この三男兵太は文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれており、慶応4年(1868年)時に芹沢家当主だったとされているため、三男兵太は芹澤鴨とは別人と判明している。

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芹沢家の門近くには市が設置した「芹沢鴨の生家跡」の看板があった。

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芹沢家は現在住んでおられないようだが、手入れはされていて敷地もかなり広い。

この芹沢家の近くに芹沢家菩提寺の「法眼寺(ほうげんじ)」という曹洞宗の禅寺がある。
このお寺はもともと芹沢家の菩提寺であった「東福寺」を江戸前期の1668年に改築する時に、徳川光圀から命じられて、秋田の佐竹氏の太田礼堂(宝源寺)を合併しての再建ならば良いとなり、ここに「法眼寺」という名前の寺として再興された。

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(芹沢家の菩提寺 医王山法眼寺)

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寺の山門を入ったすぐ左側に『新選組を創った男 芹澤鴨・平間重助』の顕彰碑が置かれている。
また直ぐその隣に並んで、平成22年に建立されたいう新しい顕彰碑「芹澤鴨が愛したお梅の碑」が建てられている。
芹沢鴨は八木家でこの愛妾お梅と寝ているところを意見が対立していた新選組のメンバーによって襲われ、芹澤鴨とともに惨殺されたという。

もう一人の「平間重助」は芹澤鴨と行動を共にし、新選組に入り八木家で芹澤鴨と共に刺客に襲われるが、この平間重助は助かる。その後、郷里芹澤に戻り明治7年に51歳で亡くなったとされる。

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(『新選組を創った男 芹澤鴨・平間重助』の顕彰碑)

一番最後に北の天満宮に献じたとされる「霜雪に 色よく花の魁て 散りても後に 匂う梅が香」という歌が載せられている。

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(「芹澤鴨が愛したお梅の碑」)

さて、この法眼寺は芹沢家の菩提寺という事で、お墓を探して寺の裏へ。

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裏山の少し高い所にお墓がありました。

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これが、芹沢家のお墓です。

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この正面の碑は「法眼寺開基之碑」
この開基は「芹澤隠岐守平俊幹」となっています。

そして 常陸大掾 多気太郎平義幹 十二代後裔 初代芹澤城主也 文明十七年没 1485年 と書かれています。

ここを訪れたのはもう5年ほど前です。
その時もここに書かれていることはなんとなく理解したのですが、前回芹沢家の歴史を振り返り、経歴なども見て言ってようやく今理解ができたように思います。(まだ一部ですが)

なかなか全容を理解するのは大変ですね。

では下村嗣次(継次)と名乗っていた人物が、いつ頃から芹沢鴨と名乗るようになったのだろうか?

記録によると、1858年に徳川幕府が天皇の承諾なしに日米修好通商条約を調印したことに腹を立て、孝明天皇が水戸藩(一橋派)へ幕政改革を求める密勅(戊午の密勅)を下した。
しかし、大老井伊直弼は、この蜜勅の返納を命じ、水戸藩の主だったものを投獄したり謹慎させたりした(安政の大獄)。
水戸藩からの密勅返納を阻止しようと、反対派は水戸の南の長岡に結集した。
下村嗣次は、この返納阻止運動に参加し、1860年頃、玉造勢に入ったと考えられています。

ここで、横浜で攘夷を決行するための資金を集めるために、千葉方面などにも出かけていき、強引な取立てなどもしていたようです。これらの強引な手法が代官から幕府へ訴えられ、1861年にここ芹沢家に遊女いろ八といたところを捕縛されています。
翌年1862年1月にようやく釈放されており、この時までは下村嗣次となっているようです。

芹沢鴨と名乗るようになったのはその後のことです。
暗殺されたのが1863年9月ですから、芹沢鴨の名前は新選組にかかわった1年半ほどの短い期間だったといえます。

芹沢家にも出入していたようですし芹沢家とは関係もあったと思われ、鴨の名前も、玉造郷校(玉造勢)に近い所にあった、ヤマトタケル伝説で名前が残されていた「鴨の宮」から採ったということは間違いは無いでしょう。

今回はここまでとします。


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てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/15 17:42

手奪橋(その7)

【手奪橋(その7)】
 
 茨城県行方市と小美玉市から行方市玉造の霞ヶ浦に注ぐヤマトタケル伝説が残る「梶無川」の中流には河童伝説があり、そこに「手奪橋」という橋が架けられていますが、その読み方が「てばいばし」なのか「てうばいばし」なのかを少し追い求めるために、少し歴史などを織り込みながら、ここまで6回に亘って書いてきました。

しかし、疑問は解消されていません。

ただ、江戸時代中期頃の地図や文献にはこの川の名前が、下流域は「梶無川」で、中流から上流は「手奪川(てばいかわ)」となっていたようです。
昔は、川の名称も上流・中流・下流などでそれぞれ違う呼び名であった事は良くありました。
また、それも時代で変って行く場合も良くあったようです。

この「手奪川」という名称が、この河童の腕を切り落とした殿様の話が最初にあったとしたら、こんな名前をつけるでしょうか?
手を奪うのではなく、腕を切る、腕をくっつける・・・などの言葉を連想しやすいものとなるでしょう。
手は河童から奪ったのではなく、切り落としたのです。

千葉県香取市の大根(おおね)という地区に「切手神社」という名前の神社があります。
当然この切手と言う名前から、郵便切手を想像しますね。
郵便切手の「切手」の名前由来は、「切符」の「切」と、「手形」の「手」を組み合わせた語といわれていますので「手を切る」とは関係ありませんが、ここに伝わるお話しは少し違っています。

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(切手神社:香取市大根)

このあたりは、古代に香取神宮などに祀られている物部族が海よりの東側から、また崇神天皇などの出雲族が西側からやって来て領地を巡って攻めあったようです。
そのとき、この地(大根地区)は、出雲族が物部軍を制圧し、出雲族に伝わる「息呼せ」という技法を物部族に強要しました。
しかし、これを拒否した物部(大根一族)の者たちの手を出雲族の支配者が切ったという伝承が伝わっているようなのです。
これで、手を切ったので「切手」となった。

まあこれも一つの伝承であり、はっきりした事はわかりません。
しかし、香取神宮から西側にはこの近くに「返田(かえだ)神社」という神宮の摂社がありますが、この西側(佐原近辺)には「諏訪神社(大神)」という名前の神社が結構たくさんあります。

このように手を切ったのであれば「切手」などというほうがストレートですよね。

もう一つ「テバイ」といえば「手這坂」という地名、坂名の存在との関係です。

<手這坂(てばいざか)>

(1) 手這坂(てばいざか)の合戦

 これは、筑波の小田氏と佐竹氏との争いで、かなり有名な合戦である。
しかし、この手這坂という名称も、手倍坂、手拝坂、手葉井山・・・などといろいろあり、当時の書状などには殆んどこの名前は使われていないにもかかわらず、この名前は有名になっている。
また合戦が起こった場所についてもおおよその見当が付くだけで正確にはわかっていない。

この合戦については、下記ページに詳しく書かれているので興味のある方はご参考まで:
http://yogokun.my.coocan.jp/tebaiyamakassen.htm

合戦は諸説あるが、永禄12年(1566)11月23日~24日、小田氏治(うじはる)が石岡の片野城(元は小田氏の城であったが、佐竹氏が奪い、太田資正(三楽斎)が入っていた)を攻めようと、筑波側の野根を越えて現在の石岡市の小幡から少し登った山(手葉井山?)に陣を張り、麓の吉生(よしう)村などの勢力と争っていたところを、背後から真壁勢が攻め、更に片野の太田三楽斎などが加わって小田氏治は敗走し、つくばの小田城へ帰ろうとした。
しかし、それより早く、太田三楽斎の軍勢は先回りして見方と偽り小田城を開門させ、主力部隊のいない小田城を乗っ取って占拠した。
帰る場所を失った小田氏治は一旦見方の他の城に入り、その後土浦城へ入った。
鎌倉時代から常陸国南部に広大な領地を有していた小田氏も氏治の時代になり、負け続けたなどといわれるのはこうした間抜けな事があったということなのか。
もっとも太田三楽斎も留守中に、自分の城(岩槻城)を子供に奪われるという失態をしているので、一概には言えまい。
しかし、三楽斎はなかなかの策略かとしても有名で、自分の城と、仲間の城に犬を飼いならして飼っていて、いざ片方の城が攻められたときには、その犬を場外に逃がし、もう一つの城に逃げ込んで知らせるという「軍用犬」を始めて採用したとも言われている。

 さて、話はそれたが、手這坂というのは手で這って登らねばならないほどの急坂であろうと、名前から想像していたが、一概にそうとも言えないようだ。
手這、手倍、手葉井、手拝などと漢字で書くと少しずつ意味合いが違って見える。
この石岡の小幡地区の奥は、柿などの果樹園も多い地区でもある。また徳一法師が建てたという筑波山周りに配した四面薬師堂の一つ「山寺」も近くにあった。
またこの合戦の死者を弔って建てられたのかはわからないが、多くの石仏が眠っている地域でもある。
この「てばい」という名前も手葉井山北側あたりの旧字名でもあったようだ。

(2) 手這坂(てばいざか) 茨城県城里町石塚

石岡の街から県道52号線(通称:石塚街道)を北進し、石塚の町から下の国道123号線に断崖をS字ヘアピンカーブになって下る坂がある。
ここは今はS字クランクになっているが、昔は下から直登していたという。
まさに両手をついて登らねばならないほどの坂道で「手這坂(てばいざか)」と名前がついている。

(3) 手這坂(てはいざか) 秋田県八峰町(はっぽうちょう)

 今でも藁葺き屋根の民家(4棟)が残る山間の集落名(峰浜村)

1807年に江戸後期の旅行家で植物学者の菅江真澄(すがえますみ)が、ここを訪れ、日記「おがらの滝」に絵入りで紹介し、桃源郷の様だ と賞賛したことから知られるようになった。

ただ、一時住民が皆離れ無住にもなったが、現在は一部に移住する人も出てきて何とか住居を保存しているが、人でも足りず景観保護としては手が足りていないのが実情という。

ここの地域名の「手這坂」というのがいつ頃つけられたのか、調べてみたがわからなかった。

菅江真澄は、「坂中にたちて桃の真盛を見やるに、山川のさまさらに武陵桃源のものかたりに似たり」と絵入りで書いている。

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ここに誰 世々咲く桃に かくろひて
     おくゆかしけに 栖めるひと村   菅江真澄

大坪平から手這坂に出た。家が4,5軒川岸にあるのが見えた。
坂の上から眺めると、昔仙人が山の奥深く、清流の岸辺に庵を結び隠れ住んだという中国の桃源郷のように思われ、この和歌を詠んだ。(現地看板)

どのような坂であるかを知らないが、坂から見下ろした下の川沿いの集落が、余りにも美しくて・・・・
という事だろう。
手で這うくらいに急な坂であったのか。 
これではわからないがイメージとしてはそれほどの急坂ではなくゆるい坂ではないかと思える。

急坂にはそのほか「へっぴり坂」「屁っぷり坂」などというのもある。
ここも手で這いあがるという意味ではないのだろう。 手拝あたりかもしれない。

まあよくわからないので、又先の宿題として頭においておき、一旦終了としよう。


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てばい(手奪、手這) | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/10/17 21:33
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