庚申塔(1) 神善寺(茨城県神栖市)
前回の記事から1週間過ぎてしまいました。
やらなければいけないことが結構蓄積してしまって・・・
また、緊急事態宣言などのために、あまり出歩くこともためらわれ・・・・
さて、どうしようかなどと言ってもネタもあまりないし・・・・
ということで、今まで訪れたところにあった庚申塔の写真を集めてみようかなどと思うのです。
最初に、このきっかけとなった茨城県神栖市波崎舎利にある古刹「神善寺(じんぜんじ)」の庚申塔から始めましょう。
先日また気になって訪問して来ました。
このお寺は1056年に高野山から十六善神(四天王と十二神将の十六の神)を持ってきて、この地に創建されたという古刹。
なんといっても、寺の境内にある「大タブ」の木は樹齢千年ともいわれる大きさで、大きなこぶがあるのが特徴。
その境内の脇に、庚申塔と子安観音像(十九夜講)がそれぞれ10体から15体ほどが並べられている。
制作年月日などが彫られているものが少ないため、いつの時期のものか判別しがたいが、江戸から明治にかけてのものが多そうだ。
真ん中に置かれている庚申塔には、手前に花が飾られていた。

年号が刻まれている。
寛文十三年八月
寛文13年(1673年)は旧暦5月に京都の関白鷹司房輔(公家)屋敷から火災が起こり、市街の約1万軒が焼失した大火災が発生している。このため、その年の9月に年号を寛文から延宝に改めている。
この庚申塔はその火災のあと、年号が改まるまでの間に建てられている。
三猿の姿は描かれているが、一般に描かれる青面金剛像ではなく、菩薩像だろうか、如来像か?
お釈迦様(如来)であろうか? 頭に螺髪(らほつ)が見られる。
一般的な釈迦如来像は右手を上げて左手を下げているのだが、この像は逆だ。
どのような意味があるのか?
右手:恐れなくても良いよ(施無畏印)、左手:願いをかなえてあげるよ(与願印)・・・・かな。
仏像も少し勉強したけど、全く知識が足り無そうだ。

三猿ははっきり描かれているので、庚申塔には違いなさそうだ。
ただ、足元に邪鬼などはいない。
その向かって左側の庚申塔がなかなか格好いい。

庚申塔の守り本尊である、青面金剛(しょうめんこんごう)像が描かれているが、かなり独特な表情だ。
手は左右に3本ずつ、計6本ある。
右手に三叉戟(さんさげき)と棒、左手に法輪と羂索(けんさく)綱を持っている。
かなり独特な容姿をしているが、頭には蛇がいるようだ。
Wiki.で調べてみると、陀羅尼集経・第九に書かれている青面金剛の像容は、
『一身四手、左辺の上手は三叉を把る。下手は棒を把る。
右辺の上手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を把る。
其の身は青色、面に大いに口を張り、狗牙は上出し、眼は赤きこと血の如く、面に三眼あり、頂に髑髏を戴き、頭髪は竪に聳え、火焔の色の如し。
頂に大蛇を纏い、両膊に各、倒に懸ける一龍有り。
竜頭は相向う。其の像、腰に二大赤蛇を纏う。
両脚腕上に亦大赤蛇を纏い、把る所の棒状も亦大蛇を纏う。
虎皮を胯に縵す。髑髏の瓔珞、像の両脚下に各、一鬼を安ず。
其の像の左右両辺に各、当に一青衣の童子作るべし。
髪髻両角、手に香炉を執り、其の像の右辺に、二薬叉を作る。
一は赤、一は黄、刀を執り索を執る。其の像の左辺に二薬叉を作る。
一は白、一は黒。銷を執り、叉を執る。形像並びに皆甚だ怖畏すべし、云々』
なるほど、これに近い姿なのかもしれない。

足元には邪鬼を踏みつけている。その下にはやはり三猿がいる。

今、ここまで、中央に並んだ2つの庚申塔を紹介した。
その右側にも青面金剛が描かれた庚申塔が並んでいたので、写真のみ紹介しておこう。



やらなければいけないことが結構蓄積してしまって・・・
また、緊急事態宣言などのために、あまり出歩くこともためらわれ・・・・
さて、どうしようかなどと言ってもネタもあまりないし・・・・
ということで、今まで訪れたところにあった庚申塔の写真を集めてみようかなどと思うのです。
最初に、このきっかけとなった茨城県神栖市波崎舎利にある古刹「神善寺(じんぜんじ)」の庚申塔から始めましょう。
先日また気になって訪問して来ました。
このお寺は1056年に高野山から十六善神(四天王と十二神将の十六の神)を持ってきて、この地に創建されたという古刹。
なんといっても、寺の境内にある「大タブ」の木は樹齢千年ともいわれる大きさで、大きなこぶがあるのが特徴。
その境内の脇に、庚申塔と子安観音像(十九夜講)がそれぞれ10体から15体ほどが並べられている。
制作年月日などが彫られているものが少ないため、いつの時期のものか判別しがたいが、江戸から明治にかけてのものが多そうだ。
真ん中に置かれている庚申塔には、手前に花が飾られていた。

年号が刻まれている。
寛文十三年八月
寛文13年(1673年)は旧暦5月に京都の関白鷹司房輔(公家)屋敷から火災が起こり、市街の約1万軒が焼失した大火災が発生している。このため、その年の9月に年号を寛文から延宝に改めている。
この庚申塔はその火災のあと、年号が改まるまでの間に建てられている。
三猿の姿は描かれているが、一般に描かれる青面金剛像ではなく、菩薩像だろうか、如来像か?
お釈迦様(如来)であろうか? 頭に螺髪(らほつ)が見られる。
一般的な釈迦如来像は右手を上げて左手を下げているのだが、この像は逆だ。
どのような意味があるのか?
右手:恐れなくても良いよ(施無畏印)、左手:願いをかなえてあげるよ(与願印)・・・・かな。
仏像も少し勉強したけど、全く知識が足り無そうだ。

三猿ははっきり描かれているので、庚申塔には違いなさそうだ。
ただ、足元に邪鬼などはいない。
その向かって左側の庚申塔がなかなか格好いい。

庚申塔の守り本尊である、青面金剛(しょうめんこんごう)像が描かれているが、かなり独特な表情だ。
手は左右に3本ずつ、計6本ある。
右手に三叉戟(さんさげき)と棒、左手に法輪と羂索(けんさく)綱を持っている。
かなり独特な容姿をしているが、頭には蛇がいるようだ。
Wiki.で調べてみると、陀羅尼集経・第九に書かれている青面金剛の像容は、
『一身四手、左辺の上手は三叉を把る。下手は棒を把る。
右辺の上手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を把る。
其の身は青色、面に大いに口を張り、狗牙は上出し、眼は赤きこと血の如く、面に三眼あり、頂に髑髏を戴き、頭髪は竪に聳え、火焔の色の如し。
頂に大蛇を纏い、両膊に各、倒に懸ける一龍有り。
竜頭は相向う。其の像、腰に二大赤蛇を纏う。
両脚腕上に亦大赤蛇を纏い、把る所の棒状も亦大蛇を纏う。
虎皮を胯に縵す。髑髏の瓔珞、像の両脚下に各、一鬼を安ず。
其の像の左右両辺に各、当に一青衣の童子作るべし。
髪髻両角、手に香炉を執り、其の像の右辺に、二薬叉を作る。
一は赤、一は黄、刀を執り索を執る。其の像の左辺に二薬叉を作る。
一は白、一は黒。銷を執り、叉を執る。形像並びに皆甚だ怖畏すべし、云々』
なるほど、これに近い姿なのかもしれない。

足元には邪鬼を踏みつけている。その下にはやはり三猿がいる。

今、ここまで、中央に並んだ2つの庚申塔を紹介した。
その右側にも青面金剛が描かれた庚申塔が並んでいたので、写真のみ紹介しておこう。



庚申塔(2) 毘沙門堂(茨城県稲敷市浮島)
今回は私が初めてこの青面金剛像と三猿が彫られた庚申塔を目にしたものを紹介します。
今から9年前の2012年1月に昔霞ヶ浦に浮かぶ島であったと言われている「浮島」を散策していた時です。
ブログで近隣の寺や神社などを訪ね歩くことを始めたから1年以上経過した後ですから、かなり珍しかったのです。
陸平貝塚や広畑貝塚などをみて、浮島地区を散策していた時に見つけた古びたお寺(お堂)があり、境内を調べていてこの像を見つけました。
もちろん今ではそれからいくつも見て来ているのでそれほど驚くこともないのですが、初めて見た時は何が表現されているのかわからずにただ驚くだけでした。

一般的な青面金剛像と足元に邪鬼、その下に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が描かれています。
そして、この塔の隣りには「新四国八十八霊場 第六十番」 の碑と回国記念(六十六部)石碑などが並んでいました。
有名な場所でもないのですが、不思議な場所でした。
私にとっては最初に見た庚申塔でしたので思い出深いものになりました。
今から9年前の2012年1月に昔霞ヶ浦に浮かぶ島であったと言われている「浮島」を散策していた時です。
ブログで近隣の寺や神社などを訪ね歩くことを始めたから1年以上経過した後ですから、かなり珍しかったのです。
陸平貝塚や広畑貝塚などをみて、浮島地区を散策していた時に見つけた古びたお寺(お堂)があり、境内を調べていてこの像を見つけました。
もちろん今ではそれからいくつも見て来ているのでそれほど驚くこともないのですが、初めて見た時は何が表現されているのかわからずにただ驚くだけでした。

一般的な青面金剛像と足元に邪鬼、その下に見ざる、言わざる、聞かざるの三猿が描かれています。
そして、この塔の隣りには「新四国八十八霊場 第六十番」 の碑と回国記念(六十六部)石碑などが並んでいました。
有名な場所でもないのですが、不思議な場所でした。
私にとっては最初に見た庚申塔でしたので思い出深いものになりました。
庚申塔(3) 佐倉神社(茨城県稲敷市佐倉)
この庚申塔は、今から8年以上前に、美浦村から江戸崎方面に行く途中で見つけたもの。
旧江戸崎の町の手前、県道がこの佐倉神社を東西に分断しています。
東側に神社の本殿などがあり、西側には赤い小さな社が置かれています。
この西側の古木の根元に置かれていました。

この佐倉という地名も気になるところです。
このあたりには、信田(信太)の庄の館があった場所とされ、隣の信太(しだ)とにまたがって、信太(しだ)小太郎伝説が眠っています。
この伝説では、信太(しだ)小太郎は平将門のひ孫という設定で、悪い姉夫婦によってこの地(父から受け継いだ領地)を奪われ、各地を転々として苦労しますが、最後はこの地を奪い返すというお話です。
そんな伝説が眠る地にもこの庚申行事が行われていたのでしょう。
旧江戸崎の町の手前、県道がこの佐倉神社を東西に分断しています。
東側に神社の本殿などがあり、西側には赤い小さな社が置かれています。
この西側の古木の根元に置かれていました。

この佐倉という地名も気になるところです。
このあたりには、信田(信太)の庄の館があった場所とされ、隣の信太(しだ)とにまたがって、信太(しだ)小太郎伝説が眠っています。
この伝説では、信太(しだ)小太郎は平将門のひ孫という設定で、悪い姉夫婦によってこの地(父から受け継いだ領地)を奪われ、各地を転々として苦労しますが、最後はこの地を奪い返すというお話です。
そんな伝説が眠る地にもこの庚申行事が行われていたのでしょう。
庚申塔(4) 茨城県石岡市仏生寺地区内
今回は、茨城県石岡市の八郷地区にあった庚申塔を紹介します。
この場所は、その奥座敷的な雰囲気を持つ仏生寺地区にあります。
小町伝説の残る北向き観音を過ぎて、山の麓を小桜川に添って、右に回りこむように進むと、中山集落にでます。
この集落の入口の右側高台に少し変った場所があります。
この高台に上る急な細い石段が上まで続いています。
この石段を上った先に、古墳のような石棺のようなものが露出し、内部に観音像(石像)が祀られています。
そして、その周囲の木の根元などに子安観音像、地蔵像などと共にこの庚申塔も置かれていました。

足元に邪鬼は描かれていないようですが、ちゃんと三猿はいました。
青面金剛の表情などもはっきりと見ることが出来ます。
この場所は、その奥座敷的な雰囲気を持つ仏生寺地区にあります。
小町伝説の残る北向き観音を過ぎて、山の麓を小桜川に添って、右に回りこむように進むと、中山集落にでます。
この集落の入口の右側高台に少し変った場所があります。
この高台に上る急な細い石段が上まで続いています。
この石段を上った先に、古墳のような石棺のようなものが露出し、内部に観音像(石像)が祀られています。
そして、その周囲の木の根元などに子安観音像、地蔵像などと共にこの庚申塔も置かれていました。

足元に邪鬼は描かれていないようですが、ちゃんと三猿はいました。
青面金剛の表情などもはっきりと見ることが出来ます。
庚申塔(5) 八木の縄とき地蔵(石岡市井関)
庚申塔を昔見た記憶をたどりながら、10年ほど前からの過去の記事などを探してみています。
今回は、思い出して時間を作って先ほど訪ねてきました。
石岡市の住所は井関ですが、霞ヶ浦に飛び出し、すこしこんもりした八木という地区があります。
ここは江戸時代には、陸地とは少しはなれた島でした。
水戸藩の領地でもあり、この島には政治犯などの罪人の流刑地でもありました。
まあ、島といってもそこで暮らす住民もおり、政治犯などの罪人は凶悪犯などはおりません。
水戸から唐丸籠に入れられて、対岸の玉里地区で籠から出されて、縄で縛られたまま船でこの島に流されるのです。
そして、島に着くと小山の階段途中にあるこの地蔵堂の前で、縄を解かれ、島の作業場に連れて行かれて作業して過ごした戸いわれています。
そのため、この地蔵堂を「縄とき地蔵」と呼ぶようになったと昔話には書かれています。
一方の玉里側には「かごぬけ地蔵」がやはりあったとされています。
(前に書いた記事「かごぬけ地蔵」参照 ⇒ こちら)
記憶ではこの縄とき地蔵堂の前に幾つかの石像があり、その中に庚申塔もあったと記憶していたのです。
あらためて、今日行ってきました。

八木地区の霞ヶ浦沿岸に近い道の角にこの地蔵堂が建っています。
昔はもう少し先の住吉神社近くにあったようですが、地籍整理でこの場所に集められたものでしょう。
お堂の中にはほぼ等身大くらいの石の地蔵像とその足元に沢山の石仏などが置かれていました。
さて、お堂の上り階段の右には「古酒 馬場山 深谷」と正面に掘られた石碑が立てられていました。
この古酒は「ふるさき」と読みます。もう少し井関方面の部落の名前です。
おそらくわかれ道などに置かれた道標なのでしょう。
左側に4段ほどにわかれて建てられている石造などは、一番下から、観音像、庚申塔、月読尊、二十三夜尊のような区分けで置かれていました。
この地方で道端や部落の入口などに置かれていたものをここに集めたのかもしれません。
2段目の庚申塔は3基?あります。

かなり年月が経っているのでしょう。
彫られている青面金剛も表情などはよくわかりません。

また造られた時代も不明です。

政治犯などでこの島に流された人の中には、この地に土着した人も多くいたようです。
頭の良い人も多かったのでしょう。
井関地区などでは江戸時代後期から明治時代に学問の塾が盛んに行われた地区でもあります。
このような庚申塔がどのような意味合いをこの地区の人々にもたらしていたのかはよくわかりません。
しかし、この判別するのが困難になった石像を見ていると、何か込みあげて来るものがあるように思います。
さて、記憶ではこの地蔵堂の反対側の広場のような所にもう一体の石像があったはずです。
回ってみました。
そこは空き地で、草原であったような場所でしたが、地区の子供会が整備した遊具のある公園になっていました。

さて、庚申塔が確かあったはずですが・・・・・・・
捜して見たら、大きな木の根元に倒れていました。

あらら・・・


こちらは邪鬼と三猿がはっきりわかります。
横倒しのままではなんだかかわいそうですね。
東日本大震災では、このような石像もよく倒れました。
八木地蔵堂の石像も結構倒れてしまったようです。
昔見たときより足元をコンクリで固定して、整備したようです。
市のホームページの写真は地蔵堂まえの石像が皆倒れている写真でした。
今回は、思い出して時間を作って先ほど訪ねてきました。
石岡市の住所は井関ですが、霞ヶ浦に飛び出し、すこしこんもりした八木という地区があります。
ここは江戸時代には、陸地とは少しはなれた島でした。
水戸藩の領地でもあり、この島には政治犯などの罪人の流刑地でもありました。
まあ、島といってもそこで暮らす住民もおり、政治犯などの罪人は凶悪犯などはおりません。
水戸から唐丸籠に入れられて、対岸の玉里地区で籠から出されて、縄で縛られたまま船でこの島に流されるのです。
そして、島に着くと小山の階段途中にあるこの地蔵堂の前で、縄を解かれ、島の作業場に連れて行かれて作業して過ごした戸いわれています。
そのため、この地蔵堂を「縄とき地蔵」と呼ぶようになったと昔話には書かれています。
一方の玉里側には「かごぬけ地蔵」がやはりあったとされています。
(前に書いた記事「かごぬけ地蔵」参照 ⇒ こちら)
記憶ではこの縄とき地蔵堂の前に幾つかの石像があり、その中に庚申塔もあったと記憶していたのです。
あらためて、今日行ってきました。

八木地区の霞ヶ浦沿岸に近い道の角にこの地蔵堂が建っています。
昔はもう少し先の住吉神社近くにあったようですが、地籍整理でこの場所に集められたものでしょう。
お堂の中にはほぼ等身大くらいの石の地蔵像とその足元に沢山の石仏などが置かれていました。
さて、お堂の上り階段の右には「古酒 馬場山 深谷」と正面に掘られた石碑が立てられていました。
この古酒は「ふるさき」と読みます。もう少し井関方面の部落の名前です。
おそらくわかれ道などに置かれた道標なのでしょう。
左側に4段ほどにわかれて建てられている石造などは、一番下から、観音像、庚申塔、月読尊、二十三夜尊のような区分けで置かれていました。
この地方で道端や部落の入口などに置かれていたものをここに集めたのかもしれません。
2段目の庚申塔は3基?あります。

かなり年月が経っているのでしょう。
彫られている青面金剛も表情などはよくわかりません。

また造られた時代も不明です。

政治犯などでこの島に流された人の中には、この地に土着した人も多くいたようです。
頭の良い人も多かったのでしょう。
井関地区などでは江戸時代後期から明治時代に学問の塾が盛んに行われた地区でもあります。
このような庚申塔がどのような意味合いをこの地区の人々にもたらしていたのかはよくわかりません。
しかし、この判別するのが困難になった石像を見ていると、何か込みあげて来るものがあるように思います。
さて、記憶ではこの地蔵堂の反対側の広場のような所にもう一体の石像があったはずです。
回ってみました。
そこは空き地で、草原であったような場所でしたが、地区の子供会が整備した遊具のある公園になっていました。

さて、庚申塔が確かあったはずですが・・・・・・・
捜して見たら、大きな木の根元に倒れていました。

あらら・・・


こちらは邪鬼と三猿がはっきりわかります。
横倒しのままではなんだかかわいそうですね。
東日本大震災では、このような石像もよく倒れました。
八木地蔵堂の石像も結構倒れてしまったようです。
昔見たときより足元をコンクリで固定して、整備したようです。
市のホームページの写真は地蔵堂まえの石像が皆倒れている写真でした。
庚申塔(6) 三熊野神社(常州牛堀)
「常州牛堀」というのは、葛飾北斎が富岳三十六景に描いた富士山の浮世絵でもっとも山から遠い場所である。
常陸国は江戸時代には結構一般的に「常州(じょうしゅう)」と呼ばれていたのでしょう。
牛堀は今は潮来市に合併されていますが、潮来市の西側はずれ、もっとも霞ヶ浦に近い場所です。
江戸時代から霞ヶ浦、北浦などは江戸との間に水運が発達していて、この牛堀地区は北(水戸、仙台方面)から、西(土浦、石岡方面)から荷物や客船が頻繁に通っていました。
高瀬舟なども、帆を張った舟も多く、海風の方向でこの港に船を泊めて、風待ち港として使われており、風待ちの客相手の商売としても結構栄えていたようです。

北斎の絵は、この港の舟に寝泊りしていた船頭の朝の様子(米を磨いでいる)を描いたもので、ここから昔は良く富士が眺められたのでしょう。
この牛堀の港に近い場所に「三熊野神社」があります。

1つの鳥居の先に3つの社が並んでいます。
その正面の拝殿手前の石段左横に庚申塔と思われる少し大きな石塔が置かれています。

年号が入っているようですが、よく読むことが出来ません。
延宝元年?? とも読めそうだが・・・ とすると江戸時代初期の1673年か?

塔の下部にはしっかり三猿が描かれています。
又その下の左右によくわからない像が置かれています。
一般には鶏が多いので、鶏だろうと思うが・・・
「庚申は申から酉の日にかけての行事だから、猿と鶏を彫る」というのが定説のようです。
江戸初期には庚申の行事の本尊が青面金剛と定まっておらず、全国的にも青面金剛像の初出は福井県にある正保4年(1647年)が現存最古とされているという(Wikiより)
また奥の隅には二十三夜塔と並んで青面金剛が描かれた庚申塔も置かれていました。


神社から川(常陸利根川)まですぐです。

ここは北斎公園として少し川沿いに広場を作っています。
川の上流側(左側)には国道50号線の橋が見えます。 右は鹿島から水戸へ、左は成田から千葉へ繋がっています。
この橋の奥が霞ヶ浦で、ここから銚子の方に常陸利根川が流れています。(途中で利根川に合流します)
写真の左側に水門が見えますが、ここから横利根川となって、北側の利根川まで運河の機能を持つ水路(横利根川)が流れています。
常陸国は江戸時代には結構一般的に「常州(じょうしゅう)」と呼ばれていたのでしょう。
牛堀は今は潮来市に合併されていますが、潮来市の西側はずれ、もっとも霞ヶ浦に近い場所です。
江戸時代から霞ヶ浦、北浦などは江戸との間に水運が発達していて、この牛堀地区は北(水戸、仙台方面)から、西(土浦、石岡方面)から荷物や客船が頻繁に通っていました。
高瀬舟なども、帆を張った舟も多く、海風の方向でこの港に船を泊めて、風待ち港として使われており、風待ちの客相手の商売としても結構栄えていたようです。

北斎の絵は、この港の舟に寝泊りしていた船頭の朝の様子(米を磨いでいる)を描いたもので、ここから昔は良く富士が眺められたのでしょう。
この牛堀の港に近い場所に「三熊野神社」があります。

1つの鳥居の先に3つの社が並んでいます。
その正面の拝殿手前の石段左横に庚申塔と思われる少し大きな石塔が置かれています。

年号が入っているようですが、よく読むことが出来ません。
延宝元年?? とも読めそうだが・・・ とすると江戸時代初期の1673年か?

塔の下部にはしっかり三猿が描かれています。
又その下の左右によくわからない像が置かれています。
一般には鶏が多いので、鶏だろうと思うが・・・
「庚申は申から酉の日にかけての行事だから、猿と鶏を彫る」というのが定説のようです。
江戸初期には庚申の行事の本尊が青面金剛と定まっておらず、全国的にも青面金剛像の初出は福井県にある正保4年(1647年)が現存最古とされているという(Wikiより)
また奥の隅には二十三夜塔と並んで青面金剛が描かれた庚申塔も置かれていました。


神社から川(常陸利根川)まですぐです。

ここは北斎公園として少し川沿いに広場を作っています。
川の上流側(左側)には国道50号線の橋が見えます。 右は鹿島から水戸へ、左は成田から千葉へ繋がっています。
この橋の奥が霞ヶ浦で、ここから銚子の方に常陸利根川が流れています。(途中で利根川に合流します)
写真の左側に水門が見えますが、ここから横利根川となって、北側の利根川まで運河の機能を持つ水路(横利根川)が流れています。
庚申塔(7) 海上八幡宮(銚子)
利根川を渡り千葉県に入ると、この庚申塔はもっと多くなるようです。
また呼び名も「庚申様」と呼び、親しみを込めて呼んでいます。
東端の銚子市の少し西側の松岸駅(柴崎町)に近いところに、「海上八幡宮(うなかみはちまんぐう)」という古い神社があります。
社伝では807年の創建とされていますが、あまりよくわかりません。
この境内に庚申塔が古木の近くに100基ほど集められたエリアがあります。

かなりの数があります。
恐らく明治の廃仏毀釈のさいに廃棄されたり、壊されたりしたものや、その後の道の拡張工事などで退けられた石塔がここに納められたものと思われます。

横の方や奥のほうに置かれた石塔には「青面大」などと読める文字が彫られています。
「青面天?」でしょうか?
また近くの町名「柴崎」などとかかれたもの、更に昭和55年などとかなり新しい物もありました。
庚申信仰は基本的には民間信仰であり、明治初めの廃仏毀釈でも禁止されたようですが、地方にまで浸透せず残されてきたのでしょう。
60日に1回回ってくる庚申の日に地域で集まり、徹夜で飲食を共にして過ごす。
これを3年間休まずに続けると、この庚申塔を塚などの上に立てる。
まあ150年くらい続いていれば、全部で50基くらいが建立される。
ただし、この塔は建ててしまえばあまり省みられないようだ。
従って、古いものはどんどん消えて行ったかもしれない。
江戸初期のものには猿は描かれていないものが多くあり、守り本尊も如来だったり地蔵だったり・・・
青面金剛がその主役になったのも恐らく江戸中期頃からだろう。

足元には邪鬼が踏みつけられている。
その下に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がいろいろなポーズで彫られている。
関西方面の庚申塔の三猿は真ん中の猿を少し上のほうに描いているという。
こちらの猿はみな同列だ。

こちらの青面金剛像は途中で折れているが、これも廃仏毀釈のなせる業なのかもしれない。
仏像を首のところで折るというのはこれらの石碑に限った事ではない。
古い石佛の首に赤い布などが巻かれていたら、その殆んどはその場所で後から接ぎなおしているものと考えてよさそうだ。






いろいろな庚申塔があるのを見るのも楽しい。
ここで庚申行事をしたのではなく、この神社付近の部落などで長年行われてきて、道角や小塚の上に設置されていたものをここに集約しておかれたものだと推察される。
さて、神社の名前の「海上(うなかみ)」というのは、旭市、匝瑳市、銚子市あたりは昔、海上郡と呼ばれていました。
海上郡=うなかみぐん と呼ばれていたのですが、近年になり(戦後)「かいじょうぐん」と呼ぶように変更されました。
平成の大合併で、この郡の名前は消えてしまって今はありません。
また律令制の始まるの4~5西紀頃には、下総国は「下海上国(しもつうなかみのくに)」と呼ばれ、古事記などでは「下菟上国」と書かれています。
上総国は「上海上国(かみつうなかみのくに)」(上菟上国)と呼ばれていました。
元々大昔は霞ヶ浦や今の利根川、印旛沼など一帯は大きな内海でしたので、海の上の国のような様相だったのかもしれませんね。
このような「海上」などとついた地名や神社などがあると、私は、この昔を想像して妄想を膨らませてしまいます。
また呼び名も「庚申様」と呼び、親しみを込めて呼んでいます。
東端の銚子市の少し西側の松岸駅(柴崎町)に近いところに、「海上八幡宮(うなかみはちまんぐう)」という古い神社があります。
社伝では807年の創建とされていますが、あまりよくわかりません。
この境内に庚申塔が古木の近くに100基ほど集められたエリアがあります。

かなりの数があります。
恐らく明治の廃仏毀釈のさいに廃棄されたり、壊されたりしたものや、その後の道の拡張工事などで退けられた石塔がここに納められたものと思われます。

横の方や奥のほうに置かれた石塔には「青面大」などと読める文字が彫られています。
「青面天?」でしょうか?
また近くの町名「柴崎」などとかかれたもの、更に昭和55年などとかなり新しい物もありました。
庚申信仰は基本的には民間信仰であり、明治初めの廃仏毀釈でも禁止されたようですが、地方にまで浸透せず残されてきたのでしょう。
60日に1回回ってくる庚申の日に地域で集まり、徹夜で飲食を共にして過ごす。
これを3年間休まずに続けると、この庚申塔を塚などの上に立てる。
まあ150年くらい続いていれば、全部で50基くらいが建立される。
ただし、この塔は建ててしまえばあまり省みられないようだ。
従って、古いものはどんどん消えて行ったかもしれない。
江戸初期のものには猿は描かれていないものが多くあり、守り本尊も如来だったり地蔵だったり・・・
青面金剛がその主役になったのも恐らく江戸中期頃からだろう。

足元には邪鬼が踏みつけられている。
その下に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿がいろいろなポーズで彫られている。
関西方面の庚申塔の三猿は真ん中の猿を少し上のほうに描いているという。
こちらの猿はみな同列だ。

こちらの青面金剛像は途中で折れているが、これも廃仏毀釈のなせる業なのかもしれない。
仏像を首のところで折るというのはこれらの石碑に限った事ではない。
古い石佛の首に赤い布などが巻かれていたら、その殆んどはその場所で後から接ぎなおしているものと考えてよさそうだ。






いろいろな庚申塔があるのを見るのも楽しい。
ここで庚申行事をしたのではなく、この神社付近の部落などで長年行われてきて、道角や小塚の上に設置されていたものをここに集約しておかれたものだと推察される。
さて、神社の名前の「海上(うなかみ)」というのは、旭市、匝瑳市、銚子市あたりは昔、海上郡と呼ばれていました。
海上郡=うなかみぐん と呼ばれていたのですが、近年になり(戦後)「かいじょうぐん」と呼ぶように変更されました。
平成の大合併で、この郡の名前は消えてしまって今はありません。
また律令制の始まるの4~5西紀頃には、下総国は「下海上国(しもつうなかみのくに)」と呼ばれ、古事記などでは「下菟上国」と書かれています。
上総国は「上海上国(かみつうなかみのくに)」(上菟上国)と呼ばれていました。
元々大昔は霞ヶ浦や今の利根川、印旛沼など一帯は大きな内海でしたので、海の上の国のような様相だったのかもしれませんね。
このような「海上」などとついた地名や神社などがあると、私は、この昔を想像して妄想を膨らませてしまいます。
庚申塔(8) 大福寺(茨城県鹿嶋市)
今回はあまり知られていないが、興味深いお寺にあった「庚申塔」を紹介します。

お寺の境内の隅に置かれていました。
庚申塔と猿田彦の石塔です。
ここは、霞ヶ浦北浦に面した鹿嶋市棚木にある「大福寺」という寺です。
このお寺は、源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背負ってここにきて、景清と平氏の霊を弔うために堂宇を建てたものだといわれています。
寺の本尊の木造十一面観音坐像は茨城県の指定文化財です。
ただ、この十一面観音を人丸が背負ってきたというのは少し次代が合わないようです。
この像は県のHPでは、像高105.4cm 寄木造で、像内には延元5年(1340)と永享4年(1432)の墨書銘があるため、鎌倉時代ではなく、少しあとの南北朝時代(室町時代)と思われると書かれています。
まあそれは兎も角として、この寺には「妙庫比丘尼」と呼ばれるようになった人丸の墓があります。
人丸については、九州に逃れてやってきた景清が目玉をくりぬいて投げたといわれる伝説や、目が見えなくなった景清を捜して、娘(人丸)が京からやって来たとされる話しが残されており、福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。

お寺の境内の隅に置かれていました。
庚申塔と猿田彦の石塔です。
ここは、霞ヶ浦北浦に面した鹿嶋市棚木にある「大福寺」という寺です。
このお寺は、源平合戦で平家の一番の勇者として名をはせた「平景清」の娘「人丸」が景清の守り本尊を背負ってここにきて、景清と平氏の霊を弔うために堂宇を建てたものだといわれています。
寺の本尊の木造十一面観音坐像は茨城県の指定文化財です。
ただ、この十一面観音を人丸が背負ってきたというのは少し次代が合わないようです。
この像は県のHPでは、像高105.4cm 寄木造で、像内には延元5年(1340)と永享4年(1432)の墨書銘があるため、鎌倉時代ではなく、少しあとの南北朝時代(室町時代)と思われると書かれています。
まあそれは兎も角として、この寺には「妙庫比丘尼」と呼ばれるようになった人丸の墓があります。
人丸については、九州に逃れてやってきた景清が目玉をくりぬいて投げたといわれる伝説や、目が見えなくなった景清を捜して、娘(人丸)が京からやって来たとされる話しが残されており、福岡県粕屋郡新宮町下府に「人丸神社」があります。
庚申塔(9) 大光寺 照明院(茨城県鉾田市)白鳥の里
茨城、千葉方面に残る庚申塔を紹介しています。
また、これは民間信仰として各地に根付いているもので、今でもつづけられているところもあるかもしれません。
ただ、この地域を歩き回って、気がついたものだけを拾い集めて写真などをUPしていますが、少し古代のそれぞれの地域についても知っていることなどを交えながら紹介していきたいと思っています。
ここでの紹介内容は、庚申塔や庚申講などの行事に直接関係しないものが多いと思いますが、何かが見えてくるかもしれませんのでご容赦ください。
今回は茨城県鉾田市の旧太陽村の「白鳥の里」と呼ばれる場所におかれていた庚申塔です。
この「白鳥の里」というのは、常陸国風土記に記載されている昔話がその名前の由来ですが、まだ律令制の国家が成立する前の4世紀頃の話として書かれている。
「郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、伊久米の天皇(垂仁天皇)の御世に、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてこの乙女らは、
白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるやうなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
かう歌ひ残して天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。(口訳・常陸国風土記 より)」
このように水を貯える堤を築くときに、空から舞い降りた白鳥が娘に姿を変え、築いては直ぐに崩れ、なかなか堤を築く事ができなかったという話しです。
まるで白鳥は泥だらけになり、羽を抜いて築いているようだ・・・・
でも築き上げることが出来ずに飛び去った・・・・
何処か悲しいお話ですね。
時代は、国造りのために、各地でこのように稲作などの灌漑用の堤を築こうと懸命に号令をかけていた時代です。
その白鳥が堤を築こうとしていた場所の推定地の一つが、この「天台宗白鳥山大光寺 照明院」です。
(他にも鉾田市札にある「白鳥山普門寺」地域も候補の一つです。)
無住の寺ですが、寺の入口前の道路わきに庚申塔があります。

正面金剛に踏みつけられた邪鬼の表情がなんともかわいらしいと思います。
また、その下に三猿は描かれていません。

この像の隣りには「庚申塔」(惣村講中)と文字が彫られた石塔が置かれていました。
また、これは民間信仰として各地に根付いているもので、今でもつづけられているところもあるかもしれません。
ただ、この地域を歩き回って、気がついたものだけを拾い集めて写真などをUPしていますが、少し古代のそれぞれの地域についても知っていることなどを交えながら紹介していきたいと思っています。
ここでの紹介内容は、庚申塔や庚申講などの行事に直接関係しないものが多いと思いますが、何かが見えてくるかもしれませんのでご容赦ください。
今回は茨城県鉾田市の旧太陽村の「白鳥の里」と呼ばれる場所におかれていた庚申塔です。
この「白鳥の里」というのは、常陸国風土記に記載されている昔話がその名前の由来ですが、まだ律令制の国家が成立する前の4世紀頃の話として書かれている。
「郡家の北三十里のところに、白鳥の里がある。昔、伊久米の天皇(垂仁天皇)の御世に、天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べにはふたたび昇り帰って行くのだが、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてこの乙女らは、
白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるやうなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
かう歌ひ残して天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはなかった。このいはれにより、白鳥の郷と名付けられた。(口訳・常陸国風土記 より)」
このように水を貯える堤を築くときに、空から舞い降りた白鳥が娘に姿を変え、築いては直ぐに崩れ、なかなか堤を築く事ができなかったという話しです。
まるで白鳥は泥だらけになり、羽を抜いて築いているようだ・・・・
でも築き上げることが出来ずに飛び去った・・・・
何処か悲しいお話ですね。
時代は、国造りのために、各地でこのように稲作などの灌漑用の堤を築こうと懸命に号令をかけていた時代です。
その白鳥が堤を築こうとしていた場所の推定地の一つが、この「天台宗白鳥山大光寺 照明院」です。
(他にも鉾田市札にある「白鳥山普門寺」地域も候補の一つです。)
無住の寺ですが、寺の入口前の道路わきに庚申塔があります。

正面金剛に踏みつけられた邪鬼の表情がなんともかわいらしいと思います。
また、その下に三猿は描かれていません。

この像の隣りには「庚申塔」(惣村講中)と文字が彫られた石塔が置かれていました。
庚申塔(10) 石岡市龍明(貉内)
石岡市の旧八郷地区に貉内(むじなうち)という地区がある。(現在は龍明)
愛宕山(岩間山)にいたという十三天狗の最後に加わった長楽寺という僧侶が住んでいた寺があった場所だ。
平田篤胤が書いた「仙境異聞」に貉内の長楽寺とでてくる。
付近は、いかにも貉が出てきそうな感じがするが、八郷町の地名の本には貉(むじな)=むしりとる という意味で川が蛇行している地形語ではないかという。
さて、そんな貉内の集落の入り口道角にいくつかの石塔などが並べられている。
大きな二十三夜尊塔などと並んで、比較的立派な庚申塔もあった。

足元の台座には三猿も描かれていた。

天狗の伝説と同じようにこの庚申塔からも何か昔話が聞こえてこないものかと・・・・。
愛宕山(岩間山)にいたという十三天狗の最後に加わった長楽寺という僧侶が住んでいた寺があった場所だ。
平田篤胤が書いた「仙境異聞」に貉内の長楽寺とでてくる。
付近は、いかにも貉が出てきそうな感じがするが、八郷町の地名の本には貉(むじな)=むしりとる という意味で川が蛇行している地形語ではないかという。
さて、そんな貉内の集落の入り口道角にいくつかの石塔などが並べられている。
大きな二十三夜尊塔などと並んで、比較的立派な庚申塔もあった。

足元の台座には三猿も描かれていた。

天狗の伝説と同じようにこの庚申塔からも何か昔話が聞こえてこないものかと・・・・。