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角のある蛇「夜刀神」説話

 むかしむかしのことです。

第26代天皇の継体天皇の代(西暦507年~531年)頃のお話です。

これは、今から1300年ほど前に「常陸国風土記」の行方郡のところに、古老から伝えられた話として書かれています。

むかしむかし、継体天皇の御世に、石村(いわれ)の玉穂(たまほ)の宮に、箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)という人物がいた。
この人物が、郡の西側の谷津(やつ)の葦原を開墾して新たに田を切り開いた。
しかし、このとき、夜刀(やつ)の神とよばれる頭に角がある蛇が群れをなして現われ、田作りの邪魔をして耕作が進まなかった。
この夜刀の神については、この夜刀の神の難を免れようと逃る時、振り返ってその姿を見た者は、その後一家は滅び、子孫までも皆絶えてしまうという。

そこで、箭括の麻多智は大いに怒り、甲鎧を身につけ、この夜刀を打殺し、山の入口まで駈逐して攻めていった。
そしてこの境の堀に標(しるし)の杖を立てて、夜刀の神に向かって言った。

「ここより上の山をあなたたち神の住みかとし、下の里を人の作れる田としよう。
今日から私はここで、神司(かむづかさ)となって、子孫の代まであなたがた神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりしないでください。」

その後ここに社を設けて、最初の祭を行った。 それ以来、この麻多智(またち)の子孫は、今日に至るまで代々この祭を絶やすことなく引き継ぎ、新田も更に増え、十町あまりが開墾されている。

その後、孝徳天皇の御世(西暦596~ 654年)になって、壬生連麿がこの谷を支配する事となり、この谷津にある池に堤を築いた。
そのとき、夜刀の神が、この池のほとりにある椎の木に登り群れて、なかなかそこを去らなかった。
このため壬生連麿は怒って、
「この池の堤を築くのは、民を活かすためでございます。あなたがたは、何の神、誰の神かはわかり申さぬが、詔をお聞きください。」と大声で叫び、労役に駆り出されていた人々に「目に見える魚でも虫でも、反抗する者があれば遠慮なく全て打ち殺せ」と命じたところ、夜刀神は恐れをなしてみな逃げだした。

その池は、今は椎井の池と呼ばれ、池のまわりに椎の木がある。 ここは香島(鹿島神宮)への陸路の駅道である。

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さて、このお話の舞台である「椎井の池」と夜刀の神を祀る神社へ行ってきた。

玉造から国道354号線で鹿行大橋方面に少し進み新しく出来た玉造小学校の入口案内から右に折れ、すぐに左にまた曲がって、国道沿いの道をすすみます。
この右手の住宅や畑などが広がる地帯が「泉区」で、この椎井の池に関係する地域です。
しばらく進むと「泉区浄水場」があり、ここに「夜刀神神社・愛宕神社」の矢印看板が出ています。
この案内板に従って右折すると、道はどんどん谷の方に下っていきます。
そして、しばらく行くと、また右へのT字路があり、ここにも同じ案内板があります。
道は更に谷底のような場所へ降りていきます。

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この看板からはすぐで、「椎井の池」にでます。脇に数台停められる駐車場があります。

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椎井の池には鳥居があり、池は湧き水がこんこんと流れています。

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この池の奥にはいかにも角のある蛇が出てきそうな山で、昔の(神社)祠も置かれています。

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この椎井の池を祀る神社がこの池の脇から上に登った所にあります。

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昔、夜刀の神がたむろしていたという椎の木らしき木も池のわきにはあります。
少し滑りそうな山道を息を切らして登ります。

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登ってきた道を振り返ると・・・・

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やっと上に神社の建物が見えてきました。

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愛宕神社です。

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この愛宕神社の直ぐ右側の奥に「夜刀神」を祀る神社があります。

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この近くを、恐らく常陸国国府(現石岡)から鹿島神宮への官道が昔通っており、この近くに駅屋(うまや)があったようですので、この池の水は駅屋の馬の水として貴重なものだったと考えられます。

この池の神社の山と反対側にも上る道があります。
車ではいけませんので、回りこんで向こう側の上へ行って見ました。

住宅や広々した平地が広がっていて、この椎井池への降り口には神社の鳥居が置かれています。

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この突き当りの鳥居から下へ、降りた所に椎井の池があります。

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そして鳥居の右側に道祖神が祀られています。
年代は、江戸末期から明治時代のものが多いようです。
泉地区の婦人会などで、子安講などが行われてきたようです。

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この常陸国風土記の説話は、いろいろ解釈ができますが、大和朝廷がこの地を開拓し、支配を広げていったときのはなしとして考えると、その支配の過程がこの話しの根底に隠されているように感じます。

最初の箭括麻多智(やはずのまたち)は、現地の族の長と考えられ、その後の壬生連麿は、箭括麻多智(やはずのまたち)の開墾した谷戸(やと)田(谷水田)に民を動員して、夜刀神(やとのかみ)(蛇の神格化)を打ち殺しつつ大規模な開発を行い、溜池(ためいけ)を築いて安定した耕地を開いた人物で、茨城国造(いばらきのくにのみやつこ)と考えられています。

夜刀神も恐らく、箭括麻多智(やはずのまたち)と同じ、昔この地に暮らしていた一族(縄文人)を指していると考えられます。
この人物の名前も、ヤハズは矢筈:矢の弦にかける切れ込みのあるところで、マタチは、ヤマタのヲロチと同じくマタのある蛇の意ではないかという解釈もあります。

夜刀の神も、この谷底にいた、もっとも怖い妖怪と考えても良し、また、ヤマタノオロチ伝説のヤマタノオロチと同じように見ることも出来ます。

しかし、古事記や日本書紀の神話の世界を引き継いだ風土記も、書かれた当時は東北地方はまだ蝦夷地で、朝廷の意向を汲む同じ流れで纏められたものです。

しかし私には、この風土記の作者は、少しそこにこっそりとこの地の開拓や、現地人たちとの衝突など、それまでの時代の流れを書き留めているように感じます。

常陸国風土記と昔話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/11/10 14:27

白鳥の里と角折浜の説話

 昨日「角のある蛇 夜刀の神」説話の紹介をしました。
そこで書きながらもう一つ気になる常陸国風土記に記載されているお話をしておきたいと思います。

 むかしむかしのことです。

鹿島郡の郡家の北三十里のところに、白鳥の里というところがあります。

第11代天皇の垂仁天皇の代(紀元前29年~紀元後71年 ??)の頃のお話です。

あるとき、天より飛来した白鳥の一群がありました。

白鳥たちは、朝に地上に舞ひ降りて来て、乙女の姿になり、石を拾い集めては水をせき止めて、池の堤を少しづつ築き、夕方になると、また白鳥の姿にもどり、天へと帰っていくのでした。

しかし、池の堤は、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりでなかなか池の堤は完成できませんでした。

さうしてこの白鳥たちは、

  「白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え」

(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるようなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)

 と歌いながら天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはありませんでした。

この謂れにより、白鳥の里と名付けられました。

また、この里の南に広がる平原を、角折の浜といいます。

この名前の由来は、昔、このあたりに頭に角のある大きな蛇がいて、東の海に出たいと思い、この浜に穴を掘って通らうとしました。 しかし、蛇の角が折れてしまったので、そこから名付けられたものです。

また別の言い伝えによると、昔ヤマトタケル尊がこの浜辺に宿をとったとき、食事を供へようとしたが、水がなかったため、鹿の角で地を掘ったら角が折れてしまったともいう。

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さて、この話は第11代天皇の垂仁天皇の頃に池を造るというお話です。
垂仁天皇(すいにんてんのう)は実在した可能性が高い天皇と考えられてもいますが、紀元前の生まれではなく、時代としてはもう少し後になりそうです。

垂仁天皇は崇神天皇の3番目の子供で、大和朝廷の生産力の拡充や、新羅などとの交流も積極的に行ったと言われています。
特に水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作りました。

この白鳥伝説も、こ白鳥や乙女の美化された話ではなく、水田に使う水を貯める池の構築が、かなりの難事業であったことを物語る話としてみると、内容が少しわかってくるように思います。

また、垂仁天皇は天皇などが亡くなった時に、人の殉死などの風習があったのを排除し、代わりに埴輪を使うことをはじめたとされています。

また、夜刀神の時代よりさらに200年ほど前の話と捉えると、角折浜の話しは、九州方面から黒潮に乗って千葉や茨城の浜にやってきた海人族(縄文人)とはまた別な、内陸の川や山に住む縄文人の一族を指しているのかもしれません。
東の海に出ようと砂浜に穴を掘って進んだけれど、角が折れてしまった・・・・・
なんかとてもいろいろな事が想像される話に思えます。

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この白鳥の里ですが、旧太陽村(現鉾田市)の中居あたりではないかとされています。
というのもこの中居地区の西側の霞ヶ浦北浦近くには「白鳥西小学校、東側の鹿島灘近くには「白鳥東小学校」があります。
遺称地として、地元などに看板などがある場所は、この中居に「白鳥山大光寺照明院」という天台宗のお寺があります。

昔行ったときの写真ですが、

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(白鳥山大光寺照明院)

寺は無住で、人の気配はない。
寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。

もう一つが、北浦に架かる鹿行大橋に近い札村の「白鳥山普門寺」である。

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(白鳥山普門寺 白鳥観音堂)

こちらも昔訪れた時の写真だが、忘れ去られたように残されていた「白鳥観音堂」が記憶に残っている。
この札村は芭蕉の禅の師である「仏頂禅師」が江戸初期の1642年2月18日に生まれている。

仏頂禅師は、大田原の雲厳寺裏の山の草庵で禅の修行をしたといわれる。
その後潮来の根本寺の住職をしていた。寺領の争いのため、江戸を訪れていたときに芭蕉と知り合った。
また、小林一茶が1817年5月に鹿島詣での途中に、この地を訪れている。
いろいろあるが、今この地を訪れる人はあまりいないようだ。

常陸国風土記では鹿島郡の郡家から北三十里と書かれているが、現在郡家跡とされる場所は鹿島神宮の南側にあり、三十里よりは大分遠いように思う。
しかし、郡家がこの地に移る前に神宮の北「沼尾神社」付近にあったと考えれば、記述とさほど違わない。

もう一つ「角折」ですが、これも現在「はまなす潮騒公園」の東側の海岸付近に「角折」地名が残されています。
こちらの公園はハマナスの南限地といわれ、この名前がつきました。

ここには鹿島灘で塩汲みから財を成したという出世話が室町時代の「御伽草子」に書かれています・
御伽草子の最初にでてくる「文正(ふんしやう)草紙」がそれです。
昔はこのような出世話が喜ばれたようです。

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(文太長者屋敷跡)

 夕日かがやく
   この岡に
 黄金せんばい
   にせんばい

お話の内容は別途調べれば出てきます。

この話しなどももっともっと夢を膨らませてみたいですね。


常陸国風土記と昔話 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2020/11/11 12:54
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